三月の末に矢島さんは次のようなことを日記に書いた。――固より矢島さんは日記なんかつけはしない、これはただ比喩的に云うのである。

 俺はこの頃妙な気持ちを覚ゆる。何だか新らしい素敵なことが起りそうな気がする。それはただ俺の内生活に於てでもない、また外生活に於てでもないが俺に関係するものであることは確かだ。どんなことだかまだ分らないが。兎に角何かが起りそうだ。……然し或はまた何にも起らないでこのままのあわ日々にちにちが続くのかも知れない。
 淡い日々、そうだうまい言葉だ。懶い……と云っても当らない。俺は何も退屈しているんじゃない、為すべき仕事に事欠きはしない、却って忙しい位だ。青白い……と云っても当らない。俺の生活はそんなに空虚ではない、またこんな気障きざな言葉に価するほど俺の日々は安価でもない。……が然し淡い……そうだ、淡い日々だ。
 俺の心のうちに何かが緩んできたのは事実だ。生の握力が緩んでいると云っても差支えない。若い時分から俺はしっかと自分の生活を握ってやって来た。或は何かを握り緊めてやって来た。それが近頃緩んできたのかも知れない。も少しはっきり云うと、俺の魂のうちに含んであった熱が減退してきたと云ってもいい。俺がやった学問から云っても、緊と物を握る重圧は力だ、力はエネルギーだ、エネルギーは熱だ。どうも俺の魂の熱が冷却してきたのらしい。従って心の活動が減じてきたのだ。これも俺の得た学問からでも説明がつく。吾々が光りと感じ熱と感ずるものは、結局おしつむれば電子の運動だ。で俺が今自分の心に熱が少くなったと感ずるのは、この俺を組織している電子に運動が少くなったことになる。即ち俺の内心の活動が減じてきたのだ。然し内心と云い魂と云い自発的の生命というようなものは俺には明瞭に分らない、ただそれを感ずるだけだ。俺は自分の魂に活動が減退してきたことを感ずる。
 然しそれは何も俺の生活が安価になったことを意味するものではない。反対に、俺の生活に落ち付きが出来、充実が出来たことを示すものであるかも知れない。俺はもう馬鹿げた熱情や野心に駆られることなしに、如何なることが起ろうとじっとどっしりして居られる位にはなっている。だが……。
 工学士の肩書を得る頃まで、俺はずっと東京に居て一仕事するつもりだった。が父の立派な意気に対する感激とこの町が東京から程遠からぬ処に在るということのために、俺は此処に帰って来たのであった。俺の家には可なりの財産と家柄とがあった。それを利用して父と俺とは電燈株式会社を創立して、その社長兼専務取締役というような位置になることが出来たのであった。それから、最初の事業の困難、父の病死、思わぬ財政上の困難、母の病死、それらを兎に角俺は切りぬけて来た。今では万事が順調にいっている。俺の事業とある意味で競争の形となっている瓦斯会社の発展をも俺は親しい眼で見ることが出来るんだ。そして俺には相当に美しい妻もある。子供も四人ある。一人は夭折したが、三人はもう大きくなって長男は高等学校へ入っても居る。そして俺は不惑の年を越したが益々元気である。……だが、それだけだ。
 この「それだけだ」という言葉は最もよく俺の今の心持ちを云い表わすものだ。然しそれは何も自分の過去を安価なものと思うからではない。俺は自分の生きてきたことについて相当に自信は持っている、勿論それだけで安んずるような俺ではないけれど。……だが現在のこの心に感ずる気持ちは一体どうすればいいというんだ? 俺は自分の心の力が緩んでいること、自分の日々が淡いものであることを肯定する。そしてまた、自分の生活の相当の価値と、自分の力に対する可なりの自信とを、肯定する。然し、「それだけだ」という過去に投げらるべき言葉が、俺の現在に向って眼を見開いている、そして俺の未来に向っても眼を見開いている。そのために別に俺は自己に不安は感じないけれど、俺の心は何かをじっと待っている。いや必然に俺の心は何か俺の知らないものを感じている。……今に何かが、素敵なことが、起りそうな気がする。或はまた何も起らないかも知れないような気もする。
 今日は綺麗に晴れていたので、俺は少し廻り途をして郊外の方から家に帰った。うち晴れた空と心地よく濡った大地と、それから冬から春に変りゆく太陽の輝かしい柔い光線、こんな日に少しばかり郊外の途を辿るのは確かに新鮮フレッシュな悦びであらねばならぬ。俺の心は陶然としていた。そしてひどく惘然としていた。俺は、この自然の新鮮な気を亨楽[#「亨楽」はママ]しながら何か物を忘れたような形であった。安らかではあったが満たされてはいなかった。――こう云う心持ちはこの頃屡々俺を襲うて来るようだ。昔は俺は余りこの「自忘の安逸」を解しなかった。或は少なくともこの「自忘の安逸」の底を浸して流るる「満たされざる自覚」を知らなかった。青年時代にこれに似た感情を経験したことはあるが、それは全く色彩の異ったものであった。
 俺はこの気持ちを或は自然の印象のせいかとも思う。春になり切れない自然のうちには、如何に柔い光線としっとりとした陰影とはあっても、猶痛ましい荒凉を湛えている。寒風に荒された自然の膚がまだ露出している。不調和なものが其処に在る。そしてその落ち付かぬ不調和の底から新らしいものが、新らしい生命いのちが、一斉に[#「一斉に」は底本では「一斎に」]萠え出でようとしている。……そういう自然のうちに新らしい謎が醸される。そしてそれが俺の心に触れたのかも知れない。
 俺は空と地とを自分の心でさわってみた。空は柔く霞んだ大気が一杯に太陽の光線を孕んでいた。地には真黒い大地の膚から青い麦の芽がひょろひょろと出ていた。枯れた叢のうちに蒲公英の花が一つふっと咲いてるのもあった。それから小さい流れの岸に立つと、おう、冷たい水と、それに映じた空の光り、静かな音を立てて流れる水に暖い日の光りが吸い込まれてゆく。……何かが眼を見張っている、何かが静に微睡まどろんでいる。
 自然のうちに何処かに穴があいてるように俺は感じた、そして自分のうちにも何処かに穴が開いているのを。そういう感じが俺の心を自分の方へ集注さした。俺は余り呑気にしてはおれなかった。俺は急いで家の方へ帰って行かなければならなかった。――何かが俺を待ってるかも知れない、何か新らしい意外のことが。然し或はまた……。

「おい手紙が来てはいないか。」
 矢島さんは会社から帰って来ると何時もよくこう尋ねた――
 矢島さんは家の門を入ると屹度、一度郵便箱を覗いた。それから妻の常子と女中とに迎えられて奥に通ると、そのまま一度は茶の間に坐るのが常であった。そして常子に「郵便は来ていないか。」と聞いた。何か書状が来ている時はすぐにそれを読み下して、大抵は煩いと云ったように首を振った。また「いいえ参って居りません。」という答えを得た時は、彼は右手で一寸髭を撚った。矢島さんは立派な鼻髭を持っていた。
 或る時常子は気転をきかせるつもりで、夫が火鉢の所に坐るとすぐこう云った。
「お手紙も別に参って居りません。」
 矢島さんはじっと妻の顔を見つめてそして怒鳴った。
「手紙がどうしたと云うんだ、馬鹿!」
 その時矢島さんの顔には、一種の恐ろしい緊張があったので、常子もそれに答弁しないで黙ってしまった。矢島さんはそれから暫く口を利かなかった。
 然しそれもやがて忘れられてしまった。そして何時の間にか新らしい習慣が出来てしまった。
「手紙が来てはいないか。」と矢島さんは尋ねた。
「参って居りません。」と常子は答えた。
 実際矢島さんの大抵の用件は会社の方で果されるので、住宅の方へ来る手紙の数は非常に少なかった。そしてそれも多くは単なる社交的の挨拶にすぎないものであった。
 けれどもある日、矢島さんと常子との間に次のような会話が交わされた。矢島さんは平素着ふだんぎ[#「平素着ふだんぎに」は底本では「平素者ふだんぎに」]着換えて紅茶を啜っていた、常子は長火鉢にかかっている鉄瓶のわきにそっと手をかざしていた。
「今日は大変ごゆっくりでございましたね。」
「ああ。ちと手間取った仕事があったものだから。然しもうすっかり済んでしまったよ。」
「それはお宜しゅうございましたね。……実は今日珍らしい人が来まして。」
「誰だい? 珍らしい人というのは。」
「笹尾さん。」
「笹尾が! そしてまた何と云って来たんだい。」
「つまり元通り会社に使って頂きたいというんでした。立派な菓子折なんか下げて……。」
 女中が持って来た菓子箱には立派な洋菓子がつまって居た。矢島さんはそれをじっと見ていたが、一つつまんだ。
「いい菓子だ。……笹尾にどうしてこんな余分の金があるのかしら。老母が病気で非常に困っていると云っていたが。」
 常子は黙っていた。
「どんなことを云っていたんだい。」
「元通り使ってくれるようにとくり返しくり返し頼んでゆきました。あのことは真実年とった母親の薬代に困ってやったので、決して慾心からしたのでない。そして今ではほんとに改悛している。……と云うようなことを幾度も云っていました。それから、涙を眼に一杯ためて、母親の病気やら、生活くらし向きの困難やら、種々なことを打ち明けてから、もしまた使って貰えなかったらたった一人の老母を見殺しにしなければならない、またどうせむずかしいものなら相当の薬用だけはさしてやりたい、と云っては泣きそうな顔をしていました。わたくしほんとに可愛想な気がしました。親孝行な人ですから。」
「でお前からわしに頼んでくれと云うんだな。」
「いいえ、初っからあなたにお目にかかりたいと云って来ましたのです。お帰りを待っていたんですけれど、あまりお遅いから、何れまた会社の方へ伺いますと云って、つい先刻さっき帰ったばかりなんです。」
 矢島さんは暫く黙っていた。
「また使ってやるわけにはゆかないんでございましょうか。あの人は腕もしっかりしていますし、ずっと古くから働いてもいましたし、随分会社のためにも尽したのでしょうから。」
「それはそうだが、もう会社の者にすっかり分っているから都合が悪いんだ。」
 暫く沈黙が続いた。そして矢島さんは髭を撚り乍らこう云った。
「一体お前はどう思う? 笹尾をまた社に入れたがいいか、いれないがいいか。」
 常子はただ黙って夫の顔色を窺った。
「事件はお前が知ってる通りだ。笹尾は給仕からなり上って今では立派な工夫となっている。その長い間始終社のために尽してくれた。所が此度老母が病気をする。自分が一寸した怪我をする。そして社の電線を盗んでひそかに他へ売却した。それが発覚した。俺はそのことを内輪だけで処分をつけて新聞にさえ書かせないようにした。然し会社の者は皆知っている。で笹尾を首にしたんだ。所が笹尾は老母のためにまた自分のために、どうか再び会社に使ってくれ、すっかり改悛したと懇願している。……でこの際どうしたらいいとお前は思うんだい。」
「使ってやる方が宜しいではございませんか。そして会社の者皆の前で、よく前後の事情と改悛の事実とを示しておやりなすったら、却って会社のためになるではございませんか。」
「なるほど、それでお前は笹尾が此後再びあんなことしないと確信するんだね。それもどうだかね。……がそれはそれとして、もしまたほかの者があんなことをやって、そして同じ様な境遇で同じ様な懇願をしたら、その時はどうしようというんだい。」
「その人の人物によって判断するより外に仕方はありませんわ。」
「そうだろう。そういう考えもある。……然し此度の事件に対してはお前は全く無関心だね、そしてお前の関心事はただ笹尾だけだ。僕もそういう心の向け方は知っている。つまり事件を見ないで人間だけを見るんだね。感情家や女は皆そうなんだ。然し用心しなければいけない。事件を見ないで人間だけを見てるつもりでいる時、往々人間をも見ていないことがある、そして自分の感情きり見ていないことがある。そのうしろから悪魔が舌を出しているよ。」
「それではあなたはどうなさるおつもりですか。」
「俺は事件と人物とを両方共よく考えた上でそれから判断するんだ。」
「ではあなたは笹尾さんをもう使わないおつもりでございましょう。」
「それはどうだか分らないが、兎に角お前ほど同情はないがお前ほど無慈悲でもない。」
「私が無慈悲ですって!」と常子は眼を輝かした。そして彼女は如何に笹尾のために気の毒がっているか、如何にその老母を憐んでいるかを述べたてた。そしてその日も、笹尾の帰りに老母の見舞のしるしに若干の金を包んで与えたことを語った。「余りに失礼ですがと云ってお詑びを云いましたら、笹尾さんはいいえと云ったきり黙って[#「黙って」は底本では「駄って」]頭を下げていました。私の方が涙が流れそうでございました。」
 矢島さんは黙って妻の言葉をきいていた。そして云った。
「俺達が笹尾の境遇になったらお前はどうする?」
 常子の眼には一寸困惑の色が見えた。それから次第に高慢な光りに代ってきた。
「まあいいさ、なってみなくちゃ分らない。だが笹尾もつまらない目に逢ったものだ。」
「会社に来たらお逢いになりまして?」
「ああ逢ってやるとも。少し話したいこともある。」
「ではまた何かにお世話なさるんでしょう。ほんとにそうしておやりなさいませ。あれで大変正直ないい人なんですから。」
「正直でなけりゃまた俺の所へなんか来れるものか。……然し……。」
 矢島さんは中途で言葉を切った。そして冷たいお茶をぐっと呑み干した。
「菓子折一つでお前もすっかり笹尾党になってしまったわけだね。お目出たいことだ。」
「ええ私が!……そんないやしい……。」
「まあいいよ。」と矢島さんは常子の言葉を遮った。「今のは戯言じょうだんだよ。笹尾のことは俺も心配しているんだ。」
 矢島さんはそう云って立ち上った。その時彼の顔にふっと緊張した暗い影が漂った。そして彼は書斎に入った。
 然し矢島さんは間もなくまた書斎から出て来た。そして彼は、西日の当る二階の椽側で雑記帳にいたずら書きをしている慎吉を見出した。
「何を書いてるんだ。」と矢島さんは云った。
「僕写生しているんです。……教えて下さいよお父さん。」
「何を写生するんだい。」
「見えるだけの家根をみんな、それから向うの山も。」
 其処からは丁度その町の南翼がずっと野に拡がっている様が一望のうちに見下された。人家がつきると畑が続いて、向うに右手に青い山が空を限っていた。
 矢島さんは[#「矢島さんは」は底本では「矢島さんに」]慎吉の手帳を取って、家根だの山だの丘などをぽつりぽつりと覚束なげに書いていった。西日を受けた野の上に山の影が次第に拡ってゆくのが見えるようであった。
 慎吉は黙って父の手元を見つめていた。

 矢島さんの会社は町の北端にあった。夏には立ち並んだ瓦家根の上を通ってくる烈風が吹きつけた。冬は雪を被った山下しの北風が野を越えてやって来た。
 矢島さんの事務室は北西を向いた二階にあった。で矢島さんはよく、北風を避けた窓際に椅子を持ち出しては、背中を日に暖めた。暖炉の悪い石炭の火よりも、その方がどんなにか心地よかった。
 矢島さんは非常な勤勉家であった。仕事のない時は大抵書物や雑誌を読んでいるのが常であった。然しこの頃ただぼんやりと日向ぼっこをしていることが多くなった。静に椅子に身をもたして取り留めもない思いに沈むことがよくあった。そしてふと思い出したように髭を撚った。然し別に立ち上ろうともしなかった。何か安逸なそして重いものが彼の頭の中に在った。そういう時他の事務員が何か用事でやって来る時、彼はちらと眉根を寄せた、そして「おはいり。」と大きい声で云った。
 或る日矢島さんは会社から帰って洋服をぬぎながら妻に云った。
「笹尾はちっとも姿を見せないよ。」
「さようですか。」
 常子のそういう冷淡な返事を聞いて矢島さんは口を噤んでしまった。
 然し矢島さんは別に笹尾が来るのを待っているわけでもなかった。どうかするとふと笹尾のことが頭に浮んで来ることもあったが、彼は其処に何の意味も認めなかった。ただ訳の分らぬ妙な苛ら立たしさを感ずるのみであった。
 で或る日笹尾が会社の方に訪ねて来た時も、すぐにそれと察知したのを矢島さんは不思議に思った位である。
 その日矢島さんは窓の所へ立って外を見ていた。人家を越して向うに瓦斯会社の建物が見られた。彼の眼はその大きい瓦斯溜タンクに止った。午後の光線を受けてそれは黝んだ茜色に光っていた。
 矢島さんは、タンクが毎日時を定めて脹れたり縮んだりすることを知っていた。またその巨大な鉄タンクの静かな運動の力をも知っていた。それをじっと見つめている時彼の胸には、云い知れぬ興奮と哀愁とが湧いてきた。黝んだ茜色の鉄の光りと、その上の煙筒から吐き出さるる渦巻く煙とが、彼の眼を囚えた。そして彼は脹れ上ってゆくタンクの静かな運動を、大地の呼吸のように感じた。すぐ下の発動機の響きも耳には入らなかった。
 矢島さんがそうしてじっと立っている時だった。彼はふと直覚的に笹尾が来たことを感じた。階下で話声がした。耳を澄すと果して笹尾の声であった。
 矢島さんは急に窓から離れた。それから室の中を二度ぐるりと歩き廻った。そして此度は机の前の椅子に腰掛けて髭を撚った。それから煙草に火をつけた。
 笹尾は扉を叩いて、それから一寸入口で立ち止った。
「さあお入り。」と矢島さんは声を掛けた。
 ずっと入って来て臆病そうに椅子に掛けた笹尾の姿を、矢島さんはじっと眺めた。もう水を通ったらしい紡績の蚊絣を着て、頭髪を長く伸している。丁嚀に剃られた頬の辺りには窶れた影が見えていた。
「先達ては家の方へ来てくれたのに留守で失敬したね。……お母さんの病気はどんな工合だい。たしか腎臓炎だったね。」
「はい。」と云って笹尾は初めて顔を上げた。その充血した凹んだ眼に矢島さんは喫驚した。
「どうも経過が良好でないという医者の話でありました。」
「それはいけない。一体腎臓の病は手当が大変だそうじゃないか。」
「はい、それに食物が一番大切なそうでありますから全く困りきって居ります。何分収入が丸っきりありませんものですから薬代にさえ事欠くような仕末で、到底またお願いにも上れない身ですが、どんな役目もいといませんから使って下さることが出来ましたらと存じまして、また今日伺いましたような次第で……。」
「君はそれでどんな仕事も厭わないと云うんだね。」
「はい、ただ食ってゆけるだけの収入がありますれば充分です。今の処母の薬代どころではありません。如何に悲惨な生活を致して居りますか、到底御想像にも及ばないようなことをやって居りますので。」そして笹尾はこれまで仕事を探しに奔走した種々のことを話した。然し凡てが無駄であったこと、[#「、」はママ]それから助けを得らるるような親戚もないこと。このままで居れば病人の母と共に飢えねばならないこと。他の土地へ出るには母の病気が許さないこと。――「あなたにお縋り申すより外に全く行くべき処もありませんものですから、到底お願いの出来ない身だことは存じて居りますが、もしお許し下さいますならば、私と母とが助かることでありますから。」
 笹尾は眼に一杯涙をためて懇願した。
「よし、君の境遇と心持ちはよく分っている。然し君は自分でやったことがどんなことだか知っているかね。」
「はい。」と笹尾は頭を垂れた。
「母親が長の病気で薬代に困る。一度は俺の所から金を借りたが、二度とは云えない。それで此度は会社の電線をごまかして他へ売却した。ただそれだけのことだ。また会社にとってもそれ位の損害は何でもない。然しよく考えてみ給え。そのことがどれ位他の社員に、他の工夫に影響するか。まして君をまた本社で使ったとしてみたらどうだろう。」
「はい。」
「然しまあそれはそれでいいとして、君は以後再びあんなことをしないという確信があるかね。今より一層の逆境に立ったとして。」
「はい決してもう致しません。断じて……誓って申します。」
「ではそれでいい。が君がこれから僅かの月給で働くとして、君の母親はどうなるんだい。」
「えっ! 母が……。」
「それは助かる見込みがあるのかね。」
「それは私には分りません。然し只一人の親と子です。私は出来るだけのことを致します。その上母は此度のことをよく知っています。聞かれましたのですっかり私は云ってしまいました。母はそのことを非常に気の毒がり心配致して居ります。私がまた会社に出るのを見ましたらどんなに安心致すか分りません。それ以上のことは私は天命と諦めます。ただ母に心配させたくありません。そして自分で出来るだけのことはしてみたいと思います。屹度、屹度母の病気を直してみせます。」
「ああ直すがいい、働くがいい、君は幸福だ。」そして矢島さんはじっと笹尾の眼の中を覗き込んだ。
「場合によってはまた盗むがいい。」
「えっ! 何を仰言るんです。」
「なに君でなくても、今の資本家対労働者の関係に何処か不合理なもののあること位は俺も知っている……君は今母親のことを話しながら目に一杯涙を湛えている。然し俺は、君が先に左手を挫いた時の眼の光りをまだ覚えている。君のうちには異ったものが二つある。どちらが本当だ?」
 笹尾は茫然として矢島さんの顔を眺めた。
「そうだ君はまだはっきり自覚していない。然し何か事を起したくないか。君はまだ小さい時分から給仕をしてこの会社に居た。そして今では立派な電気工夫だ。恐らく君はこの会社の弱点を沢山握っているだろう。それで他の工夫を煽動して何かを俺に迫りたくはないか。……今孝子な君は母のことで心が一杯になっている。然し母がもし病死したら、君の心は新らしいことを夢みるに相違ない。どうだ?……み給え君の眼は別の光りに輝いてくるじゃないか。」
 笹尾は云い知れぬ疑惑に捕えられて、立ち上りながら一歩身を引いた。
「君は今恐れている。」と矢島さんは続けた。「然し恐れなくなる時が今にやってくる。……俺も今恐れている、然し恐れなくなる時が俺にはやって来ないかも知れない。俺は年をとってゆくんだ。が結局君等が何か起さなければ、俺達資本家共の方から何かを起すかも知れない。こういう生活には何処か矛盾があることを俺は知っている。然しまだ明瞭はっきりとは分らない。」
 矢島さんは頬の筋肉をびくびくと痙攣さした。
「そうだ俺にはまだはっきり分らない。……或はただ俺一人の生活に誤った所があったのかも知れない。然し俺一人にあるんじゃない。……そうだ君にも罪はない。……分ったか。」
 笹尾は矢島さんの鋭い眼差しの前に、また一歩身を引いた。
 矢島さんはそのまま黙然として空間を見つめた。
「それではこれで御免被ります。」と笹尾は眼を伏せながら云った。
「よく考えてみるがいい。」と矢島さんはふと我に返ったような優しい調子で云った。「俺からはどうも君をまた使うわけにはゆかない。然し君が工夫仲間を説き廻って、皆から僕にそれを願う形にしたら、また元通り使ってやって宜しい。君にそれだけの勇気があるか。」
「よく考えてみることに致します。」と笹尾はきっぱりと唇を震わした。
「ではまた用があったら何時でもやって来給え。」
 笹尾は丁寧に頭を下げて出て行った。
 矢島さんは立ち上って窓を一杯開け放した。初春の霞みを込めた麗かな光線が大気に一杯満ちていた。その遠い空のはてまで矢島さんは視線を投げた。然し彼はすぐに疲れ切った者のようにがくりと身を安楽椅子の上に投げ出した。何かぼんやりしたものが彼の心を緊めつけた。彼はじっと涙のにじみ出るような眼を見開いていた。

 長男の秀男が春の休みの旅から帰って来たのは四月に入ってからであった。彼は東京の高等学校に入ってから初めはよく土曜から日曜にかけて泊りに来たものだが、後には用事がない限りは休暇にしか帰って来なくなった。そしてその休暇には彼は旅をすることが次第に多くなった。
「若い者は自由に飛び廻るがいい。」と矢島さんは思った。「そして自由に種々なものを取り入れるがいい。」
 然し矢島さんは、秀男が帰って来る度毎に何かしら新らしいものを持っているのを感じた、そして新らしい世界が秀男のうちに醸されつつあるのを。
 矢島さんは、旅から帰って来た秀男の頬の日に焼けたのを見た。それから暫く剃刀を当てない太い眉毛を見た。
「大変丈夫そうになったね。」と矢島さんは云った。
「ええ、旅するのが一番身体のためにいいようです、そしてまた精神のためにも。何だか凡てが、自分の世界が広々として来ます。」
「そうだろう。俺も少し旅行でもするかな。」
「でもお父さんは何時もお忙しそうですね。」
「なにそうでもないがね。」と矢島さんは力無い調子で答えた。
「お隙の時何処か一緒に行ってみましょうか。」
「ああ行こう。」
 然し二人共決して一緒に旅することは恐らく無いだろうということを知っていた。二人の心から心へ通ずる交流は何時の間にか絶えていた。然しそれは誰の罪でもない。――
「其処に何かの罪を認むるならば、」と秀男は思った、「親子ということが永久の矛盾である。」そして秀男は父の眼から自分の眼をそらした。
 秀男は自分の世界を自分の心のうちにしまっておいた。それは子が親に対する微妙デリケートな謙譲である。そしてその謙譲を感ずる時、矢島さんは空虚な静安を身に覚えた。その静安が秀男に反映する。……「一緒に旅しよう」と彼等は云う。彼等は親と子である。
 然し矢島さんは秀男に対してある漠然たる期待を持っていた。それが何であるかは矢島さん自身も知らなかった。
 矢島さんは毎日急いで家に帰って来た。
「おい何でも望みの御馳走をしてやるから云ってみい。」と彼は秀男に云った。
 秀男はただ安らかな笑みを洩らした。
「あなたのは駄目ですよ。何時もお流れになるんだから。」とそれをきいて常子が云った。
「それよりか皆でゆっくり東京へでも遊びに行こうじゃありませんか。」
「よく東京に飽かない人だね。」
「いや実際東京に飽きるということはありませんよ。」と秀男は云った。
 矢島さんはそれに返事をしなかった。矢島さんはもっと近い自分のまわりに何か不調和なものを感じていた。そして彼は秀男が居ないと淋しいと思った。
「笹尾さんが参りましたよ。」
 斯う或る日常子が云った時、矢島さんは秀男の顔をちらと見た。
「秀男が逢って話をしていました。……母親が亡くなったそうです。そして笹尾さんは東京へ行くんですって……。」
 矢島さんは黙って常子からその話をきいた。老母は急に尿毒症を起して心臓痲痺で死んだこと、後の始末の困難だったこと、笹尾は一人で家財を売り払って遠い親戚を頼りに東京へ稼ぎに出かけること、……
「うむ。」こう云って矢島さんは髭を撚った。そして彼は話を外らして他のことを云った。
 然しその晩二人になった時矢島さんは秀男に尋ねた。
「お前が笹尾に逢ったのか。」
「ええ初めはお母さんと二人で。然し後で私達は二人きりで種々な話をしました。」
「笹尾はどんな風をしていた?」
「比較的うち明けて私に種々なことを話してくれました。悲壮なもので心が一杯になっているような風でした。よく話し乍ら興奮していました。」
「うむ。」そして矢島さんはまた髭を撚った。
 矢島さんは庭下駄をつっかけて椽側から外へ下りて行った。空には一点の雲もなかった。下弦の月が西の空に懸って、まばらな星がちらちらと輝いていた。静かな夜であった。そしてまだ何処か冷たい大気の間に静に露が下りそうな晩であった。
 秀男はじっと父の姿を後ろから見やった。何か緊張した感情が彼の心に湧いて来た。彼は父の処へ下りて行った。
「いい晩ですね。」
「ああ。」
 その時秀男は父の頬に深い沈思の表情を読んだ。弦月の光りに美化され深化されている悩ましい影を。
「笹尾が帰る時、香奠のしるしとして少しばかり金を包んでやりました。お父さんとお母さんと私と三人の名義で。笹尾は悲しいような眼付でそれをおし頂いてから、あなたに宜しく申してくれと云って居りました。」
「ああそれはよかった。」
 然し秀男はその言葉が父に対して残酷ではなかったかを気付かった。そして云った。
「笹尾は仲々しっかりした所があるようです。惜しいことをしましたね。」
「俺もそう思っている。……俺のことを何とか云ってはしなかったか。」
「あなたは種々のことを笹尾に仰言ったんですか。」
「ああ少し何か云ったかも知れない。」
「お父さんの前へ出ると何だか圧迫されるような気がすると云っていました。あんなことを働いたからというばかりでもないでしょう。そして種々なことを考えさせられたと云っていました。それからまた、出発前にお目にかかりたいけれどと云いながら泣き出しそうな顔をしていました。笹尾は小さい時分からお父さんには随分世話になったんでしょう。然しこんどの事件は何だかお父さんのやり方も変だったかも知れません。」
「俺のやり方が?」
「ええ。」
 それきり二人は暫く黙った。
 矢島さんの屋敷は古くから伝った広い地面を持っていた。木立があったり、広い庭が作られたりしていた。庭の奥に、矢島さんの父が老年の慰みに建てた小さい離れがあった。戸がすっかり閉め切ってあった。二人は芝生や植込みの間を縫うて其処まで達した時に、戸外の小さい椽に腰を下した。月の光りが一面に青白い布を拡げたようで木の葉がきらきら光っていた。
「笹尾のことでは俺も随分心配したよ。」矢島さんは吐き出すように云った。
 秀男は黙っていた。で矢島さんはまた言葉を続けた。
「笹尾に対する俺の気持ちは或は余り複雑すぎたのかも知れない。複雑すぎるというのは不純だったということになるかも知れない。お前は笹尾から種々なことをきいたというから、よく分っているだろう、然し一つの会社を支配してゆくのに非常な困難があるものだよ。……が俺は今でもそう思っている。笹尾に対して俺のやったことは、決して笹尾に悪い影響は与えなかったろう。もし俺が笹尾をまた使っていたら、屹度悪い結果を来すにきまっている。」
「そうかも知れません。ですがお父さんのやられたことは、まあうまくいってよかったですが、大変危険なことだったでしょう。」
「何が危険だ?」
「それは種々な意味でですが……。兎に角お父さんの方にも余り立派な動機は働いていなかったように私には思えますが。」
「立派な動機というのは?」
「お父さんは岩田のことを思い出されますか。お父さんはあの時、あの年とった小使夫婦をあんなにお世話なすったんじゃありませんか。私はあの穢い小使部屋を覗いた時の印象をまだ忘れません……。そして会社の者がお父さんを下から見上げるようにして仰ぎ見た時、新聞にはお父さんを模範社長と書き立てた時、私は涙が出るような気がしました。……然し此度のことは私には全く意外でした。残酷とさえ云えないことはありません。勿論笹尾も罪を犯したには違いありませんが、もっと笹尾を救う道が外にありはしなかったでしょうか。少くとも笹尾の老母を救う道が。」
「それはあったかも知れない。」
「ではなぜそれをやられなかったのでしょう。」
「なぜだと!……ああそれは……。」こう云いかけて矢島さんは息をつめてじっと眼を据えた。
「俺が年とったからさ。」
 秀男はその調子に喫驚して父を見た。矢島さんは眉根を寄せながら、がくりと首を垂れていた。
 悲壮な感激が秀男の心に寄せて来た。それは古い礼拝堂の廃屋の中に立ちつくしたような荒廃デザーテッド[#ルビの「デザーテッド」は底本では「デボーテッド」]な跪拝の心持ちであった。彼は立ち上って蒼空と大地との間に何かを模索するような眼差しを投げた。ふり返ると父はじっと眼を足下に落したまま堅く閉した雨戸を背にして月の光りを浴びて居る。
「もう行きましょうか。」
 斯う云った秀男の声は妙に震えを帯びていた。
「ああゆこう。」
 矢島さんは立ち上った。
 月は西の空に傾いていた。植込の影が長く高地芝の上に横って静に移ってゆくようであった。
「お前はまだ若いから種々なことをやってみるがいい。」
 矢島さんは突然こう云って秀男の方を見た。秀男は父の顔を見過すことが出来なかった。
 その時二人の心に蘇ってきたものは「父と子」という遠い感情であった。遠いそして古い血の中からの。彼等はそれに浸りながら黙然として歩いた。そして……二人を距てている肉体を感じた時秀男ははらはらと涙を落した。
「晩はまだ冷えるね。」
 矢島さんは静かな声でこう云った。そして彼は母家の方をすかし見た。其処には彼の愛する妻と父子と[#「父子と」はママ]慎吉とが居る。彼は傍の秀男の方を顧みたが、もうそれきり何とも云わなかった。

 矢島さんは重苦しいような一夜を明かした。明け方夢を見た。それから沈重な気分が寄せて来た。
 矢島さんはねる前、一人で椽側に立って、三日月の沈んだ西の空を長い間見ていた。――「五十に近づいて夜の空を見ることは……。」と矢島さんは苦々にがにがしく思った。然しそれが何であったかは彼自らにも分らなかった。
 夢の中で、そして覚めての後の重い気分の中で、矢島さんに還ってきたものは岩田の幻影であった。
 ――小使部屋には薄暗い影が立ち罩めている。入口からは入る光線が不足なので、左手の高い窓から射し込む一筋の光りが昼でもはっきり分るようだ。その一筋の明るみが部屋の中を一層薄穢く見せている。その窓の下の方に、一寸した煩事用の仕掛があって、その横の棚にある鼠不入ねずみいらずの中には茶椀などの食器類がごちゃごちゃと入っている。ゆかが低くて、畳のへりがぼろぼろに擦り切れている室が二つ、奥の室には小さいくすんだ古箪笥と其他のもの、前の室に薄い唐草模様の木綿蒲団に岩田が仰向に寝ている。眼が落ち凹んで顴骨と頬骨とが高く飛び出ている。喉を切り裂いて差し込んだ護謨管から漸く弱い呼吸が通っているらしい。僅かな流動物で辛うじて生命を繋ぎとめている身体には凡ての力の根が涸れつくしているようである。唇をだらりと垂れて、赫く日に焼けて禿げた額のみがてらてら光っている。その側に、白髪交りの僅かな髪を束ねた彼の妻がじっと坐って居る。蒲団から投げ出している夫の手に彼女は時々触ってみる。器械に瓜を[#「瓜を」はママ]削ぎ取られた妙な恰好の親指に。彼女の視線は落ちる。彼女は時々咳をする……。
 ――岩田が喉頭癌を病んでから、矢島さんは費用を惜しまずその治療をさしてやった。然し岩田は矢島さんの寛大な親切の少しをしか実行せしめなかった。彼は頑固にその卑賤な境界を固守した。そして長い臥床の後に死んだ。その後間もなくその妻も、夫と同じ薄い蒲団の上で静に眼を瞑った。その時会社の者等は皆、死んだ二人の為よりも寧ろ矢島さんの仁慈の前に涙を流した。
 ――岩田は病気のひどくなって病院に入ることを勧められた時斯う云った、「わしは此処が一番気楽でようがす。長年住みなれた処が一番眼を瞑り易いで。」実際彼は会社創立の時からの小使であった。その時から彼はもう可なり年を取っていた。そして彼の魂は、その卑しい境界のうちに一人閉じ籠りながら、其処から引きずり出されることを拒みながら、そのまま死んでいった。そして彼の妻も。矢島さんは彼等のために世話を惜まなかった。その頃まだ給仕だった笹尾はよく彼等のために走りあるきをした。……
 矢島さんは重苦しいような心地で起き上った。空が綺麗に晴れて、朝日が麗かに輝いていた。で庭に出て大きく息をしてみた。
「今起きたのか。」
 矢島さんは秀男の姿を見るとこう云った。
「ええ。」
「寝坊だね。」
「でも私はこれで早起きの方ですよ。私の友人なんかにはそれは大変な寝坊が居るんです。……然し皆だんだん早起きになるかも知れません。年を取るほど眼が早く覚めるものじゃないでしょうか。」
「そんな馬鹿なことがあるもんか。」
 然し矢島さんは秀男の若々しい頬の色艶を見た。睡眠の足りた生気に満ちた顔、倦怠と疲労とを知らぬ眼の輝き。そして頑丈な体躯。
「何時東京へ帰るんだ。」
 矢島さんは会社に出かける前にこうきいた。
「二三日うちに帰らなければなりません。」と秀男は答えた。
「ソフも[#「ソフも」はママ]せわしない人だね。」と常子は云った。「まだ学校は初まらないじゃないですか。」
「でも種々な用事があるんですから。そりゃあこれでも非常に忙しいんです。しなければならないことが馬鹿に沢山あるんですから。」
「何をそんなにすることがあるでしょうね。」常子は優しい眼で秀男を見た。「一度は会社の方も見に行ってごらん。参考になることがあるかも知れないから。」
「ええそうですね。」と秀男は気のない返事をした。
 矢島さんはそういう会話を耳にしながら、仕度をして出て行った。
 矢島さんの心に、毎日同じことをくり返してる自分の単調な生活がちらと映じた。然しそれはすぐに消えて、ある漠然としたとりとめもない圧迫が身に迫ってくるように感じた。
 矢島さんは何かを待ち望むような心地で会社に入った。皆が丁寧に頭を下げるのに対して、彼は「やあ。」といつもの調子で答えた。それから自分の室に入って、煙草を一本吸った。そして髭を撚った。
 それから事務に取掛った。
 その日矢島さんは、社内を一通り見て廻った。竈の工合から、発動機、変圧器、配電盤、何時も見馴れた厳かな機械は一糸乱れざる常住の運動を続けていた。矢島さんは一眼でその要部々々の工合を見て取ることが出来た。彼の眼にはそれらの精巧なる機械も極めて簡単なるものとしか映じなかった。で一通り見て廻った後、轟然たる機関の響から遁れて外へ出ると、柔かな四月の光りが彼の頬を撫でた。
 大きい給水池のまわりを矢島さんは静に歩いた。そして向うの小使部屋にふと彼の眼は注がれた。平田が一人で講談本を読み耽っていた。
 矢島さんは何か落ち付かない視線をあたりに投げた。それから静に平田の側へ行ってみた。
「へへへ今日は。」と平田は書物を伏せて頭を下げた。
「どうだこの頃は?」と矢島さんは何かうっかりしているような調子で話しかけた。
「いえもう一向から駄目です。ただこうして生きてるのが有難え仕合せだと思ってるです。」
「然し君はいつも気楽そうだね。」
「へへへもうこの年になっちゃあすっかり諦めをつけなくちゃいけませんです。そんなに面白えことばかり世の中には転がってるものじゃねえです。ちっとばかり生きてりゃあ分ります。これで随分種々なこたあやって来たですが、面白えと思ったなあその時きりで、後になりゃあ馬鹿馬鹿しいことばかりです。それに馴れるのも早えものでして。」
 矢島さんは平田の少し痘痕のある眉の太い赫ら顔を眺めた。それからぐるっと不安の眼付で部屋の中を見廻した。岩田が死んでから少しばかり手入れをしたその部屋も、いつの間にかまた薄穢くなってしまっている。それに平田が独り者なので一層そこらがごたごたと取りちらしてあるように見える。畳の上に汚点がついていたり、きたない仕事着が放り出されたりしている。そしてあの高い窓から、同じ様に一筋の明るみが部屋の中に射し込んでいる。
「今掃除しようと思ってる所でした。」と平田は矢島さんの眼付を恐れてこう云った。「とり散らかした穢ねえ所を御目にかけて御免下さい。」
「この部屋は住み心地が悪くはないかね。」
「なあにわっち共にゃあ過ぎものです。食って寝せえすりゃあ、それで沢山です。」
 矢島さんは又眼を挙げて窓を見た。そして岩田が長く寝ていた時の言葉を思い出した――「あの窓が大変あり難えだ。」
「あの窓が大変あり難い、」と矢島さんは我知らず心の中でくり返した。そしてそれに気がついた時、云い知れぬ不安に襲われた。
「然し若え者あ贅沢でいけません。娘がやって来るといつも穢ねえっちゃあ叱られますだ。」
「そう君にはいい娘があるそうだね。」
「なに仕方のねえあまでがさあ。……打たれた位では平気でしゃあしゃあしています。いえそう度々打つんじゃねえんでがすが、わっちの方も年とって力が無くなったんでさあ。へへへ、この頃ああべこべにやられますだ。年とって来ると若え者には敵わねえです。……でも感心に時々小使位は送ってくれます。何をしてるんだか尋ねもしましねえが、料理屋に居るんだとか云ってるですから、何れ碌なこたあしてねえでしょう。もういい婆あになりやがって、まだずうずうしくしてまさあ。」
「よく君はそれで淋しくないんだね。」
「へへへもうこうなっちゃあ、淋しい位は何でもねえです。気楽が一番の薬ですから。」
 矢島さんはまたぐるりと部屋の中を見廻した。それから突然云った。
「やあ邪魔をしたね。」
「いえとんでもねえことです。」そして平田は矢島さんの顔色を窺った。「つまらねえことを饒舌って、御免下さい。」
 矢島さんは其処から逃げるようにして立ち去った。そして給水池の所に来た時、何か罪の意識をでもふり落すように一二度頭を横に振った。が彼はそのまま事務室の方へ帰っていった。

 秀男が東京へ発つ日は、妙にうすら寒い日であった。も一日延ばしてはと母から止められたけれど、予定があると云って彼はさっさと仕度をしてしまった。
「お前停車場まで行っておあげよ。」と矢島さんは慎吉に云った。
「僕も俥で行っていいでしょう。ねえお父さん。」と慎吉は嬉しそうに叫んだ。
「なに歩いて行くさ。文子と一緒においで。」
「姉さん行くの?」と慎吉は怪訝な顔をして姉の方を見た。
「文子お前も行っておいで、」と矢島さんは黙っている文子の方に云った。「兄弟三人でぶらぶら歩いて行ったらいいだろう。荷物だけ先に送っておくといい。」
「そうですね。」と秀男は父の方をじろりと見た。「それじゃ三人で行こう。僕が停車場で奢ってあげるよ。」
 常子と文子は何だか変な笑顔を見せたが、やはり兄弟三人で出かけることになった。そして矢島さんは常子の後について皆を玄関まで送ってきた。
「それじゃあ参ります。」と秀男は父の前に頭を下げた。
「ああ。」と矢島さんは答えた。
 門を出ると文子は秀男の側へ寄って来た。
「お父さんは今日何だか変ね。」
「変じゃないよ。」
「だって……。」と云いかけたが、文子はそのまま黙って慎吉の方を顧みた。
 三人が出て行った後、矢島さんは茶の間に帰って来た。
「みんな大きくなったもんだね。」
「大きくなる筈ですよ。私達がもういい加減年をとったんですもの。」と常子は云って、安らかな笑顔をした。
「そうだもういい加減年を取った。然し俺はまだそう老ぼれてやしない。」
「ほほほ今から老ぼれてはたまりませんよ。」
「だがお前はよほどお婆さんじみてきたよ。」
「そうでしょうか。」と云って常子は眼を瞬いた。然し彼女は心のうちで安らかに微笑んでいた。
 何だかうそ寒い淋しさが矢島さんの心に寄せて来た。で彼はそのまま立ち上って書斎に入ってみた。
 薄曇りの春の日が硝子障子に反映して、室の中は陰影のない明るみを湛えていた。矢島さんの好みで淡色に塗った壁にしつけられた書棚には、洋書や和書がぎっしりつまっていた。その前に大きい書卓が[#「書卓が」は底本では「□□二字欠落が」]あって室の真中には円い卓子が据えてある。正面の壁に亡父の大きい肖像と、左手の壁に西洋の種々な科学者の写真とが懸っている。矢島さんはそれらをちらりと見廻したが、そのまま書卓の前の肱掛椅子に身を落した。
「俺はこの頃何かに脅かされている。それが何だか俺には分らない。」と矢島さんは思った。
「俺は一人前の仕事はやって来たつもりだ。そして漸く俺の事業が安定になった今、この感情は一体何だ? 俺の生活が落ちついて来ると共に、俺の心は不安定になってくる……。」
 矢島さんの生活は落ち付いていた。矢島さんは自分の身に名誉と富と権力とを意識していた。彼は自分の会社を思った。其処に働く多くの人と偉大な機械とを思った。日々に自分の意志に依って作り出さるる多大な電力を思った。それから、その電力を受くる幾多の工場、夜には数万の人家、それらの上に建てられた自分の力を思った。確かに矢島さんにとっては、事業は単なる営利の仕事ではなかった。意志と力と生活とが織り込まれた生きた人格の働きであった。
「俺は一個の社会の支柱だ。」と彼は自ら云った。
「然し乍ら俺はこの頃何かを欲している。この欲求は何処から来たのであろうか。或は俺は今の生活に倦怠を……。」
 其処まで考えた時、矢島さんは大きい矛盾に捕えられた。彼は、自分自身の心に倦怠を感じていないことと、自分の生活のまわりに倦怠の色調が濃くなってきたこととを、殆んど同時に意識した。その時彼の眼に種々な人々の姿が浮んできた。
「彼等は俺にもう用がないんだ。……然し俺は、俺は彼等に用があるような気がする。」矢島さんはじっと眼を伏せた。秀男はもう俺の所有ではない。笹尾ももう俺に用はないんだ。平田もそうだ。岩田も俺に何にも求めないで死んでしまった。そして恐らく、俺が現に使っている多くの者も、俺のお影を被っているこの町の者等も、俺に対して何の欲求も持っていないであろう。それに……俺は、俺の心は、彼等に向って何か用がある。どんな用だか自分にもはっきり分らないが、兎に角俺は彼等に用があるんだ。俺は彼等に無関係インデファレントではない。
「俺は彼等に何か欲求を持っている。……然し、彼等は甞て俺に何かを求めたであろうか……。」
 矢島さんはこう自ら云ってみた時、心が苦しくなって来た。荒凉たるものの中にぽつりと置かれた自分の魂を見るような気がした。その時彼はじっと亡父の肖像を見上げた。彼の頬の筋肉は痙攣的に歪んで泣き出しそうな顔をしていた。がやがて彼はまたがくりと首を垂れた。
「お前は、まだお父さんが生きていられたらどうだと思う?」
 常子の顔を見ると矢島さんはこう尋ねた。常子はその意味をはっきり解しかねて、ただ夫の顔色を窺った。
「お前はそんなことを思ってみたことはないか。」
「それはよくそう思います。けれどもお父さんは幸福にお亡くなりなすったから、私も仕合せですわ。」
「そう、幸福に亡くなられた。然し何だね……、」と云いかけて矢島さんは、ある考えを纒めようとするかの如く首を傾げた。「善良なお父さんだったね。」
「まああなたは……死んだ人に対してそんな口の利き方をする人があるものですか。」
「死んだ人のことを云っていけないってことがあるものか。」
「だってあなたの云い方はまるで人を馬鹿にしたような云い方ですもの。」
「馬鹿云え。俺の云うことがお前には分らないんだ。」
 常子はじっと眼を落した。そして云った。
「あなたはこの節何だか変ですね。何か御心配事でもおありになるんではありませんか。一人でじっと考え込んでばかりいらして、何とも仰言らないから、私ほんとに心配ですの。」
「そりゃ生きてる以上は何かを考えることはあるものだよ。」
「でも何か御心配事ではありませんか。」
「心配のことなんかありはしない。……ただ少し気分が勝れないようだ。」
「それではお寝みになっては如何です。眠るのが一番頭のためにお宜しいですよ。」
 矢島さんはそう云う妻の顔をつくづく眺めたが、やがて外のことに話を向けた。
「みんな大変遅いね。」
「だってまだ汽車の時間にはならないではありませんか。それに文子と慎吉と二人きりですから、どんな処をぶらついて来るか分りはしません。」
「それでいいんだ。」
 然し矢島さんはその晩早くから床に就いた。夕方帰って来た文子と慎吉とが種々なことをベチャベチャ常子に話していたことをふと思い出したが、矢島さんはそれをしいて払いのけるようにして眠りに入った。彼は何かしら疲れ切ったような感覚を身内に覚えた。
 訳の分らない頼り無いような悪夢を感じて、ふと矢島さんが眼を覚したのは夜中であった。
 彼は半ば夢心地に囚えられながら、ざっと眼を見開いてみた。あたりが静かでことりとの物音一つしなかった。二燭光の電気がぼんやり室の中を輝らしていた。その時彼は俄にある不吉な不安を室の中に感じて身を震わした。然しそれは一瞬間のうちに過ぎ去った。深い夜と静寂とがまた彼の心に寄せて来た。傍の蒲団に眠っている常子の姿が矢島さんの眼を引きつけた。彼女は口を少し開いたままがくりと頸を枕に押しつけて正体もなく眠りに入っていた。少し腫れ眼瞼の眼はじっと閉じている。薄暗い光りの隈が頬の皺に纒っている。多年白粉に塗られてきた皮膚には血の気が失せて蝋細工のような仄白さが顔面の表皮に浮んでいる。
 矢島さんがその顔をじっと見た。そして彼の心には安らかに老いていった一人の女の姿が映じた。凡てに無関心インデファレントな安静が彼女を包んでいた。彼女は四人の子を産んでその三人を育て上げた。なるがままに人生を見て来た。恐らくは何も欲求しなかったであろう、恐らくは何も得なかったかも知れない、そして恐らくはもう人生に用が無くなっているかも知れない、然し彼女のうちには何かが澱んでいた、年月を生きてきた生の重みが、それを宿している女性の肉体が。
 矢島さんの心に漠然たる恐怖が湧いてきた。彼は喰い入るように妻の寝顔を凝視した。彼は自分の鳩尾みぞおちの当りにぐぐぐと気味悪い音がするのをきいたように思えた。
 矢島さんは我知らず「おい。」と云った。そしてまた「おい。」と云った。その時常子は眉根をちらと震わして少し身を動かした。矢島さんははっとしていきなり蒲団を被ってしまった。そのまま彼は長い間物に脅えたようにじっとしていた。そして頭の心に遠い痛みを覚えて、そのままのうつつともない苦しい眠りに陥るまで……。
 その翌日矢島さんは頭がひどく惘然としているのを意識した。そして夜のことを遠い昔のことのようにして思い起してみたが、それは明るい昼の光りにすぐぼんやりとしてしまった。そして彼はいつもの時間に会社に出かけて行った。
 その時矢島さんは、四月の光りを浴びて歩きながら、これから日記をつけてみようとふと考えた。どれ位続け得るかは自分にも分らなかった。「然し兎に角今日から一つ日記をつけてみよう。」そして矢島さんは右手を挙げて髭を撚った。がその動作が自分でも変に可笑しかったので、あたりをぐるりと見廻してみた。春の日が大地の上を一面に照していた。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説)」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝國文學 第二十二卷第四號」
   1916(大正5)年4月1日発行
※疑問点の確認と欠落の補充にあたっては、初出を参照しました。
入力:tatsuki
校正:岩澤秀紀
2010年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。