(第一)

 焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等のうちに潜める一種の平民的虚無思想のいとに触るゝ思あり。就中なかんづく一九の著書「膝栗毛ひざくりげ」に対してしかく感ずるなり。戯文戯墨の毒弊は世俗の衆盲を顛堕せしのみかは、作者自身等をも顛堕し去んぬ。しかれども其罪は之を独り作者に帰すべきにあらず。当時の時代、あに作者の筆頭を借りて、其陋醜ろうしうを遺存せしものにあらずとせんや。
 徳川氏の封建制度は世界に於て完全なるものゝ一と称せらる、然れども武門の栄華は平民に取りて幸福を剥脱はくだつする秋霜なり、盆水一方に高ければ、他方に低からざるを得ず、権力の積畳せきでふせし武門におのづからなる腐爛生じ、しかして平民社界もた敗壊し終れり、一方は盛栄の余にすたれ、他方は失望の極に陥落せしなり、自然の結果ほど恐るべきものはあらじ。
 道徳の府なる儒学も、平民の門をたゝくことは稀なりし、高等民種のうちにすら局促たる繩墨じようぼく覊絆きはんを脱するに足るべき活気ある儒学に入ることを許さゞりしなり。精神的修養の道、一として平民をあがむるに適するものあらず、たま/\、俳道の普及は以て彼等を死地に救済せんとしけるも、彼等は自ら其粋美を蹴棄したり。
 禅味飄逸へういつなる仏教は屈曲して彼等の内に入れり。彼等は神道家の如くに皇室を敬崇することを得ず、孔教を奉じて徳性を育助することもあたはず、ればとて幽玄なる仏界の菩薩に近づく事も、彼等の為し得るところにあらず、悲しいかな仏教のうちにも卑近なる教派のみ彼等の友となり、迷信は彼等を禁籠する囚宰しうさいとなり、弱志弱意は彼等を枯死せしむる荒野あれのとなり、彼等をして人間の霊性を放擲はうてきして、みづから甘んじて眼前の権勢に屈従せしむるに至りぬ。
 自由は人間天賦の霊性の一なり。極めて自然なる願欲の一なり。然るに彼等は呱々こゝの声のうちより既にこの霊性をうしなへるを自識せざる可らざる運命に抱かれてありたり、自然なる願欲は抑へて、不自然なる屈従を学ばざる可らざるタイムの籠に投げられてありたり。人誰れか全くタイムの籠に控縛こうばくせらるゝを心地よしとするものあらむ、人誰れか天賦の霊性を自殺せしむべき運命を幸福なりとするものあらん。沙翁、人間に斯般しはんの一種の煩悶はんもんの抜く可からざるものあるを見て、通解してへらく、
For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor's wrong, the proud man's contumely, etc.
 まことに人間は自由を享有すべき者なるよ。今日までの歴史を細閲すれば、自由を買はんとて流せし血のあたひと煩悶せし苦痛の量とはいかばかりぞや。
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought ; etc.
 徳川氏末世の平民、実にこの煩悶をたもつこと少なからざりしなり、この煩悶の苦痛にへがたかりしなり、こゝに於てか権勢家の剛愎がうふくにして暴慢なる制抑を離れて、別に一種の思想境を造り、以て自らほしいまゝにするところなきを得ず。この思想境は余が所謂いはゆる一種の平民的虚無思想の聚成しゆうせいしたるところなり。而して十返舎一流の戯墨は実に、この種の思想境より外に鳴り出でたる平民者流の自然の声にあらずして何ぞや。
 民友子さきつ頃「俗間の歌謡」と題する一文を作りて、平民社界に行はるゝ音楽の調子の低くしてけんなるを説きぬ。民友子は時勢を洞察して、歎慨の余りに此語を吐けり、われは日本の文学史に対してこの一種の虚無思想の領地の広きを見て、痛惻にへざるなり、彼等は高妙なる趣致ある道徳を其門にこばみ、韻調の整厳なる管絃を謝して容れず、卑野なる楽詞をて飲宴の興を補ひ、放縦なる諧謔かいぎやくを以て人生を醜殺す。三絃の流行は彼等のうちあかしをなせり、義太夫常磐津ときはづより以下短歌はうた長歌ながうたこと/″\く立ちて之れが見証者たるなるべし。われは彼等の無政府主義なりしや極端なる共和主義なりしや否やを知らず、然れども政治上に於て無政府主義ならずとも、共和主義ならずとも、思想上に於ては彼等は純然たる虚無思想を胎生したりしことを疑はず、あはれむべし人生の霊存スピリチユアル・エキジスタンスを頭より尾まで茶にしてかゝりたる十返舎も、一個の傲骨がうこつ男児なりしにあらずや、青山をいだいて自由の気を賦せしシルレルと、わが好傲骨かうがうこつ男子と、其揺籠の中にありし時の距離いくばくぞや。
 女学子は時勢に激するところありて「膝栗毛」の版をかんといへり。われは女学子の社界改良の熱情に一方ならぬ同情をたもつものなり。然れどもわれはむしろ十返舎の為になかざるを得ざる悲痛あり、彼の如き豪逸なる資性を以て、彼の如きゼヌインのウイットを以て、而して彼の如くに無無無陋巷ろうかうに迷ひ、無無無の奇語を吐き、無無無の文字をろうして、遂に無無無の代表者となつて終らしめたるもの、そもそも時代の罪にあらずして何ぞや。
(本論は次号にうつりて、我が畏敬する天知子と愛山生の両兄によりて評論界を騒がしたる「遊侠」の問題に入り、更に「粋」といふ題目に進みて卑見を吐露すべし。)

     (第二)

 老人はいにしへを恋ひ、壮年は己れの時におごる、恋ふるものは恋ふべきのあと透明にして而して後に恋ふるにあらず、傲る者は傲るべき理の照々たるが故に傲るにあらず。彼は「時」にあざむかれ尽くして古時いにしへを思ひ、これは「時」に弄せらるゝを知らずして空望を懸く。気ち骨かたきものすら多くは「時」の潮流に巻かれて、五十年の星霜急箭きふせんの飛ぶが如くに過ぐ。
 然れども社界の裡面には常に愀々しう/\の声あり、不遇の不平となり、薄命の歎声となり、憤懣心の慨辞となりて、噴火口端の地底より異様の響の聞ゆる如くに、吾人の耳朶じだを襲ふを聴く。まことや人間社界ありてより以来、ヂスコンテンションと呼べる黒雲の天の一方にかゝらぬ時はあらざるなり。
 およそ社界の組織、封建制度ほど不権衡なるものはあらず、而して徳川氏の封建制度極めて完成したるものなりし事を知らば、社界の一方にヂスコンテンションの黒雲も亦た彼の如くに広大なりしものあらざりしを見るべし。その不平の黒雲の尤も多く宿るところは、尤も深く人間の霊性を備へたる高尚なる平民の上にあり。阿諛佞弁あゆねいべんをもて長上に拝服するは小人の極めて為し易きところにして、高潔なる性格ある者に取りて極めて難しとするところなり。もし今よりして当時の平民の心裡の実情を描けば、あはれ彼等は蠖蟄くわくちつの苦を甘んずるにあらざれば、放縦豪蕩にして以て一生を韜晦たうくわいし去るよりほかはなかりしなり。一種の虚無思想、彼等の心性上に広大なる城郭を造りて、彼等をして己れの霊活なる高尚の趣味を自殺せしめ、希望なく生命なき理想境に陥歿し入らしめたり。
 天知子、其の平生深く自信する精神的義侠の霊骨を其鋭利なる筆尖ひつせんほとばしらしめて曰く、社界の不平均を整ふる非常手腕として侠客なるものは自然に世に出でたるなりと、た曰く、反動激発せる火花の如きものは侠客の性なりと。天知君の侠客論精緻を極めたれば、我が為めに其の性質を論評すべき余地を余さず、我は唯だ我が分に甘んじて、文学的に、徳川氏時代に平民者流の理想となりし侠と粋とが如何いかなる者なるべきやを、観察するの栄を得む。
 わが徳川時代平民の理想を査察せんとするは、我邦わがくにの生命を知らんとの切望あればなり。山沢を漫渉まんせふして、渓澗けいかんの炎暑の候にもれざるを見る時に、我は地底の水脈の苟且ゆるかせにすべからざるを思ふ、社界の外面に顕はれたる思想上の現象に注ぐ眼光は、すべからく地下に鑿下さくかして幾多の土層以下に流るゝ大江を徹視せん事を要す、徳川氏の興亡ははなはだしく留意すべきにあらず、然も徳川氏三百年を流るゝ地底の大江我が眼前に横たはる時、我は是を観察するを楽しむ、誰れか知らむ、徳川氏時代に流れたる地下の大江は、明治の政治的革新にてしがらみむべきものにあらざるを。
 我が観察せんと欲する大江は、其上流に於ては一線なりしかども、末に至りて二派を為せり。而して其湿ほすところはナイル河の埃及エヂプトに於けるが如くに、我邦の平民社界を覆へり。
 われ常におもへらく、至粋しすゐは極致の翼にして、天地に充満する一種の精気なり。唯だ至粋をむかへて之を或境地にむるは人間の業にして、時代なる者は常に其の択取たくしゆしたる至粋を歴史の明鏡に写し出すなり。至粋はおのづから落つるところを撰まず、三保の松原に羽衣を脱ぎたる天人は漁郎の為に天衣を惜みたりしも、なほ駿河遊びの舞の曲を世に伝へけり。彼は撰まず、然れども彼のくだりて世に入るや、塵芥ぢんかい委積ゐせきするところを好まざるなり。否、塵芥は至粋をとゞむるのちからなきなり、漁郎天人の至美を悟らずして、いたづらに天衣の燦爛さんらんたるををしむ、こゝに於てか天人に五衰の悲痛あり。至粋の降るところ、臨むところ、時代之を受けて其時代の理想を造り、その時代を代表するもの之を己が理想の中心となす。自由を熱望する時代には至粋は自由の気となりて、ウィリヤム・テルの如き代表者の上に不朽なる気禀きひんをあらはし、忠節にれる時代には楠公なんこうの如き、はた岳飛、張巡の徒の如き、忠義の精気にちたる歴史的の人物を生ずるに至るなり。ピユリタンの興らんとする時に、至粋は彼等朴直なる田舎漢の上に望みて、千載歴史上の奇観をなし、独逸ドイツに起りたる宗教改革の気運の漸くルーテルが硬直誠実なる大思想に熟せんとするや、至粋はたゞちに入つてルーテルの声に一種の霊妙なる威力を備へたり。
 至粋は時代を作る者にあらず、時代こそ至粋を招きてみづから助くるものなれ。豪傑英雄はことに至粋のインスピレイションをうくる者にてあれど、シイザルはシイザルにて、拿翁ナポレオンは拿翁たるが如く、至粋を享くる量は同じくとも、其英雄たるの質は本然に一任するのみ。
 時代も亦たかくの如し、時代には継承したる本然の性質あり、之に臨める至粋の入つて理想となるは、其本然の質を変ふるものにあらず。族制々度の国には族制々度の理想あり、立憲政躰の国には立憲政躰の理想あり、し支那の如き族制に起りたる国に自由の精気をもとめ、英米の如き立憲国に忠孝の精気を求めなば、人は唯だ其愚を笑はんのみ。
 シドニイ、スペンサーの輩は好んで其理想する所に従ひてシバルリイ(侠勇)をうたへり。然れどもウオーヅオルス、バイロン輩の時に至りては是を為さず、時代既に異なれば至粋も亦た異なれり、同じく理想を旨とするものにして其詩眼の及ぶところ、其詩骨の成るところ、各自趣向を異にす。頃者このごろ我文学界は侠勇を好愛する戯曲的詩人の起るありて、世は双手を挙げて歓迎すなる趣きあり、侠勇をうたふの時代、未だ過ぎ去らざるか、そもそも他の理想未だ渾沌こんとんたる創造前にありて、未だ何の形をも成さゞるの故か、借問す、没却理想の論陣をきながら理想詩人、ドラマチストにさきだちて出でんと預言し玉ひし逍遙子は、如何なる理想の活如来いきによらいをや待つらむ。
 徳川氏の時代に平民の上に臨みし至粋は、如何なる理想となりてあらはれしや。我は前に言へりし如く、二個の潮流あるを認むるなり。その源頭に立ちて見る時には一大江なり、其末流の岸に立ちて望めば二流に分れたり。普通の用語に従ひて、我は其一をと呼び、他をと呼ばむ。
 いづれの時代にも預言者あり、大預言者あり、小預言者あり、其宗教に、其思想に、彼等は代表者となり、嚮導者きやうだうしやとなるなり、彼等は己れの「時」を代表すると共に、己れの「時」を継ぐべき他の「時」を嚮導するなり。イザヤは其慷慨凛凄りんせいなる舌を其「時」によりて得たり、而して其義奮猛烈なる精神をもて、次ぎの「時」の民を率ゐたり、カアライルの批評的眼光を以てうかゞへば、預言者は其精神を死骨と共に棺中に埋めず、巍然ぎぜんとして他の「時」に霊活し、無声無言の舌を以て一世を号令するものなり。古昔いにしへの預言者は近世ちかごろに望むべからず、近世きんせいの預言者は文字の人なりと言へる、己れみづから一預言者なるカアライルの言を信ずることを得ば、我は徳川氏時代に於ける預言者を其思想界の文士に求めざるを得ず。然り、何れの時代にも或一種の預言者あることを疑はざれば、我は文士をもつて最も勢力ある預言者と見るの他なきなり。巣林子戯曲ありてより、浮世を難波なにはの潟に、心中するものゝ数多くなり、西鶴一流の浮世好色小説の流布るふしてより、社界の風儀はおほい紊乱びんらんせる事、識者の共に認むる所なり。いざ、是等平民社界の預言者に就きて、その至粋を招きて理想となしたる跡を尋ねて見む。
 今代きんだいの難波文学はわづかに吾妻の花に反応する仇なる面影に過ぎざれども、徳川氏の初代に於て大に気焔を吐きたるものは、彼にてありし。江戸に芭蕉起りて幽玄なる禅道の妙機をひらきて、主として平民を済度さいどしつゝありし間に、難波には近松巣林子出でゝ艶麗なる情筆をふるひて、一世の趣味を風靡ふうびしたり、次いで西鶴、其磧きせきの一流立ちて、艶道の魔風くまなく四方に吹きまはれり。こゝに至りて難波の理想と江戸の理想と、其文学上に現はれたるところを以て断ずれば、各自特種の気禀を備へて、容易に踪跡そうせきし得べきあとを印せり。のちに難波に起れる文士の多数と、後に江戸に起れる文士の多数とを取りて※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)するに、同じく混和すべからざる異色を帯びしこと一点の疑を挿むべからず。不知庵主人が評して不朽の戯曲家と言ひたる巣林子をもて、仮に江戸に生れしめばいかならむ、深く儒家の道徳に観得するところありて、加ふるに己れの自家の理想を以てしたる馬琴をして、難波に生れしめばいかならむ。われは両家其位地を顛動てんどうすべしとは信ぜざれども、必らず其産出の上に奇異の現象を生じたりしことを疑はず。難波にては豊公の余威全く民衆の脳漿なうしやうを離れずして、徳川氏の武威深く其精神に貫かず。従つて当時の難波の潟に湧きたるうしほの迹を問へば、寧ろ武勇の精神を遺却して、他に柔弱なる一種の精気の漸く成熟し来れるを見るべし。ひとり一時の境遇にてしかくなりしにあらで、関西の気質と関東の気質とはおのづから異るところなり、むべなるかな、侠勇を好みし京伝、馬琴の徒の関西に出でずして関東に起り、門左、西鶴等の関東に生れずして大坂に現れたるや。奇なるかな一は侠勇を尊び、一は艶美をたふとびて、各自特異の旗幟きしてたるや。その始めは、共に至粋の宿れるなり、だ一は之を侠勇に形成し、一は之を艶美(所謂粋)に形成したるの別あるのみ。
 右は難波と江戸との理想の異色を観察したるのみ、元より侠と言へば江戸に限り、粋と言へば難波に限るにあらず、われはこゝに預言者の声を吟味し、その代表する「時」を言ひたるに過ぎず。

     (第三)

 徳川氏の時代に於て其遊戯、其会話、其趣味を探らんもの、文士の著作にくはなし。而して文士の著作を翫味ぐわんみするもの、武士と平民との間にすべての現象を通じて顕著なる相違あることを、研究せざるべからず。琴のを知り、琵琶の調てうを知るものは、之を三絃の調に比較せよ、一方はいかに荘重に、いかに高韻なるに引きかへて、他はいかに軽韻卑調なるに注意するなるべし、かくの如きは武士と平民との趣味の相違なり。謡曲を聴きたる人は浄瑠璃を聴かん時に、この両者に相容れざる特性ある事に注意するならむ。かくの如く、其能楽に於て、河原演劇に於て、又は其遊芸に於て、もしくは其会話の語調に於て、極めて明晰なる区別あることを知らむ。
 けだ我邦わがくには極めて完成せる族制々度を今日まで持ち続けたるものなるからに、吾人の思想も亦た自から単純なりし事は、争ふ可からざる事実なり。而して其単純なる思想は階級に応じて、武士は武士の思想を継ぎ、平民は平民の思想を受けて、甲乙相共に異色をもつて生長し来りぬ。今日の我が語学に志ざすところのものが、我が言語に甚だしき階級語に富めることを言ふも、元より此原因あるによればなり。ヲノリフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ック(敬礼語)に富めるも亦た、この族制々度の完熟せるにれること多し、是れ我国言語の特色にして、この特色は以て我邦に於ける貴族(徳川時代にありては武士をも含む)、平民の区界を判ずるに足るべし。
 貴族平民の両階級は、徳川氏の時代に入りし時大に乱れたり、徳川氏は三河武士を以て天下を制したるものなれば、従来の階級はおほむね壊裂したり、くはふるに長年の乱世に人民の位地もおほいに前とは異なりて、従来貴族たりし者の落ちて平民の籍に投ぜし者、従来平民たりし者の登りて貴族の位地を占めし者、少数にてはあらざりしならむ。かくして徳川氏初代の平民は、従前の平民よりは多少の活気を帯びたりし事疑ひなし。故に彼等の思想もおのづから一種の特色を具備し得て、隠然武門の思想と対峙せんとするが如き傾きを生じたり。むべなるかな。我邦に於て始めて、平民社界の胸奥より自然的育生の声を、この時代に於て聞きたるや。
 人は元禄文学を卑下して、日本文学の恥辱是よりはなはだしきはなしと言ふもの多し。われも亦た元禄文学に対して常に遺憾を抱く者なれど、彼をもつて始めて我邦に挙げられたる平民の声なりと観ずる時に、余は無量の悦喜をもつて、彼等に対するの情あり。然り、俳諧の尤も熟したるもこの時代にて、戯曲の行はれしも、戯作の出でしも、実に此時代にして、而して此等これらの物皆な平民社界の心骨より出でたるものなることを知らば、余は寧ろ我邦の如き貴族的制度の国に於て、平民社界の初声はつごゑとしては彼等を厚遇するの至当なるを認むるなり。
 我国平民の歴史は、始めより終りまで極めて悽惻せいそく暗澹あんたんたる現象を録せり。而して徳川氏以前にありては、彼等の思想として余に存するもの甚だ微々たり、徳川氏以後世運のやうやく熟し来りたるを以て、こゝに漸く、多数の預言者を得て孚化ふかしたる彼等の思想は、漸く一種の趣味を発育し来れり。然れども彼等の境遇は、功名心も冒険心も想像も希望も或る線までは許されて、其線を越ゆることかなはず、何事にも遮断せらるゝ武権の塀墻へいしやうありて、彼等は声こそは挙げたれ、あはれむべき卑調の趣味に甘んぜざるを得ざりしは、亦た是非もなき事共なり。
 幕府は学芸の士を網羅するに油断なかりき。幕府のみ然るにあらず、その高等種族(武士)は、文芸を容れておほいに品性を発揚したり、当時非凡なる学士の、彼等の社界に厚遇せられたる事実は、少しく徳川時代を知るものゝ共に認むるところなり。しかるに是等学芸の士は、平民に対してちとの同情ありしにあらず、平民の為に吟哦ぎんがせし事あるものにあらず、平民の為に嚮導きやうだうせし事あるものにあらず、かるが故に既に初声を挙るの時機に達したる平民の思想は、別に大に俳道に於て其気焔を吐けり。幕府は盛に能楽と謡曲とを奮興して、代々だい/\の世主厚く能楽の大夫を遇し、而して諸藩の君主も彼等を養ひて、武門の士のく謡曲をうたふこと能はざるは恥辱の如き隆運に向へり。学芸にれず、奥妙なる宗教に養はれざる平民の趣味には、謡曲は到底応ずることを得ざるなり。故に彼等の中におのづから新戯曲の発生熟爛するありて、巣林子の時代に於て其盛運を極めたり。物語の類、たとへば太平記、平家物語、などは高等民種のうちに歓迎せられたりといへども、平民社界に迎へらるべき様なし、かるが故に彼等の内には自ら、彼等の思想に相応なる物語、小説の類生れ出でたり、加ふるに三絃の発明ありてより、すべての趣味の調ふに於て大に平民社界をたすけ、種々の俗曲なるもの発達し来れり。斯くの如く諸般の差別より観察し来れば、平民は実に徳川氏の時代に於て大に其思想を煥発くわんぱつしたるものにして、族制的大隔離のを受けて、或意味に於ては高等民種に対して競争の傾きを成し来れるなり。
 まことや平民と雖、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想は斯かる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落ふきらいらくなる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以てあんに武門の威権を嘲笑せり。故に彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素を其中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、是が現象の一として挙ぐるに足るべし。漸く閭巷りよかうの侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、是が一現象なりけり。
 自然の傾向は人力の争ふこと能はざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内にとゞまりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、にはかに元禄以降の盛運に際会して、其思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想をかたちづくりたれば、其理想する紳士も、其理想する美人も、其理想する英雄も、有り/\と文学上に映現し出でたり。
 こゝに注意をがすべからざる一大現象は、遊廓なるものゝ大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしと雖、江戸にてこの現象の大にあらはれたるは慶長の頃かとぞ聞く(慶長見聞記にる)。蓋し乱世の後、人心漸く泰平の娯楽をうつたへ、の芒々たる葦原よしはら(今日の吉原)に歌舞妓、見世物など、各種の遊観の供給起り、これに次いで遊女の歴史に一大進歩を成し、高厦巨屋いらかを并べて此の葦原に築かれ、都には月花共に此里にあらねばならぬ様になれり。およそ女性の及ぼす勢力はいつの時代にも侮るべからざるものなり、別して所謂紳士風ゼントルマンシップなる者を形成するには、偉大なる勢力ある事うたがふべからず。故に平民の中にありし紳士の理想は、この遊廓の勢力によりて軽からぬ変化を経たり、読者もし難波及び京都に出でし著作に就きて、彼等の紳士なるものを尋ね見ば、思ひ半ばに過ぐることあらむ。必らずしも巣林子以下の諸輩を引照するに及ばざるべし。遊廓は一個の別天地にして、其特有の粋美をもつて、其境内きやうないに特種の理想を発達し来れり、而して煩悩ぼんなうの衆生が帰依するに躊躇ちうちよせざるは、この別天地内の理想にして、一度ひとたび脚を此境に投じたるものは、必らずこの特種の忌はしき理想の奴隷となるなり。斯の理想は世上に満布したり、この理想は平民社界に拡がれり、むしろ高等民種の過半をも呑みたり、或時は通と言ひ、或時は粋といふもの、此理想にほかならざるなり。而して此理想なるものは即ち平民社界の紳士を作りし潜勢力にして、平民紳士の服装、挙動、会話、趣味この理想に基づかざる事甚だ稀なり。
 まなこを転じて巣林子に次ぎて起れる戯曲界の相続者を見れば、題目として取るところ、平民社界の或一種の馳求ちきうを充たすものあるを見るべし。之を聞く、河原乞児かはらこじきの尤も幼稚なりし時に、其好趣かうしゆは戦国的の勇壮なるローマンス風のものにて、例せば盗賊を取りて主人公となし、之れに慈憐の志を深うせしめ、きやうしぎ、弱を助くる義気に富ましめ、以て戦国に遠からぬ時代の人心にうつたへたる如き、概して言へば不自然アンナチユラリズム過激ヱンサシアズムとは、この時代の演劇にく可からざる要素なりしとぞ。のちに発達したる戯曲(巣林子以後の)に到りても、この不自然と過激とは抜くべからざる特性となりて、「菅原伝授手習鑑」に於て、「蝶花形てふはながた」に於て、其他幾多の戯曲に於て、八九歳の少童が割腹したり、孝死するなどの事、戯曲に特有なるヱンサシアズムにてはあるまじき程の過激に流れたり。こゝに一言すべきは、平民に特種の思想生じたりとはいへど、思想は時代の児にてある事勿論なれば、彼等の思想もおのづから封建的武勇、別して忠孝の大道を武士の影より鞠養きくやうし得たりし事を思はざるべからず。故に彼等のうちに起りし預言者も、一は彼等の趣味に投じ、一は己れの所見に従ひて、自から忠孝即ち武士の理想をもつて平民に及ぼす事なき能はず、これ即ち封建制度に普通なる現象にてあるなり。ほ言を換へて曰へば、封建制度は独り武士にのみ其精華なるシバルリーを備へたるにあらず、平民も亦た之を模擬せり、然り、平民の内にもシバルリーは具はりたり、少なくとも侠勇の理想彼等の中に浸潤して、武士の間に降りし雨は平民までをも湿うるほしたること、疑ふべからざるの事実とす。
 かく説き来らば平民社界には「粋」といふものゝ外に、強大なる活気、むしろ理想の侠勇と号するものあることを知らむ。而して我徳川時代に於ける平民の位地を観察すること前陳の如くなりとせば、彼等は其「粋」をも、其「侠」をも偏固なる、矮少わいせうなる、むしろ卑下なる理想となしたることも亦、明らかならむ。
 英国のチヨーサーは同国に於て始めてシバルリイの光芒を放ちたる詩人なり、然して其吟詠に上りたるシバルリイは武門の内にあるシバルリイにして、平民の内に其筆鋒を向けざりし、蓋しの歴史は我歴史にあらず、彼の貴族は我の貴族の如くに平民と離れたるにあらず、彼の平民は我平民の如くに、貴族に遠き者にあらず、加ふるに彼には平民と貴族とを繋げる宗教の威霊ありて、教堂に集まる時に貴族平民の区劃をみしたり。而して我にはこの大勢力あらず、宗教にもおのづからなる階級ありて、印度の古時をうつし出しければ、これも我が平民を貴族より遠ざくるの助けをなせし事明らかなり。かのシバルリイは朝廷との関係浅からずして、其華奢きやしや麗沢も自からに王気を含みたり、而して我平民社界には之に反して、政権に抗し、威武に敵する気禀きひんあるシバルリイを成せり。彼のシバルリイには恋愛の価値高められて、侠は愛と其わだちならべつゝ、自から優美高讃なる趣致を呈せり、我が平民社界に起りしシバルリイは、其ゼントルマンシップに於て既に女性を遊戯的玩弄物ぐわんろうぶつになし了りたれば、恋愛なるもの甚だ価直かちなく、女性のレデイシップをゼントルマンシップの裡面に涵養するかはりに、かへつて女性をして男性の為すところを学ばしめて、一種の女侠なるものを重んずるに至れり、この点に於て我がシバルリイは、彼のシバルリイの如く重味あること能はず、我が紳士風は、彼の紳士風の如く優美の気韻をくること能はず、女性の天真を殺して、自らの天真をも自損せり。彼のシバルリイは「エゴー」を重んじて、軽々しく死し軽々しく生きず、我がシバルリイは生命を先づ献じて、然る後にシバルリイを成さんとするものゝ如かりし、己れの品性はみがくこと多からずして、他の儀式礼法多き武門に対敵して、反動的に放縦素朴に走りたり。宗教及び道徳は彼のシバルリイに欠くべからざる要素なりしに、我が平民のシバルリイは寧ろ当時の道徳組織をしりぞけ、宗教にはちなみ薄きものにてありし。要するにチヨーサーのシバルリイ(即ち英国の)は我がシバルリイの如く暗憺たる時代にうまれたるにあらず、我がシバルリイのごとく圧抑の反動として、兇暴に対する非常的手腕として発したるものにはあらで、燦然さんぜんたる光輝を放ち、英国今日の気風、英国今日の紳士紳女を彼の如くになしたるも、実にこのシバルリイの余光にてありしことを知るべし。
 侠といふ文字、英語にては甚だ訳し難かるべし、訳し難き程に我が歴史上の侠は、欧洲諸国のシバルリイとは異なれるところあるなり。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)ひてシバルリイを我が平民界の理想に応用せんとせば、侠と粋(侠客の恋愛に限りて)とを合せ含ましめざる可からず、侠客のさいを取りて研究せば、得るところあらむ。
 我が平民界の侠客をうつして文章に録せしもの、甚だ多し、われは一々之を参照する能はず、こゝに馬琴が其「侠客伝」に序して曰ひし数句を挙げて、其意見をうかゞひ見む。曰く、近世有大鳥居逸平、関東小六、幡随長兵、及号茨城草袴、白柄大小神祇、皆是閭巷侠、而其所為、或未必合於義、啻立気斉作威福、結私交以立彊於世者也、較諸古者道徳之士、不声色、消宇内之大変、相去非唯霄壌而已、然気豪、以此至当世之兇暴、此戦国余習未改、其私義廉潔以有然也、使当時無此人、則士風自是衰、侠客之義、曷可少哉、余有感焉、而無激憤、不激不憤、猶且伝侠客。云々。
 支那の大歴史家同じく「遊侠伝」なる一小篇をのこして曰へることあり。今游侠、其行雖於正義、然其言必信、其行必果、已諾必誠、不其躯、赴士之阨困、既已存亡死生矣、而不其能、羞其徳、蓋亦有多者
 韓非子の侠を論ずるの語に曰く、儒以文乱法、侠以武犯禁。老子は侠を談じて、大道廃有仁義、仁義者道之異称也、而有似而非者。と曰ふに対して、馬琴は、夫侠之為言、彊也持也、軽生高気、排難解紛、孔子所謂、殺身成仁者是已。と言へり。
 われは侠を上下する論を立つるにあらず、天知子及び愛山生の所論に対して余はむしろ平民界の侠気に同情を投ぐるの念起りたれば、いさゝ※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそつの説を為し、我が平民界の「侠」及び「粋」の由つてきたるところを穿鑿せんさくしたるに過ぎず。もし夫れ侠なるものを愛好するやと問はるゝ人あらば、我は是を愛好すなりと答ふるに躊躇せざるべし。然れども我に侠を重んずるやと問ふ者あらば、我は答ふるところを知らず、われは実に徳川時代に平民の理想となりて異色の光彩を放ちしこの「侠」を、其時代の平民の為に憐れむなり。かつて幡随院長兵衛の劇を見たる時に、われは実に長兵衛の衷情ちゆうじやうを悲しめり、然れども我は長兵衛の為に悲しむより、寧ろ当時の平民の為に悲しみしなり。彼等平民はみづから重んずる故を知らず、おのづから侠客なるものをして擅横せんわう縦暴しようばうの徒とならしめたり、侠客の侠客たる所以ゆゑん、甚だ重しとせず、平民界にいりて一種の理想となりたる跡、まことに痛むべし。
(明治二十五年七月)

底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三二二號〜三二四號」女學雜誌社
   1892(明治25)年7月2日、16日、30日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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