外国作品の翻訳を思いたつのには、いろいろの名目と動機があり、また、その翻訳の態度にもさまざまな流儀と型がある。一概にどれが正しく、どれが好ましいともいえぬが、すくなくとも、わが辰野隆氏のいくつかのフランス戯曲の翻訳、わけても、今度の「フイガロの結婚」は、月並な名目と動機を超え、すべての流儀と型とを絶した、ほとんど秘伝と銘をうちたい辰野家専売の貴重訳である。
 忠実な訳、巧妙な訳、しつかりした訳、こなれた訳、そんな褒めかたではいつこう歯の立たぬ代物で、これこそ、ボーマルシエが辰野博士にのり移り、両者の舌を一枚に重ね、作者の洋才と訳者の和魂とがにぎやかにもつれ合つて封建末期の快男児フイガロ貧雅郎の一大活劇を語り聴かしているという風な書物である。原作はいろいろな意味で世界演劇史の一時期を画した名戯曲であるが、フランス十八世紀がこの作品を生んだことによつて、演劇的にも貧しい時代ではなかつたことを証明しているばかりでなく、いわゆる旧制度崩壊の空気がいかに濃厚であつたかを普く世に知らしめる事が出来たといゝ得るのである。
 十八世紀は、周知の如く、ヨーロツパに於ける社会革命の前夜であつて、澎湃たる自由の精神は言わば肉体化されて、一種他の時代に見られない、機略縦横、闊達無軌道な人間の典型を庶民階級の中に生み出した。時計工、宮廷音楽教師、新貴族、武器輸出業、水道事業の発案者そして、そのうえに劇作家を兼ねたピエール・カロン事ボーマルシエがその代表的な一人であり、そのボーマルシエの空想に浮んだ一英雄、伯爵お抱えの理髪師フイガロがまた、その典型の一ヴアリエーシヨンに外ならぬ。
 この戯曲は、機智と雄弁と傍若無人な舞台技巧とをもつて、ロマン派演劇のはるかな先駆をなしたものであるが、同時にまた、その反逆精神と無頼性とによつて明らかに近代劇の源をなし、しかも、演劇を芸術と娯楽とのあやうい境界に立たした不敵大胆な作品である。
 辰野隆氏は、学究としてもちろん既にその名は定まつているが、随筆家、座談家として、人々はそのひろい蘊蓄と豊かな才気と、更にその頼もしい人柄とに、親愛の拍手を送つている。「文は人なり」というけれども辰野氏のあの文体の調子と匂いは、「フイガロの結婚」の台詞ひとつひとつを鮮やかに生かし、それはまた、氏がこの作品に寄せるなみなみならぬ執着と興味とをうかがわせる表情ともなつている。
 要するに、この「フイガロの結婚」こそは、パリにおいて、氏が親しくその舞台を見て感じた深い印象を、再び瞼に浮べ、耳に聴き入りながら、あたかも時あつて、この劇中の小唄を人前で口吟むように、氏は悠々、嬉々として翻訳の筆を進めたにちがいない。
 名訳以上の快著である。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「日本読書新聞」
   1950(昭和25)年4月5日発行
初出:「日本読書新聞」
   1950(昭和25)年4月5日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月8日作成
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