一 奈良の宮の御代

万葉集一部の、大体出来上つたのは何時か。其は、訣らない、と答へる方がむしろ、ほんとうであらう。しかし、私としての想像説を述べて、此迄人の持つてゐた考への、大いに訂正せねばならぬものだ、と言ふことを承知して貰はうと思ふ。
万葉編纂の時代と、其為事に与つた人とに就ては、いろ/\の説がある。併し、其拠り処となつてゐる第一の有力な証拠は、唯万葉集自身と、古今集の仮名・漢字二様の序があるばかりである。仮名序に拠ると、万葉集の出来たのは奈良の宮の御代で醍醐天皇から十代前、年数は百年余以前、といふことになる。起算点を醍醐天皇に置くと、平城天皇の時世となつて、其御代始めの大同元年まで、かつきり百年になる。処が、一代前の宇多帝から数へ出すと、平安朝最初の天子、桓武天皇をしたことになる。年数は百年以上、といふ事が出来る。処が、此文章の解釈がいろ/\で、まづ正直に、百年余といふ伝へを守り、起算点を一代前に据ゑて、桓武説を提出してゐるのは、袋冊子である。併し奈良御代といふ言葉は、度外視せられてゐる。
処が、奈良宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下の「聖武説」、栄華物語の「高野女帝(孝謙・称徳)説」の二つである。此両説は勿論、単に、仮名序から導かれたゞけでなく、学者間の言ひ伝へ、或は古今雑部の
神無月 時雨ふりおける楢の葉の 名に負ふ宮の ふる辞ぞ。これ(文屋有季)
と言ふ歌なども働きかけてゐるものと見るべきであらう。なる程、万葉集一部に収めてゐるのは、雄略帝以下淳仁帝の四年(宝字五年)までの作物である事は、此書の記載を信じれば言へる。其に今一つ、万葉集が奈良朝のものだと定めたい考へが、既に古くからあつた筈だから、かたはらかうした解釈がついたものと思はれる。仮名序に照して見ると、十代以前といふのは合はなくなる。其上、百年余の余は、ほぼ、五十年を意味してゐることになる。畢竟ひつきやう、粗漏な穿鑿に予断の感情を交へた臆断、と今までの証拠だけでは、定める外はない。
ふりかへつて、平城説が成り立つかどうかを見よう。古今の漢文序には、大同天子の代に出来たとしてゐる。此序の価値を疑ふ人もあるが、其は主として、仮名序の直訳以外に、此類の違つた記事を交へてゐることに、疑ひを挟む処から出てゐるらしい。此漢文序が疑ふべくば、仮名序も疑はなければならない。殊に考へねばならぬのは、今日の印刷せられた書物のやうに、発行年月が定まらず、幾らでも増補訂正が出来たものの写本時代には、たとひそれが、勅撰の書であつても、編纂後数回の増訂は、自由であつたはずである。現に、漢文序を信じれば、古今集の前に続万葉集といふものが、出来てゐたのである。数年の後其に、訂正を加へたのが、古今となつたのだとある。
さういふ風にして出来た古今の仮名序が、撰修上奏の際に、書かれたまゝとも言はれない上に、漢文序の如きは、可なりの年月を隔てた後に、添へられても一時に固定せなかつた当時の編纂物としては、不思議はない。さすれば、その二つの序の間に、自由な書き添へも出来る余地は考へられる。かうして、漢文の序を信じれば、続万葉が古今の前身で、古今はもと/\、万葉集の後継として作られたものと考へて差し支へがない。此続万葉集に対して古万葉集の名で、平安朝時代は通つて居たものか。菅家クワンケ万葉即、新撰万葉集に対した名とするのはおぼつかない。今の新撰万葉と性質の違うた新撰万葉集が元、あつたとも思はれるから、古今の続万葉は、其が増訂をする積りで勅撰せられたものか、とも言ふ事が出来よう。二つの序の最適切な解釈は、平城説の外にないことになる。更に脇の方から、其可能性を試して見よう。

     二 大伴家持

一体万葉集の撰者に関する諸説の中、多少確実性を持つて居るものは、大伴家持をば、大なり小なり関係させて説いて居る。
平安朝の第一代桓武天皇の延暦四年八月に、大伴家持は亡くなつた。実に、当時まで長岡都造営最中で、平安城はかたもなかつた時である。処が、翌月の事、家持の生前東宮大夫ダイブとしてつかへて居た早良サハラ皇太子が、新都造営主任であつた藤原種継を暗殺せしめられた事件が起つた。一个月も立たぬ間の出来事であつたので、彼は其謀主に擬せられて、名簿は除かれる。其子永主(或は、永手)其他が流罪になつた。此より僅か三年前の延暦元年にも、既に一度、氷上川継の乱にまき添へで、解官の上、京を構はれた事があつた。其は、直にゆるされたが、三度目のは長かつた。平城天皇の御代になつてから、先帝の遺詔として、本官に復されるまで、二十年待たなければならなかつた。
家持その外大伴一族及び、其家に出入りしたと見える人々の歌の、本集に数多く載つたばかりでなく、家持自身の手記に相違ないと鑑定すべき部分も、沢山にある。内はに見積つて、以上の部分だけが、家持の手で編纂せられたものとしても、ともかくも、万葉集に与へてゐる家持の為事は、可なりの分量がある。
本集の中、年月づけのあるもので、一番新しいのは、天平宝字三年一月の家持の歌である。ちようど、彼が死んで、大伴本家の離散した年から、二十五年前に当る。此時に編纂を終へて、公表したものとも思はれぬ。其後の彼は、多く外官に任ぜられて、延暦元年まで、殆ど落ちついて都の生活を味うて居る暇がなかつたものと思はれる。さすれば、其後の怱忙たる事情を見れば、体裁が整へられ、公表せられたらうとは信ぜられぬ。歌の性質から見ても、冷やかに客観の出来た他人の手でなくては、人前に披露する事は、如何におほらかな古人といへども、能はぬ種類の歌さへあるではないか。
此大伴家の歌集が、衆目に触れる機縁を為したのは、種継事件ではあるまいか。神代以来の旧家の沈淪の為、什器・蔵書類の官庫に没収其外の手続きで、這入つた事は考へ難くはない。さうして流れ出た大伴集が、朝廷に入つたとすれば、此迄禁中に伝承せられて来た歌並びに、古歌集と結びついて、万葉集の出来る機会が出来て来た訣である。延暦四年以後の二十年は、罪人家持の作物が公然と人目に触れる事の出来たはずはない。此点でも、桓武説は無意味である。

     三 平城天皇の性格

平城天皇が、廃太子の東宮大夫であつた家持と、どうした交渉があつたかは、想像する事は出来ぬ。ただし、皇兄早良サハラ太子の轍を踏んで、平安の新京を棄てゝ、奈良の旧都に復しようとして、失敗せられたのが、薬子・仲成の乱である。奈良の生活に憬れ、万葉の生活に憧れ、万葉びとの生活を再しようとして、遂げられなかつたのである。こゝに奈良以前の歌を集大成しようと言ふお考への起り相な一つの根拠がある。
平城天皇は、詩人風の情熱を包んで居られ、僅かながら、お歌も残つて居る。桓武天皇崩御のみぎりは、慟哭して起つ事が出来なかつたと伝へて居る。其血は、皇孫行平・業平にも引いて居る。万葉人の生活を夢み、而も歌に対して、ある好尚と才能を持つて居られたとすれば、万葉集は当然出来なければならぬ訣である。
大伴集の手に入つたのを機会に、奈良以前の歌集を勅撰しようとの企ては、どうしても現れなければならなかつたはずである。古今漢文序の平城天子の語は、至極適切な万葉の製作時代の疑問に対して断案を示して居るものと言ふ事が出来る。
本集の末四巻(十七・十八・十九・二十)並びに巻五は、誰の目にも疑ひなく、大伴集である事が訣る。併し、ほかに、少しも大伴集の匂ひのない巻々も、段々ある。私の言ふ大伴集なる物は、さうした部分までも含めて居るのではない。右の、家持及び其父旅人に関係深い巻々の外にも、家持の手を通つた物がないとは言へぬが、外に今一つ以上、材料の出し処があつたものと考へられる。
其は、大歌所に昔から使はれて来た大歌と、大歌に採用する目的で蒐めて置いた材料とである。即、古事記・日本紀に見えた外の伝説を持つた由縁ある歌謡、其から時代々々の宮廷詩人が、時々の公事の用に作つた歌曲が既にあつたらうと思はれる大歌所の詞曲台帳に載つて居たはずの物、支那の為政者・音楽者の理想となつて居た民謡に正雅の声があると言ふ考へが、我が国にも這入つて居て、在来の童謡に神道がやどつて出ると言ふ信仰と一つになつて、国風を蒐め竹枝を拾ふ試みが既に行はれて、アヅマ歌其外地方の民謡などの可なりの分量が、大歌所に集められて居たものと信じてよい。
其上尚一つ、大歌所か、官庫に保存せられて居たと思はれる各種の古歌集・個人の家集の一群が、編纂の際に、随分利用せられたものと思はれる。大体此三種が、大伴氏没落と共に、宮中で一つになる機会に接したわけである。而も、前言した素質を持つた平城天皇の御代であつたとすれば、万葉集は、まとまらなければならなかつたのである。
万葉集は、此様にしてなつた勅撰集であつたが、やつと巻一・二を撰定した頃に大頓挫が来たらしい。其為に、他の巻々は、大ざつぱな分類をつけた儘になつたのもあり元の資料の排列順序の通りにして置いた巻などもある様である。大伴集の大部分は、かうして、其儘五つの巻を形づくることになつたものと見える。
だから、撰者の如きも、大伴家持の努力が可なり、役立つて居ると言ふだけで、勿論彼を以て当面の責任とする事は出来ない。
最都合のよい折衷説は、橘諸兄勅を受けて、主任として撰定の事に与つて居たが、遂げないで死んだので、助手であつた大伴家持が、其を完成したのだ、とする考へである。併し、ほんの想像でつゞくつた折衷説で、信用する事は出来ないのである。其外、藤原浜成・藤原真楯が、本集編纂の事に与つて居る事を主張する説もあるが、皆単純な伝説で信じられない。

     四 雅楽寮と大歌所と

大歌所関係の書類が、本集にとり込まれて居ると言ふ証拠は、大伴家持の身の上に絡んで、今一つある。雅楽寮は、外国音楽部と日本音楽部とに分れて居た。この役所の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部即、大歌所は附属のやうな形であつた。奈良朝以来、雅楽寮の事を歌舞所ウタマヒドコロ(本集)或はうたまひのつかさ(倭名鈔等)と言うたが、一つ処に両部を備へて居た為に、大歌所の事をも歌舞所で表すことの出来たものらしい。家持等の公卿・殿上人が、こゝに出入して、盛んにわが邦在来の古曲を練習し、物識りの老下官を招いて古歌の伝へを聞いた趣きが見えるから、家持の蒐集した古曲及び大伴集の、大歌所とのある脈絡があつたことは伺はれる。大伴氏分散に際して、これ等が大歌所の台帳と結びつく機会を得た訣である。
大歌と言ふ名は、民謡、童謡を小歌コウタと称したのに対した官家の歌即、宮廷詩と言ふ事になる。形式の長短に関係なく、公・私の区別を大・小で示したものに過ぎぬ。其と共に外国音楽(朝鮮・支那・印度)を雅楽と言ふのに対する名ともなつて居た。両方ともに、舞を持つて居るが、雅楽は器楽が主で、大歌は声楽が大部分である。雅楽が段々盛んになるに連れて、大歌は衰へて来る。平安朝に入ると誠に、微々たるものになつて了うた。併し、日本音楽部として二百五十人からの職員を持つて居た奈良朝の様子(令)は、なか/\侮られなかつた。神祇を中心にした宮廷行事に使ふ音楽としては、神の感情に通じ易いと考へた。国語で出来た新古の詞章と、昔からのものと信ぜられた楽器とで、奏するものでなくてはならなかつた。其大歌はどうして出来たものか。此には成り立ちの新古と、其性質とから、大体四つの種類に分れる。
語部の物語の中の抒情部分、言ひ換へれば、叙事の中に挿んだある人物が、ある場合に作つたものと語り伝へられた歌が、物語から独立して、宮廷詩として用ゐられるもの。記・紀に、何振・何曲・何歌などの名で伝つて居る。
次には、恒例に使ひ慣れて居る大歌では間に合はぬ場合を埋める新作が出来て来た。普遍式なものよりも、特殊風な感情を表さねばならぬ臨時の場合に、群衆(時としては一人)の代りに、謳はれるものとしての詞章が綴られねばならぬ。初めは、謳ふ人の即興であつたものを、群衆が唱和する所から、多くは群衆の感情を代表する事になり、作者も亦、専門化した傾きが出来る。さうして、今日の歴史には、記載を欠いて居るが、宮廷詩人とも言ふべき職業詩人が出て来たのである。よし純粋に、職業化はして居なくとも、官人の中、新作の大歌を要する場合に、極つて製作を命ぜられる人が、飛鳥時代以後には、もう見え出したと思はれる。其作物は、群衆又は、一人の為の代作であるから、代作させた者の作物とか、或は無名作家の個性表現の創作とか見られる様になつて来る。
譬へば、柿本人麻呂の日並知ヒナメシ皇子ミコ尊や、高市タケチ皇子尊を悼んだ歌の如きも、実は個性表現でなく、官人の群衆の為の代作である。其と同じ意味で、人麻呂の泊瀬部皇女・忍壁皇子に献じた歌(巻二)は、悲歎を慰める為に作つたのではない。河島皇子の葬儀の為に、右の皇女・皇子に嘱せられて作つた物と見るべきで、明日香皇女を上殯ヘノアキラミヤにすゑてあつた時に、同人の作つた歌(巻二)と同じ意味で作られたのである。此から見れば、日並知皇子尊の舎人等の作と伝へて居る廿三首の短歌も、やはり人麻呂の代作と言つてよい。又、藤原宮の役民エノタミの歌・藤原宮御井の歌(巻一)などは、作者知らずになつて居るが、やはり人麻呂に違ひはあるまい。
かうして見れば、人麻呂が日並知・高市二太子につかへて居たなどゝ言ふ説は、単なる想像に過ぎなかつた事になるのである。人麻呂以前にも、我々の推測の及ばない幾多の宮廷詩人が居て、新作の大歌を作つたものと信ぜられる。人麻呂の作にも作者知らずとして伝つて居る物が多い筈である。宮廷詩人の作の、無名又嘱託者の名で伝つた時代と、作者の名の明らかになつて来た時代とがある。此二つの時代を跨げたのが人麻呂である。
人麻呂後期と、其以後の宮廷詩人の作物は、作者が次第に明らかになると共に、個性も段々明らかになり、芸術動機から出発した作物も見えて来る。宮廷詩人が必しも大歌ばかりは作つて居なくなるのである。
一面に於て、支那詩文の模倣が、段々模倣を離れて自我意識を出し、倭歌に影響する所から、芸術風な創作気分が次第に濃厚になつて来る。人麻呂も既に、其おもかげを見せて居るが、奈良朝に入ると、いよいよ著しく現れ出して、旅人・憶良の時代になると、とにもかくにも純然たる芸術動機から創作を試みる様になつた。
其が家持になると奈良朝も終りで、倭歌の上に固定が目に立つて来る。併し同時に経済状態の逼迫や、辺境の騒擾などから惹き出された落ちつきのない、安んじ難い時代になる。歌人の作物にも、其をさながら投影せざるはなかつた。家持等の歌が、固定・模倣に堕して居る一方に、感傷風の気分に充ちた、弱いながら個性の明らかに出た作物が頭を擡げて来て居る。此様に万葉集の中で、大体五つの時代を、私は考へて居る。即、大歌の三期と、創作時代に入つての二期と、それ/″\、時代々々の特徴が見えるのであるが、尚、大歌の前に据ゑねばならぬひと区ぎりの時期が想像せられる。其は、東歌が示して居る一つの姿である。

     五 東歌

万葉集巻十四全部と、巻二十の半分とは、東歌として、他の巻々の歌とは、区別が立つて居る。かうした部類の立てられたのは、当時の採風熱からである。
まづ巻十四の方から言ふと、此は恐らく大歌所の為に採集せられたものと思はれる。雅楽寮の官人には帰化人が多かつた。其祖先以来の伝統は、段々日本音楽部なる大歌所の人々の歌をも支配する様になつた。為政者が書物から得た知識として、国風に正雅な声があると言ふ理想を持つたと同時に、楽人たちは、信仰として、国風・竹枝に、多く宮廷楽に登用する値打ちのあるものがあると考へて居た。詩経の成り立ちを其儘学んで、大歌に採用の出来る小歌を採集する事が試みられかけた。此は、しばしば繰り返された事で、後の神楽・催馬楽・風俗・東遊、或は、古今集の大歌所の歌、梁塵秘抄の一部、ずつと降つて、後奈良院御撰を伝へる山家鳥虫歌の類に到るまで、大なり小なり、此目的を含んで居ないものはない。此為に当時の人々にとりわけ異郷風な感じを持たれたあづまの国に絡んだ歌ばかりで、一巻を拵へることになつたのである。
処が、天平勝宝七年になつて、新しい東歌とも言ふべきものが蒐集せられた。此は恐らく当時兵部少輔であつた大伴家持の委託で、諸国の防人部領使が上申したと思はれる防人の歌である。此新東歌の如きは、万葉一部の年月順からすれば、極めて新しく出来たものである。巻十四の東歌でも出来た時代から言へば、他の大歌所の歌と比べて、古いものとは言はれまい。大歌の中に強ひて容れゝば人麻呂後期より遅れて居るものとせなければなるまい。然るに其思想・其形式を標準として見れば、年代順をふり替へて、大歌の第一期に据ゑねばならぬ程、古風のものである。
東歌には、語法・単語の上に、当時の都の言語の一時代前の俤を止めて居る。尠くとも真の万葉集らしく見えて来る藤原宮時代のものよりは、古い形である。のみならず、其語法・言語で表現せられた東人の生活意識は、此亦一時代前の文化・思想を示して居、他の十九巻の歌と比べると、確かに直情風で素朴な発想を、張りつめた情熱を以て謡うて居る。其故、芸術の順序からして、此に宮廷詩よりも前の位置を与へる事になる。
あづまなる地名の内容となつて居る地域は、時代々々で違うて居る。実際の境界は、日本武尊の伝説に拘泥する事なく、変遷を重ねて来た。本集には、西は、足柄山を越えて遠江までも延び、東北は、奥州の果迄を籠めて居る。蝦夷の勢力の消長につれて、あづまの内容が伸びも縮みもした事であらう。あづまとは、畢竟「熟蝦夷生蝦夷ニギエゾアラエゾの国」を意味して居たのである。尤、彼等の外にも、都人・屯田の民・帰化外人などは住んで居たのである。官吏・旅行者などが、土地・人事に絡んだ珍しい話の種を都に持つて帰つては、都人をして、愈異郷風な想像を逞しうさせる。かうした見方の下に在つた国であつて見れば、採風の試みをすれば、第一にあづまが考へに浮んだ事であらう。古今集の大歌所の歌に、東歌が多く登録せられたのも、万葉時代の大歌所のした試みを其後再びしたものなる事を示して居る。
併し、古今の東歌が、ことごとくは東人の製作と思はれぬ様に、本集の東歌も程度の差こそあれ、必しも皆が皆まで、東人の作物でなく、一時の旅行者の即興や、単なる誤解から、他国の物を混へたと見えるものも、段々ある。併し、其々の歌が証拠立てる如く、あづま根生ひの歌が、言ふまでもなく大部分を占めて居る。
東歌は、創作として個性に深く根ざしたものと言ふよりも、民謡として普遍的な感情をとり扱うたものが多い。個性の強く現れて居る様に見えるものも、実は、一般式の感動に特殊の魅力を添へる為の刺戟を強調したと言ふべきものが多い。更に民謡の一の特色として、地名をよみこんだものゝ多い事である。地名に注意を惹かれるのは、他国人でなければならぬ。東歌に地名の多いのは、たまたま東歌が真の東歌でない事を証して居る、と云ふ人もある。併し、其は民謡と地名との関係に理会がないから出た議論である。民謡なればこそ地名を詠みこんで、土地に即した印象を与へようとするのである。
民謡は流行性を持つて居るから、各地に転々して謡はれる。さうして、地名だけが自由に取り外されて、行つた先々の人の口に上るのである。だから、民謡に地名を含んで居る事が、其地の根生ひでないまでも、必一度は其地に行はれて、其行はれた地方で採集せられた事を示すのである。其上、単語・語法なども其地々々の言語情調に適合する様に部分々々に手入れせられる。だから誤解から、部分け違へをした少数のもの以外は、あづま根生ひのものと言うてもさし支へのない程、其思想・其形式に於て、東人の生活に密接な関係を持つて居ると言はなければならぬ。

底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「皇国 第二七九号」
   1922(大正11)年2月
※底本の題名の下に書かれている「大正十一年二月「皇国」第二七九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年9月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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