ふじの山おなじ姿に見ゆるかな
かなたおもてもこなたおもても
とか云ふのがあつて、奈何に有りの儘が好いと云つても、これでは歌にならないと云つてあつた。それを可笑しいと思つたのを記憶してゐる。かなたおもてもこなたおもても
俳句は類題の零本を読んで面白いと丈は思てゐた。分かると思ふ句と、分からぬと思ふ句とがあつた。その分かると思つたのが、ひどく見当違いであつたとは、今から回顧して見ても思はない。生利で物は早く飲み込むことの出来る性であつたらしい。
秋風や白木の弓に弦張らん 去来
と云ふ句がひどく気に入つて、こんな句がして見たいと思つた。その後俳句を少しして見たが、かう云ふ向きの句は一つも出来たことがない。何事によらず、自分の出来ない方角のものに感服してゐて、それが出来ずじまひになるのが、性分であるらしい。○父は医書の外は何も読まない流儀の人であつた。詩や歌や俳句の本が偶有つたのは、皆祖父の遺物である。祖父は歌を一番好いてゐた。始て江戸に上る途中で、
おもひきやさしも名高き富士のねも
麓を雲の上に見んとは 綱浄
と云ふ歌をよんだ。それを福羽子爵が半折に書いて、麓を雲の上に見んとは 綱浄
いと高きしらべなりけりふじのねに
これもおとらぬ君がことのは
と書き添へて贈られた掛物が残つてゐる。漢文は達者に書いたらしいが、詩は一つもない。俳諧の話は、母が小娘の時によくして聞かせられたと云ふ事である。その話は浪人になつて大阪にゐた時、点取と云ふことを人に勧められてしたが、宗匠に不服なのと、どうも無学な人にかなはないのとで、すぐに廃めたと云ふことであつたさうだ。負けじ魂のあつた人らしいので、さう思つたのも無理はないと、微笑まれるやうな気がする。宗匠との衝突はかうであつた。これもおとらぬ君がことのは
茸狩や落した櫛を拾ふ手に
と云ふ句を、宗匠が茸狩や釵捜す手にもこれ
と直した。祖父が、それでは松茸が頭に生えてゐるやうだと云つて、承知しなかつたと云ふことがある。祖父の句も余り旨くはなかつたやうである。但し記憶の誤があるかも知れない。(跡は又折があつたら書くとしよう。)