室町時代の末に出来たと思はれる職人歌合せの中、勧進聖訓職人歌合せといふのがあつて「絵解き」の姿が画かれてゐる。琵琶を片手に箱を担ひ、地獄極楽の絵を懸けて、それを地搗きの棒の様なもので説明してゐる姿である。三十二番歌合せの第一番に出て来るのも此で、片手では琵琶を弾じ、片手では雉の羽の著いた棒で説明してゐる。「絵をかたり琵琶を弾きて」と註したのを見ても、絵の説明を節付けでした事が訣る。
室町時代の文学は、一体に唱導的なものが多いが、此絵解きも無論、その一つである。其文句は伝はらないが、恐らく、極つた文句を語つたのに違ひない。此が徳川時代になると、熊野勧進比丘尼、――普通歌比丘尼と称せられるものになる。この比丘尼は、紀州の日前ヒノクマ宮の信仰と、其に関係が深くて、後には一緒になつて了うた伊勢の大神の信仰とを、弘通して歩いたので、熊野に参籠し、伊勢に参詣して、牛王宝印の札を配る傍、絵解きをしてゐた。歌比丘尼のもとの形が絵解きなのである。絵解きが元となつて勧進聖が現れ、更に変つてかうした勧進比丘尼となつたことが訣る。そして勧進比丘尼はつひに遊女の如き生活をするものに堕ちた。こんな職業が、男から女に移るのは自然の行き方で、「一代男」などでは釜祓へが女の姿で現れてゐるが、これも元は男なのである。
アヒの山も此一種で、サヽラを持つて門附けをして歩いた。上方唄にも其文句は残つてゐるが、行基が作つて相の山で謡はせたといふ伝へがある。此も男がするのが本態である。伊勢の相の山にお杉・お玉の二人がゐて、客の投げる銭を面で受けとめたといふのは、民間の門附けと共に却つて潰れた形なのである。相の山はまた伊勢の川崎音頭の源流でもあり、おなじく古い伊勢踊りも、こゝに胚胎してゐる。相の山にも古くは必、絵解きがあつたに相違なく、それから比丘尼も出て、相の山ともなつたものであらう。だから、もと相の山が男であつたのも訣るのである。
室町時代の初期から徳川時代の初期にかけて行はれたお伽草子と、かうした歌比丘尼の為事との相違は、文字に書き現されてゐるかゐないかといふだけで、どちらも地獄極楽を説き、懺悔の物語をしてゐる点は、同じである。お伽草子のすべてとは言へぬにしても、その一方面には確かに歌比丘尼の語りごとに代ふるに文字を以てしたところがある。
お伽草子の中に、名高い七人比丘尼の話がある。懺悔サンゲ物語とも言はれてゐる。此話は、三人法師の話を模倣したのだと称せられてゐるけれども、真偽のほどは訣らない。懺悔を喧しく唱へるのは、天台の特色だつたらしいが、歌の方面でも一つの形式になつてゐた。古い小唄にも何々懺悔といふのが見える。七人比丘尼の話は、女が一生の懺悔話をするので、其はあたかも仏の前でする心持ちで人の前に発表したのである。「一代男」の歌なども、上方唄の色香から採つたらしく、やはり懺悔の一種なのである。此歌なども突然現れたものではなくて、やはり前型があつたのだ。お伽草子の中にも、単なる一生の物語と見える様なものが多いが、それらはすべて懺悔に関する部類に一纏めにして考へられる。更に古く溯れば、大鏡・増鏡なども、やはり此種類に属すべきであるが、お伽草子の中では、もつと切実な心持ちを表してゐる。
かうした懺悔の歌の方面を最近くまで持続して来たものは、恐らく勧進比丘尼だらうと思はれる。そして其は、絵解きから来てゐる。説経を今一層通俗的にしたものである。絵解きの節廻しから、お伽草子の懺悔は組み立てられる様になつたのであらう。後世、色懺悔など称せられるものがあるが、それらも皆これと同一の系統に属すべきである。一体に、懺悔の歌は、絵解きだけでは物足らなく感ぜられる様になつた為に、自分を見せしめとして、もつとよい生活をするやうに、といふ反省を促す歌が行はれたので、効果も一入ひとしほなのである。
七人比丘尼の話は其自ら既に古いものではあるが、この話から更に古くより自分の一生を懺悔して歩いてゐた比丘尼のあつたことが訣ると同時に、さうした事実が七人比丘尼の話を構成させる様になつたことも考へられる。
歌比丘尼の前が絵解きであつたことは訣るが、其前の型が何であつたかは判らない。たゞ絵解きが持つてゐる琵琶によつて、やはり琵琶法師の系統で、其は民間の祈祷をしつゝ歩いた者が、かたはら、琵琶法師をもしてゐたのであらう。
お伽草子以前には、懺悔の形をとつた文学はなかつた。懺悔の形式を以て一種の告白小説の現れたのは、室町時代がはじめで、それ以前は仮令たとひあつたにしても、無意識で行つてゐたのである。此から小さいながらも手本を見せて、もとの理想的な形を示すだけには止らなくなつた。
巣林子さうりんしの傾城反魂香にも熊野のことが出たりするのを見れば、やはり歌比丘尼の歌から出てゐるに相違ない。
歌比丘尼が直接に懺悔物語を作つたといふことは言へないが、絵解きや其前の形式をいだ者が、次第に作つて行つたものと言へるだらう。同じ仏教関係の文学でも、懺悔の形をとらないのは、出発点が別なのである。

底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
※題名下に「大正十四年頃草稿」の記載あり。
※底本の題名の下に書かれている「大正十四年頃草稿」はファイル末の「注記」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年9月6日作成
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