あらすじ
斎藤茂吉が長崎に赴任したのち、様々な出来事や想いを綴った歌集です。赴任先の長崎での生活、友との別れ、病気療養、そして再び長崎へ戻るまでの道のりが、繊細な言葉で描写されています。茂吉の心情や風景が、まるで目の前に広がるかのように鮮やかに浮かび上がってくる、そんな作品です。
目次

大正七年
大正八年


大正七年漫吟


大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て

わが住める家のいらかの白霜(しろじも)を見ずて行かむ日近づきにけり

うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥(おきふ)しにけり

据風呂(すゑふろ)を買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る

東京にのこし来しをさなごの茂太(しげた)もおほきくなりにつらむか

かりずみのねむりは浅くさめしかば外面(とのも)の道に雨(あめ)降(ふ)りをるかな

聖福寺(しやうふくじ)の鐘の音ちかしかさなれる家の甍(いらか)を越えつつ聞こゆ

ゆふぐれて浦上村(うらかみむら)をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ

電灯にむれとべる羽蟻(はあり)おのづから羽(はね)をおとして畳(たたみ)をありく

うなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり

灰いろの海鳥(うみどり)むれし田中(たなか)には朝日のひかりすがしくさせり

とほく来てひとり寂(さび)しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り

陸奥(みちのく)に友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや

われつひに和(のど)に生きざらむとおもへども何(なに)にこのごろ友つぎつぎに死す

おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ

かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ

うつしみはつひに悲しとおもへども迫(せま)り来(く)ひとのいのちの悲しさ

むし暑き家のとのもに降る雨のひびきの鋭(するど)さわれやつかれし

長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり

仮住(かりずみ)の家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ

わが家の石垣(いしがき)に生ふる虎耳草(ゆきのした)その葉かげより蚊は出でにけり

すぢ向ひの家に大工(だいく)の夜為事(よしごと)の長崎訛きくはさびしも

大正七年十一月十一日於斎藤茂吉宅 題「夜」

はやり風(かぜ)をおそれいましめてしぐれ来し浅夜(あさよ)の床に一人寝にけり

大正八年雑詠


奉迎摂政宮殿下歌
 長崎日日新聞所載
豊栄(とよさか)といや新らしくなり成れる国見(くにみ)をせすといでましたまふ

かけまくもあやにかしこし年古(ふ)れる長崎のうみに御艦(みふね)はてたまふ

百千代(ももちよ)と祝(ほ)ぎてとどろく大砲(おほづつ)に応(こた)へとよもす春の群山(むらやま)

み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ港(みなと)の天(あめ)にとほらざらめや
(長崎日日新聞、十首中存四首)
港をよろふ山の若葉(わかば)に光さしあはれ静かなるこのゆく春や

長崎は石だたみ道ヴェネチアの古(ふ)りし小路(こうぢ)のごととこそ聞け

おのづからきこゆる音の清(すが)しさよ春の山よりながれくる水

はりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは痛々(いたいた)しかり

よわよわと幽かなりともはからひの濁(にご)りあらすなわれの世過(よすぎ)に
(長崎日日新聞)
長崎同人小集を土橋青村宅に開く

こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり乱(みだ)れたる心しましなごみぬ

長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを

九月二日
 日ごろ独りゐを寂しむ
白たへのさるすべりの花散りをりて仏(ほとけ)の寺(てら)の日の光はや

中町の天主堂(てんしゆだう)の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし

九月十日
 晧台寺
ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦(をみな)にてすなはち道富丈吉(だうふぢやうきち)生(う)みき

九月十日
 天主堂
浦上天主堂(うらかみてんしゆだう)無元罪(むげんざい)サンタマリアの殿堂(でんだう)あるひは単純に御堂(みだう)とぞいふ

外国よりわたり来れる霊父(れいふ)らも「昼夜勤労(ちうやきんらう)」ここにみまかりぬ

独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人(たうじん)の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ

長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇(せんかうてい)にわれ出入(いでい)りつ

四海楼に陳玉(ちんぎよく)といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来(く)

九月二十五日
 古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂(ジナゴーク)を訪ふ。猶太新年なり
猶太紀元(ユダヤきげん)五千六百八〇年その新年(しんねん)のけふに会(あ)へりき

満州よりここに来れる若者(わかもの)は叫びて泣くも卓(たく)にすがりて

長崎の商人(しやうにん)としてゐる Lessner(レスナー) も Cohn(コーン) も耀(かがや)く法服(ほふふく)を著(き)つ

平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等

阿蘭陀(おらんだ)の商人(あきびと)たちは自らの生業(なりはひ)のためにこれを遺(のこ)しき

あはれなる物語(ものがたり)さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし

われは見つ肥前(ひぜん)平戸(ひらと)の年ふりし神楽(かぐら)の舞(まひ)を海わたり来て

十月
 東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ
巡業に来ゐる出羽嶽(ではがたけ)わが家にチャンポン食ひぬ不足(ふそく)もいはず

十月三十日
 夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く
南蛮絵の渡来も花粉(くわふん)の飛びてくる趣(おもむき)なしていつしかにあり

光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ

この址(あと)にいろいろの樹あり竹林(ちくりん)に冬の蠅の飛ぶ音のする

司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」

江漢(かうかん)が此処に来りて心こめし色をし見なむ雲中観音図(うんちゆうくわんのんづ)

十二月二十八日
 渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ
隠元(いんげん)の八十一歳の筆(ふで)といふ老いし聖(ひじり)の面(おも)しおもほゆ

十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ

四歳(よんさい)の茂太(しげた)をつれて大浦(おおうら)の洋食くひに今宵(こよひ)は来たり

はやり風はげしくなりし長崎の夜寒(よさむ)をわが子外(と)に行かしめず

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰(おとろ)へぬ長崎の年暮れむとす

大正九年


東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく

はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現(うつつ)ともなし

二月某日

 臥床。私立孤児院は我家の向隣なり
朝な朝な正信偈(しやうしんげ)よむ稚児(をさなご)ら親(おや)あらなくにこゑ楽しかり

わが病やうやく癒えて心(こころ)に染(し)む朝の経よむ稚等(をさなら)のこゑ

対岸(たいがん)の造船所(ざうせんじよ)より聞こえくる鉄(てつ)の響(ひびき)は遠(とほ)あらしのごとし

鉄(てつ)を打つ音遠暴風(とほあらし)のごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで

三月一日

 連日勤務す
東京より来(き)にしをさなご夕(ゆふ)ごとに吾(われ)をむかへてこゑを挙(あ)ぐるも

五月四日

 大光寺にて三浦達雄一周忌歌会を催す
長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し蟇(ひき)が鳴けるかな外(そと)の池(いけ)にて

外(と)のもにて魚(うを)が跳ねたり時のまの魚(うを)跳ねし音寂しかりけれ

藤浪の花は長しと君はいふ夜(よる)の色(いろ)いよよ深くなりつつ

君死にしよりまる一年(ひととせ)になるといふ五月(ごぐわつ)はじめに君死にしかも

このみ寺は山ゆゑ夜(よる)のしづかなる林(はやし)の中(なか)に鷺啼きにけり

山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀(みづがね)いろの港見えつも

ここのみ寺より目(ま)したに見ゆる唐寺(たうでら)の門(もん)の甍(いらか)も暮れゆかむとす

大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予

シイボルトを中心(ちゆうしん)とせるのみならずなほ洋学(やうがく)の源(みなもと)とほし

五月二十五日

 ひとり西坂をゆく
西坂(にしざか)を伴天連(ばてれん)不浄(ふじやう)の地(ち)といひて言継(いひつ)ぎにけり悲しくもあるか

おもほえず長崎に来て豊(ゆた)けき君がこころに親(した)しみにけり
(永山図書館長に)
長崎のいにし古(ふる)ごと明(あき)らむる君ぞたふときあはれたふとき
(古賀十二郎翁に)
「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)

ささやけき薬草(くすりぐさ)の一つとおもへども烟草(たばこ)のみしよりすでに幾(いく)とせ

武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ

大音寺(だいおんじ)の樟(くす)の太樹(ふとき)を見てかへり公教会報(こうけうくわいはう)の歌を写すも

五月三十日

 雷が丘、雨声楼(秋帆別邸)辰巳にて夕餐会等を催す
萱草(くわんざう)の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ

ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」

長崎の麦(むぎ)の秋(あき)なるくもり日にわれひとりこそこころ安(やす)けれ

六月二日

 西浦上伊木力(いきりき)に到る
畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも

六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診

病(やまひ)ある人いくたりかこの室(へや)を出入(いでい)りにけむ壁は厚しも

ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる

闇深きに蟋蟀(こほろぎ)鳴けり聞き居れど病人(やみびと)吾は心しづかにあらな

血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ

わが心あらしの和(な)ぎたらむがごとし寝所(ふしど)に居りて水飲みにけり

くらやみに向ひてわれは目を開きぬ限(かぎり)もあらぬものの寂(しづ)けさ

若き友ひとり傍(かたはら)に来つつ居りこの友もつひに病(やまひ)を持てり

七月二日

 県立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を専らにす
あらくさの繁(しげ)れる見ればいけるがに地息(ぢいき)のぼりて青き香ぞする

午(ひる)すぎごろわが病室の入口に鶉(うづら)の卵売りに来りぬ

ゆふぐれの泰山木(たいざんぼく)の白花(しろはな)はわれのなげきをおほふがごとし

七月二十二日

 高谷寛日々来りてクロームカルシウムの注射せり
わが家の狭き中庭(なかには)を照らしつつかげり行く光を愛(かな)しみにけり

ひと坪(つぼ)ほどの中庭(なかには)のせまきにもいのち闘(たたか)ふ昆虫(こんちゆう)が居り

年わかき内科医君(きみ)は日ごと来てわが静脈(じやうみやく)に薬(くすり)入れゆく

長崎に来りて四年(よとせ)の夏ふけむ白さるすべり咲くは未(いまだ)か

七月二十四日

 島木赤彦はるばる来りて予の病を問ふ
長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより

よしゑやしつひの命(いのち)と過ぎむとも友のこころを空(むな)しからしむな

大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。

この道は山峡(やまがひ)ふかく入りゆけど吾(われ)はここにて歩(あゆ)みとどめつ

この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越(やまご)しになりにつらむか

赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道(やまみち)をおりて行きしが

草むらのかなしき花よわれ病みし生(いのち)やしなふ山の草むら

みちのくに稚(いとけな)くしてかなしみし釣鐘草(つりがねさう)の花を摘みたり

うつせみの命(いのち)を愛(を)しみ地(ち)響(ひび)きて湯いづる山にわれは来にけり

温泉(うんぜん)にのぼり来(きた)りて吾は居り常(つね)なきかなや雲光(くもひかり)さへ

温泉(うんぜん)のむらを離れてほのぐらき谿(たに)の中(なか)にて水(みづ)の音(と)ぞする

谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ

千々和灘(ちぢわなだ)にむかひて低く幾(いく)つ谷(だに)息(いき)づくごとし山のうねりは

高々(たかだか)と山のうへより目守(まも)るとき天草(あまくさ)の灘(なだ)雲とぢにけり

きぞの朝(あさ)友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ恋(こほ)しむ

家いでて来にしたひらに青膚(あをはだ)の温泉嶽(うんぜんだけ)の道見ゆるかな

小鳥(ことり)らのいかに睦(むつ)みてありぬべき夏青山(なつあをやま)に我はちかづく

山の根の木立(こだち)くろくして静(しづ)けきを家いで来つつ恋(こ)ふることあり

羊歯(しだ)のしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉(ひぐらし)ひとつ近くに鳴きつ

たまたまは咳(しはぶき)の音きこえつつ山の深きに木(き)こる人あり

臥処(ふしど)にて身を寂(さび)しみしわれに見ゆ山の背並(せなみ)のうねりてゆくが

あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗(くら)く遠(とほ)やま明(あか)し

夏の日の牧(まき)の高原(たかはら)しづまりて温泉(うんぜん)の山(やま)暮れゆくを見たり

遠風(とほかぜ)のいまだ聞こゆる高原(たかはら)に夕さりくれば馬むれにけり

水光(みづひかり)ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき

七月二十九日
 広河原道其他、前田徳八郎、高谷寛のぼり来
松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり

合歓(ねむ)の花(はな)ひくく匂ひてありたるを手折(たを)らむとする心利(こころど)もなし

あまつ日は既にのぼりて向山(むかやま)に晩蝉(ひぐらし)鳴けどここには鳴かず

行きずりの道のべにして茱萸(ぐみ)の実(み)ははつかに紅(あか)し紅(あけ)極(きは)まらなむ

赤土(あかつち)の道より黒土(くろつち)の坂となり往くも反(かへ)るも心にぞ留(と)む

湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計(とけい)を照らす

長崎に二年(ふたとせ)居りて聞かざりし暁(あかつき)がたの蝉のもろごゑ

まくらべに時計(とけい)と手帳(てちやう)置きたるにいまだ射(さ)しくるあけがたの月

起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は傾(かたむ)きにつつ

山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉(ひぐらし)聞けば蟋蟀(こほろぎ)に似たり

あかつきのさ霧に濡れてかすかなる虫捕(むしとり)ぐさの咲けるこのやま

寂しさに堪ふる寝所(ふしど)に明暮れし吾にせまりて青き山々

七月三十日、三十一日
 別所奥、林中
温泉(うんぜん)の別所(べつしよ)の奥は遠く来(こ)し西洋人(にしのくにびと)もまじりて住めり

木(こ)もれ日はしめれる土(つち)の一ところ微(かす)かなる虫の遊ばむとする

谿水(たにみづ)のながるる音も巌(いは)かげになりて聞(き)こえぬこのひと時を

牛ふたつ林のなかに来り居りきのふも此処(ここ)に来(きた)りてゐしか

あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに

露西亜(ろしあ)よりのがれ来れる童子(わらべ)らもはざまの滝に水あみにけり

八月一日
 一切経滝等
幾重(いくへ)なる山のはざまに滝のあり切支丹宗(きりしたんしゆう)の歴史を持ちて

深き峡(かひ)南(みなみ)ひらきておち激(たぎ)つ滝のゆくへを吾はおもひき

この山に湧きいだしたる幾泉(いくいづみ)あひ寄り峡(かひ)の底ひに落激(おちたぎ)つ

安息(やすらひ)をおもひて心みだれざりふもとの山に紅(あか)き日(ひ)かたむく

落つる日の夕かがやきはこの山の平(たひら)に居りてしばしだに見む

あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く蜩(ひぐらし)のこゑ

たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原(いしはら)に一日(ひとひ)すぐしぬ

温泉(うんぜん)が嶽(たけ)に十日(とをか)こもれど我が咽(のど)のすがすがしからぬを一人(ひとり)さびしむ

水(みづ)激(たぎ)ちけむ因縁(よすが)も知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ

ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず日(ひ)照(て)る近山(ちかやま)

かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき

けふもまた山泉(やまいづみ)なる砂のべに居(を)るかな病める咽(のど)を愛(を)しみて

谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし

雨はれし後の谿水(たにみづ)いたいたしきのふも今日(けふ)も赭(あか)く色づき走る

この山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉(こがらす)一つ地(つち)におりたつ

山かげの楢(なら)の木原(きはら)の下枝(しづえ)にも山蚕(やまこ)が居りて鳥知らざらむ

大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも

八月三日
 広河原道
わがあゆむ山の細道(ほそぢ)に片よりに薊(あざみ)しげれば小林(をばやし)なすも

山なみの此処にあひ迫(せま)る深谿(ふかだに)を見おろすときに心落ちゐず

しばしして吾が立向(たちむか)ふ温泉(うんぜん)の妙見(めうけん)が嶽(たけ)の雲のかがやき

長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字(ろしあもじ)など人名(ひとな)きざめり

多良嶽(たらだけ)とあひむかふとき温泉(うんぜん)の秋立つ山にころもひるがへる

吾が憩(いこ)ふひとついただきに漆(うるし)の木(き)いまだ小さく人かへりみず

めぐりつつ岨(そは)をし来れば島山(しまやま)と天草(あまくさ)の海(うみ)ひらけたり見ゆ

なぎさには白浪(しらなみ)の寄るところ見えこの高きより見らくしよしも

ものなべて秋にしむかふ広河原(ひろがはら)の水のほとりに馬居り走らず

山かげに今日も聞ければ晩蝉(ひぐらし)は秋蟋蟀(あきこほろぎ)の寂しさに似つ

やまかがし草に入りゆくに足とどむ額(ひたひ)の汗(あせ)を拭(ふ)きつつ吾は

八月四日
 谿、温泉神社(四面宮(おしめんさま)、国魂(くにたま)神社)裏の石原に沈黙せり
石原に来り黙(もだ)せばわが生(いのち)石のうへ過ぎし雲のかげにひとし

小さなる※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)(ばつた)のたぐひ跳(は)ねゆきぬ水(みづ)涸(か)れをりて白き石はら

曼珠沙華(まんじゆしやげ)咲くべくなりて石原へおり来(こ)む道のほとりに咲きぬ

けふ一日(ひとひ)雲のうごきのありありて石原(いしはら)のうへに眩暈(めまひ)をおぼゆ

音たてて硫黄(いわう)ふきいづるところより近き木立(こだち)に山蚕(やまこ)ゐるなり

八月五日
 広河原地、絹笠山
この山を吾あゆむとき長崎の真昼(まひる)の砲(はう)を聞きつつあはれ

絹笠(きぬがさ)の峰(みね)ちかくして長崎の真昼を告ぐる砲(はう)の音(と)きこゆ

ふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き牛等(うしら)は水飲みにけり

山はらを貫(つらぬ)きめぐる道ありて馬駈(か)けゆくがをりをりに見ゆ

山谿が幾重(いくへ)の山の中(なか)ごもり南(みなみ)の流(ながれ)ここゆ出でむか

八月六日
 晩景、谿
見おろして吾(わが)居(ゐ)る谿の石のべに没日(いりひ)の光(ひかり)さすところあり

理由(ゆゑよし)もなきわが歩み谿底(たにそこ)は既にくらきに水の音すも

わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる夕映(ゆふばえ)とほしこころにぞ染(し)む

くらくなりし山を流るる深谿(ふかだに)の水(みづ)の音(と)きけば絶えざるかなや

谿底を流るるみづは今(いま)ゆ後(のち)くらきを流れ音(おと)のかなしさ

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途(みち)に佇(たたず)みにけり

闇空(やみぞら)に羽(は)鳴(な)らして虫飛びゆけり峠(たうげ)につかれて我あゆむとき

夕映(ゆふばえ)の赤きを見れば凡(おほよそ)のものとしもなし山のうへにて

八月七日
 谿谷
谷底(たにぞこ)にくだり来にけり独(ひと)り言(ごと)も今はいはなくに眼(まなこ)をつむる

昼(ひる)ちかきころほひならむと四五歩(しごほ)ゆき山谿(やまたに)みづに眼(まなこ)をあらふ

みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや

谷底(たにぞこ)の石間(いしま)くぐりてゆく水に魚(うを)住(す)みをりて見ゆるかなしさ

この谿をおほへる樹々(きぎ)のしげり葉を照らす光よともしむわれは

青々と樹々(きぎ)の葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず

かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればその音(おと)さびし

石苔(いしごけ)にわが出(いだ)したる唾(つば)のべに来りて去らぬ羽虫(はむし)あはれむ

この狭間(はざま)を強き水激(たぎ)ち流れけむ石むらがりて横(よこ)たふ見れば

苔(こけ)あをく羊歯(しだ)のしげれる石群(いしむら)を山ゆく水は常(つね)濡(ぬ)らしけり

石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は一日(ひとひ)ここにゐる

みなかみにのぼりてゆけば水の道落葉(おちば)が下(した)に隠(かく)ろひにけり

石のまゆ常湧(とこわ)きにして音たつるいづみの水をあはれ一人(ひとり)見つ

おのづから水ながれたる沢(さは)越(こ)えて青山(あをやま)見ゆるところまで来(こ)し

しづかなる一日(ひとひ)を経(へ)むと山水(やまみづ)のながるる谿に吾は来にけり

山みづのながるる音の親(した)しさにわれは来りて言(こと)さへいはず

山道をゆけばなつかし真夏(まなつ)さへ冷(つめ)たき谷の道はなつかし

傾きつつ太木(ふとき)しげれるきりぎしのその下(した)のべの水光(みづひかり)見む

みづ流(なが)るる谷底いでて木漏日(こもれび)の寂しき道を帰り来るなり

八月八日
 林中、谿、山
けふもまたしづかに経(へ)むと夏山(なつやま)の青(あを)きがなかに入りつつぞ居(を)る

しらじらと巌間(いはま)を伝(つた)ふかすかなる水をあはれと思ひ居(を)るかも

山みづの源(みなもと)どころの土(つち)踏(ふ)める馬の蹄(ひづめ)のあとも好(よ)きかも

石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす

くだり来し谷際(たにあひ)にして一時(ひととき)を白(しろ)くちひさき太陽(たいやう)を見し

八月九日
 観音堂
吾が憩(いこ)ふ観音堂に楽書(らくがき)あり Wixon, Nicol, Spark 等(ら)の名よ

八月十日
 谿、林
谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや

谷かげに今日も来にけり山みづのおのづからなる音(をと)きこえつつ

魚の子はかすかなるものかものおそれしつつ泉(いづみ)の水(みづ)なかにゐる

妙見(めうけん)へ雨乞にのぼり来し人らこの谿のみづ口づけ飲めり

午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く

向山(むかやま)のむら立つ杉生(すぎふ)ときをりに鴉の連(つれ)の飛びゆくところ

おのづから夏ふけぬらし温泉(うんぜん)の山の蚕(かふこ)も繭(まゆ)ごもりして

久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる

ジュネーヴのアスカナシイの業績(げふせき)を語りたまひて和(のど)に日は暮る

この山に君は来りて昆虫(こんちゆう)の卵あつむと聞くが親(した)しさ

わが病(やまひ)診(み)たまひしかど朗(ほが)らにていませばか吾の心は和(な)ぎぬ

温平(ゆのひら)の温泉(をんせん)の話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず

万屋(よろづや)に吾を訪ひまし物語(ものがた)るよりえ夫人(ふじん)は長塚節(ながつかたかし)のこと

八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき

長崎に帰り来りてむしばめるわが歯を除(と)りぬ命(いのち)を愛(を)しみ

暑かりし日を寝処(ふしど)より起き来しが向ひの山は蒼(あを)く暮れむとす

公園の石(いし)の階(かい)より長崎の街(まち)を見にけりさるすべりのはな

温泉(うんぜん)より吾はかへりて暑き日を歯科医に通ふ心しづかに

八月二十五日
 福済寺
のぼり来し福済禅寺(ふくさいぜんじ)の石だたみそよげる小草(をぐさ)とおのれ一人(ひとり)と

石のひまに生(お)ひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ

長崎の午(ひる)の大砲(たいはう)中町(なかまち)の天主堂(てんしゆだう)の鐘ここの禅寺(ぜんじ)の鐘

福済寺(ふくさいじ)にわれ居り見ればくれなゐに街の処々(ところどころ)に百日紅(さるすべり)のはな

ものなべて過(す)ぎゆかむもの現身(うつしみ)はしづかに生(い)きてありなむ吾(われ)よ

みづからの此身(このみ)よあはれしひたぐることなく終(つひ)の日(ひ)にも許(ゆる)さな

しづかなる吾の臥処(ふしど)にうす青き草かげろふは飛びて来にけり

八月二十七日
 仰臥 二十八日 仰臥、長崎精霊ながし
精霊(しやうりやう)をながす日来り港には人みちをれどわれは臥(ふ)し居(を)り

八月二十九日
 北海道なる次兄より長女富子の写真をおくりこしければ
たらちねの母の乳房(ちぶさ)にすがりゐる富子(とみこ)をみれば心は和(な)ぎぬ

山たかく河大(おほ)いなる国原に生(あ)れしをさなごことほぐわれは

とほくゐて汝(な)がうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ

午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ

五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは

肥前なる唐津の浜にやどりして唖(おし)のごとくに明暮(あけく)れむとす

八月三十一日
 木村屋旅館滞在
海のべの唐津(からつ)のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂(すな)のかなしさ

潮(うしほ)鳴(な)り夜もすがら聞きて目ざむれば果敢(はか)なきがごとしわが明日(あす)さへや

城址(しろあと)にのぼり来りて蹲(しやが)むとき石垣にてる月のかげの明(あか)るさ

九月一日
 為刑死霊菩提、享保二丁酉歳九月十七日
砂浜(すなはま)に古りて刑死(けいし)の墓のありいかなる深き罪となりにし

満島(みちしま)にわたりて遊ぶ人等(ひとら)ゆく月に照らされ吾等(われら)もい往(ゆ)く

九月三日
 終日沙浜沈黙
日もすがら砂原(すなはら)に来て黙(もだ)せりき海風(うみかぜ)つよく我身(わがみ)に吹くも

九月四日
 沙浜
飯(いひ)の中にまじれる砂(すな)を気(き)にしつつ海辺(うみべ)の宿(やど)に明暮(あけく)れにけり

はるかなる独(ひと)り旅路(たびぢ)の果てにして壱岐(いき)の夜寒(よさむ)に曾良(そら)は死にけり

命(いのち)はてしひとり旅こそ哀(あは)れなれ元禄(げんろく)の代(よ)の曾良(そら)の旅路は

朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや独りしおもへば

朝(あさ)のなぎさに眼(まなこ)つむりてやはらかき天(あま)つ光(ひかり)に照らされにけり

この病(やまひ)癒(い)えしめたまへ朝日子(あさひこ)の光よ赤く照らす光よ

唐津の浜に居りつつ城跡(しろあと)の年ふりし樹(き)を幾たびか見む

砂浜(すなはま)にしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも

孤独(こどく)なるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂(すな)に蠅(はへ)居り

日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり

九月五日
 高谷寛と満島にわたる
松浦河(まつらがは)月あかくして人の世のかなしみさへも隠(かく)さふべしや

九月六日
 男ひとり芸妓ふたり
隣(とな)り間(ま)に男(をとこ)女(をみな)の語らふをあな嫉(ねた)ましと言ひてはならず

九月八日
 沙浜
いつくしく虹(にじ)たちにけりあはれあはれ戯(たはむ)れのごとくおもほゆるかも

日を継ぎてわれの病(やまひ)をおもへれば浜のまさごも生(しやう)なからめや

わがまへの砂をほりつつ蜘蛛(くも)はこぶ蜂の[#「蜂の」は底本では「峰の」]おこなひ見らくしかなし

わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ

九月十日
 高谷寛と来しかたあひ語りて
わが友はわが枕べにすわり居り訣(わか)れむとして涙(なみだ)をおとす

午前九時五十六分唐津発、十二時半佐賀駅にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乗り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ

ねもごろに吾(われ)の病(やまひ)を看護(みとり)してここの海べに幾夜か寝つる

わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる

わたつみの海を離れて山がはの源(みなもと)のぼりわれ行かむとす

九月十一日
 佐賀県小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三日に至る
うつせみの病(やまひ)やしなふ寂(さび)しさは川上川(かはかみがは)のみなもとどころ

ほとほとにぬるき温泉(いでゆ)を浴(あ)むるまも君が情(なさけ)を忘れておもへや

遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに

川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな

蟷螂(かまきり)が蜂を食(く)ひをるいたましさはじめて見たり佐賀(さが)の山べに

日の光浴(あ)みて川べの石に居り赤蜻蛉(あかあきつ)等ははやも飛びつつ

われひとりうらぶれ来れば山川(やまがは)の水の激(たぎ)ちも心にぞ沁む

この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも

浅山(あさやま)をわれはわたりて谷水(たにみづ)の砂ながるるを今ぞ見てゐる

杉の樹に紅きあぶらの滲(し)みづるををさなごの時のごとく愛(かな)しむ

曼珠沙華(まんじゆしやげ)むらがり咲けりこの花の咲くべくなりて未(いま)だし籠(こも)る

山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか

山がはの水の香(にほひ)のする時にしみじみとして秋風ふきぬ

黄櫨(はぜ)もみぢこの山本(やまもと)にさやかにて慌(あわただ)しくも秋は深まむ

いつしかに生(うま)れてゐたる蝗(いなご)等はわが行くときに逃ぐる音たつ

風ひきて一日(ひとひ)臥したりわが部屋のなげしわたらふ蛇(くちなは)ひとつ

この家に急に病みたる一人(ひとり)ありわれは手当(てあて)す夜半過ぎしころ

旅とほき佐賀の山べの村祭(むらまつ)り相撲のきほひ吾は来て見つ
(二十一日松森神社)
秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり来も
(二十三日雷雨)
東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は川辺(かはのべ)往くも
(二十六日)
やうやくに秋のふかまむ山(やま)の峡(かひ)朝の雷(いかづち)鳴りとどろけり

けふの昼雷(らい)鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする

けふもまた山に入り来て樹(き)の下(もと)に銀杏(ぎんなん)ひろふ遊ぶがごとく

病みながら秋のはざまに起臥(おきふ)してけふも噛みたる飯(いひ)の石(いし)あはれ

此処に来て蛇(へび)のあまたを見たりけり常(つね)日(ひ)ごろ蛇をおそれてゐしが

親しかる心になりて此里(このさと)のまだ金(かね)つかぬ栗の実を買ふ

烟草(たばこ)やめてより日を経たりしがけふの暁(あけ)がた烟草のむ夢(ゆめ)視(み)つ

みづからの生(いのち)愛(を)しまむ日を経つつ川上(かはかみ)がはに月照りにけり

秋づきて寂(しづ)けき山の細川(ほそかは)にまさご流れてやむときなしも

みづ清き川上(かはかみ)がはに住む魚(うを)のエダを食(を)したり昼のかれひに

胡桃(くるみ)の実(み)まだやはらかき頃(ころ)にしてわれの病(やまひ)は癒(い)えゆくらむか

川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此処をとほり行きけむ

秋水(あきみづ)をわきて悲しとおもはねど深き狭間(はざま)に見るべかりけり

向山(むかやま)に朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも

早稲(わせ)の香(か)はみぎりひだりにほのかにて小城(をぎ)のこほりの道をわれゆく

ゆくりなく見つつわがゐる青栗(あをぐり)は近き電灯に照らされゐたり

曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病癒(い)えつつ

小野五平(をのごへい)翁九十一歳にて身まかりぬ気根(きこん)つめつつ長命(ながいき)したり

旅ゆきつつ勝負(しようぶ)をしたるつよき逸話(いつわ)この翁(おきな)にはめづらしからず

山口好を悼む

 十月十七日大牟田浄心院追悼歌会のために送る
君死せりとふしらせを我は山深く狭間(はざま)に居りて聞けるさびしさ

ありし日を思ひいでなむ世の相(すがた)の悲しき歌を君はうたひし

きびしかりし労働(らうどう)の歌(うた)いくつかが人の心にかがやかむかも

十月三日
 朝古湯をたち午後長崎にかへる。万物に無沙汰の感ふかし
長崎にかへり来りて友を見つ遠(とほ)のめづらの心かなしも

校長にも会ひに行きたりおのづから低きこゑにて病(やまひ)を語(かた)る

われ病みて旅に起臥(おきふ)しありしかば諏訪(すは)の祭(まつり)にけふ逢ひにける

心しづめて部屋にし居れば衢(ちまた)より神の祭りの笛(ふえ)の音(ね)きこゆ

わが部屋に書(ふみ)を重ねて旅行きしが書(ふみ)を持てれば手の痕(あと)つくも

十月九日
 中村三郎氏と共に諏訪神社うへの丘にのぼる。諏訪祭第二日
長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば息(いき)づきのぼる

西彼杵郡西浦上木場(こば)郷六枚板(ろくまへいた)の金湯にいたる。浴泉静養せむためなり

浦上(うらかみ)の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思(おも)ひて

クルスある墓を見ながら通(とほ)り来(こ)し浦上道(うらかみみち)を何時かかへりみむ

日もすがら朽葉(くちば)の香(か)する湯をあみて心しづめむ自(みづか)らのため

僂麻質斯(リユーマチス)病みをる媼(おうな)等にあひ交(まじ)り日ねもす多く言ふこともなし

朝な朝な同じ頃あひに稲田道(いなたみち)児らは走りて学校へ行く

道のべに赤楝蛇(やまかがし)多きをおどろきつつ西浦上(にしうらかみ)をもとほりて来(く)も

山のべにひそむがごとき切支丹(きりしたん)の貧(まづ)しき村もわれは見たりき

かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」

「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」信者(しんじや)にて世を終(を)へしものなり

信徒(しんと)のため宝盒抄略(はうかふせうりやく)といふ書物御堂(みだう)の中にぽつりとありぬ

小さなる御堂(みだう)にのぼり散在する信者(しんじや)の家を見つつしゐたり

この宿(やど)に島原(しまばら)ゆ来し少女(をとめ)居りわがために夕べ洋灯(ランプ)を運ぶ

油煙たつランプともして山家集(さんかしふ)を吾は読み居り物音(ものおと)たえつ

この家の主人(あるじ)わざわざ長崎に買ひたる刺身(さしみ)を吾に食はしむ

ここ越えてゆかば長崎の西山(にしやま)にいづるらむとて暫(しばら)く歩(あり)く

ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り

十月十五日、六枚板発。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長与発、午後一時小浜著、柳川屋旅館に投ず。学生立石源治静養に来居るに会ふ

朝なさな船の太笛(ふとぶえ)聞きしより山峡(やまかひ)のこともわきて思はず

土手(どて)かげに二人来りて光(ひかり)浴(あ)む一人はわれの教ふる学生(がくせい)

覇王樹(さぼてん)のくれなゐの花海のべの光をうけて気(き)を発(はつ)し居り

砂浜に外人(ぐわいじん)ひとりところがりて戯れ遊ぶ日本(にほん)のをみな

塩(しほ)はゆき温泉(いでゆ)を浴みてこよひ寝(ね)む病(やまひ)癒(いえ)むとおもふたまゆら

鴎等(かもめら)はためらひもなく今ぞ飛ぶ嫉(ねた)くしおもふ現身(うつしみ)われは

日本舟(にほんぶね)にひるがへりゐる旗見つつその伝承(でんしやう)をかたみに語る

長崎の茂木(もぎ)の港(みなと)にかよふ船ふとぶとと汽笛(きてき)を吹きいだしたり

入りつ日の紅(あか)き光(ひかり)のゆらぐとき磯鵯(いそひよどり)のこゑもこそ聞(き)け

日だまりにけふも来りぬ行末(ゆくすゑ)のことをおもはば悲しからむぞ

ここに来て落日(いりひ)を見るを常(つね)とせり海の落日(いりひ)も忘れざるべし

小浜(をばま)なる森芳泰来(もりよしやすき)わがための心づくしを永(なが)くおもはむ

温泉(うんぜん)の山のふもとの塩(しほ)の湯(ゆ)のたゆることなく吾は讃(たた)へむ

十月二十日
 小浜発、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著
旅にして彼杵神社(そのきじんじや)の境内(けいだい)に遊楽相撲(いうらくすまふ)見ればたのしも

祐徳院稲荷(いうとくゐんいなり)にも吾等まうでたり遠く旅(たび)来(こ)しことを語(かた)りて

嬉野の旅のやどりに中林梧竹(なかばやしごちく)翁(おきな)の手ふるひし書(しよ)よ

この山を越えて進みし大隊(だいたい)が演習やめて一夜(ひとよ)湯浴みす

透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限(かぎ)りもなしも

この村の小さき社(やしろ)の森に来て黙(もだ)すことあれど心足らはず

わが病(やまひ)やうやく癒えぬとおもふまで嬉野(うれしの)の山秋ふけむとす

十月二十六日。午前八時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著

十月二十八日
 病院学校に勤務す
病院のわが部屋に来て水道(すゐだう)のあかく出で来るを寂(さび)しみゐたり

武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず

けふ一日(ひとひ)腹をいためて臥(ふ)しをれば聖(きよ)きまとゐに行きがてなくに

長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき

長崎に心しづめて居るときに永遠(とは)の悲(かな)しみ聞かむと思ひきや

浅草の三筋町(みすぢまち)なるおもひでもうたかたの如(ごと)や過ぎゆく光(かげ)の如(ごと)や

十一月十四日
 土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ
黄檗(わうばく)の傑(すぐ)れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ

赤く塗りし大き木(き)の魚(うを)かかりゐる僧等の飯(はん)のときに打つべく

扁額(へんがく)に海不揚波(かいふやうは)の四つの文字(もじ)おごそかにしも年ふりにける

年々ににほふうつつの秋草につゆじも降(ふ)りてさびにけるかも

石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや

もろ人が此処に競(きほ)ひて学(まな)びつるその時おもほゆ井戸(ゐど)をし見れば

芭蕉葉もやうやく破(や)れて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり

洋学の東漸(とうぜん)ここに定(さだ)まりて青年(せいねん)の徒(と)はなべて競(きほ)ひき

柿落葉(かきおちば)色うつくしく散りしきぬ出島人(でじまびと)等も来て愛でけむか

鳴滝の激(たぎ)ちの音を聞きつつぞ西洋(せいやう)の学(がく)に日々(ひび)目ざめけむ

深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士

祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり

十一月二十一日
 土屋氏長崎を発つ。夜辰巳に会合あり
くれぐれの家に石蕗(つはぶき)の黄の花はわれとひととを招ぐに似たり

十一月二十二日
 平福百穂画伯と浦上村をゆく
浦上(うらかみ)の女(をんな)つらなり荷を運ぶそのかけごゑは此処まで聞こゆ

白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ

浦上(うらかみ)の女(をんな)等の生活異(ことな)りて西方のくにの歎(なげ)きもぞする

長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき

斜なる畠(はた)の上にてはたらける浦上人(うらかみびと)等のその鍬(くは)ひかる

牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人(うらかみびと)は世の唄うたはず

黄櫨(はぜ)もみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く夕風(ゆふべかぜ)

十一月二十三日
 百穂画伯と長崎図書館を訪ひ南蛮史料を看る
モリソン文庫明恵上人(みやうゑしやうにん)の歌集をば少しく読みて吾(われ)ものおもふ

十一月二十四日
 百穂画伯と街上を行く
西比列亜(シベリア)よりおくりこされし俘虜(ふりよ)あまた町にむらがるきのふも今日も

大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む

チエッコへ帰らむとする捕虜(ほりよ)ひとり山の石かげに自殺をしたり

寺町の墓のほとりにもかたまりてチエッコの俘虜は時を費す

親(した)しかる友をむかへて身(み)の上(うへ)のことも語りぬ夜のふくるまで
(平福氏)
このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり

真日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと夕映(ゆふば)えにけり

港より太笛(ふとぶえ)鳴れるひまさへや我が足もとに蟋蟀(こほろぎ)のこゑ

みち足らはざる心をもちて入日さす切支丹坂(きりしたんざか)をくだり来にけり

塩(しほ)おひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し

山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも

港をよろふ山の棚畑(たなはた)に人居りて今しがた昼飯(ひるいひ)を食ひたるらしき

雨はれし港はつひに水銀(みづがね)のしづかなるいろに夕ぐれにけり

友二人(ふたり)もつひに帰りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり
(土屋氏・平福氏)
支那街(しなまち)のきたなき家に我の食ふ黒き皮卵(ぴんたん)もかりそめならず

夏の初めより病に罹り居りしかど癒(い)えて白霜(しらじも)の降りたるを見つ

君が業務(なりはひ)は忙(いそが)しからむ然れども張りつむる心を守(まも)り居らむか

長崎の港を見れば我がこころ和(なご)みしづまるをあやしと思ふな

セミョノフの砲艦(はうかん)ひとつ泊(は)てゐるを背向(そがひ)にしつつ我は急(いそ)げり

病いえてここに来りぬ目のもとの落葉のしづかさを独ゆかむか

長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず

さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中(もなか)となるにやあらむ

ものぐるひの被害妄想(ひがいまうさう)の心さへ悲しきかなや冬になりつつ

ウンガルンの俘虜(ふりよ)むらがりて長崎の街を歩くに赤く入日(いりひ)す

あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き石垣(いしがき)にさむき雨かな

みちのくの仙台(せんだい)よりおくりくれしてふ納豆(なつとう)を食む心しづけさ

山上(さんじやう)の白き十字架(クルス)の見えそむる浦上道(うらかみみち)は霜どけにけり

豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつ汁(しる)つくらむと心いそげり

長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか

うらがなしき夕(ゆふべ)なれどもピナテールが寝所(ふしど)おもひて心なごまむ

午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ

寝所(ふしど)には括枕(くくりまくら)のかたはらに朱(しゆ)の筥枕(はこまくら)置きつつあはれ

冬の雨ふるけふをしも Pignatel(ピナテル) が家をたづねて身にし染(し)むもの

年老いてただひとりなるピナテール寂(しづ)かなるごとくなほも起臥(おきふ)す

このやまひ癒(いや)したまへと山川(やまかは)をゆきゆきし歳(とし)の暮となりぬる

長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ

クリスマスの長崎の御堂(みだう)に入ることも二たびをせむ吾ならなくに

暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす

土屋文明氏歓迎歌会
 十一月十七日於茂吉宅、課題「坂」
ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり
(西山所見)
平福百穂氏歓迎歌会
 十一月二十四日於長崎県立図書館、課題「港」
くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ

大正十年


大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。
大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊

秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれも崇(たふと)む

熊本のあがたより遠く見はるかす温泉(うんぜん)が嶽(たけ)は凡(ただ)ならぬやま

光よりそともになれる温泉(うんぜん)の山腹にして雲ぞひそめる

球磨川(くまがは)の岸に群れゐて遊べるはここの狭間(はざま)に生(うま)れし子等ぞ

みぎはには冬草(ふゆくさ)いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる

青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども

一月(いちぐわつ)の冬の真中(もなか)にくろぐろと蝌蚪(おたまじやくし)はかたまるあはれ

白髪岳(しらがだけ)市房(いちふさ)山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり

大畑(おこだ)駅よりループ線となり矢嶽(やたけ)越す隧道(トンネル)の中にてくだりとなりぬ

桜島は黒びかりしてそばだちぬ溶巌(ようがん)ながれしあとはおそろし

鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは

わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし

城山にのぼり来りて劇しかりし戦のあとつぶさに聞きて去る

開聞(かいもん)のさやかに見ゆるこの朝け桜島のうへに雲かかりたる

大隅(おほすみ)は山の秀(ほ)つ国(ぐに)冬がれし山のいただき朝日さすなり

霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし

霧島はただに厳(いつく)しここにして南風(みんなみかぜ)に晴れゆきしとき

一月二、三日
 夜宮崎神田橋旅館、三日宮崎神宮参拝
宮崎の神の社にまゐり来てわれうなねつく妻もろともに

冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも

ねたましくそのこゑを聞く旅商人(たびあきびと)は行く先々(さきざき)に契(ちぎり)をむすぶ

午後三時青島(あをしま)につき、広瀬旅館投宿、第五高等学校教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる

打寄する浪は寂しく南(みなみ)なる樹々(きぎ)ぞ生ひたるかげふかきまで

暖き洋(うみ)のながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも

旅館(りよくわん)にはポーターといふ洋人(やうじん)もやどりて日本(にほん)の酒をのむ見ゆ

青島(あをしま)の木立(こだち)を見ればかなしかる南(みなみ)の洋(うみ)のしげりおもほゆ

南より流れわたれる種子(たね)ひとつわが遠(とほ)き代(よ)のことしぬばしむ

かすかなる光(ひかり)海よりのぼりくる日向(ひうが)のあかつきの国のいろはや

青島(あをしま)に一夜(ひとよ)やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠(とほ)き代(よ)や

ひむがしは赤く染まりてわが覚むる日向の国のあかつきのいろ

わたつみの海につづける茜空(あかねぞら)二時(ふたとき)にしてくもりに入りぬ

一月四日
 帰途につく
霧島はおごそかにして高原(たかばる)の木原(きはら)を遠(をち)に雲ぞうごける

灰いろのくすしき色も日あたりてこの高山(たかやま)は見れども飽かず

あたらしき年のはじめを旅(たび)来(こ)しが高千穂の峰に添ふごとかりき

青井岳(あをゐだけ)の駅出でてより猪(ゐのしし)の床の話を聴きつつ居たり

久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ

久留米(くるめ)なる遍照院(へんぜうゐん)にわれまうづ「松陰以白居士(しよういんいはくこじ)」のおくつき

神つ代のこと恋(こほ)しみてしらぬひ筑紫(つくし)のくにに果てし君はも

夜もすがら歌を語りて飽かなくに朝鶏(あさどり)が鳴く茜(あかね)さすらし

九州の十一人(じふいちにん)の友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで

梅林寺(ばいりんじ)に紫海禅林の扁額あり谷(たに)を持ちたるこの仏林(ぶつりん)よ

三生軒(さんじやうけん)居室(こしつ)より見おろす谷まには僧一人来て松葉を掃くも

筑後川日田(ひた)よりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く

一月六日
 太宰府、観世音寺、都府楼址、武雄温泉
観世音寺(くわんぜおんじ)都府楼(とふろう)のあともわれ見たり雑談(ざつだん)をしてもとほりながら

奥田氏送別会を栄家に開く。会者図書館談話会員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏

くさぐさの事を思ひて尽きざるにこよひ吾等は互(かたみ)に酔(ゑ)ひつ

南(みんなみ)の国はゆたけし朝あけて君を照らさむ天(あま)つ日(ひ)のいろ

奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ

このゆふべ悔(く)いおもへども君とほく今し去りゆく悔(く)いてかへらず

二月十日
 述懐
長崎の港をよろふむら山に来向(きむか)ふ春の光さしたり

ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾は訣(わか)れむ

長崎に来りて既にまる三年(みとせ)友のいくたり忘れがたかり

きびしかりしはやり風にて見近(みぢか)くの三(み)たりはつひに過(す)ぎにけらずや

そがひなる山を越えゆく矢上(やがみ)にも思(おもひ)のこりてわれ発たむとす

雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く

長崎をわれ去りなむとあかつきの暗(くら)きにさめて心さびしむ

長崎をわれ去りゆきて船笛(ふなぶえ)の長きこだまを人聞くらむか

白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ来るかな

三月十五日
 医学専門学校職員食堂のために一首をしたたむ
行春(ゆくはる)の港より鳴る船笛(ふなぶえ)の長きこだまをおもひ出でなむ

三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に会ふ

午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病学教室を参観す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす

もろびとに訣(わかれ)をつげて立ちしかど夜半(よは)過ぎて心耐へがてなくに

春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂(みだう)の話長塚節(たかし)の話

あたたかき御心(みこころ)こもるこの室(へや)にあまたの猫も飼はれて遊ぶ

午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名物おやき餅

春いまだ寒き小倉(こくら)をわれは行く鴎外先生おもひ出(いだ)して

公園の赤土(あかつち)のいろ奇兵隊(きへいたい)戦死(せんし)の墓(はか)延命寺の春は海潮音(かいてうおん)

午後一時小倉発、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび来りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大学同窓也。大分共進会を見る

あたたかき海辺の街は春菊(しゆんぎく)を既に売りありく霞は遠し

鳥の音も海にしば鳴く港町(みなとまち)湯いづる町を二たび過ぎつ

三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社参拝

年ふりし道後(だうご)のいでゆわが浴(あ)めばまさごの中ゆ湧きくるらしも

大洋(おほうみ)をわれ渡らむにこの神を斎(いは)ひてゆかな妻もろともに

三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林(りつりん)公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二教授を訪ひ、医学専門学校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園

この園に鶴(たづ)はしづかに遊べればかたはらに灰色(はいいろ)の鶴(たづ)の子(こ)ひとつ

時もおかずここに攻(せ)めけむ古への戦のあと波(なみ)かがやきぬ

元義(もとよし)がきほひて歌をよみたりし岡山五番町(をかやまごばんちやう)けふよぎりたり

岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)

ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす

何といふ平安(やすらぎ)なるか朝(あした)よりわがまへに友のをさなご二たり

三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。
三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。
三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館

いそがしき君はひねもすわがために古山川(ふるやまかは)をみちびきやまず

あはれあはれ恋ふる心に沁(し)みとほり山川(やまかは)ぞ見し君がなさけに

午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に※(「宀/(嶐−山)」、第4水準2-8-9)応和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に会ふ

ぬばたまの夜(よる)さりくれば湯豆腐(ゆどうふ)をかたみに食へとのたまひにけり

夜(よ)もすがら底びえしつつありたるが暁(あかつき)庭(には)に薄氷(うすらひ)が見ゆ

この寺に※(「宀/(嶐−山)」、第4水準2-8-9)応和尚(りゆうおうをしやう)よろこびて焦(こが)したる湯葉(ゆば)をわれに食はしむ

三月三十日。米原発急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は学会出席のために上京するなり。
四月一日。日本神経学会に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ

芳渓呉秀三先生大学教授莅職二十五年賀歌竝正抒心緒謌(仏足石歌体)二十五章

長崎の港をよろふ山並(やまなみ)に来むかふ春の光さしたりあまつ光(ひかり)は

長崎にわれ明暮(あけく)れてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬびけるかな

み冬つき来むかふ春にこころこそゆらぎてやまね導(みちび)きたまふ情(なさけ)しぬびて

しらぬひ筑紫(つくし)のはてにわれ居れどをしへの親(おや)を讃(たた)へざらめや仰(あふ)がざらめや

薬師(くすりし)はさはにをれどもあれの師(し)はおほかたに似ず現(うつ)し世(よ)のため今(いま)の世(よ)のため

さちはひに充(み)ち満(み)ちにつつあれの師(し)の君が力(ちから)はいや新(あらた)しもきみがいのちは

ものぐるひは哀(かな)しきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れ救(すく)ひたまはな

しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや Pinel(ピネル) Conolly(コノリ) は外(とつ)くににして

霊枢(れいすう)に狂(きやう)といふともわがどちは狂(きやう)とな云ひそと宣(のら)しけるらし病むひとのため

二十年(はたとせ)にあまる五(いつ)とせになるといふみ祝(ほぎ)のにはに差せる光や瑞(うづ)のみひかり

ものぐるひをまもりたまひて年を経し君がみ髭(ひげ)はつひに白しもその清(すが)しさや

しろがねの髭(ひげ)さへひかり新幸(にひさち)もいよよ重(かさ)ねむ君がいのちやおのづからなる

ものぐるひは悲しきものぞ護(まも)らせる君こそたふとあはれ尊(たふと)きけふの尊(たふと)さや

うからやから弥々(いよよ)さかゆる君ゆゑに新幸(にひさちはひ)もかぎり知らえず祝(いは)はざらめや

長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君がみもとへ

なまけつつ十年(ととせ)を経たりおこたりて十歳(ととせ)過ぎけむことをしおもふ君を祝(ほ)ぎつつ

中学(ちゆうがく)の四級生(しきふせい)にてありけむか精神啓微(せいしんけいび)をわれは買ひにき小川(をがは)まちにて

もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむ敬(うやま)ひまつり

わがもてるものは貧(まづ)しとおもへども狂人(きやうじん)守(も)りてこの世は経(へ)なむありのまにまに

をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を囲むけふかも言寿(ことほ)ぎにつつ

うつしみの狂(くる)へるひとの哀(かな)しさをかへりみもせぬ世の人醒(さ)めよもろびと覚(さ)めよ

君がこころひろく寛(ゆた)けくたまかづら絶ゆることなく幸(さち)はへてあらむ若(わか)えつつあらむ

おなじ世にうまれあひたる嬉(うれ)しさや教へのおやにこの敬(うやま)ひをささげまつらむ

むらぎものこころ傾けことほぎの吉言(よごと)まうさむ酒祝(さかほぎ)もせよ豊酒(とよき)清酒(きよき)に

あまつ日の光るがごとく月読(つくよみ)の照らすがごとく常幸福(とこさいはひ)にいます君かも

大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて大正十年三月帰京しぬ

東京に帰りきたりて人ごろしの新聞記事(しんぶんきじ)こそかなしかりけれ

閨中(けいちゆう)の秘語(ひご)を心平(たひ)らかに聞くごとし町の夜なかに蛙(かはづ)鳴きたり

長崎よりかへりてみれば銀座十字(つむじ)に牛は通らずなりにけるかも

さみだれの日(け)ならべ降れば市(いち)に住む我が腎(じん)ははや衰へにけり

流行の心理は模倣(もはう)憑依(ひようい)の概念(がいねん)を以て律(りつ)すべからず夏の都会(とくわい)に

ゆたかなる春日(はるび)かがよふ狂院(きやうゐん)に葦原金次郎(あしはらきんじらう)つひに老いたり

さみだれはしぶきて降れり殺人(さつじん)の心きざさむ人をぞおもふ

わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの胡頽子(ぐみ)を商(あきな)ふ夏さりにけり

われ銀座(ぎんざ)をもとほり居りてブルドック連れし女(をんな)にとほりすがへり

長崎の昼しづかなる唐寺(たうでら)やおもひいづれば白(しろ)きさるすべりのはな

朝はやき日比谷(ひびや)の園(その)に腫(むく)みたる足をぞ撫(さす)る労働(はたらき)びとひとり

馬に乗りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ

浅草の八木節(やぎぶし)さへや悲しくて都に百日(ももか)あけくれにけり

ものぐるひを看護(かんご)して面(おも)はればれとしてゐる女(をんな)と相見つるかも

長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり

さ庭べにトマトを植ゑて幽(かす)かなる花咲きたるをよろこぶ吾は

けふもまた何か気がかりになる事あり虫ばみし書(ふみ)いぢり居れども

このごろ又外国人(ぐわいこくじん)を殺しし盗人(どろばう)あり我心(わがこころ)あやしきを君はとがむな

畳のしたにナフタリンなどふり撒(ま)きて蚤おそれゐる吾をしぬばね

心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり

亀戸の普門院なる御墓(みはか)べに水青き溝いまだのこれり

月読(つきよみ)の山はなつかし斑(はだ)ら雪照れる春日に解けがてなくに

ふきいづる木々(きぎ)の芽いまだ調(ととの)はぬみちのく山に水のみにけり

谿ふかくしろきは吾妻(あづま)山(やま)なみの雪解(ゆきげ)のみづのたぎつなるらし

みちのくは春まだ寒し遠(とほ)じろくはざまをいづる川のさびしさ

かなしきいろの紅(くれなゐ)や春ふけて白頭翁(おきなぐさ)さける野(の)べを来にけり

われひとりと思(おも)ふ心に居りにけりをさなき蚕(かふこ)すでにねむりつ

結城哀草果を率て林間の野を行く

山がひに日に照らされし田の水やものの命(いのち)の幽(かす)かなりけり

みちのくのわが故里(ふるさと)に帰り来て白頭翁(おきなぐさ)を掘る春の山べに

山陰(やまかげ)のしづかなる野に二人(ふたり)ゐて細く萌えたる蕨をぞ摘(つ)む

みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづの音(おと)する

山かげを吾等来(こ)しかば浅水(あさみづ)に蛭(ひる)のおよぐこそ寂(さび)しかりけれ

木立(こだち)よりかこまれてゐる春の小野(をの)昆虫(こんちゆう)跳(は)ぬるだにこの平安(やすらぎ)よ

六月十六日
 女等の飼へる蚕
かりそめとおもふは寂(さび)し飼(か)ひし蚕(こ)は黄(き)いろき繭にこもりはてたり

胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く

われひとり物おもふ室(へや)にきこえくる鈍(にぶ)くおもおもしき衢(ちまた)のおとは

けふ一日(ひとひ)たえまなく汗が流れしと記(しる)しおかむわが病(やまひ)のことも

甲斐(かひ)がねを汽車は走れり時のまにしらじらと川原(かはら)の見えし寂(さび)しさ

しづかなる川原(かはら)をもちてながれたる狭間(はざま)の川(かは)をたまゆらに見し

山がひにをりをりしろく激(たぎ)ちつつ寂(さび)しき川がながれけるかな

ふく風はすでにつめたし八(やつ)ヶ嶽(たけ)のとほき裾野(すその)に汽車かかりけり

天づたふ日のかたむける信濃路(しなのぢ)や山の高原(たかはら)に小鴉(こがらす)啼けり

高原(たかはら)に足をとどめてまもらむか飛騨(ひだ)のさかひの雲ひそむ山

澄みはてていろふかき空に相寄(あひよ)れる富士見高原(ふじみたかはら)ゆふぐれにけり

あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ

蚊帳(かや)つりてひとりねむりしあかときの冷(つめ)たきみづは歯に沁みにけり

みすずかる信濃高原(たかはら)の朝めざめ口(くち)そそぐ水に落葉しづめり

山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり

桔梗(きちかう)のむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は来にけり

松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも

谷ぞこはひえびえとして木下(こした)やみわが口笛(くちぶえ)のこだまするなり

あまつ日は松の木原(きはら)のひまもりてつひに寂(さび)しき蘚苔(こけ)を照せり

ともし火のもとにさびしくわれ居りて腫(むく)みたる足のばしけるかな

ひとを愛(かな)しとおもふ心のきはまりて吾に言(こと)つげし友をぞおもふ

諏訪(すは)のみづうみの泥(どろ)ふかく住みしとふ蜆(しじみ)を食(く)ひぬ友がなさけに

みすずかる信濃の国に足たゆく灯(ともしび)のもとに糠(ぬか)を煮にけり

高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来て縋(すが)る虫あり

窓外(まどのと)は月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寝む

しづかなる山の高原とおもへども電流に触れてひとは死にけり

月の光いまだてらさず白雲(しらくも)は谷べにふかく沈みたるらし

潮浴(しほあみ)に安房(あは)の海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも

夕飯(ゆふいひ)をはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど

諏訪(すは)のうみの田螺(たにし)を食へばみちのくに稚(をさな)かりし日おもほゆるかも

よひとおもふにはや更けそめし山家(やまが)なるこのともしびに死ぬる虫あり

うつしみは現身(うつしみ)ゆゑに嘆(なげ)かむに山がはのおともあはれなるかも

文身(ほりもの)だらけの屍(かばね)隅田川に浮きしとふ記事(きじ)も身に沁む山の夜ふけに

やまふかきその谷川(たにがは)に住むといふやまめ岩魚(いはな)を人はとり食(は)む

八ヶ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森

蓼科(たてしな)はかなしき山とおもひつつ松原(まつはら)なかに入りて来にけり

いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ

秋づくといまだいはぬに生(あ)れいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ

秋らしき夜空(よぞら)とおもふ目のまへを光はなちて行く蛍あり

谷川(たにがは)のほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり

高原(たかはら)の月のひかりは隈(くま)なくて落葉がくれの水のおとすも

ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな

月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る釜無川(かまなしがは)のおとのさびしさ

秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ茅生(ちふ)のつゆ原

飛騨(ひだ)の空に夕(ゆふべ)の光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ

飛騨(ひだ)の空(そら)にあまつ日おちて夕映(ゆふばえ)のしづかなるいろを月てらすなり

空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと

わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり

あららぎのくれなゐの実(み)を食(は)むときはちちはは恋(こひ)し信濃路(しなのぢ)にして

ゆふぐれの日に照らされし早稲(わせ)の香(か)をなつかしみつつくだる山路(やまみち)

八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな

やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな

山のべににほひし葛(くず)の房花(ふさはな)は藤なみよりもあはれなりけり

くたびれて吾の息(いき)づく釜無(かまなし)の谷のくらがりに啼くほととぎす

夕まぐれ南谿(みなみだに)よりにごりくる谿(たに)がはの香(か)をなつかしみつも

左千夫先生九回忌
 七月十日於亀戸普門院
逝きましてはや九年(ここのとせ)になるといふ御寺(みてら)の池に蓮咲かんとす

諏訪アララギ会
 八月二十二日於上諏訪地蔵寺
八千ぐさの朝(あさ)な夕(ゆふ)なに咲きにほふ富士見が原に吾は来にけり

諏訪アララギ会
 九月三日於温泉寺
日の御子(みこ)むかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ

斎藤茂吉渡欧送別歌会
 十月九日日限地蔵
わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや

大正十年十月二十六日東京駅発、二十七日熱田丸横浜出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆

十一月二日
 門司著、上陸、巌流島、下関万歳楼、山陽ホテルに泊る
しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな
(巌流島三首)
わが心いたく悲しみこの島に命(いのち)おとしし人をしぞおもふ

はるかなる旅路(たびぢ)のひまのひと時をここの小島(をじま)におりたちにけり

十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に酔ふ。

十一月五日上海
 福民病院長頓宮博士を訪ふ
海(うみ)の面(おも)しづかになれる朝あけて四十八分(しじふはちふん)の時(とき)おくれしむ

あかあかと濁(にご)れる海と黯湛(かぐろ)くも澄みたる海と境(さかひ)をぞする

戎克(じやんく)の帆(ほ)赭(あか)き色してたかだかとゆく揚子江(やうすかう)の川口(かはぐち)わたる

上海(しやんはい)のもろもろの様相(さま)人の世のなりのままなるものとこそ思へ

「日本首相原敬被刺」と報じたる上海新聞(しやんはいしんぶん)の切抜(きりぬき)しまふ (六日)

清麗とも謂(い)ふべき小都市(せうとし)につらなりし山のかなたの支那国(しなこく)の見ゆ

たちまちに山上(さんじやう)にのぼり見おろせる市街(しがい)冬がれのさまにはあらず

no smoking に不准食煙(ぶじゆんしよくえん)と注せりき「食煙(しよくえん)」の文字善しと思はずや

茶館(ちやくわん)には「清潤甜茶(せいじゆんてんちや)」の扁(へん)がありにほへる処女(をとめ)近づき来(きた)る

海岸(かいがん)はさびしき椰子(やし)の林より潮(うしほ)のおとの合(あ)ふがに聞こゆ

空ひくく南十字星(みなみじふじせい)を見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ

日本国(にほんこく)の森に似しかなと近づくに椰子(やし)くろぐろとつづきて居たり

腰まきを腰に巻きつつとほるもの男女(をとこをみな)とまだ雅(をさな)きと

汗じめるわが帳面(ちやうめん)の片隅(かたすみ)にブルンボアンとしるしとどむる

ジョホールの宮殿(きゆうでん)のまへに佇みしわれ等同胞(はらから)十人(とたり)あまりは

椰子(やし)しげる中に群れゐし水牛(すゐぎう)がうごくとき人をおそれしめつつ

岬(みさき)なるタンジョンカトン訪ひしかばスラヤの落葉蟋蟀(こほろぎ)のこゑ

太陽(たいやう)をマタハリといひて礼拝(らいはい)すまた「感天大帝(かんてんたいてい)」の文字(もじ)

牛車(うしぐるま)ゆるく行きつつ南なる国のみどりに日は落ちむとす

「にほんじんはかの入口(いりくち)」の標(しるし)あり遊子樹(いうしじゆ)といふ樹さへ悲しも

火葬場にマングローヴ樹(じゆ)植ゑたりき其処の灰を手にすくひても見つ
二葉亭四迷も此処に火葬せらる
日本人墓地(にほんじんぼち)の中にてはるかなる旅をし行かむこころ和(な)ぎ居り

赤き道椰子(やし)の林に入りにけり新嘉坡(シンガポール)のこほろぎのこゑ

はるばると船わたり来てかなしきはジャランプサルの夜(よる)のとよめき

マラッカの山本(やまもと)に霞たなびけりあたたかき国の霞かなしも

平(たひら)なる陸(くが)にかたまり青きをば柳(やなぎ)の木(き)かとおもひつつ居る

東印度会社(とういんどくわいしや)のしるし今遺(のこ)り過去(くわこ)のにほひを放ちてきたる

戦死者の記念塔(きねんたふ)のまへにセナ樹(じゆ)うゑ往くも還るも見む人のため

日本人(にほんじん)の歯科医にあひぬささやかに紙障子(かみしやうじ)などたてて居たりき

今しがた牛闘(たたか)ひてその一つ角(つの)折れたるが途(みち)のうへに立つ

ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし

マラッカの街上(がいじやう)にしてわれも見つ富(と)める女(をみな)の面(おも)の愛(は)しきを

聖(せい) Francis(フランシス) Xavier(ザビエー) の墓時(とき)ふりて此処(ここ)にしづまる雪降らぬくに

マラッカをはなれ来りて入つ日の雲のながきににほふ紅(あけ)のいろ

額(ひたひ)より汗いでながら支那人墓地(しなじんぼち)馬来人墓地(まれいじんぼち)めぐりて来たり

ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ

その角(つの)を色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに来れば

蛇おほく住める寺あり額(がく)の文字「恩沾無涯(おんてんむがい)」は国(くに)境(さかひ)せず

ペナン川に添ひて遡(さかのぼ)るところには水田(すゐでん)ありて日本(にほん)しのばゆ

支那街(しなまち)はここにも伸びておのづから富みたるものも代(よ)をしかさねつ

夜に入りて大雨(おほあめ)となり乗りこめるデッキ航者(かうしや)(deckpassenger)の床さへ濡れぬ

水の中に水牛(すゐぎう)の群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず

おほどかに水張りて光てりかへし田植(たうゑ)は今にはじまるらむか

この村に鍛冶(かぢ)が鋼鉄(かうてつ)を鍛へ居り鎚(つち)のひびきも日本(にほん)に似たり

Kandy(キヤンデイ) にゆく途中にて土民(どみん)等が象に命令するこゑ聞きつ

高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ

ことわりはおのづからにて錫蘭(せいろん)のサカブタの山に滝かかりけり

コロンボのちまたの上に童子(どうし)等が独楽(こま)をまはせり遊び楽しも

ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか

仏牙寺(ぶつがじ)にまうできたりて菩提樹(ぼだいじゆ)の種子(しゆし)日本にも渡れるをおもふ

おほきなる白き獣(けだもの)ちひさなる獣(けだもの)を食ふところを彫りぬ

椰子の葉をかざしつつ来る男子(をのこ)らの黄なるころもは皆仏子(ぶつし)にて

つづき居る椰子(やし)の木立(こだち)のひまもりて入日(いりひ)の雲のくれなゐ見えつ

冬さむき国いでて遠くわたりけりセイロンの島に蛍を見れば

余光(よくわう)さへなくなりゆきし渡津海(わたつみ)にミニコイ嶋の灯台の見ゆ

あらはれし二つの虹(にじ)のにほへるにひとつはおぼろひとつ清(さや)けく

印度(いんど)の洋(うみ)けふもわたりて食卓(しよくたく)に薯蕷汁(とろろ)の飯(いひ)を人々たのしむ

わたつみの空(そら)はとほけどかたまれる雲(くも)の中(なか)より雷(らい)鳴りきこゆ

虹ふたつ空(そら)にたちけるそのひとつ直(す)ぐ眼(め)のまへにあるにあらずや

アデン湾にのぞむ山々展(ひら)くれど青きいろ見ゆる山一つなし

佐渡丸(さどまる)ととほり過がへり海わたる汽笛(きてき)かたみに高きひととき

朝あけて遠く目に入る鋭(と)き山(やま)をアフリカなりといふ声ぞする

空のはてながき余光(よくわう)をたもちつつ今日(けふ)よりは日がアフリカに落つ

夜(よる)八時バベルマンデブの海峡(かいけふ)を過ぎにけるかも星かがやきて

ペリム島(たう)亜刺比亜(アラビア)の国に近くしてその灯台の見えはじめたり

アフリカに日の入るときに前山(さきやま)は黒くなりつつ雲の中の日

あかつきは海のおもてに棚(たな)びける黄色(くわうしよく)の靄(もや)あな美(うつく)しも

紅海(こうかい)に入りたる船はのぼる陽(ひ)を右にふりさけ見れども飽かず

甚だしく紅(あか)かりし雲あせゆきて黙示(もくし)のごとき三つ星の見ゆ

紅海(こうかい)の船の上より見えてゐるカソリン山(ざん)は寂(さび)しかりけり

海風(うみかぜ)は北より吹きてはや寒しシナイの山に陽(ひ)は照りながら

Suez より Genef※(アキュートアクセント付きE小文字), Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の駅を経て Cairo 著。ピラミッド、スフィンクス等よりカイロ市街を観、Port Said に至る。同行神尾、薬師寺、庄司三氏のみ

大きなる砂漠のうへに軍隊(ぐんたい)のテントならびて飛行機飛べり

丘陵(きうりよう)のうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて

砂原(すなはら)[#ルビの「すなはら」は底本では「はなはら」]のうへに白々(しろじろ)と穂(ほ)にづるはしろがね薄(すすき)といふにし似たり

列(れつ)なしてゆく駱駝(らくだ)等のおこなひをエヂプトに来て見らくし好しも

Bitterlake(ビタレーキ) といふ湖水(みづうみ)が見ゆ小鴉(こがらす)のむれ飛びをるは何するらむか

土(つち)の家(いへ)部落をなして女(をんな)など折々(をりをり)いでて此方(こなた)見にけり

英吉利(えぎりす)の兵営なるかかたはらに軍馬(ぐんば)の調練(てうれん)せるところあり

モハメッドの僧侶ひとりが路上(ろじやう)にてただに太陽(たいやう)の礼拝(れいはい)をする

たかり来る蠅あやしまむ暇(いとま)なく小さき町に汽車を乗換ふ

白き鷺畑(はたけ)のなかに降(お)りて居り玉蜀黍(たうきび)の列(れつ)ながくつづく見ゆ

しづかなる午後の砂漠(さばく)にたち見えし三角(さんかく)の塔(たふ)あはれ色なし

ピラミッドの内部(ないぶ)に入りて外光(ぐわいくわう)をのぞきて見たりかはるがはるに

スフィンクスは大(おほ)きかりけり古(ふる)き民(たみ)これを造(つく)りて心なごみきや

はるばると砂に照りくる陽(ひ)に焼けてニルの大河(おほかは)けふぞわたれる

はるかなる国にしありき埃及(エヂプト)のニルの河べに立てるけふかも

ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ

朝床に聞こえつつゐる馬(うま)の鈴(すず)われの心をよみがへらしむ

黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ

この夕べ鯛(たひ)の刺身(さしみ)とナイル河(が)の鰻(うなぎ)食はしむ日本(にほん)の船(ふね)は

シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり

伊太利亜(イタリア)の Reggio(レツジヨ) の町を見つつ過ぐしらじらとせる川原(かはら)もありて

Messina(メツシナ) の海峡(かいけふ)わたり冬枯のさびたる山が目にし入(い)り来(く)も

孤独(こどく)なるストロンボリーのいただきに煙(けむり)たつ見ゆ親(した)しくもあるか

Bark(バルク) といふ三檣船(みはしらせん)も見えそめてコルシカ島(たう)に近づきゆかむ

朝さむきマルセーユにて白き霜錻力(ブリキ)のうへに見えつつあはれ

山のうへのみ寺に来り見さくるや勝鬨(かちどき)あぐる時にし似たり

十二月十五日[#「十二月十五日」は底本では「二月十五日」]午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴァリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鉄道(メトロ)等。十八日まで滞在す

霧くらく罩(こ)めて晴れざる巴里(パリー)にて豊(ゆたか)なるものを日々(ひび)に求めき

ルウヴルの中にはひりて魂(たましひ)もいたきばかりに去りあへぬかも

英雄(えいゆう)はその光(ひかり)をも永久(とは)にして放たむものぞ疑ふなゆめ

Ici repose un soldat fran※(セディラ付きC小文字)ais mort pour la patrie 1914-1918われもぬかづく

十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出発して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。
○爾来前田茂三郎君はじめ多くの同胞に会ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に会ふ。帰途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に届き、謝礼三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。
○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日、神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。

大きなる都会(とくわい)のなかにたどりつきわれ平凡(へいぼん)に盗難(たうなん)にあふ

美術館(ムゼウム)に入りて佇む時にのみおのれ一人(ひとり)の心(こころ)となりつ

おどおどと伯林(ベルリン)の中(なか)に居りし日の安(やす)らぎて維也納(ウインナ)に旅立たむとす
[#改丁]

      ○
 歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に当り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で静養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。
      ○
 自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して焼失してしまつた。そこでもはや奈何とも為ることが出来ないから、既に発表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正九年病のため静養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雑誌に発表した「温泉嶽」と題した十数首の歌は、皆この小帳面の中にあることを発見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬渓、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬渓から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は焼失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は焼けたから奈何ともすることが出来ない。
      ○
 焼失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大観すれば決して惜しむには足らぬけれども、焼失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には随分つまらぬ歌まで収録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての経験であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て来るが、これも初航海の経験者として免れがたいことであつた。
      ○
 私が帰朝して、火事のために、雑誌書籍を焼失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所蔵の新聞雑誌の切抜を贈られたのであつた。その諸友は、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出来たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに対し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十数年を経過した今日といへども毫も変るところがない。
      ○
 集の名「つゆじも」といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、万葉に、露霜乃消去之如久(ツユジモノケヌルガゴトク)。露霜之過麻之爾家礼(ツユジモノスギマシニケレ)などの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『露霜乃(ツユシモノ)、消安我身(ケヤスキワガミ)、雖老(オイヌトモ)、又若反(マタヲチカヘリ)、君乎思将待(キミヲシマタム)』(万葉巻十二)といふ歌もあるから、大体この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。
      ○
 この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以来新しい方から逆に発行しようと企てたから、本集の発行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)
      ○
 昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。
長崎に来てより百日(ももか)過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花
      ○
 ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)平氏が左のごとくに通信せられた。
大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松楽にて斎藤先生送別小宴を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)平)、斎藤先生に左の即吟あり
うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ
この家に酒に乱れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ
をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音
女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな
寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音
      ○
 昭和二十年九月、山形県金瓶在住中、熱海磯八荘なる永見徳太郎(夏汀)氏より来書、米軍の用ゐた原子爆弾の惨害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。
長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐(わに)の卵をわれは忘れず
南京(なんきん)の羹(あつもの)を我に食はしめし夏汀が嬬(つま)は美しきかな
しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば来(こ)し百穂(ひやくすゐ)も来(こ)し
      ○
 大正七年は自分の三十七歳の年に当るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌数は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)
      ○
 本歌集の発行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病気になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、斎藤茂吉記。)
了

底本:「歌集 つゆじも」短歌新聞社文庫、短歌新聞社
   2004(平成16)年7月6日初版発行
   2007(平成19)年9月10日再版発行
底本の親本:「歌集 つゆじも」岩波書店
   1946(昭和21)年8月30日
※「寛済」と「寛濟」、「ピナテル」と「ピナテール」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「齋藤茂吉全集 第一卷」岩波書店の表記にそって、あらためました。
※片仮名の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:光森裕樹
校正:のぶい
2018年2月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。