翼賛会の文化部としては、現在まで政府が実行して来た文化政策といふものゝ全体に亘つて、一応どういふことが今日までなされて来てをり、またそれがどういふ結果を生んでゐるか、更にまた政府がどういふ方向に導いてくれゝば、一層国民全体の間に文化が向上するか、さういふやうな問題に就て研究をしてをります。
 この文化政策といふ言葉は、今日まで実際政治の現実面では余り使はれてゐなかつた言葉でありますが、今度近衛さんが総理大臣になられた際に於る声明及び翼賛会の総裁としての声明のなかに、まつたく珍しくこの言葉が使はれてをります。つまり経済政策と並んで文化政策といふことが云はれてゐるのでありますが、これは、日本の現代文化、更に将来の新しい文化といふことを考へて、所謂政治の上に全面的に文化政策といふものが取上げられた、恐らく最初のものではないかと思ひます。勿論政府各省ではそれぞれ文化部門に入るべきいろいろな行政的なことはやつてゐるわけですが、現在の政府の機構から云つて、かういふ文化政策を綜合的に取上げるといふ点に於ても、またその企画の実施運用に於ても、まだ十分でないと思はれるやうな点がありますので、大政翼賛会の文化部としてはこの点に大いに力を入れる必要があると思ふのであります。
 ところが、大体文化部門といふのは比較的狭い意味で考へられてゐる。またこの翼賛会の中の文化部も、狭い意味での文化を担当してゐる処と考へられてゐるのでありますが、大体政治にしろ、経済にしろ、外交にしろ、軍事も含めて、それは一国の文化の一つの現れであると見てよろしい。さういふ意味の文化は、結局国の力そのものといふことにもなるのであります。狭い意味の文化部門といふことになりますと、やはり経済或は政治といふやうなものと並んだ一つの国民生活の部門でありまして、いま文化部としては、経済や政治は大体翼賛会のこの部に属しない部門と考へて、次のやうなものが、われわれの仕事の対象になつて来るのではないかと思つてゐます。即ち教育、宗教、科学、技術、文学、芸術、新聞、雑誌、放送、出版、それから厚生の方面では、労働問題は経済の一部門と見做すことにして、その他の部門、即ち医療、保健、体育、娯楽、これだけ入れゝば、大体文化部門として文化部の取扱ふ範囲にはひると思ひます。
 翼賛会の思想原理といふ問題ですが、これは先頃の協力会議での近衛さんのお話、それから有馬さんの翼賛会の実践綱領解説のなかに相当詳しくまた明確に述べられてをります。たゞ、こゝで私が少しく砕いてこれを解釈して申上げたいことは、今日翼賛会なるものは一つの政治性をもつべきものであると云はれてをり、また総務会でも大体さういふ方向に意見が、致したやうでありますが、一体この政治性といふことに就ては、所謂外国流の政治といふ概念でこれを解釈してはいけないのであつて、これはやはり日本風の、日本独特の政治理念といふものに立脚したものでなければならぬ。といふのは、これまでの政治に対する観念を考へてみると、国民全体――全体とは申しませんが、大部分の国民の頭のなかで、政府と国民といふものゝ間に何か対立的な意識が絶えず働いてゐる。つまり、治める治められるといふやうな言葉ではまだはつきりしませんが、一方は権力をもち、一方はその権力に服するといふやうな、さういふ対立意識がおのづからこの政治といふ言葉のなかにあつた。さういふ観念は日本本来の大政といふ意味に於る政治とは非常に離れたことである。そこでこの点は将来大政翼賛運動を通じて政治といふ言葉が使はれる場合には、よほど注意しなければならぬのではないかと思ひます。国民は大政を翼賛し奉るといふ意味に於て、やはり「政府に協力する」といふことが国民の建前である。しかもその協力の仕方は上意下達といふ形もあり、また下情上通といふ形に依つてもできる。これが非常に重要な点でありまして、この翼賛会の思想原理つまり政治思想としてのその原理は、さういふ意味に解釈しなければならぬのではないかと思ひます。

 翼賛会は左翼的傾向をもつてゐるとの誤解があるさうであります。これに就ては別に私から申上げる必要もないかと思ひますが、要するに、今日要求されてゐる自由主義経済、或は資本主義経済の全面的修正といふ問題を、いきなり一つの制度乃至組織原理の根本的変革といふ風に考へてしまふと、当然これに対立する思想として、左翼思想といふものが今日まで考へられてゐたところから、さういふ誤解も生じたのかと思ひます。しかしこの翼賛運動を通じて今日までの自由主義経済、或は資本主義経済といふものを批判し、それを是正する精神は、これはその弊害或は病根といふものに対しての是正であり、摘出である。所謂左翼思想が資本主義と対立し、それを敵とするといふやうな悪い意味に於るラヂカルなものではない。そこがはつきり違ふのではないかと思ふのです。またその資本主義経済といふものも、左翼的な眼で見た資本主義の全面的な否定といふものと、今日翼賛運動といふものから見た資本主義の大きな弊害病根といふものとでは、これはそのイメージに於て非常な違ひがあると思ひます。どうも少し非専門的な説明になり、また甚だ自己流の考へ方で、或は言葉が不適当であるかも知れませぬが、大体、そのやうに考へてをります。
 ついでに、それと関連して、文化政策殊に思想対策の方針といふ問題でありますが、思想対策といふことになると、これはもう翼賛会の文化部といふものだけでなく、翼賛会全体に関係する問題であります。文化部としては勿論この点に大いに力を注がなければならぬが、同時にまた翼賛会首脳部並に各部との間に十分の連繋を保つて、その方針をひとつはつきりさせなければならぬと思つてをります。
 私は青年時代から所謂左翼思想といふものゝ渦中を通つて、幸にしてさういふ色に染らないで今日まで来たのでありますが、自分の身辺に吹き荒んでゐるその左翼的な嵐といふものを身に感じるにつけ、日本の青年が一体どうしてさういふ外国の社会主義思想乃至は左翼思想といふものに眩惑され、またさういふものに引つ張られて行くかといふその経路と動機、それからその根本の理由といふものに就てつくづく考へさせられ、実際さういふ運動に投じた者、或はさういふ運動に投じようとしてゐる者、更にさういふ運動から転向して来た者などの実例を通じて、いろいろその事情を考へて来たのであります。それでこの点は後で司法当局のかたにも御意見を伺つてみたいと思つてゐるのでありますが、その一番大きい原因は何処にあるかといふことであります。日本の青年が学校でいかなる教育を受け、或はまた、社会の思想家たちからいかなる影響を受けようと、自分は日本人である、或は日本の国体は尊厳であるといふことに就て絶対的な否定観念をもつてゐるものは殆どない。勿論さういふ表現をし、或はさういふ表現をせざるを得ないやうな事情に立ち到つたものは相当あつたと思ひますが、本質に於て自分は日本人であるといふ自覚、矜り、さういふものを本当になくしてゐる人間は実に稀であると思ひます。然らば、それがどうしてさういふ左翼思想に趨つたか。
 大体われわれは小学校を出る時分、昔の高等小学校を了へるくらゐの年輩になりますと、所謂人間の理想といふやうなものに目覚めて行く。即ち人間は一体どういふ風に生きるのが一番立派であるか、さういふ一つの目標がほゞ頭の中に出来かゝつて、それがこの時分から段々明確になつて行くわけですが、この頃に人間性といふものゝ貴さといふか、或は魅力といふか、さういふものに非常に心が惹かれるやうになる。さうしてそのやうな気持のなかにどういふものがあるかといふと、それは今日日本でも倫理で教へてゐることで、所謂真善美といふやうな三つの要素に対する極めて純真な憧憬であります。これが中等学校に行く頃、或は中等学校へ行かない者が家庭の仕事を手伝ひ、若しくは商店、工場等に働きに行くといふ頃になつて、自分の生活の中にこの真善美といふものを一体どういふ風にうち樹てるかといふことに就て迷ひだす。といふのは、要するにその実現性、可能性といふものを殆ど見失ふわけです。つまり、現実に社会を見、自分の周囲を見て、自分の接するいろいろな事物、人間といふものゝ実情に大きな絶望感をもつやうになるものが、全部とは申しませぬが、やゝ多数を占めるのではないかと思ひます。そこでさういふ場合に、非常にいゝ指導者がゐてさういふ少年たちの心のなかの苦悶を拭つてやるか、それともそこに希望を失はないで前途に向つて邁進する強靭な精神を当人がもつてゐればよろしいが、さもなければそこで襲はれた絶望感に依つて人間が非常に功利的になる。そして結局金持にならう、或はたゞ出世をしようといふ風に考へて、何かしら、社会といふものゝ理想から遠いものに対する精神的な復讐でもするやうな気持になる。無論その人間の性情に依つていろいろに違ひますけれども、先づ中等学校を了へる頃、いろいろな書物を読み、或はいろいろな教養を身につけるに従つて、社会に対する批判力が出来、社会が真からも、善からも、美からも非常な隔りがあるといふ現実の様相に対して一層自分たちの心を苦しめ始めます。これが所謂煩悶時代であります。この時に日本といふものゝ値打に就てさういふ青年たちに十分信頼の念を吹き込んで、彼等に希望を与へる、さういふいゝ指導者があればよろしいが、さうでない場合はどうか。その時に一番痛切に教へられるものは何かといへば、西洋の文明――日本はかうだ、西洋はかうではないといふ、さういふ考へ方です。しかも、さういふ考へ方を吹き込まれるのは、決して西洋崇拝、或は西洋讃美の書物からではない。もつと根本的に、日本の現代の文化――伝統文化ではない現代の日本文化、これと西洋の現代文化といふものゝ客観的な比較から、それは生れて来るのです。
 ですから、この時に私は更にもう一つ救ふ途があると思ひます。それは、政治の中に真善美といふこの三つの要素を目標とする一つの理想があるかないか、それが政治の現実の面で十分明瞭にさういふ青年たちの心に刻み込まれるやうにすることです。さういふ青年達の頭の中には、恰度この頃から初めてはつきりと文化といふ意識が刻まれる。つまり文化的であるとか、或は非文化的であるとかいふ批判力と、さういふものに対するはつきりした欲求が生れて来る。即ち現代の日本は文化的にどうなんであらうか、文化面でどうなんであらうかと考へる。それから今度は非常に真剣な懐疑乃至絶望感をもつ。これは無論非常に鋭敏な、そしてものをよく考へ込む、同時に性格的にも或る反抗的なものを蔵してゐる青年たちに特に著しい。その時に彼等は日本の現在及び将来といふことを考へて、日本の文化といふものが本当に向上するには、かういふ政治ではいけないのではないかといふ風に見る。これは或る時には日本を憂ふる精神でもあると思ふ。勿論もつと軽薄なものもありますが、しかし時には日本を憂ふる精神から出てゐる場合がある。しかもこれが日本の現在の政治といふものを否定視するところから、踏み外すのだと思ひます。ですから、私はそこのところを、日本の歴史及び日本の政治の大きな流れを形作る一つの方向として、十分希望を与へてやる方法があると思ふ。つまり日本民族といふものゝ方向に就て、彼等に十分自信を与へることは可能であると思ひます。ところが今までの教育も政治も実はさういふ手段をとつてゐなかつた。この時に偶々西洋の政治、思想に関する書物に興味をもちだして、或は左翼的な書物を読み、或は左翼運動の中に身を投じてゐる先輩の話を聴いたり、さういふ方向に既に踏み込んでゐる友人の影響を受けたりして、全く救ふべからざる状態になる。勿論これは全体とは申しませぬが、大多数の者がかういふ経路を辿るのではないかと思ひます。そこでこの思想対策、殊に学生及び青年に対する思想善導といふ問題は、単独に政治思想乃至は倫理思想といふものに依つて解決せられるのではなくて、もつと広い立場から、文化といふ問題について、日本の現在及び将来を通じて一つの大きな希望を与へる――新しい豊かな文化をもつて将来の日本が建設される、政治家は既にそれに着手して居る、現にかういふことが行はれてゐる、さういふことを具体的に青年たちの頭にはつきり示すことが非常に大切な点ではないかと思ひます。それがためには政治家とか、或は政府の当局者などの国民に対する声明、宣言、或は訓示といふやうなものゝ中に、それが十分織り込まれて欲しいと思ひます。
 例へば現在、日本の政治をいろいろ批判する、所謂知識層の動向にしても、彼等を通じて常に見られる現象は、政治に文化性がないといふことに対する反撥であります。ところで、政治に於る文化性の欠如とはどういふことかと云ひますと、先づ文化性といふものから定義してかゝらねばなりませんが、私の考へでは、文化性といふものは、第一に日本の伝統に根を下したものでなければならぬことは勿論として、その要素として倫理性、科学性、芸術性、この三つのものが同時に高度の水準を以てすべてのものゝ中にあるといふことだと思ひます。ところがこゝに倫理性といふものだけがあつて、しかも、その倫理性なるものが科学的でない、或は芸術的な表現をもつてゐないといふ場合には、その倫理性といふものは、国民、殊に青年を本当に説得する力をもたない。しかも、現在、日本の政治家や当路者の国民への呼びかけといふやうなものには、この種のものが非常に多いのであります。また芸術性にしても、今日までの芸術を見ますと、芸術性といふものが唯一のものとされてゐる。そのなかにある倫理性といふものが非常に低い、或は閑却されてゐるといふ不健全な状態で、殊に日本の文学といふやうなものは、科学性、倫理性といふ点では、今日まで非常に不健全な病的な状態にあつた。そこで日本の青年学生が自分の身に或る教養をつけようとする場合、日本の文化財からは今云つたやうな非常に不健全なものしか得られない。さういふところに欠陥があるわけでありまして、かく申しますと、文化部担当者として、つまり我田引水と申しますか、なんだか文化だけが大事なんだといふ風な云ひ方に聞えるかも知れませぬが、文化といふものは先程も申しましたやうに、政治にも、経済にも、或はまた外交にも通ずる、その根柢をなす国民の力であるといふ点を、十分お考へを願ひたいのであります。実際に於て、今度の翼賛会に文化部が出来たことに就てはいろいろ意味がありますが、とりわけ今日知識層の一部の中で、比較的今まで拗ねてゐた者、或は懐疑的であつた者が、これに依つて何か非常に新しい希望をもつて、今までの自分の態度を一擲して新しい翼賛運動に参加したい、さういふ熱意を示してゐる者の多くなつたことは事実です。これは愈々日本の政治にも文化といふ部面がはひつて来たといふ、さういふ希望の現れだと思ひます。その態度そのものはまだ余り賞められませぬが、兎に角、さういふ微妙な点もあると思ふのであります。

 元来日本民族は科学性といふ点に於て、弱点があるやうに云はれてをりますが、日本民族そのものは科学性をもたない民族ではないと思ひます。徳川時代の政策は科学圧迫といふ点に非常に力が入れられたものですが、これが明治時代になつて、科学に対する泰然たる欲求となつて現れて、つまり科学といふものを不消化のまゝ呑み込んで行つたわけです。科学がまづさうですが、何事に依らず、日本にはないが外国にはある、かう思はせることがいけない。要するに自信をもたせなければいけないと思ふ。さういふ意味で明治初年の政治家はやはり文化性をもつてをつたやうです。例へば国民に対する告示にしても、文章は立派であるし、またそのなかには確乎たる見識があつた。決して人に書かせたものを読むといふやうなことはしなかつたのぢやないかと思ふ。政治家の情熱が国民に直ぐ伝つて行く。これがつまり芸術性で、さういふ点をよほど考へなければならぬのではないかと思ふのです。それから、例へば音楽と美術に就ては官立の学校がありますけれども、いろいろ民間に起つてをります文化運動に対して、政府はもう少し関心をもたなければならぬのぢやないかと思ひます。勿論その中にはいゝものも悪いものもありますが、いゝものほど苦労してゐる実情ですから、そのいゝものを助成し、これを育てるといふ意図を政府が示して、補助とまでは行かないまでも、さういふものゝ存在を認めて、それに眼をつけてゐるといふことをはつきり感じさせる、かういふ政府の政治的態度が国民に非常な希望を与へることになる。この点に就ては、私は今まで実際にさういふ運動(新劇運動を指す)に関係してをりましたけれども、実に無関心だつたと思ひます。議会でも、さういふ問題が出たことは絶対にない。偶々議会でさういふ文化とか、文学とか、或は芸術とかいふ問題が出ると、議場に嘲笑が起るといふ現象をたびたび耳にするのですが、つまりさういふことを云ふ議員は非常に野暮な議員だといふ風に考へられる。かういふやうなことが青年の思想には非常に鋭く響くわけです。幸にしてかういふ大政翼賛運動が起る新たな体制になつて、われわれが協力努力すれば、社会といふものはもつと理想に近いものになる途がついた、といふことが云へると思ひます。

 転向者の待遇といふ問題については、当人が既に十分日本人であるといふ自覚をもつてゐるものならば、これは是非とも協力させる場所を与へなければならないし、全国民の力を一つに合せやうといふ、翼賛会の運動の建前から云つても、さういふ人々を積極的に抱擁して行かなければならぬものと私は思つてをります。そして翼賛会自身が大きな自信をもち、国民の具体的な支持の下に軌道に乗つて来れば、勿論さういふ人たちを採用できるのぢやないかと思つてをります。さういふ時期の来るのを待ち、また早く来ることに努力してみたいと思つてをります。

 日本固有の文化と西洋の文化といふ問題ですが、如何なる文化にしろそれが若し不健全なものならば、教養として身につける時には、やはりその教養自体が不健全なものになる。今日本に多いのは文化中毒者だと思ひます。所謂不健全な文化を身につけて、それが文化的教養であると思つてゐる。さういふ教養を文化的だと思つてゐること自体が中毒症状である。かういふのが今の文化人に非常に多いやうに思ひます。西洋のものを身につけるにしても、つける人間に依つては益にもなり、或は害にもなる。西洋かぶれといふ現象はその後者に属します。
 私は翼賛会にはひる前に、文部省に対して長い注文(「一国民としての希望」を指す)を書いたことがあるのですが、これを極く簡単に申しますと、偶然にも有馬さんの翼賛会実践綱領解説の中に、「教育の功利性を排し」といふ文句がある、恰度それに当るのです。私はかねがね考へてをつたことでありますが、所謂エライ人物と立派な人間といふものゝ区別が非常に曖昧になつてゐる。それで少年たちが中学にはひる頃に、自分は一体エライ人物になるのか、立派な人間になるのかといふことで、一種分つたやうな分らないやうな気持のまゝでずつと教育を受ける。そこで偉い人物といふのは高位高官、金持、或は世間的に有名な人間といふ風に、新聞に書き立てられるやうな一種の名声とか、権力とか富とかいふやうなものと結びついた、要するに有名になるといつた意味で偉い人物といふものが子供の頭の中に印されて行く。一体さういふものが本当に偉い人物であらうか。それとも、仕事は決して派手ではないが、俯仰天地に恥ぢない生活をする、そして国家社会のために真に必要な仕事に没頭する、さういふ人間を立派な人間と云ふのがいゝのか。この点を教育でもつて、迷ひのないやうにしなければならぬと思ふのです。これが今の教育に於て――それを特に先生の責任であるとか、或は文部省の責任であるとかいふわけではなく、要するに社会全体が人間を作つて行くその作り方の上で、非常にこの点が誤つてゐると思ふのであります。(昭和十六年三月)

底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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