四月号の寄贈雑誌大小十六種のうちから、創作戯曲二十五種を選び出し、昨日(四日)まで暇を盗んで読んだ。その結果がこの一文になるわけであるが、僕は決してこの仕事を自分に適した仕事だとは思はない。たゞ書く方で愉快にならないやうな文章は、読む方でもつまらないにきまつてゐるから、努めてじう面はつくらないことにする。そのかはり、多少の戯談は許してもらひたい。

 第一断つて置かなければならないのは、チヨンまげが出て来る芝居は、そのチヨンまげが武士であらうと町人であらうと、一切、批評することを断念した。(但し長与善郎氏の「武蔵と卜伝」だけはこの限りに非ず)
 第二には、どれも一回しか読まなかつた。暇もなし、根気もなし、殊に……これは後でいふことにする。だから、もちろん、読みそこなひ、解り損ひ、時に感じ損ひが多からうと思ふ。僕は常に、佳い脚本なら五度くらゐ読まなければほんとの味が出て来ないものと思つてゐる。もつともさういふ脚本は、一度読んだ時に、はゝあ、こいつはたゞものでないといふことだけはかぎだせる。
 第三に、一二ペーヂ読んで、付いて行けないと思つたものは――さういふ経験をだれでも有つてゐるだらうと思ふ――一ペーヂづゝ、時には四ペーヂづゝ飛ばして読んだ。それで解ることだけは解るのである。もつともそれだけで、その作品がどれほど悪いかなんていふことはいはない方がいゝ。
 そこで結局、僕のきまぐれな印象記はいはゆる批評家の批評にはならずとも、一読者の声として、同じ作品を読んだ人達の「話相手」になればそれでいゝのである。
 先づ創刊の「演劇新潮」では藤井真澄氏の「雷雨」を読んだ。仲々芝居をやつてゐる。昔の壮士芝居を思ひださせる場面がありますね。これが大衆劇といふんでせう。なるほど大衆には受けさうだ。また「人をのろへば穴二つ」といふ教訓も含んでゐて、カフエーなどに出入する不良青年少女を戒めるに足るものである。藤井氏年来の主張を裏切らない作品である。従つて同氏のものとしては佳作に属すべきものでせう。
 つぎに高田保氏の苦心になる新劇雑誌「テアトル」――これでは金子洋文氏作「牝鶏」を拝見した。例によつて「はつらつたる野趣」に富む戯曲である。たゞ、人物の心理的発展がやゝ機械的で、しかも、その機械的なことが割合に喜劇的効果を助けてゐない憾みがある。恐らく観察の狂ひであらう。最後に、娘の方にまで卵をこしらへさせる、とはちとあくどくはないか。これは必ずしも趣味の問題ではあるまいと思ふが、金子君、どうです。これを読み終つた時、ふと同君の名作「盗電」の美しい場面を思ひだした。
 鈴木善太郎氏の雑誌「劇場」は、同氏の作「東京の眠る町」を掲載してゐる。これはたしかに新時代の生活だ。少くとも、戯曲に取りいれられたある新時代の生活だ。但し、作者が比較的その新時代を軽く取扱つてゐるやうに見えるのはどうしたものか。軽く取扱つてゐるといふ意味は、もう一歩先にもう少し「精神的な事件」がある、それを作者は顧みないでゐるやうに思はれることである。しかし、この作者の住んでゐる世界は、「新しい演劇」を生む一つの世界に違ひない。それを何よりも尊く思ふ。

 井東憲氏の「貞操を」――同じ雑誌に載つてゐるのだが、今日までついうつかりしてゐて読まなかつた。佳いものかも知れない。
 同人雑誌「青空」では飯島正氏の「海浜挿話」を読んだが、活字が悪いので印象をめちや/\にされた。作中の人物が、あの活字のやうな形に見えてしやうがなかつた。それが若し作者の好むらしいマリヴオーダアジユと一致するものでなければ結構である。
 同じく小冊子「街」の一角に見た「トロイの木馬」は注目すべき作品である。作者坪田勝氏が、たゞ形式上の新味を見せようとしたのなら、必ずしも感服はできないが、全篇をあの独白で貫ぬくために、人物の心理的リズムに適度のテンポを与へ、感情の飛躍を鮮やかにコントロールしてゐる手並は、たしかに非凡である。殊に、この特殊な形式が要求する文体の上に、十分の用意を加へて、立派な劇的効果を収め得たことは正に推賞に値ひする。この人は劇作家である。しかも有望な劇作家である。
 幕切に女が箱の中から何を探さうとしてゐるのか、はつきりわからせないところ大いによし。
「主潮」同人樋口正文氏の戯曲批評はこれまでちよいちよい読んだ。作品を読むのはたしか今度が始めてゞある。「開演中」はなるほど、批評家の作品らしいところがある。まづくはない、殊に、そつがない。これも「新時代の犠牲」をゑがいてゐる。が、危いかな、作者自身もその一人にならうとしてゐる。
「塔」の本庄桂介氏は即興曲「小春日和」においてある夫婦の生活を描き、才筆侮るべからず、たゞこの種の題材を生かすための観察の鋭さがない。そして殊に心境の清らかさに欠けてゐる。
「錬金道士」の岩瀬虎治氏は「生きる日」において、文科大学生気質の一面を描いてゐる。文科大学生ならばたれでも書ける程度のもの。これは侮つていふのではない、何かしら光つたものを特にこの作者に求める。
 ぼくは高田保氏に期待するところが大である。「虚無思想」といふ気味の悪い雑誌にアレゴリイの一幕「人生」を見だしたが、この高田氏の五分間喜劇は僕を一寸考へさせた。即ち、この題材なら、大概の人は二三十枚に書く。それを四五枚に圧さくした所、さすが高田氏だと思ふが、「人生」といふ標題の手前、より大なる哲学的勇気をもつて、これを一篇のソンネに縮めて欲しかつた。

「文芸春秋」唯一の戯曲、長与善郎氏作「武蔵と卜伝」は僕の興味をひいた唯一のチヨンまげ劇である。この作、必ずしも面白いわけではないが、かういふ題材はとかく常識的興味の持ち方に陥るものであるのに、この作者は、これに作者の朗らかな主観を与へてゐる。作者が、この作品に与へようとした「意味」は、さほど僕の感興をそゝるものではないが、一見、大まかに見える手法のうちに武者小路氏などと違つて、十分芸術家らしい神経を働かせ、常に完成に向つて謙虚な努力を続けてゐる作者に、僕は敬意を捧げる。
「新小説」には秋田雨雀氏の「先生抹殺」と題するフアルスがある。かういふものは、読む時次第で、をかしくもあり、をかしくもない。僕が読んだ時は、をかしくなかつた。「をかしくないといふ気持」は、変な気持である。「笑へない気持」とも違ふ。この作者は喜劇を書くべくあまりに何かを信じ過ぎてゐると思ふ。
 が、これとはまた違つた意味で「中央公論」所載長谷川如是閑氏の「根管充填」といふ喜劇も「をかしくない喜劇」の一つである。この方は、をかしくないのみならず、読むのにやゝ苦痛を覚えた。変な芸術家気取りがないだけに、その苦痛も倉田百三氏の「赤い霊魂」(改造)を読む時ほど堪へ難いものではない。殊に前者の道楽気は後者の真剣味よりも僕には親しみが持てる。前者はともかく読了し、後者は中途で失敬した所以である。「赤い霊魂」の作者は真面目に何かを考へてゐる人かも知れない。しかし、その考へてゐることを人に伝へるためには、もつと便利な方法がありはしないか。
 武者小路実篤氏もやゝこれに似た作家である。この種の作家は概して筆を惜しむことを知らない。「女性」に「夢の国」を、「改造」に「ある物語」を、「中央公論」に「出鱈目」を発表してゐる。この人はたしかに不思議な存在だ。みんなが、みんなのためになるやうな社会を夢想してゐる時に、この人は、自分だけの気にいるやうな世界を夢想してゐる。「夢の国」は何とキザな人間の寄り集まりだらう。負けても腹を立てないといふことを見せるためにのみ角力を取る男達がゐる。そこへまた「殺されるのは沢山」で「死ぬのは困る」男が、「うぬぼれもないことはないが、あまり見よいものではない」から、けんそんして見たりする。王様と呼ばれる男の、貴族的平民振りはまあいゝとして、かう、めい/\が、自分の上に加へられてゐる人の注意を始終意識してゐることはやりきれない。自分のいふことは何でも人が感心して聴くと思つてゐるらしい人物それ/″\の思ひ上り方も鼻につく。さて、これらの人物を、作者は、如何なる眼をもつて視てゐるか。友情とせん望の眼をもつて見てゐる。そこには作者の、単純にして寛大な批評がある。この寛大さは、たしかに人を打つものである。作中の人物は、何れも人間の醜さを覆ふために、同じく醜い人間となつてはゐるが、それは丁度、さるが盗んだ果物を後へかくして逃げるやうな罪の無さによつて、人の心を和げる。たゞこの効果は、憾むらくは作者の企図したものではない。それだけに、われわれの興味は、常に作品を離れて作者にのみ向はうとする。
「ある物語」と「出鱈目」は取り立てゝいふべきほどのものではない。
 序にいつて置くが、この作家はもつとも芸術家的な魂を持つてゐる作家の一人である。それと同時にこの作家は、もつとも芸術家的ならざる感覚をもつてゐる作家の一人である。

 里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏は「女性」に「白扇の下に」を書き、「改造」に「たのむ」を書いてゐる。里見氏の戯曲を読むと、何よりも、里見氏から芝居の話を聞いてゐるやうな気がする。手に取るやうに舞台を見せてくれる。読者は少しの想像力をも働かせる余地がない。といふことは、結局戯曲の読者に取つては少々有難迷惑ではあるが、戯曲の読めない読者に取つてはこの上もない幸ひであらう。「白扇の下に」は思ひつきだけの面白さだが、「たのむ」の方は、それ以上に、ふんゐ気から来る面白さがある。どちらも、短いものでありながら、準備説明が長すぎるが、その説明の終るところから、急に、場面が緊張しはじめる。登場人物は、何れも型通りのせりふをしやべりつゝ、それが活々と動いてゐるのはどうしたわけか。表現の確かさはこの作者の強味である。せめてこの描写力に、応はしい心理解剖の鋭さがあればと思ふ。会話の「いき」は流石手にいつたものだが、それだけでは戯曲の文体として上乗なものだとはいへないやうに思ふ。なぜなら、その言葉には陰影が乏しい。従つて暗示力が希薄である。読者をひきずつては行くが、読者の眼は、作者の忙しい指先を追つて、次から次へと物の象を見るばかりである。あれも見た、これも見た、あれも面白かつた、これも面白かつた、そして、……? それだけだ――といふ旅をしたやうである。一体どこへ行つた? ――あ、それや、気がつかなかつた――といふ旅である。熱い国か寒い国か? ――忘れたといふ旅である。一寸変つた旅ではあるが、なんと話にならぬ旅ではないか。夢なら夢でまた話のしやうもあるものを……。
「助次郎、すぐ身を起し、流しもとから、菜切ばう丁をぬき持たうとするが、刑事に、ぐいと腰なはを引かれて取り落す。」あたり、思はず読者の方で浮腰になる。しかし、この時、作者の眼が、割合に物を言つてゐない。それがさびしい。これに反して、為吉が徳利の酒を湯のみに注いで、助次郎の方に差だすあたりから、今度は、作者が、のそ/\と出しや張つて来るのが眼ざはりだ。要するに、名小説家里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏は、主人公助次郎の如く、舞台という腰なはをつけられて、足は動いても手がだせない状態である。それにつけても、同氏の小説を読んで御覧なさい。僅五六行の会話の一節でさへ陰影と暗示に富む好個の劇的場面を見せてゐるではないか。あれがあのまゝ、なぜ戯曲にならないものか。
「改造」は新進池谷信三郎氏の「帰りを待つ人々」を紹介した。相当の期待をもつて読んだが、果してコンポジシヨンの上に大胆な新味を見せてゐる。と、思ひながら読んでゐるうちに、部分部分の技巧は寧ろ一種のマンネリズムに堕してゐるのに気がついた。各種の人物を対立させて、断片的な幻象イメージの交錯を企図し、そこからコンチエルトに見る効果を心理的に誘致しようとした作者の野心は、僕の尊敬おく能はざるところであるが、その幻象の、その心理的ノートの不統一と不確かさとが、惜むらくは、全篇の印象を支離滅裂なものにしてゐるやうである。僕の見るところでは、作者は、第一に言葉の選択を誤つてゐる。その言ひ方がわるければ、言葉そのものの好悪にとらはれ過ぎて魂の声に耳を傾けることを忘れたらしい。それがために、人物それ/″\の色彩から「絵画的リズム」をさへ引だすことができなかつた。この種の舞台に、それを欠くことは致命的な痛手である。作者は、恐らく、人物の幾人かをしてことさらに空虚な、大げさな言葉を語らせて、その言葉の裏から、間から「あるもの」を感じさせようとしたのだらう。その「あるもの」を、作者は、一体、はつきり見てゐるのだらうか。僕の疑問はそこにある。芸術的危機に立つこの作者の再考を求めたい。

 色調と時代的意識の差こそあれ、つとに「帰りを待つ人々」の手法をさりげなく取りいれて、見事成功してゐる作家に久保田万太郎氏がある。曾て「月夜」を書き、今また「通り雨」を書いていつもながらの腕のさえを示してゐる。久保田氏は、何よりも「あいさつの詩人」である。
……(急に)おさきへ失礼いたします。――(不意を食つたかたちに)おかへりですか? ――へえ。――いゝぢやありませんか、まア。――もう少し……。――へえ、有難うございます。――一寸これから、わきへ一けん寄つてまゐりますから……。――さうですか。――どうも有難うございました。――いづれ改めてうかゞひます。――どうぞお宅へよろしく被仰つて下さい。――おそれ入ります。――いえ、もう、子供のことでございますから、……。――(しみじみ)さぞ、しかし、お内儀さんがお力落しでせう。――……。――ちやうど、いま、可愛さざかりで……。――(しみじみ)全く死ぬ子眉目よしだ。(間)――では、御免下さいまし。(榎本と岩井屋に)どうぞごゆつくり……。――どうもこれは……。――そのうち、また、御邪魔に出ます。――どうぞ……。ぢやア御免なさい。――御免を……。
 これが、――もちろんこれだけ読んだのではわかるまいが――決してあいさつのためのあいさつではないのである。今頃、こんなことに感心してゐると、作者に叱られるかも知れないが、久保田氏でなければ弾けない一種のハルプを、僕は昔から聴くのが好きだ。同じものばかり弾いてゐるといふ非難は非難にならない。同じハルプでも弾くたびに曲が違ふ。たゞ久保田氏は、三味線で「汽笛一声」を弾く芸者ではないのである。まして、大正琴で……おつと、これは余計なことである。
 なるほど、久保田氏の好んで取扱ふ主題は、滅び行く世紀のすがたと、それにまつはる特殊な文化の名残である。その態度が勢ひ懐古的になるのは当然である。さういふ作家もあつていゝではないか。しかも、あわたゞしい流行の推移をよそに静かな(少くとも表面は)過去のロマンスを歌ひ続けてゐるかのやうに見える作者――この作者こそ、現代日本の劇作家中、もつとも、歌舞伎劇の伝統から離れて本質的に西欧の戯曲美を摂取した劇作家の一人であることは、寧ろ皮肉といふべきではないか。
 佐藤春夫氏の発表される戯曲を、僕は待ちわびてゐるものゝ一人である。今日まで、特に佐藤氏が優れた戯曲作家であることを証明した作品は一二に過ぎないけれど、僕は早晩同氏の手から、現代日本のもつとも光輝ある劇的作品が生れるであらうことを期待してゐる。「中央公論」の「巣父こうしみづかふ」は、遺憾ながら、戯曲としては未完成作品である。殊に作者が若しこれをもつて、東洋流の隠とん的哲学を賛美するものと解するならば、僕は、青年作家佐藤氏のために、やゝ心暗きを覚える。しかしながら、これは、あくまでも絶対的見地からである。「巣父犢に飲ふ」の一幕は、片々たる世上の商品的小説戯曲の類と同列に置くべきものではない。創作の動機は、よし、多少楽屋落的であらうとも。

 さて、これくらゐでやめて置かうと思ふが、たま/\眼に触れた一篇の作品を基礎にしてものを言ふのであるから、日頃その作家に対して抱いてゐる敬意をさへ十分にのべ得なかつた憾みがある。が、これは果して次の機会に埋合せができるかどうか。
          ×
 いよ/\最後に結論を述べなければならない。僕は、第一に、この仕事から、偶然ではあるが、一人の、未だ世に知られざる才能を発見し得たことを悦ぶものである。「街」の同人、坪田勝氏こそは、われわれの時代が見落してはならない劇作家であらう。
 然しながら、僕の望んでゐたものが、坪田氏によつていくらか充たされはしたものゝ、「トロイの木馬」一篇が、僕の求めてゐた戯曲そのものであるとはいひ切れない。僕の勝手な注文が許してもらへるなら、坪田勝氏の「言葉」をもつて、川端康成氏の「第四短篇集」(文芸春秋)が戯曲化された時、僕は、無条件に頭を下る。
 なほ、これは命ぜられた仕事の範囲を超えるやうだが、文芸時代で稲垣足穂氏の「ちよいちよい日記」といふ小説を読んで感心した。感心したゞけでなく、一寸した発見をさへしたのである。すなはち、稲垣氏は、立派に戯曲の書けるんだといふことを。あの会話が生みだすユニツクな劇的シインを見給へ。一疑問符のかもしだす幻象イメージの深さを見給へ。しかしこれは、一寸した発見に過ぎない。なぜなら、これは稲垣氏に何ものをも加へることにならないであらうから。
 連日、傍若無人な言辞をろうして、他人の作品を褒めたりけなしたりした男が、事もあらうに、同じ月の「女性」所載「葉桜」の作者であることは誠にもつて笑止千万である。本来ならば、泣いて馬謖を斬るべきところであるが、それではまた、あまりに芝居が過ぎるとの非難もあらう。よつて、畏友T君をしていはしめる――あの母親は、男性的な女性だといふよりも、女性的な男性だね。それから、幕切れは、もつと、ストイツクな幕切れであつて欲しいね。娘が泣き崩れるのは困るね。――こと/″\く賛成である。
 かうして見ると、月々如何に多くの小戯曲が、生れては消え、生れては消えしてゐることだらう。自分の書いた戯曲が永久に舞台に上らないことを知りつゝ、平然と戯曲を書き続けてゐる一群の若き作家があることをも、世人は知つてゐなければならない。

底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
初出:「東京朝日新聞」
   1926(大正15)年4月14、15、16、17、20、21日
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
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