源氏物語は、一口に言えば、光源氏を主人公として書かれた物語である。此光ると言うのは、我々の普通に考える様な名とは、少し違った意味を持っている。女の方に例を取って見ると、源氏の生母桐壺更衣の没後、父桐壺の帝の寵愛ちょうあいせられた藤壺女御を、「かゞやく日の宮」と書いている。人間の容貌をほめる為に、ひかる・かがやくなど言う言葉を使ったので、良い意味のあだ名の様な名づけ方なのである。光君は桐壺帝の二番目の御子みこで、帝が次の天子の位にけたい、と考えられた程可愛くお思いになっていたが、いろんな関係でそれが出来なかったので、臣下の位に下げ、源の姓を与えられた。併、これも後に源氏平氏と対称して考えられて来る、あの源氏と違った内容を持っている。此事については少し説明しなければならぬ。
昔の宮廷は、我々が考える程、政治的に大きな勢力を持っていられたわけではない。唯、神を祭り、神に接近した生活をしていられた為、信仰上の中心となっていた、其が習い久しく、中世になっても、宮廷を上に据えない形の世の中と言うものは、考えられなかったのである。政治上の実権を持っている豪族達にとっては、此宮廷を自分の方へ寄せて来る事が、何よりも必要であった。天子の御子が幾人もおいでになる時は、古代には、各の豪族が、御子を引き取って養育し、自分達の方で育った方を次の位にお即けしようとして、争いを起す事さえあった。そうした幾世の後に、花のような藤原氏の時代が来た。藤原氏一族が勢を専にした時代の歴史を顧みて、どうしてあれ程、宮廷が圧迫されていられるように見えるのだろうと思うが、実際は、そう言う長い歴史を経て来ているのだから、そう言うれた気持ちでいるようになったものである。こうした事情で、だんだん激しくなる将来が予感せられて来て、此儘このままではどの様な世の中になるか測り知れないと、其対策が自ら浮び上って来た。其結果、皇族を臣下の列に加えて、力の有る者を作ろうと言う事が、奈良朝頃から行われた。平安期の初期には、其が殊に盛んである。こうした人達には、源氏を名のる者が多かった。其為に、源氏を称することを許された人が源氏であるのを、更に一番多い称号だという所から、皇族から臣下に降下した人をすべて、源氏と汎称はんしょうする様になった。其人々の中で、殊に人がらも優れ、容貌も優れていた人の事をしるした物語と言う意味で、昔から「源氏の物語」又は「ひかる源氏の物語」と言っていた。帚木ははきぎの巻のはじめに「光源氏、名のみこと/″\しう言ひけたれたまふ。……」と書かれているのも、「光り輝く皇族出の公子、噂ばかりでは、何だ彼だと大げさに悪口なども言われていらっしゃる。……」まあこう言う風の表現なのである。

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源氏物語は何時頃書かれたかと言う事も大事だが、其よりもっと大切な事は、何時の時代を書いたか、と言う事である。源氏物語の世界は、平安朝に這入はいっておよそ十代を経た時代、皇族から臣下にくだる事はまだまだ行われていたが、どうしても藤原氏の勢力に押され、そうした運動の無謀さが省みられ、凡情熱の磨滅せられ出した宇多・醍醐の帝の時代を書こうと言う、漠とした予期があったのである。此は、紫式部の時代より数代前の事になる。こうした歴史に沿った物語を書く場合には、不断聞いたり見たりしている人の事が、自らもでるとなって出て来るものである。源氏物語の中にも、これは誰がもでるだと言われる類型は沢山あるが、光源氏のもでるだと言われるのは、部分部分では、いろいろな人を思わせるような書きぶりがあるが、全体としては、平安朝を通じて、最著しい藤原道長を目標においているようである。此人は、後の人々からは、おもしろくない人の様に見られているが、昔の人は、今の人の思うよりも、もっとゆったりした世界に住んで、非常に大まかな生活をしていたのである。光源氏の成熟し切った生活の様子は、その道長の盛んな生活ぶりを、おおらかに胸に持ち、はぐくみ乍ら作者がうつし出したものと考えてよい。源氏物語には又、女源氏と言われる人達が出て来る。此は先に言った源氏と同様に、女の皇族であって臣下に降った人という意味から出てるようではあるが、所が此女源氏の中には、更に皇后や中宮の位に上っている方々もある。或女性が皇后・中宮と言った地位につかれるのに、一旦臣下に降って、再召しあげられて宮廷に這入られるとった形をとられたものと見るべきであろう。これには古くからの信仰上の理由がある。大昔の宮廷では、皇女は生れながらにして、巫女みことなって神に仕える宿命を持って此世に現れられるものと考えていた。皇女が結婚する事は考えられなかった。源氏物語にも数所、帝の御むすめは夫を持たぬものだと言うことが記されている。伊勢の斎宮・加茂の斎院など、其著しい例である。それでし皇女が結婚なさる場合には、先、皇族の籍を離れると言う形を採ると言うことになっていたのであろう。或場合の結婚――内親王が貴族と結婚せられるという時は、其まま貴族の家へ客として行ってしまわれる。が、実は其貴族と結婚生活にお這入りになったのだ。そう言う形の降嫁式もあったのである。皇女である方が、皇后・中宮になられた場合、女源氏と称するわけもこれでわかるのだ。
光源氏を中心にして、こうした宮廷の女性や、又は貴族の婦人等が、それぞれいろんな形で触れ合ってゆく様子が、此物語に大きく繰り拡げられている。併、此物語の書こうとする主題は、そう言うところだけにある訣ではない。

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人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いである。人間は常に神に近づこうとして、様々な修行の過程を踏んでいるのであって、其ためには其過程過程が、省みる毎に、あやまちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、其生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。此事はよく考えて見るがよい。近代の学者は、物事を皮相的にしか考えなかった訣ではないが、教えられて来た研究法が形式倫理以上に出なかった。源氏物語を誨淫かいいんの書と考え、その作者紫式部の死後百年程経て、式部はああ言ういけないそらごとを書いた為に地獄へちて苦しんでいる、と言うことさえ信じられていた程である。これは其時代の人々に、小説と言うものが人生の上にどんな意義を持っているか訣らなかった為である。源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれていた訣を思わないからである。光源氏の一生には、深刻な失敗も幾度かあったが、失敗が深刻であればある程、自分を深く反省して、優れた人になって行った。どんな大きな失敗にも、うち負かされて憂鬱ゆううつな生活に沈んで行く様な事はない。此点は立派な人である。
こうした内的な書き方だけでは、何としても同じ時代の人の教養では、理会せられそうもないから、作者は更に、外からは源氏の反省をしめあげる様な書き方をしている。すべて平面的な描写をしているのだが、源氏の思うている心を書く時は、十分源氏側に立っているのだし、客観的なもの言いをしている時は、日本人としての古い生活の型の外に、普遍的なもらあるがあるのだと言うことを思わせるようになっている。其は、因果応報と言う後世から平凡なと思われる仏教哲理を、具体的に実感的に織り込んで、それで起って来るいろんな事件が、源氏の心に反省を強いるのである。源氏がいけない事をする。それに対して十分後悔はしているが、それを償う事は出来ないで、心の底に暗いわだかまりとなって残っている。所が時経て後、其と同じ傾向の事を、源氏が他人からされることになって来る。たとえば、源氏が若い頃犯した恋愛の上の過ちが、初老になる頃、其最若い愛人の上に同じ形で起って来る。源氏は今更のように、身にしみて己の過ちを省みなければならぬのである。内からの反省と外からの刺戟しげきと、ここに二重の贖罪しょくざいが行われて来ねばならぬ訣である。此様に、何か別の力が、外から源氏に深い反省を迫っている様に感じられる書き方が、他の部分にも示されている。源氏が、権勢の上の敵人とも言うべき致仕太政ちしだじょう大臣の娘を自分の子として、宮廷に進めようとする。其時になって、此二人の後備えとも言うべき貴族に、途から奪取せられてしまう。こう言う場合、此小説の書き方が、極めて深刻であり、其だけにまた、強い迫力をもって来る。
近代の小説家の中にも、其程深いものを持っている訣ではないが、小説として書かれたものを見ると、相当に高い精神を持ったものを書くことの出来る人がないではない。其は其人が書いているうちに、其人の実際持っているもの以上に、表現に伴うて出る力があって、ぐんぐんと出て来るのである。源氏物語の作者にも、勿論そうした部分が十分に認められる。むしろ此力が異常にはたらいている為に、ああした遥かなと言っても遥か過ぎる時代に、あれだけの作物が出来たのだと言うことが出来る。
我々が此物語を読むについて、も一つ考えてみなければならぬ事がある。作家が小説を書く場合には、予め、どう言う事を書こう、それにはどう言うてまを持って来なければならぬと心に決めてかかる訣である。
所が譬えば大石内蔵介を主人公として書こうとするのに、彼が京都でどんな生活をしていたとか、討入りの前日に何をしたとか書いている小説があるとする。思いがけない解説を聞いて読者は此が小説の本領だと思う。知性の勝った読者の殖えた時代には、そうなるのは当りまえである。だが本とうは作者自身の考えで内蔵介の生活を設定して、作者の考えた型へ内蔵介を入れてしまう事になるのである。そうしたものが、小説として価値のある作品だと考えられ易いが、此はよく考えてみなければならぬ問題である。源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う。源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。即そこに昔の日本民族の理想の形と言うものが現れて来るのであり、日本人の生きようとする方向を、源氏という生活者を一つの例に取って、示している事になる。
皮相な見方をすれば、源氏物語は水のあわのようにあとかたもないうわうわした作り事であるとは言える。又若い頃の悪事が、再自分の身に報いて来る因果応報の物語であるとも言える。然し作者の意図せない意図と言うものがあった。其は今言ったような所にあるのではなく、もっともっと深いものを目指していたのである。学者は其を学問的に説明しようとし、小説家は其に沿って更に新しい小説を書こうとして来た。源氏物語の背景にしずんでいる昔の日本人の生活、更に其生活のも一つ奥に生きている信仰と道徳について、後世の我々はよく考えて見ることが、源氏を読む意味であり、広く小説を読む理由になるのである。

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源氏物語の中に持っている最大きな問題は、我々の時代では考えられないほどな角度から家の問題を取り扱っている事である。一つの豪族と、他の豪族とが対立して起って来る争いを廻って、社会小説でもなく、家庭小説でもなく、少し種類の異った小説になっている。島崎藤村などは晩年此に似た問題に触れてはいるが、それ程深くは這入はいって行かなかった。平安朝は、そうした問題が常に起っていた時代であり、闘争も深刻であった。従って源氏物語も、常に其問題を中心として進められている。最初は源氏の二十歳前に起って来るもので、源氏の味方となって大切にしてくれる家と、どこまでも意地悪く、殆宿命的に憎んでいる家との対立が書かれている。前者が左大臣家――藤原氏を考えていることは勿論である。――後者は右大臣家である。源氏の母の出た家は、豊かではあったが、家柄はそれ程高くはなかった。そうした家の娘が宮中に這入って、帝の愛を受け、桐壺(淑景舎)に居たので、桐壺更衣と言われた。所が桐壺は、宮廷の後宮の御殿の中では、一番北東の隅にあって、帝の居られる御殿へ行くためには、すべての女の人たちの目の前を通って行かねばならなかった。而も連日召されることは勿論、一日の中にも幾度か召される。其都度女の人たちの嫉妬心しっとしん刺戟しげきして、皆から憎まれ、殊に其中の二人三人の女性ののろいを受けたらしくて、病死してしまう。桐壺更衣の遺児が光源氏である。源氏は成人して、左大臣家の娘葵上あおいのうえの婿となる。もともと左大臣の北の方は、源氏の父桐壺帝の妹君が降嫁されたのであって、伯母に当るわけである。昔の貴族の習慣として、最初の結婚は必、夫より年上の女性をめとる事になっていた。此は古い信仰上の結婚の形が、此時代まで残っているのであって、尊い御子みこが幼い間は、やや年上の女人が傍にいて養育し、成長して後其御子と結婚した、宗教上の風習の名残である。だから葵の上も源氏より年上であり、其外、最初の恋人と思われる六条御息所みやすどころも又年上である。源氏の若い頃の結婚生活はこうした気が置ける人ばかりが相手であって、常々恋愛的に、唯何となく極めて自由らしいものをねがう心がある。所が源氏十七歳の夏、物語では二巻目帚木の巻の雨夜の階定しなさだめの段で、三人の先輩並びに同輩の話合いの中に、中流階級の女性が恋愛的に意味深いものだと言うことを教えられる。それから源氏の自由な恋愛生活が始るのである。
一方、右大臣家との関係はどうかと言うと、右大臣の長女が源氏の父君桐壺帝よりも、年上の女性である。早くから宮廷に這入っていて、弘徽殿こきでん女御と言われた。帝が、後に源氏の生母桐壺更衣を余り寵愛ちょうあいなさるので、自尊心を傷ける。女御の怒りは、日増しにつのって行って、まるでのろい殺された様な風に死んでゆく。其後源氏にとっても又、右大臣家の人々は非常につれないものになって行くのである。極単純な感情だが、物語の主人公の反対者は、悪い人間である様な感じを持つものである。昔の人は、其をもっともっと強く感じたであろう。主人公である限りは、はじめから善い人にきまっていたのである。古い註釈書には、弘徽殿女御を悪后と言っている。この右大臣家にも、たった一人源氏に対して深い好意を寄せている人が居た。六番目の娘で、後、朧月夜尚侍おぼろづきよのないしのかみと言われた人である。偶然の機会、照りもせず曇りもきらぬ春の夜に源氏と出あったのだが、右大臣家では間もなく宮中に入れようと思っていた娘に、敵の様に思っている源氏がおとずれしていた事を知って、非常に大きな問題になる。其結果源氏は須磨へ追放される事になってしまう。昔の物語の書き方では、貴い人をきずつけるような噂はせぬ礼儀になっているので、源氏の場合も、京に居づらくなって、自ら須磨へ行った事になっている。其上、代々の源氏読みの習慣では、流されたものと見て来た。源氏の亡き父桐壺帝が、源氏を憐れに思って、朱雀院すざくいんの夢に現れて嘆かれるので、間もなく京へ呼び返される。其後は、源氏の勢力がにわかに盛んになり、右大臣家との争いは終る事になる。
次に、源氏の子供達を中心にして、物語の進みを辿たどってみる。源氏は本とうの子の少い人で、たった二人しかなく、男は葵上との間に生れた夕霧、女は明石上の生んだ明石中宮である。ほかに養子やしないごが二人ある。一人は秋好中宮と言って、六条御息所と、その夫、早く亡った先帝せんだいの皇太子との間の子である。六条御息所は皇太子の死後、十分な門地財産を持って六条に住んでいる時に、源氏と相知る事になる。非常に貴族的に見識高く、嫉妬心の強い人で、源氏の自由な恋愛生活をうらんで、生前は生霊いきりょうとなって葵の上を苦しめ、死後は死霊となって、源氏の二度目の北の方紫の上を苦しめる。源氏は其怨霊おんりょうを慰めるために、其娘を養い娘として、中宮にまでするのである。いま一人は、源氏が雨夜階定あまよのしなさだめ以後に得た新しい恋人の夕顔が、それより先に頭中将との間に生んでいた子で、玉鬘たまかずらと呼ばれている。源氏が夕顔を連れて、或古屋敷で一夜を過すと、怨霊が出て来て、女をとり殺してしまう。幼児は其直後九州へ下ったのだが、二十になって又京都へ上って来て、偶然の機会から源氏にはぐくまれる事になる。当時、実の父頭中将は内大臣となっている。太政だじょう大臣である源氏と、内大臣との間は、会って話し合う事があれば、互にうちとけて昔の親しさに返るのであるが、源氏の長男夕霧と内大臣の娘雲井雁との恋愛問題があったり、其他周囲の事情が色々加って、二人の間は、解決の出来ないものになっている。そうした所へ、玉鬘が現れてくるのだ。源氏は玉鬘を宮中へ上げて尚侍にしようと考えているが、一方には、自分の手もとに置きたいと言うほのかな恋心も湧いて来る。若し宮中へさし上げる段になれば、実父に打ち明けねばならぬのだが、其も何となく気の進まぬ事である。そうした心の定まらぬ日がつづいた後、源氏の伯母で、内大臣の母大宮の病気を見舞った機会に、内大臣に話してしまう。併、結局玉鬘は、宮中に入る前に、鬚黒ひげくろ大将と言う武骨な貴族に奪われ、其妻となってしまうのである。此には、内大臣の計画がはたらきかけているのである。
こうした事件の流れの中で、源氏は清らかな心で振舞ったり、時には何となく動いて来る人間悪の衝動に揺られたり、非凡な人であったり、平凡になったりして動揺して行く。其姿を大きな波のうねりの様に、まざまざと書いている。
此外に、表面は源氏の実子になっている、薫君と言う男の子がある。母は源氏が年いってからの三番目の北の方で、朱雀院の御子みこ女三宮おんなさんのみやである。源氏の若い頃、藤壺女御との間にあった過ちと同様、内大臣の長男柏木と女三宮との間に生れた子である。源氏は其事を知って、激しい怒りを、紳士としての面目を保って、無念さをじっとこらえ通している。
時経てから、源氏が出た或酒宴で、柏木も席につらなっていたが、内心の苛責かしゃくから、源氏に対して緊張した態度をとっている。其がかえって源氏の心の底の怒りに触れて来る。そして源氏は柏木を呼んで、酔い倒れるまで無理強いに酒をすすめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になるわけだ。殺すという一歩手前まで迫った源氏の心を、はっきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術である。美しい立派な人間として書かれて来た源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。此はいやな事ではあるが、小説としては、扱いがいのある人間を書いている訣である。大きくひろく又、最人間的な、神と一重の境まで行って引き返すといった人間の悲しさを書いている。作者に、其だけの人間の書ける力が備っていたのである。此だけの大きさを持った人間を書き得た人は、過去の日本の小説家には、他に見当らない。
源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月4日作成
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