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「貴下は今何をして居られるか。」
と、よく人に聞かれる。実のところ、私は少数の青年たちに古い書物の講義をして居るのである。第一に聖書、第二にアウグスチヌスの『神の国』、第三にアダム・スミスの『国富論』。尤もこの中第一と第二は素人学問であるから、専門家から見れば幼稚なものであるにきまってる。
 併し古典を読むのは真に楽しい。何千年何百年という「時」の試煉を経た書物で、しかも単に考古的好事家の玩弄物でなく、現代人に取りて一般的興味あるもの、之が古典である。古典は単なる古書ではない。少しく親しき態度で古典を読んで居ると、其の著者は歴史的服装を脱いで、活きたる者となって我々の前に現われる。現代の人が時局の下に萎縮してしまって、何も語らないか、或は奴隷の言葉を以てしか語らないか、或は偽り曲げた言葉を語る中にあって、古典は率直に、詳細に、真実を語ってくれる。しかもその語るところは現代の活きた現実に触れている。古典は我々に真理の永遠性を感ぜしめる。我々は古典を読んで、驚くほどに現代を知るのである。「時」の波を越えてくる永遠の真理探求者と手を握って現代を論ずる、之が私には楽しくてならないのだ。
 例えばアウグスチヌスの『神の国』は今より約千五百二十年前の著述であって、その執筆を始めたのは、北方蛮族の軍がロマを陥れて掠奪をほしいままにした事件の三年後(四一三年)であった。当時この災禍はロマ帝国が基督教を公認して、固有の多神教礼拝を禁じた事に対する神々の怒であると為す者があった。この世論に対して基督教の真理を弁証する為めに、アウグスチヌスは二十二巻より成るこの大著を著述したのである。
 本書の最初の五巻はロマの歴史や多神教に関する記述が多く、退屈せずに読まれることは稀であると称せられる。併し自分で読んで見ると、決してそんな事はない。そこに論ぜられて居る問題は、要約すれば次の二点である。
(一)「戦争の常たる」殺戮・掠奪・捕虜・凌辱等の災禍が基督者の上にも加わったのは何故であるか。又之等の災禍に迫られたる基督者が自殺しなかったのは恥ずべきことであるか。
(二)ロマ帝国が広大なる領土を拡張し、又その長き持続を見たのは、果してロマ人の言う如く多神教の神々の力によるものであるか。
 アウグスチヌスはこの二つの問題を極めて詳細に論じて、多神教の迷妄と基督教の真理を論証したのである。突けば血の出る如き生々しき現実問題に対って、彼は真正面から組み付き、その学問的教養の蘊蓄を傾け、宗教的信仰の熱心を注いで、真理弁護の為めに戦ったのである。教会内に於いて対ペラギウス並に対ドナチストの論戦に従事したるアウグスチヌスは、本書によりて教会外に於ける基督教の敵たる多神教に対し、現世的問題について戦ったのである。本書を読みて痛切に感ぜしめられるところは、真理の為めに戦う彼の熱烈なる精神・気魄である。之が私の心を打ち、私の血をたぎらせる。彼の博き教養や知識や見解は甚だ有益であり、又面白い。併し彼が生きた人間となって、頁の上から脱け出て来て、私の手を握り肩を叩いてくれるのは、彼の著述の態度及び精神・気魄にある。古典を読む快楽はここに於て極まるのである。
 それ故に、古典を読む者はその全文を丹念に読まねばならない。著者の精神・気魄は序文と結論だけではわからない。それは全篇を通じて流れて居り、時として片言隻句の間に溢れて居る。従って抄録・梗概、若しくは拾い読みは、多くの場合古典に対する冒涜である。
 古典は原語で読むことが、もちろん最上である。言語は思想表現の具であるから、著者の精神・気魄の繊細にして周到なる表現は著者自身の言語によるを最善とすること明かである。併しすべての読者に対し、古典をそれぞれの原語にて読むことを要求するは至難である。従って古典の翻訳は、古典そのものに次いで重要である。その翻訳は良訳でなければならぬ。又全訳でなければならぬ。悪しき翻訳は悪しき著述以上に有害であり、又部分訳は古典の精神気魄を伝うる上に於いて不十分である。
 私自身『神の国』を原語で読むだけの力がない。お恥かしい次第であるが、ラテン語本文は参考にして、英訳仏訳等で読んで居る。この大著の日本語訳が未だ一種も出て居ないことは、日本の文化の為めにどれだけ損失であるかわからない。否、不名誉な話であると思う。梗概のようなものは一、二出て居るが、著者の思想と精神をよほどよく呑み込んだ人が書くのでなければ、梗概書の類は古典に取り多くの場合無益有害であろう。
 クローマー卿の小冊子に『ロマ帝国主義と英帝国主義』と題するものがある。ロマ帝国と英帝国とは、いろいろの点で対比するに興味がある。西ゴート族の王アラリックがロマを陥れた事件を動機として、アウグスチヌスは『神の国』を書いたのであるが、「二十世紀の神話」を唱えて基督教排撃を標榜するナチスの軍勢が南下席巻して居る今日、イギリス若しくはフランスの何処かで、現代の『神の国』の著述を志す「今アウグスチヌス」が居るだろうか。そんな事を思って見る。
 東洋――日本――多神教――アウグスチヌス。そんな事も思って見る。

 書を読むのは快楽であるが、書を著述するのは苦痛である。一書を著述する毎に、心身の消耗幾何ぞ。殊に今のような時勢に於いては尚更である。
 アウグスチヌスにしても、アダム・スミスにしても、あれだけの大著を伸び伸びと書いて居ることは、読んで居て特に愉快に感ずる。『国富論』の地代に関する長き章、又その中の特に長き「銀価に関する枝論」なども、愛読して見れば冗長の感を起させない。寧ろ丹念にいろいろの見聞や読書を書き留めて居るスミスの風貌を、ほほえましく想像させる。彼らの学識と識見と精力と努力とは勿論のことであるが、彼らをしてかく自由に執筆せしめた社会が羨しい。スミスは少からぬ年金の支給を受け、余暇の多き研究生活の中で『国富論』を書いたのであるが、之に比すればヒッポの監督として極めて多忙な教会生活の事務を見ながら、十三年の歳月を要し、途切れ途切れに『神の国』を著述したアウグスチヌスは一層の骨折と言わねばならない。併し検閲の苦労は彼も知らなかったのである。その点では、聖書の中には厳しき時勢の圧迫の下に著述せられたものを含むことが、我らの注意を惹く。(例えば旧約のダニエル書、新約のヨハネ黙示録)
『余の尊敬する人物』という、私の文字通りの小著が、最近岩波新書として出た。之を『神の国』や『国富論』と比較するのは、余りに大小の差が大きく、おかしくて話にもならないが、少し紙数が余ったから手前味噌をならべることにしよう。
『余の尊敬する人物』はエレミヤ・日蓮・リンコーン・新渡戸博士の四人を含んで居る。初の二人は預言者型の人物であり、後の二人は善き意味の常識家型の人物である。而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。
 この最後の点については少しく説明を要するであろう。私は欠点のなき人物、若しくは欠点なき人物となることを理想とする如き人物を、尊敬する気になれない。そのような人物は、第一おもしろくない。又親しめない。加之しかのみならず、大体偽善者であると思って間違ないのである。欠点のある人間、若しくは欠点をつつまずに出す人間は、少くとも正直である。もちろん自己の欠点を誇り、故意に之を人に示すのは鼻持ならぬ傲慢であるが、真理を愛する余り、自己の人間的欠点の自然に流露するを顧慮せざる人物は、必ず真理の感覚が鋭敏であり、真理についての天才的性格の所有者である。之に反し人間の有つすべての性情・欲望をひとしく円満に発達させ、その均衡の上に人格の完成を計ることを目的と為す如き人生観に、私は共鳴しない。之は功利主義であって、妥協と偽善、打算と物慾の発生地である。利益よりも真理を重んじ、真理の為めに戦う真実の性格は、真理以外に自己の一切の内的・外的装飾を不用と為すところの平民的人物であり、又欠点あることを恐れざる直線的人物でなければならない。
 かくの如き性格は永遠的価値をもつ。即ち如何なる国、何時の時代に於いても必要なる人物である。併し具体的なる個人は歴史的存在であるから、各人の生活したる社会の歴史的関係を明かにすることによって、その人物の価値は一層明瞭となる。然るにそれは歴史的関係なるが故に、各時代に於いて同一でないと共に、又全然異るものでもない。過去の社会に行われたると同一の原理が、mutatis mutandis 現在の社会にも適用され得るであろう。故に過去の人物を論ずることは過去の社会を論ずることであり、過去の社会を論ずることは現在の社会を論ずることであり、従って過去の人物を論ずることは現在の社会を論ずることである。
「エレミヤ」は一の社会批判であり、「日蓮」は一の宗教批判であり、「リンコーン」は政治批判、「新渡戸博士」は教育批判である。併しこの小著について、そこまで読んでくれる事を読者に要求するは、無理な注文であろう。だから之はやはり手前味噌である。ただ思えらく、アウグスチヌスやアダム・スミスは我々よりは比較にならぬ程偉大であったと共に、又遥かに幸福であったと。
(六月十七日)
〔一九四〇年七月〕

底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店
   1999(平成11)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「図書」岩波書店
   1940(昭和15)年7月
初出:「図書」岩波書店
   1940(昭和15)年7月
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2013年6月14日作成
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