あらすじ
ある日、朝倉の待合に、顔色の悪い男・兼吉が現れます。彼は、遊郭の親方とのトラブルで、親方に呼び出されたものの、うまくいかず、そのことを悔やんでいます。そんな兼吉を気遣う、待合の女将・お万は、兼吉の心を慰めようと、遊び相手を探し始めます。 時節は五月雨のまだ思切悪く昨夕より小止なく降りて、子の下に四足踏伸ばしたる猫懶くして起たんともせず、夜更て酔はされし酒に、明近くからぐつすり眠り、朝飯と午餉とを一つに片付けたる兼吉が、浴衣脱捨てて引つ掛くる衣は紺にあめ入の明石、唐繻子の丸帯うるささうに締め畢り、何処かけんのある顔の眉蹙めて、四分珠の金釵もて結髪の頭をやけに掻き、それもこれも私がいつもののんきで、気が付かずにゐたからの事、人を恨むには当りませぬと、長火鉢の前に煙草喫みゐるお上に暇乞して帰らんとする、代地に名うての待合朝倉の戸口を開けて、つと入り来るは四十近いでつぷり太つた男、白の縞上布の帷子の襟寛げて、寄道したお蔭にこの悪い道を歩かせられしため暑さも一入なり、悪いといへば兼吉つあんの顔色の悪さ、一通りの事ではなささうなり、今から帰るでもあるまじ、不肖して己に附き合ひ喫み直してはと遠慮なき勧に、お上が指図して案内さするは二階の六畳、三谷さんなればと返事待つまでもなくお万に口を掛け、暫くは差向にて、聞けば塞ぐも無理ならず、昨夕は御存じの親方呼びに遣りしに、詰らぬ行掛りの末縺れて、何、人を、そんなつひ通の分疏を聞くあたいだとお思ひか、帰るならお帰りと心強くいなせしに、一座では口もろくに利かぬあの喰せもののお徳め、途で待ち受けて連れ往きしを今朝聞いた悔やしさ、親方の意気地なしは今始まつたではなけれど、私の気にもなつて見て下され、未練ではござりませぬ、唯だ業が沸えてなりませぬ、親方の帰つた迹ではいつもの柳連の二人が来てゐたこととて、附景気で面白さうに騒がれるだけ騒ぎ、毒と知りながら、麦酒に酒雑ぜてのぐい喫、いまだに頭痛がしてなりませぬとの事なり、兼吉がこの話の内、半熟の卵に焼塩添へて女の持ち運びし杯盤は、幾らか気色を直し肝癪を和ぐる媒となり、失せた血色の目の縁に上る頃、お万が客は口軽く、未練がないとはさすがは兼吉つあんだ、好く言つた、相手が相手ゆゑお前に実がないとこの三谷が誰にも言はせぬ、さういふ時の第一の薬は何でもしたい事をして遊ぶに限る、あれならといふ人はないか、おれには差当り心当はなけれど、中屋の松つあんなどはどうだらうといへば、兼吉は寂しくほほと笑ひ、あんまり未練がなさ過ぎるか知れませねど、腹にあるだけ言つてしまひたいのは私の癖、中屋とまでいはれては黙つてはゐられませぬ、松つあんならぬ弟の清さん、浮気らしいがあの人なら一日でも遊んで見たいと兼て思つてをりました、なるほどさうありさうな事ではあれど、弟の方にはしかもお前の友達の小花といふ色があるではないか、頼まれもせぬにおれから言ひ出し、今更ら理窟をいふではなけれど、噂に聞けば小花と清二とは、商売用で荻江の内へ往き始めし比、いつとなく出来た仲だとやら、その上松つあんよりは捌けてゐるやうでも、あの生真面目さ加減では覚束ない、どうやら常談らしくもないお前の返詞がおれの腹に落ち兼ねる、お前は本当に清さんを呼ばせる気か、はい本当に呼んでおもらひ申す気でございます、小花さんに済まぬとは私にも熟く分つてをれど、清さんならと思ふも疾うからなれば、さうなる日には小花さんにはかうと思ひ定めてゐるも疾うから、お徳さんなぞのやうにけちなことは私はせぬ、私の心を打ち開けた上で、清さんは何とおいひか知らねど、嫌とならそれまでの事、万に一つも聞いてもらはれたら、それから先は清さんの心次第、お前の親切に絆されて一旦かうはなつたれど、それでは小花に義理が立たぬ、これきり思ひ切れとなら、思ひ切つて小花さんに立派に謝る分のこと、清さんに限つて小花さんを私に見変へるといふはずはなけれど、さうなれば私は命も何も入りませぬ、それぢや命掛といふのだね、凄い話になつて来た、己なんぞの目ぢやあ、色の浅黒い痩つぽちの小花より女は遙兼ちやんが上だ、清こうは慥か二十五でお前には一つ二つの弟、可哀がられて夢中になつた日には小花には気の毒なれど、呼ぶだけは己が呼ぶ、跡は兼吉つあんの腕次第だと、座を外してゐた女を呼んで使の事を頼めば、銚子持つて立出づる廊下の摩れ違ひさま、兼吉ねえさんが、ああ下で聞いてよと入り来るはお万なり、髪は文金帷子は御納戸地に大名縞といふ拵、好く稼ぐとは偽か真か、肉置善き体ながらどちらかといへば面長の方なるに、杯洗の上に俯いてどつちが円いかしらなどとはどういふ心か、荻江の文子さんが来て、小竹も梅子も内に遊んでゐましたといふに、そんなら呼べと座は遽に賑かになりぬ、三谷が梅子に可哀さうに風を引いてゐるといへば、お万引き取りて、この子の寝ざうといつたらございませぬ、それに幾らねんねでも、先刻も文子さんが遊びに来ると、鼻をかまうかしらと相談してと笑ふ、三谷色気がない内が妙だといへば、兼吉がそこ処は受け合はれませぬ、竹ちやんが岡惚帳拵へれば、いいえあら嫌なんてつたつて話すわ、梅ちやんも人真似をして、ためになるお客の上には大の字、気に入つたお客の上には上の字が幾つも重ねて附けてあるといふ、三谷己の名は上の字が十ばかりあるはずとからかへば、沢山附いてますと笑ふは痩ぎすの小竹、あら大の字の方だわと正直にいふは靨の梅子、上の字なんぞ附けてはお万ねえさんに悪いわねえとは、ちびの文子なかなかませたり、下から来た女に堀田原の使はと問へばまだといふに、追ひ駈けてまた人を遣り、あの竪樋の音に負けぬやうにと、三谷が得意の一中始まりて、日の暮るるをも知らざりけり、そもそも堀田原の中屋といつぱ、ここらには熟く知れ渡りたる競呉服にて、今こそ帝国意匠会社などいふ仰山なものも出来たれ、凝つた好といへばこの中屋に極はまれり、二番息子の清二郎へ朝倉より雨を衝いての迎に、お客はと尋ねれば三谷さんに兼吉さんがお出とばかり好く分らず、呼びに遣りし車の来ぬ内再度の使忙しければ、ともかくも直きにと荻江まで附けさせ、お幾婆さんに何であらうと相談すればここでもわからず、そんな噂はなかりしが兼吉さんが引つ籠むので浴衣の誂でもあるのか知らぬとのみ、家の娘お浅の小花さんが待つてお出なれば帰にはお寄でせうねといふを後に聞きて、朝倉に来しは点燈頃なり、こちらは一中を二段まで聞かせられ、夕飯もそのまま済ました処、本人の兼吉のみか、待つ人の来ぬは心落着かぬもの、文子は畳の上に置いた団扇を団扇で打ち、下のが上のに着いて上がるを不思議なことででもあるやうに、厭きずに繰り返してをれば、梅子は枝豆の甘皮を酸漿のやうに拵へ、口の所を指尖に撮み、額に当ててぱちぱちと鳴らしてゐる、そこへ下より清さんがお出ですとの知らせと共に、梯を上り来る清二郎が拵は細上布の帷子、ひんなりとした男振にて綛の藍に引つ立つて見ゆる色の白さ、先づ一杯と盃差したる三谷が、七分の酔を帯びたる顔に笑を含み、御苦労を願つたは私の用といふでもなく、例の商用といふでもなし、ここにゐる兼吉さんから委細の話は直にあるはず、一口に申せば何でもない事、ただもう清さん恋しやほうやれほといふやうなわけと、何だか分りにくい言草に兼吉気の毒がり、一中も最う沢山、可哀さうに私だつてまだ気が狂ふには間があります、なにね清さん詰まらない事なのよ、そりやあさうと清さん今夜は別に用がないなら緩り遊んでお出なさいなと、さすがに極り悪るげな処へ、兼ての手筈に女の来てちよつとこちらへと案内するは、同じ二階の四畳半に網行燈微暗く、蚊の少き土地とて蚊は弔らねど、布団一つに枕二つ、こりや場所が違ひませうと、清二郎の出ようとするを留めるは兼吉、胸のみ頻りに騒がれて、昨夕から喫んだ酒の俄に頭に上る心地、切角これまで縒り掛けながら、日頃の願の縁の糸が結ばれようか切れようか、死ぬるか生きるか、極まるは今の束の間と思案するもまた束の間、心は語は冰、ほほほほほ出抜だから胆をお潰しだらうね、話せば直に分る事ゆゑ、まあちよつと下にゐて下されと、枕頭の烟草盆を間に置いて二人は坐りぬ、姉さんがさう仰やるからは定めてわけがございませうが、お迎の時からこの間に来るまで、何だか知れぬ事だらけで、夢を見るやうな気がしてなりませぬ、一体これはどうした次第と、いひながら取り出すは古代木綿の烟草入、徐に一服吸ひ付くるをぢつと見つめて募るは恋、おや清さんの烟管も伊勢新なのねえ、ええこれはといひ掛けしが、これは小花と揃とは言ひ兼ねてか口籠る愛らしさ、ほんに私の好い気な事ねえ、清さんに話をするつてぼんやりしてゐてさ、話といふのも本当は大袈裟な位と、兼吉の言ひ出すを聞けば、この雨の日の退屈まぎれ、三谷さんが兼ちやんも誰か呼んで遊べといひしに、呼ぶ人がないといつたら松つあんではどうだとの事、私がつひ松つあんより清さんが好いといつたが起、小花さんといふもののある清さんの名を指したのがいかにもづうづうしい、どうでも清さんと寝かして困らせて遣ると言ひ張り、とうとうここにお前さんを連れ寄せて済みませねど、唯少しの間横にだけなつてゐて下されば好いといふ、それでは姉さんほんのお茶番なのねえ、三十分もゐたら好いのでせうか、ああ好いどこぢやあなくつてよ、だが皺になるといけないからこの浴衣だけはお着なさいよ、私も着かへるからと扱ばかりになれば、清二郎は羽織を脱ぎながら私やあ急いで来たせゐか、先刻から咽が乾いてなりませぬ、ラムネが貰へるなら姉さん下へさういつて下されといふ故兼吉すぐに廊下に出て降口より誂へるを、かの六畳からお万が見ゐたり、二人は一間に籠りゐて、ラムネの来しをば兼吉が取入れつつ、暫しありて清二郎は湯にとて降りて復た来らず、雨は夜の間に上りしその翌日の夕暮、荻江が家の窓の下に風鈴と共に黙の小花、文子の口より今朝聞きし座敷の様子訝しく、清さんが朝倉の帰に寄らざりしを思ひ合せて、塞ぎながら湯に往きたるに、聞けば胸のみ騒がるるお万があの詞の端々、兼吉さんが扱ばかりで廊下に出たのを見たとは真か、清さんに限つてはと思ふはやはり私の慾目、先刻お仕舞してゐるとき二階の笑声を何事ぞと問ひしに、お浅さんの立ちながらいはれしは、一足先に兼吉さんが来て、内の文子と遊びに来てゐた梅子とを二階へ連て行き、踊を浚つて遣るとの事とか、私に対して昨日から何事もないかのやうに、その気の軽さがいよいよ憎い、下りて来たならどう言はうか、先からはまたどう言ふつもりか、所詮内気なこの身には過ぎた相手ととつおいつ、思案もまだ極まらぬ時、ばたばたと梯降り来し梅子文子は息を切らせて、小花ねえさんに梅子さんの甚五郎が見せたくつてよ、いいえ文子さんこそ人形のくせに笑つてばかしゐましたといふ後より兼吉も下りて、本当に今日の暑い事ねえと何気なけれど、さうねえといつたきり俯向いて済まぬ顔、文子は急に思ひ出して、さうさう先刻からラムネが冷やしてあつてよ、兼吉ねえさんに上げようやと、何心なく持つて来たるサイフォンの瓶にコップ三つ四つ、先づ兼吉に注いで出すを、小花側よりぢつと見て、ねえさんラムネが好ねと声震はせじとやうやういふに、大好よと無頓着なる返辞、ええ悔やしいと反りかへつて正体なし、その夜座敷を断りて臥しゐたる小花の許へ、つひになきこと目と鼻の間に住む兼吉が文届きぬ、しかもその長々しさは一本の巻紙皆にせしかと思ふばかり、痛む頭を擡げし小花が虫を押へて拾読するその文に曰く、一筆しめし上参らせ候、今は何事をも包まず打ち明けて申上げ候ふ故、憎い兼吉がためとお思なく可哀い清さんのためと御読分下されたく候、申すも御恥かしき事ながら、お前様といふものある清さんに年上なる身をも恥ぢず思を掛け、出来ぬこと済まぬことと堪へれば堪へるほど夢現の境も弁へず焦れ候ふはいかなる因果か、これは久しき前よりの事に候へども、御存じの通の私が身持、昨日は誰今日は誰と浮名の立つを何とも思はず、つひこの頃までも親方と私との中は知らぬ人なき位に候ふ事とて、お前様にも清さんにも覚られ候こともなく打ち過ぎ候ふに、昨日三谷さんのお座敷にて、ふとした常談に枝葉がさき、清さんを呼んで下され、呼んで遣らうといはれた時の嬉しさいかばかりぞ、これのみは御自分の身に引き比べお察し下されたく候、さて床の展べあり候間に清さんと這入り候時の私の心は、ただただ夢の如くにて自分にもかうかうとはつきり分りをらず候へども掻い撮んで申し候へば、まことにまことに卑しく汚はしく筆に書き候も恥かしき次第、お前様といふものある清さんとこのやうな身持の私が、すなほに彼此申し候とも願のふはずなければ、何事も三谷さんの酒の上から出た戯のやうに取成し、一しよにさへ寝たならば、なんぼ実があるとて、まだ年若な清さん、私はこんなお多福でも側にゐられて気持の悪くなるほどの女でもある間敷、つひ手が障り足が障るといふやうな事にならば、その上で言ひたい事をも申すべしと存じ候ひしには違なく、かやうな悪しき心を持ち候ひし事、今更申すも恥しく候、さて女の性は悪しきものと我ながら驚き候は、大人しく横になつてゐた清さんの領へ私が手を遣りし事に候、その時に清さんは身を縮めてぶるぶると震ひなされ候、女の肌知らぬ人といふではなし、可笑しな事申すやうではあれど色々の男と寝たことある私、つひにない事、はつと思つて手を引き候とたん何とも申さうやうのない心持致し、それまで燃え立つやうに覚え候ふ胸の直様水を浴せられ候ふやうになり、ふつつりと思ひ切つて清さんにはその手をさへ常談の体に申しくろめ、三谷さんの手前湯にといはせて返し候へば、清さんは何ともお思ひなさるまじく飛んだ隙潰しをしたなどと申しをられ候ふ事と存じ候、この始末後にて考へ候ふに、私に罰でも当つたのかお前様の念が通つてゐたのか、拙き心には何とも弁へがたく候、この文差上げ候ふ私の心お前様に熟く分り候はんや覚束なく候へども、先ほど申し候ふ通それはどうでも宜しく、ただお前様が清さんを大事にしてさへお上げなされ候はば、私の願もその外にはござなく候、返す返すも羨ましきは清さんのやうな人をお持なされ候ふお前様の身の上にて、たとひどのやうに憂いつらいと思ふ事ありとも、その憂いつらいは頼になる清さんのやうな優しい人を持たぬものの憂さつらさに比べては何でもないと、よくよく御勘弁なさるべく候、また私の事はこの上未練がましく申したくはなく候へども、今までも不身持な女子のこの末はどうなり申すべきか、我身で我身が分り申さず、どうして私はかうなつたやら、どうして私はどうならうか知れぬやら、それはお前様に申しても甲斐なき事と致し候うて、ここに一つ申し置き候ふは、もし少しにてもこの文の心御解なされ候はば、昨夕罪のない清さんを罪に堕さなかつたのは兼吉だ、よしや兼吉が心から罪に堕すまいと思つてではないにしても、罪に堕すことの出来ぬやうな何とも知れぬ心に兼吉はなることがあつたといふ事ばかりに候、この後清さんには指もさすまいと思ふ私に候へば、つひ何事もなかつたやうに御附合のほど祈り入り参らせ候かしく、なほなほこの手紙御取棄なされ候ふとも、清さんになり誰になりお見せなされ候ふとも宜しく候、小花様へ兼吉よりとはさてさて珍しき一通、何処が嬉しくてか小花身に添へて離さず、中屋の家督に松太郎が直りし時、得意先多き清二郎は本所辺に別宅を設けての通ひ勤、何遍言うてもあの女でない女房は生涯持ちませぬとの熱心に、物固い親類さへ折り合ひて、小花を嫁に取引先なる、木綿問屋の三谷が媒したとか、兼吉はまたけふが日まで、河岸を変へての浮気勤、寝て見ぬ男は誰様の外なしと、書かば大不敬にも坐せられるべきこといひて、馴染ならぬ客には胆潰させることあれど、芸者といふはかうしたものと贔屓する人に望まれて、今も歌ふは当初露友が未亡人なる荻江のお幾が、かの朝倉での行違を、老のすさびに聯ねた一節、三下り、雨の日を二度の迎に唯だ往き返り那加屋好の濡浴衣慥か模様は染違。了
底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年1月16日第1刷発行
1991(平成3)年5月15日第19刷発行
底本の親本:「鴎外全集 第三巻」岩波書店
1972(昭和47)年1月刊
初出:「新小説」
1897(明治30)年8月5日
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年3月25日作成
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