※(ローマ数字1、1-13-21)

バルコンの上だとか、
窓枠のなかに、
一人の女がためらつてさへゐれば好い……
目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ
失意の人間に私達がさせられるには。

が、その女が髮を結はうとして、その腕を
やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、
どんなにか、それを目に入れただけでも、
私達の失意は一瞬にして力づけられ、
私達の不幸はかがやくことだらう!

※(ローマ数字2、1-13-22)

お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、
既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。
おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか?
それとも拒絶すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ?

私はもう無縁ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して?
この戀を失つた女の充溢した心に對して?
私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、
私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか?

※(ローマ数字3、1-13-23)

お前はわれわれの幾何學ではないのか?
窓よ、われわれの大きな人生を
雜作もなく區限くぎつてゐる
いとも簡單な圖形。

お前の額縁のなかに、われわれの戀人が
姿を現はすのを見るときくらゐ、
かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、
お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。

此處にはどんな偶然も入り込めない。
戀人は自分の戀の眞只中にゐる。
自分のものになり切つた
ささやかな空間に取り圍まれながら。

※(ローマ数字4、1-13-24)

窓よ、お前は期待の計量器だ。
一つの生命が他の生命の方へ
氣短かに自分を注がうとして
何遍それを一ぱいにさせたことか!

まるで移り氣な海のやうに
引き離したり、引き寄せたりするお前、――
かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を
その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。

運命の存在と妥協する
或種の自由の標本。
お前に調節されて、外部の過剩も、
われわれの内部では平衡する。

※(ローマ数字5、1-13-25)

窓よ、お前は、どんなものでも
何んと儀式めかしてしまふのだらう!
お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて
何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。

そんな風に、放心者うつけものだの、怠け者だのを、
お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。
彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。
彼は自分の肖像畫みたいになつてゐる。

漠とした倦怠にうち沈みながら、
少年が窓にもたれて、ぼんやりしてゐることがある。
少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、
少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。

又、戀する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。
身じろがずに、いかにも脆さうに、
あたかもその翅の美しいために、
貼りつけられてゐる蝶のやうに。

※(ローマ数字6、1-13-26)

部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた
星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、
飽くことなく日光を求めてゐる。
ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。
夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ!

その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、
青空そのもの――あの大いなる模範、
深さと高さと――それ以外にはなんにもない。
その空の一部を圓舞臺にして、
ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら
愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。
(朝の空)

※(ローマ数字7、1-13-27)

私達の區限くぎられた部屋に、
闇が絶えず増大させる
未知の擴がりを與へるやうにと、
屡々工夫せられた窓。

昔、その傍らにいつも坐つて、
一人の婦人が、俯向いたまま、
身じろぎもせず、物靜かな様子で、
縫ひ物をしつづけてゐた窓。

明るい壜の中に嚥みこまれたまま、
そのなかで或すがたの芽ばえてゐる窓。
われわれの廣漠たる眼界の
帶を結んでゐる環。

※(ローマ数字8、1-13-28)

かの女は窓にもたれたまま、
何もかも任せ切つたやうな氣もちで、
うつとりと、心を張りつめて、
夢中で何時間も過すのだ。

獵犬たちが横はるとき
その前肢まへあしを揃へるやうに、
かの女の夢の本能が
不意と襲つて、そのしなやかな手を、

氣もちのいい具合に竝べてくれる。
その餘のものはそれにならつて落着くのだ。
さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、
かの女自身も言はない、「もういた」と。

※(ローマ数字9、1-13-29)

忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、
あの誰も凭れてゐない窓!
慰みやうもなく、涙にむせんでゐる、
あの被覆おほひをせられたもの!

遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、
お前の姿ははつきりと掴めない。
いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、
おお、空虚の衣!

※(ローマ数字10、1-13-30)

最後の日の窓に身を傾けてゐた
お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、
私がわが身の深淵を隈なく知つて、
それをはじめてわが物となしたのは。

お前はその腕を闇の方へ向けて
私にそれを振つて見せながら、
私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを
私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた……

お前のその別離の手振りは、
永い別離の印なのではなかつただらうか?
遂には私が風に變身せしめられ、
水となつて川に注がれてしまふ日までの……

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「晩夏」甲鳥書林
   1941(昭和16)年9月20日
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年11月15日作成
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