A elle,
 Tu es mon guide…
    Dante(Enfers, ※(ローマ数字2、1-13-22), 140)

  著者の序
この集は私の既刊の二詩集『太陽の子』の十數篇と『惠まれない善』の全部とに、その後隨時に世に出して、未だ集として纒めてない作全部とを集めたもので、この未だ集にならない部分はその前半を凡そのところ『惠まれない善』と作風を同じくし、その後半はこれらと又變つて一種クラシツクの調を帶びて來つたものである。今この『太陽の子』初期の甘やかな感傷と『惠まれない善』の荒い激情とを、抒情詩主義リリシズム時代と現實主義時代との二段に變遷し來つた私の詩的閲歴の二期とすれば、最後のクラシツクの調を帶び來つた現在は、その第三段の變化たる古典主義時代とも稱すべきもので、この詩集は即ちこの私の作風上の變遷に應じて、三部に分けたものである。
古典主義に關してはこのイズムに關し日本在來の既定の解釋があつて、その點國典に素養薄い私なぞは斯く聲言してしまふのを自らおそれるが、現在私の作風が敢てその特色あることを指摘して置いて、それと前の時期二つのそれ/″\特色ある作とをならべて置いて、私の詩的閲歴をこゝに全部展開する。この一目のもとに私の作の諸特徴を讀者の前に供へること、これがこの集の體裁を採らしめるに到つた主意である。私の作、不人氣なる詩人、私の初めて世に出した『太陽の子』は七百の部數のうち百部も賣れなかつた。第二の詩集『惠まれない善』の公刊は、最も賣行き惡い私刊の雜誌特別號を以て宛て、之も讀者の手二三十に渡つたに過ぎない。私はこの自己の逆運を嘆くために敢てこれをいふか。否、私は自白する。私は自己の作には常に自信を持たない。また其れと同じ程度にこれを世に出す熱心を持たない。公衆? 公衆とは何? 藝術は公衆相手の仕事であらうか。私はセザンヌがわが描きをはれる畫を家の藪に常に棄てた心事をよく了解する。私にとつて制作はその瞬間出來る限りたのしまれたる生の活動の氣高い一片である。私は此歡ばしい活動のため少年の如く熱心にその制作に沒頭する。それは悲哀の絶頂すらこの活動によつて慰められる。この生の活動より來る自然にして完全なねぎらひ、それは私等藝術に從ふものゝ行ふと共に常に報いらるゝ合理の報償である。私は人氣を願はない。私は生の報いは常に受けてゐる。そして私は常に快活である。
もし私が自己の作を世に敢て出すとすれば、それは吾が悲しむごときことに悲しみ、また怒るごときことに怒り、たのしむごときことに樂しみ、悦ぶごときことに悦ぶ私のそれと心情をともにする世の隱れたる未知の兄弟姉妹を思ふからであつて、それ等の人は恐らく私の拙劣なる作の部分をも、その類似する心理からして、巧みに私の訥辯中の眞意を捉へてくれると思はれるからにある。私は隱れたるこの未知の人々が私のこの集を待つてくれる心地がする。運命の逆と私自身の不熱心よりして廣く世に出すに到らなかつた私の作を、今その最初の作より集めて便宜上三段に分ち、讀者に供へる原因は、この人々ありといふ微笑すべき理由に出づる。私は藝術の價値如何は思はない。それは思ふともその險惡にして惡騷がしい時代には耳に入らないだらうし、また吾が作にもそれだけの價値あるものが幾らあるか疑問である。藝術制作は人たる生活に與へられたる内最も微妙な活動の一つであつて、その間から生れた作は生の完全な具現物である。吾々は今完全を悦ぶ時代に遭遇してない。その隱れたる心情の世界を思ふべきの時である。
 大正八年、吾が心情を注いで生きたる年の一つ、
   そのクリスマスの夜に
東京田端
福士幸次郎
 序詩

  展望

ああ吾が幾山坂の行路を踏み越えて、
今黒白の霰の岩地輝く斷層きりぎしの上、
このわが峠路たうげぢより俯瞰すれば、
山河幾十里の展望、緑の平野白く眞下にひろがり、
微かにまなこ開く蛇のごとき銀色の河、
彼方灰色の靄につつまれたる大都會の帶見えるかたに、
地の果てに、
底びかりして地の圓い起伏、點在する森、群落する小都會の彩色圖いろどりづを、
縫ひ縫ひ遠く遠く遠く彼方の果てに走せつつある……
ああ其の果て、銀灰の靄につつまれた地平の果て、
そこには吾れらが祖國の若い首府あり、
目ざましい吾れらの時代のあか呼吸いき
芽生えの青い感情、
さしのぞく華かな生の眼、
生を愛して心にじなす寶石の胸、
若く雄々しくきよらかな青春の魂、
すべては今泥と襤褸ぼろとの大市街に包まれて、
未だ生れず、未だ叫ばず、
遙か彼方、地平の果てに、
黒煙くろけむりたち濁る地平の果てに、
おお海と平野、空と土地との別れ目に、
銀灰の靄の上に黒い突點を見せ、黒い帶を曳き、
遠く靜かに大都會は呼吸いきしつつある……

ああ季節は今初夏しよか、日は水蒸氣たてこめる中空を薄曇らせ、
光ある眼下の風情ふぜいをおぼめかせ打和うちやはらげ、
思ひ深ませるしめやかな眞晝時まひるどき
天地はさながら私、この未來を不斷に夢見るものに、
その單色にしてしつまづしい行く手のの世界を、夢ならぬ現實の世界を、
その儘、此處に語るやうである。

ああ私等の泥と襤褸との首府、
吾が可憐な生涯を小さくから追はされたその市中は、
吾が半生の鬪ひの地、吾が半生の汚れの地、
吾が十代のときからの過去と追憶を葬むる墳墓の地、
おお吾が墓は市内の到る處にある。
少年の聖なる禽獸の眼を輝かした其の最初の時代に、
次いで、絶望の闇い眼を、青春時代に、
狂氣と粗暴の眼を飛躍の時代に、
忽ち喜悦を、忽ち意氣阻喪を自己の建設の時代に、
おお吾が墓は市内の到る處にある。

ああ吾が墓は市内の到る處にある。
廓街くるわまちから突き出てゐる泥海どろうみの中の島は、
私等中學生の隱れ休む芝草の巣だつた。
青ペンキ塗り剥げた三階建ての古校舍ふるかうしやは、
吾れら二十代のものゝ不平と重荷の授産場じゆさんばだつた。
まちの東を貫く廣い河は、
人生の單調と孤獨とをはやくから教へた無愛想な死面しめん寡婦ごけである。

ああ吾が墓は市内の到る處にある。
市の中心を貫く繁華な電車街の大通り、
そこには金と白堊、青銅と硝子ガラス、瓦と大理石、
大小建築の軒並のきなみ屋根高低たかひくに立並び、立續き、
いそぐ馬、蹴魂しい自動車、疾驅する電車、すれちがひ、行交ひ、馳せ交ふ群集、
そこには午前ひるまへの赤い日、黄金きんの高屋根越しに照らすけれど、
路上の土塵つちほこりはまき上り、空中をこめ、半空を掻き濁らせ、
その灰白色な惡騷わるさわがしさを迫き立て迫き立て押しこくり、
目まぐるしくも烈しい首府の繁榮をその鈴懸すずかけの並木の上に形づくる。
ああ年少の時、私はこの目醒ましい大都會の活動に驚いた。
おお私の光明と滿足、そこにも吾が墓がある、吾が無邪氣な過去の崇拜がある、
しかし今にして思へば、この繁榮の上には襤褸の黒い大旗が懸つてゐる。
ああ花崗石の橋、濠割、並木の道路、人馬の雜沓、
そこには人間の壯麗な活動の美は見るに未だよしなく、
唯だ額青黒い群集が馳交ひ、行交ひ、すれ交ひ、
半ば濁れる大都會の華かな光を、忙しく呑む。

ああ吾が生ひ育つた市中のどこに、輝かしい精神がある、
あの瀝青色チヤンいろの惡水ひかる濠割、
日蔭少い平地の諸公園、
赤衣裳の番卒の如き諸官省、
木立の葉、土ほこりに白い社、大寺院、大學……
背低くの胴に圓屋根まるやね赤く、さながら娼妓の嬌態けうたいと髮飾りを思はせる劇場、
更に工場、會社、銀行、鬪技場、
私等の首府は之れ等大建築物を取卷いて、
ただ雜然として遠く廣く其の鉛色の手をひろげ、波をうねらせ、谿を埋め、丘につらなり、
濠をめぐり、目まぐるしくも變化なく、なく、單調に、單色に、
ああ自然を讃美する心むなしい無表情の大都會を作る。
ああ私は此の中で育つた。
此處に、此のだだぴろい市民の部落に、
私は育つた。
そこには雨の日、泥の沼遠くひろがる道路、
また風の日、褐色とびいろの手で、町を叩きふせる屋外の砂埃り、
おお櫛風沐雨の乞食の市!
わたし等は自然に鬪ふ威力のない大都會で育てられた。

ああ吾が半生の鬪ひの地、汚れの地、
今この斷崖きりぎしより遠く見て、
幾山坂の行路をかへり見れば、
鋭い追想の情、吾が眼の力を一層鮮かにし、
おお眼の前を走る多數の襤褸の市の民、貧者ひんじや酒場さかばの町、の影暗祕密の路次、
嘗つては吾れもその仲間であつた生活の、
おおその肉身の思ひある共同の生活の、
過去一切の眞とがんとの姿を今ありありと捉へ得て、
吾が未來の夢はまたこと新しくそらに浮ぶ。
8. ※(ローマ数字7、1-13-27) 16
 第一篇

  哀憐

別れてのちは、
永く哀憐の涙をこぼす。

別れみちにはうまごやしが
咲いてゐた。

その花の面影は
何時も黒い頭巾づきんをかぶつた尼僧あまの影、

日が曇ればそのあたり、
灰色の霰がしづかに走り、

日が照れば目に見えず、
昨日きのふの雪は消えてゆく。
2 ※(ローマ数字10、1-13-30)
  風見の鷄

風にせはしい風見かざみとり
草間くさまには赤いかげ這ふくづれ屋に、
オランダ服の十歳とをばかりの子が、
はねだま草のつやつやしい
あのつやつやしい黒いたま
脣つぐむ氣のほそり。

風見の鷄はせはしくも、
金具かなぐのペタルに明るい冬の日を、
一日おくる遠い遠い風。
さびしくも散歩して、
吹いてゆく風を思へば、
めまぐるしい金具の鷄、
あの金具の鷄!
5 ※(ローマ数字1、1-13-21) 5.
  幸福の日

何時でも謂ひ知らぬ惱ましい日はゆく、
幸福は古ぼけた鉛人形のやうに、思ひ出と陰影をかき消して、
またも嘆く一絃琴……。

その坂には若い檜林ひばばやしが葉を匂はせてゐた。
打續く單音の琴の音は私の過去に立ちかへり、
聞くままに草間を鳴らす羽蟲の翼の音よりも靜かに嘆く……

  風景

霙は祈祷きたうの胸を打つ景色、
雪伏す野川のがはに氷を浸し、
冷たい灰色に身をふるはす祈祷……

透きとほる北風に祈りは叫ぶ、
霧に荒野の森は漂ひ……
MEIJI 41――
 第二篇

  靈を照らす光

ああ自分は泥も呑みました、
きたない水も呑みました、
私の腹は黒く、
私の咽喉のどはやけてゐる。

ああこの中に何ものかきれいなもの、
ああこの中に何ものかしみとほるもの、
ああこの中に魂かがやくアルコール、
その泥水を油とし、
その腸を油壺とし、
暗夜あんやを照らす不斷の燈、
不滅の燈、
汝の暗い靈を照らす光たらしめよ。
地獄極樂、
夜の燈、
天魔惡鬼の、
よるのともしび、
ああ輝けよ、
輝けよ、
路しるべせよ、
輝けよ!

  昏睡

一人の男に智慧をあたへる、
一人の男に黄金きんのかたなをあたへる、
一人の男に火をあたへる。
その男は睡つて正體なく、
髮はぼうぼうとのびて、
さながら醉ひどれの如し、
泥の如し。

鳥は巣に鳴き、
風は林を吹く。
ああ眠れる日はどろんとよどんで、
今大洋の水平線上を行く。

この男に聲をあたへ、
この男をゆりさまし、
この男に閃をあたへ、
この男を立たしめよ!

  惠まれない善

自分は善を欲する、
自分は善を欲する、
何ものにも惠まれない善、
あえかな微笑、
遠い大洋のなかに涙する鳥、
帆なく舵なく眠れる船、
その黒い脣に、
齒は白く露出むきだして、
永遠の海底うなそこを行く魚の如し。

ああ波切るみよし
空映す波、
不斷に帆桁きしる風は、
目に見えぬ黒い旗の如し。

ああ何もの、
何もの、
この力あたへる眞空しんくうの内、
一物の響なし、
一物の響なし。

  死の歌

『おまへはどこから來た』とよるの葉がささやく。

『おれは冬の地平線の先きから來た、
まだの明けない土地から來た』と風がささやく。

『ああおまへの聲はすごい、
お前の聲は弱弱しく、
かすかだが、
いつまでも耳を離れない』と木の葉がささやく。

『それはさうだ
おれは死の、死のかげに坐せるものから來た。
永遠に光のない土地から來た』と風がささやく。

彼等は互ひに見つめあつた、
木の葉はそよいだ、
風はそよそよと吹いた。
彼等は耳こすりした。
接吻した。
それから風は行く果も知らず飛んで行き、
木の葉はたえ間もなく身をふるはせた。

『ああおまへはどこから來た、
どこから來た』と暫くあつて木の葉はまたそよいだ。

『おれは遠くから來た、
光のない土地から來た、
今來たもののあとへ續いて來た』と別の風がささやいた。

『ああおまへの來るのは止む間もない、
あとからあとからと續いて來る』と木の葉がささやいた。

『それはさうだ、
おれは永遠の意志だ、
行つて行つてとまる事がない』と風はそよそよと吹いた。

『おまへの來るところには寒氣がする、
おまへの來るところには氣持よい影がない、
おまへの來るところにはあらゆる生きたものが、
すがれてしまふ』と木の葉がささやいた。

『それはさうだ。だがあれを見ろ』と風はささやいた。
彼等は闇の中に目をやつた、
ひときは光をまして星が輝いてゐた、
遠い闇底に涙のやうににじんで大きく輝いてゐた。

その星は悲しまず、
嘆かず、
永遠の闇の中に一段と光をまして、
輝いてゐた、
寒空のなかに。

彼等は暫く默つてゐた、
そして再び彼等も耳こすりした。
接吻しあつた。
風はそよそよと果もなくふいてゆき、
木の葉はまた一としきり身を烈しくふるはせた。

  夜曲

離れてゐる彼女に贈る
靜かな世界で、
おれは君に語る。
ねがはくは君は永遠にわかくあれ、
ねがはくは君は永遠に微笑してあれ、
ねがはくは君は永遠に心靜かであれ。
よし眠つてゐるとも、
よい夢を見んことを。
よい夢を見てつまらぬものに、
さまされないことを。

ああガラス窓にうなる蠅ひとつ、
赤くとろ/\と沈む西日、
ああ暮るるよる
永遠のよる
ねがはくはその暗に君にあいそよく、
美しい星あれ、
底びかりする星あれ、
なつかしい星あれ。

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、
君の遊んだ濱を忘れず、
その海によな/\うつる星のごとく、
荒いうねりに影うつす星のごとく、
われは君をば思ひだす、
われは君をば思ひだす。

  幸福

幸福といふものは鳥見たいなものだ、
この廣い野原の中にゐる。
聲が聞えるのはまだしもいい、
聲も形もかいくれ解らぬ事がある。
だがこの鳥を一度掴まへたらしめたものだ、
今度は掴まへた彼れがその鳥になる。
いくらなんか出て來て邪魔したつて
もう駄目だ。
芥子粒けしつぶのやうに小さくなつて、
とつくに向うを飛んでゐる。

  嵐の中で

嵐に打たれてゐる人間はいふ、
おれは嵐の中だ、
おれのまはりは眞暗だ、
この風はどうだ、
だがその一陣の疾風の上に、
嵐雲あらしぐもの上に、
一羽の金の鳥が流れる樣に平圓を描く。

  熱を病んでる星

私は天上で無類の星だ、
綺麗な星だ。
だが自分はいろんな病ひにせめられてゐる、
むしむしした天上の惡熱だ!
ああ毒ガス!
だがこの毒ガスの中に渦卷いてる
この苦しさを見ろ。
毒ガスにたたられてゐるのだ、
この黒赤いまはりの空氣に。

ああおれの赤くいき苦しい光が見えるか、
熱にをかされてる赤い光が見えるか、
それはおれだ。
おれは默つてゐる。
依然として默つてゐる。
しかし之れはいいのだ。
おれは段々高熱に惱むだらう。
しかし之れは今迄病まないでゐた時より、
よくなつてゐるのだ。
おれは病むだらう、
今迄よりもつと高熱が出るかも知れない。

おれは今迄冷たい空を歩いた、
おれは太陽の光を反射したばかりであつた、
だが自分の光を出さずにゐられなくなつた、
ああおれのまはりは何て寒いのだらう。

  泣けよ

自分は君が泣くことを許す、
自分は君が泣くことを許す、
ああ泣けよ泣けよ、
汝の魂はその涙に洗はれん、
汝の心はそのために、
暗底やみぞこの星の如く雨にぬるゝとも、
しめるとも、
更にそれによりて光をまさん。

ああ泣けよ、
泣けよ、
汝の心の底より汲み出して、
涙なきまでなけよ。

汝の涙はかわくことなし、
汝の涙は海より出づ、
汝の涙は雨後のすきとほれる海より出づ。

ああ泣けよ泣けよ、
汝の自然のために泣けよ、
われは泣くべきものに泣かざる人を愛せず、
嵐のあとのきよき野の如き顏せざる人を愛せず、
ああ泣けよ泣けよ。

  誰が知つてる

おまへは愚鈍な木である。
葉はしげり、
梢はのび、
春が來れば、
花が咲き、
鳥も來て鳴く。

だがおまへは愚鈍な木だ。
いくら花が咲いても、
鳥が來て鳴いても、
葉が茂つても、
梢が延びても、
おまへは愚鈍な木に違ひない。

だがこの木が、
あの底光りする天上の一つ星を見てゐるとは、
誰れが知らう。

あの凄い底びかりする星を見てゐるとは、
誰れが知らう。

  曲つた木

或る木は若木わかぎのときしびぐすりをのまされた。
彼れは一生花も咲くことなくひよろりと大きく伸び育つた。
そこで通りかゝりの人間は變つた木だと、
その高い梢をながめた。

ところが不思議なことから、
梢に一つ花が咲いた。
ほんの小さい形ばかりの花だ、
そこで奇蹟が始つた。

彼れは舊來の毒血どくちに謀反をおこした、
そして身をもがき出した。

彼れには今二つのどちかが必要だ、
この過去の怨靈をんりやう嘔吐おうとするか、
またはこのしびぐすり以上の毒消し藥を飮むか……

だがさうしてる内に冬がやつて來た、
そして雪が降つた、
どんどん降つた、
眼もあけられない位降り込めた、
一と月も二た月も……

彼れは舊來の毒のきゝめで方々の節々ふしぶしが凍るやうな痛さを感じた。
何だか膸のあたりがすぢをひいて痛み出した。
しかし心では重々しく思つた、
――ああ盛なる自然よ、
このどんどん降る雪のすばらしさよ。

  被虐待者

寒む風のなかで私は幾人かの借金取りに逢つた。
どれもこれも業突く張りだ、
無理矢理おれから財布をとり
着物をとり、肌着一枚にした。
やがてその肌着もとつて自分を丸裸にした。
(おお烈しい吝嗇坊けちんばうどもよ
 取ることより知らない人鬼達よ
 最後の一匹まで逃しまいとする虱取り!)
さて此處でおれは丸裸にされて鳥渡することに困つた。
何だか平常ふだんと勝手が違つて鳥渡の間途方にくれた。
ところで傍に河があつたのでいきなりそれへ飛込んだ。
借金取りはびつくりして暫時あつけにとられた。
その間におれはずんずん泳ぎ出した。

やがて彼れ等はうしろから不意に喝采した。
今おれから取つた肌着股引着物を振つて喝采した。
だがおれはそんなものには目もくれずずんずん泳いだ。
(そんなにおれのする事が面白く見えるなら、
 ちと君達もやつて見ろ!
 若くはこの寒ざらしの風のなかで、
 せめて眞裸まつぱだかにでもなつて見ろ!
 だがこれだけは考へて置け、
 おれのする事は眞面目だが、
 君達がすると醉興になるといふことを!)
ああ身を切るほどつめたい河水を對岸むかうぎしを目あてにして、
あの雪に埋れた對岸を目あてにして、
おれは泳いで行く。

あああの對岸むかうぎしの美しいことよ、
向うの景色の鮮明なことよ!
私の心臟は寒さと四肢てあしの烈しい動きと、
それにまたこの美しい景色を見る感動とで、
つぶれるやうだ。
それでも私は泳ぐ、
なほなほ泳ぐ。
溺れるか乘り切るかそれは知らぬ。
唯だ私はこの胸に脈打つ心臟と同じく、
動き出したら止まない力で前へ前へと泳ぎ出す。
3 ※(ローマ数字12、1-13-55)
  冬越しの牧場

千年を千度せんたび重ねてわれ等祖先のうへに溯る、
私は太古の穴居時代の夢を見た。
幾千年は瞬くまにすぎて、その鐘乳岩の壁かがやく洞窟で、
私は最後に見つけた、ああ、その一とつまみの青草を!

いま私は現實の野外にゐる、
そこには冬越しの青草が可愛げもなく色褪せて生えのこる。
しかしこの草がいつか桃色の花咲くときを感じて、牧場の柵に今いつまでもいつまでも倚つかかる……。

あたたかく春風は吹いた、
雪はとける、
日は赤い。
3 ※(ローマ数字10、1-13-30) 10
  小さい花

灰色の季節、
鉛色なまりいろの雲、
白いこなのやうな雪がチラ/\降り、
そしてその雪で包まれた野原に
あかい小さい花が咲く。

おお紅い小さい花が咲く、
その花に私はものをいふ、
お前は何時生れ、
何時育ち、
何時蕾をもち、
そして何時その眞中まんなかに黄色い蕋を持つ小さい花を開いたか。

私は旅人たびびとだ、
私はひとりぼつちだ
私は灰色のながい季節を迎へ
鉛色の雲を上にいただき
身にはチラチラと粉雪を受ける。

ああ赤い日が霧のなかにおぼれてゐる。
風は泣くやうにそよそよと吹く。
そのなかにお前は瞳のやうに咲く。
5 ※(ローマ数字6、1-13-26) 13
  天上の戀

曉の眞蒼まつさをな空のうへに、
赤い雲が一と切れ浮んでゐる。
地上には嵐が吹いてるが、
人は未だ覺めない。

私は寢轉んで、
莨をのんでゐる。
布團の上にゴロ寢をしてるが、
まるでどこかの草原にでも寢てる樣だ。
屋根屋根は灰色はひいろで、
空はまつさをで、
その中に赤い雲が一と切れふはりと浮んでゐる。

その時私の心の中で蟲の樣なものが一心いつしんに鳴いてゐる。
――ああ、戀だ、
もつともつらい戀だ!
さうに違ひない、
暗い、
盲目まうもくなもの、
耳にぢぢぢ……とひつきりなく鳴く。

――ああ、戀、
戀!
私はこの美しい、嵐の中の眞蒼な靜かな天、
綺麗なヒステリーの女の眼のやうな天を、
今戀してるのだ……
5 ※(ローマ数字6、1-13-26) 21
  番人の娘を戀ふ

お前の心にゑりつけよう、
私の心の底の文字を……
お前はそれを讀むか、
ああ黒い吾が夜々よなよなの夢よ。

わが夢は夜毎その字の意味を解き聞かせる。
ああ斯うしてつもりつもつた幾夜、
或る晩窓を開き、
遠くに光る星を見、
暗の中に搖れる樹を見、
つきなんとしてるお前の家の
有明ありあけともしびを見る。

ああこの闇の庭に來て鳴け、
可愛いい雌鹿。
ああこの闇の庭に來て鳴け、
可愛いい雌鹿。
お前の夜をともしを離れて、
吾が庭へ來て鳴け、
お前、可愛いい雌鹿。

ああうれし、うれし、
お前に此の心の文字をゑりつけよう。
ああ夜毎の夢にあらはれる文字、
心の奧底にしまつてある私の文字、
それをお前の心にゑりつけよう。

  荒廢

荒い雲のなかに
隱されてる月は、
深夜の灰色の都會を
何と見るか。
とどろに吹きまはる疾風はやては、
遙かな地平線に落ちて行つて、
そこには黒い空、
もの寂びしく眠る屋根屋根の果て、
ああ下界は銀灰色ぎんくわいしよくに輝く太古の動物の背にも似て、
その歴史ない歴史の世を追想させる。
この中に私はあり
胸にふいごのごときくわつ/\とした火を蓄へ、
聞くものは風に鳴る屋根、
時折り遠くで吠える犬、
ああその犬よ、何といふけたたましくも淋しい聲ぞ。
5 ※(ローマ数字10、1-13-30) 20
  一人の旅人

お前を思はず秋となつて、
今はた思はず、戀を、
ねたみを!
華々しい秋口あきぐちの烈しい日照り、
濃い青色あをいろの屋根越しの木々の、
涼しい風に搖られる午後ひるすぎ

時は過ぎて行く、
はためく店々の日覆ひ。
わが行く方に
いかめしくも美しい冬の、
われを待ちつつ
豹の如く覗ふ。

ああわたしは一人の旅人たびびとか、
たえずひとびれた往還を歩み、
彼方かなた廣い空にわだかまる銀の雲を、
目がけて歩む、
ひとりの旅人か。

  獵師

ああ、地に敷いた落葉おちば
そそり立つ骨まばらな老木おいき
いま私は銃を手にして、
鳩でもない、山鳥でもない、
その梢に鳴く頬白を射てやらうと、
なぜか鐵砲をむけてゐる。

ああ、なぜ小鳥を射る、
そのうつくしい聲の主を?
その聲があんまりよいもんだから、
私を魅いてしまふんだから、
原あり、
透きとほつてるたまり水あり、
木あり、巨大な枝をさし交してる老木おいきの林があり、
白い雲のなかに見える瑠璃色のおだやかな空あり、
枯れ草日に輝く草の床あり、
その景色にあの小鳥の聲があんまりするどく、心持よいもんだから
わが心に頭をもたげたいたづら心が、
お前ののどをねらはせたのだ。

私はお前を打ちはしない、
ただお前がこの野原一面の沈默を破つて、
不意に囀り出すとき、
私はそのするどい心持よさに釣られて、
無心に銃の筒先きをむけるのだ。
あゝするどい秋の野の朝景色、
この世はなぜに斯うもうつくしい。
5 ※(ローマ数字8、1-13-28) 26
  船乘の歌

黄金きんの眼をむく般若はんにやの女王は、
邪慳でもない、意地惡でもない、
もつて生れた闊達な氣象で、
よこ波あびせて打つ船舷ふなばた
船はどんどと太鼓打つ。
寢てゐるおれ達をあやすかの樣に、
みんなに子守唄でもうたつてくれるかのやうに!

ほんとに考へて見れば昨夜ゆうべしけもあれはしけでなかつたのかも知れない、
あいつの烈しい氣まぐれに過ぎなかつたのかも知れない。
うるしなす暗間やみまを吹きまくつて行く疾風はやて
横沫きなす雨、
おれはその中で甲板を洗ふ波を見た、
波にさらはれた一つの人影を見た、
煙突から吹き散らかす火の子を見た、
斷末魔の病人のお祈りの手のやうに、
無神經に暗間にふられてる二本のマストも見た。

あれはいま皆どこへ行つた、
夢である、
消えてしまひ、しかも胸にいつまでも實在する惡夢である。
夢は實在する、
そして人生は常に變轉する夢にほかならない。

おもうても汗が出る、
あの暑くるしさ、
朱線の印度航路、
紅海の熱湯浴、
あれも夢である、
ただのこる、
あのいきれだつた大氣の心ゆくばかり抱きしめた感覺、
フランス女の淫賣婦ぢごくにもまさるあの抱きしめ樣!

海はおれ達をいだく、
おれ達をふり動かす、
おれ達をキツスする、
ときには脣を噛む、
咽喉をしめる、
狂氣的に、猛烈に!
ところが今はまた凪いでゐる、
魔睡的な海、
夢見ごこちの海、
おれ達を靜かにあやし、
おれ達を靜かにゆすぶり、
おれ達を靜かにうとつかせ、
おれ達を靜かに熟睡へおくる。

凪いだ空には神でも居睡つてゐさうだ、
ただ青くひろびろと光いつ杯に漲り、
中天にポカンと輝く晝の日の黄金きんの、
おれはその黄金きんのみでない、
そばに輝く日中の金星も見つけた。

ここでおれ達船乘りの哲學を一つ語らう。
陸の世界は固くるしい、狹まくるしい、重くるしい、
おれ達船乘りには人生は善いもない、惡いもない、
も一つ上手うはて得體えたいの知れないものだ、
色氣いろけのない男まさりの處女きむすめの女王、
美しく凄いアマゾンはおれ達のおしゆだ、
おれ達の女主人は蟲の居どころ次第で天氣が變る、
なほまたどんな淫婦のたらかしにも、
どんな毒婦の殘酷にも、
どんな娼婦の陽氣にも、
どんな威嚴のある女王の表情にも、
負けない神通自在の變化を持つてるのは、
おれ達の女主人をんなしゆじんだ。
嵐、
熱風、
荒くれた土用波、
無風帶の脂を浮かした水平面、
無人むにんの白い塔を押し流す寒流かんりう
その極地の沿岸をあらふ三角波さんかくなみ
おれ達の女主人はこの光景のなかをも出沒する。

陸の人間界には律がある、固定がある、
おれ達船乘りの一等恐しいのは之れだ。
生命は不斷に流れる、
過去は夢の閲歴えつれきだ、
未來は霧である、
そこでおれ達の生涯も冒險的生涯だ。

もし人間がいつまでも若い氣でゐたいなら固定するな、
變現きはまりない海の女王を見習へ、
命の全額をお賽錢に投げだして、
自分の守り本尊にしろ。
おれ達は海に苦しめられるが海を憎まない、
しかし陸では法律に惠まれながら法律を憎む。
陸には教師はゐないが、
海には立派な導き手がゐる、
嵐はその鞭だ、
波はその接吻だ、
風は搖り籠のその白い手だ、或は臭い髮の毛をかいてくれるその櫛だ。

そして凪ぎ!
凪ぎは慈愛に充ちた美しい目の凝視だ、
おれは陸上の口八釜しい虚榮坊みえばうの道學先生を憎む、
人生は善でもない、惡でもない、
そんな詮索だては此處では通用しない、
此處では命の流れである、
實在する夢の貯蓄である、
未見に對するあこがれである、
慈愛に充ちた海はおれ達を抱く、
おれ達をゆする、
おれ達をキツスする、
ときには脣を噛む、
咽喉をしめる、
狂氣的に、猛烈に、

ところが今はまた凪いでゐる、
魔睡的な海、
夢見ごこちの海、
おれ達を靜かにあやし、
おれ達を靜かにぶり、
おれ達を靜かにうとつかせ、
おれ達を靜かに熟睡へおくる。

晴れやかな空には神でも居睡つてゐさうだ、
ただ青くひろびろと光いつ杯に漲り、
中天にポカンと輝く晝の日の黄金きんの、
おれはその黄金きんのみでない、
そばに輝く日中の金星も見つけた。
5 ※(ローマ数字12、1-13-55) 14
  この殘酷は何處から來る

どこで見たのか知らない、
わたしは遠い旅でそれを見た。
寒ざらしの風が地をドツと吹いて行く。
低い雲は野天のてんを覆つてゐる。
その時火のつく樣な赤ん坊の泣き聲が聞え、
さんばら髮の女が窓から顏を出した。

ああ眼を眞赤に泣きはらしたその形相ぎやうさう
手にぶらさげたその赤兒、
赤兒は寒い風に吹きつけられて、
ひいひい泣く。
女は金切り聲をふりあげて、ぴしや/\尻をひつ叩く。
死んでしまへとひつ叩く。
風にあばかれて裸の赤兒は、
身も世も消えよとよよと泣く。

雪降り眞中まなかに雪も降らない此の寒國かんごく
見る眼も寒い朝景色、
暗い下界の地に添乳そへぢして、
氷の胸をはだけた天、
冬はおどろに荒れ狂ふ。
ああ野中の端の一軒家、
涙も凍るこの寒空に、
風は悲鳴をあげて行く棟の上、
ああこの殘酷はどこから來る、
ああこの殘酷はどこから來る、
またしてもごうと吹く風、
またしてもよよと泣く聲。

  發狂者の獨り言

戀は死よりもするどい、
悲しい玻璃はり木立こだち浮模樣うきもやう
ほがらかな空、涙まじりの小鳥のおしやべり、
『御早やう、今日も御天氣で御座います……』
それつきりの沈默、玻璃のフラスコ壜、
化學者が或る夜、紫の星を見た折り不圖感じた物思ひから、
入れた朱斑あかぶちの目高魚一疋……
『ああ何ゆゑのこの朱ぞ、
トランプのハートの黒い變色へんしよく
品川沖の外國廢船の赤錆あかさび
此の胸の奧にひそむ云ひやうない苦しさ、
死の感激……』

朝風吹いて庭の枝々きしめけば、
君は天から天女てんによのやうにふはりと飛んで來るかと思ふ……。

 第三篇

  感激

空しい月日のぴんぴんいとひき車、
古手ふるての『人生觀』がこほんこほんと咳をして、
さて金錆きんさびのした嗄れ聲、
――感激とは萬朶の火の花だよ。
東洋の毛脛あらはな蟻の國
ながいものには卷かれる國粹保存主義、
金甌無缺のわが帝土に
おう、お、わたし等の生涯はつねにずぶずぶ水浸し!

青年、青年、火の信仰、淨い熱、
わが眼は空かける大鳥のごとく此の墮落の國を俯瞰し看破しよう。
わが守り神、晴れやかな天、白い雲。
萬づ物みな新らしい芽生えの春、
わが心涸れしなびたれど、之れ思へば、
つねに死なず。

  感謝

わたし共にもやがて最後の時が來て、
この人生と別れるなら、
願はくば有難うと云つて此の人生に別れませう。

灰色の粉雪こなゆき、七むつかしい顰めつ面の迷ひ雲、
雲は下界のあらゆる聽覺を障ぎり、
老と沈默しじまと追憶の、
ひとりぼつちの古美術品展覽會、
ああ、世のつんぼの老博士、無言教の寡婦さん、
子に先だたれた愁傷な親御達!
あなたがたの悔や嘆きもさる事ながら、
願はくば死ぬ時この人生にお禮を云つて御暇乞をして下さい。
それは慥かに人生に對する寛容の美徳です。
惡に報いる金色の光り放つ善です。
生はそれぐらゐ氣位高く、強く、明るく、
情熱を以つて、
鏡のごとく果つべきです。

  禮儀

A MME. GOFFOUSIEUX.
はだかばうのわたしの心に、ああ天よ、花の紋うつくしい緑の晴れ着を與へたまへ、
わたしの眞率な心はこの氣高い『禮儀』にいままで心づかなんだ。
ああ五月! 五月は野の林にの白い花咲く月、
空には夏の威勢をはやも見せたる雲の Warriojsウオリアス の兜のかげほの見えて、
初夏はつなつにふさはしい滿目の輕げな裝ひ、
その白皙人の瞳に似た青い空……
水色の絹地におなじ水色レエスの刺繍ぬひとりあるパラソルかざした彼女を先立てて、
その懷しい後影を見まもり進み、
青麥の畑路、垣根路、崖上の路をつつましく歩いてゆくとき、
このごろうちしきりに思ひに沈み、言葉少なになつた吾が心は、いしくも此の『季節』の裝ひに眼が觸れはじめ、徐々に感嘆の胸をひらき、幾度か立止つた、ああ御身美しい五月の野よ!

思へばこの永の年月としつきいつも裸にして傷つき易く激し易かりし吾が心の木地きぢ
その裸なるをよしとし、露骨むきつけなるをよしとしたわが心の木地きぢ
ああこのわが心に以後御身の緑の晴れ着を與へたまへ、
おお天よ、美しい五月よ、
御身のすがたにあやかり、美しく心の裝ひして御身にむかふのは、
人のなすべきよい『禮儀』である。
おお、御身の容にあやかり、美しく心の裝ひして御身にむかふのは、
人のなすべきよい『禮儀』である。

  哀歌

また鶴が自ら長い線を空につくり、彼等の哀歌をうたひつゝ行くごとく
ダンテ『神曲』地獄篇第五曲
脣、抱擁、ああ八月の花に時ならぬ氷雨ひさめの雲の來襲!
花は見る間に振りおとされて、その白い花瓣を全身にあびた喪心の木二つ、
さながら地獄の骨まばらな木にも似て……

ああフランチスカとパオロ、
渇ける口に火の呼吸いき
とざせる胸にじやうのたかまり、
御身等おんみらは死んだ、
嫉妬の黒い鋼鐵はがねつるぎ

それは恐らく私が夢見るのである、傷心の風俗畫ミニアチユル……
疾風はやてきめぐる地獄の空を、
顏見かはし相倚る二つの影。

ああフランチスカとパオロ、
戀の火の灰、
ふりそゝぐ雨、
御身等おんみらは死なぬ、
今の世にもそれあり……

  騎士

Ma jeunesse ne fut qu'un t※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)breux orage,
Travers※(アキュートアクセント付きE小文字) ※(セディラ付きC小文字)※(グレーブアクセント付きA小文字) et l※(グレーブアクセント付きA小文字) par de brillants soleils;
Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,
Qu'il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.
Charles Baudelaire.
わがあらはな胸が初めて君の赤い脣をうけ、君の脣を押しあてられた一瞬時、
わが二十幾年の孤獨の境涯底ふかくめられた黒い鐵櫃は、
奇しくも黄金わうごんの十字の紋章かゞやきいだし、感激にめくるめく一使徒がバプテスマの河をよろめき足して岸に這ひあがるごとく、
わが多端にして光あふるゝ未來の陸地をかへとわたしはよろめき押しだされた。

敗殘のわが旗を新しく染め、黄金の色燦たる十字の紋章をしるし、
今わたしは君の前へと敬虔にひざまづく裸の騎士、
戀は快樂でない、心の輝きである、おゝわが胸よりこの神を放したまはざれ!
胸に感激のこの火花ひらめき出でしときわが鼓動の鳩尾みぞおちに君の脣はこれを感じたまうたか。
今世界は黒い旗をおろし、青空の幕をかゝげ、その中天ちゆうてんに仰げとばかり、
破るゝがごとき光こぼつ日を照らし出した、ああこの最初のキス。

  鵠

狂はしい位魅力ある海の彼方かなたを遠くにかいま見つゝ、
その金剛石ギヤマンに輝く空のひかりを、
 (彼處かしこにはよい國あり……)
いま見くらべて悲しみ嘆くああ眼下のわが古巣の土地、
そこには起伏する山河さんか幾百里のうねり、
たはむれる獸、遊ぶ鳥の影ひとつ見えぬおびえの國、
ああみづかきの赤い脚さへおろし得ぬ土地に今空より優しい聲をおとし、
御身等おんみらのよい心のために祈らう、くぐひの鳥、

ああ祈らしめよ、祈らしめよ、この人生の逆風に吾が弱い心のまた吹きおとされぬやう、
ああ祈らしめよ、祈らしめよ、片羽かたはねおとして死身しにみに飛ぶ『生』の險路のまた突きやぶれるやう、
 (わたしは微笑ほほゑみを欲す……)
そしてあまがけり、青い空をゆき、御身等おんみらのうへに、
この胸にひそむ火の叫びを雪ふらさう、わがねがひとして……!

  夜語り

Well my dear, あれはお伽話見たいな話だよ、
おれもお前も知らない世界、
雪降る窓に蝋燭の灯あかあかと、
家内そろつてお年越しの祭り……

(丸太小舍には息吹いぶく年の瀬。)

Well my dear, あれは遠い遠い向うの國のことだね、
おれもお前も知らない國のこと、
銀紙のピカピカ光る小枝に綿の笹縁ささべりの雪、
七面鳥と土産の麥酒ビイルに笑ひさざめく一家内。

(丸太小舍には降りつもる年の雪。)

Well my dear, あれは私等の國にはない、
俺もお前も話で聞いた土地風俗、
そして夜更となり、村中寢沈まり、
はためく吹雪のなかの煙突。

(丸太小舍には此の頃忍び込む、例の赤裝束のおぢいさん。)
Well my dear, あれはあの國の面白い人情だね、面白い人情……
おれもお前もほほゑむ世界、
ところであの國の人間は今たたかつてゐる、
そしてああの一夜の祝ひ、
敵も味方もいだきあふ雪の原つぱ、
兵隊外套連の交歡の賑ひ。

(丸太小舍には老の夫婦、夜半よなか頃から鳴きだす蟋蟀。)
作者註。この作は歐洲戰爭中獨墺軍と聯合軍とが特にクリスマスの夜のみは戰ひをやめて敵味方打交り隨所に會合して當夜の祭を祝し合つたのを思ひ出して書いたものである。年の瀬年の雪とは歐洲の習俗にて當夜の祝ひが日本の大晦日の年越しの祝ひの如き氣せられるより用ひた言葉である。なほ蟋蟀は彼地にては當夜あたりまで爐邊に棲息するが如し。

  苦惱

わたしの心惡鬼あくきのやうに物皆かなぐり棄てて髮振り亂し、
この人生に立ち迎へ、おお!
恍惚の日、初めて脣と脣を合せた日、一週日のあと、
この險惡な嵐の心にわたしは落つ。
おお何ものがわたしを斯くするか、斯くするかよ!
雨よ打て、わが鞭となり、
風よ吹け、その夜の黒い汁を無限にゆらめかし、
そして此の惱みに沈む青年の亂髮を思ひのまゝに梳づれ。

ああ生は見よ、私のために高く攀ぢがたい門となつた。
ああ戀人よ、遠くに靜かに眠る戀人よ、
身はのめり、魂は死し、
その上に狼は
足を踏まへて闇のなかに吠える!
8 ※(ローマ数字1、1-13-21) 2
  過去

自然は私に教へた、わたしの心は青くかたこのみのやうであることを。
わたしの今の時期はああ、そのこのみ眞茂ましげる葉から日にさしのばす初夏の時期
わがために短かつたあの春は嵐のたけりに、暗い氷雨ひさめ打撃うちに、
さむい天氣の打續きに、
幾團の花はもぎとられてしまひ、
殘りのものに何時知らず孕みしこのみ……

おお指折り數へよ、この可憐いたいけな生のしるし、
心細くも青天井の空を葉越しに垣間見て、
今むかへるや無辜の石室いはむろの囚人のやうに、
このはなやかな七月の日を!

おお幼年の時から青春まで幾つのわたしの絶望、荒い心の傷、あの黒い吐血の追憶おもひで
今この美しい空のもとに何事もなく、
すべては清けだち、晴れ晴れし、よろづのもの賑かに、
木下こしたの風はなかを無心に吹きめぐる……

さらにその微風に乘つてひびいて來る優しい羽音、
わが華奢な明るい戀人、黒と黄だんだらの尾の蜜蜂、
荒い自然のゆすぶりも、今は吾れには唯だ唄とのみなる……
8 ※(ローマ数字4、1-13-24) 17
  出發

私の生活は始まつた。
野中の二岐路ふたまたみちに咲く黄色の蒲公英たんぽぽ
そこには吾が過去の脱衣所あり、
吾が裸足はだしの足を立つべき芝草のしとねあり、
季節は春、その朗らかな晝空に漂ふ白い雲、
この雲のため、ああこの雲のため、私は一生口を噤んでものいふまい、
そしてこの二岐路ふたまたみちのひとつを選んで古代希臘ギリシヤ青年のやうに驅けださう。
人を囚へて惡逆の淵に突きおとす人生のまがごと
私はそれをも身輕に飛びこさう。
例しへない吾が生、青春と明るさと大膽と……
私はそれをもつてこの春の地を驅け出さう。

  慰安

君の前に今わたしが捧げる此の野咲きの薔薇、粗野にして田舍娘のごとき可憐なこの紅い花を、
おお青空がもとの墓石よ、
小さい名もない路傍みちばたの墓石よ、
吾がつつましい春日の旅の第一日に、君が無言の膝の裝りとなすを容したまへ、小さい名もない路傍の墓石よ、墓石よ。

死のしるしたる君のまへに春はまた輝き、
暗い冬の夜の呻吟うめきに惱ませられた北方漂泊者ジプシイのわたしは、
いまその雪と泥との着物をぬぎ、
古ぼけた杖を棄て、
鋭どく明るくうたのごとく、また一人の勇者を送る莊嚴の獨唱ソロのごとく、
この春日はるびのもとに君のことを考へる、小さい名もない墓石よ、墓石よ。

ああ春日よ、春日よ、
ああ死よ、睡眠ねむりよ、
君達の虚心の輝きは、
わたしの上に情熱のきよらかな行手を示し、
おおそしてそして、此の名もない路傍の墓石は、墓石は、
わたしの生のため深い慰めを與へる……
8 ※(ローマ数字4、1-13-24) 3
  恢復

人生は苦難と愛の庭、
荒い心に温柔をつつみ、
眞茂ましげの葉にあかい實點々と、
秋の日照りに槇の並樹の、
逞しく足を揃へるその苔青い幹。

やがては冬來り、葉は落ち、
枝はささくれ立ち、
あのけはしくも白眼しろめをした雪もよひの空、
寒い雨、
こごる霜の夜明け、
君のうめきは細枝さえだをふるはし、低い空をうそぶかう。

缺乏の黒い感情、
苦痛に充ちた忘失の眼、
この身にふりかかる苦しみの出所は何?

やがては池の氷も黒ずみ、
廣い畠地はたちは割れ、
さびしくも小鳥鳴き、
天地ことかはる季節のさかひに、
君はその時見ぬか、ああ見ぬか、暗く嚴かに淋しくまた賑かな春と冬との分れ目を!
空は暗く、風は低く、日は短く、
しかし何處いづこにか胸にはらむ恢復の希望……
8 ※(ローマ数字4、1-13-24) 4

底本:「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」講談社
   1966(昭和41)年8月19日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷発行
初出:「展望」新潮社
   1920(大正9)年6月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「太陽の子」からの十七篇は底本では重複するので省かれています。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2008年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。