いつぞや上野うえのの博物館で、明治初期の文明に関する展覧会が開かれていた時の事である。ある曇った日の午後、わたくしはその展覧会の各室を一々叮嚀ていねいに見て歩いて、ようやく当時の版画はんがが陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚ガラスとだなの前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士しんしが眼にはいった。紳士は背のすらっとした、どこか花車きゃしゃな所のある老人で、折目の正しい黒ずくめの洋服に、上品な山高帽やまたかぼうをかぶっていた。私はこの姿を一目見ると、すぐにそれが四五日前に、ある会合の席上で紹介された本多子爵ほんだししゃくだと云う事に気がついた。が、近づきになってもない私も、子爵の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟とっさあいだ、側へ行って挨拶あいさつしたものかどうかを決しかねた。すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、おもむろにこちらを振返ったが、やがてその半白なひげおおわれた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」とやさしい声で会釈えしゃくをした。私はかすかな心のくつろぎを感じて、無言のまま、叮嚀ていねいにその会釈を返しながら、そっと子爵の側へ歩を移した。
 本多子爵は壮年時代の美貌びぼうが、まだ暮方くれがたの光の如く肉の落ちた顔のどこかに、ただよっている種類の人であった。が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。私は先達せんだっても今日の通り、唯一色の黒の中にものうい光を放っている、大きな真珠しんじゅのネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……
「どうです、この銅版画は。築地つきじ居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗も相当に面白く出来ているようです。」
 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。わたくしうなずいた。雲母きららのような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗をひるがえした蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重ひろしげめいた松の立木――そこには取材と手法とに共通した、一種の和洋折衷せっちゅうが、明治初期の芸術に特有な、美しい調和を示していた。この調和はそれ以来、永久に我々の芸術から失われた。いや、我々が生活する東京からも失われた。私が再びうなずきながら、この築地つきじ居留地の図は、独り銅版画として興味があるばかりでなく、牡丹ぼたん唐獅子からじしの絵を描いた相乗あいのり人力車じんりきしゃや、硝子取ガラスどりの芸者の写真が開化かいかを誇り合った時代を思い出させるので、一層なつかしみがあると云った。子爵はやはり微笑を浮べながら、私のことばを聞いていたが、静にその硝子戸棚の前を去って、隣のそれに並べてある大蘇芳年たいそよしとしの浮世絵の方へ、ゆっくりした歩調で歩みよると、
「じゃこの芳年よしとしをごらんなさい。洋服を着た菊五郎と銀杏返いちょうがえしの半四郎とが、火入ひいりの月の下で愁嘆場しゅうたんばを出している所です。これを見ると一層あの時代が、――あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたような時代が、ありありと眼の前に浮んで来るようじゃありませんか。」
 私は本多ほんだ子爵が、今でこそ交際嫌いで通っているが、その頃は洋行帰りの才子さいしとして、官界のみならず民間にも、しばしば声名をうたわれたと云う噂のはしも聞いていた。だから今、この人気ひとけの少い陳列室で、硝子戸棚の中にある当時の版画に囲まれながら、こう云う子爵のことばを耳にするのは、元より当然すぎるほど、ふさわしく思われる事であった。が、一方ではまたその当然すぎる事が、多少の反撥はんぱつを心に与えたので、私は子爵のことばが終ると共に、話題を当時から引離して、一般的な浮世絵の発達へ運ぼうと思っていた。しかし本多子爵は更に杖の銀の握りで、芳年の浮世絵をひとひとつさし示しながら、相不変あいかわらず低い声で、
「殊にわたしなどはこう云う版画を眺めていると、三四十年まえのあの時代が、まだ昨日きのうのような心もちがして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館ろくめいかんの舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。実を云うとさっきこの陳列室へはいった時から、もう私はあの時代の人間がみんなまた生き返って、我々の眼にこそ見えないが、そこにもここにも歩いている。――そうしてその幽霊ゆうれいが時々我々の耳へ口をつけて、そっと昔の話を囁いてくれる。――そんな怪しげな考えがどうしても念頭を離れないのです。殊に今の洋服を着た菊五郎などは、余りよく私の友だちに似ているので、あの似顔絵にがおえの前に立った時は、ほとんど久闊きゅうかつじょしたいくらい、半ば気味の悪い懐しささえ感じました。どうです。御嫌おいやでなかったら、その友だちの話でも聞いて頂くとしましょうか。」
 本多子爵はわざと眼をらせながら、私の気をかねるように、落着かない調子でこう云った。私は先達せんだって子爵と会った時に、紹介の労をった私の友人が、「この男は小説家ですから、何か面白い話があった時には、聞かせてやって下さい。」と頼んだのを思い出した。また、それがないにしても、その時にはもう私も、いつか子爵の懐古的な詠歎えいたんに釣りこまれて、出来るなら今にも子爵と二人で、過去の霧の中に隠れている「一等煉瓦レンガ」の繁華な市街へ、馬車を駆りたいとさえ思っていた。そこで私は頭を下げながら、喜んで「どうぞ」と相手を促した。
「じゃあすこへ行きましょう。」
 子爵のことばにつれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。室内にはもう一人も人影は見えなかった。ただ、周囲には多くの硝子戸棚ガラスとだなが、曇天のつめたい光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然じゃくねんと懸け並べていた。本多子爵は杖の銀の握りにあごをのせて、しばらくはじっとこの子爵自身の「記憶」のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を私の方に転じると、沈んだ声でこう語り出した。
「その友だちと云うのは、三浦直樹みうらなおきと云う男で、わたし仏蘭西フランスから帰って来る船の中で、偶然近づきになったのです。年は私と同じ二十五でしたが、あの芳年よしとしの菊五郎のように、色の白い、細面ほそおもての、長い髪をまん中から割った、いかにも明治初期の文明が人間になったような紳士でした。それが長い航海の間に、いつとなく私と懇意になって、帰朝後も互に一週間とは訪問をやした事がないくらい、親しい仲になったのです。
「三浦の親は何でも下谷したやあたりの大地主で、彼が仏蘭西フランスへ渡ると同時に、二人とも前後して歿くなったとか云う事でしたから、その一人息子だった彼は、当時もう相当な資産家になっていたのでしょう。私が知ってからの彼の生活は、ほんの御役目だけ第×銀行へ出るほかは、いつも懐手ふところでをして遊んでいられると云う、至極結構な身分だったのです。ですから彼は帰朝すると間もなく、親の代から住んでいる両国百本杭りょうごくひゃっぽんぐいの近くの邸宅に、気のいた西洋風の書斎を新築して、かなり贅沢ぜいたくな暮しをしていました。
「私はこう云っている中にも、向うの銅板画の一枚を見るように、その部屋の有様が歴々ありありと眼の前へ浮んで来ます。大川に臨んだ仏蘭西窓、へりに金を入れた白い天井てんじょう、赤いモロッコ皮の椅子いすや長椅子、壁にかっているナポレオン一世の肖像画、彫刻ほりのある黒檀こくたんの大きな書棚、鏡のついた大理石の煖炉だんろ、それからその上に載っている父親の遺愛の松の盆栽――すべてがある古い新しさを感じさせる、陰気なくらいけばけばしい、もう一つ形容すれば、どこか調子の狂った楽器のを思い出させる、やはりあの時代らしい書斎でした。しかもそう云う周囲の中に、三浦みうらはいつもナポレオン一世の下に陣取りながら、結城揃ゆうきぞろいか何かの襟を重ねて、ユウゴオのオリアンタアルでも読んで居ようと云うのですから、いよいよあすこに並べてある銅板画にでもありそうな光景です。そう云えばあの仏蘭西窓の外をふさいで、時々大きな白帆が通りすぎるのも、何となくもの珍しい心もちで眺めた覚えがありましたっけ。
「三浦は贅沢ぜいたくな暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋しんばしとか柳橋やなぎばしとか云う遊里に足を踏み入れる気色けしきもなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧ざんまいに耽っていたのです。これは勿論一つには、彼の蒲柳ほりゅうの体質が一切いっさいの不摂生を許さなかったからもありましょうが、また一つには彼の性情が、どちらかと云うと唯物的な当時の風潮とは正反対に、人一倍純粋な理想的傾向を帯びていたので、自然と孤独に甘んじるような境涯に置かれてしまったのでしょう。実際模範的な開化の紳士だった三浦が、多少彼の時代と色彩を異にしていたのは、この理想的な性情だけで、ここへ来ると彼はむしろ、もう一時代前の政治的夢想家に似通にかよっている所があったようです。
「その証拠は彼が私と二人で、ある日どこかの芝居でやっている神風連しんぷうれん狂言きょうげんを見に行った時の話です。たしか大野鉄平おおのてっぺいの自害の場の幕がしまったあとだったと思いますが、彼は突然私の方をふり向くと、『君は彼等に同情が出来るか。』と、真面目まじめな顔をして問いかけました。私は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。廃刀令はいとうれいが出たからと云って、一揆いっきを起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』と、至極冷淡な返事をしますと、彼は不服そうに首を振って、『それは彼等の主張は間違っていたかもしれない。しかし彼等がその主張にじゅんじた態度は、同情以上に価すると思う。』と、云うのです。そこで私がもう一度、『じゃ君は彼等のように、明治の世の中を神代かみよの昔に返そうと云う子供じみた夢のために、二つとない命を捨てても惜しくないと思うのか。』と、笑いながら反問しましたが、彼はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、信ずる所に殉ずるのだから、僕はそれで本望だ。』と、思い切ったように答えました。その時はこう云う彼のことばも、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうそのことばの中にいたましい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々おいおい話が進むに従って、自然と御会得ごえとくが参るでしょう。
「何しろ三浦は何によらず、こう云う態度で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕はアムウルのない結婚はしたくはない。』と云う調子で、どんない縁談が湧いて来ても、惜しげもなくことわってしまうのです。しかもそのまた彼のアムウルなるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分ずいぶん彼の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。それがはたで見ていても、余り歯痒はがゆい気がするので、時には私も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥ぎょうじゅうざがさえ容易には出来はしない。だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、い加減な候補者で満足するさ。』と、世話を焼いた事があるのですが、三浦はかえってその度に、憐むような眼で私を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』と、まるで相手にならないのです。が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な彼ではあるし、万一血統をやしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻ごんさいでも置いたらどうだとすすめた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような三浦ではありません。いや、耳を借さない所か、彼はその権妻ごんさいと云うことばが大嫌いで、日頃から私をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本ではめかけと云うものが公然と幅をかせているのだから。』と、よくわらってはいたものなのです。ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂いわゆるアムウルのある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。
「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国かんこく京城けいじょう赴任ふにんする事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の私の驚きは、大抵御想像がつきましょう。が、驚いたと同時に私は、いよいよ彼にもそのアムウルの相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。通知の文面はごく簡単なもので、ただ、藤井勝美ふじいかつみと云う御用商人の娘と縁談がととのったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島やなぎしま萩寺はぎでらへ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋こっとうやが藤井の父子おやこと一しょにまいり合せたので、つれ立って境内けいだいを歩いている中に、いつか互に見染みそめもし見染められもしたと云う次第なのです。何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門におうもん藁葺わらぶき屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨のはぎ』と云う芭蕉翁ばしょうおうの名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇きぐうにはあつらえ向きの舞台だったのに違いありません。しかしあの外出する時は、必ず巴里パリイ仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型もんきりがたなので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよくすぐられるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。それがまたさいわいと、即座に話がまとまって、表向きの仲人なこうどこしらえるが早いか、その秋の中に婚礼もとどこおりなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑おかしいと同時にねたましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。
「その頃の彼の手紙は、今でもわたしの手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目さいもくを根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養ばいように失敗した事、上野うえのの養育院の寄附を依頼された事、入梅にゅうばいで書物が大半びてしまった事、かかえの車夫が破傷風はしょうふうになった事、都座みやこざの西洋手品を見に行った事、蔵前くらまえに火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、彼が五姓田芳梅ごぜたほうばい画伯に依頼して、細君の肖像画しょうぞうがいて貰ったと云う一条です。その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私ものちに見ましたが、何でも束髪そくはつった勝美婦人かつみふじん毛金けきんぬいとりのある黒の模様で、薔薇ばらの花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔プロフィイルに描いたものでした。が、それは見る事が出来ても、当時の快活な三浦自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」
 本多子爵ほんだししゃくはこう云って、かすかな吐息といきを洩しながら、しばらくの間口をつぐんだ。じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国かんこく京城けいじょうから帰った時、万一三浦はもう物故ぶっこしていたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔にそそがずにはいられなかった。すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、おもむろに頭を振りながら、
「しかし何もこう云ったからと云って、彼がわたし留守中るすちゅうに故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱ゆううつらしい人間になっていたと云うだけです。これは私があの新橋しんばし停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊きゅうかつの手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。体でも悪いのじゃないか。』とたずねたほど、意外な感じに打たれました。が、彼はかえって私の怪しむのを不審がりながら、彼ばかりでなく彼の細君も至極健康だと答えるのです。そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『アムウルのある結婚』をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしまいました。それが追々おいおい笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面かめんに隠れている彼の煩悶はんもんに感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。
「私が始めて三浦の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、彼の大川端おおかわばたの屋敷へ招かれて、一夕の饗応きょうおうに預った時の事です。聞けば細君はかれこれ三浦と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。それが眉の濃い、血色あざやかな丸顔で、その晩は古代蝶鳥こだいちょうとりの模様か何かに繻珍しゅちんの帯をしめたのが、当時のことばを使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。が、三浦のアムウルの相手として、私が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。もっともこれはどこかと云うくらいな事で、私自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。殊に私の予想が狂うのは、今度三浦に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから彼の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。それ所か、あかるい空気洋燈ランプの光を囲んで、しばらく膳に向っているあいだに、彼の細君の溌剌はつらつたる才気は、すっかり私を敬服させてしまいました。俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対おうたいの仕振りの事を指すのでしょう。『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西フランスにでも御生れになればよかったのです。』――とうとう私は真面目まじめな顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。すると三浦もさかずきを含みながら、『それ見るがい。おれがいつも云う通りじゃないか。』と、からかうように横槍よこやりを入れましたが、そのからかうような彼のことばが、刹那のあいだ私の耳に面白くない響を伝えたのは、果して私の気のせいばかりだったでしょうか。いや、この時半ば怨ずる如く、ななめに彼を見た勝美かつみ夫人の眼が、余りに露骨ななまめかしさを裏切っているように思われたのは、果して私の邪推ばかりだったでしょうか。とにかく私はこの短い応答の間に、彼等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。今思えばあれは私にとって、三浦の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開まくあきだったのですが、当時は勿論私にしても、ほんの不安の影ばかりがきわどく頭をかすめただけで、後はまた元の如く、三浦を相手に賑なさかずきのやりとりを始めました。ですからその夜は文字通り一夕のかんを尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端おおかわばたの川風に俥上の微醺びくんを吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂いわゆるアムウルのある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。
「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来ゆききし合っていたのです。)ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度於伝仮名書おでんのかなぶみをやっていた新富座しんとみざを見物に行きますと、丁度向うの桟敷さじきの中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡オペラグラスを持って行ったので、勝美かつみ夫人もそのまる硝子ガラスの中に、燃え立つような掛毛氈かけもうせんを前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇ばらかと思われる花を束髪そくはつにさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋ふたえあごを休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例のなまめかしい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡オペラグラスを下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈えしゃくを返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥にうやうやしいものなのです。私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間たかどまを見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣のます派手はでな縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算つもりだったのでしょう。※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においの高い巻煙草をくわえながら、じろじろ私たちの方をうかがっていたのと、ぴったり視線が出会いました。私はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟とっさに眼をらせながらまた眼鏡オペラグラスをとり上げて、見るともなく向うの桟敷さじきを見ますと、三浦の細君のいるますには、もう一人女が坐っているのです。楢山ならやま女権論者じょけんろんしゃ――と云ったら、あるいは御聞き及びになった事がないものでもありますまい。当時相当な名声のあった楢山と云う代言人だいげんにんの細君で、盛に男女同権を主張した、とかく如何いかがわしい風評が絶えた事のない女です。私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡めがねをかけながら、まるで後見こうけんと云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感におびやかされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず襟を気にしながら、私たちのいる方へ――と云うよりは恐らく隣の縞の背広の方へ、意味ありげな眼を使っているのです。私はこの芝居見物の一日が、舞台の上の菊五郎きくごろう左団次さだんじより、三浦の細君と縞の背広と楢山の細君とを注意するのに、より多く費されたと云ったにしても、決して過言じゃありません。それほど私はにぎやか下座げざはやしと桜の釣枝つりえだとの世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、いまわしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。ですから中幕なかまくがすむと間もなく、あの二人の女連おんなづれが向うの桟敷さじきにいなくなった時、私は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々私の方へ眼をやっていましたが、みっつの巴の二つがなくなった今になっては、前ほど私もその浅黒い顔が、気にならないようになっていたのです。
「と云うと私がひどく邪推じゃすい深いように聞えますが、これはその若い男の浅黒い顔だちが、妙に私の反感を買ったからで、どうも私とその男との間には、――あるいは私たちとその男との間には、始めからある敵意が纏綿てんめんしているような気がしたのです。ですからその一月とたたない中に、あの大川おおかわへ臨んだ三浦の書斎で、彼自身その男を私に紹介してくれた時には、まるでなぞでもかけられたような、当惑に近い感情を味わずにはいられませんでした。何でも三浦の話によると、これは彼の細君の従弟いとこだそうで、当時××紡績会社でも歳の割には重用されている、敏腕の社員だと云う事です。成程そう云えば一つ卓子テエブルの紅茶を囲んで、多曖たわいもない雑談を交換しながら、巻煙草をふかせている間でさえ、彼が相当な才物さいぶつだと云う事はすぐに私にもわかりました。が、何も才物だからと云って、その人間に対する好悪こうおは、勿論変る訳もありません。いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼は必ず音を立てて紅茶をすすったり、巻煙草の灰を無造作むぞうさ卓子テエブルの上へ落したり、あるいはまた自分の洒落しゃれ声高こわだかに笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び私の反感を呼び起してしまうのです。ですから彼が三十分ばかり経って、会社の宴会とかへ出るために、いとまを告げて帰った時には、私は思わず立ち上って、部屋の中の俗悪な空気を新たにしたい一心から、川に向った仏蘭西窓フランスまどを一ぱいに大きく開きました。すると三浦は例の通り、薔薇ばらの花束を持った勝美かつみ夫人の額の下に坐りながら、『ひどく君はあの男が嫌いじゃないか。』と、たしなめるような声で云うのです。私『どうも虫が好かないのだから仕方がない。あれがまた君の細君の従弟だとは不思議だな。』三浦『不思議――だと云うと?』私『何。あんまり人間の種類が違いすぎるからさ。』三浦はしばらくのあいだ黙って、もう夕暮の光がただよっている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。その中に一つつりにでも出かけて見ては。』と、何のとっつきもない事を云い出しました。が、私は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉しかったので、『よかろう。釣なら僕は外交より自信がある。』と、急に元気よく答えますと、三浦も始めて微笑しながら、『外交よりか、じゃ僕は――そうさな、先ずアムウルよりは自信があるかも知れない。』私『すると君の細君以上の獲物えものがありそうだと云う事になるが。』三浦『そうしたらまた君にうらやんで貰うからいじゃないか。』私はこう云う三浦のことばの底に、何か針の如く私の耳を刺すものがあるのに気がつきました。が、夕暗の中にすかして見ると、彼は相不変あいかわらずひややかな表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。私『ところで釣にはいつ出かけよう。』三浦『いつでも君の都合つごうの好い時にしてくれ給え。』私『じゃ僕の方から手紙を出す事にしよう。』そこで私はおもむろに赤いモロッコ皮の椅子いすを離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮はくぼの書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子ようすでもぬすみ聴いていたらしく、静にたたずんでいたのです。しかもその人影は、私の姿が見えるや否や、咄嗟とっさに間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』と、なまめかしい声をかけるじゃありませんか。私は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美かつみ夫人をひややかに眺めながら、やはり無言のまま会釈えしゃくをして、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうくるまの待たせてある玄関の方へ急ぎました。この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。私はただ、私のくるま両国橋りょうごくばしの上を通る時も、絶えず口の中でつぶやいていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。
「それ以来私はあきらかに三浦の幽鬱な容子ようすかくしている秘密の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを感じ出しました。勿論その秘密の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)が、すぐむべき姦通かんつうの二字を私の心にきつけたのは、御断おことわりするまでもありますまい。が、もしそうだとすれば、なぜまたあの理想家の三浦ともあるものが、離婚を断行しないのでしょう。姦通の疑惑は抱いていても、その証拠がないからでしょうか。それともあるいは証拠があっても、なお離婚を躊躇するほど、勝美夫人を愛しているからでしょうか。私はこんな臆測を代り代りたくましくしながら、彼と釣りに行く約束があった事さえ忘れ果てて、かれこれ半月ばかりの間というものは、手紙こそ時には書きましたが、あれほどしばしば訪問した彼の大川端の邸宅にも、足踏さえしなくなってしまいました。ところがその半月ばかりが過ぎてから、私はまた偶然にもある予想外な事件に出合ったので、とうとう前約を果しかたがた、彼と差向いになる機会を利用して、直接彼に私の心労を打ち明けようと思い立ったのです。
「と云うのはある日の事、私はやはり友人のドクトルと中村座なかむらざを見物した帰り途に、たしか珍竹林ちんちくりん主人とか号していたあけぼの新聞でも古顔の記者と一しょになって、日の暮から降り出した雨の中を、当時柳橋やなぎばしにあった生稲いくいね一盞いっさんを傾けに行ったのです。所がそこの二階座敷で、江戸の昔をしのばせるような遠三味線とおじゃみせんを聞きながら、しばらく浅酌せんしゃくの趣を楽んでいると、その中に開化の戯作者げさくしゃのような珍竹林ちんちくりん主人が、ふと興に乗って、折々軽妙な洒落しゃれを交えながら、あの楢山ならやま夫人の醜聞スカンダアルを面白く話して聞かせ始めました。何でも夫人の前身は神戸あたりの洋妾らしゃめんだと云う事、一時は三遊亭円暁さんゆうていえんぎょう男妾おとこめかけにしていたと云う事、その頃は夫人の全盛時代で金の指環ばかり六つもめていたと云う事、それが二三年まえから不義理な借金で、ほとんど首もまわらないと云う事――珍竹林主人はまだこのほかにも、いろいろ内幕うちまくの不品行をっぱぬいて聞かせましたが、中でも私の心の上に一番不愉快な影を落したのは、近来はどこかの若い御新造ごしんぞうが楢山夫人の腰巾着こしぎんちゃくになって、歩いていると云う風評でした。しかもこの若い御新造は、時々女権論者と一しょに、水神すいじんあたりへ男連れで泊りこむらしいと云うじゃありませんか。私はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬けんしゅうの間でさえ、もの思わしげな三浦の姿が執念しゅうねく眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。が、幸いとドクトルは、早くも私のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手をあやつりながら、いつか話題を楢山夫人とは全く縁のない方面へ持って行ってくれましたから、私はやっと息をついて、ともかく一座の興をがない程度に、応対を続ける事が出来たのです。しかしその晩は私にとって、どこまでも運悪く出来上っていたのでしょう。女権論者の噂に気を腐らした私が、やがて二人と一しょに席を立って、生稲いくいねの玄関から帰りの俥へ乗ろうとしていると、急に一台の相乗俥あいのりぐるまほろを雨に光らせながら、勢いよくそこへきこみました。しかも私がくるまの上へ靴の片足を踏みかけたのと、向うの俥が桐油とうゆを下して、中の一人が沓脱くつぬぎへ勢いよく飛んで下りたのとが、ほとんど同時だったのです。私はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒かじぼうを上げる刹那の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』とつぶやかずにはいられませんでした。あいつと云うのは別人でもない、三浦の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だったのです。ですから私は雨の脚を俥の幌にはじきながら、燈火の多い広小路ひろこうじの往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥あいのりぐるまの中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念におびやかされました。あれは一体楢山夫人でしたろうか。あるいはまた束髪に薔薇ばらの花をさした勝美夫人だったでしょうか。私は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇そうこうと俥に身を隠した私自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお私には解く事の出来ない謎なのです。」
 本多子爵ほんだししゃくはどこからか、大きな絹の手巾ハンケチを出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。
「もっともこの問題はいずれにせよ、とにかく珍竹林ちんちくりん主人から聞いた話だけは、三浦の身にとって三考にも四考にも価する事ですから、私はその翌日すぐに手紙をやって、保養がてら約束のつりに出たいと思う日を知らせました。するとすぐに折り返して、三浦から返事が届きましたが、見るとその日は丁度十六夜じゅうろくやだから、釣よりも月見かたがた、日の暮から大川へ舟を出そうと云うのです。勿論私にしても格別釣に執着があった訳でもありませんから、早速彼の発議ほつぎに同意して、当日は兼ねての約束通り柳橋の舟宿ふなやどで落合ってから、まだ月の出ない中に、猪牙舟ちょきぶねで大川へ漕ぎ出しました。
「あの頃の大川おおかわの夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかも知れませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。現にその日も万八まんぱちの下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干らんかんが、仲秋のかすかな夕明りをゆらめかしている川波の空に、一反ひとそった一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄すいあいにぼやけた中には、目まぐるしく行き交う提灯ちょうちんばかりが、もう鬼灯ほおづきほどの小ささに点々と赤く動いていました。三浦『どうだ、この景色は。』私『そうさな、こればかりはいくら見たいと云ったって、西洋じゃとても見られない景色かも知れない。』三浦『すると君は景色なら、少しくらい旧弊きゅうへいでも差支えないと云う訳か。』私『まあ、景色だけは負けて置こう。』三浦『所が僕はまた近頃になって、すっかり開化なるものがいやになってしまった。』私『何んでも旧幕の修好使しゅうこうしがヴルヴァルを歩いているのを見て、あの口の悪いメリメと云うやつは、側にいたデュマか誰かに「おい、誰が一体日本人をあんな途方とほうもなく長い刀にしばりつけたのだろう。」と云ったそうだぜ。君なんぞは気をつけないと、すぐにメリメの毒舌でこきおろされる仲間らしいな。』三浦『いや、それよりもこんな話がある。いつか使に来た何如璋かじょしょうと云う支那人は、横浜の宿屋へ泊って日本人の夜着を見た時に、「これいにしえ寝衣しんいなるもの、此邦このくに夏周かしゅう遺制いせいあるなり。」とか何とか、感心したと云うじゃないか。だから何も旧弊だからって、一概には莫迦ばかに出来ない。』その中に上げしお川面かわもが、急に闇を加えたのに驚いて、ふとあたりを見まわすと、いつの間にか我々を乗せた猪牙舟ちょきぶねは、一段との音を早めながら、今ではもう両国橋を後にして、夜目にも黒い首尾しゅびまつの前へ、さしかかろうとしているのです。そこで私は一刻も早く、勝美かつみ夫人の問題へ話題を進めようと思いましたから、早速三浦の言尻ことばじりをつかまえて、『そんなに君が旧弊好きなら、あの開化な細君はどうするのだ。』と、さぐりのおもりを投げこみました。すると三浦はしばらくの間、私の問が聞えないように、まだ月代つきしろもしない御竹倉おたけぐらの空をじっと眺めていましたが、やがてその眼を私の顔に据えると、低いながらも力のある声で、『どうもしない。一週間ばかり前に離縁をした。』と、きっぱりと答えたじゃありませんか。私はこの意外な答に狼狽ろうばいして、思わずふなばたをつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』と、きわどい声でたずねました。三浦は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』と念を押すように問い返すのです。私『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢山ならやま夫人との関係だけは聞いていた。』三浦『じゃ、僕の妻と妻の従弟との関係は?』私『それも薄々推察していた。』三浦『それじゃ僕はもう何も云う必要はない筈だ。』私『しかし――しかし君はいつからそんな関係に気がついたのだ?』三浦『妻と妻の従弟とのか? それは結婚して三月ほど経ってから――丁度あの妻の肖像画を、五姓田芳梅ごせたほうばい画伯に依頼していて貰う前の事だった。』この答が私にとって、さらにまた意外だったのは、大抵たいてい御想像がつくでしょう。私『どうして君はまた、今日こんにちまでそんな事を黙認していたのだ?』三浦『黙認していたのじゃない。僕は肯定こうていしてやっていたのだ。』私は三度みたび意外な答に驚かされて、しばらくはただ茫然と彼の顔を見つめていると、三浦は少しも迫らない容子ようすで、『それは勿論妻と妻の従弟との現在の関係を肯定した訳じゃない。当時の僕が想像に描いていた彼等の関係を肯定してやったのだ。君は僕が「アムウルのある結婚」を主張していたのを覚えているだろう。あれは僕が僕の利己心を満足させたいための主張じゃない。僕はアムウルをすべての上に置いた結果だったのだ。だから僕は結婚後、僕等の間の愛情が純粋なものでない事を覚った時、一方僕の軽挙を後悔すると同時に、そう云う僕と同棲どうせいしなければならない妻も気の毒に感じたのだ。僕は君も知っている通り、元来体も壮健じゃない。その上僕は妻を愛そうと思っていても、妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、そもそも僕のアムウルなるものが、相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。だからもし妻と妻の従弟いとことの間に、僕と妻との間よりもっと純粋な愛情があったら、僕はいさぎよ幼馴染おさななじみの彼等のために犠牲ぎせいになってやる考だった。そうしなければアムウルをすべての上に置く僕の主張が、事実においてすたってしまう。実際あの妻の肖像画も万一そうなった暁に、妻の身代りとして僕の書斎に残して置く心算つもりだったのだ。』三浦はこう云いながら、また眼を向う河岸がしの空へ送りました。が、空はまるで黒幕でも垂らしたように、しい松浦まつうらの屋敷の上へ陰々と蔽いかかったまま、月の出らしい雲のけはいはいまだに少しも見えませんでした。私は巻煙草に火をつけた後で、『それから?』と相手を促しました。三浦『所が僕はそれから間もなく、妻の従弟の愛情アムウルが不純な事を発見したのだ。露骨に云えばあの男と楢山夫人との間にも、情交のある事を発見したのだ。どうして発見したかと云うような事は、君も格別聞きたくはなかろうし、僕も今更話したいとは思わない。が、とにかくある極めて偶然な機会から、僕自身彼等の密会する所を見たと云う事だけ云って置こう。』私は巻煙草の灰をふなばたの外に落しながら、あの生稲いくいねの雨の夜の記憶を、まざまざと心に描き出しました。が、三浦はよどみなくことばいで、『これが僕にとっては、正に第一の打撃だった。僕は彼等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような好意のある眼で、彼等の情事を見る事が出来なくなってしまったのだ。これは確か、君が朝鮮ちょうせんから帰って来た頃の事だったろう。あの頃の僕は、いかにして妻の従弟から妻を引き離そうかと云う問題に、毎日頭を悩ましていた。あの男のアムウル虚偽きょぎはあっても、妻のそれは純粋なのに違いない。――こう信じていた僕は、同時にまた妻自身の幸福のためにも、彼等の関係に交渉する必要があると信じていたのだ。が、彼等は――少くとも妻は、僕のこう云う素振そぶりに感づくと、僕が今まで彼等の関係を知らずにいて、その頃やっと気がついたものだから、嫉妬しっとに駆られ出したとでも解釈してしまったらしい。従って僕の妻は、それ以来僕に対して、敵意のある監視を加え始めた。いや、事によると時々は、君にさえ僕と同様の警戒を施していたかも知れない。』私『そう云えば、いつか君の細君は、書斎で我々が話しているのを立ち聴きをしていた事があった。』三浦『そうだろう、ずいぶんそのくらいな振舞ふるまいはし兼ねない女だった。』私たちはしばらく口をつぐんで、暗い川面かわもを眺めました。この時もう我々の猪牙舟ちょきぶねは、元の御厩橋おうまやばしの下をくぐりぬけて、かすかな舟脚ふなあしを夜の水に残しながら、彼是かれこれ駒形こまかたの並木近くへさしかかっていたのです。その中にまた三浦が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。だから僕の心もちが妻に通じない点で、――通じない所か、むしろ憎悪を買っている点で、それだけ余計に僕は煩悶はんもんした。君を新橋に出迎えて以来、とうとう今日きょうに至るまで、僕は始終この煩悶と闘わなければならなかったのだ。が、一週間ばかり前に、下女か何かの過失から、妻の手にはいる可き郵便が、僕の書斎へ来ているじゃないか。僕はすぐ妻の従弟の事を考えた。そうして――とうとうその手紙を開いて見た。すると、その手紙は思いもよらないほかの男から妻へ宛てた艶書えんしょだったのだ。言い換えれば、あの男に対する妻の愛情も、やはり純粋なものじゃなかったのだ。勿論この第二の打撃は、第一のそれよりもはるかに恐しい力を以て、あらゆる僕の理想を粉砕した。が、それと同時にまた、僕の責任が急に軽くなったような、悲しむべき安慰あんいの感情を味った事もまた事実だった。』三浦がこう語り終った時、丁度向う河岸がし並倉なみぐらの上には、もの凄いように赤い十六夜じゅうろくやの月が、始めて大きく上り始めました。私はさっきあの芳年よしとしの浮世絵を見て、洋服を着た菊五郎から三浦の事を思い出したのは、殊にその赤い月が、あの芝居の火入ひいりの月に似ていたからの事だったのです。あの色の白い、細面ほそおもての、長い髪をまん中から割った三浦は、こう云う月の出を眺めながら、急に長いいきくと、さびしい微笑を帯びた声で、『君は昔、神風連しんぷうれんが命をして争ったのも子供の夢だとけなした事がある。じゃ君の眼から見れば、僕の結婚生活なども――』私『そうだ。やはり子供の夢だったかも知れない。が、今日こんにち我々の目標にしている開化も、百年ののちになって見たら、やはり同じ子供の夢だろうじゃないか。……』」
 丁度本多子爵ほんだししゃくがここまで語り続けた時、我々はいつか側へ来た守衛しゅえいの口から、閉館の時刻がすでに迫っていると云う事を伝えられた。子爵とわたくしとはおもむろに立上って、もう一度周囲の浮世絵と銅版画とを見渡してから、そっとこのうす暗い陳列室の外へ出た。まるで我々自身も、あの硝子戸棚ガラスとだなから浮び出た過去の幽霊か何かのように。
(大正八年一月)

底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月8日修正
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