十四の時豪商の立志伝や何かで、少年の過敏な頭脳を刺戟され、東京へ飛び出してから十一年間、新川の酒問屋で、傍目もふらず滅茶苦茶に働いた。表町で小さい家を借りて、酒に醤油、薪に炭、塩などの新店を出した時も、飯喰う隙が惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。始終襷がけの足袋跣のままで、店頭に腰かけて、モクモクと気忙しそうに飯を掻ッ込んでいた。
新吉はちょっといい縹致である。面長の色白で、鼻筋の通った、口元の優しい男である。ビジネスカットとかいうのに刈り込んで、襟の深い毛糸のシャツを着て、前垂がけで立ち働いている姿にすら、どことなく品があった。雪の深い水の清い山国育ちということが、皮膚の色沢の優れて美しいのでも解る。
お作を周旋したのは、同じ酒屋仲間の和泉屋という男であった。
「内儀さんを一人世話しましょう。いいのがありますぜ。」と和泉屋は、新吉の店がどうか成り立ちそうだという目論見のついた時分に口を切った。
新吉はすぐには話に乗らなかった。
「まだ海のものとも山のものとも知れねいんだからね。これなら大丈夫屋台骨が張って行けるという見越しがつかんことにゃ、私ア不安心で、とても嚊など持つ気になれやしない。嚊アを持ちゃ、子供が生れるものと覚悟せんけアなんねえしね。」とその淋しい顔に、不安らしい笑みを浮べた。
けれども新吉は、その必要は感じていた。注文取りに歩いている時でも、洗湯へ行っている間でも、小僧ばかりでは片時も安心が出来なかった。帳合いや、三度三度の飯も、自分の手と頭とを使わなければならなかった。新吉は、内儀さんを貰うと貰わないとの経済上の得失などを、深く綿密に考えていた。一々算盤珠を弾いて、口が一つ殖えればどう、二年経って子供が一人産れればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極めをつけて、幾年目にどれだけの資本が出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。
三月ばかり、内儀さんの問題で、頭脳を悩ましていたが、やっぱり貰わずにはいられなかった。
お作はそのころ本郷西片町の、ある官吏の屋敷に奉公していた。
産れは八王子のずっと手前の、ある小さい町で、叔父が伝通院前にかなりな鰹節屋を出していた。新吉は、ある日わざわざ汽車で乗り出して女の産れ在所へ身元調べに行った。
お作の宅は、その町のかなり大きな荒物屋であった。鍋、桶、瀬戸物、シャボン、塵紙、草履といった物をコテコテとならべて、老舗と見えて、黝んだ太い柱がツルツルと光っていた。
新吉はすぐ近所の、怪しげな暗い飲食店へ飛び込んで、チビチビと酒を呑みながら、女を捉えて、荒物屋の身上、家族の人柄、土地の風評などを、抜け目なく訊き糺した。女は油くさい島田の首を突き出しては、酌をしていたが、知っているだけのことは話してくれた。田地が少しばかりに、小さい物置同様の、倉のあることも話した。兄が百姓をしていて、弟が土地で養子に行っていることも話した。養蚕時には養蚕もするし、そっちこっちへ金の時貸しなどをしていることも弁った。
新吉自身の家柄との権衡から言えば、あまりドッとした縁辺でもなかった。新吉の家は、今はすっかり零落しているけれど、村では筋目正しい家の一ツであった。新吉は七、八歳までは、お坊ちゃんで育った。親戚にも家柄の家がたくさんある。物は亡くしても、家の格はさまで低くなかった。
けれど、新吉はそんなことにはあまり頓着もしなかった。自分の今の分際では、それで十分だと考えた。
そのことを、同じ村から出ている友達に相談してから、新吉はようやく談を進めた。見合いは近間の寄席ですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。お作は薄ッぺらな小紋縮緬のような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎から出ている兄との真中に、少し顔を斜にして坐っていた。叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄は菱なりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳が酔ったようになっていた。
寄席を出るとき、新吉は出てゆくお作の姿をチラリと見た。お作も振り顧って、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。
そこを出ると、和泉屋は不恰好な長い二重廻しの袖をヒラヒラさせて、一足先にお作の仲間と一緒に帰った。
「どうだい、どんな女だい。」と新吉はそっと友達に訊いた。
何だか頭脳がボッとしていた。叔父や兄貴の百姓百姓した風体が、何となく気にかかった。でも厭でたまらぬというほどでもなかった。
明日は朝早く、小僧を注文取りに出して、自分は店頭でせっせと樽を滌いでいると、まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男がある。柳原ものの、薄ッぺらな、例の二重廻しを着込んだ和泉屋である。
和泉屋は、羅紗の硬そうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶して、そのまま店頭へ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入れを抜いて莨を吸い出した。
「君の評判は大したもんですぜ。」と和泉屋は突如に高声で弁り出した。「先方じゃもうすっかり気に入っちゃって、何が何でも一緒にしたいと言うんです。」
「冷評しちゃいけませんよ。」と新吉はやっぱりザクザクやっている。気が気でないような心持もした。
「いやまったくですよ。」と和泉屋は反り身になって、「それで話は早い方がいいからッってんで、今日にでも日取りを決めてくれろと言うんですがね、どうです、女も決して悪いて方じゃないでしょう。」と和泉屋は、それから女の身上持ちのいいこと、気立ての優しいことなどをベラベラと説き立てた。星廻りや相性のことなども弁じて、独りで呑み込んでいた。支度はもとよりあろうはずはないけれど、それでもよかれ悪しかれ、箪笥の一棹ぐらいは持って来るだろう。夜具も一組は持ち込むだろう。とにかく貰って見給え、同じ働くにも、どんなに張合いがあって面白いか。あの女なら請け合って桝新のお釜を興しますと、小汚い歯齦に泡を溜めて説き勧めた。
新吉は帳場格子の前のところに腰かけて、何やらもの足りなそうな顔をして聴いていたが、「じゃ貰おうかね。」と首を傾げながら低声に言った。
「だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴な宅だとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。」
「そんなもんじゃありませんよ。物は試し、まあ貰って御覧なさい。」
和泉屋はほくほくもので帰って行った。
それから七日ばかり経ったある晩、新吉の宅には、いろいろの人が多勢集まった。前の朋輩が二人、小野という例の友達が一人――これはことに朝から詰めかけて、部屋の装飾や、今夜の料理の指揮などしてくれた。障子を張り替えたり、どこからか安い懸け物を買って来てくれなどした。新吉の着るような斜子の羽織と、何やらクタクタの袴を借りて来てくれたのも小野である。小さい口銭取りなどして、小才の利く、世話好きの男である。
料理の見積りをこの男がしてくれた時、新吉は優しい顔を顰めた。
「どうも困るな、こんな取着き身上で、そんな贅沢な真似なんかされちゃ……。何だか知んねえが、その引物とかいう物を廃そうじゃねえか。」
小野は怒りもしない。愛嬌のある丸顔に笑みを漂べて、「そう吝なことを言いなさんな。一生に一度じゃないか。こんな物を倹約したからって、何ほども違うものじゃありゃしない。第一見すぼらしくていけないよ。」
「でも君、私アまったくのところ酷工面して婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄を張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君私アそういう主義なんだぜ。君らのように懐手していい銭儲けの出来る人たア少し違うんだからね。」
「理窟は理窟さ。」と小野は笑顔を放さず、
「他の場合と異うんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人で稼げば。」
新吉は黒い指頭に、臭い莨を摘んで、真鍮の煙管に詰めて、炭の粉を埋けた鉄瓶の下で火を点けると、思案深い目容をして、濃い煙を噴いていた。
六畳の部屋には、もう総桐の箪笥が一棹据えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢、黄縞の座蒲団などが、赭い畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠い傭い婆さんが台所でその後始末をしていた。
新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかた噴き出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入れをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華やかなことが、質素な新吉の性に適わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏った一種の考えが、丁稚奉公をしてからこのかた彼の頭脳に強く染み込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。
三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りが点いていた。
新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でも淹れようか。」
「莫迦言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。
するうち綺麗に磨き立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷に点され、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子、盃なども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々叮寧に拭いた膳の上に並べて、それから見事な蝦や蛤を盛った、竹の色の青々した引物の籠をも、ズラリと茶の室へならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、埃の被らぬように、御馳走の上に被せて行いていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰の小袖を着込んで、目眩しいような目容で、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。
「サア、これでこっちの用意はすっかり出来揚った。何時おいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉の眼顆のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。
「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒に傍に坐って、頭を掻きながら、「私アどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕ぎつけて来た、長い年月の苦労を思うと、迂廻くねった小径をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火が、風もないのに眼先に揺いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。
「しかしもう来そうなものだね。」と小野は膝のうえで見ていた新聞紙から目を離して、「ひどく思わせぶりだな。」と生あくびをした。
「そうですね。」
「けど、まだ暮れたばかりですもの。」と他の二人も目を見合わせて、伸び上って、店口を覗いた。店は入口だけ残して、後は閉めきってある。小僧は火の気のない帳場格子の傍に坐って、懐手をしながら、コクリコクリ居睡りをしていた。時計がちょうど七時を打った。
小野と新吉とが、間もなく羽織袴を着けて坐り直した時分に、静かな宵の町をゴロゴロと腕車の響きが、遠くから聞え出した。
「ソラ来た!」
小野は新吉と顔を見合って起ち上った。他の両人も新吉も何ということなし起ち上った。
新開の暗い街を、鈍く曳いて来る腕車の音は、何となく物々しかった。
四人は店口に肩をならべ合って、暗い外を見透していた。向うの塩煎餅屋の軒明りが、暗い広い街の片側に淋しい光を投げていた。
新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒を卸した。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭の短い首を据えて、何やら淡色の紋附を着た和泉屋の内儀さんであった。三番目に見栄えのしない小躯のお作が、ひょッこりと降りると、その後から、叔父の連合いだという四十ばかりの女が、黒い吾妻コートを着て、「ハイ、御苦労さま。」と軽い東京弁で、若い衆に声かけながら降りた。兄貴は黒い鍔広の中折帽を冠って、殿をしていた。
和泉屋は小野と二人で、一同を席へ就かせた。
気爽らしい叔母はちょッと垢脱けのした女であった。眉の薄い目尻の下った、ボチャボチャした色白の顔で、愛嬌のある口元から金歯の光が洩れていた。
「ハイ、これは初めまして……私はこれの叔父の家内でございまして、実はこれのお袋があいにく二、三日加減が悪いとか申しまして、それで今日は私が出ましたようなわけで、どうかまあ何分よろしく……。このたびはまた不束な者を差し上げまして……。」とだらだらと叔母が口誼を述べると、続いて兄もキュウクツ張った調子で挨拶を済ました。
後はしばらく森として、蒼い莨の煙が、人々の目の前を漂うた。正面の右に坐った新吉は、テラテラした頭に血の気の美しい顔、目のうちにも優しい潤みをもって、腕組みしたまま、堅くなっていた。お作は薄化粧した顔をボッと紅くして、うつむいていた。坐った膝も詰り、肩や胸のあたりもスッとした方ではなかった。結立ての島田や櫛笄も、ひしゃげたような頭には何だか、持って来て載せたようにも見えた。でも、取り澄ました気振りは少しも見えず、折々表情のない目を挙げて、どこを見るともなく瞶めると、目眩しそうにまた伏せていた。
和泉屋と小野は、袴をシュッシュッ言わせながら、狭い座敷を出たり入ったりしていたが、するうち銚子や盃が運ばれて、手軽な三々九度の儀式が済むと、赤い盃が二側に居並んだ人々の手へ順々に廻された。
「おめでとう。」という声と一緒に、多勢が一斉にお辞儀をし合った。
新吉とお作の顔は、一様に熱って、目が美しく輝いていた。
盃が一順廻った時分に、小野がどこからか引っ張って来た若い謡謳いが、末座に坐って、いきなり突拍子な大声を張り揚げて、高砂を謳い出した。同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口が盛んにそちこちへ飛んだ。
「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。
新吉も席を離れて、「私のとこもまだ真の取着き身上で、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」
「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きい掌に猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「私は田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」
「イヤ私こそ。」と新吉は押し戴いて、「何しろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚と言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」
「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃を両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆がおありなさるから……。」
「オイ新さん、そう銭儲けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲りよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。
新吉は罰が悪そうに振り顧いて、淋しい顔に笑みを浮べた。「笑談じゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声で言った。
「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、談していたが、この時口を容れた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろ幸せですよ。男ッぷりはよし、伎倆はあるしね。」
「そうでございますとも。」と叔母は楊枝で金歯を弄りながら、愛想笑いをした。
「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらが混ぜッ交した。
銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香と莨の煙とが、一杯に漂うた。
「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうに喚いた。
和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪を挿し、長火鉢の前に、灯影に背いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
お作は顔を赧らめ、締りのない口元に皺を寄せて笑った。
小野が少し食べ酔って管を捲いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇を告げた。
「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴の気が知れねえ。」というように、新吉は酔いの退いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
明朝目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭には綺麗に火入れの灰を均した莨盆と、折り目の崩れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴の音が、眠りを貪った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織りの不断着に赤い襷をかけて、顔は下手につけた白粉が斑づくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負った四十ばかりの萎びた爺が一人、炭や味噌を買いに来ていた。
新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商いをした。
朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節の短い手に何やら石入りの指環を嵌めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で口を利き出した。
「婆さん、この間から話しておいたようなわけなんだから、私のところはもういいよ。婆さんの都合で、暇を取るのはいつでもかまわねえから……。」
婆さんは味噌汁の椀を下に置くと、「ハイハイ。」と二度ばかり頷いた。
「でも今日はまあ、何や彼や後片づけもございますし、あなたもおいでになった早々から水弄りも何でしょうからね……。」とお作に笑顔を向けた。
「己ンとこアそんなこと言ってる身分じゃねえ。今日からでも働いてもらわなけれアなんねえ。」と新吉は愛想もなく言った。
「ハアどうぞ!」とお作は低声で言った。
「オイ増蔵、何をぼんやり見ているんだ。サッサと飯を食っちまいねえ。」と新吉はプイと起った。
午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端を得意先へ配って歩いた。岡持を肩へかけて、少しばかりの醤油や酒をも持ち廻った。店が空きそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪を気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。
新吉は昨夜来たばかりの花嫁を捉えて、醤油や酒のよし悪し、値段などを教え始めた。
「この辺は貧乏人が多いんだから、皆細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭へ来て、桝飲みをきめ込む輩も、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口をこう捻って、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴ら撮み塩か何かで、グイグイ引っかけて去かア。宅は新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえという極めなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持を担ぎ出して、また出て行ってしまう。
晩方少し手隙になってから、新吉は質素な晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とに托けて、和泉屋へ行くと言って宅を出た。
お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴は小野が、余所から借りて来てくれたんだから……。」と低声に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言をかけることもあるが、心持は空竹を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶い出された。自分の宅の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑って辛抱してくれろと言った言を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈い体と一緒に熔け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
お作は机に肱を突いて、うっとりと広い新開の町を眺めた。淡い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行き遍っていた。凍んだような人の姿が夢のように、往来している。お作の目は潤んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。
幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕が出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳を使うような傾きもあった。
けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居がしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所だということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人にいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった。酒の割法が間違ったり、高い醤油を安く売ることなどはめずらしくなかった。帳面の調べや、得意先の様子なども、一向に呑み込めなかった。呑み込もうとする気合いも見えなかった。
そんなことがいくたびも重なると、新吉はぷりぷりして怒った。
「此奴はよっぽど間抜けだな。商人の内儀さんが、そんなこッてどうするんだ。三度三度の飯をどこへ食ってやがんだ。」
優しい新吉の口からこういう言葉が出るようになった。
お作は赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。
「ちょッ、しようがねえな。」と新吉は憤れったそうに、顔中を曇らせる。「己ア飛んだ者を背負い込んじゃったい。全体和泉屋も和泉屋じゃねえか。友達がいに、少しは何とか目口の明いた女房を世話しるがいいや。媒人口ばかり利きあがって……これじゃ人の足元を見て、押附けものをしたようなもんだ。」とブツブツ零している。
お作は、泣面かきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。
「明日から引っ込んでるがいい。店へなんぞ出られると、かえって家業の邪魔になる。奥でおん襤褸でも綴くッてる方がまだしも優だ。このくらいのことが勤まらねえようじゃ、どこへ行ったって勤まりそうなわけがない。それでよくお屋敷の奉公が勤まったもんだ。」
罵る新吉の舌には、毒と熱とがあった。
お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。
「私は莫迦ですから……。」とおどおどする。
新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨を喫す。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢のように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。
こう黙られると、お作の心はますますおどおどする。
「これから精々気をつけますから……。」と顫え声で詫びるのであるが、その言には自信も決心もなかった。ただ恐怖があるばかりであった。
こんなことのあった後では、お作はきっと奥の六畳の箪笥の前に坐り込んで、針仕事を始める。半日でも一日でも、新吉が口を利けば、例の目尻や口元に小皺を寄せた。人のよさそうな笑顔を向けながら、素直に受答えをするほか、自分からは熟んだ柿が潰れたとも言い出せなかった。
これまで親の膝下にいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だと讃められ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様から分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人からも半襟や簪などを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗されると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざと喧しく言って脅して見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗っても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている――と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。
それでも針の手を休めながら、折々溜息を吐くことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然に涙の零れることもあった。いっそ宅へ帰って、旧の屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下に人の影が見えぬと、そっと鏡の被いを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。――今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。
店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥を窺きに来る。お作は赤い顔をして、急いで鏡に被いをしてしまう。
「オイ、茶でも淹れないか。」と新吉はむずかしい顔をして、後へ引き返す。
長火鉢の傍で一緒になると、二人は妙に黙り込んでしまう。長火鉢には火が消えて、鉄瓶が冷たくなっている。
お作は妙におどついて、にわかに台所から消し炭を持って来て、星のような炭団の火を拾いあげては、折々新吉の顔色を候っていた。
「憤れったいな。」新吉は優しい舌鼓をして、火箸を引っ奪るように取ると、自分でフウフウ言いながら、火を起し始めた。
「一日何をしているんだな。お前なぞ飼っておくより、猫の子飼っておく方が、どのくらい気が利いてるか知れやしねえ。」と戯談のように言う。
お作は相変らずニヤニヤと笑って、じっと火の起るのを瞶めている。
新吉は熱った顔を両手で撫でて、「お前なんざ、真実に苦労というものをして見ねえんだから駄目だ。己なんざ、何しろ十四の時から新川へ奉公して、十一年間苦役われて来たんだ。食い物もろくに食わずに、土間に立詰めだ。指頭の千断れるような寒中、炭を挽かされる時なんざ、真実に泣いっちまうぜ。」
お作は皮膚の弛んだ口元に皺を寄せて、ニヤリと笑う。
「これから楽すれやいいじゃありませんか。」
「戯談じゃねえ。」新吉は吐き出すように言う。「これからが苦労なんだ。今まではただ体を動かせるばかりで辛抱さえしていれア、それでよかったんだが、自分で一軒の店を張って行くことになって見るてえと、そうは行かねえ。気苦労が大したもんだ。」
「その代り楽しみもあるでしょう。」
「どういう楽しみがあるね。」と新吉は目を丸くした。
「楽しみてえところへは、まだまだ行かねえ。そこまで漕ぎつけるのが大抵のことじゃありゃしねえ。それには内儀さんもしっかりしていてくれなけアならねえ。……それア己はやる。きっとやって見せる。転んでもただは起きねえ。けど、お前はどうだ。お前は三度三度無駄飯を食って、毎日毎日モゾクサしてるばかしじゃねえか。だから俺は働くにも張合いがねえ。厭になっちまう。」と新吉はウンザリした顔をする。
「でもお金が残るわ。」
「当然じゃねえか。」新吉は嬉しそうな笑みを目元に見せたが、じきにこわいような顔をする。お作が始末屋というよりは、金を使う気働きすらないということは、新吉には一つの気休めであった。お作には、ここを切り詰めて、ここをどうしようという所思もないが、その代り鐚一文自分の意志で使おうという気も起らぬ。ここへ来てから新吉の勝手元は少しずつ豊かになって来た。手廻りの道具も増えた。新吉がどこからか格安に買って来た手箪笥や鼠入らずがツヤツヤ光って、着物もまず一と通り揃った。保険もつければ、別に毎月の貯金もして来た。お作はただの一度も、自分の料簡で買物をしたことがない。新吉は三度三度のお菜までほとんど自分で見繕った。お作はただ鈍い機械のように引き廻されていた。
得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへ投り出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。
「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」
「吟味しろッて。」新吉は顔を顰めて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」
「旦那がそう言ったですよ。」
「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。
店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。
「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言を言って、新吉は旧の座へ帰って来た。得意先の所思を気にする様子が不安そうな目の色に見えた。
お作は番茶を淹れて、それから湿った塩煎餅を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛っていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋の蔭にある桜が、チラホラ白い葩を綻ばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来も、どこか騒ついて聞える。新吉は何だか長閑なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕がついて来たのも、一つの原因であろう。
お作は何かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華や蒲公英が咲いて……野良のポカポカする時分の摘み草なんか、真実に面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦を見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
お作は急に萎げてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実だ。」
新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。
桜の繁みに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経を見なくなった。お作は冷え性の女であった。唇の色も悪く、肌も綺麗ではなかった。歯性も弱かった。菊が移れるころになると、新吉に嗤われながら、裾へ安火を入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化れずに、上げて来ることなぞもあった。空風の寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少し劇しい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、揉み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口に一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点の上手があると聞いたので、それをも試みさした。
「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。
お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。
こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。
「嘘つけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。
「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分前からどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」
新吉は不安らしい目色で、妻の顔を見込んだ。
「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色で、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。
それから二人の間に、コナコナした湿やかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口を浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのが因で、アクザモクザ罵った果てに、何か厄介者でも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴ったことなども、我ながら浅ましく思われた。
それに、妊娠でもしたとなると、何だか気が更まるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。
お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着や襁褓のことまで言い出した。
「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。
お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢が出て、目のうちにも美しい湿いをもっていた。新吉はうっとりした目容で、その顔を眺めていた。
お作は婚礼当時と変らぬ初々しさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑や糸屑を拾う。新吉も側で読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」と急き立てられるような調子で、懈怠そうな身節がミリミリ言うほど伸びをする。
「もう親父になるのかな。」とその腕を擦っている。
「早いものですね、まるで夢のようね。」とお作もうっとりした目をして、媚びるように言う。「私のような者でも、子が出来ると思うと不思議ね。」
二人はそれから婚礼前後の心持などを憶い出して、つまらぬことをも意味ありそうに話し出した。こうした仲の睦まじい時、よく双方の親兄弟の噂などが出る。親戚の話や、自分らの幼い折の話なども出た。
「お産の時、阿母さんは田舎へ来ていろと言うんですけれど、家にいたっていいでしょう。」
時計が一時を打つと、お作は想い出したように、急いで床を延べる。新吉に寝衣を着せて床の中へ入れてから、自分はまたひとしきり、脱棄てを畳んだり、火鉢の火を消したりしていた。
二、三日はこういう風の交情が続く。新吉はフイと側へ寄って、お作の頬に熱いキスをすることなどもある。ふと思いついて、近所の寄席へ連れ出すこともあった。
が、そうした後では、じきに暴風が来る。思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。
「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」と新吉は昼間火鉢の前で、お作がフラフラと居眠りをしかけているのを見つけると、その鼻の先で癪らしく舌打ちをして、ついと後へ引き返してゆく。
お作はハッと思って、胸を騒がすのであるが、こうなるともう手の着けようがない。お作の知恵ではどうすることも出来なくなる。よくよく気が合わぬのだと思って、心の中で泣くよりほかなかった。新吉の仕向けは、まるで掌の裏を翻したようになって、顔を見るのも胸糞が悪そうであった。
秋の末になると、お作は田舎の実家へ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽な調子で新吉に話をつけた。
夫婦間の感情は、糸が縺れたように紛糾っていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくに衆の意嚮がそうであるらしく思われた。
新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒などを鞄の隅へ入れてやった。
「そのうちには己も行くさ。」
「真実に来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。
お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗したことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前のような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかに優だ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々する。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓をして、手紙を丸めて、投り出した。お袋に兄貴、従妹、と多勢一緒に撮った写真を送って来た時、新吉は、「何奴も此奴も百姓面してやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。
そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活をしていた。女は伊勢の産れとばかりで、素性が解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。
「君の内儀さんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野が訪ねて来た時不思議そうに訊いた。
「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容をした。
「解んねえな。どうせ素人じゃあるめえ。莫迦に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥けねえところもあるし……。」
「そんな代物じゃねえ。」と小野は目を逸して笑った。
小野は相変らず綺麗な姿をしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多の帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。
「私なんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。
「だが君はいいね。そうやって年中常綺羅でもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉は脂ッぽい煙管をむやみに火鉢の縁で敲いて、「私なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことを零し始める。
「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。
「どうしたか、己さっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。
「子供が出来れアそうも行くまい。」
「どんな餓鬼が出来るか。」と新吉は忌々しそうに呟いた。
小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、彼は少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」
「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致なんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴には気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤を引いちゃったのさ。」と新吉は溜息を吐いた。
「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」
「だが、彼奴もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩して、毒づかれて、打撲されてさ。……己頭から人間並みの待遇はしねえんだからね。」と新吉は空笑いをした。
「其奴ア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。
「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴も己の気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸の中が、抑えきれぬという風も見えた。
「そうでもねえんさ。」と小野は自分で頷いて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」
「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩しそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥の相違だ。」
二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気らしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐がないようにも思われた。
忙しい十二月が来た。新吉の体と頭脳はもうそんな問題を考えている隙もなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。
「少し手隙になったら、一度お作を訪ねて、奴にも悦ばしてやろう。」などと考えた。
ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色の吾妻コートを着た銀杏返しの女が一人、腕車でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
お国は下町風の扮装をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清しいながら目容は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌のある顔である。
「御免下さい。」と蓮葉のような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章てて片隅へ避けた。新吉は筆を耳に挟んだまま、軽く挨拶した。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱って、コートの前を外した。頬が寒い風に逢って来たので紅味を差して、湿みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡く、紊れ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶めたが、じきに視線を外して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
「真実に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「お忙しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更まって、お辞儀をして、ジロジロ四下を見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃って、小野なんざとても敵やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声で何やら言っていた。
新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
新吉は微温い茶を汲んで出しながら、「私なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲ける伎倆はねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆したように口を噤んだ。顔の紅味がいつか褪いて蒼くなっていた。
お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日朝夙く、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事に従いて出た。
「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰もない。昨夜は一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやら異しい。何か悪いことでもして未決へでも投ち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻では、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。
「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目を据えた。
「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。
お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」
「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。
「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑とか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国は馴れ馴れしげに火鉢に頬杖をついた。
「解んねえな。」と新吉も溜息を吐いた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」
「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口に触るような調子で、附け加えた。
「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深い目を見据えた。
「田舎のことア私にゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」
新吉の頭脳には、小野がこのごろの生活の贅沢なことがじきに浮んで来た。きっと危いことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。
お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へ起った。お国は新吉の知らない、小野の生活向きのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻を洩らしていた。
小野の拘引事件は思ったより面倒であった。拘引された日に警視庁からただちに田舎の裁判所へ送られた。詳しい事情は解らなかったが、田舎のある商人との取引き上、何か約束手形から生じた間違いだということだけが知れた。期限の切れた手形の日附を書き直して利用したとかいうのであった。訴えた方も狡猾だったが、小野のやり方もずるかった。小野からは内儀さんのところへ二、三度手紙が来た。新吉へもよこした。お国には東京に力となる親戚もないから、万事お世話を願う。青天白日の身になった暁、きっと恩返しをするからという意味の依頼もあった。弁護士を頼むについて、金が欲しいというようなことも言って来た。暮の二十日過ぎに、お国は新吉と相談して、方々借り集めたり、着物を質に入れなどして、少し纏まった金を送ってやった。
お国と新吉とはほとんど毎日のように顔を合わすようになった。新吉の方から出向かない日は、大抵お国が表町へやって来る。話はいつでも未決にいる小野のことや、裁判の噂で持ちきっている。もし二年も三年も入れられるようだったら、どうしたものだろうという、相談なども持ちかける。
「いろいろ人に訊いて見ますと、ちょっと重いそうですよ。二年くらいはどうしても入るだろうというんですがね。二年も入っていられたんじゃ、入っている者よりか、残された私がたまらないわ。向うは官費だけれど、こっちはそうは行かない。それにもう指環や櫛のような、少し目ぼしいものは大概金にして送ってやってしまったし……。」とお国は零しはじめる。
新吉は、「何、私だって小野君の人物は知ってるから、まさかあなた一人くらい日干しにするようなことはしやしない。どうかなるさ。」と言っていたが、これという目論見も立たなかった。
押し迫るにつれて店はだんだん忙しくなって来た。門にはもう軒並み竹が立てられて、ざわざわと風に鳴っていた。殺風景な新開の町にも、年の瀬の波は押し寄せて、逆上せたような新吉の目の色が渝っていた。お国はいつの間にか、この二、三日入浸りになっていた。奥のことは一切取り仕切って、永い間の手練の世帯向きのように気が利いた。新吉の目から見ると、することが少し蓮葉で、派手のように思われた。けれど働きぶりが活き活きしている。箒一ツ持っても、心持いいほど綺麗に掃いてくれる。始終薄暗かったランプがいつも皎々と明るく点されて、長火鉢も鼠不入も、テラテラ光っている。不器用なお作が拵えてくれた三度三度のゴツゴツした煮つけや、薄い汁物は、小器用なお国の手で拵えられた東京風のお菜と代って、膳の上にはうまい新香を欠かしたことがなかった。押入れを開けて見ても、台所へ出て見ても、痒いところへ手が届くように、整理が行き届いている。
新吉は何だかむず痒いような気がした。どこか気味悪いようにも思った。
「そんなにキチキチされちゃかえって困るな。」と顔を顰めて言う。「商売が商売だから、どうせそう綺麗事に行きゃしない。」
「でも心持が悪いじゃありませんか。」と、お国は遠慮して手を着けなかったお作の針函や行李や、ほどきものなどを始末しながら、古い足袋、腰巻きなどを引っ張り出していた。「何だか埃々してるじゃありませんか、お正月が来るってのに、これじゃしようがないわ。私はまた、自分の損得にかかわらず、見るとうっちゃっておけないという性分だから……。もういつからかここが気にかかってしようがなかったの。」といろいろな雑物を一束にしてキチンと行李にしまい込んだ。
新吉は苦い顔をして引っ込む。
こういうような仕事が二日も三日も続いた。お国はちょいちょい外へ買物にも出た。〆飾りや根松を買って来たり、神棚に供えるコマコマした器などを買って来てくれた。帳場の側に八寸ばかりの紅白の鏡餅を据えて、それに鎌倉蝦魚や、御幣を飾ってくれたのもお国である。喰積みとかいうような物も一ト通り拵えてくれた。晦日の晩には、店頭に積み上げた菰冠りに弓張が点されて、幽暗い新開の町も、この界隈ばかりは明るかった。奥は奥で、神棚の燈明がハタハタ風に揺めいて、小さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。
お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。
九時過ぎに、店の方はほぼ形がついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦を饗応うてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。黝んだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢が見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音が、硬く耳元に響く。
新吉は火鉢の前に胡坐をかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだ真の来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。
「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子を銅壺から引き揚げて、きまり悪そうな手容で新吉の前に差し出した。
新吉は、「何、私や勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。
「いいじゃありませんか。酒のお酌くらい……。」お国は新吉に注いでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。
新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」
お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口をなめる唇にも綺麗な湿いを持って来た。睫毛の長い目や、生え際の綺麗な額の辺が、うつむいていると、莫迦によく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終頭脳に附き絡うていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念が兆して来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑や反抗心も起って来た。
お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火に当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」
「だが、そうやって私のとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩に被せるような調子で言った。
お国は萎げたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。
しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召し食りませんか。」と叮寧な口を利く。
「小野さんも、この春は酒が飲めねえで、弱っているだろう。」と新吉はふと言い出した。
それから二人の間には、小野の風評が始まった。お国はあの人と知っているのは、もう二、三年前からのことで、これまでにも随分いい加減な嘘を聞かされた。そのころは自分もまだ一向初である若い書生肌の男と一緒に東京へ出て来た。宅は田舎で百姓をしている。その男が意気地がなかったので、長い間苦労をさせられた。それから間もなく小野と懇意になった。会社員だという触込みであったが、覩ると聴くとは大違いで、一緒に世帯を持って見ると、いろいろの襤褸が見えて来た。金は時たま三十四十と攫んでは来るが、表面に見せているほど、内面は気楽でなかった。才は働くし、弁口もあるし、附いていれば、まさかのめって死ぬようなこともあるまいけれど、何だか不安でならなかった。着物も着せてくれるし、芝居も見せてくれるが、それはその場きりで、前途の見越しがつかぬから、それだけで満足の出来よう道理がない……とお国はシンミリした調子で、柄にないジミな話をし始めた。
「私真実にそう思うわ。明けるともう二十五になるんだから、これを汐に綺麗に別れてしまおうかと……。」
新吉は黙っていた。聞いているうちに、何だか女というものの心持が、いくらか胸に染みるようにも思われた。
正月になってから、新吉は一度お作を田舎に訪ねた。
町が寂れているので、ここは春らしい感じもしなかった。通り路は、どこを見ても、皆窓の戸を鎖して寝ているかと思う宅ばかりで、北風に白く晒された路のそこここに、凍てついたような子守や子供の影が、ちらほら見えた。低い軒がどれもこれもよろけているようである。呉服屋の店には、色の褪めたような寄片が看るから手薄に並べてある。埃深い唐物屋や古着屋の店なども、年々衰えてゆく町の哀れさを思わせている。ふといつか飛び込んだことのある小料理屋が目に入った。怪しげなそこの門を入って、庭から離房めいた粗末な座敷へ通され、腐ったような刺身で、悪い酒を飲んで、お作一家の内状を捜った時は、自分ながら莫迦莫迦しいほど真面目であった。新吉は外方を向いて通り過ぎた。
こういう町に育ったお作の身の上が、何だか哀れなように思われてならなかった。この寂れた淋しい町に、もう二月の以上も、大きい腹を抱えて、土臭い人たちと一緒にいることを思うと、それも可哀そうであった。ショボショボしたような目、カッ詰ったような顔、蒼白い皮膚の色、ザラザラする掌や足、それがもう目に着くようであった。何だか済まないような気もしたが、行って顔を見るのが厭なような心持もした。
一里半ばかり、鼻のもげるような吹曝しの寒い田圃道を、腕車でノロノロやって来たので、梶棒と一緒に店頭へ降されたとき、ちょっとは歩けないくらい足が硬張っていた。
車夫に賃銀を払っていると、「マア!」と言ってお作が障子の蔭から出て来た。新吉が新調のインバネスを着て、紺がかった色気の中折を目深に冠った横顔が、見違えるほど綺麗に見え、うつむいて蟇口から銭を出している様子が、何だか一段も二段も人品が上ったように思えた。
「よく来られましたね。寒かったでしょう。」とお作は帽子やインバネスを脱がせて、先へ奥に入ると、
「阿母さん、宅でいらっしゃいましたよ。」と声をかけた。
新吉が薄暗い茶の室の火鉢の側に坐ると、寝ぼけたような顔をして、納戸のような次の室から母親が出て来た。リュウマチが持病なので、寒くなると炬燵にばかり潜り込んでいると聞いたが、いつか見た時よりは肥っている。気のせいか蒼脹れたようにも見える。目の性が悪いと見えて、縁が赭く、爛れ気味であった。
母親は長々と挨拶をした。新吉が歳暮の砂糖袋と、年玉の手拭とを一緒に断わって出すと、それにも二、三度叮寧にお辞儀をした。
しばらくすると、嫂も裏から上って来て、これも莫迦叮寧に挨拶した。兄貴はと訊くと、今日は隣村の弟の養家先へ行ったとかで、宅には男片が見えなかった。
嫂というのも、どこかこの近在の人で、口が一向に無調法な女であった。額の抜け上った姿も恰好もない、ひょろりとした体勢である。これまでにも二度ばかり見たが、顔の印象が残らなかった。先もそうであったらしい。今日こそは一ツ、お作の自慢の婿さんの顔をよく見てやろう……といった風でジロジロと見ていた。お作はベッタリ新吉の側へくっついて坐って、相変らずニヤニヤと笑っていた。
「サア、ここは悒鬱しくていけません。お作や、奥へお連れ申して……何はなくとも、春初めだから、お酒を一口……。」
「イヤ、そうもしていられません。」と新吉は頭を掻いた。「留守が誠に不安心でね……。」
「いいじゃありませんか。」お作は自分の実家だけに、甘えたような、浮ずったような調子で言う。
「サア、あちらへいらっしゃいよ。」
新吉は奥へ通った。お作が母親や嫂に口を利くのを聞いていると、良人の新吉のことを、主人か何かのように言っている。嫂に対してはそれが一層激しい。「あまり御酒は召し食りませんのですから。」とか、「宅は真実にせかせかした質でいらっしゃるんですから……。」とかいう風で……が、嫂の耳には格別それが異様にも響かぬらしい。「ヘエ、さいですか。」と新吉の顔ばかり見ている。新吉はこそばゆいような気がした。
しばらくすると、お作と二人きりになった。藁灰のフカフカした瀬戸物の火鉢に、炭をカンカン起して、ならんで当っていた。お作はいつの間にか、小紋の羽織に着替えていた。が東京にいた時より、顔がいくらか水々している。水ッぽいような目のうちにも一種の光があった。腹も思ったほど大きくもなかったが、それでも肩で息をしていた。気が重いのか、口の利き方も鈍かった。差し向いになると黙ってうつむいてしまうのであるが、折々媚びるような素振りをして、そっと男の顔を見上げていた。新吉は外方を向いて、壁にかかった東郷大将の石版摺りの硝子張りの額など見ていた。床の鏡餅に、大きな串柿が載せてあって、花瓶に梅が挿してあった。
「今日はお泊りなすってもいいんでしょう。」お作は何かのついでに言い出した。
「イヤ、そうは行かねえ。日一杯に帰るつもりで来たんだから。」新吉は素気もない言い方をする。
しばらく経ってから、「このごろ、小野さんのお内儀さんが来ているんですって……。」
「ア、お国か、来ている。」と新吉はどういうものか大きく出た。
お作はうつむいて灰を弄っていた。またしばらく経ってから、「あの方、ずっといるつもりなんですか。」
「サア、どういう気だか……彼女も何だか変な女だ。」新吉は投げ出すように言った。
「でも、ずるずるべったりにいられでもしたら困るでしょう。」お作は気の毒そうに、赤い顔をして言った。
新吉は黙っている。
「今のうち、断わっちまうわけには行かないんですの。」
「そうもいかないさ。お国だって、さしあたり行くところがないんだからね。」と新吉は胡散くさい目容をして、「それに宅だって、まるきり女手がなくちゃやりきれやしない。人を傭うとなると、これまたちょっと億劫なんです。だからこっちも別に損の行く話じゃねえし……。」と独りで頷いて見せた。
お作は一層不安そうな顔をした。
「でもこの間、和泉屋さんが行った時、あの方が一人で宅を切り廻していたとか……何だかそんなようなお話を、小石川の叔父さんにしていたそうですよ。」とお作はおずおず言った。「それに、あなたは少しも来て下さらないし、気分でも少し悪いと、私何だか心細くなって……何だってこんなところへ引っ込んだろうと、つくづくそう思うわ。」
「お前の方で引き取ったのじゃないか。親兄弟の側で産ませれば、何につけ安心だからというんで、小石川の叔母さんが来て連れて行ったんだろう。」と新吉は邪慳そうに言った。
「それはそうですけれど。」
「その時私がちゃんと小遣いまで配って、それから何分お願い申しますと、叔母っ子に頼んだくらいじゃないか。」と新吉の語気は少し急になって来た。
「己はすることだけはちゃんとしているんだ。お前に不足を言われるところはねえつもりだ。小野なんぞのすること見ねえ、あの内儀さんと一緒になってから、もう大分になるけれど、今に人の宅の部屋借りなんぞしてる始末だ。いろいろ聞いて見ると随分内儀さんを困らしておくそうだ。そのあげくに今度の事件だろう。内儀さんは裸になってしまったよ。いるところもなけれア、喰うことも出来やしない。その癖あの内儀さんと来たら、なかなか伎倆もんなんだ。客の応対ぶりだって、立派なもんだし、宅もキチンキチンとする方だし……どうしてお前なんざ、とても脚下へも追っ着きゃしねえ。」
お作は赤い顔をしてうつむいていた。
「私なんざ、内儀さんにはよくする方なんだ。これで不足を言われちゃ埋らないや。」
「不足を言うわけじゃないんですけれど……。」お作はあちらの部屋へ聞えでもするかと独りではらはらしていた。
「真実に……。」と鼻頭で笑って、「和泉屋の野郎、よけいなことばかり弁りやがって、彼奴に私が何の厄介になった。干渉される謂われはねえ。」と新吉はブツブツ言っていた。
「そうじゃないんですけれどね……。」お作はドギマギして来た。
「マア一口……。」と言って、初手に甘ッたるい屠蘇を飲まされた。それから黒塗りの膳が運ばれた。膳には仕出し屋から取ったらしい赤い刺身や椀や、鯔の塩焼きなどがならべてあった。
「サア、お作や、お前お酌をしてあげておくれ。あいにくお相をする者がおりませんでね……。」
お作は無器用な手容で、大きな銚子から酒を注いだ。新吉は刺身をペロペロと食って、けろりとしているかと思うと、思い出したように猪口を口へ持ってゆく。
「阿母さん、一つどうですな。」とやがて母親へ差した。
「さようでございますかね。それでは……。」と母親は似而非笑いをして、両手で猪口を受け取った。そうしてお作に少しばかり注がせて、じきに飲み干して返した。
「これも久しく東京へ出ていたせいでござりますか、大変に田舎を寂しがりまして……それに、だんだん産月も近づいて参りますと、気が鬱ぐと見えまして、もう自分で穴掘って入るようなことばかり言っておるでござります。」とそれからお作が亭主や家思いの、気立ての至って優しいものだということを説き出した。前に奉公していた邸で、ことのほか惜しまれたということ、稚い時分から、親や兄に、口答え一つしたことのない素直な性質だということも話した。生来体が弱いから、お産が重くでもあったら、さぞ応えるであろうと思って、朝晩に気をつけて大事にしていること、牛乳を一合ずつ飲まして、血の補いをつけておることなども話した。産れる子の初着などを、お作に持って来さして、お産の経験などをくどくどと話した。
新吉は「ハ、ハ。」と空返辞ばかりしていたが、その時はもう酒が大分廻って来た。
「お店の方も、追い追い御繁昌で、誠に結構でござります。」母親は話を変えた。
「お蔭でまアどうかこうか……。」と新吉は大概肴を荒してしまって、今度は莨を喫い出した。そうして気忙しそうに時計を引き出して、「もう四時だ。」
「マア、あなたようござりましょう。春初めだからもっと御ゆっくりなすって……そのうちには兄も帰ってまいります。」と母親は銚子を替えに立った。
二人とも黙ってうつむいてしまった。障子の日が、もう蔭ってしまって、部屋には夕気づいたような幽暗い影が漂うていた。風も静まったと見えて、外はひっそとしていた。
「今日は、真実にいいんでしょう。」お作はおずおず言い出した。
「商人が家を明けてどうするもんか。」と新吉は冷たい酒をグッと一ト口に飲んだ。
それからかれこれ一時間も引き留められたが、暇を告げる時、お作は低声で、「お産の時、きっと来て下さいよ。」と幾度も頼んだ。
店頭へ送って出る時、目に涙が一杯溜っていた。
腕車がステーションへ着くころ、灯がそこここの森蔭から見えていた。前の濁醪屋では、暖かそうな煮物のいい匂いが洩れて、濁声で談笑している労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子の唄を謳っているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚と言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。
汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目を瞑った。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。
飯田町のステーションを出るころは、酔いがもうすっかり醒めていた。新吉は何かに唆かされるような心持で、月の冴えた広い大道をフラフラと歩いて行った。
店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶の室には湯の沸る音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩に腰を揉ましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返しの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏しになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼を剥き出して、折々灯の方を瞶めていた。
坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管を二、三度、火鉢の縁に敲きつけると、疎ましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨を喫った。するうちお国は目を覚ました。
「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」
新吉は何とも言わなかった。
しばらくすると、お国は懈そうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。
「どうでした、お作さんは……。」
「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。
お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟くように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りに陥ちてしまう。
新吉は茶を二、三杯飲むと、ツト帳場へ出た。大きな帳面を拡げて、今日の附揚げをしようとしたが、妙に気がイライラして、落ち着かなかった。おそろしい自堕落な女の本性が、初めて見えて来たようにも思われた。
「莫迦にしてやがる。もう明日からお断わりだ。」
療治が済むと、お国は自分の財布から金をくれて按摩を返した。近所ではもうパタパタ戸が閉るころである。
お国はいつまでも、ぽつねんと火鉢の前に坐っていたが、新吉も十一時過ぎまで帳場にへばり着いていた。
寝支度に取りかかる時、二人はまた不快い顔を合わした。新吉はもう愛想がつきたという顔で、ろくろく口も利かず、蒲団のなかへ潜り込んだ。お国は洋燈を降したり、火を消したり、茶道具を洗ったり、いつもの通り働いていたが、これも気のない顔をしていた。
寝しなに、ランプの火で煙草を喫しながら、気がくさくさするような調子で、「アア、何だか厭になってしまった。」と溜息を吐いた。「もうどっちでもいいから、早く決まってくれればいい。裁判が決まらないうちは、どうすることも出来やしない。ね、新さん、どうしたんでしょうね。」
新吉は寝た振りをして聴いていたが、この時ちょっと身動きをした。
「解んねえ。けど、まア入るものと決めておいて、自分の体の振り方をつけた方がよかないかね。私あそう思うがね。」と声が半分蒲団に籠っていた。「そうして出て来るのを待つんですね。」
「ですけど、私だって、そう気長に構えてもいられませんからね。」と寝衣姿のまま自分の枕頭に蹲跪って、煙管をポンポン敲いた。「あの人の体だって、出て来てからどうなるか解りゃしない。」
新吉はもう黙っていた。
翌日目を覚まして見ると、お国はまだ寝ていた。戸を開けて、顔を洗っているうちに、ようやく起きて出た。
朝飯が済んでしまうと、お国は金盥に湯を取って、顔や手を洗い、お作の鏡台を取り出して来て、お扮飾をしはじめた。それが済むと、余所行きに着替えて、スッと店頭へ出て来た。
「私ちょいと出かけますから……。」と帳場の前に膝を突いて、どこへ行くとも言わず出てしまった。
新吉はどこか気がかりのように思ったが、黙って出してやった。小僧連は、一様に軽蔑するような目容で出て行く姿を見送った。
お国は昼になっても、晩になっても帰らなかった。新吉は一日不快そうな顔をしていた。晩に一杯飲みながら、新吉は女の噂をし始めた。
「どうせ彼奴は帰って来る気遣いないんだから、明朝から皆で交り番こに飯をたくんだぞ。」
小僧はてんでに女の悪口を言い出した。内儀さん気取りでいたとか、お客分のつもりでいるのが小面憎いとか、あれはただの女じゃあるまいなどと言い出した。
新吉はただ苦笑いしていた。
二月の末――お作が流産をしたという報知があってからしばらく経って、新吉が見舞いに行った時には、お作はまだ蒼い顔をしていた。小鼻も目肉も落ちて、髪もいくらか抜けていた。腰蒲団など当てて、足がまだよろつくようであった。
胎児は綺麗な男の子であったとかいうことである。少し重い物――行李を棚から卸した時、手を伸ばしたのが悪かったか知らぬが、その中には別に重いというほどの物もなければ、棚がさほど高いというほどでもない。が何しろ身体が弱いところへ、今年は別して寒じが強いのと、今一つはお作が苦労性で、いろいろの取越し苦労をしたり、今の身の上を心細がったり、表町の宅のことが気にかかったり、それやこれやで、あまりに神経を使い過ぎたせいだろう……というのがいいわけのような愚痴のような母親の言い分であった。
お作は流産してから、じきに気が遠くなり、そこらが暗くなって、このまま死ぬのじゃないかと思った、その前後の心持を、母親の説明の間々へ、喙を容れて話した。そうしてもう暗いところへやってしまったその子が不憫でならぬと言って泣き出した。いくら何でも自分の血を分けた子だのに、顔を見に来てくれなかったのは、私はとにかく、死んだ子が可哀そうだと怨んだ。
新吉も詳しい話を訊いてみると、何だか自分ながらおそろしいような気もした。そういう薄情なつもりではなかったが、言われて見ると自分の心はいかにも冷たかったと、つくづくそう思った。
「私はまた、どうせ死んでるんだから、なまじい顔でも見ちゃ、かえっていい心持がしねえだろうから、見ない方が優だという考えで……それにあのころは、小野の公判があるんで、東京から是非もう一人弁護士を差し向けてほしいという、当人の希望だったもんだから、お国と二人で、そっちこっち奔走していたんで……友達の義理でどうもしかたがなかったんだ。」といいわけをした。
「それならせめて初七日にでもいらして下されば……。」とお作は目に涙を一杯溜めて怨んだ。「それにあなたは、お国さんのことと言うと、家のことはうっちゃっても……。」と口の中でブツブツ言った。
これが新吉の耳には際立って鋭く響く。むろんお国は今でも宅へ入り浸っている。一度二度喧嘩して逐い出したこともあるが、初めの時はこっちが宥めて連れて帰り、二度目の時は、女の方から黙って帰って来た。連れて来たその晩には、京橋で一緒に天麩羅屋へ入って、飯を食って、電車で帰った。表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。それからのお国は、以前よりは素直であった。自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。
それから二、三日は、また仲をよく暮らすのであるが、後からじきに些細な葛藤が起きる。それでお国が出てゆくと、新吉は妙にその行く先などが気に引っかかって、一日腹立たしいような、胸苦しいような思いでいなければならぬのが、いかにも苦しかった。
「莫迦を言っちゃいけねえ。」新吉はわざと笑いつけた。「お国と己とが、どうかしてるとでも思ってるんだろう。」
「いいえ、そういうわけじゃありませんけれどね、子供が死んでも来て下さらないところを見れば、あなたは私のことなんぞ、もう何とも思っていらっしゃらないんだわ。」
新吉は横を向いて黙っていた。むろんお作の流産のことを想い出すと、病気に取り着かれるようであった。彼奴も可哀そうだ、一度は行って見てやらなければ……という気はあっても、さて踏み出して行く決心が出来なかった。明日は明日はと思いながら、つい延引になってしまった。頭脳が三方四方へ褫られているようで、この一月ばかりの新吉の胸の悩ましさというものは、口にも辞にも出せぬほどであった。その苦しい思いが、何でお作に解ろう。お作はとてもそういうことを打ち明ける相手ではないと、そう決めていた。
「それで、私が帰れば、お国さんは出てしまうんですの。」お作はおずおず訊いた。
新吉は、口のうちで何やら曖昧なことを言っていた。
「義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。」
「もう一週間も経てば、大概いいだろうと思うですがね……でも、お国さんがいては、私何だかいやだわ。阿母さんもそう言うんですわ。小石川の叔母さんだけは、それならばなおのこと、速く癒って帰らなければいけないと言うんですけれど……。」
新吉は、二人の間が、もうそういう危機に迫っているのかと、胸がはらはらするようであった。
「どちらにしても、お前が速く癒ってくれなければ……。」と気休めを言っていたが、そうテキパキ事情の決まるのが、何だかいやなような気がした。
新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車が町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭の親方が、細い目を瞠って、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋も荒物屋も、向うの塩煎餅屋の店頭に孫を膝に載せて坐っている耳の遠い爺さんの姿も、何となくなつかしかった。
腕車を降りると、お作はちょいと嫂を振り顧って躊躇した。
「姉さん……。」と顔を赧らめて、嫂から先へ入らせた。
店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口の方で、蓮葉なような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物のおいしいのを持って来て欲しいとか、この間の鮭は不味かったとか、そういうようなことを言っている。お前さんとこの親方は威勢がいいばかりで、肴は一向新しくないとか、刺身の作り方が拙くてしようがないとかいう小言もあった。
お作は嫂と一緒に、お客にでも来たように、火鉢を一尺も離れて、キチンと坐って聞いていた。
「それじゃね、晩にお刺身を一人前……いいかえ。」と言って、お国は台所の棚へ何やら収い込んでから、茶の室へ入って来た。軟かものの羽織を引っ被けて、丸髷に桃色の手絡をかけていた。生え際がクッキリしていて、お作も美しい女だと思った。
お国は、キチンと手を膝に突いている二人の姿を見ると、
「オヤ。」とびっくりしたような風をして、
「何てえんでしょう、私ちっとも知りませんでしたよ。それでも、もうそんなに快くおなんなすって。汽車に乗ってもいいんですか。」と火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直した。
「え、もう……。」とお作は淋しい笑顔を挙げて、「まだ十分というわけには行きませんけれど……。」と嫂の方を向いて、「姉さん、この方が小野さんのお内儀さん……。」
「さようでございますか。」と姉が挨拶しようとすると、お国はジロジロその様子を眺めて、少し横の方へ出て、洒々した風で挨拶した。そうして菓子を出したり、茶をいれたりした。
「あなたも流産なすったんですってね。私一度お見舞いに上ろうと思いながら……何しろ手が足りないんでしょう。」
お作は嫂と顔を見合わしてうつむいた。
「暮だって、お正月だって、私一人きりですもの。それに新さんと来たら、なかなかむずかしいんですからね……。マアこれでやっと安心です。人様の家を預かる気苦労というものはなかなか大抵じゃありませんね。」
「真実にね。」とお作は赤い顔をして、気の毒そうに言った。「どうも永々済みませんでした。」
お作はしばらくすると、着物を着替えて、それから台所へ出た。お国は、取っておいた鯵に、塩を少しばかり撒って、鉄灸で焼いてくれとか、漬物は下の方から出してくれとか、火鉢の側から指図がましく声かけた。お作は勝手なれぬ、人の家にいるような心持で、ドギマギしながら、昼飯の支度にかかった。
飯時分に新吉が帰って来た。新吉はお作の顔を見ると、「ホ……。」と言ったきりで、話をしかけるでもなかった。飯の時、お作はお国の次に坐って、わが家の飯を砂を噛むような思いで食った。
それでも、嫂のいるうちは、いくらか話が持てた。そうして家が賑やかであった。日の暮れ方になると、嫂は急に気を変えて、これから小石川へもちょっと寄らなければならぬからと言って、暇を告げようとした。お作は、にわかに寂しそうな顔をした。
お作は嫂を台所へ呼び出して、水口の方へ連れて行って、何やら密談をし始めた。
「お国さんは、まったく変ですよ。私何だか厭で厭で、しようがないわ。」と顔を顰めた。
「真実に勝手の強そうな、厭な女だね。」と嫂も心から憎そうに言った。「でも、いつまでもいるわけじゃないでしょう。私でも帰ったら、あの人も帰るでしょう。かまわないから、テキパキきめつけてやるといい。」
「でも、宅はどういう気なんでしょう。」
「サア、新さんが柔和しいからね。」と嫂も曖昧なことを言った。そうして溜息を吐いた。その顔を見ると、何だか望みが少なそうに見える。「お前さんは、よっぽどしっかりしなくちゃ駄目だよ。」と言っているようにも見えるし、「あの女にゃ、どうせ敵やしない。」と失望しているようにも見える。
三、四十分、顔を突き合わしていたが、別にどうという話も纏まらない。いずれその内にはお国が帰るだろうからとか、新さんだってまさか、あの人をどうしようという気でもあるまいから、しばらく辛抱おしなさいとか、そのくらいであった。
お作は嫂の口から、そのことをよく新吉に話してくれということを頼んだ。
「姉さんから、宅の人の料簡を訊いて見て下さいよ。」と言った。
「それはお作さんから訊く方がいいわ。私がそれを訊くと、何だか物に角が立って、かえって拙かないかね。」
「そうね。」とお作は困ったような顔をする。
台所から出て来た時、お国は店にいた。新吉も店にいた。お作と嫂の茶の室へ入って来る気勢がすると一緒に、お国も茶の室へ入って来た。それを機に、嫂が、「どうもお邪魔を致しました……。」と暇を告げる。
「オヤ、もうお帰り。マアいいじゃありませんか。」お国は空々しいような言い方をした。
嫂を送り出して、奥へ入って来ると、まだ灯の点かぬ部屋には夕方の色が漂うていた。お作は台所の入口の柱に凭りかかって、何を思うともなく、物思いに沈んでいた。裏手の貧乏長屋で、力のない赤子の啼き声が聞えて、乳が乏しくて、脾弛いような嗄れた声である。四下はひっそとして、他に何の音も響きも聞えない。お作は亡くなった子供の声を聞くように感ぜられて、何とも言えぬ悲しい思いが胸に迫って来た。冷たい土の底に、まだ死にきれずに泣いているような気もした。冷たい涙がポロポロと頬に伝わった。
お作は水口へ出て、しばらく泣いていた。
部屋へ入って来ると、お国がせッせとそこいらを掃き出していた。「ぼんやりした内儀さんだね。」と言いそうな顔をしている。
「あの、ランプは。」とお作がランプを出しに行こうとすると、「よござんすよ。あなたは御病人だから。」と大きな声で言って、埃を掃き出してしまい、箒を台所の壁のところへかけて、座蒲団を火鉢の前へ敷いた。「サア、お坐んなさい。」
お作はランプを点けてから背が低いので、それをお国にかけてもらって、「へ、へ。」と人のよさそうな笑い方をして、その片膝を立てて坐った。
晩飯の時、お国の話ばかり出た。小野の公判が今日あるはずだが、結果がどうだろうかと、新吉が言い出した。もし長く入るようだったら、私はもう破れかぶれだ……ということをお国が言っていた。
「それなれア気楽なもんだ。女一人くらい、どこへどう転がったって、まさか日干しになるようなことはありゃしませんからね。」と棄て鉢を言った。
お作は惘れたような顔をした。
「お前なんざ幸福ものだよ。」と新吉はお作に言いかけた。「お国さんを御覧、添って二年になるかならぬにこの始末だろう。己なんざ、たといどんなことがあったって、一日も女房を困らすようなことをしておきゃしねえ。拝んでいてもいいくらいのもんだ。まったくだぜ。」
お作はニヤニヤと笑っていた。
飯が済んでから、お作が台所へ出ていると、新吉とお国が火鉢に差し向いでベチャクチャと何か話していた。お国が帰ると言うのを新吉が止めているようにも聞えるし、またその反対で、お国が出て行くまいと言って、話がごてつくようにも聞えるが、その話は大分込み入っているらしい。いろんな情実が絡み合っているようにも思える。お作は洗うものを洗ってから、手も拭かずに、しばらく考え込んでいた。と、新吉は何かぷりぷりして、ふいと店へ出てしまったらしい。お作が入って来た時、お国は長煙管で、スパスパと莨を喫していた。
その晩三人は妙な工合であった。お作はランプの下で、仕事を始めようとしたが、何だか気が落ち着かなかった。それにしばらくうつむいていると、血の加減か、じきに頭脳がフラフラして来る。お国に何か話しかけられても、不思議に返辞をするのが億劫であった。新吉は湯に行くと言って出かけたきり、近所で油を売っていると見えて、いつまでも帰って来なかった。
十一時過ぎに、お作は床に就いても、やっぱり気が落ち着かなかった。それでウトウトするかと思うと、厭な夢に魘されなどしていた。新吉とお国と枕をならべて寝ているところを、夢に見た。側へ寄って、引き起そうとすると、二人はお作の顔を瞶めて、ゲラゲラと笑っていた。目を覚まして見ると、お国は独り離れて店の入口に寝ていた。
小野の刑期が、二年と決まった通知が来てから、お国の様子が、一層不穏になった。時とすると、小野のために、こんなにひどい目に逢わされたのがくやしいと言って、小野を呪うて見たり、こうなれば、私は腕一つでやり通すと言って、鼻息を荒くすることもあった。
お国にのさばられるのが、新吉にとっては、もう不愉快でたまらくなって来た。どうかすると、お国の心持がよく解ったような気がして、シミジミ同情を表することもあったが、後からはじきに、お国のわがままが癪に触って、憎い女のように思われた。お作が愚痴を零し出すと、新吉はいつでも鼻で遇って、相手にならなかったが、自分の胸には、お作以上の不平も鬱積していた。
三人は、毎日不快い顔を突き合わして暮した。お作は、お国さえ除けば、それで事は済むように思った。が、新吉はそうも思わなかった。
「どうするですね、やっぱり当分田舎へでも帰ったらどうかね。」と新吉はある日の午後お国に切り出した。
お国はその時、少し風邪の心地で、蟀谷のところに即効紙など貼って、取り散した風をしていた。
「それでなけア、東京でどこか奉公にでも入るか……。」と新吉はいつにない冷やかな態度で、「私のところにいるのは、いつまでいても、それは一向かまわないようなもんだがね。小野さんなんぞと違って、宅は商売屋だもんだで、何だかわけの解らない女がいるなんぞと思われても、あまり体裁がよくねえしね……。」
新吉はいつからか、言おうと思っていることをさらけ出そうとした。
ずっと離れて、薄暗いところで、針仕事をしていたお作は、折々目を挙げて、二人の顔を見た。
お国は嶮相な蒼い顔をして、火鉢の側に坐っていたが、しばらくすると、「え、それは私だって考えているんです。」
新吉は、まだ一つ二つ自分の方の都合をならべた。お国はじっと考え込んでいたが、大分経ってから、莨を喫し出すと一緒に、
「御心配入りません。私のことはどっちへ転んだって、体一つですから……。」と淋しく笑った。
「そうなんだ。……女てものは重宝なもんだからね。その代りどこへ行くということが決まれば、私もそれは出来るだけのことはするつもりだから。」
お国は黙って、釵で、自棄に頭を掻いていた。晩方飯が済むと、お国は急に押入れを開けて、行李の中を掻き廻していたが、帯を締め直して、羽織を着替えると、二人に、更まった挨拶をして、出て行こうとした。
その様子が、ひどく落ち着き払っていたので、新吉も多少不安を感じ出した。
「どこへ行くね。」と訊いて見たが、お国は、「え、ちょいと。」と言ったきり、ふいと出て行った。
新吉もお作も、後で口も利かなかった。
高ッ調子のお国がいなくなると、宅は水の退いたようにケソリとして来た。お作は場所塞げの厄介物を攘った気でいたが、新吉は何となく寂しそうな顔をしていた。お作に対する物の言いぶりにも、妙に角が立って来た。お国の行き先について、多少の不安もあったので、帰って来るのを、心待ちに待ちもした。
が、翌日も、お国は帰らなかった。新吉は帳場にばかり坐り込んで、往来に差す人の影に、鋭い目を配っていた。たまに奥へ入って来ても、不愉快そうに顔を顰めて、ろくろく坐りもしなかった。
お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味ッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。
「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。
「何か用かね。」
お作ははっきり返辞も出来なかった。
出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くという的もない。お作はただフラフラと歩いた。
表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩しいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、歩が自然に反対の方向に嚮いていたことに気がつくと、急に四辻の角に立ち停って四下を見廻した。
何だか、もと奉公していた家がなつかしいような気がした。始終拭き掃除をしていた部屋部屋のちんまりした様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛りのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。
お作は柳町まで来て、最中の折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端何か酬いられたような心持で、元気よく行き出した。
西片町界隈は、古いお馴染みの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作はの垣根際を行いている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸に湧いて来た。
家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立ち木の頂が、スクスクと新しい塀越しに見られる。お作は以前愛された旧主の門まで来て、ちょっと躊躇した。
門のうちに、綺麗な腕車が一台供待ちをしていた。
お作はこんもりした杜松の陰を脱けて、湯殿の横からコークス殻を敷いた水口へ出た。障子の蔭からそっと台所を窺くと、誰もいなかったが、台所の模様はいくらか変っていた。瓦斯など引いて、西洋料理の道具などもコテコテ並べてあった。自分のいたころから見ると、どこか豊かそうに見えた。
奥から子供を愛している女中の声が洩れて来た。夫人が誰かと話している声も聞えた。客は女らしい、華やかな笑い声もするようである。
しばらくすると、束髪に花簪を挿して、きちんとした姿をした十八、九の女が、ツカツカと出て来た。赤い盆を手に持っていたが、お作の姿を見ると、丸い目をクルクルさせて、「どなた?」と低声で訊いた。
「奥様いらっしゃいますか。」とお作は赤い顔をして言った。
「え、いらっしゃいますけれど……。」
「別に用はないんですけれど、前におりましたお作が伺ったと、そうおっしゃって……。」
「ハ、さよでございますか。」と女中はジロジロお作の様子を見たが、盆を拭いて、それに小さいコップを二つ載せて、奥へ引っ込んだ。
しばらくすると、二歳になる子が、片言交りに何やら言う声がする。咲み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りも蟠りもなかった。お作はこの暖かい邸で過した、三年の静かな生活を憶い出した。
奥様は急に出て来なかった。大分経ってから、女中が出て来て、「あの、こっちへお上んなさいな。」
お作は女中部屋へ上った。女中部屋の窓の障子のところに、でこぼこの鏡が立てかけてあった。白い前垂や羽織が壁にかかっている。しばらくすると、夫人がちょっと顔を出した。痩せぎすな、顔の淋しい女で、このごろことに毛が抜け上ったように思う。お作は平たくなってお辞儀をした。
「このごろはどうですね。商売屋じゃ、なかなか気骨が折れるだろうね。それに、お前何だか顔色が悪いようじゃないか。病気でもおしかい。」と夫人は詞をかけた。
「え……。」と言ってお作は早産のことなど話そうとしたが、夫人は気忙しそうに、「マアゆっくり遊んでおいで。」と言い棄てて奥へ入った。
しばらく女中と二人で、子供をあっちへ取りこっちへ取りして、愛していた。子供は乳色の顔をして、よく肥っていた。先月中小田原の方へ行っていて、自分も伴をしていたことなぞ、お竹は気爽に話し出した。話は罪のないことばかりで、小田原の海がどうだったとか、梅園がこうだとか、どこのお嬢さまが遊びに来て面白かったとか……お作は浮の空で聞いていた。
外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄が被っていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。
帰って見ると、店が何だか紛擾していた。いつもよく来る、赭ちゃけた髪の毛の長く伸びた、目の小さい、鼻のひしゃげた汚い男が、跣足のまま突っ立って、コップ酒を呷りながら、何やら大声で怒鳴っていた。小僧たちの顔を見ると、一様に不安そうな目色をして、酔漢を見守っている。奥の方でも何だかごてついているらしい。上り口に蓮葉な脱ぎ方をしてある、籐表の下駄は、お国のであった。
「お国さんが帰って?」と小僧に訊くと、小僧は「今帰りましたよ。」と胡散くさい目容でお作を見た。
そっと上って見ると、新吉は長火鉢のところに立て膝をして莨を吸っていた。お国は奥の押入れの前に、行李の蓋を取って、これも片膝を立てて、目に殺気を帯びていた。お作の影が差しても、二人は見て見ぬ振りをしている。
新吉はポンポンと煙管を敲いて、「小野さんに、それじゃ私が済まねえがね……。」と溜息を吐いた。
「新さんの知ったことじゃないわ。」とお国は赤い胴着のような物を畳んでいた。髪が昨日よりも一層強い紊れ方で、立てた膝のあたりから、友禅の腰巻きなどが媚めかしく零れていた。
「私ゃ私の行きどころへ行くんですもの。誰が何と言うもんですか。」と凄じい鼻息であった。
お作はぼんやり入口に突っ立っていた。
「それも、東京の内なら、私も文句は言わねえが、何も千葉くんだりへ行かねえだって……。」と新吉も少し激したような調子で、「千葉は何だね。」
「何だか、私も知らないんですがね、私ゃとても、東京で堅気の奉公なんざ出来やしませんから……。」
「それじゃ千葉の方は、お茶屋ででもあるのかね。」
お国は黙っている。新吉も黙って見ていた。
「私の体なんか、どこへどう流れてどうなるか解りゃしませんよ。一つ体を沈めてしまう気になれア、気楽なもんでさ。」とお国は投げ出すように言い出した。
「だけど、何も、それほどまでにせんでも……。」と新吉はオドついたような調子で、「そう棄て鉢になることもねえわけだがね。」と同じようなことを繰り返した。
「それア、私だって、何も自分で棄て鉢になりたかないんですわ。だけど、どういうもんだか、私アそうなるんですのさ。小野と一緒になる時なぞも、もうちゃんと締るつもりで……。」とお国は口の中で何やら言っていたが、急に溜息を吐いて、「真実にうっちゃっておいて下さいよ。小野のところから訊いて来たら、どこへ行ったか解らない、とそう言ってやって下さい。この先はどうなるんだか、私にも解らないんですから。」
「じゃ、マア、行くんなら行くとして、今夜に限ったこともあるまい。」
店がにわかにドヤドヤして来た。酔漢は、咽喉を絞るような声で唄い出した。
しばらくすると、食卓がランプの下に立てられた。新吉はしきりに興奮したような調子で、「酒をつけろ酒をつけろ。」とお作に呶鳴った。
「それじゃお別れに一つ頂きましょう。」お国も素直に言って、そこへ来て坐った。髪を撫でつけて、キチンとした風をしていた。お作はこの場の心持が、よく呑み込めなかった。お国がどこへ何しに行くかもよく解らなかった。新吉に叱られて、無意識に酒の酌などして、傍に畏まっていた。
お国は嶮しい目を光らせながら、グイグイ酒を飲んだ。飲めば飲むほど、顔が蒼くなった。外眦が少し釣り上って、蟀谷のところに脈が打っていた。唇が美しい潤いをもって、頬が削けていた。
新吉は赤い顔をして、うつむきがちであった。お国が千葉のお茶屋へ行って、今夜のように酒など引っ被って、棄て鉢を言っている様子が、ありあり目に浮んで来た。頭脳がガンガン鳴って、心臓の鼓動も激しかった。が、胸の底には、冷たいある物が流れていた。
「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口を干して渡した。
お作が黙ってお酌をした。
「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。
「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。
「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」
お作はその顔を見あげた。
酔漢はもう出たと見えて、店が森としていた。生温いような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。
「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息を吐いて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱いてポンと敲いた。
「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目を瞶めて、「私送ってもいいんだが……。」
「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。
お国は腕車で発った。
新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野の真中に横たわっているような気がした。
大分経ってから、掻巻きを被せてくれるお作の顔を、ジロリと見た。
新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。
* * *
「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠りが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重になった。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2011年5月25日修正
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