少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。――今のわたくしは、もう古い大人だが、この天馬侠を読み直し、校訂の筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
ああ少年の日。一生のうちの、尊い季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の退屈な雨の日や、淋しい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、痩せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
この書は、過去の伝奇と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは多分にある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、鞍馬の竹童も、泣き虫の蛾次郎も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の腕白にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。大人についても、同じことがいえる。
以前、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、成人して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、天馬侠の愛読者でした――と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこの書を手にしたら、諸君の父兄やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の言伝てを、おつたえして欲しい。
――ご健在ですか。わたくしは健在です、と。
そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。
昭和二四・春
著者
[#改丁]そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――恵林寺うらの藤の花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。
朱の椅子によって、しずかな藤波へ、目をふさいでいた快川和尚は、ふと、風のたえまに流れてくる、法螺の遠音や陣鉦のひびきに、ふっさりした銀の眉毛をかすかにあげた。
その時、長廊下をどたどたと、かけまろんできたひとりの弟子は、まっさおな面をぺたりと、そこへ伏せて、
「おッ。お師さま! た、大変なことになりました。あアおそろしい、……一大事でござります」
と舌をわななかせて告げた。
「しずかにおしなさい」
と、快川は、たしなめた。
「――わかっています。織田どのの軍勢が、いよいよ此寺へ押しよせてきたのであろう」
「そ、そうです! いそいで鐘楼へかけのぼって見ましたら、森も野も畠も、軍兵の旗指物でうまっていました。あア、もうあのとおり、軍馬の蹄まで聞えてまいります……」
いいもおわらぬうちだった。
うら山の断崖から藤だなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散った藤の花をあびて鎧櫃をせおった血まみれな武士が、気息もえんえんとして、庭さきに倒れているのだ。
「や、巨摩左文次どのじゃ。これ、はやく背のものをおろして、水をあげい、水を」
「はッ」と弟子僧ははだしでとびおりた。鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。武士は、気がついて快川のすがたをあおぐと、
「お! 国師さま」と、大地へ両手をついた。
「巨摩どの、さいごの便りをお待ちしていましたぞ。ご一門はどうなされた」
「はい……」左文次はハラハラと涙をこぼして、
「ざんねんながら、新府のお館はまたたくまに落城です。火の手をうしろに、主君の勝頼公をはじめ、御台さま、太郎君さま、一門のこり少なの人数をひきいて、天目山のふもとまで落ちていきましたが、目にあまる織田徳川の両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく討死あそばすやら、さ、刺しちがえてご最期あるやら……」
と左文次のこえは涙にかすれる。
「おお、殿もご夫人もな……」
「まだおん年も十六の太郎信勝さままで、一きわすぐれた目ざましいお討死でござりました」
「時とはいいながら、信玄公のみ代まで、敵に一歩も領土をふませなかったこの甲斐の国もほろびたか……」
と快川は、しばらく暗然としていたが、
「して、勝頼公の最期のおことばは?」
「これに持ちました武田家の宝物、御旗楯無(旗と鎧)の二品を、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、伊那丸さまへわたせよとのおおせにござりました」
そこへまた、二、三人の弟子僧が、色を失ってかけてきた。
「お師さま! 信長公の家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から土足でこれへかけあがってまいりますぞ」
「や、敵が?」
と巨摩左文次は、すぐ、陣刀の柄をにぎった。
快川は落ちつきはらって、それを手でせいしながら、
「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」
と床下をゆびさした。急なので、左文次も、宝物をかかえたまま、縁の下へ身をひそめた。
と、すぐに廊下をふみ鳴らしてきた三人の武者がある。いずれも、あざやかな陣羽織を着、大刀の反りうたせていた。眼をいからせながら、きッとこなたにむかって、
「国師ッ!」
と、するどく呼びかけた。
天正十年の春も早くから、木曾口、信濃口、駿河口の八ぽうから、甲斐の盆地へさかおとしに攻めこんだ織田徳川の連合軍は、野火のようないきおいで、武田勝頼父子、典厩信豊、その他の一族を、新府城から天目山へ追いつめて、ひとりのこさず討ちとってしまえと、きびしい軍令のもとに、残党を狩りたてていた。
その結果、信玄が建立した恵林寺のなかに、武田の客分、佐々木承禎、三井寺の上福院、大和淡路守の三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、落人どもをわたせと、いくたびも談判にきた。
しかし、長老の快川国師は、故信玄の恩にかんじて、断乎として、織田の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を逃がしてしまった。
織田の間者は、夜となく昼となく、恵林寺の内外をうかがっていた。ところが、はからずも、勝頼の末子伊那丸が、まだ快川のふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それ逃がしてはと、二千の軍兵は砂塵をまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
快川は、それと知っていながら、ゆったりと、朱の椅子から立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、織田どのからのお使者ですかな」
と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
「国師ッ、この寺内に信玄の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな訴人があった。縄をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、焼きつくして、みな殺しにせよ、という厳命であるぞ。胆をすえて返辞をせい」
「返辞はない。ふところにはいった窮鳥をむごい猟師の手にわたすわけにはゆかぬ」
と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。そのうしろ姿を見おくると、快川ははじめて、椅子をはなれ、
「左文次どの、おでなさい」
と合図をしたうえ、さらに奥へむかって、声をつづけた。
「忍剣! 忍剣!」
呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの若僧がある。若僧は、白綸子にむらさきの袴をつけた十四、五歳の伊那丸を、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お傅役のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
と、忍剣は奥へとってかえして、鉄の禅杖をこわきにかかえてきた。背には左文次がもたらした武田家の宝物、御旗楯無の櫃をせおって、うら庭づたいに、扇山へとよじのぼっていった。
ワーッという鬨の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、本堂といわず、廻廊といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち修羅となった。白羽黒羽の矢は、疾風のように、バラバラと、庭さきや本堂の障子襖へおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな! 大衆は山門におのぼりめされ。わしについて、楼門の上へのぼるがよい」
と快川は、伊那丸の落ちたのを見とどけてから、やおら、払子を衣の袖にいだきながら、恵林寺の楼門へしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご最期をともにしろ――」
つづいて、一山の僧侶たちは、幼い侍童のものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
寄手の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一山の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
と、うずたかく枯れ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、渦まく煙は楼門をつつみ、紅蓮の炎は、百千の火龍となって、メラメラともえあがった。
楼上の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて伏しまろんだ。なかにひとり、快川和尚だけは、自若と、椅子にかけて、眉の毛もうごかさず、
「なんの、心頭をしずめれば、火もおのずから涼しい――」
と、一句のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、焔になぶらせていた。
「おお! 伊那丸さま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
源次郎岳の山道までおちのびてきた忍剣は、はるかな火の海をふりむいて、涙をうかべた。
「国師さまも、あの焔の底で、ご最期になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
伊那丸は、遠くへ向かって掌を合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、生涯わすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
いきなり、耳をつんざく呼子の音が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、槍や陣刀をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の伏勢があった。それは徳川方の手のもので、酒井の黒具足組とみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、鉄杖をこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の落人にそういない。討てッ」
と呼子をふいた黒具足の部将は、ひらりと、岩上からとびおりて号令した。下からは、槍をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の脾腹をねらって、槍をくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四尺余寸の鉄杖が、パシリーッと、槍の千段を二つにおって、天空へまきあげた。
「払え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
バラバラとみだれる穂すすきの槍ぶすまも、忍剣が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。藁か棒切れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、朱をちらして岩角からすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる叫び。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに染める。
一介の若僧にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの黒具足組も胆をひやした。――知る人は知る。忍剣はもと、今川義元の幕下で、海道一のもののふといわれた、加賀見能登守その人の遺子であるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、快川和尚に胆力をつちかわれ、さらに天稟の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている熱血児である。
あの眼のたかい快川和尚が、一山のなかからえりすぐって、武田伊那丸と御旗楯無の宝物を托したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
新羅三郎以来二十六世をへて、四隣に武威をかがやかした武田の領土は、いまや、織田と徳川の軍馬に蹂躪されて、焦土となってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの伊那丸ひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった一粒のこった胚子である。
この一粒の胚子に、ふたたび甲斐源氏の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
世は戦国である。残虐をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、芽をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。忍剣は鉄杖を縦横むじんにふりまわして、やっと黒具足組をおいちらしたが、ふと気がつくと、伊那丸をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、南無三、呼子をふいた部将が抜刀をさげて、あっちこっちの岩穴をのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一撃を加えたが敵もひらりと身をかわして、
「坊主ッ、徳川家にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
と、甘言の餌をにおわせながら、陣刀をふりかぶった。
「けがらわしい」
忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやく眸は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の脳骨はみじんと見えた。
そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、片膝おりに、種子島の銃口をねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから火縄がちった――さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが横薙ぎにのびたとおもうと、わッと、部将は血へどをはいてぶったおれた。
刹那だ。ズドンと弾けむりがあがった――
はッとして身をしずめた忍剣が、ふりかえってみると種子島をもったひとりの黒具足が、虚空をつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
はて? と眸をさだめてみると、その脾腹へうしろ抱きに脇差をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか武田伊那丸であった。
「お、若さま!」
忍剣は、あまりなかれの大胆と手練に目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、鉄砲をむけた卑怯者があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
伊那丸は、笑顔でいった。
木の実をたべたり、小鳥を捕って飢えをしのいだ。百日あまりも、釈迦ヶ岳の山中にかくれていた忍剣と伊那丸は、もう甲州攻めの軍勢も引きあげたころであろうと駿河路へ立っていった。峠々には、徳川家のきびしい関所があって、ふたりの詮議は、厳密をきわめている。
そればかりか、織田の領地のほうでは、伊那丸をからめてきた者には、五百貫の恩賞をあたえるという高札がいたるところに立っているといううわさである。さすがの忍剣も、はたととほうにくれてしまった。
きのうまでは、甲山の軍神といわれた、信玄の孫伊那丸も、いまは雨露によごれた小袖の着がえもなかった。足は茨にさかれて、みじめに血がにじんでいた。それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。幼少からうけた快川和尚の訓育と、祖父信玄の血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。
「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。相模の叔父さまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」
かれは、伊那丸のいじらしい姿をみると、はらわたをかきむしられる気がする。で、ついに最後の考えをいいだした。
「小田原城の北条氏政どのは、若さまにとっては、叔父君にあたるかたです。北条どのへ身をよせれば、織田家も徳川家も手はだせませぬ」
が、富士の裾野を迂回して、相模ざかいへくると、無情な北条家ではおなじように、関所をもうけて、武田の落武者がきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。叔父であろうが、肉親であろうが、亡国の血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるより術がなかった。今はまったく袋のねずみとなって、西へも東へもでる道はない。
ゆうべは、裾野の青すすきをふすまとして寝、けさはまだ霧の深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな湖水のほとりへでた。
このへんは、富士の五湖といわれて、湖水の多いところだった。みると汀にちかく、白旗の宮と額をあげた小さな祠があった。
「白旗の宮? ……」と忍剣は見あげて、
「オオ、甲斐も源氏、白旗といえば、これは縁のある祠です。若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」
と、縁へ腰をおろした。
「いや、わしは身軽でつかれはしない。おまえこそ、その鎧櫃をしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」
「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。ただ、大せつなご宝物ですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」
「そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた」
「なんでござりますか」
「こうして、その櫃をしょって歩くうちに、もし敵の目にかかって、奪われたらもう取りかえしがつかぬ」
「それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ」
「だから――わしがせめて、元服をする時節まで、その宝物を、この白旗の宮へおあずけしておこうではないか」
「とんでもないことです。それは物騒千万です」
「いや、あずけるというても、御堂のなかへおくのではない。この湖水のそこへ沈めておくのだ。ちょうどここにある宮の石櫃、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」
「は、なるほど」と、忍剣も、伊那丸の機智にかんじた。
ふたりはすぐ祠にあった石櫃へ、宝物をいれかえ一滴の水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、棹をあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。
伊那丸は陸にのこって、岸から小舟を見おくっていた。あかい夕陽は、きらきらと水面を射かえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。
「あッ――」
とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。
どこから射出したのか、一本の白羽の矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。――つづいて、雨か、たばしる霰のように、数十本の矢が、バラバラ釣瓶おとしに射かけられたのだ。
さッと湖心には水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。
「ややッ」
おどろきのあまり、われを忘れて、伊那丸が水ぎわまでかけだしたときである。――なにものか、
「待てッ」
とうしろから、かれの襟がみをつかんだ大きな腕があった。
「小童、うごくと命がないぞ」
ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて得なかった。だが、とっさに、片膝をおとして、腰の小太刀をぬき打ちに、相手の腕根を斬りあげた。
「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。
「だれだッ。なにをする――」
とそのすきに、小太刀をかまえて、いいはなった伊那丸には、おさないながらも、天性の威があった。
あなたに立った大男はひとりではなかった。そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、蔓巻の大刀に、革の胴服を着たのもあれば、小具足や、むかばきなどをはいた者もあった。いうまでもなく、乱世の裏におどる野武士の群団である。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、
「綸子の小袖に菱の紋だ。武田伊那丸というやつに相違ないぜ」と、いった。
「うむ、ふんじばって織田家へわたせば、莫大な恩賞がある、うまいやつがひッかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の人穴を砦としている山大名の一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで水葬式にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では忍剣に矢を射たのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、山椒の魚の餌食になっているだろう」
「この土蜘蛛……」
伊那丸は、くやしげに唇をかんで、にぎりしめていた小太刀の先をふるわせた。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
と、野武士たちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、
「おのれッ」
といいざま、真眉間をわりつけた。野武士どもは、それッと、大刀をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。
武技にかけては、躑躅ヶ崎の館にいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな天才児とまで、おどろかれた伊那丸である。からだは小さいが、太刀は短いが、たちまちひとりふたりを斬ってふせた早わざは飛鳥のようだった。
「この童め、味をやるぞ、ゆだんするな」
と、野武士たちは白刃の鉄壁をつくってせまる。その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、斬りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも嵐のなかにもまれる蝶か千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてくる。息はきれる。――それに、多勢に無勢だ。
「そうだ、こんな名もない土賊どもと、斬りむすぶのはあやまりだ。じぶんは武田家の一粒としてのこった大せつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだした。
「のがすなッ」
と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸は芦の洲からかけあがって、松並木へはしった。ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。
夕闇がせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。
と、これはどうであろう、前面の道は八重十文字に、藤づるの縄がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。
「しまった」と伊那丸はすぐ横の小道へそれていったが、そこにも茨のふさぎができていたので、さらに道をまがると藤づるの縄がある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。万事休す――伊那丸は完全に、蜘蛛手かがりという野武士の術中におちてしまったのだ。身に翼でもないかぎりは、この罠からのがれることはできない。
「そうだ、野武士らの手から、織田家へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく自害しよう」
と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、脇差を右手にぬいた。
切っさきを袂にくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。ブーンと、飛んできた分銅が、カラッと刀の鍔へまきついた。や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと梢の空へまきあげられていく。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。そしてそのからだはいつのまにか罠なわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。
すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから富士の裾野へさして追いたてていった。
幾里も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一群の人間が、いそぎに、いそいでいく。それは伊那丸をまン中にかためてかえる、さっきの野武士だった。
「や、どこかで笛の音がするぜ……」
そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、寥々と、そよぐ風のとぎれに、笛の冴えた音がながれてきた。
「ああ、わかった。咲耶子さまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあの音いろは、男のようじゃないか。どんなやつが忍んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、月毛の野馬にのったさげ髪の美少女が、ゆらりと気高いすがたをあらわした。
一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
と荒くれ武士ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
と駒をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの眉をちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。伝内や兵太もいながら、なぜそんなことをするんです」
と、とがめた。名をさされたふたりの野武士は、一足でて、咲耶子の駒に近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、お頭が、まえまえからねらっていた武田家の小伜、伊那丸です」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、礼儀をつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない雑人のくせにして、呼びすてにしたり、縄目にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご無礼してはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の縄をといた。
まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の洞門があった。つづいて二の洞門をくぐると天然の洞窟にすばらしい巨材をしくみ、綺羅をつくした山大名の殿堂があった。
この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。徳川北条などという名だたる弓とりでさえも、その勢力範囲へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の区域といえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下の覇をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
ここの富士浅間の山大名はなにものかというに、鎌倉時代からこの裾野一円にばっこしている郷士のすえで根来小角というものである。
つれこまれた伊那丸は、やがて、首領の小角の前へでた。獣蝋の燭が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、部将の城内へのぞんだような心地がする。
根来小角は、野武士とはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。今日は雑人どもが、礼をわきまえぬ無作法をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
はて? 残虐と利慾よりなにも知らぬ野盗の頭が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、武田の若君ともあるおんかたが、拙者の館へおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご滞留をねがいまする。ところでこのたびは、織田徳川両将軍のために、ご一門のご最期、小角ふかくおさっし申しあげます」
なにをいっても、伊那丸は黙然と、威をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな瞳だけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、裾野から駿遠甲相四ヵ国の山猟師は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、御大将とおなりあそばして、富士ヶ根おろしに武田菱の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に馳せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と伊那丸ははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。拙者には武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、今日まで髀肉の歎をもっておりましたが、若君のみ旗さえおかしくださるならば、織田や徳川は鎧袖の一触です。たちまち蹴散らしてごむねんをはらします所存」
「だまれ小角。わしは年こそおさないが、信玄の血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、野盗人の上にはたたぬ。下郎の力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、落人の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に朱をそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もう汝の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家へわたして莫大な恩賞にしたほうが早手まわしだ。兵太ッ、この餓鬼、ふんじばって風穴へほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう観念の目をふさいでいた。
「歩けッ」
と兵太は縄尻をとって、まッくらな間道を引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、鉄柵の錠をガッキリおろしてたちさった。
うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ伊那丸は、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ旋風が、たえず暗澹と吹きめぐっている風穴のなかでは、一しゅんのまも目を開いていられないのだ。そればかりか、夜の更けるほど風のつめたさがまして八寒地獄のそこへ落ちたごとく総身がちぢみあがってくる。
「あア忍剣はどうした……忍剣はもうあの湖水の藻くずとなってしまったのか」
いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな野武士のはずかしめを受けるのではないのに……」
唇をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二尺四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、覆面をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。
山大名の根来小角の殿堂は、七つの洞窟からできている。その七つの洞穴から洞穴は、縦に横に、上に下に、自由自在の間道がついているが、それは小角ひとりがもっている鍵でなければ開かないようになっていた。
また、そとには、まえにもいったとおり、二つの洞門があって、配下の野武士が五人ずつ交代で、篝火をたきながら夜どおし見はりをしている厳重さである。
今宵もこの洞門のまえには、赤い焔と人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か高声で話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。
「なんだッ」
と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきの猿であった。
「なんだ猿じゃないか、臆病者め」
「どうして檻からでてきたのだろう。咲耶子さまのかわいがっている飼猿だ。それ、つかまえろッ」
と八ぽうへちってゆく猿を追いかけていったあと、留守になった二の洞門の入口から脱兎のごとくとびだした影! ひとりは黒装束の覆面、そのかげにそっていたのは、伊那丸にそういなかった。
「何者だッ」
と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、鉄球のように飛んでいった伊那丸が、どんと当身の一拳をついた。
「うぬ!」と風をきって鳴った山刀のひかり。
よろりと泳いだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、断崖の闇へのまれた。
「曲者だ! みんな、でろ」
覆面の黒装束へも襲いかかった。姿はほっそりとしているのに、手練はあざやかだった。よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、
「ああ、あなたは」と、愕然とさけんだ。
顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷の刃! 男の肩からけさがけに斬りさげた。――ワッという絶叫とともに闇にたちまよった血けむりの血なまぐささ。
「伊那丸さま」
黒装束は、手まねきするやいなや、岩つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。
下界をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、裾野のそらの一角に、夜の静寂をまもっている。
その渺としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの白駒がつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
いっさんにかけてきた黒装束は、白馬のそばへくるとぴッたり足をとめて、
「伊那丸さま、もうここまでくれば大じょうぶです」
と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
伊那丸は、ほッとして夢心地をさましたとき、ふしぎな黒装束の義人のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの野馬にのって、明方までに富士川の下までお送りしてあげますから、あれから駿府へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに関所札もありますから……」
と、黒装束のさしだした手形をみて、伊那丸はいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
と白駒の手綱をひきだしたとき、はじめて月に照らされた覆面のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの女子、咲耶子というのではないか」
「おわかりになりましたか……」涼しい眸にちらと笑みを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の無礼は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは小角の娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびに鍵をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい生涯をおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を袖のうちにかくした。
と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ――いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
と、伊那丸もその眸のむいたほうをみると、藍いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて消えた。
「あの火は、この裾野一帯の、森や河原にいる野伏の力者に、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、手綱をくりだした。
その時、すでにうしろのほうからは、百足のようにつらなった松明が、山峡の闇から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
咲耶子は、ピシリッと馬に一鞭あてた。一声たかくいなないた駒は、征矢よりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ――
それよりも前の、夕ぐれのことである。
夕陽のうすれかけた湖の波をザッザときって、陸へさして泳いでくるものがあった。湖水の主の山椒の魚かとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの若僧――かの忍剣なのであった。
どっかりと、岸辺へからだを落とすと、忍剣はすぐ衣をさいて、ひだりの肘の矢傷をギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすが否や、白旗の宮へかけつけてきてみると、伊那丸のすがたはみえないで、ただじぶんの鉄杖だけが立てかけてのこっていた。
「若さま――、伊那丸さまア――」
二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい木魂がかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を乱射したやつのしわざにちがいない。小さなくりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、石櫃はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの宝物も、永劫にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ血眼をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。伊那丸さまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
と宙をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの忍剣も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを血眼になってさがしているので、気のせいかな」
忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男は背に笈をせおっている六部である。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、六部まて」
あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。忍剣はあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
疑心暗鬼とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の挙動があやしく思えてならない。なんとなく伊那丸の身を闇につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを逃がしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
とかれはまたも、いっさんにかけだした。
並木がとぎれたところからは、一望千里の裾野が見わたされる。
忍剣は、この方角とにらんだ道を、一念こめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一宇の六角堂が目についた。
「おお、あれはいつの年か、このへんで戦いのあったとき焼けのこった文殊閣にちがいない。もしかすると、六部の巣も、あれかもしれぬぞ……」
と勇みたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、白衣の六部が、月でもながめているのか、ゆうちょうな顔をして腰かけている。
「こりゃ六部、あれほど呼んだのになぜ待たないのだ」
忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。
「なにかご用でござるか」
と、かれはそらうそぶいていった。
「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。知っていたら教えてくれ」
「知らない、ほかで聞け」
六部の答えは、まるで忍剣を愚弄している。
「だまれッ、この裾野の夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。そういう汝の口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」
ぬッと、鉄杖を鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。
「これッ、なんとするのだ」
忍剣は、渾力をしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、大山にのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。しかも、六部はへいきな顔で、両膝にほおづえをついて笑っている。
「むッ……」
と忍剣は、総身の力をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、恵林寺のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、鉄杖のほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。すると、ふいに、六部が腰をうかした。
「あッ――」
思わずうしろへよろけた忍剣は、かッとなって、その鉄杖をふりかぶるが早いか、磐石もみじんになれと打ちこんだが、六部の姿はひらりとかわって、空をうった鉄杖のさきが、はっしと、石の粉をとばした。
「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、杖にしこんである無反りの冷刀をぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、
「若僧、雲水」と錆をふくんだ声でよんだ。
「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、怒気にもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。
六部はといえば、片手にのばした一刀を、肩から切先まで水平にかまえて、忍剣の胸もとへと、うす気味のわるい死のかげを、ひら、ひら――とときおりひらめかせていく――。たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。しかも、総身の毛穴からもえたつ熱気は、焔となって、いまにも、そうほうの切先から火の輪をえがきそうに見える……。
突として、風を切っておどった銀蛇は、忍剣の真眉間へとんだ。
「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを鉄杖ではらったが、空をうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。
そのはやさ、かわす間もあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくより策がなかった。そして、踏みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、
「待て」と六部の声がかかった。
「怯んだかッ」たたき返すように忍剣がいった。
「いやおくれはとらぬ。しかしきさまの鉄杖はめずらしい。いったいどこの何者だか聞かしてくれ」
「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」
「あやしいことはさらにない。ありふれた木遁の隠形でちょっときさまをからかってみたのだ」
「ふらちなやつだ。さてはきさまは、どこかの大名の手先になって、諸国をうかがう、間諜だな」
「ばかをいえ。しのびに長けているからといって、諜者とはかぎるまい。このとおり六部を世わたりにする木隠龍太郎という者だ。こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」
「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。じつは、さる高貴なおん方のお供をしている」
「そうか。では武田の御曹子だな……」
「や、どうして、汝はそれを知っているのだ?」
「恵林寺の焔のなかからのがれたときいて、とおくは、飛騨信濃の山中から、この富士の裾野一帯まで、足にかけてさがしぬいていたのだ。きさまの口うらで、もうおいでになるところは拙者の目にうつってきた。このさきは、伊那丸さまはおよばずながら、この六部がお附添いするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」
忍剣はおどろいた。まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいちふにおちない。のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。
「たわけたことをもうせ。伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、お護りいたしているのだわ」
「そのお傅役が、さらわれたのも知らずにいるとは笑止千万じゃないか。御曹子はまえから拙者がさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」
「いわせておけば無礼なことばを」
「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。どれ、拙者は、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへお供をしよう」
「この痴れものが」
と、忍剣は真から腹立たしくなって、ふたたび鉄杖をにぎりしめたとき、はるか裾野のあなたに、ただならぬ光を見つけた。
六部の木隠龍太郎も見つけた。
ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく黙然と立ちすくんでしまった。
それは蛇形の陣のごとく、うねうねと、裾野のあなたこなたからぬいめぐってくる一道の火影である。多くの松明が右往左往するさまにそういない。
「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一足とびに、石段から姿をおどらした。
「うぬ。汝の手に若君をとられてたまるか」
忍剣も、韋駄天ばしり、この一足が、必死のあらそいとはなった。
ただ見る――白い月の裾野を、銀の奔馬にむちをあげて、ひとつの鞍にのった少年の貴公子と、覆面の美少女は、地上をながるる星とも見え、玉兎が波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、裾野もいちめんの如法闇夜、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい――」
と、駒をとめて、空をあおいだ咲耶子の声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もう駒をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは岩殿へお帰りなさい」
「いいえ、まだ富士川べりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、小角にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
「伊那丸さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
いい争っているすきに、十間とは離れない窪地の下から、ぱッと目を射てきた松明のあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
と咲耶子はピシリッと駒をうった。ザザーッと道もえらまずに数十間、一気にかけさせたのもつかの間であった。たのむ馬が、窪地に落ちて脚を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
むらがりよってきた松明の赤い焔、山刀の光、槍の穂さき。
ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
と小太刀をぬいた伊那丸は、その荒武者のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
咲耶子も、覆面なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に畳みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。武田の童も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、山大名の根来小角であった。
時に、そのすさまじいつるぎの渦へ、突として、横合いからことばもかけずに、無反りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。六部の木隠龍太郎であった。一閃かならず一人を斬り、一気かならず一夫を割る、手練の腕は、超人的なものだった。
それとみて、愕然とした根来小角は、みずから大刀をとって、奮いたった。
と同時に、一足おくれて、かけつけた忍剣の鉄杖も、風を呼んでうなりはじめた。
空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしる剣の稲妻にまきこまれた、可憐な咲耶子の身はどうなるであろう。――そして、武田伊那丸の運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?
雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、加賀見忍剣の身のまわりだけは、常闇だった。かれは、とんでもない奈落のそこに落ちて、土龍のようにもがいていた。
「伊那丸さまはどうしたであろう。あの武士の群れにとりかえされたか、あるいは、六部の木隠というやつにさらわれてしまったか? ――そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
忍剣は、どんな危地に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を踏みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
ところが、そこは裾野におおい断層のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている数丈の地底なので、さすがの忍剣も、精根をつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
とふたたび袖をまくりなおした。かれは鉄杖を背なかへくくりつけて、護身の短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、一段一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
すると、なにかやわらかなものが、忍剣の頬をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い絹の細帯であったことを知った。
「おや? ……」
と、あおむいて見ると、ちゅうとから藤づるかなにかで結びたしてある一筋が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が笑みをふくんで立っている。少女の足もとには、謎のような黒装束の上下がぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
と忍剣はいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの裾野の山大名、根来小角の娘で、咲耶子というものでございます」
と、はっきりしたこわ音でこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ご僧は、伊那丸さまのお供のかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ご僧と一しょに斬りこんできた六部のひとが、おそろしい早技でどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、富士川をくだって、東海道から京へでる関所札をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
と、忍剣は吐息をもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、伊那丸さまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。拙僧とて、安閑としておられる身ではありません」
ふたたび鉄杖を手にした忍剣は、別れをつげて、恨みおおき裾野をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
――咲耶子も、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ姿を見おくっていた。
浜松の城下は、海道一の名将、徳川家康のいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、男山八幡の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、鎧屋さん、まだ売れませんか」
その八幡の玉垣の前へならんでいた夜店の燈籠売りがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の鎧をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の朱柄の槍を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの燈籠のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの鬼玄蕃というご城内の悪侍のために、今年はからきし、商いがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、片輪にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで歓楽の世界そのままであったにぎやかな町の灯りが、バタバタ消えてきた。
燈籠売りははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、鎧屋さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに悠長な顔をしていた。
案のじょう、そこへ旋風のようにあばれまわってきた四、五人の侍がある。なかでも一きわすぐれた強そうな星川玄蕃は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。泥酔したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。この槍はいくらだ」
と玄蕃はいきなり若者のそばにあった朱柄の槍をつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、無神経にすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる山師だな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ性分なんだからしかたがない」
「ではこの鎧が売りものなのか。黒皮胴、萌黄縅、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたい品ではないが、お母が病気なので、薬代にこまるからやむなく手ばなすんです。酔ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
「無愛想なやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
「金子五十枚、びた一文もまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
玄蕃が土足をあげて蹴ったので、鎧はガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、泰平の世には、めったに見られないが、あけくれ血や白刃になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を蛆虫とも思わないで、ややともすると、傲慢な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
「山師めッ」
ほかの武士どもも、口を合わせてののしった上に鎧を踏みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の眉がピリッとあがった。――と思うまに、朱柄の槍は、いつか、その小脇にひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀の柄へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
すわと、弥次馬は、潮のごとくたちさわいだ。――と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた白衣の六部と、ひとりの貴公子ふうの少年とがあった。
玉垣を照らしている春日燈籠の灯影によく見ると、それこそ、裾野の危地を斬りやぶって、行方をくらました木隠龍太郎と、武田伊那丸のふたりであった。
六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから察すると、いつか伊那丸もかれを了解しているし、龍太郎も主君のごとく敬っているようだ。しかしそれにしても武田の残党を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという大胆な行動であろう。今にもあれ、徳川家の目付役か、酒井黒具足組の目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
それはとにかく、いっぽう、鎧売りの若者は、はやくも、槍を、穂短にしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく――
「小僧ッ、気がちがったか」玄蕃はののしった。
「気は狂っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、汝らをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく下郎だ、汝らがこのご城下で安穏にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている賜物だぞ。罰あたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
鬼玄蕃をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。
とたんに、朱柄の槍は、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を天宙からたたきつけた。
わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを田楽刺しにつきぬくがはやいか、すばやく穂先をくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。
その早技も、非凡であったが、よりおどろくべきものは、かれのこい眉毛のかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つの眸である。それは、槍の穂先よりするどい光をもっている。
「やりおったな、小僧ッ。もうゆるさん」
玄蕃は怒りにもえ、金剛力士のごとく、太刀をふりかぶって、槍の真正面に立った。かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたで鍛えあげたほどだけあって、小柄な若者を見おろして、ただ一撃といういきおいをしめした。それさえあるのに、あと三人の武士も、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者の命に、くいよってゆくのだ。
ああ、あぶない。
「龍太郎――」
と、こなたにいた伊那丸は、息をのんでかれの袖をひいた、そしてなにかささやくと、龍太郎はうなずいて、ひそかに、例の仕込杖の戒刀をにぎりしめた。いざといわば、一気におどりこんで、木隠一流の冴えを見せんとするらしい。
ヤッという裂声があたりの空気をつんざいた。鬼玄蕃星川が斬りこんだのだ。朱い槍がサッとさがる――玄蕃はふみこんで、二の太刀をかぶったが、そのとき、流星のごとくとんだ槍の穂が、ビュッと、鬼玄蕃の喉笛から血玉をとばした。
「わッ――」と弓なりにそってたおれたと見るや、のこる三人の侍は、必死に若者の左右からわめきかかる、疾風か、稲妻か、刃か、そこはただものすごい黒旋風となった。
「えいッ、木ッ葉どもめ!」
若者は、二、三ど、朱柄の槍をふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、社の玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたの闇へ消えてしまった。
バラバラと武士もどこかへかけだした。あとは血なまぐさい風に、消えのこった灯がまたたいているばかり。
「アア、気もちのよい男」
と伊那丸は、思わずつぶやいた。
「拙者も、めずらしい槍の玄妙をみました」
龍太郎は助太刀にでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の早技に、舌をまいて感嘆していた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い濠端を、しずかに歩いていたのである。
すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりの焔の一列が疾走してきた。龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端の柳のかげに身をひそませていると、まもなく、松明を持った黒具足の武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、
「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。
「なに? いたか」
バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。
「ちがった、こいつらではない」
と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、
「ややッ、伊那丸、武田伊那丸ッ」と、だれかいった者がある。
朱柄の槍をもった曲者が、城内の武士をふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の間者ではないかと、すぐ討手にむかってきたのは、酒井黒具足組の人々であった。
運わるく、そのなかに、伊那丸の容貌を見おぼえていた者があった。かれらは、おもわぬ大獲物に、武者ぶるいを禁じえない。たちまちドキドキする陣刀は、伊那丸と龍太郎のまわりに垣をつくって、身うごきすれば、五体は蜂の巣だぞ――といわんばかりなけんまくである。
「ちがいない。まさしくこの者は、武田伊那丸だ」
「お城ちかくをうろついているとは、不敵なやつ。尋常にせねば縄をうつぞ、甲斐源氏の御曹司、縄目を、恥とおもわば、神妙にあるきたまえ――」
侍頭の坂部十郎太が、おごそかにいいわたした。
伊那丸は、ちりほども臆したさまは見せなかった。りんとはった目をみひらいて、周囲のものをみつめていたが、ちらと、龍太郎の顔を見ると――かれも眸をむけてきた。以心伝心、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。
「いかにも――」龍太郎はそこでしずかに答えた。
「ここにおわすおん方は、おさっしのとおり、伊那丸君であります。天下の武将のなかでも徳川どのは仁君とうけたまわり、おん情けの袖にすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」
「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」
「したが、落人のお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そう思しめして、ご案内なさい」
龍太郎は、戒刀の杖に、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく白刃のむれは、長蛇の列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、鬼の口にもひとしい、浜松城の大手門のなかへのまれていった。
本丸とは、城主のすまうところである。築山の松、滝をたたえた泉、鶺鴒があそんでいる飛石など、戦のない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
伊那丸と龍太郎は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、家康のいるここへ呼びだされた。
「勝頼の次男、武田伊那丸の主従とは、おん身たちか」
高座の御簾をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、智謀にとんだ名将のふうはおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、端然と、家康の顔をじいとみつめた。――家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……天目山であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎信勝に、さても生写しである……。あの戦のあとで検分した生首に瓜二つじゃ」
「うむ……」
伊那丸の肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つの眸からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
この家康めが、織田と力をあわせ、北条をそそのかして、武田の家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか――と思うと、くやし涙は、頬をぬらして、骨に徹してくる。眼もらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
と、龍太郎はそッと膝をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の領地は焦土となり、身は天涯の孤児となった伊那丸、さだめし口惜しかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
家康はなにか一言、近侍にいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太のうしろにしたがって、二の丸の塗籠造りの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと袂をかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜しい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
とかれもしばらく、伊那丸の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご若年、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この大望をはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々しいやつのう……」
と快川和尚が、幼心へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に生々とよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この龍太郎が考えた策にのるような愚将ではありませぬから、必然、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの計略にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
果然、ふたりはまえから、家康の身に近よる秘策をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、鮫をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの窮地から活路をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一挙にきめるよりほかはない。
日がくれると、膳所の侍が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君の志でござります。おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
「過分です。よしなに、お伝えください」
「それと、城内の掟でござるが、ご所持のもの、ご佩刀などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と龍太郎はきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい品ではありませぬ。また、拙者の杖は護仏の法杖、笈のなかは三尊の弥陀です。ご不審ならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、誓ってあいなりません」
「では……」
と、その威厳におどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけの像があるばかりだった。そして、杖のあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」
と、膳部の吸物椀をとって、なかの汁を、部屋の白壁にパッとかけてみると、墨のように、まっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。伊那丸さま、家康の心はこれではっきりわかりました。うわべはどこまでも柔和にみせて、わたしたちを毒害しようという肚でした」
「ではここも?」
と伊那丸は立ちあがって、塗籠の出口の戸をおしてみると、はたして開かない。力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。
「若君――」
龍太郎はあんがいおちついて、なにか伊那丸の耳にささやいた。そして、夜のふけるのを待って、足帯、脇差など、しっかりと身支度しはじめた。
やがて龍太郎は、笈のなかから取りのけておいた一体の仏像を、部屋のすみへおいた。そして燭台の灯をその上へ横倒しにのせかける。
部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るい焔を立ててきた。
龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。プス……プス……焔は赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火の粉が、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。
「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。
その時――
轟然たる音響とともに、仏像のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、雷火に裂かれてくずれ落ちた。
ガラガラと、すさまじい震動は、本丸、三の丸までもゆるがした。すわ変事と、旗本や、役人たちは、得物をとってきてみると、外廓の白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、矢倉へまでもえうつろうとしているありさまだ。
「火事ッ、火事ッ――」
降りかかる火の粉をあびて、口々にうろたえた顔をあおむかせていると、ふたたび、どッと、突きくずしてきた白壁の口から、紅蓮をついてあらわれた者がある。無反りの戒刀をふりかぶった木隠龍太郎、つづいて、武田伊那丸のすがた。
「曲者ッ」
と下では、騒然と渦をまいた。その白刃の林をめがけて、焔のなかから、ひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
ああ、その危うさ。
小太刀をとっては、伊那丸はふしぎな天才児である。木隠龍太郎も戒刀の名人、しかも隠形の術からえた身のかるさも、そなえている。
けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、匹夫の勇にはやる者ではない。どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。――だのに、なぜ、こんな無謀をあえてしたろう? 白刃林立のなかへ、肉体をなげこめば、たちまち剣のさきに、メチャメチャに刺されてしまうのは、あまりにも知れきった結果だのに。
しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、刀刃も折れ、どんな悪鬼も羅刹も、かならず退けうるという教えもある。ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。とびおりた五尺の体もまた、信念の鎖帷子をきこんでいるのだった。
「わッ」
とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。
どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、
「退れッ」
と、龍太郎の手からふりだされた戒刀の切ッ先に、乱れたつ足もと。それを目がけて伊那丸の小太刀も、飛箭のごとく突き進んだ。たちまち火花、たちまち剣の音、斬りおられた槍は宙にとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。
「退けッ! だめだ」
と城の塀にせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由を欠いた。武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。龍太郎と伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、昼間のうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。
家康にちかづいて、武田一門の思いを知らそうと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
あいてはひとり!
と、ほかの雑兵には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り(城壁の細道)をかけぬけた。
矢倉へむかった消火隊と、武器をとって討手にむかった者が、あらかたである。――で、家康のまわりには、わずか七、八人の近侍がいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の四阿へ足をむけていた。すると、闇のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの武士が、大地へ両手をついた。
「お上、武田の主従が、火薬をしかけたうえに狼藉におよびました。ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。はやくお奥へお引きかえしをねがいまする」
「おう、坂部十郎太か。たかが稚児どうような伊那丸と六部の一人や二人が、檻をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、矢倉へむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一閃の光。
「無礼ものッ!」
とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の袖を、さッと、白い切ッ先がかすってきた。
「何者だ!」
とその太刀影を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった十郎太の陣刀。
「お上、お上」
と近侍のものは、そのすきに、家康を屏風がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
長蛇を逸した伊那丸は、なおも、四、五間ほど、追いかけてゆくのを、待てと、坂部十郎太の陣刀が、そのうしろから慕いよった。
と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――と闇をおよいだ。ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた龍太郎が、やッと、横ざまに戒刀をもって、薙ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、苦鳴をあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの時節があります。もう、すこしも、ご猶予は危険です。さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。わしは無念だ」
「ごもっともです。しかし、伊那丸さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。家康ひとりは小さな敵です。さ、早く」
とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、築山から、城の土塀によじのぼり、狭間や、わずかな足がかりを力に、二丈あまりの石垣を、すべり落ちた。
途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ手配りをさけびつつ、縄梯子を、石垣のそとへかけおろしてきた。南無三――とあなたを見れば、火の手を見た城下の旗本たちが、闇をついて、これまた城の大手へ刻々に殺到するけはいである。
「どうしたものだろう?」
さすがの龍太郎も、ここまできて、はたと当惑した。もう濠までわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた外濠、橋なくして、渡ることはとてもできない。ふつう、兵法で十五間以上と定められてある濠が、どっちへまわっても、陸と城との境をへだてている。するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。闇夜の敵影をさぐる投げ松明である。ヒューッ、ヒューッ、とつづけざまにおちてくる光――
「いたッ、犬走りだ」
と頭のうえで声がしたとたんに、光をたよりに、バラバラと、つるべうちに射てきた矢のうなり、――鉄砲のひびき。
「しまった」と龍太郎は伊那丸の身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。しかし、どこまでいっても陸へでるはずはない。ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。そのうちには、敵の手配はいよいよきびしく固まるであろう。
矢と、鉄砲と、投げ松明は、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。
ゆくての道はとぎれている。見れば目のまえはまっくらな深淵で、ごうーッという水音が、闇のそこに渦まいているようす。ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。
矢弾は、ともすると、鬢の毛をかすってくる。前はうずまく深淵、ふたりは、進退きわまった。
「ああ、無念――これまでか」と龍太郎は天をあおいで嘆息した。
と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきた槍の穂?
「何者?」
と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれた棹のさきだった。龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門から筏のような影がゆらゆらと流れよってきた。その上にたって、棹を手ぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、闇をすかした。
「お乗りなさい、はやく、はやく」
筏のうえの男は、早口にいった。いまはなにを問うすきもない。ふたりは、ヒラリと飛びうつった。
ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに石垣をつく。――筏は外濠のなみを切って、意外にはやく陸へすすむ。そして、すでに濠のなかほどまできたとき、
「その方はそも何者だ。われわれをだれとおもって助けてくれたのか」
龍太郎が、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。
「武田伊那丸さまと知ってのうえです。わたくしは、この城の掃除番、森子之吉という者ですが、根から徳川家の家来ではないのです」
「おう、そういえば、どこやらに、甲州なまりらしいところもあるようだ」
「何代もまえから、甲府のご城下にすんでおりました。父は森右兵衛といって、お館の足軽でした。ところが、運わるく、長篠の合戦のおりに、父の右兵衛がとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家に降っていましたが、ささいなあやまちから、父は斬罪になってしまったのです。わたくしにとっては、怨みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、故郷の甲府にかえりたいと思っているまに、武田家は、織田徳川のためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地というはめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、伊那丸さまがつかまってきたという城内のうわさです。びっくりして、お家の不運をなげいていました。けれど、今宵のさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへ筏をしのばして、お待ちもうしていたのです」
「ああ、天の助けだ。子之吉ともうす者、心からお礼をいいます」
と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい足軽の子とさげすんではみられなかった。いくどか、頭をさげて礼をくり返した。そのまに、筏はどんと岸についた。
「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、葦の根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。
「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、
「あ、お待ちください」とあわててとめた。
「子之吉、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」
「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この濠端を、右にいってはいけません。お城固めの旗本屋敷が多いなかへはいったら袋のねずみです。どこまでもここから、左へ左へとすすんで、入野の関をこえさえすれば、浜名湖の岸へでられます」
「や、ではこの先にも関所があるか」
「おあんじなさいますな、ここに蓑と、わたくしの鑑札があります。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」
子之吉は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、筏を濠のなかほどへすすめていったが、にわかに、どぶんとそこから水けむりが立った。
「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。
子之吉は、筏をはなすと同時に、脇差をぬいて、みごとにわが喉笛をかッ切ったまま、濠のなかへ身を沈めてしまったのである。後日に、徳川家の手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、森子之吉の本望であったのだ。
伊那丸と龍太郎が外濠をわたって、脱出したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、追手を組織して、入野の関へはしった。
ところが、すでに二刻もまえに、蓑をきた両名のものが、この関へかかったが、足軽鑑札を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、討手のものは、地だんだをふんだ。そして、長駆して、さらに次の浜名湖の渡し場へさしていそいだ。
いっぽう、伊那丸、龍太郎のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一難さってまた一難、ここまできながら、一艘の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
月はないが、空いちめんに磨ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を縒る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この静寂をやぶる櫓の音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、弁天島の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ舵をむけてくる。
「いずれ徳川家の武士にちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、黒装束の者がバラバラと陸へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの小僧も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの溜飲がさがったというものだ」
ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした龍太郎と伊那丸は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり櫓をこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
舳に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、黒装束で横行するやからは、いずれ、盗賊のたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、八幡前で、鎧売りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも似通うていたやつもおりましたな」
と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに舌をまいた。そのまに、船は弁天島へこぎついた。
「若君――」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に長居は危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、渥美の海へこぎだして、伊良湖崎から志摩の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな嶮岨をこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また忍剣をたずね、その他の勇士を狩りあつめて、この乱れた世を泰平にしずめるほか、伊那丸の望みはない」
「そのお心は、龍太郎もおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の禰宜か、どこぞの漁師をおこして食べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを物色してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ灯りのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、訪れてみよう」
と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい灯のそばに、ひとりの男が、朱にそまった老婆の死骸を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。
龍太郎が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、跫音を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、壁に立てかけてあった得物をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると――そのせつな、真眉間へむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに――はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんで袖の下へだきしめてしまった。見ればそれは朱柄の槍であった。
「こりゃ、なんだって、拙者の不意をつくか」
「えい、吐かすな、おれのお母をころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのお母さまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、宿から帰ってみれば、お母さまはズタ斬り、家のなかは乱暴狼藉、あやしいやつは、汝よりほかにないわッ」
目に、いっぱい溜め涙をひからせている。憤怒のまなじりをつりあげて、いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、稀代な槍法をみせた鎧売りの男で――いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、巽小文治という者であった。
「うろたえ言をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、後悔いたすなよ」
「なにを、この朱柄の槍でただひと突き、おふくろさまへの手向けにしてくれる。覚悟をしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
と、龍太郎もむッとして、槍のケラ首が折れるばかりにひッたくると、小文治も、金剛力をしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに穂先をつッ放すと、力負けした小文治は、槍をつかんだままタタタタタと、一、二間もうしろへよろけていった。――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、木隠流のとくいとする、戒刀のはやわざであった。
いつか、裾野の文殊閣でおちあった加賀見忍剣も、この戒刀のはげしさには膏汗をしぼられたものだった。ましてや、若年な巽小文治は、必然、まッ二つか、袈裟がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
と見えたが――意外である! 龍太郎の刀は、サッと空を斬って、そのとたんに槍の石突きがトンと大地をついたかと思うと、小文治の体は、五、六尺もたかく宙におどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
この手練――かれはただ平凡な槍使いではなかった。
龍太郎は、とっさに、眸を抜かれたような気持がした。すぐ踏みとまって、太刀を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の鳩尾へピタリと穂先をむけてきた。
かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ要心に要心をくわえながら、下段の戒刀をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
玄妙きわまる槍と、精妙無比な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、兎の毛のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
天

船べりに頬杖ついて、龍太郎を待っていた伊那丸は、宵からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜの奏でや、舷をうつ波の鼓を、子守唄のように聞いて。
――すると。
内浦鼻のあたりから、かなり大きな黒船のかげが瑠璃の湖をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。だんだんと近づいてきたその船を見ると徳川家の用船でもなく、また漁船のようでもない。舳のぐあいや、帆柱のさまなどは、この近海に見なれない長崎型の怪船であった。
ふかしぎな船は、いつか弁天島のうらで船脚をとめた。そして、親船をはなれた一艘の軽舸が、矢よりも早くあやつられて伊那丸の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
ポーンと鈎縄を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フト胸ぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、荒縄をまきしめていたのだった。
「あッ、龍太郎――ッ」
かれは、おもわず絶叫した。だがその口も、たちまち綿のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。ただ身をもがいて、伏しまろんだ。
水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、胴の間や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、北岸へ役人の松明が見えだしたぞ」
「はやく軽舸をあげてしまえッ」
「帆綱に集れーッ、帆綱をまけ――」
キリキリッ、キリキリッと帆車のきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた伊那丸のからだは、
「あッ」というまに鈎綱にひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
龍太郎はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、巽小文治の稀代な槍先にかかってあえなく討たれてしまったのか……?
西北へまわった風を帆にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、外海へでてゆくではないか。
うわべは歌詠みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、武田伊那丸のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、血眼の旅をつづけている加賀見忍剣。
裾野の闇に乗じられて、まんまと、六部の龍太郎のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの無念さは思いやられる。
したが、不屈なかれ忍剣は、たとえ、胆をなめ、身を粉にくだくまでも、ふたたび伊那丸をさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
おりから、天下は大動乱、鄙も都も、その渦にまきこまれていた。
この年六月二日に、右大臣織田信長は、反逆者光秀のために、本能寺であえなき最期をとげた。
盟主をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。なかにひとり、山崎の弔い合戦に、武名をあげたものは秀吉であったが、北国の柴田、その他、北条徳川なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の関をかため、虎狼の鏃をといで、人の心も、世のさまも、にわかに険しくなってきた。
そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。しかも、酬いられてきたものは、けっきょく失望――二月あまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。せめて……アア夢にでもいいから、いどころを知りたい……」
足をやすめるたびに嘆息した。
その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、甲斐の国へむかって、いっさんにとってかえした。
忍剣が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた恵林寺の焼け跡へあらわれた。
忍剣は数珠をだして、しばらくそこに合掌していた。すると、番小屋のなかから、とびだしてきた侍がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、国師さまはじめ、あえなくお亡くなりはてた、一山の霊をとむろうていたのでござります」
「ならぬ。甲斐一帯も、いまでは徳川家のご領分だぞ。それをあずかる者は、ご家臣の大須賀康隆さまじゃ。みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、扇山の奥に、わたしの幼なじみがおります。久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる尋ねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。クロともうす大鷲、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の生捕りもの、大せつに餌をやって、ちかく浜松城へ献上いたすことになっているのだ、汝らの見せ物ではない。帰れというに帰りおらぬか」
ひとりが腕、ひとりが襟がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、忍剣の眉がピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
ひとりが腰縄をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足がどんと彼の脾腹をけとばした。アッと、うしろへたおれて、悶絶したのを見た、べつな侍は、
「おのれッ」と太刀の柄へ手をかけて、抜きかけた。
――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の鉄杖に、なにかはたまろう。あいては、かッと血へどをはいてたおれた。
それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の奥へおくへとよじのぼってゆく。――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、魔鳥の羽ばたきがつめたい雫をゆりおとして聞えた。
らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた琥珀のようだ。その底にすむ金色の瞳、かしらの逆羽、見るからに猛々しい真黒な大鷲が、足の鎖を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、扇山の石柱の上にたって、ものすごい絶叫をあげていた。
そのくろい翼を、左右にひろげるときは、一丈あまりの巨身となり、銀の爪をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな威がある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
おそれげもなく、そばへかけよってきた忍剣の手になでられると、鷲は、かれの肩に嘴をすりつけて、あたかも、なつかしい旧友にでも会ったかのような表情をして、柔和であった。
「おなじ鳥類のなかでも、おまえは霊鷲である。さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
忍剣は、かねてしたためておいた一片の文字を、油紙にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
この鷲にもいろいろな運命があった。
天文十五年のころ、武田信玄の軍勢が、上杉憲政を攻めて上野乱入にかかったとき、碓氷峠の陣中でとらえたのがこの鷲であった。
碓氷の合戦は甲軍の大勝となって、敵将の憲政の首まであげたので、以来、信玄はその鷲を館にもちかえり、愛育していた。信玄の死んだあとは、勝頼の手から、供養のためと恵林寺に寄進してあったのである。ところがある時、檻をやぶって、民家の五歳になる子を、宙天へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い鎖で、その足をいましめてしまった。
幼少から、恵林寺にきていた伊那丸は、いつか忍剣とともに、この鷲に餌をやったり、クロよクロよと、愛撫するようになっていた。獰猛な鷲も、伊那丸や忍剣の手には、猫のようであった。そして、恵林寺が大紅蓮につつまれ、一山のこらず最期をとげたなかで、鷲だけは、この山奥につながれていたために、おそろしい焔からまぬがれたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえの鎖をきってやるぞ、そしてその翼で、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」
そういいながら、鎖に手をかけたが、鷲の足にはめられた鉄の環も、またふとい鎖も断れればこそ。
「めんどうだ――」と、忍剣は鉄杖をふりかぶって、石柱の角にあたる鎖をはッしと打った。
そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬ鬨の声がおこった。鎖はまだきれていないが、忍剣はその声に、小手をかざして見た。
はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。いうまでもなく、大須賀康隆の部下である。扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、捕手をひきいてきたものだった。
「売僧、その霊鳥をなんとする」
「いらざること。この鷲こそ、勝頼公のみ代から当山に寄進されてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」
「うぬ! さては武田の残党とはきまった」
「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした鉄杖にあたって、二、三人ははねとばされた。
「それ! とりにがすな」
ふもとのほうから、追々とかけあつまってきた人数を合して、かれこれ三、四十人、槍や太刀を押ッとって、忍剣の虚をつき、すきをねらって斬ってかかる。
「飛び道具をもった者は、梢のうえからぶッぱなせ」
足場がせまいので、捕手の頭がこうさけぶと、弓、鉄砲をひッかかえた十二、三人のものは、猿のごとく、ちかくの杉や欅の梢にのぼって、手早く矢をつがえ、火縄をふいてねらいつける。
下では忍剣、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべき術もあろうはずはない。
はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。
夜叉のごとく荒れまわった忍剣は、突として、いっぽうの捕手をかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたび鷲の鎖をねらって、一念力、戛然とうった。
きれた! ギャーッという絶鳴をあげた鷲は、猛然と翼を一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、大樹の梢の上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。
「ア、ア、ア!」とばかり、捕手の軍卒がおどろきさわぐうちに、一ど、雲井へたかく舞いあがった魔鳥は、ふたたびすさまじい天

ふるえ立った捕手どもは、木の根、岩角にかじりついて、ただアレヨアレヨと胆を消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる黒鷲のかげも、天空はるかに飛びさってしまった。
はなしはふたたびあとへかえって、ここは波明るき弁天島の薄月夜――
いっぽうは太刀の名人、いっぽうは錬磨の槍、いずれ劣らぬ切ッ先に秘術の妙をすまして突きあわせたまま、松風わたる白砂の上に立ちすくみとなっているのは、白衣の木隠龍太郎と朱柄の持ち主、巽小文治。
腕が互角なのか、いずれに隙もないためか、そうほううごかず、彫りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて疾風とともに、天空から、そこへ翔けおりてきたすさまじいものがある。
バタバタという羽ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。
「あッ――」とおどろきの叫びをもらしたのは、龍太郎のほうであった。それは、もうはるかに飛びさった、鷲の巨きなのにおどろいたのではない。
いま、鏡のような入江をすべって浜名湖から外海へとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見たせつなに、龍太郎のむねを不安にさわがしたのは、小船にのこした伊那丸の身の上だった。
「もしや?」とおもえば、一刻の猶予もしてはおられない。やにわに、小文治という眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。
「卑怯もの!」
追いすがった小文治が、さッと、くりこんでいった槍の穂先、ヒラリ、すばやくかわして、千段をつかみとめた龍太郎は、はッたとふりかえって、
「卑怯ではない。わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」
「いいのがれはよせ。その手は食わぬ」
「だれがうそを。アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」
「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ八幡船だ。して、小船にのこしたというのはだれだ。そのしだいによっては、待ってもくれよう」
「いまはなにをつつもう、武田家の御曹子、伊那丸さまにわたらせられる」
しばらく、じッと相手をみつめていた小文治は、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。
「さては伊那丸君のお傅人でしたか。今宵、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」
「いや、ことさえわかればいいわけはない、拙者はこうしてはおられぬ場合だ。さらば――」
ほとんど一足跳びに、もとのところへひッ返してきた龍太郎が、と見れば、小船は舫綱をとかれて、湖水のあなたにただようているばかりで、伊那丸のすがたは見えない。
「チェッ、ざんねん。あの八幡船のしわざにそういない。おのれどうするか、覚えていろ」
と地だんだ踏んでにらみつけたが、へだては海――それもはや模糊として、遠州灘へ浪がくれてゆくものを、いかに、龍太郎でも、飛んでゆく秘術はない。
ところへ、案じてかけてきたのは、小文治だった。
「若君のお身は?」
「しまッたことになった。船はないか、船は」
「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」
「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく覚悟だ。たのむ、早くだしてくれ」
「小船は一艘ありますが、八幡船のゆく先ばかりは、いままで領主のご用船が、死に身になって取りまいても、霧のように消えて、つきとめることができないほどでござります」
「ええ、なんとしたことだ――」
と、思わずどッかり腰をおとしてしまった龍太郎は、われながらあまりの不覚に、唇をかみしめた。
小文治は、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を下手人とあやまったがため、このことが起ったのだ。さすれば、とうぜん、じぶんにも罪はある。
かれは、いくたびかそれをわびた。そして、あらためて素性を名のり、永年よき主をさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて伊那丸さまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、真心こめて龍太郎にたのんだ。
龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。しかし、さてこれから八幡船の根城をさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた時鳥をもとめるようなものだった。――むろん小文治にも、いい智恵は浮かばなかった。
「こうなってはしかたがない」
龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。
「お叱りをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。それよりほかに思案はない」
「して、その先生とおっしゃるおかたは」
「京の西、鞍馬の奥にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、稀代なご老体で、拙者の刀術、隠形の法なども、みなその老人からさずけられたものです」
鞍馬ときくさえ、すぐ、天狗というような怪奇が聯想されるところへ、この話をきいた小文治は、もっと深くその老人が知りたくなった。
「龍太郎どのの先生とおっしゃる――そのおかたの名はなんともうされますか」
「まことの姓はあかしませぬ。ただみずから、果心居士と異号をつけております。じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、織田徳川が甲府攻めをもよおすと同時に、拙者は、六部に身を変じて、伊那丸さまをお救いにむかったのです。それがこの不首尾となっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のこと居ながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」
「では、どうかわたしもともに、お供をねがいまする」
「異存はないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」
小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、粗服ながら、たしなみのある旅支度に、大小を差し、例の朱柄の槍をかついで、ふたたびでてきた。
「お待たせいたしました。小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」
という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつの棺がのせてある。
武士にかえった門出に、小文治は、母の亡骸をしずかな湖の底へ水葬にするつもりと見える。
と、あやしい羽音が、またも空に鳴った。はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きな輪をえがいていた怪鳥のかげが、潮けむる遠州灘のあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。
みんな空をむいて、同じように、眉毛の上へ片手をかざしている。
烏帽子の老人、市女笠の女、侍、百姓、町人――雑多な人がたかって、なにか評議の最中である。
「さて、ふしぎなやつじゃのう」
「仙人でしょうか」
「いや、天狗にちがいない」
「だって、この真昼なかに」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ魔物ときまった」
この人々は、そも、なにを見ているのだろう。
ここは近江の国、比叡山のふもと、坂本で、日吉の森からそびえ立った五重塔のてッぺん――そこにみんなの瞳があつまっているのだった。
なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、鶴のごとき老人が、五重塔のてッぺんにたしかにいるようだ。しかも目のいい者のことばでは、あの高い、登りようもない上でのんきに書物を見ているという。
「なに、魔物だと? どけどけ、どいてみろ」
「や、今為朝がきた」
群集はすぐまわりをひらいた。今為朝といわれたのはどんな人物かと見ると、丈たかく、色浅ぐろい二十四、五歳の武士である。黒い紋服の片肌をぬぎ、手には、日輪巻の強弓と、一本の矢をさかしまに握っていた。
「む、いかにも見えるな……」
と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。
「や、あれを射ておしまいなさいますか」
あたりの者は興にそそられて、どよみ立った。
「この霊地へきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、南蛮寺にいるキリシタンのともがらかもしれぬ。いずれにせよ、ぶッぱなして諸人への見せしめとしてくれる」
弓の持ちかた、矢番も、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。それもそのはず、この武士こそ、坂本の町に弓術の道場をひらいて、都にまで名のきこえている代々木流の遠矢の達人、山県蔦之助という者であるが、町の人は名をよばずに、今為朝とあだなしていた。
「あの矢先に立ってはたまるまい……」
人々がかたずをのんでみつめるまに、矢筈を弦にかけた蔦之助は、陽にきらめく鏃を、虚空にむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。
塔のいただきにいる者のすがたは、下界のさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。
「日吉の森へいってごらんなさい。今為朝が、五重塔の上にでた老人の魔物を射にゆきましたぜ」
坂本の町の葭簀茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。
床几にかけて、茶をすすっていた木隠龍太郎は、それを聞くと、道づれの小文治をかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。
「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」
「え?」
小文治はふしんな顔をしたが、もう龍太郎がいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人群れだ。
両足をふんまえて、狙いさだめた蔦之助は、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。
「あ――」と群集は声をのんだ、矢のゆくえにひとみをこらした。と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく五重塔の、あやしき老人を射抜いたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の白鷺、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、日吉の森へ影をかくした。
「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、睫毛をこすっているばかりだ。
そこへ、一足おくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、叡山の道をグングン登っていった。
ふたりはこれから、比叡山をこえ、八瀬から鞍馬をさして、峰づたいにいそぐのらしい。いうまでもなく果心居士のすまいをたずねるためだ。
音にきく源平時代のむかし、天狗の棲家といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。
ふもとでもらった、蛍火ほどの火縄をゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、百足腹、鬼すべりなどという嶮路をよじ登ってくる。
おりから初秋とはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん朦朧として、ふかい霧が山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。
「小文治どの、お気をつけなされよ、よろしいか」
「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」
とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの朱柄の槍を杖にして足をひきずりひきずりついていった。千段曲りという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。渓流である。
「橋がないから、その槍をおかしなさい。こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」
龍太郎は山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。すると、小文治のうしろにあたる断崖から、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。
「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの山猿の大群である。そのなかに、十歳ぐらいな少年がただひとり、鹿の背にのって笑っている。
「おお、そこへきたのは、竹童ではないか」
岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。
「龍太郎さま、ただいまお帰りでございましたか」
「む、して先生はおいでであろうな」
「このあいだから、お客さまがご滞留なので、このごろは、ずっと荘園においでなさいます」
「そうか。じつは拙者の道づれも、足をいためたごようすだ。おまえの鹿をかしてあげてくれないか」
「アアこのおかたですか、おやすいことです」
竹童は口笛を鳴らしながら、鹿をおきずてにして、岩燕のごとく、渓流をとびこえてゆくと、猿の大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。
鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、小文治は馥郁たる香りに、仙境へでもきたような心地がした。
「やっと僧正谷へまいりましたぞ」
と龍太郎が指さすところを見ると、そこは山芝の平地で、甘いにおいをただよわせている果樹園には、なにかの実が熟れ、大きな芭蕉のかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、灯りがもれている。
門からのぞくと、庵室のなかには、白髪童顔の翁が、果物で酒を酌みながら、総髪にゆったりっぱな武士とむかいあって、なにかしきりに笑い興じている。
「龍太郎、ただいま帰りました」
とかれが両手をついたうしろに、小文治もひかえた。
「なんじゃ? おめおめと帰ってきおったと」
翁――それは別人ならぬ果心居士だ。龍太郎の顔を見ると、ふいと、かたわらの藜の杖をにぎりとって、立ちあがるが早いか、
「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。
果心居士は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。八幡船に伊那丸をうばわれたことも、巽小文治の身の上も。――そして、きょうのひる、日吉の五重塔のてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
かれは、仙人か、幻術師か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な謎をとくことに苦しんだ。
しかし、だんだんと膝をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは仙人でもなければ、けっして幻術使でもない。ただおそろしい修養の力である。みな、自得の研鑽から通力した人間技であることが納得できた。
浮体の法、飛足の呼吸、遠知の術、木遁その他の隠形など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも劫をつめば、できないふしぎや魔力ではない。
ところで、果心居士がなにゆえに、武田伊那丸を龍太郎にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
「竹童、竹童――」
居士は例の少年をよんで、小さな錦のふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは亀の甲羅でつくった、いくつもいくつもの駒であった。
かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この亀卜という占いをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
「民部どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、余人にその儀をおいいつけになられては、手まえのたつ瀬も、面目もござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、拙者におおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
と、革の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの山絵図であった。
「これは?」と龍太郎は腑におちない顔である。
「ここにおられる、小幡民部どのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を城廓として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、甲州流の軍学家、小幡景憲どののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、武田のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、伊那丸さまをたずねだしてふたたび旗あげなさろうという大願望じゃ、おなじ志のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき天嶮がなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の準備、またおおくの勇士をも狩りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この図面にあります場所は?」
という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が膝をすすめた。
「武田家に縁のふかき、甲、信、駿の三ヵ国にまたがっている小太郎山です。また……」
と、軍扇の要をもって、民部は掌を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、噛みくだいて説明した。
肝胆あい照らした、龍太郎、小文治、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。果心居士は、それ以上は一言も口をさし入れない。かれの任務は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
翌日は早天に、みな打ちそろって僧正谷を出立した。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの小太郎山へ。
また、小幡民部ひとりは、深編笠をいただき、片手に鉄扇、野袴といういでたちで、京都から大阪もよりへと伊那丸のゆくえをたずねもとめていく。
その方角は、果心居士の亀卜がしめしたところであるが、この占いがあたるか否か。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな奇策を胸に秘めているか、それは余人がうかがうことも、はかり知ることもできない。
板子一枚下は地獄。――船の底はまッ暗だ。
空も見えなければ、海の色も見えない。ただときおりドドーン、ドドドドドーン! と胴の間にぶつかってはくだける怒濤が、百千の鼓を一時にならすか、雷のとどろきかとも思えて、人の魂をおびやかす。
その船ぞこに、生ける屍のように、うつぶしているのは、武田伊那丸のいたましい姿だった。
八幡船が遠州灘へかかった時から、伊那丸の意識はなかった。この海賊船が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が迫りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
「や、すっかりまいっていやがる」
さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ船暈ざましの手当にとりかかった。
「やい、その童の脇差を持ってきて見せろ」
と舳からだみごえをかけたのは、この船の張本で、龍巻の九郎右衛門という大男だった。赤銅づくりの太刀にもたれ、南蛮織のきらびやかなものを着ていた。
「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の目貫と、伊那丸の小袖の紋とを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、
「えらい者が手に入った。その小童は、どうやら武田家の御曹子らしい。五十や百の金で、人買いの手にわたす代物じゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」
そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、伊那丸の腰へもどしておいた。
まもなく、軽舸の用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ鼻先の小島へむかってこぎだした。
「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」
龍巻は二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。
「それッ、帆綱をひけ! 大金もうけだ」
「お頭領、また船をだして、こんどはどこです」
「泉州の堺だ。なんでもかまわねえから、張れるッたけ帆をはって、ぶっとおしにいそいでいけ」
キリキリ、キリキリ、帆車はせわしく鳴りだした。船中の手下どもは、飛魚のごとく敏捷に活躍しだす。舳に腰かけている龍巻は、その悪魔的な跳躍をみて、ニタリと、笑みをもらしていた。
この秋に、京は紫野の大徳寺で、故右大臣信長の、さかんな葬儀がいとなまれたので、諸国の大小名は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
なかで、穴山梅雪入道は、役目をおえたのち、主人の徳川家康にいとまをもらって、甲州北郡へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の堺に、半月あまりも滞在していた。
堺は当時の開港場だったので、ものめずらしい異国の色彩があふれていた。唐や、呂宋や、南蛮の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
「殿、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」
穴山梅雪の仮の館では、もう燭をともして、侍女たちが、琴をかなでて、にぎわっているところだった。そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。
「何者じゃ」
梅雪入道は、もう眉にも霜のみえる老年、しかし、千軍万馬を疾駆して、鍛えあげた骨ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。
「肥前の郷士、浪島五兵衛ともうすもので、二、三人の従者もつれた、いやしからぬ男でござります」
「ふーむ……、してその者が、何用で余にあいたいともうすのじゃ」
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに呂宋より海南にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
「それは珍しいものが数あろう」
梅雪入道は、このごろしきりに、堺でそのような品をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。
「とにかく、通してみろ。ただし、ひとりであるぞ」
「はい」家臣は、さがっていく。
入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱな侍、ただ色はあくまで黒い。目はおだやかとはいえない光である。
「取りつぎのあった、浪島とはそちか」
「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」
「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、余に見せてもらいたいものであるな」
「じつは、他家へ吹聴したくない、秘密な品もござりますゆえ、願わくばお人払いをねがいまする」
という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。
「して、その秘密な品とは、いかなるものじゃ」
「殿――」
浪島という、郷士のまなこが、そのときいような光をおびて、声の調子まで、ガラリと変った。
「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。武田菱の紋をうった、りっぱな人間です。どうです、ご相談にのりませんか」
「な、なんじゃッ?」
「シッ……大きな声をだすと、殿さまのおためにもなりませんぜ。徳川家で、血眼になっている武田伊那丸、それをお売りもうそうということなんで」
「む……」入道はじッと郷士の面をみつめて、しばらくその大胆な押し売りにあきれていた。
「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。武田の御曹子を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万石や二万石の恩賞はあるにきまっています。先祖代々から禄をはんだ、武田家の亡びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」
ほとんど、強請にもひとしい口吻である。だのに、梅雪入道は顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。
どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、武田勝頼の無二の者とたのまれていた武将であった。
それが、織田徳川連合軍の乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、甲府討入りの手引きをしたのみか、信玄いらい、恩顧のふかい武田一族の最期を見すてて、じぶんだけの命と栄華をとりとめた武士である。
この利慾のふかい武士へ、伊那丸という餌をもって釣りにきたのは、いうまでもなく、武士に化けているが、八幡船の龍巻であった。
都より開港場のほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から堺へいりこんでいたのは、鞍馬を下山した小幡民部である。
人手をわけて、要所を見張らせていた網は、意外な効果をはやくも告げてきた。
「たしかに、八幡船のやつらしい者が三人、侍にばけて、穴山梅雪の宿をたずねた――」
この知らせをうけた民部は、たずねさきが主家を売って敵にはしった、犬梅雪であるだけに、いよいよそれだと直覚した。
いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりの館をでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい波止場のほうへあるいていく。
「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」
「上首尾さ。じぶんも立身の種になるんだから、いやもおうもありゃあしない。これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と黄金の目方のとりかえッこだ」
「しッ……うしろから足音がしますぜ」
「え?」
と三人とも、脛にきずもつ身なので、おもわずふりかえると、深編笠の侍が、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。
「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」
「なんだって? おれはそんな者じゃアない」
「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」
「なんだい、おめえはいったい?」
「こう見えても、ずいぶん浪の上でかせいだ者です」
「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」
「そりゃア数ある八幡船ですから」
「しッ。でっかい声をするねえ」
「すみません。船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」
話しながら、いつか陸はずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに龍巻を信じさせ、沖にすがたを隠している、八幡船の仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。
その男の正体が、小幡民部であることはいうまでもない。なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、生地のままの反間苦肉がみごとに当った。
民部のこころは躍っていた。けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。で、いちじはちがったかと思ったが、梅雪をおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。
船は、その翌日、闇夜にまぎれて、堺の沖から、ふたたび南へむかって、満々と帆をはった。
伊那丸は、日ならぬうちに気分もさわやかになった。それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、大海原の壮観に目をみはった。
ここはどこの島かわからないけれど、陸のかげは、一里ばかりあなたに見える。けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。
「ああ……」忍剣を思い、咲耶子をしのび、龍太郎のゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている伊那丸のひとみに涙が光った。
「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」
夜はつめたい磯の岩かげに組んだ小屋にねる。だが、そのあいださえ、羅刹のような手下は、交代で見張っているのだ。
「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう最期の運命、逃げるなら、いまのうちだ」
きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も頬杖をついていねむっている。
「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十間も陸の上へ、引きあげてあった。
「えい、これしきのもの」
伊那丸は、金剛力をしぼって、波のほうへ、綱をひいてみたが、荒磯のゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。――ああこんな時に、忍剣ほどの力がじぶんに半分あればと、益ないくり言もかれの胸にはうかんだであろう。
「野郎ッ、なにをする!」
われを忘れて、船をおしている伊那丸のうしろから、松の木のような腕が、グッと、喉輪をしめあげた。
「見つかったか」伊那丸は歯がみをした。
「こいつ。逃げる気だな」
喉に閂をかけられたまま、伊那丸はタタタタタと五、六歩あとへ引きもどされた。
もうこれまでと、脇差の柄に手をやって、やッと、身をねじりながら切ッ先をとばした。
「あッ――き、斬りやがったなッ」
とたん――目をさましてきた四、五人の手下たちも、それッと、櫂や太刀をふるって、わめきつ、さけびつ撃ちこんできたが、伊那丸も捨身だった。小太刀の精のかぎりをつくして、斬りまわった。
しかし何せよ、慓悍無比な命しらずである。ただでさえ精のおとろえている伊那丸は、無念や、ジリジリ追われ勝ちになってきた。
その時であった。
空と波との水平線から、こなたの島をめがけて、征矢のように翔けてきた一羽のくろい大鷲。
ぱッと、波をうっては水けむりをあげた。空に舞っては雲にかくれた。――やがて、そのすばらしい雄姿を目のあたりに見せてきたと思うと、伊那丸と五人の男の乱闘のなかを、さっと二、三ど、地をかすって翔けりまわった。
「わーッ、いけねえ!」
のこらずの者が、その巨大な翼にあおりたおされた。むろん、伊那丸も、四、五間ほど、飛ばされてしまった。
嵐か、旋風か、伊那丸は、なんということをも意識しなかった。ただ五人の敵! それに一念であるため、立つよりはやく、そばにたおれていたひとりを、斬りふせた。
くろい大鷲は、伊那丸の頭上をはなれず廻っている。砂礫をとばされ、その翼にあたって、のこる四人も散々になって、気を失った。――ふと、伊那丸は、その時はじめて、ふしぎな命びろいをしたことに気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、恵林寺にいたころ、つねに餌をやって愛していたクロではないか。
「お! クロだ、クロだ」
かれが血刀を振って、狂喜のこえを空になげると、クロはしずかにおりてきて、小船のはしに、翼をやすめた。
「ちがいない。やはりクロだった。それにしても、どうして、あの鎖をきったのであろう」
ふと見ると、足に油紙の縒ったのが巻きしめてある。伊那丸はいよいよふしぎな念に打たれながら、いそいで解きひらいてみると、なつかしや、忍剣の文字!
若さま、このてがみが、あなたさまの、お目にふれましたら、若さまのおてがみも、かならず私の手にとどきましょう。忍剣いのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。甲斐の山にて。
ハラハラと、とめどない涙を、その数行の文字にはふり落として立ちすくんでいた伊那丸は、いそいで小屋に取ってかえし、今の窮状をかんたんに認めて、かけもどってきた。
夜はほのぼのと、八重の汐路に明けはなれてきた。
見れば、クロはよほど飢えていたらしく、五人の死骸の上を飛びまわって、生々しい血に、舌なめずりをしていた。
同じように、かえし文を、鷲の片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらに呪いの悪魔が悠々とかげを見せてきた。
八幡船の親船がかえってきたのだ。もうすぐそこ――島から数町の波間のちかくへ。
「いよいよ最期となった。クロ! わしの運命はおまえのつばさに乗せてまかすぞよ」
坐して死をまつも愚と、伊那丸は鷲の背中へ、抱きつくように身をのせた。
思うさま、人の血をすすったクロは、両の翼でバサと大地をうったかと思うと、伊那丸の身を軽々とのせたまま、天空高く、舞いあがった。
「あれ、あれ、ありゃあなんだ?」
「おお、島からとび立ったあやしい魔鳥」
「鷲だッ。くろい大鷲だ」
白浪をかんで、満々と帆を張ってきた八幡船の上では多くの手下どもが、あけぼのの空をあおいで、潮なりのようにおどろき叫んでいた。
さわぎを耳にして、船部屋からあらわれた龍巻九郎右衛門は、ギラギラ射かえす朝陽に小手をかざして、しばらく虚空に旋回している大鷲の影をみつめていたが、
「ややッ」にわかに色をかえて、すぐ、
「あの鷲を射おとせッ、はやくはやく。遠のかねえうちだ」
とあらあらしく叱咤した。おう! 手下どもは武器倉へ渦をまいて、弓鉄砲を取るよりはやく、宙を目がけて火ぶたを切り、矢つぎばやに、征矢の嵐をはなしたが、鷲はゆうゆうと、遠く近くとびまわって、あたかも矢弾の弱さをあざけっているようだ。
「民蔵民蔵、新米の民蔵はどうしたッ」
龍巻が足を踏みならして、こうさけんだ時、船底からかけあがってきたのは、民蔵と名をかえて、堺から手下になって乗りこんでいた、かの小幡民部であった。
「おかしら、お呼びになりましたかい」
「どこへもぐりこんでいるんだ。てめえに、ちょうどいい腕だめしをいいつける。あの大鷲の上に、人間が抱きついているんだ、島から伊那丸が逃げだしたにちげえねえ、てめえの腕でぶち落として見ろ」
「えッ、伊那丸とは、なんですか」
「そんなことをグズグズ話しちゃいられねえ、オオまた近くへきやがった、はやく撃てッ」
「がってんです!」
小幡民部の民蔵は、伊那丸と聞いてギクッとしたが、龍巻に顔色を見すかされてはと、わざと勇みたって、渡された種子島の銃口をかまえ、船の真上へ鷲がちかよってくるのを待った。
と見るまに、鷲はふたたび低く舞って、帆柱のてッぺんをさッとすりぬけた。
「そこだ」龍巻はおもわず拳を握りしめる。
同時に、狙いすましていた民部の手から、ズドン! と白い爆煙が立った。
「あたった! あたった」
ワーッという喊声が、船をゆるがしたせつな、大鷲はまぢかに腹毛を見せたまま、ななめになってクルクルと海へ落ちてきた――と見えたのは瞬間。――大きなつばさで海面をたたいたかと思うまに、ギャーッと一声、すごい絶鳴をあげて、猛然と高く飛び上がった。
そのとたんに、大鷲の背から海中へふり落とされたものがある――いうまでもなく武田伊那丸であった。龍巻は、雲井へかけり去った鷲の行方などには目もくれず、すぐ手下に軽舸をおろさせて、波間にただよっている伊那丸を、親船へ引きあげさせた。
「民蔵でかしたぞ。きさまの腕前にゃおそれいッた」
と龍巻は上機嫌である。そしていままでは、やや心をゆるさずにいた民部を、すッかり信用してしまった。
堺見物もおわったが、伊那丸のことがあるので、帰国をのばしていた穴山梅雪の館へ、ある夕べ、ひとりの男が密書を持っておとずれた。
吉左右を待ちかねていた梅雪入道は、くっきょうな武士七、八名に、身のまわりをかためさせて、築山の亭へ足をはこんできた。そこには、黒衣覆面の密書の使いが、両手をついてひかえていた。
「書面は、しかと見たが、今宵のあんないをするというそのほうは何者だの」
と梅雪はゆだんのない目くばりでいった。
「龍巻の腹心の者、民蔵ともうしまする」
「して、伊那丸の身は、ただいまどこへおいてあるの?」
「しばらく船中で手当を加えておりましたが、こよい亥の刻に、かねてのお約束どおり、船からあげて阿古屋の松原まで頭が連れてまいり、金子と引きかえに、お館へお渡しいたすてはずになっておりまする」
よどみのない使いの弁舌に、梅雪入道も疑いをといたとみえ、すぐ家臣に三箱の黄金をになわせ、じぶんも頭巾に面をかくして騎馬立ちとなり、剛者十数人を引きつれて、阿古屋の松原へと出向いていった。
「殿さま、しばらくお待ちねがいます」
途中までくると、案内役の民蔵は、梅雪入道の鞍壺のそばへよって、ふいに小腰をかがめた。
「少々おねがいの儀がござります。お馬をとめて、無礼者とお怒りもありましょうが、阿古屋の松原へついては間にあわぬこと、お聞きくださいましょうか」
「なんじゃ、とにかくもうしてみい」
「は、余の儀でもござりませぬが、今日お館のご威光を見、またかくお供いたしているうちに、八幡船の手下となっていることが、つくづく浅ましく感じられ、むかしの武士にかえって、白日のもとに、ご奉公いたしたくなってまいりました」
「悠長なやつ、かような出先にたって、なにを述懐めいたことをぬかしおるか。それがなんといたしたのだ」
「ここに一つの手柄をきっと立てますゆえ、お館の家来の端になりと、お加えなされてくださりませ」
「ふウ――どういう手柄を立てて見せるな」
「この三箱の黄金をかれにわたさずして、まんまと、武田伊那丸を龍巻の手よりうばい取ってごらんに入れますが」
「ぬからぬことをもうすやつだ。して、その策は?」
「わが君、お耳を……」
小幡民部の民蔵が、なにをささやいたものか、梅雪はたちまち慾ぶかいその相好をくずして、かれのねがいを聞きとどけた。そして、えらびだした武士二、三人に、密命をふくませ、そこからいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列の先頭にして、闇夜の街道を、しずしずと進んでいった。
まもなく着いた、阿古屋の松原。
梅雪入道は鞍からおりて、海神の社に床几をひかえた。
と――やがて約束の亥の刻ごろ、浜辺のほうから、百鬼夜行、八幡船の黒々とした一列が、松明ももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
「民蔵、民蔵」
と鳥居まえで、合図をしたのは龍巻にちがいなかった。民蔵は梅雪のそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「お頭ですか」
「む、いいつけた使いの首尾はどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして伊那丸は?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが縄尻を持っていろ。なかなか童のくせに強力だから、ゆだんをして逃がすなよ」
龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる拝殿の前へおしていった。
縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。――その心のうちでは、手をあわせている小幡民部であった。
しばらくのあいだ、龍巻と談合していた梅雪は、伊那丸の面体を、しかと見さだめたうえで、約束の褒美をわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ怒鳴った。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
民蔵は縄目にかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、見届けた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。武田伊那丸にそういない」
その時、むッくり首をあげた伊那丸は、穴山のすがたを、かッとにらみつけて、血を吐くような声でいった。
「人でなしの梅雪入道!」
「な、なにッ」
「お祖父さま(信玄)の時代より、武田家の禄を食みながら、徳川軍へ内通したばかりか、甲府攻めの手引きして、主家にあだなした犬侍。どの面さげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。退れッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、老獪なる嘲笑にまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、小賢しい無礼呼ばわり。なるほどその昔は、信玄公にも仕え、勝頼にも仕えた梅雪じゃが、いまは、主でもなければ君でもない。武田の滅亡は、お許の父、勝頼が暗愚でおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
不道の臣に面罵されて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手を縛されたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを床几から蹴とばした。
「なにをするか」
縄尻をひいた民蔵の力に、伊那丸はあおむけざまにひッくり返った。ア――おいたわしい! とおもわず睫毛に涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると承知しねえぞ。立て! こっちの隅へ寄っていろい!」
ズルズルと引きずってきて、拝殿の柱へ縄尻をくくりつけた。龍巻はそれをきッかけにして、
「じゃあ殿さま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも褒美をつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは大名、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
と、ニタリ笑つぼに入った。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を軽舸へ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
龍巻は、舌うちをしてふりかえった。社の廻廊にたって、小手をかざしていた民蔵は、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船が燃えあがってる!」
と、手をふりまわした。
「なにッ、親船が?」
龍巻も、さすがにギョッとして、浜辺のほうをすかしてみると、まッ暗な沖合にあたって、ボウと明るんできたのは、いかにも船火事らしい。
「ややややや」龍巻の目はいようにかがやく。
見るまに沖の明るみは一団の火の玉となって、金粉のごとき火の粉を空にふきあげた。夜の潮は燦爛と染められて、あたかも龍宮城が焼けおちているかのような壮観を現じた。
「ちぇッ、とんでもねえことになッた。それッ、早く漕ぎつけて、消しとめろ」
とぎょうてんした龍巻は、二、三十人の手下たちとともに、一どにドッと海神の社をかけだしていくと、にわかに、鳥居わきの左右から、ワッという声つなみ!
「海賊ども、待て」
「御用、御用」
たちまち氷雨のごとく降りかかる十手の雨。――かける足もとを、からみたおす刺股、逃げるをひきたおす袖がらみ。驚きうろたえるあいだに、バタバタと、捕ってふせ、ねじふせ、刃向かうものは、片っぱしから斬り立ててきた、捕手の人数は、七、八十人もあろうかと見えた。
陣笠、陣羽織のいでたちで、堺奉行所の提灯を片手に打ちふり、部下の捕手を激励していた佐々木伊勢守へ、荒獅子のごとく奮迅してきたのは、頭の、龍巻九郎右衛門であった。
「おのれッ」とさえぎる捕手を斬りとばして、夜叉を思わせる太刀風に、ワッと、開いて近よる者もない折から穴山梅雪一手の剛者が、捕手に力をかして、からくも龍巻をしばりあげた。
「民蔵、そのほうの奇策はまんまと図にあたった。こなたより奉行所へ密告したため、アレ見よ、沖でも、この通りなさわぎをしているわい……小きみよい悪党ばらの最後じゃ」
穴山梅雪は、帰館すべくふたたびまえの駒にのって、持ってきた黄金をも取りかえし、武田伊那丸をも手に入れて、得々と社頭から列をくりだした。
「手はじめの御奉公、首尾よくまいって、民蔵めも面目至極です。殿のご運をおよろこびもうしあげます」
「ういやつだ。こよいから余の近侍にとり立ててくれる。伊那丸の縄をとって、ついてこい」
いっぽう、捕手にかこまれて、引ッ立てられた龍巻は、この態をみると、あたりの者をはねとばして、形相すごく、民蔵のそばへかけよった。
「畜生。う、うぬはよくも、おれを裏切りやがったな。一どは、縄にかかっても、このまま、獄門台に命を落とすような龍巻じゃねえぞ。きっとまたあばれだして、きさまの首をひンねじる日があるからおぼえていろ!」
「おお、心得た。だが、拙者は腕力は弱いから、その時には、また今夜のように、智慧くらべで戦おうわい」
久しぶりに、小幡民部らしい口調でこたえた民蔵は、子供の悪たれでも聞きながすように笑って、他の武士たちと同列に、梅雪の館へついていった。
ここしばらく、京都に滞在している徳川家康の陣営へにわかに目通りをねがってでたのは、梅雪入道であった。
家康は、もうとッくに、甲州北郡の領土へ帰国したものと思っていた穴山が、また途中から引きかえしてきたのは、なにごとかと意外におもって、そくざに、かれを引見した。
梅雪は御前にでて、入道頭をとくいそうにふり立てて、かねて厳探中の伊那丸を捕縛した顛末を、さらに誇張して報告した。さしずめ、その恩賞として、一万石や二万石のご加増はあってしかるべしであろうといわんばかり。
「ふム……そうか」
家康のゆがめた口のあたりに二重の皺がきざまれた。これはいつも、思わしくない感情をあらわすかれの特徴である。
「浜松のご城内へまで潜入して、君のお命をねらった不敵な伊那丸、生かしておきましては、ながく徳川御一門をおびやかし奉るは必定とぞんじまして……」
「待て、待て、わかっておる……」
梅雪はあんがい、いや、大不服である。
あれほど、伊那丸の首に、恩賞のぞみのままの沙汰をふれておきながら、この無愛想な口ぶりはどうだ。
しかし家康は、梅雪がうぬぼれているほど、かれを腹心とは信じていない。
日本の歴史にも、中華史上にも少ないくらいな、武士の面よごしが、武田滅亡のさいに、二人あった。一人はこの梅雪、一人は小山田信茂である。
織徳連合軍におわれた勝頼主従が、その臣、小山田信茂の岩殿山をたよって落ちたとき、信茂は、柵をかまえて入城をこばみ、勝頼一門が、天目山の討死を見殺しにした。そして、それを軍功顔に、織田の軍門へ降っていった。
信長の子、織田城之助は、小山田を見るよりその不忠不人情を罵倒して、褒美はこれぞと、陣刀一閃のもとに首を討ちおとした。――そういう例もある。
ましてや、梅雪入道は、武田家譜代の臣であるのみならず、勝頼とは従弟の縁さえある。その破廉恥は小山田以上といわねばならぬ。
――けれど家康は、城之助とちがって、何者をも利用することを忘れない大将であった。
「梅雪、伊那丸を捕えたともうすが、それだけか」
「は? それだけとおおせられますると」
「たわけた入道よな。武田家の護り神とも崇めておった御旗楯無の宝物は、たしかに、伊那丸がかくしているはずじゃ。その儀をもうすのにわからぬか」
「はッ、いかさま。それまでには気がつきませんでした。さっそく、糺明いたしてみます」
「仏つくって、魂いれぬようなことは、家康、大のきらいじゃ。伊那丸の首と、御旗楯無とをそろえて、持参いたしてこそ、はじめて、まったき一つの働きをたてたともうすもの」
「願わくば、ここ二月のご猶予を、この入道にお与えくださりませ。きっとその宝物と、伊那丸の塩漬け首とを、ともにごらんに供えまする」
梅雪入道は、家康にかたく誓って、そこそこに堺へ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国の旨を布令だした。
その前にさきだって、小幡民部の民蔵は、いずこへか二、三通の密書をとばした。はたしてどことどことへ、その密書がいったかは、何人といえども知るよしはないが、うち一通は、たしかに鞍馬山の僧正谷にいる、果心居士の手もとへ送られたらしい。
堺を出発した穴山の一族郎党は、伊那丸をげんじゅうな鎖駕籠にいれ、威風堂々と、東海道をくだり、駿府から西にまがって、一路甲州の山関へつづく、身延の街道へさしかかった。
ここらあたりは、見わたすかぎり果てしもない晩秋の広野である。
――ああそこは伊那丸にとって、思い出ふかき富士の裾野。加賀見忍剣と手に手をとって、さまよいあるいた富士の裾野。
けれど、鎖網をかけた、駕籠のなかなる伊那丸の目には、なつかしい富士のすがたも見えなければ、富士川の流れも、枯れすすきの波も見えない。
ただ耳にふれてくるものは、蕭々と鳴る秋風のおと、寥々とすだく虫の音があるばかり。
すると、どこでするのか、だれのすさびか、秋にふさわしい笛の音がする。その妙な音色は、ふと伊那丸の心のそこへまで沁みとおってきた。――かれは、まッ暗な駕籠のなかで、じッと耳をすました。
「お! 咲耶子、咲耶子の笛ではないか」
思わずつぶやいた時である。なにごとか、いきなりドンと駕籠がゆれかえった。
「ぶれい者、お供先に立ってはならぬ」
「あやしい女、ひッ捕えろ!」数人は、バラバラと前列のほうへかけあつまった。穴山の郎党たちは、たちまち、押しかぶさって、ひとりの少女をそこへねじふせた。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは、けっしてあやしい者ではありませぬ。穴山梅雪さまのご通行を幸いに、お訴えもうしたいことがあるのです」
「だまれ、ご道中でさようなことは、聞きとどけないわ、帰れッ」
と、家来どものののしる声を聞いて、駕籠の扉をあけさせた梅雪は、
「しさいあり気な女子じゃ。なんの願いか聞いて取らせる。これへ呼べ」と一同を制止した。
うるわしいお下髪にむすび、帯のあいだへ笛をはさんだその少女は、おずおずと、梅雪の駕籠の前へすすんで手をついた。
「訴えのおもむきをいうてみい。また、このようなさびしい広野に、ただひとりおるそちは、いったい何者の娘だ」
「野武士の娘、咲耶子ともうしまする。お訴えいたすまえに、おうかがいいたしたいのは、うしろの鎖駕籠のなかにいるおかたです。もしや武田伊那丸さまではございませんでしょうか」
「それを聞いてなんとする」
梅雪はおそろしい目を咲耶子の挙動に注ぎかけた。
けれど彼女は、むじゃきに咲いた野の花のよう、なんのおそれげもわだかまりもなく、あとのことばをさわやかにつづけた。
「まことは、まえに伊那丸さまから、ご大切な宝物とやらを、父とわたくしとで、お預かりもうしておりましたが、そのために、親娘の者が、ひとかたならぬ難儀をいたしておりますゆえ、きょう、お通りあそばしたのを幸い、お返しもうしたいのでござります」
「ふーむ、して、その宝物とやらはどんな物だ」
「このさきの、五湖の一つへ沈めてありますゆえ、どんな物かはぞんじませぬが、このごろ、あっちこっちの悪者がそれを嗅ぎつけて、湖水の底をさぐり合っておりまする。なんでも石櫃とやらにはいっている、武田さまのお家の宝だともうすことでござります」
「む、よう訴えてきた。褒美はぞんぶんにとらすからあんないせい」
梅雪の顔は、思いがけない幸運にめぐり合ったよろこびにあふれた。――が、駕籠側にいた民蔵は、サッと色をかえて、この不都合な密告をしてきた少女を、人目さえなければ、ただ一太刀に斬ってすてたいような殺気をありありと目のなかにみなぎらせた。
行列はきゅうに方向を転じて、五湖の一つに沈んでいる宝物をさぐりにむかった。けれども、道案内に立った咲耶子は西も東もわからぬ広野を、ただグルグルと引きずりまわすのみなので、一同は、道なき道につかれ、梅雪もようやくふしんの眉をひそめはじめた。
「民蔵はいないか、民蔵」と呼びつけて、
「小娘の挙動、だんだんと合点がいかぬ。あるいは、野かせぎの土賊ばらが、手先に使っている者かも知れぬ、も一ど、ひッ捕えてただしてみろ」
「かしこまりました」
民蔵は得たりと思った。ばらばらと前列へかけ抜けてきて、いきなり、むんずと咲耶子の腕首をつかんだ。
「小娘ッ」まことは甲州流兵法の達人小幡民部が、こういってにらんだ眼光は射るようだった。
「なんでござりますか」
「さきほどからみるに、わざと、道なき野末へあんないしていくはあやしい。いったいどこへまいる気だ」
「知りませぬ、わたしは、ひとりで好きに歩いているのですから」
「だまれ、五湖へあんないいたすともうしたのではないか」
「だれが、穴山さまのような、けがらわしい犬侍のあんないになど立ちましょうか」
「おのれ、さては野盗の手引きか」
「いいえ、ちがいます」
「吐かすなッ。さらば何者にたのまれた」
「御旗楯無の宝物が欲しさに、慾に目がくらんで、わたしのような少女にまんまとだまされた! オホホホホ……やッとお気がつかれましたか」
「おのれッ」
抜く手も見せず、民蔵がサッと斬りつけた切ッ先からヒラリと、蝶のごとく跳びかわした咲耶子は、バラバラと小高い丘へかけあがるよりはやく、帯の横笛をひき抜いて、片手に持ったまま宙へ高く、ふってふってふりまわした。
ああ! こはそもなに? なんの合図。
それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、窪地のかげなどから、たちまち、むくむくとうごきだした人影。
ウワーッと喊声をあげて、あらわれたのは四、五十人の野武士である。手に手に太刀をふりかざして、あわてふためく穴山一党のなかへ、天魔軍のごとく猛然と斬りこんだ。
ニッコと笑って、丘に立った咲耶子が、さッと一閃、笛をあげればかかり、二閃、さッと横にふればしりぞき、三閃すればたちまち姿をかくす――神変ふしぎな胡蝶の陣。
きょうも棒切れを手にもって、友だち小猿を二、三十匹つれ、僧正谷から、百足虫腹の嶮岨をつたい、鞍馬の大深林をあそびまわっているのは、果心居士の童弟子、いが栗あたまの竹童であった。
「おや、こんなところへだれかやってくるぞ……このごろ人間がよくのぼってくるなア」
竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、菅笠に脚絆がけの男が、深林の道にまよってウロウロしている。
「オーイ、オーイ――」
とかれが口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちへかけてきたが、見ればまだ十歳ぐらいの男の子が、たッたひとり、多くの猿にとり巻かれているのでへんな顔をした。
「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺の小坊主さんでもなし、まさか山男の伜でもあるまい」
「何者だなんて、生意気をいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが本来だよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた風来人じゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは僧正谷の果心居士さまとおっしゃるおかたのところへ、堺のあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお師匠さまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお弟子か、やれやれありがたい人に会った」
と、男は竹童に手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
と竹童はその手紙を、一匹の小猿にくわえさせて、鞭で僧正谷の方角をさすと、猿は心得たようにいっさんにとんでいく。そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
竹童は、とくいの口笛を吹きながら、ほかの猿とごッたになって、深林の奥へおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという異様なひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置き捨てにして、ワラワラとどこかへ姿をかくしてしまった。
「やア……やア……やア奇態だ」
なにもかも忘れはてたようすである。あおむいたまま、いつまでも棒立ちになっている竹童の顔へ、上の梢からバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
そも、竹童の目は、なんに吸いつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき怪物――といってもよい大うわばみが、鞍馬山にはめずらしい大鷲を、翼の上から十重二十重にグルグル巻きしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から火焔をふきあって、ジッとにらみあっているのだ。まさに龍攘虎搏よりものすごい決闘の最中。
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
竹童おどろきもせず、口アングリ開いて見ていることややしばし、たちまち、鼓膜をつんざくような大鷲の絶鳴とともに、大蛇に巻きしめられていた双の翼がバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる紅葉のくれないを見せ、寸断されたうわばみの死骸が、バラバラになって大地へ落ちてきた。
それを見るや否や、雲を霞と、僧正谷へとんで帰った竹童。果心居士の荘園へかけこむがはやいか、めずらしい今の話を告げるつもりで、
「お師匠さま、お師匠さま」と呼びたてた。
「うるさい和子じゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
芭蕉亭の竹縁に腰かけていた居士の目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた竹童は、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみと鷲の話ができなくなった。
「あ、お師匠さま、さきほど、お手紙がまいりましたから、猿に持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
「横着なやつめ。小幡民部どのからの大切なご書面、もし失のうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
竹童は頭をかいて下をむいた。居士は、白髯のなかから苦笑をもらしたが、叱言をやめて語調をかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、武蔵の国、高尾山の奥院までいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百里もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お師匠さまの飛走の術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。それにはちょうどいい道案内をつけてやるから、和子はただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへ呼んでやるから見ておれよ」
と果心居士は、露芝の上へでて、手に持ったいちめんの白扇をサッとひらき、要にフッと息をかけて、あなたへ投げると、扇はツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一羽の鶴に化してのどかに空へ舞いあがった。
ア――と竹童は目をみはっていると、たちまち、宙天からすさまじい疾風を起してきた黒い大鷲、鶴を目がけてパッと飛びかかる。鶴は白毛を雪のごとく散らして逃げまわり、鷲のするどい爪に追いかけられて、果心居士の手もとへ逃げて下りてきたが、そのとたん、居士がひょいと手をのばすと、すでに、鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士の膝の前に翼をおさめて、ピッタリおとなしくうずくまっている。
「竹童竹童、その泉の水を少々くんでこい」
「ハイ」
あっけにとられて見ていた竹童は、居士にいいつけられたまま、岩のあいだから、こんこんと湧きいでている泉をすくってきた。
「かわいそうにこの鷲は、片目を鉄砲で撃たれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその霊泉で洗ってやるがよい。すぐなおる」
「ハイ」
竹童は草の葉ひとつかみを取ってひたし、いくたびか鷲の目を洗ってやった。大鷲は心地よげに竹童のなすがままにまかせていた。
「おまえの道案内はこの鷲だ。これに乗ってかける時は千里の旅も一日の暇じゃ、よいか」
「これに乗るんですか、お師匠さま、あぶないナ」
「たわけめが」
喝! と叱りつけた果心居士は、竹童がアッというまに襟くびをグッとよせて、
「エーッ」と一声、片手につかんでほうりなげた。ブーンと風を切った竹童のからだは、珠のごとく飛んで、はるかあなたの築山の上へいって、ヒョッコリ立ったが、たちまち、そこからかけもどってきてニコニコ笑いながら澄ましている。
「お師匠さま、またいたずらをなさいましたね」
「どうだ、どこかけがでもしたか」
「いいえ、そんな竹童ではございません。わたしはお師匠さまから、まえに浮体の術を授かっておりますもの」
「それみよ。なぜいつもその心がけでおらぬ。この鷲に乗っていくのがなんであぶない、浮体の息を心得てのれば一本の藁より身のかるいものだ」
「わかりました。さっそくいってまいります」
「オオ書面にて認めておいたが、時おくれては、武田伊那丸さまのお身があぶない、いや、あるいは小幡民部どのの命にもかかわる、いそいでいくのじゃ」
「そして、だれにこの手紙をわたすのですか」
「高尾の奥院にかくれている、加賀見忍剣どのという者にわたせばよい。その忍剣はこの鷲のすがたを毎日待ちこがれているであろう。またこの鷲も霊鷲であるから、かならず忍剣のすがたを見れば地におりていくにちがいない」
「かしこまりました。よくわかりました」
「かならず道草をしていてはならぬぞ」
「ハイ、心得ております」
と竹童はしたくをした――したくといっても、例の棒切れを刀のように腰へさして、稗と草の芽を団子にした兵糧をブラさげて、ヒラリと鷲の背にとびつくが早いか、鷲は地上の木の葉をワラワラとまきあげて、青空たかく飛びあがった。
伊那丸とちがって竹童は、浮体の法を心得ているうえ、深山にそだって鳥獣をあつかいなれている。かれはしばらく目をつぶっていたがなれるにしたがって平気になりはるかの下界を見廻しはじめた。
「オオ高い高い、もう鞍馬も貴船山も半国ヶ岳も、あんな遠くへ小ッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見える鏡のようなのは琵琶湖だナ、この眼下は大津の町……」
と夢中になっているうちに、ヒュッとなにかが、耳のそばをうなってかすりぬけた。
「や、なんだ」
と竹童はびっくりしてふりかえった時、またもや下からとんできたのは白羽の征矢、つづいてきらきらとひかる鏃が風を切って、三の矢、四の矢と隙もなくうなってくる。
「おや、さてはだれか、この鷲をねらうやつがある、こいつはゆだんができないゾ」
と竹童は例の棒切れを片手に持って、くる矢くる矢をパラパラと打ちはらっていたが、それに気をとられていたのが不覚、たいせつな果心居士の手紙を、うッかり懐中から取りおとしてしまった。
「アッ、アアアアア……しまった!」
ヒラヒラと落ちいく手紙へ、思わず口走りながら身をのばしたせつな、竹童のからだまで、あやうく鷲の背中からふりおとされそうになった。
大津の町の弓道家、山県蔦之助は、このあいだ、日吉の五重塔であやしいものを射損じたというので、かれを今為朝とまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い評判をたてた。
それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、兵書部屋へこもり、ひたすら武技の研究に余念がなかった。
その日も、しずかに兵書をひもといていた蔦之助は、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、下僕の関市が、あわただしくかけこんできてこういう。
「旦那さま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい大鷲が、比叡のうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
と蔦之助は部屋から庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない黒鷲が、比叡の峰の背からまッさかさまに大津の空へとかかってくるところ。
「関市! 張りの強い弓を! それと太矢を七、八本」
「へい」と関市が、大あわてで取りだしてきた節巻の籐にくすね引きの弦をかけた強弓。とる手もおそしと、槙の葉鏃の太矢をつがえた蔦之助は、虚空へむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市が代り矢を出す。それを取ってさらに射る。その迅さ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
しかしその矢は、二どめからみな宙にあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきり鷲の上には何者かがいる! 蔦之助ももとより射おとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、日吉の塔の上にいた、奇怪な人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
矢数はひょうひょうと虹のごとく放たれたが、時間はほんの瞬間、すでに大鷲は町の空を斜めによぎって、その雄姿を琵琶湖のほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、紙片の落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一念がとどいて、ある原へ舞いおちたものをひろった。
手にとって開いてみれば、芭蕉紙ぐるみの一通の書面。
加賀見忍剣どのへ知らせん この状を手にされし日 ただちに錫杖を富士の西裾野へむけよ たずねたもう御方あらん 同志の人々にも会い給わん
かしん居士
竹童は弱った。しんそこからこまった。大切な手紙を取りおとしては、お師匠さまから、どんなお叱りをうけるか知れないと、かれはあわてて鷲をおろした。そこはうつくしい鳰鳥の浮いている琵琶湖のほとり、膳所の松原のかげであった。
「これクロよ、おいらが手紙をさがしてくるあいだ、後生だから待ってるんだぞ、そこで魚でも取って待っているんだぞ、いいか、いいか」
竹童は鷲にたいして、人間にいい聞かせるとおりのことばを残し、スタスタ松と松のあいだを走りだしてくると、反対にむこうからも息をきって、こなたへいそいできたひとりの武士があった――いうまでもなく山県蔦之助である。
ふたりはバッタリ細い小道でゆき会った。竹童がなにげなく蔦之助の片手をみると、まさしくおとした手紙をつかんでいる。蔦之助もまた、素はだし尻きり衣服に、棒切れを腰にさした、いような小僧のすがたに目をみはった。
「これ子供、子供。……つんぼか、なぜ返辞をせぬ」
「おじさん、おいら子供じゃないぜ」
「なに子供じゃないと、では何歳じゃ」
「九ツだよ。だけれど大人だけの働きをするから子供じゃない、アアそんなことはどうでもいい、おいらおじさんに聞きたいけれど、そっちの手につかんでいるものはなんだい? 見せておくれよ」
「ばかをもうせ。それより拙者のほうがきくが、いましがた、大津の町の上をとんでいた鷲が、ここらあたりでおりた形跡はないか、どうじゃ」
「白ばッくれちゃいけない。その手紙をおだしよ」
「この童めッ、無礼をもうすな」
「なにッ、返さなきゃこうだぞ」
と、竹童からだは小さいが身ごなしの敏捷おどろくばかり、不意に蔦之助に飛びかかったと思うと、かれの手から手紙をひッたくって、バラバラと逃げだした。
「小僧ッ――」と追い討ちにのびた蔦之助の烈剣に、あわや、竹童まッ二つになったかと見れば、切ッ先三寸のところから一躍して四、五間も先へとびのいた。
「きゃつ、ただ者ではない」ととっさにおもった蔦之助は、いっさんに追いかけながら、ピュッと手のうちからなげた流星の手裏剣! それとは、さすがに用心しなかった竹童の踵をぷッつり刺しとめた。
「あッ!」ドタリと前へころんだところを、すかさずかけよってねじつけた、蔦之助の強力。それには竹童も泣きそうになった。
「おじさん、おじさん、なんだっておいらの手紙をそんなにほしがるんだい――苦しいから堪忍しておくれよ。この手紙は大切な手紙だから」
「なんじゃ、ではこの書面は汝が持っていた物か」
「ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ」
「ではいましがた、鷲の上にのっていたのは?」
「おいらだよ、アア、喉がくるしい」
「えッ、そのほうか」
とびっくりして、竹童をだきおこした蔦之助は、しばらくしげしげとかれの姿をみつめていたが、やがて、松の根方へ腰をおろして、心からこのおさない者に謝罪した。
「知らぬこととはもうせ、飛んだ粗相をいたした。どうかゆるしてくれい、そこで、あらためて聞きたいが、御身はその手紙にある果心居士のお弟子か」
「そうだ……」竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろから薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつを踵のきずへはりつけている。
「ではさきごろ、日吉の五重塔へ登っていたのも居士ではなかったか、恥をもうせば、里人の望みにまかせて射たところが、一羽の鷺となって逃げうせた」
「おじさんはむちゃだなあ、おいらのお師匠さまへ矢をむけるのは、お月さまを射るのと同じだよ」
「やっぱりそうであったか、いや面目もないことであった。ところで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にある加賀見忍剣ともうすかたは、ただいまどこにおいでになるのか、また、たずねるお方とはどなたを指したものか、山県蔦之助が頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい」
「いやだ」
竹童はきつくかぶりをふった。
「なぜ?」
「わからないおじさんだナ、なんだって人がおとした手紙のなかをだまって読んだのさ。だからいやだ」
「ウーム、それも重々拙者が悪かった、ひらにあやまる」
「じゃあ話してやってもいいが、うかつな人にはうち明けられない、いったいおじさんは何者?」
「父はもと甲州二十七将の一人であったが、拙者の代となってからは天下の浪人、大津の町で弓術の指南をしている山県蔦之助ともうすものじゃ」
「えッ、じゃあおじさんも武田の浪人か――ふしぎだなア……おいらのお師匠さまも、ずっと昔は武田家の侍だったんだ」
といいかけて竹童は、まえに居士から口止めされたことに気がついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これから、居士の命をうけて武州高尾にいる忍剣のところへいくこと、また過日、小幡民部から通牒がきて、なにごとか伊那丸の身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中にある御方という人こそ信玄の孫武田伊那丸であることまで、残るところなく説明した。
聞きおわった蔦之助は、こおどりせんばかりによろこんだ。武田滅亡の末路をながめて、悲憤にたえなかったかれは、伊那丸の行方を、今日までどれほどたずねにたずねていたか知れないのだ。
「これこそ、まことに天冥のお引きあわせだ。拙者もこれよりすぐに、富士の裾野へむけて出立いたす、竹童とやら、またいつかの時にあうであろう」
「ではあなたも裾野へかけつけますか、わたしもいそがねば、伊那丸さまの一大事です」
「おお、ずいぶん気をつけていくがよい」
「大じょうぶ、おさらばです」
竹童はふたたび鷲の背にかくれて、舞いあがるよと見るまに、いっきに琵琶湖の空をこえて、伊吹の山のあなたへ――。
いっぽう、山県蔦之助は、その日のうちに、武芸者姿いさましく、富士ヶ根さして旅立った。
「まだきょうも空に見えない、ああクロはどうしたろう……?」
毎日高尾の山巓にたって、一羽の鳥影も見のがさずに、鷲の帰るのを待ちわびている者は、加賀見忍剣その人である。
快風一陣! かれを狂喜せしめた便りは天の一角からきた。クロの足にむすびつけられた伊那丸の血書の文字、竹童がもたらしてきた果心居士の手紙。かれははふりおつる涙をはらいつつ、二通の文字をくり返しくりかえし読んだ。
「これを手に受けたらその日に立てとある――オオ、こうしてはいられないのだ。竹童とやら、はるばる使いにきてご苦労だったが、わしはこれからすぐ、伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、鞍馬へ帰ったら、どうかご老台へよろしくお礼をもうしあげてくれ」
「ハイ承知しました。だけれどお坊さん、おいらは少しこまったことができてしまった」
「なんじゃ、お使いの褒美に、たいがいのことは聞いてやる、なにか望みがあるならもうすがよい」
「ううん、褒美なんかいらないけれど、そのクロという鷲はお坊さんのものなんだネ」
「いやいや、この鷲はわたしの飼い鳥でもない、持主といえば、武田家にご由緒のふかい鳥ゆえ、まず伊那丸君の物とでももうそうか」
「ネ、おいら、ほんとをいうと、このクロと別れるのがいやになってしまったんだよ。きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
天真爛漫な願いに、忍剣もおもわず微笑んでそれをゆるした。竹童は大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣に別れを告げるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
間もなく、高尾の奥院からくだってきた加賀見忍剣は、神馬小舎から一頭の馬をひきだし、鉄の錫杖をななめに背にむすびつけて、法衣の袖も高からげに手綱をとり、夜路山路のきらいなく、南へ南へと駒をかけとばした。
ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬ霧のなかから、
「オーイ、オーイ」
と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。しかも、あとからくる者も騎馬と見えて、パパパパパとひびく蹄の音、はて何者かしらと、忍剣が馬首をめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、黒鹿毛にまたがった白衣の男と朱柄の槍を小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる其許たちは」
「おお、いつか裾野の文殊閣で、たがいに心のうちを知らず、伊那丸君をうばいあった木隠龍太郎」
「またわたくしは、巽小文治ともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。忍剣どののおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。じつは我々両名の者は、小太郎山に砦をきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、穴山梅雪の手にかこまれて、きょう裾野へさしかかるゆえ、出会せよという小幡民部どのからの諜状、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、同志のおのおのと落ち会いましたことよ。なにをつつみましょう。まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、富士の裾野」
「忍剣どのも加わるとあれば、千兵にまさる今日の味方、穴山一族の木ッ葉武者どもが、たとえ、幾百幾千騎あろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたを拝しうるは必定です」
「おお、さらば一刻もはやく!」
轡をならべて、同時にあてた三騎の鞭! 一声高くいななき渡って、霧のあなたへ、駒も勇士もたちまち影を没しさったが、まだ目指すところまでは、いくたの嶮路いくすじの川、渺茫裾野の道も幾十里かある。
霧ははれた。そして紺碧の空へ、雄大なる芙蓉峰の麗姿が、きょうはことに壮美の極致にえがきだされた。
富士は千古のすがた、男の子の清い魂のすがた、大和撫子の乙女のすがた。――日本を象徴した天地に一つの誇り。
いまや、その裾野の一角にあって、咲耶子がふったただ一本の笛の先から、震天動地の雲はゆるぎだした。閃々たる稲妻はきらめきだした。
雨を呼ぶか、雷が鳴るか、穴山軍勝つか、胡蝶陣勝つか? 武田伊那丸と小幡民部の民蔵は、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――
胡蝶の陣! 胡蝶の陣!
裾野にそよぐ穂すすきが、みな閃々たる白刃となり武者となって、声をあげたのかと疑われるほど、ふいにおこってきた四面の伏敵。
野末のおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった穴山梅雪入道は、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうく鞍つぼに踏みこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
「退くな。たかの知れた野武士どもがなにほどぞ、一押しにもみつぶせや!」
と、うろたえさわぐ郎党たちをはげました。
音にひびいた穴山一族、その旗下には勇士もけっしてすくなくない。天野刑部、佐分利五郎次、猪子伴作、足助主水正などは、なかでも有名な四天王、まッさきに槍の穂をそろえておどりたち、
「おうッ」
と、吠えるが早いか、胡蝶の陣の中堅を目がけて、無二無三につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。烏合のやつばら、ひとりあまさず、討ってとれ」
と、具足の音を霰のようにさせ、槍、陣刀、薙刀など思いおもいな得物をふりかざし、四ほうにパッとひらいて斬りむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、伊那丸の駕籠をかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
たちまちの乱軍に、梅雪入道がこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、警固の武士はみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある鎖駕籠の屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、別人ならぬ小幡民部であった。
かりにも、乗物の上へ、土足で跳ひあがった罪――ゆるし給え――と民部は心に念じていたが、とは知らぬ梅雪入道、ちらとこの態をながめるより、
「お、新参の民蔵であるな、いつもながら気転のきいたやつ……」
とたのもしそうにニッコリとしたが、ふとまた一ぽうをかえりみて、たちまち顔いろを変えてしまった。
咲耶子がふった横笛の合図とともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それに斬りむかっていった穴山方の郎党もおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう互角の対陣であった。
しかし、一ぽうは勇あって訓練なき野武士のあつまり。こなたは兵法のかけ引き、実戦の経験もたしかな兵である。梅雪入道ならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが形勢はガラリとかわって、なにごとぞ、四天王以下の面々は名もなき野武士の切ッ先にかけまわされ、胡蝶の陣の変化自在の陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、怒りたった入道は、
「ええ腑甲斐のない郎党ども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
両の手綱を左の手にあつめ、右手に陣刀をふりかざしてあわや、乱軍のなかへ馬首をむけてかけ入ろうとした。
とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、お命をいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
声たからかに呼びとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、伊那丸の駕籠の上に立った小幡民部。梅雪はせきこんで、
「やあ、民蔵、汝はなにをもって、さような不吉をもうすのじゃ」
「されば、殿の御身を大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は野武士といいながら、神変ふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち奇兵でござる。あなどってその策におちいるときは、殿のお命とてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの陣法とは」
「伏現自在の胡蝶の陣」
「やぶる手策は?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼし召すか」
「おおさ、年端もゆかぬ女童が指揮する野武士の百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを観望なさるがなにより。おお佐分利五郎次の組子はやぶれた、ああ足助主水正もたちまち袋のねずみ……」
「なんの、余が四天王じゃ、いまにきっと盛り返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
「危ういかな、危ういかな、かしこの窪地へ追いこまれた猪子伴作、天野刑部、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の術中におちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお! 殿にもご用意あれや、早くも伊那丸の駕籠を目がけて、総勢の力をあつめてくるような敵の奇変と見えまするぞ」
「お、お、お、民蔵民蔵、汝になんぞ策はないか」
梅雪のようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の采配を拙者におかしたまわるなら、かならず、かれの奇襲をやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を指揮なすあやしき少女をも生けどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者を救いとらせい」
さしも強情な穴山梅雪も、論より証拠、民部のことばのとおり、味方がさんざん敗北となってきたのを見て、もうゆうよもならなくなったのであろう。こなたへ駒を寄せてきて、小幡民部の手へ采配をさずけた。
「ごめん」
受けとって押しいただいた民部は、駕籠の上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに軍師たるの姿勢をとり、采のさばきもあざやかに、
さッ、さッ、さッ。
虚空に半円をえがいて、風をきること三度。
ああなんという見事さ、それこそ、本朝の諸葛亮か孫呉かといわれた甲州流の軍学家、小幡景憲の軍配ぶりとそッくりそのまま。
「や?」
よもや、新参の民蔵が、その人の一子、民部であろうとは、夢にも知らない梅雪入道、おもわず驚嘆の声をもらしてしまった。
月の夜には澄み、朝は露をまろばせても、聞く人もないこの裾野に、ひとり楽しんでいる笛は、咲耶子が好きで好きでたまらない横笛ではないか。
しかし、その優雅な横笛は、時にとって身を守る剣ともなり、時には、猛獣のような野武士どもを自由自在にあやつるムチともなる。
いましも、小高い丘の上にたって、その愛笛を頭上にたかくささげ、部下のうごきから瞳をはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の化身といおうか、富士の女神とたとえようか、丈なす黒髪は風にみだれて、麗しいともなんともいいようがない。
「アッ――」
ふいに、彼女の唇を洩れたかすかなおどろき。
その眸のかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、穴山梅雪の郎党たちはひとりの武士の采配を見るや、たちまちサッと退いて中央に一列となった。
それは民部の立てた蛇形の陣。
咲耶子はチラと眉をひそめたが、にわかに右手の笛をはげしく斜めにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。――とみた野武士の猛勇は、ワッと声つなみをあげて、蛇形陣の腹背から、勝ちにのって攻めかかった。
そのとき早く、ふたたび民部の采配が、龍を呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は忽然と二つに折れ、まえとは打ってかわって一糸みだれず、扇形になってジリジリと野武士の隊伍を遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい鶴翼の計略」
咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
それは退軍の合図であったと見えて、いままで攻勢をとっていた野武士たちは、一どにどッと潮のごとく引きあげてきたようす。が、民部の采配は、それに息をつく間もあたえず、たちまち八射の急陣と変え、はやきこと奔流のように、追えや追えやと追撃してきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
あまりの口惜しさに、咲耶子はさらに再三再四、胡蝶の陣を立てなおして、応戦をこころみたが、こなたで焔の陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その軍配は孫呉の化身か、楠の再来かと、あやしまれるほど、機略縦横の妙をきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵を次いでくる。
さすがの胡蝶陣に妙をえた咲耶子も、いまはほどこすに術もなくなった。精鋭無比の彼女の部下の刃も、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
「裾野の野武士を根絶やしにしてくれようぞ」
穴山の四天王猪子伴作、足助主水正、その他の郎党は、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち頽勢を盛りかえし、猛然と血槍をふるって追撃してきた。
西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に翻弄されつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げる路はなくなってしまった。
と、咲耶子のいる丘の上から、悲調をおびた笛の音が一声高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた野武士たちの影は、忽然として、草むらのうちにかくれてしまった。胆をけした穴山一族の将卒は、血眼になって、草わけ、小川の縁をかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、野分の風がザアザアと渡るばかり。
狐につままれたようなうろたえざまを、丘の上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ微笑をもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
りんとした声が、どこからか響いてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで采配をとって敵陣にすがたをみせていた小幡民部であった。
「あッ」
さすがの彼女もびっくりして、丘のあなたへ走りだすと、そのまえに、四天王の佐分利五郎次が、八、九人の武士とともに、槍ぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッと鬨の声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
いまはもう四面楚歌だ。絶望の胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は穴山方の薙刀や太刀で、まるで剣をうえた林か、針の山のように、いっぱいにうずまってしまった。
「咲耶子、咲耶子、もういかにもがいても、この八門鉄壁のなかからのがれることはできぬぞ、神妙に縄にかかッてしまえ」
小幡民部は、声をはげましてそういった。
無念そうに、唇をかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた野武士たちを呼びだすつもりか、帯のあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一瞬、
「えい、不敵な女め」
佐分利五郎次が、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった足助主水正が早業にかけられて、あわれ、野百合のような小娘は、情け容赦もなくねじあげられてしまった。
たったひとりの少女を生けどるのに四天王ともある者や、多くの荒武者が総がかりとなったのは、大人げないと恥ずべきであるのに、かれらは大将の首でもとったように、ワッと、勝鬨をあげながら、丘の上からおりていった。
まもなく、馬前へひッ立てられてきた咲耶子をひとめ見た梅雪入道は、鞍の上からはッたとにらみつけて、
「こりゃ小娘ッ、ようも汝は、道しるべをいたすなどともうして、思うさまこの方をなぶりおったな。いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ」
面に朱をそそいで、鞍の上からののしったのち、
「民蔵民蔵」とはげしく呼び立てた。
「はッ」と走りだした小幡民部は、チラと、入道のおもてを見ながら片手をつかえた。
「なんぞご用でござりまするか」
「おお民蔵か、あっぱれなそのほうの軍配ぶり、褒美は帰国のうえじゅうぶんにとらすであろう、ところで、不敵なこの小娘、生かしておけぬ、そちに太刀とりをもうしつくるほどに、余が面前で、血祭りにせい」
「あいや、それはしばしご猶予ねがいまする」
「なに、待てともうすか」
「御意にござりまする。いまこの小娘を血祭りにするときは、ふたたびまえにもてあましたる野武士が、復讐に襲うてくること必定。もとより、千万の野武士があらわれようとて、おそるるところはござらぬが、この小娘をおとりとして、さらに殿のお役に立てようがため、せっかく生捕りにいたしたもの、むざむざここで首にいたすのはいかがとぞんじます」
「奇略にとんだその方のことゆえ、なお上策があればまかせおくが、して、この小娘をおとりにしてどうする所存であるか」
「秘中の秘、味方といえども、余人のいるところでは、ちともうしかねます」
「もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい」
ヒラリと投げてきたのは一面の軍扇。
民部は即座に矢立をとりよせ、筆をとって、サラサラ八行の詩を書き、みずから梅雪の手もとへ返した。
「どれ」と、入道はそれを受けとり、馬上で扇面の文字を読み判じて――
「む、どこまでもそちは軍師じゃの」と膝をたたいて、感嘆した。その秘策とは、すなわち、これから馬をすすめて五湖の底にあるという武田家の宝物御旗楯無をさぐりだし、同時に、伊那丸をもそこで首にしてしまおうというおそろしい献策。
じつは穴山梅雪も、これから甲斐の国へはいる時は、武田の残党もあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためていたところだった。しかし、この富士の裾野なら安心でもあるし、御旗楯無の宝物まで、手にはいれば一挙両決、こんなうまいことはない。すぐまた都へ取ってかえし、家康から、多大の恩賞をうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。
「そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもの……」
梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている民部の献策にまかせて、ふたたび郎党を一列に立てなおし、民部と咲耶子を先にして、裾野を西へ西へとうねっていった。
そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささやいたようであった。かしこい彼女は、黙々として聞えぬふりで歩いていたが、その瞳は、ときどき意外な表情をして民部にそそがれた。そんな、こまかいふたりの挙動は、はるかあとから騎馬でくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。
やがて、裾野の野道がつきて、長い森林にはいってきた。そこをぬけると、青いさざなみが、木の間から見えだした。
「おお湖水へでた! 湖が見えた!」
軍兵どもは、沙漠に泉を見つけたように口々に声をもらした。そのほとりには、小さな社があるのも目についた。つかつかと社の前へあゆみ寄った小幡民部は、「白旗の宮」とあるそこの額を見あげながら、口のうちで、「白旗の宮? ……源家にゆかりのありそうな……」とつぶやいて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろしい血相で、咲耶子をただしはじめた。
「これッ。武田家の宝物をしずめた湖水は、ここにそういあるまい、うそいつわりをもうすと、痛いめにあわすぞ、どうじゃ!」
「は、はい……」咲耶子は、にわかに神妙になって、そこへひざまずいた。
「もうお隠しもうしても、かなわぬところでござります。おっしゃるとおり、御旗楯無の宝物は、石櫃におさめて、この湖のそこに沈めてあるにそういありませぬ」
「まったくそれにちがいないか!」
「神かけていつわりはもうしませぬ」
「よし、よく白状いたした。おお殿さま。ただいまのことばをお聞きなされましたか」
ちょうどそこへ、おくればせに着いた梅雪のすがたをみて、民部が、こういいながら馬上を見上げると、かれは笑つぼに入ってうなずいた。
「聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水からひきあげる手くばりせい」
「はッ、かしこまりました」
民部はいさみ立ったさまをみせて、郎党たちを八ぽうへ走らせた。まもなく、地理にあかるい土着の里人が、何十人となくここへ召集されてきた。そして、狩りだされてきた里人や郎党は、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ鈎綱をおろしながら、あちらこちらと漕ぎまわった。
陸のほうでは穴山梅雪入道が白旗の宮のまえに床几をすえ、四天王の面々を左右にしたがえて悠然と見ていた。
と、かれの貪慾な相好がニヤニヤ笑みくずれてきた。――湖水の中心では、いましも鈎にかかった獲物があったらしい。多くの小船は、たちまちそこに集まって鈎をおろし、エイヤエイヤの声をあわせて、だんだんと浅瀬のほうへひきずってくるようすだ。
伊那丸と忍剣が智慧をしぼって世の中からかくしておいた宝物も、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪入道の床几の前へ運ばれてきたものは、真青に水苔さびたその石櫃。
「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の秘宝もめでたく手に入りました。祝着にぞんじまする」
里人たちに恩賞をやって追いかえしたのち、民部はそばから祝いのことばをのべた。
「そのほうの手柄は忘れはおかぬぞ。この宝物に伊那丸の首をそえてさしだせば、いかにけちな家康でも、一万石や二万石の城地は、いやでも加増するであろう。そのあかつきには、そのほうもじゅうぶんに取りたて得さす」
「かたじけのうぞんじます。しかし、お望みの物が手にはいったからは、いっこくもご猶予は無用、この場で伊那丸を首にいたし、あの鎖駕籠へは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく家康公へおとどけあるが上分別とこころえます」
「おお、きょうのような吉日はまたとない。いかにもこの場できゃつを成敗いたそう、その介錯もそちに命じる! ぬかるな!」
「はッ、心してつとめます」
梅雪の目くばせに、きッとなって立ちあがった民部はすばやく下緒を取って襷となし、刀のつかにしめりをくれた。そのまに、二、三人の郎党は、小船の板子を四、五枚はずしてきて、武田伊那丸の死の座をもうけた。
「これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへならべて、民蔵の腕だめしにさせい。旅の一興に見物いたすもよかろうではないか」
宮の根もとにくくりつけられていた咲耶子は、罪人のように追ったてられて、板子のならべてあるとなりへすえられた。彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほつれ髪もおののかせず、白百合の花そのままな顔をしずかにうつむけている。
いっぽうでは、鎧の音をさせて、ずかずかと迫っていった四天王の面々が、例の鎖駕籠のまわりへ集まり、乗物の上からかぶせてある鉄の網をザラザラとはずしはじめた。
長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆられてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、悪魔の断刀をうけねばならぬこととなった。四天王の天野刑部は、ガチャリ、ガチャリと荒々しく錠の音をさせて、駕籠の引き手をグイとおし開け、
「伊那丸、これへでませいッ」と、涙もなく、ただの罪人でも呼びだすようにどなった。
が――駕籠のなかは、ひっそりとして音もない。
「やい、伊那丸、さッさとこれへでてうせぬか」
猪子伴作は、次にこうわめきながら、駕籠の扉口を土足ではげしくけとばした。と、足もとが、不意に軽くすくわれたので、伴作はあッといってうしろへよろめく。
すわ!
殺気はたちまちそこにはりつめた。天野、佐分利、足助の三人は、陣刀のつかを握りしめつつ、駕籠口へ身がまえた。
「おお夜が明けたようだ……」
つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや拍子ぬけがしたらしい。
「歩けッ」
左右からせきたてて、小船の板子をしいた死の座へ伊那丸をひかえさせた。そして床几にかけた梅雪に目礼をしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま――」
「あ! そなたは」
席をならべて伊那丸と咲耶子は、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな疑惑に胸をつつまれながら、眸をそらして、こんどはきっと、入道の顔をにらみつけた。――梅雪もまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで窮屈であったろうが、いますぐ楽にさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
と、にくにくしい毒口をたたいた。
「さて大人気ない武者どもよ――」
伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりの命をとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。冥土におわす祖父信玄やその他の武将たちによい土産話、甲州侍のなかにも、こんな卑劣者があったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、民蔵、早々この童の息のねをとめてしまえ!」
梅雪は、号令した。
声におうじて、
「はッ」と、武者ぶるいして立ちあがった民部は、伊那丸のうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき業刀をスラリと腰からひきぬいた。
「お覚悟なさい! 太刀取りの民蔵が君命によってみ首はもうしうけた」
「…………」
覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一糸とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
正面の梅雪入道をはじめ、四天王以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
湖水の波も心あるか、冷たい風を吹きおこして、松の梢にかなしむかと思われ、陽も雲のうちにかくされて、天地は一瞬、ひそとした。
そのとき、民部の口からかすかな声。
「八幡」
水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白い頸をねらいすました。――と、そのするどい眼気が、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
武田伊那丸の首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった小幡民部、
「悪逆無道の穴山入道、天罰の明刀をくらえ!」
耳をつんざく声だった。
ふいをくった梅雪は、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、眉間をかすめた剣光に眼もくらんで、
「わーッ」額の血しおを両手でおさえたまま、床几のうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
「曲者」愕然と、おどりあがった四天王たち。同時に、その余の群猛も渦をまいて、
「うぬッ、気が狂ったかッ」
「裏切者ッ――退くな」
とばかり、一どに総立ちになるやいなや、民部の上へ、どッとなだれを打ってきた剣の怒濤。
梅雪入道は、みだれ立つ郎党たちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は武田の残党だッ。伊那丸を逃がすなッ」
と絶叫した。
民部はその姿をおって、
「おのれッ」
無二無三に斬りつけようとしたが、佐分利五郎次にささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。そのあいだに、天野、猪子、足助などが、鉾先をそろえてきたため、みすみす長蛇を逸しながら、それと戦わねばならなかった。
いっぽう、民部にかかりあつまった雑兵は、伊那丸のほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、咲耶子が、腰の縄を切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。早く早く」
と、よりたかる武者二、三人を斬りふせながらせきたてた。
とたんに背なかから、一人の武者がかぶりついた。伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へ槍をつけていた武者を斬ってすてた。
すべては一瞬の間だった。
伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。穴山がたの郎党も、たがいに目から火をだしての狼狽だった。そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしも命は惜しく、八ぽうへワッと飛びのく。――
ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と懐剣を二方にきっとかまえている。
目にあまるほどの敵も、うかと近よる者もない。ただわアわアと武者声をあげていた。すると、あなたから加勢にきた四天王の足助主水正。
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
大身の槍に行き足つけて、伊那丸の真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
伊那丸の身は、その槍先に田楽刺しと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
片足を宙にあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の太刀に千段を切りおとされて、無念、手にのこったのは穂をうしなった半分の柄ばかり。
「やッ」
捨鉢に柄を投げつけた。そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの雑兵をきりちらして、湖畔のほうへ疾風のようにかけだした。
そこには、白旗の宮のまえから、追いつ追われつしてきた小幡民部が、穴山の旗本雑兵を八面にうけて、今や必死に斬りむすんでいる。
しかし、小幡民部は、こうした斬合はごく不得手であった。太刀をもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
けれど、軍配をもって陣頭に立てば、孫呉のおもかげをみるごとくであり、帷幕に計略をめぐらせば、孔明も三舎を避ける小幡民部が、太刀打ちが下手だからといっても、けっしてなんの恥ではない。かれの偉さがひくくなるものではない。民部の本領はどこまでも、奇策無双な軍学家というところにあるのだから。
だが、それほど智恵のある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと伊那丸を救わないのか。
民部ははじめ、こう考えた。
穴山梅雪の領内、甲州北郡の土地へはいってからでは、伊那丸を助けることはよういであるまい。これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって鞍馬の果心居士、小太郎山の龍太郎、小文治などの同志へ通牒をとばしておいた。
ところが、裾野へかかってきた第一日に、咲耶子という意外なものがあらわれた。かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは伊那丸君を救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の警固には、四天王をはじめ、手ごわい旗本や郎党が百人近くもついているので、あくまで入道をゆだんさせるため、奇計をもって咲耶子を生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
ところが、民部の心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、驚天動地の火ぶたを切ったのである。
致命傷にはなるまいが、怨敵梅雪へは、たしかに一太刀手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、伊那丸君をすくいだそうと民部は心にあせった。しかし、まえにも、いったとおり、剣を持っては万夫不当のかれではないから、無念や、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四天王の天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
天野刑部は月山流の達者とて、刃渡り一尺四寸の鉈薙刀をふるってりゅうりゅうとせまり、佐分利五郎次は陣刀せんせんと斬りつけてくる。その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息を吐きながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうは湖、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったく袋のねずみだ、背水の陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。猪子伴作は伊那丸のほうへいってくれ」
「おお承知した」
天野刑部の声にこたえた伴作は、笹穂の槍をヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。ところへ、いっさんにかけだしてきたのは伊那丸と咲耶子、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八合槍と太刀の秘術をくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから足助主水正、その他の郎党が嵐のような勢いで殺到した。
あなたでは民部の苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、腹背の敵にはさみ討ちとされている。二ヵ所の狂瀾はすさまじい旋風のごとく、たばしる血汐、丁々ときらめく刃、目も開けられない修羅の血戦。
三つの命は刻々とせまった。
そのころから、秀麗な富士の山肌に、一抹の墨がなすられてきた、――と見るまに、黒雲の帯はむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、澄みわたっていた空いちめんにさわがしい色を呈してきた。
雲団々、陽はたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち下界にもうつって、修羅のさけびをあげている湖畔の渦は、しんに凄愴、極致の壮絶、なんといいあらわすべきことばもない。
おりしもあれ!
はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
画面点景の寸馬豆人そのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで湖畔をはしってくる。それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、陽がかげるとともに、暗澹たる蘆のそよぎに見えなくなる。
そも何者?
おお、いよいよ奔馬は近づいてきた。しかもそれは一騎ではない。あとからつづくもう一騎がある。
いや、さらにまた一騎。
まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと疾風、その軽きことかける天馬かとあやしまれる。
わーッ、わーッと湖畔にあがったどよみごえ。
さては伊那丸がとらえられたか、咲耶子が斬られたか、あるいは、小幡民部がたおれたのであろうか。
いやいや、そうではなかった。――一声たかくいなないた駒のすがたが、忽然とそこへあらわれたがため。
まッ先におどりこんできたのは、高尾の神馬、月毛の鞍にまたがった加賀見忍剣、例の禅杖をふりかぶって真一文字に、
「やあやあ、お心づよくあそばせや伊那丸さま! 加賀見忍剣、ただいまこれへかけつけましたるぞッ。いでこのうえは穴山一族のヘロヘロ武者ども、この忍剣の降魔の禅杖をくらってくたばれ!」
天雷くだるかの大音声。
むらがる剣を雑草ともおもわず、押しかかる槍ぶすまを枯れ木のごとくうちはらって、縦横無尽とあばれまわる怪力は、さながら金剛力士か、天魔神か。
時をおかず、またもやこの一角へ、どッと黒鹿毛の馬首をつッこんできたのは、これなん戒刀の名人木隠龍太郎、つづいて、朱柄の槍をとっては玄妙無比な巽小文治のふたり。
紫白の手綱を、左手に引きしぼり、右手に使いなれた無反りの一剣をひっさげた龍太郎は、声もたからかに、
「それにおいであるのは小幡民部殿か。木隠龍太郎、小太郎山よりただいまご助勢にかけむかってまいったり。木ッ葉武者どもは、拙者がたしかに引きうけもうしたぞ」
黒鹿毛の蹄をあげて、無二無三にかけちらしながら、はやくも鞍上の高きところより、右に左に、戒刀をふるって血煙をあげる。
「いかに穴山入道はいずれにある。巽小文治が見参、卑劣者よ、いずれにまいったか」
十方自在の妙槍をひッ抱え、馬に泡をかませながら、乱軍のうちを血眼になって走りまわっていたのは小文治である。
「うぬ、小ざかしい、いいぐさ」
その姿をチラと見て、まッしぐらにかけよってきた四天王の猪子伴作は怒喝一番、
「素浪人ッ」
さッと下から笹穂の槍を突きあげた。
「おうッ」と横にはらって返した朱柄の槍。
人交ぜもせずに、一騎打ちとなった槍と槍は、閃光するどく、上々下々、秘練を戦わせていたが、たちまち、朱柄の槍さきにかかって、猪子伴作は田楽刺しとなって、草むらのなかへ投げとばされた。
と、白旗の宮の裏から、よろばいだした法師武者がある。こなたの混乱に乗じて、そこなる馬に飛びつくや否、死にものぐるいであなたへむかって走りだした。
オオそれこそ、さきに一太刀うけて、さわぎのうちにどこかへもぐりこんでいた梅雪入道ではないか。
「やッ、きゃつめ!」
こなたにあって、天野刑部の大薙刀と渡りあっていた木隠龍太郎は、奮然と、刑部を一刀の下に斬ってすて、梅雪の跡からどこまでも追いかけた。
ピシリ、ピシリ、ピシリ! 戒刀の平を鞭にして追いとぶこと一町、二町、三町……だんだんと近づいて、すでに敵のすがたをあいさることわずかに十七、八間。
すると、何者が切ってはなしたのか、梅雪の馬のわき腹へグサと立った一本の矢、いななく声とともに、人もろとも馬はどうと屏風だおれとなった。
行く手の丘に小高いところがあった。そこの松の切株の上に立っていたひとりの武芸者は、いななく馬の声をきくと、弓を小わきに持ってヒラリと飛びおりてきた。
征矢にくるった馬の上から、もんどり打っておとされた穴山梅雪は、朱にそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、無我夢中のさまで、道もない雑木帯へ逃げこんだ。
しずかなること一瞬、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた蹄鉄のひびき、天馬飛空のような勢いをもって乗りつけてきたのは木隠龍太郎である。怨敵梅雪が道なきしげみへ逃げこんだと見るや、ヒラリと黒鹿毛を乗りすてて右手なる戒刀を引ッさげたまま、
「卑怯なやつ、未練なやつ、一国の主ともあろうものが恥を知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
と呼ばわりながら、身を没するような熊笹のなかを追いのぼっていった。
だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、命が助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、猿かむささびか雷鳥か、上なる岩のいただきから一足とびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと驚異のものを見なおすとともに、これこそ天来のすくいか、地獄に仏かとこおどりした。それはたくましい重籐の弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる武芸者であるから。
梅雪は本能的にさけんだ。
「おおよいところで! 余は甲州北郡の領主穴山梅雪じゃ、いまわしのあとより追いかけてくる裾野の盗賊どもを防いでくれ、この難儀を救うてくれたら、千石二千石の旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、余がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の出世の蔓は、いまとせまったわしの危急を救ってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき武芸者は、その頬ぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどの宝を捧げてこようと、なんで汝らごとき犬侍のくされ扶持をうけようか、たいがいこんなことであろうと、汝の逃足へ遠矢を射たのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
絶望、驚愕、憤怒!
奈落へ突きのめされた梅雪は、あたかも虎穴をのがれんとして、龍淵におちたような破滅とはなった。もうこのうえはいちかばちか、命はただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな! 老いたりといえども穴山梅雪、その素ッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、片腹いたい臆病者のたわ言こそ、あわれあわれ、もう汝の天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
死身の勇を奮いおこした梅雪の手は、かッと、陣刀の柄に鳴って、あなや、皎刀の鞘ばしッて飛びくること六、七尺! オオッとばかり、武芸者のまッこうのぞんで斬り下げてきた。
「笑止や、蟷螂の斧だ」
ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ気色もなく身をかわして、左手に持った弓の弦がヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、熊笹の根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
すかさずその襟がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎の姿をみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君のお身内でござらぬか」
「オオ!」
びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ武芸者のことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお傅人、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、貴殿は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法師武者のすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、山県蔦之助が伊那丸君へ、初見参のごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
いうかと思えば、若き武芸者――それはかの近江の住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道の体に双手をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、丘の下へ、投げとばしてきた。
スポーンと紅葉の茂りへおちた梅雪のからだは、

「山県蔦之助どのとやら、まことにかたじけのうござった。そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて初見参のお引出もの、たしかにちょうだいつかまつった。お礼は伊那丸さまのご前にまいったうえにて」
「拙者もすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
「委細承知、はや、まいられい!」
ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきた駒のところへと、いっさんにかけおりていった。
と、同時に、上からも身軽にヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
龍太郎は、黒鹿毛にまたがって、鞍壺のわきへ、梅雪をひッつるし、一鞭くれて走りだすと、山県蔦之助も、遅れじものと、つづいていく。
一ぽう、白旗の宮の前では、穴山の郎党たちは、すでにひとりとして影を見せなかった。そこには凱歌をあげた忍剣、小文治、民部、咲耶子などが、あらためて、伊那丸を宮の階段に腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがたはみな、紅葉を浴びたように、点々の血汐を染めていた。勇壮といわんか凄美といわんか、あらわすべきことばもない。
なかでも忍剣は、疲れたさまもなく、なお、綽々たる余裕を禅杖に見せながら、
「木ッ葉武者はどうでもよいが、当の敵たる穴山入道を討ちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで拙者が一太刀くれたと思いましたが」
と小幡民部も、無念なていに見えたけれど、伊那丸はあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく龍太郎のすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、傷手でもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。すると、咲耶子は耳ざとく駒の蹄を聞きつけて、
「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。オオ、なにやら鞍わきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
「穴山梅雪?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
「龍太郎どの手柄じゃ、でかしたり、さすがは木隠」
口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、忍剣は、ほとんど児童のように狂喜して、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ梅雪をほうりやって、手綱さばきもあざやかに鞍の上から飛びおりた。
「それッ」
待ちかまえていた一同の腕は、期せずして、梅雪のからだにのびる。いまはいやも応もあらばこそ、みにくい姿をズルズルと伊那丸のまえへ引きだされてきた。
民部は、その襟がみをつかんで、
「入道ッ、面をあげろ」と、いった。
「むウ……ム、残念だッ」
穴山梅雪は眉間を一太刀割られているうえに、ここまでのあいだに、いくどとなく投げられたり鞍壺にひッつるされたりしてきたので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。
「まて民部、手荒なことをいたすまい」
もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったので、民部も忍剣も、意外な顔をした。
伊那丸はしずかに、階段からおりて、梅雪入道の手をとり、宮の板縁へ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。
「いかに梅雪、いまこそ迷夢がさめたであろう、わしのような少年ですら、甲斐源氏を興さんものと、ひたすら心をくだいているのに、いかにとはいえ、二十四将の一人に数えられ、武田家の血統でもある其許が、あかざる慾のためにこのみにくき末路はなにごと。それでも甲州武士かと思えば情けなさに涙がこぼれる。いざ! このうえはいさぎよく自害して、せめて最期を清うし、末代未練の名を残さぬようにいたすがよい」
「ええうるさいッ」梅雪はもの狂わしげに首をふって、――「余に自害せいとぬかすか、バカなことを!」
「なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれることはなるまいが」
「なろうとなるまいと、汝らの知ったことか。こりゃ伊那丸、縁からいえば汝の父勝頼の従弟、年からいっても長上にあたるこの梅雪に、刃を向ける気か、それこそ人倫の大罪じゃぞ」
「それゆえにこそこのとおり、礼をただして迎え、自害をすすめ、本分をとげさせんといたすものを、さりとは未練なことば」
「いや、もう聞く耳もたぬ」
「では、どうあっても自害せぬか」
「いうまでもない。余は汝らの命によって、死ぬわけがない。死ぬるのはいやだ!」
「アア、救いがたき卑劣者――」
伊那丸は空をあおいで長嘆してのち、
「このうえはぜひもない……」とつぶやくのを聞いた梅雪は、伊那丸の命令がくだらぬうち、先をこして、やにわに鎧どおしをひき抜き、
「童ッ! 冥途の道づれにしてくれる」
猛然とおどりかかッて、伊那丸の胸板へ突いていったが、ヒラリとかわして凛々たる一喝の下。
「悪魔ッ」
パッと足もとをはらうと見るまに、五体をうかされた梅雪は、板縁の上から輪をえがいて下へ落とされた。
「人非人、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令一下に、
「はッ」
声におうじてくりだした巽小文治の朱柄の槍、梅雪の体が地にもつかぬうちにサッと突きあげ、ブーンと一ふりふってたたき落とした。そこをまた木隠龍太郎の一刀に、梅雪の首は、ゴロリと前に落ちた。
「それでよし、死骸は湖水の底へ」
板縁に立って、伊那丸はしずかに目をふさいでいう。
折から山県蔦之助もかけつけた。あらためて伊那丸に志をのべ、一同にも引きあわされて、一党のうちへ加わることになった。
ポツリ、ポツリ、大粒の雨がこぼれてきた。空をあおげば団々のちぎれ雲が、南へ南へとおそろしいはやさで飛び、たちまち、灰色の湖水がピカリッ、ピカリッと走ってまわる稲妻のかげ。
濛々たる白い幕が、はるか裾野の一角から近づいてくるなと見るまに、だんだんに野を消し、ながき渚を消し、湖水を消して、はや目の前まできた。と思う間もあらせず、ザザザザザザザアーッと盆をくつがえすという、文字どおりな大雨の襲来。
めでたく穴山梅雪を討ちとりはしたが、離散して以来のつもる話もあるし、これからさきのそうだんもある折から、爽快なる大雨の襲来は、ちょうどいい雨宿りであろうと、一同は、白旗の宮のあれたる拝殿に入り、そして伊那丸を中心に、しばらく四方の物語にふけっていた。
武州高尾の峰から、京は鞍馬山の僧正谷まで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅の味を、竹童はとても忘れることができない。
果心居士のまえに、首尾よくすましたお使いの復命をしたのち、その晩、寝床にはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、琵琶湖だの伊吹山だの東海道の松並木などがグルグル廻って見えてきて、いくら寝ようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お師匠さまは意地悪だから、なかなか飛走の術なんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行自在な友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……天狗の腰掛松につないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがって啼いてるだろうナ。アアもう一ど、クロの背なかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
「竹童竹童」となりの部屋で果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ寝言をいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
竹童はそら鼾をかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ頭脳明晰になるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、鷲の背なかで旅をした味をしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし明日はひとつなにかでこらしておいてやろう」
いながらにして百里の先をも見とおす果心居士の遠知の術、となりの部屋に寝ている竹童のはらを読むぐらいなことはなんでもない。
とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、亀の子のようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お師匠さまはあのとおりな鼾、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
ほそっこい帯をチョコンとむすび、例の棒切れを腰にさして、ゆうべ食べのこした木の芽団子をムシャムシャほおばりながら、猿のごとく荘園をぬけだした。
そのはやいことは、さながら風!
空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの岩穴からムクムクと白いものを噴いている、朝の霧である。竹童のあわい影が平地から崖へ、崖から岩へ、岩から渓流へと走っていくほどに、足音におどろかされた狼や兎、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと右往左往に逃げまわる。
いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお師匠さまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
やがて、瘤ヶ峰のてッぺんにある、天狗の腰掛松の下にたった竹童は、素ッ頓狂な声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太い縄でしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から大粒の涙をポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ居士が扇子をなげて鷲を呼びよせた幻術をおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
竹童はもう目の色かえて一心である。呪文はわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと気合を入れて虚空へ投げる。
棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、奇妙奇妙」竹童は嬉しさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、間の谷を、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。竹童が有頂天となったのもむりではない。
まもなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から大阪、大阪から奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで箱庭のような下界の地面がみるみるながれめぐってゆく。そのあげくに、ふと思いついたのは、おととい忍剣のいったことばである。
「オオそうだ、なんでもきょうあたりは、富士の裾野に大そうどうがあるはずだ。おいらはまだ生まれてから戦いというものをみたことがない。これから一つ裾野までとんでいって、勇ましいところを空から見物してやろう」
つねづね、果心居士からよくお叱言ばかりいただいているくせに、竹童はもう鞍馬山へ帰るのもわすれて、こんな大望をおこした。思いたっては、矢も楯もたまらないかれだった。すぐその足で、富士の姿を目あてに鷲をとばした。いかなる名馬で地を飛ぶよりも、こうして空中を自由に飛行する快味は、まるでじぶんがじぶんでなく、生きながら、神か仙人になったような愉快さである。――だが、ここまできたときとちがって、鷲はそれから先一向竹童の自由にならない。富士の裾野とは方角ちがいな、北へ北へと向かって、勝手に雲をぬってとぶ。
「やい、クロ。そんなほうへいくんじゃない、こらッ、こらッ、こらッ!」
竹童はあわてて、いくどもいくども、方向をかえようとしたが、さらにききめがなく、地上へもどらんとしても、いつものようにスラスラと降りてもくれない。ああいったいこれはどうしたことだ。
「チェーッ、畜生、畜生、畜生」
かれはクロの上でかんしゃくをおこし、じれだし、最後にベソをかきだした。
そもそも今日は竹童にとっていかなる悪日か、ベソをかくことばかり突発する日だ。しかし、そう気がついてももうおそい、いくら泣いてもわめいても、鷲に一身をたくして雲井の高きにある以上、クロの翼がつかれて、しぜんに大地へ降りるのをまつよりほかはない。それはまだよかったが、泣き面に蜂、つづいておそるべき第二の大難が起ってきた。
すでに今朝から陰険な相をあらわしていた空は、この時になって、いっそうわるい気流となり、雷鳴とともに密雲の層はだんだんとあつくなって、呼吸づまるような水粒の疾風が、たえず、さっさっとぶっつかってきた。
そして、鷲が雲より低くいくときは、滝のごとき雨が竹童の頭からザッザとあたり、上層の雲にはいるときは白濛々の夢幻界にまよい、髪の毛も爪の先も、氷となって折れるような冷寒をかんじる。しかも、クロはこの難行苦行にも屈する色なく、なおとぶことは稲妻よりもはやい。
すると漠々たる雲の海から、黒い山脈の背骨がもっこりと見えだした。竹童はどうにかして、ここから降りようと苦策を案じ、いきなり手をのばして鷲の両眼をふさいでしまった。
人間でも目をふさいでは歩けないから、こうしてやったらきっと止まるだろうという、竹童が必死の名案、はたせるかな鷲もおどろいたさまで、糸目のくるった凧のようにクルクルッとめぐりまわりだした。かれの計略が図にあたって急に元気よく、
「もうこっちのものだぞ、しめた、しめた」
とよろこんだが、あわれそれも束の間。
たちまち鳴りはためいた雷が、かれの耳もとをつんざいた一せつな、下界にあっては、ほとんどそうぞうもつかないような朱電が、ピカッピカッと、まつげのさきを交錯したかと思うまもあらばこそ。
「あッ」
といった竹童のからだは、おそるべき稲妻の震力にあって、鷲の背なかからひッちぎられた、そしてまッさかさまとなって、いずことも知れぬ下へ一直線におちていくなと見る間に――追いすがった鷲の嘴は、いきなりパクリと竹童の帯をくわえ、わらか小魚でもさらっていくように、そのまま、模糊とした深岳の一角へ、ななめさがりにかけりだした。
「ア痛、アイタタタッ……」
跛をひきながら、草むらよりころげだしたのは竹童である。地上二、三十尺のところまできて、ふいに鷲の嘴からはなされたのだ。
これが尋常の者なら、悩乱悶絶はむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、山気をうけた一種の奇童、三歳児のときから果心居士にそだてられて、初歩の幻術や浮体の秘法ぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオ痛い。クロの野郎め、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アア痛、痛、痛、畜生畜生、どうするか覚えていろ!」
腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、翼をやすめているではないか。
「けッ、癪にさわる!」
竹童はいきなり帯の棒切れをひッこ抜き、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の本性をあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみと爪をさかだってきた。
「こいつめッ、生意気においらにむかってくる気だな」
とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお師匠さま?」
さらぬだに目玉の大きい竹童が、瞳をみはってあきれ返った。なんと、鷲とおもって打っていたのは、鞍馬におるはずのお師匠さま、果心居士ではないか。
ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと棒切れをすてて、地べたへ額をすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんな胆をつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、仕置はさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから富士の人穴へいって、そこに住みおる和田呂宋兵衛という賊のかしらに会うのじゃ。しかし容易なことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
と居士はあかざの杖をもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりして旨をふくませたのち、
「よいか、そこで呂宋兵衛が、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の白旗の宮におわす、武田伊那丸君その余のかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお師匠さま」
「鷲がいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
竹童はそこでやっと落着いて、あたりの景色を見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
いま、さしもの豪雨もやんで、空は瑠璃いろに澄んできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも天然の一城廓をなして、どこかに人工のあとがある。
すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるような響きもしてきた。竹童はこの深山に妙だなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、天斧の石門、蜿々とながき柵、谷には桟橋、駕籠渡し、話にきいた蜀の桟道そのままなところなど、すべてはこれ、稀代な築城法の人工を加味した天嶮無双な自然城だ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんな砦があるのだろう」
竹童はふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが居士のそばにちゃんとひかえている。
「竹童、早々したくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお師匠さま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった一言、いったいここはどこの何山で、だれのもっている砦でございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする褒美として聞かしてやろう。ここは甲斐と信濃と駿河の堺、山の名は小太郎山」
「え、小太郎山」
「砦にこもる御方はすなわち武田伊那丸さまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる根城となるのでございますか」
ふかいわけはわからないが、竹童はそう聞いて、なんとなく胸おどり血わいて、じぶんも、甲斐源氏の旗上げにくみする一人であるように勇みたった。
富士の裾野に、数千人の野武士をやしなっていた山大名の根来小角は亡びてしまった。しかし、野盗の巣である人穴の殿堂はいぜんとして、小角の滅亡後にも、かわっている者があった。すなわち、和田呂宋兵衛という怪人である。
あれほどしたたかな小角が、どうして亡されたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、――つまり飼い犬に手をかまれたのと同じことだ。
呂宋兵衛というのは、仲間の異名である。
かれは、和田門兵衛という、長崎からこの土地へ流れてきた南蛮の混血児であった。右の腕には十字架、左の腕には呂宋文字のいれずみをしているところから、野武士の仲間では門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また碧瞳紅毛、金蜘蛛のようなこの魁偉な容貌にも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
呂宋兵衛は富士の人穴へきてから、たちまち小角の無二の者となった。かれの父が、南蛮人のキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから修道者となり、いわゆる、切支丹流の幻術をきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
しかし根が邪悪な呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって陰謀をたくらみ、策をもって、小角を殺し、配下の野武士を手なずけ、人穴の殿堂を完全に乗っ取ってしまった。
小角のひとり娘の咲耶子は、あやうく父とともに、かれの毒手にかかるところだったが、節を変えぬ七、八十人の野武士もあって、ともに裾野へかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角の霊をなぐさめなければならぬと、毎日広野へでて、武技をねり、陣法の工夫に他念がなかった。
――その健気な乙女ごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう伊那丸と一党の人々に落ちあうことができた。
かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、侠勇勃々たる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることを辞せぬであろう。
一ぽう、山大名の呂宋兵衛は裾野へかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の諜者をはなっている。
きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら野馬をとばして人穴へかえってきた三人の諜者は、すぐ呂宋兵衛のまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を注進した。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、琥珀の盃を手からおとし、さらに、諜者のさぐってきたちくいち――伊那丸と咲耶子のうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと恐怖的になった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪を討ちとり、また湖水の底から宝物の石櫃を取りだしたというのか。あのなかの御旗楯無は、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは必定だ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ手配りして、要所要所を厳重にかためろ」
立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた野武士のひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の残党が二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、湖畔で伊那丸のために討ちもらされた落武者だろう。こんなときには、少しのやつも味方の端だ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
「承知しました」
とひッ返した手下の者は、やがて、殿堂の広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。呂宋兵衛は上段の席から鷹揚にながめて、
「富士浅間の山大名和田門兵衛は身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは拙者は、穴山の四天王足助主水正ともうしまする者」
「また某は、佐分利五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、伊那丸与党の奸計にかかり、主君の梅雪は討たれ、われわれ四天王のうちたる天野、猪子の両名まであえなき最期をとげました」
「その儀はいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、甲斐へかえるも都へかえるも詮なきこと、追腹きって相果てようかと思いましたが、それも犬死、ことによるべなき残り二、三十人の郎党どもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この山寨におとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は相身たがい、かならずお力になりもうそう」
呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた郎党を二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる僥倖、かれは足助と佐分利に客分の資格をあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の開催をふれだした。
妖韻のこもった鐘がゴーンと鳴りわたると、鎧を着た者、雑服の者、陸続として軍議室にはいってくる。
そこは四面三十七間、百二十畳の籐の筵をしき、黒く太やかな円柱左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中陰惨としてうす暗く、昼から短檠をともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、呂宋兵衛の腹心の強者ぞろい。
「わらうべし、わらうべし、乳くさい伊那丸や咲耶子などが、烏合の小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。拙者に二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
破鐘のような声でいう者がある。
見れば山寨第一の膂力、熊のごとき髯をたくわえている轟又八だった。すると一ぽうから、軍謀第一のきこえある丹羽昌仙がしかつめらしく、
「おひかえなさい轟、敵をあなどることはすでに亡兆でござるぞ。伊那丸は有名なる信玄の孫、兵法に精通、つきしたがう傅人もみな稀代の勇士ときく。すべからくこの天嶮に拠って、かれのきたるところを策によって討つが上乗」
「やアまた、昌仙の臆病意見、富士の山大名ともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四隣の国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめ捕るこそ、上策」
「いや小勢とはいいながら、かれは智あり仁あり勇ある者ども。平野の戦はあやうし、あやうし」
「くどい、拙者はどこまでも討ってでる」
「だまれ轟、まだ衆議も決せぬうちに、僭越千万な」
両名の争論につづいて、一統の意見も二派にわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ――
これまた何たる皮肉! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、雷獣のような一個の奇童がある。
「や!」
「あッ」
「なにやつ?」
あまりのことに一同は、しばらく開いた口もふさがらず、ヒョッコリ庭先にたった、面妖な子供をみつめるのみ。子供とはいうまでもない竹童で、人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せた。
「やア、この人穴には、ずいぶんお侍が大勢いるんだなあ。おじさんたちは、いったいそこでなにをしているんだい」
「バカッ」
いきなり革足袋のままとびおりた轟又八、竹童の襟がみをおさえて、
「こらッ、きさまは、どこの炭焼きの餓鬼だ、またどこのすきまからこんなところへしのびこんでまいった」
「しのびこんでなんかきやしないよ、アア苦しいや、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことをぬかせ、しのびこまずにこらるべきところではない」
「だっておいらは空からおりてきたんだもの、空はいきぬけだから、ツイきてしまったんだよ」
「なに、空から? ――」
人々は思わず、物騒らしい顔を空にむけた。
そして、再び奇怪なる少年の姿を見なおし、こいつ天狗の化身ではあるまいかと、舌をまいた。はるかにながめた、呂宋兵衛は、
「これこれ又八、とにかくふしぎな童、おれが素性をただしてみるから、これへ引きずってこい」
「はッ」と、又八は、かるがると竹童をひッつるして席へあがり、呂宋兵衛のまえへかれをほうりだした。
なみいる人々は、鬼のごとき武骨者ばかりで、あたりは大伽藍のような暗殿である。大人にせよ、この場合、生きたる心地はなかるべきだが、竹童はケロリとして、
「ヤ、呂宋兵衛は混血児だ。京都の南蛮寺にいるバテレンとそっくり……」
口にはださないがめずらしそうに目をみはったので、呂宋兵衛は、
「小僧ッ」とにらんで、一喝あびせた。
「なんだい、おいらにゃ、竹童っていう名があるんだよ」
「だまれ、さっするところそのほうは、伊那丸からはなされた隠密にちがいない、思うに、屋根の上にいて、ただいまの評定をぬすみ聞きしたのであろう」
「知らない知らない。おいらそんなことを知ってるもんか」
「いいや、汝の眼光、樵夫や炭焼きの小僧でないことはあきらかだ。いったい何者にたのまれてここへまいった。首の飛ばないうちにいってしまえ!」
「おいらが隠密なら、おじさんたちに、すがたなど見せるものか、おいらは、天道さまのまえだろうが、どこだろうが、ちっともうしろ暗いところがないから、平気さ」
「うーム、まったくそれにそういないか」
「アア。そこになるとおじさんたちはかわいそうだね、もぐらみたいに明るいところをいばって歩けない商売だから、おいらみたいな、ちびが一ぴきとびこんでも、その通りびくびくする」
不敵な竹童の面がまえを、じッとみつめていた呂宋兵衛は、ことばの糺問は無益と知って、口をつぐみ、黙然と右手の人さし指をむけ、天井から竹童の頭の上へ線をかいた。
「おや」
と竹童が、なにやらさわるものに手をやると、上より一すじ絹糸のようなものがたれ、襟くびから手にはいまわってきたのは一ぴきの金蜘蛛だった。
キャッというかと思えば、竹童はニッコリ笑っていきなり、蜘蛛を鷲づかみにし、あんぐり口のなかへほおばって、ムシャムシャ噛みつぶしてしまったようす。
「む、む……」と、呂宋兵衛はいよいよゆだんのない目で、かれの一挙一動をみまもっていると、竹童は唇をつぼめて、噛みためていたなかのものを、
「プッ――」と呂宋兵衛の顔を目がけて吹きつけた。
――その口からとびだしたのは、きたないかみつぶしではなくて、美しい一羽の毒蝶、ヒラヒラと毒粉を散らした。
「エイッ」
呂宋兵衛が扇をもって打ちおとせば、蝶の死骸はまえからそこにあった一片の白紙に返っている。
「わかった、きさまは鞍馬山の果心居士の弟子だな」
「だから、竹童という名があるといったじゃないか」
「さてこそ、ものにおどろかぬはず、しかし有名なる果心居士の弟子が、富士の殿堂と知らずに、くるわけがない、なんのご用か、あらためて聞こうではないか」
「ムム、そう尋常におっしゃるなら、わたくしもお師匠さまから受けたお使いのしだいをすなおに話しましょう」
「では、果心先生から、この呂宋兵衛へのお使いでござるか」
「そうです。さて、お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく鞍馬から富士のあたりをみましたところ、いちまつの殺気が立ちのぼって、ただならぬ戦雲のきざしが歴々とござりました。あらふしぎ、いま天下信長公の亡きのちは、西に秀吉、東に徳川、北条、北国に柴田、滝川、佐々、前田のともがらあって、たがいに、中原を狙うといえども、いずれも満を持してはなたぬ今日、そも何者がうごくのであろうかと、ご承知でもござりましょうが、先生、ご秘蔵の亀卜をカラリと投げて占われました」
「オオ」
呂宋兵衛はもとより、なみいる猛者どもも、この奇童のよどみなき弁によわされてしわぶきすらたてず、ひろき殿堂は、人なきようにシーンと静まりかえってしまった。
竹童は、ここでいささか得意気に、ちいさな体をちょこなんとかしこまらせ、両肱をはって、ことばをつぐ。
「お師匠さまがつらつら亀卜の卦面を案じまするに、すなわち、――富岳ニ鳳雛生マレ、五湖ニ狂風生ジ、喬木十悪ノ罪ヲ抱イテ雷ニ裂カル――とござりましたそうです」
「なになに? 喬木、雷に裂かると易にでたか」
呂宋兵衛の顔色土のごとく変るのを見て、竹童は手をふりながら、
「おどろいてはいけません、それは穴山梅雪の身の上でした。ところで、裏をかえして見ますると、つまり裏の卦、参伍綜錯して六十四卦の変化をあらわします。これによって結果を考えましたところ、今夕酉の下刻から亥の刻のあいだに、昼よりましたおそろしい大血戦が裾野のどこかで起るということがわかりました」
「むウ、それはあたっていた。して、勝負の結果は」
「さればでござります。にわかにわたくしが鷲にのってまいったのもそのため、残念ながらあなたの命は、こよい乾の星がおつるとともに、亡きかずに入り、腹心のかたがたもなかば以上は、あえない最期をとげることとなるそうでござります。これを、層雲くずれの凶兆ともうしまして、暦数の運命、ぜひないことだと、お師匠さまも吐息をおもらしなさいました」
「えッ、なんといった。しからば呂宋兵衛のいのちは、こよいかぎり腹心のものも大半はほろぶとな?」
「そうおっしゃったことはおっしゃいましたが、ここに一つ、たすかる秘法があるのです。お師匠さまは、わたくしにその秘法をさずけ、あなたに会って、あることと交換にして教えてこい、だが、呂宋兵衛はずるいやつゆえ、もしも、こっちできくことをちゃんと答えなかったら、なんにもいわずに逃げてこい――といいつかってまいりました」
「待てまて、たずねることがあらば、なんでも答えるほどに、その層雲くずれの凶兆を封じる秘法をおしえてくれ」
「ですから、まずわたくしのほうのたずねることからお答えくださいまし」
「よし、なんでも問うてみるがいい」
「ではおききもうします」
と、竹童はやおらひと膝のりだし、
「湖水のそこに沈めてありました石櫃をあげて、なかにあった御旗楯無の宝物をすりかえたのはたしかにあなた――これはお師匠さまも遠知の術でわかっております。されどその宝物を、あなたはだれにわたしましたか、または、この山寨のうちにあるのですか。ききたいのはつまりそのこと一つです」
呂宋兵衛は、心中すくなからずおどろいた。果心居士といえば、京で有名な奇道士だが、まさか、これまでに自分のしたことを知っていようとは思わなかった。それほどの道士なれば、竹童のことばもほんとうにそういないだろうし、ひそかに湖水からすりかえてうばった宝物は、いまでは手もとにないのだから打ち明けたところで、こっちに損得はない――と思った。
「そんなことならたやすいこと、いかにもあきらかに答えてやろう。だが……」
と呂宋兵衛が武士だまりの者へ、チラとめくばせをすると、バラバラと立ちあがったふたりの荒くれ武士が、いきなりムンズと竹童の左右から両腕をねじ押さえた。
「ア、おじさんたちはおいらをどうするんだい!」
「いやおこるな、竹童。こっちのいうことだけ聞いて逃げられぬ用心。そうしていても耳はきこえようからよく聞けよ。御旗楯無の宝物は、ここにいる轟又八に京へ持たせて、いまはぶりも金まわりもよい羽柴秀吉に金子千貫で売りとばした。それゆえ、いまの持主は秀吉、この山寨には置いてない。さ、このうえは果心先生からおさずけの秘法をうけたまわろう」
「たしかにわかりました。では先生の秘法をおさずけもうします。そもそも層雲くずれの大難は、どんな名将でものがれることのできぬものでござりますが、その難をさけるには、まず夜の酉から亥のあいだに、四里四方けがれのない平野へでて、ふだんの護り神をおがみ、壇をきずいて霊峰の水をささげます。――次に、おのれの生年月日をしたためて、人形の紙をみ神光で焼くこと七たび、かくして、十方満天の星をいのりますれば、兇難たちどころに吉兆をあらわして、どんな大敵に遭いましょうとも、けっしておくれをとるということがありません」
呂宋兵衛は、怪力もあり幻術にも長じているが、異邦人の血のまじっている証拠には、戦いというものに対して、すこぶる考えがちがう。それに修道者でもあっただけに、迷信にとらわれやすかった。
つまりかれがもっているいちばんの弱点に、うまうまと乗じられた呂宋兵衛は、まったく竹童の言に惑酔して穴山の残党がなんといおうと、轟や昌仙のやからが疑わしげに反省をもとめても、頑としてきかず、秘法の星まつりを行うべく、手下の野武士に厳命した。
ために、軍議はしぜんと、夜に入って四里四方けがれなき平野に、その式をすましたうえ、出陣ときまってしまった。
その用意のものものしいさわぎのなかで、有卦に入っていたのは竹童だ。別間でたくさんな馳走をされ、鞍馬では食べつけない珍味の数々を、箸と頤のつづくかぎりたらふくつめこみ、さて、例の棒切れ一本さげて、飄然とここを辞してかえる。
さしも、はげしかった昼の雷雨に、乱雲のかげは、落日とともに澄みぬいていた。西の甲武連山は茜にそまり、東相豆の海は無限の紺碧をなして、天地は紅と紺と、光明とうす闇の二色に分けられ、そのさかいに巍然とそびえているのは、富士の白妙。
――すると、この夕方を、人穴から上へ上へとはいあがっていく豆つぶ大の人影が見えた。それはどうも竹童らしい。見るまに、二合目の下あたりから鷲にのって、おともなく五湖のほうへとび去った。
富士の二合目をはなれ、いっきに、五湖の水明かりをのぞんで飛行していた竹童は、夜の空から小手をかざして、しきりに、下界にある伊那丸主従のいどころをさがしている。
「オオ暗い、暗い、暗い。天もまッ暗、地もまッ暗。これじゃいったいどこへ降りていいんだか、お月さまでもでてくれなきゃア、けんとうがつきあしない」
大空で迷子星になった竹童は、例の、寝るまもはなさぬ棒切れを右手にもち、左の手を目のはたへかざして、鷲の上から、
「オオーイ、オオーイ」と、とうとう声をはりあげて呼びだした。
しかし、竹童の声ぐらいは、竹童じしんが乗っている鷲の羽風に消しとばされてしまった。そのかわり、人ではないが、はるかな地上にあたって、馬のいななくのが高く聞えた。
「おや、馬のやつが返辞をしたぞ」
と、つぶやいたが、その竹童のかんがえはちがっている。動物は動物にたいして敏感であるから、いま、下のほうでいなないた馬は、ここにさしかかってきた闇夜飛行の怪物の影に、おどろいたものにそういない。
けれど竹童は、馬が答えたものと信じて、いきなり、棒切れをピューッと下へふった。と、クロはたちまち身をさかしまにして、ツツツツ――と木の葉おとしに降りていく。
「あ、ここはどこかのお宮の庭だな……」
鷲からおりて、しばらくそのあたりをあるいていた竹童は、やがて、拝殿からもれるほのあかりをみとめ、そッと忍びよってみると、たしかに六、七人のささやき声がする。
「いた!」かれは思わず叫んで、
「おじさん! おじさんたち」
呼ぶ声と一しょに、拝殿のなかにいた者は、どやどやと、それへでてきて、七つの人影をあらわした。
「何者じゃッ」と竹童をねめつけた。
「おいらだよ、鞍馬山の竹童だよ」
「おお、竹童か」
ほとんど、そのなかの半分以上の者が、口をあわしてこういった。木隠龍太郎も、忍剣も、民部も蔦之助も小文治も竹童にとればみな友だちだ。
ただ、床几にかけて、かれを見おろしていた伊那丸だけが、すこし解せないようすである。
「龍太郎。そちたちはこの童をよう知っているようじゃが、いったいどこのものであるの」
「さきほどお話しもうしあげました、果心居士の童弟子でござります」
「おおあれか」
伊那丸はニッコリして竹童を見なおした。竹童もニヤリと笑って、ともするとなれなれしく、じぶんの友だちにしてしまいそうだ。
「これ竹童、伊那丸君のおんまえ、つッ立っていてはならぬ、すわれすわれ」
「いや、そう叱らぬがよい、鞍馬の奥でそだった者じゃ、その天真爛漫がかえって美しい。したが、おまえはここへ、何用があってきたのか」
「はい」竹童はかしこまって、
「お師匠さまのおいいつけでござります」
「なに、果心先生からここへお使いに?」
「さようでござります。みなさまは、きょう穴山梅雪をお討ちになって、さだめしホッとなされたでござりましょうが、勝って兜の緒をしめよ、ここでごゆだんをなされては大へんでござります」
「む、伊那丸はけっしてゆだんはしておらぬぞよ」
「では、湖水の底から引きあげた石櫃の蓋をとって、なかをあらためてごらんになりましたか」
「いや、ほかのところへかくしたものとちがって、湖底へ沈めておいた石櫃、あらためるまでもない」
「ところが、お師匠さまの遠知の術では、どうも、石櫃のなかの宝物にうたがいがあるとおっしゃいました。それゆえ、にわかにお師匠さまにいいふくめられて、この竹童が、鷲の翼のつづくかぎり、とびまわったのでござります。どうぞみなさま、いっこくもはやく、石櫃をおあらためくださいまし」
「さては、それが伊那丸のゆだんであったかもしれぬ。忍剣、忍剣、ともあれ石櫃をここへ。また、小文治と龍太郎は、あるかぎりのかがり火をあたりにたき立ててください」
「はッ」
席を立った者たちが三つ脚のかがり火を、左右五、六ヵ所へ炎々と燃したてるまに、忍剣は、さきに梅雪の郎党たちが、湖底から引きあげておいた石櫃をかかえてきて、やおら、伊那丸のまえにすえた。
「こう見たところでは、蓋の合口に異状はないが」
「青苔がいちめんについているさまともうし、一ども人の手にふれたらしい点はみえませぬ」
「とにかく、蓋をはらってみい」
「心得ました」
と忍剣は立ちあがって、グイと法衣の袖をたくしあげ厳重な石の蓋をポンとはねのけてみた。
「や、やッ」まず忍剣がきもをつぶした。
「どういたした。なんぞ変りがあったか」
伊那丸もおもわず床几から腰をうかした。
「ちぇっ。これごらんなさりませ」
と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、なかからごろごろところがりだしたのは、御旗楯無の宝物に、似ても似つかぬただの石ころ。
「むウ……」
伊那丸は顔いろをうしなった。それはむりではない、武田家重代の軍宝――ことに父の勝頼が、天目山の最期の場所から、かれの手に送りつたえてきたほど大せつな品。
それがない!
ないですもうか。
御旗楯無の宝物は、武田家の三種の神器だ。これを失っては、甲斐源氏の家系はなんの権威もなくなってしまう。伊那丸をはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当然である。
「アア、やっぱり、おいらの先生はえらい――」
そのとき、嘆ずるようにいったのは竹童だった。
「ああ、どこまで武田家は衰亡するのであろうか……」
と嘆じあわして、伊那丸もつぶやく。
「大じょうぶだよ」竹童は棒切れを杖にしてふいにつっ立ち、気の毒そうに伊那丸の面を見あげた。
「大じょうぶだ大じょうぶだ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだやつはわかってるから……おいらがちゃんとかぎつけてきてあるから――」
「なに! ではおまえがその者を知っているか」
「ああ知っている。そいつは、人穴の殿堂にいる和田呂宋兵衛という悪いやつだよ。そして、盗んだ宝物は、手下を京都へやって、羽柴秀吉に売ってしまったんだ――これはきょうおいらが呂宋兵衛と問答して、鎌をかけてきいてきたんだからまちがいのないことなんだ」
「えッ、では御旗楯無をぬすんだやつも、あの人穴の呂宋兵衛か……」
と、伊那丸が意外そうな瞳を咲耶子に向けると、彼女も、思いがけぬことのように、
「わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはお家の賊、八つざきにしてもあきたりない悪党でござります」
と、やさしい眉にもうらみが立った。
伊那丸は床几をはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめしていった。
「みなのもの、わしはこれからすぐ人穴の殿堂へ駈けいり、呂宋兵衛の首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。一つには、恩義のある咲耶子への助太刀、われと思わんものはつづけ、御旗楯無をうしなって、武田の家なく、武田の家なくして、この伊那丸はないぞ!」
「お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでも君のお供いたさずにはおりませぬ」
山県蔦之助、忍剣、龍太郎、小文治などの、たのもしげな勇士たちは、声をそろえてそういった。
「おう、わたしを入れてここに七騎の勇士がある。咲耶子も心づよく思うがよい、きっとこよいのうちに、きゃつの首を、この剣の切ッ先にさしてみせよう。忍剣、馬を馬を!」
「はッ」
バラバラと樹立ちへはいった忍剣は、梅雪一党が乗りすてた駒のなかから、逸物をよって、チャリン、チャリン、チャリン、と轡金具の音をひびかせて、伊那丸のまえまで手綱をとってくると、いままで黙然としていた小幡民部が、
「しばらく――」と、駒をおさえて頭をさげた。
「なんじゃ、民部」
「お怒りにかられて、これより人穴の殿堂へかけ入ろうという思し召しは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」伊那丸はめずらしく苦い色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた天嶮の野武士城、いかに七騎の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも信玄の孫じゃ! 勝頼の次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
かれにしては、これは稀有なほど、激越なことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数の理が見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
と、つよく首をふって、
「いかに信玄公のお孫であろうと、兵法をやぶって勝つという理はありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの裾野にかくれて呂宋兵衛が山をでる日を、おまちあそばすが上策とこころえまする」
「そうだ」
その時、横からふいにことばをはさんだのは竹童で、さらに頓狂な声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
民部は、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお師匠さまが呂宋兵衛に、おまえの命はこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜子の刻(十一時から一時)のころに、裾野四里四方人気のないところへでて、層雲くずれの祈祷をすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた計略で、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
おどろくべき果心居士の神機妙算、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
子の刻一天までには、まだだいぶあいだがある。伊那丸は一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
竹童は勇躍して、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
と、クロをだいて、お堂の端へゴロリと寝てしまった。
と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、笛が鳴ったぞ」
と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、咲耶子がただひとり、社前の大楠の切株につっ立ち、例の横笛を口にあてて、音もさわやかに吹いているのだった。
竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の音が裾野の闇へひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた野武士のかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに伊那丸の前へきて、
「この者たちは、いずれも父の小角につかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば呂宋兵衛をうって仇をむくいようとしていた忠義者でござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、小幡民部が軍配のうえにおいても、たいへんなちがいであった。
ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、咲耶子の胡蝶の陣に、練りにねり、鍛えにきたえられた精鋭ぞろい。
かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀の音をひそませ、箭づくり、刃のしらべはいうまでもなく、馬に草をも飼って、時刻のいたるをまちわびている。
待つほどに更くるほどに、夜はやがて三更、玲瓏とさえかえった空には、微小星の一粒までのこりなく研ぎすまされ、ただ見る、三千丈の銀河が、ななめに夜の富士を越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
そのなかで、竹童ばかりが、鷲の翼をはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。
まさに、夜は子の刻の一天。
人穴の殿堂をまもる、三つの洞門が、ギギーイとあいた。
と、そのなかから、焔々と燃えつつながれだしてきたのは、半町もつづくまっ赤な焔の行列。無数の松明。その影にうごめく、野武士、馬、槍、十字架、旗、すべて血のように染まって見えた。
なかでも、一丈あまりな白木の十字架は、八人の手下にゆらゆらとささえられ、すぐそばに呂宋兵衛が、南蛮錦の陣羽織に身をつつみ、白馬にまたがり、十二鉄騎にまもられながら、妖々と、裾野の露をはらっていく。
すすむこと二、三里、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛は馬からひらりと降り、二、三百人の野武士を指揮して、見るまにそこへ壇をきずかせ、十字架を立て、かがり火を焚いて、いのりのしたくをととのえさせた。
「念珠を念珠を、これへ――」
呂宋兵衛は、まえにもいったとおり、南蛮の混血児でキリシタンの妖法を修する者であるから、層雲くずれの祈祷も、じぶんが信じる異邦の式でゆくつもりらしい。
手下の者から、念珠をうけとったかれは、それを頸へかけ、胸へ、白金の十字架をたらして、しずしずと壇の前へすすんだ。
護衛する野武士たちは、しわぶきもせず、いっせいに槍の穂さきを立てならべた。なかにはきょう味方についた穴山の残党、足助主水正、佐分利五郎次、その他の者もここにまじっている。
壇にむかって、七つの赤蝋をともし、金明水、銀明水の浄水をささげて、そこにぬかずいた呂宋兵衛は、なにかわけのわからぬいのりのことばをつぶやきながら、いっしんに空の星を祈りだした。
すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような風音。つづいて、地を打ってくる馬蹄のひびき。
「や!」かれはぎょっと、頭をあげて、
「あの物音は? あのひびきは? おお馬だッ、人声だ。ゆだんするな!」
叫ぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくる霰のような征矢。――早くも、四面の闇からワワーッという喊声が聞えだした。
「さては武田伊那丸がきたか」
「いやいや咲耶子が仕返しにまいったのだろう」
「うろたえていずとかがり火を消せ、はやく松明をすててしまえ、敵方の目じるしになるぞ」
あたりはたちまち暗瞑の地獄。
ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀や槍の音ばかりが、ものすごくましていった。
もう、どこかで斬りあいがはじまったらしい。
星明かりをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわからないが、白馬黒鹿毛をかけまわしている七人の影は、たしかに襲せてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下どもは、
「だめだ、足を斬られた」
「敵はあんがいてごわいぞ。もう大変な手負いがでた」
「殿堂へ逃げろ!」
「人穴へ引きあげろ!」
と声をなだれあわせて、思いおもいな草の細径へ蜘蛛の子のちるように逃げくずれた。
それらの、雑兵や手下には目もくれず、さきほどから馬上りんりんとかけまわっていた伊那丸は、
「咲耶子はいずれにある。咲耶子、咲耶子」
と、しきりに呼びつづけていた。
「おお伊那丸さま、わたくしはここでござります」
近よってきた白鹿毛の上には、かいがいしい装束をした彼女のすがたが、細身の薙刀を小脇に持って、にっことしていた。
「咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。忍剣も龍太郎も、いまだに討ったと声をあげぬが」
「わたくしも、余の者には目もくれず、八ぽうさがしてまわりましたが、影も形も見あたりませぬ。ざんねんながら、どうやら取り逃がしたらしゅうござります」
「いや、民部がしいた八門の陣、その逃げ口には、伏兵がふせてあるゆえ、かならず討ちもらす気づかいはない」
とふたりが、馬上で語り合っているすぐうしろで、ふいに、悪魔の嘲笑が高くした。
「わ、はッはわはッは……このバカもの!」
「や!」
ふりかえってみると、人影はなく、星の空にそびえている一基の十字架。
「いまの声は、たしかに呂宋兵衛」
「奇ッ怪な笑い声、咲耶子、心をゆるすまいぞ」
きッと、十字架をにらんで、ふたりが息を殺したせつなである、一陣の怪風! とたんに、星祭の壇に燃えのこっていた赤蝋が、メラメラと青い焔に音をさせてあたりを照らした。
明滅の一瞬、十字架のうしろにかくれていたおぼろげなかげは、たしかに怪人、和田呂宋兵衛。
「おのれッ!」
「怨敵」
敵将のすがたを目のあたりに見て、なんのひるみを持とう。伊那丸は太刀をふりかぶり、咲耶子は薙刀の柄をしごいて八幡! 十字架の根もとをねらって斬りつけた。
と――ほとんど同時である。
伊那丸がたの軍師、小幡民部は、無二無三に駒をここへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ若君。かならずそれへ近よりたもうな。あ、あ、あッ、危ないッ!」
と、かれは狂気ばしって絶叫した。
が――その注意はすでに間に合わなかった。
ふたりのえものは、もう、ザクッと十字架のかげを目がけてふりこんでしまった。と見るまに、ああ、そもなんの詭計ぞ、足もとから轟然たる怪火の炸裂。
ぽかッと、渦をふいた白煙とともに、宙天へ裂けのぼった火の柱、同時に、バラバラッとあたりへ落ちてきたいちめんの火の雨――それも火か土か肉か血か、ほとんど目を開けて見ることもできない。
すさまじい雷火の焔が、パッと立ったせつな、ゲラゲラゲラと十字架のかげで大きく笑う声がした。
怪人呂宋兵衛の目である。口である。
悪魔の面! それがあざわらった。
「あッ――」
伊那丸の馬は、蹄を蹴って横飛びにぶったおれた。咲耶子は、竿立ちとなった駒のたてがみにしがみついて、焔のまえに悶絶した。
倒れたのは、馬ばかりか、人ばかりか、二尺角の白木の十字架まで、上から真ッ二つにさけ、余煙のなかへゆら、――と横になりかかってきた。
雷火の炸裂は、詭計でもなんでもない。怪人呂宋兵衛が、ふところに秘めておいた一塊の強薬を、祭壇に燃えのこっていたろうそく火へ投げつけたのだ。
長崎や堺あたりで、南蛮人が日本人と争闘すると、常習にやるかれらの手口である。民部はそれを知っていたので、あわてて駒を飛ばしてきたが、一足おそかった、裂けた十字架が、いましもドスーンと大地へ音をひびかせた時である。
「人穴の賊。そこうごくなッ!」
民部は、乗りつけてきた馬の鞍から飛びおりるより早く、壇の上につっ立っているかれを目がけて斬りつけた。
「しゃらくさいわッ」
呂宋兵衛は、民部の第一刀をひッぱずして、いきなり鬼のような手で彼の右手をねじあげた。
もうふところに強薬は持っていないので、まえのような危険はないが、腕と腕、剣と剣の打ちあいでも、民部は呂宋兵衛の敵ではない。
「うーむ、この小僧ッ子め」
酒呑童子もかくやの形相で、大きな唇へやい歯をかませた呂宋兵衛は、いきなり民部の利腕をひとふりふって、やッと一声、壇の上から大地へ投げつけた。
「無念」
一代の軍師、小幡民部も、腕の勝負ではいかんともすることができない。はねおきようとすると、はやくも、呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイとのどわをしめつけ、
「おウ、てめえが伊那丸の腰について、穴山梅雪を討ったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首にめぐり会った。山荘へのみやげにしてやる。覚悟をしろ」
鎧通しをひきぬき、逆手にもって、グイと民部の首根にせまった。民部は、そうはさせまいと、下から短剣をぬき、足をもがき、ここ一髪のあらそいとなって、たがいに必死。
伊那丸も咲耶子も、みすみすかたわらにありながら、いまの雷火にふかれて、ふたりとも気を失ってしまっている。
「うーむッ」
もみ合っているふたりのあいだから、おそろしい苦鳴があがった。さては、民部が首をかき落とされたか、呂宋兵衛が脾腹をえぐられたか、どッちか一つ。
さきにはね起きたのは、呂宋兵衛であった。
かれの左の足に、一本の流れ矢がつき刺さっていた。つづいて民部も飛びおきた。またすさまじい短剣と短剣の斬りあいになる。
「やッ、呂宋兵衛、ここにおったか」
そのとき、ゆくりなくもきあわせた巽小文治が、朱柄の槍をしごいて、横から突っこんだ。
「じゃまするなッ」
ガラリとはらう。さらに突く。
さらにはらう。またも突きだす。
この妙槍にかかっては、さすがの呂宋兵衛も、弱腰になった。それさえ、大敵と思うところへ、加賀見忍剣、木隠龍太郎、山県蔦之助の三人が、ここのあやしき物音を知って、いっせいに蹄をあわせて、三方から、野嵐のごとく馬を飛ばしてくるようす。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛、汝、いかに猛なりとも、ふくろのなかのねずみどうようだ、時うつればうつるほど、ここは鉄刀鉄壁にかこまれ、そとは八門暗剣の伏兵にみちて、のがれる道はなくなるのじゃ、神妙に観念してしまえ」
小幡民部がののしると、呂宋兵衛はかッと眼をいからせて、わざとせせら笑った。
「だまれッ。汝らのようなとうすみとんぼ、百ぴきこようと千びきあつまろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
「舌長なやつ、その息のねをとめてやるッ」
「なにを」
と呂宋兵衛は立ちなおって、剣を、鼻ばしらの前へまッすぐ持ち、あたかも、不死身の印をむすんでいるような形。
ふしぎや、小文治の槍も民部の太刀も、その奇妙な構えを、どうしても破ることができない。ところへ、同時にかけあつまったまえの三人。
この態を見るより、めいめい、ひらりひらりと鞍からおりて、かけよりざま、
「おうッ、巽小文治どの、龍太郎が助太刀もうすぞ」
「加賀見忍剣これにあり、いで! 目にものみせてくれよう」
とばかり、呂宋兵衛の前後からおッつつんだ。
さすがのかれも、ついにあわてだした。そして、一太刀も合わせず、ふいに忍剣の側をくぐって疾風のように逃げだした。
「待てッ」
すばやくとびかかった龍太郎が、戒刀の切ッ先するどく薙ぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の鎧通しを手裏剣がわりに、
「えいーッ」
気合いとともに投げつけた。
龍太郎は身をしずめながら、刀のみねで、ガラリとそれをはらい落とした。
と、なにごとだろう?
ピラピラと、魚鱗のような閃光をえがいて飛んできた鎧通しが、龍太郎の太刀にあたると同時に、銀粉のふくろが切れたように、粉々とくだけ散って、あたりはにわかに、月光と霧につつまれたかのようになった。
「や、や。あやしい妖気」
「きゃつはキリシタンの幻術師、かたがたもゆだんするな」
「この忍剣にならって、破邪のかたちをおとり召されい」
と、まッさきに忍剣が、大地にからだをピッタリ伏せ、地から上をすかしてみると、いましも、黒い影がするするとあなたへ足をはやめている。
「おのれッ」
とびついていった忍剣の禅杖が、力いッぱい、ブーンとうなった。とたんに、一陣の怪風――そして、わッ、と、さけんだのはまぎれもない呂宋兵衛である。
たしかに手ごたえはあったらしいが、かれもさるもの、すばやく隠形の印をむすび、縮地飛走の呪をとなえるかと見れば、たちまち雷獣のごとく身をおどらせ、おどろく人々の眼界から、一気に二、三町も遠くとびさってしまった。
「あ、あ、あ、あ、あ!」とさすがの忍剣も、龍太郎もそのゆくえを、ただ見まもるばかり。
目ばたきするまに、二、三町もとんだ呂宋兵衛のあとには、うすい虹か、あわい霧のようなものが一すじ尾をひいてのこった。
いつまで見送って、たがいに歯がみしていたところで及ばぬことと、忍剣は一同をはげました。そして、そこにたおれている、伊那丸と咲耶子とに、手当を加えた。
さいわいに、ふたりはさしたる重傷を受けていたのではなかった。けれど、やがて気がついてから、賊将、呂宋兵衛をとり逃がしたと知って、無念がったことは、ほかの者より強かった。ことに、伊那丸は父ににて勝気なたち。
「かれらの策におちて、おくれをとったときこえては、のちの世まで武門の名おれ。わしはどこまでも、呂宋兵衛のいくところまで追いつめて、かれの首を見ずにはおかぬ。民部、止めるなッ」
いいすてるが早いか、馬の鞍つぼをたたいて、まっしぐらに走りだした。と咲耶子も、
「お待ちあそばせや、伊那丸さま。人穴の殿堂は、この咲耶子が空んじている道、踏みやぶる間道をごあんないいたしましょうぞ」
手綱をあざやかに、ひらりと駒におどった武装の少女は一鞭あてるよと見るまに、これも、伊那丸にかけつづいた。
ことここにいたっては、思慮ぶかい小幡民部も、もうこれまでである、いちかばちかと、決心して、
「加賀見忍剣どの。木隠龍太郎どの」
と声高らかに呼ばわった。
「おお」
「おおう」
「そこもとたちふたりは、若君の右翼左翼となり、おのおの二十名ずつの兵を具して、おそばをはなれず、ご先途を見とどけられよ、早く早く」
「かしこまッた」
軍師に礼をほどこして、ふたりは馬に鞭をくれる。
「つぎに山県蔦之助どの。巽小文治どの」
「おう」
「おう」
「ご両所たちは搦手の先陣。まず小文治どのは槍組十五名の猛者をつれて、人穴の殿堂よりながれ落ちている水門口をやぶり、まッ先に洞門のなかへ斬りこまれよ」
「心得た」
小文治は朱柄の槍をひッかかえて、十五名の力者をひきつれ、人穴をさして、たちまち草がくれていく。
「さて蔦之助どの、そこもとは残る十七名の兵をもって、一隊の弓組をつくり、殿堂をかこい嶮所に登って廓のなかへ矢を射こみ、ときに応じ、変にのぞんで、奇兵となって討ちこまれい!」
「承知いたしました」
「拙者は、のこりの者とともに後詰をなし、若君の旗本、ならびに、総攻めの機をうかがって、その時ごとに、おのおのへ合図をもうそう。さらばでござる」
軍配のてはずを、残りなくいいわたした民部は、ひとりそこに踏みとどまり、人穴攻めの作戦図を胸にえがきながら、無月の秋の空をあおいで、
「敗るるも勝つも、小幡民部の名は、おしくもなき一介の軍配とりじゃ。しかし……しかし伊那丸さまは大せつな甲斐源氏の一粒種、あわれ八幡、あわれ軍の神々、力わかき民部の采配に、無辺のお力をかしたまえ」
正義の声は、いつにあっても、だれの口からほとばしっても、ほがらかなものである。
英気をやしなうため、宵のくちに、ほんのちょっと寝ておくつもりだった竹童は、いつか鼻から提灯をだしてわれにもなく、大いびき。
このぶんでほっておいたら、かならずや、夜が明けるのも知らずに寝ているにちがいない。
ところが、好事魔おおし、せっかくの白河夜船を、何者とも知れず、ポカーンと頬っぺたをはりつけて、かれの夢をおどろかさせた者がある。
「あ痛ッ、アた、た、た、た!」
ねぼけ眼ではねおきた竹童は、むちゃくちゃに腹が立ったと見えて、いつにない怒りようだ。
「おいッ、おいらをぶんなぐったのは、いったいどこのどン畜生だ、さアかんべんできない、ここへでろ、おいらの前へでてうせろッ」
あまり太くもない腕をまくりあげて、そこへしゃちこ張ったのはいいが、竹童、まだなにを寝ぼけているのか、そこにいた人の顔を見ると、急にすくんで、膝ッ子のまえをかきあわせ、ペコペコお辞儀をしはじめたものだ。
「竹童、おまえは大そう強そうに怒るな」
「はい……」
「どうした。おいらの前へでてうせろといばっておったではないか。なぐったわしはここにいる」
「はい、いいえ……」
「不埒者めがッ」
なんのこと、あべこべにまた叱られた。
もっとも、それはべつだんふしぎなことではない。いつのまにか、ここにきていた人間は、竹童が小太郎山にいることとばかり思っていた、果心居士その人だったのだ。
しかし、いくら飛走の達人でも、どうして、いつのまにこんなところへきたんだろうと、竹童はじぶんのゆだんをつねって、目ばかりパチパチさせている。
けれど、なんとしても、このお師匠さまは人間じゃあない。ほとんど神さま、このおかたに会ってはかなわないから、三どめの大目玉をいただかないうちに、なんでもかでも、こっちからあやまってしまうほうが先手だと、そこは竹童もなかなかずるい。
「お師匠さま。お師匠さま。どうもすみませんでございました。お使い先で、グウグウ寝てしまったのは、まったくこの竹童、悪いやつでございました。どうぞごかんべんなされてくださいまし」
「横着な和子ではある。わしのいう叱言を、みんなさきにじぶんからいってしまう」
「いいえ、お師匠さまの叱言よけではございませんが、ひとりでに、じぶんが悪かったと、ピンピン頭へこたえてくるのでございます」
「しかたのないやつ」
果心居士も竹童の叱言には、いつも途中から苦笑してしまった。
「けれど、叱言ではないが――そちも大せつな使者に立った者ではないか。なぜ、伊那丸さまのご先途まで見とどけてくるか、あるいは、ひとたび小太郎山まで立ち帰ってきて、ようすはこれこれとわしに返辞を聞かせぬのじゃ」
「はい。ですからわたしは、しばらくここに寝こんでいて、夜中にみなさまがここをでる時、ご一しょについていって見ようと思っていたのでござります」
「たわけ者め。そのご一同がどこにいる?」
「えッ」
竹童は始めてあたりを見まわし、
「おや? もう子の刻が過ぎたのかしら、伊那丸さまもお見えにならず、忍剣さまも、……蔦之助さまもおかしいなあ、だれもいないや。お師匠さま、みなさまはもう戦にでておしまいなされたのでしょうか?」
「もう子の刻もとッくにすぎ、裾野の戦も一段落となっているわ」
「アアしまった! しまった! すッかり寝こんでなにも知らなかった。お師匠さま、竹童はどうしてこういつまでおろかなのでござりましょう」
「どうじゃ。わしに打たれたのがむりと思うか」
「けっしてごむりとは思いません。これからこんなゆだんをいたしませんように、もっとたくさんおぶちなされてくださいまし」
「よいよい。それほどに気がつけば、本心にこたえたのじゃろう。ところで竹童、また大役があるぞ」
「もうたくさん寝ましたから、どんなむずかしいご用でも、きッとなまけずに勤めまする」
「む、ほかではないが、こよいの計略は呂宋兵衛の妖術にやぶられ、いままた、伊那丸さまはじめ、その他の旗本たちは人穴の殿堂さして攻めのぼっていった。しかし、かれには二千の野武士があり、幾百の猛者、幾十人の智者軍師もいることじゃ。なかなか七十人や八十人の小勢でおしよせたところで、たやすく嶮所の廓は落ちまいと思う」
「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、おそろしい厳重な山荘でございました」
「それゆえ、力で押さず、智でおとす。しかし、智にたよって勇をうしなってもならぬゆえ、わざと伊那丸さまにはお知らせいたさず、そちにだけ第二の密計をさずけるのじゃ。竹童、耳を……」
「はい」
とすりよると、果心居士は白髯につつまれた唇からひそやかに、二言三言の秘策をささやいた。
それが、いかにおどろくべきことであったかは、すぐ聞いている竹童の目の玉にあらわれて、あるいは驚嘆、あるいは壮感、あるいは危惧の色となり、せわしなく、瞳をクルクル廻転させた。
「よいか、竹童!」
はなれながら、果心居士はさいごにいった。
「一心になって、おおせの通りやりまする」
「そのかわり、この大役を首尾よくすましたら、伊那丸さまにおねがいして、そちも武士のひとりに取り立てて得さすであろう」
「ありがとうござります。お師匠さま、侍になれば、わたくしでも、刀がさせるのでござりましょうね」
「差せるさ」
「差したい! きッと差してみせるぞ」
竹童は、その興奮で立ちあがった。
しかし、かれのひきうけた大役とはいったいなんだろう。もとより鞍馬山霊の気をうけたような怪童子、あやぶむことはあるまいが、居士の口吻からさっしても、ことなかなか容易ではないらしい。
夜もすがら、百八ヵ所で焚きあかしているかがり火のため、人穴城の殿堂は、さながら、地獄の祭のように赤い。
和田呂宋兵衛たちが、おおきな十字架をささげて、層雲くずれの祈祷にでていったあとは、腹心の轟又八が軍奉行の格になって、伊那丸と咲耶子をうつべき、明日の作戦に忙殺されていた。
「東の空がしらみだしたら一番貝、勢ぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で部署につき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から裾野へくだって、時刻時刻の合図とともに、遠巻きの輪をちぢめて、ひとりあまさず討ってとる計略。かならずこの手はずをわすれるなよ」
一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を観測するらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、この闇の晩に、なにが見えるんだ。バカ軍師め、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんき面をかまえていやがる」
上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂の物の具部屋へ隠れてしまった。
又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか――と空をあおいで見ると、炎々とのぼるかがりの煙にいぶされて、高い櫓がそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
山寨の軍師、丹羽昌仙であった。
轟又八がバカ軍師とののしったわけである。昼間から、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで昌仙は詮なきこととあきらめたか、呂宋兵衛が裾野をでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、継子のように、ひとり望楼のいただきへあがって、寂然とたちすくみ、四顧暗々たる裾野をにらみつめている。
かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
星こそあれ、無月荒涼のやみよ。――おお、はるかに焔の列が蜿々とうごいていく。呂宋兵衛らの祈祷の群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされた蛍のごとく、算をみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの竹童という小僧の奇策にはかられた。もうおそい――」
と、かれがもらした痛嘆のおわるかおわらぬうち、遠き闇にあたって、ズーンと立った一道の火柱、それが消えると、一点の微光もあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
昌仙は手をのばして、いきなり天井へ飛びつき、そこにたれていた縄の端をグイと引いた。と、――人穴城の八方にしかけてある自鳴鉦がいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
これ、大手一の門二の門三の門、人穴門、水門、間道門の四つの口、すべて一時に護るための手配。いうまでもなく出門は厳禁。無断持場をうごくべからず――の軍師合図。
さらに、櫓番へ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、燕作という者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の密書をさずけた。
そして口ぜわしく、
「これを一刻もはやく羽柴秀吉どのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この山寨から一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
と、いいつけた。
燕作は、野武士の仲間から、韋駄天といわれているほど足早な男。頭をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、承知いたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の合戦ののち、いったいどこのお城にお住いでござりましょうか」
「近江の安土か、長浜の城か、あるいは京都にご滞在か、まずこの三つを目指していけ」
「合点です。では――」
と立って、クルリとむきなおるが早いか、韋駄天の名にそむかず、飛鳥のように望楼をかけおりていった。
ふいに自鳴鉦を聞いた轟又八は、青筋をかんかんに立てて立腹した。
「こっちで攻めだす用意をしているのに、どこまでもおれに楯をつくふつごうな丹羽昌仙。軍師といえどもゆるしておいてはくせになる」
恐ろしい血相で、望楼の登り口へかけよってくると、出合いがしらに、上からゆうゆうと昌仙がおりてきた。
「おお、轟、籠城の用意は手ぬかりなかろうな」
「だまれ。いつ頭領から籠城の用意をしろとおふれがでた。しかも、夜が明けしだいに、裾野へ討ってでるしたくのさいちゅうだわ」
「ならぬ! 呂宋兵衛さまから軍配を預っている、この昌仙がさようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけることまかりならんぞ」
「めくら軍師ッ。かしらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、洞門を閉めてしまってどうする気だ」
「いまにみよ、祈祷にでたものはちりぢりばらばら、呂宋兵衛さまも手傷をうけて命からがら立ちかえってくるであろうわ」
「ばかばかしい! そんなことがあってたまるものか」
と又八が大口をあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈祷の列に加わっていった足助主水正と佐分利五郎次などが、さんばら髪に、血汐をあびて逃げかえってきた。
「やア、その姿は――?」
今もいまとて、強情をはっていた轟又八、目をみはってこうさけぶと、裾野から逃げかえってきた者どもは声をあわせて、
「一大事、一大事。まんまと敵の計略におちいって、頭領のご生死もわからぬような総くずれ――」
つづいて逃げてきた手下の口から、
「伊那丸じしんが先手となり、小幡民部が軍師となって、もうすぐここへ攻めよせてくるけはい」
と報告された。さらにあいだも待たず、
「あやしいやつが二、三十人ばかり、嶮岨をよじ登って、人穴の裏へまわったようす」
「前面の雨ヶ岳にも、軍兵の声がきこえてきた。水門口のそとでも、鬨の声があがった――」
一刻一刻と、矢のような注進。
そのごうごうたるさわぎのなかへ、風に乗ってきたごとく、こつぜんと走りかえってきた和田呂宋兵衛は、一同にすがたを見せるよりはやく、
「なにをうろたえまわっているかッ、洞門をまもれ、水門へ人数をくばれ、バカッ、バカッ、バカッ」
八方へ狂気のごとくどなりつけた。そのくせ、かれじしんからして衣はさかれ目は血ばしり、おもては青味をおびて、よほど度を失っているのだからおかしい。
昌仙は、それ見ろ、といわんばかり、
「おさわぎなさるな、頭領。大方こんなこととぞんじて、すでに手配はいたしておきました」
「おお軍師。こののちはかならず御身のことばにそむくまい。どうか寄手のやつらを防ぎやぶってくれ」
「ご安堵あれ、北条流の蘊奥をきわめた丹羽昌仙が、ここにあるからは、なんの、伊那丸ごときにこの人穴を一歩も踏ませることではござらぬ」
轟又八は、いつのまにか、こそこそと雑兵のなかへ姿をかくしてしまった。
はやくも、一の洞門に鬨の声があがる。
まッ先に攻めつけてきたのは武田伊那丸であった。要所のあんないは咲耶子。すぐあとから、加賀見忍剣と木隠龍太郎のふたりが、右翼左翼の力をあわせて、おのおの二十人ほどひきつれ、えいや、えいや、洞門の前へおしよせてきた。
いっぽう――人穴から、どッと流れおちている水門口へかかった巽小文治は、槍ぞろい十五名の部下をつれて、水門をぶちこわそうとしたが、頭の上へガラガラと岩や大木を投げつけてくるのに悩まされた。のみならず、水門には、頑丈な鉄柵が二重になっているうえ、足場のわるい狭隘な谿谷である。おまけに、全身水しぶきをあびての苦戦は一通りでない。
うら山の嶮にのぼって、殿堂へ矢を射こもうとした山県蔦之助以下の弓組も、とちゅう、おもわぬ道ふさぎの柵にはばめられたり、八方わかれの謎道にまよわされたりして、やっとたどりついたが、はやくもそれと知った丹羽昌仙が、望楼のうえから南蛮銃の筒口をそろえて、はげしく火蓋を切ってきた。
丹羽昌仙の北条流の軍配と、二千の野武士と、この天嶮無双な砦によった人穴の賊徒らは、こうしてビクともしなかった。
ついにむなしくその夜は明けた。――二日目もすぎた。三日目にも落とすことができなかった。ああなにせよ小勢、いかに伊那丸があせっても、しょせん、百人足らずの小勢では洞門ひとつ突き破ることもむずかしそうである。
「民部、わしはこんどはじめて、戦の苦しさを知った。あさはかな勇にはやったのが恥かしい。しかし武夫、このまま退くのは残念じゃ」
前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず寄手をひきあげた伊那丸が、軍師小幡民部とむかい合って、こういったのがちょうど九日目。
「ごもっともでござります」民部も軍扇を膝について、おなじ無念にうつむきながら思わず、
「ああ、ここにもう二、三百の兵さえあれば、策をかえて、一つの戦略をめぐらすことができるのだが」
とつぶやくと、伊那丸も同じように、嘆をもらして、
「そのむかし、武田菱の旗の下には、百万二百万の軍兵が招かずしてあつまったものを」
「また、わが君のおうえにも、かならず輝きの日がまいりましょう。いや、不肖民部の身命を賭しましても、かならずそういたさねば相なりませぬ」
「うれしいぞ民部。けれど、みすみす敵を目のまえにしながら、わずか七、八十人の味方とともにこのありさまでいるようでは……」
と無念の涙をたたえていると、いままで、うしろに黙然としていた木隠龍太郎が、なに思ったか、
「伊那丸さま――」
とすすみだして、
「どうぞ某に四日のお暇をくださいますよう」
といいだした。
「なに四日の暇をくれともうすか」
「されば、ただいま民部どのが、欲しいとおっしゃっただけの兵を、かならずその日限のうちに、若君のおんまえまで召しあつめてごらんにいれまする」
「おお龍太郎どの――」
と民部は、うれしそうな声と顔をひとつにあげて、
「民部、畢生の軍配のふりどき、ぜひともごはいりょをおねがいもうすぞ」
「しかし、いまの戦国多端のときに、二、三百の兵を四日にあつめてくるのは容易でないこと。龍太郎、それはまちがいないことか……」
伊那丸は気づかわしそうな顔をした。
が龍太郎はもう立ちあがって、敢然と礼をしながら、
「ちと心算もござりますゆえ、なにごとも拙者の胸におまかせをねがいます。ではわが君、民部どの、きょうから四日のちに、三百人の軍兵とともにお目にかかるでござりましょう」
仮屋の幕をしぼって、陣をでた木隠龍太郎は、みずから「項羽」と名づけた黒鹿毛の駿馬にまたがり、雨ヶ岳の山麓から真一文字に北へむかった。
すると、かれのすがたを見かけた者であろうか、
「おおうい。おおうい木隠どの――」
と呼びかけてくる者がある。駒をとめてふとふりかえると、本栖湖のほうから槍組二隊をひきつれてそこへきた巽小文治が、せんとうに朱柄の槍をかついで立ち、
「おそろしい勢いで、どこへおいでなさるのじゃ」
とふしぎそうにかれを見あげた。
「おお小文治どのか、拙者はにわかに大役をおびて、これから小太郎山へ立ちかえるところだ」
「ふーむ、ではいよいよ人穴攻めは断念でござるか」
「どうしてどうして。ほんとうの合戦はこれから四日目だ。なにしろいそぎの出先、ごめん――」
「おお待ってくれ。いったいなんの用で小太郎山へお帰り召さるのじゃ」
と小文治がききかえすまに、駿馬項羽のかげは木隠をのせて、疾風のごとく遠ざかってしまった。
難攻不落の人穴攻めは、こうしてあと四日ののちを待つことになった。しかし、伊那丸や、忍剣や民部などの七将星のほかに、果心居士の秘命をうけている竹童は、そもそもこの大事なときを、どこでなにをまごまごしているのだろう。
いくらのんきな竹童でも、まさか、お師匠さまの叱言をわすれて、裾野の野うさぎなんかと、すすきのなかでグウグウ昼寝もしていまいが、もういいかげんに、なにかやりだしてもよいじぶん。
ぐずぐずしていれば、丹羽昌仙の密使が、秀吉のところへついて、いかなる番狂わせが起ろうも知れず、四日とたてば、木隠龍太郎の吉左右もわかってくる。どっちにしても、ここ二、三日のうちに果心居士の命をはたさなければ、こんどこそ竹童、鞍馬山から追ンだされるにきまっている。
安土の山は焼け山だ。
安土の城も半分は焼けくずれている。
岩は赭くかわき、石垣はいぶり、樹木の葉は、みなカラカラ坊主になって黒い幹ばかりが立っていた。
その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょい。まるでりすのようなはやさでかけのぼっていったのは、竹ノ子笠に道中合羽をきて旅商人にばけた丹羽昌仙の密使、早足の燕作だ。
中途でちょっと小手をかざし、四方をながめまわして、
「ああ変るものだなあ。戦国の世の中ほど、有為転変のはやいものはない。どうだい、ついこの夏までは、右大臣織田信長の居城で、この山の緑のなかには、すばらしい金殿玉楼が見えてよ、金の鯱や七重のお天主が、日本中をおさえてるようにそびえていた安土城だ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば明智光秀という野郎も、えらい魔火をだしやあがったものだなア……」
燕作でなくても、ひとたびここに立って、一朝の幻滅をはかなみ、本能寺変いらいの、天下の狂乱をながめる者は、だれか、惟任日向守の大逆をにくまずにいられようか。
けれど、その光秀じしん、悪因悪果、土冠の竹槍にあえない最期をとげてしまった。で、いまではこの安土城のあとへ、信長の嫡孫、三法師丸が清洲からうつされてきて、焼けのこりの本丸を修理し、故右大臣家の跡目をうけついでいる。
だが、三法師君は、まだきわめて幼少であったため、もっぱら信長の遺業を左右し、後見人となっている者はすなわち、ここ、にわかに大鵬のかたちをあらわしてきた左少将羽柴秀吉。――つまり、早足の燕作が、はるばる尋ねてきたその人である。
「おっと、見物は帰りみちのこと、なにしろ役目を果さないうちは気が気じゃない……」
と燕作は、ふたたび笠のふちをおさえながら、一散に石段から石段をかけのぼっていくと、
「こらッ」
といきなり合羽の襟をつかまれた。
「へ、へい」
とびっくりしてふりかえると、具足をつけた侍――いかにも強そうな侍だ。
槍の石突きをトンとついて、
「どこへいく? きさまのような町人がくるところじゃない。もどれッ」
とにらみつけた。
すると、焼け崩れの土塀のかげからさらに、りっぱな武将が四、五人の足軽をつれて見廻りにきたが、このていを見ると、つかつかとよってきて、
「才蔵、それは何者じゃ」
とあごでしゃくった。
「ただいま、取り調べているところでござります」
「うむ、お城のご普請中をつけこんで、雑多なやつがまぎれこむようすじゃ。びしびしと締めつけて白状させい」
燕作はおどろいた。
そのびしびしのこないうちにと、あわてて密書を取りだし、
「もしもし、わたくしはけっしてあやしい人間じゃあございません。この通り秀吉さまへ大事なご書面を持ってまいりましたもの、どうぞよろしくお取次ぎをねがいます。へい、これでございます」
「どれ」
武将は受けとって、と見、こう見、やがて、うなずいてふところに入れてしまった。
「よろしい。帰っても大事ない」
「へい……」
燕作はもじもじして、
「ですが、しつれいでございますが、あなたさまはいったい、どなたでござりましょうか、お名まえだけでもうかがっておきませんと、その……」
「それがしは秀吉公の家臣、福島市松だわ」
「あ、正則さま」
と、燕作はとびあがって、
「それなら大安心、これでわたくしの荷も降りたというわけ。ではみなさんごめんなさいまし、さようなら」
いま、ツイそこでおじぎをしていたかと思うまに、もう燕作のすがたは、松の樹がくれに小さくなって、琵琶湖のほうへスタコラと歩いていた。
「おそろしい足早な男もあるもの――」
福島正則は、家来の可児才蔵と顔をあわせて、しばし、あきれたように竹ノ子笠を見送っていた。
うえの羽織は、紺地錦へはなやかな桐散し、太刀は黄金づくり、草色の革たびをはき、茶筌髷はむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな秀吉が、いま、その姿を、本丸の一室にあらわした。
そこでかれは、腰へ手をまわし、少し背なかを丸くして、しきりに壁をにらんでいる。達磨大師のごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
飯をかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。縦六尺あまり横三間余のいちめんにわたって、日本全土、群雄割拠のありさまを、青、赤、白、黄などで、一目瞭然にしめした大地図の壁絵。――さきごろ、絵所の工匠を総がかりで写させたものだ。
「あるある。安土などよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この摂津の大坂だな……」
この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう一色になっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、西国の猛者どもをおさえるにはちと遠いぞ。――お、これが富士、神州のまン中に位しているが、裾野一帯から、甲信越の堺にかけて、無人の平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
ひとり語をもらしながら、若いのか爺いなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
「秀吉どの――」
かるく背なかをたたいた人がある。
「おお」
われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは右少将徳川家康であった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いやほんのたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご登城」
「ひさしく三法師君にもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、お暇をいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしい品をお手に入れたそうな」
「はて? なにか茶道具の類のお話でもござりますかな」
「いやいや。武田家につたわる天下の名宝、御旗楯無の二品をお手に入れたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例の好みのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできない品で、とんだ背負物でござる。あはははははは」
と、秀吉は、こともなく笑ってのけたが、家康にはいたい皮肉である。穴山梅雪に命じて、じぶんの手におさめようとした品を、いわば不意に、横からさらわれたような形。
しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、黄金千枚を積んで買いもとめたわけでもなく、また決して、御旗楯無の所有慾にそそられたものでもない。要は和田呂宋兵衛という野武士の潜勢力を買ったのだ。
清濁あわせ呑む、という筆法で、蜂須賀小六の一族をも、その伝で利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
かれを手なずけておいて、甲駿三遠四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに間諜の役目をさせておこう、――というのが秀吉のどん底にある計画だ。
と、折からそこへ、
「右少将さまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の本多さまがお国もとからおこしあそばしました」
と、ひとりの小侍が取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
「左少将さま。福島正則さまが、ちとご別室で御意得たいと先刻からおまちかねでござります」
ふたりは、大地図のまえをはなれて、目礼をかわした。
「ではまた、後刻あらためてお目にかかりましょう」
端厳、麒麟のごとき左少将秀吉。風格、鳳凰のような右少将家康。どっちも胸に大野心をいだいて、威風あたりをはらい、安土城本丸の大廓を右と左とにわかれていった。
「野武士のうちにも人物があるぞ」
別室にうつって、福島正則の手から密書をうけ取った秀吉は、一読して、すぐグルグルとむぞうさに巻きながら、
「丹羽昌仙というやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したがこの手紙の要求などをいれることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」
「信玄の孫、伊那丸とやらが、ふたたび、甲斐源氏の旗揚げをいたす兆しが見えると、せっかく、かれからもうしてまいったのに、そのままにいたしておいても、大事はござりますまいか」
「市松、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに援兵をださせて、北条、徳川などの領地をさわがせ、その機に乗じておのれの野心をとげんとする。――秀吉にそんな暇はない、乳くさい伊那丸ごとき者にほろぼされる者なら滅んでしまえ」
「では、だれか一、二名をつかわして、呂宋兵衛のようす、また、武田伊那丸の形勢などを、さぐらせて見てはいかがでござりましょうか」
「む、それはよいな。――だが、待てよ、家康の領内をこえていかにゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、そうかともうして、凡々な小者ではなんの役にも立つまいのう」
「それには、屈強な新参者がひとりござります」
「それやだれだ」
「可児才蔵という豪傑でござる。わたくしじまんの家来、ちかごろのほりだし者と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」
「む、山崎の合戦このかた、そちの幕下となった評判の才蔵か、おお、あれならよろしかろう」
正則は、秀吉のまえをさがって、やがて、この旨を可児才蔵にふくませた。
才蔵は新参者の身にすぎた光栄と、いさんでその夜、こっそりと鳥刺し稼業の男に変装した。そしてもち竿一本肩にかけ安土の城をあかつきに抜けて、富岳の国へ道をいそぐ――
ずっと後年――関ヶ原の役に、剣頭にあげた首のかずを知らず、斬っては笹の枝にさし、斬っては笹に刺したところから、「笹の才蔵」と一世に武名をうたわれた評判男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする変装の鳥刺し、この可児才蔵であった。
剣道は卜伝の父塚原土佐守の直弟子。相弟子の小太郎と同格といわれた腕、槍は天性得意とする可児才蔵が、それとは似もつかぬもち竿をかついで頭巾に袖なしの鳥刺し姿。
「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」
時々は、吹きたくない鳥呼笛をふき、たまには、雀の後をおっかけたりして、東海道の関所から、関所を、たくみに切りぬけてくるうちに、これはどうだろう、かほどたくみに変装したかれを、もうひとりの男が、見えつかくれつ、あとをつけて、慕っていく。
ところが、世の中はゆだんがならない、その男はとちゅうからつけだしたのではなく、じつは、安土の城からくっついてきているのだ。
同じ日に、浜松から安土へきた家康の家臣、徳川四天王のひとり本多忠勝が、こッそりその男をつけさせた。――というのは、竹ノ子笠の燕作が、正則に密書をわたしたようすを、休息所の窓から、とっくりにらんでいたのである。
「はてな?」小首をかしげた忠勝は、主人家康と面談をすましてから、とものなかにいる菊池半助という者をひそかによんだ。そしてなにかささやくと、半助はまたどこかへか立ち去った。
この菊池半助も、前身は伊賀の野武士であったが、わけあって徳川家に見いだされ、いまでは忍術組の組頭をつとめている。いわゆる、徳川時代の名物、伊賀者の元祖は、この菊池半助と、柘植半之丞、服部小源太の三羽烏。そのひとりである半助が、忍術に長けているのはあたりまえ、あらためてここにいう要がない。したがって偽鳥刺しの可児才蔵の後をつけ、落ちつく先の行動を見とどけるくらいな芸当は、まったく朝飯前の仕事だった。
ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山だ
芋でもほッて食うべえか
芋泥棒にゃなりたくない
鳶を捕ッて食うべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃ喰べかねる
そんなら雪でも食ッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
だれだろう? そも何者だろう? こんなでたらめなまずい歌を、おくめんもなく、大声でどなってくるものは。おなかがへッて北山だ
芋でもほッて食うべえか
芋泥棒にゃなりたくない
鳶を捕ッて食うべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃ喰べかねる
そんなら雪でも食ッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
この村には、家はならんでいるが、ほとんど人間はいなくなっているはず。五湖、裾野、人穴、いたる所ではげしい斬り合があったり、流れ矢が飛んできたりしたため、善良な村の人たちは、すわ、また大戦の前駆かと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。
それゆえ、秋の日和だというのに、にわとりも鳴かず、杵の音もせず、あわれにも閑寂をきわめている。いま聞こえたへたくそな歌も、一つはこのせいで、いっそう、素ッ頓狂にもひびいてきこえる。
「やア、こいつア、こいつアこいつアうまいものがあらあ――」
こんどは地声で、人なき村のある軒先に立ち――こういったのは竹童である。
かれが、目の玉をクルクルさせ、よだれをたらして見あげたのは、大きな柿の木であった。上には枝もたわわに、まだ青いのや、赤ずんできた猿柿が、七分三分にブラさがっている。
「こッちの端にある赤いやつはうまそうだなあ。取っちゃあ悪いかしら? かまわないかしら……?」
いつまでも立って考えている。この姿を、果心居士が見たら、なんとあきれるだろう。
口に葉ッぱをくわえているところを見ると、いま、木の葉笛を吹きながら、へんなでまかせを歌ったのもこの竹童にそういない。いったいこの子は、お師匠さまからいいつけられている計略なんか、とっくにドコかへ忘れてしまっているのではないかしら、第一きょうはかんじんな、かの昇天雲である鷲にも乗っていない。
「いいや、いいや。一ツや二ツくらいとってかまうもんか。柿なんか、ひとりでに、地べたから生えてるものなんだ。これを取ったッて、泥棒なんかになりゃしない」
勝手なりくつをかんがえて、ぴょいと、木へ飛びつくと、これはまたあざやかなもの。なにしろ、本場鞍馬の山で鍛えた木のぼり。するッと上がって、一番赤い柿のなっている枝先へ、鳥のようにとまッてしまった。
「べッ、しぶいや」
びしゃッと下へたたきすてる。
「ありがたい――」
次のは甘かったと見える。もう口なんかきいていない。猿のようにカリカリ音をさせて頬ばり、たねだけを下へはきだしている。
「甘いなあ、これで一霜かかればなお甘いんだ。おいらばかり食べているのはもったいない、お師匠さまにも一つ食べさせてあげたいな……」
食うに専念、ことばはブツブツ噛みつぶれた寝言のようだ。このぶんなら、まだ十や十五は食えそうだという顔でいると、どうしたのか竹童、時々、チクリ、チクリと、変に顔をしかめだした。
「ア痛!」と粘った手で頬っぺたをおさえた。
が、またすぐ食う。
木を降りるのもおしいようす。と、一口かじりかけると、またチクリ。
「ちぇッ」と舌うちして襟くびをなでた。こんどは大へん、なでた手がチクリと刺された。
「なんだろう、さっきから――」
そッとさぐってみると、こいつはふしぎ、針だ、キラキラする二寸ばかりの女の縫針。
「あッ!」
そのとたんに、竹童はおもわず肱をまげて顔をよけた。まえの萱葺屋根の家から、射るようなするどい目がキラッとこちらへ光った。
「降りろ、小僧!」
見ると、百姓家のやぶれ廂の下から、白い煙がスーッとはいあがっている。そこには、ひとりのお婆さん、麻のような髪をうしろにたれ、鍋や、糸かけを前に、腰をかけて、繭を煮ながら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている。
柿の木から飛びおりた竹童は、はじめてそこに人あるのを知って、軒先に近より、家の中をのぞいてみると、奥には雑多な蚕道具がちらかっており、土間のすみの土べっついのまえには、ひとりの男がうしろ向きにしゃがんで、スパリ、スパリ、煙草をつけながら火を見ている。
「ごめんよ、あれ、お婆さんとこの柿の木だったのかい?」
竹童は繭の鍋をのぞきながら、たッた一つおじぎをした。
婆さんは、ぎょろッとした目をあげて、
「人みしりをしねえ餓鬼だ。なんだって、人んとこの柿をだまってぬすみさらすのじゃい」
「だからあやまってるじゃないか。ああそうそう、おいらも用があってこの村へきたんだっけ。お婆さん、どこかこのへんに、物をあきなっている家はないかしらなあ」
「でまかせをこけ。この村には、ここともう一軒鍛冶屋よりほかに人はいやしない。そんなことは承知のうえで、柿泥棒にきやがったくせにして」
「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お婆さんとこにあったらゆずってくんないか」
「なんだい」
「松明さ」
「松明?」
「アア、二十本ばかりほしいんだがなあ」
「餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ」
「ちょッといることがあるんだよ。お婆さんの家に持ちあわせはないかね」
「ねえッ、そんなものは!」
といった婆さんの顔を見て、竹童は「あッ」と叫んでしまった。お婆さんの口の中で光った物があったのだ。三、四本の乱杭歯の間を、でたり入ったりしているのは、たしかに四、五十本の縫針だ。
これだ!
さっき柿の木の上まで飛んできて頬っぺたを刺した針は――竹童はむッとした。
「たぬき婆。もう、松明なんかたのまない!」
「なんだと、この小僧」
「よくも、おいらをさんざん悩めやがったなッ」
いきなり腰の棒切れを抜いてふりかぶり、蚕婆の肩をピシリと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわした婆の口から、ピラピラピラピラピラピラピラ糸のような細い光線となって、竹童の面へ吹きつけてきた含み針!
これこそ、剣、槍、薙刀の武術のほかのかくし技、吹針の術ということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、きょうがはじめてである。
「その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の極意」と、かねて聞いていたので、竹童はハッとして、とっさに顔をそむけて飛びのいた。
その時だった。
竹童と蚕婆の問答をよそに土べっついの火にむかって煙草をくゆらしていた脚絆わらじの男が、ふいに戸外へ飛びだしてきた。
男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
「鞍馬山の小僧、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッ赤にし、喉首の手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、畜生。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。小っぽけなぶんざいをしやがって、よくも武田伊那丸の諜者になって、人穴へ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その返報だ、こうしてやる! こうしてやる」
と、なぐりつけた。
「くそウ! おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
と、ぼつぜんと、竹童もはんぱつした。
なりこそちいさいが、必死の力をだすと、大人もおよばぬくらい、ねじつけられている体をもがいて、男の鼻と唇へ指をつッこみ、鷲のように爪を立てた。
「あッ」
これにはさすがの男も、ややたじたじとしたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一目散――
「おまえみたいな下っ端に、からかってなんかいられるもんかい!」
すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ野郎」
男は割合に落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この燕作さまにはひと飛びなんだ」
この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を伊那丸の手先と見て、組みついたはず。
かれは、首尾よく、丹羽昌仙の密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、人穴城の洞門はかたく閉められ、そこここには伊那丸の一党が見張っているので、山寨へも帰るに帰られず、蚕婆の家にかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっ捕らえていったら、さだめし呂宋兵衛さまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい出世仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
いうかと思うまに、もう燕作は、礫のとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど稀代な早足で、日ごろかれが、胸に笠をあてて馳ければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、踵が地についているとは見えない。
竹童も、逃げに逃げた。折角村から蛭ヶ岳の裾を縫って街道にそって、足のかぎり、根かぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう――」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童の襟がみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
そこは、釜無川の下、富士川の上、蘆山の河原に近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、手捕りにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を眉間にみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして呂宋兵衛さまへお供えするから覚悟をしろ」とわめいた。
ひきぬいたのは、二尺四寸の道中差、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい太刀風がかれの耳たぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
哀れ竹童、組打ちならまだしも、駈け競べならまだしものこと――真剣の白刃交ぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとっての技もなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくない樫の棒切れだ。
秋の水がつめたくなって、鮠も山魚もいなくなったいまじぶん、なにを釣る気か、ひとりの少年が、蘆川の瀞にむかって、釣り糸をたれていた。
少年、年のころは十五、六。
すこし低能な顔だちだが、目だけはずるく光っている。鳥の巣みたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた山袴をはいて、腰には鞘のこわれを、あけびの蔓でまいた山刀一本さしていた。
「ちぇッ、釣れねえつれねえ、もうやめた!」
とうとう、かんしゃくを起したとみえて、いきなり竿をビシビシと折って、蘆川のながれへ投げすてた。
「あ、瀞の岩にせきれいが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥うちだ、ひとつ小手しらべにけいこしてやろうか」
と、足もとの小石を三つ四つ拾いとったかと思うと、はるか、流れの中ほどをねらって、おそろしく熟練した礫を投げはじめた。
「やッ――」と、小石に気合いがかかって飛んでいく。
と見るまに、二羽のせきれいのうち、一羽が瀞の水に落ちて、うつくしい波紋をクルクルと描きながら早瀬のほうへおぼれていった。
「どんなもんだい。蛾次郎さまの腕まえは――」
かれはひとりで鼻うごめかしたが、もうねらうべきものが見あたらないので、こんどは、たくみな水切りの芸をはじめた。一つの小石が、かれの手からはなれるとともに、なめらかな水面を、ツイッ、ツイッ、ツイッと水を切っては跳び、切っては跳ぶ、まるで、小石が千鳥となって波を蹴っていくよう。
「七つ切れた! こんどは十!」
調子にのって、蛾次郎がわれをわすれているときだ。
そこから二、三町はなれたところの河原で、ただならぬさけび声がおこった。かれはふいに耳をたって、四、五間ばかりかけだしてながめると、いましも、ひとりの兇漢が、皎々たる白刃をふりかぶって、小ッぽけな小僧をまッ二つと斬りかけている。
それは、燕作と、竹童だった。
竹童はいまや必死のところ、樫の棒切れを風車のようにふって、燕作の真剣と火を飛ばしてたたかっているのだ。しかし、大の男のするどい太刀かぜは、かれに目瞬するすきも与えず、斬り立ててきた。あわや、竹童は血煙とともにそこへ命を落としたかと見えたが、
「あッ――」
ふいに燕作が、唇をおさえながら、タジタジとよろけた。どこからか、風を切って飛んできた小石に打たれたのである。
「しめた!」と、竹童は小さな体をおどらせて、ピシリッと、燕作の耳たぶをぶんなぐった。
「野郎ッ!」
怒髪をさかだてて、ふたたび太刀を持ちなおすと、またブーンとかれの小手へあたった第二の礫。
「ア痛ッ」
ガラリと道中差をとり落としたが、さすがの燕作も、それを拾いとって、ふたたび立ち直る勇気もないらしい。笑止や、四尺にたらぬ竹童にうしろを見せて、例の早足。雲を霞と逃げだした。
「待て。意気地なしめ!」
竹童は、急に気がつよくなって、こんどはまえと反対に、かれを追ってドンドン走りだすと、ちょうど、あなたからも河原づたいに、黒鹿毛の駒を疾風のごとく飛ばしてくるひとりの勇士があった。――見るとそれは秘命をおびて、伊那丸の本陣雨ヶ岳をでた奔馬「項羽」。――上なる人はいうまでもなく、白衣の木隠龍太郎だ。
「や、や、あいつは伊那丸がたの武将らしいぞ」
と、戸まどいした燕作が、その行く先でうろうろしているうちに、たちまちかけよった龍太郎、
「これッ」
と、すれちがいざま、右手をのばして燕作の首すじをひっつかみ、やッと馬上へつるし上げたかとおもうと、
「往来のじゃまだ!」
手玉にとってくさむらのなかへほうりこみ、そのまま走りだすと、こんどはバッタリ竹童にいき会った。
「おお、それへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」ピタリと「項羽」の足をとめて、
「なんでこんなところでうろついているのだ。呂宋兵衛の手下どもに見つけられたら、命がないぞ、はやく鞍馬山へ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お師匠さまからいいつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからいずれへおいそぎですか」
「されば小太郎山へまいって、三百人の兵をかりあつめ、ここ四日ののちに、人穴城を攻めおとす計略」
「わたくしがやる仕事も四日目です。どうも、お師匠さまのおさしずは、ふしぎにピタリピタリと伊那丸さまの計略と一致するのが妙でございます」
「ふーむ……してその密計とはどんなことだ?」
「天機もらすべからず。――しゃべるとお師匠さまからお目玉を食います。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか、まさかわら人形でもありますまいに」
「それも、軍機は語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない、竹童さらば!」
と、ふいに鞭をあげて、行く手をいそぎだそうとすると何者か、
「ばかだな、ばかだなあ! あの人はいったいどこへいくつもりなんだい!」とあざわらう声がする。
木隠龍太郎も竹童も、そのことばにびっくりしてふりかえると、石投げをしていた蛾次郎がいつかのっそりそこに立っていた。
「拙者をバカともうしたのはきさまだな」
龍太郎がにらみつけると、蛾次郎はいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だってお侍さんは、小太郎山へいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この蘆川を大まわりして、甲州街道をグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって駿州路を左にぬけ、野之瀬、丸山、鷲の巣とでて、野呂川を見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしく弁じた。
「なるほど、これは拙者がこのへんに暗いため、無益の遠路につかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、水馬さえ達者なら、らくらくとこせる瀞がある。ここだよ、お侍さん――」
と蛾次郎はまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、川幅も四、五十間、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
と龍太郎はよろこんで、浅瀬から項羽を乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに紺碧の瀞をあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
と、それを見送るとほッとしたさまで、竹童が礼をいうと、蛾次郎はクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げて逃がしてくれたから、その礼をいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、礫を打つのは名人なんだぜ」
と、ボロ鞘の刀をひねくッて、竹童に見せびらかした。
「蛾次郎さんの家はどこだい?」
「おれか、おれは裾野の折角村だ、だがいまあの村には、桑畑の蚕婆と、おれの親方だけしか住んでいないから人無村というほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ卜斎っていう有名な鏃鍛冶だよ。おれの親方の鍛った矢の根は、南蛮鉄でも射抜いてしまうってんで、ほうぼうの大名から何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの秘蔵弟子だ」
「偉いなあ――」竹童はわざと仰山に感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、松明なんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものなら薪にするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
と蛾次郎はずるい目を光らした。
竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「お礼には、鷲に乗せて遊ばしてやら。ね、鷲にのって天を翔けるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
といった。
「ほんとうかい、おい!」蛾次郎は、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、松明さえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
「白旗の宮の森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、松明を二十本持っていったら、きっと鷲に乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知しないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
と、またあけび巻の山刀を自慢した。
木隠龍太郎のために、河原へ投げつけられた燕作は、気をうしなってたおれていたが、ふとだれかに介抱されて正気づくと、鳥刺し姿の男が、
「どうだ、気がついたか」
とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土城で、じぶんの手から密書をわたした福島正則の家来可児才蔵である。
燕作はあっけにとられて、
「あ、いつのまにこんなところへ」と、思わず目をみはった。
「しッ、大きな声をいたすな、じつは、秀吉公の密命をうけて、武田伊那丸との戦のもようを見にまいったのだ、ところで、さっそく丹羽昌仙に会いたいが、そのほう、これより人穴城のなかへあんないいたせ」
「とてもむずかしゅうございます。敵は小人数ながら、小幡民部という軍配のきくやつがいて、蟻ものがさぬほど厳重に見張っているところですから」
「どこの城にも、秘密の間道はかならず一ヵ所はあるべきはず、そちは、それを知らぬのであろう」
「さあ、間道といえば、ことによると蚕婆が、知っているかもしれません。あいつは呂宋兵衛さまの手先になって、それとなくそとのようすを城内へ通じている、裾野の目付婆、とにかくそこへいってききただして見ることにいたしましょう」
と燕作は、可児才蔵のあんないにたって、人無村の蚕婆の家までもどってきた。
「お婆さん、開けてくれないか、燕作だよ。燕作が帰ってきたんだから、ちょっと開けておくれ」
もう日が暮れている。
とざした門をホトホトとたたくと、なかから婆さんがガラリとあけて、灯影に立った可児才蔵のすがたをいぶかしそうに睨めすました。
「だれだい燕作さん、この人は村ではいっこう見たことがないかたじゃないか」
「このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、福島正則さまのご家臣で可児才蔵というお人、昌仙さまの密書で、わざわざ安土城からおいでくだすったのだ」
と説明すると、蚕婆はにわかに態度を変えて、下へもおかぬもてなしよう。茶を煮たり酒をだしたりしてすすめた。
「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの軍兵を秀吉さまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく軍師と会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる燕作のもうすには、しょせん人穴城へは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、呂宋兵衛どのにも軍師にも、会わずにもどるとは残念千万」
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬける秘しみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、裏表にあやしいやつがいないかどうか検めておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは鹿ぐらいなもの――」
というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下の蓆を、グルグルと巻きはじめた。
おやと、燕作がびっくりしている間に、さらに、二畳敷ほどな床板をはねあげると、縁の下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは人穴城の地下洞門のなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
と蚕婆がせきたてると、才蔵は、間道の口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
「婆、杖にして飛びこむから、長押にかかっているその錆槍を、かしてくれい」
と指さした。婆は彼のいう通り、石突きをたよりに、下へ降りるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと才蔵は、
「かたじけない」
と受けとって、ポンと、槍の石突きを下へ降ろすかと見るまに、意外や、電光石火、
「やッ――」
と一声、錆槍の穂先で、いきなり真上の天井板を突いた。とたんに、屋根裏を獣がかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタ響きまわった。
「やッ、なんだ――」
と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく間道のなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらに忍んでいたやつは、徳川家の菊池半助だ、これで隠密落としの禁厭がすんだから、もう安心。燕作、はやくこい!」
「じゃあ婆さん、あとはたのむよ」
と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、蚕婆はすぐもとのとおり床板や蓆を敷きつめ、壁にかかっている獣捕りの投げ縄をつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
かがりのような目を磨ぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八間さきの闇のなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
と――それはまぎれもなく、天井裏で膝を突かれた曲者が、小川の水で傷手を洗っているのだ。頭から足のさきまで、烏のように黒装束をした隠密の男、すなわち徳川家からまわされた菊池半助。
「おうッ!」
ふいに吠えるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の痛手を忘れて、ポーンと小川を跳びこえたが、よりはやく、闇のなかを飛んできた投げ縄の輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへ捕りおとされてしまった。
さすが伊賀衆の三羽烏、菊池半助も、可児才蔵にみやぶられて、錆槍の穂先を膝にうけ、そのうえ、投げ縄にかかって五体の自由を奪われては、どうすることもできない。
「ざまをみさらせ! 命知らずが」
蚕婆が毒づきながら、縄のまま半助をひきずってきて、家の前の柿の木へグルグル巻きにしばってしまった。
「夜明けまでに、手間いらずの法で殺してやる。うぬばかりでなく、この村へ隠密にはいる者はみんなこうだ」
蚕婆は、やがて枯れ木を集めてきて、半助の身辺に積みあげ、端のほうから火をつけてメラメラと燃えあがったのを見ると、そのまま家へはいって寝てしまった。
焔がたっても、はじめのうちは覆面や衣類がぬれていたので、しばらくさまでは思わなかったが、やがて衣類がかわき、枯れ木の火焔が、パチパチと夜風にあおり立てられてくるにつれて、菊池半助は焦熱地獄の苦しみ。
「ア熱ッ、ア熱ッ、アアアアア」
おもわず悲鳴をあげて、必死に縄を切ろうともだえていた。――すると、その火の手を見て、いっさんにかけてきたのは、鏃鍛冶卜斎の弟子蛾次郎であった。
「おうそこへまいったもの、はやく拙者の脇差をぬいてこの縄を切ってくれ、早く、早く!」
「やあどうしたんだお侍さんは? 死んじまうぞ。死んじまうぞ」
「はやくしてくれ、早く助けてくれい」
「助けてやったら、なにをくれる?」
石投げの天才のほか、仕事も下手、もの覚えも悪く、すこし足らない蛾次郎だが、慾にかけては、ぬけめがない、半助は一ときの熱苦もたまらず、うめきながら、
「なんでもつかわすからはやく、ア熱ッ、あッツツツ」
「よし、きっとだぜ」
念を押しながら飛びこんで、蛾次郎は枯れ木の火を蹴ちらし、山刀をぬいて半助の縄目をぶっつり切った。火のなかから跳びだした半助は、ほッとして大地へたおれたが、やにわにまた足の痛手を忘れておどりたった。
「わるいところへ、またあなたからあやしい人の足音がしてまいった。おい、おれに肩をかせ、そして、しばらく休息するところまで連れてゆけ。褒美はのぞみしだいにやろう」
「じゃ、おれの親方の家でもいいかい」
「頼む、あれ、あれ、もう軍馬の蹄がまぢかにせまる」
「たいへんだ! ことによると雨ヶ岳に陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」
蛾次郎もにわかにあわてだして、半助のからだを背負って、一目散にそこを立ちさった。すると、たった一足ちがいに、嵐のように殺到した一団の軍馬があった。
「それ、常からあやしい蚕婆の家をあらためろ!」
「戸を蹴やぶってなかへ、踏ンごめッ」
馬上から十四、五人の武士に、はげしく下知をしたふたりの武士、これなん、伊那丸の幕下でも、荒武者の双龍といわれている加賀見忍剣と巽小文治のふたり。
「おう!」
と部下は武者声をあげるやいなや、蚕婆の家の裏表から、メリメリッ、バリバリッと戸を踏みやぶっておどりこんだ。が、なかは暗澹、どこをさがしても、人かげらしい者は、見あたらなかった。
と、聞いた忍剣は、
「いや、そんなはずはない。たしかにあやしい男と老婆とが、密談いたしていたのを、間諜の者が見とどけたとある。この上は自身であらためてくれる」
と禅杖をひっかかえひらりと馬を飛びおり、巽小文治とともに、家の中へはいっていって八方家探ししたが、部下のことばのとおり、何者もひそんでいなかった。
「ふしぎだ――」
小文治は、そこにもぬけの殻となっている寝床へ手を入れてみて、
「このとおり、まだ人のぬくみがある。さすれば、いよいよ逃げた者こそ、あやしい曲者にそういない」
「む、では寝床のわきの床板をはねあげてみよう」
と、忍剣が先にたって、蓆を巻き、板をはいでみるとたちまち、一間四方の間道の口が、奈落の門のごとく一同の目にうつった。
「おお、これこそ人穴城へ通じる間道にそういない」
「しめた! その方どもはこの口もとを護っていて、あやしい者が逃げまいったら、かならず捕りにがさぬように見張っておれ」
と、いいのこして、忍剣は禅杖をひっ抱え、小文治は槍の石突きをトンと下ろして、ともにまッ暗な間道のなかへとびこんでいった。
あとにのこった部下の者は、ひとしく間道口に目と耳を磨ぎすまして、いまに、なにかかわった物音がつたわってくるか、あやしいやつが飛びだしてくるかと、夜もすがら、ゆだんもなかった。
菊池半助を肩にかけて、まっ暗な人無村をかけていった蛾次郎は、やがて、おおきな荒屋敷の門へはいった。
見ると、そこが卜斎の細工小屋か、東のすみにぽッと明るい焔がみえて、トンカン、トンカン、槌と鉄敷のひびきがしている。そしてときどき、小屋のなかから白い煙とともに、シューッとふいごの火の粉がふきだしていた。
「親方、お客さまをつれてきた、旅のお侍さんで、けがをして難渋しているんだから、今夜とめてやっておくんなさい」
蛾次郎がおどおどしながら、細工場のとなりの雨戸をあけて、ひろい土間へはいると、手燭をもって奥からつかつかとでてきたのは、主人の卜斎であろう。陣羽織のような革の袖なしに、鮫柄の小刀を一本さし、年は四十がらみ、両眼するどく、おまけに、仕事場で火傷でもしたけがか、片鼻が、そげたように欠けている。
人呼んで、鼻かけ卜斎と綽名している名人の鏃師。なにさま、ひとくせありそうな人物である。
「蛾次公、昼間からどこをうろつきまわっているのだ。このバカ野郎め!」
卜斎は、つれてきた半助などには目もくれず、頭からこの怠け者の抜け作などとどなりつけて、さんざん油をしぼったあげく、
「それに、あとで聞けば、てめえは、夕方、物置小屋から二、三十本の松明をぬすみだしていったそうだが、いったい、そんな物をどこへ持ちだして、なんのために使ったのだ。うそをいうとこれだぞ!」
いきなり弓の折れを持って、羽目板をピシリッとうった。その音のはげしいこと、蛾次郎のふるえあがったのはむろん、菊池半助さえ度胆を抜かれた。
卜斎はその時はじめて、半助のほうへ気をかねて、
「まあよいわ、お客人がいるから、てめえの詮議はあとにしよう。ときに旅のお武家さま、なにしろ今夜は更けておりますから、この上の中二階へあがって、ごゆるりとお休みなさるがいい。そこに夜具もある、火の気もある、食い物もある、男世帯の屋敷ですから、好きにしてお泊りなさい」
「かたじけない、ではお言葉にあまえて夜明けまで……」
と、半助はそこにいるのも気まずいので、びっこを引きながら、おしえられた中二階の梯子を、ギシリ、ギシリと踏んでいった。
「はてな……」と、梯子をあがりながら一つの疑念――「どこかで見たことのある男だが? ……ただの鏃師ではない、たしかにどこかで? ……」と、しきりに思いなやんだが、とうとう、中二階へあがるまで考えだせなかった。
卜斎にいわれたまま、押入れから蒲団をだして、そのうえに身を横たえながら、膝の槍傷を布でまきつけていると、また、すぐ下の土間であらあらしい声が起りはじめた。
「野郎、どうあってもいわぬな! いわなければ、こうだッ」
弓の折れがヒュッと鳴ると、蛾次郎がオイオイと声をあげて泣きだした。まるで七つか八つの子供が泣くような声で泣いている。
「いいます、親方、いいますからかんべんしてください」
「では、何者にたのまれて、松明を盗みだした。さ、ぬかせ」
「白旗の森にいる、竹童というわたしより五歳ばかり下の童にたのまれたんです。その者にやりました」
「あきれかえったバカ者だ。じぶんより年下の餓鬼に、手先に使われるとは情けないやつ、しかし、てめえもなにかもらったろう。ただで松明をやるはずがない」
「いいえ、なんにももらいなんかしやしません」
「まだいいぬけをしやがるか!」
またピシリッと弓の折れがうなる、蛾次郎がヒイヒイと泣く、すぐその上にいる菊池半助は、これではとても今夜は寝られないと思った。
それに気をいらいらさせられたか、かれは寝床からはいだして、ふたたび梯子口からコマねずみのようにそッと顔をだした。そのとき、半助ははじめて、卜斎の姿容を、よく見ることができて、思わず、
「あッ」と、すべりでそうな声をかみころした。
「どこかで見たと思ったはず――あれは、越前北ノ庄の主、柴田権六勝家の腹心だ――おお、鏃師の鼻かけ卜斎とは、よくも巧みに化けたりな、まことは、鬼柴田の爪といわれた上部八風斎という軍師築城の大家。いつも柴田権六が、攻略の軍をだすときに、そのまえから敵の領土へ住みこんで、砦のかまえ、水利、地の理、残るくまなくさぐって、一挙に掌握するという、おそろしい人物だ。――その八風斎がこの裾野へ巣を作ったところをみると、さては、野心のふかい柴田勝家、はやくも天下をこころざす足がかりに、この一帯へ目をつけたものだろう。武田伊那丸といい呂宋兵衛といい、また秀吉の手の者が入りこんだことといい、いちいち徳川家の大凶兆。こりゃ、裾野一帯いよいよゆだんのならぬものばかりだ……」
半助は、耳を畳にこすりつけて、さらに、階下の声を一語も聞きもらすまいと息をのんでいた。と、下ではまた卜斎の声で、
「なに? ではその竹童という童に、二十本の松明をくれて、そのかわりに鷲にのせてもらったというのか。やい! 泣きじゃくってばかりいたのではわからぬわい。はっきりと口をきけ」
「そ、そうなんです……」
ベソをかきながら答えてるのは蛾次郎の声だ。
「松明を持っていったら、そのお礼に大きな鷲の背なかへ乗せてくれましたから、白旗の森の上から空へあがって、五湖や裾野の上をグルグルとまわってまいりました」
「そうか、それでしさいがわかった」
と卜斎はうなずいて、なお、竹童のようすや、鷲のことなどをつぶさにただしたから、蛾次郎はゆるされるのかと思っていると、荒縄で両手をしばりあげたまま、松明をぬすみだした物置小屋のなかへ三日間の監禁をいいわたされてほうりこまれてしまった。
そのあとは、卜斎も寝入り、細工小屋の槌音もやんでシーンと真夜中の静けさにかえったが、半助だけは、うすい蒲団をかぶって横になりながらも、まだ寝もやらず目をパチパチとさせていた。
「鷲、鷲! 竹童というやつが、自由自在につかう飛行の大鷲! おお、そいつを一つ巻きあげて、こんどの手柄としてかえろう……」
とかれは、ふと思いついた胸中の奇策に、ニタリと悦をもらしたが、そのとき、なんの気なしに天井を見あげるや否、かれは、全身の血を氷のごとく冷たくして、
「や、や、やッ」と、目をむいて、ふるえあがった。
菊池半助が、身をすくませたのも道理、中二階の天井には、いちめんの鉄板が張ってあって、それに、氷柱のような、無数の鏃が植えてあるのだ。
剣の切ッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに隠身自由、怪力無双なものでも、五体は蜂の巣となって圧死してしまうであろう。
「釣り天井――」
半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ卜斎の八風斎は、すでに徳川家の伊賀衆菊池半助ということを見破ったにそういない――と半助は、こころみに梯子口をのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい陥穽が伏せてあるようす、ほかに出口はむろんない。
半助は絶体絶命となった。
けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめ命をおとすような菊池半助ではない。
かれは脇差をぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいの穴を切りぬいたかとおもうと、ほとんど、猫が障子の穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一丈四、五尺の上から大地へポンと跳びおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる蛾次郎を助けだした。
「あッ、お武家さん――」
蛾次郎が素ッ頓狂な声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば伊賀衆の組頭、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、卜斎に気取られぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
蛾次郎が闇のなかへ飛んでいくと、そのとたんに半助のあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい家鳴り震動。ふり仰いでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、濛々たる土煙が噴きだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが釣り天井の綱を切ったんだろう。そんな壺におちるような者は、伊賀衆の中には一ぴきもいるもんか」
せせら笑っていると、ふいに、家のなかから轟然たる爆音とともに、火蓋を切った種子島のねらい撃ち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
バラバラとかけだしていくと、暗闇から牛をひきだしたという諺どおり蛾次郎のうろたえよう。
「お侍さん、――お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
と蛾次郎が手をたたくと、その音をたよりにねらった鉄砲の弾が、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火の縞を走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
ふいに、蛾次郎が胆をつぶして腰を抜かしたらしい弱音。
「えい、泣くなッ」
と叱りつけた菊池半助。いったい、この厄介者をなんに利用しようとするのか、むんずと横脇にひっかかえて馬の鞍壺にとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、人無村から闇の裾野へ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。
いっぽう、蚕婆の家の床下から、人穴城の間道をすすんでいった加賀見忍剣と巽小文治。
瞳はいつか闇になれたが、道は暗々として行く手もしれない。冥府へかよう奈落の道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリと襟もとに落ちてくる雫のつめたいこと。たえず、冷々と面をかすめてくる陰森たる風、ものいえば、ガアンと間道中の悪魔がこぞって答えるようにひびく。
――と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっと面をふかれたその痛さ。忍剣どのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた蝙蝠のたぐいじゃ」
と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさに面を刺されて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふと衣の上に、霜のように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ! 針だッ」
と叫んだ。
「えッ、針?」
その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、白髪をさかだてたひとりの老婆が蜘蛛のように岩肌に身を貼りつけて、プップップッとたえまなく、ふたりの面へ吹きつけてくる針の息……
おお、それこそ竹童がなやまされた蚕婆の秘術吹針の目つぶしだった。
早足の燕作と可児才蔵は、蚕婆より一足先に抜け穴へはいったので、すぐあとにおこった異変もなにも知らず、ただひた走りに、地下三十三町の間道を人穴城へいそいでいく。
目というものがあっても、ここでは、目がなんの役にも立たない暗黒界、けれど、足もとは坦々とたいらであるし、両側は岩壁の横道なし。――いくら盲めっぽうに進んでも、けっして、迷う気づかいはないと、燕作はいつもの早足ぐせで、才蔵よりまえにタッタとかけていったが、やがてのこと、
「ホイ! しまったり!」
目から火でもだしたような声で、勢いよく四ンばいにつんのめった。あとからきた才蔵も、あやうくその上へ折りかさなるところを踏みとどまって、
「どうした燕作」と声をかける。
「オオ、痛え! 才蔵さま、どうやらここは行止まりのようです」
「どんづまりにはちと早い、あわてずによくさぐってみい……おおこりゃ石段ではないか」
「え、石段?」
「人穴城は、裾野より高地となるから、この間道が、しぜんのぼりになるのは、はや近づいた証拠といえる」
才蔵がのぼっていく尾について、燕作も石段の数をふんでいく……と道はふたたび平地の坂となり、それをあくまで進みきると、こんどこそほんとうのゆきづまり、手探りにも知れる鉄の扉が、ゆく手の先をふさいでいた。
「燕作燕作、殿堂の間道門は、すなわちこれであろう。なんとかして、なかの者にあいずをするくふうはないか」
「とにかく、どなってみましょう」
と燕作は鉄門の前に立って、器量いっぱいな大声。
「やアやア搦手がたの兄弟、丹羽昌仙さまの密書をもって、安土城へ使いした早足の燕作が、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門」
鉄壁をたたいて呼ばわッたとたん、頭の上からパッとさしてきた龕燈のひかり、と見れば、高いのぞき窓から首を集めて、がやがや見おろしている七、八人の手下どもの顔がある。
「おお、いかにも、燕作にちがいないらしいが、あとのひとりは人穴城で見たこともないやつ、軍師さまの厳命ゆえ、さような者は、ここ一寸も、とおすことまかりならん。開門ならん」
「ヤイヤイ、しつれいをもうしあげるな」
と、燕作はまばゆい光をあおむいて、
「鳥刺し姿に身をやつしておいでなさるが、このお方こそ、秀吉公の帷幕の人、福島さまのご家臣で、音にきこえた可児才蔵とおっしゃる勇士だ。うたがわしく思うなら、とッとと軍師さまのお耳に入れてくるがいい」
「なんだ、福島正則さまのご家来だと?」
おどろいた手下どもは、すぐことの由を、丹羽昌仙へ告げにいった。昌仙は、燕作の吉報をまちかねていたところなので、すぐさま、大将呂宋兵衛とともに、間道門のてまえまで、秀吉の使者を出むこうべくあらわれた。
しばらくすると、鉄の閂をはずす音がして、明暗の境をなすおもい扉が、ギ、ギ、ギイ……と一、二寸ずつ開いてきたので、暗黒のなかに立っていた才蔵と燕作のすがたへ、一道の光線が水のごとくそそぎ流れた。
「はるばるお越しくだされた可児才蔵さま、いざお入りくだされい」
内よりおごそかな声があって、門扉は八文字にひらかれた。――と、ほとんど同時である。またも間道のあなたから、疾風のように走ってきた人間がある! すでに才蔵と燕作がなかへはいって、ふたたびギーッと門が閉まろうとするところへ、あわただしくきて、
「大へんだ! わたしを入れて、はやくあとを閉めておくれよ」
ころぶようにたおれこんだ蚕婆、いつものし太さに似ず、いきた色もしていない。
「おお裾野の見付婆、大へんとはなんだなんだ」
一せいに色めきたつ人々を見まわして、蚕婆は歯をむきだして、がなッた。
「なんだもかんだも、あるもんか、はやくはやく、さきに門を閉めなきゃ大へんだ、いまわたしのあとから忍剣と小文治というやつが追っかけてくる!」
「えッ、伊那丸の旗本がおいかけてくるッて? それは、ここへか、こっちへか?」
「くどいことはいっておられないよ、あれ、あの足音がそうだ! あの足音だ!」
「それッ、かたがた、はやく門をとじて厳重にかためてしまえ」
「やア、もうそこへ姿がみえた」
「閂はどうした!」
「くさりをかせ! 鎖を!」
「わーッ、わーッ」
――ととつぜん、暴風にそなえるように、うろたえた手下どもは、扉へ手をかけて、ドーンという響きとともに、間道門を閉めてしまった。
「むねんッ」
と、その下にふたりの声。ああ、たった一足ちがい――
蚕婆を追いつめて、人穴城のかくし道をきわめてきた忍剣と小文治は、いでや、このまま城内へ斬って入ろうと勢いこんできたところを、内からかたく閉められてじだんだ踏んだ。
「卑怯なやつら、臆病ぞろいよ! わずかふたりの敵をむかえることができぬのか、和田呂宋兵衛の下ッぱには男らしいやつは一ぴきもいないのか、くやしければ、開けろ、開けろッ!」
さんざんにいいののしったが、こッちでののしれば、内でもののしり返すばかり、果てしがないので、
「えい、めんどうだッ」
手馴れの禅杖を、ふりかまえた加賀見忍剣、どうじに巽小文治も、
「よし、拙者は、あれからとびこんでゆく」
と、槍を立てかけて、足がかりとなし、十数尺上ののぞき口へ、無二無三にとびつこうとこころみた。
グワーン!
たちまち、雷火をしかけたように、鉄門をとどろかした忍剣の第一撃! この鉄の扉が破れるか、この禅杖が折れるかとばかり。
つづいて、第二、第三撃!
間道門のなかでは、呂宋兵衛をはじめ丹羽昌仙、轟又八、そのほか燕作も蚕婆もおおくの手下どもも、思わず胆をひやして、ただ、あれよあれよとおどろき見ているまに、さしもの鉄壁も、飴のようにゆがんでくる。
すわこそ、人穴城の一大事となった。
呂宋兵衛はまッさおになった。
手下どもも、見えぬ敵の恐怖におそわれた。こんな猛者に、ふたりもおどりこまれた日には、よしや、城内に二千の野武士はあるとも、どれほど死人手負いの山をきずかれるか、さいげんの知れたものではないと思った。
「なにを気を呑まれているか! 意気地なしめ!」
ふいに、そのなかで、思いだしたようにどなったのは轟又八。
「すこしもはやく、水道門の堰をきって、間道のなかへ濁水をそそぎこめ、さすれば、いかなる天魔鬼神であろうと、なかのふたりが溺れ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの怪我人もなくてすむわ」
あっぱれ名案と、誇りがましく命令すると、手下どもが、おうと答えるよりはやく、
「いや、そりゃ断じていかん」
はげしく異議を申したてた者は、軍師丹羽昌仙であった。かれとは、つねに犬と猿の仲みたいな轟又八、すぐ眉をピリッとさせて、
「こういうときの用意のため、いつでも水道門の堰さえきれば、間道はおろか裾野一円、満々と出水になるようしかけておいた計略ではないか。軍師には、なんでお止めなさる」
「おろかなことをお問いめさるな、それ、溺兵の計りごとは、一城の危急存亡にかかわるさいごの手段、わずかふたりの敵をころすために、なんでそれほどの費えをなそうや」
「心得ぬ軍師のいい条、では、みすみす間道門をやぶられて、ここにおおくの手負いをだすとも、大事ないといいはらるるか」
「なんで昌仙が、それまで手をつかねて見ていようぞ、拙者にはべつな一計があること、又八どのは、それにてゆるりとご見物あるがよい。やあ者ども、この鉄門の前へ焼草をつみあげい」
たちまち、山と積まれた枯草の束。はこばれてくる獣油の瓶、かつぎだされた数百本の松明。
洞門のなかでは、それとも知らず、必死にあえぐ忍剣と小文治のかげ。と――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から投げこんできた枯草のたば! つづいて焔のついた松明、獣油の雨、火はたちまちパッと枯草についた。いや、ふたりの袖や裾にもついた。
火は消しもする、はらいもする、が、もうもうと間道のなかへこもりだした煙はおえぬ。しかも異臭をふくんだ獣油の黒煙が、でどころがなく、渦をまいてふたりをつつんだ。
目からはしぶい涙がでる。鼻腔はつきさされるよう、咽はかわいて声さえでぬ。……そこにしばらくもがいていれば煙にまかれて窒息はとうぜんだ。ふたりは歯ぎしりをしながら、煙におしだされて、しだいしだいにあともどりした――といっても、充満している煙の底をはいながら……
間道の半ば過ぎまで引っかえしてきたころ、ふたりは、やっとどうやらうす目をあいて、たがいにことばをかわせるようになった。
「や、小文治どの、どうやらここは、先刻すすんでいった間道とはちがうようではないか」
「拙者もすこし変に思ってはいるが、たしかいきがけには、ほかに横穴はないように心得ていた」
「しかし、このように両側のせまい穴ではなかったはず……はてな? こりゃちとおかしい……」
「忍剣どの、また煙の渦がながれてきた。とにかく、もどるところまでもどってみよう」
「せっかく、人穴城の根もとまで押しよせたに、煙攻めの策にかかって引ッ返すとは無念千万……ああまたまっ黒に包んできおった」
「ちぇッ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしておれぬわ」
さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つ術がなかった。息づまる苦しさと、目にしむ涙をこらえながら、いっさんにその穴を走りもどった。
からくも、前にはいった床下へきた。まさしく、蚕婆の家の下にちがいない。とちゅうの道がちがっているように思えたのも、さすれば、煙のための錯覚であったかもしれない。
「こりゃ部下の者、この板を退けて、綱をおろせ、早く早く!」
と小文治が、槍の石突きを上へむけて、蓋の板を下からポンポンと突きあげた。
すると、入口に待ちかねていた部下の者であろう、板をはがして、二本の綱を無言のまま下へたれてきた。それを力に、忍剣と小文治は、ひらりと上へとびあがる!
――あがったところはまッ暗であった。
だれかが、カチカチ……と火打石を磨っている。部下は二十人ばかり、ここへ置いていったのに、イヤにあたりが静かである。
カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなかにつかない……
「たわけ者め!」
忍剣は、部下の不用意を叱りつけた。じぶんたちがいない間に、あるいは、軍律を破って、夜半の眠りをむさぼっていたのではないかとさえうたぐった。
「なぜ、かがり火を焚いておらぬ、この暗さで、いざことある場合になんといたす。不埒者めが、はやく灯をつけい!」
「はい、ただいますぐに明るくいたします」
と答える者があったが、すこし声音がへんである。調子がおかしい。
小文治は、部下の者のなかにこんなしわがれた声はなかったはずと思って、きッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
と、声あらく、どなりつけてみた。
にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチと闇のなかで、火打石を磨っている。
「名を申さんと突きころすぞッ、敵か、味方か!」
ピラリッ――朱柄の槍の穂先がうごいて、闇のなかにねらいすまされた。と、その槍先から、ポーッとうす明るい灯がともった。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に床下から忍びこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
「やや、ここは蚕婆の家ではなかったのか――」
忍剣も小文治も、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立ったひとりの人物を、そも何者かと、みつめなおした。
いまともした行燈を前にだして、しずかに席についたその男は、するどい両眼に片鼻のそげた顔をもち、熊の毛皮の胴服に、刻み鞘の小太刀を前挟みとなし、どこかにすごみのあるすがたで、
「あははははは、床下から戸まどいしてござったのは、さてこそ、伊那丸が幕下のおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりください」
いう声がら、容貌も、それは、まぎれもあらぬ鏃鍛冶の鼻かけ卜斎。
意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに部屋のなかをながめまわした。
ここは卜斎の書斎とみえて、兵書、武器、種々な鏃の型図面などがざったにちらかっており、なかにも一挺の種子島が、いま使ったばかりのように、火縄をそえて、かれのそばにおいてあった。
「いかにもご推察のとおり、われわれはいま雨ヶ岳を本陣としている、武田伊那丸さまの旗本でござるが、してそこもとは何人? またここはいったいいずこでござりますか?」
ややあって、忍剣が、こう問いただした。
「ここは、やはり裾野の村、おふたりが間道へはいられた蚕婆の家から、さよう、ざっと五、六町はなれた鏃鍛冶の小屋でござる。すなわち、手まえは主の卜斎ともうす者」
「ではそちも、鏃鍛冶とは世をあざむく稼業で、まことは蚕婆とおなじように、人穴城の見付をいたしているのであろうが!」
小文治が、グッと急所を押すと、卜斎は、ひややかに嘲笑って、
「とんでもないこと、けっしてさような者ではございません」
「だまれ、呂宋兵衛の隠密でない者が、なんで床下から間道へ通じるようにしかけてあるのだ」
「なるほど、それはごもっともなおうたがいじゃ。いかにもこの卜斎鏃鍛冶とはほんの一時の表稼業で、まことはおさっしのとおり隠密にそういない」
「さてこそ、間者!」
小文治と忍剣は、腰の大刀をグイとにぎって、あわやおどりかからんずる気勢をしめした。
片手を斜めにさし向けて、きッと、体をかまえなおした卜斎、
「じゃが、おさわぎあるなご両所、隠密は隠密でも、呂宋兵衛のごとき曲者の手先となって、働くような卜斎ではございません――」
と、左右のふたりへ、するどい眼をそそぎながら、
「――まことかくもうす卜斎こそは、北国一の雄、柴田権六勝家が間者、本名上部八風斎という者、人穴の築城をさぐろうがため、ここに鏃師となって、家の床下から八ぽうへかくし道をつくり、ここ二星霜のあいだ、苦心していたのでござる」
「おう……」うめくがようにふたりは顔を見あわせて、
「音にきこえた鬼柴田のふところ刀、上部八風斎とはそこもとでござったか。してその御人が、なんのご用ばしあって、われわれをお止めなされた」
「されば、それがしの主君勝家より密命があって、ご不運なる武田家の御曹司へ、ひとつの贈り物をいたそうがため」
「はて、柴田家より伊那丸君へ、そもなんの贈り物を?」
「すなわちこの品――」
と、八風斎がしめしたのは、かれが学力の蘊蓄をかたむけて、くまなくさぐりうつした人穴の攻城図、獣皮につつんで大せつに密封してあるものだった。
「――かねてから主君勝家は、若年におわし、しかも、孤立無援に立ちたもう伊那丸さまへ、よそながらご同情いたしておりました。折から、このたびのご苦戦、ままになるなら、北国勇猛の軍馬をご加勢に送りたいは山々なれど、四隣の国のきこえもいかが、せめては武家の相身たがい、弓取り同士のよしみの印までにもと、この攻城図を、ご本陣へさしあげたいというおいいつけ」
「なんといわるる、ではそこもとが、苦心に苦心をかさねて写されたこの秘図を、おしげもなく、伊那丸さまへおゆずりなさろうとおっしゃるか」
「いかにも、これさえあれば、人穴城の要害は、掌をさすごとく、大手搦め手の攻め口、まった殿堂、櫓にいたるまで、わが家のごとく知れまする。すなわちこの一枚の図面は、千人の援兵にもまさること万々ゆえ、一刻もはやく、ご本陣へまいらせたいこのほうの志、なにとぞ、伊那丸さまへ、よしなにお取次ぎを」
「ああ、世は澆季でなかった」
と、忍剣も小文治も、胸をうたれずにおられなかった。
越前北ノ庄の鬼柴田といえば、弱肉強食の乱世のなかでも、とくに恐ろしがられている梟雄だのに、こんな美しい、情けの持主であろうとは、きょうまで夢にも知らなかった。――なんとゆかしい弓取りのよしみであろう。
そして、むろんこれはこばむことではないと思った。
さだめし、伊那丸さまをはじめ同志の人々がよろこぶことと信じて、そくざに、八風斎の願いをゆるし、雨ヶ岳の本陣へあんないすることを快諾した。
八風斎も欣然として、衣服大小をりっぱにあらため、獣皮につつんだ図面を懐中にいれ、ふたりのあとについて屋敷をでた。
いっぽう、蚕婆の家で、たむろをしていた部下の者たちは、床下の穴から濛々たる煙がふきだしてきたので、すわこそ、忍剣と小文治の身のうえに、変事があったにちがいないと、すくなからずさわぎあっていた。そこへ意外な方角から、ふたりが無事でかえってきたので、一同あッけにとられてしまった。
やがて、勢ぞろいをして、人無村をでてゆく一列の軍馬を見れば、まッさきに馬上の加賀見忍剣、おなじく騎馬たちの上部八風斎、巽小文治、それにしたがう二十余人の兵。――この一列が整々として雨ヶ岳の本陣へかえってくるまに、富士の山は、銀の冠にうす紫のよそおいをして、あかつきの空に君臨し、流るる霧のたえまに、裾野の朝がところどころ明けかけてくる。
人無村の柿の木には、今朝も烏がむれていた。
富士川の名物、筏舟に棹さして、鰍沢からくだる筏乗りのふうをよそおい、矢のように東海へさして逃げたふたりのあやしい男がある。
海口へ着くやいな、しぶきにぬれた蓑笠とともに、筏をすて、浜べづたいに、蒲原の町へはいったすがたをみると、これぞまえの夜、鼻かけ卜斎の屋敷から遁走した菊池半助。つれているのは、そのときゆきがけの駄賃に、かどわかしてきた泣き虫の蛾次郎だ。
十五、六にもなりながら、人にかどわかされるくらいな蛾次郎だから、むろん、じぶんではかどわかされたとは思っていない。バカにしんせつで、じぶんを出世さしてくれるいいおじさんにめぐりあったと心得ている。
「蛾次郎、もうここまでくれば、どんなことがあっても安心だから、かならずしんぱいしないで元気をだすがいい」
半助がふりかえっていうと、あとから宿のにぎやかさに、キョロつきながら、のこのこと歩いてきた蛾次郎、すこし口をとンがらせながら、
「元気をだせったッて、元気なんかでやしねえや、お侍さんはよく腹がすかないねえ」
「ははア、どうもさっきからきげんがわるいと思ったら、空腹のために、ふくれているんだな」
「だってゆうべッから、一ッ粒もごはんを食べないんだもの、それで今朝になっても、まだ歩いてばかりいちゃあ、いくらおれだってたまらねえや」
「まて、もうすこしのしんぼうじゃ。向田ノ城へまいれば、なんでも腹いッぱい食わせてやる」
「もうだめだ、アア、もう歩けない、なにか食べなくッちゃ目がまわりそうだ……」
なれるにしたがってそろそろ尻尾をだしてきた蛾次郎は、宿場人足がよりたかって、うまそうに立ち食いしている餅屋の前へくると、ぎょうさんに、腹をかかえてしゃがんでしまった。
半助はにが笑いして、いくらかの小銭をだしてやった。それをもらうと、蛾次郎は人ごみをかきわけてふところいッぱい焼餅を買いもとめ、ムシャムシャほおばりながら歩きだした。
間もなく、ふたりのまえに見えた向田ノ城。
ここの砦には、富士、庵原、二郡をまもる徳川家の松平周防守康重がいる。菊池半助は、その人に会って、じぶんが探知した裾野の形勢をしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。
書状の内容は、徳川家の領内である富士の人穴を中心に、裾野一帯の無人の広野に、いまや、呂宋兵衛だの、伊那丸だの、あるいは秀吉の隠密、柴田勝家の間者などが、跳梁して、風雲すこぶる険悪である。はやく、いまのうちに味方の兵をだして、それらの者を、掃滅しなければ一大事で。――という意味のものであった。
その密談のあいだに、
「ちぇッ、ばかにしてやがら」
城内の一室で、プンプンしていたのは蛾次郎である。もう焼餅を食べつくし、腹はいっぱいになったが、まさか寝ることもできず、半助はいつまでも顔を見せないし、遊ぶところはなし、文句のやり場のないところから、ひとりでブツブツこぼしている。
「いやンなっちゃうな。どうしたんだい、あの人は、向田ノ城へいったら、なんでも好きなものはやるの、うまいものは食いほうだいだのッて、いっておいてよ、ちぇッくそ! ばかにしてやがら、うそつき! 菊池半助の大うそつき!」
腹いせにわめいていると、ふいに、そこへ半助がはいってきたので、さすがの蛾次郎も、これにはすこし間が悪かったとみえて作り笑いをした。
「蛾次郎、さだめしたいくつであったろう」
「ううん、そんなでもなかったよ、だけれど、菊池さんはいままでいったいどこへいってたのさ」
「その方をりっぱな侍に取り立ててやりたいと、城主周防守さまとそうだんしてまいったのだ。どうだ蛾次郎、きさまもはやくりっぱな侍になり、堂々と馬にのったり、多くの家来をかかえて、こんなお城に住んでみたくはないか」
「うふふふふふ、おれをその侍にしてくれるのかい」
蛾次郎は、目をほそくしてうれしがった。
「きっとしてやる。が、それには、ぜひなにか一つの手柄をあらわさなければならん」
「手柄をあらわすには、どんなことをすりゃいいんだろう」
「その方法は拙者がおしえてやる。しかも蛾次郎でなければできぬことがあるのだ。これ、耳をかせ……」
と半助は、なにやらひそひそささやくと、蛾次郎は目をまるくして、あたりもかまわず、
「えッ、じゃあの竹童の使っている大鷲を、おれがぬすんでくるのかい!」
「シッ、大きな声をいたすな。――そちはたしか、あの大鷲に乗せてもらった経験があるだろう」
「ある、ある。竹童が松明をくれッていったから、それを持っていって、一晩じゅう、鷲に乗せてもらったよ」
「さすれば、あの小僧が鷲をつないでおくところも、鷲の背に乗ることも、そちはじゅうぶんに心得ているはず――じつは近いうちに、あの辺で大きな戦がおきるのだ、そのさわぎに乗じて、竹童の鷲を徳川家の陣中へ乗りにげしてくれればそれでよいのだ。なんと、やさしいことではないか」
「だけれど、……もしかやりそこなうと大へんだな、竹童ッてやつ、ちびでもなかなか強いからな」
「蛾次ッ」
半助がこわい目をしたので、かれは、ギョッとして飛びのいた。
「いやといえばこれだぞ――」
ギラリと脇差をぬいて、蛾次郎の鼻ッ先へつきつけた菊池半助は、また、左の手で、袂からザラザラと小判をつかみだして、刀と金をならべてみせた。
「おうといえば褒美にこれ。イヤといえば刀で首。さアどっちでもよい方をのぞめ」
菊池半助の書面が、家康の本城浜松へつくと同じ日にいくさになれた三河武士の用意もはやく、旗指物をおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の軍兵。
精悍無比ときこえた亀井武蔵守の兵七百、内藤清成の手勢五百、加賀爪甲斐守の一隊六百余人、高力与左衛門の三百五十人、水野勝成が後詰の人数九百あまり、軍奉行は天野三郎兵衛康景。
法螺、陣鐘の音に砂けむりをあげつつ、堂々と街道をおしくだり、蒲原の宿、向田ノ城にはいって、松平周防守のむかえをうけた。
ここで、裾野陣の大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍犬巻峠の嶮をこえて、富士河原を乗りわたし、天子ヶ岳のふもとから南裾野へかけて、長蛇の陣をはるもよう。
西をのぞめば、雨ヶ岳のいただきを陣地とする武田伊那丸の一党、北をみれば、人穴城にたてこもる呂宋兵衛の一族、また南の平野には、葵の旗指物をふきなびかせて、威風りんりんとそなえた三千の三河武士がある。
ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
甲を攻めれば乙きたらん、乙を討たんとせば丙突かんという三角対峙。はたしてどんな駈引きのもとに、目まぐるしい三つ巴の戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ予測すべからざるものとなった。
けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の千草を庭としてあそぶ、鶉や百舌や野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
ちょうどそれとおなじように、のんきの洒アな顔をして、またぞろ、裾野へ舞いもどってきた泣き虫の蛾次郎はばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。
「木隠が出立してから、きょうで、はや四日目。――かれのことだ。よも、裏切りもすまいが、なんの沙汰もないのは、どうしたのか。おいとしや、若君のご武運もいまは神も見はなし給うか」
床几によって、まなこをとじながら、こうつぶやいた小幡民部。
ここは、陣屋というもわびしい、武田伊那丸のいる雨ヶ岳の仮屋である。軍師民部は、きのうから幕のそとに床几をだして、ジッと裾野をみつめたまま、龍太郎のかえりを、いまかいまかと待ちかねていた。
が――龍太郎のすがたはきょうもまだ見えない。四日のあいだには、かならず兵三百を狩りあつめて、帰陣すると誓ってでた木隠龍太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこない。
いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、人穴城を攻めこころみて、散るか咲くかの、さいごの一戦! それよりほかはみちがない。すでに兵倦み、兵糧もとぼしく、もとより譜代の臣でもない野武士の部下は、日のたつほどひとり去りふたりにげ、この陣地をすて去るにちがいない。
「軍師、軍師、小幡民部どの!」
ふいに、耳もとでこうよぶ声。
あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、巽小文治と加賀見忍剣が連れ立ってそこにある。
「オ。これはご両所、なんぞご用で」
「一昨日からかなたにあって、待ちわびている者が、もういちどこれを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申して、いッかなきかぬ。――軍師から伊那丸さまへ、もういちどおことばぞえねがわれまいか」
「おお、上部八風斎のことですか、その儀は、拙者からも再三若君のお耳へいれたが、断じて会わんという御意のほか、一こうお取上げにならぬしまつ。事情をいうて追いかえされたがよろしかろう」
「は」
といったが、ふたりの面はとうわくの色にくもった。
じぶんたちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかったか。伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのである。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、この雨ヶ岳をくだらぬといい張って、うごく気色もなかった。
忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎はだだをこねるし、伊那丸はきげんがわるい。これでは立つ瀬がないと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふいに、帳のかげから伊那丸の声で、
「民部、民部やある」
としきりに呼ぶ。
「はッ」
とりいそいで、幕のなかへ姿をいれた小幡民部は、ふたたびそこへ立ちもどってきて、
「よろこばれよご両所、にわかに若君が、八風斎に会ってやろうとおおせだされた。御意のかわらぬうち、いそいで、かれをここへ」
といった。
間もなく、上部八風斎はあなたの仮屋から、忍剣と小文治にともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、どんな人物かとかれを見るに、鼻かけ卜斎の名にそむかず、容貌こそ、いたってみにくいが、さすが北越の梟雄鬼柴田の腹心であり、かつ攻城学の泰斗という貫禄が、どこかに光っている。
「八風斎どの、それへおひかえなさい」
制止の声とどうじに、バラバラと陣屋のかげからあらわれた槍組のさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。
と――武田菱の紋を打ったまえの陣幕が、キリリと、上へしぼりあげられた。
見れば、正面の床几に、気だかさと、美しい威容をもった伊那丸、左右には、山県蔦之助と咲耶子が、やや頭をさげてひかえている。
「これは……」
と、槍ぶすまにひるまぬ八風斎も、うたれたように平伏した。
初対面のあいさつや、陣中の見舞いなどをのべおわってのち、八風斎は、れいの秘図をとりだし、主人勝家からの贈り物として、うやうやしく、伊那丸の膝下にささげた。
が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向きもしないで、にべなくそれをつッかえした。
「ご好意はかたじけないが、さようなものはじぶんにとって欲しゅうもない。持ちかえって、柴田どのへお土産となさるがましです」
「は、心得ぬ仰せをうけたまわります。主人勝家こそははるかに御曹司のお身の上をあんじている、無二のお味方、人穴城をお手にいれたあかつきは、およばずながらよしみをつうじて、ご若年のお行く末を、うしろだてしたいとまでもうしております。……なにとぞ、おうたがいなくご受納のほどを」
「だまれ、八風斎!」
はッたとにらんだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸をすくませた。
「いかに、汝が、懸河の弁をふるうとも、なんでそんな甘手にのろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせよう計りごとか、または、後日に、人穴城をうばおうという汝らの奸策、この伊那丸は若年でも、そのくらいなことは、あきらかに読めている」
「うーむ……」
うめきだした八風斎の顔は、見るまにまッさおになって、じッと、伊那丸をにらみかえして、眼もあやしく血走ってくる。
「益ないことに暇とらずに、汝も早々、北越へひきあげい。そして、勝家とともに大軍をひきい、この裾野へでなおしてきたおりには、またあらためて見参するであろう。そちの大事がる図面とやらも、そのとき使うように取っておいたがよい」
深くたくらんだ胸のうちも、完全に見やぶられた八風斎は、本性をあらわして、ごうぜんとそりかえった。
「なるほど、さすが信玄の孫だけあって、その眼力はたしかだ。しかしわずか七十人や八十人の小勢をもって、人穴城がなんで落ちよう。敵はまだそればかりか、呂宋兵衛にもましておそろしい大敵が、すぐ背後にもせまっているぞ。悪いことはすすめぬから、いまのうちに柴田家の旗下について、後詰の援兵をあおぐが、よいしあんと申すものじゃ」
「だまれ。よしや伊那丸ひとりになっても、なんで、柴田ずれの下風につこうや、とくかえれ、八風斎!」
「ではどうあっても、柴田家にはつかぬと申しはるか、あわれや、信玄の孫どのも、いまに、裾野に屍をさらすであろうわ、笑止笑止」
毒口たたいて、秘図をふところにしまいかえした八風斎、やおら、伊那丸のまえをさがろうとすると、面目なげにうつむいていた忍剣と小文治が、左右から立って、
「若君にむかってふらちな悪口、よくもわれわれ両人をだましおったな!」
と、猿臂をのばして、八風斎のえりがみをつかもうとしたとき、
「方々! 方々! 敵の大軍が見えましたぞッ」
にわかに起ったさけび声、陣のあなたこなたにただならぬどよみ声、伊那丸も咲耶子も、民部も蔦之助も、思わずきッと突っ立った。
「それ見たことか、はやくも地獄の迎えがきたわッ!」
さわぎのすきに、すてぜりふの嘲笑をなげながら、疾風のように逃げだした上部八風斎。
忍剣と小文治が、なおも追わんとするのを伊那丸はかたく止めて、かれのすがたを見送りもせず、
「小さき敵に目をくるるな、心もとない大軍の出動とやら、だれぞ、はようもの見せい!」
「はい、かしこまりました」
こたえた声音は意外にやさしい、だれかとみれば、伊那丸のそばから、蝶のように走りだしたひとりの美少女、いうまでもなく咲耶子である。
見るまに、物見の松の高きところによじのぼって、梢にすがりながら、片手をかざし、
「オオ、見えまする! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
松の根方から上をあおいで、一同がこたえを待つ。
上では、緑の黒髪を吹かれながら、咲耶子の声いっぱい。
「天子ヶ岳のふもとから、南すそのへかけて、まんまんと陣取ったるが本陣と思われまする。オオ、しかも、その旗印は、徳川方の譜代、天野、内藤、加賀爪、亀井、高力などの面々」
「やや、では呂宋兵衛が人穴城をでたのではなかったか。してして軍兵のかずは?」
「富士川もよりには、和田、樋之上の七、八百騎、大島峠にも三、四百余の旗指物、そのほか、津々美、白糸、門野のあたりにある兵をあわせておよそ三千あまり」
「その軍兵は、こなたへ向かって、すすんでくるか?」
「いえいえ、満を持してうごかぬようす、敵の気ごみはすさまじゅう見うけられます」
咲耶子の報告がおわると、物見の松のしたでは、伊那丸と軍師を中心にして、悲壮な軍議がひらかれた。まえには、人穴城の強敵あり、うしろには徳川家の大軍あり、雨ヶ岳は、いまやまったく孤立無援の死地におちた。
おそらくは、主従の軍議もこれが最後のものであろう。軍議というも、守るも死、攻むるも死、ただ、その死に方の評定である。
時は、たそがれ刻か、あるいは、宵か夜中か明け方か、いずれにせよ、闇でも花とちる身にはかわりがない。
こい! 徳川勢――。
伊那丸方の面々は、馬には飼糧、身には腹巻をひきしめて、雨ヶ岳の陣々に鳴りをしずめた。
そのころ、人穴城の望楼のうえにも、三つの人影があらわれた。大将呂宋兵衛に、軍師丹羽昌仙、もうひとりは客分の可児才蔵。三人は、いつまでも暮れゆく陣地をながめわたして、なにやら密議に余念がない。心なしか、こよいはことに砦のうえに、いちまつの殺気がみち満ちていた。
富士はくれゆく、裾野はくれる。
きょうで四日目の陽は、まさに沈もうとしているのに小太郎山へむかって、駿馬項羽をとばせた木隠龍太郎はそも、どこになにしているのだろう。
かれは、よもや雨ヶ岳にのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっしてあるまい。いや、断じてないはずの人間だ。それだのに、晩秋の靄ひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
人無村で、とんだ命びろいをしたッきり、白旗の森のおくへもぐりこんでしまった竹童も、ほんとに、頭脳がいいならば、いまこそどこかで、
「きょうだぞ、きょうだぞ、さアきょうだぞ」
と叫んでいなければならないはず。
お師匠さまの果心居士から、こんどこそ、やりそこなったら大へんだという秘命を、とっくのまえからさずけられている竹童が、その、一生いちどの大使命をやる日はまさにきょうのはずだ。
ところが、きのうあたりから、あの蛾次郎が、団子や焼餅などをたずさえて、チョクチョク白旗の森にすがたを見せ、竹童のごきげんとりをやりだしたのも奇妙である。
雨のような落葉が、よこざまに、ばらばらと降る。
くろい葉、きいろい葉、まっかな葉、入りまじってさんらんと果てしなくとぶ。
さしもひろい湖の水も、ながい道も、このあたりは見るかぎり落葉の色にかくされて、足のふみ場もわからないほどである。
と――どこかで、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
不敵ないびきの声がする。
つかれた旅人でも寝ているのであろう、白旗の宮の、蜘蛛の巣だらけな狐格子のなかから、そのいびきはもれているのだ。
旅人なら、夕陽の光がまだ、雲間にあるいまのうちに早くどこか、人里までたどり着いておしまいなさい――と願わずにいられない。
この地方は、冬にならぬころから、口のひっ裂けた、れいの狼というのが、よく出現して、たびの人を、骨だけにしてしまう。
するとあんのじょう、森のかげから、ガサガサという異様な音がちかづいてきた。みると、それは幸いにして狼ではなかったが、針金頭巾や小具足で、甲虫みたいに身をかためたふたりの兵。手には短槍を引っさげている。
服装の目印、どうやら徳川家の斥候らしいが、きょう、天子ヶ岳に着陣したばかりなのに、はやくもこのへんまで斥候の手がまわってきたとはさすが、海道一の三河勢、ぬけ目のないすばやさである。
斥候の甲虫は、一歩一歩、あたりに気をくばって、落葉をふむ足音もしのびやかにきたが、
「しッ……」
と、さきのひとりが、白旗の宮のそばで、うしろの者へ手あいずする。
「なんだ……」
おなじく、ひくい声でききかえした。
「あやしい声がする」
「えッ」
「しずかに」
ぴたりと、ふたりは槍とともに落葉のなかへ身をふせてしまった。そして、ややしばらく、耳と目を研ぎすましていたが、それっきり、いまのいびきも聞えなくなったので、甲虫はふたたび身をおこして、いずこともなく立ちさった。
あとは、またものさびしい落葉の舞い。
暮れんとして暮れなやむ晩秋の哀寂。
ぎい……とふいに、白旗の宮の狐格子がなかからあいた。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、鞍馬山の竹童であった。
「あぶない、あぶない。もうこんなほうまで、徳川家の陣笠がうろついてきたぞ。ところで、おいらは、いよいよ、今夜お師匠さまのおいいつけをやるのだが、それにしては、もうそろそろどこかで、鬨の声があがってきそうなもの……どれ、ひとつ高見から陣のようすをながめてやろうか」
ひらりと、宮の縁から飛びおりるがはやいか、湖畔にそびえている樅の大樹へ、するするすると、りすの木のぼり、これは、竹童ならではできない芸当。
数丈うえのてっぺんに、烏のようにとまった竹童、したり顔して、あたりの形勢をとくと見とどけてのち、ふたたび降りてくると、こんどは、白旗の宮の拝殿にかくしておいた一たばの松明をかつぎだしてきた。
この松明こそは、竹童が苦心さんたんして、蛾次郎から手にいれたものである。かれは、この松明、二十本をなんに使うつもりか、腰に皮の火打石袋をぶらさげ、いっさんに、白旗の森のおくへ走りこんでいった。
そこは密林のおくであったが、地盤の岩石が露出しているため、一町四方ほど樹木がなく、平地は硯のような黒石、裂け目くぼみは、いくすじにもわかれた、水が潺湲としてながれていた。
ギャアギャアギャア
――ふしぎな怪物の啼き声がする。そして、すさまじい羽ばたきがそこで聞えた。見ると、ひとつの岩頭に金瞳黒毛の大鷲が、威風あたりをはらい、八方を睥睨してとまっている。
いうまでもない、クロである。
むろん、足はなにかで岩の根っこへしばりつけてあるらしかった。
「やい、もひとつ啼け、もひとつ啼いてみろ」
七尺ばかりはなれて、鷲とあいむきに、腰かけていた者はれいの蛾次郎、竹の先ッぽに、兎の肉をつき刺して、しきりにクロを馴らそうとしていた。
「おい、蛾次公、なにをしてるんだい」
「え」
ふいに肩をたたかれて、蛾次郎がひょいと、うしろを見ると、竹童が、松明を薪のようにしょって立っている。
「なにもしてやしないさ、餌をやっているんだ」
「よけいなことをしてくれなくってもいい、さっきも、おいらが鹿の股を二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、おれが土産を持ってきたぜ、きょうは焼栗だ、ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「いやにこのごろは、おいらにおべっかを使うな、そんなにおせじをつかってきたって、もう、そうはちょいちょい鷲に乗せてやるわけにはゆかないぜ」
「そんなことをいわないで、おれを弟子にしてくれよ、な、たのまあ、そのかわりに、おまえのためなら、おれはどんなことだって、いやといわないからよ」
「きっとか」
「きっとだ!」
「じゃ。さっそく一つ用をたのもうかな」
「たのんでくれよ、さ、なんだい」
「大役だぜ」
「いいとも」
「他人の用ばかりしていると、おまえの主人の鼻かけ卜斎に、叱られやしないか」
「大じょうぶだってことさ、おらあもうあすこの家をとびだして、いまでは徳川家の……」
と、いいかけて、さすがの低能児も、気がついたらしく、口をにごらしながら、
「いまじゃ、天下の浪人もおんなじ体なんだ」
「ふうむ……じゃね、これからおいらのために、ちょっとそこまで斥候にいってくれないか」
「斥候に?」
蛾次郎ぎょっと、目を白くした。
竹童は、ことさらに、なんでもないような顔をして、
「このあいだから、雨ヶ岳に陣取っている、武田伊那丸さまの軍勢が、人穴城へむかってうごきだしたら、すぐここまで知らしてくれりゃいいのだ」
「そしたら、いったい、どうする気なんだい?」
「どうもしないさ、この鷲にのって、大空から戦見物にでかけるのさ」
「おもしろいなあ、おれもいっしょに乗せてくれるか」
「やるとも」
「よしきた、いってくら!」
よく人のだしにつかわれる生まれつきだ。年下の者のおちょうしにのって、もう、一もくさんにかけていく。
そのあとで竹童は、鷲の足をといてやった。クロは自由の身になっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水をすっていると、かれはまた火打石を取りだして、そこらの枯葉に火をうつし、煙の立ちのぼる夕空をあおぎながら、
「おそいなあ。あのぐずの斥候を待っているより、またじぶんでそこいらの木へ登ってみようかしら」
と、ひとりつぶやいたとこである。
すると、いつの間にか、かれの身辺をねらって、じりじりとはいよってきたふたりの武士――それはまえの甲虫だ、いきなり飛びついて、
「こらッ、あやしい小僧!」
「うごくなッ」
とばかり、竹童の両腕とってねじふせた。竹童はまったくの不意打ち、なにを叫ぶ間もなく、跳ねかえそうとしたが、はやくも、甲虫の短刀が、ギラリと目先へきて、
「うごくと命がないぞ、しずかにせい、しずかにせい」
「な、な、なにをするんだい!」
「なにもくそもあるものか、きさまこそ、餓鬼のぶんざいで、この松明をなんにつかう気だ、文句はあとで聞いてやるから、とにかく天子ヶ岳のふもとまでこい」
「や、ではきさまたちは徳川方の斥候だな」
「おお、亀井武蔵守の手の者だ」
「ちぇッ、そう聞きゃおいらにも覚悟がある」
「生意気なッ」
たちまち、大人ふたりと、竹童との、乱闘がはじまった。
こいつ、体はちいさいが、一すじなわではいかないぞ――とみた甲虫は、やにわに短槍をおっ取って、閃々と突いて突いて、突きまくってくる。
あわや、竹童あやうし――と見えたせつなである。にわかに、大地をめくり返すような一陣の突風! と同時に、パッと翼をひろげた金瞳の黒鷲は、ひとりを片つばさではねとばし、あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀の爪をいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて宙天へつるしあげた。
「わッ!」
と、大地へおちてきたのを見れば、目も鼻も口もわからない。満顔ただからくれないの一コの首。
さても伊那丸は、小袖のうえに、黒皮の胴丸具足をつけ、そまつな籠手脛当、黒の陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、雨ヶ岳をくだってくる。
世にめぐまれたときの君なれば、鍬がたの兜に、八幡座の星をかざし、緋おどしの鎧、黄金の太刀はなやかにかざるお身であるものを……と、つきしたがう、民部をはじめ、忍剣も小文治も蔦之助も、また咲耶子も、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと小袖をぬらす。
兵は、わずかに七十人。
みな、生きてかえる戦とは思わないので、張りつめた面色である。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、粛々、歩をそろえた。
まもなく、梵天台の平へくる。夜の帳はふかくおりて徳川方の陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の人穴城には、魔獣の目のような、狭間の灯が、チラチラ見わたされた。その時、やおら、俎岩の上につっ立った軍師民部は、人穴城をゆびさして、
「こよいの敵は呂宋兵衛、うしろに、徳川勢があるとてひるむな――」
高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
「味方は小勢なれども、正義の戦い。弓矢八幡のご加勢があるぞ。われと思わんものは、人穴城の一番乗りをせよや」
同時に、きッと、馬首を陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
「やよ、面々、戦いの勝ちは電光石火じゃ、いまこそ、この武田伊那丸に、そちたちの命をくれよ」
凛々たる勇姿、あたりをはらった。さしも、烏合の野武士たちも、このけなげさに、一滴の涙を、具足にぬらさぬものはない。
「おう、この君のためならば、命をすててもおしくはない」
と、骨鳴り、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
たちまち、進軍の合図。
さッと、民部の手から二行にきれた采配の鳴りとともに、陣は五段にわかれ、雁行の形となって、闇の裾野から、人穴城のまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
「わーッ。わーッ……」
にわかにあがる鬨の声。
「かかれかかれ、命をすてい」
いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、鞍つぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、奔馬を飛ばしてゆく。
と見て、帷幕の旗本は、
「それ、若君に一番乗りをとられるな」
「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の恥辱、天下の笑われもの」
「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
「おお、死のうぞ方々」
たがいに、いただく死の冠。
えいや、えいや、かけつづく面々には、忍剣、民部、蔦之助、そして、女ながらも、咲耶子までが、筋金入りの鉢巻に、鎖襦袢を肌にきて、手ごろの薙刀をこわきにかいこみ、父、根来小角のあだを、一太刀なりと恨もうものと、猛者のあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
ただ、こよいのいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんかなめな、木隠龍太郎のすがたを見ないことである。
上は大将伊那丸から、下は雑兵にいたるまで、死の冠をいただいてのこの戦いに、大事なかれのいあわせないのは、かえすがえすも遺憾である。ああ龍太郎、かれはついに、伊那丸の前途に見きりをつけ、主をすて、友をすて去ったであろうか。――とすれば、龍太郎もまた、武士の風上におけない人物といわねばならぬ。
「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従合しても、せいぜい八十人か九十人の小勢です」
「小勢ながら、正陣の法をとって、大手へかかってきたようすは、いよいよ決死の意気、うっかりすると、手を焼きますぞ」
「おう、そういえば、天をつくような鬨の声」
「伊那丸は、たしかに、命をすてて、かかってきた……」
まっ暗な、空の上での話し声だ。
そこは、人穴城の望楼であった。つくねんと、高きところの闇に立っているのは、呂宋兵衛と可児才蔵である。
呂宋兵衛は、いましがた、軍師昌仙と物頭の轟又八が、すべての手くばりをしたようすなので、ゆうゆう、安心しきっているていだった。
が、可児才蔵はかんがえた。
「待てよ、こいつは見くびったものじゃない……」と。
そして日没から、伊那丸の陣地を見わたしていると、小勢ながら、守ること林のごとく、攻むること疾風のようだ。
かれは、心のうちで、ひそかに舌をまいた。
「いま、天下の者は豊臣、徳川、北条、柴田のともがらあるを知って、武田菱の旗じるしを、とうの昔にわすれているが――いやじぶんもそうだったが――こいつは大きな見当ちがい、あの麒麟児が、一朝の風雲に乗じて、つばさを得ようものなら、それこそ信玄の再来だろう。天下はどうなるかわからない、下手をすると、主人の秀吉公のご未来に、おそろしいつまずきを、きたそうものでもない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく安土城へ帰って、この由を復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、呂宋兵衛には、あまり重きをおいていられないのだ、そうだ、その勝敗を見とどけたら、すぐにも安土へ立ちかえろう」
臍をきめたが、色にはかくして、大手の形勢を観望している。
そこには、たちまち矢叫び、吶喊の声、大木大石を投げおとす音などが、ものすさまじく震撼しだした。濛――と、煙硝くさい弾けむりが、釣瓶うちにはなす鉄砲の音ごとに、櫓の上までまきあがってくる。
おりから、望楼の上へ、かけあがってきたのは、轟又八であった。黒皮胴の具足に大太刀を横たえ、いかにも、ものものしいいでたちだ。
「お頭領に申しあげます」
「どうした、戦いのもようは?」
「城兵は、一の門二の門とも、かたく守って、破れる気づかいはありませぬ。だがかれもまた、伊那丸をせんとうに、一歩もひかず、小幡民部のかけ引き自在に、勝負ははてしないところです。これは、丹羽昌仙のれいの蓑虫根性から起ること、なにとぞ、とくにお頭領よりこの又八に、城外へ打ってでることを、お許し願わしゅうぞんじます」
「む、では汝は城門をおっ開いて、いっきに、寄手を蹴ちらそうというのか」
「たかのしれた小人数、かならずこの又八が、一ぴきのこらずひっからげて、呂宋兵衛さまのおんまえにならべてごらんにいれます」
「昌仙の手がたい一点ばかりも悪くないが、なるほど、それでは果しがあるまい。ゆるす、又八、打ってでろ」
「はッ、ごめん」
と会釈をして、バラバラと望楼をかけおりていった。
可児才蔵はそれを見て、
「ああ、いけない」とひそかに思う。
軍師の威命おこなわれず、命令が二途からでて、たがいに功をいそぐこと、兵法の大禁物である。
大手へかけもどった又八は、すぐ、城兵のなかでも一粒よりの猛者、久能見の藤次、岩田郷祐範、浪切右源太、鬼面突骨斎、荒木田五兵衛、そのほか穴山の残党、足助主水正、佐分利五郎次などを先手とし、四、五百人を勢ぞろいしておしだした。
軍師の昌仙がそれを見て、おどろき、怒るもかまわず、呂宋兵衛のことばをかさに、
「それッ」
と、城門を八文字に開いた。
「わーッ」
と、たちまち、寄手の兵と、ま正面にぶつかって、人間の怒濤と怒濤があがった。たがいに、退かず、かえさず、もみあい、おめきあっての太刀まぜである。それが、およそ半刻あまりもつづいた。
しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、新手新手と入りかわる城兵におしくずされ、伊那丸がたは、どっと二、三町ばかり退けいろになる。
「それ、この機をはずすな」
とみずから、八角の鉄棒をりゅうりゅうと持って、まッ先に立った又八、
「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一味をみなごろしにしてしまえ」
と、千鳥を追いたつ大浪のように、逃げるに乗って、とうとう、裾野の平までくりだした。
時分はよしと、にわかに踏みとどまった小幡民部。
とつぜん、采配をちぎれるばかりにふって、
「止まれッ!」
と、いった。
算をみだして、逃げてきた足なみは、ぴたりと踵をかえして、稲むらにおりた雀のように、ばたばたと槍もろともに身をふせる。
「かかれッ、轟又八をのがすな」
「おうッ」
たちまちおこる胡蝶の陣。かけくる敵の足もとをはらって、乱離、四面に薙ぎたおす。
なかにも目ざましいのは、山県蔦之助と巽小文治のはたらき。見るまに、鬼面突骨斎、浪切右源太を乱軍のなかにたおし、縦横無尽とあばれまわった。
「さては、またぞろ民部の策にのせられたか」
と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくると、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに目の前にあらわれた一手の人数。
そのなかから、ひときわ高い声があって、
「武田伊那丸これにあり、又八に見参!」
「めずらしや轟、小角の娘、咲耶子なるぞ」
「われこそは加賀見忍剣、いで、素ッ首を申しうけた」
と、耳をつんざいた。
轟又八は、思わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の剛力、荒木田五兵衛は、忍剣に跳びかかって、ただ一討ちとなる。
手下の野武士は、敵の三倍四倍もあるけれど、こう浮足だってしまっては、どうするすべもなかった。かれはやけ半分の眼をいからして、
「おう、山寨第一の強者、轟又八の鉄棒をくらっておけ」
と、忍剣の禅杖にわたりあった。
龍うそぶき虎哮えるありさま、ややしばらく、人まぜもせず、石火の秘術をつくし合ったが、隙をみて、走りよった伊那丸が、陣刀一閃、又八の片腕サッと斬りおとす。
「うーむ」
よろめくところを、咲耶子の薙刀、みごとに、足をはらって、どうと、薙ぎたおした。
又八が討たれたと見て、もう、だれひとり踏みとどまる敵はない、道もえらばず、闇のなかをわれがちに、人穴城へ、逃げもどってゆく。
その時、はるか南裾野にあたって、ぼう――ぼう――と鳴りひびいてきた法螺の遠音、また陣鐘。
みわたせば、いつのまにやら、徳川三千の軍兵は、裾野半円を遠巻きにして、焔々たる松明をつらね、本格の陣法くずさず、一鼓六足、鶴翼の備えをじりじりと、ここにつめているようす。
また、人穴城では、いまの敗北をいかった呂宋兵衛がこんどはみずから望楼をくだり、さらに精鋭の野武士千人をすぐって嵐のごとく殺到した。
ひゅッ! ひゅッ!
と早くも、闇をうなってきた矢走りから見ても、徳川勢の先手、亀井武蔵守、内藤清成、加賀爪甲斐守の軍兵はほど遠からぬところまで押しよせてきたものとおもわれる、その証拠には、伊那丸の陣した、雨ヶ岳のうえから噴火山のような火の手があがった。
三河勢が火をかけたのである。
その火明かりで、梵天台にみちている兵も見えた。まぢかの川を乗りわたしてくる軍馬も見えはじめた。裾野は夕焼けのように赤くなった。
「若君、いよいよご最期とおぼしめせ」
小幡民部が、天をあおいでこういった。
「覚悟はいたしておる。わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいまするか」
「野武士ずれの呂宋兵衛をあいてに討死するより、ただ一太刀でも、甲斐源氏の怨敵、徳川家の旗じるしのなかにきりいって死ぬこそ本望、うれしゅうなくてなんとするぞ」
「けなげなご一言、われらも、斬って斬って斬りまくろう」
と、忍剣もいさみたったが、かえりみれば、前後に、この強敵をうけながら、伊那丸のまわりにのこった人数は、わずかに四十五、六人。
竹童にたのまれて、人穴城附近の斥候にでかけた蛾次郎は、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつは雨ヶ岳のほうからきたらしい、あいつに聞けば、伊那丸がたの、くわしいようすがわかるだろう……」
道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だか判じがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
と、頭をさげた。
おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、武田伊那丸の兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ卜斎という鏃鍛冶のとこにいた、人無村の蛾次郎という者だが、どうも卜斎という師匠が、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの大大名のお抱えさまだ」
「バカッ」
「ア痛ッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、暇をやると申したか」
「あ、いけねえ!」
蛾次郎が、くるくる舞いをして逃げだしたのも道理、それは、雨ヶ岳からおりてきた当の卜斎、すなわち上部八風斎であった。
「野郎!」
ばらばらッと追いかけて、蛾次郎の襟がみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の細工小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「ア痛え、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、蛾次郎の泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに叱言などをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
と、今夜は八風斎の鼻かけ卜斎も、家にかえって落ちつくようすもなく、書斎をかきまわして、だいじな書類だけを、一包みにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
門をでると、いま泣いた烏の蛾次、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
とききだした。
「戦ばかりで、この人無村では仕事ができないから、越前北ノ庄へ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
と、口にはださないが、肚のなかでは、渋々した。せっかく、菊池半助が、ああやって、徳川家で出世の蔓をさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
ちょうど、夜逃げのふたりが、人無村のはずれまできた時、――八風斎がふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう――と地をひびかせてくる軍馬の蹄、おびただしい人の足音、行軍の貝の音、あッと思うまに、三、四百人の蛇形陣が、嵐のごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
八風斎は、ぎょっとして、さけんだ。
「蛾次郎、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず――見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
と、不意のできごとに、蛾次郎は、度をうしない、まだうろうろしているので、八風斎は、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、潮の流れるごとき勢いで、さしかかってきた蛇形の行軍、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの陣笠小具足、手槍抜刀をひっさげて、すでに戦塵を浴びてるようなものものしさ。
なかに、目立つはひとりの将、漆黒の馬にまたがって身には鎧をまとわず、頭に兜をかぶらず、白の小袖に、白鞘の一刀を帯びたまま、鞭を裾野にさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして越前落ちのとちゅうから、もとの裾野へ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この一時こそ一期の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
人無村をかけぬけて、渺漠たる裾野の原にはいると、黒馬の将は、鞍のうえから声をからして、はげました。雨ヶ岳の火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
「討て!」
と、俄然、前方の者から声があがった。四、五間ばかりの小石河原、そこではしなくも、徳川家の先鋒、内藤清成の別隊、四、五十人と衝突したのである。
暗憺たる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、槍の折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の見定めもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣は、ふたたび一糸みだれず、しかも足なみいよいよはやく、人穴城の山下へむかった。
「おうーい、おうーい」
かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、陣笠の兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのように鬨の声を張りあげた。
地から湧いたように、忽然と、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの大名に属すものか、あきらかな旗指物はないし、それと知らるる騎馬大将もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。
海に船幽霊のあるように、広野の古戦場にも、また時として、武者幽霊のまぼろしが、野末を夜もすがらかけめぐって、草木も霊あるもののごとく、鬼哭啾々のそよぎをなし、陣馬の音をよみがえらせて、里人の夢をおどろかすことが、ままあるという古記も見える。
それではないか?
この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まぼろしの魔軍のごとく、天

「おうーい、おうーい」
魔軍はまた、潮のように呼んでいる。
時しもあれ――
ほど遠からぬところにあって、亀井武蔵守の、精悍なる三河武士二、三百人に取りまかれていた武田伊那丸の矢さけびを聞くや、魔軍は忽然と、三段に備えをわかって、わッとばかり斬りこんだ。
ときに、矢来の声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、夢かとばかり思わせた。
「やあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたも聞かれよ、すぐる日、小太郎山へむかった木隠龍太郎、ただいまこれへ立ち帰ったり! 龍太郎これへ立ちかえったり!」
「わーッ」
と、地軸をゆるがす歓喜の声。
「わーッ」
と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもやまず、三河勢はその勢いと、新手の精鋭のために、さんざんになって敗走した。
木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士であった。かれはついに、主君の危急に間にあった。
それにしても、かれはどうして、小太郎山から、四百の兵を拉してきたのであろう。それは、かれについてきた兵士たちのいでたちを見ればわかる。
陣笠も具足も、昼のあかりで見れば、それは一夜づくりの紙ごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事にはたらいていた石切りや、鍛冶や、大工や、山崩しの土工なのである。武器だけは、砦をつくるまえに、ひそかに、蓄えてあったので不足がなかった。
この成算があったので、龍太郎は四日のあいだに、四百の兵を引きうけた。そして、その機智が、意外に大きな功をそうした。
しかし、一同は、ほッとする間もなかった。ひとたび、兵をひいた亀井武蔵守は、ふたたび、内藤清成の兵と合して、堂々と、再戦をいどんできた。
のみならず、人穴城を発した呂宋兵衛も、すぐ六、七町さきまで野武士勢をくりだして、四、五百挺の鉄砲組をならべ、いざといえば、千鳥落としにぶっぱなすぞとかまえている。
鼻かけ卜斎の越前落ちに、とちゅうまでひっぱられていった蛾次郎が、木隠龍太郎の行軍のなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来だった。
かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、白旗の森のおくへかけつけてきた。
見ると、そこに焚火がしてあり、鷲もはなたれているが、竹童のすがたは見えない。
蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、菊池半助にたのまれているこの鷲をぬすんで、徳川家の陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに資本をつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、埋まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
ひとりで有頂天になって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜい兎の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にも馴れている。
竹童のする通り、かるく翼をたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
いきなり鷲の上の蛾次郎を、二、三間さきへ突きとばした。不意をくって、尻もちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにを怒ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。命がけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな根性の悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ見当をつけてしまった」
「かってにしやがれ、戦なんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
竹童は、二十本の松明を、藤づるでせなかへかけ、一本の松明には焚火の焔をうつして、ヒラリと鷲のせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
と、胸をつつかれた蛾次郎は、おのれを知らぬ、ぼろ鞘の刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
竹童は、焔のついた松明で、蛾次郎の鈍刀をたたきはらい、とっさに、鷲をばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどい翼にはたかれて、
「あッ」
と、四、五間さきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
と、泣き声まじりに呼びかけた。
けれど、それに見向きもしない大鷲は、しずかに、宙へ舞いあがって、しばらく旋回していたが、やがて、ただ見る、一条の流星か、焔をくわえた火食鳥のごとく、松明の光をのせて、暗夜の空を一文字にかけり、いまや三角戦のまっ最中である人穴城の真上まで飛んできた。
軍令をやぶって抜けがけした轟又八が、伊那丸がたのはかりごとにおちて、ついに首をあげられてしまったと聞き、人穴城のものは、すッかり意気を沮喪させて、また城門を固めなおした。
敗走の手下から、その注進をうけた丹羽昌仙は、
「ええいわぬことではないのに……」と苦りきりながら、望楼の段を踏みのぼっていった。
そこには、宵のうちから、呂宋兵衛と、可児才蔵が床几をならべて、始終のようすを俯瞰している。
「呂宋兵衛さま」
「おお、軍師」
「又八は城外へでて討死いたしました」
「ウム……」
と、呂宋兵衛は、じぶんにも非があるので、決まりわるげに沈んでいたが、
「おお、それはともかく――」
と、話をそらして、
「伊那丸と徳川勢との勝敗はどうなったな。かすかに、矢さけびは聞えてくるが、この闇夜ゆえさらにいくさのもようが知れぬ」
「いまはちょうど、双方必死の最中かと心得ます」
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの三河武士にとりかこまれては、一たまりもあるまい」
「ところが、斥候の者のしらせによると、にわかに四、五百のかくし部隊があらわれて、亀井武蔵守をはじめ、徳川勢をさんざんに悩めているとのことでござる」
「ふむ……とすると、勝ち目はどっちに多いであろうか」
「むろん、さいごは、徳川勢が凱歌をあげるでござりましょうが」
「さすれば、こっちは高見の見物、伊那丸の首は、三河勢が槍玉にあげてくれるわけだな」
「が、ゆだんはなりませぬ。なるほど、伊那丸がたは、徳川の手でほろぼされましょうが、次には、勝ちにのった三河の精鋭どもが、この人穴城を乗っとりに、押しよせるは必定です」
「一難さってまた一難か。こりゃ昌仙、こんどこそは、かならずそちの采配にまかす。なんとか、妙策をあんじてくれ」
と、とうとう兜をぬいでしまった。
「仰せまでもなく、機に応じ、変にのぞんで、昌仙が軍配の妙をごらんにいれますゆえ、かならずごしんぱいにはおよびませぬ」
「それを聞いて安堵いたした。オオ、また裾野にあたって武者声が湧きあがった。しかしとうぶん、人穴城は日和見でいるがいい、幸いに、可児才蔵どのも、これにあることだから、伊那丸がたがみじんになるまで、一献酌むといたそう」
手下にいいつけて、望楼の上へ酒をとりよせた呂宋兵衛は、昌仙と才蔵をあいてに、ゆうゆうと酒宴をしながら、ここしばらく、裾野の戦を、むこう河岸の火事とみて、夜をふかしていた。
するとにわかに、星なき暗天にあたって、ヒューッという怪音がはしった。その音は遠く近く、人穴城の真上をめぐって鳴りだした。
「風であろう、すこし空が荒れてきたようだ」
杯を持ちながら、三人がひとしく空をふりあおぐと、こはなに? 狐火のような一朶の怪焔が、ボーッとうなりを立てつつ、頭の上へ落ちてくるではないか。
可児才蔵も呂宋兵衛も、また、丹羽昌仙も、おもわず床几を立って、
「あッ」
と、櫓の三方へ身をさけた。
とたんに、空から降ってきた怪火のかたまりが、音をたててそこにくだけたのである。
たおれた壺の酒が、望楼の上からザッとこぼれ、花火のような火の粉がまい散った。
「ふしぎ――どこから落ちてきたのであろう」
「昌仙昌仙、早くふみ消さぬと望楼へ燃えうつる」
「お、こりゃ松明じゃ」
「え、松明?」
三人は唖然とした。
いくら天変地異でも、空から火のついた松明が降ってくるはずはない、あろう道理はないのである。もし、あるとすれば世のなかにこれほどぶっそうな話はない。
しかし、事実はどこまでも事実で、瞬間ののち、またもや同じような怪焔が、こんどは籾蔵へおち、つづいて外廓、獣油小屋など、よりによって危険なところへばかり落ちてくる。
「火が降る、火が降る」
「それ、あすこへついた」
「そこのをふみ消せ、ふしぎだ、ふしぎだ」
城中のさわぎは鼎のわくようである。ある者は屋根にのぼり、ある者は水をはこんでいる。
なかでも、気転のきいたものがあって、闇使いの龕燈をあつめ、十四、五人が一ところによって、明かりを空へむけてみた結果、はじめて、そこに、おどろくべき敵のあることを知った。
かれらの目には、なんというはんだんもつかなかったが、地上から明かりをむけたせつな、かつて、話にきいたこともない怪鳥が、虚空に風をよんで舞ったのが、チラと見えた。
それは鷲の背をかりて、白旗の森をとびだした竹童なることは、いうまでもない。
鞍馬そだちの竹童も、こよいは一世一代のはなれわざだ。果心居士うつしの浮体の法で、ピタリと、クロの翼の根へへばりつき、両端へ火をつけた松明をバラバラおとす。火先はさんらんと縞目の筋をえがいて、人穴城へそそぎ、三千の野武士の巣を、たちまち大こんらんにおとし入れてしまった。
「ああ、いけねえ」
と、その時、ふと、つぶやいた竹童。
空はくらいが、地上は明るい。人穴城のなかで、右往左往している態を見おろしながら、
「こっちで投げる松明を、そうがかりで、消されてしまっちゃ、なんにもならない。オヤ、もうあと四、五本しかないぞ」
なに思ったか、クロの襟頸をかるくたたいて、スーと下へ舞いおりてきた。いくら大胆な竹童でも、まさか人穴城のなかへはいるまいと思っていると、あんのじょう、れいの望楼の張出し――さっき呂宋兵衛たちのいたところから、また一段たかい太鼓櫓の屋根へかるくとまった。
クロをそこへ止らせておいて、竹童は、残りの松明を背負って、スルスルと望楼台へ下りてきた。もうそこにはだれもいない、呂宋兵衛も昌仙も才蔵も、下のさわぎにおどろいて降りていったものと見える。
「しめた」
竹童は、五つ六つある階段を、むちゅうでかけおりた。
そこは、七門の扉にかためられている人穴城のなかだ。あっちこっちの小火をけすそうどうにまぎれて、さしもきびしい城内ではあるが、ここに、天からふったひとりの怪童ありとは、夢にも気のつく者はなかった。
果心居士の命をおびて、いつかここに使いしたことのある竹童は、そのとき、だいぶ、ようすをさぐっておいたので、城内のかっても、心得ぬいている。
おそろしい、はしッこさで、かれがねらってきたのは鉄砲火薬をつめこんである一棟だった。見ると、戦時なので、煙硝箱も、つみだしてあるし、庫の戸も、観音びらきに開いている。しかも願ったりかなったり、いまのさわぎで、武器番の手下も、あたりにいなかった。
ちょこちょこと、庫のなかへはいった竹童は、れいの松明に、火をつけて、まン中におき、藁縄の綱火が火をさそうとともに、このなかの煙硝箱が、いちじに爆発するようにしかけた。そして、ポンと、そとの扉を閉めるがはやいか、もときた望楼へ、息もつかずにかけあがってくる。
「ありがたい、ありがたい。これで人穴城の蛆虫どもは、間もなくいっぺんに寂滅だ。伊那丸さまも、およろこびなら、お師匠さまからも、たくさん褒めていただかれるだろう」
望楼に立って、手をふった竹童、待たせてあるクロが飛び去っては一大事と、大いそぎで、欄間から棟木へ手をかけ、棟木から屋根の上へ、よじ登ろうとすると、
「小僧、待て!」
ふいに、下からグングンと、足をひッぱる者があった。
「あ! あぶない」
「降りろ、神妙におりてこないと、きさまのからだは、この望楼からころがり落ちていくぞ」
「あ、しまった」
竹童はおどろいた。
平地とちがって、からだは七階の櫓のすてッぺんにあった。棟木へかけている五本の指が、命をつっているようなもの、ひとつ力まかせに下からひっぱられたひには、たまったものではない。
「降りろともうすに、降りてこないか」
「いま降りるよ、降りるから、手をはなしてくれ、でなくッちゃ、からだが自由にならないもの」
「ばかを申せ、はなせば、上へあがるんだろう」
足をつかんでいる者はゆだんがない。
竹童は観念してしまった。
ままよ、どうにでもなれ、お師匠さまからいいつけられた使命は、もう十のものなら九つまでしとげたのもどうよう、呂宋兵衛の手下につかまって、首をはねられても残りおしいことはないと思った。
「じゃ、どうしろっていうんだい」
おのずから、声もことばも、大胆になる。
「その手をはなしてしまえ」
「手をはなせば、ここから下まで、まッさかさまだ」
「いや、おれがこう持ってやる」
下の者は背をのばして、竹童の腰帯をグイとつかんだ。もうどうしたってのがれッこはない、竹童は、運を天にまかせて、棟木の角へかけていた手を、ヒョイとはなした。
「えいッ」
はッと思うと、竹童のからだは、望楼台の上へ鞠のように投げつけられていた。覚悟はしていても、こうなると最後までにげたいのが人情、かれは、むちゅうになってはね起きたが、すかさず、いまの男が、上からグンと乗しかかって、
「まだもがくか!」
と手足の急所をしめて、磐石の重みをくわえた。それをだれかと見れば、さっき、呂宋兵衛や昌仙とともに、ここにいた可児才蔵である。
安土から選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかまれた足を離せなかったのもむりではない。
「いたい、いたい。苦しい」
竹童も、呂宋兵衛の手下にしては、どうもすこし、手強いやつに捕まったとうめきをあげた。
「痛いのはあたりまえだ、うごけばうごくほど、急所がしまる」
「殺してくれ、もう死んでもいいんだ」
「いや、殺さない」
「首を斬れ」
「首も斬らぬ。いったいきさまは、どこの何者だ」
「聞くまでもないではないか、おいらはいつか、果心居士さまのお使いとなって、この城へきたことのある鞍馬山の竹童だ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、呂宋兵衛の前へひいていけ」
「ウーム、鞍馬山の竹童というか」
可児才蔵も、心中舌をまいておどろいた。
安土の城には、じぶんの主人福島市松をはじめ、幼名虎之助の加藤清正、そのほか豪勇な少年のあったことも聞いているが、まだこの竹童のごとく、軽捷で、しかも大胆な口をきく小僧というものを見たことがない。
竹童はまた竹童で、才蔵に組みふせられていながら、肚のなかで、ふとこんなことを思った。
「こいつはおもしろい、いましかけてきたあの綱火が、松明の火からだんだん燃えうつって、もうじきドーンとくるじぶんだ。そうすれば煙硝庫も人穴城の野武士も、この望楼もおいらもこいつも、いっぺんにけし飛んでしまうんだ」
と、かれはいきなり下から、ぎゅッと才蔵の帯をにぎりしめた。
「あはははは、およばぬ腕だて」
と、才蔵は力をゆるめて笑いだした。
「笑っていろ、笑っていろ、そして、いまに見ているがいい、この下の煙硝庫が破裂して、やぐらもきさまもおいらも、一しょくたに、木ッ葉みじんに吹ッ飛ばされるから」
「えッ、煙硝庫が?」
「おお、あのなかへ松明を、ほうりこんできたんだ。ああいい気味、その火を見ながら死ぬのは竹童の本望だ、おいらは本望だ」
「いよいよ、よういならん小僧だ」
さすがの才蔵も、これにはすこしとうわくした。がいまの一言を聞いて、
「では、もしや汝は、伊那丸のために働いている者ではないか」
と、問いただした。
「あたりまえさ、伊那丸さまをおいて、だれのためにこんなあぶない真似をするものか、おいらもお師匠さまも、みんなあのお方を世にだしたいために働いているんだ」
「おお、さてはそうか」
と才蔵は飛びのいて、にわかに態度をあらためた。竹童は、手をひかれて起きあがったが、少しあっけにとられていた。
「そうとわかれば、汝を手いたい目にあわすのではなかった。なにをかくそう、拙者はわけがあって、秀吉公の命をうけ、この裾野のようすを探索にきた、可児才蔵という者だ」
「おじさん、おじさん、そんなことをいってると、ほんとうに鉄砲薬の山が、ドカーンとくるぜ、おいらのいったのは、うそじゃないからね」
「では竹童、すこしも早く逃げるがいい」
「えッ、おいらを逃がしてくれるというの」
「おお秀吉公は、伊那丸どのに悪意をもたぬ。あのおん方に、会ったらつたえてくれい、可児才蔵と申す者が、いずれあらためて、お目にかかり申しますと」
「はい、しょうちしました」
ないとあきらめた命を、思いがけなく拾った竹童は、さすがにうれしいとみえて、こおどりしながら、まえの欄間へ足をかけた。
「あぶないぞ、落ちるなよ」
まえには足をひっ張った才蔵が、こんどは下から助けてくれる。竹童は棟木の上へ飛びつきながら、
「ありがとう、ありがとう。だが、おじさん――じゃあない可児さま。あなたも早くここを降りて、どこかへ逃げださないと、もうそろそろ煙硝の山が爆発しますよ」
「心得た、では竹童、いまの言伝を忘れてくれるな」
といいすてて、可児才蔵はバラバラと望楼をおりていったようす、いっぽうの竹童も、やっと屋根瓦の上へはいのぼってみると、うれしや、畜生ながら霊鷲クロにも心あるか、巨人のように翼をやすめてかれのもどるのを待っていた。
「さあ、もう天下はこっちのものだ」
鷲の翼にかくれた竹童のからだは、みるまに、望楼の屋根をはなれて、磨墨のような暗天たかく舞いあがった。
――と思うと同時に、とつぜん、天地をひっ裂くばかりな轟音。
ここに、時ならぬ噴火口ができて、富士の形が一夜に変るのかと思われるような火の柱が、人穴城から、宙天をついた。
ドドドドドドウン!
二どめの爆音とともに、ふたつに裂けた望楼台は、そのとき、まっ黒な濛煙と、阿鼻叫喚をつつんで、大紅蓮を噴きだした殿堂のうえへぶっ倒れた。
そして、八万八千の魔形が、火となり煙となって、舞いおどる焔のそこに、どんな地獄が現じられたであろうか。
「また富士山が、火をふきだしたのであろうか」
「おお、まだ今朝もあんなに、黒煙が、あがっている」
「なあに、お山はあのとおり、いつもと変ったところはない、きっと猟師が、野火でもだしたんだろうよ」
「いやいや、野火ばかりで、あんな音がするものか、戦のためだ、戦があったにきまっている」
「え、戦? 戦とすればたいへんだ、このへんもぶっそうなことになるのじゃないかしら」
ここは、裾野や人無村からも、ずッとはなれている甲斐国の法師野という山間の部落。
人穴城がやけた轟音は、このへんまで、ひびいたとみえて、家に落着けない里の人があっちに一群れ、こっちにひとかたまり、はるかにのぼる煙へ小手をかざしながら、今朝もガヤガヤあんじあっていた。
「おい、与五松」
そのうちのひとりがいった。
「おめえの家で、ゆうべ宿をかした旅の客があったな。なんだかこわらしい顔をしていたが、物しりらしいところもある、一つあの客人にきいて見ようじゃないか」
「なるほど、矢作がいいところへ気がついた、どこに戦があるのか、あの人なら知っているかもしれねえ、はやくお呼びもうしてこいやい」
「あ、その人は、おれがでてくるときに、先をいそぐとやらで立ち支度をしていたから、ことによるともうでかけてしまったかもしれねえが、おいでになったらすぐ連れてこよう」
与五松という若者は、すぐじぶんの家へかけだしていった。ちょうど、立ちかけているところへ間に合ったものか、しばらくすると、かれはひとりの旅人をつれて一同のほうへ取ってかえしてきた。
「あれかい、与五松の家へとまった、お客というのは」
里の者たちは、袖ひき合って、クスクス笑いあった。なぜかといえば、片鼻そげている顔が、いかにも怪異に見えたのである。
旅の男というのは、鼻かけ卜斎の八風斎であった。越後路へむかっていくかれは、蛾次郎を見うしなって、ひとりとなり、昨夜はこの部落で、一夜をあかした。
「わざわざ恐れいりまする」
と、年かさな矢作が、卜斎のまえへ、小腰をかがめながら、ていねいにききだした。
「あなたさまは、裾野からおいでになった鏃師とやらだそうでござりますが、あのとおりな黒煙が、二日二晩もつづいて立ちのぼっているのは、いったいなんなのでござりましょう」
「あれかい」卜斎はくだらぬことに、呼びとめられたといわんばかりに、
「あれはたぶん、人穴の殿堂が焼けたのでしょう」
「へえ、人穴の殿堂と申しますると」
「野武士の立てこもっていた山城――和田呂宋兵衛、丹羽昌仙などというやつらが、ひさしく巣をつくっていたところだ。それもとうとう時節がきて、あのとおり、焼きはらわれたものだろう」
「ああ野武士ですか、野武士の城なら、いい気味だ」
「お富士さまの罰だ」
と、里人はにわかにほッと安心したばかりか、日ごろの欝憤をはらしたようにどよみ立った。
するとまた二、三の者が、
「あ、だれかきた」と叫びだした。
見ると鳥刺し姿の可児才蔵が、山路をこえてこの部落にはいってきたのだ。ここは街道衝要なところなので、甲府へいくにも南信濃へはいるにも、どうしても、通らねばならぬ地点になっている。
「おお鳥刺しだ」
と、部落の者たちは、また才蔵を取りまいて、裾野のようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから安土へ昼夜兼行でかえろうとしている体、裾野におけるちくいちの仔細は、まず第一に、秀吉へ復命すべきところなので、多くを語るはずがない。
「さあ、ふかいようすは知りませんが、なにしろ、裾野はいま、人穴城の火が、枯野へ燃えひろがって、いちめんの火ですよ、そのために、徳川勢と武田方の合戦は、両陣ひき分けになったかと聞きましたが、人穴城から焼けだされた野武士は、駿河のほうへは逃げられないのでたぶん、こっちへ押しなだれてきましょう」
「えッ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって?」
「ほかに逃げ道もなし、食糧のあるところもありませんから、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみなさん、わたしがここを通ったことは、その仲間がきても、けっしていわないでくださいまし、ではさきをいそぎますから――」
と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだした。
そして、甲信両国の追分に立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。
「ははあ、きゃつは、柴田の廻し者上部八風斎だな、これから北ノ庄へかえるのだろうが、とても、勝家の腕ではここまで手が伸びない。やれやれごくろうさまな……」
苦笑を送ってつぶやいたが、じぶんは、それとは反対な、信濃堺の道へむかって、足をはやめた。
法師野の部落は、それから一刻ともたたないうちに、昼ながら、森としてしまった。たださえ兇暴な野武士が焼けだされてきた日には、どんな残虐をほしいままにするかも知れないと、家を閉ざして村中恐怖におののいている。
はたして、その日の午後になると、この部落へ、いような落武者の一隊がぞろぞろとはいってきた。各戸の防ぎを蹴破って、
「ありったけの食べ物をだせ」
「女老人は森へあつまれ、そして飯をたくんだ」
「村から逃げだすやつは、たたッ斬るぞ」
「家はしばらくのあいだ、われわれの陣屋とする」
好き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食い物を取りあげ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その家々へ、飢えた狼のごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこんだ。
焼けだされた狼は、わずか三、四十人の隊伍であったが、なにせよ、武器をもっている命知らずだからたまらない。なかには、呂宋兵衛をはじめ、丹羽昌仙、早足の燕作、吹針の蚕婆までがまじっていた。
あの夜、殿堂へ、煙硝爆破の紅蓮がかぶさったときには、さすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その他のものとともに、例の間道から人無村へ逃げ、からくも危急を脱したのであるが、多くの手下は城内で焼け死んだり、のがれた者も、大半は、徳川勢や伊那丸の手におちて、捕われてしまった。
城をうしない、裾野の勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちまち、野盗の本性にかえって、落ちてきながら、通りがけの部落をかたっぱしから荒らしてきた。そしてこれから、秀吉の居城安土へのぼって、助けを借りようという虫のよい考え。――ところが、一しょにおちてきた可児才蔵は、こんな狼連につきまとわれては大へんと、いちはやく、とちゅうから姿をかくし、一足さきに上方へ立っていったのである。
ここに、一世一代の大手柄をやったのは鞍馬の竹童。
その得意や、思うべしである。
飛行自在のクロあるにまかせて、かれは、燃えさかる人穴城をあとに、ひさしぶりで、京都の鞍馬山のおくへ飛んでかえり、お師匠さまの果心居士にあって、得意のちくいちを物語ろうと思ったところが、荘園の庵はがらん洞で、ただ壁に、一枚の紙片が貼ってあり、まさしく居士の筆で、いわく、
竹童よ。誇るなよ。なまけるなよ。ゆだんするなよ。お前の使命はまだ残っているはず。
ふたたび、われとあう日まで、心の紐をゆるめるなかれ。
ふたたび、われとあう日まで、心の紐をゆるめるなかれ。
果心居士
「おや、こんなものを書きのこして、お師匠さまはいったい、どこへ隠れてしまったんだろう」竹童は、がっかりしたり、不審におもったりして、しばらく庵にぼんやりしていた。
「おまえの使命はまだ残っている――おかしいなあ、お師匠さまの計略は、いいつけられたとおりまんまとしたのに……ああそうか、徳川軍にかこまれた伊那丸さまが、勝ったか負けたか、生きたか死んだか、その先途も見とどけないのがいけないというのかしら、そういえば、可児才蔵という人からたのまれている伝言もあったっけ」
と、にわかに気がついた竹童は、数日来、不眠不休の活動に、ともすると眠くなる目をこすりながら、ふたたび、クロに乗って富士の裾野へ舞いもどった。
やがて、白砂青松の東海道の空にかかったとき、竹童がふと見おろすと、たしかに徳川勢の亀井、内藤、高力なんどの武者らしい軍兵三千あまり、旗幟堂々、一鼓六足の陣足ふんで浜松城へ凱旋してきたようす。
「おや、あのあんばいでは、裾野の合戦は伊那丸さまの敗亡となったかしら?」
竹童、いまさら気が気でなくなったから、いやがうえにも、クロをいそがせて、裾野の空へきて見ると、人穴から燃えひろがった野火は、止まるところを知らず、方三里にわたって、濛々と煙をたてているので、下界のようすはさらに見えない。
七日七夜、燃えにもえた野火の煙は、裾野一円にたちこめて、昼も日食のように暗い。
富士の白妙が銀細工のものなら、とッくに見るかげもなく、くすぶッてしまったところだ。見よ、さしも人穴の殿堂すべて灰燼に帰し、まるで鬼の黒焼、巌々たる岩ばかりがまっ黒にのこっている。
すると、さっきから、その焼け跡を見まわっていた三騎のかげが、廃城の門をまっしぐらに駈けだした。そして濛々たる野火の煙をくぐりながら、金明泉のちかくまできたとき、さきにきた山県蔦之助が、ふいに、ピタッと駒をとめて、
「や? ご両所、しばらく待ってくれ」
と、あとからきた二騎――巽小文治と木隠龍太郎へ、手をふって押しとどめた。
「おお、蔦之助、呂宋兵衛の残党でもおったか」
「いや、よくはわからぬが、あの泉のほとりに、なにやらあやしいやつがいる。いま、拙者が遠矢をかけて追いたてるから、あとは斬るとも生けどるとも、おのおの鑑定しだいにしてくれ」
「ウム、心得た」
といったへんじよりは、龍太郎と小文治、金明泉へむかって馬を飛ばしていたほうがはやかった。
蔦之助は、鷹の石打ちの矢を一本とって、弓弦につがえ、馬上、横がまえにキラキラと引きしぼる。
――小一町は、駿馬項羽で一足とび、
「やッ、しまった!」
と、そこまできて龍太郎はびっくりした。なぜといえば、いましも金明泉のほとりから、笹叢をガサガサ分けてでてきたのは、呂宋兵衛の残党どころか、大せつな大せつな鞍馬の竹童。
竹童はなんにも知らない。金明泉の水でも飲んできたか、袖で口をふきながら、ヒョイと、岩角へとび乗ってわざわざ蔦之助のまとに立ってしまった。
龍太郎はあわてて、うしろのほうへ馬首をめぐらし、
「待てッ、味方だ!」
「竹童だ、うつな!」
小文治も絶叫した。
が、間にあわなかった。プツン! とたかい弦鳴りがもうかなたでしてしまった。
射手は名人、矢は鷹の石打ち、ヒューッと風をふくんで飛んだかと思うと、狙いはあやまたずかれの胸板へ――
あっけらかんと口をふいていた竹童、睫毛の先にキラリッと鏃の光を感じたせつなに、ヒョイ――と首をすくめて右手すばやく稲妻つかみに、名人の矢をにぎり止めてしまった。
「竹童、みごと」
矢にもおどろいたし、褒め声にもおどろいた竹童、龍太郎と小文治のすがたを見つけて、
「木隠さま。大人のくせに、よくないいたずらをなさいますね」
と、ニッコリ笑った。
「いや竹童、いまのは木隠どののわるさではない。むこうにいる山県氏の見そこないだから、まあかんにんしてやるがよい」
小文治がいいわけしていると、蔦之助も遠くから、このようすを見てかけてきた。そして、今為朝ともいわれたじぶんの矢を、つかみとるとは、末おそろしい子だという。
けれど当の竹童には、末おそろしくもなんにもない。こんな鍛練は、果心居士のそばにおれば、のべつ幕なしにためされている「いろは」のいの字だ。
「ときに龍太郎さま、なによりまっ先に、うかがいたいのは、伊那丸さまのお身の上、どうか、その後のようすをくわしく聞かしてくださいまし」
「ウム、当夜若君の孤軍は、いちどは重囲におちいられたが、折もよし、人穴城の殿堂から、にわかに猛火を発したので、さすがの呂宋兵衛も、間道から逃げおちて、のこるものは阿鼻叫喚の落城となった。どうじに三河勢も浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変したのだ」
「そして、ただいま、ご本陣のあるところは」
「五湖をまえにして、白旗の森一帯、総軍一千あまりの兵が、物の具をつくろうて、休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門にくだって、それで急に、味方がふえたわけなんですね」
「そうだ。して竹童、おまえはきょうまで、どこにいたのか」
「ちょっと鞍馬へかえって見ましたところが、お師匠さまの叱言が壁にはってあったので、あわててまた舞いもどってきたんです」
「フーム、では果心先生には、鞍馬の庵室にも、おすがたが見えなかったか」
「いっこうお行方しれずです。またお気がむいて、日本くまなく行脚しておいでになるのかも知れませんが、困るのはこの竹童、先生のおいいつけは、やりとげましたが、こんどはなにをやっていいのか見当がつきません。龍太郎さま、あそんでいると眠くなりますから、なにか一つ中役ぐらいなところを、いいつけておくんなさい」
龍太郎も、じぶんの手柄話らしいことを、おくびにもださなかったが、竹童もまた、あれほどの大軍功を成しとげていながら、鼻にもかけず塵ほどの誇りもみせていない。
そしてなお、なにか一役いいつけてくれという。よいかな竹童、さすがは果心居士が、藜の杖で、ピシピシしこんだ秘蔵弟子だ。
武田伊那丸、小幡民部、そのほか帷幕のものが、いまなお白旗に陣をしいて、しきりにあせっているわけは、和田呂宋兵衛の所在が、かいもく知れないためであった。
人穴城という外廓は焼けおちたが、中身の魔人どもはのこらず逃亡してしまった。丹羽昌仙、吹針の蚕婆、穴山残党の佐分利、足助の輩にいたるまで、みな間道から抜けだした形跡。しかも、落ちていったさきが不明とあっては、真に、この一戦の痛恨事である。
「そこできょうも、咲耶子さまをはじめ忍剣もわれわれ三名も、八ぽうに馬をとばし、木の根、草の根をわけてさがしているところだ」
――と龍太郎からはなされた竹童は、聞くとともに、こともなげにのみこんで、
「では龍太郎さま、この竹童が、ちょっと、一鞭あてて見てまいりましょう」
「ウム、なにかおまえに、成算があるか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんのぞうさもないこッてす」
「いや、あいかわらず小気味のいいやつ、ではわかりしだいにその場所から、この狼煙を三どうちあげてくれ、こちらでも、その用意をして待つことにいたしているから」
「ハイ。きっとお合図もうします。じゃ蔦之助さま、小文治さま、これでごめんこうむりますよ」
竹童、龍太郎から受けとった狼煙筒を、ふところに納めると、またまえにでてきた笹叢のなかへ、ガサガサと熊の子のように姿をかくしてしまった。
おや? あんな大言を吐いておいて、どこへもぐりこんでゆくのかと、こなたに三人がながめていると、折こそあれ、金明泉のほとりから、一陣の旋風をおこして、天空たかく舞いあがった大鷲のすがた――
地上にあっても小粒の竹童、空へのぼると、鷲の一毛にもたらず、かれの姿は、翼のかげにありとも見え、なしとも思われつつ、鷲そのものも、たちまち鳩のごとく小さくなり、雀ほどにうすらぎ、やがて、一点の黒影となって、眼界から消えてゆく。
雲井にきえた鷲と竹童。甲駿二国のさかいを、蛇の目まわりに、ゆうゆうと見てまわって、とうとう、この法師野の部落に、和田呂宋兵衛一族の焼けだされどもが、よわい村民をしいたげているようすをとくと見さだめた。
このあたり、野火の煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざしてみると、法師野の山村、手にとるごとしだ。部落の家には、みな人穴城の残党がおしこみ、衣食をうばわれた善良な村人は、老幼男女、のこらず裸体にされて、森のなかに押しこめられている。真にこれ、白昼の大公盗、目もあてられぬ惨状だ。
「ちくしょうめ、人穴城でやけ死んだかと思ったら、またこんなところで悪事をはたらいていやがるな……ウヌいまに一あわふかせてやるからおぼえていろ」
空にあって、竹童は、おもわず歯がみをしたことである。そして、一刻もはやく、この状況を、伊那丸の本陣へ知らせようと、大空ななめに翔けおりる――
するとそのまえから、法師野の大庄屋狛家の屋敷を横奪して、わがもの顔にすんでいた和田呂宋兵衛は、腹心の蚕婆や昌仙をつれて、庭どなりの施無畏寺へでかけて、三重の多宝塔へのぼり、なにか金目な宝物でもないかと、しきりにあっちこっちを荒らしていた。
吹針の蚕婆は、ちょうどその時、三重の塔のいただきへのぼって、朱の欄干から向こうをみると、今しも、竹童ののった大鷲が、しきりにこの部落の上をめぐってあなたへ飛びさらんとしているとき――
「あッ、たいへん」
顔色をかえて、蚕婆がぎょうさんにさわぎだしたので、塔のなかの宝物をかきまわしていた呂宋兵衛と昌仙なにごとかとあわてふためいて、細廻廊の欄干へ立ちあらわれた。
見ると空の黒鷲、その翼にひそんでいるのは、呂宋兵衛がうらみ骨髄にてっしている鞍馬の小童。丹羽昌仙はきッと見て、
「ウーム、きゃつめ、伊那丸方の斥候にきおったな」
と拳をにぎったが、かれの軍学も空へはおよばず、蚕婆の吹針も、ここからはとどかず、ただ唇をかんでいるまに、鷲はいっさんに裾野をさしてななめに遠のく。
「呂宋兵衛さま、もうこうはしておられませぬ」
さすがの昌仙が、ややろうばいして腰をうかすと、いつも臆病な呂宋兵衛が、イヤに落着きはらって、
「なアに、大丈夫」
と苦っぽく嘲笑い、じッと、鷲のかげを見つめていたが、やがて、右手に持っていた金無垢肉彫りの鷹の黄金板――それはいまの塔内から引ッぺがしてきた厨子の金物。
「はッ……、はッ……」
と三たびほど息をかけて、術眼をとじた呂宋兵衛、その黄金の板へ、やッと、力をこめて碧空へ投げあげたかと思うと、ブーンとうなりを生じて、とんでいった。
「あッ」
「オオ」
と丹羽昌仙も蚕婆も、おもわず金光の虹に眼をくらまされて、まぶしげに空をあおいだが、こはいかに、その時すでに、黄金板のゆくえは知れず、ただ見る金毛燦然たる一羽の鷹が、太陽の飛ぶがごとく、びゅッ――と竹童の鷲を追ッかけた。
これは、前身悪伴天連の和田呂宋兵衛が、蛮流幻術の奇蹟をおこなって、竹童を、鳥縛の術におとさんとするものらしい。――知らず鞍馬の怪童子、はたして、どんな対策があるだろうか?
「あら、あら、あら! コンちくしょうめ」
竹童は、にわかに空でめんくらった。
いや、乗ってる鷲がくるいだしたのだ。――で、いやおうなく、かれが、大声あげて、叱咤したのもむりではない。
「こらッ、クロ、そっちじゃねえ、そっちへ飛ぶんじゃないよ!」
いつも背なかで調子をとれば、以心伝心、思うままの方向へ自由になるクロが、にわかに、風をくらった凧のように、一つところを、くるくるまわってばかりいる。
はるか、多宝塔の上で、呂宋兵衛が、放遠の術気をかけているとは知らない竹童、ふしぎ、ふしぎとあやしんでいると、怪光をおびた一羽の大鷹が、かッと嘴をあいて、じぶんの目玉をねらってきた。
「あッ」
竹童はぎょッとして、鷲の背なかへうっぷした。――とクロは猛然と巨瞳をいからし、鷹をめがけて絶叫を浴びせかける。らんらんたる太陽のもと、双鳥たちまち血みどろになってつかみあった。飛毛ふんぷんと降って、そこはさながら、日月あらそって万星うずを巻くありさまである。
「えいッ」
そのとき竹童、腰なる名刀がわりの棒切れ、ぬく手もみせず、怪光の鷹をたたきつけた。とたんに、その鋭い気合いが、術気をやぶったものか、鷹は、かーんと黄金板の音をだして、一直線に地上へ落ちていった。
「ウーム、しまった!」
多宝塔の上で、遠術の印をむすんでいた呂宋兵衛、あおじろい額から、タラタラと脂汗をながしたが、すぐ蛮語の呪文をとなえ、満口に妖気をふくみ入れて、フーと吹くと、はるかな、竹童と鷲の身辺だけが、薄墨をかけたように、円くぼかされてしまった。
はじめは、そのうす黒い妖気が、雲のように見えたがやがて、チラチラ銀光にくずれだしたのを見ると……数万数億の白い毒蝶。――打てども、はらえども、銀雲のように舞って、さすがの竹童も、これには弱りぬいた。同時に、さては何者か、妖気を放術してさまたげているにそういないと知ったから、かねて果心居士におしえられてあった破術遁明の急法をおこない、蝶群の一角をやぶって、無二無三に、鷲を飛ばそうとすると、クロは白蝶群の毒粉に眩暈て、翼を弱められ、クルクルと木の葉おとしに舞いおりた。
多宝塔の上から、それをながめた呂宋兵衛、してやったりとほくそ笑んで、塔のなかへ姿をかくしたが、まもなく金銀珠玉の寺宝をぬすみだして、庄屋の狛家へはこびこみ、野武士の残党どもに、酒蔵をやぶらせて、面にくい大酒宴。
寺には、僧侶が斬りころされ、森には裸体の老幼がいましめられて、飢えと恐怖におののいている。戦国の悲しさには、この暴悪なともがらの暴行に、駈けつけてくる代官所もなく、取りしまる政府もない。
こうして呂宋兵衛たちは、この村を食いつくしたら、次の部落へ、つぎの部落を蹂躪しきったらその次へ、群をなして桑田を枯らす害虫のように渡りあるく下心でいるのだ。それは、この一族ばかりでなかったとみえて、戦国時代のよわい民のあいだには「狼と野武士がいなけりゃ山家は極楽」と、いう諺さえあった。
さて、いっぽうの竹童は、どこへ降りたろう。
降りたところで、ふと見るとそこは、つごうよく、五湖方面から法師野地方へかよう街道のとちゅう。小広い平地があって、竹林のしげった隅に、一軒の茅葺屋根がみえ、裏手をながるる水勢のしぶきのうちに、ゴットン、ゴットン……水車の悠長な諧調がきこえる。
さっきは、呂宋兵衛の遠術になやまされて、クロがだいぶつかれているようすなので、竹童は、水車のかけてある流れによって、鷲にも水を飲ませじぶんも一口すって、さて、一刻もはやく合図の狼煙をあげてしらせたいがと、あっちこっちを見まわした後、クロをそこへ置きすてて、いっさんにうらの小山へ登りだした。
ところが、その水車小屋には、一昨日からひとりの男が張りこんでいた。
呂宋兵衛から、張り番をいいつけられていた早足の燕作。毎日たいくつなので、きょうは通りかかった泣き虫の蛾次郎を、小屋のなかへ引っぱりこみ、このいい天気なのに小屋の戸を閉めきったまま、ふたりでなにかにむちゅうになっていた。
入口も窓も閉めきってあるので、水車小屋のなかはまっ暗だ。ただ、蝋燭が一本たっている。
そこで、早足の燕作が、泣き虫の蛾次郎に、よからぬ秘密を、伝授している。
なにかと思えば、かけごとである。するものに事をかいて、かけごとの方法をつたえるとは、教授する先生も先生なら、また、教えをうける弟子も弟子、どっちも、褒められた人物でない。
「おい蛾次公、まだふところに金があるんだろう、勝負ごとは、しみッたれるほど負けるもんだ、なんでも、気まえよくザラザラだしてしまいねえ」
「だって燕作さん、いまそこへだした小判は?」
「わからねえ男だな、いまのはおまえが負けたからおれにとられてしまったんだよ。それを取りかえそうと思ったら、いっぺんに持ってるだけかけて見ろ」
「だって負けると、つまらねえや」
「そこが男の度胸じゃねえか、鏃師の蛾次郎ともあるおまえが、それぐらいな度胸がなくって、将来天下に名をあげることができるもんか、ええ蛾次ちゃん、しッかりしろやい」
と燕作は、ここ苦心さんたんで、蛾次郎の持ち金のこらず巻きあげようとつとめている。
蛾次郎が、身にすぎた小判を、ザラザラ持っていたのは、向田ノ城の一室で、菊池半助からもらった金だった。――かれは、本来その報酬として竹童の鷲をぬすんで、裾野戦のおこるまえに、菊池半助の陣中へかけつけなければならなかったはずだが、密林のおくで、鷲をぬすみそこねて、竹童のため、したたか痛められていらい、もうこりごり、のこりの金で買食いでもしようかと、甲府をさしてきたとちゅう、ここで張り番役をしていた燕作の目にとまり、ひっぱりこまれたものである。
そしてさっきから、うまうまとふところの小判を、あらかた巻きあげられ、もう三枚しか手になかった。燕作は、その三枚の小判をふんだくってしまったら、おとといおいでと、小屋からつまみだしてしまうつもりだ。
「おい、蛾次公先生、いつまで考えこんでいるんだい」
「だけれど、こわいなあ、この三枚をだして負けになると、おれは、空ッぽになってしまうんだろう」
「そのかわり、おめえが勝てば、六枚になるじゃねえか、六枚はって、また勝てば十二枚、その十二枚をまたはれば、二十四枚、二十四枚は二十四両、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」
「よし! はった」
「えらい、さすがは男だ、よしかね、勝負をするぜ」
「ウム、燕作さん、ごまかしちゃいけねえよ」
「ばかをいやがれ、いいかい、ほれ……」
と、燕作が壺へ手をかける、蛾次郎は目をとぎすます――と、その時だ……
ドドーンと、裏山の上で、不意にとどろいた一発の狼煙。
燕作は見張り番の性根を呼びさまして、「あッ!」とばかりはねかえり、窓の戸をガラッとあけて空をみると、いましも、打ちあげられた狼煙のうすけむり、水に一滴の墨汁をたらしたように、ボーッと碧空ににじんで合図をしている。
「やッ、なにか伊那丸の陣のほうへ、合図をしやがったやつがあるな。ウム、もうこうしちゃいられねえ」
あわただしく取ってかえすや否、賭けてあった小判をのこらずかきあつめて、ザラザラとふところにねじ込む。
蛾次郎はぎょうてんして、その袂にしがみついた。
「ずるいやずるいや、燕作さん、おれの金まで持っていっちゃいけないよ、かえしてくれ、かえしてくれ」
「ええい、この阿呆め、もう、てめえなんぞに、からかっているひまはねえんだ」
ポンと蛾次郎を蹴はなして、脇差をぶちこむがはやいか、ガラリッと土間の戸を開けっぱなして、狼煙のあがった裏の小山へ、いちもくさんにかけあがった。
あとで起きあがった蛾次郎、親の死目に会わなかったより悲しいのか、両手を顔にあてて、
「わアん……わアん……わアん……」
と、手ばなしで泣きだした。
しかし天性の泣き虫にかぎって、泣きだすのもはやいが泣きやむのもむぞうさに、ケロリと天気がはれあがる。
しばらくのあいだ、おもうぞんぶん泣きぬいた蛾次郎は、それで気がさっぱりしたか、プーと面をふくらましてそとへでてきた。と思うと、なにかんがえたか、賽の河原の亡者のように、そこらの小石をふところいっぱいひろいこんだ。
「燕作め! 見ていやがれ」
怖ろしい怖ろしい、低能児でも復讐心はあるもの。蛾次郎が、小石をつめこんだのは、れいの石投げの技で、小判の仇をとるつもりらしい。
燕作がかえってくるのを待伏せる計略か、蛾次郎はギョロッとすごい目をして水車小屋の裏へかくれこんだ。
と、どこまで運のわるいやつ、わッと、そこでまたまた腰をぬかしそこねた。
「やあ、おめえは、クロじゃねえか」
一どはびっくりしたが、そこにいた怪物は、おなじみの竹童のクロだったので、蛾次郎は思わず、人間にむかっていうようなあいさつをしてしまった。
そして、いまの泣きッ面を、グニャグニャと笑いくずして、
「しめ、しめ! 竹童がいないまに、この鷲をかっぱらッてしまえ。鷲にのって菊池半助さまのところへいけばお金はくれる、侍にはなれる、ときどきクロにのって諸国の見物はしたいほうだい。アアありがてえ、こんな冥利を取りにがしちゃあ、天道さまから、苦情がくら」
竹の小枝を折って棒切れとなし、竹童うつしにクロの背なかへのった泣き虫の蛾次郎。ここ一番の勇気をふるいおこして、鷲ぬすみのはなれわざ、小屋の前からさッと一陣の風をくらって、宙天へ乗り逃げしてしまった。
血相かえて、小山の素天ッぺんへ駈けあがってきた早足の燕作、きッと、あたりを見まわすと、はたして、そこの粘土の地中に狼煙の筒がいけてあった。
スポンとひき抜いて、その筒銘をあらためていると、すきをねらってものかげから、バラバラと逃げだしたひとりの少年。
「うぬ、間諜!」
ぱッと飛びついて組みかぶさった燕作、肩ごしに対手の頤へ手をひっかけて、タタタタタと五、六間ひきずりもどしたが、きッと目をむいて、
「やッ、てめえは鞍馬の竹童だな」
「オオ竹童だが、どうした」
「狼煙をあげて、伊那丸方へ合図をするなんて、なりにもにあわぬふてえやつ。きょうこそ呂宋兵衛さまのところへ引っつるすからかくごをしろ」
「だれがくそ!」
「ちぇッ。この餓鬼め」
「なにをッ、この大人め」
組んずほぐれつ、たちまち大小二つの体が、もみ合った。――赤土がとぶ、草が飛ぶ。それが火花のように見える。
さきに、釜無川原でぶつかった時、燕作の早足と腕まえを知った竹童は、もう逃げては、やぼとおもったか、いきなりかれの手首へかじりついた。
「あ痛ッ! ちくしょうッ」
燕作は拳をかためて、イヤというほど、竹童のびんたをなぐる。しかし竹童も、必死に食いさがって、はなれればこそ。
「ウム」と唇から血をたらして同体に組みたおれた。そしてややしばらく芋虫のように転々として上になり、下になりしていたが、ついに踏ンまたいでねじふせた燕作が、右の拇指で、グイと対手の喉をついたので、あわれや竹童、喉三寸のいきの根をたたれて、
「ウーム……」
と、四肢をぶるるとふるわせたまま、ついに、ぐったりしてしまった。
「ざまア見やがれ! がらの小せえわりに、ぞんがいほねを折らせやがった」
燕作は、すぐ竹童をひっかかえて、法師野にいる呂宋兵衛のところへかけつけようとしたが、ふと気がつくと、いまの格闘で、さっき蛾次郎からせしめた小判が、あたりに山吹の落花となっているので、
「ほい、こいつをすてちゃあゆかれねえ」
あっちの三枚、こっちの五枚、ザラザラひろいあつめていると、突! どこからか風をきって飛んできた石礫が、コツンと、燕作の肩骨にはねかえった。
「おや」
とふりむいたが、竹童は気絶して横たわっているし、ほかにあやしい人影も見あたらない。どうもへんだとは思ったが、なにしろ大せつな小判をと、ふたたびかき集めていると、こんどはバラバラ小石の雨が、つづけざまに降ってきた。
「あ、あ、あいたッ!」
両手で頭をかかえながら、ふとあおむいた燕作の目に、そのとたん! さッと舞いおりた大鷲の赤銅色の腹が見えた。
首尾よく、鷲ぬすみをやった泣き虫の蛾次郎、その上にあって、細竹の杖を口にくわえ、右手に飛礫をつかんで、
「やい燕作、やアい、燕作のバカ野郎。さっきはよくも蛾次郎さまの金を、いかさまごとで、巻きあげやがったな。その返報には、こうしてやる、こうしてやる!」
天性、石なげの妙をえた蛾次郎が、邪魔物のない頭の上からねらいうちするのだからたまらない、さすがの燕作も手むかいのしようがなく、あわてまわって、竹童のからだを横わきに引っかかえるや否、小山の降り口へむかって、一足とびに逃げだした。
が――一せつな、蛾次郎がさいごの力をこめた飛礫がピュッと、燕作のこめかみにあたったので、かれは、急所の一撃に、くらくらと目をまわして、竹童のからだを横にかかえたまま、粘土の急坂を踏みすべって、竹林のなかへころがり落ちていった。
「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ひっヒヒヒヒヒ」
白い歯をむきだして、虚空に凱歌をあげた蛾次郎は、口にくわえていた細竹の杖を持ちなおし、ここ、竹童そッくりの大得意。
「さ、クロ、あっちへ飛べ」
南――遠江の国は浜松の城、徳川家康の隠密組菊池半助のところを指して、いっきに鷲をかけらせた。
幸か不幸か、いま竹童は息の根絶えてそれを知らない。醒めてのち、かれが天下なにものよりも愛着してやまないクロが、蛾次郎のため盗みさられたと知ったら、その腹立ちはどんなだろう。
ゴットン、ゴットン、ゴットン……
水車の諧調に、あたりはいつか、たそがれてきた。
竹林のやみに、夜の風がサワサワゆれはじめると、昼はさまでに思えなかった水音が、いちだんとすごみを帯びてくる。――ことに今夜は、小屋の灯をともす者もなかった。
星あかりで見ると、その燕作は、水車場のすぐ上の崖に、竹童をかかえたまま、だらりと木の根に引っかかっている。
――ふたりとも、死せず活きず、気絶しているのだ。
すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、笹の雫がそそぎこぼれて、燕作の顔をぬらした。で、かれはハッと正気をとりもどし、むくむくと起きて、闇のなかにつっ立った、――立ったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが、燕作の首に巻きついた。
「あッ――」と、つかんですてると、それは小さな白蛇である。こんどはたおれている竹童の胸へのって、かれのふところへ鎌首を入れ、スルスルと襟首へ、銀環のように巻きついた。
夜はいよいよ森々としている。燕作は、なんだかゾッとして手がだせないでいた。そして、顔のしずくをなでまわした。
と、それはあまりに遠くない地点から、ぼウ――ぼウ――と鳴りわたってきた法螺の音、また陣鐘。耳をすませば、ごくかすかに甲鎧のひびきも聞える。兵馬漸進の足なみかと思われる音までが、ひたひたと潮のように近づいてくる。
「オオ!」
燕作はいきなり、そばの木へのぼって、枝づたいに、水車小屋の屋根の上へポンととびうつった。そして、暗憺たる裾野の方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
急は目前、味方の一大事、すでに十数町の近くまでせまってきていた。
竹童があいずの狼煙をみて、この地方に敵ありと知った武田伊那丸は、白旗の森に軍旅をととのえ、裾野陣の降兵をくわえた約千余の人数を、星、流、騎、白、幻の五段にわかち、木隠、巽、山県、加賀見、咲耶子の五人を五隊五将の配置とした。
采配、陣立て、すべてはむろん、軍師小幡民部これを指揮するところ。
陣の中央はこれ天象の太陽座、すなわち、武田伊那丸の大将座、陰陽脇備え、畳備え、旗本随臣たち楯の如くまんまんとこれをかこみ、伝令旗持ちはその左右に、槍組、白刃組、弓組をせんとうに、小荷駄、後備えはもっともしんがりに、いましも、三軍星をいただき、法師野さしていそいできた。
ひる、それを見れば、孫子四軍の法を整々とふんだ小幡民部が軍配ぶり、さだめしみごとであろうが、いまは荒涼たる星あかり、小屋の屋根から小手をかざしてみた燕作にも、ただその殺気しか感じられなかった。
「ウーム……」
と、燕作はおもわずうなって、
「いよいよ伊那丸のやつばらが、呂宋兵衛さまのあとをかぎつけてきやがったな。オオ、すこしも早くこのことを、法師野へ知らせなくっちゃならねえ」
ひらりと、屋根をとびおりた燕作、この大事に驚愕して、いまはひとりの竹童をかえり見ている暇もなく、得意の早足一もくさん、いずこともなくすッ飛んでった。
駈けもかけたり早足の燕作。
水車小屋から法師野まで、二里八、九丁はたっぷりな道、暗夜悪路をものともせず、ひととび、五、六尺ずつ踵をけって、たちまち大庄屋狛家の土塀門のうちへ、息もつかずに走りこんだ。
きて見ると、こなたは意外、いやのんきしごくなていたらく。
呂宋兵衛以下、野獣のごとき残党輩。竹童のあげた狼煙も、伊那丸軍の出動も知らず、みなゆだんしきッた酒宴の歓楽最中。なかにはすでに酔いつぶれて、正体のない野武士さえある。
息はずませて、門から奥をのぞきこんだ燕作、
「ケッ、ばかにしていやがら」
と、むッとして、
「おれひとりを、番小屋に張りこませておきゃあがって、てんでに、すきかってなまねをしていやがる。ウム、くせになるから、いちばん胆ッ玉のでんぐり返るほど、おどかしてやれ」
じぶんも蛾次郎あいてに、かけごとをしていたことなどは棚へあげて、不平づらをとンがらかした燕作、いきなり庭先のやみへバラッとおどり立ち、声と両手をめちゃくちゃにふりあげて、
「一大事、一大事! 酒宴どころじゃない、一大事がおこったぞ」
取次ぎもなく、ふいにどなられたので、呂宋兵衛は、杯をおとして顔色をかえた。かれのみか、丹羽昌仙、蚕婆、穴山の残党足助、佐分利の二名、そのほかなみいる野武士たちまで、みな総立ちとなり、あさましや、歓楽の席は、ただ一声で乱脈となった。
「おお、そちは番小屋の燕作、さてはなんぞ、伊那丸がたの間諜でも、立ちまわってきたと申すか」
「あ、昌仙さまでございましたか、間諜どころか、武田伊那丸じしんが、一千あまりの軍勢を狩りたて、この法師野へおそってくるようすです」
「ウーム、さすがは伊那丸、もうこの隠れ里をさぐりつけてまいったか。よもやまだ四、五日は大丈夫と、たかをくくっていたのが、この昌仙のあやまり、ああ、こりゃどうしたものか……」
丹羽昌仙は、ためいきついて、つぶやいたが、急に、ヒラリと庭さきへでて、じッと、十方の天界をみつめだした。
そらは無月、紺紙に箔をふきちらしたかのごとき星月夜、――五遊星、北極星、北斗星、二十八宿星、その光芒によって北条流軍学の星占いをたてているらしい昌仙は、しばらくあってのち、なにかひとりうなずいて、もとの席へもどり、呂宋兵衛にむかって、離散逃亡の急策をさずけた。
「ではなんとしても、おれもひとりとなり、そちもひとりとなり、他の者どももみなばらばらとなって、退散せねば危ないというのか」
蛮流幻術にたけて、きたいな神変をみせる呂宋兵衛も、臆病な生まれつきは争えず、語韻はふるえをおびて昌仙の顔をみまもっていた。
「ざんねんながら、富岳の一天に凶兆れきれき、もはや、死か離散かの、二途よりないようにぞんぜられまする」
「伊那丸ずれに亡ぼされて、ここに終るのも、無念至極。ウム……では、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、人穴城の栄華にまさる出世の策を立てるとしよう」
「なるほど、京都へまいれば秀吉公のお力にすがることもでき、公卿百官の邸宅や諸侯の門など甍をならべておりますから、またなんぞうまい手蔓にぶつからぬかぎりもござりますまい。では、呂宋兵衛さま、すこしもはやく、ここ退散のおしたくを……」
「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」
「がってんです、きっとまた頭領のところへ駈けあつまります」
一同が、異口同音に答えるのを聞いて、呂宋兵衛は、有り金をあたまわりに分配して、武器、服装、足ごしらえ用意周到の逃げじたくをはじめる。
間もあらせず、とうとうたる金鼓や攻め貝もろとも、法師野の里へひた押しに寄せてきた伊那丸勢、怒濤のごとく、大庄屋狛家のまわりをグルッととりかこんだ。
その時おそし、呂宋兵衛一味の残党、間ごと間ごとの燈火をふき消して、やくそくどおりの自由行動、蜂の巣を突いたように、八方から闇にまぎれて、戸外へ逃げだした。
塀を躍り越そうとする者――木の枝にぶらさがる者、屋根にのぼってすきを見る者、衆を組んで破れかぶれに斬りだす者――いちじにワーッと喊声をあげると、寄手のほうも木霊がえしに、武者声を合わせて、弓組いっせいに弦を切り、白刃組は鎬をけずり、ここかしこにたちおこる修羅の巷。
時に、鉄鋲打った鉢兜に小具足をつけ、背に伝令旗を差し立てた一騎、伊那丸の命をうけて、五陣のあいだをかけめぐりながら、
「――民家へ火をつけるな。――罪なき民を傷つけるな。――降を乞う者は斬るな。――和田呂宋兵衛はかならず手捕りにせられよ。以上、おん大将ならびに軍師の厳命でござるぞ。違背あるにおいては、味方たりといえども斬罪」
と、声をからして伝令し去った。
「もうだめだ、表のほうは、蟻のはいでるすきもねえ。昌仙さま、昌仙さま、うまいところが見つかったから、はやく頭領をつれてこっちへ逃げておいでなさい」
まっ暗な裏手に飛びだして、あわただしく手をふったのは早足の燕作。ひゅうッ、ひゅうッ、とうなりを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの戸袋、井戸がわ、廂、立木の幹、ところきらわず突き刺さって、さながら横なぐりに吹雪がきたよう。
と、暗憺たる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手うすとみえて、燕作がしきりにわめいております。さ、少しもはやくここをお落ちなさいませ」
「ウム」
となにかささやきながら、奥からゾロゾロとでてきたのは、丹羽昌仙、蚕婆、足助主水正、佐分利五郎次、そしてそのなかに取りかこまれた黒布蛮衣の大男が、まぎれもない和田呂宋兵衛か――と思うと、またあとからおなじ黒衣をつけ、おなじ銀の十字架を胸にたれ、おなじ背かっこうの男がふたりもでてきた。
しめて、七人。
そのなかに呂宋兵衛が三人もいる。ふたりはむろん昌仙がとっさの妙策でつくった影武者だが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、夜目ではまッたくけんとうがつかない。
「燕作、燕作」
昌仙は用心ぶかく、裏口へ首だけだしてどなってみた。矢はしきりに飛んでくるが、さいわい、まだ伊那丸の手勢はここまで踏みこんでいなかった。
「燕作、逃げ口をあんないしろ! 燕作はどこにいるんだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、呂宋兵衛さまをお落としもうさにゃならぬ、うまい逃げ口が見つかったとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるんだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、はやくここへおいでなさいまし」
「はてな?」
流れ矢があぶないので、七人とも首だけだして、裏手の闇をズーと見わたしたが、ふしぎ、すぐそこで、大きくひびく燕作の声はあるが、どこをどう見つめても、かれのすがたが見あたらない。
とたんに、表のほうへ、伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音。逃げだした部下もあらかた生けどられたり斬りたおされた気はいである。
「それッ、ぐずぐずしてはいられぬ」
七人のかげが流れ矢をくぐってそとへとびだし、いっぽうの血路を斬りひらく覚悟で、うらの土塀によじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちは危ない!」
とまた燕作の声がする。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
七人は行き場にまよってウロウロした。
矢は見るまに、めいめいの袖や裾にも二、三本ずつ刺さってきた。
「ええ、じれッてえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早く降りておいでなせえ」
「燕作」
「おい」
「どこじゃ」
「ちぇッ、血のめぐりがどうかしているぜ」
という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの車井戸にかけてあった釣瓶が、癇癪を起したように、カラカラカラとゆすぶれた。
「や、この井戸底にいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
影武者のひとりか、ただしは本人の呂宋兵衛か、井戸がわに立ってあざ笑いながら、
「こんななかへとびこむのは、じぶんで墓へはいるもどうぜんだ」
「おッと、そいつは大安心、ここは空井戸で一滴の水もないばかりか、横へぬけ道ができているからたしかに間道です」
「なに抜け道になっているとか、そりゃもっけの幸い」
と、にわかに元気づいた七人、かわるがわる釣瓶づたいに空井戸の底へキリキリとさがってゆく。
そして、すでに七人のうち五人までがすがたを隠し、しんがりに残った影武者のひとりと佐分利五郎次とが、つづいて釣瓶縄にすがって片足かけたとき、早くもなだれ入った伊那丸勢のまっさきに立って、疾風のごとく飛んできたひとりの敵。
「おのれッ」
と、駈けよりざま、雷喝一声、闇からうなりをよんだ一条の鉄杖が、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一撃にはね飛ばした。
そのおそろしい剛力に、空井戸の車はわれて、すさまじく飛び、ふとい棕梠縄は大蛇のごとく蜿って血へどを吐いた影武者のからだにからみついた。
「あッ――」
と、あやうく鉄杖の二つ胴にされそこなった佐分利五郎次、井戸がわから五、六尺とびのいてきッと見れば、鎧武者にはあらず、黒の染衣かろやかに、ねずみの手甲脚絆をつけた骨たくましい若僧、いま、ちぬられた鉄杖をしごきなおして、ふたたび、らんらんとした眼をこなたへ射向けてくるようす。
「さてはこいつが、伊那丸の幕下でも、怪力第一といわれた加賀見忍剣だな……」
五郎次はブルッと身ぶるいしたが、すでに空井戸の逃げみちは断たれ、四面楚歌にかこまれてしまった上は、とうてい助かる術はないとかんねんして、やにわに陣刀をギラリと抜き、
「おお、そこへきたのは加賀見忍剣とみたがひがめか、もと穴山梅雪が四天王のひとり佐分利五郎次、きさまの法師首を剣先にかけて、亡主梅雪の回向にしてくれる、一騎うちの作法どおり人まじえをせずに、勝負をしろ」
窮鼠猫をかむとはこれだ、すてばちの怒号ものものしくも名のりをあげた。
忍剣は、それを聞くとかえって鉄杖の力をゆるめ、声ほがらかに笑って、
「はははは、さては汝は、悪入道の遺臣であったか、主人梅雪がすでに醜骸を裾野にさらして、相果てたるに、いまだ命ほしさに、呂宋兵衛の手下にしたがっているとは臆面なき恥知らず、いで、まことの武門をかがやかしたもう伊那丸さまの御内人加賀見忍剣が、天にかわって誅罰してくりょう」
「ほざくな痩法師、鬼神といわれたこの五郎次の陣刀を受けられるものなら受けてみろ」
「豎子! まだ忍剣の鉄杖のあじを知らぬな」
「うぬ、その舌の根を!」
――とさけびながら佐分利五郎次、三日月のごとき大刀をまっ向にかざして、加賀見忍剣の脳天へ斬りさげてくる。
「おお」
ゆうゆう、右にかわして、さッと鉄杖に寸のびをくれて横になぐ。あな――とおもえば佐分利も一かどの強者、ぽんと跳んで空間をすくわせ、
「ウム、えイッ」
と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン! パキン! と二ど三ど、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利の大刀は、氷のかけらが飛んだように三つに折れて鍔だけが手にのこった。
仕損じたり――とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をブンと忍剣の面上目がけて投げるがはやいか、踵をめぐらして、いっさんに逃げだしていく。
時こそあれ、
「えーイッ」とひびいた屋上の気合い。
屋根廂からななめさがりに、ぴゅッと一本の朱槍が走って、逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや笑止、かれを串刺しにしたまま、欅の幹に縫いつけてしまった。
「何者?」
鉄杖をおさめて、忍剣が廂の上をふりあおぐと、声におうじて、ひとりの壮漢が、
「巽小文治」
と名のりながら、ひらりと上からとび下りてきた。
「なんだ小文治どのか、よけいなことする男じゃ」
「でも、あやうく逃げるようすだったから」
「だれがこんな弱武者一ぴき、鉄杖のさきからのがすものか」
「はやまって、失礼もうした」
「いや、なにもあやまることはござらぬよ」
と忍剣は苦笑して、さきに打ちたおした黒衣の影武者をのぞいたが、呂宋兵衛の偽者と知って舌打ちする。小文治は敵を串刺しにして、大樹の幹につき立った槍をひき抜き、穂先の刃こぼれをちょっとあらためてみた。
「して、小文治どの、木隠や山県などはどうしたであろう」
「龍太郎どのは表口から奥の間へはいって、呂宋兵衛のゆくえをたずね、蔦之助どのは、弓組を四町四ほうに伏せて、かれらの逃げみちをふさいでおります」
「ウム、それまで手配がとどいておれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もう袋のねずみどうよう、ここよりのがれることはできまい。だが……この井戸はどうやら空井戸らしい、念のためにこうしてやろう」
法衣の袖をまくりあげた忍剣、一抱えもある庭石をさしあげて、ドーンと、井戸底へほうりこむ。それを合図に、あとから駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げこんだので、見るまに井戸は完全な石埋めとなってしまった。
ところへ木隠龍太郎が、うちのなかから姿をあらわして、
「オオ、ご両所、ここにいたか」
「やあ、龍太郎どの、呂宋兵衛の在所は」
「ふしぎや、いっこう行方が知れもうさぬ。どうやらすでに風をくらって、逃げ失せたのではないかと思われる」
「といって、この家の四ほうは、二重三重に取りかこんであるから、かれらのしのびだすすきもないが」
「どこかに間道らしい穴口でもないかしら」
「それもわしが手をわけて尋ねさせたが、ここに一つの空井戸があったばかり」
「なに空井戸?」
と龍太郎がとび降りてきて、
「ウム、こりゃあやしい、どこかへ通じる間道にそういない、なかへはいってあらためて見よう」
「いや、念のために、ただいまわしが石埋めにしてしまった」
と、忍剣はしたり顔だが、龍太郎はじだんだふんで口惜しがった。呂宋兵衛や敵の主なるものが、この口から逃走したとすれば、この空井戸をふさいで、どこからかれらを追跡するか、どこへ兵を廻しておくか、まったくこれでは、みずから手がかりの道を遮断してしまったことに帰結する――と憤慨した。その理の当然に、忍剣もすっかり後悔して、しばらく黙しあっていた。
すると、はるか北方の森にあたって、とぎれとぎれな笛の音が高鳴った。
――おお、それは、幻の陣をしいて鳴りをしずめていた咲耶子が、かねて手はずをあわせてある合図の笛。
「それ、咲耶子どのの笛がよぶ――」
よみがえったように、加賀見忍剣、巽小文治、木隠龍太郎の三名、音をしたって走り出すと、その余の手勢も波にすわるる木の葉のごとく、声なく音なく、渦の中心に駈けあつまる――
城やとりでの間道とちがって、豪農の家にある空井戸の横穴は、戦時財宝のかくし場とするか、あるいは、家族の逃避所とする用意に過ぎないので、もとより、二里も三里もとおい先へぬけているはずがない。
呂宋兵衛たち五人のものがわずか二、三丁の暗闇をはいぬけて、ガサガサと星影の下に姿をあらわしたのは、黒百合谷の中腹で、上はれいの多宝塔のある施無畏寺の境内、下は神代川とよぶ渓流がドーッとつよい水音をとどろかしている。
「道は水にしたがえ」とは山あるきの極意。
五人は無言のうちに、道どりの心一致して、蔓草、深山笹をわけながら、だらだら谷の断崖を降りてゆく。
――と、その時だ。
にょッきと、星の空にそびえた一本の白樺、その高き枝にみどりの黒髪風に吹かして、腰かけていたひとりの美少女、心なくしてふと見れば、黒百合谷の百合の精か星月夜のこぼれ星かとうたがうだろう――ほどに気だかい美少女が、手にしていた横笛を、山千鳥の啼くかとばかり強く吹いた。
「や、や? ……」
五人の者が、うたがいに、進みもやらずもどりもせず深山笹のしげみに、うろうろしていると、白樺のこずえの少女は、虚空にたかく笛をふって、さっ、さっ、さっと三閃の合図知らせをしたようす。
と思うと、神代川の渓流がさかまきだしたように、ウワーッとあなたこなたの岩石のかげから、いちじに姿をあらわした伏兵。
これなん、咲耶子の一指一揮に伏現する裾野馴らしの胡蝶の陣。
「しまった!」
丹羽昌仙が絶叫した。
とたんに崖のうえから木隠龍太郎が、
「賊徒、うごくな」
と戒刀の鞘をはらって、銀蛇頭上に揮りかぶってとびおりる。発矢、昌仙が、一太刀うけているすきに、呂宋兵衛とその影武者、蚕婆と早足の燕作、四人四ほうへバラバラと逃げわかれた。
と、ゆくてにまたあらわれた巽小文治、朱柄の槍をしごいて、燕作を見るやいな、えいッと逆落としに突っかける。もとより武道の心得のない燕作、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一念で、神代川の水音めがけて飛びこんだ。が、小文治はそれに目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿をめざして駈けだした。
一ぽうでは丹羽昌仙、龍太郎の切ッ先をさけるとたんに断崖をすべり落ちて、伏兵の手にくくりあげられそうになったが、必死に四、五人を斬りたおして、その陣笠と小具足をすばやく身にまとい、同じ伏兵のような挙動をして、まんまと伊那丸方の部下にばけ、逃げだす機会をねらっている。
もっとも足のよわい蚕婆は、れいの針を口にふくんで、まえの抜け穴に舞いもどり、見つけられたら吹き針のおくの手をだそうと、眼をとぎすましていたけれど、悪運まだつきず、穴の前を加賀見忍剣と龍太郎が駈け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられずに、なおも息を殺していた。
「木ッ葉どもはどうでもよい、呂宋兵衛はどうした」
「かくまで手をつくしながら、当の呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても面目ない、者ども、余人には目をくれず、呂宋兵衛を取りおさえろ」
忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように叱

「やあやあ、巽小文治が和田呂宋兵衛を生けどったり! 和田呂宋兵衛を生けどったり!」
声、満山鳴りわたった。
「ワーッ――」
「ワーッ」
と、手柄名のりにおうずる味方の歓呼、谷間へ遠く山彦する。
さしも、強悪無比な呂宋兵衛、いよいよここに天運つきたか。
山県蔦之助も、さっきの笛合図と、小文治の手柄名のりをきいて、弓組のなかからいっさんにそこへ駈けつけてきた。
でかした小文治――と、党友の功をよろこびつつ、忍剣も龍太郎も、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治は、黒衣の大男を組みふせて、あたりの藤蔓でギリギリとしばりあげているところだ。
「おお、みごとやったな」
蔦之助と龍太郎があおぐようにほめそやす。忍剣はちょっとざんねんがって、
「どうもきょうは、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわい……」
と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。
すると、白樺のこずえの上にあって、始終をながめていた咲耶子が、にわかに優しい声をはって、
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま! 上の手うすに乗じて、和田呂宋兵衛が逃げのぼりましたぞ、はやくお手配なされませ!」
「な、なんといわるる!」
四人は、愕然として空を見あげた。
「咲耶子どの、その呂宋兵衛は、ただいま小文治どのがこれにて生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう」
「いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそういありませぬ。オオ、施無畏寺の境内へかくれようとしてようすをうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
咲耶子は、笛を帯にたばさんで、スルスルと白樺の梢から下りてしまった。
「や、ことによるときゃつも? ……」
忍剣は、さっき空井戸で打ちころした影武者を思いおこして、黒衣の襟がみをグイとつかんだ。と同時に、その顔をのぞきこんで龍太郎も、おもわず声をはずませて、
「はてな、呂宋兵衛は蛮人の血をまぜた、紅毛碧瞳の男であるはずだが、こりゃ、似ても似つかぬただの野武士だ、ウーム、さてはおのれ、影武者であったな」
「ええ、ざんねんッ」
怒気心頭にもえた巽小文治、朱柄の槍をとって、一閃に突きころし、いまあげた手柄名のりの手まえにも、当の本人を引っとらえずになるものかと、無二無三に崖上へのぼりかえした。
一足さきに、白樺を下りて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の境内へ、ツウとかくれこんでいった黒衣のかげをつけて、
「呂宋兵衛、呂宋兵衛」
と二声よんだ。
意外なところに、やさしい女の声音がひびいたので、
「なに?」
おもわず足を踏みとどめて、ギョロッと両眼をふり向けたのは、蛮衣に十字の念珠を頸にかけた怪人、まさしく、これぞ、正真正銘の和田呂宋兵衛その者だ。
「や、汝は根来小角の娘だな」
「おお、仇たるそちとはともに天をいただかぬ咲耶子じゃ。伊那丸さまや、その余のかたがたのお加勢で、ここに汝をとりかこみ得たうれしさ、悪人! もう八ぽうのがれるみちはないぞえ」
「わはははは、おのれや伊那丸ずれの女子供に、この呂宋兵衛が自由になってたまるものか。斬るも突くも不死身のおれだ。五尺とそばへ近よって見ろ、汝の黒髪は火となって焼きただれるぞ」
「やわか、邪法の幻術などにまどわされようぞ」
「ふふウ……その幻術にこりてみたいか」
「笑止やその広言、咲耶子には、胡蝶の陣の守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごとがなんになる」
「オオ、そういうじぶんが、すでに胡蝶陣の罠に墜ちているのも知らずに……ホホホホ、曳かれ者の小唄は聞きにくいもの――」
「女郎! おぼえていろ」
かッと、両眼をいからして、呂宋兵衛はふいに咲耶子の咽首をしめつけてきた。じゅうぶん彼女にも用意があったところなので、ツイと、ふりもぎって、帯の笛を抜くよりはやく、れいの合図、さッと打ちふろうとすると呂宋兵衛が強力をかけて奪いとり、いきなりじぶんの力で縦横にふってふってふりぬいた。
するとピューッ、ピューッというぶきみな笛鳴りは、たちまちおそろしい暴風となって、満地満天に木々の落葉をふき巻くりあれよと見るまに、咲耶子は砂塵をかおに吹きつけられて、あ――と眼をつぶされてしまう。
「おのれ!」
きらめく懐剣、ぴかッと呂宋兵衛の脇腹をかすめる。――カラリ、と笛をなげすてた呂宋兵衛は、肩にとまった一枚の紅葉を唇にくわえて、プーッと彼女の顔に吹きつけるやいなや、ひらりと舞った紅葉の葉は、とんで一片の焔となり、吹きぬく風にあおりをえて、あやし、咲耶子の黒髪にボウとばかり燃えついた。
あッとおどろいたのは、一瞬の幻覚である。どこからか飛んできた一本の矢が、あやうく呂宋兵衛の耳をかすりぬけたせつな、かれの術気は、ぱたッとやんだ風とともに破れて、ばらばらとかなたをさして逃げだした。
それは、忽然とかけあがってきた四勇士の影をそこに見たがためであろう。――のがさじと、おいすがる咲耶子につづいて、忍剣は鉄杖をひっさげ、龍太郎は戒刀をひらめかし、蔦之助は弓に矢をつがえ、小文治は朱柄の槍をしごいて、八門必殺のふくろづめに、呂宋兵衛を、多宝塔のねもとまでタタタタと追いまくした。
さきに、伝令が陣ぶれをしたことばには、かならず、呂宋兵衛を手捕りにせよとの達しであった。けれど、もうこうなっては、騎虎の勢いというもの、戒刀を引っさげた龍太郎は、まッさきに背後からとびかかって、
「奸賊、和田呂宋兵衛、伊那丸方にさる者ありと知られたる木隠が素ッ首もらった」
さッと一陣の太刀風をなげた。
「あッ」
呂宋兵衛はきもをひやして、切ッ先三寸のさきからツウと左へ逃げかわす。
そこには加賀見忍剣、鉄杖をまっこうに押っとって、かれのゆくてに立ちあらわれ、
「おのれ、極悪の山大名!」
みじんになれとふりつける。
右へよければ巽小文治、大音とともに、
「呂宋兵衛、はや天命はつきたるぞッ」
とばかり朱電の槍をくり出して、まつげを焦くばかりな槍影閃々。
「えい、なんのおのれ輩に!」
絶体絶命となった呂宋兵衛。そのとき、とんと踏みとまって腰の大刀を横なぎに抜きはらったかとおもうと、剣は、火をふいて夜光の珠を散らすかと思われるような閃光を投げつけた。
「おお!」
おもわず目をふさいだ四勇士。
はッと虚をうたれて飛びのいたが、これ、火遁幻惑の逃術であって、まことの剣を抜いたのではなかった。そのすきに、呂宋兵衛はしめたとばかり、多宝塔の階段へ向かってトントントンとかけのぼった。
そこへプツン! と山県蔦之助がねらいはなしてきた二の矢を、みごとに袖でからみおとした呂宋兵衛は、すばやく多宝塔のとびらへ手をかけた。
この鉄壁の塔へかくれて、なかから扉をもってふせぐさんだん。
咲耶子も四勇士も、あッ、しまった! と階段へ追いすがってきたが、呂宋兵衛はそれを尻目にかけて、早くも塔の扉をひらき、そのなかへ風のごとく姿をすいこませてしまった。
けれど、かれのからだがそこへかくれるやいな、漆のような塔内の闇から、とつじょ、
「奸賊すさりおろう!」
声のひびきに呂宋兵衛の五体、はじき返しに、階段の下までゴロゴロとけおとされてきた。
忍剣をはじめ小文治や龍太郎は、得たりとばかり、得物をすてて呂宋兵衛に折りかさなり、歯がみをしてもがきまわる奸賊を高手小手にからめあげた。――が、いま頭上でひびいた声の主は、そも何者であろうか、味方にしては意外なと、思ってふと見あげた人々は、
「や、わが君」
と、階段の下へひれふしてしまった。
「オオ、心地よいこと!」
そのとき、多宝塔の扉をはいして、悠然と壇上に床几をすえ、ふくみ笑いをして、こう見下ろしたのは、伊那丸であった。白綸子の着込みに、むらさき縅しの具足、太刀のきらめきもはなばなしい。
そのわきに、片膝折って、手をついたのは、すなわち軍師小幡民部である。紺地無紋の陣羽織をつけ、ひだりの籠手に采配をもち、銀作りの太刀をうしろへ長くそらしていた。
兵は味方より計るというが、あまり意外なことなので龍太郎は、呂宋兵衛の縄尻をとりながら、民部に向かってたずねてみた。
「こよいは法師野に平陣をしかれて、あれにおいであることとばかり思っておりましたに、いつのまに、この塔のうちへお越しなされてでござります」
「おん大将の陣は、ありと見ゆるところになく、なしと見ゆるところにあるのが常、べつにふしぎはござりませぬ」
と、民部はことばすくなく答えたのみ。
「いつもながら軍師の妙策、敬服のほかはござりませぬ。ところでこやつはいかがいたしましょうか」
「わが君の御意は!」
「そうじゃの……」
伊那丸はじッと考えて、
「厳重にひっくくって、ひとまず、この三重の塔のいただきへからげつけておくのはどうじゃ」
「ともすると、幻術をもって人をまどわす妖賊、なにさま、陣ぞろいのまもありますゆえ、それが上策かも知れませぬ」
「ウム、軍馬をそろえて、小太郎山の砦へひきあげたうえは、御旗楯無の宝物のありかも、とくと糺してみねばならぬゆえ、そのあとで咲耶子に討たせてやるもおそくはあるまい」
「おおせ、ごもっともです。では方々、呂宋兵衛をこの三重へひっ立てて、かならず妖術などで逃げ失せぬように厳重なご用意あるよう」
「はッ、しょうちいたした」
「立てッ!」
と、呂宋兵衛を引ったてた四勇士は、多宝塔三重のいただきまで追いあげて、その一室の丸柱に鎖をもって厳重にしばりつけ、二階三階の梯子まではずした上、扉の口々はそとから鉄錠をおろしてしまった。
水車は、夜もすがらふだんの諧音をたてて、いつか、孟宗藪の葉もれに、さえた紺色の夜があけていた。
燕作の拇指で、息の根をとめられた鞍馬の竹童は、いぜんとして、水車小屋のうら崖に、ダラリとなったまま木の根にからんであおむけざまに倒れている――
とはいえ、まだ幽明の境にあって、まったく死んでしまったわけではないので、いくぶん、温みがあるが、笹の小枝からはいうつった小さな白蛇は、かれの体温へこころよげにそって、腕から喉へ、銀の輪となって巻きついたきり、去りもやらず、害をくわえるようすもない。
おりから、法師野の空にあって、三鼓七流の陣鐘が鳴りわたるを合図に、天地にとどろくばかりな勝鬨の声があがった。
それは、人穴の残党を一挙に蹴散らして、主将呂宋兵衛を生けどり、多宝塔の三重へ封じこめた伊那丸の軍兵が、あかつきの陣ぞろいに富岳の紅雲をのぞんで、三軍おもわず声をあわせてあげた凱歌であろう。
とおい動揺みが、失神の耳にも通じたものか、そのとき竹童は、ピクリと鳩尾をうごかして、すこし顔を横にふった。その唇へ、白蛇は銀の鎌首をむけて、緋撫子のような舌をペロリと吐く。
すると、幾十の麗人が、笙をあわせて吹くごとき竹林の風――ザザザザザッ……とそよぎ渡ったかと思うと、竹童ははッきりと意識を呼びかえされて、パッチリこの世の目をひらいた。
――気がつくと、じぶんはだれかに抱かれている。
白衣白髯の老道士、片手を彼の首にまき、片手を胸にまわして、わが膝に抱きながら、なにやら、かんばしい仙丹を噛みつぶして、竹童の口へ唇うつしにのませてくれる。
「こりゃ、竹童、竹童……」
「あ?」
「気がついたか」
「オオ、あなたはお師匠さま!」
「ウム」
とうなずいたとたんに、老道士は竹童を手からおろして、すばやく七、八間ばかり離れてしまった。
その人は、竹童がぎょうてんして呼んだごとく、かれの恩師果心居士であった。みずから仙丹をかんで唇うつしにのませてくれるほどやさしい居士も、竹童が正気にかえるとともに、いつもの気むずかしい厳格なすがたにもどっている。
「不覚者めが、この後もあること、敵にあったらかならずわしの教えをおもいだすのじゃぞ」
「はい、面目しだいもございません。燕作というやつにつかまって、とうとうおくれをとりましたが、こんど会ったら、きっと負けはいたしません」
「よし、早うゆけ」
「ですが、お師匠さま――」
竹童はなつかしそうに近寄って、居士のおもてを見上げながら、
「いつか、人穴城へなげ松明をせよと、お師匠さまから密策をさずけられました時に、お別れしたきり、その後さらにお姿が見えませんでしたが、一たい今日まで、どこにおいでなされたのでござります」
「おお、わしのいたところか、じつは、そちだけにいってきかすが、わしはゆえあって、常陸鹿島の宮、下総香取の両神社に、七日ずつの祈願をこめて参籠しておったのじゃ」
「そして、お師匠さまのご祈願というのは?」
「伊那丸さまのご武運をうらなうに、どうも亀卜の示すところがよくないので、前途のおため神願をたてた」
「では、お師匠さまの易によると、伊那丸さまには、甲斐源氏のみ旗をもって、天下をお握りあそばすほどな、ご運がないとおっしゃいますか」
「いやいやそうともいえぬ、しかしそのことばかりは、ただ天これを知るのほか、凡夫な居士には予察ができぬ」
と、果心居士はふかくもいわず口をにごして話頭一転。
「それはとにかく、法師野に陣ぞろいいたしている伊那丸君や龍太郎などは、さだめし、そちの見えぬのをあんじているであろう」
「ここで狼煙をあげたッきりですから、ほんとうにしんぱいしていられるかもしれません」
「ウム、少しもはやく、ご幕下へはせくわわって、このうえとも、伊那丸さまのおんために働けよ」
「はい」
「わしも、もういちど鞍馬のおくにこもって、星座を観じ、天下の風雲をうかがい、機あらばあらわれ、変あらば退いて、伊那丸さまの善後の策を立てるかんがえ。――では竹童、またしばらくそちにも会わぬぞ」
「あッ、お師匠さま――」
竹童が声をあげて呼ぶうちに居士のすがたは、風のごとく竹林をぬって、見えなくなった。
ふたたび法師野にあたって聞ゆる法螺の音――。すでに夜はまったく明けはなれて、紫金紅流の朝雲が、裾野の空を縦横にいろどっていた。
多宝塔を中心として、施無畏寺の庭に陣ぞろいした武田の軍勢は、手負い討死の点呼をしたのち、伊那丸の命令一下に、またも一部の軍卒が、法師野の部落を八方にかけわかれる。
まだ戦いがあるのか――と思うとそうではない。
武田の士卒は、呂宋兵衛らのために森にいましめられていた善良の民を第一に解放し、衣なき者には衣をあたえ、財は家々へかえしてやり、宝物は寺にはこび返し、老人には慰安を、わかき者には活動を、女には希望を、子供には元気をつけてやる。
「オオ、あの旗じるしを見ろ、多宝塔の下にいるおん大将をおがめ、あれこそ、この土地のむかしのご領主、信玄さまのおんまご武田伊那丸さま――」
と、部落の民は、わかれた慈父にめぐり会ったごとく大地にぬかずくもの、おどって狂喜するもの、うれし涙にくれる者などさまざまで、さながらそこは、修羅暗憺の地獄から、天華ふる極楽の寂光土へ一変したような光景である。
一たび、めいめい、家へかえった百姓たちは、取ってかえしに、名主の狛家一族をせんとうとして、
「これを、どうぞおん曹子さまにさしあげてくださいませ」
「八車の米と十駄の粟は、ご陣屋の兵糧としてご使用くださいますよう」
「わたくしたち若いものは、なんなりと軍役をつとめますから、仰せつけねがいとうぞんじます」
と、兵糧軍用品を、車につんでひきこむかと思えば、家畜野菜をもたらしてくる者、あるいは労力の奉仕を申しこむ若者もあり、なかにはしおらしくも、まずしい一家がよろこびの餅をついて献納するなど、人情の真美と歓喜のこえは、陣屋の内外にあふれて、まことこれこそ極楽の景色かと、見るからにただ涙ぐましい。
かくて、民の平和をながめたうえで、伊那丸をはじめ幕下の人々、一千の軍兵、おもいおもいに屯をかまえ、はじめて朝の兵糧をとった。
勝戦のあとの兵糧――その味はまたかくべつ。
そしてきょう一日は、夜来一睡もせぬ兵馬のため、陣やすみという触れ太鼓がなる。
ところへ、ションボリした顔で、陣屋のうちへ、力なくかえってきた鞍馬の竹童。
こんな元気のないことは、竹童として稀有なことだ。
「オオ、どうした竹童!」
「竹童が見えた、竹童がもどってまいった」
さっきから、士卒を八方にやって、その行方をたずねさせていた龍太郎や忍剣らは、栄光の勇士を迎えるように手をとって、狼煙のてがらを褒めたたえた。
ことに伊那丸は、竹童かえるの声をきくと、みずから幔幕をしぼってそれへ立ちいで、人穴城いらいの功を称揚して、手ずから般若丸長光の脇差を褒美として、かれにあたえた。
主君から刀をさずけられたのは、武士の資格をゆるされたもどうよう、竹童もきょうからは幕下のひとりである。なりこそ小さいが、押しもおされもせぬ伊那丸の旗本。しかも拝領したその刀は、武田家伝来の名刀般若丸尺七、八寸の丁字みだれ、抜くにも手ごろ、斬るにも自在な反り按配、かの泣き虫蛾次郎がじまんする、あけび蔓をまいた山刀などとは、質がちがう。
これからは竹童も、鞍馬いらいの棒切れをすてて、一人前の大人のように、玉ちる刃で敵にむかうことができる。
もう、早足の燕作ごときは、一刀のもとに斬ッても捨てられるんだ。
長いあいだの希望がかなって、さだめしこおどりしたろうと思うと、スゴスゴとご前をさがった竹童、般若丸の太刀をいだいて、ひとけなき陣屋のすみで、ひとりシクシクと泣きはじめた。
「はてな? ……」
龍太郎は眉をひそめて、そッと、竹童のあとについていった――見るとそのありさま。
「ウーム。こりゃふしぎだ。鞍馬の奥にいたころから、泣いたことのない竹童だが……」
すきまからのぞき見をしていた龍太郎、こうつぶやきながら、しばらく考えていたが、やがて、
「こりゃ、竹童、なんでこんなところに泣いているのだ」
幕をはらって、やさしくかれの背なかをたたいた。
竹童はふいに声をかけられて、恥ずかしそうに、泣き顔をかくしながら、
「いいえ、なにも泣いてなんかいやしません」
「うそをつけ、瞼はまッ赤だし、拝領のおん刀は、このとおりおまえの涙にぬれているではないか、いったいどういうわけか、おまえと拙者とは果心居士先生の兄弟弟子、うち明けられぬということはあるまい」
「はい、……じつは龍太郎さま……」
「ウム、どうした」
「あの、クロがどこかへ逃げてしまいました」
「オオ、そちが何者よりかわいがっていた、あの大鷲がにげ失せたと申すか」
「きのう、狼煙をうちあげる時、水車小屋のうしろへおいといたのに、今朝みると、影も形もみえないんです、……ああとうとう、クロはわたしを見すててどこかの山へかくれてしまいました」
「あれほどなついていたし、そちもかわいがっていた鷲だから、さだめしさびしく思うだろうが、いくら霊鷲でもやはり畜生、詮ないこととあきらめるよりほかないであろう」
「いいえ、おいらはあきらめきれません……」
竹童は駄々ッ子のように頭をふって、
「おいらは悲しい、クロがいなくッちゃ一日もさびしくって生きていられない」
「はははは」
龍太郎は、思わず笑ってしまいながら、
「さてさて、おまえも鞍馬の竹童というと、いかにも稀代な神童だが、こんなところは、やッぱり年だけのわからず屋だな、これ竹童、そちはクロを失ったかわりに、若君から般若丸長光の名刀を拝領したではないか、さ、元気をだして、きょうからそれを差し料とするがいい」
「だから、おいらはよけいにかなしいんだ……。人穴城へなげ松明をした手柄も、きのうの誉れをあげたこともみんな、おいらの力よりはクロの手柄。……クロがあってこそこの竹童も、人並以上の働きができたのに、おいらばかりこんなに褒美をもらっても、ちっともうれしくありゃしない……」
いうところは天真爛漫、竹童はいよいよクロの別れをかなしみ、いよいよ声をだして泣くばかり――さすがの龍太郎も、これには弱りぬいて、ことばをつくしてなぐさめたうえ、きょう一日は陣休みだから、とにかく久しぶりに、じゅうぶん心もからだも養っておくようにと、幕のあなたへでていった。
「はい、もう泣くのはやめます……」
竹童は龍太郎の立ちぎわにそういったが、ひとりになるとまたさびしさに耐えぬもののごとく、ションボリと陣屋の空を見あげていた。そして、つまらなそうに、馬糧のなかにゴロリと身をよこたえたが、やがて連日の疲労がいちじにでて、むじゃきないびきが、スヤスヤそこからもれはじめた。
ここに、得意なやつは、泣き虫の蛾次郎。
首尾よく、鷲ぬすみのはなれ業をやりとげて、飛行天行の怪をほしいままに、たちまちきたのは家康の采地浜松の城下。
竹童の故智にならって、乗りすてた鷲を、とある森のなかにかくし、じぶんはれいの、あけび巻の山刀をひねくりまわして、意気ようようと城下隠密組の黒屋敷、菊池半助の住居をたずねあててきた。
「おねがい申します」
反りかえって立ちはだかった玄関口。
猪口才にも、もっともらしい顔をして、取次ぎの小侍に申しいれることには、
「まかりでました者は、富士の裾野の住人鼻かけ卜斎の弟子鏃師の蛾次郎と申す者、ご主人半助さまに、至急お目にかかりとうぞんじます」
取ってかえしに、奥からでてきたのは、菊池家の家来とみえて、いかさまがんじょうな三河武士、横柄に頭の上から見くだして、
「フーム、おまえか、泣き虫の蛾次公というのは?」
「はて心得ぬ」
蛾次郎、口をとンがらかして、すこぶる威厳を傷つけられたように、憤然と、
「鍛冶にかけては鏃鍛ちの名人、石をなげては百発百中の早技をもつわたくし。しかも、半助さまのおたのみにより、命がけで稀代の大鷲を連れてまいりましたのに、近ごろ無礼なごあいさつ。よけいなことをいわないで、さッさとご主人にお取次ぎあれ」
胸に慢心のいっぱいな蛾次郎、天狗の面をかぶったように、鼻たかだかと大見得をきった。
「やかましいッ」
侍の一喝に、蛾次郎はひやりと首をすくめる。
「ご主人半助さまには、きさまのような小僧になんのご用もないとおっしゃった。ペラペラむだ口をたたきおらずと退散せい」
「へえ、……こりゃ妙だ。あれほど蛾次郎に、鷲をぬすんでくれとたのんだ半助さまが、きょうになって、用がないとはずいぶんひどい。それはなにかのおまちがいでしょう」
「だまれ、へらず口の達者なやつだ。いつまでお玄関に立ちはだかっていると、つまみだすからそのつもりでおれ」
「ちぇッ、ばかにしやがら」
「こいつめ、まだでて失せぬかッ」
「いまいましい! けッ、よくも人にカスを食わせやがったな、おぼえていろ、いまに鷲に乗って、この屋敷の上から小便をひっかけてやるから」
得意と、えがいてきた慾望を、めちゃめちゃに裏切られた蛾次郎は、腹立たしさのあまり、出放題なにくまれ口をたたいて、黒屋敷の門をでようとすると、横からふいに、
「これッ、待て!」
と、ふとい腕が、むんずとかれの襟がみをつかみもどした。
「あッ、――あなたは菊池さま」
「ただいまなんと申した」
「くッ、くるしい。……べつになんにもいいはしません」
「いやいった! 不埒なやつめ」
「だって、だってそいつはむりでしょう。あなたさまこそ、竹童の鷲をぬすんでくれば、徳川家の武士に取りたててやる。褒美はなんでも望みしだいと、向田ノ城でおっしゃったじゃありませんか」
「ばかッ。いやはやあきれかえった低能児だ。汝のようなうすのろを、戦の用に立てようとしたのが半助の大失策、ご当家の軍勢が裾野陣へくりだすときに間にあってこそ、鷲もご用に立つとおもって申したのだ。それをなんだ、すでに戦もすみ、軍勢もひいてしまった今日のめのめといまごろ鷲をぬすんできたとてなんになるかッ。あのここな慾張り小僧めッ」
ピシリッ、と頬げたを一つくらわしたうえ、足をもって門外へけとばすと、さっきの小侍や仲間などが下水の水をくんで、蛾次郎の頭からぶっかけ、門をしめて笑いあった。
半死半生の泥ねずみとなって、泣くにも泣けぬ蛾次郎先生、命からがら浜松の城下を、鷲にのって逃げだしたはいいが、夜に入るにしたがって、空天の寒冷は骨身にてっし、腹はへるし、寝る場所のあてはなし、青息吐息の盲飛行、わるくすると先生、雲のなかへ迷子となってしまいそうだ。
されば、村正の斬れあじも、もつ人の腕しだいであるし、千里の駒も乗り手による。――自体、蛾次郎の腕なり頭なりでは荷の勝ちすぎたこの大鷲が、はたしてかれの自由になるかどうか、ここ、おもしろい見ものである。
法師野の空には平和の星がかがやいている。
今夜ばかりは、部落の人も、はじめて楽しい夢路にはいっているのだ。
老人はご陣屋のほうへ足をむけずに寝ているだろう。嬰児は母の乳房にすがって、スヤスヤと寝ついているだろう。――そして施無畏寺の庭に陣した千人の軍兵も、鞍や物の具を枕にしてつかのまの眠りにつき、馬もいななかず、篝もきえ、陣の幕にしめっぽい夜がふける。
すると、多宝塔のまわりを、ぴた……ぴた……と、しずかに歩いてくる人影。
また、廻廊のかげからも、ふたりの武士が、足音ひそやかに、階段をおりてきた。
「オオ、山県どのに小文治どのか……」
「これは忍剣どの、おたがいに、こよいの寝ずの番、ごくろう」
「どこにも異状はありませぬか」
「かくべつ」
「では後刻に……」
黙礼して左右にわかれる。
カーン、カーン、――水にひびくような寂しい音。時刻番が丑時(午前二時から三時の間)の報らせ。
本陣、おん大将の寝所幕のあたりにも、夜詰めの侍が警固する槍の穂が、ときおり、ピカリ、ピカリとうごいてまわる。
そのころ――、まさにそのころ。
多宝塔三重の頂上にある暗室へ、ゆうべからほうりこまれていた和田呂宋兵衛は、らんらんたる眼をとぎすまして、しばられている鉄の鎖を、時おり、ガチャリ、ガチャリと鳴らしていた。
「ウーム、いまいましい」
音を立てないようにはしているが、しきりに身もだえして、あらんかぎりの力を鎖にこころみているようす。しかし、しょせんそれはむだな努力。
だれかに、腕でも斬ってもらわないかぎり、鎖の寸断されるはずもなし、塔の太柱が砕けるはずもないのだ。
「ああ、ざんねんッ……ウーム、つつつッ……」
もがきにもがくうち、呂宋兵衛は唇をかみわって、タラタラと血潮をたらした。
とたんに、バサッと天井を打ったまっ黒な怪物がある。見ると、楼閣の欄間から飛びこんでいた一尺ばかりの蝙蝠、すでに秋の暑さもすぎているこのごろなので、翼に力もなく、厨子の板壁をズルズルとすべってきた。
「オ! しめた」
呂宋兵衛はジリジリと身をにじらせた。蝙蝠をみたとっさに思いうかんだのは、獣遁の一法、南蛮流の妖術では化獣縮身の術という。が、それを行うには、ちょっとでもよいから蝙蝠のからだにふれなければやれない。いや、蝙蝠にかぎることはない、なんでも動物霊気の感応を必要とするのだから、ねずみでも猫でもいいが、いまこの塔中には蝙蝠よりいないのだから、ぜひそれへ指でもふれたいのである。
しかし、なかなか蝙蝠のほうでちかづいてくれない。
たまに、頭の上へはってきたなとおもって、体をよせていくと柱にしばりつけてある鎖がガチャッと鳴るので蝙蝠はびっくりして天井へはねあがる――が、六角形の密室なので、そとへはでずにまたバサバサと板壁に羽すべりをしてきた。
こんど近くへきたらのがすまいと、呂宋兵衛は息をころした。けんめいになるとおそろしいもの、かれの額は魚の油を塗ったように汗ばんでいる。
けれど、蝙蝠の敏覚に、七たび八たびおなじことをくりかえしても、呂宋兵衛の努力はむなしかった。はやくも里では一番鶏がなく、かれは気が気でなくなった。
そこで、呂宋兵衛はまた考えなおした。
かれは坐禅を組むようにすわった。そして、さいごにもういちど蝙蝠が壁をすべってくるのを待ちかまえこんどは、口に呪をとなえて、つーッと一本のほそい絹糸のような線を吐きだした。
と思うと――一ぴきの小さな金蜘蛛が、呂宋兵衛の口からスススススと、その細い糸をつたわりだした。
これはかつて、人穴城で竹童と初対面のときに、問答ちゅうにかれがやってみせたことのある、呂宋兵衛得意の口術、いま、吐いて糸をわたらせた金蜘蛛は、壁にはりついている大蝙蝠のそばへはいよったが、それを見ると蝙蝠は、バサリと一すべりして、いきなり蜘蛛を食いにかかった。
と、蜘蛛はつーッ、と二尺ばかり糸をもどってとまる。蝙蝠はまたソロリと寄って餌をうかがう――その機微なころあいをはかって、呂宋兵衛はスッと、吸う息とともに、蜘蛛を口のなかに引きいれてしまうと、蝙蝠は餌を追ってパッとかれの顔へぶつかってきた。
「えいッ!」
とたんに、かれの五体からおそろしい気合いが発した。そして、忽然と床に鳴った鎖の上へ、大蝙蝠のくろい妖影が、クルクルと舞いおちた。
「やッ」
愕然と、多宝塔の下で立ちすくんだのは、寝ずの番の加賀見忍剣。
左に鉄杖をつき、右手を眉にあてて、暁闇の空をじッとみつめていたが、やがて、
「おお! 山県、巽!」
と同僚の名を呼びたてた。
「なんじゃ」
「異変かッ」
バラバラと、すぐそこへ飛んできた小文治と蔦之助、――忍剣は、
「しッ」
と手でせいして、
「愚僧の気のせいかも知れぬが、あの塔の三重目にあたる欄干に、何者か立っておらぬだろうか」
「どれ……」
すこし身を横にかがませて、暁天の闇をすかしたふたりは、なるほど、よくよく眸をこらして見ると、忍剣のいうとおり楼閣の三階目に、うす黒い影が立っているような気がした。
「しかし、あれに人のいるはずはなし、ことによったら棟木の瓔珞ではないか」
「いや、瓔珞がアア大きく見えるはずはない」
「といって、厳重にいましめておいた呂宋兵衛ではなおさらあるまい。ウーム、おや……、影がうごいた!」
「なに影がうごいた? オオ、いよいよあやしい」
「ちぇッ、やっぱり呂宋兵衛だ、どうして自由になりおったか、あれあれ、棟木の瓔珞に身をのばして、塔の屋根によじ登ろうとしておるのだ」
「一大事! それのがすなッ」
「オオ」
三人は疾風のごとく階段をあがって、扉を蹴ひらき、塔のなかへ躍りこんだが、南無三、二階三階へあがる梯子は、呂宋兵衛を頂上にほうりこんだ時、まんいちをおもんぱかって、みんな取りはずしたまま施無畏寺へはこんでしまった。
うっかり、それを忘れて飛びこんだ三人は、じだんだをふんで、
「しまった!」
とふたたびそとへかけだしてきた。
「なんじゃ、なにごとが起ったのだ」
ところへ、木隠龍太郎がくる。小幡民部がはせつける。たちまちにして、陣々の大そうどう、大将伊那丸も幕をはらってそれへきたが、閣上の呂宋兵衛は、いちはやく屋根の上へとびうつり、九輪の根もとに身をかがめてしまったので、遠矢を射かけるすべもない。
「あれあれ、呂宋兵衛は幻術に長けた曲者、どう逃げようもしれませぬ、みなさま、はやくお手配をしてくださりませ」
と、うろたえまわる軍兵のなかにまじって、しきりに叫んでいるのは咲耶子の声らしい。十数人の軍兵は同時に、施無畏寺へ塔の梯子を取りに走りだした。
それを待つのももどかしいと思ったか、れいによっておくれをとらぬ木隠龍太郎、ばらばらと多宝塔の裾にかけよったかと見るまに、一階の欄干にひらりと立って、えいッとさけんだ気合いもろとも、千本廂の瓔珞にとびついた。
「オオ、やったり、木隠!」
と、こなたの一同は、その機智に感嘆の声をあげたが瓔珞の飾り座金がくさっていたとみえて、龍太郎の体がつりさがるとともに、金鈴青銅の金物といっしょにかれの五体は、ドーンと大地におちてしまった。
「ウーム、無念」
ふたたび立ってよじのぼるくふうをしていると、朱柄の槍をひっさげた小文治。すっくとそこに立って、槍の石突きを勢いよくトンと大地につくやいなや、
「やッ――」
と叫んで、みごとに一階の屋根廂へ飛びあがった。そしてすぐ槍を引こうとすると、
「待ったッ」
と九尺柄のなかごろに、龍太郎がすがりつく。
「おうッ」
と、上から小文治が力をこめると、龍太郎も息をあわせて、槍の柄とともにポンと跳ねあがった。
たちまち、槍をたよりに二階へあがり、三階目の欄干までよじのぼって、呂宋兵衛監禁の六角室を見ると、一ぴきの蝙蝠が死んでいるほか、そこには何者のかげもない。
「あ! いよいよ逃げたは、きゃつときまった」
「それッ、この上だ」
とふたりは、東のすみの欄干に足をかけたが、そこから九輪のたっている塔のてっぺんへのぼるには、どうしても、千本廂につってある瓔珞に身をのばして、ブラさがるより道がない。
ところが、それをたよりにすることは、一階のときの失敗があるので、さすがの小文治も二の足をふんだが、龍太郎はなんのおそれげもなく、やッと、欄干から瓔珞の根にとびついた。
下にながめていた伊那丸をはじめ、あまたの勇士も、思わず、胆をひやしたが、こんどは瓔珞も落ちず、龍太郎も完全に棟木へ片手をかけてしまった。これ、さっきは、瓔珞の頑丈をたよって不覚をとったが、こんどは、果心居士相伝の浮体の法をじゅうぶんにおこなっているためだ。
そのかわり、龍太郎、最後の頂上へのぼるにはだいぶ手間がとれている。片足を瓔珞の鈴環にかけ、そろそろと手をのばして、屋根の青銅瓦に半身ほど乗りだしたところで、小文治のさしだした槍をつかんでやる。
巽小文治は、もとより果心居士の門下でないから、浮体の息を知らない。したがってただ度胸のはや業。槍の一端を塔の角金具にひっかけ、いっぽうを龍太郎につかんでいてもらって、スッと瓔珞の鈴環へ足をかけると、ともに、ふたりの重みがかかっては危ないので、龍太郎はすばやく上へはいあがった。
とたんに、雨とも見えぬ空合なのに、塔の先端九輪の根もとから、ザーッと滝のような水がながれてきて、塔の四面はさながら、水晶の簾珠をかけつらねたごとく、龍太郎の身も小文治のからだも、水の勢いでおし流されそうにおぼえた。
「呂宋兵衛の妖術だ、まことの水ではない、小文治どのひるむなッ」
龍太郎は果心居士の手もとにいただけに、幻術しのびの技などには多少の心得がある。いま、九輪の根もとから吹いてきた水勢もてっきり、呂宋兵衛の水龍隠れの術とみたから、こう注意して、無二無三に青銅瓦の大屋根へ踏みあがった。
そして、気は宙天へ、声は、大地にひびくばかりに、
「やあ、奸賊和田呂宋兵衛、この期になってはのがれぬところ、神妙に木隠龍太郎の縄目をうけろ」
「だまれ、青二才、汝らごとき者の手にかかる呂宋兵衛ではない。うかと、わが身にちかよると、このいただきから蹴落として、木ッ葉微塵にしてくれるぞ」
水術の印を解くとひとしく、あきらかに姿をみせた和田呂宋兵衛、九輪の銅柱をしっかと抱いて、夜叉のごとく突ッ立っていた。
「おのれッ――」
と片膝おりに、戒刀の鞘を横にはらった龍太郎、銅の九輪も斬れろとばかり、呂宋兵衛の足もと目がけて薙ぎつけた。
同時に、波のごとき瓦のうえへ、ヒラリと飛びあがった巽小文治は、いま龍太郎が斬りつけたとたんに、朱柄の槍をさッとしごいて、呂宋兵衛がかわさば突かんと身がまえた。
下では、あッと、手に汗をにぎる諸軍の声。
伊那丸をはじめ、幕下の面々、また竹童も咲耶子も、塔の一点に眸をあつめ、ハラハラしながら鳴りをしずめた。
時こそあれ、――大へん。
三重の屋根瓦から塔の九輪のまっ先へ、雷獣のごとくスルスルとはいあがった和田呂宋兵衛、
「おうッ……」
なにやら叫んだかと思うと、片手をブンとふりまわした。
と――またこそ、かれの幻術か、ふいに、さッと落ちてきた一陣の風鳴り。
すると明方の天空から、思いがけない人声がきこえた。
「いけねえいけねえ、おいクロ! こんなところへおりちゃアいけねえ」
いうまもなく、ななめに翔けりきたった、まっ黒な怪物があった。
まさしく鷲! 竹童の盗まれたクロ。
乗っているのは――わめいているのは、菊池半助にドヤされて、遠江の国をすッ飛んできた、泣き虫の蛾次郎であった。
鷲は見るまに九輪をかすった。
一大事!
巽小文治はふたたび槍をとりなおして、あおむけざまに、ヤッと突きあげたが、鷲の羽風にふき倒され、さらにいっぽうの龍太郎が、九輪の根もとからはらいあげた戒刀の切ッ先も敵のからだにまでとどかなかった。
その時、それと同時に、呂宋兵衛はとんできた鷲の背なかへ乗りうつっていた――ほとんど、電光一過――目ばたきする間だ。
塔上の二勇士、塔下の三軍が、あれよと、おどろきさけんだ時には、万事休す、蛾次郎、呂宋兵衛、ふたりを乗せた大鷲の影はまっしぐらに、三国山脈の雲井はるかに消えていく。
「しまった!」
伊那丸以下の者、でる声は、ただこのたんそくばかりであった。
なかにひとり竹童のみは、陣屋をかけだして、
「おお、クロだクロだ、おいらのクロだ」
空にむかって叫びながら、追えどもおよばぬ大鷲の行方へ無我夢中で走りだした。
さて、おどろいたのは、蛾次郎である。
多宝塔のてッぺんを通りすぎたとたんに、ヘンなやつがじぶんの腰へとびついたと思ったが、なにしろ、鷲の走っているあいだはふり向くこともできず、話しかけることもできない。
目の下に、クルクルまわる山や峠や町や村をいくつも見て、およそ小半日も飛んだころ、やっと青々とした海辺におりた。
「アア、お腹がペコペコだ。これで命も無事だったし、なにか食べ物にもありつけるだろう……」
すぐにキョロキョロ見まわして、漁師の干しておいた小魚を見つけ、それを火にあぶりもせず、引ッ裂いて食べはじめた。
食べながら波打ちぎわを見ると、黒の蛮衣をきた大男が、小手をかざして、しきりに地理をあんじている。
「あッ、あの男だナ、おれの腰に取っついてきた蠅のようなやつは」
蛾次郎、干魚をムシャムシャ噛みながら、そばへ寄ってみると、裾野で見かけたことのある呂宋兵衛なので、二どびっくりという顔で、
「お、あなたは人穴の……」
「ウム、呂宋兵衛じゃ、ああ、おまえは、鏃師鼻かけ卜斎の弟子だったな」
「ええ、よくごぞんじでございますね。おおせのとおり蛾次郎という者。……ところで呂宋兵衛さま」
「なんじゃ」
「ここはいったい、東海道のどのへんにあたりましょう」
「まるで方角ちがい――北陸道の糸魚川と申すところだ」
「すると向こうに見える岬は伊豆の国とはちがいますか」
「あたりまえだ、北日本の海に伊豆はない。すなわちあれが能登の半島、また、うしろに見える山々は、白馬、戸隠、妙高、赤倉、そして、武田家と鎬をけずった謙信の居城春日山も、ここよりほど遠からぬ北にあたっておる」
「へえ……そしてあなたは、ここからどこへ行こうってえつもりなんです?」
「京へのぼるのじゃ」
「いいなあ。わたくしも一つお供につれてッてくれませんか」
「おまえにはたのみがある。蚕婆と早足の燕作、それに丹羽昌仙、この三名にあったら、わしが京都へのぼっておるゆえ、あとからかならずくるようにと、言伝をしてもらいたい」
「燕作は大きらいだけれど、あとのふたりは引きうけますよ。……オヤ、アッ、大へん……」
なにを見たか、にわかぎょうてんしてうろたえだした蛾次郎、さようならともいわず、クロにとび乗って、ツーと空へ逃げてしまった。
と、間もなく、スタスタここへきた旅人。
「や、それにまいったのは、人無村の卜斎ではないか」
「これはこれは、呂宋兵衛さま、意外なところで……」
と双方、磯岩に腰かけて、裾野落ち以来のことを話しあったが――卜斎の上部八風斎、伊那丸へ人穴城の絵図面を持ちこんだことや、自分が柴田勝家の家中であることなどは、もとよりおくびにもださずにいる。
「しかし、卜斎。おまえは裾野に住みついている鏃鍛冶、なにもこんどのことで、逃げる必要もなかろうではないか。いったいこれからどこへまいろうとするのだ」
「裾野もよろしゅうございますが、ああしばしば戦があった日には、とても、のんびり金敷をたたいてはおられません。そこで、越前北ノ庄へ巣をかえようと申すわけで」
「なるほど。じつはわしもこれから都へでて、安土の秀吉公へすがり、なんとかいとぐちをつけようと考えているが、うまくとちゅうまでの便船でもあるまいか」
「さあ、わたくしも、北ノ庄まででる船はないかと、ずいぶん尋ねてみましたが、どうも折り悪く、出船のついでがないそうで」
と、ふたりが話すのを聞いていたものか、波打ちぎわにあげてあった空船のなかから、ムックリ起きあがったひとりの船頭。
「おい」
と、いけぞんざいに呼びかけて、
「おめえたち、上方のほうへいきてえなら船をだしてやろうか。越前へでも若狭へでも着けてやるぜ」
「それはかたじけない。しかし、そこにあげてあるような小舟ではどうにもならぬ」
「いや、長崎から越後港へ、南蛮呉服をつんできた親船が、この沖にとまってるんでさ。どうせ南へ帰る便船だ、えんりょなく乗っていくがいい」
船頭は空船の艫をおして、砂地から海のなかへ突きだした。そして呂宋兵衛、卜斎のふたりを乗せるや否、勢いよく櫓柄をとって、沖の親船へ漕ぎだした。
まもなく、海潮けむるかなたの沖に長崎型の呉服船、紅帆船の影らしいのが、だんだん近く見えはじめる。
紅がら色の帆に、まんまんたる風をはらんだ呉服船はいま、能登の輪島と七つ島の間をピュウピュウ走っている――
カーン カーン カーン……
船楼の鐘。
もう真夜中であろう、風はないほうだがかなり高波。パッと、舳にくだける潮の花にもうもうたる霧が立ってゆく。
その霧のなかに、ブランブランと、人魂のようにゆれている魚油のあかり。ギリギリ、ギリギリと帆綱のきしむ気味の悪さ……
「やい、起きろッ」
ふいに木枕を蹴とばされて、はねおきたのは便乗してきた卜斎と呂宋兵衛。フト見ると、胴の間のグルリに、閃々と光るものが立ちならんでいる。
「なにをするんだおまえたちは?」
卜斎は、前差しの短刀をつかんで、きッとなった。
「まぬけめ、なにをする者か聞かなくッちゃわからねえのか。こいつを見たら少しゃ目がさめるだろう」
わざと、ふりうごかして見せた光は、まさしく槍、刀、鏃、薙刀――どれ一つを食っても命のないものばかり。
「ウーム、さては汝らは海賊だな」
呂宋兵衛は、その時のっそり突っ立って、魚油のあかりに照らしだされている二十四、五人の荒くれ男を睨めまわした。
「知れたことだッ」
槍の穂は、いっせいに横になって、車の歯のごとく中心へ向いた。
「おとなしく素ッ裸になッちまえ、体だけは、ここから輪島の磯へながれ着くようにほうりこんでくれる」
「待てッ。望みどおりになってもやるが、汝らの頭領はいったいなんという者だ」
「そいつを聞くと命がない掟だぞ。それでも聞きたけりゃ聞かしてやる」
「ウム、しょうちのうえでも聞きたいものじゃ」
「よし、冥途の土産に知っておけ。この船の頭領は、龍巻の九郎右衛門。もと東海の龍王といわれた八幡船十八艘のお頭領さまだ。サ、こう聞かしたからにゃ命ぐるみもらったからかくごしろ」
「ばかをぬかせ」
「なんだとッ」
「まごまごいたすとこっちでこそ、汝らの持ち物はおろか船ぐるみ巻きあげてしまうから用心しろ」
「や、こいつが! てめえいったい何者だ」
「富士の人穴にいた山賊だ」
「なに山賊……」
「おお、海賊の腕が強いか、山賊の智恵がたしかか、ここでいちばん腕くらべをしてもいい。それともすなおに頭領の龍巻をよんできて詫びをするか」
「なまいきなッ!」
勃然と海賊の武器がうごいた。
が――無益な問答をしているあいだに、呂宋兵衛は、じゅうぶんに幻術のしたくをしていた。
「ふッ……」
と、前後の対手へ二息かけると、たちまち、かれのすがたは一条の水気となって、あるがごとくなきがごとく乱打の武器もむなしく風を斬るばかり。
「うぬッ」
ひとりがすさまじい気合いで、おぼろの影を槍で突く。すると、ピチリと一ぴきの魚がはねた。
目の下、二尺もある鯔だ。
ザアッと、舷から二どめの浪がしらがきて、鯔を海中に巻きかえそうとしたが、海賊の手下どもはこれこそ蛮流幻術をやる山賊の変身と、よってたかって、手づかみにしようときそったが、ピチピチはねまわる死力の魚は、むしろ人間一ぴきつかまえるのよりしまつがわるい。
「ちくしょッ――」
バラリと網をなげた者がある。
鉛の重味にしばられて、とうとう鯔はそのなかにくるまってしまったが、同時に頭の上で、
「わッはッはははは、あはははは。やい、野郎ども、いいかげんにしねえか」
と、ふたりして、笑う声がする。
ひょいと仰向いてみると、船楼の櫓に腰かけている頭領の龍巻と、いま下にいた呂宋兵衛。
どッちも卓へ頬杖をつきながら、下のありさまを見物して、仲よく酒を飲んでいる。
「じょうだんじゃねえ。お頭領、こいつア、いったいどうしたわけなんで……」
手下どもは、わいわいそこへ寄ってきて、ただふしんにたえぬという面もち。
「しんぱいするな、こりゃ和田呂宋兵衛といって、おれが長崎にゴロついていた時代の兄弟分だ」
「へえ? ……」
「見ろ」
と、龍巻は、じぶんの二の腕と、呂宋兵衛の二の腕をまくりあげて、手下どもに見くらべさせながら、
「このとおり、ふたりとも蜘蛛の文身を彫りあって、おれは海で一旗あげるし、呂宋兵衛は山に立てこもって、おたがいに天下をねらおうとちかって別れた仲なのだ」
「なるほど、そういう兄弟分があるということは、いつかお頭領の話にも聞いていました」
「そのふたりが、思いがけなくめぐりあった心祝いに、てめえたちにも飲ませるから、いまの魚を料理して、もっと酒をはこんでこい」
「しょうちしました。だが、そうとするといまの鯔はいったいどうしたってんだろう?」
「あれは呂宋兵衛が、水気魚陰の法をかけて、てめえたちみてえな半間なやつの目をくらましたのだ。しかし、魚はちょうど船へ跳ねこんだほんものだそうだから、安心して料理するがいい」
手下どもを追いはらって、ふたりとなった船櫓に、龍巻と呂宋兵衛、久しぶりの酒を酌みかわして、話はつきないもよう。
名はおそろしい海賊と山賊だが、久濶の人情には、かわりのないものとみえる。
「なあ、龍巻。てめえとおれとは、その昔、天下を二分するような元気で別れたんだが、おたがいに、いつまでケチな賊の頭領じゃしようがないなあ」
「しかし呂宋兵衛」
「なんだ」
「おめえは富士の山大名とか、野武士の総締めとかいわれて、豪勢なはぶりだってことをうわさに聞いていたが」
「さ、それが残念千万な話で、いちじは富士の殿堂に、一国一城の主を気どっていたが、武田伊那丸という小童のために、とうとう人穴城を焼けだされて落武者となってしまったのだ」
「なに、武田伊那丸だッて」
「ウム、てめえもうわさに聞いていたろう」
いま、船は加賀の北浦に沿って、紅帆黒風のはためき高く、いよいよ水脚をはやめている。
龍巻の九郎右衛門は、杯の南蛮酒をゴクリと乾し、呂宋兵衛へもついでやりながら、
「ふウむ、そいつはふしぎないんねんだ……」
とうめくようにいったものである。
「じつは兄貴、うわさどころかこの龍巻も、あの伊那丸のやつと、家来の小幡民部という野郎には、ひどい目にあわされたことがあるんだ」
と、紅帆船以前のことを、無念そうに語りだす。
それは、かれが東海をさかんに荒していたころ――といっても古い話ではない、伊那丸が忍剣にわかれて、弁天島から八幡船のとりこになった時のこと――
穴山梅雪の手をへて、伊那丸のからだを徳川家へ売りこもうとした晩、小幡民部に計略の裏をかかれて、沖の八幡船は焼打ちされ、かれじしんは、堺町奉行の手に召しとらえられてしまった。
その後、龍巻は、堺町奉行の牢をやぶって逃亡したが警戒がきびしいため、こんどは、紅がら色の帆をあげて北日本の海へまわり、長崎から往復する呉服船と見せかけて、海上の諸船や、諸港の旅人をなやましている。
「こういうわけで、おれはいまでも、その恨みを忘れやしねえ。この龍巻の息のねのあるうちは、きっと、あの伊那丸と小幡民部の野郎を、取ッちめずにはおかねえつもりだ」
「そうか……」
と、呂宋兵衛は、聞きおわって、
「してみれば、伊那丸一族は、この呂宋兵衛にも、龍巻にとっても、遺恨のつもりかさなるやつ。おれもこれから京へのぼって、秀吉公の力を借り、武田一族を狩りつくすさんだんをするから、てめえも折さえあったら、この仕返しをすることを忘れるなよ」
「いわれるまでもないことだ。……オオそりゃいいが、さっき、兄貴がつれていた男はどうしたろう」
「ウム、すっかり忘れていた。あの槍襖におどろいて、胴の間のすみで、気を失っているかもしれねえ。……なにしろ裾野の鏃鍛冶で、おそろしい修羅場は知らねえやつだから」
すると、そこへばらばらと、櫓へ駈けあがってきた手下のひとりが、
「お頭領、さっきのどさくさまぎれに、もうひとりの男が、艫の小舟を切りおとして、逃げッちまったようですぜ」
「なに、卜斎が逃げてしまったと?」
それと聞いて、呂宋兵衛は、はじめてかれに疑いをいだき、櫓の欄に駈けよって、漆のような海面を見わたしたが、もとより一片の小舟が、ひろい闇から見いだされるはずもない。
いっぽう、あやしげな親船を逃げだした鼻かけ卜斎の八風斎。たちまち加賀の美川ヶ浜に上陸して、陸路越前の北ノ庄へ帰りつき、主人勝家に、裾野陣のありさまを残りなく復命した。
そして勝家は、ちかごろひんぴんと領海をあらす海賊に討手を向けたが、すでに、紅帆呉服船の行方はまったく知れなかった。
「あ、あ、あア――」
と、煙草くさいあくびを一つ。
「だいぶ遊んでしまったな、もう陸へあがって四十日目か。おやおや都入りのとちゅうで、おもわぬ道草を食ってしまったわい……」
ひとりごちながら寝台をおり、二階の窓ぎわへ、唐風の朱椅子をかつぎだして、そこへ頬杖をついたのは、こういう異人屋敷にふさわしい和田呂宋兵衛。
そとは海――それも鯖の背のような、あお黒い冬の海。
昼の陽ざしも、こたえがなく、北日本特有の寒風が、槍のごとく波面をかすッて、港泊りの諸船の帆ばしら、ゆッさゆッさとゆさぶれあうさま、まるで盥のなかの玩具を見るよう。
その港を、どこかといえば、賤ヶ岳を南にせおい、北陸無双の要害ではあり商業の繁昌地。――陸には南蛮屋敷があり、唐人館の棟がならび、湾には福州船やスペイン船などの影がたえない角鹿(いまは敦賀と書く)の町である。
「さてと、ことしは天正十年、もう十二月だな……」
この海を見、この異国情調をながめても、呂宋兵衛には、詩をつくる頭もないと見え、みょうなことをつぶやいている。
「天正十年、――へんな年だッたな、ばかに天下をかきまわした年だ。まずちょっとおもいだしたところでも、春早々、甲斐の武田が亡ぼされ、六月には、信長が本能寺で焼打ちにあった。うまくやったのは猿面の秀吉、山崎の一戦から柴田も佐々も滝川も眼中になく、メキメキ羽振りをあげたが、ずるいやつは徳川家康だ。どさくさまぎれに、甲州から信濃の国をわが物にして、こっそり領分をふくらませてしまった。――だが、まずゆくゆくの天下取りは、どうしても秀吉だろうな。北ノ庄の柴田勝家、こいつもなかなか指をくわえてはいまい。いまに秀吉と、のるかそるかの大勝負だ。……ウム、のるかそるかは俺のこと、手ぶらで都入りも気がきかない。手近なところでなにか一つ、秀吉のやつに取りいるお土産を、かんがえようか……」
その時、コツコツ扉をたたく者があった。
「オイ、兄貴、いねえのか、寝ているのか!」
「だれだ」
「龍巻だ、あけてくれ」
「いや、こいつはすまなかった」
窓をはなれて、重い扉をギーとひらく。と、待つ間おそしの勢いで、飛びこんできた九郎右衛門、片目をおさえたまま、呂宋兵衛の寝台の上へ、ゴロリとあおむけに寝てしまった。
「どうしたんだ、耳のほうへ血がたれてくるではないか」
「すまねえが兄貴、この左の目へささッている物を、そッとやわらかに抜きとってくれないか」
「いいとも、だが、棘でもさしたのか」
「針だ、針がささッてるんだ」
「針?」
「ウン、ゆうべ沖の客船から、四、五人の旅人をさらってきて、この下の穴蔵へほうりこんでおいたのだ。そこでいま手下どもと、ひとりひとりの持ち物や身の皮をはいでいると、そのなかにふんじばられていた婆めが、いきなりおれの顔へ針をふきつけやがったんだ。ア、痛、……なにしろ早く抜いてくれなきゃ話もできねえ」
「うごいてはいけないぞ、いま洗い薬を、こしらえているから」
「たのむからはやく……」
「よし、じッとしていろよ」
と、多少蛮法の医術にも心得があるらしい呂宋兵衛、口をもって龍巻の眸にふかく突きささっている針をくわえとり、すぐ洗い薬をあたえておちつかせた。
すると、四、五人の手下が、扉口から首をだして、
「おかしら」
と、どなった。
「いよいよあの船へ、角鹿町の和唐屋から一万両の銀を送りこみましたぜ。船積みするところまでたしかに見届けてきました」
「そうか!」龍巻は、苦痛もわすれ、
「して、厦門船は、いつ纜を巻きそうだ」
「いつどころじゃねえ、もう出船のしたくをしているようすなんで、風のあんばいじゃ夕方にも、港をズリだすかも知れませんぜ」
「じゃ、こうしちゃいられねえ。てめえたちは、穴蔵にいる子分を呼びあげて、すぐ沖の鼻へ、船をまわして見張っていろ。おれはあとから、早船で追いつくから」
「がってんです。じゃ、お頭領もすぐにきておくんなさい」
ドカドカと階段を降りていった。
「大そうな仕事じゃあないか」
呂宋兵衛は、いまの話であらかたのもようをさっしていた。
「この角鹿へ煙草を売りこんだ厦門船が、一万両の売り代を積んでかえるやつを、玄海灘あたりで物にしようというたくらみさ。そこでこんどはしばらくこの仲間屋敷へも帰らねえから、兄貴はここで冬を越すとも、また閉めて京都へ立つなりと好きにしてくれ」
「ちょうどいい。じつはおれも、いつまでここにいい心持になってもいられないから、一つゆきがけの駄賃に北ノ庄のようすをさぐり、それを土産に都入りして、うまうまと秀吉のふところへ飛びこむつもりで考えていたところだ。すぐおれもここを立つとしよう」
「するととうぶんお別れだが、秀吉公へ取りいったら、おれもお船手の侍大将かなにかになれるように、うまく手蔓をしてもらいてえものだな」
「野武士だろうが海賊だろうが、人見知りをせず味方にする秀吉だから、おれが上手に売りこんで、龍巻壱岐守ぐらいにはしてやるよ。まあそれを楽しみにしているがいい」
「あ――厦門船がでやがった」
窓口から港をながめて、龍巻はにわかに立った。そしてせわしい別れをつげ、部屋からかげを消したかと思うと、やがて、海賊の巣である異人屋敷の裏手から、一艘のはしけを矢のごとく漕がせていった。
「ははあ、紅帆船は、むこうの岬のかげにかくれているんだな」
それを見つつ、呂宋兵衛も伴天連の黒服をつけ、首に十字架をかけて、ふところには短刀をのんだ。さて、すっかり身支度がおわると、バタバタ窓をしめて、かれもこの家を立ちかけたが、門口でフイと一つの忘れ物を思いだした。
「針……針……針がいたッけ……」
呪文のようにつぶやくと、クルッと踵をかえして、うす暗い石段をスルスルと地の底へ――
陰湿な穴蔵部屋、手さぐりで近寄ると、鉄格子の錆がザラザラ落ちた。すると、ウーム……とうめきだしたかすかな人声。海賊たちにつれこまれた旅人らしい、ムクムクと身をおこして、人のけはいにおびえている。
「おい、おい」呂宋兵衛は、鉄格子からのぞきこんで、
「もしやおまえは、富士の裾野にいた蚕婆ではないか」
「えッ!」
と、びっくりしたが、しばられているので、そばへは寄ってこられぬらしい。
「わ、わたしを知っているのは、いったい、だ、だれだい……」
「人穴の呂宋兵衛よ」
「ひえッ、呂宋兵衛さま? ああありがたい、助かった。海賊の龍巻がこないうち、はやくここからだしてやっておくんなさい」
「どうしておまえはまた、こんなところへつれこまれたのだ」
「どうしてだって、このくろうをするのも、みんなおまえさんに味方をしたためじゃないか。人穴城から法師野へ逃げて、落ちつくまもなく、伊那丸の夜討ちにあい、やッと北陸道まで逃げのびたと思うと、こんどは海賊につかまってこのありさまさ」
「やッぱり、おれの想像があたっていた」
「くやしいから龍巻の目の玉へ、針を一本吹いてやったら、いまになぶり殺しにしてやるからおぼえていろと、おそろしい血相で、二階へかけあがっていったが……」
「その龍巻や手下どもは、にわかに船をだすことになって、おまえをここへおき去りにしていった」
「すると、わたしを餓死させる気だったんだね。呂宋兵衛さま、とにかく早くだしてくださいまし」
「よし、そのかわりにこれからさきは、おれのために、火の中へでも水の中へでも飛びこむだろうな」
「ごめん、ごめん。わたしはもう大きな慾のない身だから、また裾野で、蚕の糸でものんきに引きたいよ」
「ふん、それじゃ、いッそ、死ぬまでこの穴蔵で隠居をしていろ。たぶんもう二、三年は、この屋敷の戸を開けにくる人間はないはずだから」
呂宋兵衛が、もどりかけると、蚕婆は悲鳴をあげた。いやおうなく、いろいろな誓いを立てさせられて、そこから助けだしてもらうと、婆は、頭にくろい頭巾、身に黒布をまとわせられて、あたかも女修道士のような姿となり、呂宋兵衛のあとからあてもなくついていった。
それから数日ののち――
角鹿の浦から十六、七里、足羽御厨の北ノ庄(今の福井市)の城下に、ふたりの偽伴天連があらわれて、さかんに奇蹟や説教をふりまわしていた。
と、ある日である。濠端にたって、なにやら祈祷をささげている伴天連をみかけて、美しい夫人が鋲乗物を止めさせた。
「もし、伴天連さま」
きれいな侍女たちが三、四人、駕籠をはなれて腰をかがめた。伴天連――呂宋兵衛と蚕婆は、もったいらしく、祈祷の膝をおこして、
「はい、なんぞご用でござりますかな」
「あの駕籠のうちにおいでなされますのは、ご城主さまの奥方小谷の方さまでいらっしゃいます」
「ああそれはそれは、右大臣信長公のお妹君で小谷の方さま、おうわさにもうけたまわっておりました」
「奥方さまは、そのむかし、安土においでのころから、マリヤさまをふかいご信仰でいらっしゃいます。ついては、なにかお祈祷のお願いがあるとのこと、ごめいわくでも城内までお越しあそばしてくださいませぬか」
「おやすいこと、すぐにもお供もうしましょう」
と、呂宋兵衛は、人知れず蚕婆に目くばせして、聖僧気どりのうやうやしく、小谷の方の乗物について大手の橋を渡りこえた。
すると多門の塀際ですれちがった、りっぱな武士がある。
「おや?」
と伴天連のすがたを見送って、
「こりゃふしぎだ、いま奥方の供に加わっていったやつは、たしかに、いつぞや海賊船で別れた和田呂宋兵衛、ひとりは裾野の蚕婆によく似たやつだ……はて、みょうだわい」
と、下城のとちゅうで腕ぐみをしてしまった。
「ウーム、あの呂宋兵衛がこの城内へ……伴天連になりすまして……蚕婆をつれて……こりゃ時節がらゆだんがならん!」
従者だけをそこから下城させて、スタスタとふたたび曲輪へ帰りだしたのは、もと裾野では鏃師の鼻かけ卜斎――いまではこの城の礎とたのまれる上部八風斎だった。
足羽九十九橋を脚下にして、そびえたつ北ノ庄の城は北国一の荒大名、鬼柴田勝家がいる砦である。塁濠は宏大、天主や楼閣のけっこうさ、さすがに、秀吉を成りあがりものと見くだして、大徳寺では、筑前守に足をもませたと、うそにも、いわれるほどなものはある。
「憎っくい猿面、ウーム、一あわふかしてくれねばならぬ」
と、本丸の上段、毛皮の褥に、どッかりかまえた修理亮勝家は、その年、五十三の老将である。こよいも、岐阜の侍従信孝からの飛状を読みおわって、憤怒を面にみなぎらしていた。
評定の間のあかりは、晃々と照って、席には一族の権六勝敏、おなじく勝豊、徳山則秀、不破光治、小島若狭守、毛受勝介、佐久間玄蕃允など、万夫不当の北国衆が、評定の座へズラリといならんでいる。
「この勝家が冬ごもりのまを、鬼のいぬまと思うて、猿面秀吉がすき勝手なふるまい。この書状のようすでは、疾く佐和山をおとしいれ、長浜の城まで手をだしてまいったらしい。ウム、もう隠忍している場合ではない。若狭! 若狭守!」
「はッ」
「そちはすぐ天守へあがって、陣触れの貝をふけ」
「はッ」
「勝敏、勝豊! また玄蕃允! その方どもは先陣に立ってまッしぐらに、近江へむかえ、すぐにじゃぞ……」
「君! しばらく待たせられい」
「なんじゃ、毛受勝介、そちも一陣のさきがけをのぞむか」
「いや、もってのほかな――」
とニジリだした勝介、やや色をあらためて、きッと、
「さきほど、軍師の八風斎どのが、列席のおりには、秀吉退治のご出陣は、来春の雪解けと、同時に遊ばすことに決したではござりませぬか」
「ひかえろ、それはまだ信孝公の御書がつかぬまえじゃ。秀吉の独断かくまでと思わぬからじゃ」
「ご立腹はさりながら、時はいま十二月の真冬、北国街道の雪たかく、軍馬の進路、おもいもよりませぬ」
「だまれ、勝介、おりから今年は雪がすくない。このくらいな天候ならば、柳ヶ瀬越えもなんのその、一挙に、長浜を取りかえして、猿めに、一あわふかすぐらいなんのぞうさがある」
「仰せながら、ひとたび軍旅を遠くはせて、木ノ芽峠や賤ヶ岳の険路を、吹雪にとじこめられるときは、それこそ腹背の難儀、軍馬はこごえ、兵糧はつづかず、ふたたびこの北ノ庄へご凱旋はなりますまい」
「ウーム……」
勝家も愚将ではない、ましてや分別もじゅうぶんな年ごろ。理のとうぜんに、やり場のない怒気が、うめきとなって口からもれる。
「いちおうの理がある、しかし……」
とやや落ちついて、
「来春を待つとして、ほかになんぞ、よい策があるか」
と極めつけた。
「ござります――それは裾野よりご帰参の上部どのが、一月あまりお屋敷にこもって、苦心のすえ作戦された、秀吉袋攻めの奇陣、必勝の布陣、軍旅の用意にいたるまで、お書付としてご家老徳山どのへお渡しになっております」
「そんなものがあったか。伊那丸を味方につけ、甲駿へ根を張らんとしてながらくでていた八風斎、それが不首尾で、帰参後も、めッたに顔をみせぬと思うていたら、すでに、秀吉袋攻めの奇陣を策しておったのか、どれ、一見いたそう」
と、勝家はことごとくきげんをなおして、徳山則秀の取りだした書類や図面に目をとおし、また時折にはなにか小声でヒソヒソと密謀をささやいていた。
するとこの夜陰、おくの曲輪にあたって、にわかにジャラン! ……と妖異な鐘のひびきがゆすりわたった。
「なんじゃ」
折もおりなので、一同おもわず、ガバと顔をはねあげる。
勝家も聞きとがめて、
「南蛮寺で聞くような、いまわしい鐘の音色、奥の局でするらしいが、やかましいゆえ、止めてまいれ」
「はッ――」
と気転よくたった小姓の藤巻石弥、ふと廊下へでるとこは何者? 評定の間の袖部屋へじッとしゃがみこんでいる黒衣の人間。
「間諜ッ!」
大声に叫んで、ダッ! と組みついた。奮然と、むこうからもむかってくるかと思ったがあんがい、グズグズとくじけてしまったので石弥もあっ気にとられた。
「なに、諜者が入りこんでいたと?」
勝家をはじめ、玄蕃允、若狭守など、めいめい燭をかざしてそれへでてきた。
「なんじゃ、そちは伴天連……しかも老婆ではないか」
「はい、はい、……どうぞおゆるしくださりませ」
黒いかげは、竿でハタキ落とされた蝙蝠のようにおののいていた。毛受勝介はッたとにらんで、
「きさま、ただいまの密議を、ここで聞きおッたな!」
「めっそうもないこと、わたくしは神さまに仕える修道士でございます……戦のご評議などを立ちぎきしてなんになりましょう」
「その修道士が、なんでかような場所へ入りこんだか。婆! うそをもうすと八ツ裂きだぞ」
「奥方さまのおたのみで、お祈祷にあがりました……ハイ、三人の姫君さまが、そろいもそろうてご風気の大熱……そのご平癒を神さまにお祈りしてくれとのご諚をうけてまいりました」
「ほ、なるほど……」
勝家の面がすこしやわらいだ。
「おさない姫たちが、このあいだから風邪に悩んでいる。奥もきょうはそれで祈祷にまいった。アレは昔からその宗門でもあった」
「まったく、ご錠口をまちがえまして……」
「石弥、この修道士の婆を、おくの局へつれていってやれ、間諜でもないらしい」
「かしこまりました」
と、石弥が立ち、一同がちりかけると、そのとき、四十九間の長廊下を、かけみだれてくる人々! 小谷の方をまっ先に、局侍女など奥の者ばかり、めいめい鞘をはらった薙刀をかかえ、雪洞花のごとくふりてらしてきた。
「奥ではないか、なにごとじゃ」
「オオ殿さま、ごゆだんあそばしますな」
と小谷の方は、薙刀をふせて、
「今がいままで、一間のうちに祈祷の鐘をならしていた伴天連がみょうなそぶりで、ご城内の要害をさぐり歩いているという小者の知らせでござります」
と息をあえいだ。
「うかつな者をめしいれるから悪い。む! さすればただいまの老婆もその片われじゃな」
「オオ、そこにいる修道士、引っくくってごせんぎなされませ」
といわせもはてず、小谷の方のうるわしい頬へピラピラッと四、五本の針がふき刺さった。
「あッ!」と藤巻石弥も、同時にひとみをおさえて飛びしさる、とたんにすきをねらった老婆は、黒布をひるがえしてドドドドドッと大廊下から庭先へ飛びおりた。
「それッ」
と近侍をはじめ侍女の薙刀、八面をつつんでワッと追いかぶさったが、雪ともつかぬ雹ともつかぬふしぎなものが、近よる者のひとみに刺さって、見るまに怪異な老婆のかげは、外曲輪の闇へ、飛鳥と消える。
ふいのそうどうに、ガランとしていた評定の間。
一羽の蛾がピラピラと飛んでいる。……
これはあやしい。蛾は妖異だ。夏なら知らず十二月、蛾が生きているはずがない――と思うと灯取り虫、一つ一つの燭をはたきまわって、殿中にわかにボーッと暗くなってきた。
スウーッとその蛾が吸いこまれてしまった。
いつの間にか襖のかげに立っていた呂宋兵衛の口のなかへ――滅光の口術? ニヤリと笑って、評定の間へスルスルとはいってきた。
暗闇のなかで、呂宋兵衛、ムズとつかんだ。一同が評議にかけていた秀吉袋攻めの秘帖、それだ! それをつかんだ。――片手につかんで蟇のように評定の間をはいだした。
大廊下には人がいる、ワイワイとさわいでいる。そッちへは逃げられない、次の間へ、スーと抜けてくると、障子に槍をもってる人影がうつっている。
「こいつは危ない……」
と、あとずさりをした壁ぎわで息をのむ。と、うしろからだれか、指のさきで、チョイと背中をついた者がある。
二寸ばかり納戸襖があいていた。そのなかから手がでて呂宋兵衛の指へやわらかにさわった。
「蚕婆だな……」
と、すぐ肚のうちで、うなずいた。
そして、手につかんでいた秘帖を、スルリと引っぱられたが、婆があずかるつもりだろう――と思ってわたしてしまった。
とたんに、ズドン! と短銃の弾がまつげをかすった。白いけむりが評定の間でムクッとあがった。いけねえ! と思ったので呂宋兵衛、いきなり障子を開けるやいな、バラッと飛びだすと、待ちかまえていた長身の槍先が、
「えいッ」
と、するどい光をつッかけてきた。
「おッ!」
と、すばやくつかみとめた槍の千段、顔を見るとおどろいた、闇でも知れる鼻――あの鼻のもちぬし、上部八風斎である。
こいつは苦手だ、ばらばらともとの部屋へ逃げこむ、と同時に、佐久間玄蕃允の声で、
「曲者ッ!」
組んできた。ドンとつぎの千畳敷へ投げつけられた。起きあがると、またふたたび、毛受勝介の大喝一声、
「おのれ、間諜!」
グンと襟がみを引ッつかまれた。が、こんどは呂宋兵衛にれいの奥の手をだすよゆうがあった。ポンとその手をはらうや否、跳びあがって広間の壁へ、守宮のようにペタリと背なかを貼りつけてしまった。
上部八風斎、すばやく見つけて、槍の素扱きをくれながらブーンと壁の下からつき上げた。――もんどり打って呂宋兵衛のからだが畳の上へおちたかと思うと、木の葉をめくるように一枚の畳がヒラリと起きて槍へかぶった。
「おおッ」
と、毛受、佐久間が飛びつくまに、かれのすがたは畳の下へもぐって消える。
「方々、方々、曲者はこの部屋でござる。千畳敷を取りまきめされい!」
毛受勝介が城中へ鳴りわたるばかりにどなった。
と――あら奇怪、畳から次の畳へ、ムクムクムクと波のごとくうごいていった。そして、向こうの端の一枚がポンとめくれる――たちまち飛びだした呂宋兵衛、脱兎のごとく大廊下から武者走りににげだした。
「幻術師! のがすなッ」
とひしめきあって、あらん限りの武者がそれへ殺到してしまった。そのようすを見すまして、はじめて、納戸襖をソロリとあけた黒装束、押入れからとびだして、呂宋兵衛からわたされた攻軍の秘図をふところにおさめ、別なほうから築山づたいで、北庄城の石垣をすべり落ちていった。
橡ノ木峠の大吹雪――
軍飛脚か狼か雪女よりほかはとおるまい。
ところがひとりのお婆さん、元気なものだ。歓喜天さまのお宮の絵馬を引ッぺがして、ドンドン焚火をしてあたっている。
黒い頭巾をかぶって、姿は気だかい修道士だが、中身は裾野の蚕婆だ。たきびで焼いた兎の肉をひとりでムシャムシャ食べている。
「ここで落ちあうやくそくだのに、どうしたんだろう……にげ損なってやられたのかしら」
同じことを、口のうちでなんどいったか知らない。そのうち麓のほうから、雪をおかしてくる人かげ。
「おお、呂宋兵衛さま」
「婆、待っていたか」
かぶってきた蓙をすてて焚火のそばへふるえついたのは、おなじ姿の呂宋兵衛だった。
「待っていたかもないもんだ、半日もおさきだったあね」
「気の毒だった、捕手に逃げ口をふさがれて、足羽川の上を遠まわりしてきたため、ばかに手間をとってしまった。それはいいが、城中でわたしたアレは落とさずもってきたろうな」
「城中で? おやなにを……」
「この呂宋兵衛が、命がけでとった柴田方攻軍の秘帖、秀吉公への土産にするのだ」
「いいえ、わしはなんにも知りませんよ」
「城中のくらがりで、たしかに汝の手へわたしたはず」
「ごじょうだんを……この婆はおまえさんがはたらくまえに、逃げだしたんじゃないか」
「はてな? するとあの手はだれだろう」
早打ちの男か、またサクサクとここへ雪の峠越えをしてきたものがある。頬かむりの上に藁帽子、まるで、顔はわからないが蓑の下から大小の鐺がみえた。
ふたりの前をとおりかかって、
「吹雪がくる――、追手もくるぞ」
ヘンなことをいって通りすぎた。
「なるほど、また北から黒い雲がまいてきた。日の暮れないうち麓の宿へたどりつこう」
呂宋兵衛と蚕婆は、また伴天連になりすます約束でサクリ、サクリと歩きはじめた。
案の定、ドーッと、陣太鼓をぶつけるような吹雪がきた。燃えのこった焚火が雪にまじって、虚空に舞い、歓喜天の堂の扉もさらってゆかれそう。このぶんで一晩ふったら、お宮も埋もって山の木がみんな二、三尺になるかも知れない。
「オオ寒ッ!」
いたたまれないで、お堂のなかから飛びだしたはひとりの少年。寒いはずだ、膝行袴に筒袖の布子一枚、しかし、腰の刀は身なりにも年にも似あわぬ名刀の銀づくり。
「こんな雪が降ってるうちは、クロも空をとべないだろう。アア、いつおいらとめぐりあえるのかしら」
吹雪の空を見あげて、くろい大鷲の幻影をえがいたのは、法師野いらい、その行方をたずね歩いている鞍馬の竹童である。
信濃をこえて、飛騨を越えて、クロを尋ねつ冬にはいって、この大雪にゆきくれた竹童、腰に名刀般若丸のほこりはあるも、お師匠さまは尊いもの、クロはおいらのかわいいものとしている、あの鷲にあえざる心はさびしかろう。
あければ、天正の十一年。
本能寺の焼け跡にも、柳があおい芽をふいた。
都の春のにぎやかさ。ことに、羽柴従四位の参議秀吉が入洛ちゅうのにぎやかさ。――金の千瓢、あかい陣羽織、もえ黄縅、小桜おどし、ピカピカひかる鉄砲、あたらしい弓組、こんな行列が大路小路に絶えまがない。
戦があっても貧相でなく、新鋳の小判がザラザラ町にあらわれ、はでで、厳粛で、陽気で、活動する人気は秀吉の気質どおりだ。京ばかりではない、姫路へ下向すれば姫路の町が秀吉になり、安土へゆけば安土の町がそッくり秀吉の気性をうつす。
「ご前」
馬廻りの福島正則、ニヤニヤ笑いながら、秀吉の前へひざまずいた。京都の仮陣営、ここに天下の覇握をもくろんでいるかれ、飯を噛むまもないせわしさ。いまも、祐筆になにか書かせながら、じぶんは花判黒印をペタペタ捺している。
ちかく出師せんとする柴田がたの滝川征伐、その兵を糾合する諸大名への檄文であるらしい。
「なんじゃ」
むぞうさにこたえて、次のへ、ペタリと一つ捺した。
「とうとうやってまいりました」
「だれが」
「裾野の和田呂宋兵衛。おそるおそるご拝謁を願いに、陣前へまかりこしております」
「富士の人穴で、二千の軍兵をかかえながら、勝頼の遺子、武田伊那丸に追いまくられて、こんどはわしへとりいる気だな」
「むろん、ご賢察のごとくでござりましょう」
「まアいい、ここへ持ってこい」
と、まるで品物を見るようにいった。
「可児才蔵はあるか!」
おおきな声でどなった。
はなやかな小具足をつけた可児才蔵、幕をはらって階下に頭をさげる。
「しばらくそこにおれ」
といったまま、また祐筆にむかってなにか文言をさずけている。と、福島正則、和田呂宋兵衛と蚕婆の修道士を連れてはるかに平伏させた。
呂宋兵衛は、ここぞ出世の緒口と、あらんかぎりの巧舌と甘言で、お目見得した。まず、将来天下人の兆瑞がお見えあそばすということ、君のおんためには死も一毛より軽しということ、それから、こんどは手まえ味噌で天下の野武士はわが指一本にうごくというじまん、幻術は天下無双、兵法智略には、丹羽昌仙という腹心の者があること、――かぎりもなくならべたてる。
秀吉は、フン、フン、フン、で、聞くことだけは聞いている。
さてと呂宋兵衛、まだなにかいうつもりだ。
「さてこのたびのご拝謁に、なにがなよき土産ともぞんじまして、上洛のとちゅう、命がけでさぐりえましたのは柴田勝家の攻略、まった北庄城の縄ばり本丸外廓、濠のふかさにいたるまでのこと、それを密々言上いたしますれば、ちかきご合戦はご勝利うたがいもなきこととぞんじまする」
と、蚕婆にさぐらせた評定のもよう、じぶんがしらべた砦の秘密など、得々然とかたり出した。
いま、勝家と秀吉の仲、日ごとに険悪となりつつあることは天下の周知。さだめし、秀吉が目をほそくしてよろこぶだろうと思うと、呂宋兵衛がしゃべっているまに、
「うッははははは」
と腹をおさえて笑いだした。
「呂宋兵衛、柴田の内幕話ならもうやめい」
「はッ」とかれは目をぱちくり。
「仰せにはござりますが、勝家一族が、ご当家を袋攻めにせん奇陣をくふうし、雪解けとどうじに出陣の密策をさぐってまいりましたゆえ」
「わかった、わかった。そちの申すのはこれであろう」
座右の文庫から、むぞうさにとりあげて、呂宋兵衛のほうへみせた書類! ヒョイと仰ぐと、いつぞや、北庄城の一室で、納戸襖から合図されて手へわたした、あの攻軍の秘帖だ! あの手が秀吉だったのか? あの手が? 呂宋兵衛はぼうぜんとして二の句がでない。
「こりゃ、そちは幻術をやるだろうが、諜者はから下手じゃの。さぐりにかけては、まだそこにいる男のほうがはるかにうまい」
と、可児才蔵を顎でさした。
「才蔵、びっくりしておるわ、種をあかしてやれ」
「はッ、呂宋兵衛どの」
と、こんどは才蔵があとをうけた。
「先日はまことに失礼つかまつった」
「や! ではあの時、うしろから手をだされたのは?」
「貴公よりまえに、北庄城へさぐりにはいっていた拙者でござる。また、橡ノ木峠でごあいさつして通ったのもすなわち拙者で」
「ははあ……」といったまま、呂宋兵衛も蚕婆も、すっかり毒気をぬかれたていで、いままで喋々とならべたてた吹聴が、いっそう器量を悪くした。
と、そのとき、羽柴の荒旗本、脇坂甚内、平野三十郎、加藤虎之助の三人、バラバラと幕屋の裾にあらわれて一大事を報告した。
しかも、ふしぎな事件である。
いま、ふいにこの陣屋へ徳川家の武士五人がおとずれてきた、というのである。五人の頭は、徳川家のうちでも、音にきこえた菊池半助。
その半助のいうには、武田勝頼、ほかふたりの従者がすみぞめの衣に網代笠を目ぶかにかぶり、ひそかに、東海道からこの京都へはいったので追跡してきたが、ついに、この洛中で見うしなったゆえ、羽柴どののご手勢でからめてもらいたいとの口上である。
こんな奇怪な話はない。
武田四郎勝頼――、すなわち、伊那丸の父なる大将は去年天正十年三月、織田徳川の連合軍にほろぼされて、天目山の麓ではなばなしい討死をとげていること、天下の有名、だれあって知らぬものはない。
だのに、その勝頼が、すみぞめの衣をきて、京都にはいったとは、なんとしても面妖である。
「おまちがいないか」
と、虎之助が念をおした時、
「断じてそういはござらん」
と、菊池半助が語をつよめていった。
しかし、京都は徳川家の勢力圏内ではない。ぜひお手配をわずらわしたい、との懇願。事件、人物がまた容易ならぬ人、なんとへんじをしましょうかと、三人の旗本がこもごも申したてた。
「ふウむ……勝頼がな」
と秀吉も、これを聞くとしばらく沈思瞑目していたがやがて重く、
「ほかならぬ徳川どののおたのみ、聞いてあげずばなるまい。しょうちいたしましたとごへんじをいたせ」
「はッ、お伝え申しまする」
と平野三十郎ひとりだけが立ってゆく。と、脇坂甚内すぐに小膝をゆるがして、
「ご承引のうえは、それがしと虎之助どのとにて、四郎勝頼のありかをたしかめ引っとらえてまいりましょうか」
「待てまて……」
秀吉は、まだ瞑目をつづけていたが、はじめて、いつもの調子でいいのける。
「やがてこの筑前守は伊勢の滝川攻めじゃ、この用意のなか、死んだ勝頼をさがしているひまな郎党はもたぬ」
「はッ」
甚内は五体をしびらせておそれいった。
「じゃが、ひきうけたこと抛ってもおけまい、この役目は和田呂宋兵衛に申しつける。よいか」
「しょうちいたしました、すぐ洛中をくまなくただしてご前へその者を召しつれます」
「やってみろ、そちには手ごろな尋ねものじゃ」
人使いの名人、顔を見たとたんに、もう呂宋兵衛をあそばせておかなかった。が、ふしぎな大役、いいつけられた、呂宋兵衛のほうでも、なんだかムズムズ油がのる。秀吉公への目見得の初役、ぜひ引っからめて見せねばならぬとひそかにちかった。
ましてや、武田四郎勝頼、伊那丸の父である。事実、天目山で討死していなかったとすれば、天下の風雲、さらに逆睹すべからざることになる。
里の二月は紅梅のほころぶころだが、ここは小太郎山の中腹、西をみても東をながめても、駒城の峰や白間ヶ岳など、白皚々たる袖をつらねているいちめんの銀世界で、およそ雪でないものは、伊那をながるる三峰川か、甲斐へそそぐ笛吹川のあおいうねりがあるばかり。
「北国すじへ間者にいった、巽小文治はどうしたであろう」
「そういえば、東海道へいった山県蔦之助も、もうもどってこなければならないじぶんだが? ……」
小太郎山の山ふところ、石垣をきずき洞窟をうがち、巨材巨石でたたみあげた砦のなかは、そこに立てこもっている人と火気で、室のようにあたたかい。
いま、砦の一ヵ所に炎々と篝をたいて、床几にかけながらこう話しているのは、忍剣と龍太郎であった。
「ふたりとも、あまりに日数がかかりすぎる。悪くするとこの雪に道でもふみちがえて凍えたのではあるまいか」
「いや、とちゅうには番卒小屋もあり、部落部落には味方もいるから、けっしてそんなはずはない」
「では深入りして徳川家のやつに、生けどられたかな」
「蔦之助も小文治も、おめおめ敵の縄目にかかる男でもなし……きっとなにか大事なことでもさぐっているのだろう。それよりあんじられるのは竹童じゃ」
と、龍太郎は眉をくもらせた。
「オオ、竹童といえば、いったいどこへいってしまったのか、とんと尻のおちつかぬやつだ」
「しかしあいつのことだから、かならずクロをさがしだして、元気な顔でもどってくるだろうが、この雪や氷の冬のうちを、どこで送っているかと思うと、ふびんでもありしんぱいでならぬ……」
さすがに木隠龍太郎は、兄弟弟子の竹童を、明けくれ忘れていないのである。
去年の晩秋――人穴城をおとし法師野の里に凱歌をあげた武田伊那丸は、折から冬にかかってきたので、幕下の旗本をはじめ二千の軍兵をひきいて、ひとまずこの小太郎山へ引きあげたのだ。
しばらくは、この山城で冬ごもりだ。
陣具をつくり武器をとぎ、英気をやしなわせて、春の雪解けをまっている。
で、おん大将をはじめ軍師の民部も、咲耶子も、みな一家のごとく団欒して、この冬をこし、初春をむかえたのであるが、ただひとり、人気者の竹童がいないのは、なにかにつけて、だれもがさびしく感じていた。
竹童よ、竹童よ。おまえはいったいどこにいるか?
ああ、クロの行方がわからないように、竹童のたよりもいっこうわからない――と、いまも龍太郎が灰色の空をあおいで長嘆していると、バラバラと、砦の柵の方から、ひとりの番卒がかけてきた。
「木隠さま! 加賀見さま!」
「なんじゃ」
煙のかげからふたりの声が一しょにおうじた。
「ただいま、巽小文治さまと山県さまが、ふもとのほうからこちらへのぼっておいでになります」
「オオ、かえってきたか!」
ふたりはすぐに篝をはなれて立ち、バラバラと砦の一の柵まで迎えにかけだした。
ここは大将の陣座とみえて、綺羅ではないが巨材をくんだ本丸づくり、おくには武田菱の幕がはりまわされ、そのなかにあって、当の武田伊那丸は、いましも、軍師小幡民部から、呉子の兵法図国編の講義をうけているところであった。
そばには、咲耶子もいて、氷のような板敷にかしこまり両手を膝において、つつしんで聞いている。
と――、幕をはらって加賀見忍剣、
「わが君」
と声をかけた。
「おお忍剣、なんであるな」
「ご講義ちゅうでござりますか」
「いや、兵学のつとめも、ちょうどおわったところじゃ」
「では、せんこく帰陣しました山県、巽のふたり、すぐこれへ召入れましてもよろしゅうござりましょうか」
「オオ、北国と徳川領へさぐりにいったふたりのもの、日ごとに帰りを待っていた。すぐここへ呼んでよかろう」
「はッ」
幕をおとして忍剣のすがたが消えると、やがてふたたびその幕がはねあげられ、山県蔦之助と巽小文治、それに龍太郎と忍剣もつづいて、伊那丸の前へひざまずいた。
「雪中の細作、さだめし難儀にあったであろう」
と伊那丸は、まずふたりの使いをねぎらって、
「順序として、北国筋の動静をさきに聞きたい、小文治そちのさぐりはどうであった」
「はッ」
威儀をただして、小文治が復命する。
「多宝塔のいただきから、たくみに鷲をつかって逃げうせました呂宋兵衛は、どうやら、越前北ノ庄を経て、京都へ入りこみましたような形跡にござります」
「ウーム、京都へ!」
小幡民部がうなずいた。
「おりから、裾野にいた鏃鍛冶の卜斎も、柴田の家中へひきあげて、北庄城では雪解けとともに、筑前守秀吉と一戦をなす用意おさおさおこたりなく、国境の関はきびしい固めでござります」
「それでおよそのようすはわかった……」
と伊那丸はつぎに山県蔦之助へことばをむける。
「して、東海道のほうにはなんぞかわりはないかの」
「若君――」
すぐ受けて蔦之助、
「容易ならぬうわさをきいてござります」
といった。
「なに、容易ならぬうわさとな?」
「また徳川の痩武者どもが、この砦へ攻めよせてくるとでもいうことか」
忍剣は気早な肩をそびやかした。
「それとはちがって、世にもふしぎなうわさでござる」
と、蔦之助は伊那丸の顔をあおぎ見ながら、
「――若君、おおどろき遊ばしますな、そのうわさともうすのは、お家滅亡のみぎり、あえなく討死あそばしたと人も信じ、またわれわれどもまでが、うたがって見ませぬ四郎勝頼さま」
「オオ、父上――その父上がなんとあるのじゃ」
「じつはお討死とは表向きで、まことは、天目山の峰つづき、裂石山雲峰寺へいちじお落ちなされて、世間のしずまるころをお待ちなされたうえ、このほど身をいぶせき旅僧にかえられ、ひそかに、京都へお入りあそばした由にござります」
「えッ!」
はたして伊那丸のおどろきは一通りではなかった。
勝頼――と父の名をきいただけでも、はやその眸はうるみ、胸は恋しさにわななくものを、まだ存命ときいては、そぞろ恩愛の情あらたにひたひたと胸をうって、歓喜と驚愕と、またそれを、怪しみうたがう心の雲が入りみだれる。
「ではなんといやる、父上にはなおご武運つきず、旅の僧となって、都へおちゆかれたと申すのか――蔦之助もっとくわしゅう話してくれ」
「されば、まだことの虚実は明確に申しあげられませぬが、東海道――ことに徳川家の家中においてはもっぱら評判いたしております。それゆえ、なお浜松の城下まで入りこみまして、ふかく実否をさぐりましたところ、その旅僧を勝頼なりといって、隠密組の菊池半助、京都へ追跡いたしました」
「ウーム、さては真にちがいない」
心そぞろに、伊那丸のひとみは燃える。
「意外なこともあるものじゃ。真実、勝頼公が世におわすとすれば、武田のご武運もつきませぬところ、若君のよろこびはいうもおろか、われわれにとっても、かようなうれしいことはないが……」
つぶやきながら軍扇をついて、ふかく考えているのは小幡民部である。しかし、加賀見忍剣や龍太郎やまた咲耶子にいたるまで、みなこの報告を天来の福音ときいて武田再興の喜悦にみなぎり、春風陣屋にみちてきた。
「京都へまいろう! そうじゃ、すぐ京都へまいってお父上にめぐりあおう!」
なかにも伊那丸は、おさなくして別れた父、なき人とばかり思っていた父――その父の存命を知っては、いても立ってもいられなかった。
「民部、わしはこれよりすぐに京都へまいるぞ、そしてお父上を小太郎山へおむかえ申さねばならぬ」
一刻のゆうよもならずと立ちあがった。
「しばらくお待ちあそばしませ」
いつも思慮ぶかい小幡民部、しずかに、伊那丸の裾へよって両手をついた。
「民部、そちはわしの孝心をとめるのか」
「なんとしてお止め申しましょう。若君のお心、そうなくてはならぬところでござります。しかしようお考えあそばせ、元来、徳川家には策士の伝言多く、虚言浮説は戦国の常、にわかにそれをお信じなされるもいかがかとぞんじます」
「いいや、徳川家の菊池半助が、それとみた旅の僧を、京都まで追いつめていったとあれば、こんどのうわさはうそではあるまい。まんいち、時をあやまって、お父上が、家康の手にでも捕われたのちには、もうほどこすすべはないぞ、この伊那丸が生涯の大不孝となろうぞ」
「おお、ぜひもござりませぬ……」
さすがの民部にもそれをはばむことはできない。かれはとちゅうの変をあんじ、伊那丸じしんがとおく旅する危険を予感しているが、孝の一言! それをさえぎる文字は、兵法にもなかった。
にわかに、旅のしたくがふれだされた。
旅から旅をつぐ道筋は、みな敵の領土だ。むろんしのびの旅である――ともは加賀見忍剣、木隠龍太郎のふたりにきまった。
雪をふんだ一列の人馬が、蟻のように小さくくろく小太郎山の砦をくだった。ふもとの野呂川は富士川へ水つづき、筏にうつった伊那丸と忍剣、龍太郎の三人は、そこで送りの兵をかえし、雪と水しぶきの銀屑を突ッきって、まっしぐらに、東へ東へと下っていった。
父にめぐり会いたさの一心、伊那丸は敵地をぬけ、関をかすめて旅する苦しさやおそろしさを思わなかった。
東海道のうら道をぬけて、主従三人が京都へたどりついたのは二月のすえ。おりから伊勢路一円は、いよいよ秀吉が三万の強軍を狩りもよおして、桑名の滝川一益を攻めたてていたので、多羅安楽の山からむこうは濛々たる戦塵がまきあがっていた。
伊勢は戦といううわさだが、京都の空はのどかなものだ。公卿屋敷の築地には、白梅の香がたかく、加茂川の堤には、若草がもえている。
そのやわらかい草のうえに、グタリと足をのばしている少年。ときどき、水をみてはさびしい顔――空をあおいではポロポロと、涙をこぼしている。
「クロ! クロ! こんなにおまえをさがしているおいらをすててどこへかくれてしまったんだい、クロ、もう一どおまえのすがたを見せておくれ。おいらはおまえがいないので、こんなにさびしがっているんだぜ! さがしてさがしぬいて、こんなにつかれているんだぜ!」
鞍馬の竹童は空へむかってこう叫んだ。
しかし、その訴えに答えてくれるものもなければ、クロの幻影さえも見えてこない。かれはまたぼんやりと加茂の流れをみつめていた。
すると、往来からこっちへ歩みよってきた男が、
「おい、おまえは竹童じゃねえか」
ふいに背なかをたたいていった。
「え?」
と、すこしおどろいた顔をして、その男をふりあおいだ竹童は、へんじをするまえにパッと立ちあがって、般若丸の柄へ手をかけた。
「おいおい、やぼなことをするなよ」
と、男は手をかまえて、飛びのきながら、
「人の面をみると、すぐ喧嘩面だから怖ッかなくってしようがねえなあ。竹童、おめえとおれとは、なにも仇同志じゃあるめえし、そういつまで根を持つことはねえじゃねえか」
としきりとなだめている男は、裾野落ちのひとりである早足の燕作。なぜか、きょうにかぎってばかに下手だ。
「なあ竹童――じゃあない、竹童さん。そういつまでも怒ってるのはやぼだぜ。呂宋兵衛は没落するし、人穴城の住人でもなくなってみれば、おまえとおれはなんの仇でもありゃしねえ。久しぶりで仲よく話でもしようじゃねえか」
竹童は純なものだ。そういわれてまで、かれを敵視する気にもなれないので、意気ごんだ力抜けに、またもとの堤草へ腰をおろした。
「みょうなところで会ったなア」
と燕作もそばへ寄ってきて、
「どうしておまえひとりで、こんなところにぼんやりしているのよ。え? ばかに元気のねえ顔つきじゃねえか」
「クロがいなくなったので、それでがっかりしているんだよ」
「クロ? ……なんだい、クロってえのは」
「おいらのかわいがっていた大鷲」
「ああなるほど――」
と燕作は手をうって、
「あれならなにもしんぱいすることはねえぜ。泣き虫の蛾次公が、おまえのすきをねらって、乗りにげしたッていう話だから」
「ところが行方が知れないんだもの――しんぱいしずにいられないよ」
「なアに、蛾次公のことだもの、いまにあっちこっちを飛びまわったあげくに、この京都へもやってくるにきまってら。な、そこをギュッと取っつかまえてしまいねえ」
「ああ、おいらもそう思って、北国街道から、雪のふる橡ノ木峠をこえて、この京都へきたけれど……まだ鷲の影さえも見あたらない」
「そう短気なことをいったってむりだ。ものはなんでもしんぼうがかんじんだからな……おや、そりゃそうと、竹童さん、おまえはたいそうすばらしい刀をさしているじゃねえか」
と、燕作はソロソロ狡獪な本性をあらわして、なれなれしく竹童の帯びている般若丸の鍔や目貫をなでまわしながら、
「こりゃ大したものだ。目貫の獅子は本金で、鍔は後藤祐乗の作らしい。ウーム……どうだい竹童さん、ものはひとつそうだんだが、その刀をおれに四、五日貸してくれないか」
「えッ」
竹童は図々しい相手のことばにびっくりして、
「とんでもないこと! この刀は貸すどころか、ちょっとでも肌身をはなすことのできないだいじな品物だよ」
「そんな意地の悪いことをいうなよ。じつは裾野を落ちていらい、着のみ着のままで、路銀もなし資本もなし、なにをすることもできずに困っているところだ。後生だから、その刀を貸してくんねえ。二、三百両にゃ売れるだろうから、そうしたらおまえにも、小判の十枚や二十枚は分けてやるぜ」
「ばかなことをいうとしょうちしないぞ」
「オヤ、こんちくしょう」
と燕作はグッと腕をまくりあげて立ちあがって、竹童の胸ぐらをつかんだ。
「さっきから下手にでていればツケあがって、素直にわたさねえとまた痛い目に会わすからそう思え」
「おのれ、さてはやさしくいいよって、はじめからこの刀をとろうとしていたんだな」
「知れたことよ。だれが、てめえみてえな山猿に、ただペコペコするやつがあるものか!」
「ちぇッ、そう聞けばなおのこと、命にかけても般若丸をわたすものか!」
「命知らずめ、後悔するなよッ」
もろ手で咽をしめつけながら、足がらみをかけて、ドンとねじたおすと、たおれたとたんに竹童が、さっと下から般若丸の冷光をよこざまにはらった。
「おッとあぶねえ!」
一足とびに切ッ先をかわして、おのれも脇差をぬきはらった燕作、陽にかがやく大刀をふりかざして、ふたたびタタッ――と斬りこんでくる。
竹童はすばやく跳ねかえって、チャリン! とそれを引ッぱずした。が、それは剣の法ではなく、いつも使いなれている棒の呼吸だ。
鞍馬のおくを下りてから、きょうまでいくたびも生死のさかいを超えてきたが、ほんものの刀をとって、敵と刃交ぜするのは竹童きょうがはじめての経験である。なんともいえぬおそろしさだが、またなんともいえぬ壮快な気分と、必死の力が五肢にも刃にもみなぎってくる――
「この山猿め、味なまねをしやがるな」
燕作は見くびりぬいて上段にかまえ、すきをねらって竹童の手もとへ、パッと斬りつける。
鞍馬の竹童、剣道は知らぬが、胆は斗のごとしだ。
「なにをッ」
と叫ぶがはやいか、名刀般若丸を棒とおなじに心得て燕作の刀へわが刀をガチャッとたたきつけていった。
なんでたまろう、二条の白虹、パッと火花をちらしたかと思うと、燕作の鈍刀がパキンと折れて、氷のごとき鋩子の破片、クルッ――と虚空へまいあがった。
「しまった!」
と燕作、悲鳴をあげて逃げだすところを、やっと追いすがった竹童が、ただ一息に、斬りさげようとすると、サヤサヤと葉をそよがせた楊柳のこずえから、雨でもない、露でもない、ただの光でもない、音のない銀の風!
オオ、無数の針!
光線をそそぐがごとくピラピラピラピラ! と吹きつけてきて竹童の目、竹童の耳、竹童の毛穴、ところきらわずつき刺さッた。
「ウーム?」
と息ぐるしい悶絶の一声。
さすが気丈な怪童子も、その一瞬に、にわかにあたりが暗くなった心地がして、名刀般若丸をふりかぶったまま、五肢を弓形に屈して、ドーンとうしろへたおれてしまった。
「ざまをみやがれ、すなおに渡してしまえばいいに、おあつらえどおりに、苦しい目を見やがった」
セセラ笑って、ひっ返した早足の燕作、歯がみをする竹童の胸板に足をふんがけて、つかんでいる般若丸を力まかせに引ったくった。
そして、ニヤリと刃渡りをながめていると、ふいにだれか、えりくびをムズとつかんだ。
「あッ、なにをするんだ」
いうまもなかった。
フワリと足が大地をはなれたとたんに、かれのからだは宙をかすって、堤の若草を二、三間さきへズデンともんどり打っている。
「ア痛ッ」
と跳ねおきて見ると、いつの間にそこへきたか、網代の笠を眉深にかぶったひとりの旅僧、ひだりに鉄鉢をもち、みぎに拳をふりあげて、
「こりゃ、かような少年をとらえてなんとするのじゃ」
はッたと睨めて、よらばふたたび投げつけそうな構えである。
「おや、この乞食坊主め、よくも生意気な手だしをしやがったな!」
うばい取った般若丸を持ちなおして、いきなり燕作が斬ってかかると、旅僧はやすやすと体をかわして、手もとへよろけてきた小手をピシリと打った。――燕作はしたたかに手首をうたれて、ホロリと刀を落としたので、それをひろい取ろうとすると、ふたたびヤッ! というするどい気合い、こんどは堤の下へつき落とされた。
ズルズルとすべり落ちたが、まだ性こりもなく起きあがって、いまの仕返しをする気でいると、ひとりとおもった旅僧のほかに、まだ同じすがたの行脚僧がふたり、すぐそこにたたずんでいたので、
「あッ、いけねえ!」
とばかり一もくさん、堤のしたを縫って逃げだしてしまった。
そのうしろすがたのおかしさに、ふたりの僧は見おくりながら、
「ははははは」
とほがらかに笑い合う。
と、堤の上から先のひとりの僧が降りてきて、燕作のすてていった般若丸をたずさえてきて、
「この太刀を見おぼえはござりませぬか……」
膝をおって、丈のたかい僧のひとりへさしだした。
網代笠にかくされて、僧のおもざしはうかがいようもないが、丸ぐけの紐をむすんだ口もとの色白く、どこか凛々しいその行脚僧は、衣のそでで陽をよけながら、ジイッと刃をみつめていたが、やがてきわめてひくい声で、
「さてさて珍しい刀をみることじゃ」
感慨無量な語調をこめて、瞳もはなたずつぶやいた。
「見るもなつかしいことである。これはまぎれもなき伊那丸の守り刀……」
「わたしも、しかとさように心得ますが」
「つきぬ奇縁じゃ……おもえばふしぎな刀とわが身のめぐりあわせのう」
「御意にござります、あれにたおれている少年を介抱して、ひとつしさいをただしてみましょうか」
「いや、世をしのぶ身じゃ。それはソッと少年の鞘にもどしておいたほうがよい」
「しかしなにやら、苦しんでおりますものを、このまま見捨ててまいるのもつれないようにぞんじますが」
「オオ、では、河原の水でもすくってきてやれい。じゃが、夢にも刀のことはきかぬがよいぞ。訊けばこなたの素性も人に気どられるわけになる」
「しょうちいたしました……」
と、ひとりが河原へ下りていくと、ひとりは竹童を抱きおこして活をいれ、口に水をあたえただけで、ことばはかけずにスタスタといき過ぎてしまった。
「ア痛……どなたですか……ありがとうございました。ありがとうございました……」
竹童は遠退く跫音へいくども礼をいったが、両手で顔をおさえているので、それがどんな風の人であったか、見送ることができなかった。
顔をおさえている指のあいだから、タラタラと赤い血の筋……
「あ痛ッ……」
と片手さぐりに河原の水音をたどっていった竹童、岩と岩との間から首をのばして、ザアッと流れる水の瀬で血汐をあらい、顔をひやし、そして目や髪の毛のあいだに刺さッた針を一本ずつ抜いてはまた目を洗っていた。
そのあいだに――以前の場所の楊柳のこずえから、ヒラリと飛びおりたひとりの女がある。
女といってもお婆さんだ。修道士の服をかぶった蚕婆――。
くろい頭巾の中から、梟のような目をギョロリとさせて、柳がくれに遠去かる三つの網代笠を見おくっていたが、やがてウムとひとりでうなずいた。
いつか河原は暮れている――
青いぶきみな妖星が、四条の水にうつりだした。
伊勢路に戦のあるせいか、日が沈んだのちまでも東の空だけはほの赤い。
「あいつだ! たしかにあいつにちがいない!」
こうさけんだ蚕婆、妖霊星をグッとにらんで、しばらく首をかしげていたが、まもなく、黒い蝶々が飛ぶように、そこからヒラヒラと走りだした。
空にはうつくしい金剛雲、朱雀のはらには、観世水の小流れが、ゆるい波紋をながしている。
月はあるが、月食のような春のよい――たちこめている夜霞に、家も灯も野も水も、おぼろおぼろとした夜であった。いつともなく菊亭右大臣家の釣り橋にたたずんだ三人づれの旅僧は、人目をはばかりがちに、ホトホトと裏門の扉をおとずれていた。
「はて、まだ答えがござりませぬが、どうしたものでござりましょう」
やがて、当惑そうにつぶやく声がきこえた。
「まえもって、密書をさしあげてあることゆえ、館にはとくよりごぞんじのあるはずだが……」
「あまりあたりをはばかりますゆえ、まだ詰め侍が気がつかぬのでござりましょう。どれ……」
となかのひとりが、こころみにまた、閂をガタガタゆすっていると、こんどは、その合図がとどいたとみえて奥にもれていた小鼓の音がはたとやみ、同時に人の跫音がこなたへ近づいてくるらしい。
ギイ……とうちから裏門の扉があかった。
ななめに、紙燭の黄色い明かりがながれた。その明かりに、泛いた僧形のかげを見ると、顔をだした公卿侍は、
「や! これは?」
とおどろいたさまで、すぐに、ふッとかざしてきた紙燭を吹きけしてしまった。
「意外にお早いお着き、お館さまもお待ちかねでござります。いざ……」
あたかも、貴人の微行でも迎えるように、いんぎんをきわめて、扉のすそにひざまずいた。網代笠をかぶった三人の僧形は、黙々として、その礼をうけ、やがてあんないにしたがって、菊亭殿の奥へ、スーッと姿をかくしてしまった。
ふたたび閉めきられた裏門は、秘密をのんでものいわぬ口のようにかたく封じられた。夜はふけてくるほど、草にも花にも甘い香が蒸れて、あとはただ釣り橋の紅梅が、築地をめぐる水の上へ、ヒラ、ヒラと花びらくろく散りこぼれているばかり。
すると、その濠ぎわの木のかげから、ツイとはなれた人影があった。黒布をかぶった妖婆である。いうまでもなく、それは加茂の堤から、三人の僧をつけてきた蚕婆――
修道士すがたの黒いかたちが、朧月の大地へほそながく影をひいた。婆はヒラヒラと釣り橋のそばまできて、かたく閉じた裏門を見まわしていたが、やがて得意そうに「ひひひひひひひひ」と、ひとりで笑いをもらした。
「あれだあれだ、やっぱりわしの目にまちがいはなかったぞよ。あの三人の僧侶のうちのひとりがたしかに武田勝頼、あとのふたりは家来であろう。うまく姿をかえて天目山からのがれてはきたが、もうこの婆の目にとまったからには、運のつき……すこしも早く、呂宋兵衛さまへ、このことを知らさなければならぬが、めったにここをはなれて、また抜けだされたら虻蜂とらずじゃ、ええ、あの半間の燕作のやつ、いったいどこへいってしまったのだろう」
ブツブツ口小言をいいながら、濠のまわりをいきつもどりつしていると、向こうから足をはやめてきた男が、ひょいと木を楯にとって、
「だれだ! そこにいるなあ?」
と、ゆだんのない目を光らした。
「おや、おまえは燕作じゃないか」
「なアんだ、婆さん、おめえだったのか」
と、声に安心して、早足の燕作、木のそばをはなれて蚕婆のほうへのそのそと寄ってきた。
「どうしたんだい、半間にもほどがあるじゃないか」
と婆は燕作を息子のように叱りつけて、
「竹童みたいな小僧には斬りまくられ、旅僧ににらまれればすぐ逃げだすなんて、いくら町人にしても、あまり度胸がなさすぎるね」
「婆さん婆さん、そうガミガミといいなさんな。あれでも燕作にしてみりゃ、精いっぱいにやったつもりなんだが、なにしろ竹童のやつが必死に食ってかかってきたので、すこし面食らったというものさ。だがおまえが木の上にかくれていて、れいの針をふいてくれたので大助かりだッたぜ」
「そうでもなければ、おまえさんは、あんな小さな者のために、般若丸のためし斬りにされていたろうよ」
「まったく! あいつは鷲乗りの名人だとは思ったが、剣道まで、アア上手だとは夢にも気がつかなかった」
「なアに竹童は剣術なんて、ちっとも知っていやしないのだけれど、おまえのほうが弱過ぎるのさ。だがまア、そんなことはもうどうでもいいや、燕作さんや、一大事が起ったよ」
「え? またいそがしくなるのかい」
「用をたのみもしないうちから、いやな顔をおしでないよ。おたがいにこれが首尾よくいけば、呂宋兵衛さまも一国一城の主となり、わたしや、おまえも秀吉さまからウンとご褒美にありつけるんじゃないか、しっかりしなくッちゃいけないよ」
「合点合点。ところでなんだい、その一大事とは」
「それはね……」
婆はギョロリと館のほうへ目をくばってから、燕作のそばへすりよって、その耳へ口をつけてなにやらひそひそとささやきだした。
しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作。
「えッ、じゃさっきの旅僧が、天目山からのがれてきた勝頼だったのか」
「しッ……」
その素頓狂な声をおさえつけて、
「わたしはここに見張っているから、はやくこのことを呂宋兵衛さまに知らせてきておくれ。こんな役目はおまえさんにかぎるのだから」
「よしきた! おれの足なら一足とびだ」
「そして、すぐに手配をまわすようにね」
「おッと心得た!」
いうが早いか燕作は、朱雀の原をななめにきッて、お手のものの韋駄天ばしり、どこへ駈けたか、たちまち、すがたは朧の末にかくれてしまう。
あとにのこった蚕婆は、黒い袖を頭からかぶって、釣り橋のかげにピッタリと身をひそめている。そして菊亭殿の奥のようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい大殿作りの内からは、あれきり鼓の音も人声ももれてはこず、ただ花橘や梅の香に、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。
駈けるほどにいくほどに、早足の燕作は、さっさつたる松風の声が、しだいに耳ちかくなるのを知った。臥龍に似たる洛外天ヶ丘のすがたは、もう目のまえにおぼろの空をおおっている。
「アア、息がきれた……」
よほどいそいだものと見えて、さすがの燕作も、そこでホッと一息やすめた。
丘はさして高くはないが、奇岩乱石の急勾配、いちめんに生いしげっている落葉松の中を、わずかに、石をたたんだ細道が稲妻形についている。
「どりゃ、もう一息――」
というと燕作は、兎のようにその道をピョイピョイと登りだした。やや中ごろまでのぼってくると、道は二股に分れて右をあおぐと、石壁の堂に鉄骨の鐘楼がみえ、左をあおぐと、松のあいだに朱い楼門がそびえていた。燕作はひだりの朱門へさして駈けのぼった。
これこそ、有名な洛外天ヶ丘の朱門。
なんで有名かといえば、その門作りがかわっているためでもなく、風光明媚なためでもない。ここのいただきの平地に、織田信長の建立した異国風の南蛮寺があるからである。
まだ信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、みなこの南蛮寺に住んでいた。そして仏教の叡山におけるがごとく、ここに教会堂を建て、十字架の聖壇をまつり、マリヤの讃歌をたたえて、朝夕、南蛮寺のかわった鐘の音が、京都の町へもひびいていた。
しかし、本能寺の変とどうじに、異国の宣教師たちは信長というただひとりの庇護者をうしなって、この南蛮寺も荒廃してしまった。そして無住どうようになっていたので、秀吉は呂宋兵衛に、天ヶ丘へ居住することをゆるした。だが、南蛮寺をおまえにやるぞとはいわない。しばらくのあいだ、あれに住めといったばかり、要するに呂宋兵衛は、荒廃した南蛮寺の番人におかれたわけである。
だが、慾のふかい呂宋兵衛は、もう南蛮寺を拝領したようなつもりで、すっかりここに根を生やし、またボツボツと浪人者を山内へあつめて、あわよくば、一国一城の主をゆめみている。
だから、むろん、祭壇はあれほうだいだし、もとの教会堂には、槍や鉄砲をたくわえこみ、うわべこそ伴天連の黒布をまとっているが、心は、人穴時代からかわりのない残忍なるかれであった。
「よくいう諺に、天道さまと米の飯はつきものだというが、まッたく世のなかはしんぱいしたものじゃない。人穴城がなくなったと思えば、こんないい棲家がたちまちめっかる。わはははは、富士の裾野だの大江山だのにこもっているより、いくら増しだか知れやしねえ。しかもこんどは、羽柴秀吉から公にゆるされているのだからなおさら安心、しかし、だれもかれも、悪事をやるなら上手にやれよ、裾野とちがって都のなか、あの秀吉ににらまれると、おれもすこし困るからな」
広間には、燃えるような絨氈をしきつめてあった。そこは南蛮寺の一室。四方に大きな絵蝋燭をたて、呂宋兵衛は、中央に毛皮のしとねをしき、大あぐらをかいて、美酒をついだ琥珀のさかずきをあげながら、いかにも傲慢らしい口調でいった。
「なあ昌仙、そんなものじゃないか」
「仰せのとおり、こうなるのも、頭領のご武運のつよい証拠でござる」
そばにいて、相槌を打ちながら、頭をさげた武士の容形、どこやら、見たようなと思うと、それもそのはず、人穴落城のときに、法師野までともに落ちてきて別れわかれになった軍師、丹羽昌仙だ。
席には、昌仙以外にも、人穴城から落ちのびてきた野武士もあり、あらたに加わったやくざ浪人もいならんでその数四、五十人、呂宋兵衛のお流れをいただきながらどれもこれも、軽薄なお追従をのべたてている。
ところへ、朱門をぬけて、本堂の階段からバラバラと駈けあがってきたのは早足の燕作。
「お頭、とうとう目っけてまいりました」
と、廻廊のそとへ、膝をついて大汗をふいた。
「おう、燕作か」
と、呂宋兵衛は、大広間からかれのすがたを見て、
「目っけてきたとは吉報らしい。ではなにか、勝頼の在り家が、知れたというのか」
「へい……それなんで」と燕作は、唾で喉をうるおしながら、
「じつあ、きょうも、それを探索するために、蚕婆とふたりで、加茂川の岸をブラブラ歩いていると、ごしょうちでがしょう、あの鞍馬の竹童のやつがボンヤリ堤に腰かけていたんです。見ると、すがたに似合わぬ名刀をさしているので、こいつ一番セシめてやろうと、蚕婆はやなぎの木の上にかくれ、わっしはそしらぬ顔で、なれなれしく話しかけたものです」
「やいやい、燕作!」
ふいに呂宋兵衛が魔のような口を開いてさえぎった。
「バカ野郎め。目っけたというのはその竹童のことをいうのか。ふざけやがッて! だれがあんな小僧をさがせといいつけたのだ」
「ま、ま、待っておくんなさい」と燕作はちぢみあがってどもりながら、
「その竹童のことは、話の順序なんで……じゃ、てッとり早く本筋をもうしあげます。そこへ通りかかった三人の旅僧、挙動があやしいので蚕婆がつけていくと、朱雀の原の……ええと……なんといッたっけ……おおそれそれ菊亭右大臣という公卿屋敷の裏門から、こッそり姿をかくしました。そのうちのひとりは、たしかに、武田勝頼にそういないから、すぐこのことを、呂宋兵衛さまにお知らせもうせという蚕婆からの言伝なんで」
「ウーム、そうか……」
と、呂宋兵衛はやっとまんぞくそうにうなずいたが、まだうたがい深い顔をして、
「どうだろう、昌仙、そいつアたしかに勝頼かしら?」
「さよう……」
と丹羽昌仙、じッとうつむいてかんがえていたが、なにか思いあたったらしく、丁と膝をうって、
「たしかにそういござるまい!」
と断言した。
「どうしてそれがわかるのだ」
「そのわけは、菊亭家と、武田の祖先とは、縁戚のあいだがら。のみならず、勝頼の祖父信虎とは、ことに親密であったよしを、耳にいたしました。さすれば、いま天下に身のおきどころのない、落人が、そこをたよってくるのは、まことに自然だとかんがえます」
「なるほど、ウム……さてはそうか!」
と呂宋兵衛は、昌仙の説をきいて、それこそ、落人勝頼の化身にちがいなかろうと、大きく一つうなずいた。
で、すぐに、それを召しとる方法を議しはじめたが、昌仙にも名案がなくなかなかそうだんがまとまらない。なぜかといえば、菊亭右大臣ともある堂上の館へ、うかつに手を入れれば、後日朝廷から、どんなおとがめがあるかもしれないから――これは秀吉じしんの手をもってしても、めったなことはできないのであろう。
といっても、あのやかましい秀吉から、その捕縛をいいつけられている呂宋兵衛は、なんとしても、勝頼を秀吉の面前へ拉致していかなければ、たちまち、かれの信用が失墜することになる。
――策はないか! 策はないか! なにかいい名策はないか! と呂宋兵衛はややしばらく、額を押さえて考えこんでいたが、やがてのこと、
「うむ、どうしても、こよいをはずしてはなおまずい。昌仙、耳を……」
決断がついたか、あの大きな碧瞳をギョロリと光らし丹羽昌仙の耳もとへなにかの計略をささやいて、ことばのおわりに、
「よいか!」
ときつく念をおした。
「ご名案、心得ました」
「ではさきにでかけるぞ、燕作、その菊亭の館へあんないをしろ」
呂宋兵衛は、くろい蛮衣をふわりとかぶって立ちあがり、早足の燕作をさきにたたせて、風のごとく、天ヶ丘から駈けだした。
満山を鳴らして、ゴーッという一陣の松風が、朧月へ墨をなすッてすぎさった。と、呂宋兵衛が、立ちさったのち、――南蛮寺の絵蝋燭は一つ一つふき消されて、かなたこなたから狩りだされた四、五十人の浪人が、いずれも覆面黒装束になって、荒廃した石壁の会堂へあつまってくる。
ガチャン! という錠前をはずす音。ガラガラとおもい鉄の扉を開けるひびき――。そして狼が食い物へとびつくかのように、覆面の者どもが一せいにそのなかへゾロゾロはいると、たちまち鉄砲、鉄弓、槍、捕縄など、おもいおもいな得物をえらび、丹羽昌仙の指揮にみちびかれて、百鬼夜行! 天ヶ丘からシトシトと京の町へさしてまぎれだした。
風もないのに、紅梅や白梅の花びらが、釣り橋の水に点々とちって、そのにおいがあやしいまで闇にゆらぐ。――と、更けわたった菊亭家の裏門のあたりから、築土をこえて、ヒラリと屋敷のなかへ忍びこんだ三つの人かげがある。
月ヶ瀬の景趣をちぢめたような庭作り、丘あり橋あり流れあり、ところどころには、蟇のような石、みやびた春日燈籠の灯が、かすかにまたたいていた。
その館の奥庭を、もののかげからかげへ、暗がりから暗がりへ、ソロ……ソロ……と息をころして忍んでいった三つの影は、やがてひろい泉水の縁へでて、たがいになにかうなずき合いながら、ひとりは右へ、ひとりは左へ、別れわかれに姿をかくして、そこにうッすらと立ちのこったのは、和田呂宋兵衛だけになった。
呂宋兵衛はじッとたたずんで、泉水のなかほどをみつめていた。そこには泉殿とよぶ一棟の水亭がある。泉の亭の障子にはあわい明かりがもれていた。その燈影は水にうつって、ものしずかな小波に縒れている。
「…………」
呂宋兵衛は唇だけをうごかして、印咒のまなこを閉じだした。と思うと、そッと足もとの小石をとって、池のなかへ、ポーンと投げる。
「あ!」
とおどろいたような声が、泉の亭のなかからもれ、池に面した塗り骨の障子がスッと開いた。
その部屋から、なかば身をさしだして、音のした池の面をながめたのは、館の菊亭右大臣晴季公で、そのまえには、さっきの僧のひとりが対坐し、ふたりの僧は、末のほうにひかえているらしかった。
「なんじゃ……」
晴季は微笑をふくんで、波紋のなかにしずんでいく魚のかげを見ながら、
「緋鯉であったそうな……ごあんじなさるまい」
こういって、またピシャリと障子をしめてしまった。
ところが――そのわずかもわずか、ほんの目ばたきするあいだに、泉のふちに立っていた呂宋兵衛のすがたが忽然と消えてしまった。いや、消えてしまったのではない。水遁の秘法をもちいて、泉殿の橋をわたり、いつのまにか、晴季や僧たちのいる室のどこかに忍びこんでいたのだ。
とも知らず――晴季は、障子を閉めてほッとしたもののように、また小声で、目のまえにいる僧形の貴人へ話しかけていたことばをつづける。
「いや、なにごとも時世時節……こうおあきらめがかんじんじゃ。あのような水音にさえ、はッと心をおくお身の上、さだめしおつらかろうとお察し申すが、またいつか天運のお恵みもあろうでな。まずそれまではご一身こそなによりの大事、かならず早まったことをなさらぬがようござる」
「お情け、かたじけのう思います」
正面にすわった僧形の貴人は、ことばすくなに沈んでいた。これ、はたして武田勝頼その人であるか否かは、あまりに、主客の対話がかすかで、にわかに判じがたいのである。しかし短檠の光に照らされたその風貌をみるに、色こそ雨露にさらされて下人のごとく日にやけているが、双眸らんとして人を射るの光があり、眉色うるしのごとく濃く、頬麗丹脣にして威のあるようす、どうみても、尋常人でないことだけはたしかである。
「とにかく、いちじこうなされてはどうであろう……」
晴季は、さらにいちだんと声をひくめて、
「嵯峨の仁和寺に、麿の親身な阿闍梨がわたらせられるほどに、ひとまずそれへお越し召されて、しばらくは天下の風雲をよそに、世のなりゆきを見ておわせ。そしてご武運だにあらば、機を待ってまたの大事をお計りなさるのがなによりの万全じゃ。……晴季はそう思うが、御意のほどはどうおわすの?」
「しごくなお計らい……いまの身になんのかってな我意を申しましょうぞ。よろずとも、よろしきようにお願いするばかりじゃ」
「では、追い立てるようではあるが、ここの館は召使どもも多いことゆえ、夜明けをまって一刻もはやく嵯峨へお身を落ちつけあそばしたほうがよい、麿から阿闍梨どのへ、しさいに頼み状を書いておきますでの……」
こういって晴季は、千鳥棚の硯筥と懐紙を取りよせ、さらさらと文言をしたためだした。ところがいつになく筆がにぶって、書いているまに頭脳がボーと重くなり、さながらムシムシとした黒い霧に身をつつまれているようなだるさをおぼえてきた。
はッとして、こころを冴え澄まそうとした。そしてなにげなく見まわすと、まえの人は端然としているが、ふたりの従僧は坐しながら、われをわすれていねむっている。
「奇怪な!」
晴季はクルクルと手紙をまいてゆだんのない目をみはった。とたんに、三人の僧たちも、なにかいいしれぬ魔魅の気におそわれているのを知って、無言のまま、ジロジロと部屋のすみずみをみつめ合った。
しかし、短檠のかげ、棚のかげ、調度のもののかげのほか、あやしいというものの影は見あたらない。
「では……」
と晴季は、したためた手紙を僧の手にわたした。――とはるかに、ガラガラと戸をあける音や、人声のザワめきや、また牛車の轍、鶏の声など、夜明けを知らせる雑音が、入りまじって、かすかに聞えだしてきた。
「はてな? まだ夜明けにしては、あまり早すぎるが」
ふと、池の面の障子をひらいてみると、いつか暁の光が、ほのぼのと水にういて、あなたこなたの庭木の花さえ、しらじらと明けはなれている。
「オオ、不覚不覚、あまり話に身がいって、時刻のたつのを忘れていたとみえる」
「ではお館、人目にたたぬうちお暇をいたす」
「お疲れでもあろうが、昼のおでましは、かなわぬおからだ、すぐにお立ちがよろしかろう」
にわかに取りいそいで、三人の僧はそこから、網代笠をかぶり、菊亭晴季に見おくられて、泉殿から池の橋をわたってきた。
すると、四人が橋を渡りおえるとともに、いまがいままで、さえざえと夜明けの光をたたえていたあたりは、また、どんよりとしたおぼろ月夜となり、人声や車の雑音もバッタリ聞えなくなった。
「や、や? ……」
立ちどまっていると、ものかげから、ひとりの男、すがたは見せずに、
「お館さま」と、声をかけた。
「だれじゃ」
「番の者でござります」
「ウム、門まわりの小者か。して、なにか変ったことはないか」
「忍びの者が入りこみました」
「なに、忍びの者?」
「はい、徳川家の菊池半助というしのびの名人が」
「なんという! すりゃ一大事じゃ」
「世をしのぶ危ないお方、はやくお落としなさいませ。早く、早く、早く……」
「ウム、そちが裏門をあけてご案内してさしあげい。かならずそそうのないように」
「心得ました。さ、こちらへ……」
ガサガサと木の葉をわけて、男がさきに立ったので、三つの網代笠が晴季に目礼をしてついていった。
が晴季は、そのあとで、ふと不安な疑念におそわれたか、小走りに僧たちのあとを追おうとした。するとそのとたんに、かれは背なかから、何者かに、ペタリと抱きつかれて、蝙蝠の翼のようなものに、さえぎられてしまった。
「だれじゃ、麿を止めるものは」
ふりはなそうとしたが、その力はねばり強く抱きすくめていた。さては! と感じたので、晴季は前差の小太刀をぬいて、ピュッと一揮に、
「曲者!」
力まかせに後ろにはらった。
「ひッ……」
とさけんで四尺ばかり、まッ黒なかげが、身をはなれた。みると、黒衣の妖婆。――晴季の切ッ先を跳びのくが早いか、乱杭歯の口を、カッと開いて、ピラピラピラピラ! と目にもとまらぬ針をふいた。
妖婆の吹き針に目をつぶされて、なにかたまろう、菊亭晴季はウームとそこへ気をうしなってしまった。
と、すぐにまたそこへ一つの人かげ、ヒラ――とこなたへかけてきて、
「婆、いそげ!」
と、あとには目もくれずに、屋敷のそとへ走りだした。いうまでもなく、呂宋兵衛と蚕婆で、さきに、屋敷の小者のふりをして、貴人の僧をさそいだしていったのは、早足の燕作であった。
その燕作は、いましも、三人の僧を早く早くと急かしながら、朱雀の馬場を右にそって、しだいに道を天ヶ丘の方角へとって駈けている。
「待てまて、小者まて!」
従僧のひとりが、ふいに足をとめて、
「こうまいっては、嵯峨の方向とはまるで反対ではないか。仁和寺へまいるのであるぞ」
「心得ております」
「心得ておりながら、なんでかようなところへ、あんないするのじゃ」
「まアだまって、わっしについておいでなさい。どうせあなたがたは、甲州の田舎者、都のみちは、ごあんないじゃありますめえが」
「まだ、いうか」
飛びかかッた従僧のひとり、燕作の襟がみをつかんでグッとうしろへ引きたおした。
「無礼なやつめ、甲州の田舎者とはなにをいうのじゃ、おそれ多くもこれにわたらせらるるは……」
怒りのあまり、口をすべらしかけると、別のひとりがハッとしたようすで袖をひいた。
「ええ、なにをするんだッ」
燕作は、よろけながらヤケになって大声にわめいた。
「そのことばが、甲州なまりだから、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた武田の落人、四郎勝頼はてめえだろう!」
「あッ、こやつ――」
声と一しょに従僧の手から、隠し差しの一刀が、サッとのびて燕作の肩をかすった。
「おッとあぶねえ」
燕作は、バッと五、六間ほど、泳ぐようにつんのめっていきながら、ピピピピピ……と合図の呼子をふいて逃げた。――と思うと八方から、おどりたった覆面の浪人どもが、
「落人待った!」
「武田勝頼! ご用!」
「天命はつきたぞ」
口々に呼ばわりながら、ドッと三人の僧侶をとりかこんだ。
「ちぇッ、さては早くも……」
歯ぎしりを噛んだふたりの従僧、網代笠をかなぐり捨て、大刀をふりかぶって、主僧の身をまもり、きたるをうけて槍や刀をうけはらった。
いつか白刃はみだれ合って、朱になったふたりの従僧は、別れわかれの渦に巻きこまれてしまった。そして、すきをねらった一本の飛縄が、松のこずえからピューッと風をきってきたかと思うと、かれらの主と守る僧は、あッ――と大地へ搦めたおされたようす。
「これ、用意の駕籠を」
闇にあたって、丹羽昌仙の声がひびいた。
「おうッ」
というと覆面のむれ、ガチャガチャと一挺の鎖駕籠を舁きこんできて、七重八重にしばりあげた貴人の僧をそのなかに押しこみ、それッとかつぎあげるや否、まッ黒にもんで、天ヶ丘の南蛮寺へいそぎだした。
「ええ、しまった!」
「わが君ッ――」
悲痛な声が、血煙のなかに残った。満身の太刀傷にさいなまれたふたりの従僧、斬ッつ、追いつ、小半町ほど鎖駕籠を追いかけたが、刀おれ力もつきて、とうとう馬場のはずれの若草の上で、たがいに喉と喉とを刺しちがえたまま、無念の鬼となってしまった。
東山に、金色の雲がゆるぎだした。
京の大宮人が歌よむ春のあけぼのは、加茂の水、清水の花あかりから、ほのぼのと明けようとしている。
だれもいない南蛮寺、緑青のふいた銅瓦の上へ、あけぼのの空から、サッ――と舞いおりてきた怪物がある。みると、ひさしく裾野からその影をたっていた、竹童の愛鷲、――いやいや、いまでは泣き虫の蛾次郎が、わがもの顔に乗りまわしている大鷲だ。
「やあ、いよいよここが都だな、ゆうべは伊吹山でさびしい思いをしたが、きょうはひとつ、クロにも楽をさせて、京都の町でブラブラ遊んでやろう」
あれからのち――どこをどう飛んで歩きまわっていたか、あいかわらず、のんきの洒アな顔をして、泣き虫の蛾次郎。南蛮寺の屋根の上から、小手をかざしてひとりごと……
「いいなア、いいなア、さすがに天子さまの都だけあるなあ。オーむこうに見えるのが御所の屋根だな。霞をひいて絵のとおりだ。二条、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところで感心していたところでつまらない、はやく一つ腹ごしらえして金閣寺だの祇園だの、ゆっくり一つ見物してこよう」
ふわりと鷲を地へ舞わせて、南蛮寺の朱門へおりた蛾次郎。あッちこッちを見まわしていたが、やがて、天ヶ丘の松林を奥ふかくはいってしまった。
そして、とある松の大木へ、用意の鎖で、鷲の足をしばりつけてから、
「おいおい、クロ公」
と、人間へいうように、いいきかせる。
「おれはな、ちょッと久しぶりだ、きょうはほうぼうあるいてくるから、おれのるすに、どこへもいっちゃいけねえぜ。いいかい、帰りにゃ兎の肉をウンと買ってきてやるからな、たのむぜ、クロ公」
これで安心したらしい。
そこでさて泣き虫蛾次郎、すこし気どって、れいのボロ鞘の刀を差しなおし、松の小道をとって、ふもとの方へ歩きだしながら、みちみち、山椿の葉を一枚もいで唇にくわえ、木の葉笛で調子をとりつつ、へんな歌をさけびだした。
ピキ、ピッピキ トッピッピ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
鷲を盗られて ちッぱッぱ
とられる半間に 盗る利口
鴉がないても おら知らねえ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
ピキ、ピッピキ トッピッピ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
鷲を盗られて ちッぱッぱ
とられる半間に 盗る利口
鴉がないても おら知らねえ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
ピキ、ピッピキ トッピッピ
「わアおもしれえおもしれえ。竹童のやつがきいたら口惜しがるだろうな。フフンだ、もうだめだッてことよ。クロは死んでも蛾次ちゃんのそばを離れるのはいやだとさ……あはははははだ。うふふふふふだ。やアい――竹童小ッぽけちッぱッぱ」
ひとりで、はしゃぎ立て、ひとりで踊り足をふりながら、天ヶ丘をなかほどまでくだってきたが、そこで、なにを見つけたか蛾次郎は急に、
「おやッ?」
と目玉をデングリかえした。
「オヤオヤオヤ、なんだなんだありゃ、まッ黒に顔をつつんで、目ばかり光らした侍が大勢ここへのぼってくるぞ」
崖の上へはいあがって、木の葉を頭から引っかぶり、なおも目をみはってつぶやいた。
「ずいぶんくるなあ、四、五十人もくるぞ。オオ鎖駕籠もやってくる。だれがいるんだろうあのなかに。罪人かしら? えらい人かしら? アレアレ見たような奴が、おさきに立ってくるぞ……いけねえ! 呂宋兵衛に蚕婆だッ」
というと蛾次郎は、その覆面の群れが、目の下へくるよりはやく、鉄砲玉の反れたうさぎのように、横ッとびの一もくさん――崖から崖をころげていってしまった。
――きょうは、西陣の今宮祭。
紫野から加茂の里あたりまで、なんとすばらしいにぎわいではないか。
太鼓の音に、道の紅梅は散りしき、笛の音にふくらみだす桜のつぼみ。鐘チャンギリも浮きうきとして、風流小袖の老幼男女が、くることくること、帰ること帰ること、今宮神社の八神殿から、斎院、絵馬堂、矢大臣門、ほとんど織りなすばかりな人出である。
これで、世が戦国だ、乱世だとはまったく、ふしぎなくらいのもの。
ときしも、羽柴筑前守秀吉は、北国の柴田権六をうつ小手しらべに、南海の雄、滝川一益の桑名の城を、エイヤ、エイヤ、血けむり石火矢で、攻めぬいているまッさいちゅうなのである。
留守の都で、ピイヒャラドンドンの今宮祭は、やや悠長すぎるようだが、日本はもともと祭りの国だ。かりそめの戦雲が日月をおおうても、神のまつりは絶えないがいい。また、じしんはとおく戦陣の旅にあるとも、留守の町人百姓や女子供には、こうして、春は春らしく、平和にのんきに景気よく、今宮祭ができるようにしておくのも、つまり、筑前守秀吉が、やがて大をなすゆえんであるかも知れない。
なにしろきょうは、けっこうな日である。
戦をしている秀吉にはここへくるひまもないだろうが、百姓には百姓のわざ、商人には商人のわざがある。大いにお祭をし、大いにはたらけ、それが秀吉さまもおすきだぞ! とばかり、いまも本殿三座の御榊をひっかついで、ワーッと矢大臣門へなだれてきたのは、やすらい踊りのひとかたまり。
紅衣の楽人たちが笛をはやし、白丁狩衣の男たちが鉾や榊をふって、歌いに歌う。そして輪になった女子供が花棒ふりふりおどって歩く。
するとこの踊りの渦まきが境内の神馬小屋のまえまできたとき、
だれか! どこかで?
「キャーッ!」
と悲鳴をあげたのである。
だが――うかれ、熱している踊りのむれ。それにも気がつかずに、なおも足なみを練ってゆくと、こんどは、
「わーッ」
といって、白丁の衛士がふいにぶッ倒れた。
白丁だから目についた。たおれた姿が血まみれである。
「踊りをやめろ! 踊りをやめろ!」
「踊るやつは、ぶッた斬るぞッ」
おどろくべき乱暴者が、いつのまにやら、この極楽へまぎれこんでいたのだ。
ふいに、破れ鐘ごえでこう叫んだのを見ると、雲つくような大男が三人、大小打ッこみ、侍すがた、へべれけに酔って熟柿のような息をはき、晃々たる大刀をぬきはらい、花や女子の踊りにまじって、ブンブンふりまわしているのだからたまらぬ。
「アレーッ」
と泣いて逃げるもの。神馬小屋へ飛びこんで、馬のお尻にかくれるもの、さては韋駄天と逃げちる者など――いまが今までの散華舞踊は、一しゅんのまにこの我武者のろうぜきで荒涼たるありさまと化してしまった。
それにも飽かず、この三人の浪人者。
またぞろ八神殿の参詣道に、ヒョロヒョロとあらわれて、あッちへ当り、こッちへ当りちらし、肩で風をきってくる。
「こらッ、物売りどもは、店をかたづけい」
「見世物小屋はたたんでしまえ」
「鳴り物をはやすことはまかりならんぞ。いまは、そんな時世ではないのだッ、このバカどもめ!」
「秀吉さまは、合戦のまッただ中、町人のくせに、祭などとはもってのほか、さッ、店や小屋はドシドシとたたんでしまえ!」
手には刀をふりまわし、足はそこらの物売りの荷を片ッ端から蹴ちらしてゆく。――烏帽子を売っていたおじいさん、鳩の豆を売っているおばあさん、逃げそこなってかわいそうに、燈籠の下で腰をぬかしてしまう。
さらに哀れをとどめたのは――大勢の客を呼びあつめ足駄ばきで三方にのっていた歯磨き売りの若い男、居合の刀を持っていたところから、一も二もなく目がけられて、豹のごとく飛びついてきた酒乱の浪人者に、血まつりの贄とされた。
「あぶないぞウ!」
と、なだれる群集。
「よるなようッ」
「母アちゃあん――」
悲鳴! 叫喚! 子をかばい、親をだいて、砂けむりをあげる人情地獄。それは面も向けられない砂ほこりであった。
「ざまをみろ、蛆虫めら」
「祭がやりたかッたら、なぜ天ヶ丘へ付けとどけをしておかねえのだ」
「商いがしたいと思うなら、ここから近い南蛮寺へ、さきに礼物を持ってこい」
かってなことを吠えた上に、カラカラッとあざわらった三名の酒乱。
「おおッ、こんどは今宮の社へかけあいをつけろ!」
「うむ、いいところへ気がついたぞ。すぐ目のまえの南蛮寺へ、なんの貢物もせずに祭をするとは太い神主だ。グズグズぬかしたら拝殿をけちらかして、あの賽銭箱を引ッかついでゆけ!」
神慮をおそれぬ罰あたり、土足、はだかの皎刀を引っさげたまま、酒気にまかせてバラバラッと八神殿の階段をのぼりかけた。
なだれを打って逃げかけた群集も、このさまをみて、どうなることかと、こわいもの見たさの好奇心に、遠くからアレヨアレヨとながめている。
すると。
八神殿の朱柱のかげから、ヒラリとあらわれたふたりの男があった。
右の丸柱から駈けよってきたのは、白衣に白鞘の刀をさしたひとりの六部、左からぬッと立ったのは墨の法衣をまとって、色しろく、クリクリとした若僧である。
そのふたり。
手をつなぐように、階段の上へ大手をひろげて、
「待て! 酔いどれッ」
「ここを通すことはまかりならぬ!」
どッちの声も、威力がある。
「な、なんだとッ」
頭をおさえられた狼は、ふんぜんと、牙をむいて食ってかかった。
「見うけるところ、二匹とも、乞食にちかい六部と雲水。下手なところへでしゃばると、足腰たたぬ片端者にしてくれるぞ」
「酔いを醒ませ、この白痴者! ここをいずこと心得ておるのだ」
「オオ、ここは紫野の今宮神社、八神殿と心得ておる。それが一たいどうしたのだ」
「ははは。生酔い本性にたがわずだ。このバカ侍どもよく聞けよ。それ、日の本の武士たるものは、弱きをあわれみ、力なき者を愛し、神仏をうやまい、心やさしくみだりに猛きをあらわさず、知をもって、誠の胸とするのが、真の武士というもの――」
色白な若僧が、右手の禅杖を床へついてから、諭したが、そんなことに、耳をかすかれらではない。
「エエ、口がしこいことを申すな。われわれをただの浪人者と思いおるか。おそれ多くも、羽柴どのよりお声がかりで、天ヶ丘一帯の取りしまりをなす、南蛮寺の番士だぞ」
「だまれッ、番士であろうと秀吉じしんであろうと、民をしいたげ、神をけがするなど、天、人ともにゆるさぬところじゃ」
「ゆるすゆるさぬはこっちのことだ。南蛮寺へことわりなしに、ぎょうぎょうしい祭や踊りをなすゆえに、この神主へかけあいにまいったのが悪いか。やい、じゃまだッ、そこをどかぬと、うぬらも血まつりにするぞ」
「きさまたちのいい分は腑におちぬ。秀吉ほどな人物がさような沙汰をするはずがない。アアわかった、主もなし能もなしに、かようなことをして、良民をくるしめ歩く野武士だなッ」
「野武士とは無礼なことを申すやつ。耳をかッぽじって聞いておけ、いま、天ヶ丘の南蛮寺を支配する、和田呂宋兵衛さまの身内人、斧大九郎とは拙者のことだ」
「やッ、呂宋兵衛? ……」
と、六部は若僧と目ばやくうなずき合って、
「うむ、呂宋兵衛の手下ときけばなおのこと!」
「なおのことどうしたッ」
いきり立って駈けあがってきたやつを、グイと右手で猫づかみにつるしあげた若僧、
「間答無用! こうしてやる」
すこし力を入れたかと、思うと、ふわりと宙へおよがせて冠桜の根瘤のあたりへ、エエッ、ずでーんと気味よくたたきつけた。
「うぬッ」
と、また飛びついてきたやつは、待ちかまえていた六部が、気合いをかけた当身のこぶしで、顎をねらってひと突きに、突きとばす。
なにかたまろう、ウームというと蝦反りになって、階段の中途からデンとおちる。それも、冠桜の根ッこのやつも、神罰覿面、血へどを吐いてたおれたままとなってしまった。
「わーッ、わあッ――」
と、かなたでよろこぶ群集の声々、八百万の神々も神楽ばやしのように、興じ給うやと思われるばかりに聞える。
じぶんたちから、南蛮寺にある呂宋兵衛の部下と名のった斧大九郎、それを見ると、かッと逆上したていである。ひっさげていた大刀の下からはらいあげて、ふたりの足を、諸薙ぎにせんず勢いで、またかかってきた。
「猪口才なやつめ」
手もとへよせて、怪力の若僧が、また、虫でもつまむように引っとらえた時である。いつか、六部のうしろまで進んできた品よき公達が、
「忍剣、そやつを投げころしては相ならぬぞ」
あわや――という手をさえぎった。
思いがけない悪魔がでて、のろわれた今宮祭や踊りのむれも、また思いがけない侠人の力で、午すぎからは、午前におとらぬ歓楽の巷にかえってにぎわった。
「いったいあのわかい坊さまと六部はなんであろう?」
「天狗のような力と早わざ、よも、尋常人ではございますまいよ」
「それに、もうひとりうしろにいて、だまってみていた公達がいたではありませんか」
「そうそう、藺笠をかぶっておりましたが、年は十五、六、スラリとして、観音さまがお武家になってきたようなおすがた」
「それそれ、あの人たちは、神か菩薩かの化身でしょうよ。まったく、悪いことはできないもので」
うわさはどこもかしこもであるが、その焦点の人々はあれからどこへいったろう?
紫野の芝原には、野天小屋がけの見世物が散在していた。おおくの人が、大がいそれへ目をうばわれているのをさいわいに、れいの若僧が、斧大九郎を小脇にひっかかえ、飛ぶがごとく駈けぬける――とあとから大股に、藺笠の公達と六部のすがたが、つづいていった。
「ここらでよかろう」
立ちどまったのは、舟岡山のすそ。
高からぬこの山にのぼるとすれば、西に愛宕や、衣笠の峰の影、東はとおく、加茂の松原ごしに、比叡をのぞんでいる。さらに北をあおぐと、竹童の故郷鞍馬山の翠巒が、よべば答えんばかりに近い。
「若君ここへおかけなさりませ」
たかだかとそびえた杉林の下――。
一つの切株の塵をはらって、六部はわきへ片膝をついた。
「…………」
目でうなずいて、藺笠の美少年は、それへ腰をおろした。この公達こそ、甲州小太郎山の雪の砦から、はるばる、父勝頼の消息を都へたずねにきた武田伊那丸であった。
そのわきに、頭を下げたのは木隠龍太郎で、加賀見忍剣は、ひッかかえてきた斧大九郎をそこへほうりだして、
「若君、いざ、おしらべなさいませ」
と、少しさがったところで、れいの鉄杖を、持ちなおしている。
「下郎、おもてを見せい」
伊那丸はいった。これはまた、忍剣の鉄杖より、龍太郎のはや技より、一種べつな気稟というもの、下郎大九郎は、すでに面色もなく、ふるえあがって両手をついた。
「ま、まったく持ちまして、さいぜんのことは泥酔のあまりでござる。どうぞ、ひらにひらに、おゆるしのほどを……」
これがつい、いましがた、今宮の境内を修羅にして暴れまわった男とは、思えぬような、弱音である。
いうのをおさえつけて、伊那丸は、ハッタとにらんだ。
「卑怯なやつではある。むだ口を申さずと、ただこのほうがたずねることに答えればよいのじゃ」
「は……はい、命さえ、おたすけくださるぶんには、斧大九郎、なんなりとぞんじよりを申しあげます」
「その口を忘れまいぞ」
きッと、半身をつきだした伊那丸、針葉樹の木洩れ陽を、藺笠としろい面貌へうつくしくうけて、
「なんじはさいぜん、和田呂宋兵衛の家来じゃというていばっていたの?」
「あ……あれは」
「いや申した! たしかに聞いた」
「いいましたにそういございませんが、じつは、こ、心にもないでたらめごと」
いいかけるとあとから、忍剣の鉄杖のさきが背なかへ穴があくかとばかりドンとついて、
「このうそつきめが。呂宋兵衛の部下なるがゆえに、ことわりなしに祭をもよおした神主をこらしめるとか、かけ合うとか、ほざいていたではないか。若君のおしらべにたいして、寸言たりともあいまいなことを申すと、いちいちこれだぞ」
も一つ、ドンと食わせる。
「ウーム、フフフ、痛うござる、痛うござる」
「痛かったら申しあげろ」
「も、もうしあげます。まったく和田呂宋兵衛の手のものにそういございません」
「よくいった」
伊那丸は、うなずいて、
「して、その呂宋兵衛は、ただいま、どこに巣をかまえそしてなにをいたしておるな」
「秀吉さまのお気に入り者となりまして、天ヶ丘の寺領と、南蛮寺を拝領いたし、裾野いらいの一味、丹羽昌仙や蚕婆や燕作など、みなそこに住居をいたしております」
「オオ、定めしそれらのものは、一味同類となって、武田勝頼の行方をたずねておるであろうな」
「えッ、どうしてごぞんじでござりますか」
「知らないでか!」
と伊那丸のかけたかまを、たくみに引きうけた龍太郎。わざと少しわらいすまして、
「これにおいで遊ばすは、徳川家のさる御公達。まった某やこの若僧は、みな、浜松城の隠密組だ」
「あッ、さては貴殿たちも、菊池半助どのたちと一しょに、あの僧形を京都へつけてこられたおかたで?」
「さよう――」
と龍太郎は、おかしく思いながら、まじめにおうじて、
「ところで、その僧形であるが、なんと変った消息はないか。すなおに話してくれれば、敵でも味方でもないお主とわれわれ、そこらで仲なおりの酒でも酌もうし、また、ここにおわす徳川家の御公達に、出世の口を取りもってやらぬものでもないが……」
「へへッ」
というと大九郎、慾につりこまれて、草芝の上へあらたまり、おとといの真夜中、呂宋兵衛が手策をつくして従僧ふたりを殺め、ひとりの主僧をいけどってきて、天ヶ丘の古会堂へ打ちこんであるということまでベラベラしゃべってしまった。
すぐお追従をいう軽薄なかれの舌は、それでもまだいいたらずに、つけ加えて、また話すことには、
「ところで、その勝頼公。たしかに生けどってきた僧形の貴人にそういないとはにらんでおりますが、なんせい、野武士や浪人どもばかりの天ヶ丘、真実の勝頼公の面態を見知るものがないのでござった」
「して、その謎の僧は、いまもって、南蛮寺の古会堂に押しこめてあるのか――」
と、龍太郎も忍剣も息をころして聞いている。
「されば、ただいまも申したとおり、まだ真の勝頼公なるや、いなや一点のうたがいがござりますゆえ、いッそのこと、桑名にご在陣の秀吉公のところへ、かれを差したて送ろうという、昨夜の評定で」
「なんと申す! 滝川攻めのため、近ごろ桑名にいると聞く秀吉の陣へそれを送りこむという手はずになっているのか。してそれは何日、時刻は何時じゃ」
「明日の朝まだきに、東山から陽がのぼるを出立の時刻として、天ヶ丘から桑名城へ。そのために、きょう一日は、われわれも骨やすみのひまをもらい、かようなところをブラついておりましたわけ、さきほどの無礼の段はひらにお目こぼしねがいまする」
一伍一什のはなし。
聞くからに伊那丸は、われをわすれて、両のこぶしを膝の上ににぎりしめつつ、
「ウーム! さてはお父上には、早くも毒手に墜ちたもうて、桑名へさしたてられるご武運の末とはおなり遊ばしたか、……ああ、おそかった……」
と、まなじりに血をにじませ、藺笠のうちに鬢髪をブルブルとふるわせた。
父上、という一句をきいて、斧大九郎、ハッとあっけにとられながら、じりじりと尻ごみする。
伊那丸がハラハラと落涙するようすを見て、
「若君、かならずお力おとしはご無用でござります」
と、忍剣、龍太郎のふたりが、口を合わせてなだめるのだった。
「すでにお命のないものなら、真にご武運のすえ、また人力のおよぶところではござりませぬが、ただいま、大九郎の話によれば、まだご尊体にはなんのご異状なく、明朝、天ヶ丘から桑名の陣へうつされてまいるとのこと、折こそよし、これ天の与えたもう好機会ではござりませぬか」
「おお! かならずお父上を、お救い申しあげねばならぬ」
立ちあがった時である。
「ややッ! さては武田の?」
ぎょうてんした大九郎、跳ねあがって逃げだすと、伊那丸の一喝。
「龍太郎、そやつを討て!」
「はッ」
と答えるまでもなく、立ちあがった木隠が、やらじと猿臂をのばしたので、胆をとばした斧大九郎、にげみちをうしなって無我夢中に松のこずえへ飛びついた。
「ええ――ッ」
つんざいた木隠の気殺!
とたんに、抜きはなたれた無反りの戒刀、横にないでただ一閃の光が、松の枝にブラさがった大九郎の胴を通りぬけてしまった。
バサリと血のなかにおちたのは、胴から下、上半身は枝をつかんだまま、虚空にみにくく止っていた。
そのとき、あなた――今宮の舞楽殿では、笛や太鼓、そして鈴の音がゆるぎだした。やすらい踊りのどよめきにあわせて、神楽囃子がはじまったのであろう。――悪魔たいじの御神楽歌。
ピイヒャラ ドン助 ひゃらりこドン!
鷲をとられて オッぺけぺ!
竹童ドン助 ひゃらりこ ドン!
鷲をとられて オッぺけぺ!
竹童ドン助 ひゃらりこ ドン!
これは、あちらの神楽歌ではない。
暮れなんとする杉林から芝生のへんを、しきりに浮かれまわっている少年の放歌である。
はるかに聞える神楽にあわせて、
ピイヒャラ ドン助 ひゃらりこドン!
すっかりゆかいになっている。
右手に一本もっているのは、串へさしたお芋の田楽、左につかんでいるのは黒い飴ン棒、ひゃらりこドンと踊りながら、芋をたべては飴をなめ、飴をなめては芋をくい、かわりばんこに舌を楽しませて、
竹童ドン助 ひゃらりこドン!
いよいよ無上の大歓楽、歌もおどりもやむことを知らず、陽が暮れようとするのも知らず、いましも林をぬけてきた。
このお天気な少年は、いうまでもなく蛾次郎である。
きのうから遊びつづけて、きょうは、今宮祭の見物としゃれているのか。
胸や口のまわりには、田楽の味噌だの、黄粉だの、あまくさい蜜糖の粘りだのがこびりついていて、いかに、かれの胃袋が、きょう一日をまんぞくにおくっていたかを物語っている。
のみならず蛾次郎は、目のかたきにしている竹童にたいして、いま、大なる優越感をもっている。
「竹童のやつめ、さぞいまごろは、クロを盗られて、メソメソしているだろうな。まっ黒な富士の裾野で、まぬけな面をしているだろうな。
このおれさまはどうだ! 日本中クロを乗りまわしてきて、いまは、天子さまと同じ都の土をふんでいるんだ。九重の都をよ!
どうだい、蛾次郎さまの光栄は!
食べたいものをウンと食べたぜ。見たいものもウンと見たぜ。だからおいらは踊るのさ、踊らずにはいられないや。ワーーイだ、ワーーイ! ワイ竹童、ざまをみやがれ!」
こんな気分が、かれ蛾次郎の歌となり、舞躍となるのであった。
ところで、有頂天の蛾次郎が、いま、なんの気なしに林の中をおどってくると、なんだか、ぬらりとしたものが鼻の頭をなでたのである。
「おやッ?」
と思ってさわってみた。
どうも人間らしいのである。しかし、今晩は、とはいわなかった。
「おかしいなア、この人は……」
と、上から下へ、ソーとなでてみると、へんだ! へんだ! へんな人間! 腰から下がなにもない。
「わッ、化け物ッ」
蛾次郎は芋の串をほうりだして、逃げるわ逃げるわ、むちゅうでにげた――一心不乱に、あかるいほうへかけだした。
夜になっても、今宮の境内はにぎやかであった。そこで蛾次郎は、はじめてホッと人心地にかえった。更けるにしたがって、踊りの輪もちり、参詣の人もたえ、いつか、あなたこなたの燈籠の灯さえ、一つ一つ消えかかってくる。
「こんやの宿屋はどこにしようか」
額堂は吹きさらしだし、拝殿の廊下へねては神主が怒るだろうし、と、しきりに寝床を物色してきた蛾次郎。
「ウム、ここがいい。神さまの足もとなら、化け物もでないだろう」
と、四つンばいになって、のこのこはいこんだのは、八神殿の床下。藁蓙を一枚かかえこんで、だんだん奥のほうへいざってきた。
むろん、縁の下はまっ暗で、鼻をつままれてもわからないくらいだが、蛾次郎がはいすすんでいったすこしさきに、なにやら、ゴソ……という音がした。
「ははあ、お仲間がいるな」
そう思って、地べたへ顎をつけながら、じッと闇をみつめていると、しだいに眸がなれてきて、おぼろげながら、人かげがみとめられた。
姿かたちは、だれともわからぬけれど、やはり蛾次郎と同じように、土台柱のしたへ一枚の蓙をしき、そこへじッと身をかがめたまま、しきりに、器の水へ布をひたして、目を洗っているらしい。
しばらくするとその影は、小布で目をおさえたまま、蛾次郎のいるのは知らぬようすで、
「ああ、困ったなア……」
ひとり惆然として、つぶやくのである。
「もう春にもなったし、目さえ見えれば、山のおくへでも海の果てまでも、たずねてさがしだすのだけれども……急にこの目が見えなくなってしまった、蚕婆の針にふかれて! あの吹き針に目をいられて――おいらはとうとう盲になってしまったんだ……」
見えぬのは目ばかりでなく、心も憂いの雲にとじられているのであろう。なんともいえぬ、悲哀のこもったつぶやきである。
「神さまッ……」
ガバと伏して、その影が合掌した。
「八神殿の神々さま! このお社にまつられてある神々さま。おいらはそれがなんという名の神さまだか知りませんが、どうぞこの目をなおしてください。神さまのお力で、針にふかれたこの目の痛みをとってください……」
こっちにいた蛾次郎は、オヤオヤ、という腰つきで、じッと聞き耳をたてている。
「なんだいあいつは? 気ちがいじゃねえのかな、みょうに、ふるえた声をだしやがって……アレ見や、むちゅうになって手を合わせている、ア、泣いていやがら……ばかだなあ、泣くなよ兄弟」
と、うっかり声をすべらしかけたが、待て、もうすこし、見ていてやろうと息をころした。
盲のすがたは一心不乱に、掌をあわせ、八神殿の神々に念じていた。
信仰に熱してくると、おのずから手がふるえ、声もわれ知らず高くなって、
「この目のいたみをおなおしくださいませ! 八神殿の八つの神さま、おいらにはどうしても、さがしたいものがあるのです。クロという鷲をたずねだしたいのです。そして、伊那丸さまのおんために、もっともっと、大きな手柄を立てなければなりません。こんなところにもぐっていると、お師匠さまに叱られます。盲のすがたを見られたら、一味の人たちにも恥ずかしゅうございます。なおしてください。八神殿の神々さま、その大望をとげましたら、わたしの腰にさしている般若丸を、きッと奉納いたします」
血汐も吐かんばかりである。
一念の声、一念のいのり! 祈らなくても、人の誠は天地をうごかすという……。だが、床下のやみは、しいんとしていた。
おどろいたのは蛾次郎だった。
梟のように目をまるくして、ソーッと、また一、二間ちかづいて、よくよくその影を見さだめていると、あんにたがわず、それは鞍馬の竹童である。
いつぞや、加茂の堤で蚕婆の吹き針にふかれてその目をつぶされ、いまは黒白もわかたぬ不自由な身となった。
町をあるけば人につまずき、森をあるけば木の根にたおされるしまつ。クロの行方を知るよしもないので、瀬戸物のかけらに御洗水の清水をすくってきて、この床下へ身をひそめ、ただ一念にいのり、一念に目を洗っているのだった。
「ふウん……やっぱり、竹童にちがいない」
蛾次郎は犬つくばいにようすをながめて、
「へんなところで、でッ会したな。目がわるいようすだから、一つ、からかッてやろうかしら」
手にさわった土塊をつかんで、竹童のかげへ、バラッと投げつけた。
「だれだッ」
さなきだに、盲になってからは、神経のとがり立っている鞍馬の竹童、こういって、からだをねじむけてきたのである。
蛾次郎は、おもわずズルズルとあとへさがった。
だが、目がわるい、ここまではきやしまいと、たかをくくってまた、
「どうだい大将――」
と、あざわらった。
「なんだと」
「おもらいがたくさんあるかい。え、お菰さん」
「…………」
「はははは、さすがは偉いもんだ、果心居士のお弟子さんはな。鞍馬の竹童はえらいよ偉いよ、とうとう花の都へでて、天下のお乞食になったんだからな」
「だれだ、だれだッ、おいらの名を知っているのは?」
「おめえ、盲のくせに勘がわるいな。アアにわか盲だから、声まで見えなくなったのか。じゃアいって聞かしてやろう。びっくりして気絶するなよ。こう申す者こそはすなわち、おめえのクロを頂戴して、天下に名をあげている蛾次郎さまだア」
「なにッ! 蛾次郎だとッ」
さけぶや否、鞍馬の竹童、般若丸の名刀をピュッと抜きはなって、声のするほうを、さッと斬りはらった。
まさか鞍馬の竹童が、こんな名刀を持っていようとは夢にも知らなかった蛾次郎、アッといって床下からころげだし、すぐむこうにあった小屋のなかへ、四つンばいにかくれこんだ。
が、そこはれいの神馬小屋であったので、注連飾りをつけた白馬が、ふいの闖入者におどろいて、ヒーンと一声いなないたかと思うと、飛びこんできた蛾次郎の脾腹を蹄でパッと蹴りかえした。
「ウーム……」
と、打ったおれた泣き虫の蛾次郎は、脾腹をおさえてフンぞったとたんに、昼間のうち胃袋を楽しませたご馳走をのこらず口から吐きだして、厩のまえにへたばってしまった。
馬は、見むきもせず、われ関せず焉と、かッたるそうに目の皮をふさいでいる。
――更けてくると、祭の夜も寂としてものさびしい。
一陣の山嵐が、鞍馬山の肩あたりから、サーッと冷気をふり落としてきたかと思うと、八神殿の冠桜の下あたりに――竹童のお師匠さま果心居士のすがたが、めずらしくもほのかに見えたのである。そして、もくもくとして裏宮のほうへ杖をひいていった。
右手に、名刀般若丸を、ひだりの手では、地や蜘蛛の巣をなでまわしながら、ソロリと、八神殿の床下をはいだしてきた者がある。
それはさっき、泣き虫の蛾次郎に、さんざんな悪口や揶揄をなげられていた盲の少年――鞍馬の竹童。
あたりをさぐって、そとにでれば、夜は四更の闇ながら、空には、女菩薩たちの御瞳にも似る、うるわしい春の星が、またたいている。
鳥の巣のようなかれの頭、土にまみれた肩や肘、そして、血のにじんだかれの素足――。それらのあわれな物のかげをつづった竹童のすがたは、星影の下にあおく隈どられて見えたが、かれの目には、ただ一粒の春の星さえ、うつらぬのである。
見えぬがために、見ようとする、心の異常なはたらきが、心眼ともいうべき感覚を全身にするどく研いで、右手につかんだ般若丸を、おのれの背なかにかくしながら、
「蛾次郎……蛾次郎はどこへいった!」
八神殿の石段にそって、裏宮の方へしのびやかに歩いてくる。おお、その影のいたましくもおそろしい。
かれは、心のうちでこう叫ぶのだ。
返せクロを! 返せクロを!
おいらの手から横奪りした、あの鷲をかえせ、おいらの手にタッタいまかえせ!
竹童の目は見えないはずでありながら、その一念に、あたかも、なにものかを、的確に見ているように、いうのであった。歩きだすのであった。
でてこい蛾次郎! 泣き虫の腰ぬけ。
でてこい蛾次郎、どこへいった!
よくもよくもクロをうばったな。また、よくもさっきは、この竹童を盲とあなどって、土塊をぶつけたり、お師匠さまの悪口をたたいたり、そして、鞍馬の竹童のことを、天下のお乞食さまとののしり恥ずかしめたな。
おまえはさっきたいそうなじまんをいった。いかにも得意らしいことをいった。だが泣き虫蛾次郎よ、ひとの愛している鷲をうばって乗りまわしたり、ひとのダシに使われてもらったお金で買いぐいをしたり、また益もなく都の町を浮かれあるいたりして、それがなんの自慢になる! それがなんで男の誇りだ!
あの秀麗なる神州美の象徴。富士の裾野に生まれながら、どうしておまえはそんなきたない下司根性をもっているんだろう。情けないやつ、意気地のないやつ、怠けもの、腰ぬけ腑抜け、お天気な少年!
それはみんな、蛾次郎よ! おまえの名だ。
おいらは鞍馬の山育ちだ。
だが、蛾次郎よ。
おいらはおまえのような下卑たやつとは心のみがき方がちがっている。また、おいらがこんな乞食のような姿になっていたり、盲になってしまったのも、みんな自分の慾ではない。甲斐源氏の御曹子、武田伊那丸さまへ忠義をつくすため、また、お師匠のおいいつけを守らんがためしていることだぞ。
おいらは恥じない。
乞食になっても、盲になっても、この竹童の心は八神殿の神々さまや、弓矢八幡がご照覧ある。
罵るものなら罵ってみろ。鷲を返さぬというならば、男らしくどうどうと竹童の前へたっていいきってみろ! オオこの般若丸の名刀でおのれただ一刀に斬りすててくれるから……
いきどおろしい、竹童の心は湯のごとく沸りたって、こう叫びながら方角もさだめず、裏宮のお堂を巡り、いましも、斎院の前まであるいてきた。
――すると、かれより六、七歩まえを、だれやら、しずかに、ピタピタと足をはこんでいく者がある。
夜はすでに更けしずんで、さまよう者とてあるはずのないこの境内、さては蛾次郎めが、またわれを盲とあなどってからかうつもりだな!
竹童はかッとなって、こう思った。
しかし、かなしいかな目がみえぬ。すぐそこをピタピタといく跫音を聞くのであるが、ただ一討ちにとびかかってはいかれない。
「おのれ目がみえぬとて、たかのしれた蛾次郎ぐらい、斬って捨てられないでどうするものか」
竹童は、とっさに、地べたへ身をかがませた。
そして、般若丸の太刀を背中にかくし、左の手と膝ではい歩くように、まえなるものの跫音をスルスルとつけてゆく……
一歩――二歩。
さきの者の草履のかかとが、かれの顔へ土をはねかえしてくる近さまで寄りついたので、いまこそと胸おどらした鞍馬の竹童。
猛然と、たつが早いか、ふりかぶった般若丸に風をきらせて、
「覚えたかッ」
とばかり、鉄も切るような一刀、一念の気、盲となってから、それは一そうすさまじいするどさをもって、まえなる人のあり場をねらって、揮りおろした。
剣は、空をきって、七、八尺はしった。
あたかも闇なる彗星が、地界へ吸われていったように。
燦然たる蛍いろの太刀! かかとをあげて、ダッ――と斬りすべっていった竹童の手にそれが持たれている。
「ウウム、無念!」
とさけんだ悲痛な声。
竹童の唇から、血のようにもれて、かれはあやうく突ンのめりそうになった足取りを踏みしめた。
そして、さらに、まえよりはすごい血相で、般若丸の切ッ先を向けなおし、剣を目とし、見えぬ目に、ジリジリと闇をさぐってくる。
針がふれてもピリッと感じるであろう柄手の神経に、なにか、ソロリとさわったものがあったので竹童は、まさしく相手の得物と直覚し、
「エ――エイッ」
身をおどらして斬りかかった。
飛躍は、竹童の得意である。
かつて、かれがまだ鞍馬の山奥にいたころは、朝ごと薪をとりに僧正谷をでて、森林の梢をながめては、丈余の大木へとびかかって、枯れたる枝をはらい落とした――その練習によるのである。
だが、いままでは剣をもつと剣をつかおうとする気に支配され、棒をもつと棒をつかう心にくらまされて、この呼吸というものが、いつかまったく忘れていた。
いま、かれは無我無心に、相手の脳天をねらってとんだ。
――それは剣法でいう梢斬りともいうべきあざやかなものである。たれかよく、宙天から斬りさげてくるこの殺剣をのがれ得よう。
ところが――相手は苦もなくかわした。
風のごとく身をひるがえし、さらに持ったるなんらかの得物で、パーンと竹童の般若丸をはらいつけたのである。
と、竹童、思わず両手のしびれに柄をゆるめたので、般若丸は彼の手をはなれて地上におちた。無手無眼となった竹童は、もう打ってかかるものは、五体そのものよりほかはない。
「おのれッ!」
というと、隼のように、相手の胸もとへとびかかって、ムズと襟をつかんだのである。
だが、そのとたんに竹童は、
「あッ――人ちがい!」
といったまま、のけ反るばかりな驚きにうたれた。いまが今まで、蛾次郎とばかり思って斬りつけていた当の人は、枯巌枯骨そのもののような老人であったのだ。
「オオ、ちがった、人ちがいであった。――どなたかぞんじませぬが飛んでもない無礼をしました。どうぞかんにんしてくださいまし」
こういうとその老人、枯れ木のような手をのばして、竹童の肩をやさしくかかえこんだ。
「竹童よ」
「えッ……」
見えぬ目をしばたたきつつ、かれは、じぶんの名をあきらかに呼んだ者を、だれかしらとあやしむように、両手でその人の衣服をなでまわした。
「あやまることはない、あやまることはない。他の者ならあぶなかったが、わしであったからまアよかった……」
「オオ!」
竹童は、こごえていた嬰児が、母のあたたかな乳房へすがりついた時のように、ひしと、ひしと、その人の胸にかじりついて、
「あなたは鞍馬のお師匠さま! オオ、お師匠さまではございませんか」
と、声もからだもふるわせた。
「わかったか竹童、いかにもわしは果心居士じゃ。ずいぶん久しく見えなかったのう」
「では、やっぱりお師匠さまでございましたか、ああ、おすがたを見たいにも、竹童めは、なんの罰でか、このような盲となってしまいました」
「竹童、目がつぶれたことを、おまえはそんなに不自由とおもうか」
「はい、伊那丸さまのおんために働くことはおろか、だいじな鷲をとり返すことさえできませぬ」
「そして、それを悲しいと思うか」
「お師匠さま。これがなんで悲しまずにおられましょう」
「まだまだおまえは修行が足りない。なぜ盲となったなら、心眼をひらくくふうをせぬ。ものは目ばかりでみるものではない。心の目をひらけば宇宙の果てまで見えてくるよ。……しかし、おまえはまだ歳も歳じゃ、このりくつは、ちっとむずかしかろう」
「はい、わたしにはよくわかりませぬ」
「よしよし、おまえの目は、もともと生まれつきの眼病ではない。吹針の蚕婆、あれの毒針に目をふかれたためじゃ。わしが一つなおしてやろう」
「えッ、お、お師匠さまッ。ではこの目を見えるようにしてくださいますか」
「ウム! 竹童。まずその太刀を鞘におさめて、わしの腕にしっかりとつかまっているがよい」
いわれるまま竹童は、地べたをさぐって般若丸をひろい、果心居士の右腕にからみつくと、居士は藁でも持つようにフワリと竹童のからだを小脇にかかえ、やがて、八神殿の裏宮から境内をぬけ、森々たる木立のおくへ、疾風のように駈けこんでいった。
竹童はおよぐように引っかかえられていた。
さっさつと――風があたる。
バラバラと雨のごとき夜露がぶつかる。
居士は愛弟子竹童をかかえて、いったいどこへつれていく気か? やがて森林をぬけて、紫野のはて、舟岡山の道を一さんにのぼりだした。
ゴウ――ッという水のおと。
それはほどなく近づいた雷神の滝のひびきである。暗々たる梢から梢を、バラバラッと飛びかうものは、夜の夢をやぶられたむささびか怪鳥であろう。
鞍馬の道士果心居士、竹童をひっかかえて岩頭にたち、

「竹童!」
居士の、こう呼ぶ声をきいたが、かれは小脇に引っかかえられていて、こたえる声さえでなかったのである。
と――居士は両手をさし伸ばして、あわやという間に竹童のからだを、目よりも高くさし上げた。
そして、もいちど呼んだのである。
「竹童!」
「はい……」
かれは、虚空におよぎながら、かすかに、しかし、はっきりと答えた。
「おまえはその目が開きたいか」
「ハイ、開きとうございます」
「なんのために」
「…………」
「なんのために?」
「りっぱな人間となりますために」
「ウム」
「そして正義の武士となりますために」
「ウム。ではそのためには、どんな艱難辛苦もいとうまいな」
「いといませぬ。たとえこの身がどうなりますとも」
敢然たる声でいった。
「オオ、それでこそ、師たるわしもはりあいがある。雷神の滝の宙天で誓いをたてたことばを終身の守りとするなら、おまえはおそらく天下の何人にも、おくれをとらぬ武士となるであろう。オオ、苦しめ苦しめ! 苦しまぬ者はみがかれぬ。八神殿の八柱の神々、あわれ竹童を、このうえとも苦しめたまえッ」
祈るがごとく、吠えるがごとく、雷神の滝の岩頭に、果心居士の声がこうひびいた時である。
「あッ――」
と、いうと鞍馬の竹童。
ドウッ――と鳴る滝津瀬の音を、さかしまに聞いて、居士の手から闇のそこへまッさかさまに投げこまれた。
枯れ木をあつめて焚いた燃えのこりの火が、パチパチとわずかな火の粉をちらし、一すじのうすじろい煙は、森の梢をぬけて、まっすぐに立ちのぼっていた。
その火のまわりを取りまいて、夜の明けるのを待ちさびしげに語りあっている三人の武士。
あかき光を正面にうけて、薪束のうえに腰をかけている影こそ、まさしく伊那丸であり、その両側にそっているのは、木隠龍太郎、加賀見忍剣、いつも、すきなき身がまえである。
「若君。待つというものは久しいもの、まだなかなか夜が明けそうもござりませぬな」
「そちたちは、火にぬくもったところで、少しここでやすんではどうじゃ」
「いや、なかなか寝られるどころではございませぬ」
こういったのは忍剣である。
「夜明けと同時に、天ヶ丘をくだる呂宋兵衛の列を待ちうけ、勝頼公のお乗物を、首尾よくとるかいなかのさかい。――それを思うても眠られぬし、また、日陰に敵のいましめをうけておわす、大殿のご心中を思うても、なかなか安閑とねている場合ではございませぬ」
「おっしゃる通りじゃ」
木隠もうなずいて、
「たくみに大殿をワナにおとし入れ、桑名にいる秀吉の陣屋まで、送りとどけんとする呂宋兵衛、さだめし明日はぎょうさんな人数をもってくりだすことでしょう。ここぞ、若君にとって、武運のわかれめ、忍剣どのもおぬかりあるなよ」
「いうまでもない。たとえなにほどの敵だろうとも、降魔の禅杖は、にぶりはしませぬ」
「いつもながらふたりの者のたのもしさ、わしはよい味方を持ってしあわせに思う」
と、伊那丸は心から、よろこばしげに、
「その意気をもってするからには、たとえ敵陣のかこみのうちに、無念の鬼となろうとも、わしは心残りではない」
「心よわいことをおおせ遊ばすな。呂宋兵衛こそ、多少蛮流の幻術を心得ておりますが、他の有象無象は、みなたかの知れた野武士や浮浪人の寄りあつまり、きっとけちらしてごらんに入れましょうから、お心やすく思しめせ」
「そうとも、死をいとうのではないが、こんど、木隠とこの忍剣がお供をしてきて、首尾よう大殿のご安否をつきとめねば、小太郎山にのこっている、小幡民部や咲耶子や小文治などにも笑われ草……」
と、つとめて、伊那丸の勇気を鼓舞するため、ふたりが快活に話していると、あなたの林をへだてた闇にあたって、ドボーン! とすさまじい水音がたった。
「や、あれは……?」
「雷神の滝のあたり、まさしくその滝壺になにかあやしいもの音がいたしたようす」
「それ、あらためてみよう」
というと、木隠龍太郎は、手ばやく、用意の松明を焚火に突っこんで燃えうつし、それをふりかざしてまっさきに走りだした。
木々のあいだを縫っていく、松明のあかい光について伊那丸も忍剣も滝壺のほとりへ向かって歩をはやめる。
たちまち見る、眼前の銀河、ドウッ――と噴霧を白くたてて、宙天の闇から滝壺へそそいでいる。
「龍太郎、龍太郎!」
伊那丸は雑木をわけて、まっ暗な淵をのぞきながら指さした。
「そこへ松明をふってみい」
「はッ」
「あぶない! 岩苔にすべるなよ」
「おあんじなさいますな」
と龍太郎、松明を左手にもって、ヒラリ、ヒラリ、と岩から岩へとびうつっていった。
漆の渦まくを見るようなものすごい闇の滝壺である。そこに、百千の水龍が、泡をかみ霧をのぞんで躍っている。
「おお、人がおぼれているぞ」
さけんだのは、加賀見忍剣。
「なに、人がおぼれていると?」
「やッ――また沈んでいった、木隠木隠、早くこっちへ松明をかざしてみてくれ」
「待て、ただいままいるから」
と龍太郎は、また二つ三つの岩をとんで、忍剣のそばへ寄っていった。
焔を高くささげながら、じッと、あわだつ水面を透かしてみていると、やがて真白な泡がブクブクと湧きあがって、そのなかから、蓬のような、人間の黒髪がういてみえた。
「しめた!」
と忍剣は、岩につかまって鉄杖のさきをのばした。おぼれている者は、まだ多少の意識があるとみえて、目のまえにだされた鉄杖へシッカリと、両手をかけた。
「オオ、はなすなよ――」
と声をかけながら、ズーと岩の根へひき寄せると、滝壺のなかのものはプーッと水を吹きながら、けんめいにはい上がろうともがくのである。
「拙者の手にすがるがよい」
龍太郎が片手をだした。
氷のようにこごえた手が、ビッショリと雫をたらしてそこへすがってきた。――と同時に、滝壺のなかからはいあがってきた少年をみたふたりは、おもわず声をあげて、
「やッ、そちは竹童ではないか!」
見まもると、上にいた伊那丸も、
「なに、竹童じゃ……」
とうたがうように叫んだ。そして、森のなかへすくいあげてから、たしかに鞍馬の竹童だとわかると、伊那丸をはじめ、あまりの意外さにぼうぜんとしたほどだった。場所もあろうに、深夜の滝壺から、法師野いらい、久しく姿を見うしなっていた竹童をすくいだそうとは、なんたる奇蹟! あまりのことにあきれるばかりであった。
しかし、その人々のおどろきよりは、竹童のおどろきのほうが、どんなに強いものだったか知れない。
かれは、忍剣に、森のなかへかかえこまれてきた時にありありとそこに燃えている赤い火をみた。
その火に照らされている、伊那丸のすがた、龍太郎の顔、忍剣の禅杖も、あきらかに、かれの眸に見えたではないか。
かれの目が癒えた。竹童の目があいた。

竹童の話をさきに聞いてから、龍太郎と忍剣は、かわるがわるに、こんどの、都入りの大事をはなして聞かせた。
竹童は四方の話をしているあいだに、ぬれた衣服を焚火にほして身にまとった。その火のぬくみに全身の血が活々とよみがえってくるのをおぼえて、かれは、この新しい力を、どこへそそごうかと勇みたった。
話をきけば、夜明けとともに、若君の伊那丸は、ふたりを力に、天ヶ丘から降りてくる和田呂宋兵衛の一族をむかえ、桑名に送られる父勝頼君をうばいとらねばならぬとのことである。
いい機会にめぐりあった竹童は、その壮挙に加わりたいとねがって、すぐ伊那丸の許しを得た。
「では、龍太郎さま、忍剣さま」
かれは、気早に立ちあがって、
「まだ夜は明けておりませぬが、わたしは一足さきに、天ヶ丘へのぼって、呂宋兵衛のようすをさぐり、やがてほどよいところから、みなさまに合図をいたすことにいたしまする」
「ウム、いつも間諜の役は竹童の得意、おまかしなされてはどうでござりましょう」
忍剣が伊那丸の顔をあおぐと、伊那丸も小気味よいやつとうなずいて、竹童のすがたを見ながらこういった。
「では、われわれ三人は、天ヶ丘から十四、五町手まえ寒松院の並木にかくれて待つであろう。そちは身なりの目立たぬのをさいわい、出立のようす、人数、道順、落ちなくさぐって知らせてくれい」
「はい。かならずくまなく見とどけてまいります。ではまだ雷神の滝の上に、お師匠さまがおいでになるかも知れませぬゆえ、ひとことお礼を申しあげて、すぐその足で天ヶ丘へむかいまする」
「なんという。では、果心居士先生が、この近くにおいであるのか。オオ、ちょうどよいおり、ぜひお目にかかっておこう」
と伊那丸はにわかに立ちあがった。
龍太郎や忍剣も、居士のすがたを拝さぬこと久しいので、先の松明をふりかざし、竹童をあんないにして、雷神の滝の断崖をよじ登っていくと、やがて竹童。
「みなさま、ごらんなさいませ。あのいちばん高い岩の上に、お師匠さまが立っておられます。そしてこちらの松明が、近づいていくのを待っておいでなされます」
指さすかたをみると、なるほど、滝の水明かりと、ほのかな星影の光をあびて、孤岩の上に立っている白い道士の衣がみえる。
「おお、老先生――」
龍太郎は、はるかに見てさえ、なつかしさにたえぬように、声をあげた。
熊笹にせばめられた道、凹凸のはげしい坂、息をあえぎあえぎ、その岩の根もとまでいそいできた四人は、そこへくると同時に、岩の上をふりあおぎ、声もひとつによびかけた。
「果心先生! 果心先生!」
すると――おおという声はなく、ふいに、孤岩の上の道士のすがたが、ふわりと宙へ舞いあがったので、四人のひとみも、あッ――と空へつられていった。
その時――
夜はまだ明けぬが有明けの月、かすかに雲の膜をやぶって黒い鞍馬の山の端にかかっていた。
白き衣をつけた居士のすがたとみえたのは、はからざりき一羽の丹頂! まっ白な翼をハタハタとひろげて、四人の上に輪をえがいて舞いめぐり、あれよと見るまに有明けの月のかげをかすめて、いずこともなく飛んでしまった。
しかし、四人はまだ、なお岩の上に、果心居士がいるような心地がして、その上まで登ってみた。そこにはだれもいなかった。
ただ残っていたのは一本の刀。
滝壺のなかに落としたとばかり思っていた、竹童の愛刀般若丸は、水にもぬれずにおいてある。
「や、まだなにやらここに……?」
と、伊那丸はたいまつの光をよんで足もとをみつめた。
見ると、岩をけずって、数行の文字が小柄で彫りのこされてある。それは、うたがう余地もなく、果心居士らしい枯淡な筆せきで、
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
小太郎山の砦はあやうし
とただ二行の文字であった。
しかし、この二行にすぎぬ文字の予言は、武田伊那丸にとって、否、その帷幕の人すべてにとって、なんと絶望的な、そして戦慄すべき予言ではあるまいか。
予言は、よき未来の暗示であり、いましめの謎である。かならずしも、文字の表にあらわれている意味ばかりが真なのではない。その裏の意味もふかく味読してみねばならぬ。
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
小太郎山の砦はあやうし
孤岩の上に――こう彫りのこした果心居士の心は、どう解いたらいいであろうか?
伊那丸をはじめ、忍剣も龍太郎も、また竹童も、ひとしく松明の燃えつきるのを忘れて、岩上の文字をみつめ予言の意味をときなやんでしまった。
これを、読んで文字のごとく考えれば、
(伊那丸よ――おまえのいま望んでいることは無益であるぞ、徒労であるぞ、幻滅をもとめているにすぎないぞよ、そして、そんなことをしているまに、留守の小太郎山の砦は、徳川家康におそわれて、あの裾野の陣の終局をむすばれてしまうぞよ――)
思うてみるさえ、おそろしい声がきこえる。
だが、まさかそんなことはあるまい!
伊那丸は心のそこで、否定した。
これは老先生の激励であろう。いまが大事なときであるぞと、凡夫のわれわれを鼓舞してくださる垂訓なのであろう。すなわち、予言の裏にふくむ真意をくめば、
――ここに最善のつとめをなさねば汝と父勝頼との、父子のめぐり会うのぞみはついにむなしいぞ。
――ここにゆうゆうといたずらな日を過すときは、小太郎山の砦もあるいは危うからん。
というおことばなのにそういない!
忍剣もそう解いた。
龍太郎も、それにちがいないといった。
で、武田伊那丸は、いやがうえにも、希望をもった。武者ぶるいとでもいうような、全霊の血と肉との躍りたつのがじぶんでもわかった。
「おのれ和田呂宋兵衛、きょうこそは、かならず汝の手から父君をとり返してみせるぞ」
固くかたく、こう誓った。
そして、予言の文字に吸いつけられていた眸をあげてふと有明けの空をふりあおぐと、おお希望の象徴! 熱血のかがやき! らんらんたる日輪の半身が、白馬金鞍の若武者のように、東の雲をやぶってあらわれた。
夢からさめたようにあたりをみると、舟岡山は水いろにあけている。春のあけぼの! 春のあけぼの! 小鳥はそういって歌っていた。森をこえて紫野の里に、うす桃色の花の雲をひいて、今宮神社の大屋根が青さびて見える。
「夜が明けた!」
竹童が、とびあがるような声でいった。
「おお!」
と龍太郎と忍剣、きッとなって、伊那丸の顔をみながら、
「若君、時刻をうつしては一大事です。ともあれ竹童を先にやって、天ヶ丘のようすを、しかと見とどけさせましょう」
「ウム、そしてわれわれは、寒松院の松並木に待ち伏せているか」
「それが、上策とかんがえまする」
「竹童」
「はい」
「心得たか」
「たしかにうけたまわりました」
「では、これを――」
と龍太郎が、狼煙筒を、竹童の手へわたして、
「呂宋兵衛をはじめ天ヶ丘の者どもが、山をくだって、寒松院の並木へかかるころを見はからい、この狼煙をうちあげてくれい。時ならぬ狼煙の音におびやかされて、きゃつらは、かならずうろたえるにちがいない」
「その虚につけ入って、呂宋兵衛の一族をけちらし、勝頼公のお駕籠をうばいとる、ご計略でございますか」
「そうじゃ。機をあやまらぬようにいたせ」
「かしこまりました。ではみなさま――」
般若丸をさしなおして、伊那丸に一礼すると、もうヒラリと岩の上から飛びおりていた。そして、バラバラと舟岡山をかけおりていく彼のすがたを見送っていると、たちまち、崖をこえ、雷神の滝の流れをとび、やがて森から紫野のはてへ霞んでしまった。
そのはやいことはやいこと、まるで鹿のようである。もっとも、あのけわしい鞍馬の谷や細道になれきッている竹童だ。ここらの山や森などは、ほとんど、坦々たる芝生の庭をかけるようなものだろう。
「あれ、ごらんあそばせ」
龍太郎が、そのうしろ姿を指さしていう。
「竹童め、今朝はすッかり忘れております」
「なにを?」
と、伊那丸がきく。
「きのうまでは盲であったが、老先生のお力で、にわかにアアなったことをまるで忘れているらしゅうございます」
「お、……それが童子らしいところである」
微笑をもってながめていた伊那丸は、愛らしいやつ、――たのもしいやつ――そう思ってうなずいた。
やがて、その三人も、雷神の滝の岩頭をおりた。そして、裏道をめぐって、敵の廻しものに覚られぬように、ひそかに寒松院の並木にかくれ、腕をさすッて、合図の狼煙を、待ちうけていた。
「オオ、寒い」
正気にかえって、ポカンとあたりを見まわしたのは、ゆうべ、今宮神社の境内で、馬にけられてヘドを吐いて、あのまま気絶していた泣き虫の蛾次郎。
「オオ寒、寒、寒……」
ブルブルガタガタふるえている。
ひょいと見ると、目のまえには、じぶんの吐いたご馳走やら、馬の糞やら紙屑やらで、きれいな物は一つもない。
この汚穢だらけな地面の上に、気をうしなって寝ていたかと思うと、いくら洒アつくな蛾次郎でも、さすがにすこしあさましくなって、今朝の寝起きは、あまりいい気持でなかった。
「アア、おなかがペコペコだ……」
起きるとすぐに食うしんぱい。
ゆうべスッカリ吐きだして、今朝は胃袋が、カラッポになっているとみえて、食慾ばかりになった目つきで、しきりに、そこらをキョトキョトと見まわしながら、
「なにかないかナ、なにかないかナ……」
泥だらけな着物もハタかず、ふらふらと立ちあがった。
その姿や寝ぼけ面が、おかしいとみえて、すぐそばの神馬小屋で、白と黒と二疋の馬が、ヒーンと鼻で吹きだした。すると頭の上のモチの木でも、鴉がカーッと啼き合わせた。
虫のいどころが悪かった。
「ばかア! てめえのことじゃねえやい」
と、蛾次郎、鴉をどなりつけて、スタスタと向こうへ歩きだした。
すると、あった! あった!
ひとつの御堂の神前に、蛾次郎の見のがしならぬものがあった。
蕎麦まんじゅうのお供物である。
きのうのお祭に、氏子があげた物であろう。三方の上に、うずたかく、大げさにいえば、富士の山ほど積んであった。
犬もあるけば棒にあたる!
これなるかな、これなるかなと、蛾次郎はそこで、よだれをたらして見とれてしまった。
「ちぇッ、ありがたし、かたじけなし」
と泣き虫の蛾次郎、じぶんのおでこをピシャリとたたいて、神さまに感謝したのである。が、さてと口に唾をわかせてみると、いけないことには、厳重な柵をめぐらしてあって、いくら長い手をのばしてみても、とても、そこまではとどかない。
「ウーム、いまいましいなア」
宝の山に入りながら、この蕎麦まんじゅうに手がとどかないとは、なんたる無念しごくだろうというふうに、胃液をわかせながら蛾次郎の目がすわってしまった。だが、こういう事業にたいしては、人一倍の熱をもつ蛾次郎である。たちまち一策をあんじだして、蕎麦まんじゅうの曲取りをやりはじめた。
そこらで見つけてきた一本の細竹、先をそいでとがらせ、柵のそとから手をのばして、三方の上のまんじゅうを上から一箇ずつ突いては取り、突いては食べ、口の中へ五つばかり、ふところの中へ八つばかり、まんまと、せしめてしまったのである。
「エヘン。どんなものだい、蛾次郎さまのお手なみは」
これで兵糧もでき、目もさめた。
「さア、これからきょうはどうしよう、どうしておもしろくあそぼうか」
富士の裾野をでていらい、鷲に乗って北国も見たし、東海道も見物したし、奈良の堂塔、大和の平野、京都の今宮祭まで見たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか、九州へいこうか?
なにしろ――前途は洋々たるものだ。
ひとまず、きょうは天ヶ丘へかえって、ゆッくりと考えたうえにしよう。
おお、天ヶ丘といえば、おればかりご馳走を食べあるいて、クロのことをすッかり忘れていた。あの丘の奥の松の木へ、鎖でしばりつけておいたから、逃げる気づかいはちっともないが、きッと腹をへらしているだろう。
こう気がついたので蛾次郎も、にわかに足をはやめて今宮神社の内から、天ヶ丘のほうへ歩きだした。
すると、ちょうどその麓。
南蛮寺ののぼりにかかろうとする参道の並木を、忍びやかにゆく人かげがある。
まだ朝霞がたちこめているので、おおかた薪拾いの小僧か、物売りだろうくらいに思っていた蛾次郎は、だんだん近づいて見てびっくりした。どうも、それは鞍馬の竹童らしい。
「おやッ」
蛾次郎は、もういっそうちかくよってみた。まちがいなく竹童である。
「だが、へんだなあ。……あいつ目が見えないくせにして、いやにまっすぐに向いて歩いていやがる。ははア読めた……よく盲というやつは、見えるふりをして歩くというが、竹童もそれであんなにすましているんだな。うふッ、……また一つからかって見てやろうか」
と、ひとり合点をして泣き虫の蛾次郎、止せばよいのに性懲りもなく、また悪戯心をおこして、竹童の後からピタピタとついていった。
霞にぼかされた松の丘に、南蛮寺の朱門は、まだ、かたくとざされてあった。
稲妻形についている石段の道を見まわしても、きれいな朝露がたたえられて、人の土足にふみにじられているようすはない。
きょうの朝まだきに、桑名に在陣する秀吉のところへ向けて、和田呂宋兵衛が護送していこうとする勝頼の駕籠は、まだあの朱門をでて山をくだっていないようだ。……竹童はまずよかったと、そこでいっそう身をかがませながら、はうようにして、石段を一歩一歩とのぼっていく……
それを見ると、蛾次郎は、
「あはははは。やっぱり盲だ、石段を四つンばいになって登っていきゃアがる」
と、嘲笑いながら、心をゆるめてしまった。そこで、ふところの蕎麦まんじゅうを半分たべて、のこりの半分を、ポンと竹童の背なかへ投げつけながら、
「おい、鞍馬の竹童――どこへいくンだい」
と呼びかけた。竹童は、ハッとして石段へ身をねかせた。そしてジロリと、ふりかえって見ると、ゆうべ八神殿の床下でにがした蛾次郎だ。
「ああ、またきたな」
と思ったが、はやる心をおさえて、なお盲のふりをしながら、しずかに天ヶ丘へのぼりだすと、蛾次郎は、それとも知らずに、
「オイオイ、つんぼかい?」
いよいよ図にのって、減らず口をたたきだした。
「ゆうべはつんぼじゃなかったはずだ。盲の上にツン的ときたひにゃ、それこそ、でくの坊よりなッちゃあいねえからな。ええオイ竹童……おッと、こいつは俺がまちがった。おまえは八神殿の床下をお屋敷としている、天下のお乞食だッたんだっけ。それじゃ返事をしないはずだよ。ではあらためて呼びなおすことにしよう……」
蛾次郎、ますますお調子づいて、いまや、その身が竹童の般若丸の切ッ先に、まねき寄せられているとは知らずに、ノコノコとすぐ後ろへまで近よっていった。
そして、黄色い歯をムキだして、ゲタゲタと笑いながら、竹童の顔を、肩ごしにのぞくようにしながら、
「――もし、天下のお乞食さま。おめえ、これからどこへいくのよ。南蛮寺の台所か、それにゃ、まずすこし時刻が早かろうぜ。おあまりは朝飯すぎにいかなけりゃくれやしないよ。うふふふふ……怒ってるのか。澄ますなよ。はずかしいのか、蛾次郎さまにすがたを見られて……。まアいいじゃアねえか、なアおい竹童、おれとおめえとは、いまじゃ身分がちがってしまったが、もとは裾野の人無村で、おなじ柿の木の柿をかじりあった仲だ。――おれはおめえに同情しているんだぜ。だからよ、ゆうべだッて、おれから声をかけたんじゃねえか。うまい飴ン棒でもしゃぶらしてやろうと思って、ひとが親切にいったものを、コケおどしの刃物なんぞふりまわして、よせやい、おれだって、はばかりながら、刀ぐらいは差しているんだからな」
竹童は、唖のようにだまっていた。
しかし、全身の血は、沸りたち、毛もよだつほど怒っていた。だが、――いまは、どこまで盲の態をみせて蛾次郎にゆだんをさせ、その素ッ首をひンねじってやろうと、心の奥にためきって、かれの悪口雑言を、いうがままにこらえている。
「エエ、オイ、なんとかいえよ、なんとか」
蛾次郎は、竹童のからだから棘の立っているのに気づかず、いきなり蕎麦まんじゅうをムシャムシャ食べて、
「やい乞食、これでも食らえ」
と、その食いかけを、竹童の口もとへ持っていった。
待っていたぞ――と、いわぬばかりに。
「逃げるな、蛾次!」
と、いうがはやいか、鞍馬の竹童、顔まできた蛾次郎の右の手を、いきなりつかんでひきよせた。
「あッ! こ、こいつ」
「よくやってきた。思いしれ」
と竹童は、その利き腕をねじあげて、石段の中途へ、押したおした。
「おう! て、てめえ目が見えるのか」
と押しふせられながら蛾次郎は、胆をつぶして、ふるえあがった。竹童はその上へのって、膝がしらで、相手の腕をおしつけ、両手で喉と腕首をしめつけて、ビクとも動きをとらせずに、
「やい蛾次公! よくもおのれは、この竹童を、さんざんに恥ずかしめたな。うぬッ、どうするかおぼえていろ」
「あッ――か、か、かんにんしてくれ」
「えい、いまになって、卑怯なことをいうな」
「あやまる、あやまる、あやまる! あやまりますから! かんべんしてくれッ!」
「だめだ! だめだ! だめだッ。もうなんといッたってゆるすもんか、ここでおいらの手につかまったのが百年目だ、般若丸の斬れあじを試してやるから、そう思え」
と、刀の柄へ手をやった。
「アア待ってくれ、竹童、竹童さまーッ」
と、蛾次郎はついに本性をだして、ベソをかきながら悲鳴をあげた。
「待ってくれよ、おめえに返すものがある。おれを殺してしまうと、それがわからなくなるぜ」
「なに? 返すものが……オオ鷲をか」
「そうだ。クロを返すから、命だけを助けてくれ」
「きっとだな!」
「きっと!」
「よし、クロを返すというならば命だけは助けてやる。だが、それはいったいどこにあるのだ」
「す、す、……すこうし手をゆるめてくれなくちゃ、のどがくるしくって、声が……」
「さッ、はやくいえ!」
と少しからだを浮かしてやると、そのとたんに、泣き虫の蛾次郎、ドンと足をあげて竹童の頤を蹴とばした。あッ、と竹童もふいを食ったが、胸ぐらをつかんでいた手をはなさなかったので、足を踏みはずした勢いで、蛾次郎もろともに、ゴロゴロゴロと、二つのからだが、俵のように、石段の中ほどから下までころげ落ちていった。
ごろんと石段の下にとどまると、蛾次郎はいきなり、竹童の唇へ、爪をひっかけた。
「なまいきなッ」
と竹童、その手をはらって、襟がみをつかみ、腰をあてて、車投げに、――ぶんと、大地へなげつける。が、蛾次郎もここ一生の命がけ、投げつけられて立つや否、バラバラッと横ッとびに逃げだした。
「待てッ――」
なんで竹童の足にかなうものか! すぐ追いつかれそうになる、これはとおどろいて、蛾次郎、高くそびえ立った一本の樫の木へ猿のようにツツッ――とよじのぼった。
木登りは、また竹童の得意とするところ。
かれが猿なら、竹童はむささびのごとく敏捷だ。ピョンと枝へ飛びつくと、もう蛾次郎の踵をつかまえた。
「わッ!」と蛾次郎。
あぶなくすべり落ちそうになったところを、蹴はなして、ザワザワと横枝へはいだした。人の重味で樫の枝が弓なりになって崖へさがる――すぐあとからまた、竹童が猿臂をのばしてきた。南無三! 蛾次郎はポンと枝から崖へ飛びうつっていちもくさんに天ヶ丘へかけのぼった。
鷲だ、鷲だ!
こんな時には手のとどかない、地面をはなれてしまうのが一番安全。
こう思って蛾次郎は、いつぞや、クロをつないでおいた松の木の下まで、無我夢中にかけのぼってきてみると鷲は、人の跫音を聞きつけて、羽ばたきの音を高々とさせている。
「おお、いたな! ありがてえ」
息をはずませてかけよった。
そして汗を拭くまもなく、クロの足をしばりつけてある鎖をガチャガチャ解きはじめた。だが、――意地わるく、急げばいそぐほど、鎖は笹や枯草にひっからんで、容易にむすびこぶしが解けない。
とこうするまに、鞍馬の竹童、ヒョイと見うしなった蛾次郎のすがたを血眼で、さがしながら、もうすぐそこまで、のぼってきた。
「オオ、クロがいた! おれのクロだ!」
かれは思わずこうさけんだ。あたかも、暗夜に見うしなった肉親の姿でも見つけたように――
と、ちょうどその時である。
南蛮寺の奥のほうから、ジャン、ジャン、ジャン! 妖韻のこもった鐘の音――そして一種の凄味をおびた貝の音がひびいてきた。ハッと思ってふり向くとたんに、丘のいただきにある南面の朱門が、魔王の口を開いたように、ギーイと八文字に押しひらかれた。
同時に――
その朱門の中からワラワラとあふれだしたおびただしい浪人武者! 黒装束へ小具足をつけたるもの、鎖襦袢をガッシリと着こんだもの、わらじ野袴に朱鞘のもの、異風さまざまないでたちで、その数五十人あまり。
百鬼夜行ということはあるが、これは爛々たる朝の陽をあびて、その装束が同じからぬごとく、その武器も槍、太刀、かけや、薙刀、鉄弓、鎖鎌、見れば見るほど十人十色。
「それッ、列をみだすな、駕籠わきへつけ、駕籠わきへ」
なかに、ひとりこういって、手をふりあげた者がある。これぞたしかに、紅毛黒衣の怪人、和田呂宋兵衛にまぎれもない。
黄金の鎖を胸にたらした銀色の十字架、それが、朝陽をうけて、ギラギラ光っている。
「おう!」
と答えて、ひとつの駕籠のまわりへ、警固についた者たちを見ると、おなじ黒布をかぶり黒衣をつけた吹針の蚕婆をはじめ、呂宋兵衛のふところ刀、丹羽昌仙、早足の燕作、このほか、腕ぶしの強そうな者ばかり、ひしひしと足なみをそろえた。
そして、あたかも、深岳の狼が、群れをなして里へでるごとく、列をつくって、天ヶ丘の石段を下りはじめる。中にはさんでいく一挺の鎖駕籠は――まさしく、桑名の羽柴秀吉へおくらんとする貴人の僧形、武田勝頼が幽囚されているものと見られる。
「やッ! 呂宋兵衛がいく、勝頼さまのお駕籠がいく」
それを見るや竹童は思った。寒松院の並木に待ちぶせている伊那丸やそのほかの人々に、すこしも早く、このことを合図してやらねばならぬと。――
といって――
狼煙のしたくをしているまには、おお、すぐそこにいる蛾次郎めが、クロの背をかりて、宙天へ逃げ失せてしまうであろう。
蛾次郎を見のがすぐらいは、虫ケラと思えばなんでもないが、いまここで、せっかくその姿を見たクロとふたたび別れてしまうのは、なんとしてもしのびない。いつまた、それが蛾次郎の手から、じぶんの手へ返ってくる時節があるかわからない。
さればといって――それにグズグズ手間どっているまに、呂宋兵衛一族が天ヶ丘から道をかえて、勝頼公をとおく護送してしまったら、それこそ伊那丸さまへたいしてぬぐわれざる不忠不義! 腹を切っておわびしても、その大罪をつぐなうには値しない。
「ああ、困った」
竹童は、髪の毛をつかんで、迷いにまよった。合図か? 鷲か? 合図か? 鷲か?
どっちへこの身をむけていいか。
「おお、クロを?」かれはとつぜん蛾次郎のいるほうへ征矢のごとく飛んでッた。
クロこそは、人間のもつなにものも、匹敵するあたわざる飛行の武器だ、生ける武器だ。クロさえ蛾次郎の手からとり返せば、のろしをあげるまでもなく、あの偉大なつばさで一はたきで、寒松院の並木にいる味方へ、このようすをお知らせにも飛んでいける。
そのうえ、たとえ呂宋兵衛が、どこをどう逃げまわっても、空からそれを見てとることもできるというもの。――こう竹童はかんがえた。
しかし、その時すでに、蛾次郎は、鎖をといて鷲の背へ、フワリと乗っていたのである。
「あッ、待て!」
飛びついていった竹童と、地上をはなれた大鷲とはそのとき、ほとんど同時であった。
「くそうッ」と蛾次郎、鷲の上から竹をふるって、竹童の肩をピシーッとなぐった。
「ちイッ……」と、こらえながら、竹童は、必死につかんだ蛾次郎の足をはなさず、大鷲のつばさが、さッと大地を打ってまいあがるのと一しょに、かれも蛾次郎とともに、無二無三に、鷲の背なかへかじりついてしまった……
かくて巨大な黒鷲の背には、いまやたがいに、敵たり仇たるふたりの童子が、ところもあろうに、飛行する大空において、ひとつ翼の上に乗りあってしまった。
だが、しかし――鷲そのものは、蛾次郎を敵ともおもわず、また竹童を仇とも思うようすもない。軽々と、二少年を背にのせて、そのゆうゆうたるすがたを、南蛮寺の空にまいあがらせた。
おお、みるまに下界は遠くなる――遠くなる――
南蛮寺の屋根、天ヶ丘一帯、さらに四方の山川まで、たちまち箱庭を見るように、すぐ目の下へ展開されて、それが、ゆるい渦巻のように巻いてながれる……
蹴おとされては大へんと、泣き虫の蛾次郎は、歯を食いしばって、鷲の頸毛にしがみついた。
と――同じように、地上とちがって、大空の風をきってゆく鷲の背なかにいては、さすがの竹童も、手がはなせないので、みすみすそばに乗りあっている蛾次郎をどうすることもできないのである。
それはいいが、ここに、なおなお困ったことは、ひとりならば自由な方角をさして飛ばすこともできるが、こうして蛾次郎と相乗りになってしまったために、クロはただクロ自身の意志で、勝手なほうへさっさつとして飛んでいく。それでは、伊那丸たちへ、合図をするたよりがないので、かかるまも、竹童の腹のなかは、引っくり返るような心配である。
ピューッ、ピューッと顔をかすっていく風の絶えまにはるかに下をみてあれば、もう和田呂宋兵衛一族の列は蟻のように小さく見えながら、天ヶ丘の石段を降りきっている。
「かならず――合図をまちがえてくれるなよ――」
くれぐれもことわられた龍太郎のことばが、空の上なる竹童の耳に、いまもありありと聞える心地がする。
――とそのせつなである。竹童は、すぐ真下の地上に一点の火の塊を見いだした。
枯草をやく百姓の野火か、あるいは、きこりのたいた焚火であろうか、とある原のなかほどに、チラチラと赤くもえている焔があった。
「しめた」
竹童は、やっと片手をふところへ入れて、龍太郎から渡されてきた、狼煙筒をかたくつかんだ。そして、鷲の腹がちょうどその火の上へ舞いめぐってきたとたんに、ポーンと下へ投げおとした。
ツーと斜線をえがいて落ちていく、小さい物体の行方に、竹童は祈りを送った。
しめた! 狼煙の筒は、うまく、地上に見えるその焔の廓のなかへ落ちた。
と、思うまもあらず、轟然たる青天の霹靂。
筒の中の火薬が破裂して、ドーン! とすさまじい火と灰と炸裂した物体の破片を舞いあげた。
合図の狼煙! それは一倍ものすごい響きをもって、寒松院の並木にいる、伊那丸、忍剣、龍太郎の耳へまでつんざいていったことは必定である。だが――? そのとたんに、ビックリした大鷲は、雷気にあって天空をそれたようにパッ! ――と一陣の風をついて、竹童と蛾次郎をのせたまま、いずこともなく飛びさってしまった。
さて――。
寒松院の松並木――ここもまだ、朝がすみがこめていた。四条五条へ花売りにでる大原女が、散りこぼしていったのであろう、道のところどころに、連翹の花や、白桃の小枝が、牛車のわだちにもひかれずに、おちている。
並木のこずえには、高々とうたう春の百鳥、大地はシットリと露をふくんで、なんともいわれないすがすがしさ。
かかるところへ、霞のなかから、ポカリと浮きだした一列の人かげがある。寂光浄土の極楽へ、地獄の獄卒どもが練ってきたように、それは殺風景なものであった。
きょう、桑名の陣をさして、天ヶ丘をくだってきた、和田呂宋兵衛の一行である。れいの鎖駕籠をいと厳重に警固して、随行には軍師の昌仙、早足の燕作、吹針の蚕婆、そのほか五十余名の浪人が、鳴り物こそ使わないが、いわゆる一鼓六足の陣あゆみで、ピタッ、ピタッ、ピタッ、ピタッ……と、足なみをそろえてくる。
せんとうに立ったのは三人の野武士である。さえぎるものあらばと、刀の柄に手をかけたまま歩いてくる。次には、黒柄九尺の槍を横にもち、するどい穂先をならべてくる者が七人。――そのつぎに、和田呂宋兵衛、黒衣に蛮刀を佩き、いかにも意気ようようとしていた。
追分へでたら、左だぞ、左だぞ。すこしは道がまわりになっても、なるべく裏街道をえらんでいけよ。――途中、ほかの大名にあったらば、同格の会釈をして、かまわないから、羽柴筑前守のみ内と名のれ――関所へかかったときは、武器を伏せろよ! いいか、関所で武器をふせるのを忘れるなよ! そのほか、桑名のご陣につくまでは、みちみち話をかわすことはならぬ。
列の前後へむかって、こう号令したが、令をくだす自分だけは軍律もなにもなく、黒布のかくしぶくろから陶器製のパイプを出し、それへ、葉煙草をつめたかと思うと、歩きながら、スパスパとむらさき色の煙をくゆらしはじめた。
しばらくゆくと、また呼んだ。
「昌仙、昌仙」
「はッ」
と、うしろのほうでこたえる。丹羽昌仙と早足の燕作とは、鎖駕籠の両わきに、つきそっていた。
「京の大津口から桑名まで、およそ何里ほどあるだろう」
「さよう? ……」
と昌仙は歩きながら懐中絵図をひろげて見て、
「二十九里余町――まア、ざっと三十里でございまする。すると桑名のご陣へつきますまでには、約三日ののちとあいなります」
「三日はすこしかかりすぎるな。どこか間道をとおって、二日ぐらいでまいれる工夫はなかろうか」
「なにしろ途中には、大津の関所、松本の渡舟、鈴鹿山の難路などがございますので……」
と、しきりに懐中絵図の説明をしていたが、そのうちに列のまっさきにあたって、あッ、という声がした。さきの野武士三人の手から、ふいに、虹のような陣刀がひらめいたのだ。
と思うと、その三名は、電光一瞬のまにたおれ、すさまじい一陣の風をついて、何者かが、向かってくる。
「おお!」
と、五十余名の大衆が、シタシタと足をひいて、まえをみると、霞のふかい松並木のかげから、忽然とおどりだした年わかい怪僧があった。染衣の袖を綾にしてうしろにからげ、手には、禅杖をふりまわして、曠野をはしる獅子のごとくおどりこんできた。
「おのれッ!」
さけぶやいな、第二段の浪人組七人が、黒柄九尺の槍の穂さきを、サッと若僧の一身にあつめ、リラッ、リラッ、リラッ、としごきをくれて八面を押っとりかこんだ。
「や、や?」
と、呂宋兵衛は、陶器パイプを口からおとして、
「おう! ありゃ、武田方の加賀見忍剣だ。さては、勝頼をうばいかえすために、伊那丸をはじめ、その他のやつらも、このちかくに身をふせているとおぼえたぞ。昌仙、昌仙! 燕作もゆだんするなッ」
いうもおそし、その伊那丸は、いきなり横あいの草むらから、バラバラとおどりだして、木隠龍太郎とともに刀のこじりをはねあげ、呂宋兵衛の前へぬッくと立った。
「野武士ども待て、しばらく待て、むりにおし通らんとすれば、命がないぞ」
「おッ――おのれは武田伊那丸に龍太郎だな。秀吉公の威勢をもおそれず、都へ入りこんでくるとは、不敵なやつ。この呂宋兵衛の手並にもこりず、わざわざ富士の裾野から討たれにきたか」
内心、胆をつぶしながらも、怯みを見せまいとする呂宋兵衛は、蛮音をはりあげて、刀へ手をかけた。
「やかましいッ!」と、木隠龍太郎。
「はるばる、若君がここへ、お越しあそばしたのは、お父上勝頼公をお迎えにまいったのだ。その鎖駕籠のうちに、お身をひそめたもうおん方こそ、まぎれもなき勝頼公と見た。呂宋兵衛、神妙に渡してしまえ」
「なにを、ばかな。いかにも鎖駕籠のうちには、これから桑名のご陣屋へ護送するひとりの落武者が入れてある! だがよくきけよ! おれも人穴城にいた野武士とちがって、いまでは、南蛮寺を守護する羽柴家の呂宋兵衛だぞ。なんで勝頼をうぬらの手にわたすものか」
「渡さぬとあらば、なおおもしろい。木隠龍太郎や忍剣が力をあわせて、汝らを、この松並木の生き肥にしてくれる」
「わはははは、片腹いたいいいぐさを聞いちゃいられねえ。オオ! めんどうだが、桑名へのいきがけの駄賃にうぬらの生首を槍のとッ尖にさしていくのも一興だろう。それッ、この虫けらを踏みつぶしてしまえッ」
剣をはらって、うしろの狼軍をケシかけようとすると伊那丸の声が、またひびいた。
「ひかえろッ、雑人ども!」
機山大居士武田信玄の孫、天性そなわる威容には、おのずから人をうつものがあるか、こういうと呂宋兵衛にしたがう山犬武士ども、おもわず耳の膜をつン抜かれたように、たじたじとして、われ一番にと斬りつける者もない。
「えいッ、相手はわずか二人か三人、なにを猶予しているのだ、ふくろづつみにして、そッ首をあげちまえッ」
呂宋兵衛が怒号したとたんに、ズドンッ! と一発、つづいてまた一発のたま! シュッと、硝煙をあげて伊那丸の耳をかする。
「おッ、若君、飛道具のそなえがありますぞ」
「なんの!」
と、武田伊那丸、小太刀をぬいて、身をおどらせ、目ざす呂宋兵衛の手もとへとびかかった。
「それッ、頭領をうたすな」
と、なだれてくるのをおさえて、木隠龍太郎はかれが得意の戒刀をぬいた。――たちまち、前後の四、五人を斬りふせつつ、かの鎖駕籠のてまえまで走りよった。
と――駕籠の屋根にはさっきから、一人の老野武士が立っていた。その上から、銀象嵌の短銃をとってかまえ、いましも、三度目の筒口に、伊那丸の姿をねらっていたが、龍太郎が近づいたのをみると、オオ! とそのつつ先を向けかえた。
「おのれッ!」
とたんに、ごうぜんと、また一発のけむりが立った。老野武士は短銃を持ったまま、駕籠の屋根から向こうがわへぶっ倒れ、龍太郎のすがたは、太刀を走らせたまま煙の下へよろめいた。
短銃をつかんでいた者こそ、すなわち人穴以来、呂宋兵衛の軍師格となっている丹羽昌仙――ああ好漢、木隠龍太郎、とうとうかかる無名の野軍師と、あい討ちになってしまったか?
龍太郎と伊那丸が、呂宋兵衛の側面をつくよりまえに、ただひとり、列のまっ正面から禅杖をふっておどりこんだ勇僧は、いうまでもなく加賀見忍剣だ。
七、八人の野武士どもが、九尺柄の槍尖をそろえて、ズラリと円陣をつくり、かれをまんなかに押しつつんでしまったが、笑止や、忍剣の眼から見れば、こんなうすッぺらな殺陣は、紙のふすまを蹴やぶるよりもたやすいことであろう。――見よ、錬鉄の禅杖が、かれの頭上にふりかぶられて、いまにも疾風をよぼうとしているのを!
かッと、目を見ひらいて、加賀見忍剣、
「命のおしいやつはどけッ!」と大喝した。
と思えば――虚空からさッとおちた禅杖が、右なる槍を二、三本たたき伏せる! それッと、ひだり側から間髪をいれずにくりこんだ槍は、ビューッと禅杖が輪をえがいてかえったとたんに、乱離微塵! 三段四段におれとんで、その持主は血の下になった。
「わッ」
と円陣の一角がくずれると、もうかれらは、こらえもなく浮きあしをみだした。忍剣はといえば、その瞬隙に、檻をでた猛虎のごとく、伊那丸の側へかけだしている。
伊那丸はどこまでも、呂宋兵衛をのがさじと追いつめて、いまや、火をふらして血戦をいどんでいた。そこへ忍剣がかけつけて、あたりの木ッ葉浪人を八面にたたき伏せ、
「若君、お助太刀」
いきなり、呂宋兵衛の横から打ってかかった。
「おう!」
と魔もののように吼えた呂宋兵衛は、すでに、味方の半ばはきずつき、半ばはどこかへ逃げうせたのを見て、いよいよ狼狽したようす。伊那丸のするどい切ッさきと、忍剣の禅杖をうけかねて、息をあえぎ、脂汗をしぼりながら、一歩一歩追いつめられたが、そのうちに、ドンとうしろへつまずいた。
ほうりだされた鎖駕籠――それへ打つかって、呂宋兵衛がヨロリと駕籠の棒へささえられた。
「しめたッ!」
と、いう声がそのうしろでした。――だれかとおもうと、さいぜん、弾煙のなかにたおれた木隠龍太郎である。
いかなる戒刀の達人も、飛道具のまえに立っては危険なので、わざと身をうっ伏せたものだった。
しかし龍太郎は、たおれたまま仮死をよそおっていただけではない。かれは、丹羽昌仙が、じぶんの切ッさきからとんで逃げ、あたりの者も見えないしおに、得たりとばかり鎖駕籠の側へはいより、その錠まえをねじ切っていたところである――そこへ、呂宋兵衛がヨロケこんできたから、龍太郎はなんの苦もなく、
「しめた!」
と、その片足をつかんでしまった。
まえには忍剣、横には伊那丸の太刀、足をつかまれて立ちすくみになった呂宋兵衛は、いよいよいまが最後とみえたが、いつもこうした破滅には、かならず南蛮流幻術で姿を消すのが、かれの奥の手だ。
いまもいまとて、伊那丸と忍剣が、一気にかれを討ちとろうとしたせつな、どこからともなく、ビラビラビラビラビラッと吹きつけてきた針の風! それは呂宋兵衛の幻術ではない、すぐかたわらの松の木のうえに、蝙蝠のごとく逃げあがっていた蚕婆が、呂宋兵衛あやうしと見て、例の妖異な唇から、ふくみ針を吹いたのだ。
梢はたかく、下へはかなりの間隔があった。無数の針は音なき風となって、ピラピラと飛んできても肌につき立つほどではないが、あたかも毒蛾の粉のように身を刺したので、ふたりはあッ――と面をそむけた。その一瞬だ!
「ええッ!」
と、するどく龍太郎の手を蹴はらった呂宋兵衛は、いきなり駕籠にかぶせてある鎖の網をつかんで、パッと大地へ投網のように投げた。
「あッ、また妖術を――」
とさけぶまに、龍太郎のからだがその鎖網のなかへつつみこまれたので、おどろいた忍剣、禅杖に風をきらせて五体みじんになれとふりつけると、おお奇怪! 一陣の黒風がサッと流れて、いままでほがらかだった春暁の光はどこへやら、あたりは見るまに墨色にぬりつぶされ、ザアッ――という木の葉のそよぎとともに、雨か霧かしぶきか、なんともいえないしめッぽい水粒がもうもうと立ってきた。
とたんに、呂宋兵衛のからだは、邪法秘密の印をむすびながら、ヒラリと駕籠の屋根へ飛びうつっていた。あれよ! と眼をみはるまに、まッ暗になった両側の松並木の根もとから、サラサラサラサラ……という水音がしてたちまち滾々とあふれてくる清冽が、その駕籠をうごかして、呂宋兵衛を乗せたままツウ――と舟のように流れだした。
「魔人め。また邪術をほどこしたな」
「若君若君。これは呂宋兵衛の幻惑ですぞ、かならず、その手に乗って、おひるみあそばすな」
投げかけられた鎖をはらって、龍太郎と忍剣が、流るる駕籠をジャブジャブと追いかける、その時もうこの街道は、まんまんたる濁水の川となって、槍の折れや、血あぶらや、死骸がうきだし、ともすると伊那丸まで足をながされておぼれそうだ。
「ちぇッ、ざんねんだ!」
なにしろ水の勢いが、とうとうと足の運びをはばめるので、さすがの伊那丸も二勇士も、目前に仇を見、目前に父の駕籠を目撃しながら、どうしても追いつくことができない。そのまに、筏のように水に浮いた駕籠がグングンとゆれつつ押しながれ、その上には和田呂宋兵衛、ざまを見ろといわんばかりに、白い歯をむいてあざわらっている。
「ウーム、おのれ邪法の外道め、見ておれよ!」
水勢に巻かれて、むなしく立ち往生してしまった主従三人は、もう胸の上まで濁水にひたって、樹の枝につかまりながら、敵のゆくえをにらんでいたが、そのとき、加賀見忍剣は、はじめて破術の法を思いだして、散魔文の秘句をとなえ、手の禅杖をふりあげ、エイッ! と水流を切断するように打ちおろした。
水面をうった法密の禅杖に、サッと水がふたつに分れたと思うと、散魔文の破術にあって狼狽した呂宋兵衛は徒歩になってまッしぐらにかなたへ逃げだし、まんまんと波流をえがいていた濁水は、みるみるうちに、一抹の水蒸気となって上昇してゆく……そして松並木の街道は、ふたたびもとののどかな朝にかえっていた。
まるで、悪夢から醒めたよう……ふとみると春の陽はさんさんと木の間からもれて若草にもえ、鳥はほがらかに音を張ってうたっている。それのみか、呂宋兵衛が水に浮かして乗りさったと思えた鎖駕籠は、一寸の場所もかえずに、もとのところにすえられてある。
呂宋兵衛が得意とする水術に眩惑されて、かれをとり逃がしたのは遺憾だが、勝頼の駕籠をうばったのは、せめて伊那丸の心をなぐさめるに足るものであった。
「待て待て、忍剣。龍太郎も待て!」
伊那丸は、なおも憎ッくき賊を追おうとするふたりを止めて、
「このたび都へまいったのは、まず何よりもお父上の危急をお救い申すにあった。いまここに、その駕籠を迎えまいらせた以上、呂宋兵衛を討つのは、いまにかぎったことではない。それ、一刻もはやく、お駕籠のうちからお救い申しあげて、小太郎山のとりでへもどろうぞ」
「おっしゃるごとく、それこそ、大願の目標でした」
「忍剣! 手をかせ」
「はッ」
と、主従三人、バラバラと駕籠のそばへ寄っていったが、ああ、去年の春、織徳連合軍の襲うところとなって、天目山の露と化したまうと聞えて以来、ここにはやくも一めぐりの春。――いまこそ、亡き君とのみ思うていた、武田四郎勝頼その人のかわれる姿を拝すことができるのかと、龍太郎も忍剣も、思わず胸をわななかせて、大地にひざまずき、伊那丸もまだその姿を拝さぬうちから、睫毛になみだの露をたたえている。
一同、駕籠のまえに、ピタと両手をついて、
「あいや、それにおわす貴人のご僧に申しあげまする。われわれは武田家恩顧のともがら、ここにいますは、お家のご次男伊那丸さまにおわします。ひそかにおうわさのあとをしたって、遠き小太郎山のとりでより、ここまでお迎えに参じましてござります。このうえはなにとぞ、もとの甲山にお帰りあそばして、あわれ、甲斐源氏再興のために、臥薪嘗胆いたしている若君をはじめ、われわれどもの盟主とおなりくださいますよう。またそれをごしょうちくださいますとあらば、なにとぞ、ここにて久しぶりに、若君へご対顔おおせつけ願いとうぞんじます」
誠意をこめて、ふたりがいうと、
「うむ……」と駕籠のうちで、かすかにうなずく声がした。
「さてはおゆるし? ……」
と龍太郎、忍剣と目くばせしながら、おそるおそる寄って駕籠の塗戸へ手をかけ、
「若君、ご対面なされませ」
スーと開けると、なかには、まぎれもなきひとりの僧形、網代笠をまぶかにかぶって、うつむきかげんに乗っていた。
「おお、お父上でござりましたか。おなつかしゅうぞんじまする。わたくしは伊那丸でござります――天目山のご合戦にもい合わさず、むなしく生き永らえておりました。お父上! お父上!」
ほとばしる激情! われをわすれて駕籠の戸にすがりつき、僧形の人の手をとると、僧も黙然として手をとられ、ゆらりと駕籠のそとに立った。
「お父上! またもや敵の手がまわらぬうちに、一刻もはやく、ここを去ってお越しくださいませ、いざ伊那丸がごあんないいたしまする」
「どこへ? ……わしを連れていくというのじゃ」
「甲信駿三ヵ国のさかい、小太郎山のとりでの奥へ。――オオ父上、そここそ山また山、自然の嶮城、難攻不落の地にござります。お父上のご武運つたなく、ひとたびは織田徳川のために亡びこそすれ、まだその深岳のいただきには、甲斐源氏の旗一旒、秋をのぞんでひるがえっておりまする」
「ああ、その秋はすでに去りました――、天の運行は去ってかえらず、還るは百年ののちか千年の後か――」
「えッ、なんとおっしゃいます……父上!」
染衣の袖にすがりついて、ふと、網代笠の下からあおいだ伊那丸は、あッといって、ぼうぜん――ただぼうぜん、その手をはなしてこういった。
「父上とのみ思うていたが、そちは、鞍馬の果心居士ではないか」
聞くより龍太郎もびっくりして、
「やッ、老先生でござりますと? ――」
あまりのことにあきれはてて、忍剣とともに、ただ顔を見あわせているばかり。しばらくの間は、口もきけないほどであった。
「定めしおおどろきでござろう。……しかし、わしが雷神の滝の孤岩の上に、書きのこしておいた通り、これもみな、まえからわかっていることなのでござる。おう、ご不審の晴れるように、いまその次第をお話しいたそう。若君も、まず、そのあたりへ御座をかまえられい」
居士はゆうゆうと、ちかくの石へ腰をおろした。そして、伊那丸へ、
「おん曹子――」と重々しく呼びかけた。
「はい」と伊那丸は、老師のまえへ、神妙に首をたれてこたえる。
「あなたは、甲斐源氏の一つぶ種――世にもとうとい身でありながら、危地をおかしてお父上を求めにまいられた。孝道の赤心、涙ぐましいほどでござる。が、しかし――その勝頼公が世に生きているということは、はたして真実でござりますか? あなたはその証拠をにぎっておいでなさりますか?」
「わしは知らぬが、伝うところによれば、父君は天目山にて討死したと見せかけて、じつは裂石山の古寺にのがれて姿をかえ、京都へ落ちられたといううわさ……」
「さ。それが真実か虚伝かは、まだまだ深いなぞでござるぞ。いかにも、この果心居士が知るところでも、呂宋兵衛の手にとらえられた僧形の貴人は、勝頼公によう似ておった」
「おお、してその僧侶はどうしました。また、居士はなんで、かような姿をして、この鎖駕籠のなかにはいっておいでになりましたか」
「されば、じつをいうと、その貴人の僧は、南蛮寺の武器倉に押しこめられている間に、わしがソッと逃がしてやりました。そして――その人の笠や衣をそのまま着て、わしがこの鎖駕籠に乗っていたのじゃ」
「お! では老先生、やはりその僧こそ、父の勝頼ではございませぬか」
「さあ? ……その人が勝頼であるかないか、それはだれにもはっきりは申されぬ」
「な、なぜでござります」
「武門をすて、世をすて、あらゆる恩愛や争闘の修羅界を、すてられた人の身の上でござるもの。話すべきにあらず、また話して返らぬことでもある」
「や、や、や! ではこの伊那丸が、かくまで心をくだいて、武田家の再興を計っているのに、お父上には、もう現世の争闘をお忌みあそばして、まったく、心からの世捨人とおなりなされたのですか」
「もし、おん曹子――まえにもいったとおり、まだその僧が、勝頼公かいなか、はっきり分っておらぬのに、そうご悲嘆なされてはこまる。どれ、わしもそろそろ鞍馬の奥へ立ちかえろう」
「老先生、しばらくお待ちくださいませ。……もう一言うかがいますが、居士が身代りとなって逃がしたとおっしゃるその僧は、いったいどこへいったのでござりましょうか」
「おそらく、浮世の巷ではありますまい」
「と、すると」
「浄悪すべてをつつむ八葉蓮華の秘密の峰――高野の奥には、数多の武人が弓矢を捨てていると聞く」
と、謎のような言葉をのこして、果心居士は飄然と松のあいだへ姿をかくした。
幻滅の悲しみをいだいて、ぼうぜんと気ぬけのした伊那丸は、ややあってわれにかえった。そして、なお問いたいことのいくつかを思いだし、あわただしくあとを追って、老師! 老師! ――といくたびも声のかぎり呼んで見たけれど、もう春影の林間にそのうしろ姿はなく、ほろほろとなく山鳥の声に、なにかの花がまッ白に散っていた。
ああわからない、わからない。どう考えても伊那丸にはわからない。
果心居士の話しぶりでは、居士はすでに貴人の僧に会っているのだ。そして、自身がその身代りになり、桑名に護送されるまえに、どこかへ落としてしまったとおっしゃる。だのに、居士はそれが父の勝頼であるとは決していいきらない。その一点だけをどうしても打ち明けてくれない。
なぜだろう? ――ああさてはお父上には、居士が口をもらしたとおり、まったく弓矢の道をすてて、高野の道場にこもるおつもりなのか? ……そして浮世に未練をもたぬため、いさぎよく、わざとじぶんにも会わず、父とも名のらず、愛情のきずなを断って三密の雲ふかきみ山にかくれてゆかれたのであろう?
そう伊那丸はかんがえた。
お父上よ! お父上よ! ではぜひないことでござります。敗軍の将は兵をかたらずと申します。ひとたび天目山に惨敗をとられた父上が、弓矢をなげうつのご決心は、よくわかっておりまする。
甲山に鎮守して二十七世の名家、武田菱の名聞をなくし、あまたの一族郎党を討死させた責任をご一身におい、沙門遁世のご発心! アア、それはよくわかっておりまする! お父上のご心中、戦国春秋の常とはいえ、ご推察するだに、熱いなみだがわきます。
さあれ、伊那丸はまだ若年です。
伝家の宝什、御旗楯無の心をまもり、大祖父信玄の衣鉢をつぎ、一片の白旗を小太郎山の孤塁にたてます。
われに越王勾践の忍苦あり、帷幕に民部、咲耶子、蔦之助あり、忍剣、龍太郎の驍勇あり、不倶戴天のあだ徳川家を討ち、やがて武田再興の熱願、いな、天下掌握の壮図、やわか、やむべくもありませぬ。
伊那丸は心のそこで、高く高く、こう思い、こう誓い、こうさけんだ。
そして彼は、まもなく忍剣と龍太郎とをつれて、寒松院の松並木をたち去った。
かかるうえは一刻もはやく、小太郎山のとりでへ帰って、一党の面々にこのしまつをつげ、いよいよ兵をねり陣をならし、一旦の風雲に乗じるの備えをなすこそ急務である――と思ったのである。
伊那丸はほんぜんとさとった。大悟すれば、居士の謎めいた言葉も、おのずから解けたような心地がする。
会わねど、見ねど、さらば父上よ高野の道場にいませ。
――かれの心はすがすがしかった。
いそぎにいそいで京都をでた伊那丸主従が、大津越え関の峠にさしかかったのは、すでに、その日の薄暮であった。
ここは木曾街道、東海道、北国街道、三道のわかれ道で、いずれを取るもその人の心まかせ。伊那丸は三井寺山のふもとに立ち、魚鱗の小波をたたえている琵琶のみずうみをながめながらかんがえた。
「忍剣、龍太郎。そちたちは、これから小太郎山へもどる道を、いずれにえらぶがよいと思うか」
「されば」と、龍太郎はすぐこたえた。
「北国路には、上部八風斎のつかえる柴田権六勝家が、厳重に柵をかまえていて、めッたな旅人は通しますまい、また、東海道はなおのこと、徳川家康の城下あり、井伊、本多、榊原などの、陣屋陣屋もござりますゆえ、ここを破ってまいるのもひとかたならぬご難儀かとぞんじまする」
「とわれらのとる道は、まず木曾路が一番安全であるという意見じゃの」
「さようにござります」
というと、忍剣が、異論をとなえて、木曾路ゆきに反対した。
「イヤ龍太郎どののお言葉は、もっとものようであるが、木曾路もけっして安心な道中ではない。なんとなれば、木曾の木曾義昌、きゃつも昔は武田家の忠族であったが、いまでは徳川家の走狗となっている、かならず若君に弓をひくやつであろう。ことに木曾路はゆくところみな難所折所、いざという場合にはいちだんと危険が多いように考えられる」
「では、忍剣どのには、北国路がよいと仰せられるか」
「北国路とて同じこと、柴田権六、ちかく賤ヶ岳まで軍兵をだして、木ノ芽峠には厳重な柵をかまえているように聞きますゆえ、ここを通るも難中の難でござる。で、おなじ難儀をみるものなら、むしろどうどうと徳川家の領土をぬけ、あわよくば浜松城のやつばらに、一あわふかせて引きあげたほうがおもしろいとぞんじます」
ちょっと聞くと忍剣の説は、暴論のように聞えるが、ふかく考えれば北国も木曾も東海も、その危険さは一つである。ましてやいま、天下に一国の領土もなく、一城の知己もない伊那丸に、安全な通路というものがあろうはずはない。
おなじ敵地をふむものなら、忍剣のいうとおり、徳川家の蟠踞する東海道こそもっとも小太郎山に近く、もっとも地理平明である。では――と相談がまとまって伊那丸は藺笠の緒をしめ、忍剣は禅杖をもち直し、やおら、そこを立ちかけたせつなである。
頭のいただきから、山嵐をゆする三井寺の大梵鐘が、ゴウーン……と余韻を長くひいて湖水のはてへうなりこんでいった。と、一しょに――これはそもなに? 逢坂山の森をかすめて、ピューッと凧のうなるがごとき音をさせつつ、斜めにひくく、直線にたかく、そしてゆるく、またはやく旋回してきたあやしいものがある。――オ、舞いめぐる空の怪物! それは丈余の大鷲だ。
そのとき、暮れなんとする春の夕空は、ひがし一面を紺碧に染め、西半面の空は夕やけに赤く、琵琶の湖水を境にして染めわけられたころあいである。空にかかった大鷲の影も、遠き夕照りをうけて金羽さんらんとして見えるかと思えば、またたちまち藍色の空にとけて、ただものすごき一点の妖影と化している。
「おお、ありゃクロだ! 竹童がたずねている大鷲だ」
禅杖をあげて忍剣が高くさけぶと、龍太郎と伊那丸も目をみはって、
「うむ! まさしくクロにそういない。寒松院の並木へのろしの音はきこえてきたが、竹童はあのまま帰らぬ。もしや鷲に乗って、追いついてきたのではあるまいか」
「そういえばだれか乗っているようす、――や、竹童だ!」
「なに竹童が乗っている。オオ、竹童――竹童ッ――」
とふたりが、声をあげて大空に呼んだが、鷲はひくく樹木のさきへふれるばかりにおりてきて、また、ツーッとあらぬ方角へそれてしまう。と、龍太郎が、なにを見いだしたかおどろきの声をはずませて、
「や、ふしぎな! あの鷲には、竹童ばかりでなく、ほかの童子も乗っている。たしかにふたりの人間が乗っている」
「龍太郎どのの目にもそう見えたか、わしもそう思ってふしぎに感じていたのだ。アレアレ、こんどは湖水のほうへいっさんにかけりだした――」
瞳をこらして見ていれば、さっさつたる怪影は、関の山から竹生島のあたりへかけて、ゆうゆうと翼をのばして舞うのであった。その鷲の背にありとみえた両童子こそ、まぎれもあらず、南蛮寺の丘からムシャブリついて飛びあがった、鞍馬の竹童――泣き虫の蛾次郎。
天空のふたりは、朝から今まで、たがいに、飲まず食わずである。
竹童は、蛾次郎を鷲の背から蹴おとさんとし、蛾次郎は、竹童をふりおとして、じぶんひとりで翼を占有しようとしている。
しかもそれは、寸分の休みもなく走っている鷲の背なかで、天空の上で――行われつつある争闘だ。一しゅんのゆだん、一分のすきでもあれば、鷲じしんにふりおとされるか、そのいずれかが見舞ってくる。朝から飲まず食わずでも、またこれからいく日、一滴の水を口にしないまでも、そんなことは念頭にない。まさに真剣以上の真剣だ。それに早くまいったほうが惨敗者だ。
「やい、蛾次郎!」
かけりゆく鷲の上で、こういう声は鞍馬の竹童。
「なんだ、竹童」
蛾次郎は、ただそれ下界へ蹴おとされまい一念で、鷲の頸毛にダニのようにたかっていた。
「いいかげんに降参してしまえ。そしてこの鷲をおいらに返してしまえ。そしたら命だけは助けてやる」
「いやなこッた。てめえこそ、低いところへ降りたときに、飛び降りてしまやがれ。そしたら命だけたすけてやる」
「こいつめ、人の口まねをするな。おのれ、今にどこかで突きおとしてくれるから見ていろよ」
「手をはなせば、人を落とすまえに、じぶんのからだがお陀仏だぞ。ざま見やがれ、唐変木、突きとばせるものならやッて見ろ」
「おのれきっとか」
「くそうッ!」
と、ののしり合った空のけんか。
両手をはなして組みあえば、蛾次郎のいう通り、鷲の上からふりすてられてしまうので、片手と片手のつかみ合い。
蛾次郎は猫のごとく爪をたって、竹童の頬ッぺたをひっかいたが、指にかみつかれたので、びっくりして手を引っこめ、こんどはいきなり対手の髪の毛を引っつかんだ。
「うむ! こんちくしょうッ」
竹童は拳骨をかためて、かれの脇のしたから顎をねらった。そして、二つばかり顔を突いたが、蛾次郎も命がけだ。くちびるを噛みしめて、なおも必死にこらえている。
「ちぇッ――強情なやつだ、降参しろ、降参しろ! まいったといわないうちは、こうしてくれる!」
竹童の鉄拳が、目といわず鼻といわず、ポンポン突いてくるので、さすがの蛾次郎も、だんだん色をうしなって顔色まっ青にかわってきた。これがいつもならば泣き虫の蛾次郎、本領を発揮してワアワア泣き声をあげているはずだが、かれも生死の境にたった以上、ふだんよりは相当につよい。タラタラと鼻血をながして、くちびるの色まで変えたが、まだ参ったとはいわないで、
「ちッ、ちッ、畜生ッ!」
というがはやいか、竹童の腰に差されてあった般若丸の刀に目をつけ、あっという間に、それを抜いてふりかぶった。
雲井にあらそう両童子を乗せて、鷲はいましも満々たる琵琶の湖水をめぐっている。
はてしもなく舞う大鷲の背なかに、はてしもなき両童子の争闘! 蛾次郎は、敵の剣を抜きとッてふりかぶり、竹童はその腕くびを引ッつかんで、やわか! とばかり般若丸の柄をもぎ取ろうとする。
黒毛ふんぷん、大地の上なら、まさに組ンずほぐれつである。
蛾次郎勝つか? 竹童勝つか。
雲井に賭した命と命! かれも必死、これも必死だ。
だが、大鷲の神経は、かかる火花をちらす活闘が、おのれの背におこなわれているのも、知らぬかのように、ゆうゆうとして翼をまわし、いま、比叡の峰や四明ヶ岳の影をかすめたかとみれば、たちまち湖面の波を白くかすって、伊吹の上をめぐり、彦根の岸から打出ヶ浜へともどってくる。――
さッきから三井寺の丘のふもとに立って、かたずをのんで見つめていた伊那丸と、忍剣、龍太郎の三人は、その巨影がありありと目前へ近づいたせつなに、
「あッ――竹童!」
と、異口同音にさけんだが、いかにかれの危難を知っても、それへ力を貸してやることもならず、鷲はまた、バッと山かげに突きあたって飛翼をかえし、広い琵琶湖の上を高くひくく舞いはじめた。
と思うと――一しゅんのまに、鷲はいような羽ばたきをして、糸目のからんだ凧のように、クルクルッと狂いはじめた。
両童子が背なかの上で、たがいに、斬らんとし、奪わんとしていた般若丸の切ッさきが、あやまッて鷲のどこかを傷つけたのにそういない。あッ――というまもなく、虚空の上から引ッからんだ二つの体が、フーッと真ッさかさまに落ちたなと思うと、琵琶湖のまン中に、龍巻でも起ったような水煙が、ザブーンと高くはねあがった。
しぶきの散ッたあとは、雪かとばかり白い泡がいちめんにみなぎっていた。そしてその泡沫が消えゆくにつれて、夕ぐれの青黒い波が、モクリ、モクリと、大きな波紋をえがいていたが、ジッと波の中をすかして見ると、電魚のような光がして、たッたいままで天空にあった竹童と蛾次郎、こんどは湖水の底で、なおもはげしくあらそっている。
時おり、黒い波を切ッて、ピカリピカリとひらめくのは、般若丸の光であった。やがて、竹童の力がまさったか、その刀をもぎ取ってブクリッ……と水面に浮かびだしてくると、その腰にからんで蛾次郎も、
「ア、ぷッ……」
と鮫のように水をふいた。
「えい、じゃまなッ」
と鞍馬の竹童は、般若丸を口にくわえるやいなや、蛾次郎をけって……サッと抜き手をきったが、かれはまた一方の足をかたくつかんで、死んでもはなすまいとした。
ふたたび三たび、浮いては沈み、浮いては沈みするうちに、さすがの竹童もきょくどに心身をつからして、蛾次郎に足を引かれたまま、ブクブクと深みへ重くしずんでしまった。
そしてついに、湖面へ浮かんでこなかったが、ややしばらくたつと、そこからズッとはなれた竹生島の西浦あたりに、名刀般若丸の血流しをくわえたまま失神している竹童と、その右足にからんでグンニャリした泣き虫の蛾次郎とが、くらげのごとく、フワリ、フワリ……と夜の湖水の波をよりつつただよっていた。
「これッ、だれかおらぬか、この渡場のものはおらぬか!」
もうトップリ日がくれた松本の渡船場へきてあわただしく、そこの船小屋の戸をたたいていたのは、加賀見忍剣であった。
「湖水に落ちておぼれたものがある、それを救ってやるいそぎの船を借りたい。これ、だれかおらぬか、船頭は!」
と、破れんばかり戸をたたいたが、なかにもれる灯影があるのに、いっこうこたえがないので、加賀見忍剣、禅杖をかかえて附近の波うちぎわを見まわしていると、三井寺のふもとから、おくればせに馳けてきた伊那丸と龍太郎も、はるかに見た竹童の危急をあんじて、
「忍剣、船はあったか」と、そこへくるなり声をいそがした。
「ふしぎなこと、……この渡船場に、一そうもそれが見あたりませぬ」
「まだ宵なのに、矢走(矢橋または八馳)へかよう船がないはずはない。そのへんの小屋に、船頭がいるであろう」
「さ、それをただいま、呼んでいるところでございますが」
「船頭もおらぬのか。――さては、さきに逃げた呂宋兵衛やその手下どもが、このあたりの船を狩り集めて、琵琶湖を渡ったものとみえる。アーふびんなことをいたした。いかに竹童でも、あの高い空から落ちて、はや日も暮れてしまったことゆえ、さだめし水におぼれたであろう……なんとか、助けてやる工夫はないものか」
主従三人、愁然と手をつかねて湖水の闇を見つめていると、瀬田川の川上、――はるか彼方の唐橋の上から、炬火をつらねた一列の人数が、まッしぐらにそこへいそいできた。
危難は竹童の身ばかりではない。
敵地に身をおいて、草木の音にも気をくばっている伊那丸主従は、それを見ると、ハッとして、和田呂宋兵衛がさかよせをしてきたか、膳所の城にある徳川方の武士がきたかと、身がまえをしていると、やがて、炬火の先駆となって、駒をとばしてきた一騎の武者。
「やあ、それにおいであるのは、武田伊那丸さまではございませぬか」
音声たからかに呼んで近づいてきた。
「おお、いかにもこれに渡らせらるるは、伊那丸君でおわすが、して、そこもとたちは何者でござる」
まえにたって龍太郎と忍剣、きびしくこういって油断をしずにいると、
「さては!」
とその騎馬武者三人、ヒラリ、ヒラリ、と鞍から飛びおりて、具足陣太刀の音をひびかせながら面前に立った。
「それがしは、福島市松の家来、可児才蔵」
こう名のると、つぎの武者が――
「拙者は、加藤虎之助の家臣、井上大九郎と申す」
「おなじく、木村又蔵でござる」
と、いずれもりっぱな態度で会釈をした。
そしてふたたび、なかの可児才蔵が、一歩すすんで、
「不意にかような戦場のすがたで、人数をひきいてまいりましては、さだめしお驚きとぞんじますが、じつはこれお迎えの軍卒、さっそく、あれへ用意いたしてまいった馬にお召しをねがいます」
「なんといわれる。伊那丸さまをお迎えにまいられたとか?」
意外な口上をきいて、忍剣と龍太郎が顔を見あわせていると、井上大九郎が語をついで、
「それは、桑名のご陣にある、秀吉公からの、直命でござる。殿のおおせには、このたび伊那丸さまのご上洛こそよきおりなれば、ぜひ一どお目にかかったうえ、ながらくおあずかりいたしている品を、手ずからお返し申したいとの御意、なにとぞ、ご同道のほどくださいますように」
「はて、不審なおおせではある? ……」
伊那丸は優美な眉をひそめて、
「べつにこの方より、秀吉どのへおあずけいたした品もないが……」
「イヤ、たしかに、大事な品をおあずかりしているとおおせられました。そのために、桑名攻めの陣中から、われわれどもが、騎馬をとばしてお迎えにまいったわけ」
というと、加賀見忍剣、もしや巧言をもって、若君を生けどろうとする秀吉の策ではないかと、わざと、鉄杖をズシーンと大地へつき鳴らして、
「ではおうかがいいたすが、桑名攻めの戦場にあられたかたがたが、どうして、ここへ伊那丸さまがお通りあることを、かように早く承知めされたのじゃ」
「その不審はごもっともであるが、じつはきょうの午の刻まえに、南蛮寺の番人和田呂宋兵衛をはじめその他の者が、ちりぢりばらばらとなって、桑名のご陣へかけつけてまいりました」
「ウム。勝頼公を差したてよとは、アレも、秀吉どのの指図であろうが」
「都に風聞の立ったとき、その在所をしらべよとはおいいつけになりましたが、罪人あつかいにして、桑名に護送することなどは、まッたく、秀吉公のごぞんじないこと。――しかるに呂宋兵衛、桑名のご陣へまいって、いろいろと差出がましいことを申しあげたため、かえって秀吉公のお怒りをうけて、そくざに、ご陣屋を追いはらわれ、南蛮寺の番衛役も召しあげられ、この後は、京都へ立ち入ることはならぬと、手下のものまで追放になりました」
まことはおもてにあふれるもの。
使者三名の口上には、その真実味がこもっていた。
では、筑前守秀吉は、かならずしも、悪意があって勝頼のゆくえをたずねさせたのではなかろう……と伊那丸も心がとけ、忍剣や龍太郎も、さらばと、その意に従うことになった。
いつか、一同のまわりには、松明をあかあかと照らした軍兵が五、六十人、ズラリと輪形になって陣列を組んでいた。
「それ、用意のみ鞍をさしあげい」
と、木村又蔵が合図をすると、おッといって馬廻りの武士、月毛、黒鹿毛の馬三頭のくつわをならべ、馬具の金属音をりんりんとひびかせて、三人の前へひいてきた。と――伊那丸が、
「ごめん――」
と、目礼をして、まッ先に、白駒の金鞍にヒラリと乗る。つづいて忍剣と龍太郎、波に月兎の鞍をおいた黒鹿毛の背へヒラリとまたがって、キッと手綱をしぼり、たがいにあいかえりみながら、
「裾野以来、こうして馬上になるのは、久しぶりだなあ……」という風に微笑しあった。
やがて、まッくらな瀬田の唐橋、小橋三十六間、大橋九十六間を、粛々とわたってゆく一行の松明が、あたかも火の百足がはってゆくかのごとくにみえた。
夜も昼も、伊勢の空は、もうもうと戦塵にくもっていた。
七万の兵をひきいて、滝川攻めにかかった秀吉は、あの無類な根気と、熱と、智謀をめぐらして、またたくうちに、亀山城をおとし、国府の城をぬき、さらに敵の野陣や海べの軍船を焼きたてて、一益の本城、桑名のとりでへ肉迫してゆく。
それが、天正十一年、三月上旬のことである。
春となれば、焼蛤の汐のかおりに、龍宮城の蜃気楼がたつといわれる那古の浦も、今年は、焼けしずんだ兵船の船板や、軍兵のかばねや、あまたの矢や楯が、洪水のあとのように浮いて、ドンヨリした赤銅色の太陽が、その水面へ反映もなく照っていた。
陸をみれば、泊、八幡、白子の在所在所、いずれをみても荒涼たる焼け原と化して、あわれ、並木のおちこちには、にげる途中でなげすてた在家の人の家財荷物が、うらめしげに散乱して、ここにも、斬ッつ斬られつした血汐や槍の折れや、なまなましい片腕などがゆくところに目をそむけさせる。
すると、この酸鼻な戦場の地獄へ、血をなめずる山犬のように、のそのそとウロついてくる人影がある。
「お、こいつの差している刀はすばらしい」
「しめた、ふところから金がでたぞ」
「やあ、この陣羽織は血にもよごれていねえ。ドレ、こっちへ召上げてやろうか」
ざわざわと、こんなことをささやきながら、あなたこなたにたおれている武士の物の具や持ち物を剥ぎまわっているのだ。
ああ戦国の餓鬼! 戦場のあとに白昼の公盗をはたらく野武士の餓鬼! その一群であった。
「おい! もう大がいにしておけ。あまりかせぎすぎると、こんどは道中の荷やッかいになって、釜をかぶって歩くようなことになるぞ」
すると、この野盗の頭とみえて、ふとい声が土手の上からひびいた。ヒョイとそこをふり仰ぐと、臥龍にはった松の木のねッこに、手下の稼ぐのをニヤニヤとながめている者がある。
「もうたくさんだ、たくさんだ。そう一ぺんに慾ばらねえでも、ちかごろは、ゆくさきざきに戦のある世の中だ。まごまごしているまに、秀吉の陣見まわりでもきた日には大へんだ」
また、こういって、そこにスパスパ煙草を吸っていたのは、すなわち、和田呂宋兵衛、ほかの二人は蚕婆と丹羽昌仙だ。
これで事情はおよそわかった。
秀吉の御感にいって、出世の階段をとびあがるつもりでいた勝頼探索の結果が、あの通りマズイはめとなったうえに、命令以上なでしゃばりをやッたので、ついに、軍律をもって陣屋追放をうけたというから、そこで呂宋兵衛は、もちまえの盗賊化して、これから他国へ逐電するゆきがけの駄賃とでかけているところであろう。
いくら捨て鉢になったにしろ、よくこんな、残忍な盗みができることと思うが、根を考えると、富士の人穴に巣をかまえていた時から、和田呂宋兵衛、このほうが本業なのだ。
「頭領、思いがけなく、金目なものがありましたぜ」
と、二、三十人ほどの手下が、そこへ、剥ぎとった太刀や陣羽織や金をつんでみせると、呂宋兵衛は土手の上からニタリと横目にながめて、
「そうだろう。このへんに討死しているやつらは、おおかた滝川一益の家来で、ツイきのうまでは、桑名城でぜいたく三昧なくらしをしていた者ばかりだからな。……う、そりゃアとにかく、もう南蛮寺も秀吉のやつにとりあげられてしまったから、京都へもどることはできねえ。いッたいこれからどこへ指して落ちのびたものだろう?」
と、昌仙と蚕婆のほうに相談をもちかけた。
「また、富士の人穴へかえろうじゃないか」
と、蚕婆は常に思っていることを、このさいにもちだして、あの曠野の棲みよいことや、安心なことを数えたてた。
「そうよ、もうほとぼりもさめたから、久しぶりで、富士のすがたも拝みてえな」
「だが――それはまだよろしゅうござるまい」
といったのは丹羽昌仙。野武士のなかにいても、軍師格なだけに、この者はすこし厳めしくかまえこんでいる。
「なぜだい?」
「なぜと申しても、小太郎山の砦には、伊那丸の幕下、小幡民部、また、頭領を親の仇とねらっている咲耶子などが、きびしく裾野を見張っております」
「ウームなるほど。すると、おれがまた人穴城へ入りこむと、さっそく、小太郎山からやつらがドッと攻めかけてくるわけだな」
「火をみるよりも明らかな話でござる。まず、もうしばらく、こッちの力がじゅうぶんにととのうまで、裾野へはいるのは、見合わせたほうがいいようにぞんじます」
「じゃアひとつ、北国路へでもいって、あの敦賀津の海に紅がら帆をおッ立てている、龍巻の九郎右衛門と合体して、こんどは海べのほうでも荒してやるか」
「イヤイヤ、それもダメなことで」
と、昌仙はいう下からかぶりをふって――
「もうそろそろ北国街道の雪も解けてまいったはず、春となれば、秀吉と、弔合戦をやるべく意気ごんでいた柴田勝家が、北ノ庄から近江路へかけて、ミッシリ軍勢をそなえているでございましょう」
「じゃ、そッちへもいけねえとしたら、いったいどこへ落ちのびたらいいのだ」
「まず、いまのところしずかなのは、東海道でございますな」
「フーン。すると徳川家の領分だな」
「さよう。近ごろ家康と秀吉とは、たがいに、珠をあらそう龍虎のかたち。その仲の悪いところをつけこんで、こんどは家康のふところへ食いいる算段が、第一かと考えます」
「そううまくこっちの註文にハマるかな」
「いくら狡獪な家康でも、策をもって乗せれば、乗らぬものでもございますまい、じつはその用意のために、早足の燕作を物見にやッてありますゆえ、やがてそろそろここへ帰るじぶん……」
と、話ついでに、のびあがって向こうを見ていると、オオその燕作であろう、竹ノ子笠に紺無地の合羽、片袖をはねて手拭で拭きふき、得意な足をタッタと飛ばして、みるまにここへ駈けついた。
「やあ、ごくろう、ごくろう」
と丹羽昌仙、土手の上から飛びおりて、
「して、どうだッた。伊那丸のようすは?」
「やッぱり、東海道から裾野へはいって、それから小太郎山へかえる道順をとるらしゅうございます」
と、さすがに早足、あれほど韋駄天と走ってきながら息もきらさずこう答えた。
「そうか、やッぱりこっちの想像どおり、思うつぼにハマったわい」
「ところが昌仙さま、あまり思うつぼでもありませんぜ。というなあ、秀吉の指図で、瀬田まで迎えにでやがった軍勢があるんで」
「ほ……秀吉が? フーン猿面め、じょさいないことをやりおって、うまく伊那丸を抱きこもうという腹だな。だがよいわ、まさかに家康の領分まで、その軍兵がクッついてもいけないだろう」
「昌仙――」
と呂宋兵衛もズルズルと下へおりてきて、
「徳川家へ取りいる算段とは、やッぱりなにか、その伊那丸をおとりにして? ……」
「こいつを利用しないのは愚でござる。武田伊那丸を心のそこから憎みぬいて、あくまでもかれを殺害してしまいたいと願っているのは、秀吉よりは家康でございますからな。また伊那丸にとっても、かれは、父の勝頼をほろぼした仇。どッち道、このふたりのあいだは生涯の敵同志でおわるでしょう。――ところが、こんど伊那丸が小太郎山へかえるには、どうしても、その家康の城下を通らねばなりますまい。さア、おもしろいのはここの細工で、そのさきにわれわれが浜松城へまいって、なにかのことを教えてやったら、あのずるい家康も、眼をほそめて、うれしがるにきまッております」
「名策! 名策!」
呂宋兵衛、手を打ってよろこんだ。
「そいつアいい考えだ。ではさっそく、浜松へ乗りこもう! だがなんでも慾得ずくだ、無条件じゃいけねえぜ」
「むろん、伊那丸を討ったあかつきには、こうしてくれという条件もつけてのうえに」
「富士の裾野は徳川領だから、あのへん一帯から人穴を、おれの領分としてくれりゃありがたいが」
「家康が夢にまでみておそれている、伊那丸がないものとなれば、それくらいなことは承知しましょう」
「天下はひろい! もう草履とりあがりの猿面なんざア、くそでも食らえだ。ワハハハハハ」
にわかに前途を明るくみて、小心な呂宋兵衛が、こう元気づいていると、しきりに向こうを見はっていた早足の燕作が、
「あッ、いけねえ! もうきやがッた」
と、いかにも狼狽したらしくさわぎだした。
「な、な、なんだ、なにがきたンだ」
「ゆうべ瀬田から伊那丸をむかえてきた、木村又蔵、可児才蔵、井上大九郎なんていうやつの軍兵で」
「そいつア大へんだ、ヤイ、てめえたち、はやく獲物を引ッかついで浜べのほうへ姿をかくせ! オオ蚕婆、おまえがさッき目をつけておいた船があッたな、船で逃げろよ船で――。燕作燕作、向こうだ向こうだ、蚕婆と一しょにいって、はやく船のしたくをしていろい」
まるで、突風に見まわれた紙屑か、白日に照らされた蜘蛛の子のように、クルクル舞いをして呂宋兵衛とその手下ども、スルスルと土手草へとびついて、雑木林の深みへもぐりこんだかと思うと、木の葉ばかりをザワザワとそよがせて、首もみせずに海べのほうへ逃げぬける。
二里さきには桑名の城が見える。
亀山の出城、関、国府の手足まで、むごたらしくもぎとられた滝川一益、そこに、死にもの狂いの籠城をする気で、狭間からはブスブスと硝煙をあげ、矢倉には血さけびの武者をあげて、合図おこたりないさま、いかにも悲壮な空気をみなぎらしている。
その城とは、三里弱の距離をおいて、水屋ノ原にかりの野陣をしいているのは、すなわち秀吉方の軍勢で、紅紫白黄の旗さしもの、まんまんとして春風に吹きなびいていた。
きょう――あかつきの半刻ばかりの間に、バタバタとここへ集団した野陣であるから、板小屋一ツありはしない。
ところどころに鉄柱を打ちこみ、桐紋の幔幕をザッとかけたのが本陣であろう。今――このかげから四、五人の軍卒、鎖具足に血のにじんだ鉢巻をして、手に手に鍬や鋤をひッさげ、バラバラと陣屋へ駈けだしてきた。
れんげがいっぱい咲いている。
やわらかい若草が、二、三寸ほどな芽をそろえている野原を、血汐だらけな武者わらじがズカズカと踏ンづけてひとところへかたまったかと思うと、鋤を持ったものが、サク、サク、サク、と四角い仕切りをつけてゆく。と、ただちにそのあとから、鍬をふりかぶッた方が戦をするような力で、線のうちがわを、パッ、パッ、パッと土をかきだして、みるまに穴を掘ってしまった。
と――こんどは、その穴へあつい桐油紙を一面にしき、五寸かすがいでふちを止めて、ドウッと水を入れはじめる。
そのまに他のものが、まッ赤に焼けた金の棒を持ッてきては、ジュウッ、ジュウッ……とその中へ突っこむうちに、いつか、中の水は湯にかわって、モクリと白い湯気を立てた。
「できた――」
といって、軍兵たちは、むこうの陣場へかくれてしまった。
何ができたのだろう?
すると、ややあってから、一方の幕をサッとはらって、羽柴筑前守秀吉、ズカズカと大股にあるいてきた。
「殿、――しばらく、ただいまお支度を設けます」
あわてながら追っかけてきたのは、秀吉の脇小姓、朝野弥平次、加藤孫一。
抱えてきた楯を、バタバタと四、五枚そこへ敷きならべて、なおも、あとから運んできたのを、まわりへ立てようとすると、秀吉手をふって、
「うっとうしい」と、うしろ向きになった。
「はッ……では」
と陣礼儀をして、ふたりがそこをさがると、秀吉は鎧草摺をガチャリと楯の上へ投げすてて、まッぱだかになった。
そして、一片の布をもって、前に軍兵がつくっていった、野陣の野風呂へドブリと首までつかりこんだ。
「ウーム……ウウム……」
と、秀吉、湯のなかに首まではいって、さも心地よげにうなっていたが、ザブリと一つ顔をあらって、
「ああ、よい湯かげん――」
と、湯穴のフチにしいてある楯の上に腰かけ、両の足だけを、ダラリとなかへブラさげていた。そしてときどき無意識にジャブリジャブリとさせながら、
「智恵じまんな一益も、ゆうべは定めしおどろいたろう……」
苦笑をうかべて、桑名城を観望している。
そうだ。昨夜は滝川一益が、ここから五、六里離れたところの白子の陣へ夜討ちをかけた。秀吉は、きゃつめかならずこうくるな――と手を読んでいたから、四方の平地や森の人家のかげに、堀尾茂助、黒田官兵衛、福島市松、伊藤掃部、加藤虎之助、小川土佐守など配置よろしくしいておいて、左近将監一益が枚をふくんで寄せてきたところを、逆に、ワ――ッと鬨の声をあげさせて、敵が森へ逃げんとすれば森の中から、海辺へはしれば海の中から、金鼓を鳴らして追いまわし追いまわし、とうとう桑名城まで袋づめに追いこんだ。
これは兵法でいう八門遁甲。諸葛孔明が司馬仲達をおとし入れた術でもある。秀吉、それを試みて、滝川一益をなぶったのだ。
「まずこれで伊勢は片づけた、――つぎには柴田権六か、きゃつも、ソロソロ熊のように、雪国の穴から首をだしかけておろう……」
敵城を前にして、すッかり野風呂であたたまった秀吉は、こうつぶやきつつ、まッ赤になった下ッ腹へ、ウン、と、一つ力をいれて、いかにも愛撫するごとくへそのまわりをなではじめた。
なでると黒い垢がボロボロ落ちた。
それもそのはず、この二月十日に七万の大軍を三道にわけて、都を発してきて以来の入浴で、寝ぬ日もきょうで三日つづく。しかし、垢はでるがいねむりはでない。かれは精力の権化であった。
「どれ……上がろうか」
湯の中に立って、手ばやく上半身を拭きはじめると、オオ、その時だ! れんげの花へピタリとからだを伏せて、蛇のようにスルリ、スルリ……とはってきた異形の武士が、寝たまま片腕をズーッと伸ばして、種子島の筒先を、秀吉の背骨へピタリとねらいつけた。
火縄をプッと吹いたようす――、ドーンと弾けむりがあがるかと思うと、せつなに、パッとはねかえった異形の武士は、串にさされた蛙のように、九尺柄の槍に胸板をつきぬかれ、しかもその槍尖はグザと大地につき立っていた。
「孫一、やりおったの」
それをニヤニヤ笑ってながめながら、秀吉、足を拭いて楯の上にあがった。加藤孫一、すがたは見せないが、向こうの楯のかげで、
「は、一益のまわし者と見ましたので」と答えた。
「イヤちがう。ありゃおそらく、徳川家の隠密組であろう。家康もなかなか人が悪いからの。あとでよく死骸のふところをあらためてみい」
ところへ、バタバタと早運びの足音がひびいてきた。フト見ると、加藤虎之助、はるかにはなれて具足の膝を地につかえる。
「お上」
「ウム、虎之助」
「近江路へやりました井上大九郎、その他の者、ただいま武田伊那丸をご陣屋まで召しつれましたが」
「や、帰ってきたか。ウム、伊那丸も同道して。――そうか。では表陣屋西幕のうちに床几をあたえて、鄭重におとりなし申して置くがよい」
これだけの言葉をはくうちに、秀吉は、肌着小手脛当をピチンと着けて、皆朱碁石おどしの鎧をザクリと着こみ、唐織銀文地に日月を織りうかした具足羽織まで着てしまった。
そして鎧のアイビキ紐、草摺のクリシメ紐、陣太刀の緒と、端からキチキチむすんでゆく指の早さといったらない。まるで神技と思わるるくらいだ。もっとも秀吉ばかりでなく、およそ戦国の世に男とうまれ武士の子と生まれたほどの者は、みな、陣太鼓の音が三ツ鳴るあいだに、具足着こみのできるくらいの修養を、ふだんのうちにつんでいた。
「孫一」
武将いでたちとなると、秀吉の威風、あたりをはらって、日輪のごとき赫々さがある。
「はッ、御意は?」
「右陣にいる福島市松のところへ伝令せい! ただ今、武田伊那丸が見えたによって、あずけておいた一品、そっこくここへ持参いたせと」
「は、かしこまりました」
ヒラリと溜りへかえった加藤孫一、使番目印の黄幌に赤の差旗を背につッたて、馬をあおって、右陣福島市松のところへ馳けとばした。
伊那丸から秀吉があずかったという品、――それは果たしてなんであろうか?
伊那丸は与えられた床几によって、秀吉のくるのを待っていた。右には忍剣、左には龍太郎が烱とした眼をひからせている。
張りめぐらした幔幕のそとには、槍の穂さきがチカチカと霜のごとくうごいていた。やがて、加藤虎之助があらわれて、いんぎんに礼をして、秀吉の大将座をもうけ、その脇にひかえていると、順をおって堀休太郎、蜂須賀小六、仙石権兵衛、一柳市介などの、旗本がいならび、やがて幕をはらって、秀吉の碁石縅の姿がそこへあらわれた。
「おお、伊那丸どのな――」
こういいながら秀吉は、ズカリと前へよってきた。その満顔の笑みをみると伊那丸も旧知のような気がして、笑みをもって迎えずにはいられなかった。
「まずもって、あっぱれなご成人ぶりを祝福いたす。つねにうわさはきいておるが、イヤ、さすがは機山大居士の御孫、末たのもしい御曹子じゃ……」
みじんのわだかまりもなく、胸をひらいて手をつかんだ。そして、その手をふって明るく笑った。あたかも肉親の邂逅のように。
「さて、眼前にまだ一攻めいたす桑名城もござるゆえ、ゆるりとお話もいたしかねるが、お迎えもうしお返しせねばならぬ一品。おじゃまではあろうなれど、小太郎山のとりでへ、土産としてお持ちかえり願いたい」
床几になおって、羽柴秀吉、こういうと手の軍扇を膝にとってかまえながら、
「市松! 市松!」とおごそかに呼ばわった。
「はッ」
という幕かげの答え。主命によって、いまそこへ、控えたばかりの福島市松、一箇の鎧櫃をもって、秀吉と伊那丸の中央にすえた。
「伊那丸どの、お返し申す品はこのなかにある。すなわち、それは武田家のご再興になくてかなわぬ什宝、御旗楯無の名器でござりますぞ」
「や、ではこの中に、御旗楯無の宝物が?」
「秀吉の手にあるわけは、あの和田呂宋兵衛めが、人穴城におったころ、京へ売りつけにきた物をもとめておいたからでござる。もとより、もとめる時からこの秀吉には用のない品、いつかそこもとの手へ返してあげたいと念じていたのじゃ、どうぞ、あらためて貴手へお受け取り願いたい」
武田家無二の什宝――御旗楯無。それこそは、伊那丸にとってなによりなものである。裾野の湖水へしずめて隠しておいた後、それが何者かに盗みさられて、呂宋兵衛の手で京都にはこばれ秀吉の手からふたたび伊那丸へ返ってきたのは、これ武田家再興の大願がなる吉兆か――と、かれはなつかしくそれをながめ、また、秀吉の好意を謝さずにもいられない。
二言三言、その礼をのべている時だった。なにごとか、にわかに、陣々に脈々たる兵気がみなぎってきたかと思うと、本陣へ京都からの早馬の急使がきて、秀吉に、時ならぬ急報をつげた。
いわく、
北国北ノ庄の柴田勝家、盟友一益の桑名の城危うしと聞いて、なお残雪のある峠の嶮をこえ、佐久間盛政を先鋒に、上部八風斎を軍師にして近江へ乱入し、民家を焼き要害のとりでをきずいて、作戦おさおさおこたりない――と。
その飛状を手にした秀吉は、あわてもせず、莞爾として、
「では残りおしいが、伊那丸どの、また会う機会もあるであろう。その宝物の御旗、その楯無の鎧が、かがやく日をお待ちするぞ」
「ご芳志、ありがたくおうけいたします」
「おお、それより小太郎山へお帰りあるは、途中さだめし多難であろう。秀吉の部下五、六十騎おかし申そう」
「イヤ、徳川領を通るのがおそろしゅうて、秀吉どののさむらいを借りてきたと申されては……」
「ウウム、名折れといわるか」
「多難は旅の道ばかりではございませぬ」
「そうじゃ。天下は暗澹――いずれ、光明の冠をいただく天下人はあろうが、その道程は刀林地獄、血汐の修羅じゃ。この秀吉のまえにも多難な嶮山が累々とそびえている」
「ましてやおさない伊那丸が、わずかな旅路を苦にしてどうなりましょうか」
「愉快なおことば、秀吉もその意気ごみで、ドレ北国の荒熊どもを、一煽りに蹴ちらしてまいろうよ」
さらば――と別れて、秀吉はたって作戦の用意にかかり、伊那丸は、はからずも手にもどった御旗楯無の具足櫃を忍剣の背に背おわせて、陣のうらかられんげ草のさく野道へ走りだした。
ワーーッという武者押しの声をきいた。
小手をかざして桑名の方をみると、はやくも秀吉の先陣は、ふたたび戦雲をあげて孤城奪取の総攻めにかかり、後陣は鳥雲のかたちになって、長駆、柴田との迎戦に引ッかえしてゆく様子――。
その戦雲をくぐり、敵味方の乱軍をぬけて、伊那丸主従は、やがて名古屋から岡崎へとすすんでいった。――ああ、いよいよあと十数里で、徳川家康の本城、浜松の地へ入ることになる。
さきに、奸策をえがいていた呂宋兵衛が、こんどは、狡智深謀な家康と、どう手を組んでくるだろうか。
伊那丸のまえには、いまや、おそるべき死の坑穴が何者かの手で掘られている。
死といえば、夜の湖水にただよっていた、鞍馬の竹童と泣き虫の蛾次郎。あのふたりの死はどうなっただろう。
死はどうなるものでもない。
死は絶対であり永遠である。
琵琶湖のなかにひとつの島がある。本朝五奇景のうちに数えられている竹生島。
島の西がわ、天狗の爪とよぶ岩の上に、さっきからひとりの神官、手に笙の笛をもち、大口の袴をはき、水色のひたたれを風にふかせて立っている。
そこから小手をかざしてみると、うッすらとした昼霞のあなたに、若狭の三国山、敦賀の乗鞍、北近江の山々などが眉にせっしてそびえている。そして、はるか柳ヶ瀬のおくから、この琵琶湖へ一冽の銀流をそそいでくる高時川のとちゅうに、のッと空に肩をそびやかしているのは、賤ヶ岳の巨影で、そのうしろに光っているいちめんの明鏡は余呉の湖水と思われる。
と、――その神官の眼が、そこにピタリと吸いついて時ひさしくたたずんでいるうちに、賤ヶ岳から柳ヶ瀬にわたる方角に、モクリと黄色いけむりがあがった。
見るまに、それを一手として、つぎには、大岩山、木之本附近、岩崎山のとりでとおぼしきところから山火事のような黒煙がうずをまいて、日輪の光をかくした。と思うと、余呉の湖水や琵琶の大湖も、銀のつやをかき消されて、鉛のような鈍色にかわってくる。
「ああ、敗れた!」
神官は手にもてる笙のような声でさけんだ。
「賤ヶ岳のとりでも落ちた――柳ヶ瀬の陣も総くずれだ――柴田勢はとうとう秀吉のためにほろぼされる運命ときまった……」
いかにも悲痛な色をうかべた。
神官のひとみには、かすかな涙の光さえみえる。
そして、亡国の余煙をとむらわんとするのか、おがむように笙を持って、しずかに、その歌口へくちびるをあてた。
壮な音色、悲愁な叫び、または

「宮内さま、――菊村さまア!」
すると、その笙の音をたよりにして、岩々たる島の根を漕ぎまわってくる小船があった。
呼ぶこえ、櫓の音。船のなかにはひとりの若い漁師が、櫓柄をにぎって、屏風のような絶壁をふりあおいでくる。
「おう、源五か」
天狗の爪からのびあがって、こう答えた神官は、すなわち菊村宮内である。松の枝に手をささえて、波うちぎわを見おろした。
「宮内さま、おたのみをうけまして、すっかり陸のようすをみてまいりました」
「ごくろうごくろう、さきほどから、その返辞を待ちかねていたところ、どうであった戦の結果は」
「伊勢の陣から引っかえした秀吉勢は、おそろしい勢いで、無二無三に北国街道をすすみ、堂木山に本陣をおいて、柴田勢を追いちらし、北ノ庄まで馳けすすんでゆくというありさまです」
「ウーム、そうか、北国一の荒武者といわれた、佐久間盛政もそれを食いとめることができなかったか……」
「佐久間勢も、一どは秀吉方の中川清兵衛を破ったそうですが、丹羽長秀が不意の加勢についたため、勝軍は逆になって、北国勢は何千という死骸を山や谷へすてたまま、越前へなだれて退いたといううわさです。このあんばいでは、やがて北ノ庄の柴田勝家も、近いうちには秀吉の軍門にくだるか、でなければ生くびを塩づけにされて凱旋の土産になってしまうだろうと、もっぱら風聞しております」
「おうわかった――北国勢の敗軍であろうとは、ここからながめても、およそ見当がついていた。源五、ごくろうだった。また用があったら笙を吹くから……」
力なくこういうと、神官の菊村宮内は、天狗の爪からすべりおちるように、よろよろと島のなかへすがたをかくしてしまった。
島にはつつじ、山吹、連翹、糸桜、春の万花がらんまんと咲いて、一面なる矮生植物と落葉松のあいだを色どっている。宮内のすがたは、その美わしい自然に目もくれないで、しおしおと細道をたどっていった。
かれの直垂の袖をかすめて、まッ黄色な金糸雀がツウ――と飛んだ。
と、その向こうには、神さびた弁天堂の建物が見えた。なお、あたりには、宇賀の御社、観音堂、多聞堂、月天堂などの屋根が樹の葉のなかに浮いている。
「宮内さま、もうお午でございます」
社の内から走りだしてきた巫女の少女が、かれの姿をみるとこう告げた。だが、宮内はゆううつな顔をうつむけたまま、
「う、お午か。やめよう、今日はなんだか食べたくない」
とかぶりをふった。ちいさい巫女はそれを追って、
「ですけれど、あの、可愛御堂のなかにいるお方へは、いつものように、お粥を作っておけとおっしゃったので、もうできておりますが」
「お、忘れていた。じぶんの心がみだされたので、ツイそのことを忘れていた。さだめしお腹がすいていよう」
「じゃ、いつもの通り、あそこへ運んでまいりましょうか」
「あ、両方へ同じようにな」
宮内は急にいそぎ足になって、境内のかたすみにある六角堂へ向かっていった。一間の木連格子が、六面の入口にはまっていた。
その一方の錠をあけて、宮内はやさしい声をかけた。うすぐらい御堂の中には、蒲団をかぶって寝ている少年のすがたがある。――ふと見ると、それは泣き虫の蛾次郎だった。
「どうだな、蛾次郎さん」
と宮内はそこへしゃがみこんで、体の、容体をききはじめた。そのようすをみると、かれはしばらく病人となって、この可愛御堂に閉じこもっていたものとみえる。
だが、蛾次郎は、蒲団のなかにねてこそいるが、もうあらかたご全快のていとみえて、宮内の顔をみるや否、ムックリとそこへ起きあがった。そして、
「おじさん、ひどいじゃねえか! どうしたンだいッ」
とどなりつけた。
病人にどなりつけられたので、宮内も少しびっくりしたが、二十日あまりもこの蛾次郎の世話をやいて、いまではすッかりその性質をのみこんでいるから、かくべつ怒りもしなかった。
「たいそうな元気じゃの。けっこうけっこう、それくらいな勢いなら、もうじきに元の体になるだろう」
「なにをいッてやがるンだい」
蛾次郎は不平の口をとンがらして、
「もうとッくの昔に、このとおりまえの体になっているんじゃないか。それを、いつまでこんな中へほうりこんでおいて、だしてくれないッて法があるかい。え、おじさん――どこの国へいったって、そんなばかな法はないぜ」
「そうかな、それは悪かったよ」
と、宮内は、どこまでも好人物らしく笑っている。
「おまけに、笙ばかり吹いていて、まだお午の飯も持ってきてくれやしねえ。ちぇッ、おらア腹がへってしまった」
「いまじきに持ってきてあげるから、おとなしくしておいでなさい」
宮内はこうなだめておいて、そこの扉をピンと閉めたかと思うと、こんどは、つぎから二ツ目の木連格子の錠をあけた。と、みょうなことに、この中にも蛾次郎のところと同じように、一組の夜具が敷きのべてあって、その蒲団の上にも、やはりひとりの少年がいる。
だが、これは向こうの蛾次郎のごとく不作法ではなくいかにもものしずかに、いるかいないかわからぬようにしてすわっていたが、木連格子がギーッと開いたので、顔をさし入れた菊村宮内と目を見あわせ、だまって、頭をさげた。
「うっかりして、昼の食物をおそくいたした。さだめし空腹になったであろう」
「どういたしまして、それどころではございません」
こういった者こそ、かの鞍馬の竹童なのである。
その日からおよそ二十日ほどまえ、海月のようにただよって、湖水におぼれていた竹童と蛾次郎が、いまなお、この竹生島の可愛御堂という建物のなかに生をたもっているところをみると、あの夜か翌朝、島の西浦で、弁天堂の神官菊村宮内の手で救いあげられたにそういない。そして、柔和で子供ずきな宮内の手当が厚かったために、こうしてふたりとも、もとのからだに近いまでに、健康をとりもどしてきたのだろう。
「ありがとうぞんじます。もう体もよほどよくなりましたから、けっして、ごしんぱいくださいますな。そして、わがままのようですが、どうぞわたくしのからだを、この島からおはなしなすッてくださいまし」
竹童が、こういったものごしを見るにつけても、宮内は、向こうにいる蛾次郎とこの少年とは、なんという性格の違い方だろうと思った。
だが、かれは、どッちも憎いと思わなかった。竹童が好きなら、蛾次郎も好きだった。イヤ、菊村宮内という人物は、すべての子供――どんな鼻垂れでもオビンズルでもきたない子でも、子供と名のつく者ならみんな好きだった。
それがために、かれは武士の身分をすてて、この竹生島へ、可愛御堂という六角屋根の建物をたてた。
今日は東の国、あすは西の国と、つぎからつぎへ戦いがあってやまない世の中。――その兵火のたびごとに、武士も死ねば女も死ぬ百姓も死ぬ、まして、たくさんな子供のたましいも犠牲になる。
菊村宮内は、もと柴田勝家の家中でも、重きをなしていた武将であったが、そういう世のありさまをながめると、まことに心がかなしくなった。で、主君の勝家から暇をもらって、いくたの戦場をたずね、やがて竹生島の弁天の社にそって、この可愛御堂を建立した。
「弁財天は母である。そしてわしは不運なおおくの子供たちの慈父になりたい」
こういう願いをもっている。
ところが、さきごろから、琵琶湖の附近にも、戦の黄塵がまきあがった。すなわち、伊勢の滝川一益をうった秀吉が、さらにその余勢をもって、北国の柴田軍と、天下分け目の迎戦をこころみたのである。
不幸な子供の魂をとむらいながら、可愛御堂の堂守で生涯をおわろうと思っていた菊村宮内も、むかしの主人であり、ふるさとの兵である北国勢が、すぐ向う岸の木之本でやぶれ、賤ヶ岳から潰走するありさまを見ると、なんとなく心がいたんで、いっそのこと、島をでてふたたび主君の馬前に立とうかとさえ――ツイさっきも迷ったのである。
しかし、それもそれだが、まったくみじめな、乱世の子供たちの慈父となる生涯も、けっして悪い目的ではない。ことに、いま、この島には、じぶんが心をそそいで救いかけている竹童という少年、蛾次郎という少年がいる。
もう、からだはなおったが、からだだけなおしてやっただけでは、まんぞくとはいえない。ふたりの境遇や、心までも、幸福に健全にして、そして、この竹生島をだしてやりたいと、かれは願った。
でいまここに、蛾次郎の顔をみ、竹童のすがたを見ると同時に、宮内は、湖をへだてたかなたの戦のことも、きれいに心頭から忘れさって、まことに慈父のような温顔になっていた。
「この島からだしてくれといわれるか?」
「はい」竹童はキチンとすわって、そしてすなおに、
「わたくしには、一刻も忘れてはならない主君がありますし、それに、だいじな鷲のゆくえもさがさなければなりませんから……」
「おお、おまえは主人持ちか。してそのお人という者の名は?」
「ここでは、お話し申されません。ですが、お師匠さまの名まえなら、打ちあけてもかまわないでしょう。わたくしは鞍馬山の僧正谷にいる果心居士先生の弟子のひとりでございます」
「ウム、有名な、果心居士のお弟子であったか。なるほど、それならものの聞きわけもよいはずだ。……ではおまえに一つのたのみがあるが」
「はい、命をたすけられたご恩人」
「なんでも聞いてくれるというのか」
「できることならきっとききます」
「ほかではないが、おまえと一しょに、湖水におぼれていた蛾次郎な」
「ああ、あの蛾次郎がどうかしましたか」
「どうも、ひどく仲が悪そうだが、なんとかわしの顔にめんじて、これからさき、仲をよくしてくれないか」
「…………」
竹童はだまって下を向いてしまった。
「でないと、ふたりをこの御堂からだしてやることができない。せっかくわしが助けてあげても、この塔をでるとたんに、檻をでた犬と猿のように、また血まみれになったり、取ッ組んだりされては、わしの親切がかえって仇になってしまう。それがゆえに、罪のようだが、ふたりを別々な口へいれて、錠までおろしているのだよ、これもひとつの情けのかぎだ。悪く思ってくれてはこまる」
宮内のあたたかい真心が、じゅんじゅんと胸にひたってくるので、竹童も思わず涙ぐましくさえなった。
だが、そればかりは、竹童にも、ハイとすなおに快諾されなかった。かれはだまって、いつまでも下をむいていた。
「いけないと見えるな……ウーム、これだけはさすがのわしも困ったな」
そこへ、巫女の少女が粥をはこんできたので、宮内はそれを竹童にあたえ、蛾次郎の分はじぶんが持って、また以前のところへもどってきた。
お粥のけむりを見ると、空腹で、喉から手がでそうなくせにして、蛾次郎はプンプンと怒った。
「けッ、またおかゆかい、おじさん」
「うごかずにいる間は、まアまアこれでがまんをしなければ」
「じょうだんじゃねえや、おれなんか、裾野にいたじぶんから、ズッと奈良や京都のほうを見物して歩いてる時なんかも、こんなまずいものを一どだって食ったことはありゃしねえ」
「ほウ、おまえはそんなぜいたくだったのか」
「そうさ、おいらはこう見えても、徳川家へゆけばはぶりがきくんだからな。浜松にいる菊池半助という人を知っているかい。おじさんなんか知るめえ。隠密組で第一ッていう人よ。おれはその人にずいぶん小判をもらったぜ、つかいきれないほどあった――アアつまらねえつまらねえ、また浜松へいって、少しお金をせびッてこよう」
ひとりでペラペラしゃべりながら、まずいといった粥を一つぶのこらずなめてしまった。
そして、すぐにゴロリと横になって、手枕をかいながら、生意気そうな鼻の穴を宮内のほうにむけ、
「おじさん、いまおめえは、この向こうにはいっている竹童のところで、なにかコソコソ耳こすりをやっていたろう」
といった。
「ウム。おまえと仲をよくせぬかと、そのそうだんをしていたのじゃ」
「くそウくらえ――だれがあんなやつと仲をよくするもんか。おいらは徳川びいきだし、あの竹童ッてやつは、山乞食の伊那丸って餓鬼や、イヤな坊主に味方をしているんだ」
「ではどうもしかたがないな。……ふたりの気がおれて、仲をよくするというまで、この塔にはいっていてもらうよりほかに方法はあるまい」
宮内は竹童のたべた土鍋のからと、蛾次郎の食べたからを両手にもって、社家のほうへもどってしまった。
格子のすきまから、そのうしろ姿をみて、蛾次郎は声のあるッたけ悪たれをついた。
「やい、早くここをだしてくれよ。いッてしまっちゃいけないよ! やい神主! つんぼか唖かでくの坊か! オイきこえないふりをしてゆくない。オーイ、バカ神主め、おいらをいつまで竹生島へおいておくんだい。かえせ、帰せ、かえしてくれ! 帰さねえと、いまに弁天さまへ火をつけるぞッ!」
あおむけに寝ながら、足で床板をふみ鳴らし、口から出放題にあたりちらしていると、その仕切境の板のむこうがわで、
「やかましいッ」と、小気味のいい一喝がツンざいた。
「オヤ、なんだと!」
ムクムクと身をおこした蛾次郎。
「なにがやかましいッ!」と負けずにどなりかえした。
だが、じぶんの声が、ガーンとくらい塔の内部へひびいただけで、もう向こうにいる竹童は、それきり、かれの相手になってこなかった。
強がりンぼで横着で、すぐツケあがる泣き虫の蛾次郎。いざとなれば声をだしてわめくくせに向こうでだまりこむと、その足もとをつけこんで「やい、竹童ッ」と、こっちからけんかを吹ッかける。
これだから菊村宮内も、この性のあわないふたりを、一つのじぶんの手にすくって、難儀をしているところなのだ。で、どうかして、仲をよくしてやりたいと考えてはいるが、なにしろ蛾次郎は、からだを養生するうちに菊村宮内のやさしさに馴れ、すっかり増長している気味だから、とても竹童と手をにぎって、心から打ちとけるべくもない。
「やいなんとかいえよ!」
業をにやして蛾次郎は、さかいの板をドンドンとたたいた。すると、向こうにいて、ジッと我慢をしているらしい竹童も、ついに、堪忍袋の緒をきって、
「だまれッ、狂人!」と叱りつけた。
「なに、狂人だと! おれのこと、狂人だとぬかしたな。なまいきなア! いまに野郎おぼえておれよ。フーンだ――いまにこの島をでてみやがれ、あの大鷲をまたおいらの手に取りかえして、きさまたちに目にもの見せてくれるから」
「井の中の蛙――おまえなんかに天下のことがわかるものか、この島をでたら、分相応に、人の荷物でもかついで、その駄賃で焼餅でも頬ばッておれよ」
「よけいなおせッかいをやくな。てめえこそこの島からだされると、また八神殿の床下で、お乞食さまのまねをするより道がねえので、それで、おとなしくしていやがるンだろう。武田伊那丸だッて、忍剣とかいうやつだって、龍太郎という唐変木だって、てめえの味方は、みんなロクでもねえ山乞食ばかりだ」
「うぬッ、伊那丸さまのことをよくも悪ざまにいったな」
「オイオイ、どッちもでられないと思って、強そうなことをいうなよ、なぐれるものならなぐってごらんだ。お手々が痛くなるばかりだ」
「バカ! こんなほそい木連格子ぐらい、破ろうと思えば破れるが、それでは、ご恩になった菊村さまにすまないから、おゆるしのあるまで、ジッとしんぼうしてはいっているのだ」
「ちぇッ! おつなことをおっしゃったよ。お腹の虫がチャンチャラおどりをしたいとサ」
「きッとか! 蛾次郎!」
「おどかすねえ、琵琶湖の水をのんで、助かったばかりのところを」
「だからだまっていろというのだ」
「そういわれりゃなおさわぐぞ」
「勝手にしろい」
「ざまを見やがれ、へッこみやがって!」
「こいつ!」
と竹童がわれをわすれて立ったとたんに、ヒョイと手をかけると格子のとびらが、観音びらきにサッと開いた。
「あッ――」
はずみを食って、塔の口からころがりだしたせつなに、蛾次郎も仰天して扉をおした。すると、意外や、そこも容易にパッとひらいて、かごの鳥が舞うようにかれも表へとんででる。――
そうだ、菊村宮内は、さッき社家のほうへもどる時、いつものように、そとから錠をおろしてゆかないようであった。なにか考えごとをしていて、ウッカリそれを忘れていたのだ。
それはいいが、さてまたここに一大事。
パッと両方の口からとびだした蛾次郎と竹童とは、王庭に血戦をいどむ闘鶏のように、ジリジリとよりあって、いまにもつかみ合いそうなかたちをとった。
裾野以来――また、京都の八神殿以来――かれとこれとは、いよいよ怨みのふかい仇敵となるばかりであった。ことに蛾次郎は、一ど徳川家からあまい汁をすわされているので、その方に肩をもち、竹童はそれを伊那丸とともに敵としている。また、いまはいずこの空へ飛んでいるかわからないが、あの大鷲をたがいにわが手におさめんとする競い人も蛾次郎は竹童をめざし、竹童は蛾次郎の息のねをとめてしまわなければやまない。
ところが、蛾次郎も、近ごろは先のうちより、だいぶ強くなってきた。もともと彼は石投げの天才であって、智能の点はともかくも、糞度胸がつくとなると、どうして、容易にあなどりがたい。
ましてやいまは、竹童も般若丸を宮内の手にあずけてあるし、蛾次郎もあけび巻の一腰を取りあげられているから、この勝負こそ、まったく無手と無手。
「ウーム、よくもいまは広言をはいたな」
と、掌につばきをくれながら、竹童がジーッとせまると、蛾次郎もまた腕をまくりあげて、
「こん畜生、もう一ど琵琶湖の水をくらいたいのか」
いきなり拳をかためて、電火のごとき力まかせに、グワンと相手の頬骨をなぐりつけていったが、なにをッ! と引っぱらって鞍馬の竹童、パッと身をかわしたので、ふたりはすれちがいに位置を取りかえ、またそこで血ばしった眼をにらみ合った。
と――思うと蛾次郎は、ふいに五、六間ほどとびさがって、足もとから小石をひろった。卑怯! 飛礫をつかんだな! と見たので竹童も、おなじように大地のものを右手につかんだ。
だが、竹童のつかんだのは、石でもない、土でもない。
あたり一面に、雪かとばかり白く散っていた、糸桜の花びらである。
花びらの武器? なんになるのか蛾次郎にはわからない。畜生、すこし血があがっていやがるなと見くびってひろいとった石飛礫、ピューッと敵の眉間へ打ってはなすと、竹童すばやく身をしずめて指の先から一片の花をもみだして唇へあて、息をくれて、プーッと吹いたかと思うと、それは飛んで一ぴきの縞蜘蛛となり、つぎの飛礫をねらいかけていた蛾次郎の鼻へコビリついた。
これはかつて竹童が、人穴城へ使者としていったとき、呂宋兵衛の前でやって見せたことのある初歩の幻術、きわめて幼稚なものであるが、蛾次郎ははじめてなのでおどろいた。
「わッ」
といって、おもわず顔へ手をやった。すでに体はみだれたのだ。得たりと竹童、そこをねらって馳けよりざま、さらにつかんでいた無数の花びらを、エエッと、力いッぱい蛾次郎の頭からたたきつけた。オオ落花みじん、相手はふんぷんたる白点につつまれたであろうと見ると、それとはちがって、竹童の手からパッと生まれて飛んだのは、まッくろな羽に赤い渦のある鎌倉蝶々、――蛾次郎の目へ粉をはたいてすぐにどこかへ消えてしまった。
いよいようろたえた泣き虫の蛾次郎、たわいもなく竹童の足がらみにけたおされて、ギュッと喉笛をしめつけられ、さらにうらみかさなる拳の雨が、ところきらわずに乱打してきそうなので、いまは強がりンぼの鼻柱がくじけたらしく、
「たッ、たすけてーッ、神主さま、神主さま」
最前、ここをだしてくれなければ、火をつけるぞと悪たれを吐いていた、その弁天さまのほうへ、声をしぼって救いをよんだ。
その晩である。
瘤だらけになった蛾次郎と、みみずばれをこしらえた竹童とが、菊村宮内の住居のほうで、かた苦しくすわらされていた。
昼間、もう少し蛾次郎がやせがまんをしていたら、竹童のためにしめ殺されていたかもしれない。あのとき、すぐに宮内が馳けつけて引き分けてくれたからこそ、かれの頭が多少のでこぼこを呈しただけですんでいる。
「なんとしても、ふたりは死ぬまで、敵となり仇となり、仲よくしてはくれないというのか。アア……どうもこまった因縁だの」
宮内は双方の顔を見くらべて、つくづくとこう嘆息した。
およそどんな者にでも、真心から熱い慈愛をそそぎこめば、まがれる竹もまっすぐになり、ねじけた心も矯めなおせると信じているかれだったが、竹童はとにかく、蛾次郎の横着と奸智と強情には、すっかり手を焼いてしまった。
こういう性質の不良なものでは、日本に天邪鬼という名があり、西洋にはキリストの弟子のうちに、ユダという男がいた。ユダの悪魔ぶりにはキリストも持てあましたし、十二使徒の人々も顰蹙して、あいつはとても、真人間にはなりませんといったくらいだ――という話を、宮内はいつか伴天連の説教にきいたことがあるので、蛾次郎もそれに近い人間かなと考えた。
「では、なんともいたしかたがない。いつまでおまえたちを、この竹生島へ鎖でつないでおくわけにもゆかぬから、明日はふたりをむこうの陸におくってあげよう」
とうとう宮内もあきらめてこういいわたした。
「まことに、永いあいだ、手あついお世話になりました」
竹童は尋常に礼をいったが、蛾次郎は、ヘン、お粥ばかり食わせておきやがって、大きな顔をしていやがる――といわんばかり、面と瘤をふくらましてそッぽを向いたままである。
「だが? ……」と宮内はまたなにか考えて、
「明日までにはまだだいぶ間がある。たがいに顔を見ているとツイつかみ合いをやりたくなるから、向こうへゆくまでの間、これをかぶって双方口をきかぬことにしているがよい」
と、奥へいって持ってきたのは、ふるい二つの仮面である。あおい烏天狗の仮面を蛾次郎にわたし、白い尊の仮面を竹童にわたした。
それをかぶらせておいてから、宮内はも一つのほうの箱を開けてふたりの前に妙なものをならべてみせた。
なにかと思って目をみはった蛾次郎が、
「オヤ、独楽だ!」と、すぐに手をだしそうになるのを、
「まあ、お待ち」
と宮内がそれをおさえて、じぶんの両手に一箇ずつ持ち、さて、ふたりの者へ、たのむようにいうには、
「この古代独楽は、竹生島の宮にあった火独楽と水独楽という珍しいものだ。この火独楽を地に打ってまわせば、火焔のもえて狂うかとばかりに見え、この水独楽を空にはなせば、サンサンとして雨のような玉露がふる……」
「おもしろいな!」
説明をきいているうちに、蛾次郎、もう瘤のいたさを忘れて盗んでもほしそうな様子をする。
「これこれ、そうおもしろいことばかり聞いてくれては、わしが話をする意味がなくなる。まだこの独楽にはふしぎな力がたくさんあって、たとえば、じぶんの迷うことを問わんとし、または指すべき方角をこころみる時に、この独楽をまわせば自然にそのほうへまわってゆく――、などということもあるが、あまり話すと、また蛾次郎が勘ちがいをいたすから、もうそのほうのことはいうまい」
「おじさん、――じゃアなかった。神主さま、もう蛾次郎も、けっして勘ちがいなんかしないことにいたします」
「わかったわかった、ところで竹童」
「はい」
「この紅い火独楽はそなたに進上する」
「えッ!」
といったのは、もらった竹童ではなくって、それをながめた蛾次郎である。
「そ、それを竹童に? ……もったいないなあ。じゃおれにもこっちをくれるんだろう」
「やらないとはいわない。この青い水独楽は、すなわちおまえにあげようと思って、とうから考えていたくらいなのだ」
「ちぇッ、かたじけねえ」
独楽を押しいただいた蛾次郎は、そのままうしろへ引っくりかえって、鯱鉾だちでもやりたかったが、また叱られて取りあげられては大へんと、かたくにぎって踊りだしたいのをこらえていた。
「そこでな、ふたりの者」
きッとあらたまった宮内は、まず少年の心理をつかんでおいてから、その本道を説こうとする。
「こんどはわしのいうことをきいてくれる番だぞ。よいかな。明日この島をでて、向こうの陸へあがってから、もうわしがそばにいないからよいと思って、その仮面をとるが早いか、喧嘩や斬りあいをするのでは、今日までの宮内のこころは無になってしまう」
「ごもっともでございます」
と蛾次郎、みょうなところでばかていねいな返辞をした。笑いもしないで竹童はまじめに、
「それで、宮内さまのおたのみというのは、いったいなんでございますか」
とかたずをのむ。
「ほかではないが、ふたりの遺恨を、きょうからこの独楽にあずけてしまって、たがいに、討つか討たれるか、命のやり取りをしようという時には、この独楽で勝負をしてもらいたい。そうすれば、独楽はくだけても、そなたたちのからだに怪我はできないから」
「わかりました」
「その儀、きっと承知してくれるだろうな」
「じゃア、なんですか?」とまた蛾次郎が反問した。
「たとえば、わたしたちの争っている大鷲を、どっちのものにするかという時にも、つまり、この独楽のまわしッくらで、きめるんですか」
「そうだ、そればかりでなく、今日のような場合でも、腹がたったら独楽で勝った者のいいぶんを通すなり、または、あやまるということにしたら、なにもつかみあって湖水におぼれるまでの必要もなくなるであろう」
欲しいものは与えられ、愉快な方法はおしえられて、なんで少年の心がおどり立たずにいよう。竹童はむろんそれに異存もなし、蛾次郎も一言の不平なく、きっとその約束を守りますといって宮内にちかった。
でふたりは、いいつけられた仮面をかぶり、あたえられた独楽をかたく抱いて、奥の部屋に、今夜だけは仲よく寝こんでしまった。
死人の顔のように青い月があった。
にらんでいるかと思うほど冴えている。月も或る夜はおそろしいものだ。
昼は蓬莱山の絵ともみえた竹生島が、いまは湖水から半身だしている巨魔のごとく、松ふく風は、その息かと思われてものすごい。
まさに夜半をすぎている。
ザブーン! と西浦の岩になにか当った。パッと散ったのは波光である。百千の夜光珠とみえた飛沫である。だが、そこに、怪魚のごとき影がおどっていた。舟だ、人だ。
「やッ」
とさけんだのは舟中の男だろう。ほかに人はだれもいない。またつづいて、やッ! という声がかかった、声というよりは気合いである。
ピューッと舟から空に走ったのは、鈎のついた一本のなわ。ガリッというと手にもどって、上からザラザラと岩のかけらが落ちてくる。
エイッ、ガリッ! というこの物音、なんどくり返されたかわからない。そのうちに、
「しめた!」
という声。うまく投げた鈎のさきが岩松の根に引っからんだとみえる。
力をこめて手応えをためし、よしと思うとその男のかげ、度胸よく乗ってきた小舟を蹴ながし、スルスルと一本綱へよじのぼりだした。
胆も太いが手ぎわもいい、たちまち三丈あまりの絶壁の上へみごとに手ぐりついて、竹生島の樹木の中へヒラリと姿をひそませてしまった。
と。それからすぐに――。
弁天堂のわきにある菊村宮内の家の戸を、トントントンと根よくたたき起していたのはその男で、やがて手燭を持ってでてきた宮内と、たがいに顔を見合わせると、
「や」
「おお」
といったまま、中にはいって厳重に戸じまりをかい、奥の一室に席をしめて、声ひそやかに話しはじめた。
「どうなすった。こんどの合戦に、北国勢の軍師であるそこもとが、かかる真夜中に落ちてくるようでは、いよいよ北ノ庄の城もあぶないとみえますな」
「おさっしのとおりまことにみじめな負けいくさ。ここへきて貴殿に顔をあわすのも面目ないが、じつは、賤ヶ岳の一戦に、この方と佐久間盛政との意見が衝突いたし、そのためにいろいろな手ちがいを生んだので、いまさら越前へももどれず……」
深夜の客は暗然として、話す間に、その顔すらもあげなかった。宮内も、いまは浪人の身であり、まったく弓矢をすてた心ではあるが、北庄城にいたころの友が、かく負軍で逃げこんできた姿をみたり、または旧主の亡びる消息をつたえられては、さすがに一掬の涙が眼ぞこにわきたってくる。
「オオ……ではあの我のつよい佐久間どのと意見がちがって……なるほど、得て、一国の亡びる時には、そういうふうに人心へヒビの入りやすいもので」
「のみならず、かれは賤ヶ岳をすてて、先に北ノ庄へ逃げかえり、このほうの軍配すべて乱脈をきわめたりと、勝家公へざん言いたしたとやら」
「ウ、それはまたあまりなこと」
「でなくてさえ、味方の敗軍に、いらだっている主君には、手もなくそれを信じて、身どもを軍罰にかけよという命令をくだしました」
「や、では」
「北ノ庄へかえれば、軍罰に照らされて首を打たれるは必定。といって戦場にとどまれば、秀吉の手におさえられて、生恥をかかねばならぬ窮地に落ちたのでござる。で、ぜひなく、羽柴勢の目をくぐって、ここまで落ちのびて、まいったわけじゃ、ごめいわくでも、二、三日この島にかくまっておいてくださるまいか」
深沈とふけゆく座敷のうちに、こう湿ッぽい密々話。ハテナ? ハテナ? なんだかどこかで、聞いたことのある声だぞと、亀の子のように、のこのこと蒲団の中から首をもたげだしたのは、独楽をもらったうれしさに昂奮して、つい寝つかれずにいた泣き虫の蛾次郎。
こういうことに出ッ会すと、がんらい、ジッとしていられない性分。よせばいいのに、ソロリ、ソロリと四ツン這いにはいだして、つぎの部屋の向こうがわの、線香のようにスーと明かりの立っているところを目あてに、
「だれだろう? そばできくと、よけいに聞きおぼえのある声だが……」
と、細目にすかして、烏天狗の仮面をつけたまま息を殺してさしのぞいた。
見てびっくりするくらいなら、のぞかなければいいものを、襖のすきへ仮面をつけたとたんに、
「あッ! こいツアいけねえ」
と仰天して、蛾次郎みずから、そこにじぶんのいることを、となりの武士に知らしてしまった。
草木のそよぎにも心をおくという、落武者の境遇にある者が、なんでそれを気づかずにいよう。
イヤ、当の蛾次郎よりははるかに胆をひやしたかもしれない。
「ヤ、だれか、となりへ!」
太刀をつかんでパッと立った。おそろしく背のたかい武士。筋骨も太く、容貌がまたなくすごいようにみえたが――オオなるほどこれには蛾次郎が仰天したのも無理ではない。だれあろう、この落人こそ、柴田方では一方の軍師とあおがれていた上部八風斎――すなわち、富士の裾野にいた当時は、綽名されて鏃師の鼻かけ卜斎といわれていた人物。
蛾次郎はそのころかれの弟子であった。じつはまだはっきりとお暇もいただいてないのだから、ここで逢ったのはまずいというより運のつきだ。
「南無三。とんでもねえやつが舞いこんできやがった。こいつアどうもたまらねえ」
と、バタバタと奥のほうへ逃げこんだので、八風斎の鼻かけ卜斎は、さてこそ、秀吉のまわし者でもあろうかと邪推をまわして、そこの唐紙を蹴たおすばかりな勢い――間髪をいれずにあとを追いかけていった。
一足とびに二間ほど馳けぬけてくると、卜斎はなにかにドンとつまずいた。
「あッ」
といって、蒲団のなかから躍りだしたのは、尊の仮面をつけて寝ていた竹童である。
だが卜斎は、その背かっこうの似ているところから、これこそ、奥へ逃げこんだ小童であろうと、拳をかためてなぐりつけた。
寝ごみの不意をくったので、さすがの竹童もかわすひまなく、グワンと血管の破れるような激痛をかんじてぶッ倒れたが、とっさに枕もとへおいて寝た、般若丸を抜きはらって、かれの足もとをさッと薙ぎつける。
「うむ」
と卜斎一流の妖気みなぎる含み気合いが、それをはねこえて壁ぎわへ身を貼りつけると、
「オオ、なんじは鞍馬の竹童だな」
らんらんとして眸を射て、こなたのかげをすかしたものだ。ハッと思って、竹童は自分の顔に気がついた。
卜斎の鉄拳をくったせつなに、仮面は二つに割られてしまった。そして二つに割られた仮面が、畳の上に片目をあけて嘲笑っている。
「なんでおいらの寝ているところをぶンなぐった。裾野にいた鏃鍛冶、顔は知っているが、怨みをうけるおぼえはない」
「ではなにか、今この方が宮内と話をしていたのを、ぬすみ聞きしていたのは、きさまではなかったか」
「それは向こうに寝ていた泣き虫の蛾次郎だろう」
「や? ――蛾次郎もここにおったか。ちッ、ちくしょうめ」
と、そのほうへ走りだそうとしたが、卜斎、なにをフト思いなおしたかにわかに大刀の柄をつかんでジリジリと竹童のほうへよってきながら、
「いやいや、たとえ怨みがあろうとなかろうと、ここへおれが潜伏しているということを知られた以上は、もうきさまも助けておけない」
「なにッ」竹童も身がまえを直した。
「秀吉の陣へ内通されれば、八風斎の運命にかかわる。気の毒だが生命はもらうぞ――だめだだめだ! 鞍馬の竹童ジリジリ二寸や三寸ずつ後退さりしても、八風斎の殺剣がのがすものか、立って逃げればうしろ袈裟へひと浴びせまいるぞ、――ジッとしていろ、運が悪いとあきらめて、そのままそこに、ジッとしていろ」
スラリと青光りの業物を抜いた。
戦国時代の猛者が好んでさした、胴田貫の厚重ねという刀である。竹童ぐらいな細い首なら、三つや四つならべておいても優に斬れるだろうと思われるほどな。――
そいつを抜いて、鼻かけ卜斎、ダラリと右手にさげたのである。そして、
「ジッとしていろ!」
とおそろしい威迫を感じる声で、ズカリとくるなり足をあげて、般若丸を構えていた竹童の小手を横に蹴った。しかも、その足力がまたすばらしい、あッというと、般若丸はかれの手をもろくはなれて、ガラリと向こうへ飛ばされてしまった。
「これでおれの力量はわかったろう、じたばたするなよ、とてもむだだ。――ジッとしていろ! ジッとしていろ! 痛くないように斬ってやる」
こういいながら胴田貫、おもむろに切ッさきを持ちあげて、ヌッと竹童のひとみへ直線にきたと思うと、パッと風を切って卜斎の頭上にふりかぶられた。
なんで、これがジッとしていられよう。そのすきに鞍馬の竹童、グッとうしろへ身を反らしたが、落とした刀へは手がとどかず、立って逃げれば、われから卜斎の殺剣へはずみを加えてゆくようなものだし? ……
絶体絶命。
いまは、のがれんとするもその術はなく、この五体、ついに鮮麗な血をあびるのかと、おもわず胸をだきしめる、とその手のいったふところに、さっきの火独楽が指にさわった。
賤ヶ岳の総くずれから、敵営、秀吉方の目をかすめて、やっと世をはなれた竹生島に、旧知の菊村宮内をたよってきた――柴田の落武者、上部八風斎の鼻かけ卜斎。
草木のそよぎにも、恟々と、心をおどろかす敗軍の落伍者が、身をかくまってもらおうと、弁天堂の神主、宮内の社家にヒソヒソと密話をかわしていると、止せばよいのに、でしゃばりずきな泣き虫の蛾次郎が、ワザワザ寝床からはいだして、それを、ぬすみぎきしていたのを、卜斎、気取るや否や、おそろしい形相で、かれを奥へ追いまくした。
南無三――もとの主人卜斎だったかと、仰天した蛾次郎は、すばやく風を食らって逃げだした。けれど、その禍いは、なにも知らずに寝こんでいた、鞍馬の竹童の身にふりかかって、すでに、自身のあるところを知られては、秀吉のほうへ、密告されるおそれがある、きさまも生かしてはおけぬ、目をつぶって、覚悟をしろ、逃げようとしても、それは無駄だぞ――と、おそろしい威迫の目をもって、胴田貫の大刀を面前にふりかぶった。
「――ジッとしていろ! ジッとしていろ。痛くないように斬ってやる!」
卜斎の足の拇指が、蝮のように、ジリジリと畳をかんでつめよってくるのに、なんで、鞍馬の竹童、ジッと、その死剣を待っていられるものか。そんな無意義な殺刀にあまんじる理由があろうか。
といって、身をまもる唯一の愛刀、般若丸はそのまえに、卜斎の足蹴にはねとばされて、拾いとって立つ間はない。しかも、寸秒の危機は目前、おもわず、額や腋の下から、つめたい脂汗をしぼって、ハッと、ときめきの息を一つ吐いたが――その絶体絶命のとっさ、ふと、指さきに触れたのは、さっき、菊村宮内からもらって、ふところに入れていた、希代な火独楽! その火独楽だ。
宵に、神官の菊村宮内が竹童と蛾次郎をならべておいて、蛾次郎には青い水独楽をあたえ、竹童にはあかい火独楽をくれて――その時ふたりにいったことには、これは、竹生島の弁天に、歳久しく伝わっている奇蹟の独楽だといった。
宮内は、この独楽をもって、仲のわるい二童子の手をむすぼうとしたのである。だから、その奇蹟についてはあまり、多くを語らなかったが、火独楽水独楽、どっちも、なにかの不可思議力を持つものにちがいない。
だが、――竹童の今は、しんに、間一髪をおく間もない危機である。もとより、かれが、卜斎が大刀をふりかぶったとたんに、ふところの独楽をつかんだとはいえ、ふかい、冷静な、思慮ののちにそうしたのではない。寸鉄もおびていない自衛意志が、おのずから独楽をつかませたのだ。
それが、たとえば一個の石にすぎなくとも、この場合、竹童の手は、その石へふれていたにちがいない。
「なんできさまたちの刃にたおれるものか!」
口にはださないが、竹童の顔筋肉はそういう風に引きしまっていた。
そして、独楽をかたくにぎった。
遊戯に、まわすべき独楽なら、紐のこともかんがえるが、いまの場合そうでない。武器として、目つぶしとして、敵が大刀へ風を切らせてくるとたんに、卜斎の眼玉へ、それをたたきつけようと気がまえているのだ。
卜斎も、竹童のたいどをみて、うかつにはそれをふりおろしてこない。ジリ、ジリ、と一寸にじりに寄りながら息をはかり、気合いをかけたが最後、ただ一刀に、息の根をとめてしまおうとするらしい。
「まいるぞッ!」
と、いきなり魔獣のような気合いがかかった。
はッ――として、竹童の五体も、おもわずその凄まじさにすくんでしまおうとしたせつな――
「ええッ」
とわめいた卜斎の大剣が、電火のごとく竹童の頭上におちてきた。あッ――といったのは刀下一閃のさけび、どッと、血けむりを立てるかと思うと、必死の寸隙をねらって、竹童の右手がふところをでるやいなや、
「なにをッ」
と一声、待ちかまえていた独楽のつぶてを、パッと卜斎の眉間へ投げつけた。
すると、まっ赤な火独楽は、文字どおり、一条の火箭をえがいて、しかも、ピュッとおそろしい唸りを立て、鼻かけ卜斎の顔へ食いつくように飛んでいった。
「おお、これはッ?」
と、おどろいた卜斎、斬りすべった厚重ねの太刀を持ちなおす間もなく、火の玉のように宙まわりをしてきた火焔独楽をガッキと刀の鍔でうけたが、そのとたんに、独楽の金輪と鍔のあいだから、まるで蛍籠でもブチ砕いたような、青白い火花が、鏘然として八方へ散った。
「うつッ……」
と、卜斎が、片手で眼をふさいだ間髪に、竹童はいちはやく、般若丸の刀をひろって、バラバラッと廊下へでたが、それと一しょに、奇蹟の火焔独楽、ポーンとはね返って、竹童の手もとへ舞いもどってきた。
いかにもふしぎな魔独楽の力よ!
とあやしまれたがのちによく見れば、独楽の金輪の一端に、ほそい金環がついていて、その金環から数丈の紐が心棒にまいてあるのだ。はねもどったのは、独楽それ自身の魔力ではなく、竹童の帯に結んであった紐の弾撥。手もとへおどり返ってきたのは、とうぜんなのであった。
竹童をとり逃がして卜斎は、不意の燦光に目をいられて、一時は、あたりがボーッとなってしまったが、廊下を走ってゆく足音を聞きとめると同時に、
「うぬッ」
憤然として、その真ッ暗な部屋からかけだした。
そして、いきなり廊下から、庭先へ降りようとして、やみのなかにそれと見えた、沓脱石へ足をかけると、こはいかに、それは庭の踏石ではなくて、ふわりとしたものが、足の裏にやわらかくグラついたかと思うと、
「ぎゃッ」と、蛙のようにつぶれてしまった。
それは、竹童より先ににげた泣き虫の蛾次郎で、いま、床下へもぐりこもうとしているところへ、卜斎の足音がしてきたので、そのまま、縁の下へ首をつっこんだなりに、石の真似をしていたものらしい。
あの勢いで、大兵な、卜斎に踏みつけられたのだから、蛾次郎もギャッといって、ぴしゃんこにつぶれたのはもっともだが。
おどろいたのは、むしろそれへ足を乗せた卜斎のほうで、まさか、やわらかい石だとは、夢にも思わなかったはずみから、よろよろとツンのめって、あやうく、向こうの梅の老木に頭をぶつけ、ふたたび、目から火のでるつらい思いをするところだった。
「やッ……おのれは蛾次郎だな」
気がつくと卜斎は、いきなり蛾次郎のえりがみをつかんで、ウンと、そとへ引きずりだそうとした。
蛾次郎は、半分もぐりこんだまま縁の下の土台にかじりついて、
「ごめんなさい! 親方、親方!」
と土龍のように、でようとしない。
なにしろ蛾次郎は、この卜斎ほどおっかないものはないと心得ている。裾野にいた時分から、気にいらないことがあると、すぐに鏃をきたえる金槌で、頭をコーンとくるくらいはまだやさしいほう、ふいごで拳骨を食ったり、弓のおれでビシビシとどやされたおそろしさが、頭のしんにしみこんでいる。
しかもまだその当時の、弟子師匠の関係を断っているわけではなく、卜斎が北ノ庄へかえるとちゅう、目をくらまして逃げだしていたところだから、見つけられたがさいご、こんどこそ、どんな目に遭わされるかと、いきた空もないのである。
「たわけめ。でろ、ここへ!」
とどなりながら、卜斎はすこし苦笑をもらしてしまった。
いまでも、裾野当時の気持で、じぶんへあやまるのに、親方親方と呼んだところが、いくぶんか正直らしいと、おかしくなって、この蛾次郎には、竹童へ向かったような、ああいう本気にはなれなかった。
「かんべんしてください、親方、後生です」
「でろと申すに!」
「あッ、苦しい……いまでます、いま……」
「このバカッ」
力まかせに引ッ張りだして、イヤというほど叩きつけようとすると、蛾次郎、頬ッぺたをおさえて飛び退きながら、
「親方、どうも、お久しぶりでした」
ピョコンと、おじぎをして、たくみに、あとの拳骨を予防した。
「蛾次郎!」
「へいッ」
「きさまはだれにゆるされて、方々かってにとびまわっているんだ」
「もうしわけございません」
「まだ、きさまにひまをだしてはいないぞ」
「承知しています。これから、けっして気ままにあそんで歩きません。はい、親方の腰についております」
「また、なんのために、この竹生島へなどきているのだ」
「琵琶湖で土左衛門になるところを、ここの神主のやつが助けやがったんで……わたしがきたいと思ってきたところじゃありません」
「竹童もか」
「そうです」
「武田伊那丸やあの一党の者は、その後、どうしているか、なにか、うわさを聞いているだろう」
「あのなかの、小幡民部や咲耶子や山県蔦之助などは、小太郎山のとりでに、留守番をしているそうです」
「そして、伊那丸は?」
「加賀見忍剣と木隠龍太郎をつれて、しばらく京都におりましたが、そのうちに、なんでも秀吉の陣をとおって桑名から東海道のほうへ帰っていったという話です。……けれども、それは、わたしが見たわけじゃありませんから、親方、ちがっていても、かんにんしてください」
と蛾次郎は、卜斎の顔色が、だんだん和らいでくるのを見ると、甘ッたれたような調子でしゃべりだしてくる。
「ウーム。秀吉は伊那丸に好意をよせて、暗に、かれを庇護しているものとみえる。だが……」
というと、卜斎は、なにか自分の前途について、だいじな方針をかんがえかけてきたとみえ、逃げたる竹童のことはともかく、どっかりと、庭石へ腰をおろして腕ぐみをしてしまった。
「――だが、家康は伊那丸をにくんでいる。たしかに、かれを亡き者にせねば、ある不安から離れられまい。伊那丸も家康を武田家の仇とねらっているのは知れきったこと……」
「そ、その通りですよ、親方」
と、蛾次郎は、そばから、おちょぼ口をつぼめて、
「これからまた、富士山のまわりで、すさまじい戦があるとすりゃ、伊那丸と家康の喧嘩でしょうよ。家康も東海道の名将だが、伊那丸のほうにいる忍剣や龍太郎というやつも強いからな。それに、小太郎山にのこっている小幡民部というやつが、たいへんな軍師だそうで」
いいかけたところで、また、卜斎の顔色をみて、
「だが、親方には、かなわねえやきっと――」
と前言をあいまいにした。
「おれも柴田家から爪弾きをされてみれば、なんとか、ここで行く末の方針を立てなければならない場合だが」
「はい、そうです」
と深いわけもわからぬくせに、卜斎が問わず語りにつぶやくのへ、蛾次郎、いちいちあいづちをうって、じぶんも腕ぐみのまねをしている。
「ウム」
それには相手にならないで、卜斎はなにかひとりでこううなずき、上に着ていた陣羽織を脱ぎすてて、
「しばらくの間、またもとの鏃鍛冶にばけて、世間のなりゆきを見ているとしよう。そのうちには、なんとかいい運がひらけてくるだろう」
「じゃ親方、また裾野の人無村へかえって、テンカンテンカンやるんですか」
「どこに住むかわからないが、てめえもこれからは、無断でほうぼうとんであるくと承知しないぞ」
「へ、へい」
「どこまでもおれについていろ。そして一人前の鏃師になったら暇をくれてやる。お、そんなことはとにかく、おれがここへきたことを、竹童に知られてしまったから、もう永居をしているのはぶっそうだ。鏃師卜斎にすがたをかえて、夜の明けないうちに、竹生島をでるとしよう」
卜斎は陣羽織をすててつぎに、手ばやく籠手の具足をとり、脛当の鎖を脚絆にかえて、旅の鏃師らしいすがたにかわった。そして蛾次郎に、
「菊村宮内どのへ、ちょっとお暇をつげてまいるから、おまえも、そのあいだに支度をして、ここに待っているんだぞ」
と、いいのこして、そこを立とうとすると、なんだろう? 周囲の闇――樹木や笹や燈籠のかげに、チカチカとうごく数多の閃光。
槍だ――槍の穂先だ。
いつのまにか、卜斎と蛾次郎のまわりには、十数槍の抜身の穂尖、音もせずに、ただ光だけをギラギラさせて、芒のように植えならんでいた。
「さては、秀吉の陣から、もう追手がまわってきたな」
卜斎ははやくも観念して、飾りをとった陣刀を脇差にぶっこみ、りゅうッ――と抜くがはやいか、その槍襖の一角へ、われから血路をひらきに走った。
「親方――ッ」
と泣きごえをだした蛾次郎は、そのとたんにいきなり、突っかけてきた槍の柄にむこうずねをたたかれ、ワッといって、打ッたおれた。
あとはおそらく、蛾次郎じしんにも、むちゅうであったにちがいない。とにかく、ひとりや半分の敵ではなく十数人――あるいは二、三十人もあったろうと思われる甲冑の武士が、なにも知らずにいるところへ、なにもいわずに、ズラリと槍の尖をそろえてきたのだから、胆は天外に吹ッとんでいる。
一どたおれた蛾次郎は本能的にはねかえって、起きるが早いか、そばの大樹へ、無我夢中によじのぼった。
猿のように梢へのぼるとちゅうでも、秀吉方の甲冑武者に、槍の柄でピシリッと叩かれたが、それさえ、必死であったので、痛いともなんとも性にこたえなかった。
そして、運よく大樹の枝先が、弁天堂の上へおおいかぶさっていたのを幸いに、かれはヒラリと身をおどらして、枝から屋根へ飛びうつり、てんてんと影をおどらせて、やっと竹生島の磯へかけ下りてきた。
するといっぽうの急坂からも、血路をひらいた卜斎が、血刀を引っさげてこの磯へ目ざしてきたので、ふたりは前後になって磯の岩石から岩石を飛びつたい、やがて、一艘の小舟を見つけだすとともに、それへ飛び乗って櫓をおっとり、粘墨のように黒い志賀ノ浦の波を切って、いずこともなく逃げのびてしまった。
それよりまえに、あやうく卜斎の殺刃をのがれて、堂の裏に姿をかくしていた鞍馬の竹童は、ほど経てあたりをうかがいながら、そっと、ようすをながめにでた。見ると、弁天堂のまえへ、大勢の武士をつれて篝火を焚かせている者は、かの賤ヶ岳で勇名をはせた、加藤虎之助の臣、井上大九郎であることがわかった。
思いがけないところで、大九郎にあった竹童は、かれの口から、その後の伊那丸の消息をくわしく知ることができた。
すなわち、武田伊那丸と従臣のふたりは、大九郎が桑名の陣を引きはらうと同時に、秀吉にわかれて小太郎山へかえるべく、徳川家の城地へ危険をおかして進んでいったという話。――
それを聞くと、竹童は、すぐにあとをしたって、三人に追いつき、ひとまず小太郎山のとりでへ帰ろうと決心した。そののちに、琵琶湖の上で乗り落ちたまま行方をうしなったクロをさがす方針もかんがえ、また、一党の人々にも、久しぶりで会いたいと願った。あの、温厚にして深略のある小幡民部、あのやさしくて凛々しい咲耶子、あの絶倫な槍術家と弓の名人である、蔦之助や巽小文治にもずいぶんながく会わなかった。あの人たちは、みなじぶんを心の底からいとしんでくれる、骨肉のようなやさしさと、温味をもっている。
その人たちに久しぶりで会おう。
小太郎山は、乱世の中にあってゆるがず、みだされずにある、義血の兄弟たちの家だ。その家へ帰ろう。こう思うと矢も楯もなく、竹童は、神官の菊村宮内に、きょうまでうけた親切の礼をのべ、井上大九郎の舟に送られて、ほのぼのと夜の白みかけた竹生島へ別れをつげた――。
もとより、辛苦になれている竹童には、野に伏し樹下にねむることも、なんのいとうところではなく、また鞍馬の谷で馴らした足には、近江街道の折所や東海道の山路なども、もののかずにはならないので、なみの旅人のはかどるよりは数日もはやく里数をとって、間もなく、家康の領地、遠江の国へ近づいてきた。
しかしそこまでいって、ハタと竹童がとうわくした、というのは、いたるところの国境に、徳川家の関所がきびしく往来をかためていて、めったな者は通さないという風評であった。
で、やむなく、街道を遠くはなれて、人もとおらぬ山河を越え、ようよう遠江の国へはいったが、こんな厳重さでは、さきに桑名を立った伊那丸たちも、やすやす、無事にここを通れたとは思われない。なにかの危険にであっているにちがいない。
「ああ、だれかに、ご安否をたずねてみたいが、めったなものに、そんなことをきけば、みずから人のうたがいを招くようなものだし……」
こう思いながら、鞍馬の竹童は、野末にうすづく夕陽をあびて、見わたすかぎり渺茫とした曠野の夕ぐれをトボトボと歩いていた。
ここは、どこの野辺ともわからないが、いま渡ってきた川の瀬には、都田川という杭が立っていた。
なお、はるかにあなたの野のはてには、一抹、霞のように白い河原がみえる。あとは、西をあおいでも、北を見ても、うっすらした山脈のうねりが黙思しているのみだ。
微風もない晩春の夕ぐれ、――ありやなしの霞をすかして、夕陽の光が金色にかがやいている。いちめんの草にも、霞にも、竹童の肩にも――。
するとやがて、耀々とした夕がすみのなかから、あまたの青竹と杉丸太をつんだ車が、ガラガラと竹童のそばを通りぬけた。そのあとについて、八、九人の足軽と十数名の人夫たちが、斧や、鉞や、木槌などをかついで、なにかザワザワと話しながら歩いてゆく。
すれちがった時に、なんの気もなく竹童がふりかえると、一ばんさいごについてゆく足軽が、一本の立て札をかついでいる。
生あたらしいその高札の片面に、なにか墨色もまざまざと書いてあったが、その文字のうちに、ふと、武田と読めた一行があったので、竹童はハッと胸をさわがしたが、
「あ、もし」
と、呼びとめておいて、つとめて冷静をよそおいながら、
「浜松のご城下へゆくには、これをまっすぐにゆけばいいんですか……」
と道にまよっているふりをして、そのあいだに、足軽が肩にかけている高札の文字を読もうとしたが、意地わるく、文字面の裏を向けていて、よく読むことができなかった。
「うむ、ご城下へは一本道だが、まだだいぶ道のりがあるぜ」
「じゃ、日が暮れてしまいましょうね」
「いそいでゆきねえ。ぶっそうだから」
曠野にさまよう子供と見て、その足軽は、さきへ青竹をつんでいった車やつれの人数からひとりおくれて、こまごまと、十字路の方角や里数をおしえてくれている。
「どうもありがとうございました」
竹童はその道しるべより、肩にかついでいる高札のことを、なんとかして聞きほじりたいがと苦慮したが、いきなりたずねだすのもさきの疑いを買うであろうと、わざと空とぼけて、
「それでよく道はわかりました。ですけれど、おじさん、この広い原ッぱは、いったいなんという所なんでしょうね」
「おまえは、それも知らずに歩いているのか。子供ってえものはたわいのねえものだ。ここはおまえ、甲斐の信玄と家康さまとが、鎬をけずった有名な戦場で、――ほれ、三方ヶ原というところだ」
「あ、ここが、三方ヶ原でございますか。――なるほど、広いもんだなあ。そして、おじさんたちは、やっぱり徳川さまのご家来ですか」
「そうよ、おれたちは、浜松城の足軽組だ」
「いまごろから、あんな青竹や松明をたくさん車につんで、いったい、どこへおいでになりますので?」
「おれたちか……」足軽は、ちょッといやな顔をして、
「これから都田川の手まえまでいって、夜明かしで、人の死に場所をこしらえにかかるんだよ」
「へえ、人の死に場所を」
「うむ。つまり、刑場のしたくにゆくんだ」
「ああ、それで、矢来にする竹や丸太や、獄門台をつくる道具をかついで、みんながさっき向こうへいったんだな」
「そうだ、おまえも、こんなこわい話を聞いてしまうと、たださえさびしい三方ヶ原が、よけいにさびしくなって歩けなくなるぜ。だがまだいまのうちなら、夕陽がキラキラしているからいい、はやく、いそいでゆくことにしねえ」
クルリとふり向くと、さきの者とは、だいぶ距離ができたのにびっくりして、足軽の男は、急にいそぎ足に別れかけた。
「あ、おじさん。もしもし」
竹童は、あわててそれを呼びかえしたが、べつに、どういう口実もないので、とっさの機智を口からでまかせに、
「腰の手拭が落ちますよ」といった。
「ありがとう」
と、さきの男が、うっかり釣りこまれている間に、かれは、すかさず、矢つぎ早にさぐりをいれた。
「あの、いまおじさんがいった刑場で、いったいだれがいつ斬られることになるんです」
「よくいろんなことをききたがるな。子供のおまえにそんなことを話してもしかたがねえが、男は一どは見ておくものだそうだから、あさっての夕方、都田川の竹矢来のそとへ見にきねえ。この高札に書いてある通り、こんど徳川さまの手でつかまった、武田伊那丸とその他二人の者がバッサリとやられるのだから」
もう、うるさいと思ったか、こんどはそっけなくいいはなした。肩の高札を持ちかえると、ふり向きもせずにタッタとさきの人数を追いかけていった。
ゆき別れた足軽のすがたが半町ばかり遠ざかると、生ける色もなく、そこに取りのこされた竹童は、
「ウウム……」
髪の毛をつかんだまま、よろよろと、草のなかへ腰をついて、
「た、たいへんだ」
身をゆすぶッて、もだえだした。
「伊那丸さまが――あとのふたりも? ――」
くわっと、眼をひらいて、宇宙に眸をさまよわせたが、
「こうしてはおられない!」
また、ものぐるわしくそこを立った。
いても立ってもいられない焦燥である。
その驚愕とうろたえのさまは、鞍馬の竹童として、いつにない取りみだしようだ。はね起きたが、その足を向けようとする方角にも、迷いともだえがからんでみえる。
「アア、どうしたらいいだろう」
三方ヶ原は渺として、そこには、ただようようにうすれてゆく夕陽の色があるばかりだ。
「はやく、小太郎山にのこっている、一党の人たちへ、この大事を知らせるのが、一ばんいい工夫だけれど、そんなことに、四日も五日もかかっていては間に合いはしない。エエ、どうしたらいいだろうッ……」
歯を食いしばったまま、湧きたつ胸を、両手でギュッとだきしめた。
「どうして、伊那丸さまが……おまけに龍太郎さまや忍剣さままでついていて、やみやみと、徳川家の手へつかまっておしまいなされたのであろう。アア、だけれど、いまはそんなことを考えている間などない。おいらの頭の上へ降りかかってきた使命は――どうして、はやくこのことを、小太郎山へ知らせてあげるか、どうしたら伊那丸さまをお助けすることができるか、この二つだ! この二つが目のまえの大事だ」
ひとり問い、ひとり答えて、はては当面の大難にあたまも惑乱して、ぼうぜんと、そこに、腕ぐみのまま立ちすくんでしまったのである。
すると、野原のどこからか、ワ――ッと、元気のいい声が、潮のように近づいてきたかと思うと、やがて青々とした草の波から、おなじ年頃の少年ばかりが二十人ほど、まっ黒になって、竹童のほうへなだれてくる。
「や、なんだろう?」
ぼうぜんとしていた竹童は、その気配に顔をあげたが、ようすがわからないので、いち早く、草のなかに身をふせてしまった。
姿をかくして、眸だけをジッとそれへ向けていると、あまたの少年たちは、いずれも、前髪だちで、とんぼ模様のついたそろいの小袖、おなじ色の袴をうがち、なにか、大きな動物に綱をつけて、その動物の力にワイワイと引きずられてくる。
見ると、それはクロだ。
竹童の愛鷲――あの大きな鷲だ。
とんぼのついたそろいの小袖を着ているところでは、これこそ、浜松城で有名な、お小姓とんぼの少年たちにちがいはない。そして、このとんぼ組の餓鬼大将とかげ口をいわれているものは、結城秀康の子で家康には孫にあたる、徳川万千代である。
万千代は、いまもこのとんぼ組の小姓たちの先達となって、しきりに大鷲の背なかへ乗ろうとしては落ち、乗ろうとしては、翼にハタかれて、ぶッたおれた。
足に結びつけた、綱にすがりついている多くの小姓も万千代も、手や足にすり傷をこしらえて血だらけになっているが、さすがに、戦国の少年、三河武士の卵たちである。あくまで鷲と力をあらそって、自由にせずにはおかないふうだ。
竹童は、われを忘れて草の中から立っていた。
草の嵐にうすづく夕日。
日の暮れるのも忘れてしまって、三方ヶ原の奥へ奥へ、鷲にひきずられてゆくとんぼ組のお小姓たち。
鷲をオモチャにしているのか、鷲にオモチャにされているのか、ともすると、あべこべに、空へつるしあげられそうになるのを、からくも、一本杉の根ッこへ、その手綱を巻きつけて食いとめたとたんに、
「あア、くたびれた」
と、ヘトヘトにつかれたこえを合わせながら、
「休もう」
「休もう」
「休んでからまた飛ぼう!」
と、これでも鷲のつばさと一しょに、飛んできた気でいるのだからたわいない。
見ればみな、なつめのような眼をもった、十二、三から十五ぐらいまでの前髪少年。浜松城のお小姓であれば、しかるべき家柄の息子たちにはちがいないが、城下からこんなところまで、鷲と取っくんできたのだからたまらない、とんぼぢらしのおそろいの小袖も、カギ裂きやら泥だらけ。
なかには、手や頬ッぺたをすりむいて、ざくろみたいになっている者、鼻血をだしておさえている者、髷の草ッ葉がとれないでこまっているもの、脇差の鞘だけさしてすましているもの。――どれもこれも弟たりがたく兄たりがたき腕白顔だ。さだめし、屋敷へかえったのちには、母者人からお小言であろう。
お山の大将おれひとり――という格で、中にまじっている徳川万千代は、みんなと一しょに、つなぎ止めた大鷲を取りまきながら、
「やあ、金光りの眼で、ギョロギョロとにらんでいるわ。怒るなおこるな、いまに餌をやるからな。余一、余一、さっきの餌を持ってこい」
と、鞭をあげてさしまねいた。
「はい」
というと、とんぼ組の中でも一番チビなお小姓余一、にわとりの死んだのを、竹のさきにかけて、万千代の手へ渡した。
「おお、鷲のごちそう」
と一同にみせて、笑わせながら、万千代はそれを猛禽の鼻ッ先へ持っていった。そして、くちばしのそばへぶらぶらさせたが鷲は横をむいて、その匂いすらかごうとしない。
業を煮やした万千代は、意地になって、
「こりゃ食え、食え。くれたものを、なぜ食わんか」
と、よけいに突きつけると、うるさいとでも感じたか、金瞳黒羽の大鷲、嵐に吹かれたようにムラムラと満身、逆羽をたててきた。
と思うと――畳二枚ほどは優にある両の翼が、ウワーッと上へひろがって、白い腋毛が見えたから、びっくりしたお小姓とんぼ。
「そら――ッ」
とまわりを飛びはなれたが、偉大なる猛禽のつばさが、たッたひと打ち、風をあおるとともに、笑止笑止、まるで豆人形でもフリまいたように、そこらの草へころがった。
「アー痛い」
「オーひどい」
やがてめいめい、腰をさすって起きあがってみると、鷲は杉の根もとにケロリとして、とんぼ組の諸君、なにを踊っているんです、といわないばかりの様子である。
だが、えらいやつがいた。
たッたひとり、いまの羽風にも倒されずに、鷲のそばに突っ立ったまま、ジッと腕ぐみをしている少年。
お小姓とんぼのなかにも、あんな強胆な者がいたかしら? とみんなが眼をみはって見ると、ちがッてるちがッてる、肩つぎのある筒袖に、よごれきった膝行袴を穿き、なりにふさわぬ太刀を差して、鷲にも負けない眼の持ち主。
浜松城の小姓組には、こんなきたない小僧はいない。
「だれだ、あいつは?」
「いつのまに、どこから降ってきおったのじゃ」
ぞろぞろと集まった。
そして、こんどは鷲よりも、この小僧に好奇の目をそそいだ。けれど、そこに黙然と立った鞍馬の竹童は、じぶんをとり巻いてジロジロと見る、小姓たちのあることなどは忘れはてて、
「オオ、おまえはクロじゃあないか」
と、心のそこから、いっぱいななつかしさを、無言に呼びかけているのである。――
ああ、ずいぶん久しぶりだったねえ――
そう思うと、竹童は、なんだかボッと顔が赤くなる気がした。かれの愛着とあこがれは、不意にめぐり会ったクロを見て、やさしく動悸を打っていた。
そこに動物と人との、なんのへだたりもなく、
「おまえを蛾次郎にぬすまれてから、おいらはどんなに諸国をさがし歩いていたろう。波のあらい北の海、吹雪のすさぶ橡ノ木峠、それから盲目になってまで、京都の空へ向かっても、おいらは、クロよ、クロよと呼んでいた。そのかいがあって、やっと、天ヶ丘で蛾次郎とうばい合いをしたかと思うと、おまえはまた、ふたりを琵琶湖へふりおとしたまま、どこかへ姿を消してしまった――さあ、それからも竹生島にいるあいだ、おいらは、朝となく夜となく、どれほど空を気にしていたか知れやしない……だがよかったなア、いいところでめぐり会ったなア。わかるかい、おぼえているかい? この鞍馬の竹童の顔を……」
と、口にはださないが、熱い思慕をこめて、ジイッとみつめているうちに、思いもうけぬ邂逅の情が、ついには、滂沱の涙となって目にあふれてくる。
そして、なにげなく愛撫の手が、クロの襟毛へ伸びようとすると、
「これッ」鞭をかまえながら、徳川万千代、
「わしの大事な飼い鳥へ、なんで手をふれるのじゃ」
「あ」
竹童はその声に、はじめてわれに返ったように、万千代のすがたと、あたりに群れているとんぼ組の少年たちを見まわした。
そして、だまって、頭をさげた。
「なんだ、おまえはッ。どこの子だ」
「わたくしは」
「あやしい小僧じゃ、敵国の間者であろう。おじいさまのお城へつれて、役人の手へ渡してくれる」
「アアもし、けっして、そんな者ではございません。わたくしは、たびたび東海道へもきております、伊吹村の独楽まわしです」
「なに独楽まわしじゃ?」と、みんなどよめきだして、
「独楽まわしなら廻してみろ! うそをついたら承知せんぞ」
と、腕まくりをして見せた。
「ハイ。独楽のご用ならおやすいこと、商売ですから、お望みにまかせてまわします。ですが、わたくしが首尾よく芸をごらんにいれましたら、そのご褒美には、なにがいただけるでございましょう」
「鳥目を投げてやる」
「いえ、お鳥目はいりません。そのかわりに、ひとつのお願いがございますから」
「では、扇子がほしいか、きれいな巾着がのぞみなのか」
「いえいえ、わたくしのお願いと申すのは、この鷲に乗らしていただきたいのです。はい、上まであがりましたら、すぐにまた降りてまいりますから」
「これへ乗るッて」
万千代は目をまるくして、
「そんなことができるのか」
「できますとも。伊吹の山にいたころは、毎日、鷲や鷹をあい手にあそんでいたわたくしです」
たわいのないお小姓とんぼは、興にそそられて、一も二もなくかれのことばを信じてしまった。そして竹童にむかって、はやく独楽をまわせ、独楽をまわしたら鷲をかしてやる、とせがんだ。
「じゃ、まわしますから、ズッとそこを開いてください」
かれはどこかの町で見かけた旅芸人の所作を思いうかべて、わざと、興をそえながら、杖でクルリと円形の線をえがいて、
「――そもそも独楽にもいろいろござります、古くは狛江の高句麗ゴマ、島からわたった貝独楽も、五色にまわる天竺独楽も、みんな渡来でございます。そこで日本独楽のはじまりは、行成大納言、小松つぶりに村濃の糸をそえまして、御所でまわしたのがヤンヤとはやりだしました初め。さあそれからできましたこと、できましたこと、竹筒の半鐘独楽をはじめとしまして、独楽鍛冶もたくさんできました。陀羅ゴマ銭ゴマ真鍮ゴマ、ぶんぶん鳴るのが神鳴りゴマ、おどけて踊るが道化ゴマ、背のたかいは但馬ゴマ、名人独楽は金造づくり、豆ゴマ、賭ゴマ、坊主ゴマ、都ではやっておりまする。そこで手まえのあつかいますのは、近江は琵琶湖の竹生島に、千年あまり伝わりました、希代ふしぎな火焔独楽――はい、火焔独楽!」
と、ここに竹童が、にわか芸人の口上をうつして、弁にまかせてのべ立てると、万千代はじめ、とんぼ組、パチパチと手をたたいて無性にうれしがってしまった。
だが、竹童は、真剣である。
口に道化ても肚のそこでは、たえず、伊那丸の危急をあんじているのだ。
さきに、都田川の刑場へ、したくにいそいでいったあの足軽のはなしが事実ならば――
武田伊那丸と忍剣と龍太郎とが、むなしく徳川家の手に縛されて、あさっての夕ぐれ、河原の刑場に斬られるという、あの高札が事実ならば――
じつに、武田一党の致命的な危難は、目睫にせまっているのだ。
竹童の胸がなんで安かろうはずはない。かれは、一刻もはやく、この大へんを、小太郎山のとりでへしらせたいともだえている。どうしても、四、五日かかる道のりのある小太郎山へ、今夜のうちに、かけつけたいと苦念している。
とうてい、人の力でおよばぬことをなさんがために、竹童は心にもない大道芸人のまねをするのだ。見ているお小姓とんぼはおもしろかろうが、ああ、かれには涙の芸であった。
「さあ、それから、それから――」
と、輪になっている前髪たちは、待ちきれないで、あとをせがんだ。
きわどいところで、竹童はたくみにおッとりして、
「さ、火焔独楽の曲まわし、いよいよかかりますがそのまえに、ちょっと、おうかがいしたいことがございます。どうか、話してくださいまし」
「なんじゃ? 独楽まわし」
「あの、近ごろ浜松のご城下で、武田伊那丸という方が徳川さまの手でつかまったそうですが、それは、ほんとでございますか」
「捕まったのはまことじゃ、家来のやつふたりも一しょに」
「ああ、では……」
思わず、あおざめたかと思う顔を、むりに微笑させて、
「やっぱり、うわさはまことでございましたか。それで、さだめし家康さまもご安心でございましょう。けれど伊那丸や家来のふたりも、なかなか智勇のある者とききましたが、どうしてそんなに、たやすく捕まってしまったのでしょう?」
「いいではないか、そんなこと。早くそれより独楽をまわして見せい」
「はい、いままわします。ですけれど、じつはこのさきの都田川で、そんな高札を見ました時に、仲間の者と賭をしたのでございます」
「じゃ、話してやるから、それがすんだら、すぐに火焔独楽をまわすのじゃぞ」
「ええ、まわしますとも、まわしますとも」
「その武田伊那丸は、まえからほうぼうへ手配をしていたが、なかなか捕まえることができなかった。するとこんど、桑名のほうから、和田呂宋兵衛という者が密訴をしてきた。その者のことばで、伊那丸のとおる道がわかったから、関所に兵を伏せておいて、苦もなくしばりあげたのじゃ。だから、あさっての太刀取りは呂宋兵衛が役をおおせつかって、都田川の刑場で、その三人の首を斬ることになっている」
「ああ、そうですか。いや、それでよくわかりました」
と、さり気なく聞いていたものの、竹童の胸は早鐘をついている。
「そして、この大鷲は、どうしてまた、あなたがたのお手に入りましたか。浜松にも、めったにこんな大鷲は飛ばないでしょうに」
「この鷲か。――これもその呂宋兵衛が、桑名から浜松へくるとちゅうで捕まえたのを、菊池半助のところへ土産に持ってきたのじゃ。それを万千代さまが、おねだりして、こうしてとんぼ組で飼っているのじゃ。だから、めッたな者にはかさないが、おまえが上手に独楽をまわせば、万千代さまもかしてやろうとおっしゃる。サ、はやくまわしてみせい、はやく火焔独楽の曲まわしをやってみせい」
もうすっかり、竹童を旅の独楽まわしと思っているので小姓たちは、城内で聞きかじっていたことを、みんなベラベラしゃべってしまった。
事実だ。伊那丸の遭難はまことであった。ああ、大事はついにきた。
「ウウム、もうこうしてはおられない!」
と竹童の眼はわれ知らずかッと燃えた。
その真剣な気ぶりに、万千代や小姓たちが、少しあとへさがったのをしおとして、かれはまた、ふたたび芸にとりかかるような身構えをキッと取り、
「では! 竹生島神伝の魔独楽!」
と、こえ高らかに叫んで――
「――小手しらべは剣の刃渡りッー」
片手に独楽――まわすと見せて、一方の手に、般若丸の脇差を抜きはなったかと思うと、杉の根もとにつながれている、クロの綱をさッと斬った。
紫電のおどろきに、鷲は地をうってユラリ――と、空に足をちぢめた。
ふたたび帰らぬ高き上に。
「あ、あ、あッー」
と、不意をくったとんぼ組の小姓たちは、旋風にまかれた木の葉のように、睥睨する大鷲の腹の下で、こけつ、まろびつ、悲鳴をあげて、
「逃がすな」
「いまの独楽まわしーッ」
「あッちへいった!」
「鷲も逃げた!」
「それ」
「そらッ」
「追ッかけろ!」と走りだした。
見れば竹童もまッ先に馳けてゆく。
竹童は鷲を追い、万千代は竹童を追い、小姓とんぼは万千代のあとからあとから――
いつか茜いろの曠野は、海のような青い黄昏とかわっていた。草をけって、追いつ追われつする者たちには、十方なにものの障壁もない。
すると不意に、
さきへ走った竹童が、するどい気合いをあげて、なにやら、虚空へ棒のようなものを投げあげた。
クルクルと螺旋に舞って、それが、空の藍へとけ入ったかと思うと、高いところで、かッ、という音がひびいた。そして、前の棒切れが反落してくるのと一しょに、クロの巨影もそれにつれて真一文字に地へ降りてきた。
そしてやがて。
「独楽まわしのにせ者め」
「鷲をかえせ、鷲をかえせ」
声をそろえて、そこへ万千代たちのなだれてきたころには、すでに、地上に竹童のすがたもなく、大鷲の影もなかった。
ただ、あッ気にとられていた眼へ、ふとうつったものはちょうどそのとき野末をはなれた、大きな宵月の光に、なにやら知れぬものの影が、草の上をフワフワとさまよった――それだけであった。
おお、お小姓とんぼの坊ッちゃんたち!
三方ヶ原をあとにしながら下に月光の山川を見、あたりに銀鱗の雲を見ながら、鞍馬の竹童は鷲の上から叫ぶのである。
これはもともとおいらの鷲だ。
おいらのものはおいらに帰る。なんのふしぎもないはなしだ。蛾次郎みたいに、ぬすんで逃げるのとはわけがちがう。
独楽でだましたのは悪かったけれど、おとなしくクロを渡してくれといっても、かせといってたのんでも、浜松城の腕白坊ッちゃん、けっして、すなおには承知しないでしょう。だから、あんな詐術をやりました。
それも武田一党のため。ああ、しかも伊那丸さまの危難を知った日に、この鷲が、ふたたびじぶんの手にかえるとは、天がこの竹童をあわれんでか、果心居士さまのお護りであろうか。
なにしろ、おいらは、これからいそがなくってはならない身だ。久しぶりでこのクロを、じぶんひとりで、ほしいままにのってかけるのだが、いまは、その翼の力さえなんだかおそい心地がする。
クロよ、ひとはたきにとんでくれ。
小太郎山へ、小太郎山へ。
右少将徳川家康、いつになく、ほころんだ顔をしている。ごきげんがよいのである。
常に、かれが気にしている秀吉が、近ごろメキメキとはぶりをよくして、一挙に桑名の滝川を陥し、軍をかえして北国をつき、猛将勝家の本城、北ノ庄にせまって、抜くべからざる勢力をきずき、北陸の豪族前田利家と仲をよくしたという間諜もあった。
で、はなはだ、かれの気色がうるわしくない。
どこかで秀吉がつまずけかし、と祈っているのに、その反対なうわさばかりが飛んできて、ここしばらくの間、かれの心を楽しませぬのであった。
しかし、きょうはいたって和らかい眉目である。
がんらい、家康という人、心のうちの喜怒哀楽を色にださない質である。いつも、むッつりと武者ずわりをして、少し猫背になりながら、寡言多聞を心がけている。ひじょうに狡猾で気むずかしく、腹ぐろい人相のようでもあり、ばかに柔和であたたかい相好のようにも見える。だから、その顔を好くものは深くしたしみ、忌みきらうものはまたひどくきらう。
めずらしく、酒宴をのべていた。
多くの近侍や旗本をあいてに、ほがらかな座談。それが倦むと、つづみの名人大倉六蔵に、鼓をうたせて聞きとれる。
そこへ、おそく酒宴にまねかれた、菊池半助が末席にすわった。隠密のものは、禄は高いが士格としては下輩なので、めったに、こういう席に招じられることはない。
半助のすがたをチラリと見ると、
「鼓をやめい」
と盃を取って、
「かれへ」
と、近侍へ取りつがせた。
破格な盃をいただいた半助へ、人々は羨望の目を送った。そして、半助、なにかよほど手柄をやったな、とささやいていた。
そういう様子をながめながら、家康はまた、近う、とかれをまぢかく呼んで、
「数日来のはたらき、まことに、過分である」
と賞めことばをあたえた。めったに、人を賞めない家康、これもあまりないことである。
「は」
とのみいって、半助は平伏していた。
伊賀衆のなかでも、隠密の上手とは聞いたが、なんという光栄をもった男だろうと、人々の目は、いよいよかれと主君とにそそがれていた。
「して、こんどのことに、偉功を立てた、和田呂宋兵衛は、いかがいたした」
「せっかく、ご酒宴のお招きをうけましたが、まだ身分の定まらぬ浪人境界で、出席はおそれおおいと辞退しましたので、手まえの屋敷にのこしてまいりました」
「そうか、野武士でも、なかなか作法を心得ている。そちの家に食客しているあいだ、じゅうぶんにいたわってとらせろ。そのうちに、なにか、適宜な処置をとってつかわす」
「かれが聞きましたなら、さだめし、ご恩に感泣いたしましょう」
「ながらく捕らえ得なかった武田伊那丸、またふたりの者まで、一網に召捕り得たのは、いつにかれの訴えと、そちの手柄じゃ」
「は、ご過賞、身にあまるしだいでござります」
「当日、都田川の刑場で、伊那丸を斬る太刀とり役、それも呂宋兵衛とそちとに申しつけてあるが、用意万端、手ぬかりはあるまいな」
「じゅうぶん、ご奉行とともに、お打ち合せをいたしますつもり」
「矢来、高札、送り駕、また警固の人数など、そのほうは?」
「いちいち、手配ずみでございます」
「またその日はうわさを聞きおよんで、あまたの領民があつまるにちがいない。甲賀組、伊賀組の者、残りなく狩りだして、あやしい者の見張りに放ちおくように」
「変装組百人ばかり、もう今日のうちに、ご領内へ散らしておきました」
「ウム、ではもう牢内の、武田伊那丸、加賀見忍剣、木隠龍太郎、その三人を都田川にひきだして首を洗って斬るばかりか」
「御意。もはや、裾野の雲は晴れました」
「甲斐ざかいの憂惧がされば、これで心を安らかにして、旗を中原にこころざすことができるというもの。家康にとって、伊那丸はおそろしい癌であった。幼少ながら、かれの行く末は浜松城の呪いであった。それを捕らえ得たのは近ごろの快事、いずれも斬刑のすみしだいに、恩賞におよぶであろうが、その日のくるまでは、かならず油断せまいぞ。よいか、半助」
さては、家康のごきげんなわけは、伊那丸が捕らえられたことであるか。と一同はうなずいて、徳川家のため、暗雲の晴れた心地がした。そして、城を退ったものは、このうわさを城下につたえて、その日のくるのを、心待ちにしていた。そして、かつて軍神の信玄が、甲山の兵をあげて、梟雄家康へ、乾坤一擲の血戦をいどんだ三方ヶ原。
そのいわれのある古戦場で、その信玄の孫が、わずかふたりの従者とともに、錆刀で首を落とされるとは、なんと、あわれにもまた皮肉な因縁よ!
と、気の毒がるささやきもあれば、心地よげに嘲む三河武士もある。
とにかく、春もくれかかる東海道の辻には、そのうわさが、なにかしら、人に無情を思わせた。
すんだ笛の音が流れてくる。
鬼一管とか天彦とかいう名笛の音のようだ。なんともいえない諧調と余韻がある。ことに、笛の音は、霧のない月明の夜ほど音がとおるものだ。ちょうど今夜もそんな晩――。
そこは、白樺の林であった。
さらぬだに白い斑のある樺の木に、一本一本、あおじろい月光が横から射している。
笛がとぎれた時の、シーンとした静寂と冷気とは、まるで深海の底のようだ。けれど、事実はおそろしい高地なのだ。
小太郎山の中腹、陣馬ヶ原の高原つづき。
かの、伊那丸の留守をあずかる帷幕の人々、民部や蔦之助や小文治などが、天嶮を擁してたてこもるとりでの山。
笛は喨々とうむことなく、樺の林をさまよっている。やがて、そこに人かげがうごいた。見ればひとりの美少女である。長くたれた黒髪に、蘭の花をさしていた。
その人かげのあとから、幾年も朽つんだ落葉をふんで、ガサ、ガサと、歩いてくる者があった。小具足をまとった武士である。
七、八本の槍が、月光をくだいてギラギラとした。
「だれだッ!」
呼びかけると、ひとりの手から、黄色い閃光が三角形に放射された。
龕燈のあかりのなかに浮きたった少女のすがたをみると、
「おお、咲耶子さま――」
と、目礼して、武士たちは、樺の林をぬけてしまった。とりでを見張る番士たちである。
そのうしろ姿を、咲耶子はたのもしい思いで見おくった。ああして、寝ずに、夜なか、あかつきもこの要害を見まわっている人々の忠実さに感謝した。そして、まだこのとりでに雪のあるころ、山をくだって京都へ向かった伊那丸の上にも、どうぞ、この山のように無事があるように――と祈った。
咲耶子は裾野にいたころから、月の夜に笛をすさびながら歩くのが好きであった。この小太郎山にきてからは、ことに白樺の林に、ほのかな蘭の香のながれる道を、しずかに歩むのが好ましく、今夜も陣馬の搦手から、月にさそわれて、思わず夜のふけるのを忘れてしまった。
「おお、ひえびえとしてきた。二子山に見えた月が、もうあんなに遠い谷間にある。……あまり遅うなっては、さだめし、民部さまや小文治さまがおあんじなされているかもしれぬ……」
そう思いながら、それでもまだ、帰る道をむなしく歩いていくことはおしそうに、狛笛をとって、その歌口を湿しはじめる。
するとどこかで、びゅうッ――という風のような音がした。だが、樺の梢はゆれてもいなかった。野呂川のひびきにしては一しゅんである。いや、それは天地をゆく音ではなく、高いところをかすめた音響にちがいなかった。
「なにかしら? ――」
咲耶子はいそいで林をかけぬけた。
陣馬の高原には、さまざまな植物の花が、露をふくんで黒々と眠っていた。ここに立てば、昼は東の真正面に富士の銀影や裾野の樹海がひと目にながめられ、西には信濃の山々、北には甲斐の盆地、笛吹川のうねり、村、町、城下の地点までかぞえられる。
「耳のせいであったか、それとも、やはりただの風か? ……」
見まわした空には、なにものの影も見あたらなかった。ただ、しずかに黙している、月はある、星はある。
ふたたび、狛笛の音が高くすんだ。そして咲耶子が、われとわが吹く音色にじぶんをすら忘れかけたころ、さらにすさまじい一陣の疾風が、月のふところをでて、小太郎山の真上をびゅうッ――と旋回しはじめた。
「オオ!」
咲耶子は、笛を唇からはなして、高く高くうちふった。
「――竹童ではないか! 鷲! 鷲! 竹童の鷲よ――」
おどり立つばかりに叫んだが、すぐにまた、笛を持ちなおして、息いッぱいに、空へ向かって高らかに吹く。
砦の灯は、夜はまったく隠されてあるので、このあたりの重畳たる山の起伏に、どれが目ざす小太郎山か、宙に迷いめぐっていた鞍馬の竹童も、やっと、その音を聞きあてた。
こころみに鷲の上から、下界へ向かって、声いっぱいに、
「咲耶子さまーッ」と呼んでみる。
小手をかざしてみれば、いちめんの高原植物、月光と露に繚乱たるなかに、ぽちりと、ひとりの少女のすがたが、ありありと立って見えた。
少女は笛で呼んでいる。
竹童もまた声をはって、
「咲耶子さまア。咲耶子さまアー」
巨大なる波紋を宇宙にえがきながら、だんだんに陣馬の地上へくだってきた。
ただならぬ怪影を見つけた砦の番士は、なにかとおどろいて、変を小幡民部につげた、その夜、自然城の山曲輪には、巽小文治と山県蔦之助も、虫の知らせか、しきりに伊那丸の安否や、随従していった忍剣と龍太郎から、なんの消息もないことなどをうわさし合っているところであった。
三方ヶ原をとんで、夜の空をいそいだ鞍馬の竹童は、そうして、小太郎山の同志へ、伊那丸の急変をもたらした。
かれは、かれの使命をとげた。一念を達した。
けれど、寝耳に水の変を聞いた、一党のものの驚きはどんなであったか。なかにも、小幡民部はその急報をうけるとともに、
「ううむ……」
と、深くうめいたまま、しばらく、いうべき言葉もなかったくらい。
山曲輪の一廓、評定場の扉はかたくとざされた。
ひそやかに、そこへ集まった人々は、むろん、帷幕の者ばかりで、民部を中心に、山県蔦之助、巽小文治。そして、竹童はそのまえに疲れたからだをすえ、咲耶子はうちしおれて、紫蘭のかおる黒髪を、あかい獣蝋の灯のそばにうつむけていた。
「竹童」
やがて、民部はおもおもしい顔をあげて、
「そちがさぐってきた、若君のご異変、また都田川の刑場でおこなわれる時日、かならずまちがいのないことであろうな」
「たしかに、そういないこととぞんじます。その刑場をつくる足軽のはなしや、またお小姓のいったこともみなピッタリと、合っております」
「すると、今宵もやがて夜明けに近いから、のこる日は明日だけじゃ……」
さすが、甲州流の軍学家、智謀のたけた民部といえども、この急迫な処置には、ほとんど困惑したらしく、憂悶の色がそのおもてを暗くしている。
「若君のご運命がそうなっては、もう、われわれもこの砦をまもる意義がない」
巽小文治は、悲痛なこえでいった。
「そうだ!」と蔦之助も嘆声をあわせて、
「このうえは、砦にのこる兵をあげて、小勢ながら裾野へくだり、怨敵家康の城地へ、さいごの一戦を」
みなまでいわせず、民部は首をよこにふった。
「そのとむらい合戦なら、すこしも、いそぐことはありますまい。いつでもできることじゃ」
「といって、むなしく、手をつかねておられましょうか」
「むろん、どうにか工夫をせねばならぬ。しかし、人数をくりだして、とおく浜松へ着くころには、若君のお命が、すでにないものと思わねばならぬ」
「おお、それもごもっとも」
と、蔦之助はまた悶々とだまって、いまはただ、この民部の頭脳に、神のような明智がひらめけかし、とジッと祈るよりほかはなかった。
「ともあれ、若君のご一命や忍剣や龍太郎を、いかにせば救いうるか、それが目睫の大問題であると思う。いたずらに最後の決戦をいそいで、千や二千の小勢をもって、東海道を攻めのぼったとて、とちゅうの出城や関所でむなしく討死するのほかはない。それでは、きょうまでの臥薪甞胆、伊那丸君のおこころざし、すべては水泡となり、また世の笑われぐさにすぎぬものとなる」
やはり民部の説は常識であった。
あくまで伊那丸を中心とする一党が、その盟主をうしなって、なんの最後の一戦がはなばなしかろう。どうしても、いかなる手段をもって、石に噛みついても! 伊那丸をたすけなければ意義がない! 武士道がない。
はなやかならぬ、また勇にのみはやれぬ、軍師のつらい立場はそこにあるのだ。
「ああ策は一つしかない」やがて、かれは決然といった。
「蔦之助どの、小文治どの、すぐに、旅のおしたくを!」
「や、われわれのみで? その他の味方は?」
「むしろ秘密に――」
と、民部は席をたって、太刀をはき、身ごしらえにかかった。
熟考の長さにひきかえて、意を決するとすぐであった。蔦之助と小文治も、膝行袴の紐をしめ、脇差をさし、手馴れの弓と、朱柄の槍をそばへ取りよせた。
「民部さま……」
咲耶子と竹童は、じぶんたちに指図のないのを、やや不満に思って、おなじように身じたくをしようとしながら、
「わたしも」
「わたくしも」
一しょに立つと、民部はそれを制して、
「ふたりは、どうかとりでのるすを護っていてくれい。なお、われわれがおらぬ間も、われわれがいるように見せかけて、こよい、三人が小太郎山をぬけだしたことは、かならず、敵にも味方にも秘密にしておくように」
そういって、評定場の床を上げた。
まっくらな空洞が口をあけた。
峡谷の一方へひくくくだっていく間道である。
「では」と、そこへ足を入れながら、民部はもういちど咲耶子と竹童をふりかえった。
「いまのたのみ、くれぐれも心得てくれよ、なにごとも若君のおためじゃ」
いなむこともならず、ふたりはさびしい目で見おくった。小文治と蔦之助は、目と目で別れをつげながら、民部につづいて、もくもくと間道の下へすがたを入れる。
ドーンと、下から入口をふさいでしまわれると、山曲輪の一室にはもう、竹童と咲耶子、たッたふたりきりになってしまった。
それから二刻か、一刻ばかりの後――。
味方の目をしのんで、一散に、ふもとへ走っていった小幡民部とほかふたりは、やがて、夜のしらしら明けに、麓の馬舎から三頭の駿馬をよりだして、ヒラリと、それへまたがった。
あいたいと、たなびく雲の高御座に、富士のすがたがゆうぜんとあおがれる。民部は、鞭をさして、
「ご両所!」と呼んだ。
「竹童のしらせによると、若君が刑場へひかれるのは、明日の夕方ということじゃ。きょう一日で、裾野から東海道のなかばまではかどれば、その時刻にようよう間に合おうかと思う。いや、たとえ、駒とともに血を吐くまでも、それまでに三方ヶ原へかけつけねばならぬ」
「おお、もとよりそれぐらいなこと、この場合になんのことでもござりませぬ。して、その時には?」
「なんの手段をめぐらす時間もない。ただ、群集のなかにまぎれて、せつなに、矢来のなかへ斬りこみ、若君をはじめふたりの盟友を救いだすばかり」
「心得ました」
小文治は腕をうならせて、朱柄の槍をからぶりさせた。
さっさつたる朝の風が、駒のたてがみをこころよく吹き散らす。
ひゅうッ、と一鞭あてると、三騎はそのまま馬首をそろえて、東へひがしへ疾走していった。
やがて、やがて、渺茫とした裾野と、はてなき碧落が目の前にめぐりまわってくる。
海のようだ。五月の裾野、五月の大気。
目のとどくかぎり、十何里、ただ一色の青ずすきが、うねうねと風のままに波に似たる、波を立てている。
そのなかを、いとも小さな三騎がはしっていく。
風にかくれ、風に見え、風をついて疾走する。
ああまだ東海道へはへだてがある。なお浜松や三方ヶ原には間がある。覚悟のとおり、あの三騎は、とちゅうで血を吐いてしまいはせぬだろうか。
かかる場合は、千里をとぶ逸足ももどかしく、一日の陽脚もまたたくひまである。すでにその日は、天龍川のほとりに暮れた三騎のひとびと、はたして、翌日の午後までに、刑場の矢来ぎわまで、馳けつけることができるのであろうか?
ついに、その日、その時刻はきた。
都田川の右岸には、青竹をくんだ矢来の先が、針の山のように見えている。そのまわりに、うわさを聞きつたえて集まった群集が、ヒシヒシと押していた。
夕ぐれの風が、矢来の竹にカラカラとものさびしい音を鳴らすほか、むらがった大衆も、シーンとして、水のようにひそまっていた。
さっき、浜松の城下から、三方ヶ原をとおっていった裸馬には、まだおさない公達と、僧形の者と六部のすがたがくくりつけられて、この刑場へ運ばれてきたから、もうほどなく、首斬りの役人が、太刀に水をそそぐであろうと、予想するだけでも、みんなの息がつまってくる。
と――丁字形に幕をはった矢来のすみの溜り場から、くろい服をまとった男が、のっそりと刑場のまン中にでてきて、ジロジロと矢来の周囲を見たり、天をあおいでなにかつぶやいているようす。
「おや、伴天連がきています」と、みんな、耳や口をよせあっていた。
すると、ややおくれて、矢来の死門から三人の縄つきがひかれてきた。菊池半助がその縄取りのうしろから、おごそかに口をむすんでくる。
「ごくろうでした」
「そこもとにも」
と、伴天連と半助は、こう会釈をして、すぐに刑吏へさしずして、死座をつくらせ、血だまりの穴をほらせ、水柄杓をはこばせる。
あなたには奉行、検視の役人などが、床几をすえて、いそがしくはたらく下人たちのようすをながめ、ときどき、なにか下役へ注意をあたえている。
かけやを持ったひとりの男は、やがて、三ツの死のむしろのそばへ、三本の杭をコーン、コーンと打ちこんだ。
「それッ」と、菊池半助が、時刻をはかって目くばせする。
「武田伊那丸ッ、立て!」
まっ先の杭へ、あらあらしく引きずってきて、ギリギリ巻きにいましめの端をからめつけた。
むしろの上にすえられた姿は、悄然と、うつ向いていた。さすがな家康も、その身分を思ってか、衣服は着けたままの白綸子、あきらかに、武田菱の紋がみえて、前髪だちのすがたとともに、心なき群集の眼にも、あわれに、いたいたしい涙をもよおさせる。
さらに、ひどかったのは、つぎの、法師すがたのものと、白衣の人をあつかった刑吏の待遇である。打つ、蹴る、あげくの果てに、伊那丸と同じように引きすえて、何か、口あらくののしりちらした。そのふたりも、ついにはこらえかねて、刑吏にするどい言葉を返していた。
だが、目は布をもってふさがれ、両手は杭にしばりつけられている二人の怒声は、むざんな役人たちの心に、ありふれた、世迷い言としかひびかなかった。なお、矢来のそとの群集には、そのありさまを見るだけで、ことばの意味は聞きとれない。
「罪人どもの泣きほえるのを、いちいち取りあげていては果てしがない。それッ、時刻の過ぎぬうちに支度をせい」
こう、奉行役人が、大きな声でどなったのは、だれの耳にもわかった。
「太刀取りのお方――」
と、目くばせすると、それまで、小気味よげに三人をにらんでいた伴天連風の怪人は、
「半助どのに、代理をお願いいたしたい。この呂宋兵衛は、さきごろ桑名で少し右腕をいためておりますので……」
と、辞退した。
その妖異なすがたをした者こそ、伊那丸の通過を密告して、またうまうまと徳川家のふところに食い入ろうとして、猫をかぶっている和田呂宋兵衛である。
呂宋兵衛の辞退をきくと、半助は、だれも刑場へでると、一種の鬼気におそわれる、その臆病風に見舞われたなと、苦笑するさまで、
「さようか。では、不肖ですが、半助代刀をつかまつります」
と、奉行にもいって、刑吏の手から、無作りの大刀をうけとり、すぐに、鞘をはらった。
小柄杓の水を、サラサラと刃にながして、その雫のしたたる切ッさきを、まず、右の端にいた者の目の前につきつけて、
「忍剣ッ!」
と、声をかけた。
白布で、目をふさがれている法師すがたは、その時、顔をあげ、肩をゆすぶッて、なにやら、無念そうに叫ぼうとしたが、
「徳川家に仇なすやつ、やがて、あとからいく伊那丸の先駆けをしろッ」
という、半助のののしりに消され、それと同時に、戛然と剣がひらめいた。
バサッ――と血しぶきが立った。
とたんに、俯ッ伏せとなった死骸の斬り口から、百千の蚯蚓が走りだすように血がながれた。矢来のそとに息をのんでいた群集も、さすがに、目をそむけて、手につめたい汗をにぎりしめた。
「木隠龍太郎ッ――」
つづいて、こう叫ぶ声がしたので、こわいもの見たさの眼をソッと向けてみると、袴の裾に、返り血をつけた半助のすがたが、すさまじく斬れた大刀へ、ふたたび手桶の水をそそぎ直して、つぎの者へズカリと寄っていったかと思うと、
「龍太郎ッ! 覚悟は? ――」と、光流をふりかぶった。
「覚悟? そんなものはないッ」
と、どなることばもおわらぬまに、風をきる刃がはすかいに下りて、白衣の全身がまッ赤になった。
あとは伊那丸ひとりだ。
菊池半助はゆうゆうとして、三人目の成敗にかかろうとしている。
点々たる返り血は、夜叉のように、かれの腕や袖をいろどった。
哀寂な夕雲は、矢来の上におもくたれて、一しゅん、そこを吹く風もハタと止んだ。
ああ、ついに間に合わなかった。
小幡民部。
山県蔦之助。
巽小文治。
かれらはなにをしているのか!
いそぎにいそいで、小太郎山から疾駆してくるとちゅうで、馬もろとも、血を吐いてぶったおれたのか。あるいは、もう、そのへんまで――三方ヶ原の北のへんまでは、きているのか!
それにしても、ああ、もう大事は過ぎてしまった。
一党になくてはならない盟友、加賀見忍剣はたおれている。木隠龍太郎も血の中に俯ッ伏してしまっている。
と――思うまに菊池半助の無情な刃は、颯然と、伊那丸の襟もとへおちた。
目をおおうべし。
菊池半助が気をこめた刑刀は、一閃、ひゅッと虹光をえがいて、伊那丸のすがたを血けむりにさせた。
「アーアー」
群集はただ、こう口からもらしただけであった。正視するにしのびないで、なかには、矢来につかまったまま蒼ざめた者すらある。
八双截鉄の落剣! 異様なる血の音を立って、武田伊那丸の首はバスッとまえにおちた。
胴はそのとたんに死座から前向きにガクッとつっぷしてしまう。あの小袖につけた武田菱の紋も、朱に染まって、もうビクリともしなかった。
完全な死だ、完全な断刀だ! 家康もまた選りによって斬れる刀を、刑吏へ授けたものとみえる。
忍剣を斬り、龍太郎の首をうち、いままた伊那丸を刑した半助は、さすがに斬りつかれがしたとみえて、滴々と、血流しから赤い雫のたるる刃をさげて、ぽうッとしばらく立っていた。そのあたりの草いッぱい、曼珠沙華という地獄花が咲いたように、三ツの死骸の返り血が斑々とあかく燃えている。
斬刑がすんで、浜松城からきている奉行や検死役人などは、みな床几を立ちはじめた。入りみだれて立ちはたらく下人たちの間に、血なまぐさい陰風が吹く。
ひとつ星、ふたつ星。……空は凄愴な暮色をもってきた。だが、矢来のそとの群集は容易にそこをさろうとしない。
「ああ、いやな気持になった! はじめのうちはおもしろかったが、なんだかいまになって毛穴がゾーッとしてきやがった。へんなもんだなあ、人の斬られるッていうものは」
矢来にたかっている数多の中で、こういった、ひとりの見物人がある。
「親方! 親方はなんともないような顔をしていますね」
つれの男は太い口をむすんで、黙然と、刑場のなかを見つめていた。革胴服にもんぺを穿き、脇差をさした工匠風、だれかと思うと、秀吉の追捕をのがれて、竹生島から落ちてきた上部八風斎、いまではもとにかえって鏃鍛冶の鼻かけ卜斎。
しゃべっているのは蛾次郎だった。
「だけれど、考えてみると、伊那丸もかわいそうだな。ちょっと、旗上げのまねをしたばかりで、もう首を斬られちまった。忍剣も龍太郎もとうとう冥土のお相伴。アアいやだいやだ死ぬなんて。ねえ親方、こういうところを見ると、やっぱり富士の裾野あたりで、テンカンテンカンと鏃をたたいているのが一ばん安泰ですね」
卜斎はそばのおしゃべりへ、耳もかさずに腕組みをしていた。
だが蛾次郎は、卜斎が返辞をするとしないとにかかわらず、ひとり所感をのべている。
「これで、木から落ちた猿みたいに、ベソをかくのは竹童だろう。この見物のなかにあいつがいたら、いまの景色をどんな顔して見ているだろうな……オヤ、もうおしまいかしら、役人がみんな幕のかげへはいってしまった――つまらねえな。ア! 非人がきたぞ非人が、三ツの死骸をかたづけるんだな。やあいけねえ、伊那丸の首を河原の方へ持っていってしまやがった。ホウ、あんなところの台へ首をのせてどうするんだろう、龍太郎の首も、忍剣の首も――アア、獄門というのはあれかしら? 親方親方、あれですか、獄門にかけるッていうことは?」
指差しをして卜斎の顔を見あげたが、その卜斎は、蛾次郎とは、まるで見当ちがいなほうに目をすえているのであった。
さっきから、なにを見ているんだい親方は?
と――蛾次郎も卜斎の視線にならってその方角へ目をやってみると、竹矢来の一角、そこはいまあらかたの弥次馬が獄門台と掲示の高札を見になだれさったあとで、ほのあかるい夕闇に、点々と、かぞえるほどの人しか残っていなかった。
卜斎は最前から、そこばかりをじっとにらんでいた。横目づかいの白眼で――
蛾次郎の注意もはじめて同じ焦点へ向いた。
とたんに、
かれ蛾次郎の目の玉が、デングリかえるようにグルグルとうごいた。そしてその睫毛がせわしなくパチパチと目ばたきをし、眉に八の字をこしらえた。なにか叫ぼうとした唇が上下にゆがんだが、いう言葉さえ知らぬように、鼻の穴をひろげたまま、アングリと口をあいて茫然自失のていたらく……。
あたかも磁力にすいつけられてしまったよう。そも、泣き虫の蛾次郎および親方の卜斎までが、なにを見てそんなにぼうぜんとしているのかと思えば――それも道理、ふしぎ! イヤふしぎなどという生やさしい形容をこえた、あるべからざる事実が、そこに、顕然とあったのである。
見れば北側の矢来そと、人かげまばらなあとにのこって、なにかヒソヒソとささやき合ってる旅人がある。よくよく凝視するとおどろいたことには、それが、たったいま、刑場のなかで首をおとされたはずの忍剣、龍太郎、伊那丸の主従三人。
あやしいといってもこれほど怪異なことはない。菊池半助が、大衆環視のなかでたしかに斬った三人――しかもその血汐は、なおまざまざと刑場の草をそめており、その首は都田川の獄門台にのせられているのに!
その人間がここにいる。
話している。
笑っている。
ときどき、じぶんの首がのせられた獄門台のほうを見ている。
そして微笑する。
くすぐったいように――不審なように――ささやき、うなずき合っている。
卜斎が眼をはなさなかったのもあたりまえ。
蛾次郎が鼻から息を吸ったままぼうとあッけにとられてしまったのももっともだ。
人ちがいじゃないか?
とも思って、眼をこすって見なおしたが、やはり記憶はいつわらない。どう見てもあの三人、菊池半助にバサと斬られた三ツの首の主にまぎれはない。
すなわち武田伊那丸は、眉目をあさく藺笠にかくし、浮織琥珀の膝行袴に、肩からななめへ武者結びの包みをかけ、木隠龍太郎は白衣白鞘のいつもの風姿、また加賀見忍剣もありのままな雲水すがた、手には例の禅杖をつっ立てている。
「ウーム……親方……」
蛾次郎はうなるように卜斎を見あげた。
「……はアて……」と卜斎もまたしきりに首をひねっていたが、
「どうもわからぬことがあるものだ。弥次馬にはなにもわかるまいが、わかる者から見ていると、世の中の裏表は、じつに奇妙だ。いや裏が表だか、表が裏だか、こう見ているとおれにさえわからなくなってくる」
「まったくです!」と蛾次郎も相槌をうって、
「斬られた首が本ものの伊那丸か、見ている首が本ものか、なにがなんだか、さっぱりワケがわからなくなっちまった」
「そりゃもちろん、あっちのやつがにせ者だろう」
「テ、どっちがです?」
「矢来のそとに立っているやつらよ」
「すると、生きてるほうの伊那丸ですか」
「ウム、方々の落武者や浪人で、飯の食えない侍などは、よく名のある者のすがたと偽名をつかって、無智な在所の者をたぶらかして歩く手輩がずいぶんある。おおかたそんな者たちだろう」
「だって親方、それにしちゃ、あんまり似過ぎているじゃありませんか。ちょっとそばへいって、わたしが目利きをつけてきましょう」
「これッ、よけいなとこへ突っ走るな」
「へい!」
「ばかめ、すぐに調子に乗りおって!」
「でも……」
と蛾次郎は河豚のようにプーッとふくれた。――なにもそう頭からこんなことをガンと叱らなくッたってよかりそうなもんだと。
と思ったが、卜斎に袖をひっぱられたので、気がついた。うしろに、いやな目つきをした町人が立っている。
うさん臭い目つきをして、じぶんたちの挙動に注意しているらしい。蛾次郎は口をむすんで、あわてて夕星へ顔をそらしながら、
「親方、そろそろ晩になりましたネ」
と空とぼけた。
「もどろうかな、ご城下へ」
「帰りましょうよ。はやく、宿屋のご飯が食べたい」
空の星がふえるのと反比例に、地上の人影はぼつぼつへっていた。ふたりは矢来のきわをはなれながら、それとなく気をつけたが、いつのまにか疑問の三名は忽然とかげを消して、あたりのどこにも見えなかった。まるでたったいま、ありありと見えたあの姿が、まぼろしか? 人間の蜃気楼でもあったかのように。
妖麗な夜霞をふいて、三方ヶ原の野末から卵黄色な夕月がのっとあがった。都田川のながれは刻々に水の色を研ぎかえてくる、――藍、黒、金、銀波。
そして河原はシーンとしてしまった。秋のようだ。虫でも啼きそうだ。獄門台の釘に刺された三ツの首は、その月光に向かっても、睫毛をふかくふさいでいた。
そばには生々しい新木の高札が立ってある。
いつぞやこの原の細道で、足軽がになっていくのを竹童がチラと見かけた、あの高札が打ってあるのだ。――といつの間にか、その立札と獄門の前へ、三ツの人影が近づいている。
「わしの首級がさらしてある」
こういったのは、伊那丸の首のまえに立った伊那丸である。
「これが拙者の首でございますな」と龍太郎も、おのれの首をながめて笑った。
「じぶんの首と対面して話をすることはおもしろい。これ忍剣の首! よくそちの面体をわしに見せろ」
加賀見忍剣は禅杖を持ちかえ、いきなり、獄門台の首のもとどりをつかんで月光に高くさし上げ、
「は、は、は、は。運のわるい弱虫の忍剣め、つぎの世には拙僧のような不死身を持って生まれかわってこい。喝! 南無阿弥陀仏ッ――」
ドボーンと都田川の流れへ首をほうりこんだ。
その水音があがったとたん。
獄門番の寝るむしろ小屋から、銀の鞭をたずさえた黒衣の伴天連、豹のごとくおどりだして、
「計略ッ、図にあたった!」と絶叫した。
だれかと思えば、それこそ、和田呂宋兵衛なのであった。
「ウウむ、網にかかった!」
と、呂宋兵衛の叫びにこたえてどなったのは、隠密頭の菊池半助、いつのまにか、三人の背後に姿をあらわして、
「しめた! 伊那丸主従のやつら、そこを去らすな」
と四方へ叱咤する。
同時に、ピピピピピ……と二人が音をあわせて吹いた高呼笛につれて、河原のかげや草むらの中から蝗のように、わらわらとおどり立った百人の町人。これ、その日見物のなかにまぎれこませておいた菊池半助配下の伊賀衆、小具足十手の腕ぞろい、変装百人組の者たちであった。
さらに見れば、川向こうから三方ヶ原のおちこちには、いつか、秋霜のごとき槍と刀と人影をもって、完全な人縄を張り、遠巻きに二重のにげ道をふさいでいる。
そのおなじ日の落ちゆく陽脚をいそいで、まだ逆川に夕照りのあかあかと反映していたころ、小夜の中山、日坂の急をさか落としに、松並木のつづく掛川から袋井の宿へと、あたかも鉄球がとぶように、砂塵をついて疾走していく悍馬があった。
くろく点々と、その数三頭。
いうまでもなく小太郎山から、伊那丸の急変に鞭をはげましてきた小幡民部、山県蔦之助、巽小文治の三勇士である。
天龍の瀬を乗っきって、遮二無二笠井の里へあがったのも夢心地、ふと気がつくと、その時はもう西遠江の連峰の背に、ゆうよのない陽がふかく沈んで、刻一刻、一跳一足ごとに、馬前の暮色は濃くなっていた。
「暮れたぞ! 暮れたぞ!」
蔦之助は鞭も折れろとばかり、ぴゅうッと馬背を打ってさけんだ。馬もはやいがより以上に、こころは三方ヶ原にいっている。
「刑場はもう近い! 落胆するな、気をくじくな!」
と、民部はいよいよ手綱に勢をつけて、そればかりはげましてきた。
しかし、ああしかし、その三方ヶ原の北端をのぞんだ時には、もう夕刻とはいいがたい、すでに夜である。草と平にうっすらとした月光さえ流れてきた。
すると原の道をちりぢりにくる人かげが見えだした。みな浜松の城下へかえっていく見物人である。それを見ると巽小文治は、
「ウウム、ざんねんッ――間に合わなかった! もはや刑場のことがすんだとみえて、みなあの通りにもどってくる」
と、歯がみをして、われとわが膝を、かかえている槍の柄でなぐりつけた。
民部のようすもさすがに平色ではなかった。それを見ても、なお気をくじくなとははげましきれなかった。かれは、道々すれちがった町人に、都田川のもようをたずねたがそれは、みな伊那丸以下のものが、菊池半助の斬刀に命をたたれて、その首級も河原の獄門にさらしものとなった、という答えに一致していた。
絶望! 三人は馬から落ちるように草原へおりて、よろよろと腰をついてしまった。
民部はものをいわなかった。小文治も黙然とふかい息をつくのみだった。蔦之助もまた暗然と言葉をわすれて、無情な星のまたたきに涙ぐむばかり……
「ぜひがない! おれは一足さきにごめんこうむる!」
小文治はいきなり脇差をぬいて自分の腹へつき立てようとした。と一しょに蔦之助も、
「おお、この期になってなんの生き甲斐があろう。小文治、拙者もともに若君のお供をするぞッ」
と、同じく自害の刃を取りかける。
「これッ――」と、民部は叱りつけるような語気で、左右にふたりの腕くびをつかみながら、
「なにをするのかッ!」
「おたずねはむしろ意外にぞんじます」
「死のうという考えならしばらくお待ちなさい」
「すでに伊那丸君がごさいごとわかった以上は、いさぎよくお供をして、臣下の本分をまっとういたしとうござります」
「ご心情はさもあること。しかしまだそのまえに、臣としての役目がいくらものこされてある。都田川にかけられた御首級をうばって、浄地へおかくし申すこと。また刑刀をとった菊池半助を討って、いささか龍太郎や忍剣の霊をなぐさめることも友情の一ツ。さらに、しばらくこらえて小太郎山の味方をすぐり、怨敵家康に一矢をむくいたのちに死ぬとも、けっして若君のお供におくれはいたしますまい」
民部のかんがえ方は、どういう絶望の壁に打つかっても、けっして狂うことがなかった。情熱の一方に走りがちな蔦之助や小文治は、それに、反省されはげまされて、ふたたび馬の背にとび乗った。
そしてふと。
夜色をこめた草原のはてを鞍上から見ると――はるかに白々とみえる都田川のほとり、そこに、なんであろうか、一脈の殺気、形なくうごく陣気が民部に感じられた。
「はてな? ……」
眸をこらしてみつめていると、ときおり、面をなでてくる微風にまじってかすかな叫喚……矢唸り……呼子笛……激闘の剣声。
「計策は図にあたったぞ!」
と呂宋兵衛がさけび、しめたと菊池半助がいったところからみると、きょう都田川でおこなわれた刑罪は、家康が呂宋兵衛と半助にふかくたくらませてやった、一つの計りごとであったことはうたがいもない。
すなわち家康は、さきに伊那丸の主従が、桑名からこの浜松へはいってくるという呂宋兵衛の密告はきいたが、容易にそのすがたを見出すことができないので、奉行所の牢内にいる罪人のうちから、同じ年ごろの僧侶と少年と六部とをよりだし、服装までそれらしく似かよわせて、わざとことごとしく斬らせたのだ。
つまり、虚をつたえて実をさそう、ひとつの陥穽を作らせたのだ。そしてかならず、その日の見物のうちには、まことの伊那丸や龍太郎が入りまじってくるにちがいないといった。で、群集のなかには、百人の伊賀衆を変装させてまきちらし、片っぱしからその顔を改めていたのである。
はたして、伊那丸の主従は、捕らえられもせぬじぶんたちが、きょう刑場で斬られるといううわさを聞いて、奇異な感じに誘惑された。
にせ首を斬らせて、まことの首を得ようと計ったもくろみは、かれらにとって筋書どおりにいったのである。
もとより龍太郎も忍剣も、この奇怪な事実が、意味もないものだとは思わなかったが、そうまでの落とし穴とは気がつかなかった。
「あッ!」
と獄門台のそばをはなれたときには、すでに、敵影八面に満ちている。
呂宋兵衛は、今夜こそ伊那丸をとらえて、家康にひとつの功を立てようものと、銀鞭をふるってじぶんたちの一味、丹羽昌仙や早足の燕作や、二、三十人あまりの野武士たちを、獣使いのようにケシかけた。
菊池半助はその側面にかかって、部下の変装組に、激励の声をからした。軽捷むひな伊賀者ばかりが、百人も小具足術の十手をとって、雨か、小石かのように、入れかわり立ち代り、三人の手足にまといついてくるには、野武士の大刀などよりも、むしろ防ぎなやむものだった。
龍太郎の戒刀は、四角八面に斬って斬って、柄まで血汐になっていた。
一揮風をよび、一打颯血を立てるものは、加賀見忍剣の禅杖でなくてはならない。さきに身代りの自分の首に引導を渡して、都田川へ水葬礼をおこなった快侠僧、なんとその猛闘ぶりの男々しさよ! 生命力の絶倫なことよ!
見るまに、かれと龍太郎の犠牲となる者のかずが知れなかった。そのふたりにまもられながら伊那丸も小太刀をぬいて幾人か斬った。だが、かれは敵をかけまわして浴びせかけることはしない。身を守って、よりつく者を斬りたおすばかりであった。
それは、平時に民部の教えるところであった。民部は伊那丸を勇士猛夫の部類には育てたくなかった。器の大きな、徳のゆたかな、品位と天禀のまろく融合した名将にみがきあげたいと念じている。
伊那丸はそうして最後を見ていた。
しずかに、覚悟の機会を待っていた。
いくら、追っても斬りふせても、三方ヶ原からわいてでる敵の人数は、少しもへっていくとは見えない。
そして、都田川を背水にしいて、やや、半刻あまりの苦戦をつづけていると、フイに、思いがけぬ方角から、ワーッという乱声があがった。
「それッ、獄門の御首級をうばえ」
「うぬ、伊那丸さまのかたきの片われ!」
と、馬首をあげておどってきた影! 黒々とそこに見えた。
そのまッ先に乗りつけてきたのは、朱柄の槍をもった巽小文治である。
「退けどけどけ、邪魔するやつはこの槍を呑ますぞ」
とばかり、まっしぐらに獄門台の前まできたが、
「やッ、み首級がない!」
「なに、み首級がないと? さては逃げたやつらが素早くどこかへかくしたのだろう。それ、向こうの河原に馳けたやつを引きとらえてみろ!」
蔦之助は馬上からそこの高札を引きぬいてふりかざし、どっと、十四、五間ほどかけだしたが、あッ――と思うまに蔦之助、くぼの草かげから閃めいた銀鞭にはらわれて、馬もろとも、ドーンともんどり打ってたおれてしまった。
「やッ、どうした?」
と、小文治が乗りつけてみると、ひとりの怪人、蔦之助を組みふせて鋭利な短刀をその胸板へ突きとおそうとしている。
「おのれ!」
くりだした槍。
黒衣の影は、そのケラ首をつかんでふりかえった。
「あッ、呂宋兵衛」
とおどろいたせつなに、小文治の馬も屏風だおれにぶったおれた。朱柄の槍先をつかんでいた呂宋兵衛も、それにつれてからだを浮かした。
「得たり!」
とはね起きた蔦之助、持ったる高札で黒衣の影に一撃をくらわせた。すごい声をあげたのは呂宋兵衛、したたかに肩を打たれたのだ。そして疾風のごとく逃げだした。
追おうとすると横合から、小文治の馬腹をついた菊池半助が、槍をしごいてさまたげた。
「よし、ひきうけた」
と朱柄の槍がからみあう。
黒樫の槍と朱柄の槍、せんせんと光を合わしてたたかっている。
それは小文治にまかせて、蔦之助は逃げる呂宋兵衛を追っていく、へんぺんと風をくぐって同じ色の闇にまぎれていく黒衣のはやさ、たちまち見うしなって河原へくだると、不意に、引っさげていた高札が、屋根板のようにくだけて手から飛んだ。
「何奴?」と大刀をぬく。
相手に眼をつけるまもあらばこそ、ぶーんッとうなってくる鉄の禅杖。
発矢、火花!
「待てッ!」と、うしろで伊那丸がさけんだ。
「蔦之助ではないか! 忍剣、待て!」
「オオ加賀見――ヤヤ、そちらにおいで遊ばすのは若君? ……」
とあっけにとられて立ちすくんでいると、そこへ奇遇におどろきながら、小幡民部と龍太郎がうちつれて馳けつけてくる。
小文治も相手の半助をいっして、かなたこなたをさまよった後、やがて、ここの人かげを見つけて走ってきた。
はしなく落ちあった主従は、かたく手をとって喜びあった。
どうしてここへ?
どうして生きて?
同じ問いが双方の口をついてかわされた。
嵐のような声つなみがいくたびかくりかえされて、月は三方ヶ原の東から西へまわった。
渋面をつくった呂宋兵衛と、にがりきった菊池半助とが、片輪や死骸になった味方のなかに立ってぼんやりと朝の光を見ていた。
敵はどうした! 敵は?
陽が高くあがったが、その行方はついにわからなかった。
家康の不首尾な顔が思いやられる……
「どうするんだ、この復命を?」
「どうするったッて、ありのままに申しあげて、おわびを願うよりほかにない」
「計略はうまくあたったんだが……」
「あんな助太刀がうしろを衝いてこようとは思わなかったからなあ」
気をくさらして、疲れたからだをグッタリと草の上に投げあった。その顔へ、ブーンと虻がなぶってくる。
「ちイッ……」
と半助は舌打ちをした。
そのころ武田伊那丸は、ゆらゆらと駒にゆられて、大井川の上流、地蔵峠にかかっていた。
五人の屈強なるものが、その前後につきしたがっている。
この裏道をくるのにも、とちゅう、一、二ヵ所の山関があったが、小人数の関守りや、徳川家の名もない小役人などは、この一行のまえには、鎧袖一触の価すらもない。
山路の険しさはあるが、道は坦々、無人の境をすすむごとしだ。
武田一党のまえには、洋々としたひろい光明が待っているかと感ぜられる。見よ! もう大根沢の渓谷のあいだから、莞爾とした富士のかおが、伊那丸の無事をむかえているではないか。
立って地蔵峠の頂からふりかえると、もう三方ヶ原は遠くボカされて、ゆうべのことも夢のようだ。
あおい駿河の海岸線の一端には、家康の居城が、松葉でつつんだ一個の菓子のごとく小さく望まれる。
「さだめしいまごろは、あのむずかしい顔を一そうむずかしくしているだろう」
と思う想像が、みんなの顔に、禁じえないほほえみをのぼせた。
なにか、今日ばかりは、はればれしい旅ごこちがした。伊那丸も民部も、そして、龍太郎やそのほかの者も。
そう思うこころの矢さきへ、峠の間道を、のんきな唄がとおっていった。崖の下へきた時に、小文治がのぞいてみると、裾野で見おぼえのある鼻かけ卜斎、唄は、おともの蛾次郎が、大きな口を天へむかって開いているのだ。
「オヤ」
と、向こうで気がついて、すぐわき道へ影をかくしたので、一行の者もあえて追わず、そのままさきをいそいでゆく。
そしてようよう、駿遠の山境を踏破してきた。もとより旅人もあまり通らぬ道、里数はあまりはかどらない。服織という二、三十戸の山村、みな素朴な山家者らしいので、その一軒へ伊勢の郷士といつわって宿をかりた。
はいった家は、その村の長の邸らしい。
土着の旧家らしい土塀や樹木が、母屋を深くつつんでいた。
渓流へいってからだを洗い、宿の主にひかれて、奥の一室へ落ちつくと、床に一幅の軸がかかっていた。それはその部屋へはいったとたんに、だれにもすぐ目についた。
伊那丸はサッと色をかえて、
「亭主」と案内してきた村長を見おろした。
「はい、なにかお気にさからいましたか」
「この石摺りの軸はどうしてそちが手に入れた」
「ああ、それは石摺りと申しますか。じつはわたしにもよく読めませず、へんなものだと思いましたが、このあいだ、村へまよってまいりました妙な老人が、宿をかりた礼にといって、自分でかけてまいりましたので、そのままほッておいたのでござります」
「忍剣、龍太郎。これを見い!」
と伊那丸はさらに床の間にちかづいて指さした。それまでは他の者も、なにか、得体の知れない、ただ岩の肌へ墨をつけてそれを転写した碑文かなにかと思っていた。が、そういわれてよく見ると、まっ黒な黒と白い筋のあいだに二行の文字が刷りだされてある。
「あッ!」龍太郎はぎょッとした。忍剣もふしぎにたえない面持であった。
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
小太郎山の砦はあやうし
いつか、京都の舟岡山、雷神の滝の岩頭に、果心居士が彫りのこしていった二行の予言!
それが岩のしわ目と文字の痕をほの白く、そッくりそのまま、石摺りに写ってここにあるのではないか。
勝頼と伊那丸のことを、未然に暗示した一行の文字はいま思えばあたっていた。戦慄すべきもう一行の予言! 小太郎山の砦があやういとはどういうわけか? それは伊那丸にも民部にも、どうしてもわからなかった。
村長の話をきけば、数日前に、この家へとまって飄然と去ったという妙な老人というのこそ、どうやら果心居士であるような気がする。
躑躅ヶ崎の館というのは、甲府の町に南面した平城である。
平城というのは、天嶮によらず平地にきずいた城塞のことで、要害といっては、高さ一丈ばかりの芝土手と、清冽な水をあさく流した濠があるだけだ。
土手は南北百六間、三ツの郭にわかれ、八門の石築に出入りを守られている。
青銅瓦のご殿の屋根、樹林からすいてみえる高楼づくりの朱の勾欄、芝の土手にのびのびと枝ぶりを舞わせている松のすがたなど城というよりは、まことに、館とよぶほうがふさわしい。
甲斐の土は一歩も敵にふませぬ。
終生このことばをもって通した信玄には、ものものしい要害は無用であった。けれど、勝頼が敗れたのちは、その躑躅ヶ崎の館も、織田の代官の居邸となり、さらにそののち火事泥的に甲府へ兵をだしてかすめとった小田原の北条氏直が持主にかわった。
氏直が甲府を手にいれたと知ると、家康は眉をひそめた。
「もし小太郎山と甲府とが結びついたら? どうだろう?」
想像するだけでもおそろしいことだと思った。
で、かれ一流の反間苦肉の策をほどこし、奇兵をだして、躑躅ヶ崎の館をうばった。それは、伊那丸が京都へいっているあいだのできごとであった。
大久保石見守長安は、家康の腹心で、能役者の子から金座奉行に立身した男、ひじょうに才智にたけ算盤にたっしている。家康はその石見守を甲府の代官とした。そして甲州には昔からの金坑があるから、できうるかぎりの金塊を浜松におくれと命じた。
でなくてさえ強慾な石見守は、私腹をこやすためと家康のきげんをとるために、金坑掘夫をやとって八方へ鉱脈をさぐらせる一方に、甲斐の百姓町人から、ビシビシと苛税をしぼりあげて、じぶんは躑躅ヶ崎の館で、むかしの信虎時代もおよばぬほどなぜいたくをきわめている。
「畜生ッ、あばれるか! 手向かいをすると耳をきるぞ! 脛をぶッぱらうぞ! 歩けッ、歩けッ、うぬ歩かんか」
腕まくりをした若侍が八、九人。
いま、躑躅ヶ崎の石門のなかへ、ひとりの百姓をしばりつけてきた。
「おとうさんを助けてくださいませ! もし、おとうさん、あやまってください、お武家さま、堪忍してあげてくださいませ」
十五、六の女の子。その百姓の娘らしい。人目もなく泣きながら若侍の腕にすがりつくのを、
「えい、きさまも片われだ!」と、大きな掌で頬をなぐった。
娘はワーッと声をあげて泣く。百姓は気狂いのように猛る。それを仮借なくズルズルと引きずってきて、やがて、大久保石見が酒宴をしている庭先へすえた。
「なんだ、そのむさくるしい人間は?」
石見守は、近習に酌をさせながら、トロンとした眼で見おろした。若侍は膝をついて、
「こいつ、ただいまご城下の辻で、信玄の碑のまえへ供物をあげながら、徳川家のことを悪ざまにのろっておりました」
「斬ッてしまえ」
酒をふくみながら石見守はかんたんにいった。
「ついでに、あの信玄の石碑なども、濠のそこへ投げこんでしまうがいい。あんなものを辻にたてておくから、いつまでも百姓や町人めが、旧主をわすれず新しい領主をうらみに思うのだ」
若侍はただちに刀を抜いた。
石見守は盃を重ねて見てもいなかったが、バッと音がしたので庭先へおもてを向けてみると、もう百姓と娘の死骸がふたところにつッ伏していた。
「殿さま!」
そこへ、ひとりの小侍が、あわただしい足音をさせて、一封の早打状をもたらしてきた。
大きな黒印がすわっている。徳川家康の手状だ。
「おッ、なんだろう?」
かれも少し酒の気をさまして、いそがわしく封を切った。またその下にも封緘がしてある。よほど大事なことだなと思った。
「これ、伊部熊蔵をよべ、奥の鉱石庫にいるはずじゃ」
その手紙を巻きおさめながら、こういった石見守の顔色は尋常でない。
鉱山目付の伊部熊蔵、奥のほうから庭伝いにとんできた。大久保石見は酒席につっ立って、庭先にいる中戸川弥五郎という若侍へ、
「その見ぎたない百姓と娘の死骸を、はやくどこかへ取りかたづけろ」
と苦々しくいいつけて、
「おお熊蔵、むこうへまわれ、浜松からの早打状で、そちに申しつける急用ができた」
と、離室のほうへ顎をさして、そのなかへ密談にすがたをかくしてしまった。そして半刻ばかりすると、伊部熊蔵、躑躅ヶ崎の館の外郭へ駈けだしてきて、ピピピピと山笛を吹いた。
鉱石庫の外や内ではたらいていた荒くれ男は、その山笛をきくと持っている槌も天秤もほうりなげて、ワラワラと熊蔵のいる土手の下へあつまってきた。
「おい、すばらしい鉱脈が見つかったんだ」
熊蔵はこういって、鉱山掘夫一同の顔をジロリと見わたした。どれもこれも山男のようなたくましい筋肉と、獰猛な形相をもっていて、尻切襦袢へむすんだ三尺帯の腰には、一本ずつの山刀と、一本ずつの鉱石槌をはさんでいる。鷲のくちばしのようにするどく曲ってキラキラ光っている鉱山槌だ。
「ヘエ」と、みんなバカにしたような面がまえで、熊蔵のことばを冷笑した。
「どうして素人にそんなものが見つかったんですえ?」
「素人? ふふん、貴様たちみたいに、銅脈ばかりさぐりあてる玄人とはちがって、しかもこれは金鉱だ」
「ごじょうだんでしょう、めッたやたらに、そんな鉱山があってたまるもんですか」
「いやうそではない、すぐにこれから、その鉱山へ出立するのだ」
「まったくですか? そしていったいそりゃあだれが見つけた山なんで」
「浜松城のご主君、右少将家康様だ!」
「? ……」
みんなあッけにとられてしまった。家康公が鉱山掘夫の玄人だとはのみこめない……という顔だ。
熊蔵はすこしキッとなって、山目付らしい威厳をとった。
「で、これは家康公の直命にひとしいのだから、鉱山へいくとちゅうで、イヤの応のとしぶるやつは、ようしゃなく打ッた斬るからさよう心得ろ」
「へい」
「頭数は?」
「六十人ばかりで……」
「よし、向こうへいけば、まだ人数がいるはずだから、これだけでいいだろう。五足ずつの草鞋と三日分の焼米を腰につけて、すぐに西門のお濠ぎわへ集まりなおせ!」
さて。
躑躅ヶ崎の館をでた六十人の鉱山掘夫。
伊部熊蔵にひかれて、甲府の城下を西へ西へとすすみ、龍王街道から釜無川を駈けわたり、やがて、山地にさしかかった。
「どこだい、ここは」
「御勅使川の裾じゃねえか」
「ふーむ、まだ山はあさいな」
「どうやら、ゆくさきは信濃か飛騨だぜ」
ドンドンドンドン、駈けていく。
「沢へでたな」
「水びたしじゃ草鞋がたまらねえ」
「向こうの山は?」
「大唐松よ」
「峠へきたな、どこだいここは」
「べらぼうめ、鉱山掘夫がいちいち山の名をきくやつがあるものか。トノコヤ峠、雨池の下り勾配、ヌックと向こうに立っているのが、甲信駿の三国にまたがっている白根ヶ岳と鷲の巣山だ」
「だが、オイ」
「なんだ」
「いったいどこまでいくんだろう」
「さあ、そいつはおれにもわからねえ、さきへいくお目付の熊蔵さまに聞いてみねえ」
「へんだな、妙だな、だんだん鉱気のねえ山へはいっていくぜ。打つかるなア、水脈ばかりだ」
しかり、鉱山掘夫六十人、その時、野呂川の流れに沿って、上流へ上流へと足なみをそろえていた。
森々と深まさる檜の沢、タッタとそろう足音が、思わず足を軽くさせる。
と思うと、伊部熊蔵、
「オイ、止まれ」とうしろを向いた。
六十人の額からポッポと湯気がたっている。
そこは小太郎山のふもとであった。
「止まれ」
といわれた鉱山掘夫、汗をふきながらあたりを見て、みんなけげんな顔をしながら、伊部熊蔵のさしずをうたがった。
ばかにしてやがら! といわんばかりに、気の荒い山掘夫のひとりが、
「もし、熊蔵さま!」と、突っかかってきた。
「なんだ、雁六」
「ここは小太郎山じゃあねえんですか」
「そうだ、小太郎山の東麓だが、それがどうかいたしたか」
「どうかしたかもねエもんです、じょうだんじゃアねえ、いいかげんにしておくんなさい」
と小頭の雁六が腹をたてて、岩に腰をおろしてしまったので、以下六十人の山掘夫も、みんなブツブツ口小言をつぶやきながら、ふて腐れの煙草やすみとでかけはじめた。
こんな日傭稼ぎなどになめられて、山目付というお役目がつとまるものかと、伊部熊蔵、ひたいに青筋を立ってカンカンになりながら、
「こら! 山掘夫どもッ。だれのゆるしを得て勝手に煙草休みをするか。躑躅ヶ崎をでた時からきっといいわたしてあるとおり、拙者の命にそむくことは大久保石見守さまの命にそむくも同じこと、石見守さまのおいいつけにそむくことは、すなわち、家康公のご命令をないがしろにいたすも同様だぞッ」
そういいながら、いきなり腰の刀をぬいて素ぶりをくれ、猛獣使いの鞭のように持った。
「いいつけを守って、すなおにはたらく者へは、後日、じゅうぶんな褒美をくれるし、とやこう申すやつは斬ってすてるからさよう心得ろ」
「ですがお目付さま、いくら働けといったところで、こんな鉱気のないくそ山を、掘り返したところでしようがありますまい」
「イヤこの山には金鉱の脈がある! すなわち家康公にとっての金脈があるのだ! これからそれをさがしにかかるのだから、ずいぶん骨を折るがよい。いまもいったとおり、首尾よくいけば莫大なご褒美がある仕事だから」
「どうもさっぱり腑に落ちませんが、おそらく骨折り損のくたびれもうけでございましょう」
「よけいなことはいわんでもよい。さ、一服吸ったら八方へ手を分けて、まず第一に間道らしい洞穴をさがしてみろ」
「ヘエ、洞穴を」
「ウム、洞穴だ! かならずどこかに頂上へ抜けでられる穴口があるはずだ」
「そしてそれをどうするんで?」
「いずれ要所要所には、石扉を閉てたり岩石や組木を組んで、ふだんは通れぬ仕掛けになっているだろう。それをおまえたちの槌でいけるところまで掘りぬいていくのだ」
「へえ? ……そうして」
「そうして不意にとりでの郭内にあらわれ、岩くだきの強薬を爆発させて、砦にるすいをしているやつらがあわてさわぐまに、小太郎山を乗っとってしまう! むろん、これだけの人数ではむずかしいが、砦のなかにはまえまえから、こっちの味方が諜者になって入りこんでいるし、火薬の爆音をあいずとして、甲府表から、いちどきに家中の者が攻めかけてくる手はずとなっておるのだから、いわばわれわれは乗っ取りの先陣、願うてもない誉れをつとめるわけなのだ」
おどろいたのは小頭の雁六、ほか六十人の山掘夫たちである。
金脈だ金脈だというので、なにも知らずにきてみれば、命がけの合戦をやるのだ。間道からもぐりこんで、とりでをかきまわすという危ない役目、鉱山の坑へ細曳一本で吊りさがるよりは、まだ危険だ。
「こんなことならついてくるんではなかった」
と、いまさら臍をかんでも追いつかない、後陣には石見守の家中がうしろ巻をしているといえば、逃げだしたところで、すぐと捕まって血祭りになるのは知れている。
「だが、こんな奥ぶかい山地に、だれのとりでがあるのであろうか」
と、そこで一同、はじめて麓から山を見あげて見たが、峨々たる岩脈と雲のような樹林の高さを仰ぎうるばかりで、城らしい石垣も見えず、まして、ここに千も二千もの人数が、立てこもっているとは思われないほど、森々として静かである。
ぜひなく観念した鉱山掘夫は、伊部熊蔵の指揮のもとに小太郎山の東のふもと、木や草をわけて八方へ散らかった。
なにせよ、荒仕事と山には馴れきった者ばかり、手に手に鷹のくちばしのように光る鉱石槌を持ち、木の根にひっかけ、崖によじ、清水と岩脈のかたちをさっして、それらしい所をさがし廻っているうちに、ひとりが深い熊笹の沢の上で、
「あった! 間道が見つかった!」
と、大声でさけんだ。
小頭の雁六が、ピューッと口笛を一つ吹くと、上から、下から伊部熊蔵をはじめすべての者のかげが、ワラワラとそこへ駈けあつまった。
見ると、たけなす山葦と笹むらにかくれて、洞然たる深い横穴がある。
「これだ!」
と、熊蔵が、用意の松明を持たせて中にすすむと、清水にぬれて海獣の肌のようにヌルヌルした岩壁を、無数の沢蟹が走りまわったのに、ハッとした。
「雁六、この穴はどうだ?」
「掘ったものです。しかも、まだ新しく掘った穴にちがいありません」
「ウム、それじゃてっきり、山曲輪へ通じる間道だろう、先を一つさぐってみてくれ」
「合点です! オイ松明を持った野郎はさきに立て」
あとからあとからと、山葦をわけてザワザワと中へはいった。そして、奥へすすめば、すすむほど、土質の肌目があらく新しくなってくる。ところどころに、土をくりぬいた段があった。段をのぼると平地になり、平地をいくと段がきりこんである。
かくて、かなりの暗黒をうねっていくと、やがてゆきどまりの岸壁にぶつかった。あらかじめこうあることとは、石見守からもいわれてきた熊蔵、
「それッ」
というと、山ほりたち、合点といっせいに腰の槌をひきぬいて、金脈だ金脈だ! 家康公から恩賞のでる金脈だとばかり、たちまちそこを掘りぬけた。
荒鉱を掘ることを思えば、なんの造作もないひと仕事。
抜けると、カーッと陽が照っていた。
小太郎山第一の峡!
孔雀の背なかを見るような燦鬱として真っさおな、檜林の急傾斜、それが目の下に見おろされる。
「ウム、ちょうど山の二合目だ」
目のくらむような陽をあびて、狼群のように、はいかがんだ人数、向こうに見える次の間道を目がけてゾロゾロゾロゾロはいこんだ。
さざえのなかをくぐるように、また二つめの間道をしばらくのぼると、山の五合目虚無僧壇とよぶところ、暗緑色の峡を隔てた向こうと、丸石を畳みあげた砦の石垣、黒木をくんだ曲輪の建物らしいのがチラリと見える。
だが、千仭の深さともたとうべき峡谷には、向こうへわたる道もなく、蔦葛の桟橋もない。
「オ、あれに三ツ目の間道がある」
伊部熊蔵がこういったので、みなそのあとからついていった。まさしく、こんどは間道らしい間道である。まっ赤な松明をふり廻して、シトシトシトシトいそぎだした。と――こんどは段もなく、井戸のような深い穴口へでた。そこに一本の鉄棒が横たえられ、蔓梯子がブラさがっている。
それより他にいきようはないので、いずれまた、段々と上へのぼることになるのであろうと、一同はそれにすがって下りていくと、その深いことはおどろくくらい――、下りるとまたうねうねと道々がある、まるで富士の胎内くぐりという形だ。
「はてな?」
と地中の闇を馳けながら、小頭の雁六は首をかしげた。
「妙だぞ、妙だぞ、いっこう上りになってこない、なんだかだんだん下る」
「いやそんなはずはない、こういううちに、しぜんと頂上のとりでの中にでるにちがいない」
と、伊部熊蔵はがえんぜない。ますます足を早めていった。
するといきなり眼の前に、ドウーッと真っ白なものが光った。青い光線がひえびえと流れこんできた。見るとそれは岸をあらう渓流である。岩をかんで銀屑をちらす飛沫である。
岩壁の一たんに、ふとい鉄環が打ちこんであり、環に一本の麻縄か結びつけてあった。で、その縄の端をながめやると、大きな丸太筏が三そう、水勢にもてあそばれてうかんでいる。
はてな? いよいよ、はてな? である。
熊蔵も雁六も、すこし道順がわからなくなってきた。まえには渓流、うしろは暗黒!
「ままよ。いくところまでいって見ろ。つぎには第四の間道があるだろう」
そう多寡をくくって、三そうの筏に飛びうつり、向こうへ渡ろうとしたのであるが、思いのほか水足がはやく、鉄環の縄をきるやいな――ザアッと筏は下流のほうへ押されてしまった。
そしてやっと、水勢のゆるい瀞へかかった時、向こう岸へはいあがって見ると、ああなんということだ!
見るとそこは、さっき一同が甲府から指してきた時に、汗をしぼって一列に駈けた野呂川の右岸で、その胎内の間道をくぐり、その絶頂のとりでへでようとこころみた小太郎山そのものの姿は、唖然として立った六十人の眼のあなたに――。
かなり離れた渓流の向こうに、むらさきばんだ昼霞をたなびかせ、なにごとも知らぬさまに聳えている山の容こそ、小太郎山ではないか。いま、げんに、その山の腹をくぐり登っていたはずの山ではないか。
山掘夫、山にもてあそばる!
その時、穴に入るまえはらんらんとかがやいていた太陽が、もう西へまわって朱盆のように赤くくすんでいた。
その高原の一角に立てば、群山をめぐる雲のうみに、いま、しずもうとしている太陽の金環が、ほとんど自分の視線よりは、ズッと低目なところに見える。
で――まッ赤な逆光線の夕やけに照らされている小太郎山の上、陣馬ヶ原いちめんは、不可思議な自然美にもえあがっていた。
みやま菫の濃いむらさき色、白りんどうの気高い花、天狗の錫杖の松明をならべたような群生、そうかと思うと、弟切草や茅がやの穂や、蘭科植物のくさぐさなどが、あたかも南蛮絨毯を敷きのべたように、すみきった大気もみださぬほどな微風になでられてあった。
「竹童さアーん、竹童さアん! ……」
やがてだれかのこう呼ぶ声がする。
咲耶子であった。
彼女はいま、砦の二の丸から、崖をよじてこの高原にのぼってきた。
「竹童さアーん!」
二つの掌を口にかざしながら、雲とも夕霧ともつかない白いものにボカされている果てへ、声かぎり呼び歩いてきた。返辞がない。
つねに目なれている景色ではあるが、そこのうるわしいながめにも足もとの花にも、なんの魅力を感ぜずに咲耶子は、ひたすら、すがたの見えない竹童をあんじていた。
きょうの午ごろまでは、じぶんと一しょに、砦のおくの櫓に、きのうと同じように油断なく小太郎山を見張っていたのに、いつのまにか櫓を下りていったきりかえってこない。
この四、五日のあいだは、小幡民部をはじめその他の人たちが、とおく三方ヶ原まで伊那丸の危急を救いにかけつけているだいじな留守! その留守のあいだは、味方の武士がこめている砦とはいえ、けっして油断をしてはならないのに、あの子はまアどこへいってしまったのだろう? ……
「ほんとに、竹童さんはまだ子供だ。もう日が暮れようとしているのに――わたしにこんな心配をさせて」
咲耶子は不安にたえぬように眉をひそめた。
夕餉どきに帰りを忘れてあそんでいる弟を、父や母が怒らぬうちにとハラハラしてさがす姉のような愛が、彼女の眼にこもっていた。
「竹童さアーん……」
そうして、自分の身の危険を、一歩一歩とわすれていった。
「もしかすると?」
露にぬれる草履のグッショリと重くなったのも感じないで、例の樺の林のほうへかけだして見た。林のあさいところの木は、一本一本薄い夕陽の紅になすられているが、奥のほうはもう宵のような闇がただよっている。
そこでもまた呼んで見た。
五たび六たびも、あかずにかれの名をよんだ。
だが林の奥から、さびしい木魂がかえってくるだけで、オーイと、あの快活な竹童の返辞はしてこない。
「おや?」
咲耶子は妙な音にきき耳を立てて、林のやみへ眸をこらした。なにか非常に大きな力が樹木をゆすったように思える。
われをわすれ、樺の密林へ馳けこんだ。見ると、なかでも大きな一本の樺の木に、あの竹童の飼っている荒鷲がつながれてあった。その飼主の名を呼んだので、羽ばたきをしたのであろうと、愛しく思えたが、
「おまえをかわいがっている竹童さんはどこへいったか?」
と、禽に聞いてみるよしもなかった。咲耶子はまたすごすごとそこをさった。
すると、大蛇の背なかのようなものが、笹を分けてザワザワと彼女についていく――それはかなりまえから先のかげをねめまわしていたのであるが、咲耶子は知らなかった。
林の道が三ツ股にわかれているところへくると、その左右にも、ふたりの人間がかがんでいて、足音を聞くとともに、ムクッとうごいたよう……
「だれじゃッ?」
はげしくいって、キッと小脇差に手をかけて立ちどまると、甲虫のような茶色の具足をつけた侍が、いきなりおどりあがって左右から二本の槍をつき向けた。
「咲耶子! しずかにしろ」
「ヤッ、おまえたちは、外曲輪の番卒ではないか」
「ばかをいえ、おれたちは大久保長安さまからたのまれて、それとなくまえから野武士をよそおい、この砦へさぐりに入っている黒川八十松、団軍次郎という者、どうだ胆をつぶしたか」
「大久保長安? ――やや、すると、おまえたちは、慾に釣られて敵の諜者に買われたのじゃな」
「知れたことだ! 武田伊那丸は留守、小幡民部もでていったこの砦は、もう空巣同然、入れ代ってきょうからは、大久保石見守さまが下り藤の旗差物と立てかわり、家康公のご支配となる。神妙に縄にかかってしまえ!」
「なに、縄にかかれと?」
「オオ、甲府城躑躅ヶ崎まで曳いてこいという、石見守さまの厳命、悪くあがくとこの槍に血ぶるいをさせるぞ」
「だまれ、たとえ伊那丸さまや一党のお方は留守であろうと、この咲耶子と竹童が留守をあずかる以上、おまえたちに、なんで、おめおめと小太郎山を渡してよいものか。侍のくせにして、慾に目がくらんで味方を売る裏切りもの、多くの部下の見せしめのため、陣馬ヶ原で討ち首にしてあげる」
「なまいきなッ」
と、いわせも果てず、ひとりが長槍をくりだしてくるのをかわして、咲耶子は手ばやく呼子笛を吹きかけた。
と――うしろから地をはってきた曲者、跳びかかってその喉首をしめあげる。だが、彼女も屈しはしない。裾野にいたころは富士の山大名の娘――胡蝶陣の神技――猛獣のような野武士のむれを自由自在にうごかした咲耶子である。
手を廻してその腕くびをつかんだかと思うと、あざやかに、大の男を肩越しに投げた。
「うッ、おのれ」
と二本の槍は、風を吸って十字の閃光をかく。
咲耶子は口にくわえた呼子笛を、力いッぱい、ピピピピピッ……と吹きたてながら、陣馬ヶ原のお花畑へ走りだした。
だが、けんめいにふいた呼子笛は、とおき砦にいる味方をまねくまえに、あたりの悪魔を集めてしまった。
甲府の代官大久保石見守が、手をまわして入れておいた裏切り者はすべてで十二人、彼女の走りだすさき、さけるさきに、槍を取って立ちふさがる。
砦の一の曲輪、二の曲輪には、味方の郎党たちが二千人足らずはいるので、その者たちに知らせさえすれば、わずかな裏切り者ぐらいはなんのぞうさもなく片づけてしまうのであろうが、この陣馬の高原とそことは、平地にしてちょうど十町ほどの距離があった。
咲耶子は、ともあれそこへ近づいて、味方へこの急変を叫ぼうとあせった。で、追い走ってくる槍、横から突いてかかる槍の穂を、翻身、蝶のごとくかわしながら、白りんどうの花をけった。
「かれを二の丸へ近づけては一大事!」
と、追いまくした十二人の裏切り武士、そのなかでも剛力をほこる神保大吉は、九尺柄の槍をしごいて、咲耶子のまえへ馳けまわった。
彼女の手には尺四、五寸の小太刀がひかる。
からりッと、槍と小太刀がからみ合った。
小太刀は槍の柄を断ちきれず、白い穂先が肩をかすめてうしろへ抜ける。
手もとへもどして、穂みじかに構えなおした神保大吉は、咲耶子が右へよれば右へ、左へよれば左へ、ジワジワとおしていった。
そのまに、黒川八十松、団軍次郎、そのほかの者が、十二本の槍をそろえて、ドッ――と咲耶子の前後にかかる!
ああもういけない!
咲耶子は近よったひとりを斬って、ふたたび、樺の林へかけこんだ。そこでは、密生している木立のために、十二人がいちどきに彼女を取り巻くことができない。
団軍次郎と神保大吉は、それと見るや否、まっさきに林の細道へふみこんだ。そして、咲耶子を道の尽きるところまで追いこんで、ここぞと、気合いをあわせて、二槍一緒に彼女の胸板へ突いていった。
「あッ!」
一槍ははらったが――もう一槍!
大吉の突きだした大身の槍は、かわす間もなく、咲耶子の胸から白い顎へと!
しまった――と思うと。
不意にどこからかブン――と虻のようにうなってきたひとつの独楽が、槍のケラ首へくるくると巻きついた。むろん、槍は独楽の紐にひかれて、思わぬほうへたぐられてしまった。
「やッ?」
と神保大吉は、あたりのほの暗さに、それを独楽ともなんともさとらずに、力まかせに手もとへひく! と一方の独楽の紐も、負けずおとらず剛力をかけて引ッ張った。
すると、槍の柄に巻きよじれた独楽、双方の力にガラガラッと火を吹いて虚空にまわる――。
「おうッ!」
と目をおさえてたじろいだのは、あとからきた裏切り武士ども。すでに林の夜は濃く、あいての姿もかすかにしか見えない闇! そこに、一箇の炬火が廻っている! いな、廻っているのは独楽なのだが、あたかも、太陽のコロナのごとく、独楽はブンブン火を吹きながらまわっているのだ。
青か赤かむらさきか? なんとも見定めのつかない火の色、燿々とめぐる火焔車のように、虚空に円をえがいて馳けだしてきた!
「あッ」
と八方に逃げながら、その怪光をすかしてみると、独楽の持ち手はまぎれもない鞍馬の竹童。
「竹童だ! 竹童だ!」
だれの口からともなく戦慄の声がもれる。
「なに竹童? 多寡の知れた餓鬼ではないか、うぬ、おれが槍先に突っかけてやる」
神保大吉はこう豪語して、ふたたび槍を持ちなおしたが、おそかった!
びゅうと――独楽の紐がのびた。
「ひイッ」
と叫んだときは大吉の喉に、食いついたような独楽の分銅、ブーンとひとつ巻きついて、ふれるところに火焔をまわした。そして見るまにかれは顔を焼かれて悶絶した。
相手がたおれると火の魔独楽は、生きてるように竹童の手へもどった。そしてブンブンかれの片手に廻されている、次にはどいつの喉首へ飛ぼうかと。
「オオ、竹童がもどって見えた」
咲耶子はよみがえったような心地で、
「裏切り者じゃ! 徳川家の諜者じゃ。竹童ッ! はやく味方のものにこのことを」
「討てッ、早くかたづけてしまえ」
のこる十一人のうちで、黒川八十松がしきりとわめきたった。
「こんな者に暇どって、もし砦のやつらに感づかれた日にはこっちの出道をふさがれてしまうだろう――はやくそのふたりを殺してしまえ、もう生けどりにするなどといっていられる場合じゃない」
「おうッ」
「おおッ」
と叫ぶと、槍ぶすまはふたたび木立のあいだにギラギラ光った。
裏切[#ルビの「うらぎ」は底本では「うちぎ」]り者と聞いて竹童も、スワ一大事が起ったなと思った。林のなかでは使いにくい火独楽、めんどうとふところへ飛びこませて、
「咲耶子さま、ここは竹童がひきうけました。あなたははやく砦のほうへ」
「いや、おまえが早く知らせておくれ」
「おいらは新手だ!」
聞かばこそ、竹童。
般若丸の一刀をぬいて、いきなり、むちゃに、ひとりを斬った。
女性の咲耶子をこの危地にのこしておいて、男たるものが、知らせに馳けていくなんていやなこッた!
そのようすを見て、咲耶子はぜひなく、一方の槍ぶすまをつきぬいて、お花畑へ疾走した。そして、ひとりの男に、後ろからあぶない投げ槍をくわされたが、からくもかわして、すべり落ちるように、砦のおく、二の丸のうらへ降りた。
だが。
降りたとたんに咲耶子は、
「あッ――大へん!」
と、はじめて、まっくらになった、とおい眼下に気がついた。
いつか、あらゆる視界には、夜のとばりがおりていた。ただはるかな麓のほうに、野呂川の水の蛇の皮のような光と、やや東北によって、きわめてかすかな赤い空あかりをみとめることができる。そこはおそらく、武田家の旧領地、いまは、徳川家の代官支配となっている甲府新城躑躅ヶ崎の城下であろう。けれど、咲耶子をおどろかせたのは、水でもない、空でもない。
その甲府と小太郎山の中間あたり、すなわち釜無川のほとり、韮崎の宿から御所山の裾あたりにかけて、半里あまりの長さにわたっている、人である、火である、野陣の殺気である。
「見張りの者ッ――」
櫓をあおいで絶叫した。
「鐘を打て、鐘を打て! 番士、番士、門衛の番士たち! はやく貝をふいて武者だまりへ味方をおあつめッ――」
狂気のようになって、咲耶子は武者ばしりの柵際を呼びまわった。けれど、どうしたのか、オウ! といって物の具を引っかつぐ部下もなく、かんじんな櫓番のいるところさえ、無人のようにシーンとしている。
それもそのはず。
かねて今宵のことをもくろんでいる裏切り者は、夕方の炊事どきを見はからって、砦の用水――山からひく掛樋、泉水、井戸、そのほかの貯水池へ、酔魚草、とりかぶとなどという、毒草や毒薬をひそかに流しこんでおいたのであった。
竹童はクロの餌とするものを狩りにいっていたため、まだ夕方の食事をしていなかったし、咲耶子もかれをさがしにでて難をのがれていたが、それを知らずに飲み、毒水でたいた飯を食ったものは、おそらくちょうどいまが毒薬のまわってきた時分――
時刻はそれより少し前のこと――。
かの、小太郎山の間道へかかって、首尾よく築城の迷道をさまよい、もとのところへ舞いもどった伊部熊蔵と雁六、ほか六十人の金鉱山掘夫が、ぼんやりくたびれもうけをしていた時分なのである。
「ねエ、親方」
と、ばかに素でかい声をして、
「こんな歌を知ってますか、こんな歌を?」
と、檜の沢を伝わりながら、ぴょいぴょい歩いてきた小僧がある。
「どんな歌を?」
と、いったのはその親方とみえるへんな顔をした人で――見ると鼻かけ卜斎だ。
「水晶掘りの歌ですよ、これから甲州へいこうっていうのに、水晶掘りの歌ぐらい知らなくっちゃ幅が利きませんぜ、ひとつ歌ってみましょうか」
と、あいかわらずな泣き虫の蛾次郎。
鼻の穴を天じょうに向け、喉ぼとけの奥まで夕やけの明りに見せて、声いッぱい、いい気になって、歌いだしたものである。
どうせ山の中だというふうに、卜斎もかまわずにほうっておくもんだから――。
水晶! 水晶!
むらさき水晶は お染にやンべ
お染かんざしに 挿すよにサ
黒い水晶は 婆さまにやンべ
婆さまみがいて お寺にあげて
文殊菩薩の 入れ黒子
むらさき水晶は お染にやンべ
お染かんざしに 挿すよにサ
黒い水晶は 婆さまにやンべ
婆さまみがいて お寺にあげて
文殊菩薩の 入れ黒子
「なんだ、あいつは」
と、びっくりしてふりかえったのは、別なことでぼうとしていた金鉱山掘夫や熊蔵たち。
沢から平坦な道へとびあがったとたんに、大勢のあらくれ男やさむらいが、ひとところにたむろをしていたので、蛾次郎も急に間がわるそうな顔をして、でたらめな水晶掘りの歌をやめてしまった。
その蛾次郎はともかくも、卜斎の風体人相、ひとくせありげに見えたので、伊部熊蔵は雁六に目くばせをして、
「オイ、待てまて」と呼びとめた。
他郷に入って争いすべからず、利ある争いもかならず不利、――という諺は、むかしの案内記などにはかならず記していましめてあることだ。まして、相手が悪そうだから、卜斎も悪びれないで、
「はい」とすなおに腰をかがめた。
「どこへいくんだ、いまごろ?」
「甲府へまいります」
「なにをしに?」
「ちかごろ、甲府のご新城は、代がかわって、たいそう暮らしよいといううわさを聞きましたので」
「じゃあ、きさまは、武田家の時分よりは、いまの徳川の御代をありがたいと思ってゆくのか」
「さようでございます。昔からのご縁故で、わたくしは、どこでもよいから、徳川さまのご領地に住みたいと願っております」
「ふウム……そうか……」
と伊部熊蔵はわるい気持がしないようすだ。卜斎の目から見れば、この山目付らしい侍が、どこの大名に属している者かぐらいは、腰をかがめた時にわかりきっている。
「して、職業はなんだ? じつは、この街道は、今日すこしぶっそうなことがあるから、さきへいっても通してくれるかどうかわからない」
「ヘエ、それはこまりましたナ」
と卜斎、ぺしゃんこな鼻に皺をよせて、
「わたくしは、もと富士の裾野におりました鏃鍛冶で、徳川さまのご家中のお仕事をした者でございますから、なんとか、ひとつ無事に通れるようなおはからいをしてくださいませんか」
「ウム、それはしてやってもよいが」
と熊蔵が、手形を書いてやろうかと考えていると、雁六は、およしなさい、もし下手なまわし者でもあって、裏をかかれると大へんですぜ――というような目まぜをした。
「あ、いけないナ」
と卜斎は、その顔色で相手の肚を読みとおした。
で、こんどは如才なく、はなしの鉾先をかえて、なんでぶっそうなのか、事情をさぐってみようと考えた。
「いいえ、なんでございます……もしごつごうが悪ければ、わたくしにいたしましても、命が大事です。すこしあとへもどって、どこか安全な百姓家にでも泊めてもらいますで」
「ウム神妙なやつだ。なろうことなら、そうしたほうがおまえたちのためだろう」
「ですからお武家さま、失礼なことをうかがいますが、あなたがたはいったいなんのために、こんなところで日が暮れるのにたむろをしていらっしゃるんで? ……見れば、なにか、当惑そうなご様子にも思われますが」
「じつは、まことに少し当惑しておる」
「できることなら、ご相談に乗って進ぜようじゃございませんか。見ればどなたもお若い方、およばずながらわたしの方が、年をとっているだけに、いくらかその功がないこともございません」
「じゃ聞いてみるが、鍛冶屋」
「ヘイ」
「すこし商売ちがいな話だが、おまえの口ぶりでは、裾野からこのへんのことはくわしそうだ。知っていたら教えてくれ」
「エエ、なんなりとおたずねくださいまし」
「この小太郎山だが――」
と雁六が指さしたので、蛾次郎はもとより卜斎も、思わずギョッとした感じをうけた。
このふたりが、ひとまず、甲府へいって見ようという目的は、はじめから定めてきたことであるけれど、じつをいうと、今日は道にまよって、どこを歩いているのか見当がつかずにいたところである。
伊那丸の一党が立てこもる小太郎山の砦が、いま、立っている真上だとは、夢にも知らずにいただけに、身の毛を寒くしてしまった。
「ヘエ、ここがあの小太郎山? なアるほど」
とそらとぼけて、岩々と天を摩している山かげをあおぎながら、
「深いことは知りませんが、うわさにきけば、なんでもこの上には武田の残党がたてこもっている山城がありますそうで」
「そうだ! その砦へ抜けるために、じつは非常に苦心しているところじゃ」
「うえに人がいる以上は、かならずどこかに道がありましょう」
「あるにはむろんあるが、間道から不意に中へでたいと思う」
「おやすいことではございませんか」
「それがなかなか見つからぬのじゃ」
「地相、岩脈、山骨、樹姿、それらのものからよく観ると、どんな隠し道でもかならずわかるわけでございます。ことに、ここには野呂川があり、そこへ落ちる山瀬の水もありますことゆえ、水理を検討してゆきましても、それくらいなことは、さぐりあたらぬはずはございません」
「おまえ、たいそうくわしいな」
「は、は、は、は、は」
卜斎もわれながらおかしくなって笑いだした。
柴田権六に召使われていたころは、つねに、攻めようとする敵地へ先へはいって、そこの地勢水理をきわめておくのが自分の仕事であった。日本では何人と指を折られる築城の地学家、これくらいなことは、表看板の鏃をたたくことよりたやすいこと。
で、卜斎は瞬間にかんがえた。
世間はひろく歩いてみるものだ、――秀吉にはにらまれている身の上、家康の恩顧をうけるほかに生き道はないと考えていたら、これは、偶然とはいえ、願ってもないことにぶつかったものだ。
「どうですナ、お武家さま」と、さて、じぶんから口を切って、
「それほどおこまりのものならば、ひとつ、わたくしがこの砦のいただきへでられる道を、案内してあげようではございませんか」
「わかるか、きさまに」
「このふもとを、十町ばかり歩いてみれば、きっとさがしあててごらんにいれます」
「こりゃ天祐だ! そちにその間道がわかるとならば、ぜひとも一つたずねてくれ」
「よろしゅうございます。では、しばらくそこで一服吸ってお待ちください。そして、わかりましたところから松明を空へ投げるといたしましょう。――これよ、蛾次!」
「ヘイ」
「おまえ、あちらの方の持っている松明をお借りして、わたしのあとからついておいで」
「親方ア」
「なんだ」
「早く甲府へゆきましょうヨ」
「待て待て、せっかく、ご一同のお困りだ、ひと働きしてあげよう」
「だっても……」
「なにが、だってもじゃ」
「おらア、もうお腹がペコペコなんだもの」
「たわけめ! なにをいうか」
むこうで人足たちが、焼するめと焼米を頬ばっているのを見て伊部熊蔵、それが欲しい謎だろうとさっして、
「オイ、だれか、この鼻ッたらしに、なにか食い物をやってくれ」
といった。
蛾次郎はニヤニヤとなるのをかくしながら、
「親方、ここが小太郎山とはおどろきましたネ」
と思いだしたように小手をかざした。
扇縄の水の手――山城の貯水池をさして、そう呼ぶのである。
今。
小太郎山の砦は毒にまわされていた。
その扇縄の区域へ、裏切り者がひそかに毒をしずめたので、夕方の兵糧時に、すべての者の腹中へ、おそるべき酔魚草の毒水がめぐっている。
竹童をのこして、陣馬ヶ原お花畑の危変をのがれてきた咲耶子が、とりでの奥郭へとびおりざま、狂気のように、櫓番や武者だまりの侍へ、声をからして、呼んでも叫んでも、ひとりとして、オオとへんじをする者がない。
夜は灯を滅しておく習慣の城塞は、まッくらで、隠森として、ただひとりさけびまわる彼女の声が木魂するばかりだった。
「裏切り者がある。出合え! 出合え!」
なお、こう呼び立てながら、咲耶子はおくの郭から二の郭の中間、桝形の柵まで走ってくると、とうぜん、そこに夜半でも詰めていなければならないはずの武士が、声もなく寂寞として、木戸の口は開けっぱなしになっていた。
はじめて、ここにも大事が湧いているのを知って、咲耶子は、
「あッ」と、息をひいておどろいた。
見れば。
木戸の番小屋の前に、七人の部下が槍をつかんだまま悶々とのた打っている。
また、向こうの柵のそばには、見まわりの三人組が三人とも、胸に一本ずつの短刀をうけて、重なり合ってころげている。
「や、や、これは? ……」
と井楼の梯子を登ってみると、そこにも、眼を光らしていなければならないはずの見張役が、やぐら柱の根もとに、爪を立ったまま、息が絶えていた。
「毒! ……」
裏切り者のおそろしい詭計をさとって、彼女は、慄然となる胸をだきしめた。
と同時に咲耶子はまた、自分と竹童の肩にあずけられている責任をつよく思う。
「もしも、一党の方々のかえらぬ留守に、このとりでを失うようなことがあったら――」と。
そう考えるだけでも、ふさふさした黒髪が夜風に逆立ちそうだった。
「オオッ」とわれにかえると咲耶子。
「――この山城は三段郭、奥の砦のものは毒水をのんでたおれたにしろ、まだ八合目の外城のものは、無事でなにも知らずにいるかも知れない」
そう気がついて、やぐら柱にかけてあった陣貝の紐をはずし、金嵌の法螺貝にくちびるをあてて、息のあるかぎり吹いてみる。
バウー……バウウウウ……ッ。
序破急に甲音三声、揺韻をゆるくひいて初甲の音にかえる、勘助流陣貝吹き、「変アリ部ニツクベシ」のあいずである。
だが、さけんで反応がなかったように、その貝がとおく八合目へ鳴りひびいていっても、外城の柵から、こたえ吹きの合わせ貝が鳴ってこなかった。
「外城のものまでも、毒にまわされてしまったと見える、ああッ! ……」
絶望的な声と一しょに、思わず陣貝をとり落とすと、井楼やぐらの下の岩へ、貝はみじんとなってくだけた。
「咲耶さまッ」やぐらの下へだれかかけてきた。
「お、竹童! ――竹童さん?」
「貝合図は吹いてもムダです――扇縄の水の手へ、毒を流したものがあって、砦の者はみなごろしになってしまった。アア、ここはもう死の城だ!」
かれの声は悲壮だった。
「そして、陣馬ヶ原にいたまわし者は?」
「斬りちらして馳けだしてきたんです――こっちのほうが心配になるので」
「といっても……味方はおまえとわたしふたりきりだ」
「たとえふたりきりになっても、この砦を敵の手には渡されない」
「よくいった! 死んでも敵へは渡せない! ……おやッ?」
「な、なんです」
と竹童は、やぐら柱にすがって伸びあがっている咲耶子のかげを下からあおいでいった。
「――外城の方には、まだ無事な味方がいるらしい」
「えッ、なにか合図がありますか」
「みだれた火の影がチラチラとうごきだして、上へ上へと押してくる」
「おお、しめた! じゃ、咲耶さま、早く!」
と手招きした。
ばらばらと櫓梯子を下りると、ふたりは真一文字に奥郭の内部へはいった。そして、岩壁、洞窟を利用して建てられてある、とりでの本丸のなかへ走りこんだ。
具足部屋、評定の間、寝所、みな広い床張りで、そこには毒死の侍もなくしんとしている。伊那丸の留守に錠口のさきからだれも人を入れなかったところなので――。
まッしぐらにぬけて、軍師の部屋の扉を開けた。
ここも、小幡民部と蔦之助と小文治の三人が、ひそかに、間道から影をかくして、三方ヶ原へ立っていったのちに、ぜったいに部下をのぞかせずに、三人の下山を秘密にしていたところ。
ガラッと、厚い車戸を押しあけて、そこへはいると、咲耶子と竹童は、まっくらな床板を手さぐりでなでまわした。
例の間道の口をたずねているらしい。
と。
指のかかるところがあった。
ここを開ければ、八合目の柵、三の砦、すべての外城一郭へはむろん、麓へでもどこへでも自由に通りぬけることができる。
ふたりはまず、八通の間道をぬけて、いま山の中腹にみえた味方を呼びいれてこようとするつもり。
であったが? ……
「ヤッ、妙な音?」
床板をめくりかかった竹童が、ギョッとした目を咲耶子へ向けて、
「音がしますよ、妙な音が?」と、息をのんだ。
ふたりははうようにかがみこんだ、間道の蓋へ耳をあててみた。いかにも妙な物音がする。ダッダッダッと地の底を打つような音――ゴゴゴゴゴという騒音――それがだんだんに近づいてくる。
「味方がくるんだ!」
竹童は信じることばに力をこめた。
「頂上に裏切り者がでたのを知って、外城の者が一挙にやってくるんです。そうにちがいない」
「じゃ、なおのこと、早くここを開いておいて、篝火をつけておこうね」
「いや、篝火は待ってみたほうがいいでしょう。どこにどんな裏切り者が鳴りをしずめているかも知れず、そいつらが、他の柵や木戸の出丸をやぶって、いっせいにさわぎだすと、いよいよ手におえなくなってしまいます」
とささやいていると、不意に、間道の下から、ドン、ドン、ドン! とはげしく槍の石突きでつきあげる者がある。
「味方か?」
と竹童が床へ口をつけて呼ぶと、なにやらガヤガヤさわぐのがかすかに聞える。といっても、分厚な蓋がへだてているのでその意味はわからないが、なにせよ、人間の声がうずまいているのは想像される。
「味方かッ?」
「おう!」
「外城の者かッ?」
「おウ! 早くお開けください」
――野太いこえが遠くのように聞えた。
「――砦の内部に異端者があらわれましたので、本城にも変事はないかどうか、あんじて駈けつけてまいりました。はやくお開けください」
「よしッ、心得た」
と、竹童、手をかけたが、開かばこそ、石のような重さ、咲耶子とともに力をそろえて、ウムと四、五寸ほど持ちあげるとあとはすなおに、ギイと蝶番がきしんで径三尺四方の口がポンと開く。
と、下からまっ赤な火のかげが、開いたなりに、パッと天井へうつった。まるで四角な火柱のように。
すると、そのあかい火光のなかからまッさきに、
「それ、本丸へでたぞ!」
とおどりだしたのは、胴服に膝行袴をはいた異形な男――つづいて松明を口にくわえ、鎖にすがって無二無三によじてきたのは、味方と思いのほか、猿のような一少年。
「あッ、蛾次郎!」
「おう! 竹童」
と、せつな、火を発したような驚愕と驚愕。
異形な男は鼻かけ卜斎であった。
八通の間道をさまよって、小太郎山のふもとへぎゃくもどりをして、ウロウロしていた伊部熊蔵と小頭の雁六そのほかの鉱山掘夫をつれて、地脈をさぐり方向をあんじて、ついにこの城塞の心臓を突きとめてきたのである。
「しまッた!」
と叫ぶまに、もう見ている間だ! 蛾次郎のあとから小頭の雁六、伊部熊蔵、そのほかあまたの山掘夫たち、防ぎようもなくヒラリヒラリととびあがって、たちまち軍師の間いッぱいになってしまった。
「おい、下にいろッ」
と、伊部熊蔵は竹童の肩骨をおした。
「…………」
竹童は肩をふってその手を突っぱなした。咲耶子もすわらずに、まわりの者をにらんでいた。
瞬間、おそろしいだまりあいのうちに、双方の眼と眼だけがするどくからみあった。
とつぜん、ゲタゲタと笑いだしたのは蛾次郎で、
「おいおい竹童、あんまりびっくりしたんでぼうとしてしまったんじゃないか。いくら民部や蔦之助がいるように見せかけていたッて、だめだだめだ、おれも親方も、ちゃんと三方ヶ原であいつらを見ているんだから。――もうあとの空巣へは大久保長安さまの人数が、入れ替りにふもとまで引っ越しにきているんだ。サ、おどきよおどきよ、どこへでも退散しなよ、もう小太郎山の砦は、いまから徳川さまの持物になる、おまえみたいに、京都でお菰をしてきたようなきたないやつは飼っておけないんだ。サ、咲耶子も一しょに山を下りてゆけ、ぐずぐずしていると、命がねエぞ」
城攻めの一番乗りでもしたように、得意な色をみせてどなった。
「だまれッ」たたきつけるように竹童が大喝した。
「だれが砦をわたすッ、ここは伊那丸さまの小太郎山だ」
「生意気な」と熊蔵、年のいかぬ者とみくびって、
「それ、あの舌の長い小僧を、うしろ手に引ッちばッてしまえ」
「おうッ」
と顎のさきから二、三人の山掘夫、竹童の襟がみを取ろうとして飛びかかった。
と――、咲耶子の怜悧な目がキラと横にながれた。ひとりは彼女の腕をもつかみにかかったが、ツイと身を横にひいて、すぐそばに、松明を持って立っていた山掘夫のひとりを、ふいに、部屋のすみへドンと突いた。
「あッ――」
大の男が、もろくも腰をくじいて、松明を持ったままうしろへたおれた。
部屋のすみには、たくさんな火縄の束が釘にかかっていた。そこへ、メラメラと火がはいあがった。
ドドドドドド……ッ――と地震のような轟音は、その一瞬に、あたりを晦冥にしてしまった。
松明の火が火縄にうつり、その真下に積んであった銃丸の箱から火薬の威力を発したのである。
しかし、火薬も鉄砲も、当時まだ南海の蛮船から日本へ渡来したばかりで、硝石の発火力も、今のような、はげしいものではない。それに、火縄の下にあったのも二箱か三箱なので、火に吹かれたのは山掘夫の十二、三人、あとは悲鳴の声のあがったのを見ても、いのちだけは助かったらしい。
咲耶子と竹童は、脱兎のように、軍師の間のそとへ飛びだしていた。そして、そのあとから伊部熊蔵と卜斎などが、黒けむりと一しょにはきだされて、ふたりのあとを追いかけた。
まえの井楼の下まできたとき、咲耶子は足をとめた。
「ちッ……」
なにかいおうとしたらしいが、いまになって焔硝にむせんで、あとのことばがでずにしまう。
竹童も、ハッとふとい息をついた。まッくろな煙の柱が、もくもくと宙天におどりあがっているのを見る。……
「わ、わたしは、少し思うところがあるから、ここに踏みとどまって、最後の力をつくします。竹童さん、おまえははやく樺の林へもどり、あすこにつないである鷲に乗って、ここを落ちておくれ、後生です。早くここを、逃げてください」
「に、逃げろッて?」
「ふたりとも、ここで斬り死してしまっては、民部さまへ事情を知らせる者がない」
「いやだ! いやだ、おいらは!」
生きのこった山掘夫どもが、もう向こうからワッワッとわめいてくるようすなのに、竹童は頑とそこをうごかないで、強くかぶりをふっていった。
「逃げてゆくなんていやなこった、小太郎山をとられるものなら、おいらも砦と一しょに斬り死する! どうして、そ、そんなことをいって、民部さまに会われるもんか」
「アア、この場合、そんなことをいって、わたしをこまらさないでおくれ、ネ、竹童さん」
「イヤだ! 落ちてゆくなら、おまえひとりで逃げてゆきな」
「ま、なにか考えちがいをしていますね」
「なぜ」
「落ちるといってもけっして卑怯でも不義でもない。かえって、砦を枕にして斬り死するより、立派なつとめをはたすんです。ここでふたりが一しょに最期をとげてしまったら、だれが、この事情を一党の方にしらせますか」
「でも……おいらは、そんな役目は好きじゃない」
「こうしている一刻が大事、たのむから、はやくクロを飛ばして」
「よし、おいらはすぐにまた帰ってくる」
「えッ、じゃ落ちてくれますか」
「クロを飛ばしていくなら一羽ばたきだ。一党の人を見つけたら、おいらはすぐに帰ってくる。咲耶子さま」
「エ? ……」
「それまで、樺の奥へかくれこんで、敵のやつに見つからないように」
「あ、大丈夫、死にはしません」
「きっとだぜ!」
「アア」
「きっとだぜ」
「エエ」
「短気なことをしちゃいけないぜ」
「アア、加勢のくるのを待っています」
「おうッ、それじゃいそいでいってくる!」
竹童はヒラリと身をかえして、また以前のお花畑から陣馬ヶ原を馳けぬけて、愛鷲クロを飼っておく深林のくぼへ走りこんだ。
「クロ……」
林のくぼは星の光もなく真っ暗だ。
「クロ! クロ!」
かれは口笛をふいて返事を待った。
鷲が返事をするわけもないが、いつも、かれがこの林間へ足を入れれば、木の葉をふむ音だけで、自分のきたことを知って、よろこばしげに、爽快な羽ばたきをするのがれいだ。
だのに? どうしたのだろう。
羽ばたきもなければ、ギャーッという啼声もしない。
「寝ているのかしら?」
鷲もいまごろは眠るであろうと竹童はかんがえた。
だがだんだんにおぼえのある喬木の根ッこにさぐりよって見ると、かれの想像はまったくくつがえされて、そこには、最前このへんにあつまった城内の裏切り者、黒川八十松とほかふたりの者が、肉を裂かれてぶッたおれ、しかも一つの死骸には首がない。そうしてかんじんな鷲のすがたは影もかたちも見当らない。
「やッ、逃げたのかしら? 鎖だけが残っている」
いかにも、太い樺の根こぶには、鷲をつないでおいた鎖だけが残っている――そしてクロがいない――そして三人の侍が肉を裂かれている、この謎をなんと解いていいか?
「わかった!」
征矢のごとく林を馳けだした。
かれの目は怒りにつりあがっている。
血走った涙をたたえて空をあおいだ……
だが空にもクロは見えなかった! 裏切り者の黒川八十松め、あれが、自分によって飛行変現の自在につかわれる器だと知って、逃がしたのだ! 鎖をきって空へはなしてしまったのだ。
人をのろわば穴二つ、あの猛禽の鎖をきった三人は、立ちどころに、自分がはなした鷲の爪につかまれて、四肢を裂かれてしまったのにそういない。
思いあわすと、きょうはまだ一回も、クロに餌をやっていない。その餌にすべき小鳥やけだものを狩りにいって、ちょうど、陣馬へ帰ってきた時に、今夜の騒動が起ったので、それなりにほうっておかれたクロは、さだめし飢えていたであろうと思われる。
飢えた猛禽は、折からよき餌食と、三人の荒武者の肉をさき、血をすすって、樺の林からぬけあがった。
「やっぱり、砦を枕に死ねというしらせだ」
かれはいつになく、その行方を軽くあきらめて、ふたたび黒煙のとりでへ影をまぎれこませてきた。
「火をつけるな、松明をほうるな」
そこでは伊部熊蔵がさけんでいる。
「焼城をとるのは手柄が小せえ、生城をとるのは大武功としてある。どうせもうこっちのものになる城だ、向こうの火もはやく伏せろ伏せろ」
と、火薬から燃えひろがりそうな奥郭へザッザと水をかけさせている。
一方では二十人ほど、手をわけて咲耶子のゆくえをさがし、また一方では鼻かけ卜斎が、腰に手をあてて城塞のつくりを、しきりに見てまわっている。
と、れいの扇縄の水の手に、だれかかがみこんで、ザブザブと顔を洗いながら、ついでに、口を水面へのばして、チューッと吸おうとしているやつがある。
見ると、泣き虫の蛾次郎だった。
「ばかッ」
卜斎にどなられて、蛾次郎は、すいこんだ水を思わずガッと吐きだして、
「親方……?」
と、叱られるのをけげんそうに、
「な、なにが、ばかなんで」
「毒水だぞ、それは」
「げッ」
「すべて城をのっとったさいには、そこらに残っている食糧や水はけっして口にすべきものじゃあない」
「ヘエ、そうでしょうか」
ペッ、ペッ、口のつばきを吐きちらして、こんどは、洗いかけていた焔硝いぶりの顔のしずくを両方の袖で拭きまわしている……。
とたんに、
「卜斎ッ、うごくな!」
馳けだしてきた竹童。
童髪かぜに立って夜叉のようだった。砦とともに死のうと覚悟をしている彼。
ひゅーッと、紫をかいて走ったのは般若丸の飛閃! あッと、卜斎は首をすくめ、肩をはすにかわして、斬りすべってきた竹童の腕をつかんだ。
「親方ッ、手をかすぜ」
蛾次郎はうしろから寄って、あけび巻の山刀、ザラザラと引っこ抜いて、スパーッと竹童の背すじを斬ったつもり。
腕もなまくら、刀も赤錆、上着一枚きれはしない。
「じゃまだ、どけッ」
つかんだ相手の腕くびをしめて、卜斎、
「ええッ!」
と吠えたかと思うと、おそろしい強力で、ブーンと竹童のからだをふり、鞠でもとって投げるように、扇縄の水の手へ、かれの小さなからだをほうりこんだ。
ドボーン……と、まっ白な水柱があがった。まんまんとして毒水の波紋がよれる。ガバ、ガバ、と二つ三つ苦しげな息をしているうちに、波紋にまかれ、竹童のかげは、青ぐろい池のそこへ見えなくなった。
ここは平和だ。あかるい朝。
まだ草の根には白い霧がからんでいる。
向こう側の傾斜を見ると、芝を掃いたようなやわらかさである。しかし、その傾斜は目がまわるほど深く、きわまるところに、白い渓流が淙々と鳴っている。
どこからとでもなく、このあたりいちめん、得もいわれぬ好いかおりにつつまれている。朝の陽が、ゆらゆらと峡のあいだから射してくると、つよい気高い香気が水蒸気のようにのぼって、ソヨとでも風があれば、恍惚と酔うばかりな芳香が鼻をうつ。
人の知らぬ小太郎山の峡をぬけて、奥へ奥へと二里ほどはいった裏山、ちょうど、白姫の峰と神仙ヶ岳との三山にいだかれた谷間で、その渓流にそった盆地の一角を杣や猟師は、緋おどし谷とよんでいる。
緋おどし谷一帯は、ほとんど山百合の花でうまっている。むしろ百合谷と呼ぶべきところだが、その盆地に特殊な一部落があって、百合より名をなすゆえんとなっている。
渓流に架かっている蔦のかけ橋、そこを渡ると部落の盆地、あなたに四、五軒、河べりに七、八軒、また傾斜の山の背にも八、九軒、煙を立てている人家があった。そして、そこに住んでいるのは、みな十五、六から七、八の百合花そのままな乙女たちばかりである。
修羅戦国の春秋をよそに、緋おどし谷は平和である。比叡、根来の霊山を焼きはらって惜しまぬ荒武者のわらじにも、まだここの百合の花だけはふみにじられず、どこの家も小ぎれいで、まどには鳥籠、垣には野菊、のぞいてみれば、壁や床にも胡弓や琴。
だが、知らぬものにはふしぎな郷だ。
林檎色の頬をした、健康そうな少女たちばかりすんで、いったい、なにを職業とし、父や兄や祖父などはないものかしら?
まさか、女護ヶ谷でもあるまいに。
それは。
みんな冬にはかえる少女だ。雪を見れば甲府へかえり、春になれば夏のすえまで、少女ばかりでこの谷にくらしている。
で、目的は? やはりかせぎにくるのである。そしてその一棟一棟で、みな職業がちがっているのもおもしろい。
河べりに近い家では、糸や麻をさらしていた。そのとなりでは染物をしている。また一軒では鹿皮をなめし、小桜模様、菖蒲紋、そんな型おきをしている家もあった。
ここの渓流では砂金がとれる、砂金をうって鎧小太刀の金具をつくる少女があり、そうかと思うと、皮をついで絹糸で、武具の草摺りをよろっている家も見える。とにかく、ここでは、革、草摺り、旗差物、幕の裁縫、鎧下着、あるいはこまかいつづれ錦、そのほか武人の衣裳につく物や、陣具の類をつくるものばかりが棲み、そして、それがみなかわいい少女の手に製作されていた。
この渓谷の水が染物によく適し、ここの温度が革づくりによいせいだというか、とにかく、緋おどし谷の開闢は、信玄以来のことである。
そこへ。
けさふとすがたを見せたのは、峡をつたって、小太郎山から眠らずにきた咲耶子である。
向こうがわには、緋おどし谷の部落をながめ、だれか渓流にくるのを待っていると、やがて二、三人の少女が染桶と糸のたばをかかえて、あかるい笑いをかわしながら、川床へ下りてきたようす。
咲耶子は、ゆうべのことで、苦悶の色のかくせぬ中にも、それを見ると、ニッコとして、帯のあいだの横笛を抜き、しずかに、歌口をしめしだした。
鳴る!
ゆるい、笛の音、高い笛の音。
「おや?」
河原のしろい顔が、みんな一しょにこっちを見た。
笛が――咲耶子のしろい手に高くあげられて、横に縦にうごいている。
合図であろう!
それを見ると、少女のひとりがなにかさけんだ。それにおうじて、あなたこなたの家から、ワラワラワラ馳けだしてくる。みんな同じ下げがみの少女、みんな同じ年ごろの少女、みんな凜々しい紅頬の少女。
みるまにちょうど三、四十人、蔦のかけ橋を踏みわたって、あたかも落花の散るように、咲耶子のいる向こうの峡へ馳けてくる!
笛は、早く早くと呼んでいた。
緋おどし谷の胡蝶たち、胡蝶の陣を組むのである。
蔦のかけ橋をいっさんにわたって、咲耶子のすがたをあてに走ってきた少女の群れは、みるまに近づいて、さしまねかれた笛の下へ、グルリと、花輪のように集まった。
「――まいりました、咲耶子さま」
「なにかご用でございますか」
「いつになくおわるい顔色」
「どうしました? 咲耶子さま」
「おっしゃってくださいまし、わたくしたちのする用を」
いきいきとした少女たちの眸、みな、なつめのようにクルッとみはって――そしてまだ心配そうに、中央に立ついちばん背丈の高い人を見あげた。
小太郎山にすむ咲耶子と、そこから近い緋おどし谷の者たちとは、しぜん、いつのまにかしたしくなっていた。かれらはみな、咲耶子を山の女神のようにしたい、咲耶子はまたみなを、妹のように愛していた。
ことに、かれらはすべて、おさない時から子守歌にも信玄の威徳をうたった血をもっている甲斐の少女だ。国はほろびても、その景慕や愛国の情熱は、ちいさな胸に燃えている。
げんに。
いま彼女たちが緋おどし谷でつくっている、具足や幕や旗差物や、あるいは革足袋、太刀金具、刺繍、染物などの陣用具は、すべてそれ小太郎山のとりでへ贈るべきうつくしい奉仕だった。
――そのたのもしい少女は、ちょうど三、四十人ほどそこにいた。
咲耶子は夜来の変事をつぶさに話して、いまに、この谷へも、大久保長安の手勢がきて、小太郎山の砦どうよう、ぞんぶんに蹂躪するであろうとつげた。
「――ですからおまえたちはすこしも早く、だいじな品物や、仕事の道具を取りまとめて、めいめいの郷へお帰りなさい。そして後日、ふたたび小太郎山に武田菱の旗印を見たならば、またその時は、緋おどし谷へきておくれ、そして、仲よく刺繍をしたり染物をしておくれ。わたしは、それを知らせにきたのです」
意外!
かなしい別れの言葉であった。
巴旦杏のようにかがやいていた少女たちの頬は、みているまに白くあせて、眉はかなしみに曇った。
袖をもって顔をおおう少女もある。
拭くのも忘れてあきらかに涙の流るるにまかせている顔もある。
だが。
それはやがて、強い敵愾心とかわって、哀別をこばむ決心が、だれの唇からともなく、
「イエ!」
「イエ!」
「イエ!」
とはげしくほとばしり、みなそろってかぶりをふった。
「わたしたちは帰りません!」
ひとりの声が凜という。
「このまま郷へ逃げかえって、父や兄に問われた時、なんと、小太郎山のことを話しましょう」
「あ……」
と咲耶子は、その純真な叫びに、魂をつかまれてゆすぶられるように感じた。
「――砦のさいごを見とどけとうございます。咲耶子さまのおさしずについて、なろうものなら戦います。家康の家来大久保長安、あれはいま甲府の民を苦しめている悪い代官、その手勢とたたかうことは、父や兄妹の仇に向かうもおなじことです」
「…………」
「ねえ、咲耶子さま!」
「…………」
「つねに練りきたえている胡蝶の陣を組みましょう。ふだん武芸をはげむのも、こういう場合のためにではありませぬか」
「オ……」
「ここにいる残らずの者は、みな一ツ心じゃと申しております」
「オオ……」
その言葉を待っていた咲耶予の頬は、思わずしらず、感激のなみだが玉となってまろばった。
おなじ朝――時刻はそれより一刻半ほどまえのこと。
むろん、まだ夜は白みかけたばかり。
砦はゆうべの酸鼻な空気をおどませて、輝きのない朝をむかえていた。
伊部熊蔵や山掘夫どもや、あとからくりこんだ大久保の手勢は、みな、貝殻虫のように、砦の建物にもぐりこんで寝ているようす。
ただ城楼高きところ――下り藤大久保家の差物と、淡墨色にまるく染めた葵の紋の旗じるしとが目あたらしく翩翻としている。
ピイッ! ピピピピッ。
一羽の翡翠。
いつもの朝のとおり、るり色の翼をひるがえして、扇縄の水の手へとんできた。そして、翡翠がもつあの長いくちばしで、水に棲むハヤというちいさな魚をねらいに降りた。
――と思うと翡翠は、バッと水面をつばさでうっただけで、風にさらわれたようにすッとんでしまった。
名人の矢に狂いはあるとも、翡翠が魚をくわえそこなうなんていうことはけっしてないのに。
と見ると、その朝にかぎって、扇形の貯水池には小さなハヤや大きな山女が、白い腹を浮かせて死んでいるのだ。あの強そうな赤い山蟹まで、へろへろして水ぎわに弱っていた。
「こりゃあいけねえ」
それを見て、水をすかしているふたりの士卒がいった。大久保勢の兵糧方、飯や汁を煮炊する身分の軽い兵である。
「ゆうべ水門を開けておかなかったから、まだこの水の手には毒がよどんでいるんだ」
「それじゃ、朝の兵糧を炊くのにさっそくこまるぜ」
「――掃除をして新しい水を入れかえなけりゃ……」
「やっかいだな、こんなわるさをしやがって」
「城をとるやつは、兵糧方のこまることなんか眼中にはない。攻め取りさえすればいいんだから」
「そしてグウグウ寝ていやがる」
「眼がさめると、おれたちがこしらえた汁や飯をたらふくくらって、自慢話でいばりちらす……考えてみると、兵糧方はわりがわるい」
「オイ、ぐちをこぼしてもしかたがねえ。早く水を代えておこうじゃねえか」
「そうだ! 陽がのぼってきた」
ふたりは水の手の水門をのぞきこんだ。そして、かんぬきをぬいた。
「オヤ」
「どうした?」
「藻がからんでいて開かねんだ」
「あッ……おい、藻じゃねえぞそれは。死骸だ! オオ土左衛門だ」
「えッ、人間か?」
と、ひとりがかんぬきの先で突きだした。
もくり……と毒水の波紋がよれたかと思うと、俯ッ伏せになった水死人が水草の根をゆらゆらとはなれる。
蒼ぐろい透明のなかにたれている手が、ギヤマンをすかしたような色に見えた。それは、夜が明けようとするまえに、卜斎のためこの池に投げこまれた竹童だ――手につかんでいるのは般若丸の刀である。
浮いている髪のさきから、ツイと、水馬が二、三匹およいだ。
兵糧方の足軽が、水面に目をみはっていた時だ。
とつぜん。
あらしのような風の音が、宙をうなってきたかと思うと、ふたりの目の前へ、空からなにか勢いよく落ちてきた。
「あッ」
ドボーン! ……と西瓜大のくろい物?
いちど深く沈んでから、ボカッと、あわだった水面に浮きあがってきたのを見ると、若い武士の生首だ。
胴のない生首は、胴をかくして立ち泳ぎをしている人間のように、グルリとまわって、足軽のほうへ顔を向けた。
「おッ……黒川八十松さまの首だ!」
驚くまもあらず、ごうーッと一陣の強風にのって、ひくく、黒雲のように、旋舞して降りた大鷲があった。
とたんに、扇縄の水の手一つからザアッと龍巻がふきあがったかと見れば、非ず! いきなり鷲のくちばしが、竹童の帯をくわえて宙へ立ったのである。
高くつりあげられた竹童のからだから夕立のような水しずくが降る!
「あ、怪物ッ」
宙をとんだふたりの兵糧方。
早、腰をぬかさんばかり驚いて、具足のままあっちこっちに寝ている武士を起してまわった。
「逆襲? ……」
「朝討ち?」
寝ぼけまなこに得物をとった侍や山掘夫どもは、稀有の大鷲が少年をくわえて舞いあがったと聞き、興味半分にワラワラと貯水池のほうへ馳けてきた。
だが――ゆうべ陣馬ヶ原で、おそろしい経験をなめているものは、
「あぶないぞ、油断するな」
と、走りながら、周囲の者へせわしく話した。
扇縄の水の手へ、首となって落ちてきた黒川八十松は、城攻めの最中に、樺の林につないであった竹童の鷲の鎖を切ったのだ。そしてかえって、鷲のために食いさかれて、非業な死をとげたのだ!
「あぶないぞ、あぶないぞ! あの鷲は敵と味方をちゃんと見分けている。だから、八十松の首をくわえていたんだ。そして、竹童をすくいに降りてきたんだ」
「気をつけろよ、うっかりしてあのすごい爪につかまれるな」
注意をしながら駈けてきた。
しかし――鷲の雄姿は、もう貯水池のまわりには見えなかった。
「おッ、井楼櫓の屋根にやすんでいる」
とだれか見つけて、またいっせいにそのほうへ駈け向かっていく。
「わアーッ」
と諸声を合わせたので、翼を休めていたクロは、さらに羽をうって舞いあがった。けれど、さすがな大鷲も、二、三歳の嬰児なら知らぬこと、竹童ほどな少年のからだをくわえてそう飛べるはずはない。
水面からそこへうつったのが極度の力であったろう。櫓の上を離れると、さすがに強い猛鷲も、むしろくわえている重量に引かれこんでゆく形。
みるまに、下へ――下へ――下へ――。
むこうの峰までは渡りきれずに、千仭のふかさを思わす小太郎山の谷間へとさがっていった。
と、見えたが、また。
ついに、くちばしでもちきれなくなったのか、とちゅうで、鷲と竹童のかげは二つに別れてしまった。
落ちていった小さな黒点は、目にもとまらず直線に谷底へ、――そして狂った大鷲は、せつな! 筒をそろえて釣瓶うちに撃ってはなした鉄砲組の弾けむりにくるまれて、一瞬、その怪影は見えなくなった。
「あ。竹童め、運のいいやつだ」
鉄砲組のうしろに立って、宙を見ながら、こうつぶやいた人間がある。
蛾次郎をつれた鼻かけ卜斎だった。
聞きとがめてヒョイとうしろを向き、
「なぜで?」
とたずねたのは伊部熊蔵。
毒薬をながした水の手へ投げこまれ、そのうえにまた、鷲にくわえあげられて、千仭の谷間へ落ちていった竹童が、どうして運がいいんだか、こんなわからない話はない――という顔で。
ところが卜斎、また同じ言葉をかさねて、
「まったく運の強いやつだよ」
と、少し、くやしそうな顔をした。
「なぜですな? 卜斎殿」
「あいつめ、いまに蘇生します。運がいいじゃありませんか」
「へえ、あの竹童が」
「ゆうべは真っくらでわからない。いずれ毒水を呑んだろう、朝になったら念のために、生死をたしかめにいこうと思っていたところなので」
「なるほど、竹童を投げこんだのは、貴公でございましたな」
「ところがいま見るに、あの鷲が宙へつりあげた。それをもって見るに竹童め、わしが水の手へ投げこんだとたんに、杭か岩の角で脾腹をうち、気をうしなったにちがいない」
「ウ……ウム? ……」
「で、ついに、毒水を食らわなかった。水を食らえば体重は倍の上にもなるゆえ、けっして、いくら大鷲でもくわえて飛べたものじゃない」
「だが、あの谷間へ落ちていっては、五体みじんとなったでしょう」
「イヤイヤ、あそこは深い檜谷、何百年も斧を入れたことのない茂りだ。落ちても枝にかかるか深い灌木の上にきまっている」
「そりゃいかん!」
伊部熊蔵はにわかにあわてだした。そして、それッと、周囲の武士を指揮して、
「朝めしまえの一仕事に、竹童のからだをさがしだせ」
といいつけた。
「はッ」
というと鉄砲組の中から五、六人、足軽十四、五人、山掘夫四、五人――小頭の雁六も一しょについて、まだ朝露のふかい谷底へ降りていった。
「おいおい、おいおい。そんな方角じゃあない。もっと右の方だ、右の方の道を降りろ。まだまだずッと沢の方――あの檜林がこんもり茂っている向こうの谷だ」
熊蔵はあとにのこって煙管をくわえ、その煙管で、しきりと上から方角をおしえている。
卜斎も崖ッぷちに腰をかけて、大きな革の莨入れを引っぱりだした。煙管もがんこなかっこうである。もっともそのころは、まだ煙草というものが南蛮から日本へ渡ったばかりで、そういう道具もすこぶる原始的なものだった。
すると、側にいた、蛾次郎のやつ。
「くッ、くくくく……うふッ……うふふふふ……」
と横を向いて笑いだした。
なにをおかしがるのかと伊部熊蔵がふりむくと、蛾次郎は口をおさえて、横にすましている卜斎をそッと指さした。
卜斎はなんにも知らず、がんこな煙管を斜にもって、スパリ、スパリ、とふかしている。
見ると、かれの鼻の穴から、ゆるい煙がでるのである。だれにしたって、煙草を吸えば鼻の穴から煙が出る。なんのふしぎもありはしない。
だけれど、いったん鼻かけ卜斎先生が煙草の煙をすって吐く段になると、一方の鼻の穴からは尋常に紫煙がはしり、一方の穴からでる煙はそッぽへ向かって噴出する。
だから二本の煙が大股にひらいてでて、かたわの鼻が顔中にいばっているような壮観をあらわすのだった。
「な、なるほど。こいつはおそれいった鼻だ」
と、熊蔵も吹きだしたいのをがまんして、横を向きながら腹の皮をおさえた。
ゆうゆうと紫煙をふかしていた卜斎は、はなはだ、けしからん顔つきで、
(なんじら! なにを笑うか?)
と、口にはださないがギョロギョロした。
雲ゆきが悪い! 気がつかれては大へんだぞと、そういうことには敏感な蛾次郎、ポイと立って断崖のふちから谷をのぞきこみ、
「ウーム、みんな見えなくなった。いまに竹童をかつぎあげてくるだろうな……」
と、つまらないひとりごと。
「親方」
「なんだ!」
はたしてごきげんがわるい。
「まだ兵糧をくばってきませんネ」
「寝るから起きるまで、食うことばかりいってやがる」
「いえ、わたしゃなんともないけれど、親方が、定めしお腹がなんだろうと思って」
「よけいな心配をするな」
「へい」
「それよりきさまも谷間へ降りて、なぜご一同と一しょにはたらかないか、なまけ者めが」
「オッ、帰ってきた!」
ジッと見おろしていた伊部熊蔵が、こう叫んで待ちうけていると、そこへ小頭の雁六、どうしたのか真ッ青になって、息をあえぎながら登ってきた。
「いかがいたした、ほかの者は?」
上がりきらぬうちから熊蔵がこう急くと、雁六は額のきずで、片目に流れこむ血をおさえながら、
「た、大へんです」
うなるがごとき声だった。
「谷へ降りた者は、ひとりのこらずみな殺しにされてしまった! 熊蔵さま、わ、わっしだけ、ようよう逃げてきたんです」
「な、なんだッて」
熊蔵は、踏ンがけている足もとが、地すべりしていったかとばかり驚きにうたれて――。
「ど、どういう仔細で? まさか、竹童が」
「その竹童のからだをさがしに、だんだんうすぐらい檜谷へ降りてゆくと、ピューッと、鵯でも啼いたような、笛の音がしたんです」
「ウム、そして?」
「と一しょに、頭の上から疾風のような手裏剣が飛んできて、バタバタと四、五人ふいに打ッたおれたので、あッといったがもうおそい。……檜の上や笹むらのなかから、ひらひら、ひらひら、まるで蝶々のようなやつ、三、四十人の女です」
「女?」
「霧のように消える、またワッと蛾のように舞い立つ、それでふしぎな陣になっていて、こっちは煙にまかれたようです。逃げる、ふせぐ、斬り合う、火縄をつける、まごまごしているすきだってありゃしません。谷間へ落ちたり、渓流へすべりこんだり、かよわい女の切っさきに、大の男がさんざんのていです」
「ウーム、ちくしょう、咲耶子のしわざだなッ」
「そうだ!」
と、うしろでヌッと卜斎が立ちあがった。
「裾野でいちど見たことがある。――謙信流、楠流、永沼流、小早川流、甲州流、孔明流、唐の孫武陸子の兵法にもない胡蝶の陣! あれは咲耶子が野武士で馴らした得意ふしぎな陣法ですよ」
木魂! 木魂! 鉄砲木魂。
つるべうちにぶっぱなした銃火の轟音は二倍になってきこえた。
檜谷いちめんの暗緑色な木立のあいだから、白い硝煙が湯気のようにムクムクと大気へのぼる。
むこうの峡で笛が鳴った。
と。
もんぺを穿き、白の髪止めをしめた一団の少女たちが、ひとりの童の手足をもってたすけあい、森から沢へ、沢から渓流へ、浅瀬をわたってザブザブと峡の向こうへよじのぼる。
鳴る、鳴る、鳴る! 笛はまたさらに高音をつづけて鳴る。
バラバラと峡のがけから細道へ降りてくる少女が見えた、上から手をのばして童をうけとる。その敏捷なことおどろくばかり、螺旋状の細道を奥へ奥へと見ているうちに走りだした。
と思うとその半数は、どこかへこつぜんと見えなくなった。
「それッ」
「どこまでも追い撃ちをかけろ」
渓流を越えて追撃してきたのは、伊部熊蔵と雁六をせんとうにした一隊である。
みな、谷川で火縄を濡らしてしまったので、鉄砲をすてて大刀をぬく。槍を持った者は石突きをついてポンポンと石から石へ飛んであるく。こういう場合は、南蛮渡来の新鋭な武器もかえって便がわるい。
道案内は地学家の鼻かけ卜斎、その腰についてあるくものは天下の泣き虫蛾次郎である。
蛾次郎はすばらしくこうふんしてしまった。司馬仲達を追ッかけまわす孔明のごとき高き気概。なんだか、自分ひとりの威勢のために、咲耶子の胡蝶の陣が逃げくずれてゆくような気持がして――。
すると、不意に――
峡の細道から三、四人、芋虫のように渓谷へころげ落ちた。あッ……と仰ぐと、天を摩す楢の木のてッぺんから、氷雨! ピラピラピラ羽白の細矢がとんでくる。
梢の葉がくれ、楢に花が咲いたように、半弓を持った少女が十二、三人ほど見えた。
タジタジとあとへひいた熊蔵の一隊、槍をそろえ、白刃をかこんで、下りるところを待ちかまえたが一陣、楢の梢が暴風のようにゆすぶれたかと思うと、落花? 胡蝶? 否、それよりも軽快に、彼女たちのすがたは枝から枝へとびうつり、つぎの樹からつぎの樹へ、そしてついに思わぬところの崖へ――山千鳥かとばかり散ってしまった。
大久保長安の後詰の手勢、百人ばかりはべつな道から緋おどし谷へ向かっていた。
糸染川と神仙川の合流するところで、熊蔵の一隊と一つになり、聖地のごとき百合の香花を踏みあらし、もうもうとした塵をあげて、れいの蔦のかけ橋まで殺到した。
「おお、こんなところに人家がある」
「あの女雀どもの巣であろう」
「それッ」
「片ッぱしから火をかけてみな殺しにしてしまえ」
「いや、手捕りにして、とりでの下婢にこき使ってやるのもよいぞ」
「かかれ!」
殺気をみなぎらした百六、七十人の軍兵が、いちどきにドッとかかったので、蔦のかけ橋は弓なりにしなって左右にゆすぶれ、いまにも、ちぎれて渓谷へ人間をブチまけてしまうかと思われた。
人家へせまるとその人数が、ワアーッと鬨の声をあわせた。まんいち、計りごともやある? と武者声をたけらして、敵の反応をさぐるのだった。
すると――
討ってでる敵はなかったが、どこからともなく幽玄な妙音をまろばしてくる八雲琴の音があった。
「やッ……琴の音がするッ?」
慄然として武者足がとまってしまった。
温熱のような殺気は弾琴の音に吹きはらわれて、ただ、ぼうぜんとふしぎそうに耳をすます軍兵の眼ばかりが光り合う。
なぜ? 血を水のごとくに見る荒武者が、やさしい琴の音などにすくまってしまったのだろうか。
中にまじっていた卜斎は、そういぶかしく思ったが、それをあやしむ彼自身が、すでに妙な錯覚にとらわれて、疑心暗鬼を眼底にかくしていたことを知らなかった。
ひとりこの時かまわずに、琴の音のする家のほうへかけだしていったのは、蛾次郎であった。
だが、かれの行動は、だれより勇敢といえるだろうか。それは問題としても、蛾次郎が来たままかけぬけていったのは、錯覚などを起すほどこまかな神経を持ちあわせていない証拠にはなる。
(いい間諜が行った)
というふうに一同は遠巻きにしてながめている。
みんなが見ている!
蛾次郎はヤヤ得意のようすだ。
ふりかえってニヤリと笑う。そして小高いところへのぼった。
雅人の住居でもありそうな茅葺の家、筧の水が庭さきにせせらぐ。ここは甲山の奥なので、晩春の花盛夏の花、いちじにあたりをいろどって、拭きこまれた竹の縁、塵もとめずにしずかである。
おくゆかしい萩垣根。そこから蛾次郎、鼻くそをほじりながら、背のびをしてのぞきこんだ。
「あッ、人がいら……」
しかり、人がいる。
女性である。うつくしい人。
琴台の上に乗せてあるのは、二絃焼桐の八雲琴、心しずかに奏でている。そして、ふと琴の手をやめ、蛾次郎のほうをふりかえった。
蛾次郎は自分の顔がポッと赤くなったかと思って、どぎまぎと眼をまよわせたが、また見直すと、それどころじゃない、琴台の前にいるのは咲耶子ではないか。
「あッ……」
首を引ッこめると、
「蛾次郎ですね」と、おちついた声。
「いいところへきてくれました。手勢をここへ呼んできてください」
「あかといえ!」
蛾次郎、垣根のそとで逃げ腰になりながら、
「そういくたびも、胡蝶陣の計略にひッかかってたまるもんかい」
「うそではない、もうどんなことをしてものがれぬところ、わたしは覚悟をきめました。ほかの者を助けるためにね」
「じゃ、おめえひとりなのか」
「罪のない少女たちを、斬り死させるのはかわいそうです。あのひとたちの親兄弟にすみません。だから……」
「ほんとか? まったくか?」
「この通り小袖を着かえ、髪をなおし、うすい化粧までしているでしょう。これが覚悟の証拠です。わたしを縄にかけて、甲府へでも、浜松城へでも送ってください」
すると、とつぜんに、
「神妙!」
と、うしろから縄をまわした者がある。
裏口からはいってきた卜斎であった。と――一しょに、ドカドカと槍や刀や鉄棒をひっさげた武士のすがたが、庭へあふれこんできた。
「あ、待ってください」
「未練をいうなッ」
「いえ……」
と、咲耶子は、ねじとられた手をしずかにもぎはなした。そして指の先の琴爪を抜いて、高蒔絵のしてある爪筥のなかへ、一つひとつていねいに入れた。
そこは甲府の城下にでるとちゅうであった。
虹の松原の針葉樹のこまかい日蔭を、白い街道がひと筋にとおっている。
緋おどし谷の山間から、かわるがわるに手車を組んで竹童を助けだしてきた少女たちは、その松原の横へはいって、しきりと彼を看護していた。
気絶したがために、さいわいとあの毒水を呑まなかった竹童は、多少の傷や痛みはあったが、やがて真心の介抱をうけて、かなりしっかりと気がついた。
「咲耶子さんは?」
息を吹ッかえすと、第一にでた問い。
「小太郎山は? 咲耶子さんは?」
「咲耶子さんは……」
おうむ返しにそういって、少女たちは急にかなしい表情にくもった。
「エ、どうしたい?」
「竹童さんを助けたいために、わざと緋おどし谷にのこって、自分から敵の生捕りになりましたの」
「なんだって?」
ぼうぜん――なにを見るのであろう竹童の目。
いっぱいな涙になってしまった。
「さかさまだ! さかさまだ!」
かれはみなをおどろかせて叫びだした。
「おいらを助けるために、あのひとが捕まってゆくなんて、そ、そんな、さかさまごとがあるもんか」
「ですけれど、竹童さん」少女のひとりがなぐさめ顔に、
「わたくしたちも泣きながら、七里の山路を歩いたのです。もうおよばないことですから、このうえ、悲しいことをいわないでくださいまし」
つぎの少女が口をそえた。
「そのかわりに、あなたは体をしっかり癒して、伊那丸さまや民部さまに、小太郎山の砦のしまつを、くわしくお告げしてくれとおっしゃいました」
三番目の少女がつげた。
「そして、みなさまの救いの手を、敵のなかで待っていますと」
竹童はもうそういう言伝などを、じッと、聞いていなかった。どこか、骨節がつよく痛むのであろう、キッと口をゆがめながら、松にすがって立ちあがった。
「あ、どこへ?」
「竹童さん、どこへ?」
「竹童さーん!」
呼べどふり向きもしなかった。
「ア、ア、あッ……」
と、不安そうに見おくる少女たちの視界をはなれて、とちゅうから、脱兎のごとく駈けてしまった。
肉体の生命が奇蹟的に無事だったかわりに、あの少年の精神に狂気が与えられたのではないか? 少女たちは虹の松原からめいめいの都へ帰った。
臥薪嘗胆の文字どおりに、伊那丸と一党の士が、ここ一年余に、生命を賭してきずきあげた小太郎山の孤城。そのただ一つの物から、再起の旗印を引きぬかれて、それに代る徳川家の指物が立ってからすでに半年。
天下は秋となった。
落寞とした甲山の秋よ、蕭々とした笛吹川の秋よ。
国ほろびて山河かわらずという。しかし、人の転変はあまりにはなはだしい。たとえば、いま甲府の城下を歩いて見ても、逢うものはみな徳川系の武士ばかりだ。
金鋲の駕、銀鞍の馬、躑躅ヶ崎の館に出入りする者、誇りはかれらの上にのみある。隆々と東海から八方へ覇翼をのばす徳川家の一門、その勢いのすばらしさったらない。
「おなじ武家に仕官をするなら、足軽でも徳川家につけ」
当時、浪人仲間でそういったくらい。
ゴ――ン、ゴ――ン。
彼岸にちかい秋の町を、鉦をたたいて歩く男があった。そのゴ――ンというさびしい音は、いま、甲府塗師屋町の四ツかどをでて、にぎやかで道のせまい盛り場の軒下をたどってくる。
かれの歩むにつれ彼の手から、紙でつくった桃色の蓮華の花片がひらひら往来へ散らばった。
その蓮華のあとを慕って、
「おじさん、紙おくれよ」
「おじさんおくれよ」
「紙をよ、紙をよ」
「紙をおくれよ、おじさん」
と、こまッかい町の子供が、二十日ねずみのようについてあるく。
どこの国からきた、どこのお寺の行人であろうか、天蓋に瓔珞のたれたお厨子を背なかにせおい、胸には台をつって鉦と撞木をのせてある。そして行乞でえた銭は、みなその鉦のなかにしずんでいた。
うしろへまわって、お厨子をのぞくと、金泥のとびらが開けてあって、なかには一基の地蔵菩薩の像がすえてある。そのまえには、秋の草花、紅白のお餅、弄具やよだれ掛やさまざまなお供物が、いっぱいになるほどあがっている。
「ああ、そんなにまえへまわると、おじさんが歩けなくなるじゃないか」
こういって地蔵行者は、小さい手に取りまかれながら、背なかあわせに負っている地蔵菩薩とそっくりのような人のよい笑顔をつくった。
「よウ、よウ、よウ、おじさんてば」
「紙おくれよ、さっきの紙をさ」
行者はニコニコ見まわして、
「いまあげるよ、あげるから、けんかをしちゃいけない、おとなしくして……」
ふところから刷り物の紙をだして、仲よくひとりへ一枚ずつくばってあたえる。見ると、なるほど、子供が欲しがりそうな美しい刷り物。
むらさき色の地へ、金泥で地蔵さまのおすがたが刷ってある。そしてそのわきには、こんな文句が書いてあるのだ。
親のない子。家のない子。まずしい子。
地蔵行者はそれをさがしてあるきます。
見つけて幸せにしてやりたいとて歩きます。
教えてください。あわれな子を。
地蔵行者はそれをさがしてあるきます。
見つけて幸せにしてやりたいとて歩きます。
教えてください。あわれな子を。
竹生島可愛御堂の堂守
菊村宮内
「家へもって帰って、お父さんや姉さんや兄さんにも見せておくれ。そして、かわいそうな子供がいたら教えておくれ。おじさんはまたあした、同じところを同じ時刻にあるくから……。え? あさってかね、あさってはまたさきの町さ、わしは、そうして諸国をまわる旅人だもの」ゴ――ン、ゴ――ン、ゴ――ン。
鉦をたたいてさきの町を流した。
地蔵経を誦して門へたち、行乞の銭や食べ物は、知りえた不幸の子にわけてやる。ほんとに親も家もない子供は、自分の宿へつれて帰って、奉公口までたずねてやる。
戦国の巷に見捨てられているおさない者のために、竹生島の神官菊村宮内、とうとう琵琶湖のそとへまででて、地蔵行者の愛をひろめようとした。
ちょうど、甲府の城下へはいってから、二日か三日目の午である。宮内は、馬場はずれの飯屋の縄すだれを分けてはいった。
すると、そこのうすぐらい土間のすみに、生意気なかっこうをした少年がひとり、樽床几にこしかけ、頬杖をつきながら箸を持っていた。
「おい、おやじ」
と、その生意気が年上の亭主にいう。
「なんだいこの魚は? いくら山国の甲府だって、もうちッと、気の利いたものはないのかい」
「それはやまめといって、みなさまがおよろこびになるお魚でございますがね」
「みんな田舎者だからよ。おれなんか、京都であんまりぜいたくをしてきたせいか、こんな古い物は食えねえや、ベーッ、ベーッ、あー、まずい。なんかほかの食べる物をだせやい」
「じゃ、こんにゃくとお芋はどうでございましょう」
「芋なんて下等なものはきらいだよ」
「へえ、蓮根、焼豆腐、ほかには乾章魚の煮ましたものぐらいで」
「ちっとも、おれの食慾をそそらないぞ」
「さようですか」
「乾章魚をおだし、がまんして食べてやるから」
と、箸で皿をつッころがした。
おそろしくいばった生意気、まるで大名の息子のようなことをいっている。やはり都会の少年の中には悪い癖があるなと、菊村宮内、なんの気なしにひょいと見ると、都会の少年ではない裾野育ち――竹生島ではさんざんお粥をうまがって食べたかの蛾次郎だ。
「あれッ? ……」
と、蛾次郎は目をまろくして、菊村宮内の顔を見た。そして、しゃぶッていた箸で打つようなまねをしながら、
「めずらしいなア、エ、どうしたえ、大将!」
宮内はあきれかえって、返辞のしようもない顔つき。
永いあいだ薬餌をとってもらった生命の恩人――それは忘れてもいいにしろ、いきなり大人をつかまえて頭から、大将! とは。
「おや、おまえは……」
宮内はさらに眼をまろくして、蛾次郎のまえにある一本の徳利と、かれのドス赤い顔とをじッと見くらべた。
「酒を飲んでいるな」
厳父のような言葉でいった。
「へへへへ」と蛾次郎は、さすがに、間がわるそうにガリガリと頭をかいて、
「きょうはじめて、どんな味のものだか、ためしてみたんです」
「うまいか?」
「さっぱりおいしくねえや、なんだって、大人はこんなものを飲むんだろうな」
「酒は狂水という、頭のよい人をさえあやまらせる。ましてや、おまえのような低能児がしたしめば、もう一人前の人間にはなれない。わしの見ている前ですてておしまい」
「ヘイ……」
「また、おまえはいま、たいそうぜいたくをいっていたな、もったいないことを忘れてはいけない。この戦国、いまの修羅の世の中には、飢えて食をさけんでも、ひと握りの粟さえ得られぬ人がある」
「はい、わかりました。えらい人に会っちゃった!」
「だが蛾次郎、おまえ、近ごろはなにをしているな」
「親方の卜斎について、甲府城のお長屋に住んでます」
「オオ、卜斎どのもこの土地へきているか」
「小太郎山で、すてきな手柄を立てたんで。はい、それから大久保家の知遇を得ました。元木がよければ末木まで、おかげさまで蛾次郎も、近ごろ、ぼつぼつお小遣いをいただきます」
「けっこう、けっこう」
宮内はわがことのようによろこばしかった。
「なるべく身をつめてむだづかいをせず、お金をだいじにもたなければいけない」
「お金を貯めてどうするんだろう」
「あわれなものに恵んでやるのじゃ。それほどいい気持のすることはない」
「な、なーんだ、つまらねえ」
と、乾章魚をつまんで口の中へほうりこみ、飯を茶碗に盛ろうとしていると、門口の縄すだれがバラッと動いた。
ぬッとはいってきた魁偉の男、工匠袴をはいた鼻かけ卜斎である。ギョロッとなかを見まわして、
「亭主、うちの小僧はきておらなかったかい?」
ときく。
亭主はうしろをふりむいた。見ると、蛾次郎は、茶碗としゃもじを持ったまま、台の下へもぐりこんで、しきりにへんな目、しきりにかぶりをふっている。
「へえ、おりませんが」
「こまったやつだ……」
と、卜斎は舌打ちをして、
「おれは見ないのでよく知らないが、城内の仲間などのうわさによると、近ごろ、蛾次郎のやつめ、この馬場の近所で水独楽というのをまわし、芸人のまねをして、銭をもらっては買い食いをして歩き廻っているそうだが」
「ははあ……」
と、亭主ははじめて知ったような顔をして、台の下にかがんでいる蛾次郎をちょッと見た。
たのむ、たのむ、たのむよ後生だ。
蛾次郎は台の下で、飯つぶだらけな手をあわせて拝んでいる。と――その時、おりよく宮内が横から立って、
「卜斎どの」
と、声をかけてくれた。
「おお!」びっくりして――
「菊村どのじゃないか、あまり姿がかわっているので、少しも気がつかなかった。どうしてこの甲府へ?」
「でかけましょう、ご一しょに」
「おお、今夜は、わしの宅へきてお泊んなさい」
地蔵行者と卜斎は、肩をならべて、飯屋の軒をでていった。
蛾次郎は台の下からはいだして、
「アア天佑」
お茶をかけて、じゃぶじゃぶと四、五はいの飯をかッこみ、ころあいをはかって、ソッと戸外へ飛びだした。
久しぶりで甲府という都会のふんいきをかいだ蛾次郎には、さまざまな食べ物の慾望、みたいものや聞きたいものの誘惑、なにを見ても買いたい物、欲しいものだらけであった。だが、やかましやの親方卜斎、つねに小言と拳骨をくださることはやぶさかでないが、なかなか蛾次郎の慾をまんぞくさせる小遣いなどをくれるはずがない。
蛾次郎の不良性は、そこから悪智の芽をふいて、ひとつの手段を思いついた。かれは城下の馬場はずれに立って、皿まわしの大道芸人の口上をまね、れいの竹生島で菊村宮内からもらってきた水独楽の曲廻しをやりだした。ふしぎな独楽の乱舞を、かれの技力かと目をみはる往来の人や行路の閑人が、そこでバラバラと銭や拍手を投げる。――蛾次郎、それをかき集めては、毎日、卜斎の家を留守にして、野天の芝居をみたり買い食いに日を暮らしている。
きょうも、夕方ぢかくなるのを待って、柳のつじの鳥居の下に立ち、竹生島神伝の魔独楽! 水を降らす雨乞独楽! そう叫んで声をからし、半時ばかり人をあつめて、いざ小手しらべは虹渡りの独楽! 見物人は傘のご用心! そんな口上をはりあげて蛾次郎、いよいよ独楽まわしの芸にとりかかろうとしていた。
と。
その群集のなかに立って、かれの挙動を凝視しているふたりの浪人――深編笠に眉をかくした者の半身すがたがまじって見えた。
なにか、ささやき、なにか、微笑し合っている。
するとまた、そのうしろにかくれていた六部の指が、前のさむらいの背なかを軽くついて、ふりかえった顔となにかひそひそ話しているようす。
にわかごしらえの水独楽まわしの太夫、いでや、独楽をまわそうとしてはでな口上をいったはいいが、ひょいと人輪のなかの浪人と六部のすがたを見て、
「あッ! ……」
そういったきり足をすくませ、水独楽にあらぬ眼の玉を、グルリとさきにまわしてしまった。
さて、いよいよ本芸にとりかかったところで、どうしたのか蛾次郎太夫、ふと妙なことが気にかかっていたせいか、いつもあざやかにやる水独楽虹渡りの曲まわしを、その日は、三どもやりそこなって、首尾よくドッという嘲笑を、大道の見物人からあびてしまった。
通力のある神伝の魔独楽。
「こんなはずはないぞ。こんなはずはないぞ」
と、蛾次郎はドギマギしながら、いくども口上をやりなおして、独楽を空に投げあげたが、水を降らせるどころか、廻りもしないで、石のように曲もなくボカーンと自分の頭の上へ落ちてくるばかりだ。
だが、首尾よくゆかないでも、見物のほうはワイワイいってうれしがった。
木戸銭をだしていない大道芸のせいでもあろうが、とかく人間は、かれの成功よりもかれの失敗をよろこぶ傾向をたぶんにもっている。そして、それが群衆となると、いっそう露骨にぶえんりょに爆発してくるのだった。
「イヨーッ、またしくじった」
「やりなおしの名人」
「小僧、いまにベソをかくぞ」
「どうしたい! 独楽まわし」
「目がまわりそうだとさ。あんまり騒ぐと泣きだすぜ」
「大将、しっかりたのむよ」
とうぜん、出ずべきはずの弥次が、四方からワイワイと蛾次郎をひとりぜめに飛ぶので、さすがに、恥かしいことを知らぬ蛾次郎も、すっかりまいってしまって、三たびめの口上は、自分でもなにをいっているのかわからないように、カーッと頭に血があがってきた。
しかし、こうなるとかれもまた、意地でも見物をあッと驚嘆させてやらなければしゃくである。第一、この水独楽がまわらないというわけはない。
「そうだ、おれがあいつに気をとられて、びくびくしながら、まわしているから、ほんとの精気が独楽に乗りうつらないのだ」
蛾次郎にしてはいみじくも思いついたことである。いかにもそうにちがいなかった。かれはさいぜんから群集のうちにまじって、自分を見ているふたりの人物が気になってたまらないのである。
「よし、こんどは!」
と腹からかまえどりをきめて蛾次郎太夫、邪念をはらって独楽を持ちなおし、恬然として四どめの口上を反り身でのべたてた。
「エエ、エヘン」
見物はまたかと、クスクス笑った。
「さて、最初の独楽しらべ、小手しらべとしまして、空まわし三たび首尾よく相すみましたから、いよいよこれから本まわしの初芸に取りかかります」
「うまく逃げ口上をいってやがる」
「また四どめも小手しらべはごめんだぜ」
「早くやれ、文句をいわずに」
第一印象がわるかったので、太夫の人気はさんざんである。けれど蛾次郎は、ここでひとつ喝采をはくして見物から銭を投げてもらわなければ、ここまでの努力も水の泡だし、かえりに空腹をかかえてもどらなければならないと思うと、しぜんと勇気づいて、四面楚歌の弥次ごえも馬の耳に念仏。
「あいや、お立合のみなの衆!」
と、いちだん声をはりあげて、
「芸は気合いもの、独楽は生き物。いくら廻し手が名人でも、そうお葬式の饅頭に鴉がよってきたように、ガアガアさわがれていてはやりきれない。せんこくから見物のなかで、おれのことを小僧小僧といっているようだが、大人の癖にガアガアいうほうが、よッぽどみッともないや。いまにおれの気合いが乗って、この水独楽がブンとうなって見ろ、悪たれをいったその口がまがって、面目名古屋の乾大根、尻尾を巻いて逃げだすだろう。オッといけない、首尾よく独楽がまわったからといって、逃げだしたりあっけにとられたきりで、銭を投げるのを忘れてはいけないぜ、感心したものはえんりょなく一文でも二文でも投げるのさ。よろこびをうけて酬いることを知らざるは、人間にあらず馬なり、弥次馬なり。さあさあ弥次馬はあとへ引っこんで金持だけ前のほうへでてくださいよ。エエ、やり直しの魔独楽は天津風吹上げまわし、村雨下がりとなって虹渡りの曲独楽、首尾よくまわりましたらご喝采!」
とうとうとムダ口をしゃべって大人の見物をけむにまいた蛾次郎は、そこでヤッと気合いをだして、右手の独楽を虚空へ高くなげた。
「ウウム、うまくいった」
と、こんどは蛾次郎もわれながらニタッとした。
風をきって一直線に手をはなれた独楽は、ゆくところまでゆくとビューッとうなりをあげて見物の頭の上へ落下してきそうなようす。
「オオ?」
と、思わず、だれの目もそれに気をとられて、宙に眼をつりあげて見ると、夕陽にきらきらして星がまわってくるかと思うばかりな一箇体の金輪の縁から、雨か霧か、独楽の旋舞とともにシューッと時ならぬ村雨のような水ばしりがして、そのこまかい水粒と夕陽の錯交は、口上どおり七、八尺のみじかい虹をいくつも空へのこして、独楽はトーンと蛾次郎の足もとへ落ちてすんでいる。
群集は正直にドッと賞讃の手をはやした。そしてまわっているかいないかわからないほど澄んでいる地上の魔独楽に目をすえて押し合ったが、蛾次郎は得意になって独楽の心棒を人差指の頭にすくいとり、ピョンと肩へ乗せたかと思うと、左の手から右の手へ衣紋ながしの軽いところをやって見せる。
見物はもう手をたたくのも忘れて、ふしぎな独楽の魅力にすいこまれていた。独楽は生きもののように蛾次郎の自由になって、指頭あるき、剣の刃ばしり、胸坂鼻越え背すじすべり、手玉にあつかわれてまわっていたが、ふたたび、蛾次郎がヤッと空へ飛ばしたとき、――オオ、どうしたのかとちゅうまで霧を散らしてきたその水独楽、かれの手へは帰らずに、忽然と、どこかへ見えなくなってしまった。
「あれッ?」
と、独楽につれていた見物の眼は、ふッと、宙にまよってウロウロした。おどろいたのは蛾次郎太夫で手のうちの玉をとられたという文字どおりに狼狽して、
「おや、コマは? コマは?」
と見まわしたが、その時、フと、気がついて見ると、見物のなかから一本の紅い杖がスッと伸びて、落ちてくる独楽をその尖端で受けとめたかと思うと、紅い棒を坂にしてたくみに独楽を手もとへすべらせ、ひょいとふところへしまいこんで、小憎いほどな早芸、向こうへすまして歩きだしてゆくふたりの人聞があった。
「オッ?」
と、群集はあッけにとられ、蛾次郎は目をまるくしてあんぐりと口を開いている。
横合いから投げ独楽をすくい奪った紅い棒と見えたのは、朱漆をといだ九尺柄の槍であった。
そして、独楽をふところに入れたのは、白衣に戒刀を帯びた道者笠の六部で、つれの侍にかりうけた朱柄の槍をかえし、なにかクスクス笑いながら、あとのさわぎを知らぬ顔して、柳の馬場から濠ばたのほうへスタスタと足を早めてゆく。
「ははははは」
人通りのない濠端までくると、朱柄の槍を杖についた、一方の侍が声をだして笑いだした。
「鏃鍛冶の弟子小僧、さだめしびっくりしたことであろう」
と、蛾次郎のあの瞬間の顔つきを思いだしては、また笑った。
いかにも快活な笑いごえである。
それは、伊那丸の幕下で一番年のわかい巽小文治だった。つれの六部は、ニヤリとして口数をきかないが、たしかに木隠龍太郎であるということは、ほの暗い濠ばたの夕闇にもわかる。
小文治はなにものかを待つように、ときどきうしろをふりかえって、
「だがどうしたのだろう、まだ追いかけてくるようすがないが」
と、つぶやいた。
「いや、こっちの足が少し早かったから、どこかの辻で見うしなって狼狽しているのであろう。いまにきッと追いかけてまいるにちがいない」
と、龍太郎は濠ぎわの捨石を見つけて、ゆったりとそこへ腰をおろした。
「けれど蛾次郎のやつも、われわれと知るとかえっておじけづいて、独楽よりは命が大事と、あのまま泣寝入りに帰ってしまいはいたすまいか」
「なに、あの小僧は、白痴のように見えて小ざかしいところがあり、悧巧に見えて腑のぬけている点がある。まことに奇態な性質、バカか賢いのか、ぼんやり者かすばしッこいのか、つかみどころのないやつじゃ。われわれを怖れていることは事実だが、けっして、ほんとの敵と思われていないことはよくぞんじているから、いまに空とぼけた顔をして、独楽を取りかえしにくるにそういあるまい」
「なるほど」
と、小文治も槍にすがりながら、蛾次郎という小童についてよく考えてみると、末おそろしいといっていいか、末たのもしくないといおうか、まったく判断に苦しむような性格的畸形児であると思った。
「で、かれはいま、卜斎に召使われて、この躑躅ヶ崎の長屋にすんでいる。とすれば、いずれ内部のようすを多少ながら聞きかじっているにそういあるまいから、ここへきたところを捕まえて、いろいろその後のことをさぐって見ようと思う。それにはまず、この独楽を取りあげておいて、いうかいわぬかの責め道具にする。あいついかに横着者とはいえ、まだ子供は子供、きっと独楽をもどして欲しさに、なにもかもしゃべりだすにちがいない――と考えたので、大人げないが、横合いからさらってきた」
「しかし、龍太郎」
「うむ?」
「芸人なら種もあろうが、貴公、どうしてあの独楽を、槍の石突きですくい取ったか、あんな離れわざは本職の独楽まわしでもやれまいと思うが、ふしぎなかくし芸を持っておられるな」
「なあに、あれは人目をくらましたのだ」
「ほう……?」
「幼少のとき、鞍馬の僧正谷で果心居士から教えられた幻術。おそらく、あのくらいのことなら、弟弟子の竹童にもできるであろう」
「はははは、そうだったか。ときに竹童といえば……」
「ウム、竹童……」
と龍太郎も同じようにつぶやく。
この名が一党の者の口にでるときは、だれの胸にもすえの弟を思うような愛念が一致するのもふしぎであった。
「どうしたろうなあ! 竹童は」
いまも惆然として小文治がいう。
「緋おどし谷から里へ逃げた少女の話によると、咲耶子はこの躑躅ヶ崎へ捕われていったとのことだが、竹童のゆくえについては、だれひとりとして知るものがない」
「拙者の考えでは、小太郎山を仇にうばわれたことを、じぶんひとりの責任のように感じて、それを深く恥じ、どこぞへ姿をかくしたのであろうと思う」
「竹童とすればそう考えそうだな」
「ある時機がくるまで、かれは、われわれの前にすがたを見せないかも知れぬ」
「それではなおさら心配になるが」
「どうもぜひのないことだ」
「しかしまたことによると、この館に擒人となっている咲耶子を助けだそうという考えで、この甲府に潜伏しているようにも考える」
「ウム、それなら、どこかでわれわれと落ちあう時機もあるだろう」
「どうかそうありたいものだ、勝敗はいくさの常、小太郎山が敵方の手に落ちたのもぜひないことと伊那丸さまもあきらめておいで遊ばす。また事実は、竹童と咲耶子のおさない者とかよわい少女に、とりでの留守をあずけたほうがムリだったのじゃ。責めは竹童よりむしろ一党の人々にある、どうかして、かれの無事を知りたいものだが……」
と、話はいつか打ちしずんでくる。
人の力でどうにもならないのは、皮肉な運命で、その運命をえて案外にくるわすものは、これまた人力の自由にならぬ時間というものである。竹童と咲耶子をとりでにのこして、民部そのほかの人々が、三方ヶ原へ馳けつけなかったら、あの時の伊那丸の運命はどうなったかわからない。
その危急を切りぬけてきたかと思うと、一行伊那丸をいれて六人、富士の裾野までかかってきた朝、かえるべき小太郎山のとりでに、あの夜明けの落城のけむりをゆく手に見たのであった。
たった、半日、もしくは半夜の時間のちがいで――。
馳けつけて見たところでもうおそい。
とりでの上には下がり藤の旗さし物と、葵の印が王座をしめて戦勝をほこっている。ふもとから野呂川の渓谷いったいは、大久保長安の手勢がギッシリ楯をうえていて、いかに無念とおもっても、疲れきった六人の力で、それがどうなるはずもないのであった。
しかし、伊那丸はわりあいに力をおとさなかった。自分の落胆や失望が、どれほど忠節な人々の胸に反映するかをよく知っている。
「よし、しばらく小太郎山は大久保家へあずけておこう。そして自分たちが次の乾坤一擲にのぞむ支度のために、一両年、諸国を流浪してみるのも、またよい軍学修業ではないか」
こういって、小太郎山をすてたのである。いや、数年のあいだ、かりに敵手へあずけて別れ去る心であった。
旅の途中で、煙草畑に葉をつんでいる少女に会った。少女はついこのあいだ、緋おどし谷から里へ帰ってきた胡蝶陣のなかのひとり。
その少女のはなしで、前後の事情、うらぎり者の毒水の詭計、咲耶子のはたらいたことまたそのために捕らわれとなったことなど、すべて明らかに知ることができた。
ただ一つ、わからないのが竹童のゆくえ。
これには、伊那丸もいたく心をいためたが、いまは落人どうような境遇の公然とふれをまわしてたずねることもならず、いつか、旅路の蛍ぐさに露のしとどに深くなる秋を知りながら、まだもって、その消息の一片も知ることができない。
こうして、伊那丸主従は、信濃の山を越えて、善光寺平をめぐり、諏訪をこえて、また甲州路へ足を踏み入れた。
しかし、甲府へはいるにさきだって、民部の献策によって六人は三組に分れることにした。なぜかといえば、小太郎山奪取ののち、徳川家は大久保石見に命じて、いっそう伊那丸の追捕を厳命した。いたるところに、間者や捕手をふせているもようが見えたからである。
伊那丸は小幡民部と。
山県蔦之助は加賀見忍剣と。
木隠龍太郎は巽小文治と。
こう二人ずつ三組にわかれて、甲府の城下へまぎれこみ、大久保家の内状をさぐったうえにて、間隙をはかって館のうちに捕らわれている咲耶子をすくいだす目的をしめし合わせた。
しかし、躑躅ヶ崎の平城は、厳重をきわめているうえに、さすがはむかし信玄じしんが縄張りをした郭だけあって、あさい外濠を越えて、向こうの石垣にすがるたよりもなかった。
で――一党六人の人々、むなしく、咲耶子の身をあんじながら、手をこまぬいて弱っていると、ここに思いがけない好時機が、近い日のうちにせまっているのを知った。
それは、なにかというと。
甲斐の東端、北武蔵との山境にある、御岳神社の紅葉の季節にあたって、万樹紅焔の広前で、毎年おこなわれる兵学大講会に、ことしは、大久保石見守長安が、家康の名代としてでかけるといううわさである。
で――小幡民部は、
「若君、この機を逸してはなりません」
と、伊那丸に一策をさずけた。
それから間もなく、忍剣と蔦之助の組も、伊那丸も、甲府表からすがたを隠して、あいかわらず、躑躅ヶ崎のようすをうかがっているものは、龍太郎と小文治の一組になっていた。
その龍太郎は、御岳神社の兵学大講会に長安がでかける日をねらって、咲耶子を救いだすつもりであるが、なろうことなら一日も早くと気をあせって、きょうも城下をそれとなく歩いているうちに、思いがけない蛾次郎というものを見つけて、おとりの独楽を取りあげてきた。
いまに、それを奪りかえしに追いかけてきたら、あの蛾次郎を独楽にまわして、ひとつ、さぐりをかけてみようと手ぐすね引いて待つのであったが、うわべは、心棒がゆるんでいるように見えて、ときどき、大人の鼻を明かす横着独楽、こっちの腹を読んでいるのか、なかなかやってきそうもない。
水のきれいな甲斐の国、ことに秋の水は銘刀の深味ある色にさえたとえられている。
ほの暗い宵闇のそこから、躑躅ヶ崎の濠の流れは、だんだん透明に磨ぎだされてきた。眸をこらしてのぞきこむと、藻にねむる魚のかげも、底の砂地へうつってみえるかと思う。
その清冽は十五間ほどの幅がある。
濠の向こうはなまこ壁の築地、橋のあるところに巨大な石門がみえ土手芝の上には巨松がおどりわだかまっている。松をすかしてチラチラ見えるいくつもの灯は、館の高楼であり武者長屋であり矢倉の狭間であり、長安歓楽の奥殿のかがやきである。
二年前には、そこに、武田一族と伊那四郎勝頼の座をてらす燭があった。
十幾年かまえには、そこに、機山大居士信玄の威風にまたたいている短檠がおかれてあった。
いまはどうだ?
ながるる濠の水は春秋かわりなく、いまも、玲瓏秋の宵の半月にすんでいるが、人の手にともされる灯と、つがれる油は、おのずから転変している。
ものおもわしき秋の夜。
龍太郎はなにげなくそこに眸をあげて、さっと露をふらす濠ばたの柳に背すじを寒くさせたが、その時、ふとはじめて気がついた一個の人かげが向こうにある。
どこの百姓の女房であろうか、櫛巻にしたほつれ毛をなみだにぬらして、両袖を顔にあてたまま濠にむかってさめざめと泣いているようす……
月あかりを避けているが、やつれた姿がかげでもわかる。年は三十五、六、質朴らしい木綿着物、たくさんの子供をうんだ女と見えて、大きな乳が着物の前をふくらましている。そして、裾のほうには女でも山国のものは穿く、もんぺという盲目縞の足ごしらえ、尻の切れた藁草履が、いっそうこの女の人の境遇を、いたいたしく感じさせていた。
「おや?」
と、小文治は、直覚的にはね返った。
すべての空気が、この女が、いまにも濠へ身を投げそうなことを教えたからである。
案の定――女は泣きぬれた眼で、躑躅ヶ館を、うらめしげににらんでいたかと思うと、また、悲しげな声で、濠のそこへ良人の名と、むすめの名らしい声を呼びつづけた。
そして――あッ――と思うまに、手を合わせて、月光の水へ身をおどらせようとした。
「――待てッ」龍太郎は飛鳥のように馳けて、女の体をうしろへ抱きもどした。女は、なにか口走りながら、そのとたんに、ワッと柳の木の根もとへ泣きくずれてしまう。
「――見うけるところ、良人もあろうし、幾人かの子供もあろう人妻ではないか。なぜそんな短気なことをいたす。苦しい事情があろうにもしろ、浅慮千万……」
と、たしなめるように強くしかった。
返辞はない。
しゅく、しゅく、と泣く声ばかりが、ふたりの足もとにうったえていた。
だが――やがてやっと事情を聞きとると、この女房の死ぬ気もちになったことを、ふたりはもっともだと思わずにいられなかった。
「ごしんせつに、ありがとうございます。わたしは、西山梨在の戸狩村にいた勘蔵という水晶掘りの女房でお時というもんでござります。はあ、子供も五人もございましたが、そのうち三人は亡くなりました。ひとりの男の子はまだ小ッけえうちに、伊勢まいりにいった途中でかどわかされ、たったひとりのこっていた娘は……その娘は……」
と、女は濠を指さして、また泣きじゃくった。
ちょうど、この夏、伊部熊蔵がこの躑躅ヶ崎に鉱山掘夫を勢ぞろいして、小太郎山へでかけようとした同じ日のこと、信玄の石碑へ、香華をあげて拝んでいるところを見つけられたひとりの百姓が、この館のうちへ、若侍たちの無情な手にひきずられてきた。それを助けてくれと、泣きながら城内へついてきた娘も、その百姓も、ちょうど酒宴をしていた長安のよい酒の興味になって無慈悲な手討ちにあって殺されたが、その死骸を投げすてられたと聞くこの濠へ、いま身を投げようとした女は、そのときの百姓風な水晶掘り勘蔵の女房なのであった。
たったひとりの娘と良人を、無慈悲な領主に殺されたお時は、すこし気がヘンになって、戸狩村からどこともなくさまよいだしていたが、あぶない命をすくわれて、かの女はまた、気もくるわしく泣くのであった。
「にくむべき長安!」
小文治は人ごとに思われなかった。
「泣くな泣くな」背をなぜながらなぐさめて、
「泣いたところで、死んだ良人も娘も返りはしない。それよりは、おまえが伊勢まいりの時に、道中でかどわかされたという、すえの男の子をたずねだして、その子をたよりに暮らすがよい」
「はい……だ、だが、旦那さま、そんなことは、とても望まれねえことなんでございます」
「いや、世間には十年ぶり、二十年ぶりなどで、母子がめぐり会ったなどということもめずらしくはない。一心にさがせばきっとわかるだろう。それに、何かその子に目印でもあれば、なお手がかりとなって、人からも教えてくれぬかぎりもない」
「ところが、百姓の悲しさで、べつに、証拠や印になるようなものもありませず、ただ、……そうでがす……思いだしてみると、その子は、小ッけえ時から癇持ちでがしたもンで、背骨の七ツ目の節にはお諏訪さまの禁厭灸がすえてごぜえます。はあ、そりゃ大けえ、一ツ灸で他国にはねえ灸ですから、目印といえば、そんなもンぐらいでございます」
「そうか、諏訪神社の禁厭灸よくおぼえておいて、拙者たちも旅の間には心がけておくようにいたそう」
龍太郎が温情をこめて、不遇な女をなぐさめてやると、小文治もおととしの春、まだ自分が浜名湖の漁師小屋にいて、母の死骸をほうむる費用もなく、舟にそれを乗せて湖水に水葬したことなどを思いうかべて、まだ子をたずねる母、尋ねらるる子は、幸せであるように考えられた。そして、かれもともどもそんな気持をかんでふくめるように話して、女の一途な死を思いとまらせた。
やつれた女房は、感謝の涙にぬれながら、濠端をすごすごと去った。そして、ふたりの慰藉にはげまされて、これからは、まだ四ツのときに、伊勢もうでの道中ではぐれたきりの末の子をさがしだすのを楽しみにします――と誓うように首をさげていいのこした。
「さまざまだなあ、世の中は……」
うしろすがたを見送りながら、ふたりの勇士は、うるんだ眼を見あわせた。
すると、とつぜんうしろのほうから、わすれていた蛾次郎の声がして、そこへ馳けてくるが早いか、
「やい、独楽どろぼう、独楽をかえせ」
と、飛んでもない鼻息で、腕まくりをしてつめよった。
ああ、やっぱりこいつは低能だな。
小文治はそう思って苦笑した。
盲目、蛇に怖じず――人もあろうに戒刀の名人龍太郎と、血色塗りの槍をとって向こうところ敵なき小文治のまえに立って、泥棒よばわり、腕まくりは、にくむべき値うちもない滑稽ごとである。
「蛾次かッ」
と、待っていたように龍太郎がヌッと立つと、蛾次郎は逃げ腰を浮かしながら、
「泥棒、泥棒、こ、こ、独楽をかえせ。独楽をかえせ」
と、どもりながら、手をだしたり、引っこめたりした。
「――おまえは蛾次郎、この独楽がほしいというのか」
こう龍太郎がいってふところの独楽をだしてみせると、蛾次郎は飛びつきそうな眼色をして、
「欲しいやイ! 返せッ」
と、打ってひびくように、泣き声でののしった。
「返してあげよう」
「か、か、返せッ!」
「そのかわりに、少しわしのたずねることに答えてもらいたい。そうしたら独楽もかえそう、おまえの望むことにはなんなりと応じてやろう。どうじゃ、蛾次郎」
「ふウん……」
と、そこでかれの半信半疑が、やおら、腕ぐみとなって、まじりまじりと落着かない目で、小文治と龍太郎の顔色を読み廻して、
「じゃア……」と相好をくずしかけたが、またにわかにするどくなって、首をふるように、
「あかをいえ! だれが、くそ、そんなウマい策にだまされやしねエぞ。いいや! かえさなけりゃ待っていろ、代官陣屋へいって、てめえたちのことをみんないってやるから」
蛾次郎にしてはくやしまぎれの不用意にでたことばであったかもしれないが、小文治はおどろいた。この甲府附近に、自分たちが入りこんでいることを、まんいち、躑躅ヶ崎支配の代官陣屋にでも密告されては、それこそ、三方にわかれて行動している伊那丸や党友の一大事。
はッと思うまに蛾次郎は、身をひるがえしてもとの道へはしりかけた。やっては! と小文治もいささかあわて気味に、地についていた朱柄の槍を片手のばしにかれの脾腹へ。
「わッ」と、蛾次郎の声であった。
腰車をつかれて横ざまに、ドウと、もんどり打って倒れている。そして芋虫のようにころがったまま、ふたたび起きあがろうともしないようす。
しかし、かれの肉にふれた朱柄の先は、穂のほうではなくて石突きであったから、突きのばした片手の力ぐらいで、そう苦もなく死んでしまうはずはないし、またよほど急所でもなければ、悶絶するのも少しおかしい。
見ると、なるほど。
乞う休んぜよ、である。ひっくりかえった蛾次郎は、ぽかんと眼をあいて、自分にいって聞かせている。
(大丈夫だ、大丈夫だ。死にゃアしない、生きているぞおれは、たしかに生きている。その証拠には星が見える。月だってありありと見えるじゃないか。だが今は、死んだかと思った。あぶねえあぶねえ、うっかり起き上がろうものなら、こんどは光ったほうで、グサリとほんとにやられるかもしれない)
こう考えて、死んだまねをしているらしい。いや、事実は腰の蝶つがいがはずれて、にわかに、起きたくも起きられないでいるのかもしれない。
「手におえない小僧でございますな」
と、濠ばたのほうで小文治がささやいた声さえも、かれはハッキリと耳に入れた。その話に、自分に対してべつだん深い殺意がないのだと覚ると、蛾次郎ははじめて、ホッと多寡をくくって、
「ちぇッ、おどかすない」
と、腰をさすって、そろそろ首をもたげだした。
迷子札のような門鑑を番士にしめして、その夜、霜にあったキリギリスみたいに、ビッコをひいた蛾次郎が、よろよろと躑躅ヶ崎の郭内にあるお長屋へ帰ってきたのは、もうだいぶな夜更けであった。
城内の長屋というのは、館につめている常備の侍や雑人たちの住居で、重臣でも、一朝戦乱でもあって籠城となるような場合には、城下の屋敷からみな妻子眷族を引きあげてここに住まわせ、一国一郭のうちに大家族となって、何年でも敵と対峙することになる。
小太郎山からずるずるべったりに、鼻かけ卜斎はそのお長屋の一軒をちょうだいして、いまでは、大久保石見守の身内ともつかず、躑躅ヶ崎の客分ともつかない格で、のんきに暮らしているのである。
「もう寝たじぶんだろう」
とは、その卜斎をおそれる蛾次郎が、ビッコをひきながら道々考えもし、神に念じるほどそうあれかしと願ってきたところで、お長屋の灯を見るとともに、また、
「起きていた日には大へんだぞ」
と、意気地なく足がすくんでしまう。
で、いきなり門へははいらないで、そッと裏へまわってみたり、羽目板に耳をつけてみたり、窓の節穴からのぞいたりしてみると、天なるかな命なるかな、寝ているどころか、ふだんより大きな声をだして、あのガンガンした声が家の内にひびいている。
「こいつはたまらないぞ」
蛾次郎はどうしようかと思った。
奥には客がきているのだ。昼間、飯屋でぶつかった地蔵行者の菊村宮内を引っぱってきて、久しぶりに夜の更けるのを忘れて話しているあんばい。
とすると、宮内の口から、おれがあそこでお酒というものを飲んでみたこともしゃべったにちがいない。親方が、やってきた時、台の下にもぐりこんでいたことも、おもしろそうに話したろうな。おまけにおやじは、近ごろ、おれが水独楽をまわして小遣い取りをしていることを、うすうす感づいているんだから、こんな夜更けに帰ろうものなら、それこそ、飛んで灯にいる夏の虫だ。親方のげんこつがおれの頭に富士山脈をこしらえるか、弓の折れで百たたきの目に会わされるか、どっちにしても椿事出来、アア桑原桑原、桑原桑原。
こっそり、こっそり、蛾次郎は裏の暗やみに消えてしまった。
どこへいったのかと思うと馬糧小屋だ。馬糧を盗みにはいる泥棒はないから、そこだけは錠前もなく、ギイと開くと難なくかれを迎えいれてくれた。そしてまたソーッと閉めておく。
もとよりなかはまッ暗だが、愉快なことには、抱擁性のあるやわらかい麦藁が、山のごとく積んである。どうだい! すばらしい寝床じゃないか! と、蛾次郎はうれしくなってしまった。
火がなくッたって暖かい、人間の親方はあんなに冷たくッてとげとげしているのに、どうして枯れた麦藁がこんなに暖かいものだろう。変だなア、だが、なにしろありがたい、ここはおいらの安全地帯、いいお住居を見つけたものだ。
蛾次郎はかってなことを考えながら、いきなり麦藁の山へふんぞりかえった。やわらかいぞやわらかいぞ、お大名の寝床だって、こんなに上等じゃああるまいなあ、などと牧をとかれた山羊みたいに、ワザとごろごろころがってみた。
「独楽もある」
ふところからだして、頬ッぺたにおしつけた。
木隠龍太郎からヤッとかえしてもらった独楽である。いつか蛾次郎にもこの独楽が、命から二番目の大事なものになっている。かれがこの水独楽を愛すること、竹童がかの火独楽をつねに大事にするのと愛念において少しもかわりはないのであった。
「独楽よ、独楽よ」
独楽の心棒は蛾次郎が頬ずりするあぶらをうけて、暗やみのなかでもまわりそうになった。なんだかこの独楽には霊があっていきてるもののように思われる。いったい、独楽というものは、手でまわるのかしら? 心が打ちこまれてまわるのかしら?
疑問はでたが、そうヒョッと、考えただけで、これは蛾次郎の智能では解けそうにもない。
いちじ、濠端でひっくり返ったかれが、この独楽をかえしてもらって無事に長屋へもどってきたところを見ると、あれから龍太郎の詰問にあって、小太郎山いらいのこと、躑躅ヶ崎の内情など、すっかり話してしまったことは、もううたがうまでもない。
もっとも、蛾次郎の身にとってみれば、甲府一城の安危よりは、この独楽一箇が大事かも知れない。だれか、かれを悪童とよぶものぞ。独楽を頬ッぺたに押しつけたまま、馬糧のなかにやがてグウグウ寝入りこんでしまったかれこそは、まことに、たわいのないものではないか。
だが、眼がさめると、こいつがいけない。
すぐにユダを発揮し、天邪鬼をまねる。
蛾次郎よ、永遠に寝ていろ、馬糧のなかで。
四更。
月も三更までを限りとする。四更といってはもう夜半をすぎて暁にちかいころ。
馬ぐさ小屋の中の高いびきは、定めし心地よい熟睡におちているだろう。お長屋の灯もみんな消えて、卜斎の家のなかも、主のこえなく、客の笑いもたえて、シンとしてしまった。
月のゆくえはわからないが、空いちめんはいつまでも、月の水いろに明るく冴えている。啼かぬ雁がしずかに渡る、啼く雁よりも啼かぬ雁のなんと秋らしいものかげだろう。
と――躑躅ヶ崎の館の高楼にあたって、万籟もねむり、死したようなこの時刻に、嚠喨とふく笛の音がある。
高音ではないが、このすんだ四更の無音界には、それが、いつまでも消えないほどゆるく流れまわって、すべてのものの眠りをいっそう深くさせるようであった。
さらにまた、その音をもとめるような一点の孤影が大空をめぐっていた。
雁か! 迷子のはなれ雁か!
いや、雁にしては大きすぎる。あの翼を見るがいい、遠いが、おそろしい力で風を呼んでいる。
クロだ! 鷲だ!
おお、されば小太郎山のとりでから、この躑躅ヶ崎の高楼にとらわれてきている咲耶子が、悶々として眠られぬ幽窓に、あの影をふと見つけて、狛笛の歌口に、クロよ、クロよ、と呼ぶ音であったろうか。
それとも、彼女が気をまぎらわすために吹いた笛が、ぐうぜん、しばらく行方の知れなかったクロの慕うところとなって、おぼえのある音色に、向こうからよってこようとしているのであろうか、いずれにしても、この音、あのかげ、おそらく天地に知る者のないことだろう。
と、思ったところが……である。
ちょうどその時刻、それまでは前後不覚であった馬糧小屋の蛾次郎の寝がおの上へ、草鞋の裏からはがれたような一かたまりの土が、しかも開いている口のあたりへ、グシャリと、落ちたものである。
いくら寝坊のおん大将にせよ、それで眼がさめないはずはなく、
「ゲッ、ペッ……」
と、寝ぼけながら、ジャリジャリする口をこすったが、ふいと天井をながめると、いっぱいな星が見えたので、あッと驚いて、さらにまた少し目をさました。
馬糧小屋にだって屋根はある。そんなに星が見えるという法はない。事実、よくよく目をあらためてみるとそれは星に似て星の光ではなく、屋根うらの隙間や節穴が、あかるい空の光線をすかして、星のように見えたのであった。
だが? ……蛾次郎はジッと息を殺しはじめた。
星どころじゃない、節穴どころの沙汰じゃアない。変なやつがいる! へんな人間が屋根うらの梁に、取ッついている!
闇に馴れた蛾次郎のひとみには、ようようそこの屋根うらが、怪獣のような黒木の梁に架けまわされてあるのが薄っすらわかった。あやしげな一個の人間は、蛾次郎がここへ入ったとき、上へ身を避けていたものであろう。今になって知れば、馬糧小屋の天井の梁につかまって、ジッと、身動きもしないでいる。
その足もとから落ちた土。……どうりで、ここへ寝ころんだ時、イヤに、麦藁の寝床があたたかであり過ぎた。
「だが、誰だろう?」
すこし気味がわるくなった。
城内の者ならば、なにも、好んであんなところにひそんでいる必要はあるまい。第一、なんだかその影も大人なみの人間にしてはすこし小さい。
「ははあ」
思い当ったものがある。
奥庭で殿さまが飼っている猿――あの三太郎猿じゃないか、とすれば、抱いて寝てやろうか、あいつはおもしろい。
と、蛾次郎がムックリと起きると、猿とみた梁の影ははなはだ猿らしくなく、きッとかまえをとって、上から蛾次郎のようすを見つめる。
しかも、腰のあたり、屋根の破れをもれる光線に、チカッと光るのは刀の鐺ではないか。
とたんに、
「おお!」
と蛾次郎は藁を散らして飛びあがった。
「やッ」
と、天井の小さい人かげもりすのごとくべつな梁へ飛びうつった。
出会ったり! 火独楽と水独楽双方の持ち主、上にひそんでいたものこそ、どうして、いつどこからこの躑躅ヶ崎の郭へしのびこんでいたのか、まぎれもあらぬ鞍馬の竹童。
その時、鷲をよぶ高楼の笛はまだ、忍びやかに遠音であった。
奇遇といおうか、皮肉なぐうぜんといおうか、じつに人間の意表外にでることは、わずか十坪か二十坪の天地にも、つねに待ちぶせているものだ。
近江竹生島の可愛御堂でつかみあいの喧嘩をやってから、菊村宮内に仲裁をされ、その後、小太郎山落城のまぎわに別れたまま、おたがいにその生死消息をうたがいあっていた蛾次郎と竹童。
ところもあろうに、こんな馬糧だらけな馬糧小屋のなかで、いきなりぶつかりあおうとは、両童子、どっちも夢にも思わなかッたことにちがいない。
「おおッ!」
「やッ!」
とふたりのおどろき。
ピュッと水火両性がはじきあってとんだように、はねわかれた暗中二つのかげ。
双方しばしは天井と馬糧のなかとで、息をこらし、らんらんたる眼光を睨めあっていたが、やがてこれこそ、梁の上から鞍馬の竹童、じッと彼なることを見さだめて、
「ウーム、おのれは、蛾次だなッ」
と、うめくがごとく叫んだ。
「そうよ!」
蛾次郎もすばやく水独楽をふところの奥にねじこみ、代りにあけび巻の錆刀をもってかまえをとり、柄に手をかけて屋根裏の虚空をにらみつけた。
「――下りてこいッ!」
と声いッぱい。
あいかわらず鼻息だけはすばらしい。
「オオ、ゆくぞ」
「ウム、こい、こんちくしょう」
とどなりかえしたが、ガサガサ……と腰の下の馬糧のワラがくずれるとともによろついて、もう蛾次郎の臆病風、あたまの上へいつ落ちてくるかわからない敵のかわしかたをかんがえていた。
だが、これを勝負の前兆とはみられない。
蛾次郎の争闘力は、いつも、この腕よりは口である。度胸よりは舌である。三尺の剣よりは三寸の毒舌、よく身をふせぎ敵を翻弄し、ときには戦わずして勝つことがある。
「さあ、おりてこい、野ねずみめ!」
そろそろその舌の鞘をはらって、蛾次郎、口ぎたなくののしった。
「うまく罠にかかりやがッたな。どう血まよったのかしらないが、自分から罠の袋へはいりこんでくるうすノロがあるか。かわいそうに、はいったはいいが、躑躅ヶ崎のご門内、西へも東へもぬけだす工夫がつかないで、メソメソべそをかいていやがったんだろう、ざまを見やがれ! いまにおれの親方や大久保さまの侍たちを呼んできてやるから、しばらくそこで宙乗りをして待っていろ」
「待てッ、蛾次公!」
「大きなことをいうない」
「うごくとゆるさぬぞ」
「なにを」
「この小屋をでてはいけない」
「伊那丸の間者がまよいこみましたと、おくのご殿にどなってやるのだ。待っていろ、そこで!」
「おお、知らせるものなら知らせてみろ、この火独楽がスッ飛んで、その頭の鉢を木ッ葉みじんにくだいてやるから」
「けッ……な、生意気な……」
とはいったが蛾次郎、上を見るとこわかった。思わずブルブルッと足がすくんだ。
まだ竹童のこんな必死な顔をかれは見たことがない。梁のうえに身をかがめ、片手を横木にささえ、右手に火独楽をふりかぶって、うごかば、いまにも発矢と投げつけそうな眼光。
いかにも蛾次郎が胴ぶるいをおぼえたはずである。気はおもてにあらわる。今宵こそはと最後の死をけっして、石門九ヵ所のかためを越え、易水をわたる荊軻よりはなお悲壮な覚悟をもって、この躑躅ヶ崎の館にしのびこんだ竹童であった。
「うごいてみろ」
と、かれは火独楽をつかんで、蛾次郎の頭蓋骨へたたきつけるつもり。
それでいけなければ般若丸の晃刀、梁の上から抜きざまに、一気一刀の下にとび斬り。
なお討ちそんじたら取ッ組んで、きゃつの喉首を締めあげても、この馬糧小屋のそとへかれをだしては、きょうまでの臥薪嘗胆は水のあわではないか――と思いこんでいる鞍馬の竹童。
自分は決死、かれを見るや必殺。
この躑躅ヶ崎の高楼にとらわれている咲耶子をすくいださなければ、男として、鞍馬の竹童として、なんで生きてふたたび伊那丸や一党の人々とこの顔があわされようか。
そう考えてしのびこんだ胸中の大一念、おのずから燐のごとく眼脈に燃えあがっているので、暗々たる屋根うらの梁に、そのものすごい形相をあおいだ蛾次郎が、口ほどもなく一目見るなりブルブルと、膝の蝶番をはずしかけたのはもっともだった。
神伝の火独楽がいかにおそるべき魔力をもっているかということは、だれよりも同じ水独楽の持主蛾次郎はよく知っているので、あいつを、頭の鉢へたたきつけられてたまるものじゃない――と思わずひるんだ。
ことに、じぶんは下、きゃつは上、足場において勝目がない。
黙然として刻一刻。
蟇がなめくじに魔術をほどこしたごとく、じゅうぶんかれの気をのんでしまった竹童は、やがて、一尺二尺と梁の上をはいわたって、蛾次郎のすぐ脳天のところへ片足をブランと垂らした。
「あッ!」
と、腰を立てたとたん、蛾次郎はその足に肩をけられた。どすん! と藁の山に腰をついたが、無意識に、ウヌ、とばかり竹童の足にしがみついて振りまわしたので、かれのからだも梁のうえから落とされて、藁のなかにころげ落ちる。
組んだ!
まるで二匹のりすのように、そこで取ッ組んだ蛾次郎竹童。
つウ! えいッ! くそウ! と下になりゴミをかぶってもみあったが、弾力性のある麦ワラの上なので、どっちもじゅうぶんに力がはいらず、目へチリをいれたり、ほこりを吸いこんで、むせたりしているうちに、両童子同体にゴロゴロゴロと馬糧のワラ山からワラをくずして九尺ほど下へころがる。
富士の須走りとワラ山の雪崩に、怪我人のあった例しはない。むろん、ころげ落ちた神童と畸童、どっちも、そこでは健在だったが、落ちゆくまに、竹童はかれの耳タブをギュッとつかみ、蛾次郎はあいての口中へ拇指、もう一本、鼻のあなへ人差指を突ッこんでいた。
「ア痛ッ」
と叫んだのはその拇指を、竹童の歯にかまれたのであろう。胸をついて手をはなし、あけび巻の錆刀をザラリと抜きかける。
抜くより投げられているほうが早かった。
みごと、ドスン! と。
「隠密だ隠密だーッ。伊那丸の隠密が入りこんできた。だれかきてくれッ――」
とそこで、蛾次郎が大声で呼ばわったので、竹童はぎょッとして、かれの悲鳴をふせぐべく、思わず、おどしにつかんでいた火独楽を、
「こッ、こいつめ!」
と、かれの横顔めがけてたたきつけた。
ひゅうッと火の閃条!
魔力はそれをはなった持主の怒気をうけて、ブウーンと独楽の心棒に生命力をよみがえらし、蛾次郎の顔へうなりをあげておどってきた。
「ひゃアッ!」
と抜いたのは錆刀、身をかわして火の閃条を切りはらったが、なんの手ごたえもなく、ジャリン! とふたたび鳴っておどる火焔の車輪独楽。
まるで竹童の手から狐火がふりだされるようだったが、いつもの頓智に似ず、蛾次郎がふところにある水性のふせぎ独楽に気がつかず、ただ、神魔の火焔に錆刀を振っていたずらに疲れたのは愚のきわみだ。
「ええ! オオッ」
と目ばたきする間もなく、噛みついてくる独楽の閃影に、蛾次郎はヘトヘトになって逃げまわる。――そのするどい金輪の火が一つコツンと頭にふれたらさいご、肉も骨も持ってゆかれるのはうけあいである。
でも、まだ、じぶんのふせぎ独楽には気がつかずに、ただ、
「こいつはたまらない」
と無我夢中。
いきなりあたりにある馬糧をかぶった。
土龍のように首を突っこみ、積んであるワラ山へ無我夢中でもぐりこむ。
とたんに――ゴツンとなにか尻に当ったような気がしたが、痛くなかったのは首尾よくワラで防いだものだろう――とは蛾次郎が夢中の感覚、ワラ山に大地震を起して、むこう側の戸口へ抜けだそうとしたが、すわ、大へん。
「――南無三!」竹童も色をうしなった。
ワラが赤くなった! ワラが赤くなった! 積みあげてある馬糧のいちめんから、雨上がりの火山か、芋屋の竈のように、むっくり……と白いけむりがゆらぎはじめた。
火独楽の焔が燃えついたのだ。
うつったものは乾燥されたワラであるし、屋根うらの高い小屋の木組は、一瞬にして燃えあがるべくおあつらえにできている。
ド、ド、ド、ドッと蛾次郎の悲鳴が小屋の内部をたたきまわった。出口をさがしているのである。しかし火を見たとたんに、逆上している頭では、七間四方ばかりな羽目板に、一つの出口がなかなか見つからない。
そッちじゃない! こッちじゃない! と頭をぶつけまわっては、ワラ山にはいあがり、煙にむせてはころげ落ちる。
かくてさわげばさわぐほど、火は散らかって一端から、パッと、一団の焔がたつ。
「しまッた――」
と竹童も、いまは蛾次郎を相手にしているどころではなく、焔にカッとうつって見えた出口のところへ馳けよって、五体の力を肩のさきに、グンとそこへ打つけていった。
戸はガッシリとして口を開かない。
さては横にひく車戸かと、諸手をかけて試みたが、ぎしッといっただけで一寸も開かばこそ。
「オオ、これは?」
裾に燃えつきそうな紅蓮をうしろにして、押しつ引きつ、満身の力をしぼったが、戸はいぜんとして鉄壁のようだ。
そればかりか、その時ふと耳についたのは、パチパチとはぜる内部の火の音ではなく、まさしく数十人の人足とおぼえられる物おとが、小屋の外部を嵐のごとくめぐっている。
ああ、いけない。
甲館躑躅ヶ崎の詰侍が、すでに、ここの物音を聞きしって、そとをかためてしまったにそういない。
そして、ふしぎな火のはぜる音に、その原因をうたぐって、焼けあがるのを待っているのだろう。
館の側になってみれば、何千貫といっても多寡が馬糧で、焼いても惜しいものではあるまいが、でるにでられない蛾次郎と竹童こそ災難である。
どこへでも、一ヵ所、風穴ができて見ろ、こんがりとした二つの骸骨が、番士の六尺棒で掻き分けてさがしだされるのはまたたく間だ。
その高楼を源氏閣という。
三層づくりのいただき、四方屋根、千本廂、垂木、勾欄の外型、または内部八畳の書院、天井、窓などのありさま、すべて、藤原式の源氏づくりにできているばかりでなく、金泥のふすまに信玄が今川家から招きよせた、土佐名匠の源氏五十四帖の絵巻の貼りまぜがあるので、今にいたっても、大久保長安の家中みな源氏閣とよんでいる。
やはり、甲館の濠のうちで、躑躅ヶ崎七殿のうちの桜雲台千畳敷の広間の東につづいて建ってある。
さっき――といっても、わずかなまえ。
蛾次郎が竹童のいるのを知らず、ワラ小屋で幸福ないびきをかいていたころに、その源氏閣の上で、しのびやかに吹く佳人の笛の音がしていた。
「おお、あすこが濠のさかい……」
咲耶子は欄によってのびあがった。昼ならばいうまでもなく、甲州盆地はそこから一眸のうちに見わたされて、帯のごとき笛吹川、とおい信濃境の山、すぐ目の下には城下の町や辻々の人どおりまでが、豆つぶのごとく見えるであろう。
が――いまは夜あけに近い闇。
澄んでいるとはいえ、月もどこかに、星明りでは、ただ模糊としたものよりほかに下界の識別がつかない。
しかし、彼女はそのうッすらとした夜霧の底から、やっと、この城郭の境をなす、外濠の水をほのかに見出したのである。そして、しばらくはそこへ、ジッと目をつけて、手の横笛をやすめている。
「まだ見えない」さびしくつぶやいて、なにかふかく思案していた。
「――高音をだして吹けば、夜詰の侍が眼をさますであろうし、いまの音ぐらいでは、あの濠の向こうへまではとどかぬであろうし……」
そういったが、彼女のまつ心に、それからまもなくポチと一つの明りがうつった。
北の石門にあたる外濠である。
霧ににじんでその灯影が蛍のように明滅していたかと思うと、その灯が横に一の字を描く。
「オオ」
と、彼女は、微笑をもって、それへはるかな注意をおくっている。――すると、その灯は消えて、つぎにはやや青味をもった灯が、ななめに、雨のような筋を三たびかいた。
つづいて――青赤二点の灯が、たがいちがいに手ばやく闇に文字をえがくがごとくうごいたが、それは軍学に心あるものでも、めったに意味を解くものは少ない、勘助流火合図の信号にそういない。
「……や、いまから夜明けの間に……オオ、四十八人が……」
闇にかく灯の暗号を、咲耶子は熱心な目で読んでいたが、とつぜん、風にでも消されたように、青い灯、赤い灯、ふたつとも、いちじにパッと消えてしまった。
と――同時に、彼女の耳ちかく、一陣の強風が虚空から横なぐりに巻いてくるのを感じた。そして、躑躅ヶ崎の建ちならぶ殿楼長屋のいらかの波へ、バラバラバラバラまッくろな落葉のかげが雹のように降ってくる!
彼女は知らなかった。
自分が最前、濠のあなたへ、忍びやかに吹いていた笛の音が空をゆるく、妙に流れているあいだ、酔えるように、しずかにこの源氏閣の上を舞っていた怪鳥のことを。
「あッ――」と、はじめて知る。
颯然と目のまえへ降りてきたのは、大鷲のクロである。
黒いちぎれ雲のように、彼女のまえをかすめて奥庭へ降りたかと思うと――地にはとまらないで、また、舞いあがってきた。
しかし、それは彼女の目には見えないで、ただ、翼の音にそう感じたのであるが、やがて、もっとはっきりした音が、バサッと、屋根瓦を打つように聞えて、あとはシンとしずかになった。
まるで夢のようだ。一瞬の疾風。
たしかに、竹童の愛鷲クロのようだったが――見ちがいであったかしら? 幻であったかしら? ――と咲耶子はあとのしずかななかで錯覚にとらわれた。
しかし、錯覚ではない。いまの名残の吹きあおられた落葉が、まだ一ひら二ひら宙に舞っているのでもわかる。鷲がこの源氏閣の附近におりたのは事実にちがいない。
とすれば、どこへいったのかしら――と彼女が欄の南側から奥庭の廂をのぞいていると、とつぜん、
キャッ! キッキッキ、キ、キ、キイ……
とけたたましい声をあげて、廂うらの垂木をガリガリと走ってきた小猿が、咲耶子の肩にとびついて手をやるとまた足もとへとび、おそろしくなにかに恐怖したらしく、彼女のまわりをグルグルまわりだした。
大久保長安が下のおく庭に飼っておく三太郎猿。
ときどき、源氏閣にはいあがってきて、幽閉されている咲耶子とは、いつのまにか仲よしになっていたが、今夜も、その仲よしの人のいる三層のうえの棟木へでもきて、腕枕で寝ていたものとみえる。
その三太郎がおどろいてとび降りてきたところをみると、やはり、鷲はこの閣の屋根に翼を止めているのであろう――と咲耶子が欄に手をやって、屋根をふりあおぐと、
「もし、女のお方」
意外や、上から人のこえが呼ぶ。
はッ……と咲耶子は胆をちぢめたふうである。さっきの火合図で、明け方までに胸に一つの計画があるので、不意な人ごえに、思わず水をかけられたようになった。
「もし……」と、上ではふたたび呼んでいる。
「こんなところに降りて、まことにどうにもならないでこまりました。しつれいながら、そこへ降りることをおゆるしくださらぬか」
見ると、屋根から下をのぞいているのは、色のしろい美少年。
金の元結が前髪にチラチラしている、浅黄繻子の襟に、葡萄色の小袖、夜目にもきらやかな裃すがた――そして朱房のついた丸紐を、胸のところで蝶にむすんでいるのは、背なかへななめに持っている状筥であるとみえる。
咲耶子はふしぎなものが、天から降りてきたように感じたが、とにかく、自分に異議をいう権利はないので、かれのたのみをゆるすと、この美少年、三太郎猿ほどのあざやかさではないが、垂木にすがって欄の上へ、白足袋の爪先をたて、ヒラリと、源氏閣の座敷のなかへはいってきた。
「――ありがとうございました。して、これから大久保さまのご本殿か、お表へまいるには、どこに降り口がありましょうか……」
「階段をおたずねになりますので? ……」
「さようです」
「この源氏閣には、降りる階段はございませぬ」
「えッ……」美少年はびっくりして、
「では、どうしてあなたはここへあがられましたか」
これは、いかにももっともな質問だった。
そのとうぜんな問いをうけて、咲耶子は返辞に窮した。自分は捕らわれの身なので、この閣のいただきにあげられ、階段をはずされてしまっているのだが、何者とも知れないこの少年に、うかつにそんなことを口すべらせていいか、悪いか。
「いえ、この源氏閣にも、昼になればまた、降りる口がないことはございませんが……」
咲耶子の返辞はずいぶんあいまいであった。
「ほウ……夜は下へ通じませんか」
「はい」
と、それでキッパリ話をきって、
「したが、あなたはいったい、何者でございますか、また、どうして屋根の上などから? ……」
「ああ、そうでした。いかにも、それをさきに申しあげなければ、さだめしご不審でございましょう」
と、中腰でいた身がまえをなおして、咲耶子の前にしずかにすわった。
小屏風のかげに、銀の照らしをつけた切燈台が、豆ほどな灯明りを立てていた。それで見ると少年は、まだほんの十三、四歳、それでいて礼儀ことばはまことに正しく、裃にみじかい刀を二本差しているすがたは、夢の国からきた使者のようである。
両手をついて、
「申しおくれました。わたくしは遠江浜松にご在城の、徳川家康さまのおん内でお小姓とんぼ組のひとり、万千代づきの星川余一というものでござります」
「えッ、家康さまの家来?」
「はい」
やはり敵方の片割れであった。うかつなことをさきに口へもらさなくてよかったと、咲耶子は心のうちで思うのだった。
「余一とやら、それはうそでありましょう。お小姓とんぼ組のひとりとはいつわりにちがいありませぬ」
「なぜでございますか。わたくしは、万千代さまの組の小姓にちがいないのですのに」
小さな余一は躍起となって、年上の咲耶子がたくみにかけたことばの綾にのせられていった。
「では、そのお小姓組のおまえが、どうしてこんな屋根上から、おやかたのなかへはいろうとしますか」
「じつはわたくしは、鷲の背なかに乗ってきたのでございます……」
「オオ、ではいま、空から真っさかさまに降りてきたあの怪鳥にのって……?」
「はい、浜松城をでてまいりましたのは宵でしたが、とちゅう空でおそろしい霧にまかれ、やッといまごろここに着きましたが、ここへくると、またどこかで狛笛の音がしていたせいか、ご門のほうへは降りてゆかず、とうとうこの源氏閣の屋根の上へ、翼をやすめてしまいました」
「そして、その鷲はどうしましたか」
「閣上の擬宝珠柱に結いつけておきました」
「あの鷲は、いぜん、わたしもよそで見たことがありますが、どうしておまえのものになっているのか、わたしは、ふしぎでならない気がする」
「さればです――」
と余一は袴の両膝に手をあらため、小ざかしげな眼をパチッとさせて、
「あの金瞳の黒鷲ともうしますものは、今年の春のくれつ方、三方ヶ原で万千代さまが、にせものの独楽まわしにとられたものでござります。で、浜松のお城でも、万千代さまのおのぞみぞと、その後、諸処ほうぼうへ足軽をかけらせ、鷲のゆくえをさがさせておりましたが、トンとすがたが見つかりません。しかるところ、さきごろ裾野の猟人が、この黒鷲が落ちたところを生け捕りましたとおとどけにおよんだので、見ると、どこでやられたのか、股と左のつばさの脇に、二ヵ所の鉄砲傷をうけております。ヤレふびん、オオ、かわいそうなやつと、万千代さまはもうすもおろか、とんぼ組一同が、浜松城のお庭に飼って、医療手当をしながら大事がりましたので、鷲もいつかみんなになれ、いまでは、わたしのようなチビでさえ、自由に使いこなせるようになりました」
と、ここで余一はことばをきって、オオ、じぶんはなにをきかれて、なにを答えようとしていたのかと、かわいい首をすこし曲げた。
「ああ、それから、今夜のわけでございます……。ふいに今夕浜松城の大広間でなにやらみなさまのこ評定、――と見えますると、余一余一! こう万千代さまのお呼びです。はッと、おんまえにかしこまりますと、すなわち、このご状筥――」
肩にまわして胸にむすんだ、紅い丸紐の房をいじりながら、
「――この御書をとりいそいで、甲州躑躅ヶ崎の大久保石見守の手もとへまでとどけよ、とのおおせにござります。これは名誉なお使番、クロを飼いならしていらい、鷲にのってお使いをするものは、とんぼ組の誉れとしてありますので、わたしはほんとにうれしゅうございました」
「おお、それでよくわかりました。ではおまえは、お使番になってこの館へ、家康さまの手紙を持ってきたのですね」
「すこしも早く石見守さまのお手へ、お渡ししなければ役目がすみません。宿直の方をお呼びするには、どこから声をかけたものでございましょうか」
と小姓の星川余一はまた膝を立てて、あたりを見まわすようすであったが、そんなものを呼ばれては大へん、これから夜明けまでのあいだに、彼女がなそうとする計画はやぶれてしまう。
といって、ここへ止めおいてもこまるし、どうしたものか、と咲耶子がふと考えまどっていると、――キイッ、キイッ、キイ、と、また三太郎猿が勾欄の上をいったりきたりしながら、異常なあわてかたをしてさけびだした。
「あ、あれッ……」
三太郎のヘンな啼きごえに余一も咲耶子も、その時はじめて、夜気のふかい館のあなた、外郭のあたりにあたって、しずかな変化が起っているのに気がついた。
それはちょうど、館の北側につづく馬廻り役の長屋の近くである。そこに建っている屋根の高い馬糧小屋から蒸れたせいろうのように白いけむりがスーとめぐっている。
はて、おかしい?
不審な目をみはると、余一はたちまち、
「な、なんだろう! あれは?」
お使者の格式をわすれて、お小姓とんぼマルだしの、子供らしい口ぶりになっていた。
「火事じゃないかしら」
「おう……ほんとに」
「火事だ、火事だ、みんな知らないのかなあ、ほら、ほら、ほら! 白い煙がだんだんひどく噴いてくる」
と、三太郎猿といっしょになって心配しだした。
一ぽう、馬糧小屋のなかでは、竹童と蛾次郎。
パチ、パチ、パチ、パチ……
火はわらの穂を食べてゆくようにうつる。むーッとこもる熱気は刻一刻にたかまる。そして、むせるそばから煙は目や鼻にしみて防ぎようもない。
カアーッと、あかいガラスで見るように、小屋いちめんが、まッ赤に見えたかと思うと、火龍は気味わるく舌をひそめて、暗澹とまッ黒な渦をまいて、二つのおどる影も、煙のなかに見えなくなる。
斃れたかな?
と思っていると、また、パッと立つ炎の明りに、両童のすがたが黒く浮きだす。
けんめいに戸を破ろうとして竹童は、そこをうごかず、蛾次郎は、むちゅうになって、ほかの出口をさがしているのだ。焼け死ぬか、のがれだせるか、人間最高の努力をふりしぼる瞬間には、かれもこれも、おそろしい無言であった。
するとその時、竹童は自分のうしろで、とつぜん、ヒーッという絶叫を聞いた。
見ると、もう血があがってしまった蛾次郎が、
「あ熱ッ……あ熱……あ、つつ、つッ……」
着物にもえついた火をハタきながら、まるで気狂いのようになって、もう逃げ口のけんとうもつかず、盲目的にやわらかいワラ火の山へ向かって駈けだそうとする。
「おいッ」われを忘れてとは、この時の竹童のこと。
「ばッ、ばかッ。そッちは火だ!」
と、蛾次郎の襟がみをつかんで引きとめた。いや、投げとめた。
そして、かれを地べたにころがして、袖や裾にもえついている火を消してやると、蛾次郎は煙にむせながらはねおきて、こんどは竹童と一しょになって、戸をやぶるべく必死に力をあわせはじめた。
しかし、いぜんとして出口は開かれない。
ふたりの命も早やあきらめなければなるまい。噴きあがった業火はふたりの無益な努力をあざわらうもののごとく、ずッしりと黒く焦げたワラ山から小屋の羽目板をなめずりまわしている。
心頭を滅すれば火も涼し――と快川和尚は恵林寺の楼門でさけんだ。まけおしみではない、英僧にあらぬ蛾次郎でも、いまは、火のあついのを意識しなくなった。
いやふたりはまだ、より以上ふしぎなものを忘れていた。蛾次郎は竹童を、竹童は蛾次郎を、あくまで敵、あくまで仇! と思い合っているはずなのに、その憎念を瞬間スッカリ忘れてしまって、放っておけば、ひとりで火の中に飛びこんで死ぬのを抱きとめたり、おたがいに髪の毛や袖に移る火を消しあったり、そうしては、力をあわせて、けんめいに戸を破りにかかっているのだ。
ああ、竹童と蛾次郎とが、一つの目的へむかって、こんなに仲よく気をあわせて必死になっているということが、きょうのいままでに、一どでもあったろうか。
なにしろ、ふたりはむちゅうだ、一念だ、死にものぐるいだった。
一方がたおれれば戸をやぶる力が半分になる。
火に負けるな!
この運命を突きやぶれ!
死んでくれるな! 死んでくれるな!
あえて意識しない共和と、たがいの援護がそこに生まれた。裾をあおる炎の熱風よりは、もっと、もっと、つよい愛を渾力で投げあった。
ガラン!
縄が焼けきれたか、すぐそばへ、火の粉をちらして落ちてきた一本の松丸太。
「オオ、蛾次、これを持て」
「よしきたッ」
知恩院の大梵鐘でも撞くように、気をそろえて、それへ手をかけあった両童子、息と力をあわすやいな、
「ええッ!」
「おウッ――」
ドウン! と戸口へ突ッかけた。
「開いたア!」
まさにこれ暁の声だ。
生命の絶叫だ。
ガラガラガラッととつぜん、風と紅蓮の争闘がはじまった下をくぐって、蛾次郎と竹童、ほとんど同時に、打ちこわした所から小屋の外へ、頭の毛の火の粉をはらっておどりだした。
必然。
その間髪には、ふたりの頭脳に、助かッたぞッ――という歓呼があがったであろうが、結果は同じことだった。ただ業火の地獄から八寒地獄へ位置を代えたにすぎなかった。
なぜ?
と――いうも迂遠な話で、すでに最前から小屋の外には、おびただしい人の足音が、なにかヒソヒソ囁きながら嵐の先駆のごとく、ひそかにめぐりめぐっていた。
待ちかまえてやあがったのだろう――。
不動明王に炎陣から蹴とばされたこんがら、せいたかの両童子でもあるように、火だらけになってころげだしたふたりをそこに見るやいな、
「それッ、その者を」
「やるな!」
とばかりいっせいに寄る氷雨と人影。
二どめの仰天。あッと、起きあがろうとしたのもおそい!
すでに霜と植えられた龍牙の短刀、もしくはながき秋水、晃々たる剣陣を作って、すばやくふたりの逃げ道をかこんでしまった。
「ありがたい。味方がそとに待っていた。館のつよい武士たちが馳けつけていた」
と、よろこんだのは、せつな、蛾次郎の生きかえった気持。
それとは反対に、
「しまった、もう敵の手がまわったか」
と絶望的な驚きにうたれたのは、とっさ、竹童の感じたところで、いわゆる、一難去ってまた一難、もうとてものがれる術はないものと覚悟をきめた。
ところが、果然その直覚はあべこべで、手に手に細身の刀、小太刀を持ち、外に待ちかまえていた者たちは、館の武士とも思われない黒の覆面、黒のいでたち。
人数はおよそ三、四十人、しかもみな、柳の精か、梅の化身か、声すずしく手は白く、覆面すがたに似合わないやさしいすがたの者ばかりで、甲、乙、丙、丁、どの影もすべて一体の分身かと思われるほどみなおなじ背かたちだ。
「それ、蛾次郎を生け捕れ!」
なかのひとりがこうさけぶと、閃々たる小太刀の陣は霜の歯車のように、かれのまわりをグルリとめぐって、有無をいわさず、蛾次郎を高手小手にしばりあげる。
「や、燃えあがった――」
「おくれては一大事」
「奥へ、奥へ」
すでに馬糧小屋の火は屋根から空へもえ抜けて、あかあかとした反映が躑躅ヶ崎一帯の建物を照らした。
「蛾次郎はどうしましょうか」
「捨ててゆけ、この場合じゃ」
「捨ててゆくのもせっかく、おお、むこうの厩の柱へ、しばりつけて――」
「なにしろ、すこしも早く奥庭へ」
「源氏閣へ、源氏閣へ!」
散りぢりに呼びあい、叫びあいながら、柳姿の覆面三、四十人、芒とそよぐ刃をさげて、長屋門の番士を斬り、いっきに奥へはしり入った。
「やッ、待って」
と竹童も不審のあまりその人々のあとを追って、
「あなたがたは?」
と、息をせいてきく。
走りながら、覆面のひとりが、
「竹童さま、お忘れか」
次にまた一つの顔がふりかえって、
「――お忘れか、お忘れか、虹の松原のお別れを」
さらに、足もやすめずまただれかが、
「わたくしたちは緋おどし谷にいた乙女のむれ!」
と明らかに名のった。
そういわれれば覆面ながら、一つひとつにおぼえのある顔。
「いつか、虹の松原で、竹童さまとお別れしてのち、里にかえって散りぢりになっていましたが、かねてのやくそく、わたくしたちの心のちかい、こよい外濠にあつまりました」
「深い話はしていられませぬ、一刻も早くあのお方を」
「咲耶子さまをお救い申しに」
「竹童さまもまいられませ」
「力をそえてくださいませ」
「仔細はあと――」
「かなたをさきに」
群れをくずして走ってゆきながら、こんな端的なことばを口々に投げた。
さては、小太郎山から手当されて、甲府の城下にはいるまえ、虹の松原で礼もいわず置きずてにして自分は馳けだしてしまった、あの、優雅にして機敏な少女の工匠たちであったか。
と知って。
竹童はその意外さをよろこびもし、驚きもしたが、なにを話すまもない馳けながらのこと。
「おっしゃるまでもないことです。もともと、咲耶子さまが捕らわれたのは、わたしにも罪のあること、それゆえ自分もこの館に忍んでいましたが、ここで会ったのは神さまのお助け、およばずながら竹童も力を添えます」
これだけいって、腰の般若丸をひき抜いたが、その刀身は、いきなりまっ赤にひかって見えた。うしろの炎はもう高い火柱となっていた。
奥庭までは白壁門、多門、二ヵ所の難関がまだあって、そこへかかった時分には、いかに熟睡していた侍や小者たちも眼をさまし、警鼓警板をたたき立て、十手、刺股、槍、陣太刀、半弓、袖搦み、鉢ワリ、鉄棒、六尺棒、ありとあらゆる得物をとって、一時に、ワーッと侵入者のゆく手を食いとめにかかった。
血戦は開かれた。
もとより、人数のすくない少女たちのほうでは、初めからひそかに咲耶子を救いだす策略で来たのであるが、とちゅう、馬糧小屋にふしぎな煙がもれていたため、その疑惑にひまどって、ついに、こういう破目になったのは、まことにぜひないことであった。
及ばぬまでも、このうえは敵をむかえて、緋おどし谷で練りきたえた、胡蝶の陣を組みほぐしつ、糸を染めるほそい指に小太刀をにぎり、死ぬまで、戦うよりほかに道がない。
さいわいに風がない。
小屋をぬいた炎の柱はボウーッとまっすぐに立って、斬りつ斬られつ、みだれあう黒い人かげの点在を見せる巨大な篝火のごとく燃えている。そして、ほかの建物へもさいわいと火がはってゆくようすも見えない。
「曲者だぞ、曲者だぞ」
「火事だ、出火だ」
「出合え! 出合え!」
詰侍の部屋や長屋にいる常備の武士を、番士は声をからして起しまわる。たちまち、物の具とって馳けあつまる敵はかずを増すばかり。
殷々たる警鼓の音、ごウーッとふとい炎の息、人のさけび、剣のおめき、館の東西南北九ヵ所の門は、もうひとりも生きてはかえすまいぞと、戦時にひとしい非常の固めがヒシヒシと手くばりされた。
すると。
その一方の土手むこう、外ぼりをへだてた城外の柳のかげに、耳に手をかざして、館のなかの騒音をジッと聞いている者がある。
夜な夜なこの外城の隙をうかがっていた木隠龍太郎と巽小文治のふたりだ。
「はて、ふしぎだのう……」
「内部の者があやまって、火災を起してうろたえているのだろう」
「いや、それだけのさわぎではないようだ」
「じゃア、何者か、われわれの仲間のものが、咲耶子をすくい、また、小太郎山の雪辱をしに、斬りこんでいったのだろうか」
「なにか殺気だっているが、伊那丸さまといい他の者といい、ここへくれば、なんとかわれわれに手はずをなさるであろうから、どうもそうは考えられんな」
「では、なんだろう」
「石見守長安の家中で、うらぎり者が起ったか、でなければ、仲間同士の争闘か」
「そうとすればおもしろいが――オヤ……」
と小文治は足もとをすかすように、ほの明るく映えている外濠の水面をながめだす。
「――妙な物が浮いている」
「なんだ?」
「手組の筏らしい――ヤ、そして、あの柳の木の根からむこうの堤へ、一本の綱がわたしてあるぞ」
「ウーム、するとやッぱり、これは内部の仲間割れではないな」
「この筏は天佑かも知れんぞ」
「ウム」
「渡りに舟というものだ、なにはともあれ、こいつに乗って城内に入りこんで見ようではないか」
「おお、よかろう!」
決然というと龍太郎は、柳の根へかけ寄って、渡し綱にそえてあるともづなをこころみにグイと引ッぱってみた。
案のごとく、濠のなかほどに浮いていた手組の筏は、かるく、こっちの岸へよってきた。手組の筏というのは、およそ、ゆく手に水路のあるのをさっした場合、おのおの、九尺の桐丸太を一本ずつたずさえていって、そくざに菱形筏をあんでは渡ってゆくことで、これは、越後流、甲州流、長沼流を問わず、すべての陣法にあるめずらしくもないことなのである。
ヒラリ――と龍太郎それへ乗る。
「白鷺のようだな……」
小文治はかれの姿を形容しながら、あとから飛びのって渡し綱をたよりに、グングン濠の水をあなたの芝土手へと横切ってゆく。
苦もなく渡っておどりあがった。
なるほど、これでは三、四十人の覆面少女が、やすやすと躑躅ヶ崎へ入りこんだわけだが、まだ龍太郎には、この手組の菱筏が、だれに使用されたものか想像はつかなかった。
ガバとはね起きた石見守、大久保長安は、悪夢におびやかされたように、枕刀を引ッつかむなり、桜雲台本殿の自身の寝所から廊下へとびだした。
「桐井吾助! 桐井吾助!」
足をふみ鳴らして宿直部屋へ呼びたてる。
「狩谷はおらんかッ、狩谷軍太夫はおらぬか」
それにも返辞はなく、殿中、ただなんとなくものさわがしいので、いまはジッとしていることもできないで、錠口まで足を早めながら、
「だれぞおらぬかッ。おお、伊部熊蔵はいかがいたした」
と呼び立ててくると、出合い頭。
まがり廊下の横合いから、サッと見えた真槍の燐光、ビクリッとして飛びのくと、
「や、これは殿」
「なんじゃ、伊東十兵衛ではないか」
「はッ……」
ぴしゃりッ――と槍を廊下へ平において、老臣の伊東十兵衛、あわててかれの前に膝をついた。
「ものものしい庭の手のそうどう、ありゃなにごとじゃ、夜討ちか?」
「いや、お案じなされますな、それほどな人数とも思われませぬ」
「領主の城郭へ押しかける盗賊もあるまい。では、何者が乱入したのじゃ」
「よくは目的がわかりませぬが、ことによると、源氏閣に監禁しておく女を、救いだしにきた命知らずであるやも知れませぬ」
「咲耶子をうばい返しに? ウム、しゃらくさいやつめら! 浜松城へ護送するまでは大事な擒人、かならずぬかりがあってはならぬぞ」
「はッ」
「伊部熊蔵や宿直の者はどうした」
「ご寝所に近づけては申しわけがないと、みな、この外側をかためております。なかにも伊部熊蔵は、腕のすぐれた若侍を選り、いちはやく白壁門へまいって斬りふせいでおりますから、追ッつけ四十や五十人の浮浪人ども、みなごろしにしてもどるでございましょう」
「そうか、しかしかんじんな、源氏閣の方は?」
「それはすぐこのご本殿の階上、三層までの階段をみな取りはずしてございますうえに、あの池のほうにも、侍を伏せておきましたゆえ、これまた、ご安心でござります」
周到な老臣が、臨機神速な手くばりに、石見守が寝ざめの驚愕もやや鎮まって、ほッと、そこで胸をなでおろしたかと思うと、何者であろうか、大廂のそとがわからクルリと身軽にかげをかすめて、廊下の切り欄間へしのびこんだあやしき諜者が、いきなり、奇声をあげて長安の肩へとびついた。
折もおりなので、石見守――。
はッ……と胆を冷やして曲者の手をつかみ、まえへもんどり打たせて投げつけようとすると、伊東十兵衛もスワとはねあがって、つかみ取った槍の穂に風をすわせ、石見守が投げつけたら、そこを立たせずに一突きと足をひらいた。が、曲者は、長安の肩をはなれない。
鈎のような手の爪で、しっかり襟もとへつかまっているので、十兵衛は槍をつきだしようがなく、あッと見ると、長安自身も、つかんだ曲者の手の毛むくじゃらにあきれかえる。
「あぶないッ、突くな」
「なんのこと――三太郎猿でございましたか」
「人をおどろかすやつじゃ、放せ、いたずら者め」
「や、殿。三太郎の襟首に、なにやら書状が」
「なに、手紙が」
「は、りっぱな打紐のお状筥で」
「だれが猿めにこんなものを結いつけたのか? やア、こりゃいよいよもって不審千万、浜松城お使番常用の筥、しかも紅房の掛紐であるところを見ると、ご主君家康さまのお直書でなければならぬが」
「とにかく、ご開封を」
「ウム、猿めを抱いてこい」
乱入者のそうどうの方も気にかかるが、これまた意外な天くだりの状筥、とにかく一見しようと、長安はあたふたと居間へはいり、灯をかき立ててなかをひらく。
三太郎猿はおうちゃくに、十兵衛の膝を拝借してもたれかかりながら、茶色の目をショボショボさせてながめている。
「十兵衛、どこかに、今宵お使番の方が見えておるのか」
「いや、さようなことは、表役人からもうけたまわりませぬが」
「へんなこともあるものじゃ――まさしゅうこれは家康公のお手紙で、おまけに今夕のお日附となっている」
「いかに早足なお使番でも、夕方からただいままでに、ここへ着くともうすのはふしぎなしだい。そして、御書の内容は?」
「わしに、御岳の軍学大講会の総奉行を申しつくるというご沙汰。それと、ご評議の結果、日取りその他の事項ご決定に相なったお知らせである」
「ほウ……してお日取りは、いつごろに」
「十月七日から九日までの三日のあいだ」
「昨年よりは五日おくれでござりますな」
「そうなるかな。当年、軍学兵法の講論、大試合に参加する諸家は、まずご当家を筆頭に、小田原の北条、加賀の前田、出陣中の豊臣家、奥州の伊達、そのほか三、四ヵ国のご予定とある。――だが、どうしてこのご状筥が、猿めの首に結いつけてあったのか。その儀、なんとも腑に落ちないことである……」
「もし……そのご状筥の紐のはしに、まだなにやら、紙片が結びつけてあるようにござりますが」
「ウム、これか」
と長安は、そういわれてなにげなく解いてみると、懐紙をさいて蝶結びにでもしたような紙片。
うっかり開けると、破れそうにまだ濡れている墨色で、それは少年の筆らしく、まことに稚拙な走り書。読みくだしてみると、その文言は――。
お小姓とんぼ組の星川余一、三太郎猿にたくしてご依願申しあげそろ。
お上様のお使いとして、ただいまこの源氏閣の上に着城いたしそろところ、あやしき女人居合わせ、あなたの火を見て、乗りまいりたるクロという鷲をうばい、屋上より逃げ去らん気ぶりにてそろ。
大急ぎにてこの文したため、私もすぐあとより、屋根にのぼり組み止めるかくごながら万一不覚をしては一大事にそろゆえ、若侍衆、一刻もはやくお出合いありたく告げ申しそろ。火急火急。
お上様のお使いとして、ただいまこの源氏閣の上に着城いたしそろところ、あやしき女人居合わせ、あなたの火を見て、乗りまいりたるクロという鷲をうばい、屋上より逃げ去らん気ぶりにてそろ。
大急ぎにてこの文したため、私もすぐあとより、屋根にのぼり組み止めるかくごながら万一不覚をしては一大事にそろゆえ、若侍衆、一刻もはやくお出合いありたく告げ申しそろ。火急火急。
はるばる、遠江の国から鷲にのってきたお小姓とんぼ組のお使番――星川余一が、源氏閣のうえに着城早々、なにかよほどな危険に追迫されたらしく、機智の一策、三太郎猿を利用して、石見守長安のもとへ、火急火急と、走り書にすくいをもとめてきた蝶むすびの早文。
読みおわるなり石見守は、いま、着座したばかりの腰をうかしかけて、
「十兵衛!」
そばにひかえている禿頭を呼んで、
「だれもみな、表のそうどうに走りだして、侍部屋には人のおらぬようすだが、それではならぬ、源氏閣の上にも思わぬ変事じゃ、すぐ十名なり二十名なりを呼びかえして、閣上のようすを見につかわせ」
老臣の伊東十兵衛も、わたされた早文の走り書を一見して、仰天しながら、
「おッ、咲耶子のやつめが?」
「余一の乗ってきた鷲をうばって、監禁の閣をやぶり、こよいのそうどうにまぎれて逃げのびようとしているらしい」
「ウーム、油断のならぬ女め、捨ててはおけませぬ」
「早くせいッ、早くッ」
「はッ」
と、老臣の伊東十兵衛、言下に立ちかけたけれどイヤに膝が重い。はてな、と思って気がついて見ると、使いをしてきた三太郎猿が最前からしたり顔をして、じぶんの膝にもたれている。
殿さまご寵愛のお猿さま、常からわがままいっぱいのくせがついているので、老臣の膝を脇息のかわりにするぐらいなことは平気だが、折もおり、十兵衛も気が立っているので長安の見ている前もかまわず、
「えい、邪魔なやつめ」
と、襟毛つかんで、こッぴどくほうり投げてくれると、キャッ! とぎょうさんな啼き声をあげたが三太郎猿、ちっとも驚いたさまもなく、廊下のあなたにちょこんと両足で立っていた。
「では、ごめんを」
屈み腰にツツとさがった老臣の伊東十兵衛は、袴のひだをつまみあげ、いま、殿のお室にはいる時は、脇部屋のそとにのこしておいた手槍を持とうとして、そこを見ると、あるはずの槍がない。
ガラガラガラと妙な音があなたへ馳けてゆくのに、戸まどいをした目をそらすと、見当らないはず、長廊下を向こうの方へ自分の槍が引きずられてゆく。
「ちッ、いたずら者め!」
腹立たしげに、舌打ちをして追いかけると、それを持っていた三太郎猿は、手をすべらして庭先へ槍を落としたので、十兵衛の方をふりかえると、ケン! と人を茶にした奇声を発しながら、萩の袖垣から老梅の枝へと、軽業でも見せるように逃げてしまった。
ところへ、白刃をさげて、表木戸の方からここへ馳けてきた侍が、
「お――こりゃご家老のお槍ではございませぬか」
ひろいとって庭先から手わたしてやると、
「ウム、伊部熊蔵か。よいところへきてくれた」
と、十兵衛、手みじかに石見守からいいつけられたことを話して、
「表の方も気がかりになるが、咲耶子をにがしては浜松城のほうへいいわけが立たんことになる。なにを打ちすてても、すぐ腕利きの若侍をつれて、源氏閣の上へかけつけてくれい」
熊蔵としては、庭手白壁門のほうの状況を主人に告げるつもりで、ここへきたのであったが、出合いがしらに老臣からそう急かれて見ると、なにを話している間もなく、
「すりゃ大へんです! 心得ました」
もとへ引っかえして、築山の一角から、れいの鉱山掘夫に使う山笛というのを吹き立てると、たちまち、真っ黒になるくらいな人数がワラワラとかれの周りを囲繞してあつまった。
おまえと、おまえと、おまえと、おまえ。
なかで腕のすぐれていそうな顔を、伊部熊蔵、指さきで十二、三人ほどえりぬいて、
「源氏閣へこい!」
自分がさきへバラバラと馳けだしたが、また、ひょいとうしろの者たちをふりかえって、
「残ったものは殿のご寝所のほうを守れ、もう木戸や多門の固めにはじゅうぶん人数がそろったから、よも、やぶれをとるおそれはあるまい」
いいすてて桜雲台へ馳けてゆく。
桜雲台は躑躅ヶ崎七殿の中核であって、源氏閣の建物はその上にそびえている。
平常は錠口より奥、平家来禁入の場所であるが、いま老臣十兵衛がさきにまわってふれてあったので、一同表方で血戦してきたままの土足抜刀の狼藉すがたで、螺旋状の梯子口から二層目へかけ上がり、それより上は階段がはずされてあるので、鈎縄、あるいは数珠梯子などを投げかけ、われ一番乗りとよじのぼっていった。
…………
閣上の源氏の間には、一穂の燈火、切燈台の油を吸いつくして、ジジジと泣くように明滅している。
あたりはさっきのままである。
ただ、銀泥色絵の襖のまえには、蒔絵の硯蓋の筆が一本落ちてあって、そこにいるはずの咲耶子のすがたも見えず、お小姓星川余一のかげも見当らなかった。
「おお、いない!」
数珠梯子から飛びあがった伊部熊蔵と伊東十兵衛は、予期していたことであったが、愕然として顔を見合わせた。
とたんに。
頭の上でガラガラと異様なものおとを聞いたかと思うと、四、五枚の青銅瓦が、廂のはしから落ちてくるなり本殿平屋の瓦の上で、すさまじい金属音を立てた。
そして、まさしく屋根の天ッ辺。
「お出合いなさい! お出合いなされ! 大久保家のご家中の方々、あやしいものが逃げまするぞ、早く、早く、早くここへ!」
高きところに声を嗄らしている小姓余一の絶叫が、一同の頭からけたたましく聞えてくる。
「あれだッ――お使者のこえ」
「おお、屋根、屋根の上!」
「のぼれ!」
「咲耶子を手捕りにして余一を助けろ」
あわてきった十兵衛の指図と熊蔵の叱咤が、若侍たちの先駆けをあおッた。
廂の上へぬけでるかくし階段をさがす者、欄間に足をかけて釣龕燈の鎖をつかみ、三太郎猿のよくやる離れわざの亜流をこころみて、屋根の上へはいあがろうとする者――咲耶子と余一とは、いったいどこから屋根上へのぼったのか血気な若侍にしてもふしぎなくらい、この一番乗りは骨が折れたが、あとになって心得のある者に聞くと、すべてこういう楼閣には、修築手入れなどの場合の用意に、工匠が上下する足がかりが棟のコマ詰から角垂木の間にかくしてあるもので、みんな上へ上へと気ばかりあせっていたので、その工匠口にはすこしも気がつかなかった。
しかし――一せいにとはゆかないが、どうやらこうやら、ほど経て、上に登ることは登りついた。そしてはじめて、ようすいかに――と坂になった屋根の端から首をだして打ちあおいで見ると、
「わアん、わアん……わ――ん……」
浜松城のお使者番は、満天の星にくるまれた閣の尖端、擬宝珠のそばで、手放しに大声あげて泣いていた。
「あれッ?」
伊部熊蔵はあっけにとられた。
まさか浜松城の来使星川余一なるものが、十三、四の子供だとは考えていなかったので。
立っては歩かれないくらい、勾配のきゅうな青銅瓦の上をのしのしと無器用にはいあがって、
「その方はいったいだれであるか」
こう聞くと、余一は泣いている手をはなして、
「お小姓とんぼ組の星川余一……」
そう答えて、また声あらためて泣くのだった。
「なに、ではそこもとが、公書のお使者番となってまいられた星川どのか」
「は、はい……」
「なにを泣いておられるのか、ただいま、三太郎猿が首につけてきた知らせを見て、殿にもことのほかなおおどろき、そっこく、ご助勢をするためわれわれが、ここへ馳けつけてまいったものを。おお、してしてこの閣に監禁しておいた咲耶子なる女をごぞんじないか、あれをにがしては一大事だから」
「だから……だからわたしが……早くお出合いなさいと、あれほど呼んでおりましたのに」
しゃくりあげて、余一はまたくやしそうに、オイオイと肩をゆすぶりながら、
「もうだめ! もうだめ! みんなの来ようがおそいから、わたしがここで一生けんめいにおさえていた咲耶子は、とうとう擬宝珠につないでおいたクロをうばって、あれあれ、あれ向こうへ――」
「えッ」
「逃げちゃった、逃げちゃった……。あのクロをなくしては、わたくしは、浜松城にいる万千代さまに、帰っておわびをすることばがございません」
余一はそれで泣くのだった。
逃げた! と聞いておどろいた熊蔵や、張合いぬけのした若侍たちが、半信半疑の目をさまよわせて、どこへ逃げたのかと明け方にちかい八方の天地をながめまわすと――。
水色にすみわたった五更の空――そこに黒くまう一葉のかげもなく、ただ一閃、ピカッと

また、足もとを俯瞰すと。
竹童と蛾次郎の争闘から端をはっした馬糧小屋の出火は、その小屋だけを焼きつくして焔を沈め、うすい白煙とまッ赤な余燼を、あなたの闇のそこに、まだチラチラと見せている。
「ウーム、おそかったか!」
と、熊蔵は、余一の泣くのがおかしくなった。
「ぜひがない。このうえは殿にありのままをおつげして、少しも早く、ほかへ手配をつけるのがかんじんだ」
一同、手をむなしくして、屋根から降りかけた時だった。下に待っていた老臣伊東十兵衛が、なにか意味の聞きとれない絶叫をあげたかと思うと、二層目の欄間から、手槍をつかんだまま仰向けに、
「伊部ッ」
と救いを呼びながら、二層目の屋根へ、袈裟がけになって斬りおとされていった。
「やッ、ご家老が」
「咲耶子をすくいだそうとして、とうとうここまで曲者がなだれこんできたか。それ、なんでおくれをとっていることがある。降りろ、降りろ」
降りるのは苦もなかった。
擬宝珠に玉縄を結びつけ、ズル! ズルズルとつながってゆく。
一閃。
横に白刃の光流がその玉縄を下からすくったかと思うと、ぶらさがっていった四、五人が、束になってまッさかさまに下へ――。
「わアッ!」
というどよめきがあがる。人の惨死を見ると、人間は忘れていた兇暴な血がたけりだす。
こうなると、つねの怯者も勇士になるものだ。伊部熊蔵はカッと怒って、中断された縄のはしから千本廂の鎖にすがって、ダッ――と源氏の間へ飛びこんだ。
見るとそこには。
今夜、躑躅ヶ崎の館へ斬りこんだ覆面の少女とはまるでちがったふたりの者のすがたがチラと見えた。一方は白い行衣をきて手に戒刀とおぼしき直刃の一刀を引っさげた男。またひとりは朱柄九尺の槍をかかえて、射るがごとき眼をもった若者である。
「いないぞ、ここには」
「さっきまで狛笛の音がしていたのに」
「では、逃げたのであろう」
「いや、いくら咲耶子でも、この堅固をやぶっては逃げられまい」
「それならここにいそうなものだが」
「ふしぎだなあ」
「奥の部屋には」
「つぎの間はない!」
「ではどこかに隠れ場所でも? ……」
早口に、こんな言葉をかわしながら、室内の物をとりのけて、しきりとだれかをさがしているようす。
むろんそれは、手組の筏にのって濠をこえ、館のそうどうに乗じて、ここへ潜入してきた、木隠龍太郎と巽小文治のふたりである。
「おのれッ」
と、そこに思わぬ敵を見かけた伊部熊蔵は、いきなり小文治のうしろ姿を目がけて、思慮なき刃を飛ばしていった。
「うむッ」
といってその胸もとへ、石火にのびてきた朱柄の槍の石突きは、かれの大刀が相手の身にふれぬうちに、かれの肋骨の下を見舞った。
「ざんねんだが、咲耶子のすがたが見当らなければぜひもない。このうえは、どうせのついでに、大久保長安の寝所を見つけて、きゃつの首を土産に引きあげよう」
欄のまわりに影ばかり見せて、ただワアワアとさわいでいる若侍たちを睥睨しながら、源氏閣から桜雲台の本殿へもどってくると、そこへあまたの武士に追いつめられてきた乱髪の小童があった。
「やッ、竹童!」
咲耶子にあわぬ失望は、そのうれしさにおぎなわれて、朱柄の槍と鍔なしの戒刀は、なんのためらいもなくその渦巻のなかへおどった。
うるわしい明け方の雲が、東を染めてきた。
秋霜の下りた山国のあさは、都の冬よりはまだ寒い。白い息が人の鼻さきに凍りそうだ。
「お早う」
地蔵行者の菊村宮内は、お長屋の釣瓶井戸で、足軽たちと一しょに口をそそいでいた。
「ゆうべは、まことにひどいそうどうでございましたな、さだめしみなさんもおつかれでございましょう」
足軽たちに話しかけても、だれもウンとも返辞をするものがなかった。かれらの眼色はまだ夜の明けぬまえの異常な緊張をもちつづけているらしい。
顔をしかめて向こう脛の傷をあらっている者や、水をくんでゆく者や、たわしで洗い物をする者などで、井戸ばたがこみ合っている。
宮内は早々そこをはなれて、
「なにしろ、大事にならなくってしあわせだった」
お長屋の屋根むこうに、まだ黄色く立ちのぼっている馬糧小屋の余煙をながめて、ひとりごとをつぶやいた。
「あッ、神主さん――。竹生島の神主さん」
とつぜん、かれの足を止めた者がある。
だれかと思って横をみると、ご殿の修築に使用する大石のたくさんつんである間に、元気のない蛾次郎の顔がチラと見えた。
「おや、おまえは?」伸びあがってのぞくと、
「お地蔵さま、後生です」
「後生ですって、なにが後生なんじゃ。でておいでな、ここへ」
「それが、でられないんで、弱ってるんです」
「なんだ、しばりつけられているのか」
「ええ、ゆうべお館へ乱入した、あの狼藉者のためにしばられて、とうとうここで夜を明かしてしまったんで」
「おやおや、それはえらいお仕置を食ったな」
宮内は人のいい笑い方をして、石置場にしばられているかれの縄目を解いてやったが、からだが自由になったとたんに、蛾次郎は、礼の言葉なぞはとにかくというふうに、いきなり向こうの馬糧小屋の焼け跡へすッ飛んでいった。
なんですッとんでいったかと思うと蛾次郎、そこでまだ、カッカと余燼の火の色がはっている焼け跡にお尻をあぶって、
「オオ寒、寒、寒、寒。……ああ、あったけえ、あったけえ、あったけえ」
歯をがたがたと鳴らしながら、凍りきった血をあたためて、人心地を呼びかえすのだった。
そこへひょッこり、親方の鼻かけ卜斎が、桜雲台の方からもくもくともどってきた。
卜斎はジロリと蛾次郎の顔を見たが、べつに声もかけないで、菊村宮内のいる火のそばへよりながら、
「定めしゆうべはびっくりなすったであろう」
と話しかける。
「おどろきました。火事と思うと、すぐにあの乱入者の剣の音でな。しかし、かくべつなこともなかったようで、まずお館にとっては、大難が小難でなによりともうすものです」
「どうして、意外な被害なので」
「ほウ」
「いま、役人がしさいを書きあげているが、味方の斬りすてられた者二十四、五名、手負いは五十名をくだるまいとのことでござった。その上、ご老職伊東十兵衛どのが、源氏閣の上から袈裟斬りになって真下へ落ち、鉱山目付の伊部熊蔵どのも悶絶していたようなありさま、けれどもこれは命に別条なく助かりましたが」
「ほウ、そんなに? してここの主、大久保長安どののお身にはなにごともなくすみましたかな」
「いちじは曲者に追われて、あやういところであったそうだが、ご寝所から壁返しのかくれ間へひそんで、やっとのがれたという話、その間に運よく夜が明けましたゆえ、曲者たちは濠をこえて、いずこともなく逃げうせたそうで」
「で、相手方の死骸は?」
「それがふしぎ、なかには手負いや死んだ者もあったろうに、逃げるときにもち去ったか、一つもさきの死骸がのこってない」
「さりとは心がけのよい曲者、いったい、それはどこの者で」
「黒装束はみな緋おどし谷にいた若い女子、源氏閣へ斬りこんだ者は、武田伊那丸の身内、木隠、巽の両人とあとでわかった。おお、それから鞍馬の竹童」
「えッ、竹童も」
宮内は久しぶりであの好きな少年を心にえがいた。
そしてその竹童も、無事にこの館をやぶって逃げのびたと卜斎に聞いて、敵でも味方でもないが、なんとなくうれしくおぼえた。
虹色の陽が高くのぼってきた。
近国へうわさがもれては外聞にかかわるというので、昨夜のさわぎはいっさい秘密にするよう、家中一統へ申し渡しがあって、ほどなく、躑躅ヶ崎一帯、つねの平静に返っていた。
午後には、重なる家臣が桜雲台へ集まった。
けれど、それはゆうべの問題ではなく、もう日限の切迫してきた、御岳の山における兵学大講会の奉行を命ぜられた長安の下準備や手配りの評議。
その公書を浜松からもたらしてきたお小姓とんぼ組の星川余一は、万千代さまへの申しわけに、鷲の行方をつき止めるまで、しばらく長安の詮議をたよりに、ここへ滞留していることになる。
鷲といえば――。
余一のほかにだれも見とどけた者はないが、源氏閣のてッぺんからすがたを消した咲耶子は、いったいどこへいったのだろうか?
クロとともにかげを見えなくしたところからさっすれば、竹童の鷲乗りをうつしまねて、空へと、舞って逃げたよりほかに考えようがないが、あの絵に見まほしき振袖すがたで、そんなあぶないはなれわざが、果たして首尾よくいったろうか。
いや、心配はあるまい。
かの女も裾野の女性である。山大名の娘である。竹童のすること、蛾次郎でさえやること、余一すら乗りこなしてきた鷲――なんで乗れないことがあるものか。
そうあれば。
とにかく咲耶子の身には、ふたたび、うばわれた自由と希望がかえっているわけ。
カアーン……カアーン……カアーン
きょうも甲府の町にのどかな鉦の音。
菊村宮内はおなじ日に、卜斎と別れを告げ、花や供物にかざられた笈摺と、かがやく秋の陽を背にして、きのうのごとく、地蔵菩薩の愛の旅にたっていった。
翌日は駒飼から笹子峠を越える。
甲府を一とおり遍歴した宮内は、これから道を東にとって、武蔵の国へはいるつもり。
これから武蔵へかかる山境は、姥子、鳴滝、大菩薩、小仏、御岳、四顧、山また山を見るばかりの道である。すきな子供のむれに取りまかれることがいたってまれだ。
阿弥陀街道のながい半日に、かなり足の疲れをおぼえてきた宮内、
「おお、茶店があるな」
立場がわりに駒止めの杭がうってある葭簀掛の茶屋を見かけて、
「少し休ませてもらいます……」
と、なにげなく立ちよって、背なかの笈を床几の上へ安置すると、土間のうちで荒々しい人声。
「女だからって、油断もすきもありやしねえ!」
なにかと思って見ると、街道稼ぎの荷物持ちか馬方らしいならず者がふたり、黒鉄に毛をはやしたような腕ぶしをまくりあげて、
「――飛んでもねえいいがかりを吐かしゃあがる。だれがてめえのような女乞食のビタ銭を、掏ったり抜いたりするバカがあるものか、ものをぬすまれましたという人体は、もう少しなりのきれいな人柄のいうこッた、よくてめえの姿や商売と相談してこいッ」
おそろしいけんまくでどなりつけている。
そのふたりの毛脛のあいだにはさまって、土間へ手をついたまま、わなわなおののいている女は、坂東三十三ヵ所の札をかけ、膝のところへ菅笠と杖とを持った、三十四、五の女房である。
「いいえ、そうわるくお取りなすってはこまりますが、たしかに、駒飼の宿の辻堂で、ちょっと帯をしめ直しているあいだに、あなた方おふたりが、足もとへおいたわたしの金入れをお持ちになってかけだしたので、悪気はないほんのいたずらをなされたのであろうと、ここまで追ってまいったのでございます。どうぞ、あの金がなくては、これからさきのながい旅ができない身の上、かわいそうだと思って、お返しなすってくださいまし」
「この女めッ、だまっていりゃいい気になって、まるで人を盗っ人のようにいやあがる」
「どういたしまして、けっしてそんな大それたことを申すのでは」
「やかましいやいッ。てめえがおれたちに金入れを取られたといやあ、おれたちふたりは泥棒だ。よくも人に濡衣を着せやがった」
「あれッ、そのふところに見えます金入れが、たしかに、わたしの持っていた包みでございます」
「飛んでもねえことをいうねえ。こりゃ、おれが甲府の町でさる人からあずかってきた金入れだ。それを見やがってぶっそうないいがかり、どッちが白いか黒いか代官所へでてやるところだが、女巡礼を大の男ふたりで相手にしたといわれるのも名折れだ。さ、命だけを助けてやるから、サッサとでていきやがれ」
馬の草鞋にもひとしい土足が、むざんに女の肩をはげしくけった。
「これ、なにを無慈悲なことをなさる」
菊村宮内はわれをわすれて、その女巡礼の身をかばいながら、
「ふびんではござらんか、かような巡礼道の人の持物を巻きあげて、それがどれほどおまえたちの幸福になるものじゃない。どうか、そんな手荒なことをせずに返してあげておくれ」
「おやッ」
「こんちくしょうめ」
と、胸毛をむきだして腕まくりをしなおしたふたりの道中稼ぎ。
「横合いから飛びだしゃあがって、なにをてめえなんぞの知ったことか。利いたふうな文句をつける以上は、この喧嘩を買ってでるつもりか」
「はははは、飛んでもないことを。あなた方を相手にして、腕ずくなどの争いは、とてもわたしたちにはできないことです」
「じゃあ引ッこめ、引ッこめ! 鉦叩きのやせ行者め」
「いや、引ッこめません」
「これでもかッ!」
いきなり一方の鉄拳が、風をうならせて宮内の横顔を見舞ってきた。
「あぶない」
軽く身をかわした菊村宮内、その腕くびをつかみ取って、
「そんなめちゃをなさらずに、どうか、ゆるしてあげてください。その金財布が、げんざい、あなた方の持物でない証拠には、がらも色合も女物ではありませぬか」
「えい、よけいな口をたたきやがると、こうしてくれるッ」
と、両方から、猿臂をのばして襟もとをつかんでくる。
宮内はうしろへ身を押されて、あやうくそとの葭簀につまずきかけたが、そこまで忍んでいたかれの顔色がサッと、するどく変ったなと思うと、踵をこらえてひねり腰に、
「えいッ」ひとり矢はずに投げつけた。
「野郎ッ」
「兄弟――ッ、仲間のやつらを呼んでこい」
「おうッ」
というとはねおきた一方の男は、脱兎のごとく茶店のそとへ飛びだして、なにか大声で向こうの並木へ手をふった。
と――見る間に、くるわくるわ、どれもこれも一くせありげな道中人足、錆刀や息杖を持ちこんで、
「なんだなんだ」
「その野郎か」
「生意気な鉦叩き虫め! ぞうさはねえ、その女も一しょにつまみだして、二本松の枝へさかづるしにつるしてぶんなぐれ」
理も非もあったものではない。
まっ黒になって茶店の入口になだれこみ、あッと宮内があきれるうちに、床几の上にすえておいた地蔵菩薩の笈摺を、ひとりの男が土足でガラガラとけおとした。
「ウーム……」
と、宮内のまなじりが朱をそそいで引ッ裂けた。
いかに、とるに足らないあぶれ者とはいえ、一念に自分の信仰する地蔵菩薩のお像を、馬糞だらけな土足にかけられては、もうかんべんすることができない!
見そこなったな、この青蠅め!
いまでこそ身は童幼の友と親しまれ、背には地蔵の愛をせおい、軒ごとの行乞、旅から旅をさすらい歩くながれ人にちがいないが、竹生島に世をすてて可愛御堂の堂守となる前までは、これでも、鬼柴田権六の旗本で、戦塵裡に人の生血をすすりながら働きまわったおぼえもある菊村宮内。
「おのれ」
憤怒はついにかれの手を、脇差の柄にふれさせて、今にも、目にもの見せてくれんずと、ぶるぶると、身をふるわせた。
「おや、なんでえ、それは」
「べらぼうめ、物乞いがそんな錆刀なんぞをヒネクリまわしたところで、だれがしりごみするものか」
「さッ、でてこい、そとへ!」
「その錆刀の手うちを見てやろうじゃねえか」
宮内の血相には多少おどろいたが、多寡が地蔵さまを背負ってあるく鉦たたき、なんの意気地があるものかと、頭から見くびって、思うぞんぶん、唾をとばして罵詈するので、いまはもう、あのやさしい宮内の形相も、血を見ねばしずまりそうもない殺気を見せた。
だが。
かれはふと、そこへ蹴飛ばされてきた地蔵菩薩のお像に目をとめた。蹴られても、足にかけられても、みじん、つねの柔和なニコやかさとかわりのない愛のお顔。
「あッ……」
かれは、刀の柄にかけた手を縛りつけられたように、よろよろと、うしろへ身を引いた。
「誓いをわすれた……ああ、悪かった」
そうつぶやくと、殺気の形相は一しゅんにさめて、かれの顔は地蔵のとうとい微笑に似てきた。
「バカ野郎め」とたんに、
「なにを寝言をいってやがるんでッ」
ひとりの男の拳骨が、ガン! と頬骨のくだけるほど、宮内の横顔をはり飛ばした。
「さッ、でろ、でろッ、そとへ」
蹴る、なぐる、突き飛ばす。
宮内は甘んじてぞんぶんになった。
踏みつけられる土足の下にも、地蔵菩薩と同じような微笑を失ってはならないぞと自分の心を叱っていた。カッと、吐きつけられた痰つばをも、かれは、おとなしくふいていた。
かれには誓っていたことがある。
武士をすてて竹生島にかくれた時、そして、地蔵菩薩の愛の旅に島をでたとき、かならず、終生刀を抜くまいぞと心にちかった。
いまは乱世だ、血みどろの戦国である。
人は旅にある時も、町を歩むにも、家に寝ている間にも刀を肌身にはなせない世の中だ。
けれど、人に愛をおしえ、不遇な子の友だちとなり、人に弓矢鉄砲いがいの人生を悟らせようと志している自分が、その刀をたのみにしたり、その殺生をやったりしてはならない。どんなことがあっても、生涯刀は抜くまい、刀は差していても手をかけまい! 地蔵菩薩の愛の体得をけっしてわすれまい!
固くかたく、それを胸の誓いとして、地蔵のみこころにむすびあわしている菊村宮内。
「げじげじめ」
「たわけ野郎」
「ものもらい」
「ざまを見やがれ」
「くたばるまで蹴ころがしてやれ」
寄ってたかってなぐりつける、息杖や足蹴の下に、いつか神気朦朧として空も見えなくなってしまった。
ここに六万五千人の人間が、地上に一個の建築をもりあげるため、蟻のごとく土木に蝟集している。
これが人間業かとおどろかれるような巨城。
もうあらかたできあがりに近づいて、秋晴れの空に鮮やかな建築線をえがきだしている。
なんとすばらしい城だろう。その規模の大きなこと、ローマの古城をもしのぐであろうし、その工芸美の結構はバビロンの神殿にもおとりはしない。
武将の居城として、こんな大がかりなものは、まだ日本になかった。いや、当時、海外から日本にきていて、この工事を見聞きしたクラセとか、フェローのような、宣教師でも、みな舌を巻いて、その高大をつぶさに本国へ通信していた。
そこは――摂州東成郡石山の丘、すなわち、大坂城の造営である。
城は本丸、二ノ丸、三ノ丸にわかれ、中央に八層の天主閣が聳えていた、二重以下は惣塗りごめ、五重には廻廊をめぐらし、勾欄には鳳龍の彫琢、千畳じきには七宝の柱、間ごとに万宝をちりばめてあおげば棟瓦までことごとく金箔。
大和川、淀川の二水をひいて濠の長さを合計すると三里八町とかいうのだから、もって、いかにその大げさな築城かがわかるであろう。
「ほウ、またきょうも、だいぶ大石が集まってくるな」
と、秀吉は、子供のようにごきげんがよい。
本丸の庭先になる山芝の高いところに床几をすえこんで、浪華の入江をながめている。
派手な陣羽織に、きらびやかな具足。
服装はりっぱだがからだの小さい秀吉、床几から立っても五尺せいぜいしかあるまい。それでいて、こんな大きな城をつくって、まだじぶんの住居にはせまいような顔をしている。
片桐市正且元、床几のそばに膝をついて、
「さようでござります。今日の入船は大和の筒井順慶、和泉の中村孫兵次、茨木の中川藤兵衛、そのほか姫路からも外濠の大石が入港ってまいりますはずで」
と、答えた。
「あの堺のほうからくる船列は?」
「三好秀次からご寄進の檜船ではないかと思われます」
「小田原の北条からも、伊豆石の寄進をいたしたいと、奉行へ申しいであったそうだな」
「家康どのからもご領地の巨木や人夫、おびただしい合力でございます」
「あはははは」
秀吉はたわいのない笑い方をして、
「それではまるで、他人がこの城を築いてくれるようなものだ。なぜだ? なぜそんなにして秀吉の住居をみんなして作ってくれるのか」
と、いかにも空とぼけた質問をだして、そばにひかえている片桐、福島、脇坂安治など、ツイせんだって賤ヶ岳で七本槍の名をあげた若い人たちをかえりみたが、またすぐに床几から腰を立てて、
「ウウム、壮観、壮観」
と、港のほうへ小手をかざした。
そこから見ると――
大坂はまだ三郷とも、城下というほどな町を形成していないが、急ごしらえの仮小屋が、まるで焼けあとのようにできている。
そして、百川のすえに青々とすんだ浪華の海には、山陰山陽五畿東山の国々から、寄進の巨材大石をつみこんでくる大名の千石船が、おのおの舳先に紋所の旗をたてならべ、満帆に風をはらんで、宛たる船陣をしながら、四方の海から整々と入江へさして集まってくる。
なるほど壮観だ。
秀吉の目がほそくなる。わかわかしい希望の権化のような顔にいッぱいな満足がかがやく。
さきには、北ノ庄を攻めて、一挙に柴田勝家の領地を攻略し、加賀へ進出しては尾山の城に、前田利家と盟をむすんで味方につけた。
永いあいだ、なにかにつけてじぶんの前途をさまたげていた勝家は自害し、かれと策応していた信長の遺子神戸信孝、勇猛佐久間盛政、毛受勝介、みな討死してしまった。
伊勢の滝川一益も、かぶとをぬいで降ってくる。
破竹の勢いとは、いまの秀吉のことであろう。京へ凱旋してのち、七本槍の連中をはじめ諸将の下のものへまで、すべて、論功行賞をやったかれにはまた、朝廷から、従四位下参議に補せらるという、位官のお沙汰がくだる。
毛利も人質をだして和をねがう。
丹羽、前田も、あまんじて麾下にひざまずく。
こうなると、ひそかに虎視眈々としていた徳川家康も、いきおいかれのまえに意地を突ッぱってはいられないので、石川数正を戦捷の使者に立てて贈りものをしてくる。
秀吉はそこで、
(人間てものは、まあ、そんなものサ)
というような顔をしていた。
そして、遠く走せていた目を、すぐ真下の作事場――内濠のところにうつすと、そこには数千の人夫や工匠が、朝顔のかこいのように縦横に組まれた丸太足場で、エイヤエイヤと、諸声あわせて働いているのが見られた。
「市松」
とつぜん、かれは床几になおって、
「また使者が見えたぞ」といった。
「おう、さようで」
と、福島市松も加藤孫一も、みな主君の指さすところへ目をやった。
見ると、なるほど、戦場のようにこんざつしている桜門の方角から、ひとりの武将がふたりの従者をつれ、作事奉行筒井伊賀守の家臣の案内にしたがって、こっちへ向かってくるすがたが小さく見える。
「いかにも見えまするなあ」
と孫一がいうと、片桐市正が、
「お上はお目がよくておいで遊ばす」
と賞めあげた。
秀吉は、そうさ! といわないばかりに胸をそらして、
「おろかなこと、この秀吉の目には、日本のはてまで見えておる」
笑いながら見得を切った。
かりに本丸をかためている作事門の柵ぎわへ、その使者と筒井の家臣とがきた。
「お開けください」
「だれだ!」
番士は具足、真槍、鉄砲、すこしも戦時とかわらない。
もっとも、作事奉行も棟梁も工匠目付も、四方にかけあるいている使番もすべて上は鎧装陣羽織、下は小具足、ことに人夫を使っているものなどは抜刀をさげて指揮しているありさま。
(怠けるものは斬る)
これが築城場の宣言だ。
したがってここの空気は、賤ヶ岳、柳ヶ瀬の合戦の緊張ぶりとすこしもかわっていないのである。
「――作事奉行、筒井伊賀守の家臣、猪飼八兵衛」
と大声で答える。
「門鑑」
「いやお送りでござる――徳川どののお使者」
「徳川家の使者? して何名」
「永井信濃守尚政と、つきそい両名」
「そのものは?」
「水野源五郎」
「ウム、徳川殿のお旗本でござるな。もう一名は」
「菊池半助」
「それだけでござるか」
「さよう」
「ごくろうでござッた」
案内の猪飼八兵衛はかけもどって、送りこまれた徳川家の家臣三名、槍ぶすまの間をとおってひかえ所に待たされた。
やがてそれを、秀吉のところへ知らせると、かれはもう心得ていて、福島市松に出迎えを命じる。
市松はガチャッ、ガチャッと歩くたびに陣太刀が具足をたたく音をさせながら、巨石でたたみあげた石段をおりてきて、
「遠路浜松城からおこしのお使者、ごくろうです。福島市松ご案内申しあげる。こちらへ」
うしろへ目くばせすると、かれが無二の家来可児才蔵、
「いざ」
と三名のうしろについて、主人と首尾をつつんで秀吉のいる本丸の庭手へあがっていった。
(はてな?)
そのとちゅうで可児才蔵は、自分の目のまえに立ってゆく、少しちぢれ毛のある男の襟もとを見つめながら、
(はて……どこかで見たことがある)
いくども首をひねって考えたが、どうも思いだすことができない。
徳川家の使者についてきた侍、横顔をさしのぞくのも無礼であるし、疑念のあるものをやすやすと、主君の前へ近づけるのはなおのこと不安なはなし。
で――作事門からついてきた番士に、ソッと耳をよせてきいてみると、
「あの方ですか。あれはただいまたしか、菊池半助とか名のりました」
「えッ、菊池?」
そうだ!
それで可児才蔵にも思い起すことができる。かれは徳川家の伊賀衆隠密組の組頭で、かつて富士の人穴城へ、じぶんが主命でようすをさぐりにいったとき、はじめてその名を知った男だ。
(これはいけない! 油断のならない使者のお供だ)
かれがそう思いあたった時には、もう、秀吉のまえにきて、一同横列になっていた。
秀吉は、ヤアと友だちを迎えるようにして、はなはだかんたんに、来意をきく。
けれど、いくらかんたんにされても、なれなれしくあつかわれても、ひとりでに使者のからだは固くなってヤアに対して、オウというような円滑なへんじはできないで、
「左少将さまにはいつもながら、ますますご健勝のていに拝せられまして、かげながら主人家康も祝着にぞんじあげておりまする」
などと形式ばると、
「いや、ありがとう」
秀吉はたいへんやさしい声で、
「体はせわしいおかげでますます健固、また、諸侯ご寄進のおちからで、どうやらわしの寝所もこのとおりできかかっている」
使者の永井信濃守は、肚のうちでひそかにあきれた。
(秀吉はウソばかりいっている。なんでこんな巨きな城が寝所なもんか、これはやがて、四国九州はおろか、東海道浜松も小田原も、一呑みに併呑しようとする支度じゃないか)
そう考えたが、口にはだせない。
秀吉は人の考えなどにはとんじゃくしないふうで、いよいようち解けたようすになって床几をすすめ、
「時に、ご来意は?」
「はッ」
信濃守は、よそごとに散らしていた頭脳を醒まして、
「ほかではございませんが」
「ウム」
「くわしくは主人の書状につくしてござりますが、口上をもって一通りお願い申しあげまする。それは」
「ウム」
「余事ではございませんが、毎年、武田家の行事として行われてまいりましたところの、武州御岳における兵法大講会の試合の儀」
「ウム、ウム」
「勝頼すでに亡び、甲斐の領土は主人家康の治下とあいなっております」
「いかにも」
「そこで旧武田家の政弊悪政はこのさいつとめて廃しまするが、兵法奨励の御岳大講会の行事だけは、なんとか保存いたしたいと考えて、昨秋も形ばかりはやりましたが、当時諸国紛端の折から、まことに思わしゅうございませんでした」
「大きに、ああいう尚武のふうはぜひのこしておきたい」
「で、本年は、甲府の代官大久保長安にその総奉行を命じ、支度ばんたん、力をつくしておこないたいと考えますゆえ、ぜひご当家よりも、当日の大講会に何人かご参加くださるようにと、わざわざおすすめに、イヤ、お願いにまいったようなわけでござります」
「なるほど」
張合いのないくらいかんたんにうなずいて、
「だれかつかわすであろう」
といったが、秀吉、またちょっと考えて、
「だが待てよ……御岳の大講会ともうすと、なにさま天下の評判ごと、秀吉の家来がまけてもこまるな」
「いや、けっして」
「当日、兵法試合のうち、軍学大論議のあることは、あれから甲州流の陣法が生まれたというくらい有名なものだが、そのほか、武道の試合としては、なんとなにか?」
「あえて、それに限りをもうけませぬ」
「うむ、そうか」
「たとえば、武道の表芸、弓術、剣法はもちろんのこと、火術、棒術、十手術、鎖、鉄球、手裏剣の飛道具もよし、あるいは築城の縄取りくらべ、伊賀甲賀の忍法も試合にいれ、かの幻術と称する一派の技でも、自信のあるものは立合いをゆるすつもりでございます」
信濃守がしゃべっていると、丁ッ、と秀吉よこ手を打って、
「いや、なかなかおもしろそうだな」
と、話のさきを折ッぺしょった。そして、
「ほんとうは、この秀吉が若ければ、自分ででかけたいところなのだが、まさか、そうもなるまい。イヤ、お使者の口上あいわかった。いずれ当日までにだれか人選して武州へつかわすであろう。家康どのによろしくご返事を。どれ、一ツ外濠の作事を見まわろうか」
陣羽織をきらめかせて立ちあがった。
信濃守も目礼して宿所へかえる。
ところがその翌日、秀吉は木の香のあたらしい本丸の一室へ、福島市松をひとりだけ呼んで、
「いかんわい」
と、おもしろくない顔をしてつぶやいた。
「なんでいけませんか」
市松にはわからない。
秀吉はときどき、尾張の中村で村の餓鬼大将だった時代のような言葉づかいを、ちょいちょいつかう。
もっともそれは、当時からの腕白仲間の鍛冶屋の虎之助や桶屋の市松などと、さしむかいでいる時にかぎってはいたが。
で――いまもその市松とふたりきりで対坐していたので、
「いかんぞ、いかんぞ、ゆだんもスキもなりはしない。まだすっかりできあがらぬうちに、この大坂城の縄取り構造を浜松の狸めが盗みおった」
と、水瓜ばたけへ泥棒がはいったように、口をひんまげて考えこんだ。
この摂津の要害へ金城鉄壁をきずかれたのは、たしかに家康のほうにとってありがたくない目の上のこぶにはちがいない。
しかし、その家康が、いつこの大坂城の縄取りをぬすんだというのか、福島市松には主君のいうことがさっぱり解せないふうで、へんな顔をしてきいていた。
「わからないと申すか、はてさて、魯鈍な頭よな」
と、秀吉は、説明してやった。
「武州御岳の兵法大講会についてわざわざ鄭重に使いをよこしたのは、すこし妙なと考えていたが、あれはの市松、やっぱり家康めの策であった」
「ほう、ではかれの策略なので」
「というほどのことでもないが、まア用達しのついでだな、転んでもただは起きないのが、あの男のもちまえ、きのうの使者三名のうちに、ひとり隠密の達者なやつをまぜてよこした」
「伊賀者を使者の人数にまぜてよこすは非礼千万、どうしてそれがおわかりになりましたか」
「昨夜作事門をのり越えて、本丸、二ノ丸のようすをうかがっていたやつがある。しかし、この方にもすきがなかったので、じゅうぶん図面をうつしとることもできず、風のごとく逃げうせたから、定めし遠州の使者も宿所をはらって、けさは早朝に帰国したのであろう」
「はてな、さようでございましょうか」
「魯鈍、魯鈍、そちはこんなにくわしく話されてもまだ感づかないのか」
「でも、あまりふしぎに思われますので」
「なにがふしぎ」
「お上には昨夜ご酒宴で、いたくお酔いあそばしました」
「ウーム、よいきげんだった」
「拙者はつぎの宿直の間にひかえておりましたが、鼾声雷のごとく、夜明けまでお目ざめのようすもなかったのに、なんとしてそんなことがおわかりでございましょうや」
「ウム、一理あるな、ではじつを申さねばなるまい、まことは昨夜その伊賀者の潜入を知ったのはかの源次郎が働きじゃ」
「源次郎と申しますと?」
「お、家臣の者ではないから、そちはまだ知らぬとみえる。かの信州上田城から質子としてきている真田昌幸のせがれ源次郎がことじゃ」
「それなら、うわさにうけたまわっております」
「で――こんどの兵学大講会だが、その真田源次郎、まだ二十歳にならぬ若年ものとはいえ、父昌幸、兄信幸にもまさる兵学者、一つあれをやろうと思うがどうだ」
「よろしかろうとぞんじます」
「それに加えて、そちの家来可児才蔵」
と、秀吉はじゅんに指を折りだして、
「虎之助のかわいがっておる井上大九郎、この三名をつかわそう。日もはやせっぱくしておることゆえ、すぐ出立させるがよい」
豊臣家の代表者として、御岳の兵法大講会に参加する命がくだって、可児、井上、真田の三士が大坂表を発足したのは、その翌々日のことだった。
山崎の合戦で敵の生首を笹にとおしてかけあるくほどはたらいて、笹の才蔵といいはやされた可児。
壮漢木村又蔵とならんで、加藤の龍虎といわれている井上大九郎。
それについていった真田源次郎というのは、ついこのあいだ信州から質子として大坂へきたばかりの田舎者、いたって無口で、年も他のふたりよりは若く、ながい道中も、ただむッつりとして歩いているが、秀吉の犀眼が、はやくも見こんでいるとおり、後年太閤が阿弥陀峰頭の土と化してのち、孤立の大坂城をひとりで背負って、関東の老獪将軍大御所の肝をしばしば冷やした、稀世の大軍師真田幸村とは、まったくこの源次郎だったのである。
だが、のちの大軍師幸村も、この時はまだ才蔵よりも大九郎よりも後輩であったし、上田城の城主昌幸の子とはいいながら、質子としてきている身分なので、なにかにつけて肩身がせまい。
大九郎は大酒家で、道中もときどき源次郎に世話をやかせてテコずらした。
才蔵は御岳につくまで、じゅうぶん腕をきたえておこうというので宿へつくと稽古槍を借りて、源次郎をワラ人形のように突きたおす。
太刀を持っては大九郎にかなわず、槍をとっては才蔵に向かえなかった。それでも源次郎は謙遜無口で、よく大九郎のめんどうをみたり、才蔵に槍の教えをうけたりしながら、順路東海道の旅をはかどっていた。
浜松の城下へついた晩、
「一つ皮肉に、せんだって使者にまじってきた、菊池半助をたずねて、一晩泊めてくれと申しこんで見ようじゃないか」
大九郎の発意で、いたらこの間のことを揶揄してやろうぐらいな考え、伊賀組の屋敷へおしかけていってみたが、
「運のいいやつめ」
と、大九郎は門前から苦笑しながらもどってきた。
もう菊池半助も、家中の人々とともに、武州御岳へ発足していて留守だった。
やむなく町へでて、ぶらぶら旅籠をさがしていると、
「おや、可児才蔵さまじゃござんせんか」
と前にかがんで、なれなれしく人の顔をのぞきこんだ町人がある。
「だれだ、その方は」
「お忘れですかい、わっしゃあ裾野でお目にかかったことがあります。へい、一ばん最初は釜無川の河原でね」
「釜無川の河原で?」
「さようでございます。あの時あなたは、鳥刺しの風ていで人穴城をご見物にいらっしたんでがしょう。忘れやしません、わっしが河原で竹童を取ッちめていると、そこへ飛んできて、ひどい目にあわせなすったじゃございませんか」
「おお、そうか」
「やっと思いだしましたね」
「それではきさまは、和田呂宋兵衛の手下、早足の燕作だったか」
「その燕作でございますよ、どうも旦那、お久しぶりで……むかしは敵だの味方だのといっていましたが、いまはやっと、だいぶ天下もしずまりましたし、人穴城は焼けっちまうし、家康さまと秀吉さまも、仲よくつき合っているご時世ですから、こちとらなどは、なんの怨みもくそもありゃしません」
「そうだが、このさきはわからないが、とにかくいまのところでは天下平静、御岳の兵学大講会も、今年は定めしにぎわしかろう」
「お、じゃ、旦那方もおでかけですか」
「なにも能はないが、見物にな」
「ごじょうだんでござんしょう」
燕作はイヤな笑いかたをして、
「おととい、呂宋兵衛もあちらへでかけましたよ」
「ほう、あれもまいったか」
「家康さまのおさしずで、当日は、南蛮流の幻術を公開してみせるそうで」
「あの、蚕婆はその後いかがいたしたな」
「あいかわらず、達者なもんでございますよ、ただ裾野にいたころとすこしちがってきたのは、呂宋兵衛にかぶれて、女修道者のくろい着物をきているぐらいなもンでげす」
「おまえはゆかないのか」
「わっしでございますか……」
と燕作はあたまに手をのせて――。
「わっしはまだごゆるりとあとからでかけますつもりで」
「そうゆうゆうと落ちついていると、もう試合の当日に間にあわなくなるぞ」
「なアに大丈夫、これでごンす」
と、燕作は足の膝ぶしをピッシャリとたたいて、
「孫悟空じゃござんせんが、早足の燕作、一番あとからかけつけましても、こういう筋斗雲がございますから……へへへへことによると、あとからいって、いずれあちらでわっしの方がお待ちするようなことになるかも知れませんて。……へい、じゃあごきげんよろしゅう、さようなら」
と、横町へかけこんだ。
織田と今川のほろびた後は、家康の領地ざかいは小田原の北条氏直ととなり合って、碁盤の石の目をあさるように武州甲州上州あたりの空地をたがいに競りあっている。
その小田原でも、御岳のうわさはたいへんなものだ。
徳川家からでる和田呂宋兵衛がきのう箱根をとおった。お小姓とんぼ組の連中がうつくしい行列で練りこんでいった。菊池半助がいった。やれだれがとおった。なんのなにがしもくりこんでいったと、小田原城の若ざむらいは血をわかしていた。
なんにつけても氏直は、いま、四隣へ虚勢を張っているところだ。
「当家の武芸のほどをしめしてやれ」
と、これは秀吉よりも大のり気で、すでに城内で数度の下試合をやらせたうえ、家中から選抜して武芸者十名、鎖帷子組となづけてめいめいにおなじよそおいをさせ、応援として若ざむらい百二十人をそえ、示威どうどうとして、足柄裏街道から甲州路をぬけて、武州御岳へ参加することになった。
「ほう、あれや小田原の北条だな」
その人数と、ちょうど位牌ヶ岳の追分でぶつかった井上大九郎、つれのふたりをかえりみて、
「戦にはあまりつよくない連中だから、せめて試合に勝とうというんだろう」
大口をあいて笑いながらいった。
「よせよせ、大九郎」
才蔵は、道ばたに寄って、その人数をわざとやり過ごしてから、
「大きな声をすると聞えるじゃないか」
「聞えたって、なあに、かまうもんか。なにかいったら賤ヶ岳で、すこし食い足らなかった腰の刀に、生血を馳走させてやるさ」
「すぐそんな気になってはこまる。こんどの御岳はただの武者修行やなにかとちがう。豊臣家のおん名をいただいてまいったことだから、もうすこし自重してくれよ。え、大九郎」
と、可児才蔵が肩をならべてゆきながら、酒の匂いのたえない井上大九郎に、しきりと意見していた。
いつもおとなしいのは真田源次郎。
ふたりの振分まで自分の肩に持ってやって、もくもくとあるき、もくもくとあたりの山をながめ、時には立ちどまって、地理山川をふところ紙にうつしている。
さすが後年九度山に身をかくしても、隠然天下におもきをなした大軍師幸村、わかい時から人の知らない心がけがあった。
ほどもなく、この人々も、小田原の人数も、甲州本街道を迂回して、岩殿山に武田家滅亡のあとをとむらいながら、御岳へ、御岳へ、と近づいていった。
御岳ののぼり口には、いくつもの小屋や厩や湯呑所などが建っていた。いま山は紅葉のまっさかりで、山腹山上、ところどころに鯨幕やむらさきだんだら染の陣幕が、樹間にひらめいて見える。
「伊達家諸士控所」
「上杉家諸士溜場」
「北条家休息小屋」
「徳川家家臣寄合場」
などとその小屋にはいちいち木札がうってあって、各所ものものしいありさま、すでに明日とせまってきた大講会広前の試合のしたくやなにかに活気だっていたが、いま、天下大半のあるじ、豊臣家にはなんのしたくもなく、見物にまじってぶらりとやってきた三名は、さしずめ、そこらの樹のしたに蓙でもしいて一晩明かすよりほかにしかたがない。
麓のすこし手まえにある御岳の宿の町中も、あしたから三日にわたる山上の盛観をみようとする諸国近郷の人々が、おびただしく入りこんできていて、どこの旅籠も人であふれ、民家の軒に戸板をだして、そこに野宿をする覚悟のものが幾組となく見うけられた。
カアーン、カアーン
鉦をたたきながら、そこを通る地蔵行者があった。
足でもいためているのか、笈を背負っているその地蔵行者は右の足でびっこをひいていた。
すこし歩いては休み、すこしあるいては休みして、
カアーン、カアーン……と行乞の鉦をあわれげにたたく。
「まだおからだがお痛うございますか」
こういって、いたいたしげに行者の足をみたのは、道づれになっている女の巡礼――坂東三十三ヵ所の札を背なかにかけた女房である。
「いいや、もうたいしたことはございません」
菊村宮内はさびしく笑って、
「おまえさんこそ、きょうはだいぶ歩きましたから定めしつかれたであろうと、さっきから休み場所をさがしているが、どうも、たいへんなこんざつで……」
「ご心配くださいますな、けっして、わたしはなんともありゃしませんで。ハイ、行者さまわたしはきのうのことを思いますと世の中には、ありがたいお人もあるものと思わず涙がこぼれてしようがありません」
「なにをいいなさる。あれしきのこと」
「わたしの難儀の身代りになって、あの人足たちに、打たれるやら、蹴られるやら、それでも、おまえさまは手出しもせず、ジッとがまんしていなすったから、とうとう気絶してしまいなされた」
「それでも、死ななかったのは、お地蔵さまのお加護です」
「わたしの眼から見ますと、あなたさまのおからだに、あの時、後光がさしていたようでした」
「とんでもない、わたしはくだらない凡人ですよ」
世間に鬼はない。
いまもふたりが立ち話をしていたごとく、その男女のすがたを見かけると、とある町家の軒下から、
「もしもし、お地蔵さん、ここへきてやすみなさいよ」
と、しんせつにいってくれるものがある。
「ありがとうぞんじます」
ふたりはていねいに腰をかがめてそこへはいり、笈をおろして茶の馳走になった。
ここにも、明日の御岳見物がどっさり話し合っていた。が、なにかの雑談の端から、身の上をきかれて、女巡礼は涙をうかべながらうつ向いてしまった。
菊村宮内は、きのうはからず阿弥陀街道の茶店で、この女房がわるい街道人足に迫害されているのをみかけて助けたことから、ここへくるまでのみちみちに、その身の上を聞いたので、
「わたしが代って――と申しては、まことにさしでがましいようでござるが、なるべく多くの人さまに、聞いていただいたほうが、この方のため、ぞんじているだけをお話しいたしますが」
と、人なかでは、口のきけない巡礼の女房にかわって、
「じつはこの女は、甲州の水晶掘りの女房で、お時といいますが、わけがあって自分のひとりの児をたずねあるいておるんです」
「へえ、子供をね……ふうむ……それやかわいそうなこった」
「どこかに、生きていれば十四、五になる男の児、おさない時に、伊勢参りのとちゅうではぐれたままなので、なんの証拠もなさそうですが、たッた一つ……」
「ふム、ふム」
と、一同の目は、お時と宮内にあつまった。
「――たッた一つある手がかりは、その児の背なかに、お諏訪さまの禁厭というてすえた、大きな虫の灸のあとがあることだけです」
「なるほど、背なかにお諏訪さまの灸のあとがあれば、なんとか、いまに見つかるでしょう、あの灸点は甲府の近郷でやっているほか、あまり他の国にはあんな大きな灸は見ないからの」
「まア、力をおとしなさんな」
「坂東三十三ヵ所の功力でも、いまにきっと見つかりますよ」
と、郷土の人たちのことばは温かく、わずかな金をさいて合力したり、握り飯をとって茶をついでくれたりして、なぐさめてくれているうちに、いつか話がそれて、だれも気がつかないすきまだった。
宮内にもだまって、巡礼のお時は、そこの軒下から走りだしていた。
そして、さきへひとごみを追いながら、せまい宿場の人ごみを縫ってゆく。
「あの子じゃないかしら?」
と、お時は、さきへゆくひとりの少年をつけてゆくのだった。
いつも、それではあとでがっかりするが、ちょうど思うころの年ごろの少年を見ると、お時は、どうしても、あとを追わずにはいられない。
「あの子かしら?」
と思うと、その顔も、死んだおやじに似ているように見えてくるし、いまにもニッコリふりかえって、
「あッ! おッ母さん!」
と飛びついてきやしまいかと思われるのだった。
「ああ、足が早い、足が早い、まあなんて足が早い子なんだろう。ちょっと、こっちをふり向いて、わたしに横顔でも見せてくれればいいのに」
捨ててきた宮内が心配していることも、いまはすっかり忘れてしまった。
――とも知らずに、さきへゆくのは十五、六のなりの大きな腕白小僧。
ピキ、ピッピキ、トッピキピー
木の葉笛をくちびるに当てて、しきりと奇妙きてれつなちょうしで大人をおどかしてゆく。
どこかへ買物にいってきたものとみえて、片ッぽの手にふろしきをさげている。そのふろしきがほとんど手にあるのを忘れて、
ピキ、ピッピキ、トッピキピー
木の葉笛で元気がいい。
「ああ、あれが自分の子だったら、どんなだろう」
お時も夢中で追いかけた。
そして、女の足では苦しいほどいそいで、やっとうしろから追いつきかけたお時は、横へまわるように馳けぬけて、その少年の横顔をのぞきこんだ。
――見ればあまりいい顔だちではない。すこしばかり青い鼻汁をたらしかけている。けれど、お時の目には、やっぱり死んだおやじに似ていた。
なんとかして、話しかけてみたい。
こんどはその気持につりこまれて、また見えがくれにつけていった。
「ちぇッ、ずいぶんありゃアがるな、宿から麓までは」
四ツ辻でそういって、木の葉笛ですこしかッたるくなった歯ぐきを、頬の上からもんでいるところを見ると、それは鼻かけ卜斎のお供でこの御岳へきて、ゆうべから麓の小屋に泊まっている泣き虫蛾次郎。
「そうだ……」
なにがそうなのか、ひとりでコックリして、
「バカバカしいや、いまから帰ったって、また蛾次郎足をもめの腰をさすれのと、師匠にスリコ木みたいにこき使われちゃまいってしまう。どこかですこし、うまい道草はねえかしらなあ」
ピキピッピッキ、トッピッピである。
そこで蛾次郎は四ツ辻をうろうろまわって、なにか見世物小屋でもないかと、月ノ宮神社の境内へはいろうとした。
――と蛾次郎、ぎょろりと目をすえて、
「いけねえ、またへんなところでぶつかってしまったぞ」
急に尻尾を巻いたようすで、あとへもどると、とつぜん馳け足になってどこかへ姿をかくしてしまった。
「おやッ、あの子は」
と、お時は手のうちの玉をとられたように、あッけにとられて失望したが、その目のまえに、すぐと、また同じような少年がひとり、月ノ宮の境内から勢いよくかけだしてきて、
「――蛾次だ!」
と、石の狛犬のそばに立って、背のびをしながら、逃げたもののうしろ姿を見おくっているようす。
すがたも似ている、年かっこうもたいして違うまい、ただ蛾次郎よりは少し背がひくく眼ざしや口もとに凜としたところがある。
それもお時にははじめてみる少年――かの鞍馬の竹童だった。
だが、子をたずね迷うお時の目には、ものかげからジイッと飽かずに見ていると、ああ煩悩は実にもふしぎ、この少年こそ、あるいは自分の子ではないか、あのお諏訪さまの灸のあとが背なかにあるのではあるまいかと、迷えばまようほど思われてくるのであった。
勢いよく、月ノ宮の境内からかけだしてきた竹童は、自分と入れかわりに、そこをすッ飛ぶように逃げだしていったうしろ姿へ、
「やッ、あいつめ!」
石の狛犬に手をかけて伸びあがりながら――。
「蛾次だ、蛾次公だ」
と、棗のような目をクルッとさせて、いつまでもそこに見おくっていた。
そして、かれの姿が、犬ころのように、宿場のはてへ見えなくなると、竹童はもうそれを放念したごとく、
「はてな、伊那丸さまやほかのかたがた……もうお見えになりそうなものだが」
と、つぶやいて、べつな方角へさまよわせた眸を、ふと、狛犬のうしろにむけた。
と――そのかげに見なれない巡礼すがたのおばさんがボンヤリと立っていて、自分のほうを穴のあくほど見つめていたので、竹童はボッと顔をあかく染め、あわてて眸をひッこめたが、お時のほうはものいいたげな微笑を送りながら、
「坊、おまえは、いくつだネ?」
と、そばへ寄ってきた。
竹童はきまりが悪そうに、もじもじとあとへ足を引っこめた。見たこともない坂東巡りの巡礼女が、いきなり年をきいたりジロジロと顔ばかり見つめてくるのが、なんとなくうす気味のわるいようでもあった。
「いくツ? おめえは今年いくつになったえ?」
「…………」
「家はどこ?」
「…………」
「この御岳のまわりかい、それとも、もっと遠い在郷かね?」
「…………」
竹童は小指の爪をかんでいる。
だれにでも、打てばひびく調子で、鮮明率直なことばのでるかれも、そのやさしい問いには一句も返辞ができないで、ただふしぎな巡礼のおばさんよと、あいての身なりをながめ入るのみだった。
子をたずねる愛執の闇、生みのわが子をさがしあるく母性のまよいに、ふしぎな錯覚を起しているお時は、相手のはにかみにも気がつかず、ただ(もしやこの子が)と思う一途に、
「じゃあおめえは、両親を持っているかね。――ほんとの父つァんを知ってるけえ? おめえを生んだおッ母さんはどこにいる?」
絶えて忘れていた一つのさびしさが、そのだしぬけなお時のことばに、ハッと、竹童の胸をうってきた。
ほろほろと
啼くやまどりの声きけば
父かとぞおもう
母かとぞおもう
啼くやまどりの声きけば
父かとぞおもう
母かとぞおもう
竹童はだれかに聞いたこの歌一つをおぼえていて、父を思うとき、母をおもうとき、寝床のなかや森のかげでひとりこの歌をくり返しくり返ししていると、いつもひとりでに涙がでてきた。
かれは、生まれながらにして、父母を知らない。
もの心ついたころから、鞍馬の奥の僧正谷で果心居士にそだてられ、友とするものは猿や鹿やむささびや怪鳥のたぐい、師とあおぐ人も果心居士、父とうやまう人も居士、母とあまえる人も居士であった。
「おいらは、木の股から生まれたんだ」
ついこの間うちまで、かれはこう信じていた。
しかし、やがて僧正谷から実世間のなかへもまれだしてみて、はじめて、人間には両親のあることを知った。
父は六臂三面の神よりも力づよき柱――、母は情体愛語の女菩薩よりもやさしい守り――その二つのものが人間には橋の下に生まれる子にもあるのを知った。
「だのに、なぜおいらには、それがないのかしら?」
この疑問がすすんで、竹童もいつのころからか、じぶんの父は何人か、自分の母はたれなのかと、人知れずしきりに思うようになっていた。
「それにおるのは竹童ではないか。竹童、竹童!」
不意に、かれの幻想とうつつな耳をさます声があった。
お時に親を問われて、夢でもみるように、なにかボウと考えこみ、石の狛犬とならんで指の爪をかんでいた竹童は、近よる足音にハッとして目をそらした。
――と、かれの顔いッぱいに、意外なよろこびにぶつかッた表情が笑いかがやいて、
「オオ、民部さま! や、伊那丸さまも」
と、手をあげて迎える。
森の小道でも抜けてきたか、とつぜんそこへ姿をみせた人々は、民部をさきに、伊那丸をなかに、うしろに山県蔦之助と加賀見忍剣のふたりをしたがえた旅装いの一行四名。
「竹童、よく達者でいたな」
と、蔦之助が手をにぎる。
忍剣も肩へ手をのせて、
「小太郎山の変いらい、そちの消息がたえていたので、若君をはじめ一党の人たちが、どれほど、しんぱいしていたかわからぬ」
「あの、砦の留守番役を仰せつかって、みなさまの帰らないうちに、あんなことになったもんですから……」
「もうそのことはいうな。おわびはわれわれからすんでおる。しかし、きさまどうしてこんなところにボンヤリと立っていたのだ」
「明日はいよいよ御岳の大講会、その前日には月ノ宮の森で、みなさまが落ち合うことになっているおやくそくだったそうですから、それで待ちどおしくッて、さっきからここに立っていたんです」
「ふム、きょうのやくそくをぞんじておるならば、龍太郎、小文治のふたりと一しょになっていたのか」
「はい、おふたりは先について、森の垢離堂でお待ちです」
「そうか。ではすぐにそこへまいろうではないか」
と、伊那丸が藺笠の前をさしうつ向けてさきに立つ。
それにつづいて、忍剣、民部、蔦之助の三人が久しぶりで邂逅した竹童をなかに、みなが弟のごとく取りかこんで、親しげな話をかわしながら、月ノ宮の境内ふかくしずしずとあゆみ去ってゆく。
あとには、ホウ、ホウ、と山鳩の啼くのがさびしげに……
そして、ひとりぼッち、あとに取りのこされた巡礼のお時は、孤寂なかげをションボリたたずませて、去る者のうしろ姿をのびあがりながら、
「アア……あの子もちがっていたのかしら?」
とつぶやいて、どこかに聞えるあわれっぽい鳩笛の音に、なんとはなく涙をさそわれて、垢じみた旅衣の袖に、思わずホロホロと涙をこぼした。
「おう、そこにいましたね、お時さん。いや、息がきれた息がきれた。不意に人をうっちゃってこんなところへきてしまうのはひどいじゃないか、いくらあとから呼び返してもふり向きもしないで」
と、そこへ追いついてきたのは、あの慈顔に笑みをうかべた地蔵行者の菊村宮内。
「ああ、宮内さま」
「おや、泣いていましたな」
「まだ目のさきにチラチラする。ほんとに瓜二つじゃ、あんなよう似た子供が、どうしてわしの子でないのかしら」
「いやいや、おさな顔はかわるもの、似たというものはあてになりません」
「でも、なんだか、あのふたりのどッちかは、わしの子にちがいないような気がしてなんねえのでがす」
「じゃ、おまえさんの尋ねる手がかり、あのお諏訪さまの禁厭灸が、その子の背なかにあるのでも見たのですか」
「いいえ、そら、どうやらとんと知らんけれど……」
「では――迷いでしょう。おそらくそれは親心の煩悩でしょう。――迷いの霧をへだてて見れば、枯れ木も花と見え、縁なき他人さまの子供でも、自分の子かと見えてくるのが、人情のとうぜん。――まあまあ、そう気が短こうては、自身のからだをやつれさすばかり、それでは永い年月に、わが子をさがそうという巡礼の旅がつづきません。ただひたすら、めぐりあう日は神仏のお胸にまかせて、坂東三十三ヵ所のみ霊に祈りをおかけなさい。……わたしも幸い、地蔵愛の遍歴者、およばぬながらも同行になって、ともどもさがして進ぜましょうから」
と、宮内はお時をなぐさめた。
そしてふたりは、月ノ宮の御籠堂に笈をおろしたが、古莚につめたい夢のむすばれぬまま、啼くこおろぎとともに夜もすがら詠歌をささげて、秋の長夜を明かしていた。
塩市と馬市と盆の草市が一しょくたにやってきたように、夜になると、御岳ふもとの宿は提灯の鈴なり、なにがなにやら、くろい人の雑沓とまッ赤な灯であった。
諸国諸道からここに雲集した人々は、あすの日を待ちかまえて、空を気にしたり、足ごしらえの用意をしたり、またはその日の予想や往年の思い出ばなしなどで、どこの宿屋もすしづめのさわぎ。
「よウ、京都の葵祭にも人出はあるが、この甲斐の山奥へ、こんなに人間が集まってくるたあ豪勢なもンだなあ……」
と、その町なかの一軒の旗亭の二階で、窓から首をだして、のんきに下をながめている男が感心していた。
なるほど、往来をみていると、宿をとれずにかけあっている田舎武士や、酒気をおびている町人や、連れをよんでいる百姓や、えッさえッさと早駕で、おくればせに遠地から馳けつけてくる試合の参加者。
そうかと思うと、鮨売りの声やもろこし団子や味噌田楽の食い物屋、悠長に尺八をながしてあるく虚無僧があるかと思えば、鄙びた楽器をかき鳴らしてゆく旅芸人の笠のむれ――。
なかでも一ばん売れているのは四ツ辻の松明売りだ。
「夜があけてから山をのぼってゆくようじゃ、とてもいい場所で見物はできないぞ」
というので、気のはやい連中が十七文の松明をふりたて、その晩のうちからドンドンドンドン御岳の山へかかってゆく。
それが麓から見ると、狐火のように美しい。
「ウーム、どうでい、ありゃあ。まるで大文字山の火祭のようだな」
この男、京都にいたことがあるとみえて、旗亭の二階から首をだして、そのながめを大文字山の火祭に見立てた。
だれかと思うと、早足の燕作だ。
と――燕作、
「おッ、連中がやってきた」
と、そこから店の軒下をのぞいて、あわてて首を引っこめたが、次の部屋へヒョイときて、
「お頭。きましたぜ、おそろいで」
「ウム」
と、うなずいたのは和田呂宋兵衛である。
蚕婆と丹羽昌仙のふたりを相手に、さいぜんから酒を飲みながら、だれかのくるのを待ちあわせていたらしい。
「一同、ご微行だろうな」
「へい、ぞろぞろと編笠が七ツばかり、いま、階下の門口へはいってきました」
「じゃあ、お迎えに」
と目くばせすると、丹羽昌仙が立ちあがって階下へ降りてゆく。
間もなくそこへあがってきたのは、隠密組の菊池半助、おなじ組下の綿貫三八、それに今度の兵学大講会に試合目付として働いている大久保長安の家臣が四、五人――ただし、そのなかには客分格の鼻かけ卜斎がまじっていて、そのまたうしろには泣き虫の蛾次郎、鼻をふいてひかえていた。
そこでゾロリと車座になった。
ここに首を寄せあつめたものは、みな徳川家の息がかかっている者ばかり。なにかしらないが、話はあしたの相談とみえて、一間をピッタリ閉めきった。
「およそ、明日の試合順はきまりましたかな」
と、呂宋兵衛がしきりに気にかけている。
かれはこんどの大講会で、南蛮流幻術の秘法をもって、日本伝来の道士がやる法術の幼稚拙劣なことを公衆にしめしてやると、浜松を立ってくるとき、家康のまえで豪語してきた。
首尾よくゆけば、この機会に大禄で家康にめしかかえられそうだし、まずくゆくと、またぞろ、態よく追いはらわれて、もとの野衾に立ちかえらなければならない。
で、非常な緊張ぶりだ。
それにつれて芋蔓の出世をゆめみている丹羽昌仙も、吹針の蚕婆も、はれの御岳でそれぞれ武名をあげる算段、今から用意おさおさおこたりないところである。
「いや、試合順はきまりませぬ。御岳の兵法大講会の主旨は、世にかくれたる人材をひろいだすのが目的でもござれば」
と、大久保家の家臣が釈明した。
丹羽昌仙がつぎに小声で、
「なるほど、では当日には、だいぶ飛び入りもございますな」
「ただいまのところ、表向き大講会奉行所まで参加を申しだしてあるものはこれだけであるが、当日にいたって、かくれた麒麟、蛟龍のたぐいが、ぞくぞくとあらわれる見こみです」
と、席の中央へ、多くの兵学者や武芸者の名をしるした着到帳をくりひろげた。
「ふウむ……」
と、呂宋兵衛をはじめ、卜斎、半助、一同の首がそれに伸びて順々にひろい読みしてゆくと、自署された有名無名のうちに、ちょッと目につくものだけでも大へんなもの。
まず軍学部では――
氏隆流 岡本鴻雲斎(浪人)
謙信三徳流 大道寺友仙(上杉家)
早雲流相伝 沢崎主水(北条家)
楠流後学 三木道八(浪人)
孔明流 真田源次郎(豊臣家)
謙信三徳流 大道寺友仙(上杉家)
早雲流相伝 沢崎主水(北条家)
楠流後学 三木道八(浪人)
孔明流 真田源次郎(豊臣家)
そのほか異流もさまざまに署名があったが、ひとり甲州流を標榜する軍学者だけが見あたらない。
これは武田家の滅亡をまのあたりに見ているので、その亜流をきらった人気のあらわれともみられる。
つぎに、剣道部の着到順は、
一羽流 諸岡一羽(浪人)
愛洲陰流 疋田浮月斎(虚無僧)
吉岡流 祇園藤次(京都町人)
一刀流 慈音(鎌倉地福寺学僧)
心貫流 丸目文之進(伊達家)
愛洲陰流 疋田浮月斎(虚無僧)
吉岡流 祇園藤次(京都町人)
一刀流 慈音(鎌倉地福寺学僧)
心貫流 丸目文之進(伊達家)
などで、ちょっと端からみてもその階級さまざまで人数ももっとも多いけれど、射術、馬術の方になると、およそ世上に定評のある一流の人やその門下の名が多い。
しかし築城家のほうはどうだろうと、鼻かけ卜斎はそこに目をすいつけ、呂宋兵衛は法術部を気にし、菊池半助がそれと同じように忍法部の試合相手の名をながめているのは、とうぜんな人情だった。
その忍法部に署名されているものは――
百地流 霧隠才蔵(浪人)
魔風流 魔風来太郎(伊賀郷士)
同流 永井源五郎(浪人)
愛洲移香流 天狗太郎(浪人)
戸沢流 猿飛佐助(浪人)
甲賀流 虎若丸(甲賀郷士)
魔風流 魔風来太郎(伊賀郷士)
同流 永井源五郎(浪人)
愛洲移香流 天狗太郎(浪人)
戸沢流 猿飛佐助(浪人)
甲賀流 虎若丸(甲賀郷士)
などという人々で、その名を見るからに菊池半助のこんどの試合はすこぶる苦境にあるらしく、
「ウーム、猿飛もきているか……」
と、うめくようにいって顎をおさえたままかがんでいる。
では、築城術の論議試合と目されている方などは、その人がすくないかと思うと、これにも相当きこえた人物の名が見えるのはさすがに戦国の学風によるものか、
天鼓流 村上賛之丞(越後領)
八車流 牧野雷堂(四国領)
月花流 柳川佐太夫(熊本領)
八車流 牧野雷堂(四国領)
月花流 柳川佐太夫(熊本領)
もっともこのうちには、城の工匠か、地水縄取りの専門家とかがまじっているが、上部八風斎の鼻かけ卜斎にしても、この人々と築城論試合をして勝抜きにいいやぶることは、なかなか楽とは思われない。
ただ、さすがに人のないのは、法術師幻術家の部で、ここにはたッたひとりの名がぽつんと記されてあるばかりで、しかもその名が聞いたこともない。
役小角後学 烏龍道人(信州黒姫)
という人物。
こんな者は試合にもおよばず、南蛮流幻術の息一つで吹きとばしてもすむことと、呂宋兵衛はすっかり安心してしまった。
けれど大講会当日の試合はこれだけではない。まだ火術、小具足術、槍、薙刀、鎖、手裏剣、棒、武技という武技、術という術、あらゆるものがふくまれているのだから、はたして、たった三日のあいだに、それだけの試合ができるかどうかもうたがわしい。
晴れのあしたを前にして、なにを密議するのか、その晩、徳川ばたけの者ばかりが、首を集めておそくまで声をひそめていた。
そしてついに、その日はきたのである。
暁雲をやぶる明けがたの一番太鼓。
御岳のいただきからとうとうとながれてきた――。
雲表をぬいて南に見えるのは富士である。
甲斐の連山や秩父の峻峰も、みなこの晴れの日を審議するもののように御岳のまわりをめぐっていた。
頂上には蔵王大権現のみ社。
遠いむかし――武神日本武尊が東征のお帰りに、地鎮として鉄甲を埋けておかれたというその神地は、いま、燃えんばかりな紅葉のまッさかりだ。
それを正面のたかき石段にあおいで、ひろい平地の周囲も、またそれからながめおろされる渓谷も、四顧の山も沢も万樹鮮紅に染められて、晩秋の大気はすみきッている。
と――。
頂上の神前で二ばん太鼓が鳴った。
さわやかな秋風が、一陣、まッさかさまに吹いて、地上の紅葉を天空へさらってゆく。
広前にはりめぐらした鯨幕、また別れわかれに陣どった諸家の定紋幕が波のようにハタハタと風をうつ。
大講会第一日の朝――。
群集はこのさわやかな試合場の周囲に、木の葉のようにしずまっていた。三番太鼓を待っていた。
そのなかに伊那丸のすがたが見える。
そばには帷幕の人、小幡民部、木隠龍太郎、山県蔦之助、巽小文治、加賀見忍剣、鞍馬の竹童みな一ツところにならんでいた。
ただ咲耶子のすがたが見えない。
源氏閣のうえから大鷲の羽風とともに姿をかくした咲耶子はどうしたろうか?
それはきょうまでの日に、竹童、龍太郎、小文治の三人が八方くまなくそうさくしてみたけれど、その消息が得られなかったので、やむをえず伊那丸とのやくそくもあるので、いちじ断念して、参会したのであった。
「まだ大講会は開かれませんか」
小文治が民部にはなしかける。
「三番太鼓がなるのを合図として、あの祭壇で御岳の神官とあまたの御岳行者が式をやる。そして、黄母衣、赤母衣、白母衣の三騎が試合場を一巡し、大講会第一番の試合番組をふれてくると間もなく貝あいずと同時に、あの祭壇の下にある大講会のむしろへ論客があがって、築城論議をやることと思われる」
「ほウ、では、最初は築城試合でございますかな」
「昨年はそうであったとうけたまわる」
「陣法勝負などの場合は、やはり、論議だけでございましょうか」
「足軽何百人ずつを借用して、じっさいの陣あらそいになる場合もある」
「壮観でござりましょうな」
と、小文治はわかわかしい目をした。
伊那丸はふたりの話を小耳にはさんで、
「わしのおさないころは、なおさかんなものであった」
と、とおい思い出を呼ぶ。
「さようでござりましょうとも、信玄公ご在世のころからくらべれば比較にならないと、町人たちもささやいております」
忍剣も恵林寺にいたころ、一年、その盛時を見たことがあるので追憶がふかい。
「おもえばむねんしごくな!」
とつぜん、龍太郎がこうふんした口調で、
「お家の行事もいまは徳川に奉行されて、御岳の神前に武田菱の幕一はり見えませぬ」
と、つよくいった。
「しかし、かりにお家のかたちは滅尽するとも、ここに武田の人あることを知らせてくれたい」
と蔦之助もそれに応じる。
忍剣は伊那丸の前へズッとよって、なにかうごかぬ決意をしながら、
「若君、昨夜もお願いいたしたとおり、兵法大講会は故信玄公が甲斐の武風をあくまで天下にしめされた行事、われわれが生涯の思い出ともいたしとう存じますゆえ、なにとぞ大講会参加の一闘士として飛びいりおゆるしくださいますよう」
と、熱願した。
それは一同の希望で、ゆうべも月ノ宮の垢離堂で、血気の面々がみな口をそろえていうには、自分たちも闘士として出場し、この秋の徳川家司宰のもとにおこなわれる大講会をして木ッ葉微塵にしてやろうではないか――という意気があがった。
「痛快だ!」
「武田家の大行事を徳川家に踏襲されるよりは、この秋かぎり根絶させろ」
「それこそわれわれの願うところ、ぜひとも試合にでる」
「武をもって横行するやからの顔色をなくしてやろうぞ」
「武田は亡びても人ほろびずと、天下に名のりをあげることにもなる」
と、やむにやまれぬ鉄血の士が、膝をまげて伊那丸にすがる。
だが伊那丸は――ゆうべもいまも、
「ゆるす!」
という一言を、かれらの熱望にたいしてよういにあたえないで、
「……だが、冷静にこうしてながめているのもおもしろかろう」
と、微笑しているばかり。
柳に風である。
君ながらお憎い態度! とひそかに思いうらまれる。
また、小幡民部もあまり興味をもたない顔つきで、とりなしてくれるようすがない、それが他の者をしていっそうジリジリさせた。
腕鳴り肉うずく思いをのむとはこれだろう。
龍太郎しかり、小文治しかり、蔦之助も忍剣も、髀肉の嘆をもらしながら、四本の鎖でとめられた四疋の豹のような眼光をそろえて両肱を張っている。
いきなり鳴った! その時である。
ドウ――、ドウーン……
耳をうつ、天空のこえ。
これ、待ちに待った三番太鼓と知られたから、御岳広前の紅葉のあいだにまッ黒にうずくまっている数万の群集が一どきに、ワーッと声をあわせたが、さすが霊山の神前、ことに厳粛きわまる武神武人の大行事、おのずから人の襟をたださしめて、一しゅんののちは、まるで山雨一過して万樹のいろの改まったように、シーンと鳴りしずまったまま、その空気だけが冴えかえってきた。
と――。
美妙な楽奏が、ながれてくる。
あおいでみると、神さびた杉こだちの御山の、黒髪を分けたように見えるたかい石段のうえから、衣冠の神官、緑衣の伶人、それにつづいてあまたの御岳行人が白衣をそろえて粛々と広前へ降りてくる。
白木の祭壇には四方笹の葉がそよぎ、御霊鏡が、白日のように光っている。
伶人は座につき、白衣の行人はしろい列を壇の下へひらく。
ゆるい和笛の音につれて、笙、ひちりき、和琴の交響が水のせせらぐごとく鳴りかなでる。
のりとをあげた祭壇の神官、そのとき、バサッと幣をきって、直垂の袖をたくしあげ、四方へ弦をならす式をおこなってから紫白ふた色の細かい紙片をつかんで、壇の上から試合の広庭へ雪のようにまきちらす。
――この大講会に血を見るなかれ!
――この大講会に邪兵をうごかすなかれ!
という意味をふくむ神地きよめの式である。
この式がすむと同時に、大講会三日のあいだは、ぜったいにこの場では平常の敵味方をわすれ、仇なく怨みなく、たとえ隣国と交戦中でも、三日間は兵戈をおさめて待つというのが武門のとうぜんとされている。
黄色いけむりが空へ走った。
狼火である。
群集の目がそれへつりあがると、また、寂とした大地を、かつかつと駆ける馬蹄の音がおこっていた。
三騎の騎馬武者――。
これははなやかな甲冑陣太刀のよそおいで、黄母衣、白母衣、赤母衣、を背にながし、ゆるい虹のように場内を一周した。
これ、母衣組目付の番組ぶれで、すべて武田流の作法どおりにおこなわれるものと見える。
さて。
いよいよ第一日の一番試合は、太子流の強弓をひく氏家十左衛門と、大和流の軟弓をとっての名人長谷川監物との射術くらべで口火を切ることになった。
従来は築城試合がさきであったが、弓は兵家の表道具、これがほんとだという意見がある、あまり信玄の遺風をまねているのは、徳川家としても権威にかかわるという議論があって、総奉行の大久保長安もこのほうの案をとった。
「オオ、始まったな」
「ウーム。どうも指をくわえているのはざんねんだな」
と、忍剣や龍太郎は、底光りのする眼光をいよいよ研ぎすましている。
これを冷静にみるという伊那丸のことばは、余人なら知らずこの血の気の多い人たちへは、無理ないましめ。
ことに山県蔦之助は、弓術は自分の畑のものであるし、じしん得意とする代々木流も、久しく、日輪巻の弓へ矢つがえをして、腕のスジを思うさまのばしたことがないから、ひと一ばい熱心に見入るのも道理なわけ。
「ウーム……」
とうなりながら、胸に弦音を鳴らせ、口もきかずに腕ばかりさすっているようすは、はたからみてもなんとも気の毒らしかった。
太子流の作法。
大和流の礼射。
それにはじまって、両派の射術くらべが、矢うなり勇ましく、試合の口火をきった。
午すぎになって、西京の大家大坪道禅の馬術、母衣流しの見ごとな式をはじめとし、一門の騎士が鐙をならして秘をあらそい、ほかに剣道組から数番の手合わせが開始されたが、すでに薄暮の時刻がせまって、その日の御岳は平和裡に第一日のおわりを告げた。
兵法大講会第二日目。
大衆はみなこの二日目に、多大な期待をかけていた。
最初の日は、あんがい、儀式作法の、目にきらびやかな番組ばかりが多く、龍攘虎搏ともいうべき予期していた火のでるような試合がなかったので。
果然――前の日よりもすさまじい群衆の怒濤が、御岳の頂上へ矢来押しにつめかけた。
武田伊那丸や民部をはじめ、あの一党のひとびと、また鞍馬の竹童も、その熱風のようなふんいきのなかにくるまされて、きょうはジッとかたずをのみ合っている。
清浄な砂をしきつめて塵もとめない試合場の中央に、とみれば、黒皮の陣羽織をつけた魁偉な男と、菖蒲いろの陣羽織をきた一名の若者とが、西と東のたまり場からしずしずと歩みだしている。
ぼウーと陣貝がなった。
とうとうたる太鼓、三段に打ちひびいたとき、れいの三色の母衣武者が、
「築城試合、築城試合」
要所の控え所へ伝令する。
黒革の陣羽織、これなん、もと柴田家の浪人上部八風斎こと、あだ名はれいの鼻かけ卜斎でとおる人物。
菖蒲色の若者をたれかと見れば、越後上杉家の家来、天鼓流の築城家村上賛之丞。
ふたりは床几についてむかいあった。
これは腕の試合ではない。
舌の試合である。築城学論議である。
群集は目よりも耳をすました。
水を打ったようにしずまって、論議いかにと咳声もしない。
鼻かけ卜斎の上部八風斎、やおら肩をはり、軍扇いかめしく膝について声たかく、
「築城に四相あり、いかに?」
と、第一問をだした。
村上賛之丞、莞爾として、
「兵法に申す、小河東にあるを田沢といい、流水南にあるを青龍とよび、西に道あるを朱雀と名づけ、北に山あるを玄武、林あるを白虎と称す」
「して、地形をえらぶには」
「北高南低は城塞の善地、水は南西にあるを利ありと信ず」
「三段の嶮と申す儀は」
「天嶮、地嶮、人嶮のこと」
「山城の見立ては」
「地性水質によること、空論にては申されぬ」
とはねつけて、こんどは賛之丞から卜斎にむかって反問をあびせかけた。
「いかに? たとえばこの御岳の山に一城をきずく節は?」
「むろん山城なれどいただきをきらい、中庸の地相に郭をひかえ、梅沢のすそに出丸をきずき、大丹波には望楼をおき、多摩の長流を濠として、沢井、二俣尾に木戸をそなえれば、武蔵野原に満つる兵もめったに落とすことはできない」
「あいやしかし!」
と、賛之丞、いちだんこえを張りあげて、
「かりに、甲州路より乱入する兵ありとすれば、一手は必定、天目山より仙元の高きによって御岳を俯瞰するものにそういござらん、その場合は?」
「陰山陽向のそなえ」
「ウーム、そのくばりは」
「全山を城地と見なし、十七町を外郭とし、龍眼の地に本丸をきずき、虎口に八門、懸崖に雁木坂、五行の柱は樹林にてつつみ、城望のやぐらは黒渋にて塗りかくし、天目山や仙元峠などより一目にのぞかれるような縄取りはせぬ」
と、鼻かけ卜斎、懸河の弁をふるってとうとうと一息にいった。
卜斎の前身を知らずに、かれをただの鏃鍛冶とばかり思っていた、大久保長安の家来たちは、少々あッけにとられている顔つき。
だが卜斎の返答が雄弁だけで、ところどころうまくごま化しているのをつらにくくおもった村上賛之丞は、やや激して、
「さらば問わん」と開きなおり、
「以上の縄取りによれば、多摩の長流を唯一のたのみとし、武蔵野の平地と上流の敵にのみ備えをおかるるお考えのようにぞんずるが、かりに、御岳の裏にあたる御前山へ奇兵をさし向け、西風に乗じて火をはなたば、前方の嶮は城兵の墓穴、とりでも自滅のほかはあるまいと思うがいかに」
と、つッこんだ。
卜斎、カラカラとあざ笑って、
「お若い! お若い! およそ築城の縄取りをなすにあたって、後方の破れを思わぬ者やあらん」
「しからば火攻の防ぎは」
「要所を伐林するまでのこと」
「樹木を伐るときは、城の血脈たる水の手に水がれのおそれがあろう」
「扇縄の一かくに、雨水をたくわえておくまでのこと」
「大夏の旱魃に、もし籠城となったおりは」
「掛樋をもってうら山より秋川の水をひくときは、城の水の手に水がれはござるまい」
「兵法にいわく、天水危城を保つべし、工水名城も保つべからず。――人体の血脈ともみるべき大事な一城の水を、掛樋でよばんなどとは築城の逆法」
「いや、逆法ではない」
「逆法とぞんずるッ」
「貴殿の尊奉なさる越後の天鼓流では、まだ作事や築工に時勢おくれのところがあるゆえ、それを逆法と思われるかも知らぬが、自分の信ずる越前……」
と、いいかけて、卜斎、グッとつまった。
――越前北ノ庄の城をじっさいにきずいたわが八風流では! と、ここで卜斎、大見得をきっていばりたかったところなのであるが、なぜか、グッ……とまっ赤になって、絶句した。
それをいうと、柴田勝家の遺臣という、自分の前身が暴露する。
ほろびた柴田の残臣を、まだねらっている者もたくさんあるし、ことに豊臣家の者のいるところで、それをいうのは禁物だ。
賛之丞は、ここぞとばかり、発矢と軍扇を握りながら、
「ご自身の信ずるご流名はなにか」と、攻め立てた。
「う……」と、卜斎いよいよタジタジして、
「いや、わしは信じる」
「なにを」
「逆法ではない、けっして。逆法とはいわさん」
と、すこぶるあいまいにゴマ化したが、そのたいどにろうばいのようすがじゅうぶんに見えたから、一時に静かな空気を破って、ドッという嘲声がわき返り、さしも強情な卜斎、ついに、半分紛失している小鼻のわきへ、タラタラと脂汗をながしてしまった。
「築城論、うち切り」
奉行の声がかかったので、卜斎はからくも引分のていで引きさがったが、群集は正直である。村上賛之丞のたまり場へむかって歓呼を浴びせた。
八車流の築城家牧野雷堂。
それと――。
月花流の柳川左太夫。
このふたりの論争も、綿密な築城法のことから意見が衝突し、城の間道埋設の要点で、かなり論争に火花をちらし合ったが、ついに八車流の敗北となって、月花流の熊本方では、白扇をふって勝ちどきをあげた。
だが、見物は少々たいくつした。
築城試合も、じっさいに縄取りの早さでも腕競べしてくれればありがたいが、議論だけでは吾人には少しむずかし過ぎて肩がはるぞ、という顔つき。
ところが――。
そのあとですぐに、万雷のごとき拍手がおこった。
相州鎌倉地福寺の学僧、一刀流の剣の妙手として聞えた慈音という坊さんのすがたが見えたからである。
対手は?
心貫流の丸目文之進だろう。イヤ、吉岡流の祇園藤次だろう。なアに諸岡一羽なら慈音とちょうどいい勝負、などと衆人の下馬評からして、この方は活気が立つ。
思いきや、時にあなたなる西側の鯨幕をしぼって、すらりと姿をあらわした壮漢の手には、遠目にもチカッと光る真槍が持たれていた。
「笹の才蔵! 笹の才蔵!」
だれいうとなく喧伝した。
山崎の合戦で、敵の首が腰につけきれず、笹にさして実検にそなえたというので、可児というよりも、笹の才蔵の名のほうが民間には親しみがある。
すなわち、こんど秀吉のいいつけで、井上大九郎、真田源次郎と共に、わずか三人きりで豊臣家を代表してきた可児才蔵だ。
才蔵の槍は黒樫の宗旦みがき。抜き身である。水が垂れそうだ。
それを持って、すずしそうに、歩いてくる。
白布の汗止め、キッチリとうしろに結び、思いきって袴を高くひっからげた姿――群集のむかえる眼にも涼しかった。
黙礼した。
地福寺の慈音と笹の才蔵。
慈音はむろん僧形である。
手には、タラリと長い木剣。
木剣とはいいながら枇杷二尺八寸の薄刃であるから、それは、真剣にもひとしいものだ。
ひょっと、わき見をしていた者が見なおすと、もうそこにパッと砂が立っている。
才蔵は槍をひくめにつけて慈音に迫らんとし、慈音の両眼は中段にとった枇杷刀のミネにすわっている。
見物はハッと息をのんだが、そのとき、あなたの幔幕やこなたの鯨幕のうちで、しゅんかん、ワーッという侍たちの声があがった。
これ、槍術家がわの者と、剣道方の者とが、しぜん、おのれのよるところへおもわず発した声援と思われたが、それも、ただ一刻にして、パッタリとしずまる。
おお、その時だ!
才蔵の手がサッと槍をかくした。見ゆるは指と穂先だけである。
パン! と慈音の肩の上でとつぜんな音がした。
槍は高くのびて、一条の光、ななめにたたきかわされている。
才蔵のひく手の早さ。
ぶンとうなったのは二どめの突き、まえの槍の寸法が倍にのびていったように慈音の胸板へ走ったが、
「かッ!」
と、口をむすんだ地福寺の慈音、それをはずしたとたんに黒い鸞が舞ったかのごとく、刀をふりかざして才蔵の手もとへおどった。
だが! おそかった。
笹の才蔵はうしろへ身をはね、白い槍の穂先が墨染の袖をぬって、慈音のきき手をくるわせた。
明らかに勝負だった。
やぶれた慈音は、衣紋をただして溜りへさがる。
にわかにわいたのは剣道組。
試合目付を通じて、笹の才蔵へもう一勝負とある。
そして、愛洲陰流の疋田浮月斎が雪辱にでたが敗れ、香取流のなにがしがまた敗れ、いよいよ試合がコジれだして、なにかただならぬ凶雲を、この結末が招きはしまいかとあんじられるほど、一種の殺気が群集の心理をあっして、四番試合、五番試合をいいつのる者も、それをぼうかんしている立場の者も、なんとなく荒ッぽい気分に熱してきた。
「すこしおもしろくなってきたな」
「ウーム、こうこなくっちゃ、御岳の兵法大講会らしくない」
と、ニッコリ顔を見あわせていたのは、その空気の一角にあって、四囲のどよめきを愉快がっていた忍剣と龍太郎。
小幡民部はあいかわらずいたって無表情にながめているし、伊那丸も冷静なること、すこしも変っていなかったが、うるさいのは竹童。
「強いなあ、才蔵さまはまったく強い。あれは福島市松の家来でおいらはあのおじさんを知っている! あのおじさんと口をきいたことがある!」
と、ひとりごとにこうふんしている。
ざんねんそうに、腕をさすっていたのは、朱柄の槍をかついでいる巽小文治で、
「ウーン、おれも試合にでてみたい!」
「だめだ」と、蔦之助が、それをうけて、
「どうしても、若君からお許しがでない」
「もういちど、お願いして見ようじゃないか」
「じゃ、貴公がいって見たまえ」
「蔦之助、おまえから一ツお願いしてみてくれ、たのむ、拙者はもうがまんができない」
と、コソコソささやいているのを耳にはさんだ忍剣、じつは、自分じしんが、だれよりもさっきから腕をウズかせていたおりなので、
「民部さま、蔦之助や小文治が、あのように申していることゆえ、なんとか若君におすがりして、試合に加わることお許しくださるよう、一つお取りなしを願いたいものでござるが……」
民部は、忍剣の心を読んでいるように苦笑して、
「さあ、なんとおっしゃるか、おそばにおいで遊ばすから、おのおのがたじしんでお願いしてみたらよかろう」
と、しごくアッサリしている。
「いかんわい」
と、忍剣は頭をかいて、龍太郎の脇の下をソッと突ッついた。
「おい、後生だ」
「なにが?」
「尊公から若君へお願いしてくれ。だれにしたって、ここで一番日ごろの鬱憤を晴らして、腕の夜泣きをなぐさめてやりたいのは、人情じゃないか」
「そりゃ、拙者にしても、木隠流の戒刀をおもうぞんぶんふるってみたいのはやまやまだが」
「だから……尊公から若君へちょっと」
「む……ウ……」
と、口のうちで返辞をしたが、冷々と、あらぬかたへ眸をむけている伊那丸の顔を見ると、どうも、いいにくそうにして、貴公がいいたまえ、イヤおまえがいえ、とたがいになすり合っているばかり。
そんなことに、ふと目をはなしていたが、試合場のさわぎはいよいよ紛乱して、母衣馬や目付がものものしくかけまわり、なにか、番組急変の太鼓らしい合図が、ふいに、ドーンと鳴ったので、忍剣も小文治も、ハッと、口をつぐんでそのほうへ目をやった。
――と見ると、笹の才蔵は、うしろ姿をこっちに向けて、勝ちすてに豊臣家の幕かげへ引ッこもうとしている。
一方で怒号がきこえた。
将棋だおしにやぶれた剣道方。
その溜り場の幕が嵐のようにゆれて、なにか、渦になった人間がもめている。
「待てッ。――可児才蔵まてッ」
制止する目付役をふりもぎって、とつぜん、かれのうしろ姿を追いかけた慓悍なる男があった。――これ祇園藤次だった。
すわ!
遺恨試合!
「待てまてッ! 才蔵ッ、もう一勝負」
藤次は吉岡流小太刀の使い手。
右手に白みがきの栴檀刀を引ッさげていた。
自分の控え場まで帰って、いま、幕の裾に手をかけようとしていた才蔵、
「よし!」
いうが早いか、槍を持ちなおして、敢然と試合場のほうへ帰ってきたが、まだ礼もすまないうちに血気ばしった祇園藤次が、颯然とおどりかかった。
立合いの奉行と目付が、なにか、制止するような声をかけたが、騎虎、耳にも入らばこそ。
「ひきょう、作法を知らぬか!」
と、しかりつけて、サッと槍を手もとに吸う。
藤次はギクッとして、胸板を守った。
小太刀、ピッタリと青眼の不動体に。
だが、一閃! かまえは割れて祇園藤次、タジタジッとあとへさがった。それを、食いつめてゆく才蔵の足の拇指。
それは真槍だ。
遺恨試合となった以上、突くであろう、肉を! 脾腹を!
やわか! と必死な藤次、うしろの溜りでは仲間の者は、ワーッと熱風のような声援を送ったが、だめ、だめ、だめ、一尺、二尺、三尺――すでに七、八尺、槍に追いつめられた祇園藤次、
「ムムッ、おのれ!」
捨て身にでて、われからバッと、反撥的に打ちこんだ。
そのとたんに、
突くよと見えた才蔵の槍が、片手なぐりに藤次の体をはらったが、パキン! というすさまじい音と一しょに、かれの手にあった尺三、四寸の白栴檀の小太刀が、槍ではねられた勢いをくって、クルクルクルッととんぼのぼりに虚空へ向かってすッ飛んだ。
そして、藤次は?
才蔵は?
この勝敗は?
いや、ところが群集は一せつなに、試合の結果をその脳裡から押ッぽりわすれて、
「あ! あ! あ! あ! あッ!」
と、空へ目をつってしまった。
小太刀のちいさくなる空へ――。
読者よ。
次におこる驚天動地の争闘。御岳山上におけるこの篇の大眼目を描くために、あえて、ここに緩慢な数行をついやす筆者の作心の支度をゆるしたまえ。
はしなくも、遺恨試合となった激怒のハズミに、才蔵の槍の勢いで、虚空にとばされた白栴檀の木太刀が、そのとき、つつがなく地上に落ちてかえってくれば、なんのことはなかったのである。
たとえ、才蔵一身に一部の嫉視はのこっても、のちに現出したような、意外な大事にはならなかったであろう。
また、若き人たちの血気を、ことなかれと、きょくりょくおさえ止めていた伊那丸や民部も、なんのくろうなく、大講会二日目の行事を見納めしたにちがいない。
しかし、不測な変事は、いつも、こうして意表外なところから顔をだす。
――この大講会に血を見るなかれ!
――この大講会に邪兵をうごかすなかれ!
神官は祭壇にこう祈祷したが、あのハズミで飛んだ一片の木太刀が、まッたく予想もせぬ風雲を地上から迎えにいったものになろうとは、おそらく、御岳の神の叡智にもわからないのがほんとうであろう。
さて。
空に高くとばされた栴檀の木太刀。
そのゆくえにつられて、いっせいに、空へ上むきになった群集のひとみは――ハッと一しゅんに、なにか異様なものにつきあたったかのように、
「あッ、あれ――」
と、妙な顔つきになった。
魂を抜かれた顔。
あッ気にとられた目。
現――無我――夢中――の群集。
とたんに、
ドウーッという空鳴りが宇宙をひくく走った。
そして、幕のごときまッ黒な怪物が、日輪の光を雄大な翼のかげにかくし、クルルッ――と巻きあがっていった栴檀刀を目がけて、どこからかまるで魔風のように翔けおりてきたかと見ると、
ガツン
とばかりその嘴が、本能的に空の木太刀をくわえ取った。
「鷲」
ぼうぜんたる錯覚をドヤしつけられたしゅんかんに、
「オオうッ」
「あれよ、あれよ、あれ! ……」
どよめき立った数万の大衆は、その時まるでホジクリだされた虫のごとく、地上にあってまッ黒に蠢動し、ただ囂々、ただ喧々、なにがなにやら、叫ぶこえ、喚くこえ、それともうもうたる黄塵の万丈。
ただ、試合にばかり気をうばわれていた人々は、それよりほんの少しまえに、御岳の西方、御前山の森から舞いあがったこの怪物のかげが、浅黄色にすみわたった空にゆるやかな弧をえがきつつあったのを万人が万人、すこしも気がつかなかったのである。
またいくども、ひろい試合場の砂地や、自分たちの顔に、その偉大な怪影が太陽をかすめるごとに、とおり魔のような影を投げていたのも、まったく知らずにいた。
地上の人間が、ただ、アレヨアレヨとあぶくのごとく沸騰して、手の舞い足の踏むところを知らずにいるのにひきかえて、いま、一ぴきの虫でもくわえたように、するどい嘴に木太刀をさらった大鷲は、ゆうゆうと茶褐色の腹毛を見せて、そこを去らんともせず、高くも舞わず、御岳の空を旋回している。
時に、光線のかげんで、そのまッ黒なつばさの艶を射るような金色の瞳までがありありと見えた。
いや、それだけならいい! それだけの事実だったなら、まだ地上の人々も、こうまでは胆をつぶさなかったにちがいない。
「あッ、帯がさがっている!」
「女の帯」
「赤い袖が見える」
「女が乗っているんだッ……女が、女が」
「ど、ど、どこに?」
「鷲のうえに――女が、女が!」
熱病のように叫びあった。
気ちがいのように指を向けた。
その時。
押しつもまれつする人波のあいだから、泳ぐように顔をだした鞍馬の竹童は、忍剣や小文治などの、仲間の者までむちゅうになって押しのけながら、
「あッ……た、大へん」
「竹童ッ、あぶないッ」
だれかがとめたが、突きとばして、
「それどころじゃない、あれ! あれは咲耶子」
「えッ、咲耶子ッ?」
「咲耶さんです、咲耶さんです! 躑躅ヶ崎の源氏閣からどこかへ逃げた咲耶子さんにちがいない」
「ウーム、そう申せば女らしい人かげがみえる」
と、木隠や小幡民部も、その大鷲にはおぼえがあるが、どうして咲耶子が、ここの空へ舞ってきたのか、ただただふしぎな思いにうたれるのみだった。
「竹童、さわぐまい」
伊那丸は、周囲をはばかってこういった。
だが竹童、いまは、その声も耳にはいらなかった。かれはいつのまにか抱きとめていた蔦之助の手をもぎはなして、
「クロ! クロ! 咲耶子さん――」
われをわすれて雑鬧のなかを走ってゆく。
ところが、ここにまた。
かれと同じように、そのクロの名をよんで、右往左往にみだれ立った試合場のなかをかけめぐりつつ、手をふっている二少年がある。
ひとりは、さいぜん、村上賛之丞と築城問答をやってしゅびよくその鼻をへこまされた鼻かけ卜斎のお供、すなわち泣き虫の蛾次郎である。
「やアーい、やアーい」
蛾次はむちゅうだ。大さわぎだ。
クロはかれにも二無き親友である。
どこの溜り場にもぐっていたのか、かれはクロを見るやいな、目の色かえて、めくら滅法に試合場へおどりだし、
「おれのクロだ、おれのクロだ! やアーい、ちくしょうッ、やアーいッ、クロ!」
とどかぬものに飛びあがって、ひとりであばれまわっている。
と――同じように、
「あれ、あれ、あれ。あの鷲かえせ! あの鷲かえせ!」
と、訴えるごとく、泣くごとく、狂気になって叫んでいたのは、先つかた、躑躅ヶ崎の館の、かの源氏閣閣上において、咲耶子のために、その鷲をうばわれた浜松城の小さきお使番星川余一だった。
それと見るやまた、葵紋の幔幕をはりめぐらした徳川家控えどころの帳のうちでも、
「おお、余一がさわいでいるぞ」
「余一が失くしたクロはあれじゃ」
「あの鷲逃がすなッ」
と、群雀のように叫びあってる。
「それッ」
と、そこの葵の幕を切っておとし、巣をやぶった蜂の子のごとくわれ先にと飛びだしてきたのは、はるばる浜松から見物にきていたきれいな一隊。
家康の孫、徳川万千代を餓鬼大将といただく、お小姓とんぼ組の面々である。
あなたのできごと。
ここのそうどう。
それらはすべて大鷲出現のせつなにおける、ほんの、目ばたきする間の現象でしかない。
もはや、兵法大講会は、この意外な椿事のため、その神聖と森厳をかきみだされて、どうにも収拾することができなくなった。
奉行を無能というなかれ。目付役人の狼狽をののしるも、また無理である。
群集の心理が、かく落ちつかなくなったものを、にわかに鎮撫することは、とうてい容易なことではない。
心あるものはそれをあんじていた。
「どうなるであろうか。このさわぎが」――と、
しかるに、ここに泉州堺の住人、一火流の石火矢と又助流の砲術をもって、畿内に有名な鐘巻一火という火術家。
一門の門弟四、五十人をひき具して、おなじく、御岳山上の一端に、短銃打ッちがえの定紋をつけた幕をはりめぐらし、そのうちにひかえて、すでに火術試合の申し出でをしている一組だったが、大鷲出現のこのさわぎに、いみじくも、そこだけは申し合わせたように、ヒッソリしていた。
「こういうおりがまたとあろうか。鐘巻一火の秘技を衆人に知らしめるのは、この時だ」
と、一火は幕のうちにたって、新渡来又助式の鉄砲をキッとつかんだ。
「先生、火縄!」
と、早くもその心をよんで、門下のひとりが火縄を吹いてわたす。
一火の眼は宙に吸いつけられている。
いま――。
鷲はふもとの多摩川へ、水でも飲みに降りるように、ななめにさがりかけたところだった。
だが、翼をかえすと、しゅんかんに、また、目前に近よってくる。
おそるべきその羽風! ただ、目にながめたところでは、それはいかにもゆるやかで、泉をおよぐ魚のかげみたいに、あおい太虚をしずかに舞いめぐっているとしか見えないのだが、サア――ッと、頭上にきたかと思うと、あなたこなたの鯨幕は一せい風をはらみ、地上の紅葉は逆しまに吹きあげられて、さんさんと黒く、さんさんと紅く、卍をえがき、旋風となって狂う。
「うぬッ、奇ッ怪な女め」
鐘巻一火の腕に、ピタッと、鉄砲の筒がすわりついた。
ドーン!
御岳の岩根をゆるがすような轟音。
これも全山の人には、寝耳に水のおどろきであったろう。
ゴーッと遠い音波をひびかせて、峰谷々の木魂がひびき返ってきたあとから、ふたたび、山海嘯にも似た喊声のどよめき。
見よ、
鷲は、まッさかさまに墜ちてきた。
――うつくしい女の帯を尾にひいて。
鐘巻一火の鉄砲は狙いをあやまたなかった。
どこかにあたったにちがいない。その証拠には、くるった大鷲は、地上十四、五尺のところまでおちてきた。
だが。
とつぜんそこで、クルッと巨大なからだをまわしたと思うと、あッとあきれる人声をあとに、鷲は天目山の方角へむかって、一直線――弩をはなれた鉄箭のように飛んでしまった。
しかし。
人々の眼は、その行方に気をうばわれているよりも、とつぜん試合場の南のすみへ、
「それ」
と、なだれをうってあつまった人かげへ、なにごとかと、あたらしい驚目をみはっている。
「お医師! お医師衆!」
と、そこでさわぐこえがする。
あなたの控え所へ出張っていた典医衆は、なにがなにやらわからないが、とにかく、呼び立つこえがしきりなので、薬籠をかかえてその人なかへかけつけた。
だが、その典医たちがくるよりも、鐘巻一火が門下の壮士一隊をしたがえてそこへ飛んできたほうが一足ばかり早かったのである。
そして、口々に、
「ごめん」
「ごめん、ごめん」
こういいつつ、一火をはじめ白袴の門下たちが、あたりの役人を押しわけて前へすすんできたかと思うと、地上に気をうしなってたおれていた美女のからだを、てんぐるまにかつぎあげて、自分たちの溜り場へ電光石火にひっかえし、鉄砲ぶッちがえの定紋を張りまわしたなかに鳴りをしずめてしまった。
「おう――」
それをながめた竹童が、試合場の中央で飛びあがるように手をふると、あなたにいた木隠、巽、加賀見、山県の四人、矢来の木戸口から一散にそこへかけだしてきて、
「竹童。いま鷲から落ちたのは、たしかに咲耶子にそういないか」
と、息をせいていう。
「たしかにそうです。咲耶さまです。――その咲耶さんが鉄砲にうたれたから、鷲のほうは怪我もなく逃げてしまったんです」
「えッ、鉄砲に撃たれた?」
「あの幕張りの中へかついでいった侍の袴が、血にあかく染まりましたから、それにそういないと思います。龍太郎さま、はやく、あれへいって咲耶子さまを取りかえしてください」
「そうか!」
「おお」
というと、もう忍剣は例の鉄杖を小脇にして、鐘巻一火の幕前へいきおいこんで馳けだしていた。
なにがさて、髀肉の嘆をもらしながら、伊那丸のゆるしがでぬため、いままでジッと腕をさすっていた人々、鎖をとかれた獅子のような勢いだ。
竹童もあとにつづいて馳けだしながら、口にはださないが心のうちで、
(さあこい! おいらのおじさんたちの男らしさを見てくれ!)
そんな誇りがどこかにあった。
すると、ほとんど同時のこと。
咲耶子をてんぐるまにして引きあげてきた鐘巻一火のあとを追って、そこへ殺到した人々がある。
大講会総奉行の大久保石見守長安、その家臣、その目付役、その介添役、等、等、等。
いきなり一火の溜り場へドカドカと入ろうとすると、なかから姿をあらわした鐘巻一火じしんと、屈強な門弟が、帳の入口にたちはだかって、
「やあ狼藉者、どこへゆく!」
と、大手をひろげた。
徳川家の重臣、甲州躑躅ヶ崎の城主、大講会総奉行、それらの肩書を威光にきている長安は、
「どこへまいろうと仔細はない。身は総奉行の大久保石見守じゃ」
と言下に肩をそびやかしていった。
「だまれッ」
一火は武術家気質、とどろくような雷声で、
「ここは鐘巻の陣地もどうよう、鉄砲紋を張りまわしたこのなかへ、むだんで一歩たりと踏みこんで見よ、渡来の短銃をもって応対申すぞ」
「聞きずてにならぬ暴言、用があればこそ幕内へとおる。それは奉行の役権じゃ。役儀の権をもって通るになんのふしぎがあろう。どけどけ」
「いや、奉行であろうが、目付衆であろうが、試合のことならとにかく、意味もなく、われわれの陣地を踏ますことはならん。用があるならそこでいえ」
「ウーム、強って通さんとあらばぜひがない。では、ただいま奥へにないこんだ婦人をこれへだしてもらいたい」
一火は聞くとカラカラと笑って、
「総奉行たる貴殿が、不審なことをもうされるものかな。大講会の空を飛行して、試合の心をみだす奇怪な女を、拙者が一火流の砲術をもって撃ち落とし、かく衆人のさわぎを取りしずめたものを、なんでその女をわたせなどと見当ちがいなご抗議を持ちこまれるのか。――それよりはすこしも早く、つぎの試合の支度でもいそがれるが、そこもとの役目ではないかとぞんずる」
「さような指図はうけんでもよろしい!」
石見守は額に青筋を立てて、
「あの者は、源氏閣の上より逃亡して、その後ゆくえ知れずになっていた咲耶子という不敵な女、ことに、浜松城に差し立てることになっている罪人じゃ。わたさぬとあれば、徳川家の武威のほどを示しても申しうけるがどうじゃ!」
いうことばの終るのを待たず、
「血まような、石見守ッ」と、一火は激越に、
「汝、総奉行という重き役目にありながら、じしんから大講会のやくそくを破ってもよいものか。――この御岳三日のあいだは、兵を動かすなかれ、血を流すなかれ、仇国との兵火もやめよという掟の下に行われることは、ここにあつまる天下の武門、百姓町人もあまねく知るところ。――それを、弓矢にかけてもと申したいまの一言、それは正気か! おどかしか! 見ごと取れるものなら武力をもって取ってみろ」
これは理のとうぜん。
石見守長安は、ハッと醒めたような顔色になった。そして自分の過言に気がついたらしく、
「いや鐘巻先生」
と、急にたいどをかえて、
「不肖、奉行の身をもって、混乱のなかとはいえ、過激に似たことばを発したのは、重々なあやまり、どうかお気持をとりなおしていただきたい」
「そう尋常に仰せあるなら、なにも、このほうとて、威猛高になる理由はない」
「ところで、ただいまもうした咲耶子という女は、なにか、そこもとのほうで捕らえておく必要がおありなのか」
「いやいや、じぶんとしては、さいぜんからの騒擾をしずめる手段として、やむなく発砲したまでのこと、それゆえ、女の左の腕をねらって、一命にはさわりのないように、はじめから用意しておる」
「ならば、あの鷲のからだをねらってうったほうがよかったであろうに」
「あれほどの大鷲が、一発の弾でおちてくるはずはない。さすれば、女は谷へふりおとされ、二ツの生命を傷つけることになる。これも、御岳三日の神文の約を守ればこそ」
「さすがは一火先生、それほどまでのご用意があろうとは、石見守も敬服にたえませんです。いずれこのことは大講会閉会ののちに主君家康公にもうしあげて、なにかの形でご表彰いたしたいと思うが……」
と、長安は老獪な弁舌で、単純な武芸者肌の一火を、たくみにおだてあげ、さてまた、
「そちらにご不用なあの咲耶子、右のしだいゆえ、どうかこのほうへお下げ渡しを願いたい」
と、ものやさしく奥の手をだした。
するととつぜん、ことばの横から、
「イヤ、待ッた!」
ずんと鉄杖を大地について、加賀見忍剣がそれへでてきた。
忍剣のうしろには木隠龍太郎、山県蔦之助、巽小文治、竹童など、いずれも非凡な面構えをして突ッ立っている。
長安は、まさかそれが、小太郎山の残党、伊那丸幕下の者であろうとは夢にも知らず、
「なにッ?」
と、五人のすがたへ賤しめるような目をくれて、
「何者だ! きさまたちは」
きッとなって、睨めつけた。
忍剣はおちつきはらって、
「拙僧は西方の国より大心衆生の人間界に化現した釈迦の弟子、文殊菩薩という男。――またうしろにいるのは、勢至菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、大日菩薩の人々であるが……」
あまりでたらめなことばに、あい手があッけにとられているのを見くだしながら、忍剣はきまじめに、
「ただいま、われらとしたしい勢至菩薩が、鷲にのって天行しつつ、この試合場をながめているうち、一火殿の鉄砲に傷つけられたようすゆえ、一同そろって見舞いにまいったのでござる。それを浜松城へ差し立てる罪人などとは、飛んでもないあやまり、どうか、あの婦人は吾々のほうへお渡しを願いたい」
(こやつ、気狂いにそういない)
石見守は相手にせず、一火へ向かって、
「いざ、こうしてひまどられては、かんじんな試合の順序がおくれるばかり。どうか、あれなる咲耶子は縄つきとして自分のほうへ渡されたい」
「いやいや、いかに人間界に化現している身とはいえ、勢至菩薩を縄つきなどになされては、あとの仏罰がおそろしかろう。あの婦人はわれわれ五人へ渡したまえ」
「ふらちな売僧め、文殊菩薩の勢至菩薩のと、だれがさようなたわごとを信じようか。あいや一火先生、ぜひ、咲耶子はこの長安のほうへ」
「イヤ、ぜひともわれわれ五菩薩へ」
「いいや、長安が申しうける」
「なんのだんじて拙僧がもらいうけた!」
双方、いいつのって、鐘巻一火のとばりのまえを一寸たりとひく色がない。
これが、御岳神文の三日でなければ、とっくに、長安も家来に顎をしゃくって抜刀を命じたであろうし、気のみじかい忍剣の禅杖が、ブンと石見守の頬骨をおさきにくだいていたかもしれない。
だが、幸か不幸か、なにしろ、血を見るなかれの場所であり、三日である。
その善と悪たるを問わず、さきに神文の約をやぶれば天下の武芸者にその信を失わなければならない。
で、これはどこまで、押し根気の懸合いだ。
弱ったのは、鐘巻一火。
かれが大久保長安にいったことばは、すこしもうそのないところである。かれが一火流の手のうちを見せようとはかってした行為の目的はたっしている。
咲耶子のからだはかれに用がない。内心では、渡してやってもいいと考えている。
しかし、長安のほうに渡すのが至当か、五菩薩の仮名をつかってでてきた者にわたしたほうがいいものか、双方のあいだにはさまって、まったくとうわくの顔色だ。
しかも、五人の偽菩薩の顔色をジロリと見ると、もし自分が石見守に加担して、いな、と一言に突ッぱねれば、どういう手段にもうったえかねない底意がよめる。
そこは、一火もひとかどの武芸者、
(ウム、これは大難事、うかつに軍配をあげられないぞ)
早くもさっしたから、よけいにこの難問題の決断がつかなかった。
一方、群集のほうでは、矢来越しに遠見なので、こうした事情が、そこに起っているとはわからない。ただいつまでも試合場の中央が大きな空虚になりッぱなしとなって、人ばかり右往左往しているので、さかんにガヤガヤもめている。
すると、鐘巻一火。
そうほうの仲に板挟みとなって、ややしばらく、腕をくんでしまったが、やがて、大久保がたの者と忍剣たちの両方へ対して、
「お望みの咲耶子とやらのからだは、何時にても、苦情なくお渡し申すことにいたそう」
等分にいって、クルリと、幕のすそをまくりあげた。――そして、
「お渡しすることはお渡しいたすが……ただしでござる、いずれへお渡しいたすのが正義なりや、一火もホトホトとうわくつかまつるしだい、ついては、ざんじ休息のうえ、門弟たちとも評議をかさねてあらためてご返答をいたす考え、失礼ながらしばらくそれにてお待ち願いたい」
ハラリと帳をおろすと、幕のかげへ引ッこんでしまった。
この場合にのんきしごくな――。
と思うまもなく鐘巻一火は、また、幕をしぼってあらわれた。
解決がついたか、まえのとうわくな気色が晴れている。
「咲耶子が気がつきましたぞ」
双方へむかっていった。
「おう、では大したけがもないか」
「腕の鉄砲傷は急所がそれておるし、ただいま、門人に手当をさせておるゆえ、べつだんなこともないようでござる」
そういってから――さて――と言葉をあらためて、
「ただいまのこと、一同評議の結果、これはやはり御岳の神慮におまかせいたすのがとうぜんであろうという意見に一決したが、双方ごいぞんはないであろうか」
「神慮にまかすという意味は、神籤でも引いて決めようということであるか」
と、長安は不満な色をたたえた。
「いや、神籤よりは武道試合の日のできごと、やはり、武技をもって神慮に問うのが自然であろう」
「なるほど!」
忍剣は、よし、というふうにうなずいて、
「では、われわれと大久保家の臣と、武技をたたかわせたうえに、その勝ったるほうへ、咲耶子を渡してくださるというのですな」
「いかにも。石見守どの、ご賛否はいかが」
「ウム。よろしい!」
かれも、いさぎよく承知した。
が――すぐにあわてた調子で、
「イヤ待った、それには、条件がある」
「ふム、条件とは?」
「じしんが総奉行たり、重なる家臣が目付たる役目上、大久保家では、このたびの試合にいっさい何人もだしておらぬ。それゆえ、主君ご直参、浜松城の人々に、その代試合をいらいするが、その件、異存があるならしょうちできぬ」
「なに、徳川家直参のものに代試合をたのまれるとか、それは、願ってもないこと、当方に異存はない」
「では一火どの、かならず、違約なしという、神文血判をしてほしい」
「誓紙の支度は暇どるばかり、それよりも武門の金打、おうたがいあるな」
「お。では浪人ども、あちらの空部屋へさがって試合の用意をせい」
長安は奉行の床几席へ大股にあるいていって、あたりの家臣と額をあつめ、また徳川家の者がひかえている溜りへ使いを走らせた。
見物はそういう内情は知らない。ただ、床几席に奉行のすがたが見えたし、検証の位置に鐘巻一火がひかえたので、
「さあ……」
と、にわかに空気をかえて、つぎの試合を期待した。
「うまくいったな」
「思う壺と申していいな」
龍太郎や小文治は、顔を見あわせ微笑した。長安は空部屋をさがして支度せよといったが、見渡したところ、みなどうどうたる大名紋の幔幕ばかりで、そんなところはありそうもなく、五人の勇士も、それには、ちょッと立往生していると、
「ご浪士、ご浪士」
と、うしろで、呼ぶ者がある。
見ると、さいぜん、栴檀刀をハネ飛ばした、すばらしい槍の使い手、可児才蔵であった。
「支度の場所におこまりのごようす、おいやでなくばこの幕のうちへ」
と、五三の桐のとばりをあげて、ニッコと五人を目でまねいた。
だれかは知らぬが、おりにふれて、相身たがいの武門のなさけ、ゆかしくもうれしい、人の言葉である。
飛び入りというのでもなく、意外なことから、ここに咲耶子の身をとるか、渡すかの試合となった一同が、支度の場所もなくとうわくしているところへ、五三の桐の幕のかげから、
「これへ」と、さしまねいた親切な武士。
忍剣、龍太郎、小文治、蔦之助、竹童の五人は、時にとって炎暑をしのぐ一樹の蔭ともありがたく思いながら、
「ご芳志にあまえて、しばらくのあいだ、幕の一ぐうを拝借つかまつります」
しずかにくぐってなかへ通り、隅にのべてあるむしろの上へ、めいめいつつましくすわりこんだ。
すると、そこにまっ赤な顔をして、ゆうゆうと酒を飲んでいた豪放らしい侍がある。一同をながめると、莞爾として迎えながら、
「失礼だが、お祝いに、一献まいろう」
と、忍剣へ茶碗を持たせて、酒の入っているらしい壺を取りあげた。
「や、これはかたじけないが、じぶんは見らるるとおり僧形の身、幼少から酒の味を知ったことがない、兄貴、かわってくれ」
と、龍太郎へ茶碗をゆずると、龍太郎もあやまって、
「武術に酒気のあるのは禁物ということ、未熟者にとってはことにだいじな試合、もし不覚があってはもの笑いのたねとも相なるから、まず、お志だけをうけて、お祝いはあとでちょうだいいたす」
と、当りさわりなくいって、茶碗を返した。
「あはははは、なるほど、まだ前祝いは少し早いな、では後祝いにいたして、じぶんがご一同に代り、まず幸さきを祝福しておく」
と、侍はらいらくに笑って、ひとり酌ぎ、ひとり飲んで、しきりと愉快がっている。
冷水をたたえた手桶に小柄杓、それに、汗どめの白布をそえてはこんできた若い武士がある。一同にその使用をすすめたのち、
「拙者は大坂城に質としておる真田源次郎という若輩者、どうかお見知りおきを」
と、ていねいに名のった。
「や、では秀吉公の」
と忍剣や龍太郎は、はじめて、五三の桐の紋どころに思いあわせて、
「真田源次郎どのとおおせあると、上田の城主真田昌幸どののご一子、秀吉公の手もとで養われているとうわさにききましたが、その源次郎どのでござるか」
「お恥かしゅうぞんじます」
と、源次郎はあくまでけんそんであった。
「やあ、さてはやはりそうであったか。これはお見それいたしました。わたしこそは、なにをかくしましょう、故勝頼公のわすれがたみ、武田伊那丸君の付人、恵林寺の禅僧加賀見忍剣ともうしますもの」
「じぶんは、おなじく伊那丸さまの微臣、木隠龍太郎という者」
「拙者は、山県蔦之助です」
礼にたいしては礼をもって酬う。
巽小文治や鞍馬の竹童も、そのことばについてじゅんじゅんに姓名を明かしていくと、最初に、幕のかげから手招きした可児才蔵もそれへきて話しかけ、酒をのんでいた侍も、井上大九郎と名のりあった。
いつか伊那丸が京都から東へ帰るとき、秀吉は桑名の陣中にしたしく迎えて、道中の保護をしてくれたのみか、御旗楯無の家宝まで伊那丸の手へかえしてくれた。
それいらい、伊那丸も一党の者も、豊臣家にたいしてしぜんといい感じを持っていた。おそらく、秀吉は武田家の味方ではあるまいが、悪意ある敵ではないと信じてきた。
おもえば、ふしぎな縁でもある。
桑名でああいう援護をうけて、またまた、この御岳でも、同じ五三の桐の幕のかげに、武士の情けをうけようとは。
大九郎と可児才蔵は、桑名の陣で、忍剣のおもざしを見おぼえていたといった。
そういわれれば忍剣にも、思いだされることである。あのとき、秀吉に侍していた、あまたの武将や侍のなかに、たしかに、大九郎のすがたも見えた。可児才蔵の顔もあった。
怪傑と怪傑、勇士と勇士、五三の桐の幕のなかには渾然とうちとけ合って、意気りんりんたるものがある。
――試合場のほうは、さきほどから、きわだってしずかになっていた。群集も鳴りをしずめて、次の展開を待ちかまえているのであろう。
ところへ、駒をとばしてきた一騎の使者、ヒラリと降りて、そとから桐紋の幕をたくしあげて、はいってきた。
試合の前のうちあわせである。
徳川家からは五名の闘士の名をあげてきた。そして、勝ち抜きでは勝敗に果しがないから、おのおの一番勝負として、点数勝越しのほうのものが咲耶子の身を引きとるというやくそくを条件にかぞえてある。
「承知した」
もとより、こっちにも異議はなかった。
「では、試合にさきだって、伝令の者が、各所の溜りの人々へ、番組を予告するのが定例でござるゆえ、そちらの闘士をきめて、この下へご記名願いたい」
と、使者は、徳川家でえらびだす闘士の名をしるした奉書をそれへひろげた。
見ると、なんという皮肉。
ふつうの武技では、どういう敗辱をまねこうも知れずと、大久保長安らが、わざと相手をこまらそうとたくらんだ卑劣な心事があきらかに読めている。
なぜかといえば、その人選はとにかく、争うべき焦点にはこちらになんの相談もなく、こういう無類な部門分けをして、勝手な註文をつけてきたのである。
一番忍法 御方 隠密組 菊池半助
相手方 未定
二番遠矢 御方 河内流 加賀爪伝内
相手方 同
三番吹針 御方 宗門御抱老女 修道者
相手方 同
四番幻術 御方 南蛮流 和田呂宋兵衛
相手方 同
五番遠駆 御方 浜松足軽組 燕作
相手方 同
定
以上五試合のこと。相手方 未定
二番遠矢 御方 河内流 加賀爪伝内
相手方 同
三番吹針 御方 宗門御抱老女 修道者
相手方 同
四番幻術 御方 南蛮流 和田呂宋兵衛
相手方 同
五番遠駆 御方 浜松足軽組 燕作
相手方 同
定
右のうち吹針には他の武技をもって試合することを得、また遠駆けには相手方、騎乗徒歩いずれにても随意たるべきもの也。
大講会総奉行
大久保石見守(花押)
試合検証
鐘巻一火
正当な武芸とはいわれぬ、幻術や遠駆けなどの試合を提示してきたのを見ると、一同は、かれらのひきょうな心底を観破して、一言のもとに、それをはねつけようと思った。しかし、考えてみると、自分たちはここで晴れがましい武名を大衆に売ろうというのではない。
咲耶子の一身を救えばいいのだ。
かれをやぶってかれの毒手に同志のひとりを渡さなければ、それでいい。つまりここで徳川家の代表者とあらそうのはその方便でしかないわけだ。
で、忍剣は、男らしくいった。
「このさい、なにをぐずぐずいったところでしかたがないから、さきの註文どおり快諾してやって、そのかわりに、木ッ葉みじんにしてやろうじゃないか」
「ウム、かれらの策にのせられると思えば不愉快だが、得物やわざは末葉のこと、承知してくれよう」
と、龍太郎もうなずいて、他の者の同意をたしかめたうえ、けつぜんと、徳川がたの使者にこたえた。
「ご提示の定書、いかにも承知いたした」
使者は一礼して、
「さっそくのご承引かたじけなくぞんじます」
と、いったが、いまの書きつけをさしだして、
「では、この試合の部門に、なにびとがなんの立合いにご出場になるか、流名とご姓名とを、正直にお書き入れねがいとうござる」
「あいや、われらもとより浪々無住のともがらである。名のるほどの姓名流名を持ち合わせておらぬ者ゆえ、さいぜん申したとおり、文殊とでも大日菩薩とでも、いいようにお書き入れください」
「大講会の規として、そうはまいりませぬ。ご本名をお認めなきうちは、これを諸侯の控え所へ伝令することもならず、ご奉行としても、役儀がら試合を命じるわけにもゆきませぬ」
「どうしよう、忍剣」
と、龍太郎は、また一方へ相談を向けた。
「そうだな、われわれはどうなっても、いっこう仔細はないが、まんいち若君にごめいわくがかかってはならぬし……」
「しかし、大講会三日のあいだは、血を見ることをゆるさぬ誓いがある。かまわぬから本名を記してやろうじゃないか。どうだろう、蔦之助」
「すでに、豊臣家のほうにも打ち明けたこと、拙者も、名のって仔細はあるまいと思う」
小文治も同意した。
そこで一同は、作戦をこらすために、かたすみへ寄って凝議をしたうえ、おのおの国籍本名をあからさまに記入してやった。
(きゃつ、あれを見ると、きっとびっくりするにちがいないぞ)
こう思っていると、案の定、使者は五人の記名と姿とを見くらべて、がくぜんと目をまるくしたまま、あとの文句もいわず、幕のそとへ飛びだしていった。
さらに。それからかれ以上に仰天したのは、使者がもたらしてきたことによって、はじめてことの真相を知った大久保石見守であり、和田呂宋兵衛であり、そのほか徳川家に籍をおくものすべてであった。
「さては」と、だれの顔色もかわった。
「咲耶子をわたせと、けしきばんで、あれへなだれこんできた理由がわかった。多寡の知れた僧侶や浪人者と見くびって、わざと、家中の侍をださず、呂宋兵衛や吹針の婆をあの番組のなかにいれて翻弄してやろうと思ったのだが、そうと知ったら、もう一工夫するのであった」
と、石見守には、後悔のようすがあった。
けれど、すでに、時刻はせまる、検証の鐘巻一火は床几につく、見物は鳴りをしずめて立合いを待ちかまえている。……悔いておよばぬ場合である。
ただこのうえは、まんがいちにも、かれに敗れをとらぬことだ。まかりちがって、正当なやくそくのもとに試合して、どうどうと、かれに咲耶子を持ってゆかれるようなことがあった日には、それこそ石見守の立場がない。かれの失態はなんとしてもまぬがれない。
で、長安はやっきとなった。
菊池半助も、すわこそと、呂宋兵衛にここの大事をささやいていた。
かかるまに、支度の陣貝がしずかに鳴りわたる。……とうとうたる太鼓……型のごとき黄母衣、赤母衣、白母衣の伝令三騎が、番外の五番試合を各所の控え所へふれて、虹のように試合場のまわりを一巡する……
水をうったように、群集のこえと黄塵がしずまって、ふたたび、御岳の広前に森厳な空気がひっそりと下りてきた。
大雨一過のおもむきである。
次にきたるべきものは、嵐か、雷か。
試合ははじまった。
浜松城の隠密組菊池半助がいつのまにか広前の中央にすッくと立っているのが見える。得物をもたず、たすきや鉢巻きもしていないので、この番外試合のいきさつを知らない一般の群集には、ちょっと気抜けがさせられたようすで、ふしんそうに見とれている。
相手方は、やがて、あなたのすみにある豊臣家の桐紋の幕をあげて歩みだしてきた。
これもどうように、なんの支度らしいよそおいもしていない。ただ、いささか観衆の好奇心をみたしたのは、それが白衣に白鞘の太刀をさした六部らしい風采だけであった。
忍法試合?
かかる白日の下、万人衆目のあるなかで、忍術の秘法をどう争うのだろうか。争うとすればどうするのだろうか?
ことの真相を知らない場外の見物人は、いろいろ妙な顔をしているし、事情を知っている人々は、大鷲の背から捨てられた美少女の一身が、いずれに奪るか奪られるかと、じッとかたずをのみはじめた。
いままでの、意地や興味など超越して、ある運命とものすごい殺気をはらみかけた番外五番試合は、こうしてまさにその火蓋を切られようとしている。
伊賀流の忍者菊池半助と、果心居士のおしえをうけた木隠龍太郎とが、双方、水のごとくたいしたとき、しずかな耳を突きぬくように、一声、短笛の音がつよく流れた。
と、同時に。
あなたの葵紋の幕のうちに、花壇のように、盛りあがっていたお小姓とんぼ組の一隊が、とんぼ模様そろいの小袖をひるがえし、サッと試合場の一方に走りくずれてきて、三十六人が十二名ずつ三行にわかれ、目にもあざやかな隊伍をつくった。
「鶴翼!」
と、朱房の鞭をふったのは、それを指揮する徳川万千代であった。
三段の隊伍は、中央からまッ二ツに割れて、たちまち鶴翼の陣形をつくる。
「奉行、これでよいか」
と万千代は、とくいらしく床几の席へむかっていう。
石見守は、一顆のあかい鞠をだして万千代の手にわたした。すると検証の鐘巻一火も、おなじように一つの白い鞠を星川余一の手にあずける。
そこでふたたび、鞭をあげると、とんぼ組の隊伍は、そのまましずかに進んで、ころあいなところで、鳥雲の陣にくずれ、また魚鱗の形にむすび、しきりと厳重な陣立を編もうとくふうしているようすであったが、やがて八門の陣をシックリと編んで、あたかも将軍の寝間をまもる衛兵のように、三十六人が屹然とわかれて立った。
その、陣形の中宮に、白球をもった星川余一と、紅球を持った万千代とが、ゆだんのない顔をして立つと、菊池半助はその紅球をとって、もとの場所へかえることを、また木隠龍太郎は一方の白球を取ることを、試合目付から命じられた。
これは伊賀流の忍びをほこる半助にも、木隠にも、おそろしい難事だろうと思われる。およそ忍術というものも夜陰なればこそ鼠行の法もおこなわれ、木あればこそ木遁、火あればこそ火遁の術もやれようが、この白昼、この試合場のなかで、しかも三十六人のとんぼ組の小姓たちが八門の陣を組んでまもっている鞠を、どうして、気づかれずに自分の手へとってもとの場所へかえるだろうか。
「いざ!」
「目をかすめて、忍べるものなら忍んでみよ」
という風に、お小姓とんぼの面々は、ゆだんのない目をみはった。
両士は、サッと左右にわかれて、八門の陣のすきをうかがう。
――といっても、そこには木蔭があるわけではなく、身をかくす家があるのでもないから、もとよりどう手をくだす法もないらしい。
木隠が右へまわれば右へ、半助が左側をねらえば左側の目ばしこい小姓たちの眼が光ってうごく。
すると、菊池半助は、とつぜんとんぼ組の陣形のまわりを、疾風のようにぐるぐるまわりだした。
かれらはその迅さに目まいがしてきたように、ただアッ――と、あッけにとられている。その姿はいよいよ加速度に早くなって、ついには、小姓たちの目にも遠くからながめている人々の目にも、それが半助か、一片のくろい布がつむじ風でめぐっているのか、ほとんど目にもとまらないほど迅速になってきた。
それに、すべての者の視線がうばわれているまに、いままで、一方に立っていた木隠の姿がこつぜんと消えている。
「や、さては」
と、小姓の面々がハッと身をかためていると、八門の陣の一方に、白いものがヒラリとおどった。
「それ」
と、心もちそのほうへ、一同のからだがズズとよりつめてゆくと、非ず! そこへ散ったのは数枚のふところ紙で、みなの視線が、それにみだされて散らかったせつな、陣の中宮にいた星川余一が、風で貼りついた一枚の白紙を片手で取りのけながら、
「あッ、しまった」
と、とんきょうにさけんだ。
余一の声におどろいて、万千代もひょいとろうばいした。とたんに、だれかが、かれの肘を足もとからトンと突いた。
「あッ」
といったが、肘をつかれたはずみに、赤い鞠はかれの掌をはなれて、ポンと飛びあがった。
それへ、烏猫のような人かげが、いきなり飛びかかったかと思うと、
「えいッ!」
と、ほとんど一しょに耳をうった二声の気合い。
陣をくずした小姓組の者をいつのまにかとびこえたのであろう、木隠は白球を手に、菊池半助は紅球を手にして、最初の位置に立っている。
忍法試合紅白鞠盗みの試合は瞬間だった。
この鞠ぬすみは伊賀流と甲賀流のものが、かつて信長の在世当時、安土城で試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、仙洞御所のお庭さきで月卿雲客の前で、叡覧に供したこともあって、のちには、公卿たちのあいだに、これを蹴鞠でまねした遊戯さえのこったほどである。
さて。
余事はとにかく、いまの試合はいずれに軍配があげられるものだろうか?
むろん、検証役の鐘巻一火は、床几から立ちあがって、
「同点。忍法試合勝負なし!」
と、鉄扇をふるって、奉行目付へいったことである。
衆目、それに異議はなかった。
菊池半助は、勝負なしのものわかれに、無念そうな白眼を相手に投げ、そうほう、無言のままにらみわかれた。
「わーッ……」
と崩れたのはお小姓とんぼである。万千代をはじめ余一その他のもの、試合がおわると、いっせいにもとの幕うちへ、引きあげてゆく。
そして、遠雷のような群衆のどよめきが、あとしばらくのあいだ、空に消えなかった。
――と思うと、すでに二番試合の合図が、息もつかずとうとうと鳴りわたって、清新な緊張と、まえにもまさる厳粛な空気を、そこにシーンとすみかえらせてきた。
と見れば。
片肌をおとした凛々しいふたりの射手は、もう支度のできている場所に身がまえをつくって、弓懸をしめ、気息をただし、左手にあたえられた強弓を取って、合図、いまやと待ちうけている。
この遠矢くらべ、番えた矢よりほかに代矢のない、一本試合のだいじな競射である。
的は?
おお、その的として、示されたものがまたおそろしく遠方だ。じッと、眸をこらさなければ、それとはたしかに見きわめがつかないくらい。
谷をへだてた前方に、高からぬ峰がそびえている。その白鳥の峰の七合目あたりに、古い丸木の鳥居が見える。鳥居はその幽邃な白鳥神社奥の院の印で、それまではだれにでも一目でわかるが、遠矢の的と示されたものは、その鳥居の正面にかかっている額だった。
御岳の中腹をくだり、渓流をこえ、沢をわたり、そして向こうの白鳥のみねの七合目までいくには、おそらく二十八、九町もあろうが、この御岳の一端にたって直線に対峙すれば、そのいくぶんの一の距離しかあるまい。
しかし、せまい山と山とのあいだには、風がないような日でも、ふだんに寒冷な気流があって、よほどな射手が、よほどな矢をおくらぬかぎり、その気流のさからいをうけずに的へあたるということはありえないだろう。などと、弓道にこころえのある傍観者は、はやくも、各藩のひかえ所で下馬評まちまちである。
だが、
射手にはじゅうぶんな自信があるものか、やがて、弓作法おごそかにすますと、徳川家方の射手加賀爪伝内、伊那丸方の山県蔦之助、そうほうおもむろに足を踏みひらいて、矢番えガッキリとかませ、白鳥のみねの樹間にみえる大鳥居の懸額を、キッと横ににらんだ。
山県蔦之助は人もしる代々木流の達人。
大津のまちにその弓道の道場をひらいていたころには、八坂の塔の怪人を射るいぜんから、今為朝とはやされていた人。またかつて竹童が、大鷲クロの背をかりて鞍馬の僧正谷から高尾山へつかいしたとちゅうにも、かれの誤解をうけて、そのおそろしい強弓の矢に見まわれ、ほとんど立ち往生して地上におとされたことがある。
その代々木流の臂力をためさぬことも、蔦之助にとっては、久しいものだ。
弓をひく者がながらく弓を持たずにいると病気になるとさえいう。
蔦之助も、めぐりぞ会ったこの晴れの場所で、いま、鏑籐日輪巻の強弓にピッタリと矢筈をかましたしゅんかん、なんともいえない爽快な気持が胸いっぱいにひらけてきた。
くわッとはるかな的を見、弦絃二つに割って、キリッ、キリッと、しずかに満をしぼりこんでゆく。
河内流の加賀爪伝内、これも徳川家ではすぐれた射術家らしい。
りっぱだ。蔦之助のそばに立って、蔦之助のかまえに見おとりがしない。
しぼりこんだ弓と人とが、ほとんど同じかたちになって、鏃のさきが、弓身のそとにあますところのないまで引き強められていったしゅんかん――
声をのんでひッそりとしずまりかえった場の内外は、無人のごとくどよみを沈めて、息づまるような空気をつくっていた。
すると、ひとり、矢来のそとの群衆のなかで、
「民部、こまったことになったものだの」
と、ささやいた人があった。
さいぜん、竹童が鷲につられて走ったのをきっかけに、とめるまもなく、一党のひとびとが矢来をこえてこういう事態をひきおこしたので、その成行きをあんじている武田伊那丸と小幡民部のふたりである。
民部も、あなたへ眼をはなたず、
「ただ、天祐を祈っているのほかございませぬ」
と、ことばすくなく答えた。
「お……いまとなっては、もう手をくだす術もない」
「若君」
民部は、しいて伊那丸の憂いをはげますようにいった。
「――おあんじなされますな、たとえ、いかなる波瀾を生みましょうとも、かれらのことでござります」
「うム……」
「かれらのことです、かれらのことでござります。けっして、汚名をさらすような結果を招きはいたしますまい」
そうはいったが、そういうかれじしんが、人しれず手に汗をにぎりしめているのであった。
――と、目をみはる間もなかった。
あまたの人の口から、あッ……と軽いこえがいちようにもらされたかと見ると、すでに、しぼりこまれた二弓はブンと弓がえりを打って、ひょうッと、弦をはなれた二すじの矢が、風を切ってまッすぐに走っている。
「やッ?」
とたんに、射手の山県蔦之助は、弦をはなした右手をそのまま、サッと顔色をかえてしまった。
耳を聾せんばかりのどよめきが、土用波のように見物人をもみあげた。なにかののしるような声、嘲笑するようなわめき、それらが嵐のごとく、かれをとりまいた心地がした。
「遠矢一本試合、徳川家加賀爪伝内どのが的をとったり!」
と、鐘巻一火は検証の床几からさけんだ。
意外。
蔦之助は敗れたらしい。
今為朝の矢はどうしたか? あのたしかな代々木流の矢がどうして狂ったのであろうか。
鐘巻一火の叫んだのは、けっして不公平でもうそでもなかった。加賀爪伝内の切ってはなった黒鷹の石打羽の矢は、まさしく、白鳥の峰の大鳥居の額ぶちに刺さっているのに、それにひきかえて蔦之助の射た妻羽白の矢は弓勢が弱かったため、谷間の気流をうけてそれたのか、あるいは弦切れの微妙な指さきに、なにかのおちどがあったのだろうか、とにかく、白鳥の峰へとどかぬうち、霧のごとく影を消して、どこへ落ちたかそれていったか、肉眼では見えなくなった。
お小姓とんぼ組をはじめ、徳川方の者とそれに心をあわす溜り場では、わッといちじに凱歌をあげた。
無念や、山県蔦之助は、試合目付の退場の命と、その嘲笑におくられて、悄然とそこをひかなければならなくなった。
すると――。
それよりほんのわずかまえに、試合の勝敗が心配のあまり、桐紋の幕のうしろから、そッと抜けだしていた鞍馬の竹童は、なにげなく、諸国の剣士のひかえ所の裏をまわって、蔦之助の姿が、もっとも近く見えるところからすきみをしていた。
ところが、竹童の信念はくつがえされて、弓をとっては神技といわれている蔦之助が、どうだろう、この不覚? このみにくい敗れ方!
「ちぇッ」
というと、鞍馬の竹童は、くやし涙がにじみだして、思わずそこへすわりたくなってしまった。
あの徳川方のものの嘲笑が伊那丸さまや民部さまの耳にどんなにいたく聞えるだろう。あなたにいる豊臣家の人々や、忍剣や小文治が、それをどんなにつらく見つめたろう。
竹童は腰のささえをはずされたように、うしろへよろけた。
そして、
「ああ、ざんねんだ……」
と太い息をついたが、ふと気がついてみると、そこは奉行小屋の裏手らしく、すぐ向こうから十数間のあいだには、ズッと鯨幕がはりめぐらしてあって、一方の帳には黒く染めぬいた葵の紋印が大きく風をはらんでいる。
「あッ、ここは徳川家の陣地だな」
竹童はびっくりして、あわててそこを立ち去ろうとしたが、見ると! そこから数歩向こうに、この人なき陣幕のうしろにかくれて、あやしげな黒衣の男が、じっと立ちすくんでいるのを見た。
何者だろう?
そしてなにをしているのだろうか。
おそろしく背丈のたかい男である。裾までスラリとくろの帯なしの服の着ながし、胸には、ペルシャ猫の眼のごとくキラキラ光る白金の十字架をたらしている。そして、祈るがごとく、口を閉じ、眼をふさぎ、指で印をむすんでいる。
「やッ、呂宋兵衛だ」
あぶなく、喉をやぶってでそうな声を、竹童は自分の手で自分の口をおさえた。
「やつめ、あんなところで、なにをしているのだろう? ……おおあのおそろしい顔はどうだ。あの他念のない形相をする時は、いつも、呂宋兵衛がとくいの南蛮流の幻術をやるときだ」
身をひそめながら、かれの眼はらんらんとその不解な疑惑にむかって、錐のごときするどさを研ぎすましてきた。
読めた!
かれの心臓は、ドキッとしめつけられたようなあえぎをうつ。
さては、もしや?
怪人呂宋兵衛がこの幕のうらにしのんでいて、石見守と腹をあわせ、かれ一流の邪法をおこなって、試合場に一道の悪気をおくり、衆人の眼をげんわくさせているのではないかしら?
そして、そのために、いまのような意外な勝敗が、なにびとにも気づかれずに信じられているのではないのかしら?
と――竹童はわれをわすれて、なお死人のごとく、印をむすんで、つッ立っている怪人呂宋兵衛の黒いすそへソロ、ソロ、とはいよっていった。
なんと久しぶりに見る憎悪の敵のすがただろう。
竹童の手は、無意識に、般若丸の柄をかたくにぎりしめていた。
たとえ、斃せないまでも、不意をうって、かれの邪法の気念をやぶってやろう。
そう無意識の意志がうごいていった。
そうして、気配をしのばせながら、足もとによりついてくる者があるのも知らないで、呂宋兵衛はいぜんとして目をとじたままだった。かれはかれじしんのむすぶ幻術の妖気に酔っているもののようである。
しめた!
竹童の胸は大きな波にあおられた。
だが、般若丸の名刀が、鞘を脱しようとしたしゅんかんに、はッと気がついたのは(血を見るなかれ)という御岳三日の神誓である。もしや自分の軽はずみが、伊那丸さまの身にめいわくとなってかかってはならないということだった。
といって、この怨敵を!
みすみす目のまえにこうしている一党の仇敵、咲耶子にとっては敵のこの悪魔を、なんで見のがしていいものだろうか。
柄にまよった手は、いきなりふところにすべりこんだ。かれの指にふれたのは、竹生島神伝の火独楽! それであった。
それを、ふところにつかんで、いきなり、パッと立ちあがるや否、鞍馬の竹童、
「うぬッ」
と、独楽をまッこうにふりあげた。
ぶン! と、うなった火焔独楽。
たしかに呂宋兵衛のからだのどこかに、焔をあげて噛みついたにちがいない。あッと、相手の驚愕した声が竹童の耳にも聞きとれた。
だが、とたんに――。
独楽は竹童のふところに飛んでかえって、かれ自身もまた、アッ――と片手で顔をかくしたまま、あぶなくそこへたおれかかる。
見れば、えりもとから鬢の毛に、霜柱が植わったように、無数の針が指にさわった。
それにおどろいて身をひるがえすと、
「この餓鬼」
大きなこうもりにふさわしい黒衣の老女が、さッとすがって、うしろから竹童を抱きすくめ、
「呂宋兵衛さま! 呂宋兵衛さま」
と、しわがれた声で助勢をもとめる。
「お、そいつは、鞍馬の洟ッたらしだな」
「わしも、人無村や京都で二、三ど見たことがある。竹童というて、伊那丸の手さきになってあるく童じゃ」
「おのれ、野良犬のように、こんなところへなにしにウロウロしてきやがったか。この御岳では、殺すわけにもゆかないが、うム、こうしてやる」
まえに寄ってくると、呂宋兵衛、煙草色のウブ毛がいっぱい生えている大きなてのひらで、竹童の横顔を、みみず腫れに腫れあがるほど、三つ四つ打ちつづけた。
それにもあきたらず、最後に、喉笛でもしめつけられたか、かれのからだをかかえていた蚕婆が手をはなすと、グッタリと地上にたおれてうッ伏せになった。
「ふん……」
と、せせら笑いながら、
「婆、こっちへはいっていろ」
一方の幕をあげて、呂宋兵衛がすばやく影をかくすと、老女修道者となって、たえず彼についている吹針の蚕婆も、ニヤリと歯をむきながらそのあとから腰をかがめかけた。
と、その弱腰へ、一本の鉄杖の先が、
「これ」と、かるく突いた。
かるく突いたが、くろがねの杖である。力を入れないようでも忍剣が突いたのである。
「うッ……」
というなり蚕婆は、甲羅をつぶされた亀の子のように、グシャッと幕の裾にへたばってしまった。
その陣幕をはらいあげて、忍剣は、蚕婆には見むきもせず、飛足を跳ばしておどりこむなり、稲妻のように次のとばりの間へ、チラと逃げこんだ黒衣の袖を、グッとつかんだ。
「悪伴天連呂宋兵衛、待て!」
「なにッ」
というと銀の鞭が、びゅッと、忍剣の腕をつよく打ちかえしてきた。
――まさしく和田呂宋兵衛である。逃がしてはならない。忍剣はそう思った。
じつをいうと、かれがここへ馳けつけてきたのは、山県蔦之助の遠矢の敗北がなんとも、ふしんな負けかたであり、解しかねる点が多々あるので、徳川方の勝ちと叫んだ検証の一火や目付役の者に、一苦情持ちこむため、いきおいこんで駈けだしてきたのだ。
もとより、ここで呂宋兵衛と出会おうとは、夢にも予感をもたないのだった。
しかし、竹童が締めたおされたのも目撃したし、その魁異な妖人のすがたは、夢寐にも忘れていない仇敵である。
なには措いても、見のがせないやつ!
「おのれ」
ふりつけてきた、銀の細鞭をかわしながら、なお、忍剣は片手につかんだ黒衣の袖をはなさない。
呂宋兵衛はぜったい絶命――。
「御岳だ!」と、叫んだ。
御岳だぞといったのは、血を見るなかれの神文の誓いをふりまわして、卑怯に相手をためらわそうとしたものである。
「だまれ、妖賊」忍剣は耳もかさない。
引きもどそうとする力、逃げこもうとする力、とうぜん、ベリッと黒衣の袖がほころびた。
ちぎれた布の一片は、忍剣の手につかまれたまま、よろよろと二、三歩よろけたが、野幕の帳のあいだなので鉄杖のあつかいも自由にゆかず、みすみす、黒豹のように逃げこんでゆくうしろすがたに、
「待て、待て」
と叫びながら、手に残った黒い布をほうり捨てると、そのはずみに妙な粘力を腕に感じたので、思わず、オヤとふりかえると、その肩さきへ、いったん地にすてた黒衣がフワッと勢いよく跳びついてきた。
「やッ」と、肩をすかした。
その首ッ玉をおどりこえて、目の前へ、軽業師のようにモンドリ打ったものを見ると、どうだろう、思いがけない、まッくろな烏猫、くびわに銀玉の鎖をかけ、十字架をつけているではないか。
その銀玉の鎖と十字架をチリチリチリ……と鳴らしながら、幕のすそをかわいらしく馳けだしたので、
「蛮流の妖術師め、さては、うまく姿をかえたな」
鉄杖を持って追いまわすと、猫はなおチリチリと逃げだして、とつぜん、向こうのすみに、萩や桔梗や秋草のたぐいを入れ交ぜに、挿けこんである大きな壺の口へ、ポンと、飛びこんでしまった。
と見て、忍剣は、
「得たり!」
と、いきなり鉄杖を槍のようにしごいて、大瓶の横ッ腹へガンと勢いよく突ッかけた。
瓶はくだけ、秋草はとんだ。
みじんになった陶物の破片を越えて、どッ、泉をきったような清水があふれだしたことはむろんだが、猫もでなければ呂宋兵衛の正物もあらわれなかった。
水に足をひたされて、ハッとわれにかえれば、これは野陣の人々の飲料水である。反間の敵に毒を混じられないようにわざと、花壺に見せかけておいた生命の水にちがいない。
「逃がした……」
なにか、忍剣のあたまは、そのとき、霧がかかっているような心地だった。そして、ぼうぜんとしていると、張りまわした幕に、ソヨソヨと小波のような微風がうごいて、その幕のかげあたりを、聞きなれない南蛮歌の調子で、口笛をふいて通ってゆくものがある。
「あッ」
銀の鞭の音がする。
そして、
「あははははははは……」
まぎれもない、怪人和田呂宋兵衛の人をバカにしたような笑いごえだ。
あざ笑う声はする。
銀の鞭が幕のうしろを歩いている。
だが、霧のようなじゃまな幕、それにさえぎられて、けんとうもつかねば、すがたも見えない。
忍剣は地だんだを踏んで、幕の波をさぐりかけた。しかし、瓶の水が表のほうへいっさんに流れだしていったため、それにおどろいた徳川家の諸士や、溜り場のむしろを水びたしにされて跳びあがった、れいの菊池半助、鼻かけ卜斎、泣き虫の蛾次郎、そのほかお小姓とんぼの連中までが、総立ちになって、裏手へまわってきそうな気ぶり。
「これはいかん」忍剣は、早くも執着をすてて、
「またいいおりもあろうというもの、ここで、きょうの試合をめちゃめちゃにしては、咲耶子を無難に取り返すことができなくなろう」
と、分別した。
で、ひらりともとの場所へかえってくるなり、そこにたおれている竹童をこわきに抱いた。
竹童はいちじの昏倒で、
「あッ、忍剣さま」
すぐに、目をひらいて、かれのたくましい腕のなかに自由になった。
おのれの居場所に馳けもどってきてみると、一方そこでも、なにやら問題がおこっている最中である。
総奉行の大久保長安と、検証の鐘巻一火が自身できて、なにかしきりと高声で弁じているのだ。
いま、いきなり飛びこんではまずいと思ったので、忍剣がそッとようすをきいていると、
「いや、ただいまの遠矢は、あくまで蔦之助が勝ったものと信じます。鐘巻どのも一流の火術家でありながら、あの的先にお眼が届かぬとは心ぼそいしだいでもあり、また、検証の床几につかれながら、徳川家へ勝ち名のりをあげられたのは早計しごくかとかんがえます」
これは、山県蔦之助自身と、木隠と巽とが、一しょになって主張していることばの要点だった。
「したが、加賀爪伝内の遠矢が、額ぶちにりっぱに立っているのに、貴公の矢が鳥居の柱にも立っていないのはどうしたしだいか、これ、弓勢たらずして、矢走りのとちゅうから、谷間へおちた証拠ではあるまいか」
というのは、徳川方の強弁だった。
それにたいして、蔦之助は笑いをなげて、
「いや、自分の弦をはなれた矢が、谷間へ落ちたものか、的を射当てたものかぐらいなことは、弓がえりのとたんに、この手もとへ感じるものでござる。たとえば、鐘巻どのの鉄砲にしても、その実感にお覚えがあろうが」
「ウムなるほど……それはたしかに一理がある」
一火はさすがに、そのことばを反駁しなかった。
だが、奉行の石見守や目付たちは、どうしてもその説だけではがえんぜない。また、蔦之助としても、事実において、その矢が的先に見えないのであるから、それ以上、なんと理由づけて力説することもできないのであった。
「では、この勝負は、ざんじ自分がおあずかり申すとしよう。そのかわりに……」
と、鐘巻一火は中にはさまってこまりはてたあげく、窮余の一策を持ちだして、
「最後の勝負、遠駆けのおりに、あの大鳥居をめあてとして馳けさせ、そうほう、その矢を持ちかえってくるとしたらどうであろうか。――とすれば、同時に遠矢の勝敗も歴然と分明いたすことになる」
名案だった。
それはよかろう――というので、すくその紛糾は解決したが、ここにまた番組変更のやむないことができたというのは、そこへ徳川家の侍がとんできて、
「例の、老女修道者でございますが、たッたいま、何者かにしたたか腰をうたれて熱をはっし、ひどくうめいておりますので、吹針の試合にはでられぬようすでござります」
という急報である。
忍剣は、かげで、それをおかしく聞いていた。
石見守の腹では、吹針の試合ではしょせんあの老女に勝目はないと考えていたので、この出来事はもっけのさいわいと思った。
で、その試合を取り消すことを申しでたので、龍太郎や忍剣もかたすみで相談のうえ、あらためて、こういう返答をかれにあたえた。
「――されば、幻術試合の相手にでる竹童も、きょうはすこし気分のすぐれぬようすであるから、いっそ二番の勝負を取り消して、最終の遠駆試合一番にて、やくそくどおり咲耶子をお渡しあるか否か、乾坤一擲の勝負を決めるならば、それにご同意いたしてもさしつかえはござらん」
「なるほど」石見守は考えていた。
ところが、徳川家の者たちは、それを聞くと、むしろ僥倖のように気勢をあげて、
「遠駆けの一番試合で、勝敗を決めることは当方で、望むところ、たしかに承知した。さらば、すぐそちらでもおしたくを」
と、石見守になにやらささやいて、わいわいと引き揚げていった。
かれらの目算では、この一番こそ、疑うまでもない勝味のあるものと信じているのだ。天下歩むことにかけて、たれか、早足の燕作にまさる人間があるはずはない。
そう信じているからこそ、最初にしめした、試合掟にも、相手方は騎乗でも徒歩でも勝手しだいと傲語したのだ。
この嶮峻な山路の遠駆けに、騎馬をえらべば愚かである。人間の足より難儀にきまっているのだ、そうかといって、徒歩なればおそらくわが早足の燕作をうしろにする足の持ち人はないわけになる。
――という腹が徳川がたの作戦。
(どうでるか、相手方のやつは?)
なかば、安心しているので、興味をもって待ちかまえていると、すでに、支度ができていたものか、遠駆けにえらばれた巽小文治、朱柄の槍を山県蔦之助の手にあずけて、
「どうッ、どうッ」
一頭の白馬をひいて、試合場へあらわれた。
なんと毛なみの美わしい馬だろうと――それにはなみいるものが、ちょッと気をうばわれたが、よく見ると、名馬のはずだ、これは御岳神社の御厩に飼われてある「草薙」とよぶ神馬である。
しかし、徳川家の者や、諸藩のものは、この嶮路の遠駆けに、馬をひきだしてきた無智をわらった。
「どうだい」
と、嘲笑半分に、うわさするものがある。
「これから御岳の中腹まで降りて、渓谷をわたり、それから白鳥の峰の大鳥居までいってかえってくるという遠駆けに、いくら名馬の手綱をとったところで、しょせん、どうにもなりゃあしまい」
「まるで、山を舟で越えようというのとおなじ無謀な沙汰だ」
「しかし、あいつ、おそろしく自信のあるような顔をしているな」
「ふうていもかわっている、杣か、野武士か、百姓か、見当のつかぬような青二才だ」
「なにしろ、どう敗けるか、その敗けぶりをみてやろう」
小文治の耳にも、こんな悪評が、チラチラ耳に入らぬでもなかった。けれど、かれは黙笑している。うすら笑いすると、その頬には、ちいさな笑くぼができて、愛らしい若者だった。
一方。
これはまた、おそろしく雲の上でも飛びそうなすがたででてきたのは、早足の燕作。
「やあ、ごくろうさま」
小文治のすがたを見ると、町人らしく、腰をまげた。
ちょっと、いままでの試合と目先がかわったので、見物はよろこんだ。大きな弥次のこえが、高い樹の上ではりあげている。
「お役人さま、念のために、よくうかがっておきますがね」
と、燕作は、よくしゃべる。
「なんでござんしょうか――この遠駆けの勝負の眼目は、つまり、あの白鳥の峰の大鳥居までいって、さっきの遠矢を、一本ずつ持って帰ってくりゃあよろしいンですね」
「そうじゃ」
と、試合目付がそうほうへくわしく説明した。
「――それと、さいぜん、勝負あずけとなっている遠矢のあたりの証拠を持ちかえってもらいたい」
「ようがす、じゃ、あっしは、あの額のふちを引ッぱずして持ってくりゃいいんだ。そして、相手方より一足でも早く、この試合場へ持ってきて、それを検証の床几のおかたに手渡しすりゃあ勝ちというわけなんでございましょう。……なアんだぞうさもねえ、それならとちゅうで、さんざん煙草を吸って帰ってこられまさ」
と、浮ッ調子な町人ことばで、おそろしく大言をはいた。
小文治は、そら耳で聞きながら、一つかみ草をとって馬に飼いながら、ニコニコ笑っていた。
「旦那、支度はまだですか」
燕作の足は、もう、やたらにピクピクしてきたふう。
「おお、よいぞ」
というと、巽小文治、ひらりと神馬草薙の鞍つぼにかるく飛びのった。
「待った!」
と、目付の人々はあわてて、そこから合図の手をあげると、ドウーンと三流れの太鼓が鳴りこむ。
なお、いざ! というのはまだである。
太鼓は三色の母衣武者が、試合場の左右から正面へむかってかけだす報らせだった。そこには、矢来と二重に結いまわされた柵がある。柵の周囲の群集を追いはらうと、そこのひろい城戸が八文字にあいて、御岳山道の正面のみちが、試合場からズッとゆきぬけに口をあいた形になる。
――刻、すでに七刻ごろの陽脚。
満山のもみじに、しずかな午後の陽のいろが、こころもち紅を濃くしてきた。
おりこそあれ、短笛の音。
ここに、最後の勝敗をけっする、騎馬徒歩、遠駆けの試合の矢声はかけられた。
わーッと、いう声におくられて、正面の城戸を走りだした白馬草薙と、天下無類の早足の持主、もう、御岳の広前から真ッさかさまに、その姿を見えなくしてしまった。
いくら天下の早足とじまんをする燕作でも、騎手は巽小文治、馬は逸足の御岳の草薙、それを相手に足くらべをしたところで、もとよりおよぶわけはなく、勝とうというのが押しのつよい量見。
――と見物の者は、はじめからこの早駆け勝負の結果を見くびっていたが、はたして、その予想ははずれなかった。
試合場の城戸から、八町参道とよぶ広い平坦な坂をかけおりてゆくうちに、燕作の小粒なからだはみるみるうちに追い越されて、とてもこれは、比較にはならないと思われるほど、そうほうの間にかくだんな距離ができてしまった。
だがしかし――燕作の肚にはりっぱに勝算がたっていた。
「見ていてくれ、ほんとの勝負はこれからさ」
と、たかをくくっているのだ。
そして八町参道をまたたくまにかけ降りると、道はふた手にさけて一方はふもと、一方は白鳥越え甲州裏街道の方角にあたる。
その裏街道のほうへさきの小文治が勢いよくまがった。
「ふふん……」と燕作は、それを見ながらあとからかけて、
「さあ、奴さんが泡を吹くのはこれからだぞ。そこで燕作さまは、このへんでじゅうぶん一息いれてゆくとしようか」
腰の手拭をとって風車にまわしながら、一汗ふいて、またもやあとからかけだした。
一方、いそぎにいそいでいった小文治は、やがて道のせばまるにつれて、樹木や蔓草に駒の足掻きをじゃまされて、しだいに立場がわるくなってきた。
この早駆け勝負のまえには、奉行の方から騎乗随意といってきたくらいであるから、とうぜん、騎馬の往来は自由なところと考えていたが、このあんばいだと、前途はしょせん馬で押しとおすことはできないかも知れない。
「はかられたな」
と小文治は早くも心のうちでさとったが、要するに地理不案内からきたおちど、いまさら引っかえすわけにはゆかないことは知れきっているので、
「ままよ」
と強情に、樹々にせばめられている細い道へと、むりやりに馬をすすめていった。
が、そこには我武者にかけとばしても、たちまちまた一つの難関があった。なんの沢というか知らないが、おそろしく急な傾斜で、その下には幅のひろい渓流がまッ白な泡をたてて流れている。
まよった。――小文治はまよわざるを得なかった。
手綱にそうとう要意と覚悟をもてば、自分とて、こんなところを乗り落とすことができないではないが、帰る場合にどうしよう?
ほかに登る道があればいいが、ないとすると、この傾斜では、馬を乗りあげることがむずかしい。それに、下に見える渓流もはたして騎馬で越せるかどうか?
「ウーム、さては大久保をはじめ徳川家のやつばらめ、あらかじめ地の理をしらべておいて、うまうまと最後の勝負でこっちに一ぱい食わせたのだ。……はてざんねんなわけ、どうしてやろうか」
と、名馬草薙の足もそこよりは進みえずに、手綱をむなしくして、馬上にぼうぜんと考えこんでしまっていると、そこへ飛んできた早足の燕作が、
「ああ、やっと追いついた」と、ふりかえって、
「おい大将、失礼だけれど、お先へごめんこうむりますぜ」
尻をたたくようなかっこうを見せて、ぴょんと、傾斜の崖ッぷちへかかった。
「あッ」
と、われにかえって歯がみをする小文治を、
「まあ、ごゆっくり」
と見かえして、そういうが早いか、燕作のからだは、岩に着物をきせてころがしたように、そこから沢の下の水辺まで一いきにザザザザザとかけおりてしまった。
もうまよっている場合ではない。
小文治は馬をすてた。
あたりの喬木へ手綱をくくりつけておいて、燕作のあとから、これも飛鳥のように沢へおりた。
降りてみると燕作はもう渓流の岩をとんで、ひらりと対岸へあがっている。小文治が河の向こうへ渡りついた時には、やはり同じ距離だけをさきへのばして、こんどはスタスタと登りにかかった。
「お、白鳥の山へかかってきたのだな」
かれは気が気ではなかった。
まだ一里も二里もさきがある勝負なら、なんとかそれだけの距離を取りかえすことができようが、たしかここから十二、三町のぼった中腹がれいの大鳥居だ。
「おのれ、燕作ごとき素町人におくれをとって一党の人々に顔向けがなろうか」
早駆けとはいい条、ことここに立ちいたってみれば、武芸以上の必死だった。いや、そんな意地よりも名誉心よりも、まんいち自分が敗れでもした時には、いやでも応でも、咲耶子の身を徳川家の手にわたさなければならない。
いわば一党の人の然諾と咲耶子の運命とは二つながら、かかって自分の双肩にあるのだ。敗れてなるものか、おくれてなるものか。
彼はややあせった。
汗は全身をぬらしてくる。呼吸はつまる。
それにひきかえて燕作のほうを見ると、さすがはこいつ足馴れたもので、少しもあせるようすがなく、まるで平地を歩むように、スラスラと十二、三町の登りを踏みすすんでゆく。
すると、ほどなく彼の前に、七、八段の幅のひろい石垣があらわれて、巨人がふんばった脚のような大鳥居の根もとがそこに見られたのである。
「おっ、やっと着いたぞ」
さすがな燕作も、そこでは、ホッとしたように息ついて、山下へ小手をかざしてみたが、まだ小文治の姿は見えない。
で、安心したらしく、
「ヘン、どんなものだい」
というふうに胸をひろげて、また手拭を風車にまわした。
「おっと、そうはいっても、まだまだやっと勝負はこれで半分みち。あの額の縁に刺さッている矢を抜きとって、もとの試合場まで帰り着かねえうちは、まだほんとに勝ったものとはいえない」
つぶやきながら、大鳥居の上を見あげた。
それへよじのぼる気か、燕作が、ペタと蝉のように丸木の鳥居へ取ッついたが、待てよ、とすこし考えて――。
「こいつあ損だ、わりに合わねえ」
と不意にべつの矢をさがしはじめた。
上の額縁に刺さっている矢は、さいぜん、徳川家の射手加賀爪伝内がはなした遠矢で、かれも徳川方のひとりである以上、とうぜんその矢をぬいて、持ちかえるのがほんとなのだが、この登りにくい鳥居にかじりついてすべったり落ちたりしているよりは、どこか、そこらに落ちている山県蔦之助の矢をひろっていったほうが、時間においてはるかに得策だと、あいかわらずずるい考えを起したものなのである。
で、鳥居をくぐって、およそな見当のところをしきりにさがしはじめたが、さあこの矢のほうにも一難がある。
加賀爪の矢は的の中心にこそあたらなかったが、その額の縁へ適中したので、あのとおりあからさまに鳥居の上にとまっているが、的を射そんじた蔦之助の矢のほうは、それをそれたわけなので、どこまですッ飛んでしまったか、その距離と方角にいたっては燕作にもちょっと想像がつかないのだ。
「おやおや、そうは問屋でおろさねえときたね。じゃ、やっぱり尋常に、あの上のやつを抜いて引っかえそうか」
と、急に考えなおした燕作。
なんの気もなく、まえの大鳥居の根もとのほうへふたたび足を向けかえてゆくと、その足のつまさきが、なにやら妙なものに蹴つまずいたと思ったので、ヒョイと見ると、嵯峨天皇風の字体で「白鳥霊社」と彫ってある四角な古い欅板だった。
「あれッ?」
といったまま燕作は、それと鳥居の上とを見くらべてあいた口がふさがらない。
なぜかといえば――
その板はまさしく大鳥居の上にかけてあるべきはずの額なんである。だのに……と思ってよくよく宙と大地の品とを見くらべてみると、鳥居の上には神額の縁だけがのこっていて、なかの板だけがここへ落とされてあることがわかった。
ではなんで落ちたか――ということは燕作にはもう疑問とするにたらなかった。証拠は歴然、そこに落ちている神額の中板の「白鳥霊社」の霊という文字を見ごとに突きさしていた一本の矢! 見るまでもないが手にとってみると、はたしてさいぜんの試合に、山県蔦之助が日輪巻の弓から切ってはなした白鷹の塗矢にちがいはないのである。
「ああ、こりゃあ大へんだ」
燕作はいままでの道を歩き損じたように、ガッカリしてつぶやいた。
先刻の遠矢試合では河内流の加賀爪伝内が勝点をとって、蔦之助は負けということになっていたが、いま、その遠矢の的場であるこの大鳥居の裾に立ってみると、これはあきらかに伝内の負けで蔦之助の勝ちだ。
伝内の矢は額の中心をはずして、わずかにその縁にとまっているにすぎないが、蔦之助の矢は神額のまッただなかを射て、その板もろとも下へ落ちてしまったのだ。
そのために、御岳の試合場から見ると、だれの目にもそれたように思われたが、この実際がわかるとなれば、大へんな番狂わせで、おれが早駆けに勝ったところで、きょうの勝負は五分五分なわけだ、と燕作はすっかり気がくさってしまった。
と――もう下のほうから、巽小文治が息をあえぎつつ登ってくるすがたが見えはじめた。
「ええ、きやがった」
燕作はさきに着いていながら、まごまごしてしまったが、にわかになにか思いついて、
「そうだ、なにも心配することはねえ。おれがここでこの額板を見つけたからこそ、蔦之助のあたりがわかったようなものの、なあに、このままどこかへかくしておけば、相手のやつらも気がつくことはないのだ」
矢はぬいて自分の腰にはさみ、神額の板は、人の気づかぬような雑木帯の崖へ目がけて力まかせにほうりすてた。
「ウム、これでよし」
いこうとすると、何者か、
「待て! 燕作」
「あッ……」
かれはなにものも見なかったであろう。
ふりむいたとたんに、天地がグルリとまわったように感じた。そしてえりがみをはなされた時には、脾腹をうって、鳥居の下に気をうしなっていた。
わずかの間をおいて、そこへ、燕作に追いこされた小文治が息をきって登ってきた。
しかし、ふしぎなことには、たったいま何者かに投げられて、大鳥居の下で気をうしなった燕作のからだが、どこへ片づけられたのか、そこに見えなくなっていた。
そういう変事があったのは知らないが、小文治はふしんにおもった。あとから登ってくるみちみちにも、くだってくる燕作に出会うだろうと思っていたのに、ここへきても、その姿が見えない。
「ひきょうなやつ、さては、このうえにも自分をだしぬくためにどこか近いぬけ道をまわっていったな」
いわゆる、負けた者のくそ落ちつきではないけれど、小文治もこうなるうえは、この遠駆けの勝敗を天意にまかせるよりほかはないとかんねんをきめた。
全能全力を正当につくしてみて、それでも敗れれば、まことに是非のないわけだ。男らしく、一党の人の前へでて、罪を謝するよりほかにみちはない。
と、覚悟をきめてしまったので、かれもぞんがい元気をたもっていた。
そこで、しずかに、持ちかえる矢をさがすと、蔦之助の矢は見あたらないで、大鳥居の額縁に刺さっている加賀爪伝内の矢が目にとまった。
かれはハタととうわくして、
「どうしてあれを取ろうか」
と腕をくんで考えた。
一ぽうを見ると、そこにすばらしく大きい椋の大木がある。その高い梢の一端がちょうど、鳥居の横木にかかっているので、
「そうだ」
駆け寄ってそれへよじのぼろうとすると、
「小文治、小文治」
不意に、どこかで自分を呼ぶものがある。
――が、どこを見まわしても、人らしいかげはあたりの鬱蒼にも見えないのである。
「耳のせいか?」
かれはそう思った。ふたたび椋の幹に抱きついて、大鳥居の横木へわたろうと考えた。
「――いまわしが降りてゆくから、くるにはおよばんよ、そこで待っているがいい」
「や? ……」
耳のせいではない。
だれだろう、何者だろう、この白鳥の峰でなれなれしく話しかける人間は?
かれの目はしきりにうごいて、うしろの樹立をすかしたり暗緑な境内を見まわしたりしたが、ついに、そこからなにものも見いだすことはできなかった。――たださいぜんから明らかに知っていて、べつに気にも止めなかったのは、鳥居の横木にうずくまっている一羽の灰色の鳥だった。
ところが、かれの鼻のさきへ、上から額縁の矢が抜けて、ポーンと落ちてきたので、眸をこめて見なおすと、その灰色のかげが鳥ではないのがはじめてわかった。
衣のような物をきている人間だ。鳥居の横木に腰をおろし、杖のようなものを持っているあんばい。
矢を落として、するすると横木の端へはいだしてきた。
銀のような髯が頤からたれて風をうけているのが、そのときには、下からもありありと仰がれた。老人はやがて椋の梢にすがって、蜘蛛がさがるようにスルスルと降りてきた。
「あッ、あなたは果心居士先生」
「小文治、ひさしく相見なかったの」
「どうして、あんなところに」
「まあよい、そこへすわれ」
すわって話しこむどころの場合ではないが、ついぞここしばらくのあいだ、一党の人に影もすがたも見せないでいた果心居士が、こつぜんと、そこに立ったのであるから、小文治もぼうぜんとして、思わず、腰をついてしまった。
「きょうはえらいさわぎだったな」
居士はいつもかわりのない童顔に明るい微笑を波のようにたたえて、
「わしも、すこしあんじられたので、きょうは早くからあれに腰をすえて見物していたのじゃ」
と、鳥居の上を指さした。
「えッ、では、先生には、あの鳥居の上から御岳の試合をながめておいであそばしたので」
「よく見える。あたかも鞍馬の上から加茂の競馬を見るようにな」
「して、いつこの武州へ」
「ゆうべ、なにげなくれいの亀卜の易をこころみたところが、どうもはなはだおもしろくない卦面のしらせじゃ。そこでにわかに思い立って、きょうぶらりとやってきたが、はたしてこのさわぎ……」
小文治は居士の話にいろいろな疑念をはさんだ。亀卜の易とはなにか? また京の鞍馬山から武州まで、きょうぶらりとやってきたというのも、自分の聞きちがいのような気がした。
けれど、かれがそんなことに頭をそらしているうちに、居士はずんずんとさきの話をいいつづけていて、
「で、なによりあんじられたのは、万が一にも、咲耶子の身を徳川家のほうへとられると、おそらく、ふたたび助けだすことができまいということであった。なぜといえば、家康の心のうちには、いよいよ邪計の萌しがみえる。――武田の残党を憎むことが、いぜんよりもはなはだしい。そして、秀吉と覇をあらそううえにも、つねに背後の気がかりになる伊那丸君やそれに加担のものを、どんな犠牲を払っても、根絶やしにしなければならぬと、ひそかに支度をしつつあるのだから」
老骨とは思われない若々しい居士の語韻のうちに、仙味といおうか、童音といおうか、おのずからの気禀があるので、小文治はつつしんで聞いていたが、話がとぎれると、遠駆け試合の決勝が気にかかって、じッと落ち着いてはいられない気がする。
「もし、果心居士先生」
たまらなくなって、腰を浮かしかけた。
「なんじゃ」
「せっかく、お話中ではございますが、ご承知のとおり、わたしはいま遠駆けのとちゅう、この矢をもっていっこくも早く試合場へもどりませぬと……」
「ウムぞんじておる」
「でも、ただいまも仰せられたとおり、まんいち不覚をとりますと咲耶子の身を」
「それはわかっている。まあよい」
わかっているといいながら、小文治のワクワクしている胸のうちもさっしなく、居士はゆうぜんと椋の木の根に腰をすえて、目を半眼にとじ、頤の銀髯をやわらかになでている。
気が気ではないのに、居士はまだことばを切らないで、
「わしがみるところでは、世はいよいよ乱れるだろう、いくさは諸国におこって絶えないであろう、人間はますます殺伐になり、人情美風はすたれるだろう。なげかわしいが天行のめぐりあわせ、まことにぜひないわけである」
と、空をあおいでそういった。
ああ悠長な。
小文治がことばをはさもうとすると、そこをまた、
「伊那丸君にもよく言伝をしてくれよ。よいか、ますます自重あそばすようにと」
「は、心得ました」
いい機と、小文治が立ちかけると、
「あ、待て」
またか、――そう思わずにいられないで、
「さきをいそぎますゆえ、なにとぞ、このまま失礼ごめんくださいまし」
と、そこに落ちている矢をひろって右手につかむと、居士も、やっと腰をあげて、
「小文治、その品ばかりでは心もとない、いずれこの空がまッ赤に夕焼するころには、御岳の山も流血に染まるだろう。――戈をうごかすなかれ、血をみるなかれの神文もとうていいまの人心には守られる気づかいがない。見ろ――」
手をあげた居士の指が、そこから対山の中腹をゆびさした。
「あれを見ろ、小文治。みだれた凶雲と殺気にみなぎっている」
「では、兵法大講会の第二日も、いよいよ無事にはおさまりませぬか」
「おそらく、三日目を待たず、今夕かぎりでめちゃめちゃになるだろう。おう、おまえも早くゆくがいい、そして、まんいちの用意に、これを証拠に持ちかえるがよかろう」
そういって、居士がかれにあたえたのは、さいぜん、燕作がどこかへ投げすてた額板だった。
蔦之助の遠矢がけっして敗れたのではないと聞かされて、小文治はこおどりして、
「では、ごめんを」
と、下山の道へ走りだした。
「おお、せくなよ。急いてあとの不覚をとるなよ」
見送りながら、居士は白鳥の奥の院のほうへ風のごとく立ち去った。
しばらくすると、草むらのなかから、
「ウーン……ア痛、アイテテテテ」
と腰をさすりながら起きあがった燕作が、夢のような顔をしてのこのこでてきた。
「どうしたんだろう? おれはいったい」
あたりをみると、いつか夕暮れらしい色が、森や草にはっていた。梢にすいてみえる空の色も、丹の刷毛でたたいたように、まだらな紅に染まっている。
「あッ……ささささ、さア、大へん!」
はじかれたように思いだして、大鳥居の上を見ると、南無三、そこに立っていた矢はすでにぬき取られてあるではないか。
「ちぇッ、出しぬかれたぞ、小文治のやつに」
わくわくと自分の腰に手をやってみる。
さいぜん、帯へさした、蔦之助の矢はたしかにあった。
「ウム、野郎め。まだあいつの足では御岳の試合場までは行きつきはしめえ。……なんの見ていやがれ、早足の燕作が一世一代にすッ飛んでくれるから」
足と腰の骨を二つ三つたたくと、孫悟空が急用にでかけたように、燕作のからだは鳥居のまえから見ているうちに小さくなっていった。
いや、その早いことといったらない。まるで足が地についていないようである。
またたく間にもとの渓流にかかってきた。
ここは谷間のせいか、いちだんと暮色が濃くなって、もう夕闇がとっぷりとこめていたから燕作は泣きだしたくなった。
「ええ、大へん」
もしこの遠駆けにおくれを取ったら、あの呂宋兵衛がおれをただはおくまい。菊池半助や大久保長安なども、さだめしあとで怒るだろう。いや、おこられるだけならまだいいが、勝ったら百両といわれた褒美もフイなら、第一、天下の早足の名まえがすたる。
意地でも欲でも勝たなければならない。
「ええ、間道をゆけ、間道を」
とうとう燕作、ここまで試合をつづけてきて、最後にさもしい町人根性をだした。それを他人に知られたら、ひきょうな立合いといわれて、徳川家の名をけがすことになるが、いまはそんなことを顧慮していることはできない。
ただ、なんでもかでも、早くかえり着くことにあせった燕作は、やくそくの道をふまず、沢をひだりにまわって、八町参道へ半分でぬけられる近道をいそぎだした。
「おう、しめた」
そこへ抜けてでると、さきにいそいでゆく小文治の騎馬すがたがすぐ目のまえに見えた。
にわかに元気づいた燕作が、一町半ばかり、死身になって踵をけると、こいつどこまで足が達者に生まれた男だろう、神馬草薙とほとんど互角な早さで、長くのびた燕作の首と、泡をかんだ馬の顔が、わずか一間か二間の差を、たがいに抜きつ抜かれつして、八町ばかりの坦道を、見るまに、二町走り三町走り、六町走り、アア、あとわずかと試合場の城戸まで、たッた二、三十間――。
わッーという声の波が、馬と人とを同時に抱きこんだ。
燕作は、かけ着いたというよりも、自分のからだを城戸のなかへほうりこんで、
「遠駆け一番!」
たおれながら腰の矢を高くさしあげた。
それがさきか、かれが次着か、ほとんど燕作のさけびと同時に、馬もろとも、おどりこんだ小文治の口からも、同じように、
「一番!」
と絶叫された。
すると、すぐに審判の床几にいた鐘巻一火の口から、
「巽小文治どの、遠駆け一番」
とあきらかな軍配があがった。
「ちーイッ」
と口をゆがめて歯ぎしりをしたまま、早足の燕作は、腰を立てる気力もなく、なにかわけのわからないことを叫びつづけた。
小文治一番――と聞いて色めき立ったのは、かれの朋友たちで、
「それ、このうえは、約束のとおり一火どのから咲耶子を申しうけよう」
と、忍剣をはじめ龍太郎に蔦之助や竹童などが、審判の床几にいる鐘巻一火のところへかけ集まってくると、いちじ色をうしなった徳川家のほうからも、大久保石見守、菊池半助、鼻かけ卜斎、和田呂宋兵衛。そのほかおびただしい人数が、ドッと流れだしてきて、
「検証の一火どの、軍配がちがうぞ」
と抗議をもちこんだ。
一火は公平なたいどで、
「なんで拙者の検証がちがうといわれるか」
色をなして突ッ立った。
されば石見守は一火の左の手につかんでいる矢を指して、
「それはだれが持ちかえった矢であるか」
「これは小文治どの。またこちらは燕作の持ってきた矢であるが、それがどうかしたといわれるので」
「ちがう。この遠駆けは勝負なしじゃ」
「なぜ?」
「小文治は蔦之助の矢を取ってかえるべきがとうぜん、また燕作は、伝内の矢を持ちかえらねばならぬはずじゃ。それを双方心得ちがいをして、かくべつべつに取りちがえてきた以上、この遠駆け試合は、やりなおしか、互角とするよりほかはありますまい」
ひきょうな苦情である。
負けたがゆえに理のないところへ理をつけた難癖である。
かりにも、武門の塵をはいて行われた試合のうえに唾棄すべききたない心がけだ。
忍剣や龍太郎の面上には、みるまに、青い怒気がのぼった。
その禅杖、その戒刀は、いまにも長安の細首へ飛びかかろうとしているふうだったが、かれの周囲にも、菊池半助や、呂宋兵衛が、眼をくばって護っている。
ただ、こまったのは鐘巻一火である。
かれは双方の板挟みとなって、この場合をどう処置していいのか、ほとんど、とうわくしてしまった。
それを是とするか非とするか、自分の唇をでる、ただ一句で、どんな兇刃がものの弾みで御岳の神前を血の海としないかぎりもない。
「うーむ。これはどうしたものか」
両方のあいだに立って、かれがとうわくの腕ぐみをかたくむすんだ時、
「いや、しばらく」
一党の人々を押しなだめて、それへでてきたのは遠駆け試合の当の本人である巽小文治。
黒々とひとくせある顔をならべた先ぽうの者をずッと見まわして、
「――いかに浜松城の武士ども、たとえ、いまの遠駆けを勝敗なしとしたところで、もう咲耶子はこっちへもらいうけたぞ。人はあざむき得るとも神はあざむくべからず、疑わしくば首をあつめて、とくとこれを見るがいい」
と、例の鳥居の額板をかれらの目のまえにつきだした。
もう、ぜひの議論にはおよばない。
すべては「白鳥霊社」の額板が、雄弁に解決をつけていた。
それには、りっぱに、蔦之助の射あてた矢あとがある。かれの寃はそそがれた。そして、競射に不当な勝点をうばっていた徳川家は、一敗地にまみれてしまった。
いくら、横車を押そうとする徳川方の者でも、その証拠を小文治につきつけられては、二の句をつぐ者もなかった。
検証役の鐘巻一火は、公平に、最後の断をくだして、蔦之助や小文治たちにいった。
「おやくそくであるから、咲耶子のからだは、おのおのたちへお渡しいたすことにする。いざ、こちらへきてください」
さきに立って、自分のたまり場である幕のほうへみちびこうとすると、いまいましげに睨めつけていた大久保石見守が、
「まだ疑わしきふしがある。待て、咲耶子を渡すのはしばらく待て」
と、みれんらしくどなった。
蔦之助や小文治は、ふんぜんと色をなして、
「なに、このうえにも、なにか苦情があるというのか」
「おお、第一、あやしいのは額板。なるほど、白鳥霊社と彫ってあるにはちがいないが、はたしてこの矢あとが蔦之助の矢かどうか、それもにわかにたしかとはうけとれない。ことに、まだ大講会第三日の試合も明日にのこっていることゆえ、咲耶子の身を処決するのは、あしたにのばしてもさしつかえあるまい。そのあいだに、いま申した疑問の点をとうほうでもじゅうぶんに取り調べておくから、それまで待てと申すのだ」
いかにも無理な、智恵のない、いいぶんだ。
一火は、取るにたらないことばと聞きながして、さっさと引きあげようとしたが、徳川家のほうからは一刻ましに味方があつまって、わざとことをもつれさせるように、石見守の尾について、ごうごうと苦情の声援をあげだした。
「不当だ」
と、一火の肩をつく者がある。
「そっちに、やましいところがないならば、なぜ明日まで待てぬというか」
と、雑魚のようにむらがってきて、龍太郎や蔦之助たちの歩行をじゃまするやからもある。
これが「血をみるなかれ」――刃傷禁断の御岳の神前でなければ、こんな雑魚どもに、かってな熱をふかせておくのではないが――と四人もジリジリ思ったろうし、はらはらして、そばにいた竹童も、歯ぎしりをかんで、ながめていた。
蛾次郎も、卜斎のうしろから首をだしていた。
そして、一人前に徳川家の肩を持って、
「なんだ、そんなばかな法があるもンか。やれやれ、やッつけろ」
ケシかけるような弥次をとばしたので、卜斎に、ぴしゃりとお出額をたたかれて、だまってしまった。
なにしろ、はてしがつかないさわぎだ。
刀のぬけない場所だけに、いたずらに声ばかり高く、理非もめちゃくちゃにののしる声が、一火と龍太郎以下の者を取りまいて、身うごきもさせない。
すわ、なにかことこそはじまったぞ! とそれへ加えて、上杉家、北条家、前田家、伊達家、そのほかの溜り場からも数知れない剣士たちがかけあつまってくる。
むろん、鐘巻一火の門人たちも、ただは見ていなかった。もし、師の身にまちがいがあってはと控え場の幕を空にして、こぞって、そこへ飛んできた。
すると。
渡せ、渡さぬ、の苦情が、そこに人渦をまいてもめているすきに、石見守の目くばせで、呂宋兵衛と菊池半助のふたりが、ぷいと、どこかへ姿を消したことを、だれひとり気づいた者がない。
伊賀者頭の菊池半助、あのりすのような挙動をして、どこへいったのかと思うと、やがてひとり、鐘巻一火のひかえ場のうらへきて、鉄砲ぶッちがえの幕のすきから、なかのようすをのぞいていた。
そとのさわぎに、門人すべてではらって、幕のうちには人影もない。
ただ、咲耶子ひとりだけが、柱にもたれて休んでいた。
「ウム、いるな」
こううなずくと半助は、幕をあげて、いきなりそこへ飛びこんだ。
とたんに、あッ――と洩れた咲耶子の声が、糸を切ったように、中途からポツンときれて、それっきり、あとはなんの音もしなかった。
竹で網代にあんだ駕籠である。山をとばすには軽くってくっきょうな品物。それへ、さいぜん、忍剣の鉄杖で腰骨をドンとやられた、蚕婆が乗っていた。
あの、こうもりのつばさのような、女修道者の着るくろい服をかぶって、青い顔をして乗っていた。
「婆さん、痛いかい?」
のぞきこんだのは燕作である。
蚕婆は、腰をさすって、
「ウーム、痛い」
と、顔をしかめた。
「いまに楽にしてやるよ、おめえだけさきに浜松へ帰るんだ。ご城下にかえれば、湯もある医者もある、なにもそんなに心配することはねえ」
ところへ、ばたばたと足音がしてくる。
葵紋の幕をあげて、あわただしくかけこんできたのは、菊池半助であった。
右のこわきに、咲耶子のからだを引っかかえていた。不意に、当身をうけたのであろう、彼女は力のない四肢をグッタリとのばしていた。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛」
「お」
もう一挺の駕籠のなかに、和田呂宋兵衛がかくれていた。ひらりと飛びだして――。
「半助さま、ごくろうでしたな」
「む。いい首尾だったので、なんの苦もなくさらってきた」
「お早いのには、呂宋兵衛も舌を巻きましたよ。さすがは、伊賀者頭でお扶持をもらっているだけのお値打ちはある」
「おだてるな。して、支度は」
「このとおり。なん時でも」
「では、一刻もはやいがいいぞ。おい燕作、ちょっと手をかせ」
呂宋兵衛が身をぬいた空駕籠のなかへ、咲耶子のからだを押しこんで、その、人目につく身なりの上へ、蚕婆と同じくろい服をふわりとかぶせた。
「さ、これでいい」
と半助が合図をすると、わらじをむすんでいた駕籠の者が、ばらばらと寄って二つの駕籠をかつぎあげた。――呂宋兵衛はすぐと、
「おれと菊池さまは、あとから見えがくれについてゆくから燕作、てめえはなにしろ駕籠について、御岳のうら道をグングンとかけとばし、浜松のご城下へいそいでゆけ」
と、手をふった。
…………
紛擾をきわめている一方では、徳川方のそんな奸計を、夢にも知ろうはずがない。
どっちも引かずに争っていたが、審判の公平と、他藩の輿論には勝てない。で、とうとう石見守も我を折った。ぜひがない、随意にするがいいと、兜をぬいだような顔をして、苦情の紛争にけりをつけた。
「見たことか」
と、小文治は小きみよく思った。
で、鐘巻一火の溜り場へ、凱歌を奏してひきあげてきたはいいが、それほどまで争奪の焦点となっていた、かんじんな咲耶子その者のすがたが、いつのまにか失われていた。
門人たちはおどろいて、
「たったいままで、ここに手当をうけて、しずかによりかかっておられたのに」
と、血まなこで四方をさがし歩いたが、かげも形も見えなかった。
一火はもうしわけがないと、龍太郎や忍剣たちのまえに両手をついて謝罪した。ふかく責めれば、腹を切ってもわびそうな気色なので、四人はぼうぜんと顔を見あわせたのみで、一火を責める気にもなれない。
「計ったのだ。長安めの、はかりごとだ!」
と、小文治が唇をかみしめて叫ぶと、蔦之助も、
「そうだ! なんのかのと、時刻をうつしてさわがせたのは、このすきをうかがうための徳川方の策だったのだ。おそらく咲耶子の身は、きゃつらに、奪い去られたにそういない」
龍太郎は黙然とうなだれていたが、
「われわれがあさはかだったのだ。かれらを正しい武門の人間とかんがえて、試合や争論に汗をながしたのがおろかであった。これまでの力をつくしながら、咲耶子をとられたものならぜひがない、いちおう、ここを退いて、またあとの分別をつけるとしよう」
そういわなければ、一火の立場があるまいとさっして、かれが他の三人に目まぜをすると、忍剣はなにもいわずに、鉄杖をこわきにかかえて、まえの場所へかけもどった。
その顔色をチラと見て、龍太郎は追いすがりながら、
「忍剣! きさまは色をかえて、どこへゆこうとするのだ」
息ぜわしく、袖をつかんだ。
ふりはらって、ただ一言、
「はなせ!」
と語気がするどい。
「いや、はなさん。おれははなさん」
「なんで、おれのすることをさまたげるのだ」
「きさまは、その引っかかえている禅杖で、きょうの鬱憤を晴らそうという気だろう」
「知れたことだ。この晴れがましい、大講会の広前で、かたく、約をむすんだ試合ながら、さまざまに難癖をつけたあげく、その裏をかいて、咲耶子のすがたを隠してしまうという言語道断な行いを、だまってこのまま見て引っこめるか。――龍太郎! おぬしは退くなら、退くがいい、おれは徳川家の蛆虫めらを、ただ一匹でも、この御岳から下へおろすことはできない」
かれの額には、炎のような青筋がうねっていた。かつて、忍剣の形相が、こうまですごくさえたことを、龍太郎も見たことがないくらい。
「こらえろ! こらえてくれ、忍剣! この山の掟を知らぬか、兵法大講会三日の間は、たとえどんなことがあっても血を見るなかれという、きびしい山の禁断を知らぬかッ」
「ええ、もうその堪忍はしつくした。これ以上のこらえはできない」
「だからきさまの短慮を、伊那丸さまも民部どのも、へいぜいから心配するのだ。もしものことをしでかしてみろ、きさまばかりではない。友だちのおれたちがこまる。こらえろ、こらえろ。よ! 忍剣」
「ウーム、こらえたいが、だめだッ。もうだめだッ! はなせそこを」
龍太郎を突きのけて走りだしたかれの前には、もう、どんな力のものでも、さえぎることができそうもなかった。
石見守長安は、やぐらの者に、あわてて貝の音を高く吹かせた。忘れていたが、いつか、とっぷりと日がくれていたのだ。
が、――貝の合図を待たずに、群集は、あのもめごとのうちに、のこらず山をくだったらしい。
「まず、大講会の二日も、これですんだというもの。ウーム、つかれた。これこれ足軽、篝火を焚け夜の篝火を」
こういいながら、狩屋建の奉行小屋へはいると、かれはすぐに平服に着かえて、炉ばたへ床几を運ばせた。
そこへ、菊池半助と呂宋兵衛がチラと顔をみせた。そして、なにかささやいたが、
「ふ……そうか」
と、うなずいた長安の笑顔を見ると、ふたりはすぐ、影をけした。さっきの駕籠のあとを追って夜道をいそいだようすである。
やがて、どッと、にぎやかな笑いがそこらではずみだした。奉行小屋と棟つづきの目付小屋でも、詰侍のかり屋でも足軽の溜りでも、また浜松城のもののいる幕のうちでも。
長安の奇計が、ひそかに、耳から耳へ伝えられて、どッと、はやしたものだろう。あっちでもこっちでも、ドカドカと篝火をもやして、急に、徳川方の空気が陽気になりだした。
が――しかし。
そう見えたのもつかの間で、とつぜん、奉行小屋の柱が、すさまじい音をして折れたかと思うと、血か、肉か、白木の羽目板へまッ赤なものが、牡丹のように飛びちった。
「狼藉者ッ」
という声が、そこで聞えた。
一瞬のうちに、おそろしいこんらんの幕があいた。逃げる、わめく、得物をとる。そして、同志討ちが随所にはじまる。
修羅だ。たちまち、あたりは血の瓶を割ったようだ。
立ちふさがる侍や足軽を、二振り三振り鉄杖でたたき伏せて、加賀見忍剣は夜叉のように、奉行小屋の奥へおどりこんでいった。
生はんかな得物をとって、それを食い止めようとする業は、かえって、かれの鉄杖に、勢いを加えるようなものだった。そして、そのまえに立ったものは、みんな血ヘドを吐くか、手足の骨をくじいて、まんぞくに逃げきることはできなかった。
「なに、なに? なにが起ったのだ」
石見守は、はじめ、その物音を足軽部屋のいさかいかなにかと心得たものらしかったが、そこへ、
「忍剣がッ。忍剣があばれこんできたッ」
血に染まった武士たちが、なだれを打ってころげこんできたので、そばにいた四、五人の家臣と一しょに、
「さては」
と、にわかに度をうしなってしまった。
だが、かれとしては、張らざるを得ない虚勢をはって、
「ええ、多寡の知れた乞食坊主のひとりぐらいに、この狼狽はなにごとだ、取りかこんで、からめ捕ってしまえッ」
と、叱咤した。
しかし――そのことばと一しょに、目のまえの炉のなかへ、ひとりの試合役人が逆とんぼを打って灰神楽をあげたのを見ると、かれはけつまずきそうになって、狩屋建の小屋の裏へ逃げだしていた。
「待てッ、長安」
放たれた豹のごとく、その姿を目がけて、忍剣の跳躯がパッとうしろを追う。
「あッ」
と、かれがひきょうな声をうわずらしたせつな、狩屋建の板戸や廂が木ッぱになって、メキメキと飛びちった。
「ウーム、徳川家の衆、浜松の衆、出合えッ、出合えッ、狼藉者だ、狼藉だ」
見栄もなく、むちゅうでさけびながら、幕のすそをくぐッて浜松城の剣士たちがいる溜り場へ四つンばいに逃げこんだ。
朱槍、黒槍、樫みがきの槍、とたんに、幕をはらって忍剣をつつんだ。
「売僧ッ、御岳三日の掟を知らぬか」
「だまれ、武門の誓約さえふみにじる非武士どもに、御岳の神約を口にする資格はない」
言下に鉄杖を見まっていった。
霜とならべて、つきかかる槍も、乱離となって折れとんだ。葵紋の幔幕へ、霧のような、血汐を吹ッかけて、見るまに、いくつかの死骸が虚空をつかむ。
いかれる獅子のまえにはなにものの阻害もない。忍剣はいま、さながら羅刹だ、夜叉だ、奸譎な非武士の卑劣を忿怒する天魔神のすがただ。
ふだんは、無口のほうで、伊那丸にたいしては柔順であり、友情にもろい男であり、小事にこだわらず、その、鉄杖に殺風を呼ぶことも滅多にしない男であるが、いったん、そのまなじりを紅に裂いたときには、百槍千甲の敵も食いとめることができないし、かれの友だちでも、手がつけられない忍剣だった。
その忍剣が、堪忍をやぶって、鉄杖と鉄腕のつづくかぎり、あばれまわるのであるから、ほッたて小屋どうような狩屋建は片っぱしからぶちこわされ、召捕ろうとする、新手も新手も、猛猪に蹴ちらされる木の葉のように四離し、散滅して、手負いの数をふやすばかり。
このさわぎとともに、徳川家以外の溜り場のものは、かれらの横暴をひそかに不快に思っていたので、みな見て見ぬふりして山をおりてしまった。
で、手にあました浜松城の武士や、石見守から訴えたものであろう、御岳神社の衛士たちが数十人、ご神縄と称する注連縄を手にもって、
「ひかえろ! ひかえろ! ひかえろ!」
と叫びながら、松明をふって、石段の上からさっとうした。
これを、神縛の討手という。
神のお縄をあずかって、神庭の狼藉者を捕縛する使いである。理非はともあれ、御岳の掟「血を見るなかれ」の誓いをやぶった忍剣にたいして、とうぜん、そのご神縄がくだったのである。
「ああ、しまった!」
龍太郎をはじめ、蔦之助や小文治や、そして竹童たちは、忍剣が堪忍をやぶって力にうったえたのをむりとは思わないが、こまったことになったと、嘆声をあげていた。
すでに、かれが忍従の鎖をきって走った以上、それを止めることもできないし、かれに加勢することもできない。
拱手して傍観する? それも、友情としてしのびないではないか。
「どうしたものだろう」
龍太郎は、自分の難儀よりもとうわくした。
だが――その人たちよりも、もっと驚いたのは、群集の去ったあとで、矢来のそとにあんじてながめていた、小幡民部である、武田伊那丸である。
アア、ついに大事をひきおこした――。
ふたりの面には、うれいがみちていた。
もし、こういうことでもあってはと、一党の者が矢来のうちへ足を踏みいれることをかたくいましめていたのに――といまさらの悔いも追いつかない。
「民部、民部」
ものにさわがない伊那丸が、とつぜん、矢来をやぶって、かけだしながら、
「はやくこい、捨ててはおけまいぞ」
と、龍太郎たちのとうわくしているそばへきた。
「オオ、若君」
「忍剣の身の一大事じゃ」
「われわれのふつつか、おわびの申しあげようもございませぬ」
「そんなことは、いまさら、申すにはおよばない。なにせい、忍剣の身を」
「は、はい。……しかし、若さままでが、ここに姿をおだしになっては、どんな禍いがふりかかるかも知れませぬから、どうか、民部どのは若君のお供をして、ここを、お立退きくださいまし、あとの儀は、われわれたちで、どうなりと処置してまいります」
一同が、おそるおそるいうことばへ、伊那丸は、強くかぶりをふって、
「かれの安危がわからぬうちに、自分ばかり退くことはできない。オオ!」
伊那丸が、オオといった声につれて、かなたに、ワーッという鬨の声がどよめいた。ふりかえると、その時だった。
殺到した、御岳の衛士数十人が、手に手に、ご神縄と松明をもち、
「しずまれ! しずまれ!」
「神使であるぞ。ご神縛の使いであるぞ」
「ひかえろッ」
「しずまれ!」
と叫びながら、血まみれの人渦のなかへ、まっ白な列を雪のように散らかしていった。
「あッ、あれは? ――」
「御岳のご神縛です――ご神縛がくだったのです」
「ぜひがないこととなった。したが、忍剣を他人手に召し捕られるのは、なんともざんねん。かれとしても本意であるまい。民部、民部」
「はッ」
「わしに代って、おまえが御神縄をうけて忍剣を、捕りおさえてこい」
泣いて馬謖をきる伊那丸の心とよめたので、
「はッ、かしこまりました」
と、小幡民部は、涙をふるッて、かけだした。
そして、群鷺のごとくそこへ襲せていた衛士たちを割ッていって、
「あいや、御岳の舎人たちに申しあげる。狼藉者は手まえの友人ゆえ、この方にて取りおさえますから、しばらくの間、そのご神縄を拝借いたします」
と叫んで、ひとりの衛士の縄をかりて修羅王のように暴れている加賀見忍剣の前へつかつかと寄っていった。
常には、一飯一衣を分けあって起き伏しする友であるが、いまは、御岳の神縄をかりて捕りおさえにきた小幡民部。
その縄を右手につかんで、
「忍剣」
としずかに呼びかけた。
忍剣は、ハッとしたようすで、
「おう、民部どのか」
と、炎のような息をついた。
「伊那丸君のおいいつけを受けて、若君の代りとしてまいった小幡民部だ。神の掟をやぶった科者、すみやかにご神縛につけいッ」
言下に、ガランと地を掘って、かれの足もとへ血みどろの鉄杖が投げだされた。
そして忍剣は、すなおに、うしろへ手をまわして、
「民部どの、ご心配をかけました。いざ……」
と、大地へ坐りこんだ。
注連のついた荒縄がギリギリとかれの腕へまわされた。民部はこのあいだに、なにか、いってやりたかったけれど、胸がいっぱいで、かれにあたえることばを知らなかった。
忍剣のからだは縄つきのまま、民部の手から、御岳の神官にわたされた。
それを見ると、逃げまわっていた徳川家の者たちが、また蠅のように集まって神官を取りまき、忍剣をわたせ、殺傷の罪人を徳川へわたせと喧騒した。
神官は、だんじて、それをこばんで、
「科人はご神刑にかけます。ご領地のできごとなら知らぬこと、ご神縛の科人は当山のならいによって罰します」
そして、一同に退去を命じた。
血をながした以上、大講会の中止はやむをえないことだが、徳川家の武士や石見守の家来たちは、まだ騒然とむれて、そこを去らなかった。
神官はまた、法によって、伊那丸や民部や、龍太郎やすべて、忍剣と道づれである者を六人とも、垢離堂に拉して、謹慎すべきように命じた。これも、掟とあればいなむことができない。――およそ、戦国の世には、神ほど尊敬されたものはなく、神の力、神の法ほど、うごかすことのできないものと、信じられたものはなかった。どんな合戦も、一枚の、熊野権現の誓紙で、矛を収めることができた。神をなかだちにして誓えば、大坂城の濠さえうずめた。
町人ですら、神文血判は、命以上のものだった。
まして、武門の人は、ぜったいに、神に服し、敬神を心としていた。
連累のものとして、伊那丸たちが、垢離堂に監禁されたのを見ると、さすが、がやがやさわいでいた徳川家の侍たちも、いくぶんか気がすんだと見えて、死骸をかたづけ、血汐に砂をまき、大講会につかった屋舎をこわして、夜の明けがたに、ひとり、のこらず、御岳の山からおりてしまった。
不首尾ながら、翌日は、大久保長安はふもとの町から甲府へかえる行列を仕立てた。
ところが、そのとちゅうで――。
なにか、長安から耳打ちをされた鼻かけ卜斎が、ある宿場で行列がやすんだ時、
「お、ちょいとこっちへきな」
と、蛾次郎をものかげへ手招きした。
いつになく、たいそうやさしく手招きされたので、蛾次郎はすぐうれしくなってしまった。
「なんですか、親方」
「まあ、こッちへおいで」
「もっと歩くんですか」
「ウム、殿さまの駕籠がご休息になっているうちに、なにか食べたいものでも食わせてやろうと思ってさ」
「へ、へ、へ、へ、すみませんね、親方」
「なにがいいな?」
「どんなうまいものがあるか、ずッと、この宿場を見てあるきましょうか」
「そんなに手間をとっちゃいられないよ。おれは、石見守さまの駕籠がたつと、一しょに、甲府の躑躅ヶ崎へ帰らなけりゃならない」
「じゃ、あそこにしましょう。あそこの家の……」
と、指さした。
餅や団子や強飯がならんでいる。
そこへはいって、奥のひくい板の間へ腰かけた。
「いくらでもおあがりよ。腹の虫が承知するほど」
ことわるまでもないこと、むろん、蛾次郎もその気でパクついている。
ほどのいいところを見はからって、卜斎が、
「時にな、蛾次公」
と、声をひそめた。
蛾次郎はグビリと頬張っていたあんころをのみくだして、
「へ?」
と、ほかにも用があるのかというような顔をした。
「おまえはたしか、石投げの名人だったな。ほかのことにかけては、ドジでも、つぶてを打たすと、すばらしく上手だった」
「親方あ――」と、蛾次郎は、卜斎の顔をゆびさして笑いながら、
「いまごろになって、あんなことをいってら。裾野にいたじぶん釜無川の下で、毎日おいらが捕ってきて親方に食べさせた、あの鮠だの岩魚だのは、みんな、石でピューッとやって捕ったんですぜ。ねエ、親方、河原の小石をこう持つでしょう、こう指のあいだにはさんでネ、魚のやつが、白い腹をチラリと見せたところをねらって、スポーンと食らわしてやるんです。どんな速い魚だって蛾次さんの石からそれたことはありませんよ。こんど親方にもその秘伝を教えてやろうか。ところが、どうして、その石の持ち方が、あれでもなかなかむずかしいんでね、だから、だれだかいいましたよ、蛾次は石投げの天才だってね」
「もういい、もういい」
と、卜斎は手をふって、
「わかったよ、わかったよ。まったくおまえは石投げの天才だ」
「はい、天才だそうでございます」
「だからたぶん、飛道具を持たせたら、きっと巧者だろうと思うんだが……」
「なんにかけたって、下手なものはありませんよ。ところで親方、塩ッぱいほうのお団子を、もう一皿もらってようございますか」
「ああいいよ。たくさんお食べ。……じゃおまえ、こういうものを使えるかい」
「へ、なにをで」
「これさ……」
と卜斎が、羽織の裏から種子島の短銃をだした。
「親方、鉄砲でしょう、それは」
「ウン、スペインわたりの短筒だ。どうだ欲しくないか」
「だって、くれやしないでしょう」
「おまえにやらないこともないさ。まだこのほかに、殿さまからくだされものもたくさんある」
「わたしにですか」
と、蛾次郎は目をパチパチさせて、急に膝ッこの前をあわせた。
「おまえもはや十六歳、たしか、そうだろう。もうここ二、三年で元服をしてさ、一人前の鍛冶なり、一人前の侍なりになる心がけをしなくってはいけない。それには、なにかいい機会をつかまえて、その機をのがさず手がらをあらわすことがかんじんだ」
「はい、あらわします」
「それも、うわの空ではだめだ、目がけたことに向かったら、命をすててかかる気ごみでなければだめだよ」
「だって親方、やる仕事がないんだもの」
「あるさ、おれはおまえを見こんで、その大功をあらわす仕事をひきうけてきたんだ。おまえというものを、石見守さまにみとめさせようと思ってな。どうだ、どうだ蛾次、奮発して一つやってみるか。だけれど、イヤならむりとはいわないよ、ほかに、望み手はたくさんあるし、それに、この鉄砲で、ドンと一発やればそれでいい仕事なんだから……」
なにをいいふくめられたか、蛾次郎は、卜斎から、銀鋲[#ルビの「ぎんびょう」は底本では「ぎんぴょう」]のスペイン短銃と一両ほどの金子をもらって、すっかり仕事をのみこんでしまった。
「いいか、いまもいったとおり、石見守さまのおいいつけなのだ。大久保家の侍衆では、もし、見つかった時にぐあいがわるい。で、おまえなら、なあに、どこの小僧がいたずらをしたかですむ。それに、二十一日のあいだにやりさえすればいいんだから、立派に一つうち止めてこい。もし、なまけぐせをだしおって、やり損じなどした時には、それこそ、この卜斎より石見守さまがその細首をつけてはおくまいぞ」
すこしあとの文句がすごいな――と蛾次郎は思ったが、卜斎はそういいのこすと、かれをおきのこしてそこをかけだし、石見守の行列へついていった。
「なんだ、ぞうさはねえや」
蛾次郎は、短銃をふところへしまいこんだ。なかで、なにかカチャリといったので、さぐってみると肌身はなさない秘蔵の水独楽だ。
「じゃまだな」
と、また短銃をだして、手拭にクルクルとくるんだ。そいつを、ボロ鞘の刀と一しょに腰へさして、大小を差したように気取りながら、
「オイ、亭主さん、おつりをくんな」
と、もらったばかりの銀銭を餅屋の台へほうりだした。
そのつり銭を巾着にいれて、そとへ飛びだそうとすると出合いがしらに、カアーンという鉦の音が不意に鳴ったので、
「あ。びッくりした」
と、よこを見た。
七、八軒さきの横町から、地蔵行者の菊村宮内が、れいの地蔵尊の笈摺を背負って、こっちへ向かってくるのが見える。
「こいつはいけねえや、竹生島のおやじに会うと、またなにか、小やかましいお説教を聞かされるにちがいない」
こうつぶやいて、かれが、横を向きながら、ぷいと向こうへそれようとすると、おなじ宿場の軒をながしていた坂東巡礼の三十七、八ぐらいな女――わが子をたずねて坂東めぐりをして歩くお時という女房が、
「あッ。あの子! あの子!」
と、目をすえて、よってきた。
いつか、月ノ宮の鳥居の下で見たこともあるが、蛾次郎は、ただの物貰いとしか思わないので、いまの餅屋のおつりのうちから鐚銭を一枚なげて、
「ほれ、やるよ」
と、あとも見ずに、あなたの小道へ、すたこらとかけだしてしまった。
いつのまにか、竹童のすがたが見えなくなった。
伊那丸以下のひとびとは、あのそうどうのあった晩から、御岳の一舎に謹慎して、神前をけがした罪を謝すために、かわるがわる垢離堂の前で水垢離をとった。
それまでのあいだに、竹童の姿が洩れている。
「どこへいったろう? もしや、徳川家の者に、捕らわれていったのではないか」
一同が、ひそかに心配していると、翌朝のこと、垢離堂の石井戸のそばに、竹にはさんだ紙片が立っていた。
マタ鷲ヲサガシニマイリマス。クロハワタシヲコイシガッテイマス。ワタシモクロガコイシクテナリマセン。
民部サマカラ若君ヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス。
民部サマカラ若君ヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス。
置手紙には、竹童の文字で、こう書いてあった。
「かれのことだ。それならあんじることはない」
むしろ、一党の人は、それで愁眉をひらいていた。しかし、愁眉のひらかれぬ気がかりは、ご神罰に刑せられている忍剣の身の上――。
轟々と空に風の鳴る夜、シトシトと肌さむい小雨が杉山に降りてくる朝、だれもがきっとかれの身を考えた。
「ああ、どうしているだろう、忍剣は」――と。
だが、いくらどうあんじたところで、ここ二十一日間は、そのようすを見ることもできない。また、かれをすくう方法もぜったいにない。
忍剣はいま、神刑に梟けられているのだ。
二十一日間のおそろしい神刑。
そこは、御岳の神殿から、まだ二里半もある深山の絶顛に近いところ。
山は冠ヶ岳とよぶ。
急峻で、大樹と岩層が、天工の奇をきわめているから、岳中自然と瀑布や渓流がおおい。あるところは、右にも滝、左にも滝、そして、渓流の瀞に朽ちたおれている腐木の上を、貂や、むささびや、りすなどが、山葡萄をあらそっているのを昼でも見る。
御岳の神領であるから、斧をいれる杣もなかった。そこに、ご神刑の千年山毛欅とよぶ大木があった。
おそろしく太い山毛欅だ。幾抱えあるかわからないような老木だ。まるで、青羅紗の服でもきているように、一面に厚ぼったい苔がついていた。
どこまで高いかとあおむいてみると、四方の樹林をつきぬいて、奇怪な枝をはっている。白い霧がきたときは、その木の半分以上は、まさに雲表に立っている。
「血をみるなかれ」の誓文をやぶった科で、加賀見忍剣はその神刑の山毛欅の高い上にしばられていた。
足はわずかに木のこぶにささえ、からだは注連縄で巻かれたまま、礫のように木の幹へしばりつけられた。目はもちろん、白い布で、かくされていてかえってよいかも知れなかった。十数丈の樹上から目をひらけば、甲斐、秩父、上毛の平野、関八州、雲の上から見る気がして、目がくらむかもわからない。
が、忍剣である。快川和尚の三十棒で鍛えあげられたかれである。目をひらけば、絶景! と叫ぶだろう。それくらいな胆気はある、きっと、それくらいな胆はすわっている。
しかし、いくら大胆な忍剣でも、この深岳の霧にふかれて、二十一日間も飲まず食わずで、そのままそうしておられるであろうか。心は禅に入って、耐えるとしても、人間の肉体がもつだろうか。
大雨がふる日もある。暴風が幹をゆすぶる晩もある。雷鳴や雷気が山を裂くような場合もあるにちがいない。
ことに寒い! まだ麓のもみじは浅いが、このへんの冷気は、身にしみるほどではないか。
また、その山毛欅が枝をはっている下をのぞくと、気のちぢむような断崖だ。幅はせまいが、嵐弦の滝とよぶ百尺ほどの水がドウッと落下している。もし、二十一日の間に、風雨にあって、山毛欅の枝がおれたらどうだろう。かれのからだをささえている縄がすり切れたらどうなるだろう。
そうだ、すべてのことが、忍剣の生命を、髪の毛一すじで持たしてあるのだ。それが神刑なのだ。
まんがいち、二十一日目に神官がきてみて、細い息でもかよっていれば、神に謝罪がかなったものとして、罪をゆるされて手当をする、しかしここ四、五十年のあいだに、ご神木の山毛欅に梟けられたもので、助かった者はないということだ。
――すると、三日、四日、五日とすぎて、ちょうど八日目のこと。
千年山毛欅の枝から枝を、ひらり、ひらり、ひらり、とよじのぼっていったものがある。
見るまに、十数丈のたかい樹上にのぼった。そして、忍剣のそばの枝に取ッついた。
おかしいことには、なにか、忍剣の耳へはなしかけているふうに見える。だが、それは一匹の猿なのである。猿が話しかけるのはすこしへんだ。忍剣には、あの三太郎猿にも知己がないはずであった。
目隠しをされているので、忍剣はそばへきた者を見ることができない。
それをからかいにきた山猿か? 山猿のいたずらか? いやそうでもない、やはり、猿が忍剣にささやくのであった。
「忍剣さま、さだめし、おひもじいことでしょう。早くこようと思いましたが、この山には道がありません。一つの小道には神官の見張小屋が建っています、それでおそくなりました。なにしろ二十一日間、ものを食べないでは夜の寒気や雨の日に耐えきれません。さ、これを食べてください、よくかんでのんでください、あとで水を持ってまいりますから」
忍剣の口へ、ふしぎな味のするものを入れた――木の実でもない、穀物でもない、菓子でもない、餅でもない。
しかし、その味のいいことは、なんともいえないほどだ。忍剣は、まだかつて、こんな味のいいものを食べたことがなかった。
「おまえはだれだ」
「いまにわかります」
「でも」
「不安なものではありませんから」
「いまのはなんだ」
「なんということもありません。この山に生えている、葡萄、苔桃、若老、しゃくなげの芽、それに栗だの柿だの、仙人草の根だの、いろんなものをすこしの焼米と搗き交ぜたのでございます。一日に、これ一つ食べれば、体も、あたたかく、けっして、飢えるようなことはありません」
「危険をおかして、どうしておまえは、そんなものをわしに運んでくれるのか」
こうきいた時には、もう下へ降りていた。忍剣には、それが見えない。
翌日、小雨が降った。
なにか木の葉でつくった蓑のようなものが、彼のからだに着せられた。その時から、忍剣がなにをきいても、猿は返辞をしなかった。
そして、おなじ味の食物が、毎朝、一片ずつ木の上へはこばれてゆくこともかわらなかった。
昨日も今日も、山は天気つづきである。
空の青さといッたらない。樹林の梢をすいて見える清澄な秋の空の青さ――
うつくしい朝陽の光線が、ほそい梢から、木の根の苔から、滝壺の底の水の底まで少しずつゆきわたっている。鵯、文鳥、駒鳥、遊仙鳥、そんな小禽が、紅葉を蹴ちらして歌いあった。朝きげんのいい栗鼠、はしゃぎ者のむささび、雨ぎらいの貂、などが尻ッ尾を振りながら餌をあさりに出だした。そこらに山葡萄は腐るほどなっている。栗の実はいたるところに割れている。プーンと醗酵している花梨の実、熟れた柿は岩のあいだに落ちて、あまい酒になっている。鳥も吸え、栗鼠ものめ、蜂もはこべと――。
今朝のここは楽園だ。
神木の上に梟けられている忍剣をのぞいては、すべての生物に、天国そのままな秋の朝だ。
ところへ――。
無心な禽獣をおどろかす人間の口笛が、下のほうからきこえてきた。
これも、ほがらかな秋を謳歌する人間か、きいていても筋肉がピクピクしてきそうな口笛だ。健康な両足で、軽快な歩調で、やってくるのがわかるような口笛だ。
「ああ、ずいぶん登らせやがるな。まだかい! ご神刑の山毛欅ッていうのは」
だれもいないと思って、思うさま太ッかい声でひとりごとをいった。――それは、泣き虫の蛾次郎だった。
喉がかわいているとみえて、蛾次郎はそこで一息つくと、岩層のあいだから滴々と落ちている清水へ顔をさかさまにして、口をあいた。
「オオ、つめたい!」
袖で口を横にふいて、また数十歩のぼりだした。
すると、かれのまえに、裾野の樹海でも見たこともないような、山毛欅の喬木が天を魔して立っていた。蛾次郎はそう思った。まるでばけものみたいな大きな木だなアと。
「おや?」
見ると、その千年山毛欅の根ッこに、石橋山で頼朝が身をかくしたような洞穴がある。そのまッ暗な洞穴のなかで、なにか、コトリと音がした。コトコトとかすかにきこえたものがあった。
「啄木鳥かしら? それとも、狐かな?」
足をすくめて考えた。が――音はそれっきり止んでしまった。
しかし、そこでなにげなく、ヒョイと樹上を見あげたせつなに、かれは目の玉をグルグルとさせて、
「ウーム、これだ、これだ! この樹にちげエねえ」
と、うなってしまった。
数歩、うしろへとびのいて、帯のあいだに差しこんできた銀鋲の短銃を右手につかんだ。
「はアん……おるわエ」
手をかざして樹上をあおぐと、たしかに、神刑にかかっている忍剣のすがたが小さく目にとまった。
そこで蛾次郎は、大久保長安から卜斎につたえられた秘命を思いだして、うなずいた。
「親方がいったのはこいつだな、これを撃ちとめてこいといういいつけか。なアんだ、こんなものなら朝飯まえにただ一発だ。それで、おいらの出世となりゃ、ありがた山のほととぎすさ」
火縄の支度をしはじめた。
「できたぞ」
岩のかげへ身をくっして片足をおって、短銃の筒先をキッとかまえた。
じッと、ねらいをつける……忍剣のすがたへ。
忍剣は身の危険を知るよしもなかった。おそらくかれは、故快川和尚の最期のことば――心頭を滅却すれば火もまた涼し――の禅機をあじわって、二十一日の刑をけっして長いとも思っておるまい。
ねらいは定まッた。
火縄の火がチリチリと散ったせつなに、蛾次郎の指さきは、すでに、短銃の引金を引こうとした。
とたんだった。
「わッ」
と、蛾次は短銃をおッぽりだして、自分の顔をおさえてしまった。そして、ベッ……と顔をしかめながら突ッ立った。
なにやら、甘酸ッぱいものが、かれの顔じゅうにコビリついて、ふいてもふいてもしまつがつかない。
――どこから飛んできたものだろうか、熟柿のすえたのが、顔の真ン中で、グシャッとつぶれた。
柿の目つぶし!
「ちくしょう、猿のいたずらだな」
と蛾次郎は、いまいましく思ったが、まごまごしていると火縄の火がきえる。
かれは、またあわてて短銃を取りなおした。
そして、
「こんどこそは!」
と、立ちがまえにねらいをすまして、ズドンと火ぶたを切ってはなそうとしたが、その一せつな、山毛欅の洞穴から跳びだしたひとりの怪人が、電火のごときすばやさで、かれの胸板を敢然とついてきた。
不意をくッて、
「あッ――」
と、よろめいた蛾次は、むちゅうで、相手のえりがみをつかむ。
かれの手がつかんだのは、やわらかい獣の毛だった。怪人は猿の毛皮をかぶっていた。
「てめえだな、いまのしわざはッ」
かれは、短銃を逆手にして、三つ四つ、毛皮の上からなぐりつけた。
相手はビクとも感じない。グングンと自分の喉をしめつけてきた。蛾次は内心、こいつは強いぞとおどろいた。
「この野郎、うっかりしちゃあいられるもンか」
猛然と勇を鼓して、じゃまになる喉の腕をふりほどいた。
ピシャリと、敵の平手が、すぐに蛾次郎の頬ペタを張りつけたが、蛾次もまた、足をあげてさきの脛を蹴とばした。
精いッぱいな弾力を交換して、ふたりはうしろへよろけあった。
そのはずみに、相手のかぶっていた獣の皮が、勢いよく、蛾次郎の手に引きはがれたので、
「あッ、てめえかッ」
と、かれははじめて、相手の全姿をみてぎょうてんした。
「やッ。てめえは、竹童だな」
と、蛾次郎はひるみをもった声でさけんだ。
かれが、こうぎょうてんしたせつなに、猿の毛皮であたまから身をかくしていた鞍馬の竹童は、
「オオ」
と、その全姿をあらわすとともに、とびついて、蛾次郎の手にある短銃をもぎとろうとした。
いったん、よろけ合った二つのからだは、闘鶏師にケシかけられた猛禽のように、また、肩と肩を咬みあって、組んずほぐれつの争いをおこした。
この間うちから、千年山毛欅の洞穴の中にかくれて、毎朝、喬木の上によじあがり神刑にかけられている忍剣の口へ、食餌をはこんでいた猿と見えたのは、まったく、竹童なのであった。一党のうちでも長兄のようにしたっている忍剣が、むごい神縄にかけられて山へ送りやられた時から、この洞穴にしのびこんでいた。
そうして、忍剣と苦をともにしながら、忍剣のいのちを守っていたかれである。なんで、敵方の旨をふくんで忍剣を殺そうとしてきた蛾次郎に、むざと奇功をあげさせるものではない。――ぼつぜんと怒りを発した竹童はあい手が、樹上の忍剣へ、狙撃の引金をひこうとするすきへむかって、かんぜんとおどりかかってきたのである。
しかもそれが、蛾次郎であるとわかったので、かれはもうきょうこそこの天邪鬼を、だんじて、生かしておくことではないぞと怒った。蛾次郎もまた、だいじな出世のいとぐちをつかもうとする矢さきへ、またぞろ竹童がじゃまをしにでたので、目的をはたすまえに、かれの息のねをとめてしまわなければならぬと、すごい勢いで応酬していった。
まったく人まぜをせぬ格闘がつづいた。
上になり下にころげして、たがいに致命的な急所をおさえつけようとしているうちに、蛾次郎は竹童のからだへ足業をかけて、その手もとをぬけるや否、パッとかけはなれて、
「くるかッ」
と、短銃の筒さきを竹童にむけた。
「なにを」
竹童の目にはなにもののおそれもなかった。
蛾次郎はあわてた。かれの狡獪なそら脅しは効果がなかった。火縄はいまの格闘でふみけされてしまったので、筒口をむけてもにわかの役には立たないのである。
で、蛾次郎の立場は悪くなった。
彼はひどくろうばいして、いきなり短銃を相手の顔へ投げつけ、ばらばらと逃げだした。
それを肩のそとにこさして、一躍すると、竹童の手には、優越をしめす般若丸のひらめきが持たれている。
彼は、逃げだした相手をおいかけて、
「ひきょうだぞ。――ひきょうだぞ、蛾次郎」
と、叫んでとぶ。
さんざん逃げまわった蛾次郎は、ついに、とんでもない危地に自分からかけこんでしまった。そこは、嵐弦の滝の崖ッぷちで、あきらかなゆきどまりである。
彼は、目がくらんでしまった。
ただそこに大きな楢の木があって、断崖の空間にのぞんで屈曲していた。バリバリというと蛾次郎は、幹をはってその横枝へうつっていた。
しかし、そこもホッとする安全地帯にはならない。すぐ血眼になった竹童が、おなじ幹をよじのぼって、般若丸の刀で楢の小枝をはらいながら、ジリジリとせまってきた。
追いつめられた手長猿のように、蛾次郎のほうは、だんだん危険な枝へはいうつって、いくら竹童でも、もうここまではこられまいと安心していたが、ふいに、竹童の体重がおなじ枝へのしかかったとたんに――生木の股に虫蝕折れでもしかけていたのだろうか、ボキッと、あまりにもろい音がした。
かなり大きな枝であった。それが、ふたりの体とともに、ザーッとふかい樹間の空をおちていった。あッというまさえなく、すべては一しゅんのまに、思いきッた解決をとげた。
やがて、嵐弦の滝の深湍に、白い水のおどりあがったのが見えた。そして、しばらくは消えぬ泡沫の上へ、落葉樹の黄色い葉や楢の実がバラバラと降ってやまなかった。
山はまたもとの静寂にかえって、坩堝をでたような陽が、樹林の上の秋の自然をかがやき照らした。
ほどなくまた――そこへふたりの旅人が仲よく話しながらのぼってきた。ひとりは年配な女で、坂東三十三ヵ所を巡礼して歩くものらしく、ひとりは天蓋のついた笈を背負っている。
「山の道というものは、まようたらさいげんがない。もうこうなっては急がないことだ、そのうちにはだれか山家のものにゆきあうであろう。……だが、お時さん、女の足ではさだめしおつかれなすッたろうな」
「いいえ、すこしも」
「急いてはいけませんよ。息を平調にもっておあるきなさいよ。道にまよった時はなおのこと、山は気を落ちつけて歩くにかぎります」
地蔵行者の菊村宮内と、坂東巡礼のお時とであった。ほんの旅先の道づれであるが、ふたりの仲のよいことは、おなじ家にすむ家族といえどもない美しさだった。
お時は宮内の身のまわりのこまかい世話を見、宮内はつねにお時の心ぼそい旅をはげまして、どうかしてこの女房のたずねている、まことの子供をさがしあててやりたいと祈っている。
あらためていうまでもなく、ここは御岳のお止山で、足踏みのならないところだのに、ふたりはその禁制を気づかずに、どこの山境から迷いこんできたのであろう。
と、宮内は腰をかがめて、なにかふしんそうな顔をしながらひろいとった。
「こんなところに、南蛮わたりの短銃がおちている……」
「宮内さま、まだこのへんに、草履だの、紙だのいろいろなものが落ちておりますよ」
「なるほど」
「だれの持物なんだろう?」
お時は、草履の小さいのが気にかかった。
「どれ、どれ」
宮内はそこに笈をおろして、踏み散らしてある落葉のあとをたどっていった。そして、例の楢の木の断崖から深いところの水面をのぞいてみて、
「オオ、お時さん、大へんだ、大へんだ、だれか山家の子らしい者が水に浮いている」
「えッ、子供が」
こういう場合にかぎらず、子供ときくと、すぐ顔色を変えるのがお時のくせになっていた。
「あのようすでは、まだ水へはまってから、いくらも時がたっていない。わしは、ここから藤づるにすがって、ふたりの子を助けてくるから、お時さんは、わしが帰るまで、この楢の木のそばをはなれてはなりませんぞ」
どうして、この絶壁を下りるかと見ていると、宮内は、さすがに根が武士だけに、いざとなると、おそろしいほど胆気がすわっている。かれは、あけびや藤の蔓をたぐって、またたくまにすべり降りた。
とちゅうまでさがってゆくと、なにか足がかりがあったのであろう、かれの姿は、忽然と、木の葉のなかにかくれた。――と思うとまた、滝の水沫がたちこめている岩層の淵にそって、水面を注意しながらかける宮内の小さい影が見いだされた。
どこか上品で、ものごしのしずかな旅の侍が、森閑としている御岳の社家の玄関にたって、取次ぎを介してこう申し入れた。
「当社の神主、長谷川右近どのにお目にかかりたく参じました。――じぶんは、京都菊亭公の雑掌、園部一学というものです」
わかい神官たちを相手に、奥で笙をふいていた長谷川右近は、
「はてな、菊亭右大臣家から、なんのお使いであろう」
ふしんに思ったが、倉皇と客間へとおした。そこで、会ってみた一学という人は、なるほど、温雅で京風なよそおいをした、りっぱな人物であった。
「さっそくにうかがいまするが」
「は。ご用向きは?」
主客とも、心もち膝をよせ合った。
「ほかでもございませぬが、さきごろ、当社の広前で行われました兵法大講会のみぎり、信玄公のお孫、武田伊那丸さまとそのほかの浪人衆が、おしのびにて見物に入りまじっていた由を里のうわさに聞きましたが、その後のおゆくえをごぞんじなさいますまいか。――信玄公のご在世まで、代々武田家より社領のご寄進もあったこの山のことゆえ、もしや、ご承知もあろうかと、おうかがいにでましたしだいで」
そう聞くと、神主の長谷川右近は、初耳のように目をみはって、
「ほ。ではあの時、信玄公のお孫、伊那丸さまがご見物のなかにおられましたか」
と、あべこべに園部一学へ質問した。
「では、ご承知ないので?」
「いや、ただいまが初耳、それと知っておりましたら、もとのご縁故も浅からぬこと、ぜひおひきとめ申すのであったに」
「それでは、おゆくえもわかりますまいな」
「さらに承知いたしませぬが。……その伊那丸さまのお年ごろは」
「天目山にて、お父上とともにお果てあそばした太郎信勝さまよりお一つ下――本年お十六歳にわたらせられる」
「して、お付人は?」
「いずれも、わざと姿をかえておりますが、小幡民部はかたがたしい武芸者風、巽小文治と申すはもと浜名湖の船夫の子とかにて目じるしには常に朱柄の槍をたずさえております。また浪人風の山県蔦之助、六部姿の龍太郎、わけても恵林寺の弟子僧加賀見忍剣と申すものは、武田家滅亡いらい、寸時もおそばを離れることなくおつきそい申しておる忠節な男……」
話しているうちに神主長谷川右近の顔が、発作的な病気でもおこしたように、ワナワナと唇をふるわせて、まったく土気色になってしまった。――と急に座をたって、
「しばらくの間、中座ごめんを」
足も畳につかぬようすで、奥の座敷へかくれこんだ。
とりのこされた一学は、なにか、急病で不快でも起したのかと思っていたが、それから、待てどくらせど、神主の返辞もなければ神官たちの応接もない。
一方、神主の右近は、目もくらむばかりの驚き方であった。一学の話によれば、さきごろ、ご神縄にかけて山毛欅の上にしばりつけた怪僧は加賀見忍剣であり、同時に、それいらい、垢離堂の板の間に二十一日間の謹慎をまもっている人々こそまさしく信玄公のお孫、伊那丸君であり、おつきの人々であると気がついたからである。御岳の人々は、それが武田家の御曹子とは、まったく知らずにご神縄をくだしたのであったらしい。神官たちはにわかに凝議して、その善後策に沈鬱な空気をつくった。
「夢にも知らぬご無礼、ふかくおわびをしたら、おとがめもあるまい。このうえは、いっこくもはやく、あの垢離堂から社家へおうつし申しあげ、また、付人の忍剣とやらの神縛もといて謝罪するよりほかに手段はなかろう」
いつまで応接のないのはそのためであった。
神官たちが垢離堂へ迎えに立ったあとで、右近はやっと一学のまえへでてきた。そして、あからさまに事情をのべて謝罪のとりなしをたのむのだった。
「ほ。それでは、若君は当社においで遊ばしましたのか」
「武田家からは、世々、あつき社領をたまわり、亡家ののちも、けっしておろそかには思いませぬものを、なんとも面目ない大失態」
「いや、まったく知らずにしたことなれば、寛大な若君、おとがめはありますまい。なんにしても、ここでお目にかかることができれば、自分もはるばるの使いとしてきてなによりの僥倖です」
間もなく、清掃した社家の客殿へ、錦繍のしとねがおかれた。
垢離場の板敷にワラの円座をしいて、数日つつしんでいた人々は、いちやくあたたかい部屋とうやうやしいもてなしに迎えられてきた。
一党の人々は、神官たちが平あやまりにあやまる事情をきいて、一場の滑稽事のように笑っていった。
また伊那丸も、それをとがめるどころではなく、自分の手飼いの者が神庭をけがしたのであるから、主たる自分の謹慎するのはとうぜんであって、まだ二十一日にみたないうちにゆるしを賜うのは、神に対してむしろ心苦しいとさえいうのであった。
で、御岳の神官たちは、ホッとした。
「ときに、若君をたずねて、はるばる都からまいられたお方がござります」
右近はおそるおそる、菊亭家の使いの由を伊那丸にとりついだ。
「通せ」
こういってやると、おりかえしての返辞が、
「ひそかなご用件とやらで、清浄な、神殿において、若君とただふたりだけでお目にかかりたいと申しますが」
という腑に落ちないことばである。
民部も龍太郎も、一党の人々は、見しらぬ旅の侍に油断はならないとたぶんな懐疑をもった。
伊那丸はかんがえて、
「したが、かりそめにも、菊亭右大臣家はわしの伯母さまのご縁づきなされた家がら、おうたがい申してはすまぬことだ。わしひとりで神殿においてその者に会いましょう」
と、ふたたび右近を介して、その旨をいいやった。
冷気のこもったうすぐらい拝殿に、二つの円座が設けられた。伊那丸と園部一学がそこに対座したとき、杉戸のそとには、木隠龍太郎や蔦之助や小文治などが、大刀をつかんで、よそながら主君の身を守っている気ぶりであった。
が――伊那丸は、京都からきたという一学をみると、すぐに、かれがあやしげな者でないことを信じた。
「若君はもうお忘れでございましょうが、去年、お父上の勝頼さまに似た僧侶をおしたいなされて菊亭家へお越しあそばしたことを」
「オオ」
「そのおり、よそながら一学は、おすがたを拝しておりましたが、わずか一年のうちに、見ちがえるばかりなご成長……」
そういって畏るおそる伊那丸を見上げながら、
「右大臣家において、常に、おうわさ申しあげております」
「菊亭晴季公にも、いつも、お変りなくお暮らしであるか」
「世は戦塵濛々、九重の奥もなんとなくあわただしく、日ごとご君側の奉仕に、少しのおひまもないていにお見うけ申しまする」
「それは祝着である。そして、とくにそちがわしを尋ねてきた用向きとはなんであるな」
「右大臣家へのご托使にござります」
「托使? ……では晴季公よりのご用でもないのか」
「さればです!」
と、一学はさらにパッと威儀をあらためて、
「お嗽口を」
と目じらせをして立った。
ただごとではない――と伊那丸もすぐに席を立った。
そして、清水をくんで手洗、嗽口をすまし、あらためて席へもどってくる。
一学もおなじようにすすぎをおえ、神殿の龕にみ灯をともした。ふとみると、そこに禁裡のみ印のある状筥がうやうやしく三ぼうの上にのせられてある。
「はッ」
と、伊那丸は衝たれたように平伏した。
「密勅です」
一学の声は、低いが、おごそかである。
伊那丸は夢かと思った。国なく、家なく、武力もない自分になんの密勅であろうか。
かれは五体のおののくようにおそれ多さを感じた。
べつに一学に托せられてきた菊亭晴季の書状からさきに黙読した。
菊亭家と武田家とは、ふかい血縁のある家すじである。その晴季からなんの便りであろうかという点も、伊那丸には、胸おどろしく感じられる。
読みくだしてゆくうちに、伊那丸の目はいっぱいな涙になった。義憤と悔恨の血が交互に頬を熱くした。
伊那丸よ――
菊亭晴季の文はこう書きだしてある。さらにその文意をくだいてここにしるせば、こういう愛国的な長文であった。
伊那丸よ。
都でも近ごろはそなたのうわさをしばしば耳にする。勇ましいことである。けなげなことである。そなたは、貧しくとも、信玄公の名をはずかしめない。
わしは、かげながらよろこんでおる。
だが、そなたはも早や、元服の若者である。一人前の武士となるべきだ。いつまで小さな私怨にとらわれているばかりが真の武士でもなかろう。眼をひろい世の中にみひらいてたもれ。
この一年有半の歳月に、そなたはいまの世相をよくながめ得たであろう。どうであった戦国の浮世は。わけても百姓町人――いやそれよりもっと貧しい民たちの苦しみはどうであろう。
また、あるいはそなたも知らぬであろうが、畏れ多いことながら、いまの御所のお模様は、その貧しい人々よりもまさるものがある。いや、おんみずからのご不自由よりも、戦乱のちまたに飢えひしがれている民のうえにご宸念を休ませられたことがない。
わしは、朝暮に、御座ちかく奉仕しているので、まのあたりにそのおんなやみをみて、涙のたえぬくらいである。畏れ多いおうわさであるが、御所の御簾はほつれて秋風のふせぎもなく、供御のものにさえことかく事がめずらしくない。
それだになお、君は民草の塗炭にお心さえ休まったことがない。なんと浅ましい戦乱のすがたではないか。
なぜいまの世がこんなに悪いのか。それを、そなたにいうのは孟子に法を説くようなものだが、武家の罪である、群雄割拠して領土と領土のあばきあいの他、なにごとも忘れている兵家の罪でなければならぬ。
秀吉、家康をはじめ、加賀の前田、毛利、伊達、上杉、北条、長曾我部、みなそれぞれ名器の武将であるけれど、かれらはじぶんの功をいそぐ以外に、上も下も、なにものもかえりみているゆとりがない。天下統一の先駆けにあせって、戦って勝つという信条の下には、どんな犠牲も惜しまない。
これでは民草も枯れるわけである。お上のご宸念のたえない道理である。気をわるくするかもしれないが、そなたの祖父信玄ほどの人物も、そのひとりだといわなければならない。
伊那丸よ。そなたもその仲間にまじって、領土をあらそう武門で終りたいか。わたしは、そなたを見こんで、願いがある。よく考えてたもれ、大事な秋だ。
そなたが、うしなった甲斐の領土の甲斐源氏の家を再興したいという願望は、まさしく孝である、正義である、男子のなすべき事業である。だが、考えてたもれ、今は天下大事な秋である。
いまこそは何人でもあれ、自我の名利をすて、世のため、あわれな民衆のために、野心の群雄とならず、領土慾に割拠しない、まことの武士があらわれなければならない秋だ。まことの人がこの麻のごとく乱れた世を少しでも助けなければならない秋だ。
聡明なるそなたにこれ以上の多言は要すまいと思う。切に、そなたの反省をたのむ。そしてそなたが祖父機山より以上な武士の業をとげんことを祈る。秀吉、家康の上に出ずるところに刮眼することを祈る。
また、かくいうも、このことばは自分ひとりの言ばかりではない。ある夜、高野をひそかに下られた某とよぶ御僧のすすめもあるのである。また、折ふし訪れた白髯の高士の意見もここに加わっているのである。その高野の僧の名は明かしがたいが、高士の名はあかしてもよい。それは、鞍馬の隠士僧正谷の果心居士である。
都でも近ごろはそなたのうわさをしばしば耳にする。勇ましいことである。けなげなことである。そなたは、貧しくとも、信玄公の名をはずかしめない。
わしは、かげながらよろこんでおる。
だが、そなたはも早や、元服の若者である。一人前の武士となるべきだ。いつまで小さな私怨にとらわれているばかりが真の武士でもなかろう。眼をひろい世の中にみひらいてたもれ。
この一年有半の歳月に、そなたはいまの世相をよくながめ得たであろう。どうであった戦国の浮世は。わけても百姓町人――いやそれよりもっと貧しい民たちの苦しみはどうであろう。
また、あるいはそなたも知らぬであろうが、畏れ多いことながら、いまの御所のお模様は、その貧しい人々よりもまさるものがある。いや、おんみずからのご不自由よりも、戦乱のちまたに飢えひしがれている民のうえにご宸念を休ませられたことがない。
わしは、朝暮に、御座ちかく奉仕しているので、まのあたりにそのおんなやみをみて、涙のたえぬくらいである。畏れ多いおうわさであるが、御所の御簾はほつれて秋風のふせぎもなく、供御のものにさえことかく事がめずらしくない。
それだになお、君は民草の塗炭にお心さえ休まったことがない。なんと浅ましい戦乱のすがたではないか。
なぜいまの世がこんなに悪いのか。それを、そなたにいうのは孟子に法を説くようなものだが、武家の罪である、群雄割拠して領土と領土のあばきあいの他、なにごとも忘れている兵家の罪でなければならぬ。
秀吉、家康をはじめ、加賀の前田、毛利、伊達、上杉、北条、長曾我部、みなそれぞれ名器の武将であるけれど、かれらはじぶんの功をいそぐ以外に、上も下も、なにものもかえりみているゆとりがない。天下統一の先駆けにあせって、戦って勝つという信条の下には、どんな犠牲も惜しまない。
これでは民草も枯れるわけである。お上のご宸念のたえない道理である。気をわるくするかもしれないが、そなたの祖父信玄ほどの人物も、そのひとりだといわなければならない。
伊那丸よ。そなたもその仲間にまじって、領土をあらそう武門で終りたいか。わたしは、そなたを見こんで、願いがある。よく考えてたもれ、大事な秋だ。
そなたが、うしなった甲斐の領土の甲斐源氏の家を再興したいという願望は、まさしく孝である、正義である、男子のなすべき事業である。だが、考えてたもれ、今は天下大事な秋である。
いまこそは何人でもあれ、自我の名利をすて、世のため、あわれな民衆のために、野心の群雄とならず、領土慾に割拠しない、まことの武士があらわれなければならない秋だ。まことの人がこの麻のごとく乱れた世を少しでも助けなければならない秋だ。
聡明なるそなたにこれ以上の多言は要すまいと思う。切に、そなたの反省をたのむ。そしてそなたが祖父機山より以上な武士の業をとげんことを祈る。秀吉、家康の上に出ずるところに刮眼することを祈る。
また、かくいうも、このことばは自分ひとりの言ばかりではない。ある夜、高野をひそかに下られた某とよぶ御僧のすすめもあるのである。また、折ふし訪れた白髯の高士の意見もここに加わっているのである。その高野の僧の名は明かしがたいが、高士の名はあかしてもよい。それは、鞍馬の隠士僧正谷の果心居士である。
文はこれでおわっている。
伊那丸は狭い暗黒から暁天へみちびかれて、自分の真にゆくべき道を教えられたような心地がした。
お時は、楢の木の幹につかまりながら、ふかい絶壁の下を、こわごわのぞいていた。
(どこの子供か知らないが、どうか、助かってくれればいい)
彼女は、じぶんの身の上にひきくらべて、そう祈らずにはいられなかった。
下を見ると、目がまわりそうなので、あまり崖っぷちには進みえないで、救いにいった宮内のようすも、仔細に見ていることはできないが、ときどき木の葉のすきまから、かれの活動が遠望された。
「オオ、水からあげたような……」
お時の顔に、わがことのようなよろこびの笑くぼがのぼった。すると、とつぜんに、
「これッ。――どこからこの山へはいりこんだ」
お時は、だれか力のある腕ぷしで、そこからうしろへ引きもどされた。
「あッ……」
彼女はふるえ上がって、大地へ平蜘蛛のように手をついた。
そこには、御岳の神官らしい人々が、山支度をして立っていた。
「ここは、許しがなくてはのぼれぬ、お止山ということを知らんか」
「ち……ちッとも、ぞんじませんで、道にまよってきてしもうたのでござります」
「見れば、質朴そうな坂東巡りの者、道にまよってきたものならば、深くはとがめないが、一応吟味の上でなくては放してやるわけにはゆかない。しばらくそこでひかえていろ」
こういうと、若い神官たちは、べつになにかいそぐ目的があるらしく、ばらばらと千年山毛欅の根もとへかけあつまった。
三人ほどの者が、袖をからげて山毛欅の上へよじのぼっていった。そして、ご神刑にかかっている、忍剣のいましめを解き、抱くようにして下ろしてきた。
さだめし、疲れているだろうと思ったところが、案に相違して、忍剣はすこしも衰えていなかった。それもそのはずなのであるが、神官は理由を知らないので、いよいよふしぎな怪僧であると、舌をまいておどろいた。
「まだ、二十一日には満つまいに」
と、忍剣は、きょうの赦免が、夢のようであるらしい。
が、事情をきいて、心から欣ばしそうな色が、さすがに、その面を生々とさせた。
一足おくれて、御岳の奥の院からここへ越えてきた人々があった。それは、神主の長谷川右近を道案内として忍剣健在なりや否や――と一刻をあらそって、迎えに見えた一党の朋友たちである。
そのなかに、伊那丸のすがたを見出したので、忍剣は、思いやりの深い主君の心がわかって、無言のうちに涙がうかんだ。
かれの健在を祝福しあうと、人々はすぐに、
「忍剣、すぐに京都へいそぐのだぞ」
と、活気づけるようにいった。
「えッ、都へ」
「くわしいことは、あとで若君からお話があろうが、きょうからわれわれは、甲州土着の武士という心を捨てることになったのだ」
「なぜ?」
明らかに不平が、かれの顔色にうごいた。
が、一党の友の顔は、みな、いつもにも増して晴れやかに見えた。
「甲州武士などというせまい気持をすてて、まことの神州武士となるのだからいいじゃないか。われらの愛国は甲斐ではなくなった。日本だ。かがやきのある神州扶桑の国だ」
「そして?」
忍剣には、友のことばが不意にきこえた。まだじゅうぶんに胸に落ちないらしい。
「あおぐは一天の帝」
「それは、だれにしてもそうではないか。いまさらこと改めていうことはないだろう」
「いや、戦国の武将たちは、みんなそれを忘れている。もうひとつ忘れていることがある。それは貧しい下々の民だ。われらの味方するのはその人たちだ」
「どうしてにわかに京都へのぼることになったのか」
「菊亭右大臣さまのおはからいで、畏れ多くも、あるご内意がくだったのだ」
「えッ、若君へ」
「しかし、それはきわめて秘密なことだ」
「では都から密使が見えられたのか」
「とにかく、若君は、はじめておおらかな正義の天地を自由に馳駆する秋がきたと、非常なおよろこびで、以後は武田残党の名をすてて、われわれ一味の党名も、天馬侠党とよぶことにきまったのだ。きょうは赦免になったきさまもくわえて、天馬侠第一声をここにあげたのだ」
熱血僧忍剣は、だんだんと聞いてゆくうちに、その耳朶を杏桃のように赤くしてきた。王室の御衰微をなげくことと、戦国の馬塵にふみつけられてかえりみられない貧しい者をあわれむ心はつねに、この人々の胸に燃えているところだった。
「じゃ、きょうすぐに、これから都へのぼるのか」
「多少の支度もあるから、きょうというわけにはゆくまいが、いっこくも早く、菊亭右大臣にお会いして、なにかのことをうかがったうえ、密詔のご勅答を申しあげたいという若君のおことばだ」
「なるほど。だが、これだけではまだ天馬侠の侠友がひとりもれているぞ」
「民部どのもおられる、龍太郎、小文治、蔦之助、すべての者がそろっているが……あ、咲耶子か」
「咲耶子もそうだが、竹童が欠けているのではないか」
「オ。その竹童は、また鷲をさがすといって、どこかへひとりで立ち去った」
「いや、うそだ」
と、忍剣はやや興奮的に首をふって、
「おれはきょうまで、こうして、少しも疲れずにいたのは、まったく、かれが苦心惨憺して、朝ごとに食を口にいれてくれたおかげだ。どこかそこらにいるにちがいないからさがしてくれ」
と、大声でいった。
御岳の神官たちはおどろいた。
けれど、伊那丸や党の人々たちは、その話をきいて、なんだか涙ぐましくさえなった。しかし、いくらあたりをたずねても、かれのすがたが見えないので、落胆しているところへ、崖の細道をかきわけて、菊村宮内が、水から助けあげたふたりの少年をつれてあがってきた。
「おっ、いた!」
期せずして、かれの周囲を、一同のものがドッと取りまいた、ただそのようすを、さびしそうにながめていたのは、坂東巡礼のお時であった。
あの楢の枝から落ちて、ふしぎにふたりはかすり傷もなかった。その奇蹟を、地蔵行者の菊村宮内は、竹生島神伝の独楽、火独楽と水独楽をめいめいがふところに持っていた功力であるといって、その由来をつぶさに話した。
本来、蛾次郎は泣いても吠えてもここでその首を、侠党の士にもらわれなければならないのであるが、独楽の由来の話から、いくぶんその情を酌量されて、宮内の命乞いにその首だけはやっとつながった。
そのうちに神官のひとりが、どこからか、ふたりの丈に合いそうな着物をもらってきてくれた。なにしろ、衣服がぬれていては、山を下りるにしても、とちゅうの寒さにたえられない。
「さあ、着るがよい」
裾のみじかい着物と膝行袴が、一枚ずつ公平にわたされた。あのおしゃべりの蛾次郎も、口をきく元気もなく、ただいくつもおじぎをつづけて、ぬれた着物をそれに着かえた。
すると――そのようすを、研ぎすましたような眼ざしで、ジーッと見つめていた巡礼のお時が、とつぜん、気でも狂ったように、
「オオ、おらの子だ! おらの子だ!」
と、おどろく蛾次郎の首根ッこにかじりついて、人まえもなく、ワッと声をあげてうれし泣きに泣きたおれた。
宮内も、がくぜんとそこへ飛びよって、
「お時さん、どうして? どうして?」
人ごととは思えないで問いただした。
「灸がある! 灸がある! これ宮内さま、この子の背なかを見てやってください。いつかわたしが話したように、わしの村でしかすえないお諏訪さまの禁厭灸のあとがある。そのわしの村でも、この背骨の節の四ツ目に、癲癇の灸をすえたのは、おらの子だけでございます」
「じゃ、この蛾次郎が、三つの時に、伊勢詣りのとちゅうで迷子にしたおまえさんの子であったのか」
「それにちがいありません。ああ、親子の血はあらそわれない、やっぱりわしにはなんとなく、虫の知らせがありましたに……」
と、蛾次郎のからだを抱きしめて、あまやかな女親の涙をとめどなく流すのだった。
蛾次郎はただキョトキョトして、お時の手をすこしこばむように尻ごみしていたが、宮内からじゅんじゅんと自分の母であることを話されると、東海道で、鼻かけ卜斎にひろわれたという幼な話を思いだして、
「じゃ、おめえが、ほんとのおれのおッ母さんだったのかい」
と、はじめて、お時の顔を真正面に見つめた。
「オオ、坊や!」
「ワーッ……」
と、そのとたんに、蛾次郎は、一世一代の泣き声をあげてお時のひざにそのきたない顔を、むちゃくちゃにコスリつけていった。
お時もうれし泣きに抱きしめた。
牝牛の乳のように甘い女親の涙のなかに、邪気も、慾も、なにもなく、身をひたりこんだ蛾次郎のすがたを見ていると、だれもかれに少しの憎しみも持てなかった。
竹童ですら、敵意をわすれて、ぼんやりとその情景をながめていた。
だが、かれの親はどこにいる?
竹童は、さびしかろ。
侠党七士の人々が、御岳のすそ、北多摩のふもとから青毛、月毛、黒鹿毛の馬首をならべて、銀のすすきの波をうつ秋の武蔵野を西へさして去ったのは、その翌々日のことであった。
おなじ日に、泣き虫の蛾次郎は、母親のお時に手をひかれて、坂東何番かのお札所へお礼まいりにのぼっていった。
そして、ひと巡りの巡礼をすましたら、ふるさとの村へ帰るだろう。
うららかな秋の陽の下に立って、まぶしそうに見ていた菊村宮内は、消えてゆく七騎のかげと、手をひかれてゆく母と子と、そのどッちを見おくっても、いい気持がした。
そして、かれもまた、カアーン、カアーンと、地蔵菩薩に鉦を手向けながら、すすきを分ける旅人のひとりとなって、いずこともなく歩きだした。