戦争が社会の政治的常軌を通行遮断し、典型的な非常状態に置くものであることは、今更改めて言うまでもない。このことは近代的戦争に於ても、古来の又旧来の戦争と較べて、以上でも、以下でもないだろう。原始的戦争が社会を極度の無秩序に陥れるに反して、近代戦の方はもっと秩序的だということは、………………………。なぜなら近代的な社会そのものが、原始的社会に較べて勿論美しく秩序的であり、法的発達を遂げているのだから、近代的戦争も単にこれに照応して、より秩序的であり、云わば文明化されて来るのが当り前なのである。之を以て戦争化そのものがより秩序的になったと云うことは出来ぬ。寧ろ近代戦が、益々……………………………………………………約束していると云った方が当っているのだ。
 産業・交通・資源・其の他の戦線後方の深部にまで及ぶ敵対行動、そこから来る戦闘員と非戦闘員との区別の抹殺などは、それが組織的であればあるほど、発達すればする程、相手国の社会的無秩序の直接原因である。だがそれにも拘らず近代的戦争が自国により一層精密な計画的な広義作戦と広範動員とを要求するのも亦、事実だ。――かくて近代戦は、それが破壊的であればあるほど、近代社会の内部に於て益々組織的な発達を有たねばならず、みずからの法的秩序の発達をさえ持たねばならぬのである。戒厳令組織や各種の動員法が現にそういうものを示している。
 だから近代戦争は実は政治的常軌とそんなに別なものではない、と云った方が正しいだろう。戦争は社会秩序の或る特殊の象面や位相であって、社会秩序以外のものではない。と共に、いつからそして又どこからが戦争で、いつから又どこからが常軌の社会秩序であるかの区別も、近代戦に於ては次第にその絶対性を失って来る。非常時、準戦時、戦時、等々の、常態から異常態への推移の段階は段々稠密となり遂に連続した一本の糸となって来ることは、人の知る通りである。
 さて処で、戦争時局論・軍事論・其の他を含む戦争に関するジャーナリズム(之を戦争ジャーナリズムと呼ぼう)について云えば、之も亦もはや決して孤立した領域をジャーナリズム一般の内に墨守することが出来なくなる。すでに政治外交に関する最も伝統的なジャーナリズムの領地や経済に関するジャーナリズム、又社会乃至文化に関するジャーナリズム、との連関と交錯とを俟たなくては、戦争ジャーナリズムなるものは存在し得ない。であるから最近の日本のような挙国一致的な事変状態に這入ると、一切のジャーナリズムが戦争ジャーナリズムを含まざるを得なくなる。特に純粋な戦争ジャーナリズムというものは、その結果大して意味も内容もないものにならざるを得ない。
 だが、或いはそれ故に、そうだからと云って、一切のジャーナリズムが戦争ジャーナリズムに帰着して了うとか云うことは、云い間違いか考え間違いだ。挙国皆兵だからと云って、凡ての国民がその社会的職業の如何よりも先に、上等兵であるか一等兵であるかだ、とは考えられないのと同じことで、それは国民のごく少数の特異層を除けば、あくまで個人の第二次的な資格であるのだ。であるから丁度社会の平和な秩序が戦争体制の特殊な場合ではなくて、逆に戦争が社会秩序の或る特殊な場合であった通り、戦争ジャーナリズムは各種の一般ジャーナリズムに帰属してのみ存在権があるわけだ。でもし、戦争ジャーナリズムという或る特別な限られた狭いジャーナリズムの領域なり様式なりがあるとすれば、それはごく直接に戦闘に関係した何等かのジャーナリズムのことか、そうでなければ軍部や軍隊に直接連関のある報道表現にたずさわるものを指すに過ぎない。だがそれだとすると、そういう戦争ジャーナリズムは、独立ではそんなに大きな椅子を言論壇の下に占めることは出来ない筈のものだ。
 実際、日本の現在の多くの社会評論家(経済・政治・文化・市井の評論家のことだが)は、誰しも一応戦争ジャーナリズムに触れたり、それを含めたりせざるを得ない。純然たるプロパーな領域としての戦争ジャーナリズムは、極めて限られたものでしかない。両者の区別は事実困難で、夫は丁度、広義国防と狭義国防とが相反した観念であるにも拘らず、両者の区別を機械的につけることが殆んど不可能なのと変らない。そして狭義国防が事実上社会的に成立が困難であると同じように、狭義の戦争ジャーナリズム・プロパーは、ジャーナリズムとして成立することが本当は不可能なのだと云ってもいいのである。
 こうした元来無理のある狭義の「戦争ジャーナリズム」が、多くは職業的な軍人又は軍人上りや之に準じる執筆家によって動かされているということは、だから当り前なことだ。彼等は云わば職業的に、この狭い領域に於ける専門家なのだから、その専門について単に筆を執りさえしたら、それが専門的な研究発表や何かでなくて世間一般の読者を想定するものである以上、この狭義の所謂「戦争ジャーナリスト」となって現われる次第である。もしこういう資格のある軍事評論家を、今日の陸海軍の将校の内に求めるならば、そこには数限りのない「戦争ジャーナリスト」の予備軍を発見することが出来よう。陸軍大学校の出身ならば一通りの戦術論や戦史に関する原稿は書けるだろうし、多少文章が今日の文化常識に副わなくても素人の知らぬことが書かれる以上一応読物にはなるかも知れない。
 だが実際に活動しているこの意味での戦争ジャーナリストは、多くは退役軍人でなければ、特殊な専門ジャーナリストなのである。現役軍人は政治的意見を個人的に発表する自由を、軍人勅諭によって禁ぜられてあるが、勿論それだけではない。現に世間的に有名になった将校で評論雑誌に筆を執ったりベスト・セラーズにぞくする単行本を書いた者は決して少なくはない(石原莞爾氏や秦彦三郎氏)。だがこの種の軍人達は勿論ジャーナリストではない。と云うのは編集者は彼等から原稿を絶えず期待することは出来ないからだ。従ってどうしても退役軍人や特殊な専門ジャーナリストがここに登場するわけである。
 だが現役軍人達が所詮ジャーナリストでない理由は、単に又現役の忙しさからだけ来るのではない。編集者は戦争ジャーナリストにとに角何等かの様式と程度との、社会的視角を要求する、つまりジャーナリスティックな角度を要求するのである。「戦争ジャーナリズム」プロパーと雖も、この社会的な角度がなければジャーナリズムにはならぬ。而も単に戦争プロパーに関する言論に一定の社会的角度が備わっているということだけではなく(それなら大方の場合そうなのだが)、その言論がこの一定の社会的角度の内を、或る程度自由にヴァラエティーを示しながら動いて見せ得るのでなければ、ジャーナリズムとは云えない。するとつまり、この狭義のプロパーな所謂「戦争ジャーナリスト」と雖も、所謂戦争プロパーだけのジャーナリズムへ固着していることは許されないので、或る程度ここから自由な行動半径を持って世間の眼を以てせねばならぬ。そうして初めて戦争ジャーナリストとなるのだ。この云わば世間的な自由さは、好いにつけ、悪いにつけどうも軍人を本職とする限りは甘く出ないものらしい。
 実際この種のジャーナリストは、筆を戦争プロパーに起こして、いつかは政治、外交にまで話を或る程度自由に進めることを敢えてせざるを得ない。特に大陸など……………………、外交政策を先駆して特務機関的な随伴を必要とする場合、当然そういうことになる。かくて北支問題、日ソ問題、其の他其の他は、この狭義の「戦争ジャーナリスト」の領分となる。何等かの社会的見解なくして戦争ジャーナリズムは成立しないのは勿論だからだ。戦争は社会秩序の一つであったからだ。――外地についてばかりではない。軍部が国策を決定する姿態を取るに及べば、国内に於ける政治問題も亦、この戦争ジャーナリスト、軍事ジャーナリスト達の独自の壇場となるのは当然と云う他ない。
 恐らくこの現役型乃至準退役型の二つのタイプが、最もプロパーな意味の戦争ジャーナリストと見做されているだろう。三島康夫氏や武藤貞一氏等を初めとして、神田孝一、林勇造、其の他の諸氏の雑多な小軍事評論家の多くがこのタイプにぞくするだろう。之等の人は多く、軍事通であり軍部認識者であり、若干は又戦争軍事の専門的研究者でもある。前二者はその点特に重きをおかれているようだ。だが武藤貞一氏の場合はその内でも云わば最も典型的だ。と云うのは氏の観点は殆んど全く狭義の戦略戦術に限られているのであり、総じて戦争技術家の角度に限られているのである。それに直接連関のある限りに於て、わずかに外交的・社会的・政治的・な関心を示す戦争技術家の言として素人は興味を以て聞くではあろうが、さてその戦争の社会的認識の点になると、読者はもうあまり安心しては聞いていない。前にも云った通り、戦争は社会秩序の或る特殊な場合だ。従って最も複雑な場合でもあるわけだ。処が之を社会そのものの一環として見渡すことを省略して、単に戦争技術としての作戦観からばかり結論を惹きだすのでは、充分な戦争のジャーナリスティックな評論と云うことは出来ない。而もこうした典型にあて嵌まる軍人式評論、つまり軍事的に玄人であるが故に社会的に素人である処の評論家が、今日では往々無批判な通行券を有ち勝ちだ。戦争こそは社会的常識の発達をば充分に活用して初めて認識されるべき事柄であるのだ。
 三島康夫氏は、こういう戦争プロパーの評論家のタイプの内、恐らく最も常識の発達した人の一人だろう。この評論家の書くものには、比較的に社会的独断が少なく、又客観的な分析の能力にも富んでいる。この点少なくとも読者を惹くものがあるのだ。デマゴギーや教訓や独善なあれこれの思想的雑炊がないことも、時節柄珍しいと云う他ない。武藤氏のような戦争の形而上学の類は、この人にはまずないらしいが、戦争論が哲学的にもつ価値などについては、相当の理解を持っている。尤もこの人と雖も、その時局観は多くの戦争ジャーナリストの公式を出てはいない。そういう点では戦争の本格的な社会分析には、到底達することの出来ない宿命にあるのではないか。
 戦争について本当に社会的分析をやろうとすれば、今まで述べたような狭義のプロパーな所謂「戦争ジャーナリスト」では手に負えないわけだ。まず少なくとも充分の経済学的分析がなくてはならぬ、そしてそれに基いた理論的な政治的見解が示されねばならぬ。そして最後にこういう一切の社会認識を、戦争及び戦時時局という特殊なテーマに集中しなければならぬ。之は容易な仕事ではない。こうした軍事研究家も、そうした戦時評論家も、恐らく日本にはまだいないのではないかと思う。もしいるとすれば、そういう問題の適切即応の解釈は日本国民全般が切望している時事的な課題なのだから、今日のような事情の下には必ず現われずにはおかぬ筈だ。処が之に相当するものは、実はさっき述べた戦争プロパー・ジャーナリストのタイプにぞくする者の内にしかなく、而もその内にも最も社会常識に於て偏極した人物の言論が夫であって、遂に日本の国民をして、戦争の社会的認識の欲望をば充分に満足させるに足りないのである。
 戦争に因んで経済的・政治的・分析を行う一般評論家は併し、勿論非常に多い。今日評論家と云われる者で戦争に触れない者はあり得ないだろうからだ。特に経済理論家はそうなのだ。処が彼等は遺憾ながら経済理論家や政治社会評論家ではあっても、遂に軍事評論家でも戦争評論家でもない。戦争に関するジャーナリストとしては、決してエキスパートではないのである。にも拘らず、今日の多くの読者は、この云わば局外戦争ジャーナリストの分析によって、却ってより多くの戦争の社会的認識を深めているのが事実だ。この現象は日本に於ける戦争ジャーナリストに対するたより無さと、或る場合にはそれへの不信任との、表示と見て見られぬこともない。
 元来戦争ジャーナリズムと云っていいようなジャーナリズム(ここでは特に評論に限定した方がいいようだ)の様式は、満州事変以来軍部の社会勢力台頭と共に発達したものなので、その観念はまだ若いと共に、まだ表面現象的でお粗末であることを免れない。社会的分析に充分立脚した軍事評論は、夫を要求する声さえがまだ現われないと云っていいのだから、そういう代表的軍事評論家が出ないのも無理ではない。なる程戦争乃至軍事は、日本では世界大戦後急速な発達をしたものであり、その道の特別な専門家又は技術家ででもない限り、本当の処が判らないということも事実なら、又事軍機に関すると云われる限り、この専門的知識も国民の前に不可侵なタブーとなってひけらかされるにすぎぬのだから、軍事ジャーナリスト志願者の前途の野心を挫くには持って来いなのだ。自然科学もこの点多少似ているが、併し自然科学の専門家の方が、この場合よりも多少は社会常識の軌道を尊重しながら歩いているようだ。
 最も粗末な観念としての「戦争ジャーナリスト」の内、手近かにあるものは、陸海軍省記者クラブ式なジャーナリストである。と云うのは、軍部移動評に動員される種類の軍事ジャーナリストのことである。尤もこの評論家自身がお粗末だと云う意味ではない。この種類のものを軍事評論と考える世間自身のもつ軍事評論という観念が、お粗末な段階に位置するものだというのである。ここには沢山の軍部内の通が揃っている。その内松下芳男氏(之は有数な軍政研究家であるが)や山浦貫一氏などが光っているだろう。管原節雄氏という人と先に云った三島康夫氏などもここに位いし得る。軍の移動評なるものは、大体に於て人物論を興味の中心としたもので、或る場合には個々一二の軍人の人物批評という形をとることもあるが、之はどれを見ても似たりよったりの上っつらの人間学で、而も悪いことには多分にお世辞が利いているということだ。通というものは一体に対象に対して愛着に似た理由のない愛情を示すものらしい。だから之は必ずしも事大的であることを意味するのではないわけだが、批評としての掘開力も足りなければ公正な精神でもあるまい。
 だが或る軍部移動評論家は云っている。上級軍人の経歴の研究や移動の内容は、軍の作戦と編成とを暗示する有力な材料となって来つつある。之は外国の情報機関にとって機密な情報を提供することになる。つまり之は軍の機密にぞくするものだということが、最近段々注目されるようになって来た。そこで軍部は次第に移動評論に対しても、それとなく資料其の他の関係を辿って、統制と制限とを加えるようになって来た、というのだ。して見ると、軍人の人物批評や移動の紹介さえが、社会的な角度を持つという結論にもなるのであり、こうした「お粗末な」戦争ジャーナリズムも案外決してお粗末な意味のものではなくなりつつあるわけだ、だがそれと共に、この種の評論さえが、社会的分析の自由を少しずつ失って行かざるを得ないということでもある。戦争ジャーナリストの位置はここでも亦決して安定してはいないわけだ。
 従軍記者、つまり戦地の新聞特派員も亦、戦争ジャーナリストの一類型である。いや之をこそ言葉の最も原始的な意味に於ける戦争ジャーナリストと呼んでいいかも知れぬ。今事変に際しては従軍記者は大体から云って、相当の頭脳のある人物が派遣されているらしい。新聞紙上で見る彼等の筆致は、決して一概に空疎だとも無内容だとも云えない。ただ何しろニュースは殆んど軍自身の発言以外には認められないような状態にあるのだから(同盟通信ニュース)、スクープをつかむことの出来ないなどは云うまでもないし、云わばニュースの後続部隊としてノコノコと半官報の後をこね回してあるく他ない。勢い型に嵌った戦場や将兵や地方民の風俗描写のようなものでもやる他仕事はない。描写の種はすぐ様つきる。そうなると、よほど頭の鋭い記者殿(少佐待遇だという)ででもなければ、読物になるものは書けない。尤も一人二人の従軍記者は儀礼的な描写のあい間あい間にも、多少紙背に躍る或るものを読み取らせるので、読者のわずかな楽しみではあるが、それを一生懸命に探すのは全く厄介な日課だ。――戦争ジャーナリストとしての従軍記者は、戦時に際しては新聞記者の花形であり、新聞紙は戦争のニュースを頼って大きくなるものだと云ってもいい位いだが、その折角の花形たる従軍記者も、こうした事情では一向ジャーナリストとしての腕を振るうことが出来ない。之は同情に値いしよう。
 処が新聞社と雑誌社とが夫々文士を一種の従軍記者として特派している。彼等派遣文士記者がどういう興味あるルポルタージュ(ニュースはこの場合ルポルタージュと呼ばれる)を齎すかは未知数である。少なくとも之は普通の従軍記者のものよりも、も少し意味のある読物とはなろう。だが問題は彼等の眼光と例の戦争の社会的認識との結びつき如何にあることだ。悪くすると特色のあるルポルタージュであるべきものの代わりに、歪曲されたニュースを提供するような不始末にならぬとも限らない。そして彼等の体験が戦争文章として成熟するのを、吾々はあまり性急に期待するのは、控えねばならぬ。そんなに簡単に手軽に、優れた戦争文章などというものが捻出され得るものではないからだ。
 戦争小説や飛行小説を戦争ジャーナリズムと見るのも必要であるが、そういう作家が戦争ジャーナリスト、つまり戦争作家、だと云うわけには行かぬ。そういうジャンル専門の作家は、文学者としての作家の内にはまず一人もいないのだから、之は今の処問題にならぬ。だが文学者型の戦争ジャーナリストはいるのである。或いは戦争通俗物語家とでもいうような人ならばいなくはない。後者には福永恭助氏などを例にとっていいかも知れない。前者の例として私は水野広徳氏などを挙げることが出来るように思う。文学者型の戦争評論家とはどういう心算かと云えば、軍事又は軍政専門の学究型の評論家や、軍政策論者としての武弁型評論家や、或いはプロパガンディストやデマゴーグやセンセーショナリストとしての戦争ジャーナリストから、之を区別したいからである。勿論水野氏は軍事一般についての相当の専門家だろう。だが氏の書くものの一つの傾向として、戦史物語風のスタイルがあることを忘れてはなるまい。ここが他の戦争ジャーナリストに較べて著しい異色である。そして夫は中々読み応えのあるいいものでもあるのだ。
 尤も氏の評論家としての特色をここにだけ限ることは、大きな見落しだろう。氏は単なる戦争ジャーナリストに止まるものでもない。氏の自由主義的、デモクラシー的、社会評論はすでに一定の読者を持っている。がそこでもその背後に軍事乃至戦争に関する素養の潜んでいることが、この自由主義的評論に他では見られない戦争ジャーナリスト式な特徴を与えているのである。この時勢に多少とも自由主義的態度を以て軍事評論に従事しようというのだから、相当の批判力と分析力とが要求されるわけで、それだけ読者は信頼を置いてこの評論家に接することが出来るとすれば、どうにかこうにか、私が前に述べたような、社会分析に相当立脚した戦争ジャーナリスト、という範疇に這入る人であろうと思う。だがそれとても決して本格的な社会分析に基いているわけではない。氏を活かしているものは、分析の科学的な威容ではなくて、要するに或る一つのポーズなのだ。氏は支配層に向かっては相当意地の悪い殆んど唯一の軍事評論家だ。このポーズが、彼の文学者型戦争ジャーナリストである所以を産み出しているわけになる。
 最後に注目すべき現象は、最近支那軍編成についての紙上紹介者が可なり沢山現われたと云うことだ。中には単に支那事情に一般的に通じているというだけの種類の文筆家や、中国要人の人物論に詳しい評論家も、この内に這入っている。併しこれ等のジャーナリストは夫々、之まで述べて来た戦争ジャーナリストの様々のタイプのどこかに納まるだろうと思う。
 さて凡ゆる意味に於ける戦争ジャーナリストの共通な特色は、その社会常識社会分析とが、他の領域に較べて少し劣っているという事実を他にすると、大して優れた特色のあるジャーナリストがいないということだ。そして思想傾向としては、当然なことながら大体右翼張った論客が中堅以下を支配しているという事情だ。ただ松下、三島、水野等の諸氏が、無色又はリベラリストとして、その例外の代表者に数えられるだろう。
 今後戦争ジャーナリズムは延び得るか。延び得ないと考える理由はないだろう。では新しい戦争ジャーナリストが著しく世に出るだろうか。それが出ないと断定する材料はないようだ。では今後戦争ジャーナリスト達はどういう方向を辿るか。この点最近の短期間の動向から類推する他あるまい。それによると、大衆の軍事知識の常識化と照応して、軍事評論の多少の質的向上と客観的な観点への落ちつきとを期待することは、大して無理ではないようだ。恐らくそれは今後の日本国民の戦争活動に対する相当冷静な理性の若干を反映するだろう。一般ジャーナリズム(単行本出版を含めて)は時局物の名の下に所謂戦争ジャーナリズムに食いつきつつあるのだが、従来のような戦争ジャーナリズムの標準によっては、長く顧客をつなぎ止めることは出来まい。民衆或いは少なくとも知識分子の戦争ジャーナリズムに対する要求は、ニュース映画やグラフィック類についても、案外辛くなっているのではないかと思われる。之は勿論、個々の戦争ジャーナリストなどという存在とは直接関係のない世界でのことだが、併し之を以て、一般に今後軍事ジャーナリスト達(主に執筆家)の歩まねばならぬ道を卜するには足りるだろう。

底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月15日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
底本の親本:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年10月号
初出:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年10月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年8月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。