無論、「煽×、宣×、組織の言葉」を標語とするプロレタリア詩の一分化であるから、當然プロレタリア[#「プロレタリア」は底本では「プロレリタア」]童謠はプロレツト・カルトに役立つべきものである。しかし無論それは公式的、小兒病的に考へられてはならぬ。特に兒童を對象としての形象的表現による文化鬪爭乃至觀念鬪爭である塲合は。即ち「×の思想的政治的影響の確保、擴大」を直ちに×の掲ぐるスローガンの「國定教科書」風の解釋などゝ考へてはならぬ。斯るスローガン的アツピールをプロレタリア童謠に求めることは間違ひで、藝術に對する無理解の甚しきものである。即ち一句のスローガンを眞に兒童の心に植えつける爲には、吾々は幾十幾百の童謠を作り、それを讀ませ、歌はせ、聞かせなければならぬかわからないのである。然しその一面ではまた僅か數行、或は單に一行一句が直ちに×の掲ぐるスローガンに結合させ、即ち「×の思想的政治影響の確保、擴大」を結果づけるところの、「×動、×傳、組織の言葉」ともなり得るのである!
 私は曾て次の如く書いたことがある。
『兒童文學の眞の使命は飛躍的にプロレタリアートの政治的スローガンなどを直接解説することにあるのではなく、寧ろ斯るスローガンを生長と共に自然に抱懷せしめ、實現せしめざるを得ないまでに眞に根本的に彼等兒童をプロレタリアートの一員として成育せしめる事にこそあるのである。即ち大まかに云へば、第一期プロレツト・カルトの目標はプロレタリア××を完成せしめる爲の訓練であり教化であるが、兒童文學はそのアルフアベツトのA・B・C、オーケストラの大組織(これが當然×のスローガンともなつてゐるのだ)への音階ド・レ・ミ・フアを誤りなく教へる事にあるのである。而してその指導者は單なる語學者、音樂家であつてはならない事は、レーニンがハツキリ云つてゐる通りである。』
 右によつて、1・プロレタリア童謠は如何に活用され得る性質のものであるか? 2・プロレタリア童謠は如何に活用すべきものか? が大體明かになつたと思ふが、更に1をヨリ明確に、ヨリ具體的に示して觀よう。
 前述の第一期プロレツト・カルトの目的をヨリ積極的に達成せしめる爲には、當然吾々作家は廣汎な兒童大衆の生活環境、文化水準、年齡、性、等々を理解して、彼等の日常的乃至非常時に於けるカンパニヤに應じて多種、多樣の生々溌溂たる作品を生産するであらうが、これを我國今日までの一般の「童謠」に就て觀る時、大體次の如く分類され得ると思ふのである。
 A・取材上の分類――1天氣天象の唄。2動物植物の唄。3年中行事の唄。4人事上の唄。5遊戲唄。6子守唄。
 B・形式上の分類――1短いもの。2長いもの。3歌い易いもの。4歌い易からぬもの。5現代の子供の標準語を使つたもの。6方言、訛、古語等を用ひたもの。7動作を伴ふもの。8對話體のもの。
 C・内容上の分類――1空想的なもの。2現實的なもの。(或はまた、1穩健な思想感情を現はしたもの、叛逆的思想感情の現はれてゐるもの、等々にも分けられる)
 然し今吾々は、眞に階級的教化用具としての新しき「童謠の活用」を考へる時、以上の要約乃至結論として、また新しき活用上の理論的必要から左の如く分類され得るのである。
 D・活用上の分類――1讀むもの。2聞くもの。3歌ふもの。4動作に移すもの。

 先づ注意すべき事は、吾々が兒童教化の爲に兒童文學乃至藝術を採用せんとする塲合には、その藝術作品を單に抽象的批判によつて概念的評價を下しただけでは不充分だと云ふ事である。即ち、1・兒童の組織、未組織による採用作品の相違、平時と非常時(ストライキ等の塲合)とに於ける採用作品の相違。更に兒童文學藝術の特殊性と機能とをヨリ効果づける爲の性、年齡、生活環境、文化水準、等々を※(「酉+斗」、第4水準2-90-33)酌すべきことは云ふまでもない事であるからだ。眞理は具體的であり、××的プロレタリア教育は抽象的、絶對的でなくて、具體的、相對的、そして實踐的であらねばならぬからである。
『今日尚ほ多くの人々が懷いてゐる所の、プロレタリアートは「善」「眞」「美」「高潔」その他、一切の店持に大切な抽象的觀念を擁護しなければならないと云ふ理論は、プチ・ブルジヨアの發明したものである。それはプロレタリアートをして、××的××を回避せしめやうとする陳腐な發明である。ブルジヨアジーを×することこそプロレタリアの「善」であり、資本家的搾取、社會主義的裏切を摘發し、急進的又は社會主義的假面を冠つてゐるフアシズムを認識することこそプロレタリアの「眞」であり、ブルジヨアジーを地に××××け、××を×××××××す事こそプロレタリアの「美」であり、地主や執達×に對抗して貧しい農民を支持し、抑壓されたる植民地民族を助けて帝國主義專制から解放せしめることこそ、プロレタリアの「高潔」である』(ア・ベルナール「レーニン主義教育の任務と方法」)
 これを1の塲合について考へて觀る。即ち「兒童の組織、未組織による採用作品の相違」が、如何に「童謠」の上に現はれるか?
 全國的統一的組織の下に次の時代の新しき階級戰士として訓練され、養成されつつある諸外國のプロレタリア兒童大衆――「××主義少年同盟」乃至「ピオニール」達と、わが國の如く殆んど百パーセントそのままの未組織プロレタリア兒童大衆との間には、云ふまでなくイデオロギー上甚しき相違がある。從つてその兩者の教化手段、方法は同じものである筈がなく、またその教化用具たる童謠に、形態上[#「形態上」は底本では「形熊上」]、内容上、當然相違を來す。第一、持込の方法からして相違して來る。
 A・組織兒童の塲合――1、持込の容易な事と意識水準の高いために、ヨリ具體的、實際的作品を擇ばれる。(一般的地主、資本家、權力者に對する反抗を歌つたものの代りに、地主A、資本家X、權力者wに對する個性的なもの。そしてそれは讀むものか、または聞くものか、歌ふものか、動作に移すものかを明確に特色づけた作品――と云つた風のもの)。2、政治的團體的訓練の爲に必要な團體的形式のものを擇ばれる。(各團體の團體歌、ピオニールの種々なる鬪爭歌、合唱、交互齊唱等による團體的遊戲唄、その他。)3、内部的指導部の特殊な技術によつて利用價値を生ずるものを擇ばれる。(動員、訓練、鬪爭上の必要から、或る場合には單に滑稽なだけの唄、記憶すべき人名のみを並べられてゐるといふだけの唄、その他歴史的意義以外何等價値なき唄、または逆用する事によつて効果を生ずる支配階級的作品、等)
 B・未組織兒童の塲合――1、持込が容易でない[#「容易でない」は底本では「客易でない」]事と意識水準の低いために敷衍性のある啓蒙的作品が讀物の色どり、または教材的に擇ばれる。(一般的觀念的テーマを比喩的象徴的表現に移した作品が、積極的利用の起らない所へ提出される。從つて表現上の技術的分化も見られない)2、個人的自覺を啓發する爲の個人的形式のものを第一に擇ばれる。(作曲なしで自由に單獨に歌ひ得られる形式のもの。遊戲唄にしても孤獨的な指遊、顏遊の唄、手まり唄、子守唄、等)。3、外部的指導者によつて個性的、獨創的な作品を擇ばれる。(この場合には實驗であるから屡々失敗し、また意外に歌詞、作曲、樣式上の飛躍、または新發展を示す事もある)
 以上A、Bを更に要約すると、Aの塲合に擇ばれるものは大體に於てヨリ團體的、政治的、經濟的鬪爭を目標とし、Bの塲合はこれに反しヨリ個人的、觀念的、文化的鬪爭を目標とする。無論BはAに向つて發展し、Aは大人の鬪爭形態にまで發展すべく、そこに鬪爭の目標を置いてゐる事は云ふまでもない。
 次に2の塲合について考へて觀る。「平時と非常時とに於ける採用作品の相違」。
 これは大體に於て上記のA、Bの塲合とよく似てゐる。即ち平時に於ては組織兒童も「大體に」Bの場合同樣の、「ヨリ個人的、觀念的、文化的鬪爭を目標」として訓練される。非常時に於ては未組織兒童も一躍Aの塲合同樣、「ヨリ團體的、政治的、經濟的鬪爭を目標」として動員される。從つて平時に於ける「藝術としての童謠」は、非常時に於ては直ちに「武器としての童謠」に一變する。即ち鎌やハンマーと共に!
 この「平時」と「非常時」との「童謠の使ひ分け」の覺書として、私は曾て作家的立塲から次の三部門に分つて考へた事がある。
 一、爭議等の塲合兒童の合唱横行によつて敵を惱ますもの。(からかひ唄、示威的の歌、等)
 二、兒童の日常生活の爲の遊戲唄その他(廣汎な兒童生活から取材し自由に歌はせられるもの)
 三、曲譜によつて會合の塲合上演する目的の作品。(複雜な情感を現はした童謠、童謠劇、等)
 右の(一)は「非常時」用の童謠、(二)は「平時」用、(三)は兩者の塲合に活用され得る二樣のものまたは兼用され得るものであるが、これを更に活用の立場から左の如く分類して觀ると必要に應じて擇ぶべき作品が一層ハツキリとして來る。
 一、讀むものとして。(所謂「兒童自由詩」、長い詩形のもの、其他文學機能的効果を覘つたもの)
 二、聽くものとして。(作曲的効果によつて音樂化されるもの。この場合は肉聲と樂器との二つの方法がある。比較的高級な藝術作品)
 三、歌ふものとして。(自由に節づけられて歌ふもの、單純な作曲によるもの。大體に子供の日常的唱歌風の作品)
 四、動作に移すものとして。(遊戲唄、街上鬪爭用の歌、その他明かに武器として取上げられる行動的作品)
 要するに××的プロレタリア教育は、何よりも先づ「鬪爭の過程に於て」なされなければならぬ。慌しき私の覺書は單に「白紙よりはましな」程度に過ぎないかも知れぬ。そして私はまた「童謠」が如何に兒童の生活と密接不離な關係にあるものか、而してそれをヨリ効果的に利用する事が如何に必要であるかも、ここでは殆んど説かれなかつた事を遺憾とする。更に大別して「農民兒童」と「勞働者兒童」との特質、その他「平時」に於ける教化鬪爭の對象が「小××の教壇」に向けられなければならない事など、觸れなければならぬ、幾多重要の問題に觸れられなかつた事を殘念に思ふ。
 とにかく政治的鬪爭に身を置く同志達は、ややもすれば從來藝術的鬪爭を輕視しがちであつた。これは誤りである。吾々の藝術は「政治的鬪爭」を前提としての「藝術アート」(技術アート)ではないか! それ故私は特に兒童に向つてはこれを強調せざるを得ないのだ。藝術の利用を考へよ! 藝術は活用されてこそ眞に「武器」となり得るのだ! そして「童謠」は兒童藝術中の粹である! そしてこれを完全に活用するには繪畫と音樂との協力が絶對に必要である。
 最後を結ぶ。
『少年同盟の政治活動の高揚は×及びKJV(××主義青年同盟)を複寫したところの古い形態を以つてしては成功し得ないこと、及び此高揚は只、全少年大衆のための我々の大衆活動を多彩に、且つ興味的に構成するところの新しい生々とした形態が使用される時にのみ、確固たる結果を示すであらうことを我々は理解しなければならない。』(ソオリン「プロレタリア少年の鬪爭と××主義青年同盟」)
――槇本稿「童話運動」第一卷第十二號所載――

底本:「赤い旗」名著復刻 日本児童文学館 25、ほるぷ出版
   1971(昭和46)年5月1日発行
底本の親本:「赤い旗」紅玉堂書店
   1930(昭和5)年5月5日発行
初出:「童話運動 第一卷第十二號」
入力:蒋龍
校正:染川隆俊
2011年1月10日作成
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