しもに掲げるのは、最近本多子爵ほんだししやく(仮名)から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎きたばたけぎいちらう(仮名)の遺書である。北畠ドクトルは、よし実名をあきらかにした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙しんしやして、明治初期の逸事瑣談いつじさだんを聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、なほ二三、予が仄聞そくぶんした事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。
 北庭筑波きたにはつくばが撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利イギリス風の頬髯を蓄へた、容貌魁偉くわいゐな紳士である。本多子爵によれば、体格も西洋人をしのぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋ていはんけう風の奔放な字で、その淋漓りんりたる墨痕ぼくこんの中にも、彼の風貌が看取かんしゆされない事もない。
 勿論予はこの遺書をおほやけにするに当つて、幾多の改竄かいざんを施した。たとへば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、ほとんど原文の調子をそつくりそのまま、ひき写したと云つても差支へない。
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 本多子爵閣下、並に夫人、
 予は予が最期さいごに際し、既往三年来、常に予が胸底にわだかまれる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿等けいらの前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。卿等にして若しこの遺書を読むの後、なほ卿等の故人たる予の記憶に対し、一片憐憫れんびんの情を動す事ありとせんか、そはもとより予にとりて、望外の大幸なり。されど又予を目して、万死の狂徒とし、まさしかばねに鞭打つて後む可しとするも、予に於てはがうも遺憾とする所なし。唯、予が告白せんとする事実の、余りに意想外なるの故を以て、みだりに予をふるに、神経病患者の名をる事なかれ。予は最近数ヶ月にわたりて、不眠症の為に苦しみつつありといへども、予が意識は明白にして、かつ極めて鋭敏なり。若し卿等にして、予が二十年来の相識さうしきたるを想起せんか。(予はあへて友人とは称せざる可し)ふ、予が精神的健康を疑ふ事勿れ。然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝ひれきせんとする此遺書の如きも、結局無用の故紙こしたると何の選ぶ所かこれあらん。
 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたるいやしむ可き危険人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予はここに於て、予が警告をふたたびするの、必要なる所以ゆゑんを感ぜざるあたはず。予は全然正気しやうきにして、予が告白は徹頭徹尾事実なり。卿等さいはひにそを信ぜよ。しかして予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈語げいごたらしむる事勿れ。
 予はこれ以上予の健全を喋々てふてふすべき余裕なし。予が生存すべき僅少なる時間は、直下ぢきげに予を駆りて、予が殺人の動機と実行とを叙し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。されど、嗚呼ああされど、予はけんに臨んで、なほ惶々くわうくわうとして自ら安からざるものあるを覚ゆ。おもふに予が過去を点検し記載するは、予にとりてふたたび過去の生活を営むと、畢竟ひつきやう何の差違かあらん。予は殺人の計画をふたたびし、その実行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざるべからず。是果して善く予の堪へ得可き所なりや否や。予は今にして、予が数年来失却したるわが耶蘇基督ヤソキリストに祈る。願くば予に力を与へ給へ。
 予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人(三人称を以て、呼ぶ事を許せ)往年の甘露寺明子かんろじあきこを愛したり。予の記憶にさかのぼりて、予が明子とともにしたる幸福なる時間を列記せんか。そは恐らく卿等が卒読そつどくはんに堪へざる所ならん。されど予はその例証として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。予は当時十六歳の少年にして、明子はいまだ十歳の少女なりき。五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚のもと嬉戯きぎせしが、明子は予に対して、隻脚せききやくにて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左のあしゆびを握り、右手を挙げて均衡を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是をひさしうしたりき。頭上の紫藤しとうは春日の光りを揺りて垂れ、藤下とうかの明子は凝然ぎようぜんとして彫塑てうその如くたたずめり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。ひそかに自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。爾来じらい予の明子に対する愛はますます烈しきを加へ、念々ねんねんに彼女を想ひて、ほとんど学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰晴いんせい定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々ばうばう数年の年月をけみせしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京竜動ロンドンに学ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、かかる機会を与ふるにやぶさかなりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦桑間濮上さうかんぼくじやうそしりおそれたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然こきふへうぜんとして英京に去れり。
 英吉利イギリス留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園こゑん紫藤花下しとうくわかなる明子をおもひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身をあはれみしか、そはここに叙説するの要なかる可し。予は唯、竜動ロンドンに在るの日、予が所謂いはゆる薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取満村恭平みつむらきようへいの妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯懦けふだと、留学中帰依きえしたる基督教キリストけうの信仰とは、不幸にして予が手を麻痺まひせしめしを如何いかん。卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、ふたたび英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、いたづらに精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、むしろチヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるのはるかに慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄はうきせしめ、加之しかのみならず予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子にらしめをはりぬ。
 是に於て予は予の失恋の慰藉ゐしやを神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次ぜんじ熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、いつに同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予はしばしば、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行人かうじん稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるをわらはずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、ひそかに従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷きよきせしを語るも善し。
 予が愛のあらたなる転向を得しは、所謂いはゆる「あきらめ」の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之をつまびらかにする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍さういを医し得たるの一事は疑ふべからず。是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎だかつの如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安のますます大にして、念頭いささかの苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書かうしよ十数輩と共に柳橋万八まんぱちの水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕いつせきくわんともにしたり。くわんか、歓か、予はその苦と云ふの、遙にまされる所以ゆゑんを思はざる能はず。予は日記に書していはく、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一肚皮いつとひの憤怨いづれの処に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、かかる禽獣の手にせしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸譎かんけつなる神の悪戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強人がうじんの為に凌辱りようじよくせられ、しかも猶天を仰いで神の御名みなとなふ可きものあらむ。予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼しききの手より救助す可し。」
 予はこの遺書をしたたむるに臨み、ふたたび当時ののろふ可き光景の、眼前に彷彿はうふつするを禁ずる能はず。かの蒼然さうぜんたる水靄すゐあいと、かの万点の紅燈と、而してかの隊々たいたいふくんで、尽くる所を知らざる画舫ぐわぼうの列と――嗚呼ああ、予は終生その夜、その半空はんくうに仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓たいぎを擁し、左に雛妓すうぎを従へ、猥褻わいせつ聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然がうぜんとして涼棚りやうはうの上に酣酔かんすゐしたる、かの肥大の如き満村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒絽くろろの羽織に抱明姜だきめうがの三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水楼煙火すゐろうえんくわを見しのゆふべに始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、むしろ不義をこらし不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。
 爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察にもとらざる痴漢なりや否やを検査したり。さいはひにして予が知人中、新聞記者を業とするもの、ただに二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成島柳北なるしまりうほく先生より、彼が西京祇園さいきやうぎをんの妓楼に、雛妓すうぎいまだ春をいだかざるものを※(「木+龍」、第4水準2-15-78)そろうして、以て死に到らしめしを仄聞そくぶんせしも、実に此間の事に属す。しかもこの無頼ぶらいの夫にして、つとに温良貞淑の称ある夫人明子を遇するや、奴婢どひと一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫癘えきれいさざるを得んや。既に彼を存するの風をおとし俗をみだ所以ゆゑんなるを知り、彼を除くの老をたすけ幼を憐む所以なるを知る。是に於て予が殺害の意志たりしものは、おもむろに殺害の計画と変化し来れり。
 然れども若し是に止らんか、予は恐らく予が殺人の計画を実行するに、なほ幾多の逡巡なきを得ざりしならん。幸か、抑亦そもまた不幸か、運命はこの危険なる時期に際して、予を予が年少の友たる本多子爵と、一夜墨上ぼくじやうの旗亭柏屋かしはやに会せしめ、以て酒間その口より一場の哀話を語らしめたり。予はこの時に至つて、始めて本多子爵と明子とが、既に許嫁いひなづけの約ありしにも関らず、かの、満村恭平が黄金の威に圧せられて、遂に破約のむ無きに至りしを知りぬ。予が心、あにいきどほりを加へざらんや。かの酒燈一穂しゆとういつすゐ画楼簾裡ぐわろうれんり黯淡あんたんたるの処、本多子爵と予とがはいを含んで、満村を痛罵せし当時を思へば、予は今に至つておのづから肉動くの感なきを得ず。されど同時に又、当夜人力車に乗じて、柏屋より帰るの途、本多子爵と明子との旧契を思ひて、一種名状す可らざる悲哀を感ぜしも、予は猶あきらかに記憶する所なり。請ふ。再び予が日記を引用するを許せ。「予は今夕本多子爵と会してより、いよいよ旬日の間に満村恭平を殺害す可しと決心したり。子爵の口吻より察するに、彼と明子とは、独り許嫁の約ありしのみならず、又実に相愛の情を抱きたるものの如し。(予は今日にして、子爵の独身生活の理由を発見し得たるを覚ゆ)若し予にして満村を殺害せんか、子爵と明子とが伉儷かうれいまつたうせんは、必しも難事にあらず。たまたま明子の満村に嫁して、いまだ一児を挙げざるは、あたかも天意亦予が計画をたすくるに似たるの観あり。予はかの獣心の巨紳を殺害するの結果、予の親愛なる子爵と明子とが、早晩幸福なる生活に入らんとするを思ひ、おのづから口辺の微笑を禁ずる事能はず。」
 今や予が殺人の計画は、一転して殺人の実行に移らんとす。予は幾度か周密なる思慮に思慮を重ねたるの後、やうやくにして満村を殺害す可き適当なる場所と手段とを選定したり。その何処いづこにして何なりしかは、敢て詳細なる叙述を試みるの要なかる可し。卿等にして猶明治十二年六月十二日、独逸ドイツ皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、満村恭平が同戯場ぎぢやうよりその自邸に帰らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事実を記憶せんか、予は新富座に於て満村の血色よろしからざる由を説き、これに所持の丸薬の服用を勧誘したる、一個壮年のドクトルありしを語れば足る。嗚呼、卿等請ふ、そのドクトルのおもてを想像せよ。彼は※(「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24)るゐるゐたる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口にたたずみつつ、霖雨の中に奔馳ほんちし去る満村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歓喜、ひとしく胸中に蝟集ゐしふし来り、笑声嗚咽をえつ共に唇頭しんとうに溢れんとして、ほとんど処の何処いづこたる、時の何時なんどきたるを忘却したりき。しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨せううを犯し泥濘でいねいを踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼のつぶやいて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。――「予は終夜眠らずして、予が書斎を徘徊はいくわいしたり。歓喜か、悲哀か、予はそを明にする能はず。唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一霎時いつせふじたりといへども、予をして安坐せざらしむるを如何いかん。予が卓上には三鞭酒シヤンペンしゆあり。薔薇の花あり。而して又かの丸薬の箱あり。予はほとんど、天使と悪魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。」
 予は爾来じらい数ヶ月の如く、幸福なる日子につしけみせし事あらず。満村の死因は警察医によりて、予の予想と寸分の相違もなく、脳出血の病名を与へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を虫蛆ちうその食としたるが如し。既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありとすものあらん。しかも仄聞そくぶんする所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、ひまあればすなはち本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、しばしばその花瓦斯はなガスとその掛毛氈かけまうせんとを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。
 然れどもこは真に、数ヶ月の間なりき。この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。そのたたかひの如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々ほほ予を死地に駆逐したるか。予は到底ここに叙説するの勇気なし。否、この遺書をしたためつつある現在さへも、予は猶この水蛇ハイドラの如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥いちべつせよ。
「十月×日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。帰朝以来、はじめ予は彼女を見るのおのれの為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に荏苒じんぜん今日に及べり。明子の明眸めいぼう、猶六年以前の如くなる可きや否や。
「十月×日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家におもむかんとしぬ。然るにあにはからんや、子爵は予に先立ちて、既に彼女を見る事両三度なりと云はんには。子爵の予を疎外する、何ぞくの如く甚しきや。予は甚しく不快を感じたるを以て、辞を患者の診察に託し、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうくわうとして子爵の家を辞したり。子爵は恐らく予の去りし後、単身明子を訪れしならんか。
「十一月×日、予は本多子爵と共に、明子をひぬ。明子は容色の幾分を減却したれども、猶紫藤花下しとうくわかに立ちし当年の少女を髣髴はうふつするは、いまだ必しも難事にあらず。嗚呼ああ予は既に明子を見たり。而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。予はその理由を知らざるに苦む。
「十二月×日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。されど――されど、予は予がふたたび明子を失ひつつあるが如き、異様なる苦痛を免るる事能はず。
「三月×日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、挙行せらるべしと云ふ。予はその一日もすみやかならん事を祈る。現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。
「六月十二日、予は独り新富座におもむけり。去年今月今日、予が手にたふれたる犠牲を思へば、予は観劇中もおのづから会心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予はほとんど帰趣きしゆを失ひたるかの感に打たれたり。嗚呼ああ、予は誰の為に満村恭平を殺せしか。本多子爵の為か、明子の為か、も亦予自身の為か。こは予も亦答ふる能はざるを如何いかん
「七月×日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を駆つて、隅田川の流燈会りうとうゑを見物せり。馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明眸めいぼうの更に美しかりしは、ほとんど予をしてかたはらに子爵あるを忘れしめぬ。されどそは予が語らんとする所にあらず。予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトをさぐりて、丸薬のはこを得たり。而してその「かの丸薬」なるに一驚したり。予は何が故に今宵この丸薬を携へたるか。偶然か、予は切にその偶然ならん事を庶幾こひねがふ。されどそは必しも偶然にはあらざりしものの如し。
「八月×日、予は子爵と明子と共に、予が家に晩餐を共にしたり。しかも予は終始、予がポケツトの底なるかの丸薬を忘るる事能はず。予の心は、殆予自身にとりても、不可解なる怪物を蔵するに似たり。
「十一月×日、子爵は遂に明子と結婚式を挙げたり。予は予自身に対して、名状し難き憤怒ふんぬを感ぜざるを得ず。その憤怒たるや、あたかも一度遁走とんそうせし兵士が、自己の怯懦けふだに対して感ずる羞恥しうちの情に似たるが如し。
「十二月×日、予は子爵のこひに応じて、之をその病床に見たり、明子亦傍にありて、夜来発熱甚しと云ふ。予は診察の後、その感冒に過ぎざるを云ひて、ただちに家に帰り、子爵の為に自ら調剤しぬ。その間約二時間、「かの丸薬」の函は終始予に恐る可き誘惑を持続したり。
「十二月×日、予は昨夜子爵を殺害せる悪夢におびやかされたり。終日胸中の不快を排し難し。
「二月×日、嗚呼予は今にして始めて知る、予が子爵を殺害せざらんが為には、予自身を殺害せざる可らざるを。されど明子は如何いかん。」
 子爵閣下、並に夫人、こは予が日記の大略なり。大略なりといへども、予が連日連夜の苦悶は、卿等必ずや善く了解せん。予は本多子爵を殺さざらんが為には、予自身を殺さざる可らず。されど予にして若し予自身を救はんが為に、本多子爵を殺さんか、予は予が満村恭平をほふりし理由を如何の地にか求む可けん。若し又彼を毒殺したる理由にして、予の自覚せざる利己主義に伏在したるものとさんか、予の人格、予の良心、予の道徳、予の主張は、すべて地を払つて消滅す可し。是もとより予の善く忍び得る所にあらず。予はむしろ、予自身を殺すの、遙に予が精神的破産にまされるを信ずるものなり。故に予は予が人格を樹立せんが為に、今宵「かの丸薬」の函によりて、かつて予が手にたふれたる犠牲と、同一運命を担はんとす。
 本多子爵閣下、並に夫人、予は如上じよじやうの理由の下に、卿等がこの遺書を手にするの時、既に死体となりて、予が寝台に横はらん。唯、死に際して、縷々るる予が呪ふ可き半生の秘密を告白したるは、亦以て卿等の為にいささかみづかいさぎよくせんと欲するが為のみ。卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。予は――自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎悪と憐憫とを蒙る可し。さらば予は筆をいて、予が馬車を命じ、ただちに新富座に赴かん。而して半日の観劇を終りたるの後、予は「かの丸薬」の幾粒を口にふくみて、ふたたび予が馬車に投ぜん。節物せつぶつもとより異れども、紛々たる細雨は、予をして幸に黄梅雨くわうばいうの天を彷彿せしむ。斯くして予はかの肥大に似たる満村恭平の如く、車窓の外に往来する燈火の光を見、車蓋しやがいの上に蕭々せうせうたる夜雨の音を聞きつつ、新富座を去る事はなはだ遠からずして、かならず予が最期の息を呼吸す可し。卿等亦明日の新聞を飜すの時、恐らくは予が遺書を得るに先立つて、ドクトル北畠義一郎が脳出血病を以て、観劇の帰途、馬車内に頓死せしの一項を読まんか。終に臨んで予は切に卿等が幸福と健在とを祈る。卿等に常に忠実なるしもべ、北畠義一郎拝。
(大正七年六月)

底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年7月6日公開
2004年2月23日修正
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