一

 井上周平は、隆吉を相手に、一時間ばかり、学課の予習復習を――それも実は遊び半分に――みてやった後、すぐに帰ろうとした。其処へ保子やすこが出て来て、心もち首筋から肩のあたりへしなを持たせた様子と、かすかに開いた唇から洩れる静かな含み声とで、彼を呼び止めた。
「井上さんちょいと!」
 例のことだな、と周平は思った。そして、月の最終の日だということに妙な憚りを置いて、すぐに帰ろうとした自分の態度が、自ら卑屈に感じられた。
 彼は少し顔を赤めながら、保子の後について茶の間へ通った。
今日きょうは急ぐんですか。」
「いいえ、別に……。」と周平は口籠くちごもった。
「そんなら、ゆっくりしていらっしゃいよ。いま珈琲でもいれますから。」
「ええ」と彼は答えたが、一寸極りが悪かった。そして、腰を立てようか落着かせようかと思い惑っていると、真正面から保子の言葉が落ちかかった。
「あなたはまだ、妙な遠慮をしてるのね。」
 小さくはあるが、奥深く澄み切った眼で、じっと顔を見られると、周平はを失ってしまった。仕方なしに眼を伏せて、頭を掻いた。
 保子は更にいい進んだ。
「何も遠慮することはないでしょう。隆吉の面倒をみて下すってるんだから、私共からそのお礼を差上げるのは当然じゃないの。もし私共の方で忘れたら、進んで云い出して下さる位でなければ、いけないわよ。それなのに、月末だからといって、すぐに逃げ出そうとしたりして、ほんとに可笑しな人ね」
 最後の言葉に少し浮いた調子があったので、周平は漸く落着くことが出来た。
「でも、金のことは何だか厭ですから……。」
「だからあなたは、お金に縁がないのよ。」
 そう押被おっかぶせておいて、彼女は調子を変えた。
「国許から送って来るだけで、どうにか間に合いますか。」
「ええ。然し全くの所、どうにかという程度です。」
 彼は冗談のようにして云った。
「でもねえ、」と保子はやはり前の調子で云い続けた、「もし不自由なことがあったら、いつでも仰しゃいよ。隆吉のことをお願いしたのだって、ただであなたを補助するのも悪いから、ほんの名目だけだと、横田もそういうつもりですから。……一体あなたは、余り遠慮深すぎていけないわ。これから、すっかり明けっ放しで、遠慮なしにしましょうよ、ねえ」
 しみじみとした感傷に囚われようとするのを、周平はじっとこらえた。顔を上げると、保子の清いあらわな眼はちらと瞬いて、長い睫毛の奥に潜んでしまった。彼は一寸心の置き場に迷って、前にあった珈琲椀を取り上げた。何だか黙って居れなかった。
「さんざん小言こごとを云っといて、珈琲一杯ではひどいですね。」
「だからお土産みやげをつけてあげるわ。」
 保子は帯の間から、紙に包んだものを取出した。周平は一寸躊躇したが、彼女の笑顔に促されて、黙ってそれを受取った。そしてすぐ立ち上った。
「落さないようになさいよ。」
 無雑作に懐へねじ込むのを見て、保子からそう注意された言葉を、彼は上の空で聞き流して、外に出た。
 空は晴れていた。西に傾いた晩春のが、咽っぽいような光りを一面に大地の上に送っていた。
 或る曲り角で、向うから駈けてきた俥を避ける拍子に、枳殼からたちの生籬の刺で、彼は手の甲を少し傷つけた。血のにじんだ所へ唾をつけると、ひりひりと痛んだ。それが妙に快い気持だった。
 彼は保子のことを考えていた。姉妹のない彼にとっては、保子は姉――美しいやさしい姉であった。と同時にまた、人間的に師事している横田の夫人であった。彼女の親切を思う時、彼はしみじみと力強い気がした。彼女の保護がある以上は、あと二年足らずの大学選科も、無事に終えられそうだった。
 下宿へ帰って、彼は先ず袴を取ってから、思い出したように懐の紙包みを探った。「御礼」と小さく書かれた女文字を一寸眺めた。そして中を開いた。十円紙幣が二枚はいっていた。
 彼は軽い驚きを感じた。
 初め、週に一回ずつ隆吉の学課をみてやることになった時、謝礼は月に十円ばかりあげる、というのが横田の言葉だった。そして実際、月末に二回、周平は夫人から十円ずつ貰ったのだった。それが此度に限って、而も不意に、二十円になっているのだった。
 周平は、二枚の紙幣を机の上に置きながら考え込んだ。――五円紙幣と十円紙幣とが、何かの拍子に間違えられたのではあるまいか、と考えた。もしそうだったら、余分は当然返さなければならなかった。それを黙って着服するわけにはいかなかった。然し……その考えは、どうもぴたりと彼の気持へこなかった。――或は、好意から倍額にしておいて、自分に喜ばしい驚きを与えるために、わざと何にも告げられなかったのではあるまいか、とも考えた。この推察の方が彼の気持へぴたりときた。元々、隆吉の学課を見て貰うというのも、自分を補助する口実とするための、横田の方の好意なのであった。「横田もそのつもりですから、」と保子から今日も云われたのだ。……考えてるうちに、あの時の保子の調子が、彼の頭にまざまざと浮んできた。何の気もなく聞き流した、「落さないようにしなさいよ。」と言う言葉が、今になって頭に響いてきた。
 彼は感謝の余り、涙ぐましい心地になった。
 然し机の上の紙幣を金入にしまう時、彼は急にその手を止めた。
「このままではいけない!」
 向うの好意だと推察するならば、一方にまた、向うの誤りだと推察出来ない筈もなかった。そう思いついた時彼は、前者だときめてかかった自分の気持に、或る狡猾さを感じた。次には、試されてるのではないかという疑懼の念も起った。彼は厭な気分になった。
「兎に角返しに行こう。それから先は向うの言葉次第だ」と彼は自ら云った。
 いつのまにか日の光りが薄れていた。今からでは夕食の時刻にぶつかりそうだった。彼は一度立ち上った腰をまた下ろした。それにまた、横田の不在の折に保子一人へ話したかった。もし保子一人の好意から出たことだったら……。
「馬鹿!」と彼は自ら自分に浴せかけた。甘っぽい空想にまで陥りかけた自分自身が、なさけなかった。つまらないことに斯くまで乱される自分の心が、なさけなかった。
 愈々最後の決意をしたあの日のことを、彼は縋りつくようにして想い起した。

     二

 それは、朝から糠雨の降る佗しい日だった。周平はまた終日、このまま学業を止したものかどうかと、数日来の問題を考え耽っていた。早く決定しなければならない必要があった。
 夜になって散歩に出た。先輩の野村の意見をもまた尋ねた。帰ってきてからも、夜遅くまで一人で考えた。しかし何れとも決しかねた。寝てから考えることにした。着物のまま布団の中にはいって、ぼんやり天井を眺めていた。頭が疲れきって、いつのまにかうとうとしたらしい。そして夢をみた。
 ――誰だか分らないが、親しい四五人の者と一緒だった。狭い室で食事をしていた。変な獣が一匹前に蹲っていた。その胸から腹へかけて毛が※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取られていた。それに箸をつきさすと、薄い肉片がわけなく取れた。「うまい肉だ、」と誰かが云った。獣は間もなく、胸から足へかけて、骨ばかりになった。それが、生きた猫だった。「可哀そうだからこれ位にしておこう、」とまた誰かが云った。猫は起き上って、胸と足との肉をむしり取られたまま、のそりのそりと歩いていった。
 それから、皆は出かけることになった。
 石の段を上ると、あたりが真暗だった。曲りくねった坂道が続いていた。その道を歩いていった。皆も一緒だということは分っていながら、真暗なのでその姿は見えなかった。そのうちに、道の両側から幾人もの乞食が出て来た。不思議にその姿ははっきり見えた。皆筋骨の逞しい男だった。半ば裸体で、滑っこい餅肌もちはだをしていた。それが、袂を捉え、手首を取り、はては首っ玉にかじりついて来た。どうにも出来なかった。
「石で殴りつけるがいい、」と誰かの声がした。で、両手に大きな石を拾って、それでやたらに殴りつけた。幾つも敷居のようなものを跨いで進んだ。それを一つ越す毎に乞食の群に出逢った。両手の石を振り廻して追っ払った。
 書後に[#「書後に」はママ]、石段があった。それを下りると、鉄のような重々しい扉にぶつかった。扉が少し開いていて、向うに仄かな明るみが見えていた。その扉を出ればもう大丈夫らしかった。
 ふと気がつくと、二人の乞食が後からついて来ていた。一人は、顔から肩へかけて一面に怪我をしていた。一人は力の強そうな大きな男だった。その大きな男が云った、「仲間の者に傷をつけた以上は、このまま通しはしないぞ」
 その男が乞食の親方らしかった。あたりを見廻すと、闇の中に多くの乞食が潜んでるらしかった。恐ろしくなった。懐から紙入を取出した。何程与えたらいいかと考えてると、闇の中から傴僂せむしの乞食が出て来て、両方の膝頭に、掌のような形をした足枷を投げかけた。それが膝頭にぴったり吸いついて、歩けなくなった。「復讐だ、」という声がした。今にも多くの乞食が出て来そうだった。恐ろしかった。扉からさす明るみを横目で見ながら、しきりに、身を※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いた。※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)く度に、身体が益々闇の中に沈み込んでいった。
 ……そこで彼は夢からさめた。乞食の餅肌の感触がなお身体中に残ってる気がして、不気味で仕様がなかった。いきなり飛び起きて、窓を開いた。
 外には、仄白い明るみがあった。東の空に薄紅い雲が漂っていた。空の星が変にぎらぎら輝いていた。木立や大気が、総毛立ったようにざわめいていた。夜明けに近いのだった。
 彼は窓にもたれたまま、それらの景色をじっと眺めた。云い知れぬ感情が身内に戦いてきた。それをなお押えながら、じっとしていた。未明の空と地とを前にして、夢の中の猫と乞食の群とが、何かの象徴のように考えられた。
 彼は東の空が白んでくるまで、そのまま身を動かさなかった。そして、如何なる困難を忍んでも学業を続けようと決心した。決心がつくと、初めて我に返ったかのように飛び上った。窓や戸を一杯開け放った。室の中を歩き廻った。それから机に向って、漢口はんこうの水谷へ手紙を書いた。その店へ行くことを断り、なお哲学の研究を続ける決心を告げた。その後で彼は、大学へ選科の入学願書を認めた。

     三

 ――その時のことを、周平は今思い浮べた。それと共に、水谷からの僅かな金で暮してきた過去のことを、想い起した。
「甘っぽい空想に耽るべきではない、」と彼は自ら云った。そして力強くなった。
 翌日の午後、彼は金を返しに保子を訪れた。
 保子は勝手許かってもとの方で何か仕事をしていた。一寸手が離せないからというので、彼は暫く待たされた。
 縁側に腰をかけて、ぼんやり庭の新緑を見ていると、前日からあんなに気を揉んだことが、何だか馬鹿々々しく思えてきた。暫くして保子が出て来た時、彼は軽い調子で云い出した。
「昨日、計算を間違えられはしませんでしたか。」
「何の計算なの」と彼女は問い返して、彼の顔をじっと眺めた。
「間違ったとお分りにならなけりゃ、私の方がとくすることだから黙っといてもいいんですが……。」
 周平はそう云って微笑ほほえんだ。
「何のことなの。はっきり仰しゃいよ」
「あててごらんなさい。」
「さあ、何でしょうね?」と彼女は小首をかしげた。
 彼はその顔を見やった。そして、彼女の微笑んでる眼付を見て取った時、あべこべに向うから揶揄からかわれてることを感じた。彼は率直に云い出した。
昨日きのう、お礼の包みの中に二十円はいっていましたよ。それで余分の半分だけ、返しに上ったんです。五円紙幣と十円紙幣とを間違えられたのではありませんか。」
「そのことで今日きょうわざわざいらしたの」
「ええ」
「あなたは嘘つきね」
「いえ、実際二十円あったんです。」
「そんなことじゃないわよ」と保子は云った。「昨日あなたは、お金のことは口にするのが厭だと云っといて、今日はお金のことでわざわざ来るなんて、嘘つきだわ。それに、人があげたものを返しに来るなんてことが、あるものですか。」
 変に調子がきびしかったので、周平は呆気あっけにとられてしまった。何が保子の気に障ったのか、彼にはどうしても合点がいかなかった。彼はただ黙って、彼女の顔を見ていた。
 周平が黙ってるのを見て、保子は止めを刺すようにずばりと云ってのけた。
「あなたが気持の上で嘘をついたり、変な他人行儀をしたりするんなら、私の方からもそうしてあげるわ。」
 何という無茶な云い方だろう、と周平は思った。と共に、それが何だか嬉しくもあった。然し黙ってるのも余りに意気地がなかった。相手の考えにはおかまいなしに、自分の思う所だけを云ってしまわなければ承知しないというような、保子の一徹な眼の光りから、周平は視線を外らしながら、種々に弁解し始めた。――今迄十円だったのが、今度俄に二十円になっていて、而も一言の断りもない以上は、勘定の誤りかも知れないと考えるのは至当であること、金銭問題を口にするのは固より嫌いではあるが、それを口実にして不当の利得を着服するのは、人格的に下劣な行いであること、一言の断りさえあれば、その好意を喜んで受けるだけの雅量はあること、受けるものなら正当に受け、受けてならないものなら立派に返すのが、本当だと思ってること、そういう自分の行為を非難されるわけはないこと、などを彼は廻りくどい調子で説いた。そして最後につけ加えた。「私はどう考えても、あなたから叱られるような訳はないと思っています。」
「いつ私があなたを叱って?」と保子は云った。
「でも腹を立てて非難するのは、叱るのと同じじゃありませんか。」
「私ちっとも腹を立ててやしないわ。けれど、こちらの気持をそのまま受け容れて貰えないのは、不快なことじゃなくって?」
「それはそうですけれど、いくら気持は分っていても、はっきりした言葉がなければ困ることもあるんです。」
「お金のことがそうだと云うんでしょう。だからあなたは素直でないのよ。お金ということにいやにこだわるのは、あなたにひがみがあるからよ。」
 そう云われてみれば、彼は一言もなかった。困難な生活をしてる余り、金銭に対して妙に神経質になるのは、一種の僻みからであるかも知れなかった。然しそればかりでもない、と彼は考えた。そして云った。
「然し金銭問題は、一番厭な不快を招くことがありますから。」
「それがあなたの僻みよ」
 そう押被おっかぶせられると、彼は口を噤むより外仕方がなかった。黙ってると、保子は暫くしてこう云った。
「分って?」
 彼は顔を挙げた。自然に澄みきった彼女の眼とやさしい顔とが、すぐ前に在った。それをじっと眺めながら、彼は咄嗟に云った。
「では黙って貰っておきます。」
「え?」
 小さな眼が一杯見開かれてきょとんとしていた。周平は云いなおした。
「分りました。」
 一方へ持っていかれた心がまた他方へ引戻されたというように、彼女は中途半端な顔付で、一寸上目を見据えたが、やがて両方とも腑に落ちたらしく、じっと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。「馬鹿な人ね、」とその眼付が云っていた。
 彼ははぐらかされたような気持になった。口先だけで云ってみた。
「奥さんくらい気むずかしい人はない。」
「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。
 彼は口を噤んだ。いやに考え込んでしまった。

     四

 それは、謎を投げかけられたような気持だった。
「奥さんくらい気むずかしい人はない、」と彼が独語めいた調子で云ったのは、表面からの言葉だった。裏面から云えば、「奥さんくらい無頓着な人はない、」となるのであった。相手の正当な申出を頭からけなしつけたのが、気むずかしいのだった。相手の考えを眼中に置かないで独り合点をしてるのが、無頓着なのだった。其処に、周平の眼に映じた保子の二方面があった。そしてこの二方面は、実は同一性格の両面に過ぎなかったが、それが親切とか好意とかの衣に包まれて、一つの事柄に就いて一人の者に対して同時に現わされたために、変な不調和を示したのだった。周平は二つの心に相対したような感じを受けた。一つの心は、思いやりのない得手勝手な冷かなものだった。も一つの心は、個人と個人との境界を無視した温い抱擁的なものだった。
「自分に対する保子の心は、二つのうちの何れなのかしら?」と周平は考えた。考えようによって、どちらにもなりそうだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、両方だときめるのは、今の場合彼にはつらかった。彼は保子から、冷淡か温情かの何れかで遇して貰いたかった。峻烈な批判を加えられるか、或は温く抱擁されるか、何れかでありたかった。
「それは兎に角、自分は忘恩者でありたくない、」と彼は、問題をそのまま抛り出して、別な結論に辿りついた。そして、夫人へはこのままでいいとして、横田氏へは一言感謝の意を申して置きたかった。
 周平は、水曜の午後少し遅く出かけていった。
 横田は、週に四回商科大学で語学を講じていた。然し彼は元来文学者だった。折にふれて新聞雑誌に、外国文学の紹介をすることなどもあった。未来は批評を以て立つつもりだった。それで彼の周囲には、文学を愛好する青年の小さな群が出来ていた。その連中がいつとはなしに、水曜の午後から晩へかけて、横田の書斎に集ることになっていた。水曜が彼の最も隙な日だったから。
 周平は他の日にわざわざ訪問したくなかった。実は、隆吉の学課をみてやる月曜なら最も好都合だったが、その日横田は夕刻まで授業があった。それで、最も行き易い水曜を選んだ。
 門をはいって玄関に立った時、彼は先ず其処に在る下駄を見廻した。幸にも客は一人か二人位らしかった。彼は安心した。
「丁度村田さんが来てるのよ」と保子から云われた。
 彼は先ず保子や隆吉を相手にするつもりだったが、村田なら、その方へ行かざるを得なかった。
 横田と村田とは、寝転んで将棋をさしていた。二人共周平の方に一寸眼を挙げて「やあ。」と云ったきり、また盤面を見つめた。周平はその側に足を投げ出した。村田の方が少し上手だった。横田は負けを諦めかねて、幾度もさそうとした。
 周平はつまらなくなって、両手を頭の下にあてがいながら、仰向に寝転んだ。窓から青い空が見えていた。その狭い四角な青空の中に、白い断雲がぽつりと現われてきては、またすぐに飛び去っていった。風が少し出ていた。周平は軽い苛立ちを覚えた。立ち上って、書棚の隅から外字雑誌を取ってきては、その※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を眺めたりした。
 やがて、横田は将棋の駒を抛り出して云った。
「今日はどうもいかん。またこの次にしよう。」
「とうとう兜をぬぎましたね」と村田は得意げに云った。
 それから二人は、周平の方に話しかけた。周平は浮かぬ顔付をしていた。
 村田が便所に立った時、横田は周平の顔をまじまじと眺めて尋ねた。
「何だかいやに考え込んでるようじゃないか。どうしたんだい?」
 丁度よかった。村田が座を立った僅かな間に、軽く問題を片附けてしまおう、と周平は思った。向うの言葉に頓着なく、いきなり云い出した。
「いつもお世話にばかりなっていまして済みません」
 横田は大きな眼をくるりと動かした。
「なに、お互いっこじゃないか。」
「それに、」と周平は云い進んだ、「こんどなんかは、余分に謝礼を頂いたりして、申訳ない気がします。」
「ああそうだったかね。妻が何か気を利かしたんだろう。……まあいいさ、そんなことは。黙って貰っとけばいいじゃないか。」
 周平は変な気がして、横田の顔を見上げた。横田は眼を外らしていた。右手の指にはさんだ煙草の煙を天井の方に吹かしながら、鴨居の額面をぼんやり眺めていた。
「それでは……、」あなたは御存じなかったのですかと云いかけて、周平ははっとした。そんなことを云ってはいけない気がした。そして、中途で切った言葉の続きに迷った。それを無理に云い進んだ。「余り勝手すぎるようですから……、」一応奥さんにと云いかけて、彼はまた口を噤んだ。どうにも仕方なくなった。可なり間を置いてから、漸く云ってのけた。「一寸お礼だけ申しときたいと思ったのです。」
 額に汗が出て来た。横田からじっと見られてるのを感じた。そして更に狼狽してきた。横田は黙っていた。
「つまらないことを気に懸けないがいい。」と暫くして横田は云った。
 周平は何とか云って、その場を、否自分の気持を、とりつくろいたかった。然し言葉が出なかった。
 そこへ、村田がやって来た。
「今日は余り人が来ませんね。」と村田は坐りかけて云った。
「ああ。」と横田は気の無い返辞をした。
 周平はじっとしてるのが苦しくなった。それかって、すぐに座を立つのも猶更変だった。横田と村田とが新劇壇のことを話し始めたのを、彼は側で黙って聞き流しながら、ぼんやり室の中を見廻していた。一間の書棚とその横の本箱とにぎっしりつまってる書物を、見るともなく眺めていると、一種の威圧を受けた。それが更に先刻の狼狽の上につみ重なってきた。しまいには、淡く自棄やけの気持にまでなった。
 それにしても、あの事を横田が知らないらしいのは不思議だった。たとい保子の心から出たことだとしても、横田には一応相談があってる筈だった。平素彼等夫婦の深い親和を見馴れている周平には、どうも腑に落ちなかった。そして、自分がへまなことを云い出したのではないかという、疑懼の念が起った。
 彼は捨鉢と不安との気持に囚えられた。夕食の御馳走になっていけと勧められるのを、むりに断って辞し去った。村田も一緒に立ち上った。玄関へ保子が送ってきた。周平はその顔をちらと見たが、いつもの通りこだわりのない表情だった。

     五

 周平は村田と肩を並べて、暮れかけた街路を歩き出した。
 風が可なり強くなっていた。南の方からむくむくと起ってきた黒雲が、空の半ばを蔽っていた。夕暮の色と雲の影とが一つになって、不気味な薄闇を地上に漂わしていた。二人は肩をすぼめながら歩いた。
 周平は変に気懸りになってきた。保子が好意を以て内密で取計らってくれたことを、横田の前にさらけ出したのではあるまいか、というような気がした。もしそうだとすれば、保子に対して非常に済まない訳だった。その上、悪い結果になりそうだった。彼はも一度、前からのことを頭に浮べてみた。保子の態度を考えてみても、また横田の態度を考えてみても、二人で相談の上なされたことだったかどうか、全く見当がつかなかった。
 彼は推察に迷った。そして、村田の意見を聞いてみようかと思った。村田は長い間横田のうちと懇意にしていたし、初め周平を横田の家に連れていったのも彼だった。此度のことを話しても差支えなさそうだった。このまま自分一人で気まずい思いをしているよりも、彼の意見を聞いた方が、何かの場合――そんなことはあるまいけれど、もしあるとすればその場合――のためになりそうだった。
 村田は、風に吹飛されそうな帽子を気にしながら、黙々と歩いていた。周平はその方を横目で窺いながら、思い切って云ってみた。
「おい、君の意見を一寸聞きたいことがあるんだが。」
「何だ?」
 村田は足をゆるめて、周平の方をふり向いた。
「実は一人で考えあぐんでることなんだが、内密にしてくれなくちゃ困るよ。」
「ああ大丈夫。……悪い女にでも引っかかったというのかい。」
「冗談じゃないよ。真面目に云ってるんだ。」
「僕も、だから真面目に聞いてるよ。」
 二人は暫く黙って歩いた。やがて周平はこう云い出した。
「今日僕は、横田さんにへまなことを云ったような気がする。」
「え、……だって君は何もそんなことは云わなかったじゃないか。」
「君が一寸座を外した時に云ったんだ。」
「一体何のことだい?」
 周平は頭の中で筋途を立ててから、初めからのことを順次に述べた。そしてこうつけ加えた。「奥さん一人でしたことか、または横田さんと相談の上でのことか、それはどちらだって僕に関わりはない。然し、もし奥さんが横田さんに内密ないしょのつもりだったんなら、僕はとんだことを横田さんに云ったわけになる。僅かな金のことなんだけれど、気持の上には可なり響くことだからね。……横田さんが知ってたかどうか、僕にはさっぱり見当がつかないんだ。君はどう思う?」
 村田は黙って聞いていた。周平が云い終えてもなお黙っていた。
「君はどちらだと思う。」と周平は促した。「大凡の見当をつけて置かないと、僕は何だか気に懸って仕様がないんだ。」
「だって、それだけじゃ僕にも見当がつかないね。」
 周平はまたくわしく、保子と横田とのそれぞれの態度を、頭に浮ぶまま話してきかした。
 それから暫くして、通りの曲り角になった時、村田は突然大声でいった。
「分ったよ。」
 周平は喫驚して足を止めた。
「君も随分頭の鈍い男だね。」と村田は猶歩き続けながら云った。
 周平は二三歩足を早めて、その後から追いすがった。
「どう分ったんだい?」
「勿論横田さんは知っていたのさ」と村田はきっぱりと云ってのけた。
「そうだろうか。」
「そうにきまってるさ。どちらから云い出されたことかは分らないが、兎に角二人で相談の上のことだよ。第一奥さんは、良人に内密ないしょで何かするような人じゃない。」
「それは勿論僕も信じてるけれど、然し今日の横田さんの態度が……。」
「腑に落ちないというんだろう。だから君は頭の働きが鈍いんだ。」
「なぜ?」
 村田はそれに答えないで、外のことを云い出した。
「なるほど、余計なことを考えてたから、今日は早く帰ると云い出したんだね。お蔭で僕まで夕飯の御馳走になりそこねちゃった。何処かで飯を食わないか。……つき合ってもいいだろう。」
「ああ、それは構わないが、今のことはどうなんだい。僕にはまだ分らないが」
「至極簡単なことじゃないか。」と村田は云って、確信の調子で説き明した。――横田さんが周平の言葉に取合わなかったのは、心あって空呆そらとぼけたのだ。横田さんは人に恩を売ることが嫌いな人格者だから、わざと知らない風をして、周平に気持の上の負目おいめを与えまいとしたのだ。また、もし奥さんが内密でしたことならば、初めに何とか断る筈だし、次に周平が金を返しに行った時、そんなに高飛車に出る筈はない。横田さんと相談の上だという強みがあるから、高飛車にも出られたわけだ。それをとやかく気を廻すのは、更に愚を重ねることになる。素直に向うを信頼すべきである。
 周平はそれらのことを黙って聞いていた。そして、横田さんの態度はよく腑に落ちた。然し奥さんの方は、何だかそれだけでは解き尽せないような気がした。それかって、別な理由も見出せなかった。で結局は、村田の意見を最も至当なものと認めるの外はなかった。
「どうだ、明察だろう。」と云って、村田はつんと頭を反らした。
「大体はそれで分るようだが……。」それでも周平はなお一寸逆ってみたかった。
「大体だけじゃない、すっかり分ってるさ。それにきまってるよ。それにねえ、横田さん夫婦は、君が想像するような水臭いなかじゃない。僕はそのために一寸困ったことがあるんだ。」
 村田はくるりと後ろを向いて風を避けながら、煙草に火をつけた。そしてこんなことを云い出した。
「僕は金がなくなると、よく奥さんに小遣を借りに行くんだがね……。」
 周平は驚いて彼の横顔を見やった。平素可なり贅沢をしている村田にそんなことがあろうとは、何としても不思議だった。それに、保子とも村田とも随分親しくしているが、まだ嘗てそんなことを、言葉には勿論、様子にも見せられたことがなかったのである。彼は黙って話の続きを待った。「勿論借りっ放しさ。」と村田は平気で云い続けた。「然し、横田さんに知られると一寸困るものだから、奥さんにはその度毎に、内密ないしょにして下さいと頼んでおいた。所が、或る時横田さんから、何かの話のついでに、君のように妻から度々金を引出すのも困ったものだと、だしぬけに云い出されて、僕は実際弱っちゃった。横田さんが、云ってしまってから、はっと気付いたように口を噤んだので、僕は猶更しょげてしまった。……頼んでおいたことでさえこうなんだ、君の此度のことを、横田さんが知らない訳があるものか。だが、君が特別に奥さんから贔屓ひいきにされてるという自惚があるのなら、問題はまた別だがね。」
 周平は痛い所をちくりと刺されたような気がした。それだけにまた、不快な厭な気持になった。彼は黙っていた。
 村田は彼の様子をじろりと眺めたが、急に話題を転じた。
「君、横田さんの野心……抱負と云った方が本当かな、それを君は……。」
 丁度その時、二人は或る肉屋の前を通りかかった。村田は足を止めた。
「ここで肉でもつっつこうじゃないか。」
 二人は中にはいった。

     六

 村田は大酒家だった。周平も可なりいける方だった。二人は飯を忘れて、しきりに杯を重ねた。暑くなると障子を開け放った。もうすっかり暮れていた。庭の植込うえこみのなかに淡い柱灯がともっていた。凸凹をなした庭の窪みに、小石を敷いた大きな空池があって、風に揺ぐ植込の茂みの間に、ちらちら見えていた。縁側から覗くと、谷間のような感じだった。その方を眺めながら、取留めもない話をしてるうちに、二人は可なり酔ってしまった。新らしく銚子を持ってくる女中が、肉の鍋に何度も割下をしていってくれた。
「君と酒を飲むのは暫くぶりだね」と村田は縁側の柱によりかかりながら云った。
 周平は彼の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。あの頃短い五分刈だった村田の髪は、今は長く伸されて後ろに掻き上げられていた。苦しい境遇に陥った自分の身が顧みられた。それと共に、横田氏等の同情がしみじみと感じられてきた。
 彼は突然云い出した。
「君、このまま黙っていていいだろうね。」
「何を!」
「横田さんと奥さんとに……。」
「いいさ。好意は黙って受けるものだよ。君は余り神経質でいけないんだ。僕だったら、初めっから奥さんにも横田さんにもお礼なんか云わないね。」
 受けるものは黙って受けよ――場合によっては貪っても構わない――というのが村田の主義だった。或る好意を受ける時、昔は礼を云うのが道徳だった。現代では、礼を云わないのが道徳なのだ。現代人の微細な神経は、施す好意を無条件で黙って受けられる方が、より多く施し甲斐を感ずるものだ。受ける方から云えば、口先の感謝で心の負目おいめを軽くしようとするのは、卑怯な態度である。
「君のようにいやにこだわるのは、全く時代錯誤だ、もしくは、一種の僻みだよ」
 周平は村田の言に逆説を認めはしたが、最後の言葉を聞いて、先日保子からも僻みだと云われたことを思い出した。果して自分のうちに一種の僻みがあるのかしらと考えてみると、僻みとまでは云えなくとも、少くとも余りに神経過敏の点が認められた。彼は厭な気がした。その問題に触れたくなかった。ふと思い出して、別のことを云い出した。
先刻さっき君が云いかけた横田さんの野心というのは、一体どんなことだい。」
「うむ、あれか。」と答えて村田は一寸眼を見据えた。「なにつまらないことだよ。誰にだって、野心だの抱負だのはあるものだからね。……それよりも、面白い話をしてきかせようか。君の参考にもなるかも知れない。」
「是非きかしてくれ」と周平は云った。
 それでも村田はなかなか云い出さなかった。周平が促すと、困ったような眼付をした。
「さあ……君になら云っても構うまいけれど……然しこれこそ本当の内密ないしょだぜ」
 村田は杯をぐっと一口に干して、次に煙草を一息深く吸い込んで、それから話しだした。
「君が教えてやってる隆ちゃんね、あれは横田さんの子でもなければ、奥さんの子でもないことは、君も知ってるだろう。」
「知ってるとも、第一奥さんはまだ二十五六だろう。あんな大きな子があってたまるものか。……何でも、親戚の子を事情あって引取ってるのだと、僕は奥さんから聞いたんだが」
「その事情というのに、悲痛なロマンスがあるんだ」
 周平は眼を見張って、村田の言葉に耳を傾けた。
「僕も悉しいことは知らないんだがね、隆ちゃんは、横田さんの従兄いとこと或る女との子なんだ。横田さんと奥さんとが、まだ単に友達というに過ぎなかった頃のことだが、その従兄――たしか吉川とかいう名前だったが、その人もやはり、奥さん……いや保子さんと云った方がいい……保子さんと知っていた。横田さんの父親と保子さんの父親とは親しかったから、自然に両方の家族関係の人達も知り合いになったのだろう。所が、その吉川という人が、保子さんに恋をしたんだ。然しごく内気うちきな人だったものだから、独りで考え込むきりで、誰にも黙っていたのだ。そのうちに、横田さんと保子さんとの結婚の話がまとまって、二人は公然と許婚いいなづけみたいな交りをすることになった。それを見て吉川さんはひどく煩悶しだした。遂には堪りかねて、横田さんに自分の思いをうち明けたのだ。へまだったんだね。直接保子さんにうち明けた方がよかったかも知れないと、僕は思うんだがね。横田さんはそれを聞いて、非常に困ったものだ。何しろ、横田さんと保子さんとの互の気持が、可なり進んでる時なんだろう。それでも横田さんはああいう人だから、自分自身を一歩高い所へ置いて考えた末、保子さんの選択に任せるの外はないと結論したのだ。これは横田さんの人格者たる所以でもあるし、また一方からいえば、聡明なる所以でもあるのだ。なぜかって、保子さんの選択は初めから分りきってる。既に二人の間は、両方の親の了解もあるし、互の気持も進んでるし、それに、吉川さんの家は零落していたものだ。吉川さんは、詩人的素質を備えた天才肌の人だったそうだが、貧乏な天才詩人というものは、恋人にはいいか知れないが、良人としては不向きだね。人間に何となくどっしりした所のある横田さんとは、少し均衡がとれない。どの点から考えて見ても、保子さんは横田さんを選ぶにきまってる。
「所が、保子さんはなかなかその選択を与えなかったのだ。そして、二人に向って或る問いを発したものだ、あなたは私を恋人として愛するのか、もしくは良人として愛するのかって」
 村田はそこで言葉を切って、周平の顔を覗き込んだ。周平は変な気がしてきた。
「本当の話なのか。」と彼は尋ねた。
「本当だとも。そこが如何にも奥さんらしいじゃないか。」
 周平は黙って村田の顔を見返した。
「勿論保子さんのそういう問いは、」と村田は話し続けた、「僕等が考えるほど理智的なものではなかったんだろう。保子さんのうちには、君も知ってる通り、理性と感情とが一つに綯れ合って働いてゆくのだから。所がその問いに対して、二人はどう答えたと思う?」
 そして村田は眼を輝かした。
「横田さんはこう答えたのだ。愛に二つはない、私はただあなたを愛するきりだ。吉川さんの方はこうなんだ。私はあなたを恋人として愛する。そこで、保子さんは横田さんを選んでしまった……そうだ。その辺の機微は、僕も実はよく知らないんだがね。」
 周平は何だか狐にでもつままれたような気がして、ぼんやり村田の顔を見つめた。
「然しまあそんなことはどうでもいいさ。兎に角、横田さんの方が選に当ったと思い給え。」と村田は弁解するような調子で云った。「それから先は、例の通り、恋の勝利と敗北とだ。一方に輝かしい日が続くと共に、一方には惨めな日が続くのだ。吉川さんは、半ば自棄やけになって、或る女の誘惑に陥ってしまった。而も失恋して間もなくのことなんだ。性格が弱かったんだね。その女というのが君、有名なあばずれなんだ。僕も或る処で一寸顔を見たことがある。美人でもない癖に、いやにつんと澄まし込んで、眼ばかり色っぽく働かしていた。元はカフェーの女中をしていたとかいう話だが、其後或る文学青年と同棲し、次には、或る新帰朝者――だか何だか分ったものじゃないが――それと同棲し、また其処を飛び出して、うろうろしてた所へ、吉川さんがひっかかったわけさ。すると、へまな時は仕方がないもので、その女が、妊娠しちゃったんだ。全く妊娠するような女じゃないんだがね。それから吉川さんの苦悶が始まったのだ。漸く母親の了解を得て――母親一人だったのさ――一緒に住むようになったのだが、男の児が産れて後は、吉川さんは惨めなものだった。女は始終飛び歩く。その上、母親や吉川さんと事毎に衝突する。子供は消化不良になって、乳母をつけて病院へはいらせる始末なんだ。吉川さんはどの位苦しんだか知れない。女の無駄使いのために、僅かな財産はすぐに減っていく。自分の未来は暗澹としてくる。その間に立って、子供の面倒をみながら、女といつもいさかいばかりしながら、女と別れることも出来ないで、じっと我慢していた吉川さんの心を思うと、僕は堪らない気がするよ。それが二年間も続いたのだ。二年目の終りに、女はとうとう逃げ出してしまった。吉川さんと合意の上だとの話だが、無理強いの合意なんだろう。なぜって、女もさすがに居堪らないとみえて、大阪の方へ行ってしまったそうだから。そして、それきり行方不明さ。また誰かを取捉えてるに違いない。高井英子とかいっていたが、それだって本名かどうだか分りゃしない。
「女と別れてから、吉川さんは子供相手に家にばかり閉じ籠っていたが、一月ばかり後に、急に死んでしまった。病名は急性脳膜炎だというんだが、自殺だとの噂もある。当時吉川さんは、深い憂鬱に沈み込んで、時々襲ってくる神経の苛立ちと興奮とを、酒でごまかしていたそうだが、その後では更に深い憂鬱に陥ったとの話だ。その死後、医学と薬理学との書物が本箱の中から見出されたそうだ。が兎に角、病死にせよ、自殺にせよ、吉川さんは俄に世を去ってしまったのだ。そして後に、母親と子供とが残った。」
 村田ははたと口を噤んで、何かを考えるような眼を見据えた。
 息をついてさっと吹く風と共に、大粒の雨が落ち始めて、それが瞬く間に沛然と降り注いだ。宵闇の中に妙に明るい雨脚が、軒や樹木に、どっと魔物のように落ちかかった。二人は縁側の障子を閉めて、ぼんやり雨音に耳を傾けた。心は他に在った。
「それから、」と村田はやがて語り続けた、「吉川さんの母親と子供――即ち祖母と孫とは、悲しい日を過した。お祖母ばあさんにとっては、その子供が推一の慰藉であり、子供にとってはお祖母さんが唯一の頼りだった。そしてお祖母さんは、子供を育て上げることに残りの一生を捧げたのだ。
「この二人に次で、吉川さんの死から可なりの打撃を受けたのは、横田さんと保子さんとだった。直接関係はないけれど、心には可なり響いたらしい。それでも横田さんの方は、云わば勝利者なんだ。勝利者が敗北者の破滅に対して懐く同情は、勝利者にとって、いつでもさほど高価なものではない。然し保子さんの方は、心の奥に一種の傷を受けざるを得なかったのだ。たとい当面の責任者ではなくとも、間接の責任はある筈だ。……そういう訳で、二人の愛情は吉川さんの死から毒された。然し愛情というものは、傷ついた獣のように、痛手を受ければ受けるほど、益々激しく狂い廻るものなんだ。横田さんと保子さんとは更に深く結びついたらしい。そして、吉川さんの一周忌がすんだ翌年の春、結婚して新らしい家庭を持ったのだ。
「吉川さんの家の方では、お祖母ばあさんが仕立物やなんかをして、つつましく暮していたが、それでも僅かな貯蓄は残り少なになるし、子供も大きくなったので、お祖母さんは大奮発をしたものだ。豪い人だと僕はいつも感心をしている。その大奮発というのは、子供を親戚の家へ預け、自分は他人の家へ針仕事などを主とする女中奉公をし、そしてとにかく、子供の未来の学費を残して置こうというのだ。
「お祖母さんのそういう殊勝な決心を聞いて、横田さんは、自分の家で子供を世話しようと云い出したのさ。その気持は僕には一寸分りかねる。第一に君、子供を始終側に置いとくことは、過去の記憶をまざまざと甦らすことで、横田さんにとっても、保子さんにとっても可なり痛いことだろうと思う。それによって二人の愛情を更に強く燃え立たせるというほどの、若い浮々した年齢でも時期でもないんだからね。或は一種の罪亡しのためかも知れないが、それでは余りに善良で愚昧すぎる。お祖母さんに対する同情と感激とからだとするなら、何も老人を女中奉公に出さずとも、他に方法がありそうなものだ。一体横田さんには一寸底の知れない深さがあるから、何を考えてるのか想像のつかないことがよくあるのだ。そのことだって、何か考えがあってのことだろう。或は保子さんのあの生一本きいっぽんな性情から出たことかも知れない。それは兎に角として、横田さんの申出をお祖母さんは非常に喜んだ。そして子供は横田さんの家に引取られた。それがあの隆ちゃんなんだ。お祖母さんの方は、或る下町の、何でも株屋の主人とかいう話だが、そこの女中の取締みたいにして雇われてるそうだ。針仕事が非常に上手なので、殊に重宝がられて、わりに幸福だとかいう話だった。」
 村田が話し終えるまで、周平は注意深く聞いていた。うっかり信用出来ないぞという気がした。村田の話には余りに主観的の分子が多かった。説話と註解とが同じ位の分量になっていた。そして肝要な点が妙にぼやけてるくせに、或る部分は余りに深く立ち入りすぎていた。
「どうして君はそう詳しく知ってるんだい。」と周平は尋ねた。
「吉川さんの家と親しくしていた人があって、僕はその人から直接に聞いたことなんだ。確かな事実だ。……ただ、心理の方面のことは、分り易くするために僕が解釈を下したんだが、全く事実に即しての上だから、間違いはない。」
 確信の調子で得意然としてる村田の顔を、周平は暫くじっと見戍っていた[#「見戍っていた」は底本では「見戌っていた」]。未来の小説家を以て自任してる村田のことだから、事実を歪めて勝手な想像を加えてる点が、必ずしも無いとは云えないのだった。然し話の全体の筋は何としても肯定せざるを得なかった。
 幸福なるべき横田の家にあって、なお隆吉の身にまつわってる淋しい孤独の影を、周平は思い合した。
「横田さんや奥さんは、今でもなおそのことを苦しんでるだろうか。」
「さあ……。」と村田は答えた。「然し何事でも、当事者になるとはたから想像するほど苦しむものじゃない。人生は寧ろ一種の喜劇だからね。真剣のつもりでも案外冗談のことが多いものなんだ。」
「その代り、冗談のつもりでも案外真剣のことが多い場合もある。」
「それはそうさ、だから人生は喜劇なんだ。」と村田はいやにそのことを主張した。
 周平は口を噤んだ。彼は議論をしたくはなかった。ただ事実をじっと考えたかった。村田が先刻の話からけろりとして、盛にいろんなことを論じかけるのを、彼は簡単に受け答えして、しきりに杯の数を重ねた。頭がくらくらしてきた。
 いつのまにか雨は止んだらしかった。あたりはしんとしていた。向うの室の客の話声も途絶えていた。
「もう帰ろうか。」と周平は云い出した。
「ああ」と村田は答えて、俄に思い出したように、銚子の底に残っている冷たい酒を貪り飲んだ。
 外に出ると、綺麗に晴れた空をごく低く、薄白い雲が千切れ飛んでいた。雲の間から冴えた月が覗いていた。月の面を仰ぐと、湿っぽい冷かな風がさっと頬を撫でて、ぽつり……ぽつり……と、名残りの雨が落ちかかった。
 村田はふーっと酒臭い息を吐いて云った。
「いい晩だね。」
 それから二三十歩した後、彼は突然周平の方を振り向いた。
「君、吉川さんの話を余り気にかけちゃいけないぜ。」
「なぜ?」
「なぜってもう過ぎ去ったことじゃないか。それに、君は余りつまらないことにこだわり過ぎる傾きがあっていけない。こだわった揚句には、とんだ尻尾しっぽを出す危険がある。兎に角ああいう話を僕や君が詳しく知ってるということは、横田さん達にとってこころよいことではあるまいと思うんだ。」
 電車通りに沿って暫く進んだ後、周平の下宿の方へ行く曲り角で、二人に立ち止った。
「君はこれから下宿へ帰るのか。」と村田は尋ねた。
「ああ。」と周平は答えた。
 村田はその顔をじっと眺めていたが、ふいに、「じゃあこれで失敬しよう、」と云い捨てて立去っていった。
 周平は一人薄暗い街路に残された。

     七

 一人になって初めて周平は、先刻の村田の話からひどく心を動かされてることに、自ら気づいた。酒の酔から来る興奮も手伝っていた。感傷的な悲壮な気分のうちに浸っていた。
 彼は下宿の方へ帰って行かずに、ただぼんやり歩き出した。雨は全く霽れていた。冷かな風が月の光を運んできた。彼は月を仰ぎ仰ぎ歩いていたが、やがて静かな横町へ曲り込むと、いつしか首垂れて考え込んだ。
 彼は、横田夫婦と隆吉とのことを考えていた。彼等の運命にまつわってる陰影のことを考えていた。話は数年前のことであったが、未来長く尾を引くもののように感じられた。その上、村田の話に洩れた何かが、より重大な何かが、実際にはあったのではないかという気がした。彼は暗い方へ暗い方へと想像を向けていった。殊に保子に就てそうだった。彼女が深い傷を心に負って、一人ひそかに苦しんでいる、そういう風に想像したかった。吉川の死が自殺の死であって、而も直接に保子と何等かの関係がある、そういう風に想像したかった。そして、この想像が自分の心に甘えていることを、周平は意識した。然し何故にそうであるかをつきとめない単なる意識だったから、少しも想像を抑制する力にはならなかった。
 悲痛な実は甘いいろんな想像にうみ疲れると、彼の頭の中には、隆吉の姿がしつこく浮び出て来た。頭の大きなわりにほっそりとした体躯、凸額おでこの中から睥めるように物を見る眼、小鼻の小さな高い鼻、細い腕、長い指、それらが変に不気味だった。きっとしまった口、恰好のよい長い顎、すらりとした頸筋、笑う時に出来る左頬の片笑靨、それらが如何にも可愛かった。平素何とも思わなかった隆吉の姿から、今その不気味な点と可愛い点とが、はっきり二つに分れて周平の頭に映じた。彼は愛憎の念に迷った。
 深く考えに沈みながら歩いていると、ばさりと音を立てて足に触れたものがあった。不意だった。ぞっと身体がすくんだ。寂しい通りに、軒灯の光りが淡く流れていた。青葉をつけた木の枝が一本落ちてる中に片足を踏み込んでるのだった。足を抜こうとすると、ばさばさと音がして枝が一歩ついてきた。またぞっとした。やけに枝葉を払いのけて、五六歩足を早めた。冷たい汗が腋の下に流れていた。
 彼はつとめて平静に返ろうとした。けれども、何かに追い立てられてるような不安さが消えなかった。そのことに気を取られているうちに、いつのまにか自分の下宿の前まで来ていた。つと中にはいった。のどが渇いていた。面倒くさいので、洗面所へ行ってそこの水道の水を飲んだ。
 自分の室にはいると、すぐに寝てしまった。遠くでするような軽い頭痛を覚えた。頭痛の合間合間に彼は、保子のことを縋るようにして考えた。悲しげに微笑みかけてくれるやさしい姿だった。
 然し、朝になると彼は、もうその幻に浸ることが出来なかった。清純な一徹な光りに澄みながら底に謎を含んだような彼女の眼が、じっと彼を眺めていた。彼は心の据え場に困った。

     八

「井上さん、あなたはこの頃何だか様子が変よ。心配事でもあるのなら、包まず仰しゃいな。」
 次の月曜日に隆吉を教えに訪れた時、そういう風に保子は尋ねかけてきた。
「何にも心配事なんかありません。」と周平は平気を装って答えた。
「そう、それならいいけれど。……でも、いやに考え込んでるようじゃないの。こないだ……この前だわね、あの時だって、来るが早いかすぐに帰っていったりして、その上、妙にそわそわした落着きのない様子だったと、横田もそう云ってましたよ。あなたは一体、自分一人でくよくよ考え込む癖があっていけないわよ。」
「そうですか、それも私の僻みですかね。」と周平は冗談の調子で軽く受け流そうとした。
 然し保子は、それを頭から押被おっかぶせてきた。
「そうかも知れないわ。僻みなんか早くうっちゃっておしまいなさい。もっと快活にならなくちゃ駄目よ。」
「然し幸福な人でなければ快活にはなれません。」
「そんなことがあるものですか。心さえ真直だったら、どんなに不幸でも快活になれるものよ。」
 彼女の所謂いわゆる心が真直だということは、純な素直すなおさの謂だった。たとえ考えは間違うことがあっても、その考え通りに一徹な素直な途を進む時には、人は自ら安んずることが出来るものだ。人は自分の心だけを見つめて居ればいいのだ。
「あなたみたいに、」と保子は云った、「始終他人ひとの思惑に気兼ねばかりしてると、いつまでたっても心が落着くということはないものよ。」
 そういう風に云われてくると、周平は妙に気持が真剣になってきた。そして云った。
「私は純粋ということは好きですけれど、然し単純ということには余り賛成しません。単純は愚昧の一種ですから。」
「けれども、複雑で浅いよりは、単純で深い方がよかなくって?」
「すると、一人よがりの独断なんかも尊いということになりますね。」
 保子は眼を見張った。
「ああ、あなたは理屈で考えてるから駄目よ。私の云うことがちっとも分っていないのね。例えて云うと……あなたは恋をしたことがあって? あれば分る筈だわ。」
 周平は黙って保子の眼を見入った。保子は眼を外らさなかった。周平は急に不安になった。咄嗟に云ってのけた。
「それじゃ、奥さんは今でも恋をなすってるんですか。」
 云ってしまってから、彼は顔が赤くなるのを覚えた。自分の言葉の馬鹿げた頓馬さよりも、それを妙に笑えない気持が、ぴたりと胸にきた。
「まあ何を云うのよ!」と保子は云った。「もうあなたとは話をしない。」
 周平は顔を挙げた。保子は口を尖らしてつんと横を向いていた。その怒った様子を見て、彼はほっと助かった気がした。この場合、冗談や皮肉を浴せられるよりも、腹を立てられるのが一番心安かった。然し次の瞬間に、彼女の眼付が笑ってるのを認めた時、彼はどうしていいか分らなくなった。自分自身が醜く惨めに感じられた。
 そして、保子の側を離れて一人になると、その気持からしきりに脅かされた。はては苛立たせられた。その余憤を彼は、知らず識らず隆吉の方へ持っていった。
 周平がやって来る前に、隆吉はいつも自分の四疊半にはいって、小学校一年級の教科書を机の上に並べていた。そして周平の姿を、じろりと上目がちに迎えた。
「何か分らない所はありませんか。」と周平は云った。
「ありません。」と大抵隆吉は答えた。
 それでも隆吉は時々、二三の問いをかけることがあった。周平はそれを丁寧に説明してやった。然し隆吉は上の空で聞いていた。説明が済むと、片頬に少し笑靨をつくって、周平の顔をまじまじと見ていた。周平は馬鹿にされた気がした。知ってるのをお義理で尋ねたのだ、ということが感じられた。彼はわざと云った。
「分ったの。」
「ええ。」と隆吉は澄して答えた。
「もう何にも分らない所はありませんか。」
「ええ。」と隆吉はまた答えた。
 周平は読本を取って、それを読ましてみた。隆吉はすらすらと読んでいった。学校で教わらない所を読ましてみようかと、周平は考えた。然しそれは、教室の授業に対する興味を薄らがせることだった。復習の折に分らない点があれば、いくらでも教えてやらなければいけない。然し予習は、子供自身にうち任したがいい。たとい間違った解釈にせよ、子供自身の解釈を持って教室に臨ませるのが、教室の中を最も溌溂たらしめる所以である。そう周平は信じていた。それで彼は、学校でまだ教わらない部分に就ては、少しも隆吉に教えることをしなかった。然し隆吉は優秀な生徒だった。学校で教わったことはよく頭にはいってるらしかった。……彼はすらすらと読本を読んでいった。それでも一寸した間違いをすることがあった。周平は待ち構えていた。先刻からの小憎らしさの念が積っていた。その間違いを取り上げて、怠慢だと責めつけてやった。隆吉は平気だった。
「知ってるんだけれど、一寸間違ったんだもの。」
 周平は更に追窮してやりたかった。然し自分の大人おとなげないのを顧みて止した。そして、二人の前には三四十分の無駄な時間が残った。週に一時間ばかりとの約束だった。それは実際、保子が云ったように、ただ名目だけの家庭教授だった。
 周平は勝手な図画や習字などで時間をつぶしたかった。然し隆吉はそれを好まなかった。いろんな話を聞きたがった。それをまた周平は好まなかった。じゃ歴史の詳しい話をしてほしい、と隆吉は云い出した。周平は時間つぶしに日本の神話を聞かしてやり始めていたが、それを続けるのもつまらなかった。ギリシャ神話なら興味もあったが、隆吉にはむずかしすぎるだろうと思った。……しまいには二人共黙り込んでしまった。退屈だった。
「散歩にでも行かない?」周平は云った。
「何処に?」隆吉は答え返して落着き払っていた。
 周平はその顔をじっと見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。広い高い額の工合が、変に老成じみていた。孤児だという感じがした。
「隆ちゃんは、」と周平は云い出した、「お父さんの顔を覚えているの。」
「覚えてはいないけれど、お祖母ばあさんが写真を持っているから、よく知ってる。」と隆吉は答えた。
「お父さんの写真を!」
「ええ。死ぬ前にったんだって。」
「じゃあそれを僕に見せてくれない? お祖母さんから借りといて。ねえ、いいでしょう。お祖母さんは時々来るんでしょう。こん度の時頼んでおけば、その次の時には持って来て貰えるでしょう。」
 その急き込んだ様子を隆吉はじっと見ていたが、それでも、写真を借りておこうと約束した。
「屹度ね!」と周平は念を押した。

     九

 周平にとって吉川は、保子や隆吉と自分との間に突然つっ立った人物だった。既に故人ではあるけれど、現在まで影を投げてる人物だった。その影のために、保子や隆吉に対する自分の気持が、妙に脅かされるのを彼は感じた。事実の真相を知ったら気持も落着くだろうと思ったけれど、村田の話以上に詳しい確かなことを、誰に聞く術もなかった。せめて吉川の写真でも見て、その顔貌かおかたちをはっきり頭に入れたなら、いくらか気持も安まりそうに思えた。その上、それは吉川に対する保子の本当の心を知る便りにもなりそうだった。知ってどうしようとの考えは更になかった。ただ知りたかったのである。――彼は吉川の写真を待った。
 然し隆吉は、なかなかそれを見せてくれなかった。祖母がまだ来ない、というのが初めのうちの答えだった。しまいには、とても駄目だと答えた。
「どうして?」と周平は尋ねた。
「いくら探してもないんだって。」
「え、写真がないって!……亡くなる前にったのをお祖母さんが持ってると、隆ちゃんは云ったじゃないの。」
「でもお祖母さんは、いくら探しても見つからないんだって。井上さんに見せるのだからと云って頼んでも、持って来てくれないんだもの。何処かにしまい忘れたんだろうから、出て来たらすぐに持って来てあげるって、そう云ってたよ。」
 嘘を云ってるな、と周平は思った。祖母が大事な息子の写真をしまい忘れる筈はなかった。何か理由があるに違いなかった。
「そしてお祖母さんは、別に何とも云わなかったの。」
「ええ。」
「そんな筈はない。何とか云ったでしょう。……誰にも云わないから、ねえ、お祖母さんは何と云ったの。」
「だって、何とも云わなかったんだもの。」
 周平はじっとその頸を見つめた。小鼻の小さな高い鼻がつんと澄していた。考え深そうな凸額おでこが黙々としていた。然しその下から覗いてる眼に、困ったような色が浮んでいた。いやに隠してるのだな、と周平は思った。
「隠したって駄目だよ、ちゃんと知ってるから。」と周平は云い出した。そして、悪い意味でその写真を見たがってるのではないこと、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいような気がすること、お祖母ばあさんに逢えたらじかに頼んでもいいこと、だから、変に隠されると気持が悪いこと、見せられない理由があるのならあるとはっきり云って貰いたいこと、そんな風に彼は云い進んだ。然し云ってるうちに、自分の方に或る疚しい点が感じられてきた。自ら気分が苛立ってきた。彼は一転して隆吉を攻撃しだした。嘘を云うのは一番悪い、お祖母さんが何か云ったのなら云ったと答えるがいい。どんなことだか云えないのなら強いて尋ねはしない、云ったのを云わないと答えるのは悪いことだ、……などと説き立てた。と彼ははっとして口を噤んだ。隆吉はいつのまにかしくしく泣きだしていた。
 身体を軽く机で支え顔を伏せて、肩を顫わせながらすすりあげていた。周平は初めの驚きが鎮まると惘然とした。なぜ泣くのか訳が分らなかった。
 隆吉は長く泣き止まなかった。
「どうしたの。え、なぜ泣くんです?」と周平は尋ねた。
 隆吉は黙っていた。周平は幾度も尋ねたが、一言の返辞も得られなかった。しまいにはもてあぐんだ。肩ですすりあげながら、身動きもせず、涙もこぼさないで、嗚咽のうちに石のように固くなってる隆吉の姿を、彼はじっと眺めやった。その執拗な気持が、彼のうちにも伝わってきた。彼は口を噤んだ。いつまでも黙っていた。長い時間がたったようだった。
「……だって、お祖母さんは何とも云わなかったんだもの。」
 そういう低い声がした。周平はふと顔を挙げた。見ると、隆吉はもう泣き止んで、彼の方を上目がちに窺っていた。
「僕は嘘をつきはしないよ。」
 周平はなお黙っていた。不快な気分が濃く澱んできた。眉根をしかめて、其処に寝そべってしまった。
 暫くすると、隆吉はまた云い出した。
「本当にお祖母さんは何とも云わなかったんだもの。僕がいくら頼んでも、見つからないといったきり、持って来てはくれなかったんだよ。……でも、も一度頼んでみよう。こんど来たらそう云ってみるから……。」
「もういい。」と周平は云った。
「だって……。」そう云いかけて隆吉は中途で口籠った。そして周平の方へ寄ってきた。「僕もお父さんの写真を見せたいんだもの。たしかお祖母さんが持ってる筈だから……。」
「もう見たくないからいいよ。」と周平は声を荒らげた。
 二人は黙り込んでしまった。周平はそれが苦しくなってきた。ぷいと立ち上って室を出た。保子へ碌々挨拶もしないで、下宿へ帰っていった。
 陰鬱に雲った空の下を歩いていると、自分の姿が如何にも惨めに思えた。しきりに路上の小石を下駄の先で蹴飛ばした。それに自ら気づいては、また厭な気持になった。
 何を自棄やけくそになってるんだ! と彼は自ら自分に浴せかけた。少しく冷静になって反省してみると、恐ろしい気がした。自分の感情がどういう所まで転り出していくか、更に見当がつかなかった。僅かに一枚の写真のことではないか。あれほどこだわる必要は少しもなかったのだ。その上、隆吉に対するあのふてくされた態度は……。彼はひとりでに顔が赤くなるのを覚えた。隆吉に対して済まないというよりも、更に多く恥しかった。
 然し、祖母はなぜ吉川の写真を持って来なかったのか? それがどうしても腑に落ちなかった。隆吉の言葉に嘘はなさそうだった。それならば、隆吉にも云えない――もしくは、云っても分らない――理由が、何かあるに違いなかった。恐らくそれは保子に関係したことだったろう。祖母は保子に遠慮して写真を持ってこなかったのだろう。
 周平は益々深い疑問に陥ってゆく自分を見出した。想像に倦み疲れると、凡てを頭の外へ抛り出そうとした。数年前に亡くなった吉川のことなんか、どうでもいいのだと考えたりした。
 それを、保子の方から変な風に問題に触れてきた。

     十

「井上さん、あなたに話があって待ってた所よ。」と保子は云った。
 周平はぎくりとした。頭の底にこびりついていた写真のことがはっきり浮んできた。けれども保子はいつになくすぐには云い出さなかった。いやに落着き払って彼の顔色を窺っていた。周平の方でじりじりしてきた。
「何ですか、話というのは。」と彼は促した。「云って下さい。また叱られるんですか。」
「場合によっては叱ってあげてもいいわ。」と保子は答えながら軽く微笑んだ。
 いつもとは何だか勝手が違っていた。周平はうっかり口が利けないような気がして黙っていた。そして実際保子は、彼が思いもかけないことを云い出した。
「あなたが一番親しい……というよりも、一番よく何でもうち明けてる人は誰なの?」
 周平はぼんやり彼女の顔を眺めた。
「え、誰なの? それとも、そんな人はないんですか。」
「一人あります。」と周平はやがて卒直に答えた。「奥さんは御存じないけれど、野村という同郷の先輩です。法学士になったばかりで、まだ下宿住居をして銀行に勤めています。私は一身上のことは何でもその人に相談しています。昨年学費が杜絶しかかって、もう学校を止そうかと思った時にも、その人が大変力になってくれました。……然し精神上では、それ程親しいという訳ではありません。」
「野村さんのことなら、私もあなたから聞いて知ってるわ。その外には?」
「さあ……何でもうち明けるというような友人は別に有りません。」
「では村田さんは?」
「村田とは随分親しくしていますが、普通の友人というきりです。」
「でも、いろんなことをうち明けるんでしょう。」
 周平は初めて気づいた。村田が何か云ったに違いなかった。あの日のことを考えると不安になってきた。
「私は何も重大な事を村田に相談した覚えはありませんが……。」そう云いながら彼は保子の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]
「重大なことでなくてつまらないことだから、なお始末がいけないのよ。」そして保子はまた微笑んだ。「こないだ村田さんが来てね、小遣を少し借して下さいと云ったけれど、あんまり度々だから、無いって断ったのよ。すると私の顔をじっと見ていたが、何を云い出すかと思うと、奥さんは依怙贔屓えこひいきをしていけない、井上ばかり大事にして僕を疎外する、と云うんでしょう。だから私やっつけてやったのよ、井上さんは真面目な途を歩いてるけれど、あなたは不真面目だと。それでもとうとう小遣を持って行かれちゃったの。……あなたつまらないことを饒舌っちゃいけないわよ。村田さんもいい人だけれど、随分でたらめだから、うっかり信用出来ないし、いろんなことを饒舌れもしないわ。」
「それだけのことですか。」と周平は云った。
「まだ何かあると思って?」
 そう反問されると、周平は返辞に迷った。最後の言葉が気にかかった。彼は保子の顔を眺めた。その口許の微笑が変に皮肉らしく、眼の光りが変に揶揄するように、彼には感じられた。彼はそういう風に保子から眺められるのがつらかった。凡てをぶちまけてしまおうかと思った。然しそれをじっと抑えて、漸くこれだけ云った。
「何かあるのなら、すっかり云って下さい。気持にこだわりが残るのは一番厭ですから。」
 保子は黙っていた。美しい眉根を心もち上げて、眼をぱっちり見開いていた。周平は、その眼が自分の心に向けられてるのを感じた。彼はまた云った。
「何かいけないことがあったら云って下さい。私は奥さんから云われることなら本当の心で受けられる気がします。出来るだけ自分で自分を直したいんです。」
「じゃ何か困ることでもあるの。」
「え、私に?」
「ええ。」
「いいえ、何もありません。」と周平は答えた。
「それでは何か聞いたんでしょう。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「では何か仕出来したの。」
「いいえ。」
「そんなら、何か気にかかることがあるのね。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「おかしいわね。困ることも聞いたことも仕出来したことも気にかかることもないのなら、何もないじゃないの。嘘よ。何かあるんでしょう。隠さずに仰しゃいよ。」
 周平は惘然とした。いつのまにか問う方が問われる形になっていた。彼はそれを元に戻そうとあせった。そして言葉を探してるうちに、保子から先を越されてしまった。
「あなたはまだいやに隠し立てをするのね。何にも隠さないという約束じゃなかったの。その気にかかることを云ってごらんなさいよ。」
 周平は保子の眼の中を覗いたが、そのたじろぎもしない眼差しの前に、眼を外さざるを得なかった。自分の方が負だという気がした。そこからまた絶望的な勇気が出てきた。彼はぶしつけに云った。
「私はつまらないことで隆ちゃんをいじめたんです。」
「あ、あのことですか。」と保子は云った。「あたたも随分大人おとなげないことをしたものね。でも私、初めはどうしたのかと思ったわ。あなたが帰った後で、隆吉がしくしく泣いてるんでしょう。いくら聞いても黙ってるから、何のことかと思うと、つまらないことじゃないの。可哀そうに、子供をいじめるのはお止しなさいよ。そんなに吉川さんの写真が見たいのなら、こんど私が借りてあげましょうか。」
「もういいんです。何だか気がさして、見てもつまりません。……初めは、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいように思ったんですけれど……。」
「どうして?」
「どうしてって、ただ……何だか……私の好きな人のような気がしたんです。」と初めは口籠り終りは口早に周平は答えた。
「それだけ?」
「ええ。」
「ほんとに?」
「ほんとです。」
「そう。」と保子は云った。
 二人は口を噤んだ。変に中途半端な気持だった。然し保子はもう何とも云い出さなかった。暫くすると、ふいに尋ねかけてきた。
「あなたは釣魚つりは好きですか。」
 周平は今迄の気持が置きざりにせられたのを感じた。咄嗟に返辞が出来なかった。それを保子は構わず云い続けた。暑中になったら横田が釣魚つりに行くと云ってること、釣魚の面白みをさんざん聞かされたこと、どうやら自分にも面白そうに考えられてきたこと、それでも、「沢山釣れなければあんな詰らないものはないと云ったら、それはまだ本当の趣味を解せないからですって、」と彼女は結んだ。
 周平はぼんやり聞いていた。まだ心が其処まで動いてゆかなかった。そしてほどよい時に、保子の側を逃げるようにして去った。
 彼には保子の態度が腑に落ちなかった。彼女の話は、頭ばかりが大袈裟でしっぽがすっと消えていた。村田のこともそうだった。写真のこともそうだった。そして両方とも、彼はすっぽかされてしまった。村田のことから妙に真剣になって尋ねだすと、いつのまにか主客転倒されてしまい、写真のことから少し深入しかけると、ふいに釣魚つりのことへはぐらかされてしまった。それはいつもの彼女の調子とは異っていた。周平は初めからのことを頭の中でくり返した。そしてるうちに、或る筋途が――段取りが――次第に見えてきた。用意して張られた罠だった。その下から、聡明敏感な彼女の眼が覗いていた。
 周平は保子から陥れられたのを感じた。彼女の意のままに操られた自分自身を認めた。然し彼はそれを別に怨みとはしなかった。寧ろ、彼女の前に赤裸な自分の心を投げ出し得なかったのが、後から考えると悲しかった。ただ彼が不満に思ったのは、彼女がそういう手段を用いたことだった。いつものように真正面からぶつかって来なかったことだった。そしてまた、なぜ彼女はそういう態度を取ったのか? という疑惑も生じてきた。その疑惑はやはり吉川のことの上に及んでいった。
 不満と疑惑とのうちから覗くと、彼女の心は益々捉え難い遠くへ離れ去っていくように思えた。自分一人迷霧の中に残されたような気がした。彼は気持が苛立ってくるのをどうすることも出来なかった。その苛立ちの念から、知らず識らず隆吉に対して更に冷淡になっていった。
 二三の質問に応じて形式だけの義務を尽すと、周平は残りの時間を利用してやろうという気も起さないで、疊の上にごろりと横たわった。室の窓から夾竹桃の梢越しに、狭い空が見えていた。雲の影も鳥の姿も宿さない静かな空だった。じっと眺めていると眼が疲れてきた。瞬きをして顔を横向けた。隆吉はやはり机の前に坐りながら、ぼんやり書物に眼を落していた。心では他のことを考えてるらしかった。それも、怠惰からではなくて、怜悧な頭の余裕からであった。どんなことを考えてるのだろう? そう思うと小憎らしくなった。
 隆吉は彼の顔をちらと見て、心持ち身体を押し進めてきた。
「井上さん、僕お父さんの夢を見たよ。」
「え、どんな夢?」と周平は云った。
「お父さんが宙に飛んでたの、真直に飛んでた。」
「それから?」
「それきり覚えていない。」
 周平はその眼をじっと見入った。そして云った。
「本当?」
 隆吉は眼をくるりと動かした。口を尖らし小鼻を脹らまして、泣き出しそうな顔をした。
「井上さんはいつでも、僕の云うことをなぜ嘘だと思うの。」
「嘘だと思ってやしない。」と周平は答えた。
「だって……。僕は嘘をついたことは一度もないんだのに……。」
「だから嘘だと思ってやしないよ。」
 二人はそれきり黙った。隆吉は机の方へ向き直って、書物をこそこそ弄りだした。暫くするとまた振り返った。然し周平の黙りこくってる様子を見て、再び机の方を向いた。周平が居る間は、することが無くても、兎に角勉強の時間ときめてるらしかった。それがまた周平には不快だった。いい加減辛抱した後、彼はぷいと立ち上った。
 然しその後で彼は、自分の態度を自ら責めた。横田ら二人の好意に報いるには、出来るだけ隆吉に親切を尽してやるべきだった。今の場合彼にとって、月々の二十円は非常に有難かったのである。

     十一

 漢口はんこうの水谷から送ってくる僅かな学費は、ともすると途切れがちだった。向うの店に行って働くことを断った後、そういう決心ならばといって無条件に恵んでくれる志だっただけに、こちらから催促するわけにはいかなかった。而も水谷は周平の遠縁に当るきりで直接の縁故がなかった。学費も、周平の保護者みたいな地位に立ってる野村の許へ送ってきて――銀行の関係から便利なせいもあったろうが――周平は野村の手から受取っていた。彼は初めからの行きがかり上、野村に金を借りることも、水谷に余分の請求をすることも、意地として出来なかった。郷里の自家の没落と共に、近しい親戚には多大の迷惑をかけてるので、其方へ縋る訳にもいかなかった。「一人でやっていく!」そう彼は公言したのだった。
 困る時には書物を売り払ったり、或は着物の包みを抱えて質屋へ行ったりして [#「行ったりして 」はママ]兎も角も一時の凌ぎをつけていた。然しそれも長くは続かなかった。やがて、書物は無くなり、着物は流れてしまった。下宿の払いもたまった。そして途方にくれてる所へ、横田の助けを得たのだった。その補助で漸く月々が越していけた。
 横田のことを思うのは、彼にとって力であった。更に、横田夫人――保子のことを思うのは、彼にとって慰安でもあり光明でもあった。彼は長らく休みがちだった大学へも、落着いて通えるようになった。
 それが、変に心が外れ出したのだった。また学校を休みがちになった。朝は遅くまで寝てることがあった。何をしても面白くなかった。勉強するのもつまらないような気がした。何を考えるともなくぼんやりしてると、いつのまにか保子の姿を思い浮べていた。次の瞬間には吉川の死のことを考えていた。そしてふと、隆吉が吉川と保子との子だったら……と空想した。
 彼は自分で喫驚した。余りに馬鹿々々しかった。そしては、下らないことに頭を使うまいと努めた。けれども、意識して努めれば努めるほど、益々気持の上のこだわりが出来てきた。そして彼は、保子の温情を深く感謝し希求すると共に、一方では、保子の心に秘密な影を想像していった。それが自分でも妙に不安だった。
 学校に出てもなんだかつまらなく、ノートを取ることにうんざりして、それかって友人との雑談にも気が進まなくて、彼は一人ぼんやり、池の縁の木蔭に屈み込むことが多かった。薄濁りのした水面には、朝日の光りが斜に落ちて、赤や黒の鯉の姿が、すーっと浮き出してはまた底の方へ消えていった。松を二三本のせた小鳥の影が、水の中二三尺位の深さかと思われる処に、影絵のように淡く映っていた。見るともなくそれに眼をつけている時、松の影がゆらゆらと動いて、油を流したように、保子の姿が水のおもてに漂った。気がつくと、もうそれは消えていた。あたりがしいんとして、蝉の声が俄に耳につきだした。
 彼は何だか気にかかった。保子を訪れてみたくなって、そのまま彼女の家の前まで行った。変に胸をどきつかせながら二三度家の前を通り越して、それから中にはいった。玄関にぼんやり立っていると、女中が出て来た。
「あら、井上さんじゃないの。お上りなさいな。お客様かと思った。」
 彼はそう云う女中の後について奥へ通った。
 保子は奥の室で、机の上に両肱を張ってもたれかかりながら、だらしない坐り方をしていた。周平がはいってゆくと、上半身だけで振り向いた。
「まあ喫驚したわ。」それから周平の顔を見つめた。「どうしたの、こんなに早くから。」
「だってもう十時じゃありませんか。」
「そんなになって?……でも、何か御用?」
 周平は「いいえ。」と答えようとしたが、それを止して、咄嗟に思いついた。
「先生はおうちですか。書物を借りに来たんですが。」
「一寸出かけなすったけれど、じきにお帰りでしょう。でも、お急ぎなら持っていらっしゃいよ、私があとで云っとくから。」
「ええ。」と周平は答えたが、なかなか立ち上らなかった。
 保子は妙に机の上をかばう様子だった。その方へ気を取られてるらしかった。それが周平の心を惹いた。彼は立ち上る風をして、その拍子に机の上を覗いた。
「あら見ちゃいやよ。」と保子は云った。
 机の上には小形の原稿用紙をじたのがのっていた。周平は眼を見張った。
「奥さんは小説を書くんですか。」
「まさか。」と云って保子は笑った。「これ私の日記帳よ。」
「日記をつけるんですか。」
「ええ。」そして保子は急に真面目になった。「日記をつけるのは、殊に女にはためになると横田が云うものだから、ためしにつけてるのよ。でも、人に見られると、思ったことが書けないから、ある時期までは横田にも見せないことにしてるわ。……随分面白いことがあってよ。内密ないしょで一寸読んでみましょうか。」
「内密で読むったって、奥さんが御自分で書いたんでしょう。」
「ええ。だけど人に洩してはいけないわよ。」
「大丈夫ですよ。」
 保子はいい加減の所を披いて読み始めた。

 水島さんがいらっしゃる――(あなた水島さんを御存じね……ええ、画家よ)――水島さんがいらっしゃる。夕御飯を出す。お酒も出す。いろいろ面白い話をなさる。そのうちに、女がコケットリーを失うのは何時だと思う、と仰しゃる。さあ……と横田が考えてると、それは母親になって母親としての自覚を得る時からだ、とのお説。然し人妻になってからもだいぶ失うものではないかしら、と横田がいう。すると水島さんは、そんなことはない、子供のない細君は処女と同じ位にコケッティッシュだと仰しゃる。そして――(あら、大変なことが書いてあるわ)そして、君の細君もその例に洩れないんだと。すると横田が云うには、保子の態度はコケッティッシュだが、心はヒロイックだって。そうですかって水島さんが私にお聞きなさるので、私は、そのどちらでもない、フーリッシュでしょうよ、と答えてやった。それで大笑いをした。

 読んでしまってから保子は、周平の顔を見て「どう?」というような眼付をした。周平は何と云っていいか分らなかった。頭では馬鹿々々しいと思いながら、心では真面目になっていた。
「も少し読んでみましょうか。それとも、もう聞きたくないの?」と保子は尋ねた。
「聞かして下さい。初めからすっかりでもよござんす。」と周平は答えた。
「慾ばってるわね。じゃあも一つきり。なるたけ長い所を読んでみましょう。」
 そして彼女はぱらぱらと頁をめくった。

 今日、隆吉が学校から帰ってきて、何だか考え込んでる様子。碌に口も利かないで悄れている。――(ああ、これはあなたの参考にもなることよ)――どうしたのと聞いても、訳を話さない。なおよく尋ねると、学校でいやな目にあったと答える。修身の先生に、両親ふたおやの無い人は手を挙げてごらんなさいと云われて、隆吉は手を挙げた由。するとその後で、授業がすんでから、先生がいらして、いろいろ慰めて下すった。そして、悲しいことがあってもじっと我慢して、なおよく勉強なさいと云われた時、隆吉は、両親がなくてもちっとも悲しくない、と答えたそうである。それを先生は、隆吉の痩我慢だとして、そんな風に意地っ張りになるのはよくない、素直にしていなければいけない、と長々云いきかせられた。隆吉は、自分は少しも意地っ張りのことを云ってはしない、と答えた。そして先生と喧嘩をしたんだとかいう。
 話を聞いても、私にはよく分らなかった。それで、先生に云い逆うのは悪いから、これからは何を云われても黙っていらっしゃい、とただそれだけ云って、あとは慰めておいた。
 何かのついでに、右の話を横田にした。すると横田が云うには、それは先生が悪い、同情の押し売りをしたのだ、隆吉はそれを暗々裡に感じて、それでつっかかっていったのだと。私にはその解釈が余り勝手なように思われたので、とにかく同情は同情として素直に受ける方がよい、と答えた。横田は、子供は同情を求めるものではなくて、愛を求めるものだ、と云う。けれど同情から愛が深くなることもある、と私は云った。同情の愛は不純なもので、そういうことに隆吉のような子供は殊に敏感である、と横田はいう。それから、同情と愛ということについて、二人で一寸議論をした。そして、結局分らずじまいに終った。

 保子は読んでしまってから、また、「どう?」というような眼付で周平の顔を見た。
 周平はやはり何とも答えなかった。彼は其処に書かれた事柄よりも、それを読んできかせる保子の心の方に多く気を取られた。内密の日記を読んできかして、一種の輝きを帯びたあらわな眸で、彼の方を、じっと窺っている彼女の心を、彼はどう取っていいか分らなかった。単なる親しみからだとしては、読まれた二つの記事が余りに彼の心に触れるものだった。何かを試されてるのではないかという気もした。
「何を考えてるのよ、黙ってばかりいて。張り合いのない人ね」と保子は云って笑った。それから急に調子を変えた。「あああなたは急ぐんでしたね。構わないから、その書物を持っていらっしゃいよ。先生には私があとで云っとくから。」
 周平はぼんやり立ち上った。何だか追い立てられてるような気持になった。二階に上っていい加減な書物を一冊取ってきた。玄関で、彼は眼を伏せながら、保子に一つお辞儀をした。

     十二

 周平は保子の許を離れて初めて、ほっと息がつけた。そして、そういう自分自身が忌々いまいましかった。こういう状態は堪らないと思った。此度の機会には、真正面から保子に凡てをぶちまけてやろうと決心した。
 然しその決心も、次の機会へ機会へと延されていった。彼は保子の前へ出ると、少しも頭の上らない自分自身を見出した。焦慮の余り顔を伏せてる彼に対して、保子の眼は、或は揶揄するような、或は庇護するような、或は甘やかすような、或は探るような、或はしみじみとした温情の、その時折の色を浮べた。彼はその何れを本当だとして捉えていいか分らなかった。
 彼の心は益々焦れて来た。何もかも保子へ告白してさっぱりしたいという願いが、益々強くなった。然し、頭の中でその言葉を考えてみると、問題はただ吉川のこときりなかった。数年前に死んだ吉川のことなんか、実はどうでもいい筈だったのだ!
 周平はそれに気づいた時、惘然としてしまった。何だか幻をばかり見続けてきたような気がした。ふり返って考えると、吉川の写真のことや隆吉に関する日記のことなどが、今更に思い出された。その時の保子の態度に、一人勝手な推察を逞うしたことが、我ながら馬鹿々々しかった。吉川のことなんか保子にとっては何でもないことだ、そう解釈すれば、万事が平易に片付くようだった。
 周平は夢から醒めたような気がして、街路を歩き廻ったり、郊外に出てみたりした。所が、そういう彼の心を新たな不安がふっと掠めた。
 吉川のことにあんなに拘泥したのは、他に理由がありはしなかったのか? と彼は自ら反問してみた。吉川のことを頭から取去っても、保子に対する気持は、前と少しも変りがなかった。してみると、表面だけ吉川のことを借りてきて、実は自分自身のことを焦慮していたのではあるまいか。知らず識らずのうちに、内心では保子を恋したのではあるまいか?……そうだとは、いくら何でもいい得なかった。そうでないとも、一寸断定しかねた。
 一方にまた、保子の気持も彼には分らなかった。彼に対して彼女が心のうちに懐いてるものは、愛であるようにも、遊戯であるようにも、また単なる親しみや好意のみであるようにも、考えようによって何れにも思われた。種々のことを考え合してみると、前の二つが余りに自惚れすぎてるともいえなかったし、それかって、後の一つだとの断定も出来かねた。
 吉川のことから離れて、問題を右のことに置いてみると、彼はのっぴきならない破目に陥ってる自分自身を見出した。それは現在当面の問題だった。而も凡てが疑問のみで、何一つ確かなものを掴み得なかった。
 もしも、自分が保子を恋し保子が愛してくれるとしたら……そこまで想像して彼は駭然とした。然し、そんなことになり得ないとは云えない情態だった。今のうちに何とかしなければいけなかった。と云って、どうしていいかも分らなかった。自分の心がどう転がってゆくか、それが不安で堪らなかった。而も更に悪いことには、その不安がひそかに彼の心に甘えていたのである。

     十三

 周平が一人で思い惑ってるうちに、いつしか暑中休暇になった。そして、八月はじめから約一ヶ月余りの間、横田の家は家族全部で――と云っても、横田夫婦と隆吉、それに女中が一人伴して――常陸の海岸へ避暑することになった。其処に、水戸に居る親戚の別荘があるのだった。
 不在中は女中一人きりだった。それが不用心だというので、周平は留守居を頼まれた。
「ね、いいでしょう。」と保子は云った。「下宿の狭い室でごろごろしてるよりは、家に来て勝手に寝転んでいらっしゃいよ。それにまた、下宿に居るとすれば、高い室代や食料を払わなければならないでしょう。わざわざ苦しんでそんな不経済なことをしなくてもいいわ。ねえ、そうきめとくわよ」
「だって……。」と周平は呟いた。
「何がだってなの。……男って決断力の鈍いものね。私はもうそれにきめてるのよ。井上君にも種々都合があるだろうからって横田が云うものだから、一寸相談することにしたの。けれど、もうきまってることなのよ。」
 周平は苦笑しながら、兎も角も承諾した。実際の所、暑い中をすることもなくて下宿に転がってるよりは、広い家に留守居をしてる方がずっとよかった。その上、九月後の授業料のことも多少気にかかっていた。八月一杯下宿料が助かるとすれば非常に便宜だった。
 然しいざとなると、彼はさすがに躊躇した。たとい不在中にもせよ保子の家で日を過すことは、自分の苦しい心の上に、更に悪い影響を与えはすまいかと恐れられた。また一方から云えば、彼女の旅行は、彼女から全然離れた所に自分の心を置いてみるのに、またとない機会であった。改めて何等かの口実で断ろうかとも、彼は考えた。然し決断をしかねてるうちに、その日となってしまった。
 おかしな日だった。周平は朝早く起きて窓を開いてみた。空も地上も薄暗かった。今にも雨が落ちて来そうだった。今日は雨だから出発は延びるのだろう、と彼は思った。そして愚図々々していた。六時半頃雨傘を手にして出かけた。途中で、ふいに朝日の光りがさしてきた。空はいつしか綺麗に晴れ渡って、木立の陰に霧がすっと靉いていた。曇りだと見えたのは霧のせいだった。彼は足を早めた。
 横田の家へいくと、もう出発の用意が出来ていた。
「なんだ、傘を持ってきたのか。」と横田は云った。
「ええ、雨かと思ったものですから。」
 保子が笑みを含んだ眼で睥むようにして彼を見た。然し彼女は黙っていた。忙しそうだった。
 彼は食事前だったから、大急ぎで朝食をした。それから、皆より一足先に出て、電事で上野駅へ見送りにいった。
 朝も早いし、一ノ関までの列車でもあったせいか、乗客はわりに込んでいなかった。見送り人の少い妙に寂しい歩廊を、周平は腕を組んで歩き廻った。汽車の出るのが非常に待ち遠いような気がした。
「食べ物でも何でも、好きなように女中へ仰しゃいよ、あなたが家の中の主人だから。」と保子は云った。「でも、勝手に夜遅くまで飛び歩いたりなんかしちゃ駄目よ。……面白いことがあったら手紙をあげるわ。」
 周平は黙ってその顔を見返した。
 汽車が出てから、隆吉がいつまでも車窓へ首を出してこちらをじっと見ていたのが、変に周平の頭に残った。
 彼はぼんやり佇んで、列車の姿が消えるまで見送っていた。淋しい気もした。ほっと安心の気もした。

     十四

 周平は斯くして、横田の家で暑中を過すことになった。眼の小さな足の短い肥った女中が、万事を世話してくれた。
 平素来馴れた家ではあるけれども、居るべき人々が居なくてひっそりしてるので、初め彼は旅にでも出たような気がした。室の隅に寝転んだり、庭を歩いてみたりした。凡てが珍らしかった。
 然し、一週間もたつうちには、その珍らしさがなくなって、室の中の様子から庭の隅々まで知りつくすと、とりとめもない漠然とした空虚を覚えだした。
 友人等は大抵東京を離れていたし、東京に残ってる者等には、横田の家で暑中を過すことを知らしていなかった。横田一家の不在中に、友人等を集めて勝手なことをするのは、何となく憚られたのである。それで、村田と野村とが各一度訪ねてきたきりだった。其後村田は旅に出ていた。
 周平は為すこともなくぼんやり日を過した。自由にしていいと云われていた書棚から、書物を取って読んでみたが、少しも気乗りがしなかった。退屈だった。退屈を通り越して妙に頼りなかった。この心の不満は何処から来るのか、と彼は自ら尋ねてみた。然し実はその原因を知っていた。知っていながらそうだと認めたくなかったのである。
 昼間はそうでもなかったが、夜になってあたりが静まると、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。それが、今は亡い遠い昔の人を偲ぶような心地だった。彼は記憶の中を探って、彼女の姿をはっきり其処に現わそうとしていた。宛も石塊に彼女の像を刻むがようなものだった。初めはただ漠然とした立像だった。それに、清い純な光りを放つ鋭い眼が出来てきた。眼から少し間を置いて、すっと刷いた美しい眉が見えてきた。理智的な淋しい影を浮べて引緊ってる頬の曲線の中に、上下が少し歪み加減にきっと結ばれてる薄い唇と、口角の深い凹みとが、現われてきた。それから、やや四角張った男性的な額を巧に隠してる房々とした髪、よくかしげがちになる細い首、力無さそうな痺せ形の上膊と胸部、全身の重心となる腰部、すらりとした股から足、長い手指の先の艶のいい小さな爪、……それらが順次に形を取っていった。それだけの像を頭の中で刻むのに、彼は可なりの時間を費した。気長にゆっくりやるのが楽しみだった。腑に落ちない点を見出せば、すぐに其処を壊してまた作り直した。像が出来上ってしまうと、夢みるようにしてぼんやりそれを眺めていた。然し気の持ちようによっては、像はすぐにぼやけて消え失せてしまった。殊に昼間は、どうしてもうまくまとまりがつかなかった。
 それが彼には淋しかった。そして、その淋しさの原因を知っていながら、他に何等かの口実を探そうとしただけに、益々変に気を惹かれていった。彼は自分の脳裡に在る保子を、現存の人物でないような風に眺めた。其処に淡い感傷があった。彼は拵え上げた保子の像を眺めるだけでは満足しないで、しまいにはそれを歩かせたり坐らせたりした。室の隅や庭の中や自分の周囲に、その時々の気分の赴くままに動き廻らせた。
 そのうちに保子の像は、或る一つの姿を取って、其処で動かなくなってしまった。
 それは、彼女が日記を読んできかしてくれた姿だった。桔梗の模様を浮出さした凉しげなメリンスの着物に包まれて、彼女の姿はいつもよりなお清らかだった。それが机に半身をもたせかけ、庇うように両袖で日記帳を押隠しながら、腰と筋頸とに軽いねじれを見せて振り向き、底の知れない輝きを含んだ眼付で、こちらをじっと眺めていた。彼は怪しい魅惑をそれから受けた。
 夕食後庭を歩いていると、ふと、彼女のそういう姿が奥の室にあるような気がした。二階に寝転んでいたり、散歩から帰ってきたりしても、やはりそうだった。然し、女中に気兼ねしながら何気ない風で、そっと奥の室を覗いてみると、こちらから射す電燈の光りが、蔦の葉模様の襖に芒と映ってるきりで、室の中は薄暗くがらんとしていた。
 或る日、昼間、女中が用達しに出かけた後で、彼は奥の室にはいってみた。それは殆んど保子が独占してる室だったので、彼はまだ一人で足を踏み入れたことがなかった。何かが期待せられるような心地でそっとはいってみると、中の有様は以前と少しも違わなかった。左奥の窓際に寄せて机が一脚置いてあり、上には硯やインキ壺がのっていた。壁に沿って箪笥が二つ並んでいた。床の間には、袋にはいった琴が片隅に立てかけてあり、他の隅に大きな鏡台があって、鏡の面には友禅縮緬の鏡掛が垂れていた。彼はそれらを一通り見渡したが、何だか非常に淋しかった。彼女の居ないのが物足りなかった。鏡の前に行って鏡掛をはね上げながら、自分の顔を映してみた。生気せいきのない衰えた顔付だった。鏡台の抽斗を開けてみた。櫛や簪や毛ピンが沢山はいっていた。次の抽斗には化粧壜が一杯はいっていた。どれもこれも使い古しばかりらしかった。その一つを取って嗅いでみた。褪せたほのかな匂いきりしなかった。
 その時、玄関の方に人の足音がした。彼ははっとして、急いで室から出て、縁側に佇んだ。女中が帰って来たのだった。女中はすぐに台所の方へ行った。彼は漸く安心した。と共に、胸の高い動悸を覚えた。
 その偶然のことが、後でひどく気にかかった。気にかかりながらも、心が惹かされていった。やがて彼は、保子の日記帳を探し出してやろうと計画してる自分自身に、我ながら喫驚した。それは、横田夫婦の信頼を裏切る行為であり、また、最も卑劣な賤しい行為であった。然し、一度滑りかけた心はどうしても止まらなかった。その上、口実は如何様にもついた。日記によって保子の本当の心を知ることは、変な所へ陥りかけた自分自身を正当な位置へ引戻すべき、唯一の方法らしく考えられた。それによって未来が安泰となれば、一時の罪は十分に償われる筈だった。あの時、内密で読んできかせようと云った保子の態度を考えると、全部を見せたい気持が、自分を啓発したい意志が、或は彼女にあるのかも知れないのだった。……兎に角、行く所までいったら後は自然に途が開けてくるだろう、そう彼は結論した。
 斯くて彼は、彼女の日記を探すべき機会を窺った。
 女中は洗濯物をしたり居眠りをしたりして、なかなか家をけなかった。それでも時々買物に出かけた。周平はその僅かな機会をも遁さなかった。後には可なり大胆になって、用を拵え出してはその使に行って貰った。不用心だからという口実で、裏口はすっかり閉めさせ、玄関の硝子戸には釘をさした。そして彼は保子の日記を探した。
 けれども、箪笥などにはさすがに手をつけ得なかったし、机の抽斗や袋戸棚や手文庫などを検べている最中にも、ふと恐ろしい気がして、其処を逃げ出すことがあった。その恐ろしさが静まると、自分が自分でないような妙にぼんやりした心地になった。そして彼は空虚な心で、縋るように保子の幻を描きだした。
 保子からは、向うに到着の葉書が一本来たきり、何の便りもなかった。彼は益々胸苦しい気分になっていった。
「井上さん、」と女中は云った、「何を毎日ぼんやり考え込んでいらっしゃるの。少し散歩にでもお出かけなさいな。身体に毒ですよ。」
「家にじっとしてる方が涼しくていい。」と周平は答えた。
「あなたは実際変っていますよ。一日誰とも口をかないでよく淋しくありませんね。……奥様もそう云っていらっしゃいましたわ。井上さんは気が向くとよく饒舌るけれど、気が向かないと黙り込んでばかりいるって。そりゃ誰だって、口を利きたくない時もありますけれど、あなたみたいに、幾日も黙っていられる方は珍らしいですよ。」
「横田さんだって随分無口の方じゃないか。」
「でもあなたほどじゃありませんよ。……奥様と喧嘩なすった時は別だけれど。」
「え、横田さんが奥さんと喧嘩なさることがあるのかい。」
「あるってほどじゃありませんわ。私が来てからただ一度きりですから。」
「何で喧嘩なすったんだい。」
「何でだか私は知りませんけれど、お二階で夜遅く迄云い合っていらしたのよ。そのうち私共は寝てしまったから、何のことだったか分りません。けれど、それから二三日の間は、先生も奥様も黙りっきりで、一言ひとことも口をお利きなさらないものだから、私共までほんとにびくびくしていましたわ。」
「それから?」
「それからって、それだけのことですよ。」
 周平はぷいと立っていった。そんな話に好奇心を動かした自分自身が、変に不愉快になった。と共に、その不愉快さに対する反撥心が起ってきた。毒を以て毒を制したいような自棄気味になった。
 彼は二階の書斎に上って、机や卓子や本箱の抽斗をかき廻した。もし横田の日記でもあったら、それを読むことによって、保子の日記を見出せない腹癒せをし、また、こんな所まで陥ってきた自分自身に返報をするつもりだった。
 本箱の抽斗を探していると、丁寧に紙に包んだものが出て来た。中には、小形の洋罫紙が十枚ばかり、二つ折りにしてはいっていた。その一行を何気なく読んで、彼は危く声を立てようとした。それから、辛うじて驚きを押し鎮め、室の中を見廻し、抽斗を元のように閉め、洋罫紙を室の真中に持ち出して、その両面に細字で書いてあることを、彼は一心に読み始めた。

     十五

十月六日――俺は死を厭うものではない。然し好奇心によって死にたくはない。
 夜、〇・〇〇三に当る分量を服用している時、ふと〇・〇〇五の極量を越してみたらという気がした。次の瞬間には危いと思った。手先が怪しく震えた。そして厳密に分量を検査した。勿論千倍の溶液だから、少しの差は構わないようなものの、誤ってつまらない結果に陥りたくはない。
十月七日――何という爽快な気持だろう! 陰鬱にぼやけていた世界が、俄に明るくなったのだ。凡てのものが輝いて見える。軒先に流れる日の光りが、それとはっきり見て取られるようだ。
 あの重苦しい幻影が消え失せたことは、俺にとって最も喜ばしいことなのだ。
十月八日――夜になって、頸筋に一種の硬直が感ぜられる。或は、昼間少し歩き廻ったせいで肩が凝ったのかも知れない。苦悶の感覚が少しもないのは、この推察を助ける。それでも、もしや……という気がする。
十月十一日――朝から視力がまた弱ってきたのを感ずる。薬液を取出してじっと眺めてみた。
 俺は今、二重に危険な途を歩いている。いつでも極量を越せること、いつ中毒するか分らないこと。一方は俺自身の意志に懸っており、他方は偶然の機会に懸っている。而もこの偶然の方も場合によっては偶然でなくなることを、俺は知っている。
十月十六日――ストリキニーネはその排泄が徐々であって、ややもすれば蓄積作用を起して中毒症状を呈することは、医者に聞かなくても知っていたのだ。顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)部の皮下注射を断られるのは、固より覚悟の前だった。身体の栄養をよくすれば弱視はなおることがあるのも、俺は知っていた。凡ては、単に駄目を押しただけだ。駄目を押して、自分の前に右か左かの途しか残したくなかったのだ。そして希望通りにいったというものだ。
 今や俺の前には、服薬を続けるか弱視を我慢するか、何れかの途しか残ってはいない。
十月十八日――Y子とE子との幻が一つになりそうな気がする。それは俺にとって堪らないことだ。
十月十九日――今日は非常に視力が鈍る。陰鬱な考えに終日耽っている。
 晩になって母と喧嘩をした。隆吉が余り泣くから疊の上に抛り出してやったのが、その原因だった。今後の生活が問題の中心だった。……俺には正当の理由があったのだ。E子を憎む時俺は隆吉をも憎んでやる。E子を許したい気持の時には、隆吉を可愛がってやる。俺はこの二人を気持の上で切り離すことが出来ないのだ。……今すぐ俺に働けといっても無理だ。時機が来れば大いに奮闘する覚悟は、俺にだってついてはいる。これ位のことに俺はまいってはしまわない。然し、人間の心には休息の時期が必要なのだ。中途半端な心の入れ方では、何をしても駄目にきまってるのだ。……そういうことが母には少しも分らない。分らないのを俺は責めたくはないが、分らなさを以てつっかかって来られると、つい苛立って来ざるを得ないのだ。
 喧嘩の後で、母は一人で泣いていた。俺も涙が出てきた。然しその涙を、俺は卑怯な涙だと感じる。涙で妥協するのは卑怯なやり方だ。そう思うと、俺の眼からはまた涙が出てきた。どうにも仕様がなかった。
十月二十日――朝と夕方と二回、〇・〇〇三に当る分量を服用する。夜、軽い頭痛を覚ゆる。
十月二十一日――朝起きると、軽い眩暈を感じる。それもすぐに止む。空が綺麗に晴れ渡っている。視力がはっきりしている。
 珍らしく郊外に出てみる。櫟林に寝転ぶ。涼しい風が何処ともなく流れてきて、枯葉がひらひらと舞い落ちる。淋しい梢の間から、白い浮雲が見える。その雲をじっと見ていると、櫟林や自分自身や大地がゆるやかに動き出す。大きな波に揺られ流されてるような心地。雲は何時までも空高く懸っている。大地が非常に頼りなく思われる。……ふと気づくと、雲が徐々に空を流れてるのであった。あたりを見廻せば、木の幹も草の葉も地面も、ひっそりと静まり返っている。かさかさと干乾びた音が何処かでする。黄色っぽい日脚が妙に弱々しい。……秋は寂しいものだと思う。一人で居るに堪えなくて、家に帰る。寂しさが心の底にこびりついて離れない。
 家に帰っても、母とは口を利かない。そのおずおずした眼付がいやに圧迫してくる。隆吉がよちよち歩いてる。頭ばかりが大きくて、栄養不良らしい萎びた身体付をしている。自分の児だと思うと変な気がする。
 これまで書いてくると、手先が震えて止まない。胸糞の悪い頭痛がする。※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)の筋肉がぴくぴくする。
十月二十四日――日の光りを見てると、頭がくらくらする。物の匂いがいやに鼻につく。平素は気がつかなかったが、電車の響きがうるさく聞えてくる。
十月二十五日――視力が少しも弱らない。日記をくると、二十日に服薬したきりである。いつもは大抵、二三日で薬の効果は消えるものだが、こう四五日も持続することは珍らしい。呼吸が非常に楽で、脈搏は弱いけれど強い。
 少し不安になる。或は中毒の前駆期ではないかと思う。暫く薬を止さなければいけない。
十月二十七日――夜、書物を読んでみたが、どうもよく頭にはいらない。頭のしんに石でもつまったような心地。虫の声が耳について煩い。煩い余りに、ぼんやり聞くともなく聞いていると、階下したで低い話声がする。Y子の声のようだ。そんな筈はないと思っても、どうしてもY子らしい。余り不思議なので、遂に堪りかねて降りていった。母が一人でぽつねんと針仕事をしている。誰か来てはいなかったのですかと聞くと、母は妙な顔をして誰も来ないと答える。
 その後で、二階にじっとしてると、また低い話声がする。Y子のようであれば、E子のようでもある。余り変なので、再び降りて行ったが、やはり誰も来ていない。
 そういうことがも一度あった。気の迷いにしては余り何度もだから、試みに母を二階に連れてきた。何にも聞えないと母は云う。なるほど話声は聞えない。此度は母を階下にやって、自分一人二階に居たが、もう何の話声もしない。その代り、俄に騒々しく虫の声がしだした。
 そのことが変に心にかかる。一人で居るのが恐ろしい気がする。すぐに床を敷いて貰って寝る。眠れない。しまいに隆吉を自分の布団の中に抱き入れる。隆吉はすやすや眠っている。いつも隆吉を抱いて寝る母が、淋しそうに夜着の襟から顔を出して、こちらをじっと見ている。素知らぬ顔をして隆吉の方へ屈み込んだが、涙が出て来て仕方がなかった。
 俺はもうY子のことを何とも思ってはいない。E子を愛している。憎いだけに猶更愛している。
十一日八日――暫く日記を止すつもりだったが、また書き続けることにする。これは初め、自分の身体に対するストリキニーネの反応だけを、ごく簡単に誌し止めて、後の参考にするつもりだったが、余計なことばかり多くなってるのに気づいて、十日余り中止してみたのである。それを再びなぜ始めるかは、俺自身にも分らない。今俺の頭の中には、互に矛盾する無数のものが錯綜している。
 今月になって五回、〇・〇〇二に当る分量を服用した。反応微弱。
十一月九日――皮下注射と内用との身体に及ぼす影響の差が、よく分らない。今日少し調べてみたけれど、やはり分らない。然し、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)部の皮下注射が弱視に効果あるとすれば、少し分量を増した内用も、やはり効果あるべき道理である。その上俺は元来胃腸が非常に悪い。薬の内用に依って、胃腸粘膜の鬱血を散じてその働きを佳良ならせるならば、一挙両得というべきである。その上俺は、可なりアルコールに害を受けている。もしこの薬によって呼吸中枢を興奮させ得るならば、同時に三得となるわけだ。
十一月十一日――視力の減退が著しい。試みに眼鏡屋へ行ってみたが、近眼の度が進んでるのではなかった。物の表面をしみじみと見ることが出来ない。輪郭も凡てぼやけている。
 薄暗い世界だ。何もかもぼんやりしている。気が苛立ってくる。一寸したことでも癪に障る。何かに脅迫せられてるような心地。
十一月十二日――考えまいとしても、いつのまにか考えている。而も何等まとまった考えをしてるのではない。頭の働き方が全く機械的になつている。種々の射影がいつも同じような姿で浮んでくる。俺の頭はそれを機械的に取り入れて、また機械的に吐き出してしまう。永久につきない反応作用を営んでるのと同じだ。
 Y子もE子も俺にとっては過去の人物だ。母と隆吉とは二人だけで生きてゆける。それを俺はどうしようというのか?
 敢然と歩いてゆくべき途が一筋ほしい。現在の停滞した状態をこね起すべき梃がほしい。何よりも先ず、頭の中だけに狭められたこの息苦しい世界を、豁然とうち拡げることだ。視力を恢復することだ。精神的窒息は最もたまらない。
 夜、〇・〇〇四に当る分量を服用する。
十一月十二日――朝、〇・〇〇四をまた服用する。
 異常な感覚を覚ゆる。天地が躍り立つようだ。空がこの上もなく澄みきっている。凡ての物が閃きながら揺いでいる。赤や青や緑の光線が縦横に入り乱れている。距離が妙に縮まって見える。気圧が極度に低くなったような心地。
 歩いていると、膝関節に怪しい感じがする。足の運動が、非常に力強いわりに重々しい。変に自分の意志とそぐわない。いつ棒立ちになって動けなくなるか分らない気がする。
 夕方、精神的な漠然とした苦悶を覚える。酒をやたらに飲む。酔ってるうちに意識を失ってしまった。
十一月十三日――終日胸がむかむかする。
十一月十四日――甚だしく精神の疲衰を覚ゆる。しきりに眠い。そのくせ、横になっても眠れない。妄想が相次いで起ってきて、いつまでも止まない。はっきりした推理が出来ない。頭脳の一部が痲痺したのではないかと思う。
 心が暗澹たる影に包み込まれる。服薬を続ける。
十月十八日――怪しい誘惑が働きかけてくる。高い絶壁の上に身を置く時には、絶壁の下に身を投じてみたらという誘惑――というより寧ろ感情が、しきりに動いてくるものだ。その感情を見つめていると、遂にはそれに引きずり込まれてしまう。これは実際に経験しなければ分らないことだ。俺は今死の絶壁の上に立っている。一歩の差で下に落ちる場所に居る。落ちたら……という感情がしきりに動く。それを見つめることは最も危険なのだ。日記をつけるのは間接にそれを見つめることであり、この白色の溶液を弄るのは直接にそれを見つめることなのだ。日記をも薬液をも投擲しようかと思う。
 死に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。生に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。死せんがための若しくは生きんが為めの努力ならば、まだしもよい。然しながら、死そのもの若しくは生そのものが一の努力となるならば、その死や生はつまらないものである。
 俺は努力の生を続けたくはない。また努力の死をしたくはない。生きるのが自然であるならば生き、死ぬのが自然であるならば死ぬばかりだ。俺は今、死にたくも生きたくもない。自然のままに任せたい。
 こういう状態は最もいけないものであることを、俺は知っている。然し何かに興味を繋ぐことの愚かさを、つくづく感じる。俺は誰をも愛しない、誰をも憎まない。
 それにしても、自分自身に対する呪わしい気分が時々湧き上って来るのは、何としたことであろう?
十一月十九日――〇・〇〇三を二回服用する。
 何のためであるかを自ら知らない。
十一月二十日――今日は変な日である。空が晴渡ってそよとの風もない。凡てのものがひっそりと静まり返っている。水底にもぐったようである。それなのに、光りと音響とだけが浮き出して見える。宛も自分だけが光りと音との波間に浮んでるがよう。軽い眩暈と恍惚の情とが相次いで起ってくる。時々嘔気を催す。然し精神は清朗明晰を極めてるがように感ぜらるる。
 母がしきりにこちらを窺ってるのが分る。俺は真正面から母の顔を見返してやる。その白い額から小皺を刻んだ頬へかけて、石のような感じがする。不思議だ。隆吉を抱いてる彼女の姿は、丁度子供を抱いてる石地蔵のように見える。隆吉の頭がまたいやに固そうに見える。お母ちゃんという言葉を知らないで彼は幼時を過してしまうのかと、ふと考えてみたが、それも何処かへ飛び去ってしまう。後はしいんとしている。眩しいほどの光りと音響との世界だ。光りと音との波に溺れて、凡ての事象がひっそりと凝り固まっている。
 殆んど終日黙って暮す。酒も飲みたくない。
十一月二十四日――発熱。脈搏不整。四肢の筋肉に軽い痙攣。
急性薄脳膜炎の症状を少し調べてみる。中途で気づいて止す。何の気兼ねぞ!
十一月二十五日――俺は凡てを知っている。俺は死ぬのではない。
 怪しい幻想になやまされる。

     十六

 以上が、洋罫紙に細字で認められてる全部だった。それは吉川の手で書かれたものに違いなかった。中に出てくる人物で、Y子というのは保子のことらしく、E子というのは、吉川の許を逃出した英子とかいう女のことらしかった。
 周平は一気に読み終って、初めてほっと息をついた。妙に胸騒ぎがした。手の紙片をじっと眺めた。或る部分はごく念を入れて書き誌してあり、或る部分は一気に書きなぐってあった。ただ、何処にも殆んど添削がなかった。頭からじかに紙上へ落ちたままのものだった。冷静らしい文句の下に、強いて抑えつけられた感情の渦巻きが見えていた。それが周平の胸に直接に響いてきた。彼は悪夢に似た迷濛の中に引入れられるのを感じた。
 その上、不思議な偶然が彼の気にかかった。保子の日記を探すつもりだったのが、脱却したと思ってる吉川のことの中へ、突然投げ込まれてしまったのである。一種の奇縁というより外はなかった。彼は怪しい運命の糸を自分の身に感じた。それがなお彼の心を脅かした。
 それにしても、吉川の日記――恐らく最後の日記――が、どうして横田の手許にあるかも不思議だった。何か人知れぬ事実があるらしく想像せられた。
 周平はその日記を、何度も繰返し読んだ。然し、圧搾せられた感情の波がひしひしと感ぜられるだけで、村田から聞いた以上の具体的な事実は、何一つ見て取れなかった。ただ、吉川の死は英子と別れてから一ヶ月よりずっと後であるということと、その死は自殺とも病死とも云えないものであるということだけが、ほぼ明かになった。
 周平は吉川の日記を幾度もくり返し読んだ後、更にそれを手早く写し取った。それから用心のために、写したものは自分の下宿へ行ってしまって来た。ひどい精神の疲労を覚えた。そして、何だかこのままでは治りがつきそうもない気がした。それでも構うものかと思った。ぶつかるものにぶつかっていけと心を定めた。
 彼は二階の室に寝転んでばかり日を過した。朝といわず夕方といわずすぐにうとうととした。かと思うとはっと眼を覚した。頭がぼんやりしていた。それが夜になると、いやに頭のしんが冴え返った。吉川のことが自分の心の中のことであるような気がしてきた。その半ば自棄的な気持の底から、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。眼の前に彼女の姿を浮べていた。遠い過去の恋人ででもあるかのように、その姿を彼はじっと眺めた。しみじみとした哀愁の念に囚えられた。そしては、またはっと我に返った。
 この哀愁の心と、何物にもぶつかっていけという心と、そのどちらが本当の自分であるかを彼は迷った。どちらも本当の自分であるとすれば、も一つその上に立つべき何かがある筈だった。それを彼は見出し得なかった。しまいには絶望的な気持になった。
 そこへ不意に、全く不意に、保子が隆吉を連れて帰って来た。

     十七

 それは綺麗にうち晴れた日の午後だった。周平は二階の室で、午睡とも云えないほどのうとうととした気持で、聞くともなく蝉の声に耳をかしていた。すると俄に、玄関に俥夫の威勢のいい声や女中の頓狂な声がして、次に保子の落着いた張りのある声がした。周平はそれと気づかないうちに立ち上っていた。階下したにかけ降りてみると、僅かばかりの手廻りの荷物の中に、保子が隆吉の手を引いて立っていた。周平は一寸挨拶の言葉も出なかった。
「只今」と保子は云った。それから周平の顔を見つめた。「何を変な顔をしてるの? ……でも喫驚したでしょう。急に帰ることになったものですから、知らせる隙がなかったのよ。」
「先生は?」と周平は漸く尋ねた。
「おあと。隆吉が病気なものですから、私だけ先に慌てて帰って来たのよ。」
 然し見た所、隆吉は大した病気でもなさそうだった。ただ、動く度にひどく咳込んだ。保子はその上に屈み込んで、苦しかないかと聞いたりした。
 座敷に床を敷いて隆吉は寝かされた。熱を測ると八度七分あった。かかりつけの医者へ女中が電話をかけに行った。帰りに氷を買ってきた。氷枕をさしてやった。――隆吉は初め軽い風邪にかかったのだそうである。それが変にこじれて、気管支加答児となり、高い熱が出た。或る日などは唾液に血が少し交っていた。肺炎にでもなりはすまいかという恐れがあった。然し非常に辺鄙な土地なので、いい医者が近くになかった。病気に神経質な保子は、兎に角東京へ帰ったがいいと云い出した。それで、横田だけ後に残って、保子と隆吉とが至急に帰ってきたのだそうである。
 医者は都合して早く来てくれた。丁寧に診察した。病気は気管支加答児だけで、それも大したことはないそうだった。吸入に湿布に、熱があれば氷枕、過激な運動を避けること、それだけが手当の全部だった。
 周平は医者の家へ薬を取りに行った。途中で郵便局に寄って、病軽し安心せよと横田へ電報をうった。医院へ行って処方箋を出すと、顔の大きな頭の禿げた薬局生が小窓から覗いて、御病人は如何ですかなどと云った。周平は厭な気がした。
 可なり長く待たされた後、薬を貰って外に出ると、もう薄暗くなりかけていた。彼は知らず識らずに足をゆるめた。慌しいようでしめやかな夕暮のなかを、何処までもゆっくり歩いて行きたい気がした。保子の前へも出たくなかった。頭の中に描いていた幻が、現在の保子の姿に蔽われつくして、ただやるせない憧憬の気持のみが、彼のうちに残されていた。その気持がどういう方向を取るか分らないのを考えると、彼は云い知れぬ胸のおののきを感じた。と共に、保子に対して無力である自分自身が、不安になり恐ろしくなった。
 それでも、彼はいつのまにか家へ帰ってきた。保子は隆吉の枕頭にぽつねんと坐っていた。彼がはいっていくと顔を挙げた。
「早かったわね。……私慌ててたものだから、あなたまで騒がしてお気の毒ね。御免なさい……何だかがっかりしてしまったわ。」
 そう云って彼女は、静かな無心の眼付で周平を見た。
 隆吉はすやすやと眠っていた。
「お食事の支度が出来ました。」
 そう女中が云って来た時、保子は床柱に軽く上半身をもたせかけて、膝をくずしながら大儀そうに坐っていた。その膝を重たそうに引きずって、隆吉の枕頭に匐い寄っていき、一寸その額に掌をあててみ、その顔をじっと眺め、それから立ち上った。
 食事の間、女中が隆吉の側についてることになった。食卓の上には麦酒が一本のっていた。
「私も一杯飲んでみよう。」と保子は云って、ぽつりと小さな皺を眉根に寄せながら、なみなみと注いだコップに唇をあてた。
「あちらでは、どんなに動き廻っても平気だったけれど、東京に帰ってくると、身体がだるくて仕様がないわ。やはり海岸はいいのね。……あなたも少し行ってきちゃどう?」
 そして彼女はまじまじと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]
 そういう彼女には、身体の線がなよなよとくずれて、持て余したような柔かな肉体があった。それを彼女は横坐りにした腰の上にくねらして、片腕をまくってみせたりした。
「こんなに真黒になってよ。海にはいった初め二三日のうちは、ひりひりして仕方なかったけれど、それからむやみと痒くなって、掻く度に薄い皮がむけるのよ」
 肩の上で一線を劃して、それから奥は真白に海水着の跡がついていた。
「奥さんは泳げるんですか。」と周平は尋ねてみた。
「ほんの少しばかり。でも泳ぐのは第二で、波にもまれてるのがいい気持よ。それから砂浜の上に寝転んだり、細帯一つで室の中にごろごろしたりして、それは呑気よ。帰って来ると、帯をちゃんとしめたりしていなけりゃならないので、何だか窮屈で仕様がないわ。身体がだらしなくなってしまうのね。……こんな坐り方なんかして、御免なさい。」
 そして彼女は白い歯を見せて微笑んだ。
 実際彼女のうちには、妙に締りのない明けっ放しの所があった。以前は、如何に距てない温情を示す時でも、其処に一種の清らかなつつましさがあったけれど、今では、その清らかさが変に濁りを帯び、つつましさがしどけないものに被われていた。
 周平はその変化に眼を見張り、次には眼を伏せてしまった。頭の中に描いていた彼女は、いつしか夢のように消え失せて、凡てをさらけ出したようなあらわな彼女が、余りにまざまざと眼の前に在ったのである。一寸手を伸したらすぐに触れそうな彼女だった。彼は不安な誘惑を感じた。恐ろしくなった。明日あたり下宿に帰ろうかと云い出してみた。
「あら、どうして?」と保子は云った。「横田が帰るまでいてもいいんでしょう。ね、そうなさいよ。私が帰って来たからすぐに出て行くなんて、変じゃないの。」
 その何気ない最後の言葉が、彼の自由を奪ってしまった。自分の心の中にある疚しいものを、一挙にほじり出されたような気がした。そしてその晩床の中で、彼は長く眠れなかった。いろいろ考えあぐんだ末、最後に辿りついたものは、保子に恋したのだ! という一事だった。今迄自ら押隠していたが、もはやどうにも出来なくなった、その一事だった。
 彼はしみじみとした涙と苛立った憤りとを、同時に感じた。今後のことを考えると、暗い穴にでも陥るような気がした。

     十八

 翌朝、周平は遅く迄寝ていた。眼が覚めた時は、障子にぱっと日の光りがさしていた。眠ってるうちに女中が雨戸を開いてくれたものらしい。彼は室の中のだだ白い明るみを暫く眺めていたが、眼の底が熱くなるのを感ずると、頭から布団を被ってしまった。自分は保子を恋したのだ! 昨晩ふと考え及んだその一事が、しつこく頭に絡みついてきた。凡てがその一事に圧倒され終るような気がした。
 迷霧の中を辿ってるような心地で、いつしかうとうととしてると、階段を上ってくる足音が遠くに聞えた。それがはたと止んで、あたりがひっそりとなった。長い間のようだった。と俄に、喫驚するほどすぐ近くに、張りのある保子の声が響いた。
「井上さん、まだ寝てるの。お起きなさいよ。もう何時だと思って?」
 周平は黙っていた。
 保子は周平の枕頭の押入をあけて、何かをしきりに探しているらしかった。暫くすると、彼女は押入の襖をぴたりと閉めた。
「井上さん、お起きなさいよ。」
「ええ。」と周平は思わず答えてしまった。
 一寸間が置かれた。また保子の声がした。
「いやだわね、布団を被ってしまって。加減でも悪いんですか。」
 布団が少し引きのけられた。周平はされるままに任して、顔を横向けながらちらと保子の方を見上げた。
「あら、」と保子は叫んだ、「泣いてるのね、どうしたの。」
 その言葉で周平は初めて、自分の眼や頬に涙がたまってるのを気づいた。するとまた、後から涙が出て来るような気がした。咄嗟に寝間着の袖で眼を押し拭いながら、じっと保子の顔を眺めた。その起きたばかりの清い素肌の顔の中には、黒目がちの澄みきった眼が、朝の光りを受けて静かな輝きを見せていた。それがちらと瞬いたかと思うと、刺すような鋭い光りに変った。
「どうしたというの、え?」
 眉根がぴくりと動いて、彼女の顔は妙に冴え返った。それがまざまざと、周平の眼の前に寄せられてきた。周平は眼を外らした。
「いやな夢を見たんです。」と彼は答えた。
「嘘仰しゃいよ。いやな夢に泣く人があるものですか。」
「いやな悲しい夢です。」
 保子は何とも云わなかった。然しその眼は嘘仰しゃい! とくり返していた。そのままで、静に時がたっていった。周平はくるりと寝返りをしたが、次にはぱっとはね起きた。起きてから、どうしていいか分らなくなった。縁側に出て呼吸してみた。後ろからじっと眺めてる保子の眼に、気持を囚えられて仕方がなかった。どうにでもなれという気でふり向いてみた。
「もう起きてもいい時よ」と保子は静かな調子で云った。「余り寝坊してるから、いろんなことを考えていけないんだわ。顔でも洗ってごらんなさい。気がさっぱりするかも知れないわ。」
「ええ」と周平は機械的に返辞をした。
 保子は彼の眼の中をじっと覗き込んで、それから立ち上って、黙って階下へ下りていった。手に空気枕を持っていた。
 周平はその後姿を、見ぬようにして見送りながら、ぼんやり立ちつくしていた。彼女の姿が消えると、怪しく胸が騒いできた。そして布団の上に身を投げ出した。
 開け放した縁側から、暖い日の光りが室内に射し込んでいた。彼は長い間その光りに浴した。額のねっとりした汗が乾いて、何もかもが空しく思われてきた。一抹の影も含まない澄みきった大空が、寂しく静まり返っていた。その懐に周平は自分自身を投げ出した。地上に存在することが無意味に頼りなく感ぜられた。自分の涙を見て保子が何と思ったか、保子に恋したことが如何に不貞であるか、そんなことはもうどうでもいいという気になった。自分自身が惨めなら惨めでいい。凡てをあるがままにあらせるがいい。これからどうなろうと、そんなことは神の知る所だ。
 周平は立ち上って、着物を着代えた。耳を澄したが、誰も呼びにくる気配けはいもなかった。彼は寝床を片付けて階下に下りていった。顔を洗う時、水で頭を冷そうとしかけたが、それも面倒くさくなって止した。
「よかったら御飯にしましょう。あなたを待ってたのよ。」
 そう保子は云ったきり、遠慮深そうに口を噤んでいた。
 然し周平は、彼女の眼がしつこく自分に向けられてるのを感じた。感じても平気だった。自分自身を極端に惨めな絶望的などん底に置いて、そこから空嘯いてみた。何にも恐ろしくなかった。場合によっては、保子の前に赤裸な自分の心をさらけ出してもいい、と彼は思っていた。さらけ出してどうしようという考えはなかった。たださらけだしてしまったらどうにかなりそうだった。彼はまともに保子の顔を見返した。
「井上さん、」と遂に保子は云い出した、「あなた先刻、悲しい夢を見たと云ったわね。どんな夢?」
 周平は一寸答えに迷って黙っていた。
「夢なら話したっていいでしょう。え、どんな夢なの、仰しゃいよ。」
「夢のことなんかどうでもいいんです。」と周平は答えた。
「でも、その夢のことで泣いてたじゃないの。」
「あれは嘘です。」と周平は吐き出すように云ってのけた。
 保子は軽く微笑んだ。一寸間を置いてから云った。
「とうとう白状してしまったわね。だからあなたの嘘は罪がなくていいわ。」
 周平は俄に眼の底が熱くなるのを感じた。涙を落すまいとして歯をくいしばった。すると保子は、しみじみとした調子で云った。
「だけど、悲しいことなんか、本当はみんな夢にすぎないものよ。時たって後で考えてみると、夢をみたような気がするものよ。泣き足りないといつ迄も頭にひっかかるけれど、思うまま泣いてしまうと、それでさっぱりして夢から覚めたような気になるわ。涙は夢から覚める方便のようなものよ。悲しいことがあったら、涙を押えないでお泣きなさいな。私、泣いたことがないなんていう人は大嫌いだわ。」
 周平はぼんやり保子の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。彼女が本気で云ってるのかどうか、彼にはさっぱり見当がつかなかった。いい加減に弄ばれてる気もしたし、真面目な同情を寄せられてる気もした。
「散歩にでもいっていらっしゃいな。気が晴れていいかも知れないわ。」と保子は云った。
 周平は云われるままに何の気もなく立ち上った。然し立ち上るともう外へ出たくはなかった。そして二階へ上りかけたが、ふと気にかかって、隆吉が寝てる室へはいってみた。
 隆吉は氷枕を止して空気枕で寝ていた。熱は七度五分以下に下っていた。頭を少しずらせ加減に横向けて、周平の方をじっと眺めた。
「気分はどう?」と周平は尋ねた。
 隆吉はそれに答える代りに、更にまじまじと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。周平はその視線を避けて、枕頭の方に坐った。
 静かだった。高く昇った日が外を一杯照りつけてるのが、更にその静けさを助けた。静かな上に余りに明るかった。隆吉の高い凸額おでこが瀬戸物のようにこちこちして見えた。窶れてほっそりとした頬の中に、高く薄い鼻がすっと通っていた。周平はそれを見てると変な気になった。その凸額に拳固を喰わせその鼻を折り挫いてやりたい気がした。何で隆吉に対してそんなに腹を立ててるのか、自分でも分らなかった。
 隆吉はいつのまにか涙ぐんでいた。周平はそれに気づいたが、黙ってしつこく坐っていた。
 そこへ保子がはいって来た。彼女は周平の方へ云った。
「大変いいようですよ。この分ならじきに起き上れるでしょう。」
 彼女は隆吉に薬をやった。隆吉は仰向けに寝返って、水で拭いて貰った指先に白い散薬をつけて、それを何の味もなさそうに嘗めた。それから湯を一口飲んで、また力なく枕に頭を落した。乾燥した低い咳を五つ六つ続けてした。
「吸入をしましょうか。」と保子は云った。
 隆吉は頭を振った。
「そう、ではも少したってからにしましょう。」
 それきり皆黙ってしまった。
 周平は室の中を見廻したが、その眼はいつしかまた隆吉の上に据えられていた。何とも云えぬ憎しみの情が次第に湧き上ってきた、惨めな存在だという気がした。吉川の手記が頭の中に蘇ってきた。この子のために吉川はどんなに苦しんだろう、この子が生きてる間は吉川の苦しみも生きて残るのだ、保子の身にも暗い影がつき纒うのだ、とそんなことを周平は思った。彼の胸には、吉川と隆吉とは父と子であるということがぴたりと来なかった。孤児であるということも、彼の心を少しも動かさなかった。何故か? と彼は自ら反問してみた。答えは得られなかった。そして、じっと隆吉の寝姿を見ていると、不当な存在だと思えてきた。その不当な存在に対して、復讐してやりたいような気持になっていった。……そういう暗い気分に浸っているうち、彼は二三度保子からじっと眺められたのを感じた。隆吉を踏みにじって保子の前に身を投げ出したかった。坐ってるのが苦しくなってきた。それでも腰を落着けていた。如何にも執拗に坐り込んでるのが我ながら感ぜられた。そのためになお立ち上れなくなった。
「井上さん、」と突然保子が云った、「どうしてそう変な顔をしてるの。」
 云われて始めて周平は、自分が泣き出しそうな顔をしてるのに気づいた。何気ない答えをしたかったが、その言葉が見つからなかった。まごまごしてる所を、保子からはじっと、隆吉からはちらと、両方から見られたのを知った。彼は咄嗟に心にもないことを云った。
「吸入をしてあげましょうか。」
「そう。」と保子はすぐにそれを引取って、隆吉の方へ屈み込んだ。「井上さんが吸入をして下さるから、おとなしくするんですよ。ね、いいことね。」
 隆吉は彼女の方を見ないで、周平の顔をじっと見て、それから首肯うなずいた。周平は機械的に吸入器の用意をした。
 隆吉は床の上に坐って、真白なタオルに包まれた。タオルから顔だけ出して、口を開きながら待っていた。保子がその後ろから軽く身体を支えてやった。周平は机の上に据えた吸入器を、隆吉の方へ向けた。食塩水の噴霧きりがさっと注ぎかかると、隆吉は咳き入った。それを一生懸命に押えつけたらしく、蒼い頬にかすかな赤味がさした。その上へ水滴が一面にたまっていった。睫毛の先の水滴は、瞬きをする毎にたらたらと頬へ流れた。唾液の交った水が、唇からすうっと糸を引いたように垂れてくるのを、保子がコップで受けてやった。隆吉はその中にあってじっとしていた。顔も渋めずにひたすら噴霧きりを吸い込むことにつとめていた。あんぐりうち開いてる※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が、呼吸の度にかすかに動いて、虚弱そうな薄い高い鼻が、蝋細工のように静まり返っていた。
 その姿を、周平は小憎らしく思った。次には不気味に感じた。余りに生に執着しすぎてる、というように感じた。それに対抗するような気で、やたらに噴霧を注ぎかけてやりたくなった、後はアルコール・ランプのしんをかき立てた。コップの食塩水が少しでも減ると、すぐに缶からなみなみと注いだ。その盛り上った水面に、明るい障子が小さく映っていて、潮が引くように徐々と中低くなっていった。
 噴霧筒の水滴を受くる下のコップが一杯になっても、周平はまだ吸入を止そうとしなかった。保子が側から云った。
「下のコップが一杯になったからもう沢山でしょう。」
 周平は黙ってアルコール・ランプを吹き消した。
 隆吉は顔を濡れ手拭で拭いて貰って、また床の上に横わった。呼吸が非常に滑かになったらしく、胸の奥で静かに息をしていた。
「よかったわね。」と保子は云っていた。「こんなに沢山したんだから、もうじきに起き上れるようになりますよ。」
 室の中は湯気が籠ってむし暑かった。周平は障子を開いて縁側に出た。
 外は一面に日が照りつけていた。蝉が鳴いていた。時々何処からともなく吹いてくる風に、木の葉が重々しく揺れて、それがぎらぎら輝くように見えた。庭の隅にある睡蓮の鉢に、緋目高ひめだかが二匹静かに浮いていた。鰭だけを気忙しなく動かしながら、いつまでも同じ処に浮いていた。
 井上さん、というような声がした。暫くするとまたはっきりその声がした。周平は目高から眼を離して、後ろを振り返った。保子が室の中から彼を呼んでいた。
「退屈しのぎに、隆吉へ何かはなしでもして下さいよ。」
「さあ……。」と周平は口籠った。
「どうせぼんやりしてるんだから、丁度いいじゃないの。」
「だって私は噺なんか一つも知らないんです。」
「神話みたいなものでも何でもいいわよ。」
 周平は何とも答えなかった。話してやるものかと心で思っていた。そしてじっとしていた。然しもう保子は催促しなかった。隆吉の枕頭に半身で寝そべって、雑誌の小説を読み始めていた。周平は暫く待った後、妙に心が苛立ってくるのを感じて、ぷいと二階へ上ってしまった。

     十九

 一人になって考えると、なぜ隆吉に対してああ憎しみの情が湧いてくるのか、周平は自ら惑った。隆吉の存在を邪魔にする理由はいくら考えても正当には見出せなかった。彼は隆吉に対する気持を置き換えようとつとめた。
 然しそれが出来なかった。病気がだいぶよくなった隆吉は、背を円くして日向の縁側に蹲まりながら、あらわな鋭い眼付をして周平の方を見上げた。周平が和らいだ顔付をしてると、外に出たいとか植物園や動物園に行きたいとか云って謎をかけた。周平が眉をしかめてると、いつまでも黙っていた。或る晩、外には雨がしとしとと降っていた時、隆吉は突然こんなことを云い出した。
「井上さんはいつまでも家に居てくれるの?」
 周平は黙っていた。
「そうすると僕は嬉しいんだけれど……。」
「なぜ?」と周平は問い返した。
「叔父さんがそう云ってたよ、井上さんはいろんなことを知ってるから、話をして貰うがいいって。」
「僕より叔父さんの方がいろんなことを知ってるよ。」
「叔父さんは駄目だ。ちっとも相手になってくれないんだから。」
「じゃあ叔母さんがいるじゃないの。」
 隆吉はなんとも答えないで、周平の顔を見上げた。周平は胸の奥で不安な気がした。
「僕は隆ちゃんがすっかりよくなったら、下宿へ帰るつもりです。」と彼は冷かに云った。
「いやだ。」と隆吉は駄々をこねるように叫んだ。「僕叔母さんに頼んだの、井上さんがいつまでも家に居てくれるようにって。すると叔母さんは、あなたから井上さんに頼んでごらんなさいって云うんだもの。……僕一人ぽっちだからつまんないや。」
 そういう彼の変に大人じみた凸額を、周平はじっと眺めた。そして其処に保子が来ると、隆吉は今迄の話を忘れてしまったかのように、けろりとした顔付で黙り込んだ。周平は騙されたような気がした。反感が起ってきた。その為に保子へも妙に口が利けなかった。彼は苛立ってくる心持を懐いて、二階の室に逃げて行くの外はなかった。
 然し二階に行っても、保子と隆吉とを置きざりにしてきたことが気にかかって、永く落着けなかった。耳を澄すと、家の中はひっそりとして、軽い雨の音があたりを支配していた。彼は室の中を歩き廻った。狭苦しかった。隣りの書斎へもはいっていった。そしていつのまにか彼は、本箱の抽斗を見い見い歩いていた。そこに吉川の日記がはいってるのだった。悲痛な文字がありありと頭に映じてきた。やり場のない憤激の念に駆られそうな心地がした。
 彼は自分の心が恐ろしくなって、外に散歩に出てみた。冷たい雨を含んだ夜が真暗だった。道が泥濘ぬかっていた。寂しい空しい心地でまた帰ってくると、自分一人になるのが堪らなく佗しかった。
 彼は保子と隆吉との所へ行って、皆が寝るまで黙って其処に坐っていた。海のことなんかを隆吉と話している保子が、時々彼の方へ言葉を向けて、彼の様子を窺うように眺めても、彼はその視線の前に自分自身を投げ出して、うわべを取繕おうとしなかった。拠り所のない絶望的な真摯な心地になっていた。

     二十

 周平は、二階の室と階下したの室との間を、しきりに往来ゆききするようになった。二階に一人で寝転んでいるかと思うと、ふいに階下へ下りてきて、火のない長火鉢の前にぼんやり坐ったり、針仕事をしてる保子の前につっ立ったりした。保子や隆吉を相手に珍らしくいろんなことを饒舌ることもあった。かと思うと、俄に黙り込んだり、または二階へ上っていった。暫くするとまた階下へやって来た。滅多に外へは出なかった。――そういう自分自身を、彼は自ら意識した。そしては更に、投げやりの頼りない気持に陥っていった。どうしようという気は殆どなかった。どん底に落着いたような自棄的な心だけが、いやに真剣になっていた。
「少し外に出てごらんなさいな、朝晩はいい気持よ。」と保子はよく云った。
「ええ。」と周平は答えたがやはり出かけようともしなかった。
 保子は彼の眼の中を覗き込んだ。
「あなたはこの頃よっぽど変よ。私達の留守中に何かあったのね。こないだ泣いてたのもそのことでしょう。包まず云ってごらんなさいな。一人で考え込んでるよりも、云ってしまった方がさっぱりしていいものよ。」
「それほどのことじゃないんです。」と周平は答えた。
「じゃあなお云ったって差支ないでしょう。」
「でも今は云いたくありません。」
「そう。」そして保子は一寸間を置いて眉を挙げた。「だけど今にきっと云いたくなるわよ。もうそろそろなりかかってるんじゃないの。」
 周平は彼女の顔を眺めた。曇りのない輝いた二つの眼が、じっとこちらを覗いていた。ただ澄みきってるだけで、その底には何にも読み取れなかった。彼は自分の心が慴えてくるのを感じた。それが我ながら腑甲斐なかった。
「もう暫く、一人で考えていたいんです。」と彼は云った。「隆ちゃんの病気も殆んどなおったようですから、下宿に帰ろうかと思っています。」
 保子は眼を見張った。
「どうして急にそんなことを云い出すの。横田が帰ってくる迄居るつもりじゃなかったんですか。」
 それは保子一人できめてることだった。周平は曾てそんな約束をした覚えはなかった。然し彼は云いさからわなかった。また本当に下宿へ帰るつもりでもなかった。
「居てもいいんですけれど……。」と彼は口籠った。
「よければ居たらいいじゃないの。それに、あなたが帰ったら隆吉が淋しがるわよ。」そして彼女は言葉の調子をゆるめた。「不思議ねえ、あなたは別に愛想もないくせに妙に子供から好かれる所があるのね。こないだ隆吉がふいに、井上さんがいつまでも家にいてくれるといいなあ、と云い出したのよ。井上さんにじかに頼んでごらんなさい、と云っといたんですが、何かあなたに云いはしなくって?」
「本当ですか。」
 保子は微笑んだ。
「おかしな人ね。誰がそんなつまらない嘘を云うものですか。」
 周平は眼を見据えた。あの時のことを思い出した。隆吉に対して変に気を廻したのが、今になってみると、馬鹿げてるようなまた恥しいような気がした。その気持がまだおさまらないうちに、保子は正面から尋ねかけてきた。
「でも、あなたは隆吉をどう思って?」
 周平は顔を挙げた。が咄嗟に答えが出なかった。
 保子は直にたたみかけてきた。
「あなたは隆吉を余り好きじゃないわね。」
 周平はぎくりとした。それを更に押被おっかぶせられた。
「あんなに慕ってるのに、どうして嫌いなんでしょう、変ね。」
 その直截な言葉は、殆んど抗弁の余地を与えないのを周平は感じた。それでいて、妙に彼の気持へぴたりとこなかった。彼は隆吉を嫌いではなかった。かと云って好きでもなかった。思い惑っていると、保子はまた云った。
せんにはそうでもなかったが、この頃隆吉に対するあなたの様子は変よ。一体どうしたというの?」
 じっと彼を見てるその眼には、非難の色は少しもなかった。却って、庇うような温情が現われていた。周平は眼をつぶった。それをまた開いた。
「私は隆ちゃんを嫌いじゃありません。」と彼は云った。「ただ妙に愛せられないんです。離れていると何だか可哀そうに思われてきて、胸に抱きしめてやりたいような気持になりますけれど、側に行くと、急に小憎らしい……というより、気味悪いように思われるんです。頭がよくて悧口だけれど、余り無邪気な所のないのがいけないんです。向い合っていると、こちらの心の底まで見透されるような気がする時があります。そのために、私の方にもいろんな僻みが起るんです。余り考えすぎるからいけないんだとは知っていますけれど、隆ちゃんが始終暗い影を背負ってるように思われて仕方ありません。その影が……。」云ってるうちに周平は、持て余してる自分の心を保子の前にぶちまけてしまいたい気になっていった。「その影が私を脅かすんです。なぜそんなにこだわるのか、自分でも分りません。私は悪いことをしてしまいました。」
「悪いことって、何なの。」
「悪いことです。あなたや横田さんの信用を裏切ってしまったのです。」
「どうして?」
 何等の疑念もなさそうに澄み返ってる彼女の眼を見ると、周平はさすがに云い出しかねた。じっと眼を伏せて唇を噛んだ。
「どうしたの、中途で黙り込んでしまって。云ってごらんなさいよ。私にも大抵分ってるような気がするけれど……。」
「済みません」と周平は云った。「吉川さんの日記を見たのです。」
「ええ? 吉川さん……。」
「吉川さんの最後の日記を見たのです。先生の本箱の抽斗にあったのを……。」
 保子がさっと顔色を変えて少し身を押し進めてきたのを、周平は顔を伏せながら感じた。然し彼の心はもう動揺しなかった。云ってしまうと、絶望の底に自分自身を投げ出したような、一種の無感覚な惘然とした気持になった。そのままでいやに真剣に落着き払っていた。
 保子も黙っていた。しいんと音がするような夜だった。隆吉は向うの室で眠っていた。電灯の光りがだだ白くて明るかった。周平は静かに顔を挙げた。石のように凝り固まった保子の顔がすぐ眼の前にあった。
「井上さん、」と保子はやがて云った、「あなた吉川さんのことを誰かに聞いたんでしょう。」
「ええ聞きました、嘘だか本当だか分らないような話を。然し誰からだかは尋ねないで下さい。」
「そしてあの日記を探す気になったのね。」
「いいえ。偶然に見つけたのです。」
「嘘。偶然に本箱の抽斗をかき廻す人があるものですか。」
「他のものを探すつもりだったのです。」
「何を?」
 周平は首垂れた。ひとりでに涙が湧いてきて、眼瞼からこぼれそうになった。然し感動してるのではなかった。その涙を側からじっと見戍ってるような[#「見戍ってるような」は底本では「見戌ってるような」]心地だった。彼は疊の上を見つめながら、自分自身に向って云うかのように語りだした。
「私はあなたの日記を探すつもりだったのです。」そして彼は、涙が頬に流れ落ちるのをぼんやり感じた。奥さんと云わないであなたと云ってることも、保子がびくりと眉根を震わしたことも、共に知らなかった。「せんにあなたから日記の一部を読んできかせられた時から……いえ、ここに留守に来てから、あの日記を全部見たくなりたのです。どうしてだか自分にも分りません。ただ見たかったのです。そして、あなたの室を探したけれど見つからないので、絶望的な気持になって、半ば自暴自棄にもなって、先生の書斎をしらべたのです。すると、吉川さんの日記が出て来ました。……私は自分自身が堪らなく惨めな気がします。何とでも仰しゃって下さい。どうしていいか自分でも分らないのです。」
 口を噤むと、風が吹過ぎたような静かな心地になった。彼は保子の厳しい声を安かな心で受けた。
「あなたはよくも平気でそんなことが出来たものね、まるで泥棒みたいなことが! それで正気ですか。」
 周平は黙っていた。保子はまた云った。
「あなたは自分のしたことがどんなことだか分っていますか。」
 保子が本当に怒ってるのを周平は感じた。眼を挙げてみると、彼女は少し引歪めた唇をきっと結んで、赤味のさした頬の肉を震わせながら、白目がちに眼を見据えていた。それでも彼は落着いた調子で答えた。
「自分ではよく分っているつもりでいます。」
「分っていながら、白ばっくれて図々しくしてようというのでしょう。」
 周平は抗弁したいのをじっと抑えて、また顔を伏せた。彼女こそ何にも分っていないのだ、と思った。然し、この上自分の心を説明したくもなかった。しようとて出来もしなかった。ただ黙って彼女の叱責を受けたかった。それがせめてもの心やりだった。今更意中をうち明けたとて何になろう。彼女は自分が畏敬してる横田氏の夫人なのだ! それを思うと彼は、背中が冷たくなるのと眼の底が熱くなるのとを、同時に感じた。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と保子は云った。「あなたのためには随分尽してあげたつもりよ。此度留守を頼むのだって、あなたならば大丈夫だと横田にも私から保証したのよ。それなのに、あなたはまるで私達を踏みつけにした仕業をしておいて、自分のしたことは自分で分ってるつもりだなんて、よくも図々しく云えたものね。……あなたが涙ぐんでる所をみると、少しは良心もあるのでしょう。よく考えてごらんなさい。私はもうあなたみたいな人のことは知らないから、自分でこの始末をおつけなさるがいいわ。」
 周平は黙っていた。
 保子はまた云い続けた。
「あなたは自分で恐ろしいとは思わないんですか。他人の日記なんかは、たとい眼の前に出ていてもなかなか見られるものではないわよ。それを、留守中にこそこそ探すなんて、泥棒よりも悪いことよ。泥棒は何か或る品物を盗むきりだけれど、あなたは、他人の心の秘密を盗み取ろうとしてるのよ。私そんな陰険な心の人は大嫌い。……いつぞや、あなたは隆吉をそそのかして、吉川さんの写真を見ようとしたわね。あの時は何とも思わなかったけれど、今考えると、今度のことと全く同じ気持だったのでしょう。私思ってもぞっとする。あなたを側に置いとくことは、まるで探偵にでもつけられてるようなものだわ。」
 周平は、頭の上から落ちかかってくる叱責の言葉を、一語々々味っていった。その苛辣な味に心を刺されることが、今は却って快かった。どうせ踏み蹂ってしまわなければならない恋だった。それを彼女の怒りによって踏み蹂られることは、寧ろ本望だった。彼はじっと眼をつぶって、絶望の底に甘い落着きを得てる自分の心を見戍っていた[#「見戍っていた」は底本では「見戌っていた」]。――所へ、意外な言葉が落ちかかってきた。
「あなたは隆吉へどんな影響を与えてるか、気が付いていますか。」
 周平はぼんやり顔を挙げた。保子は続けて云った。
「隆吉が可哀そうな身の上であることは、あなたにも始めから分っていた筈よ。私達はあの子に、その一人ぽっちの淋しさを忘れさせようと、どんなに骨折ったか知れないわ。そしてあの子が素直に快活になったのを見て、心から喜んでいたのよ。すると、この夏休みの前頃から妙に陰鬱になって、暗い顔をして考え込んでるのが時々眼につくばかりでなく、何だか始終私達に気兼ねでもしてる様子だし、またふいに、お父さんの話をしてくれとか、お母さんはまだ生きてるのとか、これまで口にもしなかったことを聞くものだから、どんなにか気をもんだでしょう。そしてついこないだ、またお父さんのことを聞くから、そんなことを聞いてどうするんですと尋ねると、井上さんに話してあげるのだと答えたわよ。病気で熱が出てた時のことよ。井上さんとお父さんとが僕を置きざりにして逃げていった、というような夢をみたと云って、しくしく泣いてたこともあってよ。……あなたそれをどう思って? あの子のそういう心持も、あなたに責任がないとは云わせないわ、あなたは私達皆の心持に、どんな毒を流し込んでるか、よく考えてごらんなさい。」
 周平は初めて口を開いた。調子は落着いていた。
「よく分りました。私が悪かったのです。」
「悪かったというだけで済むと思って?」
 保子は憤りと興奮とで顔を真赤にしていた。周平は更に苛酷な叱責の言葉を待った。然し彼女は唇を痙攣的に震わせるきりで、もう何とも云わなかった。周平は静かに云った。
「私は自分で凡ての責任を負うつもりです。今は何にも申しませんけれど、いつかは、私のことをすっかり理解して頂ける時もあるような気がしますから、それを頼りに、自分一人の途を歩いてゆきましょう。」
 保子は眉根一つ動かさなかった。憎悪の念に凝り固ってるかと思われた。周平はぴょこりとお辞儀をした。そして、立ち上りかけながら云った。
「私は自分を……。」
 云いかけて彼は口を噤んだ。じっと眼を見据えてる保子の姿が恐ろしくなった。彼はまたお辞儀をした。一寸待った。そして逃げるように二階の室へ上っていった。

     二十一

 周平は、一月近く起臥おきふしした室に、これを最後の気持で身を投げ出した。明日は永久にこの家から去るつもりだった。そうすることが誰のためにも一番よい方法だと思った。
 今迄のことを考えると、真暗な森の中にでも迷い込んだ後のような気がした。何かを見定めようとしても、まとまったすがたは一つも浮ばなかった。頭がぼんやりして考える力がなかった。
 彼は両手を頭の下にあてがって、仰向けに寝転んで天井を眺めていたが、ふと思い出して、身廻りの物を片付け始めた。身廻りの物といっても、二三枚の着物と四五冊の書物だけだった。彼はそれを丁寧に風呂敷に包んだ。そしてぼんやりと坐ってると、風呂敷包みを手にしてこの家から出ていく自分の姿が、まざまざと見えてきた。その姿が首垂れながらとぼとぼと歩いてゆく、宿りを失った旅人のように。朝早くのことだ。まぐれ犬が裾のあたりを嗅ぎ嗅ぎつけてくる。それでも黙って眼を伏せている。そのみすぼらしい姿が、爽かな朝の明るみの中に、くっきりと浮出される……。
 周平は堪らなく淋しい気になった。万事を放擲するつもりではいたが、やはり、何かを、やさしい眼付を、心の底に懐いて去りたかった。それが得られないならば、それを求めてることだけでも、せめて知って貰いたかった。彼女の無理解な怒りだけを荷って去ることは、余りに堪え難かった。彼女に――横田夫人にではなく直接彼女に、自分の思いを一言伝えたかった。それで更に彼女の怒りを買うなら、それは正当な怒りとして喜んで受けよう。
 彼は机に向って、紙とペンとを前にして考え込んだ。到底口では云えないその文句を、彼女の前に投げ出して、それを読んだ時の彼女の眼付を――たといどんな眼付であろうとも――心に秘めて、黙って立去るつもりだった。
 然し、それは口で云えないと同様に、文字にもなかなか現わせなかった。長い説明をはぶいて数語で尽したかっただけに、猶更困難だった。二三の言葉を頭に浮べたが、どれも皆胸にはっきりうつらないものばかりだった。考えあぐんでるうちに、彼は漠然とした疑念を覚えた。彼女に対する自分の気持を、彼は今迄恋だとばかり思い込んでいたが、いざそれをはっきりした文字にしようとすると、恋というのではよくあてはまらなかった。恋、愛、思慕……どれもこれもいけなかった。それらの一部分ずつ含んだ形体えたいの知れない感情だった。姉として、異性として、女友達として、慰安者として、保護者として……なつかしみ慕う、というばかりでもなかった。彼は自分の感情にそぐわない多くの言葉を、次から次へと脳裡に迎え送りながら、云い知れぬ迷いのうちに陥っていった。
 どれ位たったか分らなかったが、その時間の終りに、彼は飛び上らんばかりに喫驚した。人の気配けはいがしたので初めて我に返ってふり向くと、其処に、階段の上り口から一歩足を踏み入れて、保子がつっ立っていたのである。彼は恐怖に近い驚きを感じた。保子の顔は蝋のように蒼白く輝いていた。
 あたりは不気味なほどひっそりしていた。
 保子はちらりと室の中を見廻して、二三歩はいり込んで来、周平から少し間を置いて坐った。
「今迄何をしていたの?」と彼女は云った。語尾が整然としていた。
 周平は切めの驚きからまださめずに、息を凝らしていた。急に言葉も出せなかった。
「え、何をしていたの? それとも云えないの?」
 何等のごまかしも許さない彼女の強い気合を、周平はひしと感じた。彼はありのまま答えた。
「お別れする前にあなたへ一言申上げたいことがあったのです。それを書こうとしていました。」
「それは書けて?」
「書けません。」
「そう。」
 しいんとなった。やがて彼女は云った。
「あなたは明日あした下宿へ帰るつもりでしょう。」
「ええ。」
「そして?」
 周平は眼付でその意味を尋ねた。
「そしてこの家へは?」
「もう参らないつもりです。」
「そう。」と彼女はまた云った。
 底の知れないような沈黙が落ちてきた。周平は彼女の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。蒼白い引緊った頬と円みを持った眼瞼の上の美しい眉とが、人の心を惹くやさしみを湛えてると共に口角のぽつりとした凹みと曇りのない眼の光りとが、近づき難い威を示していた。その両方からくる感じの何れに就いていいかを、彼は迷った。迷ってるうちに、深い沈黙が恐ろしくなった。心の底まで彼女の手中に握られてゆくのを感じた。身動きが出来なかった。彼は眼を伏せて、彼女の艶やかな小さな手の爪を見つめた。
「あなたは先刻私からあんなに怒られたのを、口惜しいと思って?」
「いいえ、当然だと思っています。」と彼は答えた。
「嘘仰しゃい!」と彼女は一言でそれをうち消した。「弁解したいことがあるでしょう。」
「ありません。」と彼は答えた。
「あるけれど出来ないのでしょう。」
 彼ははっとして顔を挙げた。それを瞬間に彼女は口早に押被おっかぶせた。
「先刻のことはみんな取消してあげるから、その代り、私の云う通り約束なさいよ。」
 彼はもう云われるままになる外はないのを知った。無言のうちに首肯うなずいた。
「私の日記を探したことや、吉川さんの日記を見たことを、誰にも決して云わないと誓えて?」それから一寸間が置かれた。
「そして、これからも今迄通りにしてゆくと誓えて?」
 彼は何にも考えなかった。石のように固くなりながら答えた。
「誓います。」
「確かね。」
「ええ。」
「もう過ぎ去ったことは何にも云わないことにするのよ。明日下宿に帰してあげるから、今の誓いを守れるように一人でよくお考えなさい。……分って?」
 彼は胸の奥底まで突き動かされた。頭を次第に低く垂れていると、俄に涙が出てきた。頬から膝へはらはらと流れた。見開いた眼が涙で一杯になって、何にも見えなくなった。彼は危く我を忘れようとした。
 その時、彼女はつと立ち上った。一寸佇んで、それから静に室を出て行った。彼は涙のうちに一人残されたのを知った。
 彼は永い間そのままじっとしていた。頬の涙が乾くと、夢からさめたように室の中を見廻した。机の上の紙とペンとが眼に留った。彼はそれを安らかな心で眺めた。彼女に対する気持が、たとえ恋であるにせよないにせよ、それはもうどうでもいいことのように思えた。
 彼はほっと息をついた。彼女から凡てを知られてることが、しみじみと胸にこたえてきた。そして何のわだかまりもなく彼女のことを想い耽っていると、最後の約束が頭に浮んできた。そこで彼ははたと行きづまった。彼女は何でああいう約束を強いたのか? 彼を救うためなのか、彼女自身の身を護るためなのか、或は愛情の保証を間接に与えるためなのか?……その何れとも判じ難かった。彼は新らしく謎を投げかけられたような気がした。
 思い惑っているうちに、彼女と対坐したことまでが夢のようにも感ぜられた。交わした言葉は短かったけれど、間々に沈黙がはさまっていたので、可なり永い時間に違いなかった。それが今考えると、僅か一二瞬間のことだったとしか思えなかった。その上凡てが余り静かに落着きすぎていた。宛も水中で起ったことのようだった。……然し、夢である筈はなかった。
 耳を澄すと、しいんと夜が更けていた。彼は立ち上って蒲団を敷いた。小用こようを足しに下りていった。階段に一歩足をかけると、そこの板がきしった。彼はぎくりとした。その後で、何のために驚いたのか自分でも分らなくなった。それでも彼はやはり、息を凝らし足音をぬすんで、そっと歩いていった。その姿が我ながら惨めで堪らなかった。何を憚ることがあるのかと自ら云ってみたけれど、向うの室に保子と隆吉とが寝てるということが、しきりに気に懸った。
 匐うようにして自分の室にまた上ってきた時、彼は妙に惘然としてしまっていた。急いで寝間着に着代えようとした。所がその寝間着が見つからなかった[#「見つからなかった」は底本では「自つからなかった」]。押入の中から布団の間々まで、あちらこちら探してみた。するうちに、机の横の風呂敷包みにはいってることを気づいた。彼はじっとその包みを見ていたが、堪らなくなって着物のまま布団にもぐり込んだ。
 保子さん! 彼はそう心の中で彼女の名を呼んでみた。夢の中の女にでも呼びかけるような心地だった。現実と夢との境がぼやけてしまった。眼覚めてるのか眠ってるのか分らない気持だった。何かをしきりに考えてるのが、いつのまにか悪夢のような形を取り、そしてうとうとしてるかと思うと、またはっと眼覚めた、そういうことを何度もくり返した。

     二十二

 周平がはっきりした意識に返った時、室の中は薄暗かった。電燈が消えて雨戸の隙間から明るい光りが洩れていた。彼は驚いて飛び起きた。雨戸を一枚開くと、朝日の光りがさっと浴せかかった。彼はくらくらとした眼を閉じて、それをまた開いた。東の空に太陽が昇っていた。その強い光りに縫われて、薄い靄が低く流れていた。
 彼はその景色に暫く見とれていた。それから深く呼吸をした。日の光りの下で考えると、前夜のことが頭の奥へ潜み込んでしまった。そしてただ、万事終ったという捨鉢な気持だけが残った。
 彼は室を片付けて、階下に下りていった。
 保子はもう起きていた。彼の顔をじっとみながら云った。
「相変らずの寝坊だわね。」
 周平は弁解しようとした、昨晩よく眠らなかったからだと。然しその言葉が喉につかえて出なかった。ちらりと彼女の方を見ると、彼女はいつもの通りの落着いた平静な顔をしていた。心もち見開いてる眼が、明るい外光を受けた睫毛の影を宿して、夢みるような美しさを持っていた。周平は眼を外らした。
 隆吉をも交えて三人で食事をする時、食後一寸茶の間に坐っている時、周平は顔を伏せて黙っていた。変な気持だった。間もなくこの家を出て行くのだと分っていながら、それが遠い未来のことのような気がした。保子は何とも云わなかった。
 周平は立ち上って二階の室を見廻してきた。庭の中を歩いてきた。新聞を隅から隅まで読んだ。――そういう自分の姿が、何だか図々しく自分の眼に映じた。
「もう帰ります。」と彼は云った。
「そう。」と保子は静かに云った。「でもまだ早いわよ。ゆっくりしていらっしゃい。」
 彼女が何と思ってるのか、周平には更に見当がつかなかった。前夜の約束がまた頭に浮んできた。じっとして居れなくなった。
「もう帰っても宣しいでしょう。」と彼はまた云った。
「ええ、今すぐよ。一寸待っていらっしゃい。」
 それでも彼女は落着き払っていた。やがて、女中が食事を済し後片付けをした頃、彼女は立っていった。すぐに戻ってきて、周平の顔をまじまじと見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。見戍りながら[#「見戍りながら」は底本では「見戌りながら」]黙っていた。
 そこへ、隆吉がかけ出してきた。
「僕遊びに行ってもいいの。」
「後になさい。」と保子は答えた。「井上さんがお帰りなさるんだから。」
「井上さんの所へ行くんだよ。」
「そう。でも今日はお止しなさい。またこの次にしたらいいでしょう。」
「この次にはついて行ってもいいの。」
「ええ。」
 隆吉は暫くじっとしていたが、つまらなそうな顔をして其処に寝転んだ。
 周平は息苦しい気がした。立ち上って二階の室に上った。着物の包みを枕にして横になった。うち開いた東の窓から、眩しいほどの日の光りが室の中に流れ込んでいた。彼は立ってその窓を閉めた。暫くすると、またその窓を開いた。何れにしても落着かなかった。気持がじりじりしてきた。
 女中が彼を呼びに来た。表にくるまが一台待っていた。彼は喫驚した。
「歩いて行きます。」と彼は保子の前に云った。
「いいから乗っていらっしゃい。」と保子は云った。
 彼は云い張った。僅かな風呂敷包み一つだし、そう遠くもないし、それにまた、俥になんか乗って行きたくないと。然し保子は承知しなかった。
「あなたは、」と保子は云った、「私に恥をかかせるつもりですか。」
 周平はその言葉を胸の真中に受けた。顔を伏せると、俄に涙が出てきた。
「乗って行きます。」と後は云った。
「そして、昨晩の約束を忘れないようになさい。」
 周平は顔を挙げた。瞬間に、保子はつと身を飜して、玄関に出て行った。
 周平は首垂れながら彼女の後についていった。無言のままお辞儀をして俥に乗った。保子と隆吉と女中とが其処に立っているのをちらと見やっただけで、また頭を下げた。

     二十三

 突然のことだったので、下宿では室の掃除も出来ていなかった。周平はつかつかと、閉め切った薄暗い自分の四疊半にはいった。黴臭い厭な匂いがした。箒と払塵はたき雑巾ぞうきんとを持った女中が、慌てて駈けてきた。周平は長く廊下に待たせられた。掃除がすんで室にはいったが、先刻の黴臭い匂いが鼻についていた。彼は窓をすっかり開け放してぼんやり外を眺めた。雲の影一つない青い空が、遠くへ彼の視線を吸い込んでいった。彼は眼の底が痛くなるのを感じた。
 彼は俄に思いついて室の中を片付けた。片付けるといっても、机と小さな本立と柳行李とだけだった。それが済むともう何もすることがなかった。みすぼらしい身の廻りが淋しかった。手拭を下げて銭湯に行ってきた。それから、室の中に寝転んで一日を過した。二時頃から窓に一杯西日がさした。その光が夕方俄に陰って、空が曇ってきた。そして暗い夜となった。空の中が蒸暑くて息苦しかった。
 周平は身を動かすのが堪らないような気がした。身を動かす度に心の中の空しい寂寞さがゆらゆらとゆらいで、自分の身体を包み込んでしまいそうだった。じっとしていたかった。何物にもそっと手を触れないでいたかった。
 むりに頭の働きを押えつけ、凡てを失ったという気持だけを懐いて、彼は早くから床にはいった。そしてぐっすり眠った。
 その眠りが、翌日になってもまた彼を囚えた。朝食後じっと机にもたれていると、いつのまにかうとうととしていた。ほっと眼を覚して、此度は寝転んでみたが、やはりいつしかうとうととしていた。眼を覚してるだけの気力が無くなったかのようだった。しまいに彼は、そのだだ白い眠りの中に身を投げ出した。
 そういう睡魔の下から、保子のことが影絵のように浮き上ってきた。うつらうつらとした夢心地の薄暗い背景から、彼女の澄み切った眼がじっとこちらを覗いていた。周平は云い知れぬ心のおののきを感じた。彼女の前にひれ伏したい気持ともはやそれも許されないという意識とが、彼のうちで入り乱れた。彼は彼女との約束を思い出した。彼女の最後の言葉がはっきり耳に響いてきた。
 彼は自ら云った。「もう万事終ったのだ。彼女の寛容に、このうえ甘えることはそれを涜すことなのだ。自分は自分一人の途を進もう。彼女との約束を心に秘めて、それを力として、自分一人の途を進もう。」
 それは何とも云えない悲壮な感激だった。周平は初めて眠りから覚めたような心地で、自分のまわりを見廻した。貧しい淋しい室一つが自分のものだった。
 彼は立ち上って腕を打ち振った。泣きたいような気持が寄せてくるのを強いて郤けた。そして野村を訪れてみた。これからの生活を確めておくつもりだった。
 野村は丁度その晩家に居た。
「やあ珍らしいですね。どうしたんです、暫く来なかったが。何か面白いことでもあったですか。」
 そういう風に彼は周平を迎えてじっと顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]
 周平は妙にぎごちない気持で座に就いた。野村からいろんな話をもちかけられるのに、ともすると的外れの返事をしそうな気がして、口を噤みがちだった。
「あ、そうそう、」と野村は初めて思い出したように云った、「君は横田さんの家へ留守に行っていたが、まだ続いて居るんですか。」
「いえ、二三日前下宿に帰ってきました。」
「どうして? 来月の初めまでとかいうことではなかったですか。」
「所が、奥さんと隆ちゃんとが急に戻って来られたものですから、僕も引上げたんです。」
「引上げるはよかったな。……そして、やはりこれからも教えに行くんでしょう。」
「そうですね……。」と云いかけて周平は言葉を途切らした。何と云っていいものか一寸分らなかった。暫くして続けた。「隆ちゃんは非常に頭がよくて、別に教える必要がないものですから、僕は断ろうかと思っています。勿論あの仕事は横田さんの好意からですけれど、無駄なことをして報酬ばかりを貰ってるのは、余り向うの好意に甘えるような気がして、実は心苦しいんです。」
「そしてどの位貰っています?」
「月に二十円です。」
「それ位のことなら、黙って貰っといていいじゃないですか。」
「ですけれど……。」
 周平は説明に困った。今後の生活を確かめにやって来たのだけれど、横田の方を止すかも知れないという口実は考えていなかったのである。然し、それからでなければ問題にはいっていけそうになかった。彼は自分の迂濶さに気づいた。さりとて、保子のことをうち明けられもしなかった。眼を伏せて考え込んでると、野村の方から尋ねかけてきた。
「何か気まずいことでもあるのですか。」
「別にそういう訳でもないんですが。」と周平は答えた。
「実はね、君に相談しようと思ってたことがあるんです。」
 周平は黙って野村の顔を見上げた。
「今月のはじめ、横田さんの家へ君を訪ねていったことがあるでしょう。あの時実は君に話があったんです。然し君が、変に何か考え込んで、気乗りのしない風をしていたものだから、それに急な話でもなかったから、僕は黙って帰って来たんですが……。何か心配なことでも起ったのですか。」
「どんな話です?」と周平は向うの問いに構わず尋ねた。
 野村はなかなかそれを云い出さなかった。月々どれ位でやってゆけるかとか、きりつめたらどうだとか、そんなことに話を向けていった。その眼には、何だか気の毒そうな色が浮んでいた。周平は漠然と或る不安を感じだした。
「生活はどうにでもなるんでしょう。僕はあるだけのものでやっていく覚悟をしています。」と周平は云った。「ですが、今の、話というのは一体どんなことですか。」
「どうって、まだはっきりしたことではないが……漢口はんこうの水谷さんから手紙が来たんです。」
 そして彼は、机の抽斗から一通の信書を取出した。
 周平は差出された手紙をひらいて読んだ。――初めには時候の挨拶から、毎度井上が世話になる礼が述べられていた。「扨て甚だ唐突の儀に候えど」として本文にはいっていた。支那人の排日熱のため商況が俄に不振となり、加うるに暴動があったため、水谷の店も多大の打撃を蒙って、今後の送金は意に任せないかも知れない、としてあった。やがて恢復の途もあろうけれど、目下の所は全く見当がつかないので、こちらからの送金は出来得る限り心掛けておくつもりではあるが、不時のものとして予算に入れずに、他から学費を得る方法を講ずるよう、井上へもよく申し聞かせ、なお御尽力を願いたい、と認めてあった。「場合によっては貴下の事情も本人へ御話相成、心して進むよう何分の御指導を煩わし度、」というようなことがあって、実は井上へ直接申してやるべきだが、「御承知の如き小心者故」悲観するといけないから、折を見てとくと話して頂きたい、と結んであった。
 周平は――我ながらそれを変な気がしたが――大した打撃をも感じなかった。いつかはぶつかるべきものにぶつかったという気持だった。彼は注意して二度くり返し手紙を読んだ。そして野村の顔をじっと眺めた。野村も黙って彼の顔を見返した。
「この後に便りがありましたか。」と彼は尋ねた。
「他のことで一度手紙が来たですが、よほど困っていられるらしいです。それでも、一週間ばかり前に、君へやってくれと云って三十円送って来ました。」
 それから野村は暫く黙っていたが、突然こんな事を云い出した。
「手紙の中に、僕の事情も君へ話してきかして指導してくれ、というようなことがあったでしょう。それはね、借金をしてはいけないという意味ですよ。」
 野村の語る所に依れば、彼は大学卒業前に少し無駄使いをして高利の金を借り、それがまだ千円余り残っていて、月々六分の利子の支払いにさえ追われてる始末だそうだった。――どうして水谷がそれを知ってるかといえば、知人の令嬢を妻に世話しようと水谷から度々云ってきた時、野村は右の事情をうち明けて、負債が無くなるまで下宿住居をするつもりだと断ったそうである。
 周平は更にまじまじと野村の顔を見つめた。三疊の控室までついてる上等の座敷を占領し、相当な調度ちょうどの類から洋服箪笥まで備え、艶やかに光ってる額の上の髪を、毎朝二十分もかかって綺麗に分けてる野村に、そんな負債があろうとは夢にも思わなかったのである。そして、身の廻りをきちんと整えて、下宿の室に呑気そうに煙草をくゆらしてる野村の気持が、彼には分らなくなってきた。
「そんなものは、」と彼は云った、「早く返してしまったらいいじゃありませんか。」
「それがねえ、なかなかそうはいかないものですよ。急がば廻れっていうこともあるし、多少の体面もつくろってゆかなければならないですからね。……それは兎に角として、」と彼は俄に真面目な調子になった、「いくら困っても借金をするものではありません。今日あるだけのものでやってゆくという主義でなければ駄目です。」
 周平はまた黙って彼の顔を眺めた。
「所で、君のことですが、」と野村は云い進んだ、「しっかりした覚悟を要すると思うんです。水谷さんの方はあの通りだし、僕も右のような事情で余裕がないものですから、自分で学費を稼ぎ出すという方針を立てなければなりませんよ。それは苦しいことには違いないが、なに全部稼がなくとも、不足の分位ならまた、水谷さんからの不時の送金もあるでしょうし、場合によっては僕が立替えてあげてもいいです。ただ、しっかりした決心だけは必要です。」
「それは初めから覚悟していたことですから……。」と周平は云った。
「勿論あの時もそうだったでしょうが、此度は実際の問題になったのですからね。……そして、何か仕事の心当りでもありますか。」
 問われてみると、周平は何もなかった。殆んど見当さえつかなかった。その様子を野村は暫く窺っていたが、やがて云い出した。
「実は、水谷さんの手紙を見た時、僕はすぐに今後のことを考えてみたのです。横田さんの家へ君を訪ねていった時、その相談をするつもりだったのが、何か考え耽ってるような君の様子を見て、云い出しかねたんです。そして、知人に尋ねてみた所が、仕事が一つあるにはあるんですがね、極めて割の悪い仕事だが、どうです、やってみますか。」
 それは、或る書物の飜訳だった。野村と同じ銀行に出てる人で、労働問題を少し研究してる人があった。そして最近、「労働組合と労働者」と題する英語の書物を手に入れた。労働組合なるものの本質を論じたもので、各国の組合が引例してあった。ドイツやフランスやイタリーなどの言葉が出て来た。その人は英語きり知らないので可なり困っていた。そこへ野村から井上の話があった。それならば書物を訳して貰ってもいいということになった。然し、英語以外の言葉さえ訳して貰えば用は足りるのを、半ば義侠的に書物全体の訳を頼むのだから、報酬は極めて少なかった。三百頁足らずの書物で、一頁五十錢位の見当だとのことだった。その代り期日の制限はなかった。
「君は大学に毎日通ってるのだから、どの国語でも尋ねる便宜はあるでしょう。それに、経済上の専門語だって、その人に意味が通じさえすればいいのだから、いい加減に訳して大丈夫です。隙にあかしてやってみませんか。報酬の少いのが気の毒ですが。」
 周平は自分にやれるかどうか不安だったが、兎も角もという条件で承諾した。書物はすぐに野村から送って貰うことにした。
「そのうちにはもっといい仕事もあるだろうから、気をつけて置きましょう。」
「お願いします。」と周平は云った。
 やがて周平が帰りかけようとすると、野村は思い出したように尋ねかけてきた。
「君は先刻さっき、横田さんの方を断るかも知れないと云ったが、何かあったんですか。」
「いいえ、別に……。」そして彼は一寸言葉を途切らした。「ただ、頭のいい子だから無駄なことをしてるような気がするだけです。」
「そんなら君、断ることは少しもないですよ、元々向うの好意から出たのだから。」
「ええ。」と周平は曖昧な返辞をした。
 立ち上った時一寸呼び止められて、そこいらへお茶でも飲みに行こうかと誘われたのを、彼は断って、妙に慌しいような気持で辞し去った。
「この次一緒に飯でも食いながらゆっくり話しましょう。」と野村は彼を送って階段を下りながら云っていた。

     二十四

 周平は狭苦しい下宿の四疊半に身を投げ出し、両のこぶしを握りしめて深く息をした。
 確かめておくつもりの自分の生活は、この上もなく明かになった訳だった。他からの補助は一切期待出来なくて、自分の腕一つに頼るのみとなった。手に触れるものは凡てを引掴んでいこう、と彼は決心した。その決心の下から、世を呪い人を呪いたい気持が湧き上ってくるのを、彼はじっと押えつけた。最初苦学をも辞さないと決心した時のことが、頭の中に浮んできた。記憶の底にこびりついてるあの晩の夢が、また思い出された。逞しい乞食の姿が見えてきた。彼は自ら云った。「自分は逞しい乞食となりたくはない。逞しい闘者となりたい。」
 それでも、決心だけはあっても、これからどうしていったらいいか、殆んど見当がつかなかった。思いあぐんだ末には、ただ保子のことがしみじみと考えられた。
 野村からはやがて、「労働組合と労働者」を送ってきた。周平は一寸覗いてみて驚いた。文章がいやにひねくれてる上に、自分の知識の範囲外のことなので、理解するのが非常に困難だった。更にそれを日本文になおすとなると、やたらに出てくる経済上の言葉を、どう訳していいか分らなかった。その上彼は、英語と独逸語しか知らなかった。中に出てくる仏語や伊語を大学の誰彼に聞くのも大変だった。彼はその文章に少し馴れるために、三日もかかってざっと通読してみた。――労働組合は、初め資本家に対する労働者の自己防衛機関として出来たものだが、次に共済機関となり、一転して戦闘機関となった。そして、戦闘の勝利と共に解体す可きものである。なぜなら、勝利の後に労働者は、個人として小資本家になるか、或は団体として大資本家になるを以て、組合は畢竟資本家の組合になる運命にあるからである。この危機を救済せんがためには、財を個人もしくは個人の団体より解放しなければならない。換言すれば、所有の観念を根柢より覆してかからなければならない。――というのが大体の論旨らしかった。それに各国の労働組合の詳細な解剖が鏤めてあった。
 周平には論の当否は勿論分らなかったし、詳細な点は文章の理解さえも困難だった。ただ、財を個人もしくは個人の団体より解放するということに、一寸気を惹かされた。然しその明瞭な観念は得られなかった。
 彼は書物を投げ出し、自分自身をも疊の上に投げ出した。外にはしとしと雨が降っていた。梅雨のような陰鬱な雨だった。妙に物の輪郭がぼやけて薄暗かった。そして彼はいつのまにか、写し取った吉川の日記を又読み耽っていた。それに自ら気づくと、吉川と自分とが同一人であるような怪しい心の惑いが起った。
 彼は立ち上って室の中をぐるぐる歩き出した。彼女に、保子に、もう一度逢いたかった。その晴れやかな張りのある声を聞きたかった。然しこちらから訪れて行くのは憚られた。あの約束は、単なる約束として心に秘むべきもので、それに頼って図々しい行動に出てはいけないような気がした。
 保子からは何の便りもなかった。彼は次第に憂鬱な絶望のうちに陥っていった。
 所が、或る朝――周平が下宿へ帰ってから十日ばかりの後――保子の葉書がふいに舞い込んだ。
 その朝周平は、いつもの通り遅く眼を覚した。もう廊下向うの雨戸を明け放してあった。枕頭まくらもとには新聞が投げ込まれていた。彼は眼をこすりながら、その新聞を取ろうとした。すると、新聞の上から疊へぱたりと落ちたものがあった。一枚の絵葉書だった。松が二三本並んだ砂浜の向うに、大きな波を捲き返してる広々とした海があった。周平はそれを一寸眺めた。下の方に刷り込まれてる大洗おおあらいという文字が眼に留った。彼ははっとした。急いで表を返して読んでいった。

 其後どうなすったの。ちっともお出でがないのね。御病気じゃなくって。御病気だったら見舞に上るわ。御病気でなかったらいらっしゃいよ。隆吉も待ってますから。あなたに見せたいものがあるのよ。
横田保子
 周平は葉書を手にしたまま飛び起きた。窓の戸を開け放った。涼しい空気が流れ込んできた。彼はまた其処に坐って、二度くり返して葉書の文句を読み直した。それからその名前をじっと眺めた。
 初めの驚きと喜びとの胸騒ぎが静まると、彼は変な気がしてきた。横田保子と口の中で云ってみた。見知らぬ人の名前にでも出逢ったような気持だった。彼にとっては、横田というのは主人禎輔ていすけの方のことであり、保子というのは――勿論横田夫人ではあるが――なつかしい「彼女」のことであった。横田保子と両方くっつけた名前を彼は嘗てはっきり頭に入れたことがなかったのである。彼はまた横田保子と口の中でくり返した。
 それに自ら気づいた時彼は、自分が如何なる地位に在るかをはっきり感じた。自分の態度をきめてかからなければならないことを感じた。
 もう横田の家から身を退くのが至当だと思い、保子との約束だけを心に秘めて自分一人の途を進もうと思ったのは、単なる気持の上のことだけだった。それが今は、保子の葉書をつきつけられた今は、ごまかしを許さない実際の問題となったのである。
 彼はその半日考えあぐんだ。然しいくら考えても解決される問題ではなかった。反撥的な昂然とした気持にもなった。暗い絶望の気持にもなった。ただ彼女が恋しくて切ない気持にもなった。凡てを夢だとする清々しい気持にもなった。周囲にも自分自身にも反抗して起とうという勇ましい気持にもなった。万事を投げ出して彼女の心に縋ろうという気持にもなった。そしてしまいには、あらゆる気持が錯雑して、昏迷のうちにひっそりと静まり返った。
 彼はうち開いた窓から大空を眺めた。空にはもう秋の色があった。しめやかなものが心をしめつけてきた。彼は長い間じっとしていたが、俄に意を決して立ち上った。――彼女に対する気持は、それを遠い昔の恋として心の奥に押込んでおこう。そうすることから湧いてくる悲壮な力を、自分自身を振い立たせる方へ導いて進んでゆこう。凡てを未来にかけて過去を葬ろう!
 彼は机の抽斗から、吉川の日記の写しを取出して、それを火鉢の中で灰にしてしまった。ぺらぺらと紙をなめる青い焔を見ていると、云い知れぬ涙が出て来た。その涙も今は快いものであった。
 彼は腕を組み眼を閉じ頭を垂れて、暫く無念無想にはいろうとした。そして、それが乱れかけてきた時つと立ち上った。それから横田の家へ急いだ。

     二十五

 周平は横田の家の前を二三度往き来して、それから意を決してはいって行った。玄関に出て来た女中の後について、座敷へ通った。
「井上さんがいらっしゃいました。」
 そう保子へ告げてる女中の後ろに、彼はぼんやりつっ立っていた。保子はその姿を見ると、丁寧だといえる位に挨拶をした。
「いらっしゃい。」
 周平は一寸狼狽した。が次の瞬間には、強い調子の言葉を浴せかけられていた。
「井上さん、どうしたの? 用がなければそれっきりとは、随分ひどいわよ。私あなたが来たら、うんと小言こごとを云ってやろうと思ってたのよ。」
 然しその眼はやさしい色を浮べて、彼を抱き取っていた。彼は変にちぐはぐな気持で、其処へ坐りながら云った。
「一寸忙しい用があったものですから……。」
「君にだって忙しいことがあるのかい?」と庭の方から声がした。
 横田が庭の中に屈んで、水を半分ばかり張った大きな空の蓮鉢を眺めていた。周平はかすかな驚きを覚えた。それを自ら押し隠して云った。
「もうお帰りなすったんですか。」
「ああ二三日前に。」と横田は答えた。それから急に調子を変えた。「留守中はいろいろ有難う。退屈だったろうね。」
「いいえ。」
 次に何か云おうとした時、彼は頬の筋肉がぴくぴく震えるのを覚えた。見えない位に下唇を噛んで、気持を捨鉢な方へ転換して、軽く息をついた。
「あなたに見せたいものがあるのよ。」と保子は云った。「何だかあててごらんなさい。……まあ当りっこはないけれど。」
 少しの曇りをも帯びないあらわな眼付が、彼の方を覗き込んでいた。
「だし……」ぬけに、と云おうとして彼は言葉を途切らした。横田の前に彼女からの葉書のことを隠すべきか云うべきかを迷った。咄嗟に、そんなことはどうでもいいと考えた。そして云い直した。
「だって、当らないものを当てさせるってことがあるものですか。」
「君、一寸これを見てみ給え。」と横田が声をかけた。
 周平は縁側に出てその方を見た。横田が覗いてる蓮鉢の中に何がはいってるのか見えなかった。庭下駄をつっかけて下りていった。
「あ!」と彼は声を立てた。
 蓮鉢の中には、拇指二倍大位の鰻が十四五匹うようよしていた。
 それは、横田が田舎から持って来た土産だった。小さなバケツの中に藻を一杯つめ、軽く水を浸して、その中に入れて来たのだそうである。五六時間の旅をしたのに、水に入れてやるとまだ元気にしていたとか。
「鰻というものは面白いものだよ、僕は大好きさ。」と横田は云った。「産卵期になると海へ下って、何十尋という深い底へもぐり、其処で卵を産むものなんだ。その孵化かえった奴が鉛筆位の大きさになると、群をなして川を溯るんだよ。面白いじゃないか。」
「本当ですか。入口のない沼やなんかにも鰻の子が居るんですがね。」
「それこそ山の芋が鰻に化けた奴なんだろうよ。」と云って、横田はまた蓮鉢の中を覗き込んだ。「見事な鰻だろう、君。これを君に御馳走しようと思って待ってた所なんだ。」
 周平はそれを辞退するわけにゆかないような気がした。
 鰻はすぐに、近所の魚屋さかなやの手で割かれた。それを保子と女中とで、避暑地から覚えてきた通りにして焼いた。金網の上でじりじり焼かれる匂いが、座敷の方まで漂ってきた。庭の蓮鉢にはまだ、半数ばかりが二三日の余命を残されていた。
「何だか残酷ですね。」と周平は云った。
「然しね、」と横田は答えた、「蒲焼になったのを見ると、生きてた時とは全く別なものという感じしかしないよ。さかなでも野菜でもそうだが、料理はそのものに対する感じを、本質的に変化させるようだね。」
 実際、やがて食膳に上せられた蒲焼には、生きてた時の鰻の感じは殆んど残っていなかった。周平は変な気がした。変だといえば、横田や保子や隆吉などに対しても、変な気がしてきた。先刻まであんなに苦しんできた問題が、いつのまにか底の方へ隠れて、平和な晩餐の気が座を支配していた。横田はちびりちびり杯をなめていた。保子は火にほてった顔を輝かしていた。隆吉はうまそうに蒲焼をしゃぶっていた。
 周平は黙って杯の数を重ねた。
「井上さんは、」と保子が云った、「飲めないような顔をして随分飲めるのね。」
「飲めないような顔って、どんな顔なんです。」と周平は云った。
「あなたみたいな顔。鏡でみてごらんなさい。」
 周平は突然不快を覚えた。彼は自分の顔立の欠点を知っていた――眉と眼との間が迫り、鼻がわりに長く、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が短かった。それを今保子から軽蔑されたような気がした。何とか云い返してやりたく思ってると、横田が口を開いた。
「では、僕の顔はどんな顔なんだい。」
「銅像みたいですよ。酒なんかぶっかけても当分はげそうにないわ。」
「そんなに黒くなったのかな。」
「ええ、真黒よ。ねえ、井上さん。」
 微笑んだ唇から白い歯を覗かして、軽く首をかしげてる彼女の姿を、周平はちらりと見やった。睫毛の影を宿した濡いのある眼が、彼の心を囚えた。彼は額が汗ばむのを覚えた。すると、俄に顔が赤くほてってるのを知った。彼女が云い出したのは、顔の恰好ではなくて色のことらしかった。それでも反抗的に云った。
「顔の批評は止しましょうよ。生れつきで自分でどうにも出来ないことだから。」
「これはいいや」と横田が応じた。「全く顔立は自分でどうにも出来ない。」
 保子は一寸腑に落ちないような眼付をしたが、それから俄に笑い出した。
「酒を飲む人に赤鬼と青鬼とあるんですって。あなたは飲むとなお黒くなるから、まあ黒鬼ね。井上さんはすぐに赤くなるから赤鬼。私が青鬼になると丁度いいわね。少し飲んでみましょうか。」
「青鬼は御免だよ、後の世話が厄介だから。赤鬼の方がいい。」
「私そんなに赤くなっていますか。」と周平は云った。
「ええ真赤よ」と保子が答えた。「あなたは不思議ね、すぐに赤くなって、それからいくら飲んでも平気だから。」
 実際周平は、顔が赤くなりながら少しも酔を覚えなかった。頭の中が冴え返ってくるばかりだった。そして、室の中の光景が、硝子をでも通して眺めるように、淋しくひっそりと感ぜられて仕方がなかった。その冴えた淋しさが更に自分の方へ反射してきた。
 彼はいい加減に食事を済して縁側に出た。星も見えない魔物のような夜だった。眼をつぶって暫くじっとしてると――隆吉がやって来た。彼はいきなりそれを捉えて、膝の上に抱いてやった。静かな涙が出て来た。

     二十六

 頭の中で考えめぐらしたことが、実際に当っては如何に無力なものであるかを、周平は知った。進むか退くかの問題に於て、自分の態度を定める問題に於て、その時々に考え決意したことは、実は、その時々の気分に過ぎなかった。気分が異るに随って、考えもすぐに変っていった。その間に、事実はぐいぐい進んでゆく、凡てを引きずって進んでゆく。そして何処まで進もうとするのか?
 周平は、考えると恐ろしくなった。横田と保子と隆吉とを前にして、自分の地位を顧みると、このままでは済みそうになかった。而も自分の意志が無力だとすれば、どうすればいいのか。眼に見えてる破滅を避けるためには、事実の進みを多少なりと正しい方向へ導くためには、もはや、思いきってぶつかってゆくの外はなかった、先へつきぬけるの外はなかった。焦慮しながら事実の後へくっついていくのは愚の至りだった。
 彼は大胆に凡てを取りれようとした。元通り、毎週一回隆吉の質問に応じに来た。横田や保子に対して、あらゆる気兼ねを打捨てながら、平然と――図々しいほど――振舞った。そして遂には自分の心が、強い力のうちに支持されてるのか、或は捨鉢に投げ出されてるのか、彼は自ら分らなくなった。
 それを、保子は勝手に引廻した。
 隆吉の方の用が済むと、彼女は彼に遊んでいらっしゃいと云った。彼は彼女の側に腰を落着けた。取留めもない世間話をした。夕方になると、御飯を食べていらっしゃいと彼女は云った。御馳走がありますかと彼は尋ねた。その御馳走が出来る間、彼は庭をぶらついたり、寝転んで雑誌を読んだり、隆吉を相手にしたりした。横田と将棋をさすこともあった。食後横田が書斎に退いても、彼は立ち上らないことが多かった。隆吉や時には女中をも交えて、トランプをしたり、五目並べをやった。仕事を済した横田がそれに加わると、帰るのがなお後れた。漸く帰りかけると、もう遅いからとまっていらっしゃいと保子が云った。いや帰りますと彼は答えた。そんなら幾日に来て頂戴と保子は云った。その日に障子を張りかえるのだった。彼は約束通りにやって来た。女中達と一緒になって、障子の骨を洗ったり紙を張ったりした。庭の松の元気がなさそうなのを見ると、彼は自分からその青葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)りに来た。そのお礼に寄席へ連れて行かれた。横田と隆吉とを加えて四人で行った。帰りに彼は家の前まで送ってきた。お茶を飲んでいらっしゃいと無理に引入れられた。
 然し彼は、夜遅くなっても決して泊っていかなかった。また、横田の所へ種々な人が集まる水曜には来なかった。
「水曜日にもちといらっしゃいよ」と保子は云った。
「いやです。」と彼は答えた。
「なぜ?」
 問われてみると、なぜだか彼は自分にもはっきり分らなかった。
「なぜ厭なの。」と保子はまた尋ねてきた。
 周平は一寸考えてから答えた。
「いろんな人が来て、芸術だの思想だのというような議論が出るから厭なんです。真の芸術家は芸術を論ぜず、真の思想家は思想を論じないものです。」
「だって真面目な議論ではなくて、冗談半分の話だから、いいじゃないの。」
「なおいけません。人は真面目に何かを信じてる時、それを冗談半分に警句やなんかで片付けられるものではありません。下らない話で気を紛らせるものではありません。」
「そんなでは、うっかり口も利けないことになるのね。」
「だから私は一人で黙ってるのが好きなんです。」
 そして彼は、縁側に腰掛けたり室の中に寝転んだりして、いつまでも黙っていた。保子から時々じっと眺められるのを感じても、やはり身を動かさなかった。
「井上さん、」と保子は暫くして呼びかけた、「動物園か活動にでも行ってみませんか。」
「ええ、行ってもよござんす。どうせ何かで時間をつぶさなくちゃならないから。」
「じゃあ止すわ。」と保子は吐き出すようにして云った。
 周平は顔を挙げた。見ると、保子は冷かに顔を引緊めて、何かを内心で苛立ってるらしかった。
「なぜです。」と彼は尋ねた。
「だって、人が折角誘うのに、どうせ何かで時間をつぶすのだからって挨拶があるものですか。時間つぶしの相手なんか真平まっぴらよ。」
「じゃあ時間つぶしというのを取消しましょう。」
「取消したって同じよ。」
 それでも二人は、隆吉を連れて、結局出かけることになった。保子はいやに冷かな態度をしていた。周平はそれを横目で窺いながら、隆吉の方をばかり相手にした。
 彼には保子の気持が少しも分らなかった。彼を引止めたり外に誘い出したりする彼女と、何かに苛立って冷淡な素振りを見せる彼女とが、別々なものとなって彼の眼に映じた。もうどうでもいいのだと思っても、それがやはり気にかかった。
 彼女は少し身を反らせ加減にして、先に立って歩いて行った。小さくきちっと背中高に帯を結んで、上から絽縮緬の羽織をしっくりとまとい、真直に伸した手を足の運動に合して振りながら、すたすた歩いて行く痩せがたの姿は、或る近づき難い冷たさを持っていた。そして彼女は余り口を利かなかった。獣や鳥の檻の前を、一寸足を止めては先へ先へと通りすぎた。周平と隆吉とは後れがちになった。活動を見ても彼女は別に何とも云わなかった。結末近くになると、人が込まないうちにと早めに立ち上った。帰りに物を食べていくでもなかった。
 然し、家に帰りつくと、彼女は菓子や珈琲を出さした。横田をも書斎から呼んできた。見たもののことを面白そうに話した。帰るという周平を引止めて、皆で何かして遊ぼうなどと云い出した。然し周平は疲れきっていた。
「意気地なしね、男のくせに。」と彼女は云った。
 周平は自分でも訳の分らない気持になった。そして隆吉の方へ、淋しい心が向いていった。

     二十七

 周平と隆吉との間は、次第に、教える者と教えられる者とのそれでなくなっていった。隆吉の勉強にあてられてる室で、学課のことはそっちのけにして、ぽつりぽつりと短い会話を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ沈黙のうちに、永い時間を過した。
 いつも隆吉の方から口を開いた。そして一週間のことを、重に横田夫婦に関係したことを、周平に語ってきかした。
 ――叔父さんと叔母さんとが音楽会にいったので、夜遅くまで起きて待っていたが、何にも持って来てくれなかった。つまらないから黙って先に寝てしまった。すると翌日、叔母さんから絵具を買って貰った。――叔父さんが恐い顔をして一日黙っていた。何を云ってもよく返事もしてくれなかった。後で叔母さんに聞くと、叔父さんは何か考え事をしてるのだそうだった。そういう時は静かにしていなければいけないのだと云われた。――叔父さんが洋食を食べに連れてってやると云ったけれど、いつまでも連れてゆかない。――家にばかり居ないで少し外で遊んで来るようにと、叔母さんに云われた。けれど、近所には厭な奴ばかりだから行く所がなくて、悲しくなって泣いてると、叔母さんが来ていきなり抱きしめてくれた。そして、庭ででもいいから少し外で遊ぶ方が身体のためだと云われた。――叔父さんが酒を飲んで、も少し飲みたいというのを、叔母さんが止めた。叔父さんは恐い顔をして怒鳴どなりつけた。叔母さんも高い声で云い争った。そして喧嘩になった。がすぐその後で、二人共笑い出してしまった。何のことやら分らなかった。――叔父さんが二階で昼寝してるのを、叔母さんから起しにやられた。いくら起しても眼を覚さない。仕方がないから布団をめくってやった。すると叔父さんは急に起き上って、じっと睥みつけた。それきり何とも云われなかったけれど、あんな恐いことはなかった。――叔父さんが非常に機嫌がよかった。背中におんぶしてやろうと云われた。愚図々々してると、なぜおぶさらないんだと叱られた。それで背中に乗ったが、何だか身体が硬ばってしまった。叔父さんは庭の中を歩き廻った。それを叔母さんがじっと見ていたが、おぶう方もおぶさる方もどちらも下手だと云った。口惜しかったから、背中の上で飛びはねてやった。するとすぐに縁側に下された。今度は私がおんぶしてみようと云って、叔母さんがおぶってくれた。一所懸命にその背中にしがみついてると、又すぐに下された。変に叔父さんも叔母さんも黙ってしまった。どうしていいのか分らなかったから、いきなり逃げ出してやった。――叔父さんが学校のない日は、叔父さんも叔母さんも寝坊するので、一人で早く起きなけりゃならない。つまらないから、女中が何度も起しに来るのを知らん顔をしていた。すると、もう起きなければ学校に後れるよと云って、叔母さんが起き上ってくれた。それを見て飛び起きてやった。叔母さんからじっと顔を見られたので、叱られるのかと思ってると、何とも云われなかった。……
 そういうことを隆吉は、周平の顔を見い見い話してきかした。気兼ねしながらも話すのを楽しみにしてるらしかった。
 周平は簡単な返辞きりしなかった。隆吉を憎んでいいか憐んでいいか愛していいか分らない気持がした。その気持がしまいには陰鬱な色に塗られた。そして自分の身の上にも反射してきた。二人相並んだ孤児! というように彼の頭に映じた。
 彼は隆吉をしみじみと見戍った。隆吉はその眼付に縋りついてきた。
「僕ね、大きくなったら画家えかきになるよ。」
 突然のことだったので、周平は眼を見張った。
「だって、隆ちゃんは絵が嫌いだったろう?」と彼は尋ねた。
「うむ、好きだよ。」
「どうして好きになったの。」
 隆吉は暫く黙っていたが、独語のようにして云った。
「展覧会にあるような絵が描いてみたいなあ。」
「もう展覧会に行ったの。」
「叔父さんと叔母さんとだけで、僕は行かなかったけれど、新聞にその写真が幾つも出てたよ。」
「そして、あんな絵が描いてみたいって云うの。」
 隆吉は何とも答えないで眼をぱちくりさした。暫くたってから低い声で云った。
「僕ね、おとうさんの絵を描くつもりだよ」
 周平はその顔を見つめた。そして、掌の中の小鳥をいじめるような一種残忍な興味で尋ねてみた。
「おかあさんは?」
 隆吉は口をつんと尖らして、凸額おでこの下に上目勝に眼を見据えた。
「お母さんは悪い人だって」と彼は云った。「お母さんのことを云っちゃいけないって、お祖母ばあさんが云ったよ。けれど僕は、お母さんの絵も描いてやるんだ。構やしない。お母さんはそんな悪い人じゃないよ、屹度。僕に悪いことが起ったら、お母さんが助けに来てくれるような気がするよ。お父さんは死んだんだけれど、お母さんは生きてるんだって。本当? そんなら僕探し出してやるよ」
 怒ってるのか泣いてるのか分らないような調子だった。云ってしまってからも軽く身体を揺っていたが、すぐにそれをぴたりと止して、不快らしい皺を眉根に寄せ、何やら考え込んでしまった。
「どうして探し出すの」と周平は追求した。
「分らない。大きくなってからだよ。」
「お母さんの顔を覚えてるの?」
「覚えてない。」
 隆吉は吐き出すようにその答えを投げつけてから、此度は本当に怒ったらしかった。口をきっと結んで眼を伏せながら、いつまでも黙っていた。
 その気持が、周平にも感染してきた。誰にともない暗い憤りを身内に覚えた。
「隆ちゃん、」と彼は云った、「お父さんはどうして死んだか知ってる?」
 隆吉は黙って彼の顔を見返した。問いの意味が分らないらしかった。
「お父さんが死んだ時のことを覚えてるの」と彼は云いなおした。
「よく覚えてない。」と隆吉は答えた。「頭の痛気で死んだんだって。本当?」
 周平はただ首肯うなずいた。
「井上さんはお父さんのことをよく知ってるの。知ってたら僕に聞かしてくれない? 誰も聞かしてくれる者がないんだもの。叔母さんに尋ねると、恐い眼付をするんだよ。」
 周平はぎくりとした。保子の言葉が思い出された。黙り込んでじっとしてると、隆吉がそっと覗き込んできた。そして、もういつのまにか片頬に軽い笑靨を浮べていた。周平はそれを見て、変にはぐらかされた気持になった。子供を相手に何をしてるんだ! と自ら浴せかけた。もうどうでもいいことだ、と自ら云った。
 然し、隆吉の祖母の定子に偶然の機会で紹介せられた時は、さすがに胸の震えを禁ずることが出来なかった。

     二十八

 それは全く偶然の機会だった。
 或る日周平がやって行くと、女中が慌しく玄関に出て来た。そして、茶の間の方へ彼を導いた。何だか様子が変だったので彼は尋ねた。
「どうしたんだい、今日は。」
「お客様ですよ。」
「そう。じゃあ隆ちゃんは?」
「坊ちゃまもお座敷の方ですが、一寸お待ちなさいよ、聞いてきますから。」
 周平は一人茶の間にぼんやり待たせられた。暫くすると女中が戻って来た。
「すぐこちらへお出で下さいって。」
「僕に?」
「ええ。坊ちゃまのお祖母様ばあさまがいらっしゃるんですよ。」
 周平は立上ったが、一寸躊躇せられた。それでも女中がずんずん向うへ行くので、その後についていった。襖のこちらで足を止めると、「おはいりなさい。」と云う保子の声がした。彼はつかつかと中にはいって、誰にともなくお辞儀をした。
 保子と向合って、米琉絣のついの羽織と着物とをつけた六十足らずの、上品なお婆さんが坐っていた。
「井上さん、」と保子は云った。「この方が隆吉のお祖母さんですよ。」
 周平が何とか挨拶をしようと思ってるまに、向うから先を越された。
「隆吉の祖母の定子さだこでございます。隆吉が始終お世話になっていますそうで、一度お目にかかりたいと思っておりましたが、自由にならない身でございますもので……。」
 周平はただ低くお辞儀をした。言葉の調子や様子などからいい印象を受けた。それでも、何とか云おうとしたがその言葉が喉につかえて出なかった。横の方に黙って坐ってる隆吉へ眼をやると、隆吉は微笑みながら彼を見返した。
「毎週わざわざ来て頂くのは大変でございますね。」と定子は云った。
「いいえ、どうせ遊んでるのですから。」
 そして周平は次の言葉を待った。しかし定子はもう何とも云わなかった。保子から話しかけられて、それに簡単な受け答えをしていた。周平はその顔をそっと窺った。染めたらしい黒い髪を小さく後ろへ取上げて、広い額を見せていた。少し凹んだ小さな眼、真直な鼻、長い※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)、それらが隆吉によく似ていた。小鼻のわきから頬へかけた筋のために、顴骨が少し高まって見えたが、それも額と※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)とによく調和して、却ってしっかりした上品な趣を添えていた。そういう顔立を彼女は少しもくずさずに、微笑さえも殆んど浮べないで、保子へ短い言葉を返していた。保子一人でいろんなことを話した。周平と隆吉とは、置き忘れられたように黙って坐っていた。
 暫くすると、定子はもう帰らなければならないと云った。保子はしきりに止めたけれど、家の都合でどうにもならないとのことだった。
「では一寸お待ち下さい。」と保子は云って、向うへ座を立って行った。
 周平は定子と向き合って残された。
 定子は周平の方を向いて、まじまじと彼の顔を眺めた。彼は次第に顔を伏せてしまった。
「とうからお目にかかりたいと思っておりましたけれど、自由に出られないものでございますから……。」と彼女は云った。「こちらへ伺いますのも、一寸した隙を見て、月に一度か二度のことでございますよ。それでもあなたのことを蔭ながらお聞きしては、心強く存じておりました。隆吉は御存じの通りの不仕合せな身の上でございますから、くれぐれもお頼み致します。」
 そういう風に云われると、周平は一方では恐縮しながらも、一方では前からの知人ででもあるような親しみを覚えてきた。
「隆ちゃん、」と定子は向うに黙っている隆吉を呼びかけた、「私にお砂糖湯を一杯貰ってきて下さいね、喉が少し悪いから。」
 隆吉はすぐに立っていった。その間に定子は周平の方へ膝を進めて、口早に小声で云った。
「あなたにお詑びしたいことがあって、気にかかっておりましたが、丁度お目にかかって宜しゅうございました。いつぞや、隆吉の父の写真を見たいと仰しゃったそうでございますが、隆吉の前では両親のことは一切口にしないようにと、横田さんとお約束してあるものでございますから……それに、横田さんへも一寸気兼ねなことがありまして、無いと云ってお断りしましたが、どうぞ悪く思わないで下さいませ。またいつかお目にかける時もございましょうから……。」
「いいえ、」と周平はその言葉を遮った。「御事情は私も存じております。」
 定子は彼の眼の中を覗き込んだ。そしてやがて云った。
「いろいろお話申したいこともございますけれど……。」
 そこへ、女中が砂糖湯を持って来たので、定子は口を噤んでしまった。そして彼女がその湯呑を取上げていると、保子と隆吉とが出て来た。保子は手に小さな風呂敷包みを持っていた。それを定子の前に差置くと、定子は黙って受取った。
「それでは、横田さんへどうぞ宜しく仰しゃって下さい。」と定子は云った。
 彼女が立ち上って帰りかけると、周平は妙に心残りがして、皆の後へついて玄関まで見送った。隆吉が電車まで送ってゆくことになった。
 二人が門の外に見えなくなってからも、周平はまだ其処にぼんやり佇んでいた。
「どうしたの、井上さん。」
 周平は初めて我に返ったような心地で振り向いた。保子が彼の方を覗き込んでいた。彼の眼にじっと眼を見据えながら、口元で微笑みかけた。
「いい人でしょう?」
「ええ。」と周平は答えた。
「すっかり好きになったっていう様子ね。」
 周平は何と云っていいか分らないで、ただ苦笑を洩した。そして、保子の後について座敷へ戻った。
「あなたは隆吉のお祖母さんに逢って嬉しかったでしょう。」
 座につくとすぐに、保子はそういう風に尋ねかけてきた。
「なぜです?」と周平は反問した。
「なぜって、ただそんな気が私にはするのよ。」
 揶揄するような眼が小賢こざかしく閃いた。かと思うと、彼女は急に真面目な調子に変った。
「あなたはこの頃大変隆吉と仲がいいようね。何を二人で長い間話してるの。」
「取りとめもないことをして遊んでるのです。」と周平は答えた。「大人おとなよりも子供を相手にしてる方が面白いと、そんな気特にこの頃なってきました。」
「それだけ?」
 何がそれだけ? なのか彼には分らなかった。じっと見返した眼付でその意味を尋ねた。彼女はそれを構わず先へ云い続けた。
「あなたはこの頃変に捨鉢な気持になってやしなくって。」
 その言葉はじかに彼の胸を刺した。然し彼は真剣な応対をするのが恐ろしかった。強いて空嘯いてみた。
「さあどうですか。」
「それでいいと思ってるの。」
「身を捨ててこそ何とかいうこともありますから……。」
「井上さん!」
 保子はそう云ってきっとなったが、唇をかすかに震わしたまま黙ってしまった。視線をちらと乱して、しまいにはそれを膝の上に落した。
「私は、」と周平は云った、「自分のことはよく分ってるつもりです。何にもごまかしてやしません。そして、お約束を立派に守ってゆく……守ってゆけるつもりでいます。」
「約束を守りさえすれば、他のことはどうでもいいというんですか。」
 まるで怒鳴りつけるような調子だった。彼には何で彼女が苛立ってるのか見当がつかなかった。黙ってると、彼女はまた云った。
「いつまでも過ぎ去ったことにこだわっていて、表面うわべだけ平気な顔をしているのは、自分で自分をごまかしてるのと同じだわ。」
 周平は驚いて彼女の顔を見返した。――そういうごまかし方をしてるのは彼女の方ではなかったか。表面だけ平気な顔をして、彼を方々へ引張り廻しながら、内心では変に苛立ったり冷淡を装ったりするのは、自らごまかしてるのではないか。今日だって彼女の方から変に絡んできたのではないか。――彼女は少し歪めがちに唇をきっと結んで、眉根に小さな皺を寄せている。すっと刷いた眉がいつもより殊に美しい……と思う自分の心に周平は自ら慴えた。
「もう何にも云わないで下さい。これから真面目な途を進みますから。」と彼は誓った。
「そう。」と保子は気の無さそうな返辞をして、何やら考え込んでしまった。
 その意外な変化に、周平はまた驚かされた。そして次の瞬間には、頬の筋肉が硬ばって泣き顔になりそうなのを、じっと押し堪えた。頭の中がしいんと静まり返った。
 隆吉が戻ってくると、彼は気分が悪いと断って、逃げるように辞し去った。じかに迫ってくるあらわな保子の眼付と、疑問を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ変に鋭い隆吉の眼付とに、彼は更に脅かされた。

     二十九

 西の空にたむろしてる雲のために華かなるべき残照が遮られてる、ほろろ寒い佗しい秋の夕暮だった。周平は足を早めて下宿の方へ帰りかけたが、寂しいがらんとした自分の室が頭に映ると、今の苦しい心を其処へ持ち込むのが、堪えられないような気がした。金入の底に皺くちゃな五十錢紙幣が六七枚残ってるのを幸に、眼についたカフェーに寄って、ウイスキーを五六杯のんだ。髪を長く伸ばした着流しの客が一人居るきりで、電燈がついたばかりの室の中は静かだった。女給仕と何かひそひそ話し合ってる客の方に背中を向けて、彼は壁の面をじっと見つめた。
 それが、彼の気持へぴたりときた。
 ぶつかることがつきぬけることのように思っていた彼は、ぶつかってみて初めて、つきぬけられない壁があるのを知った。保子と隆吉との間にまごまごしてる自分は、やけに頭を壁にぶっつけてるのと同じだった。而も彼は、未だに保子を恋してるのかどうか自ら分らなくなっていた。
 酒に痲痺した頭で考えると、凡てが渦を巻いて入り乱れ、その渦が壁の中にすーっと吸い込まれて、じっと壁に面してる自分の姿のみが残った。それがしいんと静まり返った。息苦しくて恐ろしかった。自分の心が何処まで転々してゆくか不安だった。
 彼はカフェーを飛び出して、夜になった街路を長い間歩き廻った。闇黒のうちに点々と浮出してる街灯の光りと、酒の酔からくる悲壮な気持とが、凡てを夢のような惑わしのうちに包んでくれた。そして彼は、ただ現在の生をのみいつくしむ涙ぐましい心を懐いて、袷の肌にも寒いほどの夜更けに、火種さえない下宿の四疊半へ、ぼんやり帰っていった。薄い布団にくるまって寝るのまでが、却て天の恵であるような気がした。
 然し翌朝になって、鋭くはあるが妙に弱々しい日の光りで、自分の姿がまざまざと照らし出されると、それが堪らなく淋しい感じがした。そして次の月曜が来る頃までには、自分でどうにも出来ない捨鉢な気持に陥っていた。それを、保子は平然として身近く引きつけて離さなかった。
 彼の頭には時々理智の閃きがよぎった。――保子からいい加減にもてあそばれてるのではないかしら? ――保子は、敢て多少の危険を冒してまで、自分を吉川の轍から救おうとしてるのではないかしら? ――或は、保子自身も自分と同じ心の苦闘をしてるのではないかしら?
 そして右の仮定は、初めの二つが余りに苦々にがにがしいものであると共に、後の一つは余りに自惚れすぎた胸糞のわるいものだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、保子と顔を合してみると、その点を突き込んでゆく勇気はなかった。
 彼は隆吉の方へ淋しい心を持っていった。隆吉はその懐へ飛び込んできて、父母のことで彼の急所をつっ突いた。彼の心は更に乱れた。それが保子へ反映して、彼女の苛立ちとなるのだった。
 彼はどうしていいか分らない自分自身を見出した。そしては次第に、酒杯のうちに身を浸していった。

     三十

 諸方のカフェーへ出入するようになってから、周平の身の廻りは益々淋しくなっていった。薄っぺらな蒲団、二三枚の着物、セルの袴、七八冊のノート、粗末な古机、前年から持ち越しのソフト帽、などが彼の所有の全部だった。柳行李まで売り払った。大学の制服も質屋の蔵に納まったきりだった。そして、当座の必要品だけのがらんとした室に自分を見出して、彼は半ば自暴自棄な悲壮な感じに打たれた。
 そういう中にあって、彼は内心の二つのほこりをあくまでも把持していった。――一つは、保子の好意を濫用しないことだった。彼は如何に困っても、彼女から決して金を借りなかった。月々渡されるだけを黙って受取るきりで、それ以上の物質的補助を仰ぐことは、自分の心をも彼女の心をも涜すことのように思われた。それがどんなに苦しくとも、やはり、やはり、彼女を心のうちに清く懐いていたかった。然し、何か奇蹟でも起らない限りは、それはどうにもならないことではあった。――他の一つは、「労働組合と労働者」の飜訳を粗雑にしないことだった。金のために濫訳を事とするのは、自分の精神を堕落させることのように思われた。然しながら、訳筆は遅々ちちとして進まなかった。不案内な内容をひねくれた文章で書いてある上に、少しも気乗りがしなかった。悲壮な心に痛快な響きを与える文句が所々に出て来ないでもなかったが、彼はその思想を研究してみるだけの余裕がなかった。倦怠の方が先にたった。そして、月に二三十枚の原稿を野村の所へ届けて、渡される僅かな金で満足していた。大変立派な訳だと向うの人が喜んでいた、そういう野村の言葉だけがせめてもの慰藉だった。
 斯くて、彼の二つのほこりも、単なる矜りの外には出なかった。彼の生活は益々困難になっていった。横田の家から貰う報酬と飜訳の僅かな稿料とでは、どうにも支えようがなかった。水谷からは、其後思い出したように三十円送ってきたきりで、ふっつりと便りもないそうだった。
 下宿の払いもたまった。方々のカフェーへもちょいちょい借りが出来た。それでも彼は、知らず識らず酒杯の方へ引きつけられていった。金があると気が大きくなった。金がなければ野村や其他の知人から五円十円と借り歩いた。無一文の時には、友人の誰かが何とかしてくれた。
 彼は次第に、村田や其他の友人と近しくなっていった。あらゆる点で便宜だった。金の融通もついたし、面白くもあった。横田の書斎での真面目くさった彼等は厭だったが、酒杯の間にはめを外した彼等は愉快だった。彼等の方でも新米しんまいの周平を面白半分に引廻した。
「おい、井上、今晩探険に出かけないか。」
 がやがやした騒ぎが静まると、彼等は興味の種を探すようにしてそう呼びかけた。
 周平はどんよりした眼を見据えて黙っていた。
「井上は駄目さ。」と村田が云った。「北極も南極も嫌いで、なまぬるい温帯が好きなんだから。熱帯ならなおいいかも知れないが、そんなのは一寸手が届かない形でね。」
 温帯というのは、素人しろうととも玄人くろうとともつかない女給仕ウェートレス連中のことだった。
 そして実際彼女等のうちには、特殊な意味で深く周平の心を惹きつける者が一人居た。

     三十一

 電車道から奥へはいってる可なり広い横町が、他の裏通りと直角に交叉して斜左へ曲ってる、その角の所に、蓬莱亭という緑色に塗られた洋館があった。階下がカフェーになっていて、二階がレストーランだった。その上に、後から建て増した狭い三階がついていて、表からは塔のように見えていた。――その家に、おきよという女中が居た。
 背の高い痩せた女だった。取りたてていうほどの容姿きりょうではなかったが、一寸印象を与える顔立だった。顔の下半分が可愛かった。少し尖り気味の頤に終ってる頬の線が、強いて結んだような小さい口の横で、ぽつりと肉の膨らみを見せて、甘ったるい言葉つきをしそうな若々しさがあった。にも拘らず、顔の上半分が妙に老けていて、骨っぽい額に曇りを帯び、蟀谷こめかみの皮膚がゆるんで皺を寄せていた。鼻と眼とに特長があった。さほど高くない鼻だったが、円みを持った眉根まですっと通っていた。黒目の小さな二重眼瞼ふたえまぶたの眼が絶えず敏活に働いて、捉え難い閃きを放っていた。
 そういう彼女の顔立をいつのまに覚えてしまったか、周平は自分でも知らなかった。彼や彼の仲間は、そのカフェーへ度々行きはしなかった。二階の料理を食べに来る客が可なりあったし、よく三階へ上ってゆく常連もあったので、階下の方は自然と閑却されがちで、多少不愉快だった。カフェー専門の心易い家で騒ぐ方が、よほど面白かった。けれど……。
 或る時、周平は二三の友人と共に、竹内から其処へまた引張ってゆかれた。竹内は酔っ払っていた。それでも飲み直した。「おい酒だ。」と竹内は叫んで、空になった桜正宗の二合瓶を打ち振った。それを女中共は笑いながら向うから眺めていて、更に取合わなかった。そこへ、二階からお清が下りてきた。竹内はその方へ瓶を振ってみせた。お清は階段の下に一寸立ち止って、じっとこちらを眺めたが、黙ったまま首を振った。その時の彼女の眼付が、保子そっくりだった。と周平が思ったのは瞬間で、彼女はそっと歩み寄ってきて竹内に云った。
「あなたはもうお止しなさい、酔うと癖が悪くていけないから。他の方には差上げるわ。」そして彼女は周平の方をじっと見た。「あなたはいくら飲んでも大丈夫らしいわね。」
 周平はその調子に変な気がした。然し彼が更に驚いたのは、竹内がお清と非常に懇意らしいことと、皆がそれを別に怪しんでもいないらしいことであった。
 竹内はどちらかというと、周平や村田などの仲間ではなかった。勿論、彼等と交際はしていたし、水曜日の横田の書斎へも二三度顔を出したことはあったが、学校を途中で止して、文士連中の臀にばかりくっついて歩いていたので、自然と彼の生活はその大部分が、彼等の視野の外にはみ出していた。いつもこてこてと髪をなでつけて、金口きんぐちの煙草を吹かしていた。
 周平は竹内とお清との間について、我にもない一種の反感の念から、一寸好奇心をそそられた。蓬莱亭から出て帰り途で、彼は竹内に尋ねた。
「君はあの家へ屡々行くんですか。」
「なぜ?」
「だいぶ女中達と懇意なようだから。」
 竹内が何か云おうとしてるまに、他の者がくすりと笑った。それで竹内はあははと大声に笑い出した。
 周平は変にすっぽかされた気持になった。
 やがて竹内は、吸いさしの煙草を強く地面に抛りつけて、ぱっと散る火の粉を見やりながら云った。
「懇意はよかったな。何とかで……虐待されて懇意かな、下手な川柳にでもありそうだ。」そして彼は急に周平の方を向いた。「君は又いやに水を向けられてたじゃないか……あのお清にさ。だがあんなのは止し給え。女中頭って格で威張りくさってるが、年齢としの功で威張るのは、余り威張り栄がするもんでもないからな」
「だって、なしのつぶてよりはまだいいや。」と誰かがまぜっ返した。
「なあに、此奴は石のつぶての方さ。」
 周平にはその意味が分らなかった。然しそうなると、何となく気がさして尋ねにくくなった。知ってるふりをして、声高く笑ってやった。
 とはいえ、そのために却って、変に気持の上のこだわりが残された。
 彼は後でそのことを、その晩居合せなかった村田に尋ねてみた。
「君はまだ知らないのか、あの有名な話を。」と村田は云って、周平の顔を見返した。
「知らないから聞くんだよ。」
「いやに気にしてるな。だが実際、ただで聞かせるのは惜しいほど面白い話だぜ。実はね、竹内があのお清に一寸参ったって訳さ。それから度々あの家へ行って、それとなく当ってみたんだ。所がさっぱり手答えがないんだろう。先生じれだしたもんだ。そして、止せばいいのに、酒に酔ったふりをしては、怪しげな詩だの歌だのを書いてよこしたのだ。全く気障きざな奴さ。その上に常識を逸してるね。だが、それだけ先生の方じゃ大真面目だったんだろう。それでも向うは平気で、知らん顔をしていたんだ。そして愈々最後のカタストロフって幕さ……と云っても、それは勿論喜劇だがね。」
 周平は黙って聞いていた。
「或る晩、竹内はさんざん酔っ払って、或は酔ったふりをしてたのかも知れないが、あの女を捉えて、手帳と万年筆とを――そんなものをいつも持って歩いてる奴なんだ――それをつきつけて、これに何か書けと膝詰談判を始めたものだ。無理に返事を引ったくろうって寸法さ。すると、お清の奴、さんざんらした揚句に、一時間も奥に引込んで、自分一人でかそれとも誰かの智恵をかりてか、そこの所は分らないがね、一世一代の名句をひねり出したのさ。句に曰く、
君ゆえに石のつぶてを心して、なしのつぶてとまいらせ候
そして署名を、さい河原かわらより、とね。」
 どうだい、というような眼付で村田は周平の顔を窺った。
「字はまずいそうだが、句はたしかになってるだろう。それで竹内の奴、一度にぎゃふんさ。所が面白くしたもんだね。先生その句を大事にしまっておいて、酒に酔っ払うといつも、お清は君カフェーの紫式部だぜ、実は内密だが……といった調子で、それを披露して歩いたものだ。そうなると、自棄になってるのか、惚気のろけてるのか、諦めをつけてるのか、それとも内々予防線を張ってるのか、訳が分らないやね。その頃僕達はよくあの家へ行ってたものなんだ。」
 周平が黙ってるので、村田はまた云い続けた。
「然し考えてみりゃあつまらない話さ。面白くもない女を相手に、惚れたとか惚れないとか騒ぎ廻って、実はどうでも構わないのを、酒の勢で無理に自分を深みへ引きずり込むんだからね。竹内にしたってそうさ。友人共の手前、また酒の余勢で、むりにああしていたようなものの、実はお清に対してそれほどでもなかったんだろう。やがてけろりとしてしまって、石のつぶても無しのつぶても、冗談の役にきり立たなくなってるんだからね。皆も其後、二階や三階から変に気圧けおされるようなあんな家へは、次第に足が向かなくなってしまったんだ。云ってみりゃあ遊牧の群だね」
 周平は初めから注意深く村田の言葉を聞いていた。村田の話には、例によって勝手な創作が多く交っていて、頭の中でうまくまとめたようなふしがあった。が実際は、もっとまとまりのつかないもので、深い根があちらこちらに出ていそうだった。
「君の話を聞いていると、気持が呑気になっていいよ。」と周平は云った。
「なぜ?」
「話がうまいから。」
「なあんだ、つまらない。……だが、要するに世の中は呑気なものさ。酒を飲めば更に呑気になる。どうだい、何処かへ行ってみようか。」
 然し周平は、酒を飲めば呑気になるどころか、益々気分が冴え返るのであった。平素は投げやりの気持になっていても、身体が酒にほてってくると共に、一種捨鉢な興奮が起ってきて、その底からじっと、保子や降吉のことを見戍るのであった。自分自身がたまらなく惨めに思えたり、この上もなく悲壮に思えたりした。
 そういう気持のうちに彼は、知らず識らずお清へ注意を向け始めていた。固より、彼の仲間は蓬莱亭へ行くことが少かったし、また彼は竹内のことから変に気がさして一人では行かなかったので、お清と顔を合せることはそう度々ではなかった。然し、彼女がどうかした拍子に保子そっくりの眼付をするのが、何となく気に懸った。がよく見ると、保子の眼は黒目がちであるのに、お清の眼は妙に黒目が小さく見えた。それがどうして同じような眼付になるのか、彼には分らなかった。
 四五人で勝手な熱を吹いてると、お清は時々側にやって来て、一座の女王らしく取澄したり、または一人で話を奪っていったりした。話の調子が少し受太刀になってくる時には、簡単な京大阪の弁を真似てごまかした。「さかい……おます……だっせ……えろう……ほんまに……そない……やろ……」などの語を連発した。
「あんたそないなこといやはっても、ほんまのことではないさかい、駄目だっせ。」
 それで皆はどっと笑った。彼女は一寸首を引込めたが、彼女の顔をじっと見ている周平の方へ向いた。
「こちらはえろう人の顔を見てなさるが、顔に何かついておますか。」
 周平はただ苦笑した。然し、彼女の姓が高井だと聞いた時、彼はぎくりとせざるを得なかった。
 彼等のうちに、種々なつまらないことばかりを知ってる深谷ふかやという男がいて、姓名判断をしてやるというので、皆の姓名を順々に聴きただしていって、しまいにお清へまで及んでいった。その時彼女は、「高井清子たかいきよこっていうのよ、いい名前でしょう、」と即座に答えた。
「高井清子、それは拵えた名前なんだろう。本当の名前でなくちゃ駄目だ。」と深谷は云った。
「いいえ、本当の名前よ。」と彼女は澄していた。
 周平はそれを耳にした瞬間から、何だか聞いたような名前だと感じた。そしてすぐに、隆吉の母は高井英子とかいう女だと村田の話に聞いたことを、はっきり思い出した。
 隆吉の母が英子という名であることは、吉川の日記にあったE子というのに照し合しても、本当らしかった。然しその姓の方は、村田の話に聞いただけで、誰に確かめたわけでもなかった。としても、名が間違っていなければ、姓はなお更間違っていないとするのが至当だった。
 偶然の符合であるかも知れないが、然し……と周平は考えた。そして考えれば考えるほど、怪しい疑問のうちに陥っていった。高井という姓はそう沢山はないこと、英子の身の上について村田から聞いたこと、お清が時々京阪の弁を使うこと、それから、お清が保子そっくりの眼付をすること――それは何も英子とお清とを近づける理由にはならなかったが、然し、それが周平の心には最も強く響いた。彼は当時の吉川の心持に思いを馳せてみた。すると、その眼付が非常に重大な意味を持ってきた。
 それにしても、お清が果して英子の後身だとするならば、英子に逢ったことがあると自ら云ってる村田が、ああ平然たる態度でいるわけはなかった。
 周平は種々考え惑った末、村田に出逢った時、思い切って尋ねてみた。
「君は高井英子さんを本当に知ってたのか。」
「高井英子、何だいその女は?」
 村田はけろりとした顔付をして周平の方を見返した。
「そら、君がいつか話したろう、吉川さんと一緒になっていて、隆ちゃんを生み落すと吉川さんを捨てて、大阪の方に……。」
「ああ、あの女か。」と村田は周平の言葉を中途で遮った。「それがどうかしたのか。」
「いやどうもしないけれど……。」
「じゃあ何だい? 噂でも聞いたのか。それらしい女にでも逢ったのか。」
 疊み掛けて尋ねられると、周平はどう答えていいか分らなかった。暫く黙ってた後、苦しまぎれに突込んでいった。
「いやそれよりも、君は英子さんに逢ったことがあるのかないのか、それが先決問題だ。」
「いやに面倒くさいんだね。……僕は一度も逢ったことはない。名前だけは聞いて、大抵どんな女だか想像はついてるが、まだ顔を見たことはないんだ。」
「だが君は先達っての話に、こうこういう顔の女だということまで云ったじゃないか。」
「それは僕の想像さ。性格を聞いてその顔立が分らないようじゃ、小説は書けやしないよ。今に僕は、皆をあっと云わせるほど素晴らしいものを書いてみせるつもりだ。」
 周平は唖然とした。
「その女に逢ったというのだけは嘘だが、」と村田はやがて思い出したように云った、「吉川さんの話は本当だぜ。嘘だと思うなら横田さんにでも聞いてみ給え。」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。」
 そして周平はすたすた歩き出した。
「おいおい、そう急ぐなよ。」と村田は後から呼びかけた。「僕の方ばかり尋ねておいて、御自分の方はどうしたんだい。その……英子という女が何とかしたのか。」
「何でもないがね……。」
 周平はお清のことをうっかり打明けようとした。がその時、向うから貨物自動車がやってきて、側を走り過ぐる騒然たる響きのため、一寸口を噤んだ間に、彼はふと思い直した。
「実は、りゅうちゃんはお父さん似かお母さん似か、どちらだろうと思って、君に尋ねてみたのさ。」
「なあんだつまらない。いやに匂わせるものだから、何か面白いことかと思ったら……。そりゃあ君、二人の間に出来た子だから、両方に似てるにきまってるさ」
 空気が澄みきってるわりに、妙に真黒い感じのする寒い夜だった。暫く黙って歩いていたが、周平は俄にうすら寒い気持になって、村田の方を顧みた。
「何処かで熱いのを一寸やりたいね。」
「よかろう。」
 村田は言下にそう答えながら、何処ともきめないで歩いてるうちに、ほかのことを云い出した。
「実はね、僕は吉川さんのことを小説に書こうかと考えてみたんだ。勿論、モデル問題が起らないくらいに修飾をしてね、それから横田さん二人のことも――これは恋の勝利者だから構わないようなものの、一寸気がさすのではぶいてしまうんだ。要するに、失恋して自棄になってる所へ、変な女に引っかかって、生憎あいにくと子を産ませてしまい、それからその女に捨てられて、一人で子供相手に暮すという筋さ。自暴自棄から次第に真面目なヒューメンな気持へ落着いていく心理、それが出なければ駄目だね。所が今の僕では、とてもそこまで突込んでいけそうもないから、構想の途中で止してしまったが、考えてみれば筋が少し陳腐だね」
 周平は今そんな話を聞きたくなかった。
「おい何処にしよう。」と彼は云った。
 村田は話の腰を折られて、きょとんとした眼付をした。
「今晩は君と二人きりでゆっくり話したいね。」
「よし、誰も来ない家に行こう。」
「蓬莱亭の三階はどうだい。」
「さあ。」と村田は一寸首をかしげた。
「僕はまだ一度も上ってみたことがないんだが、丁度いい折だからどうだろう。」
「そうだね。」と村田はなお決しかねてる様子だったが、突然大きな声で云った。「じゃそうしよう。だが君、案外汚い所だぜ。」
 村田はぴゅうと口笛を吹いて、それからまた他のことを云い出した。周平はそれをいい加減に聞いてるうちに、ふと気がかりになって、懐の淋しいことを断らなければならなかった。
「心配するな。そんなことは分ってるよ。」と村田は云った。

     三十二

 蓬莱亭の前まで行くうちに、周平の心は一種の不安を感じだした。
 おきよと英子とが同一人であるかも知れないという彼の想像は、村田が英子の顔を知らないということによって、一つの障害が除かれたわけだった。彼はその想像を益々逞しゅうしながら、一方にはその想像が事実となった場合のことを思うと、何としていいか分らない気持になった。
 その上、彼はも一つ気懸りなものを感じた。ひそかに村田を誘って蓬莱亭の三階へ落着こうとしたのは、気の置けない――場合によっては凡てを打明けてもいい――村田と二人きりで、ゆっくりお清に逢ってみたいからだった。然し今その途中に在ると、お清にゆっくり逢いたいというのは、単なる好奇心からばかりではないような気がした。お清の身の上に種々な想像をめぐらしながら、いつのまにか頭の中に浮べてる彼女の姿に対して、彼は淡い胸の震えを覚えた。それは、保子に対する気持と、同じ種類でありながら異った調子のものだった。恋でも愛でもないけれど、それに似た怪しい魅惑で、一方が澄みきってるのに対して、これは底の方に熱っぽい濁りを持っていた。
 彼は暗い所へでも陥ってゆくような気がした。と同時に、そうした自分自身を甘やかすような気分も動いてきた。陥るなら陥るがよい、その後で跳出してやれ、と後は淋しい心の中で自ら云った。
 蓬莱亭の前に立って、内部に白いきれを垂れてる硝子戸の隙間から、そっと中の様子を窺うと、五、六人の客が声高に談笑していたが、親しい仲間の者は来ていないらしかった。
 村田は周平の方へ一寸目配めくばせをして、つと扉を押した。周平は黙って彼の後に随った。
 奥の帳場格子の向うに、どんなことがあっても没表情な顔をくずさない主婦おかみさんが、ぼんやりした浅黒い顔を見せていた。村田は真直にその方へ行った。
「今日は井上君と一寸秘密な話がありますから、三階の室をかりますよ。」
「ええ。」と主婦さんは簡単な返辞をした。
 二人の姿を見て、程よい卓子に椅子を直していた女中に、村田は低く囁いた。
「今日は三階うえへ行くんだ。誰が来ても知らせないでくれ給え。」
「なぜ?」
 それには答えないで、村田はさっさと広い階段を上っていった。周平はその階段に踏みかけるまでに、階下にはお清がいないことを見て取った。
 階段を上りきると、階下したからは想像がつかないくらい広い明るい広間に出た。真白な布をかけた卓子が規則正しく並べてあった。窓に近い卓子で、二組の客が食事をしていた。其処にもお清の姿は見えなかった。
 広間とその横の小さな室との界目から、薄暗い狭い階段が急な角度で上っていた。それを上りつくすと、五燭らしい電灯がぼんやりともってる狭い廊下に出た。左手は疊を敷いた室で、薄汚れのした絨緞の上に餉台ちゃぶだいが一つ置いてあった。右手は天井だけ白く塗った裸壁の洋室で、一つの長椅子と二、三脚の籐椅子とが、室の割に大き過ぎる四角な卓子をとり囲んでいた。
 村田と周平とは洋室の方にはいって、長椅子の上に身を投出した。そしてただ訳もなく眼を見合せた。
 がーんと耳鳴りがした後にひっそりとなった時のような気持だった。村田は煙草に火をつけながら云った。
「どうだい、思ったより汚い狭苦しい室だろう。」
「いや、素朴でいいじゃないか。」
 背の低いふとった女中が、酒や料理を運んできた。
「今晩井上君と二人でゆっくり話すんだから、あちらへ行ってていいよ」と村田は云った。
 周平は、余計なことを云うと思ったが、さしとめるわけにもゆかなかった。自分の方から二人きりでゆっくりしようと云い出したことだった。然し、村田と二人でさし向っていた所で、別に面白いこともなかった。お清に逢うのが目的だったのだ。そして、そのお清はいつまでも出て来なかった。居ないのかなと考えて見ると、先刻階下にも二階にも姿の見えなかったことが、俄にはっきり思い出せた。
 その間に村田は、こんなことをしみじみと云い出していた。
「人は僕を呑気者のんきものと云ってるけれど、それは皮相の観察で、実は僕は無抵抗者なんだ。然し、無抵抗者と無抵抗主義者とは違う。主義となると、其処に一種の排他的抵抗が出て来るものだ。だが僕のは真の無抵抗なんだ。そして僕は面白いことを考えついた。無抵抗な自分の頭をじっと見戍ってると[#「見戍ってると」は底本では「見戌ってると」]、丁度天気と同じような変化をしてることが分る。がらりと晴れてる時もあれば、じめじめ雨が降ってる時もある。また、晴れてるのに雲がむくむく出て来たり、曇ってるのがいつのまにかすーっと晴れたりする。それでね、僕はこれから、自分の頭の天気模様を表に取ってみようと思いついたのさ。屹度何か面白い結果が現われるに違いない。或は意外な発見があるかも知れない。そして、それには僕のような無抵抗者でなくちゃ駄目なんだ」
「じゃあ今はどうなんだい。」と周平は尋ねた。
「そうだね……夜、晴朗、とでも云うのかな。」
「それでは実際の天気と同じじゃないか。」
「いや違う。空は晴れてやしないんだろう。」
「晴れてるさ。」
 然し窓を開いて覗いてみると、外はただ真暗で、晴曇のほども分りかねた。冷やかな風が何処からともなく流れ寄ってきて、急に身体が寒くなった。
「おう寒いや。」
「だから熱いのを持って来たわ、気が利いてるでしょう。」
 引き取って云った声の方を顧みると、お清の真白い顔が入口から覗いていた。
「なあんだ君か。」と村田が云った。「喫驚しちゃったよ。持って来たら早く出せよ。」
「取りにいらっしゃい。秘密のお話だから中にはいってはいけないんでしょう。」
「そうだそうだ。葷酒くんしゅ以外の者は何人もこの山門さんもんに入る可らず。取りに行ってやる。」
 村田が立って行くと、お清は四、五歩退しざって、戸の外に出て来た村田の横をつとすりぬけ、室の中にはいり込んで、がたりと扉を閉めた。
「おい、冗談じゃない。開けろよ、早く。」
「開けないわよ。私井上さんと秘密の話があるんだから、誰もはいってはいけない。……ねえ、井上さん!」
 酒を飲んだらしい赤味のさしてる真白い顔の中から、白目がちの澄んだ眼が、周平の方をじろりと見て笑っていた。周平は口がけなかった。
 やがて村田がはいってきて、長椅子の上の周平の側に身を落すと、お清はいきなり二人の間にはいり込んで、二人の手をしかと左右の手で握った。その手が妙にばさばさ乾ききってるように、周平は感じた。
「秘密の相談て、何なの?」
 瞬きと一緒にくるりと動く眼が、周平の顔を眺め、次に村田の顔を眺めた。
「云えないから秘密なのさ。」と村田は云った。
「じゃあ私、いつまでも此処から出て行かない。」
「そいつは有難い。君に一晩中取持って貰えば本望だね。此処から出ようたってもう出さないぜ。」
「私もあなた方二人に介抱して貰えば本望だわ。出そうたって出るものですか。」
「そうくるだろうと思っていたよ。」
 長椅子の背に身をもたして、がっくり後に反らしていた頭を、彼女は俄にもたげて、村田の方をじっと見た。
「何が?」
「いやこっちのことだよ。……秘密の相談という餌でお清ちゃんを釣ったわけさ。」
「そう。私も一寸釣られてみたかったのさ。」
 語尾を村田のに真似て一寸気張ってみせたが、それからほーっと息をした。
「ああ酔った。」
「誰にそんなに酔わされたんだい。」
 彼女は何とも答えないで、くすりと笑った。そしてじっと電燈の光りを仰いだ。
「この電気は妙に薄暗いわね。」
「今にはじまったことじゃないよ。」
「そうかしら。」
 おとなしく受けておいて、彼女はまた椅子の背に頭を反らした。
 その横顔を、周平はじっと眺めた。眉根まで通ってる鼻つきが、いやに頑丈らしく下品に見えた。額から蟀谷こめかみへかけた小皺が、脂を浮かして気味悪く光っていた。
 周平は眼を外らして杯を取り上げた。
「特別にお酌してあげるわ。」とお清は云った。
「特別にでなくても普通にで沢山だよ。」
「分らない人ね。」
 ぐるりと顔をねじ向けて、顎と口とでつんと澄した、その様子に、周平は突然心を惹かされた。
「おい、村田、」と彼は云った、「二人がかりでお清ちゃんを酔い潰してみようじゃないか。」
「そう、」とお清がそれを引取った、「その代りに介抱して下さるわね。」
 彼女は杯を受けて、それからなお二三杯飲んでいたが、突然何か思い出したらしく、慌てて立ち上った。
「待っていらっしゃい。今じきに来るから。」
 扉をがたりと閉めて出て行った。
「ひどい奴だね。」と村田は云った。
 それが彼女の態度のことなのか扉の閉め方なのか、周平には分らなかったので、黙って見返すと、村田はまた云った。
「初めに戻って、二人でゆっくり飲もう。」
 然し、お清が立去ってしまった後の空虚が、何となく室の中を淋しくなしていた。周平は黙って杯を手にしながら、彼女のことを考えた。
「君、お清は一体幾歳いくつになるんだろう。」と周平は突然尋ねた。
「さあ、幾歳かな」と村田はどうでもいいという返辞をした。
「僕には、二十はたちくらいに見える時もあれば、また大変けて、二十五六にも見える時があるんだが……。」
「じゃあその間の二十二三にしておけばいいじゃないか。」
 然し周平にとっては、彼女の年齢が一つの問題だった。英子と彼女と同一人だとするならば、どうしても彼女が三十歳近くでなければならなかった、隆吉という子があるのだから。と云って、彼女を三十歳か少くとも二十六七歳にするには、あまり可哀そうな気もした。顔の上半分が老けてるにも拘らず、下半分に現われてる溌溂とした若さは、単なる扮飾だけで得られるものとは思えなかった。
 二人はもう別に話をするでもなく、黙って杯の数を重ねた。
 お清がまたやって来た時、村田はふと思い出したように尋ねた。
「君は一体幾歳いくつになるんだい。井上が大変それを気にしてたぜ。」
「そう。幾歳に見えて?」
「井上の眼には、丁度だってさ。」
「丁度、嬉しいわね。」
「冗談じゃない、けたが違うんだ。」
「え?」
「桁……というんじゃないのかな。一周上ひとまわりうえというのさ。」
「それじゃ三十というの。」と彼女は微笑の口を尖らしてみせた。「どうせそうなんでしょうよ。お婆さんは引込んでろって謎でしょうよ。」
 そして扉をがたりと閉めて出て行った。
 それでも、彼女は間もなくやって来た。そしてはまたすぐに出て行った。ちっとも落着いていなかった。他に気兼ねすることでもあるのかと思えるほどだった。それが周平の気分を苛ら苛らさせた。彼女が居ない淋しさに浸ることも出来なければ、彼女が居るぱっとした明るさに和することも出来なかった。蔭と日向とが交代にやってくるようなちぐはぐな気持のうちに、酒がいやに頭へばかり上ってきた。そして足先からぞくぞくえてきた。
 村田は饒舌り疲れたのか、長椅子の上に身を反らせて、天井の電燈をまじまじと眺めていた。
「もう帰ろうか。」と周平は云った。
「うむ。」
 村田はすぐに応じたが、やはり身を動かさなかった。暫くして云った。
「何だか今晩は変につまらない晩だね。」
 それが、こんな処へ誘われてきた不満の声のように周平には聞えたが、何とも返辞をしたくなかった。
 呼鈴の音でやって来たのは最初の女中だったが、勘定書を持って来たのはお清だった。
「もう帰るの。」
「ああ、」と村田は答えた、「つまらないからほかで飲み直すんだ。」
「どうぞ御勝手に。」とお清は云い捨てておいて、周平の方へ向いた。「こんどゆっくりいらっしゃいよ。一人でね。」
 耳許で俄に低く囁かれた最後の一句が周平の耳にまだ響いている時、村田は振り返って大声に云った。
「おいおい、人前で耳打ちをするって奴があるか。」
「そう、御免なさい。」
 と答えて彼女が、じろりと村田の方へ意味ありげな眼付を投げたのを、周平は顔が赤くなるのを感じながらも認めて、それが変に気にかかった。そしては却って、彼女の方へ心が惹かされていった。

     三十三

 周平は次第に、蓬莱亭へ足繁く通うようになった。金がない時には友人と一緒に、金がある時には一人で行った。最初一人で行った時には、実際酔っ払ってもいたし、酔いの中に自ら自分をつき放してもいたので、大胆に三階へ上っていって、長椅子の上に身を投げ出したまま、お清を相手に暫く無駄口を利いていたが、ふとそうした自分自身に気がさして、間もなく帰っていった。そのことが後で気分にこだわったのを、却って反撥的に出て、平然と三階に落着けるようになった。
「僕は此処にじっとしてるのが好きだ」と彼は女中達に云った。
 窓を開け放すと、高い建物の間に挾ってる低い屋根並の彼方に、街路の灯が点々と連っていた。それが、遠くに聞きなされる電車の響きに包まれて、ちらちら戦いてるように見えた。晴れた晩には、奥深く澄みきってる寒空さむぞらの一部に、凄いほど冴えてる星の群が見えた。月の光りが射す時には、露か霜かに濡れてる近くの屋根の瓦が、鱗のような冷たさに一枚々々光っていた。周平はそれらの景色を眺めながら、云い知れぬ悲壮な気持になっていった。保子のことが――庭に屈んでる所をじっと彼女から見られたこと、月末に或る落語家の独演に誘われたこと、不自由なことがあったらいつでも仰しゃいと云われたこと、用もないのに用ありげな口調で長く待たせられたこと、月曜日をなまけて暫く行かないでいるといきなり叱りつけられたこと、着物の縫い直しを女中にして貰ったこと、長い間二人で黙って坐っていたこと、手の爪を切れと云われたこと――などのいろんなことが、頭の中に一時に湧き上って、捨て去ろうとしてる幻が空遠くに浮出してくる。何かに縋りつかないではおれない気持だった。冷たい夜の空気が窓から流れ込んできて、その気持を益々痛切になしてくれるのが、今は却ってこころよかった。
 その窓を、お清がやって来てはいつも閉めた。
「寒いじゃありませんか。」
「そんなら煖爐ストーヴでも据えてくれるがいいよ。」
「いくら煖爐を置いたって、あなたみたいに開け放しちゃ、何にもならないわよ。」
 窓を閉められて、お清の顔をじっと見てると、周平は俄に寒さを感じ出した。足先と手先とに二つ火鉢を置いていても、ちっとも暖くなかった。
「それ御覧なさい、震えてるじゃないの。」
 彼女も肩をすぼめて火鉢の上に屈み込んだ。真白な頸筋から甘酸あまずっぱい匂いが洩れてきた。周平は眼を外らして、冷たくなった杯を口へ運んだ。
「熱いのを持って来ましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に返辞をした。
 新らしい銚子を持って来る時、お清は扉を開くと同時に、一寸微笑んで睥むような眼付をした。それがともすると、保子の眼付によく似ていた。周平は気持が胸の底へ底へと沈み込んでいった。何も話の種が見つからなかった。お清も別に話題を探すらしくもなかった。
「何を黙って考え込んでるの。」と彼女は云った。
「君の方が黙ってるじゃないか。」
「あなたの所へ来ると何だかしんみりしちゃうのよ。」そして彼の眼をちらと覗き込んで、急に早口で云った。「余り他で饒舌り疲れたせいかしら。」
「そんなら、疲れたらいつでもやって来るさ。」
「そうね。」
 と云いながら彼女は、何処にも疲れた風はなく、暫くするとまたすぐに室を出て行った。
 お清が出てゆくと同時に、周平は立上って室の中を歩きだした。卓子のまわりを二三回した後、また椅子に腰を下ろして火鉢にかじりついた。
 室の空気が冷たかった。彼の心も冷たくなっていた。白い天井の方だけが明るくて隅々が薄暗く思われる、裸壁の狭い室に、一人取残されたような自分自身を見出すのが、堪らなく淋しかった。お清を前にして酔っ払ってゆくことは、捨鉢な好奇な気持を煽り立てる力となったが、お清が室から出ていった後は、どうにも出来ない淋しさに囚えられた。その淋しさをじっと我慢してると、もう身動きをするのも厭なほど気がめいりこんでしまった。
 暫くしてお清がまたやって来ても、彼は火鉢の上に伏せた顔を挙げなかった。
「どうしたの……怒ってるの?」
 お清は寄ってきて、彼の顔を覗き込んだ。彼は黙っていた。
「およしなさいよ、考え込むのは。それでなくっても、この室は何だか淋しくていけないわ」
 彼はぼんやり彼女の顔を眺めた。いつも忙しそうにあちらこちら往き来してるのが、彼には腑に落ちなかった。どの家でも、またこの家でも、他の女中は大抵同じ所にじっとしているものなのに、お清一人が例外だった。
「君はどうしてそう方々の室を飛び廻るんだい。」と彼は云った。
「私が行かなけりゃ治りがつかないからよ。」
「なんだ、威張るなよ。」
 お清は声高く笑って、煙草に火をつけた。その煙をふーっと口の先で吐きながら云った。
「私一つ所にじっとしているのは嫌い、気づまりでいけないから。……でもあなただけは例外よ。」
 それでも、煙草を一本吸ってしまうと、また出て行こうとした。周平はいきなりその袖を捉えた。
「何処へ行くんだい。」
「一寸階下したのお客をみてくるのよ。待っていらっしゃい、じきに来るから。」
 そして彼女はにっこり笑ってみせた。然し彼は袖を離さなかった。
「困るわねえ。……ほんとに忙しいのよ。」
「嘘云うない。他に女中達がいるじゃないか。もうこの手は離さない。……居てくれよ、頼むから。惚れられたと思やいいじゃないか」
 彼は駄々をこねるように身を揺っていたが、急に眼の底が熱くなってきて、卓子の上につっ伏した。
「ああ酔っちゃった。」
 吐き出すように云ったのがなおいけなかった。熱っぽいものが胸の底からこみ上げてきた。
「気分でも悪いの、え?」
 お清は歩み寄ってきて、彼の肩に手を置いたが、それから、無理に顔を挙げさした。彼は涙にぬれた顔をひょいと挙げて、大声に笑ってやった。
「どうしたのよ、井上さん!」
「泣いたり笑ったり……。」
 ぴょんと跳ねて長椅子の上に身を落したが、後の言葉がつかえているうちに、彼は俄に真剣な気持になっていった。英子かも知れないお清とこうして戯れてることが、頭の奥に恐ろしい閃きとなって映った。眼を見据えると、お清は卓子の端につかまって立ちながら、こちらをじっと見ていた。前髪の影を受けた顔の中に、すっと通った鼻筋が白々しく澄していた。
 周平は急に立ち上って云った。
「もう帰るよ。」
「あら、どうして?」
 彼が何とも答えないで帽子を取ろうとすると、お清は素早くそれを取上げてしまった。
「いやよ、訳を云わなきゃ。」
「何の訳?」
 じっと眼を見合したが、彼女の瞳はたじろぎもしなかった。周平は眼を伏せて歩きだした。歩きながら云った。
「今日はもう帰してくれよ。一寸気にかかることを思い出したんだ。急ぐんだ、非常に。また来るよ。その時すっかり話すから。嘘は云わない。勘定もこの次にするから、宜しくやっといてくれ。さ早く。くれなきゃ、帽子は預けとくよ。」
 彼は一寸待ったが、彼女が何とも云わなかったので、そのまま扉の方へ歩み寄った。扉を開けて薄暗い廊下に出ると、彼女は後から駈け寄ってきた。
「今晩あなたは酔ってるから、真直に家へお帰んなさい、ねえ。」
 何を云ってるんだと彼は思ったが、その瞬間に、彼女はつと彼の手を執って握りしめた。いやに冷たいかさかさしたてのひらだったが、それが却って彼の心に強い響きを与えた。彼は涙ぐましい心地になって、その手を強く握り返した。そして、差出された帽子を引ったくって、飛ぶように階段を下りていった。
 外の寒い風に吹かれると、足がふらふらしてるわりに、頭がはっきり冴えてきた。いつのまにか深みへ陥っている自分自身が、驚いて顧みられた。彼は長い間街路をさまよい歩きながら、しまいには、お清から遠ざかろうと思ったり、お清にぶつかってみようと思ったりした。
 然しそれは二つながら実行出来ない決心だった。
 彼は今迄に何度か、お清から遠ざかろうと決心したのだった。けれどそれが出来なかった。お清と英子とは同一人であるかも知れないという疑いは、彼のうちに根を下して、一種の幻覚に似た形を取っていた。絶えずそれが頭につきまとった。隆吉を相手にしてる時、保子の前に淋しい心を投げ出してる時、彼はふとお清のことを思い出して、慌てて立上ることが多かった。保子からそれとなく様子を窺われてることを知り、今にも大きな打撃がやってくることを予期しながらも、やはりお清の方へ惹かされていった。
 それでも彼は、お清と顔を合せると、じかにぶつかってゆくことが出来なかった。彼女が果して英子と同一人であるかないか、ぶつかった後に明かとなった場合には、その何れの結果も恐ろしい気がした。英子だったら……。英子でなかったら……。どちらを考えても、後に残される痛ましい自分自身の姿が見えてきた。お清に心惹かされてるのは、もはや単なる好奇心からばかりではないことを、彼ははっきり意識していた。お清が英子であるかどうか分らないうちは、その意識をごまかすことが出来た。然しそれが明かに分った場合には、もはやごまかしは許されなかった。そして英子である彼女を愛することは勿論、英子でない彼女を愛することも、保子の幻を前にして、堪らないことだった。彼は吉川の運命をまざまざと頭に浮べた。
 然し今更後へは戻れなかった。そしては酒を飲んだ。酒を飲むと、凡てが一色の悲壮なものに塗りつぶされた。

     三十四

 そういう周平は、蓬莱亭で時々竹内と出逢うのを、殆んど気にも留めなかった。
 一度は、二三の友人と階下に居る時、竹内が上から階段を下りてきた。次には、蓬莱亭の前で出逢った。周平は誘われるのを断って、中にはいらないで通り過ぎた。また次には、周平は三階から下りてきて、階下の室を通りぬけ、表へ出ようとして扉を引開くる途端に、階段の蔭から竹内が出て来るのを、ちらと認めたように思った。
 所が或る晩、周平が三階の室で可なり酔っ払って、一人ぼんやりしている時、よろめくような足音が階段を上ってきて、廊下に立ち止った。扉が一寸開いてまた閉められた。廊下が薄暗いので、周平はその瞬間に外の者の姿を見て取ることが出来なかった。そこへ、誰かが慌しく階段を上ってきた。
「おはいりなさいよ、知らない人じゃないから。」と云ったのはお清の声だった。
 それに答える低い声がして、二人は向うの室にはいった。
 周平は変な気がした、聞くともなく耳を傾けていると、暫く低い話声が続いた後に、あははと高い笑声がした。竹内の声そっくりだった。はっと思った時、「知らないわよ、いい加減になさい、」という声と共に、お清は向うの室から出て、階段を下りていった。
 それが変に周平の気にかかった。やがてお清らしい足音が、料理や酒を運んできたらしく、階段を上って向うの室にはいると、周平は我知らず立ち上ったが、また思い直して長椅子に身を落した。それでも、知らず識らず向うの話声に耳を澄した。然し何にも聞き取れなかった。
 彼は苛ら苛らしてきた。これまで向うの室に知らない客が来ることはあったが、いつも彼の注意を惹かないほど高い話声や笑声のみだった。所がその晩だけは全く調子が変っていた。彼は先刻のお清の言葉と竹内らしい笑声とを思い出した。それから俄に、これまでの竹内の変な態度が頭に浮んできた。
 竹内に違いない、そう思うと彼は一種の不安と憤りとを禁じ得なかった。竹内が自分を避けてる理由がはっと胸に響いた。向うがそのつもりならこちらは反対に出てやれという気になった。そして彼はお清が来るのを待った。然し彼女はなかなかやって来なかった。彼は更にじりじりしてきた。残りの料理と酒とをみんなたいらげてしまった。それから長椅子の上に寝そべった。頭がかっとしてきた。
 彼はお清がそっとはいって来たのも知らなかった。「あら、寝てるの、」という声に飛び起きると、彼女はすぐ彼の前に立っていた。
「まあここに坐れよ。」と彼は怒鳴りつけるように云った。
 お清は黙って椅子に掛けたが、何だか興奮してる様子だった。身体を固くして、口をきっと結んでいた。小さな唇に小皺が寄っていた。周平は一寸気勢を挫かれた気持で、低く尋ねてみた。
「向うに来てるのは竹内だろう。」
 お清は何とも答えないで、ちらと彼の眼を見返した。
「おい、竹内だろう。」と周平はまた尋ねた。
「ええ、そうよ。」
 事もなげに答えておいて、お清は急に彼の方へ向き直った。
「あなた、竹内さんと喧嘩でもしたの。」
「なぜ?」
「だって、いやに気にしてるじゃないの。」
 彼は何とも答えないで空嘯いてみたが、ふと、先刻自分がしたように、竹内が向うからこちらの様子に耳を澄してるに違いないと思うと、それが気になって落着けなかった。
「竹内ならこちらへ呼んできたらいいじゃないか。……僕が来てることは知ってるんだろう。」
「ええ。だけど一人がいいんですって。」
「変な奴だな。」
 お清は口を尖らしてみせた。
「何だい?」
「ほんとに変よ。あなたが来てると竹内さんはいつも帰ってゆくから、今日はだまかして三階に通してやったのよ。すると、おかしかったわ。酔っ払ってる癖に急に真面目な顔をして、内密内密ないしょないしょだって……。」
「よし、そんなら僕の方から押しかけていってやる。」
 周平が立ち上ろうとするのを、お清は無理に引止めた。
「そんなに気にかけなくってもいいじゃないの。」
 云われてみると、周平はぎくりとした。何かと空威張からいばりをしてみても、やはり声をひそめてこそこそしていたことが、俄に頭に映ってきた。そして自分自身に腹が立ってきた。そのままでは済せない気になった。半ば捨鉢に声を高くして云った。
「おい、お清ちゃん。」
 お清は喫驚したように、二重眼瞼の眼を一杯見張ってくるりとさした。
「今晩何処かで逢わない?」
 云ってしまうと、案外心が落着いてきた。じっと見つめられたのを、彼も見返してやった。彼女はその眼を外らして、向うの室へちらと目配せをした。
「だからさ。」と周平は低く囁いた。
 お清は眼と口とで微笑んだ。
「どうだい。」
「今晩は駄目。」彼女も大きい声で云った。
「じゃあ明日あした。」
「明日ならいいわ。おひるから?」
「昼間はいやだ。晩にしよう。」
「ええ。八時頃。」
「本当かい。」
「本当よ。」
 言葉が途切れると、不思議な気持になった。二人共ぼんやり顔を見合った。嘘ともまことともつかない約束が、ぽかりと投げ出されていた。周平は手を銚子にやったが、酒はもうなくなっていた。も一本とお清が云うのを断って、そのまま帰りかけた。
「どうするの?」とお清は低く云った。
 周平はその眼を覗き込んだ。敵意を以て挑みかかるような鋭い眼付だった。
「本当さ。」と彼は云い捨てた。そして咄嗟につけ加えた。「八時頃、お茶ノ水の橋で待ち合せよう。」
「屹度ね。」と彼女は声高く叫んだ。
「ああ。」
「じゃあお約束」
 彼女が小指だけ差出したのを、彼も小指を差出して、強く握り合せながら打振った。それから、何かを踏みにじるような気持で、わざと大きな足音を立てて階段を下りていった。足下あしもとがふらふらしていた。

     三十五

 霧深い夜だった。周平は約束の八時に五分前頃、お茶ノ水橋に行ってみた。変な意地からふと為した約束ではあったが、彼はもうそれを悔いてはいなかった。求めても得られないいい機会だった。此度こそ彼女に直接ぶつかってみよう、というのが彼の考えの全部だった。
 然しおきよはなかなかやって来なかった。周平は苛ら苛らしてきた。約束をした時の調子が調子だったので、或は来ないのかとも考えられた。彼は橋の西側を三四度往き来した。深い谷間に霧が濛々と渦巻いていて、両岸から差出た木立が梢の方だけ浮出して見え、その間から遠くに街路の灯が点々としてるのが、山の湯という感じを持っていた。彼はいつしかその景色に見とれて、橋の欄干にもたれて佇んだ。ともすると決心が鈍って、一種の甘い感傷に陥りかける心を、自ら気づいては抑え抑えした。
 彼はお清の家がどの方面にあるかを知らなかった。然し大抵は院線電車で来るだろうという気がした。電車が来て、可なりの人が停車場から吐き出されるのを、じっと物色してみたが、お清の姿を見出さないと、淡い不安に囚えられていった。そしてはまた橋の中程まで行って、その欄干にもたれて佇んだ。
 停車場から出て来た人の足音が途絶えて、あたりがひっそりとなった時、お清はひょっくり霧の中から現われてきた。
「御免なさい、遅くなって。」
 黙って彼の側へ寄ってきて、欄干に一寸手を置いたが、ふいに大きな声を立てた。
「おう冷たい。濡れてるじゃないの。」
 鉄の欄干が霧にしっとりと濡れてるのを、周平は初めて気づいた。驚いて手を引込めながら、彼女の顔をじっと眺めた。彼女は薄暗い中で大きな瞬きを一つして云った。
「でもよく来て下すったわね。私すっぽかされるのじゃないかと思って、蓬莱亭へ一寸寄って来たから、遅くなったのよ。」
「だって約束じゃないか。」
「約束は約束だけれど……。」
 云いさして彼女が、笑みを含んだ眺め方をしたので、周平は漸く心が落着いた。ただ彼女が、水浅縹色みずあさぎいろの長い毛糸の肩掛をしてるのが、一寸変に思えた。
 周平は黙って歩き出した。橋から右へ河岸かしに沿い、万世橋の方へ行ってみたが、側を通り過ぐる電車の響がうるさくて、ふいと左の横町に曲り込んだ。お清は少し離れてついて来たが、人通りが少くなると、肩がすれすれになるくらいに寄ってきた。
昨晩ゆうべあれから可笑おかしかったわ。」
「何が?」
「竹内さんがね、やっぱり私達の話を聞いてたとみえるわ。何処へ行く約束をしたんだいと聞くんでしょう。そんなことを聞く人があるものですかとつき放してやると、そんなら、君達はいつ頃からそういう仲になったんだい、ですって。」
 周平は何とも云わないで振向いてみた。彼女は澄して云い続けた。
「あんまりだから、私白ばっくれて、もうずっと前からよ、今迄気がつかないなんて、あなたも随分ぼんやりね、と云ってやったの。すると此度は、前からっていつ頃だいと、いやにしつっこく聞くんでしょう。いつ頃からだか覚えていないと答えると、暫く考えこんでから、急に真面目になって、それじゃ僕は井上君に忠告してやらなけりゃならない、ですって。随分人を馬鹿にしてるわね。」
「それから?」と周平は少し気になって尋ねた。
 お清は心もち肩を峙てて霧の中を透して見るようにしながら、五六歩した後に云い続けた。
「そして云うことが振ってるわ。井上君は君とそんなことをしては他に済まない人が居る筈だと、こうなんでしょう。……でも、あなたそんな人があって?」
 周平はぎくりとした。竹内が最近横田の書斎へ時々顔を出してる由を、俄に思い出した。然し、済まないというのがどういう意味であるか推しかねて、黙っているうちに、お清は先を続けた。
「あってもなくっても、そんなこと別に構やしないわね。だけど、あんまりな云い草だから、あなたはいやに人を見下してるのねと、つっかかっていってやったの。私少し酔ってたのよ、屹度。そして訳の分らないことを云い争ってるうちに、何だかこんぐらかってしまって、それから、竹内さんの捨台辞にね、要するに僕も君に惚れてるのさ、ですって。私鼻の先でふんと澄してやったわ。……あんな厭な人ってありゃあしない。」
「そんなに悪く云うもんじゃないよ。」と周平は漸く云った。
「構やしないわ。すぐにおかしな関係があるように取るのが、あの人のいつもの癖なんだから。せんにも同じようなことがあったのよ。」
「石のつぶての一件の時かい?」
「あら、あなたも知ってるの……あの時はほんとに可笑しかったわ。でもあれは、私の知恵じゃないのよ。お主婦かみさんと二人で一生懸命に考えたのよ。」
「然し随分長い間の執念だね。」
「え?」
「竹内がさ。」
「何だか分ったものじゃないわ。あの人にはいやな野心ばかりしかないんだから、うっかり出来やしない。私ちゃんと尻尾を掴んでいることがあるのよ。」
 そんなことを話してるうちに、周平は次第に心が或る深みへ引きずり込まれる気がした。お清の言葉を本当だとすれば、そういう風に自分との関係を竹内に伝えられた以上は、今後このままでは済みそうに思えなかった。一時の意地張りからとは云えないものが感ぜられてきた。そして彼は、一種の甘い心の動きと矜りとを禁じ得なかった。それが一転して気遣わしい不安となった。彼は竹内のことを考え、次に保子のことを考えた。然しお清から来る魅惑の方が更に強かった。それに抵抗しようとしても、ともすると足が滑りそうだった。縋るべきものはただ一つの問題のみだった。彼は愈々時機が来たのを感じた。
 電車通りへ出た時、お清は一寸足を止めた。彼はそれに構わず、黙って通りを向うへ横切った。それからすぐに不忍池しのばずのいけの端に出た。
「もう活動や寄席よせも遅いわね。」
 その言葉が彼には、何かを促すように聞き做された。
「一寸話があるんだが、も少し歩かない?」と彼は云った。
 大きく見開いた眼でじっと見られたのを、彼は上から押被おっかぶせた。
「もう疲れたの。」
「いいえ、歩くわ。……どんな話?」
 彼は何とも答えないで、云い出すべき言葉を心の中で考えながら、池の岸に沿ってゆっくり足を運んだ。彼女も彼と肩を並べてついてきた。
 霧は少し薄らぎかけていたが、まだ星の光りは見えなかった。一面に茫とした中に、弁天島や対岸の点々とした灯が、魚の眼のように浮出していた。枯蓮の静まり返ってる池の面から、裾寒い空気が寄せてきた。周平は眼を足下に落しながら云った。
「真面目な話だから、本気で答えてくれなくちゃ困るよ。」
「あなたが本気で云うんなら、私も本気で答えるわ。」
「そしてね、これは秘密の話なんだから……。」
「ええ、誰にも洩さないわ。」
 余り事もなげな調子だったので、周平は多少不安な気もしたが、もう躊躇する場合でなかった。いきなり切り込んでいった。
「君に姉さんがありはしないかい。」
「あるわ、二人。」
「今どうしてるの。」
「二人共お嫁に行って、仕合せに暮してるそうよ。……私はもう長く逢ったことがないから、よく知らないけれど。」
「初婚かい。」
「ええ、早く結婚しちゃったのよ。」
「何処で?」
「名古屋で。名古屋が私の故郷よ。」
「それじゃ、君に妹があるかい。」
「私は末っ児よ。」
「君の名は高井清子といったね。」
 彼女は笑い出した。笑いながら周平の腕につかまってきて、自棄になったように揺ぶった。
「しっかりなさいよ、馬鹿々々しい!」
「いや、これから追々本当の問題に触れてくるんだ。」
 と云ったが、それが自分でも変に調子外れの気がして、彼はぼんやりしてしまった。話のいとぐちが分らなくなった。それを強いて云い進んだ。
「君は以前に、或る人と同棲していて、子供を産んだことがあるだろう。」
 怒鳴りつけるように云い捨てた彼の言葉が消えてしまってから、暫くして、お清は落着いた調子で答えた。
「ええ、あるわ。」
 周平はぎくりとして振り向いたが、彼女の顔はただ真白な冷たさで静まり返っていた。
「それじゃ、その子供が今どうしてるか知ってるかい。」と周平は急き込んで尋ねた。
「知ってるわ。」
「じゃあ僕のことも知ってるんだね。」
「あなたのことって、一体どんなこと?」
 見返した彼女の眼は、冷かに澄み切っていた。周平は黙って歩きだした。頭がもやもやしてきた。
「どうしたのよ。」とお清は後から追っかけてきた。「すっかり仰言いよ。訳が分らないじゃないの。」
「だが……その子供は今何処に居るんだい。」
「地の下に居るわ。他家よそにやってるうちに死んじゃったんだから。」
 周平はぽかんとして足を止めた。その顔を彼女は覗き込んできた。そして俄に言葉を続けた。
「それをどうしてあなたは知ってるの。」
「本当に死んだのかい。」と周平は云った。
「本当でしょうよ、屹度。」
 無関心な調子でそう云い捨てておいて、彼女は更にじっと覗き込んできた。周平は眼を外らしてまた歩きだした。
 暫くすると、お清は後からふいに呼びかけてきた。
「井上さん!」
 周平はちらと投げた眼付でそれに答えた。
「あなたはどうしてそんなに子供のことを気にかけてるの。何か訳があるんでしょう。」
 彼女は小走りに二三歩寄ってきて、周平の肩に軽く手を置いた。その接触を周平は俄に息苦しく感じた。袂から煙草を探ってマッチをすった。真白な淋しい顔がぽっと輝し出されてすぐにもやもやとなった。その瞬間に、彼女は肩の手を滑らして、彼の手の指を小指と藥指と二本探って、そっと握ってきた。
「ねえ、訳を仰しゃいよ。」
 取られた二本の指から、しみじみとした而も妙に腹立たしい感情が、胸の奥までしみ通っていった。彼は我知らず話し出した。
「僕は今或る家の家庭教師みたいなことを少ししてるんだが、その子供が実は孤児みなしごなんだ。お祖母ばあさんが一人あるけれど、それとも別々になって、叔父さん夫婦の家に引取られてるのさ。叔父といっても本当のでなくて、父親の従兄いとこなんだが……。」
 そこまできてつかえたのを、彼はがむしゃらに云い進んだ。
「その従兄弟同士で、以前、或る一人の女に恋したのさ。いろんなことがあって、女は一方を選んでしまった。選にもれた方の人は、半ば自暴自棄になっていったが、そのうちに或る女と同棲するようになって、子供が一人出来た。すると間もなく、その女から逃げ出されて、しまいに病死だか自殺だか分らない死に方をしたんだ。後には子供とお祖母さんとが残った。そして、お祖母さんの方は他家よそに雇われてゆき、子供の方は、父の従兄いとこと恋人と一緒になってる家へ、引取られて世話されてるんだ。」
 彼は突然口を噤んだ。がすぐにつけ加えた。
「その子供の母親を高井英子というんだが、いろんなことから考えると、それが君のことらしい気がするのさ。」
 吐き出すように云ってしまってから、彼は俄に不機嫌になった。今まで一生懸命に考えてたことが、いざとなると、変につまらなくなってしまった。馬鹿げていた。けれども、それでいてやはり真剣な心地だった。
「そう、不思議な縁ね。」とお清は呟いていた。彼はその顔をじろりと見やった。
「私がもしそうだったら、あなたはどうして?」
「どうもしないさ。」
「そうでなかったら?」
「どうもしないよ。」
「それじゃ訳が分らないじゃないの。」
「分らないさ。」
 そして彼は黙り込んでしまった。何を不機嫌に腹立ってるんだと自ら浴せかけてみたけれど、妙にこじれた気持が納らなかった。お清になお二三度言葉をかけられたが、返辞をしなかった。
 池を一周してしまうと、お清は突然立ち止って云った。
「何か食べましょうか。私くたびれちゃったから。」
 周平は機械的に首肯うなずいてみせた。どうとでもしろという気になっていた。
 二人は電車通りに出て、すぐ其処の鳥屋へはいった。

     三十六

 通されたのは奥まった六疊の室だった。お清はがっかりしたように、肩掛を丸めてとこの上に抛り出しながら、餉台の前に膝をくずして坐った。お召の着物の上に金紗の羽織をだらりとつけていた。淡緑色の無地の繻絆の襟から、痩せてるわりに肉のむっちりした真白い頸筋を伸べて、周平の方へ微笑みかけた。
「ああ、これでやっと落着いたわ。」
 然し周平は落着かなかった。明るい電灯の光りに輝らされると、彼女の服装に比べて、自分の垢じみた銘仙の着物が、如何にもみすぼらしく思えてきた。それよりも、今こうして彼女と向き合って坐ってることが、先刻からのことと、全く飛び離れた世界に在るような気がした。
 眉間に大きな黒子ほくろのある首の短い女中が、二三の料理や寄せ鍋の道具を運んできた。
「私がしますからよござんすよ。」
 お清はそう云って女中を追いやった。
 器用な手附で餉台の上や鍋の中を整えてる彼女の姿を、周平は不思議な気持で眺めた。痩せがたの顔や腰に比較して、頸から肩から胸へかけ、わりに厚ぼったい肉付があるのに、一寸眼を惹かされた。それに自ら気が付くと、急いで眼を外らしながら、続けざまに杯を重ねた。
「あら、そんなに急に飲むと酔っちゃうわよ。」
 それでも彼女は、彼の杯を少しもからのままにしておかなかった。そしてまた同じくらいに、自分の杯へも手の銚子を持っていった。
「私あなたとこんな処へ来ようとは思わなかったわ。」
「僕も思わなかったよ。」
 軽く受けてじっと眼を見据えてる彼の方へ、彼女は俄に真顔で向き直ってきた。
「井上さん、先刻さっきの高井……英子とかって人ね、あなたはどうして私をそうじゃないかと思ったの。」
「ただそんな気がしたからさ。」
「嘘仰しゃいよ。」
 睨めるようにした彼女の眼付が、保子のとそっくりな閃きを見せた。周平はぎくりとした。彼女はまた疊みかけてきた。
「どうしてあなたはそのひとのことを、そんなに気にしてるの。誰にも云わないから、訳を聞かしてもいいでしょう。」
 顔をあげると、もうその眼付は消えて、円みを持った細い眉の中に二重眼瞼の眼がぱっちりと開いて、小さなやさしい黒目が彼の方をじっと覗き込んでいた。彼は急に気が挫けてきた。彼女のうちの善良なものに何かを訴えたくなった。
「訳があるというんじゃないが、僕はその子供を教えてやってるし、子供の父親のことも可なり聞いてるし、子供を引取ってる奥さんにも随分世話に……。」
 云いかけて彼は、きっと唇を噛んだ。
「その奥さんでしょう、あなたを大変可愛がってるというのは。」
 彼は駭然として彼女を見つめた。
「そんなに喫驚しなくってもいいわ。別に変な意味で云ったんじゃないから。」
「じゃあ特別にそんなことを断らなくてもいいさ。」
「だけどあなたが変な風にとったようだから……。」
「馬鹿なことを云っちゃいけない。僕はその奥さんに非常に世話になってるんだ。心から本当に感謝してるんだ。」
 彼はぷっつり言葉を切って黙り込んだ。云えば云うほど、心と言葉とがちぐはぐになりそうだった。そしてその結果が恐ろしくなった。お清の美しい二重眼瞼の眼がすぐ前に見開かれていた。
「いやに考え込んじゃったのね。」と暫くしてお清は云った。「もうそんな話は止しましょうよ。……何か面白いことはなくて?」
 客は余り込んでいないらしく、家の中がひっそりしていた。周平はいつのまにか保子のことを考えて、涙ぐましい心地になっていた。お清の言葉に顔を挙げて見やると、酒のためか、額や蟀谷のあたりに陰鬱な影を漂わしていたが、ぽっとほてっているらしいその顔から、湿いを帯びた黒目と唇とが、まざまざと覗き出していた。
「何だか淋しい晩ね。」
 心もち傾げた首をそのままに、身を反らせ加減に疊についていた左手を餉台の上に持ってきて、人差指の先で一寸頬を支え乍ら、彼女は室の隅にじっと眼を定めた。
 その姿から、周平はもぎ離すようにして眼を外らした。愛慾とも感傷ともつかないものが、しみじみと胸の底から湧き上ってきた。電灯の光りが余りに明るく感ぜられてきた。心苦しくなって坐り直した。
「もう出ようか。」
「ええ。」
 口先だけで軽い返辞をして、それでもじっと見返してきた彼女の眼を、周平は顔を伏せて避けた。そして咄嗟に、懐の金入を彼女の前にほうり出した。
「僅かしかないが、それでいいようにしといてくれよ。」
 その日の朝、飜訳の原稿を少し届けて野村から借りてきた十五円と、他にこまいのが少しはいってる筈だった。
「そう。じゃあ預かっとくわ。」
 彼女は金入を帯の間にしまいかけたが、ふと顔を挙げた。
「あなたは苦学してるんじゃないの。」
「苦学というほどでもないさ。」と彼は苦いものでも吐き出すようにして云った。
「私これで、あなたのことはよく知ってるつもりよ。……私もね、東京へ逃げてきた当座、それはつらい生活をしたのよ。一日おいもをかじって過したこともあってよ。けれど、その頃が一番よかったわ、今から考えると。」
 周平は俄に眼を輝かした。
「今君は何をしてるんだい。」
「何をって、カフェーの女中じゃないの。」
「それは分ってるさ。だが、何処に住んで何をしてるんだい。」
「何にも別に悪いことはしてないつもりよ。」
「将来何をするつもりだい。」
「そうね、今考え中よ。」
 周平は更に疊みかけて尋ねようとしたが、彼女が口元に薄ら笑いを湛えてるのを見て、言葉が出なくなった。それを駄々っ児らしい気持で云い進んだ。
「ねえ、聞かしたっていいじゃないか。」
「今に分るわ。」と云って彼女は眼で笑ってみせた。そして急に調子を変えた。「それじゃ行きましょうか。」
 彼女が手を叩いて、女中を呼んで、それから、勘定を済ますまで、周平は黙って頭をかかえていた。自分自身が妙に頼りなくて、頭が非常に重く感ぜられた。彼女から促されると、慌て気味に立ち上って帽子を取った。そして、先にたって外へ飛び出した。
 明るい電車通りがまぶしいように思われて、周平はまた池の方へ曲り込んだ。
「もう夜店もおしまいね。」とお清は後について来ながら云った。
 まだ可なり人通りのある明るい街路に、早くもしまいかけてる夜店の灯が、妙に薄ら寒く散在していた。それを池の方へ曲ってしまうと、地の下から伝わってくるような底冷えが感ぜられた。霧は空高く昇ったらしく、星の光りが朧ろに薄らいで見えていたが、地上の空気は冷たく乾ききっていた。
 もう何にも云うこともない、と思うのが俄に淋しくなって、周平は肩をすぼめた。
「僕は酔っちゃった。」
「私も。何だか頭がふらふらするようだわ。」
 ふーっと息をして彼は振り向いた。彼女は池の面にうつってる灯をぼんやり眺めていたが、二三歩してから急に足を止めて、彼の方を覗き込んできた。薄暗い中で、睫毛の影のないあらわな眼が、黝ずんだ熱っぽい輝きを見せて、これからどうするの? と尋ねかけてきた。瞬間に、彼は凡てを忘れた。いきなり彼女の肩に縋りついていった。
 その時彼女は初めて彼に唇を許した。……が、余りに冷かな無感心な態度だった。一寸閉じてまた開いた眼と、濡れた海綿にも似た一種のはがゆい触感とが、彼がその咄嗟に感じた全部だった。彼は心の底から冷たくなっていった。黙って歩き出した。彼女も黙ってついてきた。
 狭い横町をぬけて、電車通りへ出ようとする時、彼女は云った。
「もう何時でしょう。」
 彼は返辞をしなかった。
「帰りましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に答えた。
 街灯の光りの中に出て、彼女はじっと彼の顔を眺めた。彼は顔を挙げなかった。
「私一寸買っていきたいものがあるから、一緒に来て頂戴よ」
 彼は広小路の角までついて行き、洋菓子屋の前で暫く待たされた。それから、牛込まで帰るのだという彼女と、なおお茶ノ水のあたりまで歩くことにして、薄暗い通りを、斜に順天堂の方面へつきぬけていった。
 彼女は手の菓子折をぶらぶらさしながら、いろんなことを饒舌しゃべりだした。いつも一人でやって来て、黙って強い洋酒を飲んでゆく青年があったが、それが自殺してしまったこと、或る女中が人の妾になって、着飾った鷹揚な態度で遊びに来たので、盛んに皮肉を浴せてやったが、一向通じなかったこと、お主婦さんはいつもあんな仏頂顔ぶっちょうづらをしているけれど、相当の家柄だったのが零落して苦労してきた人だけに、非常に思いやりがあって、自分のような我儘者にも種々親切にしてくれること……など。然し彼女は、自分の身の上に関することは少しも話さなかった。
 周平はそれらの話をいい加減に聞き流しながら、心あってかなしにかそういう態度をしてる彼女に対して、一種の憤懣を覚えてきた。それが一転して、このまま彼女を手離したくない気持に陥っていった。然し今更どうしていいか分らなかった。苛ら苛らしてるうちに、順天堂の前まで来てしまった。
 彼女はぴたりと足を止めた。
「私あなたの下宿の前まで送ってゆくわ。」
 その眼を彼はじっと覗き込んだ。
「ねえ!」
 彼は危く我を忘れかけようとしたのを、強いてこらえた。
「いけないよ」
「そう。じゃあ蓬莱亭でね……。」云いさして彼女は帯の間から彼の金入を取り出した。「あの時預ったもの、お返ししとくわ。空っぽかも知れないわよ。」
 差出された金入を受取ると、彼は自分でも訳の分らない感情に駆られて、眼に涙がにじみ出てきた。が、その間に彼女は身を引いて、停留場の方へ歩き出した。
 電車の上から彼女が、堅く引緊めた頬に微笑を浮べて、伏目がちにこちらを透し見やった時、彼は振りもぎるような気持で、つと歩き出した。彼女を乗せた電車が側を走り過ぎると、凡てがしいんとなった。
 彼は真直に下宿の方へ帰っていった。早く身を休息やすらいのうちに横たえたかった。もう何にも考えたくなかった。
 星の光りの淡い寂しい空の下に、掘割に沿った崖道が先低く続いていて、その向うにぽっと明るい広辻の見えるのが、却って佗しい気分を唆った。首垂れながら歩いていると、何処からかまぐれ犬が出てきて、裾のあたりをうそうそ嗅ぎながらつけてきた。彼はそれをやり過しておいて、ふいと横町へ外れた。暫くして振り返ってみた。まばらな軒灯の光りが冷たく縮こまって見える、薄暗い夜更け通りには、生き物の影は一つも見えなかった。彼は不気味な慴えを感じて足を早めた。
 下宿へ帰って自分の室にはいると、みすぼらしい室の有様が、ぴたりと心にうつってきた。彼は俄に寒さを。覚えて、両手を胸に押しあてながら震えた。その時、懐に押し込んでる金入を着物越しに感じて、それを机の上に抛り出すつもりで、懐から引出して、何の気もなく一寸開いてみた。……中には紙幣が十円と五円と二枚はいっていた。その朝野村から借りてきたままのものだった。
 彼は惘然と考え込んだ。お清が何のつもりでそういうことをしたのか、彼には合点がゆかなかった。然し兎に角心あってしたことには違いなかった。彼女は細かなのを――二三円だけを彼の金入から引出して、他は皆自分の金を使ったのだ。ああいう身分の女としては全く意外なことだった。そして……「空っぽかも知れないわよ」と冗談のように云った彼女の言葉が、彼はその時気にも止めなかったが、今はっきり思い出された。
 考えていると、それからそれへと種々なことが頭に浮んできた。もはや彼女から遁れられないような気がした。
 お清と高井英子と同一人ではないかという疑問は、それが消え失せた今となっては、根のない馬鹿げたもののように思われた。然し、その疑問が今迄如何に重大な働きをしていたかを、彼ははっきり知ることが出来た。余りにも事もなく消え失せはしたけれど、その後では、凡ての事情が一変してしまった。恐れていたことが遂にやってきた。彼は直接お清に面して立たなければならなかった。而もお清は、彼から一歩ふみ出しさえすれば、彼の手中に身を託してきそうだった。
 彼は抗し難い怪しい誘惑を俄に感じだした。その誘惑の下から、保子の面影がじっと覗き出していた。保子なら……と思うことが、更に感傷的に彼の心をお清の方へ惹きつけた。その下からまた、保子の面影が浮び上ってきた。
 彼は堪らない気持になって、冷たい薄い布団の中に頭まですっぽりもぐり込んだ。息苦しくて眠れなかった。夜着の襟から顔を出すと、電灯の光が眩しかった。起き上って室の中を真暗にした。廊下の薄ら明りに、障子の紙がぼーっと仄白く浮出した。彼はそれから眼を外らして、真暗な中を見つめた。光りの中に出ることも眼をつぶることも、共に恐ろしいような気がした。自然に眠るまで、ただ闇の中に眼を見開いていたかった。

     三十七

 周平が夜遅くお清を連れて歩いてたということが、間もなく友人間に知れ渡ってしまった。それを最初周平の耳に伝えたのは、何事にも差出口をして親切振った態度を見せる、橋本という背の低い男であった。
 ノートの包を抱えて、弱い日の光りが差してる大学前の通りを、久し振で通っていると、向うから来る橋本にばったり出逢った。
「やあ、珍らしいね、今日は学校に出たのか」と足を止めて橋本は云った。
「出るには出たが、面白くないから帰るんだ」と周平は答えた。
 そして彼は、そのまま橋本と別れるつもりで、すたすた歩きだした。四五歩行くと、後から橋本の声がした。
「それは、学校より蓬莱亭の方が面白いにきまってるさ。」
 周平は驚いて振り返った。橋本は微笑みながらついて来ていた。
「皆が君の腕前に感心してたぜ。あのしたたか者のお清を手に入れようとは、誰も思わなかったからね。……然し、注意しなけりゃいけないぜ。お清一人ならいいけれど……。」
「何だい?」
「いや……まあいいさ。しっかりやり給え。万一の場合には僕も力を添えてやるよ。なあに、若い者の特権だからね」
 周平はその顔を眺めたが、言葉からと同じく、何の意味をも掴むことが出来なかった。然し深く尋ねたくもなかった。
「今日は一寸急ぐから、何れまた逢おう。」
 面喰ったような瞬きをしてる橋本を其処に残して、彼はぷいと立ち去った。
 つまらないおせっかいを出しやがる、と彼は忌々いまいましげに思ったが、その後で、橋本の言葉が妙に気になってきた。単にお清のことばかりでなく、その底にまだ何かありそうな調子だった。けれど、いくら考えても思い当る事柄はなかった。ただ保子とのことが一寸頭に浮んだけれど、それは誰にも知られる筈がなかった。
 皆がどういう噂をしてるか、その底まで彼はつきとめたかった。然し、よく一緒に酒を飲んだりなんかしていても、心を許せる親しい友は村田一人きりだった。といって、わざわざ村田に尋ねるのも業腹ごうはらだった。
 なにそのうちには分る、と彼はしまいに投げだしてしまった。そしては、却て反撥的な気持になって、時々蓬莱亭へ行ってみた。然し、三階へはもう上らなかった。お清に対しても自分自身の心に対しても、変に憚られるものがあった。
 室の隅っこの小さな卓子に就いて、ぼんやり考え込んでると、お清は時々やって来た。彼女の様子は前と少しも変らなかった。ただ一種の親しみを見せて、低い声で囁やくように云った。
「あれから竹内さんがさっぱり来なくなったわ。少し薬がきすぎたようよ。」
 周平が黙ってその顔を見ると、彼女も笑みを含んだ眼付で見返してきた。
「あなたはこの頃何を考え込んでるの。気にかかることでもあって?」
「何にもありはしない。ただ変に気がふさいでいけないんだ。……それで、あの陰気な三階へはもう上らないことにしたよ。」
「そう。此処の方がいいわね。……そのうちまた何処かへ行きましょうか。」
「ああ。」
「私いい折をねらってるわ。」
 そして彼女はじっと彼の顔を見つめた。彼はその顔を外らさなかった。変な気持だった。暴風雨あらしの後の静けさに似た一種の親しみが、しみじみと彼を包んでいった。その下から強い慾望が頭をもたげかけるのを、彼は強いて抑えつけた。そしてぽかんとした気分になって、美しい彼女の眼をぼんやり眺めるのだった。
 そして、お清に対するそういう親しみは、二人差向いでいる時よりも、大勢の中に居る時の方が、更に微妙な刺激を彼の心に伝えた。
 周平とお清との噂が立ってから、周平の友人等は、多く蓬莱亭へ集るようになってきた。周平は気が進まない時にでも、または金に困ってる時にでも、屡々一緒に引取ってゆかれた。
「軍資金は僕達が調達するからしっかりやり給え。」などと云って、公然とそそのかす者さえあった。
「だが、いい加減にしといた方が君のためかも知れないぜ。」と忠告めいたことを云う者もあった。それは大抵橋本だった。
 それらのことを聞くと、周平は昂然と頭をもたげた。たとい悪意からでないにしろ、一種の好奇心から彼等がおだててることを、周平はよく見て取っていた。そして、その底にはまだ他に何かあることも、よく感づいていた。然し、もう弁解や穿鑿をすべき時ではなかった。凡てを盲目的に踏みにじってゆく方が、最も近途らしく思われた。何処に出る近途かということは分らなかったが、ただそうすることによって、最も早く何処かに出られそうな気がした。
 濛々と煙草の煙が立罩めてる階下の広間で、煖爐の方へ足先を差出しながら、周平は一人黙りこくって、勧められる杯だけを、片端からけていった。其処へよくお清は割り込んできた。
「井上さん一人を酔わしてどうするつもりなの。皆でよってたかって、可哀そうだわ。」
「ようよう……その通り、だから君が少し助けてやるさ。」
「ええ、いくらでも私が引受けてやるわ。」
 そして彼女は、周平の前にある杯を一つぐっと干したが、それからまたぷいと向うへ行ってしまった。
「おい、井上、黙ってるって奴があるか。何とか感謝しろよ。」
 周平はきょとんとした眼を挙げて、皆を見渡した。彼等の顔が馬鹿げて見えた。彼は吐き出すように云った。
「僕の知ったことじゃないさ。」
「なんて、澄してる所を、お清ちゃんに見せたいね。」
 だが、お清は向うの隅に立って、周平の方へちらと目配めくばせをしていた。周平も大胆に目配せを返した。彼女は水を持ってきてくれた。煖爐にあたる真似をして、肩を一寸聳かしてみせた。その眼に、彼は眼付で微笑んでみせた。彼女は煙草を一本取って、一寸吹かしてから、おおからいと云いながら持て余す様子をした。それを彼は引受けて自分で吸った。立去る時彼女は一寸彼の袖を引いた。もう酒を止せという相図だった。それでも彼は皆からなお勧められると、じろりと横目で、向うに居るお清の顔を見た。お清は睥むような眼付をした。彼は口を尖らしながら睥み返した。そして杯を手にした。
 そういうことが――二人差向いでいる時には妙にぎごちなく思われることが、大勢の面前では、何のこだわりもなく敏活に相通ずるのであった。そして彼は、其処を出る時には可なり酔っ払っていた。足がふらふらしていた。
あぶないわ。気をおつけなさいよ。」
 口早に囁いたお清の言葉が、長く彼の耳に残っていた。彼は皆から一二歩後れがちに足を運びながら、寒い夜の空気に頭をさらして、云い知れぬ悲壮な気持になっていった。我知らずお清のことを思っているのが、いつしか保子のことに変りがちだった。しまいにはその二つが一緒になって、彼の眼の前で渦を巻いた。

     三十八

 悪夢に似た呪わしい気持だった。周平は自分の心の向う所に迷った。そしてその昏迷のうちに、半ば自ら進んで、捨鉢に踏み出して行こうとした。然し、昼の明るみは彼を引止めてくれた。十一月から十二月の初めにかけて、わりに暖かい晴々とした日が続いた。高く冴えきってる空が、木々の梢や屋根に流れる黄色い日の光りが、彼の心を冷かに醒めさした。彼は涙ぐましいほど引きしまった心で、而し、救いの手を待つような落着いた心で、毎週月曜日と、それから他の日にも時々、横田の家へ行った。
 保子は日当りのいい縁側近くで、雑誌を読んでいたり、正月のための縫物をしていたりした。周平はその方へ一寸挨拶をしたきりで、黙って火鉢の上にかじりついた。火箸の先で灰の中をかき廻しながら、身をも心をも彼女の前に投げ出したような気持になっていた。
「井上さん、」と保子は静かな声で云った、「あなたくらい寒がりはないわよ。いつも火鉢にかじりついていて、そんなに寒いんですか。」
「ええ。私は寒さが一番厭なんです。」
「そう。じゃあ今に火燵を拵えてあげるわ。」
 周平は顔を挙げて、針の手先から眼を離さないでいる彼女の方を眺めた。化粧水と水白粉みずおしろいとだけをうっすらと刷いた横顔が、神々しいほど淋しく見えた。その彼女を前にして、火燵の中に蹲りながらひそかに涙を流してる自分の姿が、想像のうちに浮んできた。
「あなたは冬の休みをどうするつもりなの。」
 周平はその言葉を聴きもらした。黙ってると、彼女は初めて顔を挙げて彼の方を見た。
「冬休みに旅でもするの。」
「いいえ」と周平は答えた。「金がないから東京を動けやしないんです。」
「無いからというより、無くなしたからでしょう、余り勝手な真似をして。」
 周平はぎくりとした。何とか答えようと思ったが、彼女からじっと見つめられると、心の底まで見透される気がして、顔を伏せた。お清とのことも知られてるに違いなかった。然し知られても構わないと思った。愈々の時には、一切を告白して彼女の前にさらけ出してやろうと思った。それが自分を救う唯一の途のように考えられた。そして彼は彼女の言葉を待った。
 然し彼女は、彼が予期した方へは来なかった。暫く黙った後に、俄に苛立った様子になった。自らごまかすかのように忙しく針の手を運びながら、落着きのない角立った声で云った。
「旅をしないんなら、歳暮くれからお正月へかけて少し手伝って頂戴。いろんな用があるのに、横田があの通り懶惰ものぐさだから、私一人で困ってるのよ。」
「ええ、何でもします。」と彼は答えた。
「そう無雑作むぞうさに受合って大丈夫ですか。また急な仕事が出来たなんかって……。」
「いえ、大丈夫です。いつです、どんな用事でも、私で間に合うことなら飛んで来ます。」
「屹度でしょうね?」
 と念を押して、彼女は一寸眼を空間に定めて考え込んだが、それから、また静かな顔付で彼の方を見やった。彼は妙に不安になった。彼女が意識して避けてる事柄がその底にあるのを、彼は漠然と感じた。いつまでも黙って向い合ってるのが苦しかった。
 そしては、隆吉を探しに立っていった。
 周平がやってゆくと、隆吉は左の頬に転い笑靨を寄せながら、目玉をぐるりと動かして、彼の姿を見上げた。周平は黙って其処に坐りかけたが、外光を遮られた狭い室で、つまらない時間を過すよりも、自由に外を歩きたくなった、――いつのまにか彼は、隆吉を外に引張り出す癖がついていた。
「外へ行かない?」
「うん、行こう。」
 周平が半ば下しかけた腰を浮かせてるまに、隆吉はぴょんとはね起きて、すぐに黒い毛糸の帽子を取ってきた。外へ出る時には、たとい和服の時にでも、学校の帽子よりその多少子供子供した而も高慢ちきな毛糸帽を、周平は好きだったのである。隆吉にはそれがよく似合った。
「叔母さん、行ってきますよ、井上さんと。」
「ええ。」
 と答えて、保子がじろりと見上げたのを、周平は慌てて押被おっかぶせるように云った。
「実地教育なんです。」
 周平は保子の眼付を見ないで、その口元の微笑みだけを眼に止めて、先に立って外に出た。
 そして実際彼が隆吉を連れて行くのは、博物館や動物園や植物園や、淋しい神社の境内などへであった。一度美術展覧会へ行ったこともあるが、隆吉が変に執拗な眼付で肖像画をばかり探し求めてるのを見て、周平は不気味な不安を感じた。それから展覧会へはもうはいらなかった。もっと呑気な場所が好ましかった。博物館にはいると、門内の庭園を長い間ぶらついた。動物園では、水にもぐってる河馬が時々水面にのっそり顔を出すのを、何度も待ち受けて佇んだり、昼寝をしてる獅子が身を動かすのを、ベンチに腰掛けて長い間待っていたりした。が殊に、植物園が一番静かでよかった。
 西に傾いた弱々しい日脚の、僅かな暖かみを肩先に惜んで、ゆっくり坂を上ってゆくと、左手に、粛條たる平地が一面に日の光りを受けていた。立ち並んでる桜の古木の、黄ばんだ葉をまばらに散り残してる枝の下に、霜枯れの草原が遠くまで透し見られた。それと照応して、空がしめやかに澄みきっていた。
 隆吉は口笛を吹きながら歩いていたが、突然足をゆるめて云った。
うちにもこんな庭があるといいなあ。」
「じゃあ叔父さんにねだって拵えて貰うさ。」
「駄目だい。」
「なぜ?」
「なぜって、駄目だい。」
 木の下に歩み寄ると、紫がかった木の葉の影が、点々と淡く落ちていた。
「隆ちゃんは、うちにこんな広い庭があったらどうする。」
 隆吉は一寸眼を見据えた。
「僕ね、石榴ざくろの木を一杯植えるよ。」
 周平が黙ってるのを構わずに、彼はまた云い続けた。
「元のうちにね、大きな石榴の木があったよ。お父さんが大事にしてたんだよ。庭は狭いけど、石榴の木があるからいいって、いつも云ってたよ。」
「だって隆ちゃんは、お父さんが死んだ時はまだ赤ん坊だったろう。どうしてそんなことを覚えてるの?」
 周平からじっと見返されると、隆吉は口を尖らし眼を円く見開いて、自分でも思い惑ったような表情をした。それから黙り込んでしまった。
 が、暫くすると、また口笛を吹いてさっさと歩き出した。
 散歩の人も二三人きり見えなかった。常磐木の横を廻ってゆくと、其処の日向に三脚さんきゃくを据えて、向うの灌木や芝地になだれ落ちてる外光を、点々と写し出してる画家があった。立って見てる人も居ないのが、あたりの景色と共に、余りに静かで淋しかった。
 白い小さな蝶が一匹、枯れつくした花壇の方から飛んできた。その後を追うともなくゆっくり追って行くと、後ろに檜葉の茂みを控えた暖かい芝地で、蝶はぱっと高く舞い上った。一線の大きな叢を選んで、周平は腰を下した。ほろろ寒い檜葉の下影から、弱々しい虫の声が聞えてきた。
 周平が夢想に耽ってるまに、隆吉は団栗どんぐりを拾って駈けてきた。
「これであてっこしようか。」
 近くに標的まとを定めて投げてみたが、なかなか中らなかった。それでも、隆吉は二三度あてた。
 弾が無くなってつまらなそうな顔をしてる隆吉を、周平はいきなり引寄せて、膝の上に腰掛けさした。痩せた軽い身体だった。隆吉は変にもじもじしていたが、ふいに飛びのいて、周平の背中につかまってきた。周平はそれをおぶって、のっそり歩きだした。
「僕ね、お父さんにもお母さんにもおぶさったことがないんだって。」
 そして隆吉は肩の手にぐっと力を入れた。周平が黙ってると、暫くして低い声で云った。
「人の前でお父さんやお母さんのことを云っちゃいけないんだって、本当かしら?」
「誰がそんなことを云ったの。」
「お祖母ばあさんが云ったよ。」
「そう。だが僕にならいくら云ってもいいよ。」
 然し隆吉はもう何とも云わなかった。手と足とで彼の背中に強くしがみついてきた。彼はそれを長くおろさなかった。急な坂の曲りくねった小径を下りつくして、息が苦しくなった時に、後ろへ廻した手をゆるめた。隆吉はぴょんと飛び下りて、ひょろ長い首で重そうな頭を少しかしげながら、何気ない様子で池の中を覗き覗き歩いた。
「鯉は何処にいっちゃったんだろう。」
 池のおもては、長い物影を宿して黝ずんでいた。西に沈んでゆく日の光りが、眼に見えるように感じられた。
「もう帰ろう、遅くなるから。」
 隆吉は返辞もせず首肯うなずきもしなかったが、周平と一緒に足を早めた。二人は水禽の檻の前をもすたすた通り過ぎた。
 電気や瓦斯の火がともるに間もない薄ら明りだった。慌しい街路の雑沓に巻き込まれると、隆吉は肩をすぼめて寄り添ってきた。周平も其方へ身を寄せて歩いた。
 彼の頭の中ではもう、お清のことも保子のことも遠くへ距っていた。手に触れる隆吉の身体から、吉川のことがじかに胸へ響いてきた。吉川の手記が一句一句はっきり思い出された。彼は隆吉をひしと抱きしめたいような心地で、それでも何かに駆り立てられるような心地で、隆吉の手を取ってぐんぐん歩いた。心の底で、吉川の轍を踏むものか! と叫んだ。眼に涙がにじみ出てきた。
 隆吉を送り届けると、周平はそのまま帰ろうとした。それを、保子の影深い澄んだ眼でじっと見つめられた。躊躇してると、何処を掴んでいいか分らないような横田の態度に出逢った。
「君が帰ると晩酌ばんしゃくの口実がなくなっていけない。女や子供ばかりを相手にしないで、たまには僕にもつき合ってゆくさ。」
 その前に周平は自然と頭を垂れた。そして、夕飯の御馳走になり、取留めもない冗談を聞かされ、将棋を二三番さして、それから辞し去った。
 霜がりていそうな寒い夜を帰ってゆく途すがら、彼は対象の分らない漠然とした感激に包まれた。何物もない自分自身がいとおしかった。

     三十九

 夕方少しみぞれが降ってすぐに晴れた寒い晩だった。周平は村田や橋本など三四人の友人と、蓬莱亭の階下の室で雑談していた。熱い酒を飲んでも、煖爐の側に身を寄せていても、すぐに足先からぞくぞくした寒さが伝わってきた。妙に話がはずまなかった。
 その時、表からふいに飛び込んで来た男があった。扉をばたりと後ろに閉めて、つかつかとこちらへやってきた。それが竹内だった。
 周平はぎくりとした。竹内も一寸狼狽したらしかった。が彼はすぐに、見開いてる輝いた眼を、金縁眼鏡の下に笑いくずしながら、皆の中にわり込んできた。
「馬鹿に寒い晩だね。外を歩いてると堪らなくなって、飛び込んできちゃった。」
「一人だったのか。」と村田が云った。
「え?」と竹内は怪訝な顔をした。
「一人とは珍らしいね。」
「なあに、いつも一人さ。井上君のようなわけには行かないよ。」
 そのあてつけが周平は癪に障った。竹内はいつも、文士の誰かにくっついてるか、または友人の誰かと一緒になっていて、決して一人のことがないというのが、彼等の間の定評だった。竹内自身もそれを知ってる筈だった。そして、村田が云ったのは確にその意味に違いなかった。それを彼は変に皮肉にねじまげて、暗に周平を揶揄してきたのだ。周平はじっと彼の顔を見つめてやった。彼は素知そしらぬ顔をして隣りの者の杯を引ったくっていた。
「兎に角、内部から温めるに限る。」
 そして彼は、三四杯たて続けに飲んで、それから勝手に皆の数だけ、ホット・ウイスキーを命じたりした。
 竹内の冗談口じょうだんぐちに、会話は俄にはずんできた。彼はいろんな方面にもぐり込んでるだけに、単なる学生である皆の知らないような話を、いくつも持っていた。その上、彼はその晩変に饒舌だった。一人で会話を奪っていった。白っぽく取澄した顔をしてお清がやってくると、無遠慮にその手を取って引寄せながら云った。
「まあここに坐れよ」そしてちらと周平の方を顧みた。「井上君がいやに黙ってるから、君がその代りをするさ。」
「黙ってる人があって丁度いいわ。先刻からあなた一人で皆の分を饒舌しゃべってるじゃないの。」
 彼女はぐるりと卓子を廻って、煖爐の火を見る風をしながら周平の側に一寸かがんで、それから向うへ行った。
 然し周平は彼女の方へ眼をやりもしなかった。不快の念が次第に胸へたまってきていた。気持の上のこだわりを自分でどうすることも出来なかった。我慢すればするほど益々悪い結果になりそうだった。
 彼は立ち上って、思い切って伸びをしてみた。
「すっかり暖くなっちゃった。」と彼は云った。「今晩少し用があるから、僕はこれで失敬するよ。」
「もう行くのか。」と竹内が、軽蔑的に口を尖らして彼の顔を見上げた。「君とはだいぶ暫くぶりだったね。……おい、水曜日にも横田さんの所へ少し来いよ。勿論君は、始終あの家へは行ってるだろうが。」
 それを黙って見返した自分の眼付が、殆んど敵意に近い色を帯びてるのを、周平は自ら感じた。そして軽く頭を下げながらつと立ち去った。
 扉を押して外に出ると、ぞっと寒気さむけがした。其処へ、後から村田が追っかけてきた。
「僕も帰るから、其処まで一緒に行こう。」
 周平は急に涙ぐましい心になって、彼の手を握りしめようとしたが、思い返してそれを止した。自分自身に対して腹が立った。
 乾ききった冷たい空気が、風とも云えない風をなして、襟の裾の間から吹き込んできた。街灯の光りが冴えきってるのに、物の隅々が妙に薄暗かった。
「不愉快な奴だな。」と村田は呟いた。
 竹内のことだと分っていたが、周平は何とも云わなかった。下宿の方へ足を向けると、村田はなお別れないでついて来た。可なり暫くたってから、彼は突然云った。
「何処かへ寄ってゆかないか。」
 眼を地面に落したままで、独語のような調子だった。いつもと様子が異っていた。周平は横目でじろりと見て、すぐに応じた。
「寄ってもいい。」
 二人はそれきり黙って歩いた。然し云い合したように、別の心安いカフェーの前にいつしか出てしまった。
「まあ、暫くぶりね。」
 顔馴染の女中にそう云われて、周平はただ苦笑した。お清の許へ行きつけてから、いつの間にか他の場所へは足が遠くなっていた。そのことが気持にこびりついてきた。
 隅っこの小さな卓子を選んだ。客は込んでいなかった。二人の様子を見て、女中も遠慮してか寄って来なかった。
 熱い珈琲を飲んでるうちに、周平は突然不安を覚えてきた。何か話があるのを云い出しかねてるような村田の様子だった。それが可なり重大なことらしかった。予め覚悟を強いられる気がした。彼はぐっと腹を据えて、がちゃりと珈琲皿を置いた。その音に室の隅から彼の方へ転じてきた村田の眼へ、何だい? と眼付で尋ねかけた。
 村田は初めて我に返ったかのように、珈琲を一口飲み、煙草に火をつけた。が、言葉は直截だった。
「君は変な噂があるのを知ってるか。」
「誰の?」
「君自身のさ。」
 周平は冷笑的に唇を歪めた。お清のことだなと思った。村田までそんなことを気にしてるのが可笑しかった。
「知ってるよ。」と彼は云った。
「それで何とも思わないのか。」
「別に何とも思わないね。」
「じゃあ、あの噂は本当なのか。」
「さあ、本当のような嘘のような……。だが余り下らないことじゃないか。」
 周平が落着いてゆくに反して、村田は妙に苛立っていった。いつもの好奇心からではなく、真剣な光りで眼を輝かせながら、冷たく引緊った顔をして疊みかけてきた。
「本当なのか。」
「本当かも知れないね。」
 村田は深く息をしたが、急に激した調子になった。
「それで君は済むと思うのか。……僕はこれまで君の弁護をし続けてきた。然し君自身が余りしゃあしゃあとしてるから、今晩は思い切って君に云ってやるつもりになったんだ。平素は僕も随分でたらめだが、君みたいな不道徳なことはしない。少しは感恩ということを知るがいい。自分の愛……愛とも僕は云わさない、慾望なんだ……その慾望を満足させるために、恩になってる人達の生活に泥を塗って、それでいいと思うのか。」
 周平は暫し呆気あっけにとられた。が俄にぎくりとした。保子のことが頭の中に閃いた。それをじっと押えつけて、静かに云った。
「何のことだか僕には分らない。具体的にはっきり云えよ。」
「白ばっくれるなら云ってきかしてやる。」
 周平は眼を据えて次の言葉を待った。
「僕はその噂を聞いた時、初め自分の耳が信じられなかった。余りにひどい破廉恥な行いだ。」そして村田は声を低めたが、調子は一層鋭くなった。「君がお清と或る種の親しい関係に在ることは、僕もよく知っている。それから、横田さんの奥さんとの関係も、僕は或る点まで理解してるつもりだ。然し、それが両方共、肉体的関係に、或はそれに近いものになってるとは、夢にも思わなかった。」
 周平は危く叫び声を立てようとした。がそれを強いて抑えつけた。村田は云い続けていた。
「僕は君を信じていたんだ。お清とのことは単なる一時の遊戯に過ぎないし、奥さんとのことは単なる親しみに過ぎないと、あくまで信じていた。それが……噂の通りだと君自身で肯定するなら、僕はもう何にも云わない。お清とのことだけならまだいい。然し奥さんとのことは……それも純粋な愛ならまだ許せる点もあるが、一方にお清という者がありながら、而も非常な恩を受けてる奥さんと……僕は考えても恐ろしい気がする。よくも君は図々しくそんなことが出来たもんだ。自分で恐ろしいとは思わないのか。」
 然し周平はもう、村田の言葉に耳を貸してはいなかった。思いもかけない保子との噂に心が顛倒して、それを抑えれば抑えるほど、呪わしい憤りが湧き上ってきた。保子に道ならぬ恋をしてるという意識が、更にそれを煽り立てた。時々耳に響く村田の鋭い言葉が、その気持に釘を打ち込んできた。
 彼は敵意ある眼で村田の顔を睥みつけた。弁解するよりも突っかかっていった。
「卑しい想像は止すがいい。魂の腐った奴のすることだ。」
「何が卑しい想像だ!」と村田は叫んだ。彼もいつになく奮激していた、「自分のことを考えてみろ。」
 その言葉が周平の胸にぐっと来た。彼は立ち上った。
「君こそ自分のことを考えてみろ。下らない噂の上に卑しい想像を逞うするのが、自分で恥しくないのか。」
 村田は熱っぽい眼付で見上げながら、一寸唇を震わしたが、それを周平は咄嗟に、上から押被おっかぶせた。
「勝手に僕のことをふれ歩くがいい。よかったら横田さんに告口でも……。」
 云いかけて彼はぷつりと言葉を切った。恐ろしい閃きが頭をぎった。村田の熱っぽい鋭い眼付が俄に不安になった。
「下らない!」
 捨鉢な気持で云い捨てて、彼はぷいと立ち去った。
「君は自分で肯定して、それを……。」
 憤りと叱責との調子の言葉を、彼は後ろに聞き捨てながら、振り返りもしないで出て行った。
 が、扉の所で彼は一寸足を止めた。何だか変だった。然し、村田が追っかけてくる気配けはいはなかった。しいんとしていた。誰とも知れない無数の眼から見られてる気がした。彼は逃げるように飛び出した。
 寒い空気がひしひしと四方から迫ってきた。彼は肩をすぼめて当もなく歩きだした。頭の中の混乱がそのまま静まり返った。種々のことがぽつりぽつりと分ってきた。電柱に突き当りかけて身を交した時、眼に涙が溢れてるのに気づいた。気づくと同時に、はらはらと頬に流れた。然し彼はそれを拭おうともせずに、なお歩き続けた。立ち止るのが恐ろしかった。

     四十

 周平は、脱することの出来ない罠に囚えられてる自分の姿を、まざまざと見るような気がした。噂が単にお清とのことだけなら、笑って済すことが出来た。然し、保子とのことは堪えられなかった。保子とお清と二人一緒のことは、更に堪えられなかった。全く無根の噂ならば、まだ平然として居れるわけだった。けれどもそれは、たとい事実としては無根であっても、彼の心の中のこととしては、無下むげに否定出来ないものがあった。
 彼はも一度、自分の心の中を覗き込んだ。――お清の方は、初め一種の好奇心を以て近づいていったのだったが、疑惑が消えると共に、もはや其処には愛慾しか残っていなかった。自分の踏み出し方によって、どうにでもなりそうだった。――保子の方は、寂寞たる苦しい生活のうちに、自分が知らず識らず縋りついていった唯一の慰安だった。涙ぐましいしみじみとした感情で自分を包んでくれる、大きな欽慕の対象だった。強い愛の焔が時々閃いたけれど、それは何処までも至純だった。――が、その二つが一つに綯われて、深い渦巻きを拵えてしまった。どうしたらいいか、自分でも分らなくなっていたのだ。暗澹たる苦闘を続けていたのだ。
 それを……。
 彼は云い知れぬ苛立ちを感じた。復讐とも反抗ともつかない感情が、心の底から湧き上ってきた。このままでは済まされなかった。何物かにぶつかっていって、思うさま殴りつけ蹴飛し踏みにじりたかった。
 彼は長い間、何処を通ってるかも自ら知らないで歩き続けた。寒さが、ひしひしと迫ってくるのが、なお彼の気持を悲痛な色に染めていった。
 ふと気が付くと、彼は驚いて足を止めた。見馴れた建物がすぐ前に在った。塔のような三階が、附近の軒並から高く夜の空に聳えていた。二階の窓には褐色の窓掛が引かれて、灯火は消えていた。然し、内側に白い布を垂れた入口の扉には、ぴたりと閉ってる隙間から、明るい光りがかすかに洩れていた。
 それらを一目見やって、彼は足早に通りすぎた。胸が怪しく震えていた。何のために蓬莱亭の前までやって来たのか、自分でも分らなかった。
 然し間もなく、知らず識らず胸にたくらんでいたことが、はっきり頭に上ってきた。彼は竹内を殴りつけるつもりだった。
 噂は竹内から出たことに違いなかった。お清とのことや其他のことを考え合わせると、その推定は殆んど確実とも云ってよかった。そしてもはや、竹内を殴りつけることより外には、他に途がないように感じられた。噂が親友たる村田の耳にまで達してる以上は、お清へは勿論、横田や保子へも伝わってるかも知れなかった。今伝わっていなくても、やがて伝わるに違いなかった。そしてそれは、彼にとっては致命的なことだった。凡てを汚辱することだった。これまでの内心の苦闘を無にしてしまうことだった。而もその噂は、お清との単なるいきさつの腹愈せとして、竹内が勝手に捏造し流布したものだとすれば、殴りつけてもまだ足りなかった。
 彼はまた足を返して、蓬莱亭の前へ忍び寄った。閉め切られてる扉から耳を澄すと、中はしいんとして、何の物音も話声も聞えなかった。然しあかりが洩れてる所をみると、或はまだ竹内が居るかも知れなかった。
 彼は思案に迷って、二三度その前を往き来した。街路は静まり返って、深い夜が立ち罩めていた。
 いつまで待っていても仕方がなかった。遂に彼は扉の前にじっと佇んだ。暫く耳を傾けた後、指先で軽く押してみた。強い抵抗が感ぜられて、もう締りがしてあるらしかった。それでも、彼はなお内の気配を窺った。奥の方に、何やら物音と笑声とが聞えるようだった。彼は更に耳を澄した。
 その時、隣家との間にある狭い路次から、俄に人の足音が起った。彼は家の内部へばかり注意を向けていたので、それが余りに突然で不意だった。気が付いた時はもう、足早な下駄の音が路次から出て来かかっていた。彼は駭然として扉から身を退いた。そして何気ない風を装いながら、。強いてゆっくり歩き出した。所が、すぐ前は四辻で、明るい光りが射していた。身を隠す物影がなかった。咄嗟に彼は、蓬莱亭と反対の側の軒下の暗がりに佇んで、袂から煙草を探ってマッチをすった。それが却っていけなかった。煙草に火をつけてマッチの棒を投げ捨てる拍子に、一寸後ろを顧みると、すぐ其処に、一人の女が立っていた。薄色の肩掛の胸にコートの両袖を合して、真白な顔をつき出していた。お清だった。
 周平は惘然として、つっ立ったまま動けなかった。数秒……そして彼女は一歩進んできた。
「井上さんじゃないの。」
 落着いた低い声だった。
「こんなに遅く……。」
 聞くように云いかけて、どうしたの? と彼に眼付で尋ねながら、彼女は歩み寄ってきた。彼はその顔をじっと見つめた。すると、彼女はちらと大きな瞬きをして、上目がちに蓬莱亭の方をさし示しながら、軽く彼の袂を捉えて歩き出した。彼は譯が分らないで、黙ってその後に随った。頭の中がもやもやとして、夢をみてるような気持になった。
 お清は薄暗い横町の方へ曲り込んでいった。暫くしてから、ふいに彼の方へ眼を挙げた。
「今時分どうしたのよ。今晩早く帰っておいて……。」
「急に用が出来たんだ。」と周平は云った。
「誰に?」
 周平は暗がりの中に眼を見据えて、何とも答えなかった。
「誰かを待ち合してたんでしょう。」
 周平は黙っていた。
だあれ? 仰しゃいよ。」
 甘えたような声の調子だった。周平は急に苛立ってきた。彼女と出逢ったためにぼやけた頭が、また強く働きだしてきた。彼は吐き出すようにして云った。
「竹内を探しに来たんだ。」
「え、竹内さんを!」
「竹内は何時頃帰ったんだい。」
「もうだいぶ前よ。」
「運のいい奴だな。」
「竹内さんがどうしたというの。」
「僕は竹内を殴ってやるんだ。」
「え!」
 お清は足を止めて、喫驚びっくりした眼付で彼の顔を眺めた。彼はそれに構わず、ずんずん歩いて行った。
 暫くすると、彼女は足を早めて寄り添ってきた。
「本当に殴るつもりなの?」
「本当さ。」
 と答えたが、周平はふと気懸りになって、彼女の方を顧みた。小さく結んだ口と一杯に見開いた不安げな眼とが、彼に或る信頼の念を与えた。彼はしみじみとした調子で云った。
「僕はもう何もかも駄目になっちゃった。」
「どうして?」
 彼女はコートの下から、そっと彼の袖を捉えてきた。
 其儘二人は暫く黙って歩いた。
「ねえ、どういうこと?」とお清はまた尋ねてきた。
 それがぴったり周平の呼吸と合った。彼は即座に凡てをぶちまけた。
「我慢出来ない噂なんだ。僕が横田さんの奥さんと君とに同時に情交を結んで、それでしゃあしゃあとしてるというんだ。その噂が皆の間に広まってるのを、僕は今晩初めて知った。竹内の中傷に違いないんだ。」
「まあ、奥さんと私とに?」
「そうさ。余りに人を侮辱した噂だ。」
 お清は暫く何やら考え込んでいたが、やがて低く呟いた。
「何だか変な話ね。」
「何が?」
「その奥さんとあなたとの間が怪しいということは、聞いていたけれど……。」
「竹内からだろう。」
「ええ。……でも、あなたは本当にその奥さんと何でもないの?」
「何でもないさ。奥さんの方には親切きりだし、僕の方にはただ感謝きりなんだ。その噂を聞いては、僕はもう奥さんに顔が合せられない。その上、君と奥さんとを同時に……考えても堪らないことだ。」
「だけど、」とお清は落着いた声で云った、「その噂は嘘だとしても、世の中にはそんな場合だってあるわ。」
「どんな場合が?」
「一人の女を想ってながら他の女と関係するような……。」
 周平はぎくりとしたが、それが我ながら腹立たしかった。きっぱり云ってのけた。
「そんな場合のことを云ってるんじゃない。僕は自分のことを云ってるんだ。」
「じゃあ、噂は噂としておけばいいじゃないの。」
「噂にもよるよ。」
「私だったら噂だけなら、どんなことを云われようと平気よ。やきもきしたって噂が消えるわけじゃないから。」
 周平は彼女の顔を眺めた。彼女は薄ら笑いに似た影を口元に湛えながら、何かを考え込んでるらしく眼を見据えていた。彼は何故ともなく不安になった。すたすた歩きだした。彼女も彼と並んでついて来た。いつまでも黙っていた。
 当もなく裏通りを歩き廻ってるうち、ふいに電車通りへ出た。人影も電車の響きもなかった。がらんと静まり返ってる真直な通りに、街灯の光りだけが淋しく並んでいた。周平は急に立ち止った。種々な思いがすーっと何処かへ消えて、盲いたような気持になった。何のために夜更けの街路をお清と一緒に歩き廻ってたか、譯が分らなかった。
「もう何時なんじでしょう。」とお清は呟いた。
 二人はぼんやり顔を見合って佇んだ。謎のような気持が取残されていた。と、お清は俄に彼の眼の中を覗き込んできた。
「あなたはこれから下宿へ帰るつもりなの?」
 周平はまだぼんやりしていた。
「仕様がないわ、こんなに遅くなって。私の家まで送って来て下さらない?」
 周平は機械的に首肯うなずいた。どうしようという意志もなければ、どうしていいかも分らなかった。また、それを考えもしなかった。
 二人は水道橋へ出た。掘割の水が黒く淀んで、冷かな火影がちらちらうつっていた。河岸かし通りは暴風に吹き清められたように、物影もなく広々と而も薄暗く続いていた。方向の分らない寒い風が寄せて来た。周平は身を震わした。外套も襟巻もないみすぼらしい自分の姿が、初めて惨めに顧みられた。
「おう寒い。」
 お清は独語のように呟いて、つと身を寄せてきたが、彼の背へ手を廻して、肩掛を半分ふわりと投げかけた。彼は懐から手を出して、その端を胸に押えながら肩をすぼめた。もう何物にもさからいたくなく、何事も考えたくなかった。
 砲兵工廠の石塀に沿って暫く歩いた後、お清は肩掛の中から突然云った。
「井上さん、あなたその奥さんと何でもないというのは、全く本当なの?」
 低い声ではあったが真剣な調子だった。然し周平はそれに心が向いていなかった。一寸間を置いてから事もなげに答えた。
「何でもないよ。」
「でも、心ではその奥さんのことを想ってるんでしょう。」
「想ってやしないよ。」
 それから二十歩ばかりして、彼女はまた云った。
「全く何でもないの!」
「ああ。」と周平は答えた。
「嘘じゃないのね。」
「本当だよ。」
 お清は一寸肩を震わした。周平は変な気がした。彼女がいやに執拗なこだわり方をしてることが、彼の心に或る冷たいものを与えた。彼は振り向いて彼女の顔を見ようとしたが、すぐ側に彼女の息を感じて、頭を動かすことが出来なかった。懐の左手をそっと出して、彼女の腕を抱えた。然し心は少しも熱して来なかった。彼女の態度も冷たかった。
 雲の切れてる西の空に、淡い星影が二つ三つ見えていた。周平はそれに眼を据えて歩いた。堪らなく淋しくなった。心の拠り所が分らなかった。保子のこともお清のことも夢のようだった。見知らぬ女と歩いてるような気がした。組み合してる腕と腕との接触や、着物越しに感じられる厚ぼったい肉附や、頬に触れる髪の毛や、肩掛の中で交る互の呼吸や、仄かな化粧の香りなどが、息苦しい感情をそそりはしたが、それでいて妙に気持のうつらない冷かさがあった。彼は云い知れぬ佗しい心地になって、肩掛の中に頬を埋めた。軽い刺戟を含んだ柔かな毛糸の感触が、しみじみと胸にこたえた。肩掛の端についてる毛糸の玉を、掌にじっと握りしめた。
 飯田橋で、支那饂飩屋の淋しいカンテラの光りが見えた。二人は平気でその前を通っていった。何にも云うことがなかった。互に離れることも出来なかった。夜気に濡れた電車のレールが、薄暗い中に蒼白く光っていた。
 築土八幡の前を通り過ぎて、右へ曲った。
「暗いからあぶないわよ。」
 その言葉が、周平の耳には調子外れに響いた。彼は半ば眼を閉じがちにして、彼女の導くままに身を任せた。
 暗い狭い坂途をぐるぐる曲った後、やがてお清は立ち止った。絵草紙や駄菓子などを売っていそうな家の前で、煤けた戸が立ててあった。頑丈な表構えの隣家との間に、漸く人がはいり込める位の狭い路次があった。お清は周平の肩から肩掛を引ったくりながら、目配めくばせと一緒に云った。
「汚い家よ。」
 路次の奥に、駄菓子屋の裏口と思われる辺に、一枚の開扉ひらきがあって、外から海老錠えびじょうがかかっていた。お清は帯の間から鍵を取出して、それを開いた。中にはいってこそこそやっていたが、電気の釦をひねったとみえ、上の方からぼーっとした光が射してきた。狭い急な梯子段と板のが照らし出された。
「何をしてるの。おはいりなさいよ」と彼女は云った。
 それでも周平はまだ外に佇んでいた。
「今時分、もう仕様がないじゃないの。」
 周平はやはりじっと立っていた。
「焦れったい人ね。おはいりなさいったら!」
 三度目にそう強い調子で促されて、周平は初めて中にはいった。お清は二人の下駄を、奥に通じてるらしい障子のわきの板の間に置き、開扉の締りをして、それから二階へ上っていった。周平もぎしぎし軋る梯子段を後に続いた。
 梯子段を上りきって、其処の骨太な障子を開くと、粗末な六疊の室に出た。
「おお寒。……一寸待っていらっしゃい。今火燵をいれてあげるから。」
 お清は室の隅に肩掛とコートとを脱ぎ捨てた。周平はぼんやり腰を下した。

     四十一

 それは、妙な感じがする室だった。黝ずんだ天井、薄汚れのした黄色っぽい壁、汚点しみのある肯い窓の障子、それと対照して、新らしく張り換えたらしい真白な縁側の障子、浅いとこの横の一枚の襖と反対の側の二枚の襖とは、処々に切り張りがしてあった。室の中の有様もまた、周平の眼には物珍らしかった。安価な青い瀬戸の円火鉢には、錻力ぶりきの大きな薬鑵が疊の上にじかに置いてあった。その横の火燵には、派手な銘仙の布団がふわりとかかっていた。大きなメリンスの座布団が、ぱっとした華かな色を浮出していて、その前の床の間に、ごたごた化粧瓶の並んでる、大きな贅沢な鏡台が据えられていた。がその横には、壊れかけた古机が一つ、埃のたまっていそうな古雑誌を四五冊乗せていた。窓の下に、黒っぽい粗末な茶箪笥があって、古い鑵を幾つも見せていたが、その上には、紫檀の盆の中に、薄手うすでの上品な茶碗と錫の茶托ちゃたくとが、鬱金色うこんいろの布巾の下から覗いていた。室の反対の隅には、漆塗りの衣桁に、薄汚れのした着物や手拭などが乱雑に掛っていた。凡ての点で、華美と貧寒との二つが投げやりのうちに雑居していた。それらを、天井から下ってる薄暗い電灯の光りが照らしていた。
 お清は、平ったい竹籠から火鉢に炭をついで、細い息で吹きおこした。周平は変な気がして、その方をじっと眺めた。彼女はその眼付を読み取ってか、微笑みながら云った。
「階下のお婆さんが、寝る前に炭団たどんをいけといてくれるから、いつも火種があって重宝ちょうほうよ。」そして火鉢の中をまた覗き込んで云い添えた。「だけど、いくら云ってもけちけちしてて、炭団一つきりしかいけとかないから、火を燃すのに一寸厄介だわ。」
 それでも、やがて火が熾って、それを火燵に入れてしまうと、お清は縁側に出て何やらこそこそ探し始めた。縁側の端には、孤格子の鼠不入ねずみいらずの前に、七輪や徳利や鍋などが散らばっていた。彼女は小さなコップと瓶詰の酒と味附海苔の鑵とを持ってきた。
「お腹が空いちゃったけれど、何にもないからこれでごまかすのよ。」
 周平は眼を見張った。
「君は家でも酒を飲むのかい。」
「まさか。」と云って彼女は笑った。「これは取って置きのものよ。少し古いけれども、腐ってやしないでしょう。腐ってたって構やしない。……あ、そうそう、いいものがあるわ。」
 彼女は茶箪笥から砂糖豆のはいってる紙袋を取ってきた。
「これで洗いざらいの御馳走よ。」
 そして二人は、火燵にはいって顔を見合した。
 ことりとの物音もしなかった。変に威圧するような静けさだった。周平はほうけた気持で、彼女の顔を見つめた。今迄気づかなかったことだが、額から眼の下へかけて薄い雀斑そばかすがあった。けれど、くっきりと切れた上眼瞼の二重が、如何にも美しかった。彼女はその眼をちらと大きく瞬いて云った。
「いやな人ね、私の顔ばかり見つめて。少し何かおあがんなさいよ。」
 彼女は砂糖豆をかじり、海苔をしゃぶり、またちびりちびり冷たい酒を飲んでいた。周平も仕方なしに、その方へ手を出した。
 火燵の中が温まると共に、冷たい酒が悪く頭に上ってきた。彼は軽く眉根を寄せて、室の隅に眼を据えた。そういう彼の方へ、お清はいやに鋭い眼を見据えてきた。
「考えてみりゃ、つまらないことになったものね。」
 周平はその意味を解しかねて、彼女の眼を見返した。
「あなたの方もつまらないでしょうが、私の方もつまらないわよ。」
 突っかかってくるような毒々しさが、その底に籠っていた。周平は暫く黙っていたが、そのために却って不快な苛立ちを唆られた。
「何がつまらないんだい。」と彼は云った。
 お清は頬を膨らまして、ふーっと酒臭い息を吐いた。それから、また彼の顔をじっと見つめながら、心持ちき込んだ調子で云い出した。
「もうこうなったら何もかも云っちゃうわよ。さっぱりした方がいいわ。……あなたは私を、そら、高井何とかって人と同じ女じゃないかと思って、それで近づいて来たんでしょう。そうでなくってお気の毒様ね。私の方もお気の毒様よ。私ね、あなたが……あの、横田さんの奥さんと関係があることだとばかり思ってたわ。私逢ったことはないけれど、その奥さんとあなたを張り合うのが一寸面白かったのよ。馬鹿々々しいことを考えたものね。それがうまくすっぽかされちゃったんだから、世話はないわ。今時分は、竹内さんが舌でも出して笑ってるでしょうよ。」
 彼女はやけに瓶を振って底の方に残ってた酒を二つコップについだ。
「これで何もかもおしまい!」
 周平は何のことだか分らなかったが、差出された一つのコップを取って、彼女と一緒にぐっと飲み干した。
 がその後で、彼は捨身になれなくなった。お清の云った言葉から、心が深い所へ沈み込んでいった。何を考えてるのか自分でも分らない瞑想に浸って、黙って火燵布団の上に顔を伏せた。
「いつまでこうしてても仕様がないわ。」
 苛立った声でお清は云って、つと立ち上った。そして向うの襖を開いた。周平はぼんやり顔を挙げた。見ると、押入だと思っていたのは、二疊か三疊かの室だった。行李やバスケットなどの散らかってるのが見えた。お清はその横の方から、夜具を引張り出してきた。
 周平は慌てて室の中を見廻した。大きな鏡台と華かな座布団と、それから衣桁にかかってる薄汚れのした女の着物とが、まざまざと頭に映った。訳の分らない涙が出て来た。涙の奥から保子の面影が浮んできた。
 お清は彼の様子に眼を止めて、暫くつっ立っていたが、俄に役の肩先へ屈み込んできた。
「あなたはやはりその奥さんのことを、片想いに想ってるのね。」
 周平は涙の中で首肯うなずいた。それから眼を見据えた。暫く時がたった。息が止ったような静けさだった。と突然お清は、彼の肩に置いてる手をぴくりと震わした。
「あなたがそうなら、私だって真面目よ。意地も義理も知ってるわよ。……いいから、竹内さんを殴っておしまいなさいな。私も一つ位殴ってやるわ。構やしない。二人で殴っちゃいましょう。」
 周平は頭の中が急にはっきりしてくるのを覚えた。お清の手を取って、それを強く握りしめながら云った。
「君の前で殴ってみせるよ。」
 そして、ごろりと仰向に寝そべって眼を閉じた。
 お清は暫くつっ立っていた。それから手荒く布団を敷いて、火燵の火を入換えた。周平は着物のままそれにもぐり込んだ。
「寒かなくって?」と彼女は云った。
「大丈夫。」と彼は眼を閉じたまま答えた。
 お清は彼と火燵の反対の側に、座布団を敷いて、帯だけ解いて夜着にくるまって寝た。

     四十二

 周平は苦しい一夜を明した。一夜といっても、それは二三時間にすぎなかったろう。頭のしんが冴え返りながら、意識の表面だけでうとうとしてると、遠くに、牛乳車の音や汽笛の響が聞えてきた。彼は驚いて眼を開いた。肩のあたりが冷々としていて、火燵が余り熱っぽかった。何度も足を伸ばしたり引込めたりしてるうちに、またうとうととした。暫くして、彼ははっと眼を覚して、思わず上半身を起した。向うにお清が眠っていた。電灯の光が妙に薄暗かった。
 彼はそっと起き上って、窓を開いてみた。外は仄白く明けていた。切れぎれになった灰色の雲が、幾重にも重なって空低く垂れ籠めていた。軽い風があるとみえて、隣家との間に伸び出てるけやきの枝が、二三枚の枯葉をつけたまま、ゆらゆらと動いていた。其他はただ一面に、靄もない茫とした薄ら明るみの中に、夜明けの一時を眠っていた。
 周平は窓縁に両肱でもたれかかりながら、それらの景色にぼんやり眼をやった。頼りない佗しさが、しみじみと身に迫ってきた。もはや何物もないむなしい気持だった。然し、その中に心を浸していると、その空しさが一種の力強いものに感ぜられてきた。身を投げ出した後に、自ら途が開けて居た。彼は昨夜からのことを思い出した。お清と綺麗な一夜を明かしたことが、今は奇蹟でなくて、如何にも自然らしく思われた。心の底を明し合ってみれば、もはや慾望も何も無くなっていた。相許した晴々しさがあるばかりだった。彼はその空しい気持で、凡てに別れを告げ得る気がした。
 低い曇り空の下に、薄明りの中に、何処となく夜明けの擾音が伝わってきた。雀の鳴く声が聞えた。周平は瞑想から醒めて、急に寒さを覚えながら窓を離れた。そして火燵の中に屈み込んだ。
 打ち開いた窓から射し込む明りと消え残ってる電灯の光りとが、一つに融け合って、影のないだだ白い明るみを室の中に湛えた。夜とも昼ともつかないものうい明るみだった。その中で、お清はすやすや眠っていた。夜着から肩を半分出して、横向きに枕の上につっ伏していた。白粉汚れのした紫の襟から、頸筋の荒い肌が覗いていた。陰気な曇りを帯びた額に少し脂を浮べ、頬の所々に濃く白粉を寄せて、ぐったり疲れきってる様子だった。小さな口を心もち開いて、口からとも鼻からともなく、軽い細い息をしていた。
「おい、お清ちゃん。」と周平は呼んでみた。
 囁くような低い声だったが、お清はそれと同時に、静かに眼を見開いた。……周平は息をつめた。彼女の眼覚めが余りに速かで静かだったばかりでなく、その眼が、眠ったままのその眼が、余りに大きくて安らかで美しかった。彼女はぼんやり彼の顔へひとみを据えながら、口を開いて何やら言いかけた。瞬間に、彼は我を忘れて身を乗り出した。その眼へ、次にその口へ、唇を押しあてた。そして突然、自ら自分を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取るようにして立ち上った。
「僕はもう帰るよ。」
 お清は静かに上半身を起して、後手に髪を撫で上げた。
「帰っていいだろう。」と周平は足先でぐるりと廻りながら云った。
「ええ。だけど……。」彼女は長く間を置いて、それから俄に彼の方を仰ぎ見て云い添えた。「あなたはもう私と逢わないつもりでしょう。別れ際にお茶でも飲んでいらっしゃいよ。」
 終りを冗談じょうだんの調子で云ってのけて、彼女は起き上った。周平はまた炬燵に坐った。火鉢にかかってた錻力の大きな薬鑵の湯で、彼女は無雑作にお茶をいれた。そして二人はぼんやり顔を見合った。もう何にも云うことも考えることもないような、落着いた空しい気持だった。

     四十三

 夜が明けたばかりの寂しい街路を、周平は電車にも乗らず、何物にも眼を止めず、怪しく乱れながら落着いてる気持をいだいて、真直に下宿へ帰った。
 お清とのその朝のことが、頭の底にこびりついて離れなかった。それかといって、何物もはっきり掴めるものはなかった。鼻に沁み込んだ匂いに似ていた。考えることが出来なくて、ただ嗅ぎ取られるばかりだった。そしてそれが一種の象徴となって心に映った。もはや其処には、お清も保子もなかった。惑わしい一の女性があるのみだった。お清と保子と、何れへ心の眼をやっても、それは単なるお清でも保子でもなかった。二つのものが一つの面影のうちに融け合っていた。
 その面影に向って、別れを告げる途しかもはや残っていないことを、彼は感じた。否既に、半ば別れてしまったのだった。二人が一つになったことが、何れとも選び難くなったことが、それを決定してくれた。息苦しい雰囲気から脱した後の、何物もない広々とした空間が、前方に見えてきた。
 彼はすぐにペンを執って、保子へ手紙を書きかけた。
 然し、一句毎につかえていった。細かく自分の気持を書くつもりだったが、その気持にまとまりがつかなかった。心の底では、保子へ書いてるのかお清へ書いてるのか、けじめがつかなかった。
 彼は書きかけの紙を幾度も裂き捨てた。然し書かずには居られなかった。何かに駆り立てられる心地がした。昏迷の気持をじっと押えつけ、前に浮びくる幻の面影へ向って、がむしゃらに簡単な文句を投げつけた。

 先達て、年末から正月へかけてお手伝いすることを約束しましたが、それが出来なくなりました。毎週月曜にもお伺い出来なくなりました。もうお家へ伺うことが出来ないのです。
 堪らない噂が広まっています。あなたと、お清という或るカフェーの女中とに、私が肉体的関係を同時に結んでるというのです。噂は全く噂です。けれど……。
 許して下さい。私はどうしていいか分らないのです。許して下さい。私はあなたに恋していました。お清にも恋していたかも知れません。
 今はもう何でもありません。自分自身が呪わしいだけです。
 あなたと先生との恩義をつくづく感じています。噂を立てた本人は分っています。私は自分の信ずる手段を取ります。このままでは済ませない気がします。
 私は新らしい途を踏み出すつもりです。自信を持っています。
 何もかも許して下さい。御恩義には屹度報いる時があることを期しています。今はただ感謝きりありません。
 細かく書くつもりですが、何にも書けません。私の今後のことは、友人の村田や其他から御耳に伝わることと存じます。暫くお別れすることが……今はもうつらくは思われません。
 許して下さい。これより外に途がないのです。私は信じています。

 周平は書き続けられなくなって、それで止した。読み返しもしないで封をしてしまうと、堪え難い気持になった。
 最後に只一度、保子へ逢いたかった。然しその場面を想像すると、自分自身が恐ろしくなった。どんなことになるか分らない気がした。
 彼は凡てを踏み蹂るような心地で、女中を呼んで手紙を出さした。急に寒気さむけがしてきた。惨めな室の中を見廻してから、床を敷いて寝た。身動きも出来ないほどの疲労を全身に覚えた。
 暫く眼を開いたり閉じたりしているうちに、彼はいつしか眠った。ひるの食事を女中が運んできたのを、夢心地で怒鳴りつけるように郤けて、又白けた眠りに陥った。
 三時頃、村田が訪ねて来たため、彼はその眠りから本当に覚された。頭が妙にぼんやりしていた。村田を通さしておいて、床の中から起き上らなかった。
「このままで失敬するよ。」と彼は云った。
「ああ。だがどうしたんだい。」
「少し寒気さむけがして、やたらに眠いんだ。」
 馬鹿々々しいことを云ってるような気がして、彼はじっと天井を仰いだ。
 村田はその枕頭まくらもとに坐って、女中が持って来た火鉢の火をいじっていたが、突然云い出した。
「君怒ってやすまいね。……昨晩は僕が悪かったよ。然し君の云い方もいけなかったんだ。噂が嘘だということは分っていたが、君の調子が調子だったものだから……。」
 周平は変な気がして村田の顔を眺めた。彼にとっては、それがずっと以前のことのようだった。昨晩村田と別れてから、長い時日がたってるように思われた。実際そんなことはもう脱却してしまっていた。
「何とも思ってやしないよ。」と彼は云った。
「そんならいいが……。然しこれからどうするつもりだい。」
「何を?」
「ああいう噂が立ってるので……。」
「どうもしないさ。噂ばかりだから構やしない。ただ、もうお清に逢うことも、横田さんのうちに行くことも、きっぱり止そうと思ってる。つまらないからね」
「うむ。」
 村田はそう答えたまま、火鉢の火に眼を落して、暫く考え込んだ。それから急に顔を挙げた。
「それもいいだろう。なまじっか噂に反抗し出すと、横田さん二人に迷惑をかけることになるかも知れない。……それに、今後の君の生活位はどうにでもなる。僕がいくらも仕事を探し出してやるよ。」
 然し、周平はそれを耳に止めなかった。彼は咄嗟に或る計画を思いついていた。竹内を殴るに最もいい名案らしく思われた。彼は強いて何気ない調子を装って云った。
「君、忘年会をやろうじゃないか。」
「え?」
「僕は今年ことし一年中のことを葬ってしまいたいんだ。噂をも何もかも葬ってしまいたいんだ。皆で忘年会をやって大に飲もう。なるべく早い方がいいね。最後の思い出に、蓬莱亭の二階でやろう。」
 村田は眼を円く見開いていたが、暫くして、急に顔を輝かしてきた。
「それはいい。早速やろう。今日は金曜だから……来週の水曜あたりはどうだい。横田さんの家へ集るのを、そっくり持ち込むんだ。横田さんも引張り出そう。お清と大に仲のいい所を見せて、奥さんとのことを間接に打消すんだね。名案だ。そして何もかも葬っちまうんだ。」
 周平は一寸躊躇した。村田を欺くことが、また横田さんを呼ぶことが、何となく気に懸った。然し村田は、何等の疑念も※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んでいないらしく、極めて乗気になっていた。一人で凡てをまとめると云い出した。周平も今更躊躇してはいられなかった。何構うものかという気になった。村田と一緒にその会のことをめた。蓬莱亭の二階の狭い方の室を占領して、食事をぬきに、七時頃から遅くまで飲んで騒ぐことにした。気の置けない会にするため、水曜日の連中とカフェーの連中とからなるべく共通の者を中心にして、十一二名の人数になった。
「竹内も呼んでやろうよ。」と周平は軽く云った。
「勿論さ。」と村田は答えた。
 周平は知らず識らず身を乗り出していたのを、また布団の中にもぐり込んだ。

     四十四

 周平は水曜日の会を待った。多少の懸念がないでもなかったが、もはやまっしぐらに進むの外はないと思った。村田からは、万事うまく纒ったとの通知があった。
 所が、火曜の朝、遅くまで床の中にはいっていると、一封の書留郵便が来た。保子からだった。周平は胸の動悸を禁じ得なかった。震える手先で封を切ると、最初に五十円の為替がはいっていた。彼は惘然と眼を見張った。それから、一気に手紙を読み下していった。

 お手紙を拝見しました。こういうことになろうとは夢にも思いませんでしたが、今はもう仕方もないことと諦めましょう。
 初めお手紙を見た時、私は大して気にもかけませんでした。噂は噂だとしておけばよい、そう思って平気でいました。けれど、読み返すうちに心配になってきました。怒ってるのか泣いてるのか分らないようなあなたの調子ですもの。私はあなたをもっとしっかりした人だと信じておりました。そして、いろいろ考えていると、このまま黙っては居られない気がしました。
 私はあなたの手紙を横田に見せました。それから、これまでのことを、お約束でしたけれど吉川さんの日記のことも、すっかり話しました。横田は私達を信じてくれました。そしてただこう申しました、井上が独身でいる上にお前に子供がないのがいけないんだと。それがどんな気持を私に与えたかは御想像下さい。僕も淋しい、と横田は申しております。
 あなたの心はあの時から私に分っていました。けれど私の立場としては、外に方法もなかったのです。その上、吉川さんのこともありました。私はあなたが、吉川さんと同じようなことになりはしないかと恐れたのです。それほど、吉川さんのことは深く私の心に刻み込まれていました。あなたや隆吉のことで、それがなお変な風に私の心を悩ましてきました。私はどんなにか苦しんだか分りません。けれど、私は固く信じておりました。あなたと隆吉と三人で清く親しくしてゆくことで、凡てよくなるだろうと。私は間違っていましたでしょうか?
 けれど、もう何もかも駄目になりました。ただ、あなたはしっかりしていって下さい。こういうことを申すと変ですけれど、お清とかいう女のことも御注意なさい。私を信じて下さいとあなたが云われた通りに、私はあなたを信じております。お目にかかっていろいろ申したいこともございますが、今はやはりお逢いしない方が宜しいように思われます。
 噂を立てた本人も分っているとのお言葉ですけれど、そういう噂は一人の人から出たことではありますまい。それに対する手段などということは、よほど注意しないと、とんだことになりはしませんでしょうか。横田もそれを心配しております。
 私達のことは気にかけないで下さい。今はもうすっかり落着いております。噂を噂だとして聞き流すことが出来るほどになっております。自分さえしっかりして居れば、どんな噂でも平気なものです。噂の方から消えてなくなるでしょう。噂に巻き込まれるのは、自分自身がしっかりしていない証拠だと思われます。此度のは余りひどい噂ですけれど、それでも私でさえ平気でおります。あなたが噂の上に出て、自分自身を取失わないようになされることを、祈っております。
 今日は月曜日です。私はあなたに逢ってる気で、この手紙を書いています。隆吉へは、あなたが暫く旅をなさるのだと申して置きました。どんなに淋しがってるかはお分りでしょう。私はこれから、隆吉を猶更愛してゆきましょう。凡てのことがよくなったら、やはり一週に一回位は、隆吉をあなたの下宿へ伺わせるか、或はあなたから来て頂いてもよいと考えております。
 実はこの年末に、あなたのお正月着として、銘仙の羽織と着物とを差上げるつもりでいました。けれど、今の所そうしない方が宜しいようですから、そのために取って置いたのを為替にして入れて置きました。気を悪くしないで受取って頂けることと存じます。
 横田が、あなたに逢っていろいろ話したいこともあるが、今暫くはやはりこのままでいたいと、そう申しております。それから、村田さんのお話ですが、水曜の晩に忘年会をするから横田へも是非出てくれとのことでした。出席すると答えておいたから、あなたからその晩、急な用で欠席する由を皆さんへ伝えてほしいとのことです。
 余り長くなりますからこれで筆をとめます。何事もやがてよくなりますでしょう。心配なさらないで、あなた自身をしっかり守っていって下さい。御自重を切に切に祈っております。
保子
  井上周平様
追白――この手紙は横田にも見せました。……私はあなたをお訪ねしたく思っていますが、それも止します。……当分のうちお互に手紙も差控えましょう。……あなたが私を信じて下さるように、私はあなたを信じております。お互に正しい途を進みましょう。

 周平は夢中に読んでしまってから、暫く惘然とした。いつもの保子と違って、いやに丁寧な調子だった。けれどやがて、其処に真剣なものが感ぜられてきた。彼ははっと我に返ったようになって、また手紙を読み返した。手紙の一句々々が胸をしめつけてきた。
 それは、歔欷を通り越した一種の幻惑に似た気持だった。黒目の大きな澄みきった眼付が、じっとこちらを見つめていた。彼は如何に深く保子を恋していたかを知った。また、その保子が如何に自分から遠く離れてしまったかを知った。そして、其処で頭の働きが止って動かなくなった。
 彼はぼんやり起き上った。機械的に食事をした。それから外に出た。世界が異ったような気がした。黄色い光りが一面に空から落ちていた。この上もなく静かだった。
 彼は日向ひなたを選んで、長い間ぼんやり歩き廻った。いくら行っても、日の光りが十分でないように思えた。ふと気が付くと、いつしか保子の家の前に出ていた。横田禎輔という檜板の表札ひょうさつが彼の眼を惹きつけた。彼はそれを初めて見るかのようにじっと眺めた。
 と突然、彼は息を凝した。女中が腕に何か抱えて二階の縁側に出て来た。彼はつと足を返した。高く動悸してる胸を押し鎮めていると、頭の中に罩めていた靄が消えて、過去の全景が遠くまで見渡された。凡てがむなしかった。空しい中にただ一つ、吉川の黒い影がつっ立っていた。彼は幽鬼に出逢ったような慴えを感じた。それから脱することが、やがて凡てから脱することのように感ぜられた。彼はきっと唇をかみしめて、何物にとも分らない漠然とした反抗の気勢に、心の底迄身内みうちを戦かせた。
 せめて隆吉に一目逢いたいという気が起りかけるのを、彼は自ら押し潰した。そして日当りのいい方向へと、当もなく歩き続けた。眼には熱い涙が一杯たまっていた。

     四十五

 水曜の晩、周平は八時半頃蓬莱亭へ行った。もっと時間を後らして、皆が酔ってしまった頃行きたかったが、待ってるのが堪えられなくなった。
 彼は二三度その前を往き来して、それから下腹に力を籠めながら、突進するような気で中にはいっていった。階下の室には数人の見知らぬ客が居た。彼は真直に帳場のお主婦かみさんの方へ行って、今迄の借りを全部払った。それからゆっくり階段を上っていった。二階に行くと、広間の方に居た一人の女中がやって来て、いきなり隣室の扉を押し開いた。
「井上さんがいらしたわよ。」
 彼は開かれた扉からつと身を入れた。真白な明るい室だった。こちらを振り向いた皆の顔が、一時に彼の眼の中へ飛び込んできた。彼は横を向いて帽子をかけながら云った。
「遅くなって失敬。」
「やあ来た来た。」と橋本が大きな声を立てた。「も少しで迎えにやるつもりだったぜ。所がお清ちゃんが、屹度君は来ると云い張るんだろう。だから、迎えにやらないでも来るか来ないかというかけをしたんだが、つまらないことで損をしちゃった。然し負けてよかった。……まああたれよ。」
 周平はけて貰った煖爐の側の席について、ぼんやりあたりを見廻した。金口の煙草をくわえて澄してる竹内の顔が見えた。周平は眼を外らしながら突然云った。
「横田さんからことづかって来たんだが、今晩急な用事で来られないから、皆に宜しく云ってくれとのことだった。」
「君逢ったのか。」と村田が尋ねてきた。
「ああ、昨日きのう一寸。」
 村田は変な瞬きをした。周平にはそれが一寸痛快な気がした。心が落付いてきた。
「これだけの人数で十分よ。……井上さん、いらっしゃい。」
 周平は振り向いた。卓子の向うの端からお清の顔が覗き出していた。
「私も忘年会の仲間に入れて貰うのよ。いいでしょう。」
 眼付に一寸険を帯びて、口元に軽い微笑を浮べていた。それを周平は正面まともにじっと見返した。
「君の承認を得なけりゃ気が済まないんだそうだ。」と竹内が云った。
 冗談の調子ではあったが、それがぐっと周平の胸にきた。彼は唇を震わしながら咄嗟に言葉が出なかった。
「はいりたい者は皆入れるさ。」と村田が引取った。「兎に角、忘年会の名に恥じないように、一年中のことを忘れちまうまで飲めばいいんだ。」
「僕は一年中のことを生かしきるまで飲みたいね。忘れるより生かす方が……。」
「分ったよ。」と村田はそれを遮った。「もう沢山だ、君の理屈は。」
 先刻からの話の続きらしかった。然し周平は黙ってることが出来なかった。突然云ってのけた。
「おい竹内、下らない噂を立てるのは止すがいい。卑劣じゃないか。」
 云ってしまってから周平は、竹内を見つめてる自分の眼付が熱してるのを感じた。がその瞬間に、村田が口を開いた。
「止せよ、つまらない。屁理屈や喧嘩は今晩一切封じちまうんだ。したけりゃ酔払った後にしろよ。」
「然し井上は僕に……。」と竹内は云いかけた。
「後にしろ。酔っ払ってからのことだ。」
「賛成!」と大声に叫んだ者があった。
 周平は黙って杯を取った。皆が一時に饒舌しゃべり出した。とってつけたような饒舌り方だったが、それがやがて本物になっていった。全部で八人だった。皆可なりもう酔いかけていた。
 食卓の真中に二三本洋酒の瓶が立っていて、食い荒した料理の皿が周囲に散らばっていた。お清はそれを持ち去ろうともせず、なお新らしい料理や日本酒を運んできた。可なり贅沢でまた乱雑だった。
「なるほど、この方が賑かでいいや。」と誰かが云った。
「見給え、幹事有能だろう。」と村田が応じた。
 話は、食物のことから、菜食主義のことになり、一転して享楽主義の論となり、天才の本質は純粋享楽だというようなことから、脳力と性慾との問題に及び、文学や美術に現われてる女のモデルと作者との関係から、やがて猥褻談に落ち、それからまた四方に枝を伸していった。それを中心として、一つの問題に長く止ってる者もあれば、正月の計画を隣りの者に囁いてる者もあり、皆の話を聞き流しながら口笛を吹いてる者もあった。竹内は噂か本当か分らない面白い実例をしきりに持ち出していた。何かしら饒舌らずにはいられないらしい調子だった。それへお清が、或は頓馬な或は適切な茶々を入れていった。
 周平は一人黙々として、時々強い洋酒の方へ手を出しながら、煖爐の火を見つめていた。どうしても皆と調子を合せられなかった。それがまた反撥的に心に返ってきた。しまいにぷいと立ち上って、向うの長椅子に半身を横たえた。
 然し誰も注意を向けなかった。話がはずんでいた。睾丸移植の大手術が行われて、睾丸を失ってる男が他人のを片方貰ったのだが、それでもし子供が出来たら、その子は他人のか自分のかという問題だった。
 周平はそれらの話をぼんやり耳にしながら、自分一人の考えを追求していった。いつまでも愚図ついてるのが堪えられなかった。彼は自分と皆とを距つる深い溝渠を感じた。何事にも興味と好奇心とを覚えて凡てを摂取して飽かない青年の気概から、いつしか遠く離れてしまって、暗澹たる途にさ迷ってる自分自身の姿が、まざまざと見えてきた。保子のこと、お清のこと、隆吉のこと、幽鬼のような吉川のこと、それらが一団となって自分の精神生活を塞いでるのが、貧しい物質生活と反映し合っていた。それをつきぬけて晴々とした所へ出なければ、もはや息がつけない気がした。余儀ない破目から竹内を殴ることも、今は自分の生活を転回させるに必要な槓杆のように感ぜられた。単なる復讐心や卑怯な女々しい感情からではなく、公怨と無条件に腕力を肯定出来る気がした。思いつめてると頭がくらくらとした。知らず識らず保子の手紙が胸に浮んで涙が湧いてくるのを、彼は他人のような気持でぼんやり而も力無く見戍った。
「どうしたのよ、井上さん、しっかりなさいな」
 その声に喫驚びっくりして眼を挙げると、お清がすぐ側に坐って覗き込んでいた。酒にほてった頬と冷たく曇ってる額との間から、うち許しながら敵意あるあらわな眼が輝いていた。
「水を一杯くれよ。」と周平は云った。
 彼は身を起した。コップに水をついできたお清を引寄せて、膝の上に坐らした。そのずっしりとした重みを感じながら、一息にコップを飲み干した。
「井上、」と誰かが呼んだ、「怪しげな所を見せないで、まあこっちへ来いよ。」
 周平はお清を押しのけ、心を決して煖爐の方へ行った。
「水は早いぜ。も少し飲め」
 竹内が立ち上って杯をさしつけてきた。
 周平はその顔をじっと見返した。
「飲むとも。」そして手のコップを差出した。「これでやろう。君も受けるんだぞ。」
「よし。」と竹内は答えた。
 周平はコップになみなみとつがれたのを、一気に半分ばかり干した。下を向いて煖爐から煙草に火を移した。今だ! と考えた。頭がはっきりしていた。彼はコップを卓子の上に置いて、竹内の金縁眼鏡が光ってる辺へ見当を定めながら、吸いさしの煙草をぱっと投げつけた。火の粉が飛び散った。竹内があっとひるむ所を、足を払うと同時に殴りつけた。力任せの拳固を二つ喰わせるまに、竹内はばったり倒れた。
 一瞬間のことだった。周平は底の知れない静寂を感じた。皆が惘然とつっ立つ間に、つと身を飜して、帽子を取りながら室を出た。後をも見ずに力強い大股で、階段を下り、階下の室を通りぬけ、表へ出た。後ろから誰かの呼び声がした。十歩ばかりして振り返ると、四五人の人影が蓬莱亭の入口に立っていた。周平はかっと唾をしてまた歩き出した。
 月の光りが冴えていた。晴々とした大空が頭の上にあった。新しい運命がぎーいと音を立てて開けてくるのを、彼はじかに胸に感ずる心地がした。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「国民新聞」
   1921(大正10)年8月4日〜11月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。