『オイ/\何處どこへ行くんだよ。』
 とおだいと云ふ裏町のお師匠さんが、柳町やなぎちやうの或寄席よせの前のきたない床屋から往來へ聲をかける。
 聲をかけられたのは、三人連にんづれの女である。いづれしま無地むぢかの吾妻アヅマコートに、紺か澁蛇しぶじやかの傘をして、めかし込んでゐるが、聲には氣もつかず、何やら笑ひさゞめきながら通過ぎやうとする。
『オイ/\、素通すどほり不可いけないよ。』とお大は一段聲を張あげてれつたさうに、
こゝにお大さんが控えて居るんだよ、莫迦野郎ばかやらうたゞは通しやしないよ。』
 三人のうちで、一番たけの高いお山と云ふ女がひよい振顧ふりむくと、『可厭いやだよ。誰かと思つたらお大なんだよ。』と苦笑にがわらひしながらばつが惡いと言ふていで顏を見る。
『フン、また芝居だろ。』とお大は赭顏あからがほに血走つたやうな目容めつきをして、『い年をして好い氣だね。』
 お山と云ふのは、もう三十四五の年増としまである。お大の姉で、これ常磐津ときはづのお師匠さんなのだ。亭主が此塲末の不景氣な床屋で、うちには小供が三人まであるが、其等それらは一切人のい亭主にたゝきつけておいて、年中近所の放蕩子息のらむすこや、若い浮氣娘と一緒になつて、芝居の總見そうけんや、寄席入よせつぱいりに、浮々うか/\と日を送り、大師詣だいしまゐりとか、穴守稻荷あなもりいなりとか、乃至ないしは淺草の花屋敷とか、團子坂の菊とか云ふと、眞先に飛出して騷※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。
 一二年前までは、妹のお大を臺所働だいどころばたらきやら、子供のもりやら、時偶ときたま代稽古などにも使つて、あごで追※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐたものが、今では妹の方が強くなり、町内の二三の若者が同情して、後楯うしろだてになつてくれたのを幸ひ、姉と大喧嘩をして、其まゝ別れ、別に一世帶構へることになつた。其以來二人は前世ぜんせかたきか何ぞのやうに仲が惡い。
 お山は二あしあし進寄つて、『何だよ大きな聲で……芝居に行かうと、何に行かうと餘計なお世話ぢやないか。お前に不義理な借金をてありやしまいし。』と言つて奧を窺込のぞきこむと、丁度凸凹でこぼこなりの姿見の前で、職工風の一人の男の頭にバリカンをかけてゐる、頭髮のモヂヤ/\した貧相なこゝの親方に、『今日こんちは。』と挨拶する。
 親方はガリ/\りながら、『よく降るぢやござんせんか。今日は本郷座ですね。』
『ハア、今日はお義理でね。眞實ほんとうに方々引張られるんで、遣切やりきれやしない。今日あたりうち寐轉ねころんでる方が、いくらいか知れやしない。』
うまく言つてるよ。』とお大は嫣然につこりともしない。
 床屋はちよい/\お山の顏を見ながら『お山さんは、何時いつでも引張凧ひつぱりだこだからね。』
『誰が引張るもんか。』とお大は相變らず喧嘩腰で、焦燥いら/\しながら『子供に襤褸ぼろを着せておいちや、年中役者騷ぎをしてゐるんぢやないか。亭主こそい面の皮だ。』
『何だね此人は。さう云ふお前は何だえ。』とお山は憎さげにお大の顏を見詰めて、『今日は酒にでも醉つてるんぢやないかい。可厭いやに人に突かゝるぢやないか。アヽ解つた、お前此頃松公まつこうにげを打たれたと云ふから、其で其樣そんなに自棄糞やけくそになつてるんだね。道理で目の色が變だと思つた。オヽ物騷々々!』
 床屋は『ウフヽ』と氣味の惡い笑方をする。
『大きにお世話だよ。』とお大は憤々ぶり/\して、『お氣毒きのどくさまだが、松公は此方こつちが見切をつけて縁を切つたんだよ。如彼あんなひよつとこの一人や二人、欲しけりや何時いつでも貴方あなたに上げますよ。』
『チヨツ莫迦ばかにしてるよ。松公はもと/\此方こつちの弟子ぢやないか。其をお前が引張込んで、散々さんざツぱら巫山戯ふざけ眞似まねをして置いて……』とだ何か毒づかうとしたが、急に周圍あたりに氣がつくと、低聲こごゑになつて、『ふうが惡いよお前は……。』
 お大は急に行詰つて、『アヽ何とでも言ふがい。わたしふうが惡いんだよ。』
『其にお前、昨夜ゆふべも宵の口にお前のうちの前を通つたら、ぴつたり戸を締めて、隣の洗濯屋の婆さんに聞いたら、其前の晩から歸らないつて言つてたよ。肝腎かんじん稼業かげふのお稽古もしないで、色情さかりのついた犬みたやうに、一體何處どこ彷徨うろついて歩いてゐるんだよ。』
 床屋は又ウフヽと笑ふ。
『お大さん、何だか風向かざむきが惡いね。』
『何を言つてやがるんだよ。』とお大は血走つたやうな目で床屋をねめつけ、肉と血とでふくらんだ頬をいよいふくらましたが、『何とでも言ふがいよ。口は重寶なものさ。』ともう焦燥いら/\して口がけず、口惜くやしさうに姉の顏を見詰めてゐる。
『それに其風そのふうは何だよ。』とお山は言ふだけの事は云つてやると云ふふうで、『お前着物を如何どうなんだよ。此寒いのに、ベラ/\したあはせかなんかで。其樣そん姿なりで此邊を彷徨うろ/\しておくれでないよ、眞實ほんとうに外聞が惡いから。』
『フン、どつちが外聞が惡いんだらう。私や十歳とをの時からねえさんの御奉公してゐたんだよ。其で姉さんの手から、半襟はんゑりかけくれたこともありやしないで。チヨツ利いたふうな事を言つてるよ。』
『其は、お前が、腕もありもしない癖に、妙に私にたてつくぢやないか。だから、私が、もう少し辛抱おつて言つてるのに、お前がなんでもかんでも一本立でやつて見せますつてんで……。』
『アヽ姉さんとこに一生おさんどんをして居たらいでせうけれどね……。』
 お山はちよツと時計をのぞいて、『オヤもう四時だよ。お大、人を呼込んでおいて、用事は其限それきりかい。又うちを明けてあるんだらうから、日の暮れないうち、早くお歸り。』とお山は言棄てて、コートの裾を※(「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)からげながら、ゴタ/\した秋雨あきさめの町を菊坂の方へ急いでゆく。
 お大は後で少時しばらく姉の惡口わるくちを言つてゐたが、此も日の暮に店を出て行く。
 狹い柳町の通は、造兵歸ざうへいがへりの職工で、※(「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52)にえくり返るやうである。軒燈けんとう徐々そろ/\雨の中から光出して、暖かい煙の這出はひだして來る飯屋めしや繩暖簾なはのれんの前には、腕車くるまが幾臺となく置いてある。お大は何處かの番傘をして、ブヨ/\した横肥よこぶとりの體を、町の片側からノソ/\と歩いてゐる。
 お大は姉と違つて、ちひさい時分から苦勞性の女であつたが、糸道いとみちにかけては餘程鈍い方で、姉も毎日手古摺てこずつて居た。其癖負けぬ氣の氣象きしやうで、加之おまけに喧嘩がすきと來て居る。何か知ら始終不平を持つてゐる女で、其狹い額を見ても、曇然どんよりした目のうちを見ても、何處か一癖ありさうな顏構つらがまへである。
 別れて出たては至極しごくおだやかで、白山はくさんあたりから通つて來る、或大工だいくと懇意になつて、其大工が始終長火鉢のそばに頑張つてゐた。朝から酒を飮み、日の暮れぬうちから寢込んで、二人とも夢中になつてゐたもので、少しばかり附いた弟子も、不殘のこらず見限つて離れてしまひ、肩を入れた近所の若い者も、ばつたり足を絶つて了つた。がお大は一向平氣で居た。
 すると、この夏頃から、松公といふ、色白の若い蕎麥屋そばや出前でまへ口説くどき落して、かね(大工の名)の目を忍んで、チヨイ/\うちへ引張込むやうになつた。松公は無論本氣ではなかつたらしいが、女が容易に放さぬので、可厭々々いや/\ながらも自由になつてゐた。其事が何時いつ薄々金かねの耳へ入つた。かねの足は、何時かバツタリ絶えてしまふ。
 其樣そん心算つもりではなかつたから、お大は繁々しげ/\かねへ呼出をかける。第一大切の米櫃こめびつなくして了つては、此先生活の道がないので、見かけによらぬ氣の小いお大は、氣が氣でない。がかねは其きり涕汁はなも引かけない。處へ松公は段々お大が鼻について、始終氣のない素振を見せる。お大のすさみ出した感情はますますさむばかりだ。
 松公はこの四五日、姿も見せない。お大は頭腦あたまも體も燃えるやうなので、うちじつとしてゐる瀬はなく、毎日ぶら/\と其處そこら中彷徨うろつきまはつて、妄濫むやみやたらと行逢ふ人に突かゝつて喧嘩をふつかけて居る。
 丸山の下の横丁まで來ると、其角そのかどを曲る出前持の松公に逢つた。松公は蕎麥そばの出前を、ウンと肩の上へ積上げて、片手に傘をして居たが、女の姿を見て見ぬふりをして行過ぎやうとする。
『ずるいよお前さんは……。』とお大は叫びながら、轉げさうに寄つて來て、
『此人は眞實ほんとうに薄情だよ。』とつかみかゝりさうにする。
 男はヒヨイと立停たちどまつて、ニヤ/\笑ひながら、『何をするんだ、あぶねえな。』
『危えも糞もあつたものか。サア此から私のうちまでお出で。來なけや引張つて行つてやるから。』
笑談じやうだんぢやない。用があるなら、後で行くから……え。眞實ほんとうだ。急ぎなんだから、勘辨しておくんねえ。』
『そんなら私がいて行つたつていだらう。そしてかへりに引張つて行くから。』
其樣そんなになくたつて、逃げも隱れもしやしねえ。』と松公は何處迄どこまでも素直に出て、『眞實ほんとうに惡かつたよ。だけど、二三日體が惡くて、店へも出なかつたんだから、爲方しかたがねえぢやねえか。』
『嘘をおきでないよ。』
『嘘なもんか。實際だよ。』と松公はひとりで笑つて、『第一おれは金さんに濟まないと云ふ、其も有るからね。が、どつちにしても行く。今夜必然きつと行く。』と胡散うさんくさい目色めつきをして、女を見下みおろす。
あてになるものか。』と女は鼻で笑つて、『お前さんの口前くちまへの巧いにもあきれるよ。』
『アレ、彼樣あんなことを言つてら。ぢやいや。う思つてるがいや。』
莫迦ばかにしてるよ。』と女は※(「弗+色」、第3水準1-90-60)むきになつて、『お大姐さんをだまして見やがれ、唯は置かねえから。』
 松公は相渝あひかはらずニヤ/\してゐたが、此女の毒口にかゝつては、堪らぬことを知つてゐるので、
『アヽいよ、好いつてことよ。だが遲くなつたら、行かないかも知れねえよ。』
『まさか、一時二時まで出前がありやしまいし。加之それに此頃は夜が長いよ。』
眞實ほんとうだ。』と松公は呟きながら、とほりを突切つてしまふ。
畜生ちきしやう!』とお大は無上に胸が焦燥いら/\して、『莫迦にしてら』と突拍子な聲を出しながら、スタ/\歩出す。
 細い路次ろじを通つて、うちの前まで來ると、表の戸は一昨日おとゝひ締めて行つたまゝである。何處をほつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたのか、宛然まるで夢中で、自分にも明瞭はつきりおぼへがない。が、今は淺草に住つてゐる友達と、一昨日おとゝひ一日公園をぶら/\遊んで、其晩其處そこで泊つたことは確である。昨日きのふは一日、芝で古道具屋をしてゐる叔母の處へ行つて、散々さんざツぱら姉の棚卸たなおろしや、自分の自惚のろけやら愚痴やら並べて、其晩寄席よせへ連出したことも確である。今日は日比谷の散歩やら、芝居の立見やら、滿つまらなく日を暮して、おしまひに床屋へ入込はいりこんで今まで油を賣つてゐたのであるが、氣がついて見ると、腹はもうかみつくやうにつてゐる。
 戸をあけてうちへ入らうとすると、闇の中から、あはれな細い啼聲なきごゑを立てゝ、雨にビシヨ/\濡れた飼猫の三毛がしきり人可懷ひとなつかしさうにからまつて來る。
 お大はハツと思つたが、小煩こうるさくなつて、
『チヨツうるさ畜生ちきしやうだね。いくら啼いたつて、もううちにや米なんざ一粒だつて有りやしないよ。お前よりか、此方こつち餘程よつぽどひもじいや。』と呶鳴どなりながら、火鉢と三味線の外、なんにもないうへへ上つて行く。
 で、手撈てさぐりに、火鉢の抽斗ひきだしからマツチを取出すと、手捷てばしこすりつけて、一昨日おとゝひ投出ほうりだして行つたまゝのランプを、臺所だいどこの口から持つて來て、火をけたが、もう何をする勇氣もなく、取放とりツぱなしの蒲團の上に、疲れた重い體をヅシンと投出したと思ふと、れつたさうに泣いて居た。
 三毛は暫く其處らをウソ/\彷徨さまようてゐたが、やがて絶望したのか、降連ふりしきる雨のなかを、悲しげな泣聲が次第に遠くへ消えて行つた。

底本:「明治文學全集68 徳田秋聲集」筑摩書房
   1971(昭和46)年
入力:網迫
校正:渡瀬淳志
1999年2月12日公開
2006年1月6日修正
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