製作の時期
兄と母に此の作集を獻ずる
自序
今この詩集を出版するに就いて自分は何にも言はないで出すに忍びない氣がする。何ぜなら此の詩にある心持の凡ては悉く嘗て自分の全生命を盡くして踏んで來た片身だからだ。一歩進めて言へば自分の詩集に自分の序を附けると言ふことは、その制作品の足りない所を補足するやうなものでをこがましい氣がするが、自分の生活は此等の詩と一々ついて離れず進んで來たものであるから、今として見ればその時々の自分の心理に立入つて考へることが出來、又その心理全體を突き貫く自分の心の祕奧、即ち自分の生れると共に持つて來た生の欲求も明示することが出來る。自分は今此の詩全體を生ませるに至つた自分の此の潜流を此の序文であらはにしようと思ふ。
一體自分は二十一の年初めて詩を書いた。それが此の詩集の初めにある『白の微動』である。尤もその前に四五回子供の時から書いたことはあるが格別書きたいと思ふやうな事はなく、寧ろ書きたいとすれば自分の頭は小説に傾いてゐた。それが卒然として或る刺※[#「卓+戈」、211-中-4]から詩を書き初めた。或る刺※[#「卓+戈」、211-中-5]とは當時日本の詩壇に起つた自由詩の運動とそれに連れて現はれた多くの諸君の作品である。特にその中でも自由詩社のパンフレツトに出てゐる福田君の『ツワイライト』三富君の詩幾篇かは僕の今迄眠り潜んで居た魂を前者は猛然と喚び醒まし、後者は底の知れない憂鬱へ驅り込んだ。自分は數ヶ月來その讀んだ印象が離れなかつた。寢ても起きても人に逢つても往來端を歩いてもその詩の暗い興奮、冷却した情熱は自分を虜にした。斯くしてその夏三つ詩を書き、それから自分の生涯の最初の破綻の起つたその年の末(明治四十二年)この『錘』に出て居る詩五篇を一度に書いた。自分は今それを自分の處女作とする。自分の一生の動搖と伴つて起つた最初の靈魂の叫び、最初の靈魂の呻きだからである。即ち自分はその年『全世界を失つて自己の靈魂を得た』。けれども自分の靈魂なるものは自分にとつて解くことの出來ない謎であつた。自分はその謎の吾が心を搾木に掛ける苦痛に堪へなかつた。『錘』と言ひ『ポオに獻ず』と言ひ『窓から』と言ひ『白の微動』『落葉』と言ひ、乃至は翌年(明治四十三年)の『冬』と言ひ『安息日の晩れがた』と言ひ『記憶』と言ひ又翌々年(明治四十五年――大正元年)の『心』と一緒に纒められた過半の作『智慧の實を食べてより』『洪水前の夜のレヴエレイ』等の凡てと言ひ悉くその心の謎の解け難い苦痛から出てゐる。
自分はそれから此の人生を凝視した。あらゆる此の人生の中に生きてゐる人間の奧底のみじめさに涙流した。そして鳴けない日陰の鳥となつて樹の中に羽打いた。斯くして『記憶と沈默』の年は過ぎた。それから何にものも書かないその翌年(明治四十四年)も過ぎた。自分は藝術を棄て友達を棄て家を棄て吾を愛するすべての人を棄てた。或る時は自分の一生をも埋沒しようとした。或る時は見知らぬ人の中に這入つて算盤を彈き、スコツプを握り、生きるか死ぬかの瀬戸際を渡りもした。しかしそれ等の中には自分の眞に求めるものは無くて自分の瀕死の病氣を得たばかりである。自分は絶望した。人生は死以外に何の目的も希望も無いのを信じた。しかも死にたくなかつた。自分は涙流して今一度生きてこの人生を見直したかつた。
ああ自分は後悔しても後悔しても後悔し盡くされぬ過去がある。吾が愛する姉と伯母は其間に死に、死ぬべき筈であつた吾は今猶ほ生きて居る。自分の究極の嘆きは此處にある。愛さるるものは愛するものを殘して死んでゆく。彼等の生に戀々とした樣は其後のものにとつてどれ位堪へ難いか、自分は彼等が殘した生の苦痛を引受けて吾が生の負擔はそれで自乘される。自分は喘いだ。じれた。そして或る時は吾が生はすつかり沮喪して一夜の内に死んだ父、姉、其他今一人の死者を一度に夢見たことがある。そして夜中に目が醒めて自分は覺えず戰慄した。吾が生は依然として矢張進むべき針路が見つからない。自分は暗黒のどん底に墜ち、夢の中に死と遭遇した。斯くして自殺の考へが又起つたけれども死ねなかつた。自分は人生は如何に苦しくてもみじめでもその將來のよくなることをその前年からその前年、その前時代からさらにその前の時代と推して考へずには居られなかつた。その太極はどうでもあれ確にその事實はさうだ。自分は如何に苦しくてもその人生を見殘して死にたくない。今死ねば暗から暗である。自分はその暗さには堪へられない。
一體自分は子供の時から考へて見ても性來明るいぼつとした子供である。過去四年間の『錘』以來の詩にも屡その厭世的な陰鬱な心持の中から吾れ知らず迸つて來るのは何等燻んだ色のない都會を歌つた詩、海を歌つた詩にある快活な樂天的なリズムである。けれども自分の心は一切喜びを封ぜられた。人生に生きるべき意義を失ひ、一切に絶望し一切を虚無と見流し、既に詩作さへ無意味だと感じて居たのだけれどもその心を裏切る生の未練が死を戀うて蟲けらのやうに生きる『墓標』を書き、食慾より以外何ものもない人生を嘆いた『フアンタジア』『鍛冶屋のぽかんさん』を書き、暗のおびえの『扇を持てる孤兒の娘』青春の衰へを星雲の中に齒がみして死ぬ生き埋めの如き自分の『一生』を書いて殆んど再び行き詰りの絶頂に達いた自分は突如として生の勢のよい『發生』を感じた。自分は生きる。發育する。今までのあらゆるものを突き放して新しい世界へ思ひ切つて飛び込む。自分の今までは死の世界であつて生きる爲めに目を開いた世界でない。生きる爲めに力を出した世界でない。自分は第一自分の肉體といふものを少しも愛したことはない。これを殺さうと思つても生かさうとして努めた世界でない。實に此の人生に自分が生れたといふことも容易ならない事件でないか。此の死の世界の中に自分がそもそも産聲を擧げたといふのも實に強い聲ではなかつたか。この世界の中に新しい一つの存在、無くてかなはぬ一つの存在を與へたのでなかつたか。ああその自分を吾れから殺さうとしたものよ。新しく發生せよ。
斯くして自分の世界を觀る目は一變した。見る見る自分の心は霜枯の草が春の日に逢つて一度に伸び出したやうに今迄に知らない世界を憧れ出し、それに向つて伸び出した。そしてたまらなくなつて聲を擧げた。これこそ誕生の聲である。産聲である。唖の子がものを言ひ出すお伽話にあるやうな奇蹟的出來事は斯して自分の一生の半途に起つた。
實に奇蹟である。生の不思議である。計り知れない吾が力は俄に目を醒まして、見慣れぬ地、見慣れぬ空、見慣れぬ人間に心が驚異した。そして今迄縮み跼んでゐた力が一齊に地下上天、周圍に對して目ざましい程ずんずん伸び出した。自分は新しく生きる。新しく育つ。今迄のあらゆる過去を肥料にして新しい生の芽生えにいみじい愛を感ずる。自分は感謝した。自分の微妙な力を感謝した。その感謝の心は『日の子』を書いて自分を彼れの愛し子、隱し子であると言つた時吾が心は言ひ知れぬ歡びに溢れてしまつた。ああ自分は何にものよりも光を愛す。光明の世界こそ吾が行く世界である。自分は涙流しながらもそれを追うて止まないだらう。永遠に追うて止まないだらう。
それからの自分は大洋の浪のやうに底を潜り、水面に浮び、底を潜り水面に浮びして遙かな岸を目掛けて進んだ。『發生』は自分にとつて稀有な吾が心の發火であつたけれども、これが吾が心の全面に動いたものでない事は、その時それとはまるで違つた『冬の日暮』や『遠い故郷』などといふ作が吾れ知らず混じて出たのでも解る。その『發生』の迸發的な歡びは『すべての友達に送る手紙』を最初のものとして一切の因襲關係、一切の古い自己を燒亡ぼす情熱となつて、今迄の自分や今迄の周圍關係を攻撃、破壞、顛覆する役目に當つた。
斯して鬪ひの上に更に鬪ひ、鬪ひの上に更に鬪ひをして、吾が心は倦ね果てるまで健鬪した。『太陽崇拜』の諸篇『自分のものとする女に送る歌』『あらし』『日本の文學者に與ふる歌』『男性の歌』『航海の歌』等はその中から出た自分の愛生の叫びである。特に自分は『航海の歌』の或る部分を最も好く。そして自分は幾度か自分で叫んだ聲で自分を勵まされてその新生の年(大正二年)を送つた。自分は太陽の子である。如何なる奈落の底へ落ちてもあの燃え上る空中の偉大崇嚴な火の圓球を憧れてやまない。自分は彼れから遠ざかれば遠ざかる程其愛着の深さを感ずる。此詩集の最後の篇『太陽崇拜』を書いた頃から見ると作のない今の自分は一段と悲境にある事は感ぜずに居られないけれども、自分は此處から燃え上る火焔の未來に於て異常である事は信じて疑はない。如何なる劍の穗先きが此處から出るか、如何なる叫びが出るか見ろ。
自分が此處まで來るに就いては感謝しても感謝しきれない人がどれ位あるか知れない。今その内でも之を出すに就いて非常に骨折つてくれた兄、自分を勵まし自分に力を與へてくれた木村莊太君、木村莊八君に感謝してこの自序を終る。吾が愛は今に解る。吾が愛は今に解る。見よ、吾が狂烈なこの愛を。
二月二十八日
福士幸次郎
[#改ページ]錘
これは全世界を失つて彼自身の靈魂を獲た人の問題である
アアサア・シモンズ
「文藝上に於ける象徴派の運動」
明治四十二年作
白の微動 ――十一月中空の輝き
並木の梢は尖り
目覺めた光は建物の角かどに
鮮かな煌きの夢を抱く
廢れた洋館の空氣の
空しい音は遠ければ遠いほど……
擦り合ふ樹林に
かすかにかかる
晝の思ひに慄ふ壁のにほひ
ああ、崩れ掛けた壁に
日光の漂ひの
輝かしく、又痛々しい
單色の顫動
冷笑の鋭さ――
亡びた空想を嘲ける色
胸もあらはに投出した
其の崩壞!
跡!
煌き、波立つ光の上を
冬の日は殘りなく
微動し渡る
錘 ――十一月
雨は降る――
暗黒の夜を絶間もなく
みだれ……碎ける――夢の音
重い瞼を開く間
闇が這ひ
幾重にも押し包む
床の上――室内
机の上にはランプがある
音もなく……
錘の底から焔が燃える
しらしらとかすれながら
せき上げる
眞夜中の聲だらうか
熟睡した病女の
さてはたるんだ瞼だらうか
音もなく……錘の底から
焔が燃える
幻惑に勞れた焔は
衰へながらも燃え上り
………………………
力なくすれすれと
燃え上り……
又夢を見る
その中に
果もなく魂は
沙漠の雨に踏み迷ふ
落葉 ――十一月
溢れ動く感銘の惱ましい
雨の氣とうす暗と――
廂を振り落つる滴の――
途切れては孕まれて
止むことのない點……點
暗い一日の生の終りに
とりとまりない嘆きの一節を
泣き濡れた唇の慄ふままに
歌聲は絶え沈む――
水の上
斷ち切れぬ命の一筋に
亂れ降る霙の闇の扉
今日もまた
塞がれた爐を前に
風に追はれて散された
牢獄と老年は暮れた!
窓から ――十一月
死ぬるを忘れた青い鳥の羽
軟い光はガラス窓を廻り
閃く林の黄色い日
落した直覺の跡を微笑み
机の香ひを嗅いで、輕く打つ時
羽擦り合せる樹の上の鳥!
歡喜のさとさで漁るに速い
其の嘴を逸し給へ
貪婪な睡眠者の樹身の蟲!
温く軟い冬眠の歌
空から落ちた神話の巨人も
此の軟い歡喜を見たらうか
廻れ、廻れ、羽蟲の群
透明な羽の香ふままに……
古い花にも似て空氣の光るのを
小歌をあげて烟の立行くままに
POE に獻ず ――十一月
Leave my loneliness unbroken!
[#ここから横組み]“Raven”――E. A. Poe[#ここで横組み終わり]
密生林の眞白い閃めき歩めば、歩むほど林の落葉を――
佇みめぐる晝中の思ひ……
一歩に一字の意味を探し
おち散る落葉の陰にも瞳を見出す時
晴れた十一月の空――
それにも優る感情の平明をおもふ
あはれこの詩は此處にも抱かれ
眞面目に色褪めた墓原を過る時
嵐のやうに渦卷いた生涯を
冷い眼で射返す――吾等!
『鴉』が翼を慄した Never more は
石に滲む冬の日の涙
君の苦熱におくれた吾等は
晴れた雪を渡る風の音!
………………………
……空しく吾等は凍り果て、た!
この慄ひ動く唇から――
「ピストルで
此の腦髓を貫いてくれ」
と言つた君の最後の詩を
封ずる事を……
記憶と沈默
おお神よ、汝は吾が愛を傷つけたまへり
ポオル・ヴエルレエヌ『智慧』
明治四十三年作
南の海岸 ――一月日向をふみ、蝋色の花をふみ
濱
砂丘
緑の海
みだれゆく日光の音の上を……
とろけて眼をつぶる
(光と、波の……)
もやもやとして白い
帆船と海鳥
……………
搖れる光に波は織られ
線は重さなり、流れ、くづれあひ
(濃厚な光と、波の……)
浮び出てはおぼれながら暑い色を抹り[#「抹り」は底本では「※[#「てへん+未」、214-下-21]り」]
水平に流れ動く日光のあぶら
(發情期のあまあましいたはむれを――)
水は岩に胸打ち
のびちぢむ海藻――
(光と波の舐めづりあひ、とろけあふ……)
岸にうちあげられた海藻
(日の熱にゆらゆらと
ひそんだ焔に
燃えるまに、ゆらゆらと燃えるまに!)
唸りめぐる臭氣
ねばねばしい蠅のむらがりよ!
(岩を浸し、砂地にふくれる
濃厚な光と、波の……)
あどけない欲望は重なりあひ
くづれあふ――南の海岸
記憶 ――一月
軒ランプもつかない場末の町を
暗い心で歩む……
片隅から――
かげのひかりは奧に浮き
暮れてゆく小川には家々のうごかない薄暗
ところどころに橋があり
落葉した並木の
一列にかさなりつゞく梢
老い朽ちたやうな嘆息の消えがたく
暗い心でただ歩む……
忙しい沈默 ――四月
混雜した温かい日光
甃石の上に息吹く
花粉のやうな塵埃の中
沈默した通行人は忙がしく
そして熱してすれ違ふ
窓から花のかざりがさがり
甃石の上をふむ群集の赤い影
褪色したしかし芳しい午前の香ひが
樺色のケツトのやうな刺激をつゝむ
折々電車の響はおどかして過ぎ去り
温く乾いた灰色の窓々は
音ある方に一心に瞳をあつめる
群集は舞踏でもする樣な足取りで
赤く汗ばんだ顏をして
日向と日陰をみだれ歩く
しかし弱々しく晴れて
塵埃の多い空
いろいろな群集の帽子にこみあつて
温い刺激がふくれる
薄白いともしび ――八月十日
蝋燭をとぼしなさい
ふかい影が落つる
焔の下に
その私の指にふれてゆく
壁の下に
か弱い幻影が眠つてゐる
私はあの日から室内を歩み
たどたどしい思ひを讀みながら
暗い廊下を眠りながらゆく
その眠りになやましい
指のあと
虚な窓に吸はれてゆく
一と時の薄白さ
冬 ――九月二十五日
かざりない生活の
町の街燈――
微笑しながら涙をふいて町の街燈
降りそそぐ柳の霙は
絶間なく甃石に咳けり
行交ふ人影は下に降りこめられて
暮れてゆく一と筋の水のひかり
とある街燈の油壺には灰色な波の
薄明かり……
斯うしてつぶやく夜が來た
薄ら寒い壁の感觸に
油の焔は河口のガス燈のやうに
降りそそぐ柳の霙は
河口の波にふるへる
薄ガラスの家守の腹は
銀の陰影に吸ひついてゐる
安息日の晩れがた ――十一月十八日
古い蝋の火のくすぼるるかなしさ
あはれ、あはれ尼達の合唱のかなしさ
安息日の晩れ方に薄ぐろい銀の錆をしみじみと
泣いてすぎゆく鐘の音
雪降りの窓のたよりない薄明り
過ぎた日の思ひ出には火を灯し
暴風が梢をわたる森の胸をひらき
懴悔の鳩尾に涙をとかして
この葬禮の夜を過させたまへ
鐘は風と一緒に鳴り、薄明りの窓のほとり
暮れよ、暮れよと尼達の暗い森の合唱
娼女 ――十一月十八日
千夜萬夜の燈明の街に
咲いてものがなしい月のダリヤ
生な眼色は燐火を吸ふ青びかり
肌着の緋襦袢にぬくぬくと、うづめるの心細さ悲しさ
ガスはかがやくとも
座敷の夢はとほく曇り
白粉にとかされた涙にぞ青白いガスマントルの疲れやう、廓暮しの疲れやう
赤い唇に寐息を吸ふ月のダリヤ
赤い唇に寐息を吸ふ月のダリヤ
人足くらい江戸町に
月のダリヤのメランコリイ
心
グレエゲルス 君のいふのが本當で僕のいふのが嘘なら、人生は生きてる價値がない
レルリング なあに人生は至極らくになるさ、たつた一つあの難物の借金取りさへ追つ拂へたらね、始終僕等貧乏人をはたつて苦しめる理想の要求といふやつを
グレエゲルス (前方を直視して)そのことでは僕はうれしい氣がする、自分の運命が何であるかと思ふと
レルリング 失敬――その君の運命といふのは?
グレエゲルス (去らんとして)テーブルの十三番目だ
レルリング へん、くだらない
ヘンリツク・イブセン『鴨』
明治四十五年――大正元年
心 ――一月二十五日(大困難に逢つた時私の胸はをどる……
かなしいかな私の心は
喜びを封ずる佛の火
燃えてひらくことなき灰の像、胸の錠――
鎖はながく苦をつづり、薄暗にたれさがる鎖
目に見えぬ精靈のあやしさに
さけぶは苦痛の日陰の鳥……)
(たえて喜びに胸ひらくことなく――
併しながら感謝します、貴方がポオを私のために得て、喜んで下さつたことを!
日陰の鳥は『鴉』ですよ
ゴオホには底まで靜かに思ふ魂がある!
ポオには底まで沈む惡魔がある!
ああ誰かないでせうか、底の底まで憂鬱に胸をひらくその兄弟――
叫ばず、嘆かず、落ちてゆく兄弟!)
Poe の Tales を贈つてくれたS――へ
音樂師 ――一月二十五日林は陰つくる程枝しげり、葉は息づき――
小鳥は太陽の下に吾が影法師を走らす
蟻はその明暗に、草の香ひに白い妄像をゑがきながら
雀の卵をかたい光る城だとまどろみながらゆく
うつつに絹の鋭どい夢を追ひまはして
世界は暗闇だと――そして光明だと指は鍵盤を走る……
幻覺の月夜 ――一月二十五日
ここに輝く月の世界
青い樹陰にもの憂い光り
過越し方に唯だひとつ叫ぶは風の林の枝
死は唯だひとつ
沈默の――
月はひろびろと青い猫
夜は叫ぶや風の林
幽靈 ――二月八日
がらんどうな心に
青白い口火は忍びやかに燃え
雪明りの中を吸はれるやうに
臆した狼はゆく
果しない沼は氷に陰くらく
脈うつ影法師は
永遠の嘆きをさまよひあるく
やがては口火も消える時
果しない沼は幽靈の柩の堂
氷の寺院――
底なき水におぼれ沈む
FANTASIA ――二月
船腹に――
足駄の齒鳴る古橋を
今はうつつに波まくら――
單調に盲人はおもふ
薄がはの銀の時計のチクタクと
船底の水をかなしみ
水底の魚のいのちは食慾の
魂をもとめる――
墓標 ――二月
淺い地蟲の亡き骸に
櫻實が熟れました
味氣ない世に葬禮の柝を叩く
醉うた女房達が柝を叩く
淫れ心の紅眞珠――キスの音
おれは死を戀ひ
きやきやと月夜烏の齒が痛む、一と夜明けた醒めごころ
葉陰の水に醉ひ醒めて
刹那刹那の涙を賣る
空耳に鳴る拍子木やキスの音を
晝間の夢に聞き流して
餓ゑる赤兒の泣き聲を
思ひ出しては耳すまし――
跫音、跫音
洪水前の夜の REVERIE ――六月十三日
警鐘が陰氣に響いてくる
永遠の夜氣はその相間にしんとした闇をたどり
檐の寢鳥はくくくと悲しさうに空氣をふるはせてなく
河口、街角、工場の屋根などが寂しい睡けに渦卷いて
私は何時からとなく寢づいて今またふと目が覺めた
蝋燭が遠い銀色の過去をちらちらさせながら燃えてゐる
しつとりと濕つた悲嘆が私の影法師を深く迷はしてゆく
ひそやかな葉摺れが空中に消えると
其のあとしんとして雨氣が窓から溢れ動く
嵐はあらゆる追憶を殘して夙の大往昔に死んでしまつたらしい
雨樋からはぽとりぽとりと絶え絶えに落つる水音
あれは何時迄も止む事なく落つる孤獨の響きだ
天井窓からはしめやかに空氣にまじる雨氣の薄明り
あれは濡れた瞳を投げる底なしの鏡だ
白い敷物は半睡の奧におしひろがり
蒼白めた鏡は悲哀の室を見つめて
この一夜の魂をまもるらしい
ああ眠つた間も蝋燭の焔をちらちらさしてくれ
ひそやかな葉摺れにうつつなく私が思ひは深い淵をばなきめぐる
ああ眠つた間も焔をちらちら鏡へうつしてくれ
ひそやかな葉摺れに消え入る思ひして私の夢は蒼白い眼を沈めてゆく
嵐は世界を靜かな涙と追憶にした
私の睡眠の底には
あふれる河が流れてゆく
私の魂はつめたく浸されて
水音に風は泣き
其の魂を開いてくれと
葉摺れは空中にそよぐ
私にはあの葉摺れのひそめきは捉へられない
胸へ落ちて來る闇黒のほのめきには果がない
水に浸されて身慄ひする梢の繁り
すすり泣きながら消えてゆく風には果がない
私の追憶は何時の間にか白い餌魚を沈めてゐる
盲ひた中を手探りで夢とうつつに歩いてゆく
雨あしがたち消えながらも何處の樹からとなく私の膚を冷してゐる時、ふと紅い珊瑚の人魚が眞蒼な腹を水に潜らせる
鏡はまたも永遠の暗となり
老年の追憶は吐息をつく
そして蝋燭の焔がちらちらする
あれは屹度物言はぬ幾千年の魚だらう
老衰者の悔や執念を悲哀の箱で胸をふさがせ
泣いてるやうな笑つてるやうな死顏を
夜長の眠られぬ夜ちらちら鏡へうつすのだ
霧雨の空洞に響きなき鏡
その鏡は三本の格子を滲ましてぼんやりと天井に涙ぐむ
半睡の室内では蝋燭がちらちらと
遠い水音や葉摺れの憂愁や其の空中に消えて行く幾千年の沈默に
銀の影を薄く壁にそよがしてゐる
何處かでは固パンをかじる鼠が練絹のカアテンにひそんで啜泣いてゐるだらう
或る温室では釣鐘草や葵や棕櫚が頭を振つてゐるだらう
あらゆる時間は青ざめた歴史を編みながら雨中を押流されてゆくだらう
休止した時計の振子は
永遠の底へ沈んでゆき
私の生命は樽のやうに冷たい空洞を流れてゆく
發車前 ――六月二十七日
低い空はぼんやりと街の灯をうつして
薄月に小雨が降り出した
夜行列車の振鈴は鳴り渡つて
一時に動みはじめる群集の呼び聲
ああ私はどこへゆく?
ぞろぞろと改札口を出る群集
かすかな眩暈からふと目がさめて
私はベンチを離れた
ああ私はどこへゆく?
ただ一人うちしをれて歩むプラツトフオオム
鎖した歎きは何時までもほどけず
ただ一人うちしをれて歩むプラツトフオオム
人混みにときめかぬ處女の胸
其の胸は病みおとろへた私の胸にある
其の悲哀は時を打つ振子のやうに
術なげに力なく時を打つ振子のやうに
思ひ出しては鉦をならす
その追憶は病みおとろへた私の胸にある
ああ、あなたは今どこにゐる?
うすむらさきに吐息する白熱燈
あなたの微笑した顏はどこにある
人影がいり亂れる蒼青なプラツトフオオム
たよりない人生に
嘆息はほろびず
世にない人に
くちびるはふるへる
さびしくも唯だ一人どこへゆく?
薄月に小雨が降り出して
ほのあかるい夜の空
さびしくも唯だ一人どこへゆく?
一生 ――六月三十日
一といふ盲人に、二といふ女盲人、悲しい生命は其の間からうまれた
四番目の扉をひらいて
五番目の椅子へ座つた
六番目の燈明に火をともし
七番目の女の死骸を鞭つた
そして八番目の打下しにがつかりと力がぬけて
神へ悲しい哀訴の手をあげた
身體は浮上るやうに淨くかろくなり
眞黒な錦襴の帷は九番目の祕密を垂らした
夢に照るらしい月夜はその中に薄青くけむつてゐる
星は覺束なげに天にひかつてゐる
十番目の吐息をすると
古めかしい記憶がしんとして行つた
十一番目の火をともすと
月光はおぼろげな火陰を搖めかした
十二番目の大理石像の背後には
私にいきうつしの老人が俯向けに倒れてゐる
眞白にしをれた薔薇は
うろ覺えの記憶をにほはしてゆく
十三番目の空中には
一つの棺が星雲のやうに浮いてゐる
悲しい一生の悔恨や悲嘆や追憶は
其處に匿れて齒がみしてゐる
捉へがたい鎖になげいて
私は十四番目の哀訴の手をあげた
智慧の實を食べてより ――七月二十四日
栗の樹の下を歩けば
ふかい落葉の中に
君の吐息たち
わたしの吐息たち
何處で鳴くともしれぬ山鳩の聲は
梢に唯だ一つ殘る黒い葉のやうにふるへる
もの寂しく遠吠えする果樹園の番犬
突然鋭く發射する連發銃の反響
遠い山脈からは雲一つうごかず
遠いあさぎ色の麥畑のそよぎまでも
日は悲しげにしんと照らしてゐる
此の時堪へきれないやうに君の暗い影は
空とぶ鴉のやうに私の胸へ落ちた
手錠のやうに箍のやうに
おもく呼吸ぐるしく私の胸を抱きしめた
ああまたしても私等は悔いるのか
あの遠吠をする犬のやうに
罪と苛責に吠えるのか
うらがれ時の果樹園に
しらじらしくもふるへる白い日の光
その薄寒い木立の奧に
犬は悲しげに吠えてゐる
鍛冶屋のぽかんさん ――七月
梨の花が眞白に咲いたのに
今日もまた降る雪交りの雨
濁り水は早口に鍛冶屋の樋へをどり込み
眞裸な柳は手放しで青い若葉をぬらしてゐる
此處の息子はぽかんさん
とんてんかんと泣く相鎚に
莓の初熟が喰べたいと
鐵碪臺を叩くとさ
手をあつあつとほてらして叩くとさ
ああ、夢ならばさめておくれ
ぽかんさん
此の世の中に多いものは
祕藏息子のやもめ暮らし
時計の針の尖のやうに
氣の狂れやすい生娘暮らし
この年月の寒暑の往來に
私の胸は凋んだ花の皺ばかり
私の胸はとりとまりない時候はづれな食氣ばかり
扇を持つみなしごの娘 ――七月
扇の中にみなしごは
白い虚な眼を閉ぢる
病氣上りの氣のやみに
まぶしく照らす赤い夕日
風にふらふらうごく雛罌粟
心覺えの兩親が心の何處かにあるやうに
所々にきらきらと清水が涌く
ああパウルのやうに嚴くて、ペテロのやうにやさしい院長さん
私が此方へ初めて來た日には
あのお天日樣目掛けて飛んでゆく鳥みたいでした
そのくせ夜になると魘れたり
泣き出したり
知らぬ他國の夢を見て
暗い廊下におびえて居たり……
すべての友達に送る手紙 ――十一月
覺醒はそれ自身でひとつの誕生だ
ひとつの新しい靈魂の生活だ
私は餘り多くない、併し親みのとりどりに深かつた友達にかう言ひたい
私は今あなた方や、また君達のことを思ふと限りなく深い負債の沼にはまつて行くばかりだ
そして今頃それを言ひ出す程
私のした事はあらゆる冒涜である
人の心の冒涜である
ああ私はあらゆる淨い氣高い土地をかうして今までむだに涜して來た
今こそ自分自身の魂からもの言はう
私は一時乞食であつた
瞞りであつた
泥棒であつた
そして苦しく蒼ざめて氣むつかしい
つむじまがりの幽靈であつた
それに欺されたのが口惜しかつたら
皆で手いつぱいに憎んでくれ給へ
私は人を欺した覺えはないが
自分が未だ生れないのを
生れたと思つた罪がある
そこで冒涜した
人の心を冒涜した
私はこの負債をいつ拂へよう
人に犯したこの罪は
一生ぬぐへまい
私には悲痛な深刻な魂が
今日を覺してゐる
よりどころのない、併し確な一歩が踏みだしてある
今までの死殼を蹴飛ばして
心から出る産聲をあげる處だ
つむじまがりの幽靈は面變りして
あかく灼熱した眼を燃しながら命令してゐる
私こそ人生に貸がある
母胎のかげでうごめいて居る
私こそまことの怖しい債鬼だ
人生の奧にその貸が匿してある
抛りつぱなしで貸つぱなしな
今まで知らなかつた手強い貸がある
まづ私は森林に火を放けて
ひとかたまりの野獸を追ひださう
苦しい惡鬼を吾れから振ひ落し
吾から肉體にせぐりあげる
深いすすり泣きの聲を聞かう
これこそ烈しい命だ
これ以上の眞實なライフが私にあるか
これこそ止みがたい魂の誕生だ
もはや冒涜でない
悲痛で不安な燈火はをやみなく明滅する
とりどりに美しく寶石はときめいて
もろもろのさびしい涙を薄暗がりでときあかす
私の心はいつもただひとつで
不思議な斷末魔の啜泣きに耳をそばだてる
私の心はいつもただひとつで
皿の油火はをやみなく明滅する
これこそ私のあげる聲だ
せぐりあげる産聲だ
魂はめざめればめざめる程悲痛になり
或る宣告が耳にとどく
私は怖しい債鬼だ
しどろもどろの影がまはりの壁にうつる
足どり亂して響きのない影が街中をふみまはる
薄白い焔はその間をやみなく油皿の中からゆらめいて
斷末魔のすすり泣きに耳を澄ます
ああ私は怖しい債鬼だ
發生 ――十一月
女よ爾の罪は赦されたり『馬太傳』
僕は別な空氣をすふ別な力を感ずる
僕自身はもう草だ
新しい發生だ
突きあたりつきあたり
そして突き破り
突きやぶり
吾等の行く先きの魂をつかみたい
途徹もない世界の果に
眞實な産聲をあげて
底力ある目玉をでんぐりかへしたい
遠い故郷 ――十一月
時計はまたも黒い點線を
つづくつてゆく
私の夢はあてもなく
だまつて空まはりをして
その長い低い街をうろつきあるく
商店の屋の棟の間からは
海色の冷たい空が
一とすぢになつて覘いて居る
並木はいつのまにか
葉を落しつくして
くろぐろと淋しい枝を張りまはしてゐる
私は心のすみからすみへ嘆息した
そして日のありかも知れぬ冬の白い空から
遠い遠い空氣を吸つた
五體にしみる遠い遠い空氣を吸つた
冬の日暮 ――十一月
吹きわたる風はとどまらず
黒いたそがれの町外れに
ガスはほとつき出す
かわいた郊外の芝原に霧はながれはじめ
とある一軒家の二階からは
ぼろんぼろんとピアノの音色がをどりだす
路にしみる日暮がたの寒むさよ
身にしみるピアノの音色よ
私はそろそろ黒い林の多い
冬の旅仕度を思ひ始めた
PROMENADE. ――十一月二十五日
私はいま波をおさへてゐる
その波の底には薄蒼い灯影の町が沈んでゐる
私は今ひとりたどる
柳の樹の下道を
でこぼこ柔い煉化道は
私の胸がをどるトーン程に
さらさらと心の隅から隅へ消えて行く柳の枝は
私の興奮した顏を撫でる夜風ほどに
唯だいそいそと足どりもの昏く
薄蒼いガラスの灯影とまた闇の中にわかれ
私のからにふる空手は
もうあの柔い手を握りしめてゐる
あの心をきうきうきゆつと捉へてゐる
友情 ――十一月
ゴールデンバツトを吸ひながら
僕は日の暮れ方の倉庫街を思ひ出した
赤く金をかすつた斷れ雲が
空いつぱいに光つて居る
一群の屋根草は同じ色に染つて光つてゐる
河沿ひの倉庫は一列になつて
掘割りの水深く落ちてゐる
その水はいつも流れず
いつも淀まず
むねもあらはにさらけ出して
冷たい嘆きをうつしてゐる
僕はそのあと二た月の間
死身になつて心を鞭つた
襲ひくる薄はだの寒さに
つねに氷のゆめをつくつた
日陰の鳥は羽ばたきして
つらい牢屋のゆめをつくつた
今こそ僕の肉體は
惡熱を病んで居る
肌身はなさず或る人の肉體を
つねに戀ひしたうて慄へてゐる
常にせぐりあげる慕ひ泣く聲を
肌に耳あてて聞いてゐる
ここにまことの愛があつた
いつも流れず
いつも淀まず
むねもあらはにさらけ出して
互に惡熱にふれあふ愛があつた
日の子 ――十二月十二日
僕はこれが美しいと一生言へぬかもしれない
愛するものも愛すると言へなくて仕舞ふかもしれない
有難いといふことも有難いと言へなくて仕舞ふかもしれない
それで僕の一生が終るかもしれない
ああしかし見えた、見えた
空中のうつくしい光が
あれあれ誕生だ、産聲だ
石も動く
木も物いふ
死顏した月に紅がさして
日になる日になる
目をくりくりさせる
鳥がさへづる
木がものいふ
闇をふき消す
世が新たになる
あれあれ
光がふえてゆく、力が増してゆく
ふらふら昇つて
落ちさうで落ちない
日は空中を昇つてゆく
だんだん呼吸をはずまして
勢ひ込んで昇つてゆく
ああこの中に吾が愛子よ
ああこの中に吾が愛子よ
お前はまじまじ何を見てゐる
お前はおどおど何を怖がつてゐる
自然はいつでもいちやついてゐる
自然はいつでもとりとめなく生きてゆく
けれども其處にまことの彼があるのだ
それに逆つて泣いててはいけない
泣顏あらはに進んでゆけ
泣きの涙でもよい進んでゆけ
恐怖を歡喜にかへて胸ををどらせろ
深く深く自然を愛しながら進め
ますます勇氣を振ひ起して進め
お前は日の子だ
冬が來ても決していぢけない
科學もいいもので文明もいいものだ
自然はいつでも宏量で
いつでも機嫌よくわけてくれる
自然は人間を可愛がつてゐる
わけ隔てなく誰へも彼れへもわけてくれる
決して自然を僕等が征服するの何のと大きな口をきくな
そんなことをいふから人間は墮落する
自分で自分の舌を噛んでゐる
永い事、永いこと怖い夢を見て暮らしてゐる
悲しくつらい所をたどつてゐる
私の愛子よ
日の子の一人よ
人間は皆墮落して
闇い嘆きの根を地におろしてゐる
またそれだけ枝葉を高く茂らしてゐる
しみじみとまがりくねつて生きてゐる
恐しい夢にうなされながら
地獄の鐘をたたいてゐる
それだけ闇を吹消す愛がいるのだ
それだけ愛の清水が涌かねばならない
闇の業火を淨めなければならない
はやく出れば出る程よく
はやく迸れば迸る程よい
強く光つていやな光を吹消すのだ
お前の力でお前の生命から
強く烈しい白光を放すのだ
それがライフの力だ
お前の愛の力だ
どこまで行つても果しなく光れ
世界は決して闇くない
ただ人々の光が足りないのだ
お前は日の子だ
自然兒だ
また文明兒だ
自然が血をわけて育てたいとし子だ
かくし子だ
自然を愛するものに
自然はどこまでも力をくれる
味つても味ひきれない程
深い生命をくれる
まことの力を感じ
まことの涙をながし
まことの底に突き當り
まことの生命に生きろ
そのほかお前に何も言ふことはない
沈默だ
太陽崇拜
來るべき詩人よ、來るべき雄辯者よ
ワルト・ホイツトマン
大正二年作
ボヘミアンの歌 ――七月八日嵐は過ぎた
洪水は過ぎた
唯だ流れてゆくのは河の泥水ばかりだ
土堤の柳の樹は
すんだ滴をたらしてゐる
砂は踏むたびにぐさりぐさりとつぶやく
土堤のくび根までだぶりだぶりと浸して流れる大河
だぶりだぶりと兩側の岸を浸して
流れる大河
おおこの空に高く飛ぶ燕の群れよ
何處をさして行くとも知れない燕の群れよ
僕は君等を見る時親しい憧れを感ずる
そのぺちやくちやしやべり交して行く聲を聽くと
つい可笑しくなつて笑ひ出してしまふ
自分はボヘミアンだ
けれども人生の底から根ざしてゐる愛がある
はてしない際涯は自分のラヴアだ
昨日のあの嵐の名殘りで白く崩れる
河口の波は
人氣もないそのあたりの葦の茂みは
愛するものの睡つてゐるたのしい處だ
自分はそこに棲家を見出す
おお河尻よ
限りもなくつづいてゐる砂原であれ
おおそこから見える海よ
限りもなく廣いをやみない動搖であれ
自分はそのまだ見ない處に
小踊りしながら進む
嵐のあとの何人も踏まない土堤の上を
はにかむやうなあたりの景色に溺れながら
だぶりだぶりと鳴る響きのよい
水音を聽きながら
あらし ――七月十九日
何人も感じない
このボヘミアンの心
すぐれた饑ゑを感じながら
歩くのである
ふきつのる夜明け方の嵐に
自分は涙を感じる
ぐるりの林は狂亂してるからだ
頭ごなしにざわだつて
西と東に吹き廻されるからだ
自分はこの涙ある力を
いつぱいに感じながら
歩いて行くのである
すぐれた饑ゑを感じながら
あるいて行くのである
自分のものにする女に送る歌 ――七月廿一日
私は君を戀してゐる
何故とも知らないけれど
自分は君に牽引を感ずる
君は馬鹿だ
盲目である
けれども君には純な魂がある
君は自分でそれを知らない
君は斯くして亡びてしまふのである
もつと生かすべきものを生かさないで
墓のまはりの草のやうに
いつか花しぼみ
みきは固くなり
年老いた女の乳房のやうに
堅い實を結んで終つてしまふのである
自分は斯くの如く君を輕蔑してゐる
吾が眼に見える美しい魂から
君のこの後の一生を見とほすのである
そしてそれに今たとしへない生のふた路を考へるのである
自分の愛は斯くの如くして君をまづしく生きる事をゆるさない
自分はもつと燃えるべきことを欲してゐる
自分はそれだけ君のとろけるやうな肉體に
體感的な愛に燃えてゐる
斯くの如く吾れを動かす君に
力強い牽引を感ずる
君はどうかは知らないけれども
君は自分に深いものを與へてゐる
自分のなすことに一々君の裏書がある
やき印がある
背中あはせのやうにこの年月過したので
君が斯くばかり自分に深かつたとは知るまいが
斯くばかり深いものが他にどこにあらう
自分はこれをむざむざ埋めてしまふに堪へられるだらうか
世界は斯くして平面である
廣い原野に日がひとつ
ぽかりと白く光つてゐる
唯だそれのみだ
聲がない
自分の君を慕ふ心は
斯くの如き沈默には堪へられない
自分は睡つても體内の血はめぐつてゐる
自分は死んでもその血は滯つてゐる
すべて血である
自分はこの血の何もなさぬことに堪へられない
血はやれやれやれと
脈管を痙攣的にめぐつてゐるのだ
ぶつかれぶつかれぶつかれと
めぐつてゐるのだ
ああこの血よこの血よ
純なるものの最も純なるものよ
自分は君にぶつかつて
この血を愛の肥料にしようと思ふ
ああ吾が胸に潜む黄金の十字架は
斯くして君の胸の中で明かなものになる
ああ十字架を感ずる
君の胸の中にである
千百人の美しい子供の魂を集めて
それを君の乳で育ててやる微妙な光や氣は
君の胸の中で生きてゐるのだ
斯くの如く君を深く見得た人はどこにある
世界三界さがしても
斯くの如く洞察し得た聖者はどこにある
神罰を恐れよ
君よ
この深い人間の根に從へ
原人時代の人間の根に從へ
原人時代の人間から將來の人間に到るまでも
深く人類に根ざしてゐるこの地下層の清水を飮め
斯くして君は幸福なのだ
あらゆる君のこじれた心が濕ふのだ
そして美しい自然を深く汲み分けられるのだ
ああ君の手を握るべき吾れよ
君の心をやがて捕ふべき吾れよ
願はくは君の手さきのみで
君全身の魂を掴め
願はくは君の最奧の心の底に入れ
斯うして微笑するのだ
どれくらゐ深いかわからない微笑
自分は斯くして君の萬事に入り
君の一とつぶ種の靈魂にふれて
わが身を君の一體にするのだ
わがなす生命の種の力は
はにかんでゐる君の美しい肉體に種まかれるので
初めて香あり音あり色ある
高いリズムある花が生れるのだ
ああはにかめ
はにかめ
この燃えてゐる私の愛の火から遠かれ
その高い煤まじりの焔をもつと嫌がれ怖いと思へ
私は君が無心な心に立ちかへつて睡つてゐるとき
君をもつとも自然に
みぢんも危ぶなげもなく
吾が手のなかの寶玉として見せる
その運命を吾が眼の前につくつて見せる
それまで君を人のものにして預けて置く
君を今の人に預けて置く
それまでも感ずる自分の心は
君の内をひらかぬことはない
いつかはその底を掴んで吾がものとするだらう
自分の心ではさう思ひながら
だんだん自分は肥つてゆくのだ
先きから先きへとのびて行くのだ
根強く人間の魂を感じながら
男の仕事をやつて行くのだ
ああ LOVE よ ――八月九日
ああ Love よ
君よ
君は僕をひきしめる
かなり苦しい箍だ
苦しいたがだ
君は今人の所にゐる
みもちにまでなつてゐる
それでも自分は
君を思ふことはやまない
君は僕が戀してる事は知つてるだらう
けれどもこれ位苦しんでゐることは知るまい
この心持は解るまい
月日もたつから消えてることと思つてるだらうが
自分の Love はちつとも消えない
そして何もない空中をひた走りに走るのだ
意志はそれだけ苦しいのだ
そして手をさしのべてゐるのだ
さしのべて日中の星を掴まうとしてゐるのだ
ああその星はどこに輝いてゐる
見えるは一面に白い空ばかりだ
まつぴるまの空だ
君の影はどこにもない
このぼんやりしたものの中に
身體を投げ出しながら
自分はどんどん産むだけのものを産んで行く
産んで産んで産み飛ばすのだ
君よ
君は一時人のものになつて居れ
自分は一時その運命を悲しむが
すこしもまゐらない
自分は出すだけのものを出して行く内に
いつか君をつかまへてやる
自分の所有にしてやる
そして君を美しい人間にさしてやる
僕の物になつてこそ君は初めて女として生きられるのだ
ただ若くあれ
おお君よ
年寄じみてはおしまひだ
若くあれ若くあれ
この人生にちよつとでも油斷したら
すぐ年をとらされる
それだけこの人生には實にいけないものがあるのだ
そして人間は弱いのだ
自分はいつでも若い
惡いものに抵抗力が強い
どんどん若い力でその惡いものを
元氣のよい命の充ちたものに
かへて行く
ああ若くあれ
若くあれ
勞働者に與ふ ――八月九日
君等に代つてこの歌を
叩きつける
君等が地盤へ
つるを打込むやうに
君等に代つてこの歌を
叩きつける
ああ勞働せよ
勞働せよ
一切がつさいまのびて
だらけて
力拔けてるこの人生に
魂吹つ込む力は諸君の腕にある
ああ歌をうたへ
歡喜するのだ
自分等の使命を
君等僕等は
この大地へ鶴嘴でぶつつける
一面なにあるとも知れない
平々凡々な
大平面盤
ここから掘り出し
えり出し
よいものを作る使命は僕等にある
僕等は斯くも貴い人間だ
僕等の貴いことは僕等はから手であることだ
裸百貫でよいものをぐいぐい作つて行くことだ
そのよい事とは何んだ
都會をつくることだ
めざましく力うごいてゐる大都會を作ることだ
白く光輝ある煙り、蒸氣を空いつぱいに充たしてゐる無數の烟突
朝の雲
大工場の都會をつくる
活溌で
力にむだのない
大音樂大音響の都會をつくる
このすばらしい使命は
僕等と君等にだけあるのだ
自分はいつもそんな事を空想してゐる
そしてこの空想は萬人の空想だと思つてゐる
實に痛切で拔くことの出來ない空想だと思つてゐる
ああ勉強なれ
わが友よ
わが兄弟よ
愉快に力いつぱいに働き給へ
君等や僕等ぐらゐ貴い人間はないのだ
僕等がなくなれば世の中は暗だ
葉を食ふ芋蟲ばかり殘るのだ
この貴い僕等の使命を感謝せよ
ああ頼母しく正直な兄弟よ
この大平面盤の上を濶歩したまへ
大手をふつて威張つて歩きたまへ
航海の歌 ――八月十日
おお殉難者
殉難者
自分は泳ぎも知らないで
泳いでゐる
自分は海中に投げこまれた
手をふり足をふり
もがいてゐる
自分は赤子である
一羽の鴎にも及ばない
死ぬのが怖くて唯だじたばたしてる
からだを浮かしてゐる
おお力出す人間
力出す人間
自分はそのうちどうやら泳げるやうになつてきた
そのうち水のまにまに流れる丸太を見つけた
自分はそれをたよりにして泳いだ
また自分と同じやうな人に幾らも出逢つてその人等と握手し合つた
自分と同じ水難者であつた
皆んな同じやうな目をくぐり拔けて來た
自分等は合力して筏を作つた
めいめい持ち寄りの丸太を集めて筏を作つた
それから永遠の潮に棹さした
帆をあげた
波は荒くとも
しけであるとも
自分等は行きつく果てまで行く歌をうたつた
おお敗殘者よ
敗殘者よ
自分等は多くの溺るる人を遠くに見た
自分等はそれを見過して行かねばならなかつた
自分等の目の前には常に大きな敵がゐる
いき引くばかり空中をあふつて來る熱風
大旋風
出づる處を知らずまた行く處を知らない敵よ
自分等はそれと鬪つて行くのだ
山から山へ波のうねりをのして進んで行くのだ
ああ目なく耳ない氷山よ
永遠に背を見せて走る潮流よ
自分等は無言の恐怖の世界のなかを
前のめりに進んで行く
おお敗殘
みじめ
底知れぬ波間に溺れゆくものよ
君等をふり棄てて行く氣は堪へられないけれど
自分等の目の前には恐ろしい敵がゐる
後ろ髮をひかれながらも
自分等は前のめりに進んで行くのだ
ああ弱いもの、まゐつてるものは永遠に振り棄てるのだ
いつ逢ふか知れない世界に離れ離れになつてしまふのだ
おお筏に折よく這ひ上がれた人は這ひ上りたまへ
棹をさし
帆をあげ
舵をまげろ
その船頭役は吾れ吾れ少數者がやつて行く
吾れらが舷燈は唯だ一つしかなく
吾れらが舷燈は船首にかかつてゐる
吾れらが舷燈は光力が鈍いが
吾れらが舷燈は行く先きを照らしてゐる
油壺の油は吾等の涙である
深かい涙である
夜の暗を照らしてゐる
斯くして永遠に吹きつのる風に逆うてゆく
暗の落ちつく先きは知らないが
斯くして進んで行く
ああ搖すれゆすれて休む間もない
吾等の筏に
夜な夜な輝く星よ
ふきつのる嵐よ
大うねりする波の回轉よ
そのたけり聲よ
夜が明けて晝になる
荒れはやむ事はない
ああその中に見る
太陽よ
吾が血を充ちふくらせるその熱度よ
空中にががんとして燃える大銅盤
おおその下をふく熱風
あらゆる生物をしをれ返へしてゆく極熱風
あるひは霰ふり
吹雪ふきちり
氷山流れ
埋葬の黒い鳥がさけぶ
極北よ
ああ吾が筏はかかる中をゆく
ああ吾が筏はかかる中をゆく
陸にゐるものは知らず
遠くにわかれわかれに溺れてゐるものは知らず
目見えぬものは知らないけれども
ああ吾が筏はかかる中を行く
ああ吾が筏はかかる中を行く
充ちふくれて行く格鬪の力を感じながら
えいえいえいと乘り切つて行く
いつかはこの暴逆な大洋を自由自在に乘り廻し
あらゆる嵐
熱
みじめ一切を外にして
氷結、睡り、死一切を外にして
強烈異常の船一艘
作る力を感じつつ
太陽崇拜 ――八月十一日
ああ太陽よ
自分は君を愛す
君は一人であつて
あらゆるものに超越してゐる
あらゆるものを愛してゐて
常に君は孤獨である
君は絶え間もなく自轉してゐる
のびちぢみしてゐる
そして進んで行く
無限に生れて無限に走つて行く
君の運行する線は
空しいけれども
君はその何もない所を
ある如く走つてゐる
君は空しくぶらさがつてゐるのでない
絶えず内から
中心から
ぐるぐる力を出してはずんで行くのだ
ああ眩しい光を放して
空間から空間へ移つて行く
君よ
めげず
出し惜しまず
燃えてゆく
偉大な運行者よ
君はひとりだ
しかも萬人を愛してゐる
常に萬物の先きになつて
あらゆる暗い影に
君の光をさして行く
ああ君こそひとりである
唯だひとりである
自分は君を崇拜する
あらゆるものに先立つて運命をひらき
常にひとりであつて
とどまる所を知らない
君よ
その行く果てを知らない
君よ
ああかくの如き運命のなかにあつて
めげず力拔けせずたゆみなく行く君よ
ゆるみない君よ
うちからうちから全面に燃えかがやく君よ
なにものも助けなく
その出す力で空中に浮び
無限のなかに進みゆく君よ
自分は君を思ふとき
ちから湧く
嵐吹き
雨じとじと降り
みじめのどん底に沈んでゐる時でも
力湧く
斯くして自分は君を崇拜するのだ
嵐の上に張り充してゐる君の力を感ずるのだ
この嵐と鬪うて行く力を感ずるのだ
やがてこの嵐を壓倒して行く力を感ずるのだ
ああ萬物の先きになつて
常になに物も手をつけない先きにつける君よ
淋しいを淋しいとせずはずんで行く君よ
ひとりの君よ
内から光となつて全身ひかり輝く君よ
自分は君を崇拜し君を讃美し
君とわれとの愛を邪魔するあらゆるものを斬り伏せて
踏みこえて
君へ行く
ああ、あらゆる人間よ
心ある多くの兄弟よ
彼を崇拜し
彼を讃美して
共々に力合せて進まう
彼を崇拜し
彼を讃美して
あらゆる艱難慘苦を踏み越えて進まう
あらゆる邪魔一切を切り離して
偉大な彼の正體と
全面と
共々に手をとりあつて生き得る所へ進まう
自分は太陽の子である ――八月十一日
自分は太陽の子である
未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である
今口火をつけられてゐる
そろそろ燻ぶりかけてゐる
ああこの煙りが焔になる
自分はまつぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ
明るい白光の原つぱである
ひかり充ちた都會のまんなかである
嶺にはづかしさうに純白な雪が輝く山脈である
自分はこの幻想にせめられて
今燻りつつあるのだ
黒いむせぼつたい重い烟りを吐きつつあるのだ
ああひかりある世界よ
ひかりある空中よ
ああひかりある人間よ
總身眼のごとき人よ
總身象牙彫のごとき人よ
怜悧で健康で力あふるる人よ
自分は暗い水ぼつたいじめじめした所から産聲をあげたけれども
自分は太陽の子である
燃えることを憧れてやまない太陽の子である
ああ自分のぼんやりした夢を ――八月十六日
ああ自分のぼんやりした夢を醒してくれた自然よ
自分を生きたものにしてくれた自然よ
水先案内の如き君は
いま姿をくらまして
自分ひとりを殘してゐる
いま自分は舵をとる
帆を張る
石炭を抛り投げるシヤベルをとる
自分は絶え間なく君を夢みながら
君の叫んだ聲
自分のかつて叫んだ聲を
また叫ばんとして海に乘り出してゐる
ひかりを慕ふ歌 ――八月十六日
自分は暗い
自分はまづしい
自分はじめじめしてゐる
自分はひとりぽつちだ
自分は行きづまつた
自分は一時めもあてられなかつた
自分があかるさを求め
かしこさを求めるのは
斯くの如くであつた自分である
それらの奧にひそんでゐる心から
今叫び出したのである
斯くして自分は永久にひかりを求めてやまない
光の子である
日本の文學者に與ふる歌 ――八月十六日
詩人小説家といふ言葉は實に厭な言葉だ
そして諸君はそのあまりに詩人小説家らしい
自分は諸君と人間同志として握手する
自分は日常生活のごろごろだ
まるたんぼうだ
このまるたんぼうが途徹もない大きな望みを懷いてゐる
それでよろしければ自分は諸君といつでも握手する
自分はどぢだ
別に新らしいものも何も持つてゐない
自分はどぢの骨張で
そのどぢを世界の最も偉大な聖人にしたいと思つてゐる
これが今いうた自分の途徹もない大きな望みだ
聖人には隨分なりたい
今は諸君の憎まれ者かもしれないが
今は諸君のうとまれ者かもしれないが
自分はゆくゆくあとは世界最大の聖人になりたいのだ
ああ自分はどぢであるが爲めに
萬事萬端まがぬけてゐるが爲めに
かかる聖人になり得る資格がある
自分はその點で今いちばん人から後れがちだがあとでいちばん進んだ人間になる
若くはあらゆる難かしいものは皆僕へ來てほどけるやうになる
人生の缺陷
躓き
災害
怪我
間のびてどうにでも倒れるもの
ほろびるもの
うらなり
ぐにやぐにやしたもの
皆確かな生命を吹きこめられる
活溌な生を感じる
彈力がつく
どんでんがへしにはずんで生きる
世界はこれまで暗いものが勢力をしめた
シエクスピアのハムレツト、マクベス、オセロ、ロメオとジユリエツト
ウオーヅウオルス、エドガア・ポオ、ヴエルレーヌ
暗い中から美しい寶石のときめきを見せたアルツウル・ランボウ
幻惑的なジヤン・モレアス
行きづまつた苦しいフロオベル
發狂したモオパサン
ガルシン
アンドレーフ、チエホフ、ソログーブ
惡魔の讃美者、死面のボオドレエル
ヘツダ、ヤルマアル、グレエゲルス、オスワルド、涙も出ない現實生活の苦痛や悲慘
すべて君等に萬遍なく包まれた暗黒の殼を破つて
光明に眼みひらいたのは僕等である
地殼を破つて出た子である
躍り出した子である
永遠に光明を憧れてやまない光の子である
どぢなる自分は斯くして世界最大の聖人になる
もつとも多く太陽を吸收する子である
太陽の子である
斯くして段々成長する
斯くしてどぢなる自分は最も光を吸收し
聖人になる
斯くの如き自分は諸君の作一切を否定する
諸君は根もない暗黒を好むから
もつと自分を突出して云はないから
きめてものにかかつてゐるから
いつまでたつても同じレフレエンだから
諸君はめいめい自分の一番欲求するものに
熱心に突つかからない
熱心の度が淺い
だから自分とは永遠に遠い
今見たいでは永遠に離れる
手を握る折りがない
握つても力が這入らない
永遠に離れる
自分はひとりになつても一向かまはない
孤立は覺悟の上だ
自分程人間を愛して一緒になりたがる人間もすくないが
自分程兎角人と離れ勝ちな人間もすくない
けれども自分はいつでもあらゆる人と手と手を握り合つてゐる
自分は人は好きだ
後ろから後ろと手を廻して握り合つてゐるのだ
向ふはさう思ふまいが握り合つてゐる
今はそれだけより出來ない
出來ないから明るみへ出て公然に握りたいと思ふのだ
自分は暗闇に埋れたものを明るみへさらけ出す
しかも美しく強くさらけ出す事が出來る光の子なのだ
しかし今自分のすることはぎらついて
厭かもしれないが
氣やみ患者が明るみを厭がるやうに
僕のする事は嫌がられるかもしれないが
自分はかまはず荒療治をして行くのだ
がむしやらに出て行くのだ
冷酷無殘にやつて行くのだ
人がまゐらうが倒れようが顧慮せず一切やつて行くのだ
地に泰平を出さんが爲めに吾來れりと意ふなかれだ
人をその父に背かせ女をその母に背かせ嫁をその姑に背かせんが爲めなりだ
爲めなりだ
だから自分はいつもひとりぽつちだが
永遠にまゐらない
君等を友にしないことで永遠にまゐらない
自分の友は道ばたの漁師や不良少年やうろつきものから出てくるのだ
自分にひとりでについて來るのだ
彼等が永遠の人間になるのだ
ああ君等よ
君等と同じ人間であつて
自分は斯くの如く君等を輕蔑せねばならないのだ
無視せねばならないのだ
自分と君等との大きな相違點は
工匠の棄てた石を家の親石にするのだ
眞理の燈を桝の下から出すのだ
一切の邪魔物をとり去つてその光をあらはにするのだ
砂の上の家を無殘に突き飛ばして
岩から新しい家を建てるのだ
どんな家かも知らない君等とはだから永遠に離れるのだ
自分もその家はどういふ家か解らないが
四方の城壁はががんとして大きく
白堊岩よりも銅の鏡板よりも堅い光つたものにしたい望みだ
屋根もわからず
鐘樓もわからず
尖塔もわからないけれども
土臺の仕事はやや出來てゐる
流動する水のやうだけれども
コンクリートより丈夫だ
柱はふらつくやうだけれども
それにかかつては鐵骨の髓も片なしにくづ折れてしまふ
ああ城だ
城だ
白くががんとした美しい城だ
この城の土臺に穴をほじくつて行く蟲のやうに
自分はしみじみとしながら生きてゐる
押せばつぶれるやうなもろさを強めるに
穴をほじくつてゐる
それに永遠の生命あるものをつめかへる
埃のやうに小さいけれども
吹けば飛ぶやうに小さいけれども
地球を負ふアトラス程の力あるものを
世界の中心に眞直に線をひいて外づれる事のないものを
そこに入れるのだ
斯くして力がある
永遠に拔けることのない力がある
自分は諸君に考へて貰ふ
海底に働いて沈沒船を引上げる
潜水夫を
彼等はハンマアを持つて船の破れ口に板をはめ
鋲を打ち
斯くして内と外との水の交通を途絶して
船中の水をポンプで掻い出して
船を水面へ浮游させるのだ
ああ斯くして船は思ひも掛けない白晝の明い世界へ出る
彼等の鋲を打つ手
破れ口をふさぐ手はのろくさいけれども
こののろくささに堪へきれなくて
腹が立つ人があつたら
自分も共々に潜水夫になれ
世界の多くの斯かる人は盡く潜水夫になれ
その高くとまつて何の彼のといふのを止してハンマアをとれ
勞働者になれ
斯くして吾が手に打つ鋲一つが船の浮ぶのを一瞬でも早めるものである事を知れ
如何にしてどんな具合で浮ぶかはいまの時として解らないけれども
吾がなす事が船を浮める所以である事を知れ
ああ水夫になれ
あらゆる人々
幾千年前からして海底にゐた人生は
暗闇にせめぎ泣き悲しみ
むだに苦しみ
暗から暗へ葬られてゐた人生は
斯くして今いづことも知れない海上へ浮び上げる人類の力を待ちつつあるのだ
光みなぎる青空のもとに
跳躍させる人類の手を待ちこがれつつあるのだ
自分は今このハンマアを握つて辛苦する
聖人になりたい
打つ鎚が常にねらひ外づれず打ちつづけられる
聖人になりたい
永遠に打ちつづけて倦むことを知らない
聖人になりたい
自分はまた彼の石に穴をほじくる
頭の固く齒の強い蟲になりたい
貪ぼつてやむことのないその蟲に
あらゆるものを斯くして食ひ亡ぼして行きたい
そして強いものを出して行きたい
斯くの如き聖人になりたいのである
山ほどある勞働をものともせずやつて行く聖人に
ああ自分はどぢである
世界最大のどぢである
斯くの如きどぢが今斯くの如きのぞみに向つて行きつつあるのである
ああ底に隱れてゐる愛のために
底に忍び泣きしてる生命のために
おきざりになつてる魂のために
世界の最もおくれたものに
片足突つ込んでゐるのである
わがまま者の歌 ――八月十六日
自分は小供の時泣蟲といはれたが
あまり泣いたことのない子だ
人が死んでも泣いたことがなかつた
ただ自分が一度あまりに馬鹿だと氣がついたとき
前後を忘れて泣いた
聲も涙も一度に爆發して來た
あれは二十歳位の年であつた
自分が若しこの時涙の味を知らなかつたら
一生眞に泣くといふことを知らずに過したらう
惡いものにぶつかればぶつかる程力が出る
負けがこめばこむ程力が出る
自分はそれだけ光を追うてやまない子だ
追ひ廻してやまない光の子だ
つまづけば直ぐ起き上る
そしてまた立直つて行く
それは眼に涙がたまつてる事はあるだらう
しかし自分は泣いてなんぞゐられない
そんな所に片時もぐづついてゐられない疳癪持ちだ
冷酷だといふものは勝手にしろ
山上の火よ ――九月
山上の火よ
爆發する淺間よ
灰色なる暴風よ
流るる如く梢を靡かせる山林よ
をやみない流動の聲よ
君は絶えず爆發する
唸る
電を閃めかす
東京の靜かな街の十文字に自分がふと立停るとき
四方に電車が別れ別れに遠去るとき
自分は君を思うて嘆息する
憧憬する
ああどこにああいふ強い力が君にあるか
爆發せよ
君よ
街を人は歩いてゐる
煙草屋の店先に三四人ひと集りしてゐる
おお爆發せよ
君よ
灰色の暴風を吹き給へ
おお自分は嵐を讃美する
都會の屋根が大雷雨の下で
青くひつそりとしてゐるのが好きだ
暗い中からぴかりとするのが好きだ
ああちぢこまれる人間よ
息を殺してゐる人間よ
目に見えない力が
僕等の眼の前に迫つてゐるのだ
暗闇にさして來る大潮のやうに
この日中に裸出してゐるのだ
おお空中よ
埃で眞白い
この中に嵐が潜んでゐる
爆發がひそんでゐる
全世界の祕密が常に隱れてゐる
自分はその大道を大跨で濶歩してゐる
どしりどしりと歩いてゐる
そして腹の底からわなないて來る歌を感ずるのだ
勢ひのよい眞に微妙な歌を感ずるのだ
ああ平原のかなたに ――九月一日
ああ平原のかなたに
夜はまだ明けない
星は霧の中にさざめき
水蒸氣は冷く叢をうるほしてゐる
わが命は濡れて渇くことなく
わが戰ひの旗は肩越しにしをれてゐる
ラツパは夜なかの夢をつづけ
兵隊は闇間に起き伏す草のやうに眠つてゐる
かかる中にわが魂は目醒めて
一線になつてゐる敵を見る
遠い睡つてゐる地平線のさきを見る
葉摺れの中にただひとりめざめて
永遠に醒めてゐる目が一つある
それが敵を見る
睡れる味方と敵の中に
唯ひとりめざめてそれを見る
白い蛆蟲の歌 ――十月二日
[#ここから横組み]“Je suis le fils de cette race
Dont les cerveaux plus que les dents
Sont solides et sont ardents
Et sont voraces.
Je suis le fils de cette race
Tenace,
Qui veut, aprs avoir voulu,
Encore, encore et encore plus.”
“Ma race.”――Verhaelen.[#ここで横組み終わり]
Dont les cerveaux plus que les dents
Sont solides et sont ardents
Et sont voraces.
Je suis le fils de cette race
Tenace,
Qui veut, aprs avoir voulu,
Encore, encore et encore plus.”
“Ma race.”――Verhaelen.[#ここで横組み終わり]
ああどうしても
どうしても
君は生命の蛆だ
どんらんな白い蛆だ
輝くはがねの兜より頭が固く
二枚の出齒はどんなものでも噛みつぶす
ああその君こそあらゆる堅いものを
美しい日のもとに輝かすものだ
天日に美しくさらすものだ
世界の光景を一變させるものだ
われはその爲めに生れて來た戰ひの子だ
かくも強い頭と出齒を獲物にもつて生れた健鬪の子だ
男性の歌 ――十一月十七日
世界中の人が苦しい顏をしてると
自分は烈しい羞恥の心が起る
自分は斯うしては居られない
斯うしては居られない
ニイチエは超人と普通人を比較して
普通人を猿として笑つた
自分が世界中の人間が猿みたいに見えると
烈しい羞恥の念が起る
自分は斯うしては居られない
斯うしては居られない
自分は人間に生れた筈だ
確かに人間として生れた筈だ
吾れにしろ君にしろまた彼れにしろ
おお彼れにしろ