がらり…………ぴしゃりと、玄関の格子戸をいつになく手荒く開け閉めして、慌しく靴をぬぐが早いか、綾子は座敷に飛び込んできた。心持ち上気じょうきした顔に、喫驚した眼を見開いていた。その様子を、母の秋子は針仕事から眼を挙げて、静かに見やった。
「どうしたんです、慌てきって。……今日はいつもより遅かったようですね。」
「ええ、お当番だったのよ。」
 手の包みを其処に置いて、袴も取らずに坐り込んで、それから、低い強い語気で云い出した。
「お母さん!」
「え?」
 仕事の手を膝に休めて、秋子は顔を押し進めた。
「お母さん!」とくり返して綾子は一寸息をついた。「このうちは変な家ですってね。」
 秋子は黙っていた。
「今日ね、あなたの家には何か変なことはなくって、と黒田さんが仰言るのよ。私何のことだか分らなかったから、よく聞いてみると、この家は前から評判の家ですって。何だか怪しいことがあるんですって。それで、どの人もみんな、はいるとじきに引越していって、空いてる時の方が多かったそうですよ。そこへ私達がやって来て落付いてるものだから、知ってる人は不思議がってるんですって。……ほんとに何のこともないの、としつこく黒田さんが仰言るから、ありはしないわ、よしあったって少し位は平気よ、二十世紀の者はお化なんか信じないから、と云ってやったわ。だけど……。」
「奥さま!」と襖の向うから声がして、女中の清が顔を出したので、秋子は俄に恐い眼付をして見せた。綾子は何のことだか分らずに、きょとんとした顔で口を噤んだ。
 秋子は尋ねられた用事を清に答えておいて、それから暫くして、真顔で向き直ってきた。
「そんな話を誰にもしてはいけませんよ。………そして、何か変なことはないかと人に聞かれたら、何にもないと答えるんですよ。」
「なぜ?」
「なぜって、もしおかしな評判でもたってごらんなさい……。」
 それがどうしていけないかをはっきり云い現わせなくて、彼女は中途で言葉を切った。
「だって、西洋の御伽噺にあるような、面白いお化なら出たって構わないわ。」
 口を尖らし眼をくるりとさしてる綾子の顔を見て、秋子も自然と笑みを浮べた。
 けれど……。そういう噂があるとすれば、うっかりしても居られなかった。
 二階が二室に階下が三室、便利に出来てる上に、日当りも相当によく、木口は粗末だが新らしく、家賃も案外安いので、近頃のめっけ物だといってすぐに越して来たのだった。が、玄関からすぐに階段、右手が八畳の座敷、それと反対に、左手の台所へ通ずる廊下わきの、四畳半の女中部屋だけが、何だか薄暗くて陰気だった。それだけのことなら、どうせ女中部屋だからとて我慢も出来たが、越して来たその晩に、変に気味が悪いとかで、清は一寸眠れなかった。
「空気の流通がよくないからだろう。」
 主人の晋作はそう云って、それでも念のために隅々まで検べたが、何処にも怪しい点は見出せなかった。
 そして夕方、北向の高窓から射す日の光が、うっすらとぼやけてゆく頃、秋子は何気なくその室にはいって、押入の前に佇むと、ぞーっと底寒い気がして、ぶるぶると身体が震えた。それが変に不気味だった。然し押入を開けてみても、清の夜具や荷物や、不用な道具などがはいってるきりで、少しも変ったことはなかった。気のせいだと思って、彼女はそれを黙っていたが、その晩も清は気味が悪くて眠れないそうだった。それ以後清は、玄関の三畳に寝ることにしていた。
 そのことが、綾子の話とぴったり合った。
「あなた、どうもおかしいじゃありませんか。」
 良人と二人の時、秋子はそう云って話の終りを結びながら、良人の顔を見守った。
 額の両側の禿げ込みは可なり深くなってるが、口髯はまだ濃く黒々としている、その先をひねりながら、晋作は薄ら笑いを湛えて答えた。
「その上本物のお化でも出たら、丁度お誂え向だね。」
「え?」
 彼女には冗談が分らなかった。
「いやなに、本当の化物屋敷となればね、家賃がずっと下るからいいって訳さ。」
「まあ何を仰言るのよ、人が本気で話してるのに……全くあの室は少し変ですよ。」
「じゃあ、僕が一晩寝て見るとしようか。」
 彼は生来の呑気さから、怪力乱心を信じなかった。そして、妻の話をいい加減に聞き流しながら、女中部屋で一夜を明かすという労をも固より取りはしなかった。
 所が或る日、陰鬱な雨がじめじめ降り続いてる午後、その女中部屋で、けたたましい叫び声がした。座敷に居た秋子と台所に居た清とが、両方から同時に駆けつけた。見ると、窓の下に、こちらに背を向けて、晋吉が棒のようにつっ立って居た。秋子が真先に駆け寄った。晋吉は真蒼な顔をして、暫くは口も利けなかった。漸く口を開かしても、ただ窓の外を白い物が飛んだというきりで、詳しいことは更に分らなかった。彼自身も半ば夢心地だった。
「それごらんなさい、云わないことではありません。」と秋子は、勝ち誇った語気で、そしてそれをわざと不気味そうな表情で押っ被せて、良人に云った。「小学校にも通ってる晋吉が、あんなに喫驚するくらいですから、普通のことじゃありませんわ。」
 晋作もさすがに一寸気を惹かれた。彼は怪力乱心をこそ語らなかったが、楽天家相当の偶然の機縁――それに多少の思想を交うれば、すぐに霊とか奇蹟とかになり得るもの――を否定しはしなかった。で試みに、女中部屋にはいって、あちらこちら歩き廻ったり、一寸屈み込んだりして、腕を組みながら、小首を傾げてみた。
 廊下の障子と室の障子とで二重に漉された明るみが、北の高窓から射す光りで暈されていた。窓の外は隣家との境の亜鉛トタン塀で、塀の上に伸び出てる桜の梢が見えていた。直接の日光が射さないせいか、室の空気が底冷たかった。まではよいが、押入の方から、何だか嫌な気が漂ってくるようだった。はっきり捉え所のない、変に気持ちが惹かされる、馬鹿げてるが打消せない、何とはなしに嫌な気だった。よく見るとその半間はんげんの押入の襖と柱との合せ目が、どちらか歪んでるせいか、上の方が五分ばかりすいていた。掌をかざしたが、別に隙間風がはいってる様子もなかった。襖を開くと、清の荷物や見馴れた古道具が、中に一杯押込んであった。なお試みに、上下左右の張り坂を、指先でとんとん叩いてみたけれども、釘付もしっかりしているらしかった。所が、差伸べた手先と頭とを引込めた途端に、ふっと鼻先を掠める匂いのような、嫌な気がすっと漂ってくる心地がした。彼はぴしゃりと襖を閉め切った。
 何とも云えない変な気持だった。彼は※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々に廊下へ出て、それから、押入の反対の側を見廻ってみた。其処は台所の煤けた壁だった。妙だな、と思う心が好奇心に変って、台所の揚板を二三枚めくって、押入の下に当る方を覗き込んだ。薪束の転ってる向うに、蜘蛛の古巣が破けかかっていて、黴臭い床下の地面が茫と横たわってるきりで、何等の異常もないし、少しの嫌な気も漂っては来なかった。
 彼はぼんやり座敷へ戻っていった。
「如何でした?」という意味を眼付に籠めて、秋子は彼の顔色を窺った。
「何でもないよ。」と彼は自分自身にも云ってきかせるような調子で答えた。
 がやはり、どうも腑に落ちなかった。薄気味の悪い変な押入だ! という気持が、頭の底にからみついてきた。
 そこへ清が変梃なものを齎した。
 或る夜のこと、電燈の光りが、潮の引くようにすーっと薄らいでいって、ぷつりと消えたかと思うと、またぱっとついた。おやと思う途端に、今度は本当に消えてしまった。座敷に居た秋子は、仏壇の蝋燭を探し当てた。二階からは晋作が、玄関からは清が、手探りにやって来た。そして秋子と晋吉とを加えて、ぼーっと赤い蝋燭の光りのまわりに、皆で集った。かと思うと、じきに電気が来た。なあんだという眼付で互に見合った。
 お茶でも飲もうということになったが、生憎鉄瓶の湯がぬるかった。清はそれを瓦斯の火で沸しに、台所へ立って行った。ばたりばたりと、肥った短い足先の上草履の音が、廊下に二三歩聞えたかと思うまに、あれっ! という叫び声と、がたりと鉄瓶を取落した音とが、殆んど同時に聞えた。瞬間に、総毛立った清の顔が、座敷へ飛び込んで来た。――廊下を二足三足歩き出して、何気なくわきを見ると、女中部屋の障子の向うに、真黒な大入道が、ぬーっと延び上った……までは覚えているが、後は一切知らない、と彼女は云った。
 その様子が余り真剣なので、皆はぎくりとした。けれども兎に角、晋作が先に立ち秋子が続いて、女中部屋を窺いに行った。玄関から廊下へ出ると、真黒な大きな奴が、障子にぬーっと現われた。がそれは、玄関の電燈の光りで投げられてる、自分自身の影だった。
 安心すると、可笑しくなった。
「おい、皆で来てごらん、大入道が居るから。」
 晋作の声の調子に元気づいて、皆は座敷から出て来た。大きな影が幾つも重なって、眼の前の障子に映った。
「やあ、大入道が沢山居らあ!」と晋吉が叫んだ。
「お前のは小入道じゃないか。」
 そして皆は、まだ先刻の驚きから醒めずにいる清を除いて、障子に影を映し合った。けれど、それが次には不気味になって、立ちつくしたまま黙り込んだ。
 晋作は障子をさっと開いた。向うの高窓が、死人の眼のようにぼーっと浮出していた。ぞっと薄ら寒い気がした。
「あら、どうしてこの室の電気だけつかないんでしょう?」
 秋子の言葉に皆初めて気付いた。晋作は中にはいって電燈の捻子ねじを捻ねった。ぱっと明るくなった。が皆は云い合したように、そのまま座敷へ戻った。
「馬鹿げた入道だね!」
 晋作は強いて笑おうとした。その笑いが変に硬ばってくる所へ、清は別なことを主張しだした。
「でも初めは、たしかに電気がついておりましたが……。」
 女中部屋の電気は、いつもつけっ放しにしておかれたのだった。その晩も停電の前までは、たしかについていた筈だった。
「そうれごらんなさい。おかしいわ!」と口には云わないが目付に見せて、綾子は皆の顔を見廻した。
「それも大入道のせいかな。」
「やあ、此処にも大入道が居るよ。」
 と晋吉は立ち上って、背延びをしながら向うの壁に、自分の影を写していた。
 笑っていいか恐がっていいか分らない、変な其場の気分だった。
 そしてそれが、後まで続いた。
 晋吉は夜になると、電燈の位置を変えたりいろんな姿勢をしたりして、壁に写る影法師をしきりに研究しだした。両手を拡げて飛び上ったのが、飛行機の姿だったし、首を振りながら片足で立ったのが、お化の姿だった。其他いろんな物が出て来た。
「お止しなさいよ。そんなことしてると、今に影に呑まれてしまうわ。」と綾子は云った。
 影に呑まれるというのは、彼女の作り出した言葉だったが、それが実際、変な響きを皆の心に伝えた。
「なあに呑み込まれるものか、姉さんを呑み込んでやらあ。」
 そして晋吉は、獅子舞いの面の恰好をして壁に写した。
 その様子には清まで笑い出したが然し彼女は内心ひどく慴えきっていた。女中部屋の中には晩になると決して足を踏み入れなかった。
 秋子は表面だけで皆に笑ってみせながら、内密で良人に断言した。
「あなた、何処かへ越しましょう。私もうこの家には一日も嫌ですわ。」
「そうだね。」と晋作は曖昧な返辞をした。
 気のせいだと云えば云えないこともなさそうだったが、それにしても、女中部屋の押入はやはり不気味で変だった。その上、影法師に凝り出した晋吉の様子までが、心の持ちようで不気味にも思われた。
「だが、そんな筈はない。」――「然し、何だか変でもある。」
 その間の去就に迷った心で晋作は、いい家があったら越してもよいと考えるようになった。気に入った家をわざわざ引越すにも当るまい、と昼間は思っても、夜になると、女中部屋のあたりが妙に陰々として感ぜられた。五十燭光の電球を買ってきて内密につけてみても、やはりそうだった。そして何だか押入のあたりが……。
明日あしたから家を探すよ。」と彼は秋子に答えた。
 然しその明日が、一日々々と延びていった。でも一方で秋子は、出入の商人に空家探しを頼み初めた。
 すると或る日、晋作の家へ突然刑事が訪ねて来た。
 日曜日の午後一時頃だった。空家探しに出かけようと秋子に云われるのを、晋作はなお煮えきらない返辞ばかりして、その午前を愚図々々のうちに過してしまった。その間に一度、人知れずそっと女中部屋へはいってみたが、やはり何だか気持が変だった。昼食後彼は、二階の室にぼんやりして、うち晴れた大空を障子の硝子から眺めていた。これまでのことを考えるともなく考えてみると、馬鹿げているようでいて、そのくせ笑えもしなかった。自分でも思い迷った心地で、また大空をぼんやり透し眺めた。
 そこへ、清が来訪者の名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]を持ってきた。○○署詰刑事中井宇平としてあった。晋作には何の用件だか更に見当がつかなかった。彼は暫く名刺の表を見つめていたが、兎も角もその刑事を通さした。
 絣の銘仙の羽織着物に、セルの袴をつけた、三十五六の年配で、頭を五分刈にした、朴訥そうに見える男だった。晋作の頭には、その様子と刑事の肩書とが、別々なものとなって映じた。中井刑事は、一通りの挨拶を終ってから、突然の来訪を廻りくどい言葉で詫びた。語尾に妙な曇りがあった。晋作はその顔を見ながら、何の用件かと尋ねた。
「実はおかしなことで伺ったのですが…………。」
 そして中井刑事は、丁寧な調子とぞんざいな調子とをつきまぜて云い出した。――晋作の家に怪しいことがあるという噂が拡まっている。固より前からも、変な噂があって居つく人がなかったのだが、晋作一家が暫く落付いてるので、近所では不思議に思ってると、果して怪しい噂がまた立ってきた。自分はそれをちらと耳にしたのだが、そういう事柄から往々古い犯罪の手掛りを得ることがあるので、どういう怪しいことがあるのか、それを尋ねに来たのである。――「御迷惑になるようなことは決してありませんから、単に参考のために、仔細を聞かして頂けますまいか。私一個人として伺うだけですから。」
 晋作は微笑を浮べた。それから一寸躊躇した。
「何かお差支えがあれば、強いてとは申しませんけれど。」と刑事は云った。
 その言葉が妙に晋作の気持に絡みついた。怪異に縁故があると思われて堪るものか、と考えたが、その憤慨の念が我ながら可笑しくなって、次には凡てをぶちまけてやれという気になった。
「怪しいといっても、何もはっきりしたことはありませんが……恐らく気のせいかも知れませんが、ただ……。」押入が不気味だということだけを、彼は細かく語った。
 刑事は注意深く聞いていたが、晋作の言葉が途切れて暫くしてから、その押入を検べさしてはくれまいかと云い出した。原因を明かにした方が皆のためだと。
 云われて見ればその通りだった。彼は苦笑しながら承知したが、また思い直して、秋子を其処へ呼んだ。
 秋子は仔細を聞いてから、不思議そうに刑事の顔を見守っていたが、やがて俄に眉をひそめた。
「だけど、子供達や清が猶更恐がるようになりはしませんでしょうかしら。」
 彼女の懸念は道理だった。
「では何れまた、」と刑事は云った、「皆さんのお留守の時に伺っても宜しいです。」
 然しそうなると、晋作は却って気乗りがしてきて、一時も早く検べて貰いたくなった。
 彼は秋子と相談して、皆を外に出すことにした。子供二人に清を伴さして、動物園へ遊びにやった。綾子はつまらなそうな顔をしたが、晋吉と清とは大喜びだった。そして三人は出かけていった。
 晋作と秋子とは、中井刑事を女中部屋へ案内した。が不思議に、その時は別に不気味な感じもしなかった。押入の中の道具を取出しながら、馬鹿々々しい気持にさえなった。単に気のせいだったろうと、晋作はしきりに云い訳らしいことを云った。
 然し、刑事の眼は急に輝き出して来た。注意を凝らしたらしい額をつき出して、犬のように鼻をうごめかした。彼は一応押入の中を見廻し、それから女中部屋の内外を見極め、台所の揚板の所から半身を差し込んで、押入の下あたりの地面を、棒切の先でかき廻したりした。しまいに彼はまた押入の前に戻って、小首を傾げながら考え込んだ。
 その無言の動作に、こちらも黙ってついて廻ってた晋作と秋子とは、初めから白けた気持と、それでも淡い期待のあったのを裏切られてゆく失望とで、がっかりしてしまった。刑事が俄に押入の片隅を見つめ初めたのを、彼等は殆んど気にも止めなかった。そして云われるままに、釘抜と金槌とを取って来て渡した。
 刑事は押入の隅の一枚の張板に、全身でしがみついていた。金槌と釘抜とでそれをはがした。そしてあり合せの板切を求めて、其処を器用に塞いでしまった。それから漸く立ち上って、廊下に出て着物の塵を払い、めくり取った一枚の板をしきりに眺めた。わきから覗くと、その板には端の方に、少し火に焦げた跡が残っていて、黴みたいな小さい白っぽい斑点が沢山ついていた。がただそれだけだった。
「どうもお手数をかけて済みませんでした。」と彼は云った。「では、この板だけお預りして行きます。」
「もう宜しいのですか。」と晋作は尋ねた。
「ええ、別に異状もないようですから。」
「そんな板が何かになるのですか。」
「さあ……。」と刑事は半信半疑らしかった。
 それでも彼は、お茶を一杯飲むと、新聞紙に包んだ板を大事そうに抱えて、慌しく帰っていった。
「何かがお分りでしたら、私共へも一寸お知らせして頂けませんでしょうか。」と晋作は頼んで見た。
「はっきりした方が気持が安まっていいですから。」
「そうですね。」そして刑事は一寸考え込んだが、それから元気な声で答えた。「ええ、何れともお知らせしましょう。」

 女中部室の押入は、中井刑事の臨検を受けて以来、その神秘的な魅力を失ったかのようだった。室の陰気さは前と少しも変りはなかったが、押入の張板が一枚、あり合せの板切れで、刑事の手によって置き換えられたことを思うと、今迄の何とも云えぬ不気味さが、朝の光りのように白々しくなって、何処かへ消え失せてしまった。
「やはり何でもなかったんじゃないか。」
「そうね、気のせいだったのかも知れませんわね。」
 晋作と秋子とは押入の前に立って、そんな風に語り合った。
 けれど……その下からまた、新らしい懸念が湧いて来た。
「一体刑事は、あの板を何と思ったのかしら?」
 怪しい幻が消えた後に、科学と官憲とで※[#「捏」の「日」に代えて「臼」、24-下-4]ね上げられる、動かすことの出来ない現実的な幻が、恐ろしい顔付で伸びあがってきた。
「だがそんなことは、俺達の知ったことじゃない。」
 そう自ら云いきかして、晋作は無理に平気を装った。そして女中部屋の中に坐り込んで、子供達と清とを呼んだ。
「何でもなかったんだよ。押入の中の板が一枚壊れて、床下の風が吹き込んでいたので、変に気味が悪かったのさ。この通り繕ったから、もうこれから安心だ。」
 そして彼は押入の荷物を少しのけて、中井刑事が打付けた板をさし示した。が、清は腑に落ちぬような顔付をし、綾子は不審そうに眉根をしかめ、晋吉はふふんと空嘯いているので、そして、秋子は不安げな眼付で苦笑してるので、それが――何だか分らないが何かが、やはり変だった。その室に落付いて居られなかった。
 夜遅く便所へなんか行く時に、ひっそりした闇の中から、何かの眼付が覗いてるらしい気配に、ふと慴えることがあった。それはもはや、荒唐無稽な変化へんげの類ではなかったが、あの押入に何かの因縁が……と思う、一種の宿命的な惑わしだった。
 新らしい家だけに、それがどうも不思議だった。
「この家は建ってまだ間もないらしいがね。」
「ええ、三年にきりならないんですって。」
 秋子はそう答えながら、良人の眼付のうちに、何か力となるべきものを探し求めた。そしてそれが見出せないと、しまいにはやはり移転を主張しだした。
「だってあの刑事との約束もあるしね……。」
 然し中井刑事からは、其後何等の音沙汰もなかった。こちらから聞きにゆくわけにもいかなかった。
 思い惑って、二人で長火鉢の前にぼんやりしてると、晋吉は綾子と清とを相手に、玄関の三畳で影人形の遊びに耽っていた。兎や狐は固より陳腐だったし、飛行機やお化も倦きられていた。そしてはしきりに、新らしい人形に苦心していた。
「そら蝦蟇かえるが出来た!」
 晋作がそっと覗いてみると、晋吉は壁と睥めっこをして、四つん匐いになっていた。その恰好が変梃だった。
 晋作はふと膝を叩いた。
「おい、僕が面白いものを拵えてやるから、じっとしてるんだよ。」
 彼は其処へ進み寄って、袖をまくった両手を重ねてぬっと差出した。然し、晋吉の蝦蟇を呑もうとしてる大蛇の姿は、思うように壁面へ現われなかった。
「お父さんは駄目だよ。」と晋吉は叫んだ。「お化の手附なら僕の方がうまいや。」
 晋吉は両手でいろんな恰好をして、様々の幽霊の手附をしてみせた。
「嫌ですよ、坊ちゃまは。そんなことをなさると、今に本物が出ますよ。」
 だが、慴えてるのは清ばかりではなかった。
 或夜中に、突然の鋭い叫び声のために、晋作と秋子と綾子までが眠りから覚まされた。見ると、晋吉が其処につっ立っていた。没表情な顔で石のように固くなっていた。漸くにまた寝かしたが、物に憑かれたような眼を長く見開いていた。――影が無くなった夢をみたのだそうだった。自分の影がなくなって、何処に写しても出て来ないので、一生懸命にその影を探し廻ってると、急に恐くて堪らなくなったのだそうだった。
「影ばかりでなく、今に晋ちゃんご自分も呑まれてしまうわ。」
 綾子が震えながらそんなことを云い出した。
 ぞっとするような静けさだった。眠れないでいるうちに、柱時計が四時を打った。それから時計の振子の音が耳について、晋作は朝まで眠れなかった。
「俺まで何だか変だぞ。」
 と気がついてみると、晋吉の夢が妙に気にかかった。女中部屋にいつも明るい電燈をつけ放しなのがいけないのじゃないかしら、とそんな馬鹿げた考えまで起った。然し明るい電燈をつけておいても、夜になると、清はその室を恐がって中にははいれなかった。秋子までが変に苛ら苛らしていた。
「とにかく、このままではいけない。どうにかしなくては……。」
 彼は考えあぐんだ。
 所へ、思いがけなく……実は心待ちにしていたのだが、中井刑事が訪れて来た。
 その日曜の朝をぼんやりしていた晋作は、驚喜の余り飛び上って、自身で玄関まで出迎えた。
 刑事の顔も、彼のに劣らず輝いていた。左の手先に軽くソフト帽を抱えて、足を心持ちふんばり加減につっ立ち、引緊めた浅黒い顔の皮膚の下には、晴々とした笑みが溢れていた。
 二人は親しい挨拶を交わした。
 然し、二階の座敷に通されると、俄に刑事は厳粛な態度に変った。半ば吸いさしの朝日を静に火鉢の灰にさして、一度に凡てのことを考えめぐらすような眼付をした。
「実は、あなたへお知らせすべきかどうか、少なからず迷ったのですが、怪しい噂を今迄平気でいられた所から考えて、申上げても別段騒がれることもないと思ったものですから、それにあの時のお頼みもありますし、定めしお待ちになってることと思ったものですから、旁々伺ったような次第です。然しこの話は秘密にして頂きたいものです。いずれ発表して差支えない時期が来ることと思いますが。まだ事件が予審中なものですから。」
 晋作は意外の感に打たれて、身ずまいを正しながら、他言しないと誓った。
 そして、刑事の話は更に意外だった。――あの板の、焦げ跡と白っぽい斑点とが不審だった。警察の方で一応調べてみると、怪しい点が生じてきた。それで更に、法医学の高山博士に鑑定を依頼した。博士の検査に依って、白っぽい斑点は蚊の糞の跡であり、更に、その糞中には人間の白血球が多く存在し、板には人間の脂肪がしみ込んでることが、明かになった。それから板の出所を調べると、その板は或火災の場所から出たもので、晋作がはいってる家を三年前新築する時、大工が何かの都合でそのまま使ったものだった。更に不思議なことには、その板は焼けた家でも押入の張板に使われたものらしかった。なお調査してみると、その焼けた家の主人は、或る重大な犯罪で目下未決監にはいっていた。所が、その家が焼けた時老人が焼死して、その生命保険金一万円を主人は受取ったのだった。そこで、警察の眼には二重の疑問が映じた。火災の折に押入の板がどうして焼け残ったか? 押入の板に人間の白血球を含む蚊の糞と人間の脂肪とがどうしてそう多分に付着しているか? そういう疑問から、保険金一万円が鍵となって、或る犯罪事実の情景が浮び出て来た。

 三年前の或る初夏の夜――
 室の真中に、六十年配の老人が一人眠っていた。あたりはひっそりと静まり返っている。其処へ、側の襖がすーっと音もなく開いて、眼のぎょろりとした壮年が、腹匐いになって覗き込んだ。暫くすると、その男はすっくと立上って、つかつかと而も爪先で歩み寄った。蚊帳をまくって中にはいると、袂から黒メリンスの兵児帯を取出した。老人は口をあんぐり打開き、横向きになって、酒臭い息を喘ぐように吐きながら、ぐっすり眠っていた。男はその後ろに忍び寄って、老人の首の下に帯の端を通し初めた。老人は一寸身動きをした。瞬間に、男は帯を通し終って、それでぐっと老人の首を締めつけながら、なお膝頭で老人の背中を後ろから押えつけた。首を縮め両肩を高く聳かし、両手にある限りの力を籠めて、そのまま蹲った。老人はぱっと足元で夜具を半分ばかり蹴飛したが、声も立てずにぐったりとなった。手足がびくびく震えだした。かと思うと止んだ。そしてまた震えだした。その震えが次第に弱く痙攣的になり、震えの間の時間が長くなり、最後にぴくりと一つ大きく震えて、もう動かなくなった。三分……五分……そして男は立ち上った。老人はぐたりと頭を落した。眼を見張り口をあんぐり開いていた。男はそれを一目見やって、顔をそむけた。
 男はやがて身形みなりを直した。額の脂汗を袖で拭った。それから蚊帳の外に出て、押入の襖を静に開いた。中には四尺ばかりの空いてる場所があった。男は蚊帳の外から手を差伸べて、老人の足先を捉えて引きずり出した。それを両手で軽々と持上げ、押入の空いてる場所へ横たえた。それから押入の襖を閉め、蚊帳の中の布団の乱れを直し、兵児帯をまとめ、室の四方に恐ろしい眼付を投げて、慌しく出て行った。
 凡ては、前から熟慮されたもののように、的確な段取りで速かに音もなく為された。ただ、押入の襖だけが二三寸閉め残されていた。
 あたりは静まり返った。そのひっそりとした中に、向うの室から、時々何か低い物音が洩れてくるばかりだった。そして押入の中には、眼を見開き、口をうち開き、鼻から何とも知れない液体を出してる、老人の絞殺死体が、寝間着の胸をはたげ、手足をにゅっと伸して、固く冷くなっていった。それに蚊が群りついた。
 柱時計が午前三時を打って間もなく、先刻の男がつかつかとはいって来た。手にマッチとアルコール瓶とを持っていた。彼は押入に歩み寄ったが、二三寸閉め残されてるその襖を見てぎょっとしたように立ち竦んだ。それからびくりと肩を聳かして、押入の襖を開き、老人の死体を確かめた。そしていきなりアルコールを、襖や障子に振りかけて、そこへ火をつけた。蒼い焔がめらめらと広がるのを見定めて、彼は向うへ姿を隠した。
 三十分とたたないうちに火焔は一面に室を包んだ。それからその家を包んだ。家の棟が焼け落ちる頃になると、焼け壊れた押入の一枚の板を、火と灰との海の中の小舟のようにして、老人の死体は静に乗っかりながら、じりじりと焼かれていった。が、半焼のうちに消防夫の手から掘り出された。

 その幻影は、中井刑事の予想に反して、晋作や秋子にとっては、あらゆる妖怪変化よりも、更に恐ろしく更に不気味だった。
 彼等はその翌日、見当り次第の空家へ、一時の我慢だとして、すぐに引越してしまった。前の家のことを考えると、ぞっと冷水を浴びるような心地がした。そして、移転した汚い家の荷物の散らばった中に、ほっと腰を落付けながら、遠い幻影をなお頭に浮べて、何とも云えない表情で互に眼を見合った。その二人の顔付を、綾子と晋吉と清とが三方から、不思議そうに見比べた。
 が、少くとも此度の家は安心だった。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「良婦の友」
   1921(大正10)年3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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