あらすじ
ある女は、仲町の姉から届いた手紙を読みます。姉は心配事があり、夫に束縛されているため、女に会いに来てほしいと切実に願っています。女は夫に嘘をつき、姉に会いに行くことを決めます。しかし、街に出た女は、自分がいかに夫を裏切り、姉との関係を嘘で固めていたかを思い知らされ、足が止まってしまいます。自分が一体何をしているのか、何をしようとしているのか、女は葛藤に揺れ動き、決断を迫られます。 夕暮の店先に郵便脚夫が投込んで行きし女文字の書状一通、炬燵の間の洋燈のかげに讀んで、くる/\と帶の間へ卷收むれば起居に心の配られて物案じなる事一通りならず、おのづと色に見えて、結構人の旦那どの、何うぞしたかとお問ひのかゝるに、いえ、格別の事でも御座りますまいけれど、仲町の姉が何やら心配の事が有るほどに、此方から行けば宜いのなれど、やかましやの良人が暇といふては毛筋ほども明けさせて呉れぬ五月蠅さ、夜分なりと歸りは此方から送らせうほどにお良人に願ふて鳥渡來て呉れられまいか、待つて居る、と云ふ文面で御座ります、又まゝ娘と紛紜でも起りましたのか、氣の狹い人なれば何事も口には得言はで、たんと胸を痛くするが彼の人の性分、困りもので御座ります、とて態との高笑ひをして聞かせれば、はて扨氣の毒なと太い眉を寄せて、お前にすればたつた一人の同胞、善惡ともに分けて聞かねばならぬ役を笑ひ事にしては置かれまい、何事の相談か行つて樣子を見たらば宜からう、女は氣の狹いもの、待つと成つては一時も十年のやうに思はれるであらうを、お前の懈りを私の故に取られて恨まれても徳の行かぬ事、夜は格別の用も無し、早く行つて聽いて遣るがよからう、と可愛き妻が姉の事なれば、優しき許しの願はずして出るに、飛立つほど嬉しいを此方は態と色にも見せす、では行きませうかと不勝々々に箪笥へ手を懸れば、不實な事を言はずと早く行つて遣れ先方は何れほど待つて居るか知れはせぬぞ、と知らぬ事なれば佛性の旦那どの急き立つるに、心の鬼やおのづと面ぼてりして、胸には動悸の波たかゝり。
糸織の小袖を重ねて、縮緬の羽織にお高祖頭巾、脊の高き人なれば夜風を厭ふ角袖外套のうつり能く、では行つて來ますると店口に駒下駄直させながら、太吉、太吉と小僧の脊を人さし指の先に突いて、お舟こぐ眞似に精の出て店の品をばちよろまかされぬやうにしてお呉れ、私の歸りが遲いやうなら構はずと戸をば下して、行火へ焙るならいつでも床の中へ入れて置いては成らないぞえ、さんは臺所の火のもとを心づけて、旦那のお枕もとへは例の通りお湯わかしにお烟草盆、忘れぬやうにして御不自由させますな、成るたけ早くは歸らうけれど、と硝子戸に手をかくれば、旦那どの聲をかけて車を言ふてやらぬか、何うで歩いては行かれまいにと甘たるき言葉、何の商人の女房が店から車に乘出すは榮耀の沙汰で御座ります、其處らの角から能いほどに直切つて乘つて參りましよ、これでも勘定は知つて居ますに、と可愛らしい聲にて笑へば、世帶じみた事をと旦那どのが恐悦顏、見ぬやうにして妻は表へ立出でしが大空を見上げてほつと息を吐く時、曇れるやうの面もちいとゞ雲深う成りぬ。
何處の姉樣からお手紙が來やうぞ、眞赤な嘘をと我家の見返られて、何事も御存じなしによいお顏をして暇を下さる勿躰なさ、あのやうな毒の無い、物疑ひといふては露ほどもお持ちなさらぬ心のうつくしい人を、能うも能うも舌三寸に欺しつけて心のまゝの不義放埒、これがまあ人の女房の所業であらうか、何といふ惡者の、人でなしの、法も道理も無茶苦茶の犬畜生のやうな心であらう、此樣ないたづらの畜生をば、御存じの無い事とて天にも地にも無いかのやうに可愛がつて下すつて、私が事と言へば御自分の身を無い物にして言葉を立てさせて下さる御思召有難い嬉しい恐ろしい、餘りの勿躰なさに涙がこぼれる、あのやうな良人を持つ身の何が不足で劔の刃渡りするやうな危險い計較をするのやら、可愛さうにあの人の好い仲町の姉さんまでを引合ひにして三方四方嘘で固めて、此足はまあ何處へ向く、思へば私は惡黨人でなし、いたづら者の不義者の、まあ何といふ心得違ひ、と辻に立つて歩みも得やらず、横町の角二つ曲りて今は我家の軒は見えぬを、振かへりては熱き涙のはら/\とこぼれぬ。
良人の名は小松原東二郎、西洋小間物の店は名ばかりに、有あまる身代を藏の中に寐かして、さりとは當世の算用知らぬ人よし男に、戀女房のお律が手ばしこさ奧も表も平手に揉んで、美くしい眦に良人が立つ腹をも柔げれば、可愛らしい口元からお客樣への世辭も出る、年もねつから行きなさらぬにお怜悧なお内儀さまと見るほどの人褒め物の、此人此身が裏道の働き、人は知らじと自ら晦ませども、優しき良人が心ざし生憎纒はる心地してお律は路傍に立すくみしまゝ、行くまいか行くまいか、寧思ひ切つて行くまいか、今日までの罪は今日までの罪、今から私が氣さへ改めれば、彼のお人とてさのみ未練は仰しやるまじく、お互ひに淺い交際をして人知らぬうちに汚れを雪いで仕舞つたなら、今から後のあの方の爲、私の爲、生中こがれて附纒ふたとて、晴れて添はれる中ではなし、可愛い人に不義の名を着せて少しも是れが世間に知れたら何とせう、私は兎も角あの方はこれからの御出世前一生を暗黒にさせましてそれで私は滿足に思はれやうか、おゝ厭な事恐ろしい、何と思ふて私は逢ひに出て來たか、よしやお文が千通來やうと行さへせねばお互ひ疵には成るまいもの、もう思ひ切つて歸りませう、歸りませう、歸りませう、歸りませう、えゝもう私は思ひ切つたと路引違へて駒下駄を返せば、生憎夜風の身に寒く、夢のやうなる考へ又もやふつと吹破られて、ええ私は其やうな心弱い事に引かれてならうか、最初あの家に嫁入する時から、東二郎どのを良人と定めて行つたのでは無いものを、形は行つても心は決して遣るまいと極めて置いたを、今更に成つて何の義理はり、惡人でも、いたづらでも構ひは無い、お氣に入らずばお捨てなされ、捨てられゝば結句本望、あのやうな愚物樣を良人に奉つて吉岡さんを袖にするやうな考へを、何故しばらくでも持つたのであらう、私の命が有る限り、逢ひ通しましよ切れますまい、良人を持たうと奧樣お出來なさらうと此約束は破るまいと言ふて置いたを、誰れが何のやうに優しからうと、有難い事を言ふて呉れやうと、私の良人は吉岡さんの外には無いものを、もう何事も思ひますまい思ひますまいとて頭巾の上から耳を押へて急ぎ足に五六歩かけ出せば、胸の動悸のいつしか絶えて、心靜かに氣の冴えて色なき唇には冷かなる笑みさへ浮かびぬ。(未定稿)了
底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社
1941(昭和16)年7月18日発行
1942(昭和17)年4月10日再版
底本の親本:「校訂一葉全集」博文館
1897(明治30)年1月9日発行
1897(明治30)年6月再版
初出:「新文壇 二號」
1896(明治29)年2月5日
※送りがな、振りがな、漢字の使い方の不統一は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦
2014年10月23日作成
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