一

 夕方降り出した雨はその晩遅くまで続いた。しとしととした淋しい雨だった。丁度十時頃その軽い雨音が止んだ時、会社員らしい四人達れの客はあわただしそうに帰っていった。そして後には三人の学生とゲーム取りの女とが残った。
 室の中には濁った空気がどんよりと静まっていた。何だか疲れきったような空気がその中に在った。二つの球台たまだいの上には赤と白と四つの象牙球が、それでも瓦斯の光りを受けて美しく輝いていた。そして窓から、外の涼しい空気がすっと流れ込んだ時、ただ何とはなしに皆互の顔を見合った。
 室の奥の片隅にゲーム取りの女と一人の学生とが腰掛けていた。それと少し離れてすぐ球台の側の椅子に二人の大学生が並んでいた。村上という方は、色の白い眉の太い大柄おおがらな肥った男である。大分強い近眼鏡をかけているが、態度から容貌から凡て快活な印象を与える。之に反しても一人の方は、細そりとした身体つきで、浅黒い頬には多少神経質な閃きが見られた。遠くを見るような眼附をしながら、じっと眼を伏せる癖があった。松井という姓である。
「おい!」と村上は小声で松井の方を向いた。彼は眼の中で笑っていた。
 松井はただじっと村上の顔を見返しただけで、何とも云わなかった。
 村上はそのまま視線をそらして室の中をぐるりと見廻したが、急に立ち上った。
「おたかさん一つやろうか。」
「ええお願いしましょう。先刻さっきの仇討ちですよ。」
「なにいつも返り討ちにきまっているじゃないか。」
「へえ、今のうちにたんと大きい口をきいていらっしゃいよ。」
 女は立って来て布で球を拭いた。そしてそれを並べながら松井の方に声をかけた。
「松井さん、あちらでこちらのかたと如何です。」
「今日はもう疲れちゃった。」と松井は投げるように云った。
 其処にお上さんが奥から茶を汲んで出て来た。もう可なりのお婆さんである。いつも髪を小さく束ねて眉を剃っている。妙に人の顔をじろじろ見る風があった。
「どうかなすったんですか。」と上さんはすぐに会話を奪ってしまった。
「え!」と松井は怪訝な顔をした。
「大層沈んでいらっしゃるじゃありませんか。」
「そうですかね。」
「おやおや。まあお熱いところでも召上れ。」
 上さんはこう揶揄うように云いながら彼に茶をすすめた。そして向うに黙っているも一人の学生に声をかけた。
「林さん、こちらと一ついらっしゃい。」
 林と呼ばれた男はやはり黙ったまま笑顔をしてこちらを見ていた。
「さあいらっしゃいよ。」と上さんはまた松井を促した。
「今日は止しましょう。」と暫くして松井は云った。
「懐で物案じというんですね……。」と云いかけたが、彼女は急に調子を変えた。「まあご悠り遊んでいらっしゃい。」
 そして彼女は奥に入りながら、球をついていた村上に声をかけた。
「村上さん沢山負かしておやりなさい。この節は鼻っぱしばかり強くていけませんよ。」
 こう云われておたかは眼で笑ってみせた。
 夜遅くなるといつもおたか一人で、余り突けもしないが客の対手をしたりゲームを取ったりした。いつもは主人が客の対手をするんだが、もう大分頭の禿げかかった彼は、夜は眼がよく利かないと云って早くから奥にはいるのであった。で客の多い時は上さんが出て来て一方のゲームを取ったが、大抵はおたか一人であった。でよく夜更けまでおたかを相手に遊んでいく客があった。村上と松井と林とは殊に夜更かしの連中であった。村上と松井とは連れであった。林はいつも一人でやって来た。彼等が林という名前を知ったのも、「林さん如何です。」というおたかの言葉からであった。
 松井はその日午後から気分が晴々としなかった。考えるもの見るもの凡てが、しきりに胸の奥へ沈み込んでゆくような心地であった。そういう憂鬱は彼には珍らしくもなかった。彼はその時何時も自然に種々なことをしきりに考え込んだ。
 で彼はまたぼんやりと取りとめも無い思いに耽りながら、村上とおたかとに突かかる球を見ていた。それからふと視線をそらして林を見ると、林は一心に球の方を見つめている。
 その時松井の心にふと嫌悪の情が閃めいた。
 松井と村上とはよく遅くまで球突場を去らないことがあった。林もよく遅くまで遊んでいった。度々彼等は一緒になることがあった。そういう時は、屹度一方が帰るまで片方も立ち上らなかった。何ということなしに自然にそうなったのである。
 俺は何も林の向うを張るんじゃない、と松井は思った。第一おたかに対しても何の感情も持っていない。よしまた俺のうちに自分で自覚していない感情があるにしても、林なんかと競争をするものか。その妙にだだっ広い額、鼻筋の低い鼻、薄い髪の毛、ゆるんだ唇、もうそれで沢山だ!
 彼はつと立ち上って、窓に凭れて外を眺めた。すぐ前に大きい檜葉ひばがあって、その向うの右手の隅に八手やつでがあった。その葉には雨の露がまだ一杯たまっていた。でも空は綺麗に晴れて星がきらきらと輝いていた。星の光を見ていると、雨に清められた夜の空気が胸に染み込んでくるような気がした。
 暫くするとおい! と肩を叩かれたのでふり返ると、村上が立っていた。
「どうしたい。」
「散々まかされちゃった。」
 女はまだ球を突いていたが、おしまいに失礼と云いながら突き切ってしまった。
「さあも一度いらっしゃいよ。」
「もう止しだ。」
「負け腹を立てるなんか柄でもないわ。ねえ松井さん。」と女は睨むような眼付をした。
「おいおい、」と村上は口を入れた。「勝った時にはも少し口を慎むものだよ。」
「その代りに何か奢りなさいよ。」
「そうだねえ……何でも御望み次第。」
「懐の御都合次第。」と女は村上の調子を真似ながら笑った。
「おそば……はどうだ。」
「それから?」
「何がさ?」
「それから麦酒ビールというんでしょう。」
「いや今日は飲まない。それともおたかさんが半分けてくれるというんなら、そしてついでにお金の方もね。」
「それこそ占いだわ。」
 それをきいて松井も思わず微笑んだ。
「何が占いだ。」
「例の君の占いさ。」と松井が云った。
「ああこれは驚いた。そういつまでも覚えられていた日にはたまらないね。」
 けれども村上の顔にはそういう言葉の下からちらと淋しい影がさした。
 村上の占いというのはそう古い話ではない。丁度七月のはじめ梅雨も霽れようという頃であった。彼は少し入用の金が出来た。誰にも何とも云わなかったので分らないが、前後の事情から推すと、前から大分関係があった或る女とそれとなく別れるため二三日の旅をするつもりの金だろうと松井は思った。兎に角彼は少し纒まった金が入用になって、故郷広島のさる叔父に内々無心をしたのであった。暫く何の返事もなかった。彼は落ち付かない日を送った。ある晩ぶらぶら散歩していると薄暗い通りに占いの看板を見出した。変な気になって彼は遂にその晩、怪しい老人から吉の占いを得て帰った。翌朝叔父から金が届いたとのことである。
「占いをなすったことがあるんですか。」と林は初めて口を開いた。
「いや、つまらない事なんです。」と村上は答えた。
「あれで中々面白いものでしょうね。」
「さあどうですか。案外つまらないものかも知れませんよ。」
「そうですかねえ。」
 それっきり一寸皆黙ってしまった。
「おそばももう今晩はお流れだし、」とおたかが沈黙を破った。「松井さん、では一ゲームいらっしゃい。」
「もう今日は黙目だよ[#「黙目だよ」はママ]。」
「意気地なしだわねえ。林さん一つお願いしましょうか。」
 林はただ微笑んでみせた。
 おたかはもう突棒キューを手にして、媚ある眼でじっと見やった。で林はそのまま立ち上った。
 林は平素よりいくらか当りが悪いようだった。
「大変優勢だね。」と村上はおたかに声をかけた。
「ええ今晩は馬鹿にいいのよ。」こう云って彼女は怪しい笑みを洩らした。
 黙ってゲームを見ている松井の心にある佗びしい思いが湧いた。何ということもなく只捉え難い空虚の感である。瓦斯の光りが妙に淋しい。球の色艶が妙に儚い。
 彼は遠い物音をでもきくような気で球の音をきいていた。暫くして漸く心をきめた。
「おいもう帰ろうよ。」
「え!」と村上は松井の顔を覗き込んだ。
「僕は先に失敬しよう。」と松井は云い直した。
「いや僕ももう帰るよ。」
「おやもうお帰り?」おたかが親しい調子で云った。「今日は大変お早いんですね。」
 松井はじろりと林を見て、それからつと外に出た。村上もすぐ後に続いた。
 大地は心地よく湿っていた。空は綺麗に晴れて星が輝いていた。清い新鮮フレッシュな気が夜を罩めて、街路はひっそりと静まり返っている。夜更けの瓦斯の光りには、何処にも宵の雑沓の思い出がなかった。
「いい晩だねえ。」
「ああ。」
 暫く無言で歩いていたが村上は急に思い出したように云った。
「一体今日はどうしたんだい。」
「何が?」
「何だかいつもと調子が違うぜ。」
「ああそうか、」と云ったが、松井は急に種々なことが頭の中に湧き返った。種々の思いが一緒に口から出て来た。「僕はもうあの家で余り夜更しをしたくないと思ってる。球を突き倦いてしまってからまで愚図々々しているのはもう嫌になっちゃった。……第一あの林という男は不愉快だね。あの妙に黙ったねっちりした態度が気に喰わないや。それにどうしたんだか彼奴が居る間は僕達もやはり帰らないようになったんだね。何も彼奴の向うを張っておたかをどうかしようというんじゃあるまいし、実際馬鹿げてる。……一体余り遊んでると頭が散漫になっていけない。」
「妙な考え方をしたもんだね。そんなことを考えるからいけないんだ。まあ君、ある遊戯を二人なり三人なりでやる場合に、対手が其処に居る間はこちらもやはり遊んでいたいというのは、普通のことだろうじゃないかね。……君のように考えるのは危険だよ。君あのおたかという女は大抵の女じゃないよ。どうも陰影の少い男性的な、余りほめた顔じゃないんだが、あの眼の動きには実際豪い所があるよ。うっかりしちゃいけないぜ。」
 その時松井の心におたかの顔がはっきり浮んできた。大きい束髪に結っている、眉の濃い口元のしまった男性的な顔付である。馬鹿に表情の複雑な眼が光っている……。松井はその顔を不意にはっきり思い浮べたことを意識して、心にある動揺を感じた。
「君は一体、」と村上はまた云った。「物事を余り真面目に考えすぎるからいけないんだ。世の中のことは万事喜劇にすぎないんだからね。」
 村上に云わせると斯うである――人生はある事件々々の連続である。所が事件と事件との連絡関係は人力の如何ともすべからざるものである。それは人間以外のものによって決定される。人は只運命に任せる外はない。けれども一つの事件そのものは人の見方によってどうにでもなるものである。見方によって赤となり青となる。が事件そのものは常に喜劇の形を取っている。其処には偶然があり意外があり無知があり滑稽がある。で運命に頭を下げ乍らも事物を大袈裟に考えてはいけない。物事をこきおろして正当な評価をすることは、最も強く生きる途である。
「だから、」と村上は続けた。「君のように絶えず真面目を求めすぎると大変な損をするよ。少しは遊びをしなくてはね。」
「けれど君、」と松井は反駁した。「人事の上に超然として遊びが出来るためには自分に大なる力を持っていなくちゃならない。そうでないとずるずる引きずり込まれてしまう恐れがあるんだからね。でそういう力は何処から来るんだ? 僕は凡てを真面目に考える処からその力が湧くんだと思っている。そして真面目を徹底した処に本当の遊びがあると思っている。」
「それは君の所謂神の域に達したものなんだろう。けれど君そうやたらに神様になれるもんかね。そう理想と現実とをごちゃごちゃにしちゃあ苦しくってやりきれない。そりゃあ僕だって神にはなりたいやね。」
「とんだ神だね。」
「なにこれで案外君より上等の神になれるかも知れないよ。」
 一寸言葉がと切れると、二人の心の底にある寂寥の感が湧いた。それは空腹の感じと似寄った感じだった。それきり二人共黙り込んでしまった。
 すっかり戸が閉されてしまった通りには、がらんとした静けさがあった。稀に通り過ぎる人は足を早めた。そして雨あがりの水溜りや泥濘の上に、赤い火がきらきらと映っていた。

     二

 松井と村上とは相変らず球突場に通った。
 夜に電燈がともるとすぐに、広い室の青い瓦斯の光りが思い出せた。すうっと羅紗の上を滑ってゆく赤と白と四つの球が眼にちらついて来た。すると遠いなつかしい音をきくように、こーんこつという球音が響いてくる。そしてゲームを取るおたかの透き通った声までが聞えるように思えた。
 松井と村上とは孰れからということなしに誘い合って球突場に行った。
 それは一種の惰性であった。然し惰性ならぬものが次第に彼等二人のまわりに、そして林やおたかのまわりに絡まっていった。松井、村上、それと林とは、いつもよくおたかの側に夜更しの競争をした。そのことが松井を苛ら苛らさした、村上を微笑ました、そして一層林を沈黙にさした。
 おたかは時々二日三日と続けて家に居ないことがあった。その時は大抵林も姿を見せなかった。
 妙な暗示が松井と村上とに伝わった。
「留守見舞は余り気がきかなさすぎるね。」
 球突場を出ながら村上はこんなことを云った。
「僕はあの林が大嫌いだ。いやな奴だ。」
「あれで中々うまいことをやってるんだね。」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ君……。」と云いながら村上は笑ってしまった。
 それは或る綺麗に晴れた晩だった。袷の肌には外の空気が少し冷やかすぎる位であった。松井は村上に誘われて、ぶらりぶらりと当もなく散歩に出かけた。
 彼等は明るい電車通りをって歩いた。村上は心に何かありそうな顔色をしていた。それが松井にも伝った。孰れも球を突こうとも云い出さないでただ歩いた。然し歩いているうちに歩くことが無意味に馬鹿々々しく思えて来た。
麦酒ビールでも飲もうか。」と村上が云った。
「よかろう。」
 二人はさる西洋料理屋の二階に上った。そしてすぐ右手の狭い室にはいった。室には他に客はなかった。食卓の上に只一つ蘇鉄の鉢がのっていて、それが向うの柱鏡に映っていた。
 二人は料理を食って麦酒を飲んだ。それから洋酒も一二杯口にした。そして何だか互に視線を避けるような心地で居た。
「ちっとも飲まないね。」
「なにこれからだよ。」と云って村上は洋盃をとり上げた。
「酔って球を突いたら面白いだろうね。」
「そう今晩また出かけようかね。」
「ああいってみようよ。」
「実は……、」と云いかけて村上は相手の顔を覗き込むようにした。「僕はちとあの家には不愉快なことがあるんだ。」
「どうしたんだ。」
「なに昨夜ね、一人で出かけちゃったんだ。十一時頃までついたがね。おしまいには僕一人になってしまったんだ。林もやって来ないしね。するとおたかがね、お対手がなくて淋しいでしょうと云って、変に皮肉な笑い方をしたんだ。……一体君はおたかと林とをどう思ってる?」
「どうって何が?」と松井はどう返事をしていいか迷った。
「先からあやしいんだ。君だってそれ位のことは分ってるだろう。あのお上がいいようにしたんだね。……そこで、あそうそう、おたかが僕にお淋しいでしょうと云ったから、僕も少しふざけて林のことでおたかを散々ひやかしてやったのさ。」
「へえ!」
「なにやっこさん洒々しゃあしゃあたるもんだ。所がね、側に居たお上が少し意地悪く出て来たんだ。村上さんも嫉妬やくほど御不自由でもないでしょうへへへと笑いやがるんだ。そしておたかと見合っては皮肉な笑を洩らすんだ。随分癪に障っちゃったよ。」
「それでやり込められたわけだね。」
「なにあべこべにやり込めてはやったんだがね。君がいう通り随分いやな婆だよ。」
「一体林とおたかのことは確かなのかい。」と松井は尋ねた。
「多分間違はないよ。勿論おたかの方から云やあ一時の撮み喰いにすぎないんだろうがね。」
 松井は黙って洋盃コップを上げた。と村上も同時にぐっと一杯やった。
「それにね、」と村上は声を低くした。「林と云うなあ支那人じゃないかと思うんだがね。いやに黙りくさってにこにこばかりしていやがってね。りんと読めば君よく支那にある名前じゃないか。どうもあの顔付が何だか変だよ。」
「そう云やあ、あの顔の工合なんかどうも本物らしいね。」
 もう二人共可なり酔っていた。瞳を据えて互の眼を見入りながら、彼等は何かある不吉なものを感じあった。それは言葉には現せないただ漠然としたものだったが、それが次第に色濃くなってゆくのを二人共意識していた。
「馬鹿な話だ。」
「馬鹿な話だ。」
 こう殆んど同時に二人は云った。
「ほんとに林は支那人かね。」と暫くして松井は云った。
「なに事実はそうじゃないだろう。只そう思った方が面白いやね。」
「だんだん複雑してくるね。」
「何が?」
「何がって……おたかの周囲がさ。」
「僕達も当然そのうちにはいるんだろうね。」と云って村上は笑った、「その方が面白いじゃないか。」
「どうだか。」
「だって君はおたかが好きだろう。好きだと云い給えな。」
「嫌いじゃないよ。……君はどうだ。」
「僕だって嫌いじゃないさ。が好きでもないね。」
 二人はまた酒をのんだ。
「ねえ君、」と云って村上はすぐ松井の顔の前に自分の顔を持って来た。「おたかが僕達二人のものだったら、君は僕と決闘でもやるだろうかね。」
 松井は黙って村上の眼を見返した。
 二人は露わに互の眼を見合った。一瞬間其処には何の愧じらいもなかった。互に裸体のまま相手の凝視の前に立っていた。
 松井ははっとした。それが何かということがちらと心に閃めいたのである。彼は拳を固めた。そしてつと顔を引いたと同時に村上も顔をひいた。
「え!」と喫驚したような声を松井は出した。
「さあ飲もうよ。」と村上が云った。
 二人はまた少し酒を飲んだ。然し二人の間には軽い敵愾心があった。妙に他処々々しい視線を互の上に投げた。
 二人が其処を出たのは九時すぎであった。二人共大分酔っていた。熱い頬に冷たい空気が流れた。街路の灯がいつもより赤いように彼等の眼に映じた。
「球を突いてゆくのか。」
「突いてゆくさ。」
 そして二人は例の球突場にはいった。瓦斯の下に見馴れた球台を見出すと、彼等は急に心が和いで、先刻のことは忘れてしまった。
 其晩林は来なかった。村上と松井とは遅くまで無駄口をたたきながら球を突いた。おたかが美しい声で然しいい加減にゲームを取った。

     三

 一雨毎に寒くなっていった。百舌鳥が鳴いて銀杏の葉が黄色くなっていた。
 その日朝から怪しい空模様だったが、午後には大分激しい吹き降りになった。そして晩まで続いた。
 ささっ、ささっと大粒の雨が合間々々に一息しながら降り続いた。それが風に煽られながら軒や戸や木の葉の茂みにうち附けて一面に霧を立てた。雨と風と縒れ合いながら軒から軒へ通りすぎてゆく時、凡ての物音は消されて只騒然たる雨音ばかりが空間に満ちた。
 おたかは一人で球突場に居た。
 彼女は何かしら気がくしゃくしゃしていた。ともすると心が滅入めいりそうになった。凡てのことが妙に儚く頼りなく思えるのであった。それなのに手足の先きには生々とした力が籠って、溌溂たる運動を待ち望んでいるかのような心地がした。
 で彼女はそっと飛び上って球台の上に腰掛けた。そして両足をぶらぶらと動かした。空間に触る蹠の感じと膝関節の軽い運動とが、彼女の心を楽ました。それは彼女が幼い時からそのままに持っている唯一の感覚だった。
 その時彼女は、いつかも同じ様に球台に腰掛けていた時、はいって来た客に見られて抗議を申し込まれたことのあることを、ふと思い出した。そして何となく可笑しくなった。
 彼女は球台に腰掛けながら、球を拭いた。そして低い声で種々な小唄を歌ってみた。後には幼い時覚えた唱歌までも口吟んでみた。それから心の中では遠い未来の幸福を夢みた。外に荒れている暴風雨が何か思いも寄らぬ幸福を齎すのではないかと空想した。
 然し乍らその瞬間はすぐに去った。彼女は自分の夢に自ら驚いた。それは現在のうちにちらと映ずる過ぎた幼時の心であった。自ら識って見ることの出来ぬ夢であった。
 おたかはちぇっと舌打ちをして球台から飛び下りた。そして急いで球を拭き終ってそれを箱の中にしまった。もう客もないと思ったのである。そして刷毛で台の羅紗を拭いた。生に疲れたといったような気分が彼女の心を浸していた。
 その時表に急な足音がして、入口の硝子戸ががらりと開いた。
 それは松井であった。傘を手にしながら殆んど半身は雨に濡れていた。
「まあどうなすったんですか。」
「球突きに来たんだよ。」
「おやそれはどうも毎度あり難う。」と云っておたかは笑った。
「なに実はね、今日昼間から友達の処へ行ったんだ。余り止まないから帰りかけたんだが、この通りびしょ濡れになってしまって、仕方なしに飛び込んだのさ。」
「あら大変濡れていらっしゃるわね。家に着換でもあるといいんですが。……あそうそう、」と云って彼女は大きく一つ息をした。「煖炉を焚いてあげましょう。少し早いんですけれど。じきに乾きますよ。」
「なにいいんだよ。」
 それでもおたかは煖炉に炭をくべて、火を入れた。二人はその前に椅子を並べた。
「さすがに今日は誰も来ないんだね。」
「ええ、わざわざ濡れてまでいらっしゃる方はあなた一人ね。」
「これは驚いた。」
「いえ、だからあなたが一番御親切だと云うんですよ。」
「一番親切で一番厄介だというんだね。……だが一体こんな時には君はなにをするんだい。」
「え?」
「一人で隙な時にさ。」
「これでも、」と云っておたかは笑った。「種々な用事があって、そりゃ忙しいんですよ。」
「へえ。余りよくない用事ばかりでね。」
「馬鹿なことを仰言いよ。」
 煖炉の火が音を立てて燃え出した。竈が赤くなって二人の顔を輝らした。珍らしく接する赤い火の色や音や匂いまでが、全身の感覚にある悦びと輝きとを起さした。二人はふと顔を見合ってわけもなく微笑んだ。
「火というものはいいもんだね。」
「ええ。でも私は煖炉より炬燵の方が好きですわ。よく暖まってね。」
「炬燵でちびりちびり酒でもやるなあ悪くはないね。」
「私だめ。ちっとも飲めないんですよ。」
「特別の場合を除いてはね。……だが今日のような暴風雨あらしの日には煖炉もいいね。雨音をききながら火を見てるなあいいものだよ。」
「私は頭がくしゃくしゃしてこんな日はいやですわ。どうしていいんでしょうね。それじゃ燈台守にでもおなりなさるといいわ。」
「燈台守たあ変なことを考えたもんだね。」
「私の叔父さんに燈台守をやってた人があったんですよ。何でも富山の方ですって。随分珍らしいことがあるそうですわね。」
「そりゃあそうだろうね……。君は一体国は何処なんだい。」
「伊豆ですよ。」
「へえ近いんだね。……流れ流れて東京に着いたというんだね。」
「ひどいことを仰言るわね。そりゃ種々な事情があったものですから。」
 おたかは其処で身の上話を初めた。それは普通の小料理屋の女中が喋べるのと似寄った経歴だった。どこまでが本当でどこまでが嘘か分らない底のものだった。ただこういう話を松井は面白くきいた。何でも彼女が浅草の叔母の所に暫く厄介になっていた時の話である。叔母につれられてある晩散歩に出かけた帰りに丁度公園の中を通ると、ベンチに眠り倒れている小僧があった、でおたかはそっと持っていた銀貨をその側に置いてきた。家に帰ると叔母からお金を落したんだといって大変叱られたが、そのことは黙って隠してしまったそうである。
「それが私の一生のたった一つの慈善でしょう。」と云っておたかは笑った。
 松井は、その話が余りおたかにそぐわないのでじっとその顔を見てやった。彼女の顔は煖炉の火を受けて赤く輝いていた。その時彼はふと気が附いたのであった。おたかの顔は一体そういい顔ではなかったが何処かに非常に魅力のある処があった。何処だか松井にはその時まで分らなかった。それは口元から頬にかけたかすかな筋肉の運動だった。そこに人の心を唆るような、特に肉感を唆るような魅力があった。で松井はじっと其処に眼をつけた。
「何を見ていらっしゃるの。」とおたかはにっと笑ってみせた。
 松井ははっとして眼をそらした。然しその時彼は心に非常な動揺を感じた。ある期待と妙な不安とが彼を捉えた。
「種々な目に逢ったんですが、何の足しにもなりませんわね。」と女はしんみりした調子で云った。「自分の考えなんか何の役にも立ちませんわ。ずるずると何かに引きずられてゆくような気がするんですもの。そうしちゃあ自分で自分を台なしにするんですわね。此処に来る時なんかでも、もうこれから真面目になりたいと思ったんですけれど、やはり駄目ね。」
「何が駄目だい。」
「私ね近いうちに此処を出ようかと思ってるの。」
「そしてどうするというんだい。」
「どうするって、そりゃあね……どうでもいいんですわ。そうしたらあなたの処へも一度お伺いしたいわね。」
「ああ遊びにおいでよ。御馳走は出来ないがね。」
「ほんとにいいんですか。お邪魔ではなくって?……でも村上さんやなんかお友達が始終いらっしゃるんでしょう。お目にかかるといやね。」
「そんなにいつも来やしないよ。」
「そう。では屹度お伺いするわ。私あなたの下宿はよく知ってるから。」
 それきり一寸言葉がと切れた。そして妙に落ち付きのない沈黙が続いた。
「おやもう乾いてしまったんですね。」とおたかは急に思い出したように松井の着物に触ってみた。それから「おお熱い!」と云いながら立っていって窓を開けた。
 何時のまにか暴風雨は止んで、細い雨が降っていた。それでも庭の中には木の葉や紙屑が落ち散って、その上にしとしとと一面に雨が音もなく降濺いでいた。おたかは外をじっと眺めながら、火にほてった頬を冷たい風に吹かした。後れ毛が頸筋に戦いていた。
 松井はふり返って女の姿をみた。
「一ゲーム御願いしましょうか。」と彼女は顧みて微笑んだ。
「ああ、」と松井はうっかり答えてしまった。球なんか別に突きたくはなかったのだが。
 それでも彼は大変当りがよかった。何だか気が軽々していたのである。
 丁度一ゲーム終ろうとする頃表の戸が開いた。林が笑顔をして立っているのが見られた。
たか突棒キューを捨てて立って行った。そして彼の手から帽子を取って釘に掛けた。
「お茶をお一つ。」と彼女は奥の方に呼ばわった。が何の返事もなかったので、彼女はも一度「お茶をお一つですよ。」と大きい声を出した。
「ああいますぐ。」と寝惚けた上さんの声が聞えた。
 林はずっとはいって来て不思議そうに煖炉の前に立ち留った。
「もう煖炉を焚くんですか。」と彼は云った。
「ええ今ね、」と云っておたかは松井を見て卑しい笑顔を作った。「松井さんがずぶ濡れになっていらしたものですから、特別に焚いたんですよ。」
「もうそろそろ本当に焚きはじめてもいい時ですね。僕は火を見るのが大好きです。」
「ほんとにいいものですわね。」
 其処に上さんが茶を持って出て来た。
「おや林さんですか。誰かと思ったら。……先日の晩は大変でしたでしょう。」
「ええ少し……。」と云って林はにやにや笑っていた。
 上さんは林の顔を覗き込むようにして囁くようにこう云った。
「大丈夫ですか。」
「ええ。」と林は首肯いた。
 それから林は普通の声で、上さんに西洋料理を二三品頼んだ。
「実は腹が空いたのでぶらりと出かけたんですが、こちらについ先に来てしまったんです。いえなに……、」と彼は時計を仰ぎ見た。それは九時を過ぎていた。「十時頃でいいんですよ。まだ大分雨が降っていますから。」
 松井は林をじっと見た。そして支那人かも知れないと云った村上の言葉が可笑しくなった。然し林の妙にだだっ広い額を見ているとわけもなく腹立たしくなってきた。それでも彼は終りに綺麗に球を突き切ってしまった。
「此度は林さんといらっしゃいよ。……林さん松井さんとお一つどうか。」とおたかが云った。
「さあ、」と云い乍ら松井は突棒キューを捨てて椅子に腰を下した。
 けれども林は立って来て球を並べながら云った。
「一つお願いしましょう。」
 松井も仕方なしに立ち上った。
 おたかは火鉢に火を入れて、それを球台の下に置いた。それからゲーム台の処に坐って、じっと林を見た。彼女の眼からある微笑みが出て、それが林の顔を笑ました。
 松井は林がやって来てから急に一種の屈辱を感じた。皆が林と影でそっと意を通じていること、林が主人顔に振舞っていること、それが松井の鋭い神経に触れたのである。そして突棒を取って林に向いながら彼は強い憎悪を身内に感じた。
 松井はなるべく敵に譲る後球あとだまが悪くなるようにした。自分で万一を僥倖しないで、敵に数を取らせない工夫をした。そして第一回は美事に勝った。第二回も勝利を得た。第三回にも同じ方法を講じた。然し林は松井の残した悪球を平気で突いた。顔の筋肉一つ動かさなかった。おたかも澄ましていた。で松井は苛ら苛らして来た。やってることが林やおたかに分らない筈はないと思った。彼は興奮した眼を突棒の先に注いだ。そしてゲームを突き切った時、突棒を捨てた。
「今日は大変当りがお悪いですね。」とおたかが林に云った。
「ええ駄目です。」と林は平気でいた。
 松井はすぐに帰る仕度をした。
「まだお宜しいじゃありませんか。」
「いや少し急ぐから。」
 松井が表に出ようとした時、おたかが其処に駈けて来た。
「またあしたどうぞ。」と囁くように云って彼女はじっと松井の眼の中を覗いた。
 外にはまだ雨が降っていた。軒影や軒燈の光りがしっとりと濡れていた。松井は急に肌寒い思いをしながら、傘の下に身を小さくして歩いた。
 彼の心は興奮したまま佗びしい色に包まれた。凡てのことが何かの凶兆を示すように思えて来た。そして彼は泥濘の上に映った足下の灯を見て歩きながら、おたかの顔を思い浮べた。今日初めて気が附いたあの肉感的な頬の魅力が眼の前にちらついた。然しそれは、苛ら苛らした興奮や、一種の敵意や、漠然とした佗びしさのベールを通して見た情慾であった。
 彼は顔の筋肉を引きしめながら、眼を上げて雨中の街路をすかし見た。

     四

 松井の下宿は静かな裏通りにあった。彼の室のすぐ前には可なりの庭があった。彼はよく机に凭れながら更けてゆく秋を眺めた。樹の梢が高く空に聳えていた。夜には星が淋しく美しく輝いた。
 彼はやはりよく球突に通った。多くは村上と二人で、稀には自分一人で。然しおたかの周囲にはそれきり何の変りもなかった。ずるずると引きずられてゆくような現状が続いた。
 けれどある日おたかは球突場に姿を見せなかった。そしてそのまま五日過ぎ十日過ぎるようになった。と前後して林の姿も見えなくなってしまった。
 松井と村上とは余りおたかのことについて話し合わなかった。彼等はその話を避けるようになった。ある気まずい感情があって、それがお互に心の底を隠すようにさした。
 ある晩、松井が自分の室の障子をあけて、ぼんやり空の星と庭の木立とを見ていた時、そしてとりとめもなくおたかとその周囲とのことを腹立たしく思い起していた時、村上が急いでやって来た。
「おいおたかに逢ったよ。」と村上は眼を丸くしていた。彼が友の家を訪ねて、帰りにぶらりぶらり広小路を歩いて来ると、向うからおたかがやって来るのに出逢った。お召の着物と羽織を着てキルク裏の草履をはいていた。村上に気がついたかつかないのか、向うをむいて通りすぎてしまった。村上も黙っていたそうである。
「本当なのかい。」と松井は眼を輝かした。
「嘘を云ってどうするんだい。」
 二人はじっと相手の眼を見入った。
「あの婆がいけないんだよ。」
「そうだ。」と松井も応じた。
「もう余りあの家に行くのは止そうよ。」
「ああ少しひかえようね。」
 然し二人はやはりよくその家に出かけて行った。
 彼等はある一種盲目な力に引かされたのである。そしてその家には、彼等にとってはある淋しい心安さがあった。
 丁度おたかが居なくなって二週間ばかり過ぎた時、二人はその家に林を見出して全く意外の感に打たれた。
 林は二人を見て一寸頭を下げた。村上は澄まして向うに行ってしまった。然しその時松井は、わけもなくほっと軽やかな心地を感じて、ずっと林の前に歩み寄った。
「大分暫くでしたね。」と松井は云った。その声は妙に喉の奥でかすれた。
「ええ。丁度暫く病気をやったものですから。まだ薬を飲んでいますけれど、もう殆んど宜しいんです。」
「それはいけませんでしたね。」
 そのまま黙って松井は林の前につっ立っていた。林は横を向いていた。ふと気が附くと松井は吃驚して村上の処へ行った。そして台があいた時二人で球を突いた。
 その晩他の客が帰ると一緒に林も早く帰っていった。
 村上と松井とは遅くまで球を突いた。訳の分らぬ感情が彼等を引きとめたのである。何か平衡を失したものが彼等の心の中に在った。おたかの後に来た眼の細い白粉をつけた女がゲームを取った。
 二人が其処を出たのは十二時近くであった。
 風のない静かな晩だった。軒燈のまわりに静かな気が渦を巻いていた。凡てが今眠りにつこうとしている。そして物影がじっと沈んでいる。
「林は病気だって云うのかい。」と村上は尋ねた。
「そうだ。然し君、林は僕達よりずっと豪い人間のような気がするね。」
「いやにまた林が好きになったもんだね。」
「そうでもないがね。……然し君は一体ひどくなげやりな空想家だね。」
「そりゃあ君ほどの理想家じゃないよ。」
 二人は黙々と歩いた。彼等の心にはそれぞれそれとも云えぬ空虚な傷があった。其処から次第に対象の分らぬ頼り無い憤懣の情が起って来た。
「此度はどうしてこう妙な気持ちになったんだろうね。」と松井は云った。
「女が豪いからさ。」
「君は一体おたかをどう思ってたんだい。」
「どうってそうきまった感情なんかあるものかね。ただおたかが居たんでより面白く球が突けたまでさ。」
「然しまだ妙な感情がずっと続くような気がするよ。僕は今は林が好きだ。」
「僕は一層嫌いだ。」
 彼等は黙って十歩ばかりした。
「僕はずっとこの事のはじめから、」と松井は云った、「何だか神に離れていたというような気がする。僕の心は卑しいものに浸っていたような気がする。」
「そりゃあ君、女を失ったからだよ。」と村上は澄まして云った。
「そうかも知れない。」
 然し松井は眼の奥に熱い涙が湧いてくるような気がした。その時村上は不意に、「おーう、」と通りのずっと向うまで響く大きい声を立てた。松井は喫驚して立ち留った。
「何だ!」村上の方から云った。
 二人はそのまま黙ってまた歩き出した。空も地も凡てが深い夜の中に在った。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
   1916(大正5)年2月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
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