福田恆存君の戯曲「キティ颱風」を読んで非常に面白かつた。
 いろいろな先入観をもつてこの作品を読むひともあるだらうが、私もその一人であつたことを告白する。その第一は、福田君が自他ともにゆるす批評家であるといふこと、第二は、既に幾月か前に、甚だ風変りな戯曲「最後の切札」を発表し、いささか鬼面人を脅かすかの如き野心を示したこと、が、その理由として挙げられる。
 私自身についていへば、福田君のチェエホフ論にはチェエホフの戯曲を最もよく理解するものゝ深い洞察があり、また「最後の切札」は、戯曲作家の皮肉な内省を主題とする「観念の舞台化」ともいふべき大胆な試みに少なからぬ興味を覚えたのであるが、そのことは、今度の「キティ颱風」を前にして、なにか意外なやうでもあり、また当然のやうでもある、不思議に混乱した感慨を催させる原因となつた。
 福田君は、事実、「キティ颱風」に於ても、尋常でない意図をその作劇の上に示さうとしたことはたしかである。例へば、人物の関係をことさら複雑に入り組ませたり、事件の中心を次第にぼかし、絶えず何か起りさうで起らず、起りかけてはいつの間にか消える、言はゞ事件をはらむ雰囲気の波状形の起伏の連続のなかに、一群の人物の心理と行動とを絶えずダブらせながら暗示的に誘導するといふ、まつたく常識的なドラマの逆を行く手法を用ひてゐる。
 しかしながら、これは別に、戯曲の本質を無視したり、前人未踏の試みを敢てした結果にはならず、可なりの抵抗を予想してゐた私の期待はいくぶん外れたが、それは残念でもない。却つて、事件の発展そのものに興味をつながせる通俗味を排して、真に「演劇的なモメント」を、活きた舞台の言葉と、時間のよどみなき経過のうちに求める、純粋な戯曲美の構成に作者がもつとも力を注いだといふ幸ひな一例をこゝに見たからである。
 もちろん、この作品の特色はさういふ作劇法のうへにだけあるのではない。かゝる作劇法を自然に要求した主題の性格もまた、注目に値する。作者はまづ、キティ颱風の名によつて今井家の女主人を中心とする、現代人、とくに戦後の知識人の精神像を、そのさまざまな畸型性によつて捉へ、無目的な行動と、粘着力のない個々の交渉を、やゝ懐疑的な、時としてはシニカルな視野のなかで戯曲化さうと試み、その試みに、だいたい成功してゐるのである。従つて、登場人物の一人一人が概ね確実なデッサンで描き出され、その配列は演劇の造形の面で極めてヴァライェティーに富み、とくに暗示的とも言へる対話は、弾力と生彩に於て類の少いものになつてゐる。この作者の人間観察には、いくらか冷やかなポーズが目立たなくもないが、一方、戯曲としての強味は、この種の主題を処理するために必要で十分な機智が、ある時は、適度の諧謔として、ある時は、切れ味の快さともなつて、全篇を鮮やかに貫いてゐることである。
 批評家福田君が、一方では、その犀利な批評精神を戯曲に織り込みながら、一方では、いたづらに論理の虜とならず、人生の陰翳を描いて柔軟な才能を駆使し得たのは、まさに、健康で豊かな機智の賜であり、そして、その機智こそが、この戯曲を平面的な理屈つぽさから救ひ、それ以上に、感触の爽やかな、楽しいものにしてゐる原因である。
 この戯曲で難点と思はれるのは、いはゆる「インテリ論」が随所に顔を出すが、その意見は活字で読むならともかく、舞台のせりふとしては、いささか、一般見物(聴き手)の感興を殺ぐ煩はしさになつてゐることである。現代インテリの特性が諷刺的に描かれてゐるだけなら、それはそれとして、劇中人物のある色彩になるけれども、われわれは「インテリを論ずる」インテリの饒舌を舞台の魅力と感じるほど誰もかれも雑誌ジャアナリズムの影響を受けてはゐない。
 もう一つは、作者の思想がある人物の口を藉りて語られる場合、作者はいつたいどこにゐたらいゝのかといふ問題である。例へば、大村夫妻の変死が、自殺か、他殺か、過失死か、その真相が判然としないことを、作者は、劇中人物をして、それが当然だといふ「解決」に導かせてゐる。「真相などといふものは決してわかるものではない」といふ思想は、まあそれでよろしいとして、いつたい作者自身は、自己の欲求に従ひ自由に動かし得る人物の、かゝる運命について、劇中人物とおなじ口調で「真相不明」を宣言する権利があるであらうか? 私はないと思ふ。真相は作者の胸中に秘められてゐるか、或は、いまだ想像として形をとらないか、何れかである筈だ。もし前者であれば、ミスティフィカションとか韜晦趣味とかに通じるし、後者であるとすれば「作者は骨惜しみをしすぎた」と評せざるを得ないのである。「真相のわからぬ」といふことは、「真相」が常に不問に附せられてよいのではなく、簡単に捉へ難いだけのことである。まして、故意にかくされた舞台裏の真相に対して、見物の自然な好奇心を納得させる用意がいくぶん足りないと言つてもよいのではないか。
 この戯曲は近く脚光を浴びることになつてゐるが、現在の舞台条件から来る多少の困難をのぞけば十分に舞台化に堪へるすぐれた戯曲である。新劇の畑に、また新しい一つの美果が実つたことを、私は心からよろこぶものである。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「現代演劇論・増補版」白水社
   1950(昭和25)年11月25日発行
初出:「人間 第五巻第三号」
   1950(昭和25)年3月1日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年10月5日作成
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