序


 これは私が大正三年秋二十二歳の時一高を退学してから、主として、二十七歳の時「出家とその弟子」を世に問うまで、青春の数年間、孤独の間に病を養いつつ、宗教的思索に沈みかつ燃えていた時代に、やはり一高時代のクラスメートで、大学卒業前後の向上期にありし久保正夫君および久保謙君に宛てて書き送った手紙を編み集めたものである。
 両君とも一通も失わずに保存していて下さった。
 もとよりこれらの手紙は公表することなど予期して書かれたものではない。この寂寥せきりょうと試練の期間を私はひとえに両君の友情に――というよりも友情の文通に支えられて生きた。私は遠くはなれて住み、一、二度しか相会うことはできなかった。それに海岸から、病院へ、それから温泉へ、それから修道園へ、と私は病を養いつつさまよっていたから。
 この期間の私たちの友情は実に美しく、高いものであった。生への宗教的思慕と、文学的探究心と、そして知性ある情熱とが友情を裏づけていた。私たちの思索、なやみ、実践への方向は少なくとも人生の最高のものを、最もつつましい態度において志向していた。
 二十二、三歳から二十七、八歳までの血潮多き青年同志が、そのひたむきななやみに充ちた生をこれだけ知性ある友情によって支え、清き自律をもってしめくくりえていることはまれなのではあるまいか。
 ともかく私はこれらの手紙を読み返して、その Leiden がまともに人性的であることと、心術が世俗の濁りに染んでいないことと、解決を求める仕方が深く、高くモラルを堅持している点において、今の若き世代に感染してもいいものではないかと思うのである。
 なぜなら今は世をあげて、戦争や経済的改組の問題に忙殺されているように見えるが、やがて日本にも、世界にも新しき神学的時代が来ねばならぬことを私は予感しているからだ。
 人類はその生活をも一度ラディカルに見直さねばならない。民族国家の問題、経済革命の問題もその根本を一度神学的に批判されるのでなければ、全人類を福祉あらしめる恒久の平和の原理を見いだすことは不可能であろう。一つの民族の光栄とはそれが天の栄えをわかつ時にのみ光栄なのである。
 この本が「ある神学青年の手紙の束」と傍題されたのは、その内容が広き意味におけるセオロジカルな課題として人生を考え、取り扱っているからである。
 実際に私は、集中の一つの手紙が示しているように、ある時期には、カトリックの僧侶たらんと欲していたのである。
「青春の息の痕」というのは、涙のあとが手紙に残ってるように、菩提樹ぼだいじゅに若き日にナイフで傷つけた痕がいつまでも残ってるように、青春の苦悩の溜息ためいきの痕を示すという意味である。
 もとよりこの手紙集はそれらの解決にこたえるためにあるのではない。しかし生と人間性の根本を神学的に考えとらえんとする志向と感情とを示唆しさしうるであろう。
 青春においては、むしろ、その考え方、感じ方が解決よりも重要なのである。
 恋のためではなく、友情のために、私がこのように長い細々とした手紙を書く時期はもう永久にないであろう。が私がそのような手紙を宛てた久保正夫君は、京都大学を卒えて、同志社大学に君独特のスタイルでのフィヒテ哲学を講じつつあった間に、惜しくも夭折ようせつしてしまった。そして死を期していた私は病癒えて、塵労じんろうの中にたたかいつつ生きている。そしてもひとりの久保謙君は水戸高等学校の教授兼主事として、その昔ちょうど自分が抱いていたような悩みを生きている青年たちを教え導いている。
 思えば二十五年の昔である。
 私はその返らぬ日の手紙を読みつつ、その純真さに自ら打たれた。そして今の自分はあるいは堕落したのではなかろうかと省みさせられた。
 嫌悪すべき人生の中年期がそのがらくたを引っくり返して私を囲みつつあることは事実である。もし私が今日取組みつつある、社会・国家ないし共同体の現実的諸問題を捨てて、おのれ自らの求心的領域に帰りうるならば、私は確かに今よりも心の静かさと、潤いと、慈しみとを保ちうるであろう。私自らの資性にとってそれが容易であり、成績においてもあるいは実り多いかもしれないのである。しかしながら、私はもう退くことはできない。なぜなら私の一生の歩みにおいて、私はもはや、自己の外の世界を見、遠心的の課題と取組むべき時期に達した。それは私にとって好ましくなくても、私の人間としての義務なのである。
 まことに集中の手紙にある久保謙君の処女習作「朝」の中の「乳母車にのせられた嬰児」が今はこごしく障害と汚染にみちた社会的現実に立向かい、たたかいつつあるのである。
 それは必ず社会へのきよめと高めの作用を、その分に応じては持つに相違ない。そして何よりも重要なことは私の人間的義務が、人間的完成が遂げられつつあるのである。
 この集中の手紙のムードは全体からいっていささか女性的である。それは失恋と、肺患と、退学とを同時に課せられた若きたましいが、自ら支えるための消極的抵抗であったといいうる。
 濡れ、輝き、愛と感傷とに至純であるところの、相触るるすべてのものに「よき意志」を用意しているところの、神学的人間を読者は感じ取ってもらいたいのである。
 このように女性的なスタイルの文章を書いていた私は今、刺すがごとき、つがごとき攻撃的のポーズで書くようになった。しかし私にとっては、マリアのように優しいことも、サボナローラのように裂帛的れっぱくてきであることも、ひとしくこれ神学的態度のあらわれなのである。そしていずれにせよ、私はいかなる場合にも、彼の「よきサマリヤ人」のよき意志を共存者に対して失うことを自らに許さぬであろう。その点においては、集中の一つの手紙にあるように、「人生を呪いますまい。みんなみんな幸福に暮らして下さい」これが私の真意である、たとい今となっては、そのように感傷的な表現を好まぬとはいえ。なお手紙の見出しは出版社の促しに由るものである。
 一九三八年一一月一七日
倉田百三
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 大正三年(一九一四)


   退学直後

 あなたはどんな正月をしましたか。私には色も香もない正月が訪れました。東京から下って来た妹と語る言葉さえ少なく、静粛な平和な初春を迎えました。六日の一夜風の寒い神戸駅からさびしそうにして妹が立ってからはまた急に淋しくなりました。しかし私は淋しさにはなれてるから、もうその翌朝には、机の上でコトコトと薬の世話をしたり、マントを着て病院へ通ったりしました。病院は松林に囲まれて小高い丘の上の清楚せいそな白塗りの建物です。そこから海岸までゆるやかな傾斜になっていて両側の松林では淡日がさして小鳥などよくいています。私は杖を曳いて鳥打ちをかぶってそこを往復します。私はまったくひとりの自分をうれしみ静かな確実な生活をしています。病気はずっとよろしいからよろこんで下さい。
 学校では相変わらずでしょうね。正夫君はどうしていますか。私にもこの頃は静かな気持ちというものがわかるようになりました。
 それから正月号は何日ごろできるでしょうか。できましたら私に五冊ほど送って下さいませんか。それからまことに恐れ入りますが、一冊を小石川日本女子大学校松柏寮内倉田艶子に送って下さいませんか。なにとぞお願いいたします。私は二、三年山ごもりしてからだを養わなければなりません。君らが学士になられるまで、やっと一年の課程を終えたままで、就学できないのはずいぶん淋しいには淋しいが、それくらいなことで屈托してはいけないゆえ、私はしんぼういたします。
 あなたの健康について祈る。
(久保謙氏宛 大正三年一月十一日。須磨より)
   孤独の部屋

 私は二、三日前からここで暮らしています。ここは備後びんごの南端にある、小さな港です。私は深いふちのようにたたえた海にのぞんだ、西洋風の部屋を約束しました。この部屋から見ると静かな湾は湖のように思われます。向こうの方に眠るがごとく薄々と横たわった山脈の空は、透き通るように青くて、遠いかなしい景色です。
 私はひとりも話す友がない。たいてい書物を読んだり、手紙を書いたり、ひとりで浜に歩きに行ったりして暮らしています。長らくこうして暮らしてると、実に淋しいものですね。二、三日すれば姉が、船に乗って私を見舞いに来てくれます。それを楽しみにしています。あなたはどうして暮らしていますか。私のからだはおいおい快いばかりですから安心して下さい。私はここに当分います。私は部屋の壁に、行李に入れて持って来たキリストの額を掲げました。そして淡青い窓掛の下で中世の宗教的なクラシックを好んで読んでいます。正夫君によろしくいって下さい。学校にはかわりありませんか。
 私の宿の近所は色街いろまちで、怪しげな灯影ほかげ田舎女郎いなかじょろうがちらちらしています。衰えた漁村の行燈あんどんに三味線の音などこおりつくようにさむざむと聞こえます。近状知らせて下さい。
(久保謙氏宛 一月二十三日。鞆より)
   「恋を失うたものの歩む道」の原稿

 あなたの手紙が須磨から廻って参りました。何しろおもしろくないでしょう。今少しすれば自由な大学へ行かれるのだから、しんぼうなさい。原稿のことは実に不愉快で私は掲載したくありませんが、私は何よりあなたに気の毒ですし、今私はだれびととも争うたりなどすることを欲しませんから、どうでもよろしいようにして下さい。事を荒立てることは、やさしいあなたに対して、私は忍びません。どうでもよろしゅうございます。ただなるべく削除したところはブランクにして書き入れられるようにして下さい。そして私の原稿を手数ながら送り返して下さい。それは私の親しい両三名の人に、全体の文を読んでもらいたいと思うからです。雑誌へは削除した旨を、付記しておいて下さい。片輪のものを完全のものとして評されることは苦痛でございますから。
 ここに仮住居かりずまいを定めてからの一週間は何の目に立つ事件もなく過ぎました。私はたいてい部屋で書物を読んで暮らしています。今日は旧正月一日で、この辺はみな旧でお祝いをいたします。今日午後私は海上一時間の航路で姉の家に行きます。そして二、三日その家で暮らして、帰りに姉をつれて来ます。その時にまた書きましょう。正夫君によろしくいって下さい。私の心はこの頃また池州いけすえたあしのように小さく揺らぎ出しました。魂は小さな嘆きと、とこしえなるものへの係恋とに伏目がちになっています。
(久保謙氏宛 一月二十六日。鞆より)
   霊の生活へ

 雑誌たしかに受け取りました。ありがたく存じます。私の文章の処置についてはともかくもあれでかまいません。安心して下さい。私のからだは日に日に快方に赴きますから喜んで下さい。この頃は永遠への思慕を痛切に感じて読んだり考えたりしています。女の内容なき幻であることは私に非常にたしかになりました。私は女によりての生命の興潮を重く見ません。私が女に赴いたほどの純熱を捧げて私は霊の生活の奥へはいって行きたい。何もかも身をもって知る態度を保ちたい。私らの案じなければならぬのは、心に大きな熱あり、飢渇ある思想感情の訪れなくなることではありますまいか。私はいい加減なところで収まって生きてゆきたくないと思います。
 便のおりに、正夫君の訳したフランシス伝の原書を正夫君に聞いて知らして下さいませんか。大切になさいますように。
(久保謙氏宛 二月十二日。鞆より)
   アリストクラート

 手紙と雑誌とをたしかに受取りました。「白樺の恋人」はただちに読みました。山のなかの神々しい湖水、山の人々の生活、そして人生のある道すじを辿たどってる種々の青年とその個性の運命などを感じて読みました。私にはああいう背景の前にいでたる青年の会話と、それを透してうかがわれる運命というようなものが最も興味を動かしました。山のなかの景色や人の生活も私にフレッシュな心に適うたものでした。
 あなたは故郷で静かにおちついて暮らしていることと思います。「いたるところで調和を保つアリストクラート」として、周囲に集まる弟姉らをもさしてめんどうがらずに悠々と心のバランスを保って暮らしていることと思います。私はそのアリストクラートの心を得ることにこの一年の間努力してきました。私の素性はいつも調和しないインタブルなものであることを自覚していますので、私はよほど注意しないと周囲に不愉快な空気をかもしてばかりいます。私はそれをおそんでいます。トマスが「なんじ静かなるところに退きて神をエンジョイせよ」といったのが心にしみます。私はこの頃はトマスの理想とするような生活をいたしています。私は町からはなれた森のなかの沼のほとりの一軒家に私ひとりで暮らしています。家にいるとわがままが出ては父母を傷つけ自ら不愉快になりますし、また病気の性質上、私だけはなれて暮らしています。昼は日光浴をしたり魚を釣ったり、夜は燈火をともして聖書やアウグスチヌスや主として、レリジアスなものを研究しています。あなたと同じように私は旧約聖書にたいへん興味を感じて読みます。私は祈祷きとうの心理を日に日に深くしてゆきます。単に詩的な感興を催してでなくて、実際的な要求から祈ります。私の恐怖は私らがどんなイグノランスから自他を傷つけるかもしれないということです。私は神の光に輝いた知恵がほしい。ことに自分の行為が他人の運命に交渉するときに、これまで私のしたいろいろなことを考えてみるときに私は人間のイグノランスを痛切に感じて恐怖します。ああ私は自ら知らずして他人を傷つけていました。私は宗教がこの現われたる世界をよしと見ないのに賛成いたします。そしてその最大なる欠点は生命が他の生命を犯さないでは、存在できないことであると思います。これ神のあたえたまいし厳粛な罰ではありますまいか。私はキリスト教の宿罪の思想に非常に興味を感じます。私らの生まれながらの罪を救済するための罪なきものの贖罪しょくざいとしての十字架が、真に愛のシンボルであるとも思います。与えるばかりの愛の、これほど大きな計画はないと思います。聖書は戯曲としても最大の問題を取扱ってるかと思います。それが空想であるか、実在であるかを決めるのは私らの放擲ほうてき憑依ひょうい、転換――内面から迫られた一種の冒険でなければならないかと思います。ファンタジーとレアリテートの間に私は主観的ならぬ区別はないかと思います。私はルナンのヤソ伝を読んでいます。そしてキリストは大なる空想家であったといってるのに注意しました。近代の青年はあまりに空想が小さい。
 なにしろ私は、宗教的気分の醗酵のなかに暮らしています。そして不幸な地位に忍耐して勉強しています。夜は実に淋しくなります。あしが生えた池州や舟の乗り捨てられたすがた、湿潤な雲の流れる空、私はなつかしい燈火の下でアウグスチヌスのいう Liebe ohne Leidenschaft というようなものを感じつつひとり書物を読みます。私は教会へ行くほかはいっさい町へ出ません。
 病気はだんだんいいほうですから悦んで下さい。九月にはどうか東京の方へ出たいものだと思っています。気候が悪いからからだを大切になさい、あなたについていのります。
(久保正夫氏宛 七月六日。庄原より)
   手術

 あなたに御無沙汰していた間、私はまた不幸にとらえられていました。私は九月の上旬から穴痔あなじという性質のよくない病気に苦しめられて、今日もなお苦しんでいます。その間二度手術を受けました。二度目のはこの病院で、全身麻痺の恐るべき手術でした。私は今もなおあの手術の時真裸かで、手術台の上に寝かされて、コロロホルムを嗅がされて意識を失う時の、恐るべき嫌悪けんおすべき心持を忘れることができません。手術後で今日は五十日目なのに、まだなかなか癒えそうにありません。毎日痛い目を忍んで生きています。歩行すると出血するので散歩もできません。
 しかし謙さん、私はこのような生活をしていますけれど人生を呪う気にはどだいなれません。それに反して人生がある全一な、積極的な幸福なものでなければならないとの根本信念が私の心の底に日に日に育ってゆくのです。私は信心深くなります。私はこのような病身なのですから、一生涯いっしょうがいほとんど病院暮らしをせねばならぬかもしれません。また私の生涯は長いものではありますまい。それにしても私は私にゆるされた生をたのしんで感謝して暮らしたいと思います。私は病院のなかでもできるような、不幸な人々のためになるような、仕事を発見したいと念じております。私はこの数年、霊の上に、肉の上に、さまざまな苦痛を受けました。そして、真に他人を愛することを知りました。異常な忍耐力と隣人の愛とが私の心に植えられた。これ私の限りなき感謝です。謙さん、どうぞいつまでも私を愛して下さい。私のことを思い出して下さい。私はただひとりはなれて、私の生活を宝石のごとく育て、かつ祈り、かつ考えて生きております。神もし、私に何らかの使命を与え給うならば、私も立って君らとともにはたらく時もありましょう。どうぞ待って下さい。なにとぞ幸福に暮らして下さい。
(久保謙氏宛 十二月二十二日。広島病院より)
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 大正四年(一九一五)


   生を呪わぬ心

 あなたへお手紙をあげようと毎日思って、まだ得書かないうちに私はまた不幸に訪れられました。私は明後日また第三度目の手術を受けなければならないことになりました。肉体的苦痛に対する不安と恐怖との人並以上に強い私は、今それに抵抗するために、精神を緊張させねばなりません。なにとぞこの手紙の、あなたの心にみつるほどに、長くこまやかでないのをゆるして下さい。この前の手術後、七十二日間日々耐え忍んだ苦痛はまたむなしくなりました。私はまた新しき忍耐を要求せられました。私の苦痛は私がしのび受けることによって、完結するとしても、私の父母に与えるなげきをいかがしましょう。私は実に両親の不断のトラブルです。ああ私は夜暗い、冷たい教会の板の間に伏してどんなに両親のために祈ったでしょう。
 謙さん、あなたの先日のお手紙は私をたいへん強めまた温めてくれました。私は運命を忍受して何もかも耐えしのびます。私には愛と運命とに対する微妙な心持ちが生じてきました。そして私はますます人生に対して積極的になります。
 私は人生を呪うことができません。これ私の最深の恵みです。どうぞ私のために祈って下さい。
 私はあなたのアリストクラチックな高雅順良なひととなりを、心から懐かしく思っています。どうぞふしあわせな私を忘れずに祈って下さい。私はあなたや正夫君らと一緒に仕事をする時が来るような気がしてなりません。私は父が私に与えてくれる財産を全部投じて、私らの生の歩みのために、そしてそれによって他人を潤おすために雑誌でも出そうかと思っております。そんなふうな仕事ででもなくては私のような病身なものの他人のために貢献する道はありません。
 けれどもそれも神のみ心でないならばいかになるかわかりません。さきのことはとてもわかりません。
 私はこの二、三年の引き続いての苦難によってたいへん試練されました。そして私の心のなかの虚栄心がどれほど焚き殺されたか知れません。私は運命に甘える心、おのれにびるすべての思想感情をば神前に釘づけるために日々祈っております。
 もはや女は本質的に私をひきません。私の主要問題は愛と運命とです。そして強い深い一種の楽天思想です。人間の悲哀と調和と救済との問題です。
 私は武者小路氏や阿部氏の愛の思想の、まだ十分に醗酵していないのを痛切に感じます。真の愛はもっと実践的な、そして祈祷的な、かなしい濡れたものでなければならないと存じます。むしろ鈴木龍司氏の愛のほうが深く達しているでしょう。
 私はこの数日の間病友と病友との間に生じた争いを調停するために祈り、かつ働きました。そして氷雨ひさめの降る夜を車に乗って奔走もしました。そしてついに平和をもたらすことができました。私の心はどんなにやわらいで、そして感謝したでしょう。
 まことに私の周囲には憐れむべき人々がたくさんおります。それらの病友のなかには私の静かな愛の言葉によって、わずかに慰藉を感じているものもあります。あわれではありませんか。昨夜も私のとなりのとなりの室には十三になる少年で、汽車にはさまれて足をくじき切断された患者が入院しました。その悲鳴はよもすがら私の眠りを破りました。その父親は気が転倒して一時発狂状態にありました。その父親のごとき境遇にあって、愛児の苦痛を目睹もくとしつつ、いかにして人生を感謝することができましょうか。しかも人生は美であり、調和であり、感謝であると信ずることのできる宗教的境地――それを私はあこがれ求めます。死力を尽くして生き切る時に、運命を呼びさまして、真の神のヘルプを受けることができるのでしょう。私はまだまだ絶望してはなりません。
 今日は手術のことが心配で、気をおちつけて手紙を書くことができません。不安と恐怖とたたかわねばなりません。手術後はまた動かれなくなり、当分しみじみと手紙もかかれますまい、またしんぼうせねばなりません。ああいつまでもいつまでも人生を愛してみますまい!
 私の妹があなたを訪問するかもしれません。その時はなにとぞ私のことを思い出して話して下さい。今日はこれにて筆をおきます。
(久保謙氏宛 一月十六日。広島病院より)
   ドストエフスキーの感化の中にあって、祈りと人間同志の従属感にぬれていたころ

 私は今朝けさ最近に私の周囲に起こった事件のために悲しく、淋しくされた心で寝台に仰臥しておぼつかない、カーテンを洩るる光のなかに病むものの悲哀にうちしおれていました。硝酸銀でやかれたので傷が痛みます。耐え忍ぶことの尊さを知った私は、それでも眼を閉じて祈りの心持ちのなかに没しようとつとめました。出来事というのは次のようなことなのでした。私の知合いのフランシスという牧師が、私の見舞いにひとりの看護婦を送ってくれました。その女はクリスチャンで愛らしい単純な信心な女です。私はもはや百日も病院にいますのに、少しも私となつかしき話のできるような看護婦はできませんでした。みな役人らしき冷淡なあつかいをするのです。ひとりとして私に触れ、私の魂のなかの宝石を発見し、私のなかのよき部分に触れてくれる者はありませんでした。ひとりの私にすがってくれる友は肺重くして私の部屋まで来ることはできず、私は少しも歩行できないのです。久保さん、私はだれでも愛し、求めるものには惜しまず与えんと、心のなかに常に和解と愛とを用意しているのになぜ、人は私に温かい交渉をしてくれないのでしょう。私はキリストが昔「われちまたに立ちて笛ふけども人躍らず、歌えども和せず」となげかれた、かなしき心持ちをしのびました。そしてどんなに私に求めに、愛されに、すがりに来る人を待ったでしょう。お絹さん(その看護婦の名)は私に、初対面の日からよく触れました。私はその女の苦痛を経て来た半生、そしてそれにもかかわらずのんびりとした単純な、そして深い高尚な思想に感動することのできる心をめでました。お絹さんは四、五日ばかり毎日来ました。そして私の話を実に悦んできき、そして注意深き聡明な性質を示しました。それから十日ほどは働きに市内の患家に行きました。私は熱心に愛をもって不幸な病人のために働くことを勧めました。十日の後お絹さんは働きを終えて悦び勇んで私のそばに来ました。私は彼女を祝しました。それから五日ばかりまた毎日来ました。彼女は私を信じ愛しそして私の魂のなかの私の誇る(よき意味の)部分に触れてくれました。私は宗教的空気のなかに彼女を包んで愛しました。そして彼女とともに讚美歌を唱い、祈り、食事を共にしました。ああこの五、六日の間私は彼女の単純な自由な快活な心に温められ、まじめな熱い祈祷に感動させられ、どんなに久しぶりに幸福な生活を味わったでしょう。しかるに久保さん、病院の他の人々はみだらな、卑しい眼で二人を見ました。そしていろいろな不愉快な事情の後に、お絹さんは私の室にもはや訪れられないことになってしまいました。
 不幸な私の愛すべき友を私から奪って何の役に立つのでしょう。私はその事件のために悲しく傷つけられて今朝寝台の上でしおれていました。その時にあなたの小包が届きました。私は開いてあなたの自ら描かれた絵を見た時に涙ぐまずにはいられませんでした。そして優しきあなたの心を悦び神の恵みをほめました。ありがとうございました。私は絵はかけませんけれど見るのは非常に好きです。そしてあなたの芸術的天分を祝しました。少年の時描かれた白根山のスケッチやファンタスチッシュな樹下に女の横臥してる下絵など好きでした。ことに私の心に適うたのは湯本路のしぐれでした。私はしばらくの間懐かしき芸術的感動のなかにあり、そしてしあわせな思いをいたしました。私も東京に行ってあなたや謙君らと朝夕往復できたらと思いました。私はあなたの絵を肺の重いあわれな病友に、私の付添婆に持たせて見せにつかわしました。しばらく私の手元に置かして下さい。大切に保存しておきます。入用な時はいつでもお返しいたします。あなたの書かれたエッセイをなにとぞ送ってください。
 私のことばかり書きましたね。あなたはあの学校に毎日寒さを冒して通学してるのですね。ソフトをかぶってマントを着てまちを歩いていたあなたを思い出します。純な清らかなやさしき心を持ちたいというあなたのねがいはまた私のこの頃の最もせつなるねがいです。私はあなたのそのねがいをば正しき美しきものと信じます。そして私とゼーレの交通をなすにお互いにその境地に深く届き進むことができるようにはげましたいではありませんか。私はあなたの思って下さるほどけっして純ではありません。なにとぞ人間としての弱さ醜さ愚かさはだれにもあるものと知り、そしてそれを許して、励まして下さい。私の心にはどうしてこのように卑しい醜いものが住んでいるのだろう? 私はそれを怖ろしきことと思い、神様に祈っています。私は今朝もこう思いました、「私の心に訪るるものの中にありては祈祷の感情が一番深くなつかしいスイートなものである、よし、私は一日じゅう祈りの心持ちより遠い言行はいっさいすまい」と。そして神様に私を助けてしかせしめ給わんことを祈りました。私は神のエキジステンスなどを議論する気がないのです。私は私の祈りの心持ちの実験にたよります。そしてそのなかで神にあいます。いまや祈祷は私の最もたのしき大切なるものになりました。私は私の心の奥に聖地を築きたい。そしてそこに最後の魂のいこい場所を見いだしたいと存じます。詩篇のなかに「みよ、神の道をたのしむものの足はいかに美しきかな」という言葉がありましたが、私はその足の美しい、聖地を蹈むに堪うる人となりたい。この間もお絹さんと静かに信仰のことなど語ってる時に私はかの聖フランシスと聖クララとの聖き交際を思い出さずにはいられませんでした。そして天の甘美とたのしき団欒だんらんとを想望いたしました。
 私には他人が私の生活内容のおもなるものとなりつつあることがたのもしく感ぜられます。私はトマスのような生活はできません、他人と交渉し他人の運命に影響しなくては生きるよすががありません。他人のなかに自己を見いだすのではなく、自己のなかに他人を生かしたい。私はあなたのこの頃のお心持ちにたいへん同感できるので嬉しくてなりません。私は深き深き意味にてソシアリチーということを重んじ出しました。なぜ世の人はかくまでにかたくなにて怨みを結びまた争うのでしょう。私は新聞を読むのが苦痛でなりません。読まねば社会に冷淡だと思って心が咎められ、読めば苦しいのです。何もかも私の心には適いませんから。そして同胞を救う力がないことをまざまざと感じさせられますから。私はどうも周囲の出来ごとに心を乱されずに生活することはできません。そして周囲が幸福でなくては私も幸福になれません。私はしみじみとミットレーベンということを感じゴッホのコラボレーションを思います。そして私の天稟てんびんのなかに何らかのよきものがありますならばそれを他人に与えるような生活がしたいと思います。
 私は長らく病院にいてそして歩むこともできませんけれど、生活内容には不自由いたしません。私には天も星も樹木も草花も鳥もまた何よりも人間の群れが私の周囲にあります。幾多の問題を含んで私に臨みます。私が十分まじめでありますならば、私は生活の材料を失いはしません。私は退屈などは申したくございません。久保さん、私はあなたに悦んでもらうことには私はだんだん愛の人となるようです。時々は愛の強い衝動を感じます。この間も窓によって空にきらめく星屑ほしくずと満潮した川面のふくらみと岸べの静かな森とを眺めた時、私は調和と愛との深い感動を抑えることができず、ああ愛したい、許したい、と涙をこぼして神に祈りました。
 私の健康はまだたびたび長い手紙を書くに適しません。たよりが遅くなってすみません。私は二、三日中に謙さんにいい長い手紙を書きます気です。謙さんにお会いになったら許してもらって下さい。謙さんの家で私の妹に会われたら、友人になってやって下さい。そして絵など見せてやって下さい。
 今日はこれで筆をおかしてもらいます。
(久保正夫氏宛 二月十二日。広島県病院より)
   三度の手術もむなしく、病院を去った長き忍耐の日

 私は筆を持つとじきにあなたに訴えたき気持ちになるのです。私は今外科部長と話して別れたばかりです。そしてその話はどんなに心細いものでしたろう。実は私の傷は一週間前までは非常に良経過にて、この様子ならば近日中退院して温泉へ行けと部長も言っていたのです。それで私も東京の妹や故郷の両親にもその旨を通知しました。ところが一昨日頃から傷の模様は急変しました。そしてまたもやフィステルになりました。
「部長さん、切るべきものなら切って下さい」
 私は四度目の手術とその後の永き忍耐をいとわぬ覚悟で問いました。
「そうだね、切るのはいいが、切ってもまたフィステルになるかもしれない、よくそうなりがちなものだからな、それよりこのまま退院して温泉へでも行きからだの保養したほうがいいかもしれない、ルンゲのほうが大切だからね」
「すると痔はどうなりますか」
「痔はだんだん悪くなるね、どうしても。悪くなってからまた入院するのさ」
 部長は憐れなるものを見る眼つきで私の衰えたからだを眺めました。(じっさい私は三度の手術と運動不足と毎日の苦痛のために著しく衰弱しました)そして気の毒そうな様子をして出て行きました。ほとんど半年の永い永い忍耐はむなしくなってしまいました。そして何の収穫もなくして病院を去るのでしょうか、しかもまた手術しに帰らねばならぬと知って肺を養うために温泉に行くのでしょうか? 今朝私は父と艶子から喜びにみちた手紙を受け取りました。そしてこの悲しき事実を返書にしたためねばなりません。あわれなる父(あなたは二年前この父を東京の下宿の門口で見ました)はどんなに悲しむでしょう。私はひとり蒲団にすがって悲しみに溺れていました。するとお松という十六になる田舎娘いなかむすめが私の室にはいって来ました。私は一と眼見てすぐに彼女の心を知りました。また叱られはずかしめられて私に訴えに来たのです。
「おいどうした、どうした」
 と、私は近づきながらたずねました。するとへいに顔をつけて身ぶるいして泣くのです。その時私の付添婆が帰って来てその事情を話しました。お松は湯たんぽを落として足の指をひどく負傷しました。そして看護婦にたのんで繃帯してもらったのを主人のお嬢さんが無慈悲に叱りののしり、そして金を惜しんで診察も受けずになおるものかなどと言って辱かしめたのです。貧しき彼女は診察の金もないのです。
「わたしは、わたしは……いくらお嬢さんでも……」
 などとすすり泣くばかりでものもいえないほどでした。私はふるえる赤い髪と足の繃帯と、小さなあげのある肩を見た時思わず彼女を抱きました。
「あした、医者に見ておもらい、金は私が持ってる、いけないね、実にいけないね」
 私は腹が立ちました。そして付添婆がお松をなだめて連れて出た時私はお嬢さん(聖書の講義をしている娘)を叱りに行こうとして、かえって悪いと思ってへやにとどまりました。そして私の興奮を抑えることができなくて窓にすがりました時私は泣きました。でも考えてみて下さい、何もかも悲しいではありませんか。窓の外は嵐でした。そして青い遠い空には星がふるえていました。私はこの頃しみじみと星が親しくなつかしくなりました。今夜も天の甘美と遠い調和と魂の休息とが思われて、そこはかとなき永遠へのゼーンズフトを感ぜずにはいられませんでした。そして「ああ病気は癒らなくてもいい」と思いました。そして手を合わせて祈りました。
 なにとぞいつまでも私を愛して下さいまし。私はあなたの過去についてほんの少ししか知りませんけれど、あなたは孤独な淋しい少年時代を送った人のような気がしてなりません。そして今あなたの住んでる家庭はあまり温かな住み心地よきものではないのですねえ。なにとぞ悲哀に耐えて他人を愛して生きて下さい。あなたの芸術的天稟と盛んな、謙遜けんそんな、研究心と深い微細な感情とはあなたを大きな器にするに相違ありません。私はあなたは大学を出る頃にはすでにひとかどの学者になるだろうと思われて非常にプロミッシングな期待を置いています。私はあなたの未来に祝福を送ります。
 小さな乾いた青い花の封じ込まれたお手紙は懐しく読みました。そのようなことをなさるのもあなたには似合わしく感ぜられます。荒々しい私の他の友だちには、そのようなことのふさわしきものはほとんどありません。じっさい私はあまりにワイルドな人々の間にのみ住み過ぎましたように思われます。私はあなたのやさしき性格をめでました。そしてあなたの少年時代についてもっと知りたき心を誘われました。ハインリッヒの青い花の夢物語や聖母崇拝の祈りの歌やみな私の胸になつかしき響きを伝えました。私はファウストのなかのグレートヘンがマリヤの石像の前にひざまずいて「マリヤ様、わたしはどんなにひとの罪を責めることの厳しかったことでしょう」などと悔い祈るシーンを思い浮かべつつあなたのお手紙を読みました。あなたは忙しいのによくもたびたびお手紙を下さいます。いつも恵みのごとく悦んで読みます。私は明日いまいちど診察を受けて今後の養生の方針を定める気です。なにとぞ不幸なる私のために祈って下さい。私には人生に絶望することは宗教的の罪悪です。私は不幸のなかにいかにして人生を祝福すべきかを学ばねばなりません。
 私はとても学校生活の堪えらるるほどの健康にはなれそうに思われません。学者にも芸術家にもなれそうに思われません。私はもし神様のみ心ならば魂のことにつきて人に語る説教師になりたいと思います。愛することや、赦すことや、忍ぶことや、祈ることについて私の同胞に語りたい。そしてその材料を学問からでなく人生のさまざまな悲哀や、不調和や、神との交通やすべて実験から得たい。そして私の魂をできるだけ深く純に強くひろくすることによって直接に他人に影響したい。じっさい世の中の人はどれほど自分で自分の魂をはずかしめているかしれませんと思います。キリストは「罪の価は死なり」といいました。たとえば面をつつんだ皇后は少しの侮辱にも得堪えぬように魂は少しの罪にも死するほどデリケートな純潔なものなのではありますまいか。近代人の最大の欠点は罪の感じの鈍くなったことだと思います。中世の人はもっと上品であったように見えます。私はモンナ・バンナが夫に貞節を証するために、「私のひとみを見て下さい」というのを実に純潔な表現と思いました。私は私の眸を涼しく保ちたい。憤怒や貪婪どんらんや、淫欲に濁らせたくありません。そしてそのためには祈りの心持ちを失いたくありません。ショーは「人間は試練の刹那せつなに使命を知る」と申しました。私はこの幾年のライデンは試練というにはあまりに小さかったとも思いますけれど、私の最善の仕事は、哲学者でも、芸術家でもなく説教師ではあるまいかと思うのです。私は神様にもっともっと親しく交わらねばなりません。そしてたえず、祈りまた祈りして聖旨を待ちましょう。私は神様の導きを信じます。あなたはいかに思って下さいますか。
 それからお絹さんのことを少し書きます。彼女は私に熱く恋しました。そして私を悩ましました。それは彼女が思い乱れて仕事は怠り(彼女は働かねば食えない境遇です)食事、睡眠は乱れ、他人との交渉を不義理にしだしたからです。私の最も怖れたとおりになりました。私は恋を重しと見ない心の境地に達してる淋しい人間です。私は宗教的空気のなかに彼女を包んで愛しました。そして他人を愛する心の妨げられるような愛し方で私を愛されることはいやだと申しました。そして仕事の大切なこと、心の安静の貴重なことをさとしました。しかるに彼女は私に結婚を申し込みました。私は肺のことも考えねばならず、収入のこと、使命のことなど考えればとても決断できるわけはありません。いろいろと煩悶はんもんした末私は次のごとく答えました。
「もし神様の聖旨であるならば結婚しましょう。聖書にも「誓うなかれ」とあるごとく、私は約束はしません。神様は私を独身ではたらかす気かもしれないし、ほかの女を私に※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)わすみ心かも知れません。二人はいっさいの誓約はせずに神前に恥じぬ交際を続けて行きましょう。そしてみ旨なら結婚しましょう。」
 そして私は聖フランシスと聖クララとの交わりを語り、恋のはかなきことと、他人を愛することのできぬような独占的な愛の純なものでなきこと、純粋な愛は仕事や生活の調整を乱すものでなきことを語りました。そして私のH子さんとの恋のほむべきものでなかったことを語りました。
 そのうちに彼女は患家に働きに行き二週間ほどになります。そして今日の彼女の手紙を読んで私はまったく安心しました。彼女はいろいろと思い悩んだ末自分の私に対する愛の不純なことを覚り、かつ悔いました。そして恋のエゴイズムと煩悩ぼんのうとに気がつき、もっと聖なる愛にて私を愛する心になったとみえます。しかしそこには涙となやみと人工的な努力があきらかに見えています。私はかわゆくてなりません。私は彼女の一すじな恋の仕方を愛しました。全体に私には気に入る多くの点を備えているのです。しかし私は神を畏れ、彼女の運命を傷つけることを怖れて重々しく、大切に、彼女を損わぬように全心を傾けています。
 しかしあるいは私のような病弱な者を恋せねばならぬのが彼女の一生の悲しき運命になるのではありますまいか。人間と人間との深き交わりはまったく運命ですからね。私は何事も神の聖旨を待ちます。けっして軽々しいことはしませぬから安心して下さい。それにしても私の病気はどうなるのでしょう。
(久保正夫氏宛 三月六日。広島県病院より)
   病院よ、祝福あれ

 あなたたちは私らからの便りを毎日心持ちに待っていて下さったことと思います。そしてあまり便りがないために不安にもなり、また愛より起こる軽い腹立たしさを感じなすったことと存じます。兄妹はこの一週間がほどは宿を探すために心あわただしくてしみじみと手紙を書く時を持ちませんでした。私らはその間に二度宿を移しました。そしてやっと今の宿におちつくことができました。なにとぞ私らの怠慢を許して下さいまし。
 病院を出る時には物悲しい思いをいたしました。癒らないで出るかなしさを人々に慰められるのがいっそう苦しゅうございました。私は百三十幾日の間親しみたる人々に別れを乞いに行く時にはセンチメンタルになってしまいました。そして「幸福に暮らして下さいねえ」とだれにもかれにも申しました。絵を分かった肺の悪い友は非常に落胆して私と別れることを大きな幸福を失うことでもあるかのように嘆きました。いよいよ病院を出る時には玄関まで岩井の母親と嬢さん(聖書の友)や二、三の知人が送ってくれました。肺の悪い友は歩行してはいけないと私が止めるのをもきかずにしいて玄関まで出ました。あおざめた顔には興奮した眼が不安に光っていました。私は門を出る時振り向いてその病友の顔を見た時これが一生の別れだと思いました。門を出ると春浅き街は風がひどく吹いていました。私は「病院よ、祝福あれ」と声を立てて叫びました。そして「みんなみんなしあわせに暮らして下さい」と心のなかで涙とともに祈りました。その日から私は市内にある叔母の家で数日間暮らすことになりました。この家庭は富み栄え、そしてそれがためにかえって不幸なる多くの家庭の一つでした。私はこの家庭にあっては不幸でした。あまりに物質的なる家庭の空気は私のいためる心にふさわしくありませんでした。私は私のこの頃の他人の幸福のためにおせっかいな心から、そしてキリストの「なんじらは世の光なり、地の塩なり」といわれた言葉などを思い出して、少しく叔母に精神的に和らげられたる家庭について語りました。私は謙遜なる心持ちでいったのだけれどあまり好感情は与えませんでした。また私はお絹さんとの交際に関してきわめて不愉快な疑いをかけられているので、いっそう気まずい心地で暮らさなければなりませんでした。それで私はもっぱら、脊髄病せきずいびょうで幼児よりほとんど不具者となっている私の従妹いとこと語り、慰めることによって日を送りました。そのようなわけで、艶子から見舞いに来るという電報を受け取った時には福音ふくいんのごとく喜びました。愛する妹は天使のごとく私に来たりました。そして謙さんから美しい西洋の草花の束や、正夫さんからの絵や小説やそして二通の優しき励ましとなぐさめの手紙を受取った時は、まことに幸福な思いに満たされました。私はそれらの幸福をけっして私の受くべき当然のものとは思いません。神様の恵みと感謝いたしました。私はこの頃はあなたたち二人の温かい静かな愛情と理解とに生きています。そしてそれをあたりまえなこととは思われません。どんなに感謝しているか知れません、なにとぞいつまでも愛して下さいまし。
 私は、けれど、お絹さんとははかない別れをいたしました。彼女は患家先きに働きに行っていました。そして私は厳重な叔母の家にいるので、女と外で会う機会などつくることはできそうにもありませんでした。もとより彼女は患家を去り私はあえて叔母の心を乱さすならば会えないことはありません。昔の私ならば何の苦もなくそうしたでしょう。けれど私らは交際の初めから「他人を愛しえないならば私らの愛は尊きものではない」と決めました。病人の看護と叔母の心の平和とを犠牲にして別れを惜しむことはよいとは思えませんでした。それで二人はただ二時間ほど患家さきから暇をもらってある旅館であいました。彼女はどんなに泣いたでしょう。そして別府までついて行くといいはりました。そして絶望的な様子をしては「これが一生の別れだ」と幾度も繰り返しました。私は彼女をなだめ心を静かにして人生の悲哀を耐え忍ぶこと、二人の将来は神の聖旨のままに任せ奉ること、もし神のみ心ならばいかに別れても必ず※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)わせ給うこと、私らに最も今大切なることは聖旨を呼び起こす熱き力ある祈祷なることをねんごろに説きました。そしてあまり彼女のなげく時には、どうせどの女をも恋することができないのならば、この女と共棲しようかとも思いました。けれど私は神を畏れました。何の誓もいたしませんでした。二人がどうなるか、何の私たちにわかりましょう? 私たちは神様の領分を侵してはなりません。
 けれど私は私の車を送って旅館のの暗い下に立ちつくしていた彼女のあわれなる顔を忘れることができません。あるいはこれが一生の別れになるのではありますまいか。私たちには未来のことは少しもわかりません。けれど翌日妹とともに広島を出発して下関に向かう汽車のなかで「また会う日まで」の讚美歌を唱った時には、私の心は彼女を抱き、彼女を守り給えと一心に祈っていました。
 汽車のなかは案じたる眩暈めまい発作ほっさも起こらず安らかに下関に着きました。その夜は貧しき従姉の家に一泊し、翌朝門司よる筑紫路となり二時間を経て別府に着きました。それから今の宿におちつくまではあわただしい不安な一週間を送りました。私は傷つける心を抱いて春のほしいままな温泉宿にあることは好みませんでした。それで妹にもたのんで別府の町から一里はなれた、鶴見山という残雪を頂いた山のふところにある観海寺温泉に行くことに決めました。みぞれの降るある朝私らは一台の車には荷物をのせて山に登りました。野原のようなところや、枯れ樹立こだちばかりの寒そうな林の中などを通りました。そして峻しい坂路は車から下りて歩かなければなりませんでした。それは痔の痛む私にはたいへん困難でした。宿は静かなというよりも寂しい山の中腹に建てられ、遠くにかなしそうな海がひろがり、欄によれば平らかな広い裾野すそのの緩かなスロープが眺められて、遠いかなしい感じのする景色でした。浴客は少なく浴槽は広くきよらかにて、私の心に適いました。
 私はこの地にてはできるかぎり宗教的気分にみちた生活をする気でした。キリストの四十日四十夜の荒野の生活、ヨハネのいなごと野蜜とを食うてのヨルダン河辺の生活、などを描いてきましたので。
 けれど私にはここにも十字架が待っていました。宿に来てからは妹の健康は異情を呈しました。それは山の上には風寒く北向きにて日あたり悪しくまたあまりに寂寞せきばくなるためでした。妹は何となく不幸そうに見えました。そして外は風雨の烈しく樹木の鳴る夜に寒そうな淋しそうな顔をして少しは燈火の美しいところへも行きたいと申しました。妹はついに風邪かぜにかかり発熱しました。そして食事もせずに寝ているところへ知人の医学士が来て、妹の肺は少し怪しいと私にだけひそかに注意しました。そして山の乾いた冷たい空気はいけないからさっそく下山するように勧告しました。私は広島駅で妹を迎えた時からそのやせたのに気がつきました。そして食事のすすまぬのを心配していました。私は妹がもし肺病になればと想像して戦慄せんりつしました。そして私は病人ではなくて妹のほうが病人のように思われました。私は自分の生活のために、弱いまだ花やかなものを慕うにふさわしき乙女を、冷たい、淋しい山の上に連れて来たわがままを後悔しました。そして私の趣味を捨てて妹の健康を救おうと決心しました。妹は可憐にも私のために山の淋しさも寒さも燈火のなつかしさも犠牲にする気で少しも不平はいわぬのみか、かえってあなたが好きなら山におろうといいました。けれどその翌日兄妹は山から下りて再び街に来ました。そして今の宿に来たのです。今の宿は海に近く日あたりよく、かなり静かにて居心地よく穏やかな養生の場所として不適当ではありません。夜は温泉宿の燈火が美しく、三味線をひいて街を流して歩く女なども多く、昨夜も海岸を散歩してみましたら甘やかすような春の月のおぼろな光のなかを男と女と戯れながら歩いてるのを幾組も見受けました。
 私は退院以来私自身も、妹も驚くほど元気よろしくかえって妹のほうが案じられるくらいです。妹もこれといって悪いのではありません。休学させて養生させます、なにとぞ心配しないで下さい。私は私のためにも、妹のためにも神の癒やしを祈っています。私らは静かな寂しいそしてたのしい生活をするつもりです。私は私のそばに愛しいつくしむものの共にあることを悦びます。私は孤独を願いません。私の心はただひとり私が住むときには犬でも飼いたき心地となって表われます。私は時々夜半などにふと眼のさめたとき、かたわらの寝床に妹が黒髪を枕に垂れてすやすやと眠ってるのを見て幸福を感じることがあります。そのようなときに、ひそかにそしてかろく眠りをさまさぬようにその白い手に接吻したい心地がいたします。ああどうして近頃の青年には、弱い美しい清らかなものを慈しみ愛する心が乏しいのでしょうか? 「青と白」の終わりには森のなかで桃色のパラソルを持った少女と大学生と恋を語っているのを見て、それを祝し自らは淋しい樹影にかくれて、静かな魂の休息の深いなぐさめを感ずる青年が描かれてありましたが、それを私はたいへん心地よく感じました。けれどその大学生が幼い少女の愛をもてあそび、そしてブルータルな要求にその清らかな心を蹂躙じゅうりんしたらどうでしょう。私は恐ろしくてなりません。そしてそのような場景を考えねばならないことを、不安にも、苦痛にも感じます。そのようなことを現実として見なければならないことは人生の一つの大きなイーブルではありませんか。「青と白」とのヒーローは詩人的な純潔な音楽的な気品を備え、成長しました。私はツルゲーネフのゼントルフォークのなかにでてくる純潔な青年詩人を思い出しました。その青年は貧しくて破れた服を着ていたけれど、ひるまず天来の快活をもって理想を説き、盛んに議論し自らを空の雲雀ひばりや野の百合ゆりと比べました。世に芸術家ほど純潔であらねばならないものがありましょうか? 魂をはずかしむるものは詩人ではありませんと思います。私は「青と白」のヒーローの歩み方を祝し、その前途を期待し、そこに善良な、博大な、そして愛も、欲求も、知能も、音楽的に精化された諧和ある人間を待ち設ける心地がいたしました。私はこの一週のあわただしきなかにも暇さえあれば、「青と白」を読み、そして終りまで読んでしまいました。そして少なからず感心しました。
 この真のリファインメントのある作品を早く出版して、荒々しい今の読書界に提供したいものだと思いました。澄子を送る別れのあたりの描写などは、実に貴族的にデリケートな芸術的天分が現われていました。一体が音楽的な感じを与えました。そしてその背後に人心の深き自由なる「善」の意識が常に伴のうていたのは限りなく悦ばしく感じました。私は表現の技巧についてはあなたたちの前には何も申上げる柄ではありません。ただ読み終わって善良な高尚な印象を残されたことを感謝します。
 しかし「青と白」の少年は自らの事を語るのに少しく優越の感じを持ち過ぎたように感ぜられるところもありました。もとより自由な純な心持ちでならば誇ることさえも善良に聞かれるものですけれど、どこともなしにアイテルな感じのするところが少しはありました。けれどそれは正夫さんには意識的でなくてシャインバールなものと存じます。私は私の生い立ちと「青と白」の少年の生い立ちとも比較して考えてみました。そして私などは世間的な意味で幸福な、そしてしたがってフリーヴォラスな少年時代を送りました。私は淋しい深いそしてロマンチックな空想的な詩人らしい「青と白」の主人公の少年時代を尊く優れたものと思いました。けれどこの少年は物を掘りうがち動かしゆるがす力が足りないようにも感ぜられました。
「青と白」ほどのものを書きうる人は今の日本の文壇にはちょっとないと思います。フランシスの翻訳などとともに早く出版の運びにしたいものと思います。正夫さんの絵は兄妹の仮住居の部屋を飾るために、しばらく持たせていただきます。この春には絵を描きなさるそうですがぜひ私にも見せてほしいと思います。謙さんが今度書かれるという長篇のできあがるのを子供の出産を待つような心でうれしく待っています。私はこうして友もなく学校もなく劇場も展覧会もなき地に病気ばかりしていますけれど、神様は何か私にできる仕事を私に示して下さると信じてその命令を待っています。私の将来のために祈って下さい。
 私らは毎朝一緒に聖書を読んでいます。この頃はヨブ記を読んでいます。私は妹を慈しみ、哀れな人々を助け、祈祷と勉強と養生とで静かに暮らそうと思います。
 東京の春はそんなにプレザントなものではありますまいね。休暇にはどうなさいますか、当地もこの数日は風がはげしくて不安な天候でしたが、今日は晴れやかな暖かないいお天気でした。山をく煙が青い空に昇ってるのがたいへんさわやかな感じを与えます。この手紙は私のことばかり書きましたが、それは久しく無沙汰ぶさたしたので私の様子を知りたいとあなたがたが思っていて下さると考えたからでした。宿もきまり心もおちつきましたからこれからはたびたび便りいたします。絵葉書はけっしてよくできてるとは思いませんけれど別府の絵ですから送ります。「青と白」はまだ妹が読んでいますからいま少し待って下さい。妹が読んでしまったら書留めで返送いたします。
(久保正夫氏宛 三月十九日。別府温泉より)
   ヘレン・ケラーの事

 私の手紙に行き違いにあなたのお手紙が参りました。私のことを自分のことででもあるようによく考えてくださいました。私も無理に東京に出なくてもよろしいのですけれど、自分らと尊い営みを共にする人々と、朝夕往復のできるようなところに住みたく思いました。しかしあなたのおっしゃるように東京に行ったとて心のおちつくわけでもありません。私はもっと耐え忍ぶ心を強くしなくてはなりません。自分のわがままな願いが自分を不幸にすることも多いと思います。
 私は先日、ヘレン・ケラーの自叙伝を読みました。盲目でつんぼおしである彼女は、どんなにこの世の幸福から封じられねばならなかったでしょう。しかも忍耐努力して大概の書物は凸凹字に触れて読むことができるようになり聖書なども読みました。野に立てば温度や花の香などで野の心持ちもわかり、ひとりで湖に舟をいでは、かおりや風のあたりぐあいなどで、舟の方角を定めました。そして月のかがやく夜などは、舟ばたから水に手を触れると、静かな冷たい月光をも感ずることができたといっています。私はこの女の生涯の苦労を思い、私などはまだまだ生きるために、フェボラブルな境遇にいるのに、失望がましき心を起こしてはならないと思いました。彼女は春の夕、合歓ねむにおいに、恋しいような、懐かしいような心のあこがれをそそられて、そのを抱いて接吻し、香を嗅ぎ、泣いたというようなことも書いてありました。また、クリスマスに先生から贈られたカナリヤに自分の掌から桜の実を食わせ、その小さな、柔らかなからだに触れて愛の感動をおぼえたとも書いてありました。不幸な彼女は人生の悲哀も、愛のうれしさも、神の恵みも、その心持ちがしみじみと会得され、晩年には聖書をそばからはなさず、ブルックス僧正から愛と恵みの教えを受くることを、何より楽しみといたしました。私は、光と音とを知らない彼女が、海辺をさまようては貝殻を拾うたり、岩に腰をおろして、海の博い心や、太陽の思いを想像したりして、時のたつのを忘れたという語を読んで、深く感動いたしました。神様はさながらあわれなる彼女の一生を、やさしき悲しみもて守り給うように見えます。そしてこの書物を読んで私の心に残ったものは、やはり人生の深い悲哀と、愛の不思議なうれしさとでした。遠い遠い平安と調和とを信じる心地が、私の胸の奥深く起こって参りました。
 この間の手紙に結婚のことを書きましたけれど、あれはそうも思われると申しただけで、そう決めているのではありませんし、また他に考えねばならないことのいくらもあることも、承知いたしています。ただ私はいかにして純なる心で女性を愛すべきかという現実の煩悶はんもんを、常に持っています。性の問題は私には実に困難な問題に感ぜられます。そしてこれがために少なからず心の平安を乱されます。
 私は尾道の姉の来るか来ないか決まるまで、心を静かにして苦痛を忍耐し、妹を慈しみつつ、養生いたしますから安心して下さい。今日は久しぶりに太陽の姿を仰ぎました。二、三日来の風邪心地も去って、少しはすがすがしくなりました。私は持病が二つもあって、何かにつけてたいそう都合の悪い生き方をしなくてはならない身ですけれど、それでも神様は私を何かのお役に立てて下さることと信じます。なにとぞあなたはいつまでも私を憐れみ愛して助けて下さいまし。
 弱きもの、貧しきもの、愚かなものをしいたぐる、あるいはそしらぬ顔の傲慢ごうまんほど憎むべきものがありましょうか。私は人生の悲哀と愛の運命と、これらのものとはなれて生きて行く気はいたしません。私は一生涯、これらのものを問題として常におそれず取扱うようなベルーフがほしいと思います。なにとぞ自重なすって下さいまし。
(久保謙氏宛 三月二十八日。別府より)
   隠遁への思慕

 私は心がおちつかなくて、あなたに永い永い間御無沙汰してしまいました。私はどうも別府に来てから以来、心に平静と安息とを感ずることができなくて、いつも心が動揺しています。この頃は気まぐれな天候にて、ちらと青空が見えたかと思えば、すぐに曇って雨となったり、風がひどく吹いてにわかに寒くなったりいたしますので、いっそう心が静かになりません。あなたはこの頃は雨天続きにて、不安な心地で暮らしていらっしゃるのではなかろうかと思われます。桜もおおかた散ってしまって、柔らかな新緑の心地よく、眼にしむように感ぜられるまでの、あの悩ましい晩春の心地のなかに通学したり、読書したりして暮らしていらっしゃるのでしょう。あなたの静かな、ものを包みはぐくむような御生活や、たのしい音楽会などのおたよりは、いつも私の淋しい生活になぐさめを送ります。そして私はいつもあなたらと朝夕往復のできるために上京して、郊外の静かなところに住んでいたいと思わないことはありません。私はもはや永くあなたと会いませんね。私はお懐かしく存じます。
 私はどのような境遇にても忍んで生きたいとは思いますけれど、ことさらに私の魂の育ち行くのにフェボラブルでないところに住みたくはありません。ことに心の平静をこぼちほしいままな荒々しさや働きのない懶惰らんだな気分のなかに住むことは、もっとも不幸に感ぜられます。私のように誘われやすい弱い、醜い性格のものには、周囲は侮りがたき勢力をもって迫ります。私は病院にいた時のような純な愛の感激を、この地では心に味わうことができません。私は周囲を責めるより私を鞭うたねばなりませんけれど、また私の淋しい傷ついた魂と病めるからだとでは、ふさわしからぬ周囲の事情風物をも責めずにはいられません。つづまるところ、私のこの地に来たのは神のみ心でなかったかもしれません。私は尾道にいる私の姉が、来月この地に来るならば、これに妹を托して私は庄原のあの森と池との離れ家に帰ろうかとも思っています。妹と私とは同じような生活をするのはよほど無理です。そのはずです。私が思いますには、私のようにエゴイスチッシュなものは、人を愛するためには人を離れて、人なつかしいような位置に自分を置くのがよいのではありますまいか。私はトマスの隠遁の生活を愛にかなわぬと思って、つとめて衆群と接触するように努めました。けれども、それは私ごときの愛の素質の乏しきものには、人間ぎらいの心を起こさせ、また自ら誘われ、人を惑わす結果になりがちなものであることを知りました。人々の群れのなかに住めば責める心、いやだと思う心が、はるかに多く私の胸を占領します。また自ら卑しくなる心地がいたします。だいいち、女をナハバーリンとして愛することは私にはよほど困難です。お絹さんなどに対してももとより外にあらわれる行為の表現は言葉も態度も品を失わずにすみますけれど、心に動くエロチッシュの興味を何といたしましょう。しかもこれ神様の眼には免るることのできぬ姦淫かんいんです。もし人々の群れを離れて淋しきに住めば、どのような人をも懐しがり、女をもナハバーリンとして、その幸福を祈ってやることができるのではありますまいか。
 私は再び隠遁いんとんに帰りたくなりました。どれだけの周囲が自分に許さるるかは、その人の器の大小によるのでありますまいか、キリストはサマリヤの娼婦しょうふにもただちに近づいて説教しました。けれどもし、淫欲の心燃ゆる下根の人間が、ただちに女に近づくのが愛の行為でしょうか、私は隠遁の真の心持ちをまだ知りませんでした。自らに与うる力なくして、他人を傷つける心ばかり起こるようでは、衆群にはいるよりも、衆群を避けるほうが愛ではありますまいか。「私のような者があなたたちと接触しては、あなたたちのためになりません」こういって隠遁するのはいけないのでしょうか? まして触れれば触れるだけ相互の魂を汚すばかりであるときには、「さようなら」を告げるのも正しくないとはいわれないかと思われます。私はトマスの隠遁の心持ちが少しはわかったように思われます。私はこの頃は「さようならを告げる心持ちの根拠」について考えています。万人と万物とを随所随時に愛することのできる自由の境地は私たちの最ものぞむところながら、「造られるもの」がかかる境地に行くまでには強い隠遁の欲求――愛と純潔より生ずる――が起こるべきではありますまいか、キリストの四十日四十夜の荒野の生活、モーゼの三年の隠遁、フランシスの洞窟どうくつのソリチュードなどが思われます。私などは衆群にはいる前にもっと独居しなくてはならないのではありますまいか。ちまたに出ずるまでにもっと荒野に試みられねばならないのでは?
 しかも私はどうも独居することのできがたい、人なつかしさを持っています。そして人の間に交われば自分のなすこと他人のなすこと、みな心に適いません。そして私はその境に立って迷います。けれど私は人を選んで交わり、場所を選んで住むのは絶対の境地とは思ってはいません。どんな人々の間にも、どんな場所にでも、安住することのできるようになりたいとの願いがあります。けれど今の私にはそれは遠い、遠い彼岸でございます。私はさまざまのことで自分の分限というものに気がつくようになりました。そして謙遜にならずにはいられません。それは理想を高く高く天に向かって掲げるからだと思います。
 私は先日トルストイの性欲に関するエッセイを読みました。そして女性を純な心で愛せんがための煩悶を共にいたしました。それは私の失恋して以来の不断の問題なのです。そして彼が絶対の貞潔を理想としながら「結婚して貞潔を守れ」といったのを、自己を知った意見と思って同感いたしました。聖パウロが「人おのおの淫行を免れんがためにその妻をもつべし、そは胸の燃ゆるよりはまされば也」といったのを思い出します。じっさい私は時々私の女を見る目を純にするために、妻を持とうかと思うことがたびたびあります。まことに恥かしいしだいですけれど私はそう思われます。肉に飢えたる貪婪どんらんの心を思うと、実に浅ましくて、そのような心で女を見ることは実に嫌悪すべきものと感ぜられます。私は私と共生することをせつに希む女と結婚し、そして妻とともに貞潔に志すべきではなかろうか、と思われることもあります。また私は結婚によってさまざまの虚栄心を滅ぼすことができはしまいかと思われます。すなわちよき妻の映像に刺激せられて勉強したり、未婚の婦人と甘ゆる心、媚びるまなこで接したりするようなアイテルな心から免れることができはしまいか。事業、創作などをば真に人類的な目的で営むためには、これらのまどわしは、かなり大きな障害ではありますまいか。虚栄心があっては真に仕事はできません。そして恥ずかしながら私には女は最も大きな虚栄の源になります。私はいっそ結婚してしまおうかとも思います。けれど結婚に関しては熟考を要する問題は他にたくさんあります。私はそう決心してるわけではありません。
 ただ私ももはや二十五歳にもなり、永くこうしてブラブラしていますから、この秋頃からは何とか生活のきまりもつけたく、父も老年のことゆえ、財産上のきまりもつけ、東京郊外に家でも持ち、結婚して、いっさいのむなしい、浮わついた心を捨てて、事業と使命とのために、新しい生涯に入りたいなどと寝床のなかでよく考えることがあります。私は生活の歩みをもっと確かにする必要を深く感じています。これらのことはすべて少しも決めてはありません。あなたのお考えなどもついでの時に漏らして下さい。妹は今年は休学させて養生させようと思います。秋からは一緒に東京で家を持つかもしれません。どうもいずこともなく、衰弱して見え淋しそうな様子なので、私も案じています。二人とも何となくふしあわせな、足りない心持ちで同棲しています。私は妹に気の毒に存じます。お絹さんはたびたび熱いやさしい手紙をよこします。彼女の心に悲哀の種をいたことを、心苦しく思いながら、私は彼女を愛して書物など送ってやったりしています。純な、シンプルな深い感情の響きのあるような書物を読ませてやろうと思っています。
 四、五日前には、本田さんという妹の友だちが訪ねてくれました。そして三日私たちとともにみました。その人はさまざまな苦しい目にあって鍛錬された強い心を持っていました。今度女子大学を卒業したので、貧しい父母からの送金は断わり、自活するのだそうです。なんでも東京のある家の家庭教師となって、不具の子供をあずかるのだといっていました。私にさまざまな過去の苦しい経験や今の心持ちを語り、そして過去を埋葬(彼女はこういう言葉を用いました)して新しく生きるのですといって、深い決心を示しました。私と妹とは彼女を停車場まで送りました。彼女は何ものかを期待するいきいきした顔をして、でもなごり惜しそうに曇った空を見あげて、熊本の方に去りました。十七の時に無理に結婚させられて、二、三日でのがれて帰り、その時から乙女心を失ってしまったこの女の半生を思って、そして彼女の懐からはなさぬ慈悲の仏の小さな経とを思って、私は涙ぐましくなりました。私は彼女の強い決心を祝福しました。そして正夫さんの「青と白」を貸しました。このことをどうぞ正夫さんに伝えて下さい。
 今日はいろいろなごたごたした手紙を書きましたね。私の心はどうも静かでありません。許して下さい。私はもっと心を強くして周囲に支配されぬようにならねばいけません。トマスの「百合の谷」を送って下さいませんか。お天気になれば妹と写真を撮って送りますつもりです。
(久保謙氏宛 四月二十七日朝。別府より)
   静かな、知性ある友情の慰め

 あなたからのかずかずのやさしいすぐれた手紙や、小包み、雑誌などはみな残らずたしかに落手いたしています。そしてそのたびごとにあなたの熱い真心を深い感謝と、そしてときには涙をこぼしてのよろこびをもって受け取りました。あなたは私の長い沈黙にさぞさぞ物足りなくお感じなされたことでしょう。そしてあなたが私に何かシュルドを作ってるのではなかろうかとさえお考えなされましたと聞き私は胸を打たれました。私はもったいなく感じます。なにとぞ私を許して下さいまし。私は心が混乱しているためと発熱して少しく不快であったのと、来客をもてなすためなどでこのように永い御無沙汰をしてしまいました。私は心が乱れて手紙がかけないので、しばらく妹とも別れて二、三日淋しい山のなかの温泉へ行って心をまとめて手紙をかくつもりでした。そして出発しようとしてる時に、ひとりの従弟いとこたずねて来たのでそのくわだては行なわれませんでした。今夕従弟は別府を去りました。そして雨のしとしと降る音を近頃になくしみじみした親しみのある心できくことのできるような気分が訪れました。私は従弟を波止場まで送って帰り妹と雨に煙るまちのともしびを見ながらなつかしい淋しい話をいたしました。もう一週間すれば別府を去ることや、病院のことや、あなたたちのことや、ふる里の母のことなどを、そしてことに私のひとりの妹のこの頃の苦しい煩悶について二人は胸をいためつつ語りました。その後で私はあなたにしみじみと手紙の書ける心地に訪れられてこのように筆を執りましたのでございます。
 あなたは今頃はどうしていらっしゃるでしょう。おおかた読書していらっしゃるか、創作にいそしんでいらっしゃるかでしょうと思われます。あなたの勤労には私は敬服のほかはありません。あなたはまれなる精力を持っていらっしゃるように思われます。「白い部屋の物語」でその一部分のうかがわるる永い永い小説はまだ五章が終わっただけと承わりましたが、それができあがるのをたのしい、大きな期待を持って待っています。そのために多くの眠らぬ夜や、たれこめて日を拝せぬ幾月を価したと聞きますね、どうぞたゆまぬ、まめやかな、さかんな表現の衝動をもって、深い、博い人性の善くなろうとするねがいを失わずに、あなたの芸術的努力をつづけて下さいまし。私はほんとにあなたの未来に驚くべきものを期待しています。あなたの年若さであなたほどのタレントに達し得た人は、失礼ですけれどまれだろうとおもわれます。けれどねがわくば健康を大切にして下さい。必ず必ず私のように病身ものになって下さらぬようくれぐれもお頼みいたしておきます。あなたが母と子との間の愛の讚美として創ろうとなさる小説をも私はなつかしく親しき心地にて期待しています。「母たちと子たち」というのはまことに私の心に適う名でございます。母様へのあなたのやさしき奉仕のお心はあなたのいつものお手紙にてよく察せられ、私はまことに尊く思っています。この頃の多くのエゴイスチッシュなほしいままな、母にそむく子たちを思えば、浅ましく荒々しく感じられてなりません。何ゆえに近代の青年は、やさしいものの心を傷つけることを深い罪と感じなくなったのでしょうか。私はさまざまの荒々しき醜き出来事について聞かされます。母親の心、乙女の心などのたやすく傷つけられるのを見ると私はたまらなくなります。私もそれまであまり大切にもしなかった母をばこの後はなぐさめ、いとしんで仕えて行かねばならぬと思います。先日私は妹と一緒に撮った写真に、別府名産の竹細工の美しい籠を添えて妹と二人で手紙を出しました。私も妹も丈夫そうに写されていましたから、母はさぞ悦ぶことと思われます。
 ペラダンの「アッシジのフランシス」はまだ読みません。この人についてはこれまで私は何事も知りませんでした。フランシスのものは少しは読みました。私はこの聖者を取扱った戯曲を数日の内に読み始めましょう。ことにフランシスとクララとのことに注意をおいて読みましょうとおもいます。私の心の混乱するのはまったく神と性との問題についての悩みのためなのです。この頃私の魂はこの煩悶のために平静を乱しておちつくことができません。私のこのもだえは二週間ほど前にお絹さんが私をたずねて来てからますます強くなりました。お絹さんは突然私をたずねて来ました。そして五日ほど私たちと一緒に暮らしました。彼女はますますはげしく私を恋い慕うようになりました。五日の間一緒にいても彼女ははればれとたのしく私たちと暮らしたというよりも、何となく悩ましげに苦しげに見えました。そして私と二人きりになるときには重苦しい、悩みの言葉を出しては不安のように見受けられました。彼女は苦しい都合を冒して広島を出ているので、ゆっくりしているわけにもゆかず、帰りたくないといって泣きながら舟に乗って別府を去りました。その日は波は静かでしたけれど空は曇って不安な天候でした。ハシケで汽船まで妹と一緒に見送りましたが、別れる時に妹の手を握って泣いていました。(彼女は感じやすく、じきに親しくなる性質にて、妹をすぐに好きになり、いくらか崇拝するほどになりました)私たちは埠頭に立って船の出るまで見送りました。私は船で人を送ったのは初めてでしたからか、たいへんかなしく感じました。そして彼女はしきりに船よいを気にしていたので、あの「青と白」の最初のシーンが思われてなりませんでした。汽船の見えなくなってからも、彼女の髪の銀のかんざしの遠くに小さく光ってキラキラしていたのが眼に残って消えませんでした。
 彼女のねがいは私の妻になりたいと一すじに思ってるのです。そして私がその約束をしないので悲しがるのです。彼女は信じて恋しく思う男子に身も心もささげて妻になりたいというきわめて単純なねがいなのです。けれど私はさまざまのことを考えねばならない地位にいます。ことに私は結婚というものを十分に肯定するあきらかな根拠をさえ持ってるわけではないのですから。
 病気のことや経済の問題は除いても私は性を十分に肯定することができかねるような考え方になっているのです。それは私の宗教的気分から来るのです。昔から多くの聖者たちが女から遠ざかったように、私にも天の使のようになるためには性を超越せねばならないような心地もします。元来生物の自己認識から起こる愛であり、愛の成就としての信仰ならば、性の愛とは別なもの、むしろ反対のものが宗教的愛のように考えられます。ショーペンハウエルなどから出て来た私の思想は、性はエゴイズムの最も顕著な動物的要求のように感ぜられ、神に赴くの愛はそのありさまを一度認識して厭離した心持ちより生ずるもののごとく考えられます。そして私はことに肉体の交わりは、愛に反する心持ち、動物が共食いするのと似たエゴイスチッシュな動機より発するものと思われてなりません。私は愛の表現として性交を認めることはできません。私には天使的願求にのみよって生きたいというせつな希望があります。そして愛の動機のみにて他人に対したい、したがって女と肉体の交わりをすることは自ら許す気にはなれません。私はキリスト教的結婚というものを認めることができません。それにいっぽうにおいて私は性の要求が堪え切れぬほどに強いのです。そのためには先日謙さんにあげた手紙に「いっそ結婚したら」と思うと書きましたほどです。肉体の交わりをしないで、女性と(たとえばお絹さん)夫婦として同棲することなど、とても今の私にはできません。そのようなことをすれば私の心は不断の心の混乱と圧迫とに苦しむばかりです。
 私の心はこの二元のために混乱します。性を捨てることは私にはできがたきのみならず、実に惜しいのです。といって天使的願求は私にそれを許しません。この頃の私はこの両方の要求がどちらも高潮するのです。この頃私には性の要求が堪えがたきほど強くなりました。ことにお絹さんのために私のこのドウアリスムスはいっそう重くかつ急になりました。(彼女は子供らしく二十一、二にしか見えませんけれど、実際は二十五で、周囲の人々は彼女の年老けるのを恐れて今年のうちに結婚させようとしているのです。彼女は私でなくては結婚せぬといい、そして私がほっておけば見るみる婚期を失います)そして私はどうも心が定まらず胸が混乱するのです。
 天使的要求と性の要求とのドウアリスムスのための悩みに私は平安を失っています。そして私のこの頃の思索は「いかにしてこの両者を同時に肯定すべきか」という問題に集注しているのです。聖書の創世記には神はアダムとエバを創りてこれをよしと見給いきと録してあります。神の創り給いしものが、神の聖旨のままに連るならばそのよきものでなければなりません。私は創られたるままを肯定するように考えるまでは、私の思索が間違ってるのではあるまいかと思います。そしていかにかして神の前に性を肯定せんものと考えるようになりそれが尊い謙遜な道と思うようになりました。私はこれからそのために思いを凝らしたいと考えます。聖書のなかの「雅歌」には女の肉体をどんなに美しくたとえ、とうとく讚美してありましょう。私もその黒髪や美しい眸をめでずにはいられません。そして創り主の前で、その被造物として女と並んで立ちたいと思います。それにはいかにすべきか、私はそれを考えねばなりません。けれど私はどのようにしても愛と知恵との天使的なるあこがれが性と相容れないものならば、いさぎよく女性にさようならを告げて勇猛心を起こして天に昇らねばならぬとの覚悟はいたしているのです。愛はあくまでも真理であることは疑いません。この愛に背くものはいかなるものといえども悪しきものとして私は斥けてもいいと存じます。純なる愛の動機にもとらずにどのようにして性を私の生活にとり入れたらいいものかを考えたいのです。私はまことに恥ずかしながら謙さんなどよりもこの問題により多く苦しまなければならないような性格の者なのです。私はしじゅうこれまでこのために苦しんできました。私の生活の乱れるのは多くの場合このためなのでした。私はあなたたちことには謙さんの前にしばしばこのような卑しい言葉を書かねばならぬのを恥じますけれど、私がそのようなものなのですから、許していただかねばなりません。私は謙さんは珍しき静かな、調和した、上品な人間だと思います。そして尊敬せずにはいられません。私はこの秋にでも上京してあなたたちと朝夕往復するようになれば、さぞあなたたちは私の粗野な部分に触れて失望なさるだろうと思い、それを恐れる気もいたします。なにとぞ私に多くを期待せずに愛して下さいまし。私ぐらい生活を乱しがちな弱い者はありますまい。手紙でもあなたたちはいつでも忙しい身でもじきに返事を下さるのに、私はいつも遊んでいながら、このように御無沙汰をいたします。これと申しますのも私の生活がじきに乱れて心がおちつくことが少ないからです。なにとぞ気を悪しくして下さいますな。
 信仰の問題についても私は一つの困難に遭遇そうぐういたしました。それは私が聖書をドラマとせずに約束の書として読み、宗教的気分ではなく宗教の信仰をレアルなものとしては満足できなくなったときに生じたのでした。すなわち、聖書のなかにさまざまの疑いを、それは奇蹟に対する疑いよりも、神としての言行の道徳性に対する懐疑が生じました。そして私は宗教が真に「実」なるものとして私のなかに据わるまでには、まだ問題が多く残されてあることを感じだしました。そのようなわけで私は病院にいたときのように平和でいることができません。けれど私はそれらの混乱にも悩みにも耐え忍んで参りますから心配しないでください。
 私はこの月の末には別府を去ります。そしてあるいは妹と別れて私だけどこかの淋しいところに隠遁するかもしれません。思えば別府での生活は私にはまったく失敗でした。私は取乱した姿で人の前に出ないように、しばし私の心をととのえるために二、三か月の間退隠させてほしい。私が人々を愛する用意をするためにしばらく暇を、愛する人々にこいたいと思います。なにとぞ私が自らの安逸のために煩わしき世よりのがるるものと思って下さいますな。私はトマスより違った気持ちで隠遁します。私はちりちまたに兄弟たちと共生すべきものなれど、しばしの暇をこい求めるのです。あなたがもし呉にいらっしゃいますならば、おそらく私は呉より船にて七、八里ばかりの、ある瀬戸内海の小さな島にて、あなたとなつかしい握手をするようになるでございましょう。
 謙さんの送って下さった「百合の谷」は毎朝読んでいます。私は親しみを感ずることのうれしさに、訳されたほうを読んでいます。妹も読んでいます。謙さんには別に手紙を出しますけれど、この手紙は謙さんにも見せてくださいまし。「百合の谷」の所感などは、謙さんへの手紙に譲りましょう。冗漫な、乱れた手紙になりまして失礼いたしました。くれぐれも御自重なさいまし、夏にお目にかかれればこのように悦ばしいことはございません。
(久保正夫氏宛[#「久保正夫氏宛」は底本では「久保正氏宛」] 五月二十三日。別府温泉より)
   たのしき畏ろしき未来のために祈る

 私が久しく手紙を出さなかったものだから、あなたに御心配をさせてまことにいけないことをしました。まったく私の心が乱れて悩ましいためでした。なにとぞ憐れみゆるして下さい。あなたはよくも私ごときの運命を、あなたの身の上の一つの重大なことのように、よく気にかけて下さいます。私は時々不思議なような私がそれに価しないような気がすることがあります。そしてまた時おりはあなたが私とほんとに朝夕往復するようになったら、私のなかの卑しい部分に触れて失望なさりはしまいかと怖れることがあります。なにとぞ私をつまらないものと知って愛して下さい。たとえ私は卑しくとも、卑しいことを恥ずる感情は失ったことはなく、またそれを私のわずかのたのみ場として守っていますから。私はドストエフスキーなどを読むときに、いつも彼が正直羞恥、信ずる心、容れるはたらきなどを問題として、インテレッシイレンしているのに、深く感動されます。そしてカラマゾフなどを読んでも、裁判官の前に立つ荒くれ男のミチャが、かえって説教者としての威力を持ってるところなどに動かされます。そして私も卑しいけれど、純な高いものに憧れる心は持ってると思って悦びました。ドストエフスキーのような人から「倉田はいけない人間だ」と裁かれるならば、私はほんとに失望するだろうと思われます。私は妹からあなたの平常の暮らしぶり、話しぶり、正夫さんとの交わりぶりなぞを聞いて、まことにゆかしく感じています。そして私たちの交わりの荒々しいのを恥じます。あなたは清い優しい祝福されたる素質を持っていらっしゃるように私には見えます。なにとぞ今のようにして成長していって下さい。この頃は試験の煩わしい準備なぞで、うつうつしい時候ではあるし、暮らしにくいこととお察し申します。柔らかな緑の色の重く濃くなる頃は、最も頭の不快な気分に閉ざされるものです。あなたのいつかの妹へのお便りにも、幽鬱ゆううつななやましい気分がもられて見えました。なにとぞからだを大切にして、頭を使い過ぎないように注意して下さい。
 先日正夫さんに出した私の手紙に、私のこの心のありさまを詳しく書き、そしてその手紙はあなたにも見ていただくように申しておきましたが、私は一つの信仰の問題、また一つは性の問題のために心が安らかでありません。私はけっして証拠がなくては信じないというのではなく、旧約聖書に現われる神の意志によきものとして受け取りがたいところが多いのと、キリストの言行にまだ私の道徳的懐疑が残るために、キリスト教に対する私の信仰が動揺いたします。すなわち私は、エホバとキリストとの言行が最深の真理を含むがゆえにのみ、キリストを信じたいのですが、聖書に現わるるところでは私はまだ少ししか信ずることができません。私はヨハネが「われその栄えを見るにまことに神の子として……」といってるのに注意します。ヨハネをしてキリストを神の子と信ぜしめたのは、イエスの現わした栄でありました。私もそれに似た心持ちで、イエスの言行の最深の真理を含めるのを見てイエスを信じたい。そのほかには何の証拠も求めたいとは思いません。しかし私はまだそれを疑います。イエスの言行はまだ相対的のように思われるところがあります。ことにエホバの言行は、私にしばしば失望と懐疑とを生じさせます。私はかかる考えを起こすには、すなわち主を裁くような空怖ろしい心を起こすには、幾度も自分を省みました。ヨブの例をも思わないのではありません。けれど旧約聖書を読むことの深くなるだけ、私はそれを深く感じます。これは私が聖書を約束の書として受け取ろうと思ってから後に、いっそう強くなりました。私たちは宗教的気分を味わうためならば、聖書の心に適う部分をさえ読めばよいけれど、信仰のためには全部を信じなくてはなりません。もし一部分だけを信ずるならば、もはや聖書以外のものに、たとえば、実験というようなものに頼らねばならず、その時からキリスト教としての特殊の宗教は亡びます。キリスト教としての徹底した態度は聖書無謬説のほかはないと私は思います。そしてじっさい真のキリスト信者は、かかる態度の信者においてこれを見いだします。
 私は、愛やゆるしやいやしや労働やのキリスト教的徳を尊ぶ心は深くなるばかりです。けれどそれだけではキリスト信者ではありません。キリスト信者はキリストを神の子、救主として信じねばなりません。
 私の信仰の経路を反省してみますと、私にはキリスト教的愛の真理であることが信じられ、慈悲(キリスト教的愛)の完成のために祈祷の心持ちが生じ、その心持ちのなかに神に遭えるように感じたのでした。けれどそれだけでは少しもキリスト教と特別な関係はありません。私は聖書をドラマとして読み、そしてそれと、私の宗教的経験とを結びつけたのでした。そして私はキリスト教徒となりました。そこに無理と虚偽とがありました。よく熟考してみれば、私の神はエホバとは違います。またキリストのなくてはならない信仰とは違います。キリスト教徒とはいえないようです。このことは私が聖書を約束の書として受け取ろうとするまでは、すなわち宗教的気分がレアルなものとなるまでは私には、重いことではありませんし、気もつきませんでした。しかし私が厳重にならねばならなかった時、私は動揺しました。
 私はキリスト教の思想で日々暮らしてはいますが、クリスチァンではありません。私はまだ「わが神よ」といって祈り続けてゆきましょう。そして、私の宗教の世界での歩みをば、未来のものとして祈り求めてゆきましょう。私はこの動揺は、私が宗教のなかで一歩深く、蹈み込んだためと思っています。信仰がレアルなものとしての要求を起こしてきたからと思って失望しません。私はけっしてキリスト教をきらうのではありません。私はもっとしっかりした態度でいつかクリスチァンになるかもしれません。これらのことはかく短く簡単には述べられません。あなたは十分には理解できますまいけれど、でも私の心持ちだけは以上の説明でほぼ推察下さいますことと存じます。気分の宗教ではとても病の癒しを神のみに求めたり、他人の幸福の守りを神に任せて安んじているような強い信仰はできません。そして私はそのような信仰を求めます。
 性の問題は正夫さんへの手紙に書いたように、エゴイスチッシュな動機をはなれて、女性を愛し、しかもそれが性の要求の飽和を与え、しかも天の使のような生活を傷つけないような女性の愛し方はあるまいか、と考え悩んでいるのです。そしてそれは「あらねばならぬ」ことでありながら、よほど困難なように見えます。私は人間に性の要求のあるのは、根本的なよほど深い根のあるものと思います。そしてその性の要求をよしと見るのは無理ではないようです。しかもこれはじっさいエゴイズムの最大の動機となります。私は肉体の交わりに伴なう恥ずべき、きらうべきエゴイスチッシュな意識を痛感します。しかしこの交わりなくして、性の要求を飽和せしむるにはいかにすべきか、フランシスとクララとの交わりは、私に暗示を与えますけれど、それは師として、友としての感情にて、まだ性の要求の飽和には遠いもののようです。私はアダムとエバとのごとく、夫婦しての交わりにてのピュアな、天使的な、スイートな境地にあこがれます。それで私は、この頃は「聖なる恋」というあこがれを持ち始めました。神の前にての、エゴイスチッシュならぬ、天使としてゲミュートを損ぜぬ、けれど性の要求を飽和させる恋というものを描かずにはいられません。もし私たちの魂が祝福されたる高き神来の純化に達するならば、肉体の交わりなくとも、性の要求の飽和に達することができるのではありますまいか。
 私は失恋して以来、いちずに女と恋とをなやみしてきました。けれどそれは私の一つの反抗的なファラシーであって、ハイウェーではなかったかもしれません。私は遠い深い性の要求を魂の底に感じます。神さまがもし私に、神の※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)わせ給う女を送り給うならば、私は恋をしてはならないと思い決めまいと考え出しました。けれど私の願うごとき恋が、いつ現実に得られるか、私には何の手がかりもありません。
 前の手紙には結婚のことを申して送りましたが、あなたもおっしゃいますように、結婚を手段とするのは、ことに女の人に対して不徳なことです。また結婚が、すべての虚栄心を亡ぼしもしますまい。私はもっとよく考えましょう。けれど性の問題にどれほど私が苦しむかを察して下さいまし。「百合の谷」は読みおわりました。私はあなたに親しみを感ずるうれしさに和訳のほうを読みました。あなたの訳は訳したものとは思われないほどに、フリューシヒに私は感じました。そしてこれはこのような気分で生活してる人が訳したものであることは、文章の気品と調子とですぐにわかりました。争われないものだと思います。私は何の躊躇もなく「よく訳されている」と申すことができます。あなたでも、正夫さんでもその勉強には敬服します。あなたはまた試験の最中にこの訳を改訂なさったのでしたね。私は読了しましたから、妹に読ませましょう。トマスは「キリストの模倣」にも出ている隠遁的な、現世の混乱と汚濁とをきらうて、高く純潔なるものを憧るる情に燃えて私に迫りました。
 けれどやはり「なんじをして神につかうることを忘れしむるがごときものの仲間となるなかれ」とか、「なんじの心を浮世に誘うがごとき友を捨てよ」とかいうような言葉は、私に首を傾けさせました。どうもハイウェーでないように思われました。フランシスでも隠遁はしたかったけれど、忍耐して浮世に伝道しました。私は「私のような汚れたものは……」といって身を隠すのでなくて、「そんな人々とは……」といって隠れるのはハイウェーではないように感じます。この混乱した時代に、もし経済の心配さえなくば、だれか静かな「隠れ場所」を求めぬものがありましょう。私たちには人を選んで交わりたいという、ミスアンスロフィックな感情が去りません。が私はこれをシュルドとしていつも禁じています。
 私は一週間すれば別府を去って、妹とも別れて、この夏はたぶん倉橋島の音戸という広島湾内の小島にて暮らすようになりましょう。私はそこでしばらく考えさしてもらって、私の心を整えたいと存じます。夏には正夫さんと会えるかもしれないので、たいへん悦んでいます。秋からは上京します。そして久しぶりにあなたにもお目にかかれ、朝夕往復して生活を共にすることができますならば、どんなに嬉しいことでしょう。ただ、私は秋までに何か恐ろしい運命が、私を訪れねばいいがと案じます。私はこの頃は二、三か月先のことは恐ろしくなりました。願わくば神様が私を守り下さいまして私にこのたのしき逢瀬おうせを恵み給わんことを祈ります。あなたも祈りつつ待っていて下さいまし。私は小一里の道を歩行できるようになりました。また肺のほうはたいへんよくて、どの医師も心配しなくてもよろしいと申してくれます。痔は一生の持病として、今後しばしば煩わしき手術を受けねばならないことと覚悟しています。パウロが終世癒えなかった眼病を、神の与え給いしとげとして忍び受けたように、私も私の運命に甘え、自らに媚びる心を制するための神の賜物として甘受いたしましょう。私がもし、ほしいままな健康の消耗を生ずるごとき行を避け、謙遜に生を守りますならば、そうたやすく倒れはしますまい。私は病弱な貧しい素質ながら、私に残された領土をひらいて行きましょう。私は私の使命のために神に祈らずにはいられません。なにとぞ一生涯私の善き友であってくださいまし。私も一生涯あなたに背く気はございません。もし神のみ心ならば一緒に仕事をする時もありましょう。かく思う時、私は心の躍る心地もし、たのしき恐ろしき未来のために祈りの心が湧くのを感じます。ああ、御一緒に天に昇りたいものでございますね。
(久保謙氏宛 五月二十五日。別府より)
   温泉地になじまず、去る

 お手紙うれしく読みました。私は都合により倉橋島へは行かずに妹と一緒に故郷に帰ることになりました。ただ今は最後の散歩をしてしばしの交わりにはや別れにくきほどの親しさになっている幾つかの家庭に「さようなら」を告げて宿に帰ったところでございます。私たちは何だか悲しい淋しさに沈んでいます。市街の燈火も今晩は心もちかなしそうに思われます。思えば私は浜辺より森のなかへ、病院より温泉宿へと淋しい旅をしては、そのたびに幾人かの忘れえぬ人々とあわれな別れをして来ました。私は今夜はそれらの人々のことを思い出しました。そしてかなしい人生のさだめのまえに、祝福をその人々に送るいのりをせずにはいられません。私は私の未来の生涯をば淋しきものと思いさだめるたびごとに、ただこのようにしてできる多くの淋しい人々のよき友であることのみに私の生きる意味を見いだそうかと思うほどでございます。あなたはいつまでも私を愛して下さいまし。私はこの夏は父母にできる限りやさしくしようと思います。私のふる郷であなたにお目にかかれるならばこのように嬉しいことはありません。私は性と信仰とのことについてもあなたに聞いていただきたいことがありますけれど、それは帰郷してからの詳しき手紙に譲ります。私の心ばかりの送り物を受け取り下さいまし。
(久保正夫氏宛 六月二日。別府温泉より)
   十字架についての思索

 あなたの二つのお手紙と一つの雑誌とは私の手に届きました。私はこの手紙を書きはじめる前に日のあたる縁端の椅子にすわってあなたのなつかしき「花と老いたる母」を読みました。愛とかなしみと、そして遠い心のねがいが運命を知ることによって生まれる純な知恵とが私の胸にひびきました。あなたのものにはツルゲーネフやマーテルリンクなどに見らるるような、知恵と運命とのかなしい遠いこころもちがいつもひそんでいるように感ぜられます。あなたのものを見るまなこは早くから遠くに達することができるようになったものですね。あなたのものにはさながら老年期のような「見渡す力」が見えます。そしてあなたの趣味やあこがれは世のつねのものよりもみなひときわ奥の方へと深まっているようです。私はあの雑誌を見渡してあなたのものがはるかに学生ばなれしていることを感じました。ほんとにあなたなどは衣食の心づかいさえなくば学校へ行く必要のないまでにすすんでいらっしゃると思います。その表現の仕方にももはや一つのスタイルさえできてるように見えます。私はあなたの遠い御成長を祈っています。
 読者はあなたの作物によって、運ばれて行く事件の進行ではなく、あなたのゲミュートに直接に感じて動かされます。私はあなたが現実をばどのような仕方に取り扱われるようになるかは未来のこととして、興味をもって注意していますけれど、おそらくは現実はそれ自らではあなたの興味をつなぐことはあるまいと思われます。そしていつも何かのイデアルがあなたを創作に駆るの機となるのではないかと思われます。私などはいつも空想や理想で生きています。遠い山脈と白い雲とにあこがれる心なくしてどうして生きるよすががありましょう。私は心ひかるるものをいつも生活のほんとの内容として生きています。私が現実を凝視するのはそれによって現実をはなれて私の標的を純粋にし、日々のこまかなことにまでアイデアリズムを透徹したいためでございます。
 個々のまことなる心の要求を絶対化しようとし、そして生命を調和ある一つの全体としようとするねがいから、私には多元の苦しみがいつも生じます。そして私の生活を調和ある静けさに保ちがたくなります。たとえば愛は真理であることをエルレーベンして、そしていかにして愛に程度を付することができましょう。これだけの程度に愛すれば足りると考えることは私にはできません。ことにキリストや釈迦しゃかのような先人を持っている私は、与えらるるものを持ちながら与えずにいるのをシュルドとして感ぜずにはいられません。そしてそれは私のほかの要求を容れないことが多いのです。そして私は私のすることをジャスティファイすることはほとんど一つの行為にもできがたくなります。それは私の動機ばかりについての考えですけれど、私の行為の生む結果まで考えれば私はイグノランスを恐れて何もできません。そして私はこの頃は一つの行為をするときには常にこう思います。「私のすることはよいこととは信じません。賢いこととはなおさら信じません。けれど私はこのことで間違わないにしても、ほかのことで間違わないというのではありませんから、このことをさしていただきます」と。そして神の知恵を祈り求めます。
 愛はたのしいよりも苦しいものですね。私は愛のなかに含まるる犠牲というものをこの頃は深く感じます。そして愛の必ず十字架になることを思わずに、愛を語っていた愚かさを知りました。愛の本質は犠牲です。そして私は、この頃の多くの人々のように、何ものも自分のほしいものを捨てずに人を愛そうとしていたのでした。そしてその結果は何びとをも愛することはできないのでした。愛が十字架になるのはその犠牲の対象は、私たちのわがままならぬ動機よりほしきものを含むからです。はれやかな眺めと自由の空気、居心地よき部屋を得たき願い、善き友、尊き書物、美しき妻を得たき願い――このようなものも愛のための犠牲に供せらるべきものです。そしてそれを拒むならば愛の実行はできないように思われます。神の祭壇にはこれらのものをもひとたび献げなければ聖霊を受け取ることはできないというのは、私はもっともとうなずかれます。そしてそれは十字架でなくて何でしょう。他人の運命を自分の問題とするときにのみ真の愛はあると思います。私は妹をも、お絹さんをも、父母をも、愛することができないのは、私がこの十字架を負いえぬからです。あなたの美しき期待を裏切るには似ますけれど、私と妹とは七十日余の共生の間常に、いつもは融け合ってはいませんでした。お絹さんは私にたよりせぬようになり、父母のためには私は孝行な子ではないのです。――私をゆるして下さい。そしてその真因は私のほしきものを私が捨てないからです。それらの具体的な消息は手紙には書くにあまります。そして醜い現実的なものです。
 自らのほしきものをことごとく神の祭壇に献げずには、愛の実行は終わりあるものとして完成せられないように見えます。そこにキリストの十字架はあるのでしょう。自ら一度死なずに人を愛することはできないと思われます。このような平凡なことさえ、私はしみじみとはこれまでわからずにいたのでした。私は十字架を負わずに人を愛そうとは思いますまい。けれど何よりも苦しいのは私の心の底にあるエーステチッシュな要求が十字架に釘づけられる時です。私はどうしても今私の住んでいる部屋を美しいと満足することはできません。けれど父母を愛するためには私の住場所を私の家のほかに求めてはいけません。私は私の来訪を悦ぶ二つのファミリーに、そのファミリーがエーステチッシュな空気を持っていないために、口実を作って寄らずに帰りました。そして恨まれました。
 私はまた今もだえの底に沈んでいるひとりの妹の宅に寄るのにも、どんなにその家の貧しさから生ずるアンプレザントなことをきろうて、またひとりの叔父のかたくなな性質に触れることをいとうために妹を愛する心を鈍くしたかもしれません。そして私は冷淡な心に自ら責められました。
 私たちのようにすべてのものに要求の強いものには、十字架はますます重荷になります。私は愛することの善きことを知って、愛の実行のできない人間です。私を愛の人だといわれる時、私は空恐ろしくなります。私は愛を問題としている人で、愛の人ではない。私の真相はエゴイストです。文之助君がいったとおりです。私は人と親しい交わりにはいろうとする時、このことが気になってなりません。
 私はいろいろな問題から促されて宗教の方へ赴くようになります。いかにすれば世界はコスモスとなるのでしょうか。人と人との交わりはなめらかに、そして心の願いは互いにそむかずに、音楽のように、諧和するでしょうか。これ私の一生の問題です。
 私はやはり庄原でも教会に参ります。私にはピープルとともに神を拝したき要求があります。そしてそのためにさまざまなおもしろからぬ、教会内の出来事を忍んでいます。そして今周囲から迫害されている教会を助けて働く気でいます。そして間違っているところは神様に恕しを求めます。どうせ間違いはないわけにはいかないのですから、私は許さるべきこととして教会に参ります。信仰はたしかでなくても、私はいのりたく、神をほめたく、キリストの生涯について人々に語ることは悪いことでもあるまいと思われますから。
 私は聖書がまだ全く信じられないのは奇蹟や、癒しや、黙示があるためではなく、その計画が私にまだ絶対的完成を疑わしめるような、部分を含んでいるためです。ヨハネが「われその栄を見るにまことに神の子にして……」といったように、その計画がまことに神の計画として私に受け取れるならば、私は証拠を要求する気はないのです。けれど旧約聖書のある部分やまたキリスト伝のほうでも、キリストが数千のいのこの群れを鬼に命じて殺すところなどは私は神の栄とは思われません。聖書のなかに示さるる善の理想が神の栄えを現わしていないときに私は信じられません。私はやはり梁川のような仕方で神に会わねばならぬのかもしれません。エーステチッシュに信仰にはいったのでは力と熱とを実有することはできず、スペクラチフな仕方では信ずる意志と感情とを動かすことはかたく、私はそこにある一種の不思議な摂理、天来の恵みと選み、というようなものを待ち望みたくなります。パウロのダマスコ途上の経験や、フランシスのきいた神の声や梁川の見神の実験のような宗教的意識の体験、それは官覚的ではないけれど、官覚よりも鮮明直接な一種の霊的経験を求めたくなります。いかにすればかかる経験が得られるか、梁川などはただ思慕の情の熱して機の熟したときであるといってるだけです。
 私は宗教的意識を一生躬をもって研究したいと思います。
 性の問題については、私はどうしても肉体の交わりをよしと見ることができません。性欲はエゴイスチックな動機からしか起こらないと私は信じています。(これは私の経験より得た信念です。もし愛の動機からその表現として行なわるる肉体の交わりがあるものならば、私は実に喜びます。私の一つの大きな十字架が取り去られます)
 このことについては顔を赤らめずに語られません。私の信念を証するために具体的なことを書けば、あなたは赤面なさいます。なにとぞ許して下さい。思うに謙さんは純潔なのでしょう。それでわからないのでしょう、肉の交わりはたしかに醜な、エゴイスチックなものです、ひとりの少女に対して、もし性欲が起これば、その時の心のなかには愛はありません。異なった動機があります。その動機は天より来るものでなく、地獄にいたるような性質のものです。男と女とは性欲においては互いに食い合う獣のような相にあります。私は恥ずかしくてその証をすることができません。このことはだんだん詳しく申し上げますつもりですが、私は性欲のない、性のねがいというものを心に描きます。肉の交わりのない、しかも性のねがいの飽和する男女の恋、それにはエゴイスチッシュな動機の少しも交わらぬ恋を求めます。それは楽園を失う私たちにはたとえ許されなくとも、私はかかる恋を求めます。もしエゴイズムが悪しきならば肉の交わりは悪しきものです。たとえそれが子供の生まれる唯一の道であるにしても、肉の交わりをする時の男の心はエゴイスチッシュであることは私は今は疑いません。肉交の恐るべきは、その時男女は互いに犯しながら、愛を行のうたと自ら欺くところにあります。私たちが他の生物を食わなくては生きられなくとも、それを食うことはよいことではないように、やむをえぬ保存の道であっても肉交は悪しきものです。私は肉の交わりについてはそのように信じています。そして生物が互いに食うことが神の罰のように肉交しなくてはならないのは、人間に与えられたる罰ではないか。アダムとイヴとは楽園ではそのようなことはしなかったか、してもエゴイスチッシュな動機からでなくてできたのであろうと思います。トルストイが「夫婦はできうる限り肉交を避けよ」といったのは性交のエゴイズムに触れてそれを恐れたからと思われます。私は肉交を愛の表現と誤解した私の過ちを、多くの青年が共にするのを実に残念に存じます。
 けれど私は性の欲求を性欲のほかに認めてそれを肯定したいのです。私はそのような天使の恋というべき恋を憧憬いたします。それはインノセントな男女よりもひとたび性欲に落ちて、それを厭離したる男女が神に祈りつつ相愛し、貞潔を守り、もし性欲に落つれば神に潔めを求めつつ共生することによって実現できますまいか。たとえ貞潔を完全に守れなくても、それをシュルドとして神に赦しを求め、実際に貞潔を理想として努力するならば、被造物としては聖なる恋といわれはしますまいか。それはフランシスが被造物として罪はあっても聖者であるように、その憧憬のなかに罪がないならば、実際に貞潔は守れずとも、神の前にひざまずいて二人が赦しを求めるときに、そのいのりのなかに二人は聖なる恋を生きるのではありますまいか。そのようにして私は私の性のねがいを自ら許したいのです。それは人間の型のなかに根を持つ、創造主の計画より出ずる純な要求と思われます。
 私は私の日々の生活のありさまなどをあなたにかくつもりだったのに、理論に流れてあまりに長き時を費やしました。今日はそれらは次の手紙に残してひとまず筆を止めます。あなたは今は煩わしい試験の最中なのですね。七月の初めにはお目にかかれることと何よりのたのしみにいたしています。呉から四時間ほど汽車で走れば三次という私の学んだ中学校のある小さな町に着きます。その町から私の故郷までは人力車があります。私はその三次まであなたを迎えに行こうと思っています。まことにつまらない田舎町いなかまちで、景色も美しくはありませんけれど、それでも私たちに久しぶりに会いに来て下さいまし。
 この手紙はあなたの美しい期待にそむくような荒々しいことばかり書きました。しかし私はいつも私の生活の欠けたところに注意を集めて私の生活を成長させようとするつもりもあり、また私のありのままを書くのですからそのおつもりで読んで下さいませ。
 トビアスの書というのは読んだことはまだありません。ベラダンのフランシスはも少しで終わります。私はフェヒネルのダス、レエベン、ナハ、トーデとプラトンのゲスプレヒ、ユーベル、ディ、リーベなどを今読んでいます。
(久保正夫氏宛 六月十七日。故郷庄原より)
   友来たる

 一週間のうちにお目にかかれることと何より楽しみにして待っています。広島駅で一度下車して、五、六丁ばかり東にあたる東広島駅から芸備鉄道に乗り換えて、三時間ほど川や、小山や、農家などばかり見える田舎を走ると三次みよしという駅(終点)に着きます。私はそのステーションのプラットホームに、あなたを待っているでしょう。そこから私の町まで五里の道を馬車で駆けると二時間あまりで私の家に着くわけになります。
 それであなたは広島から出発する時に、何時の汽車に乗るかを、ちょっとめんどうながら、三次町宗藤嚢次郎内私宛に電報を打って下さい。私は私の妹(艶子でなくて重子というのです)と二人であなたを迎えに駅に行きます。私はあなたの広島に着きなさる日には三次まで出ていたいと存じますから、あなたは、この手紙の着きしだいハガキでよろしいから、およそ何日に広島に着くかを知らせて下さい。私はあなたと三次のバンホフで会う時の光景を想像して心がおどります。私はもはやわざわざ東京から私にあいに来て下さるほど私を愛して下さるあなたに遠慮はいたしますまい。私の部屋のスナッグでないことも、また町の周囲のあらあらしさも。
 私はただあなたと相見る悦ばしさに溺れさしていただきましょう。私は先日、夕飯後いつもする妹との散歩の時に、あるいはこのような景色はかえってあなたに珍しく興味をひくかもしれないなどと語り合いました。昨年の夏のような静かな池の辺りにいないのは残念ですけれど、それもかえって私のファミリエのなかにあなたを包んだほうがあなたのような方にはよいかもしれないと存じます。私は妹と、あなたが来て下すったら、町はずれの森のなかの沼のほとりやまた一、二里はなれた山のなかの牧場などに一緒に行こうなどと楽しく相談いたしました。それからもしもあなたがこの夏は別にほかの場所で暮らす計画がなく、また東京でなくてはできないような仕事をお持ちでないならば、ずっと永く私の家にいて、そして一緒に上京したらとも思います。あなたは私の家で仕事や読書などのできるように、書物など持っていらしたらいかがですか。私の家はあなたが幾日いらっしても遠慮なような家ではありません。一緒に勉強したり散歩したりして、一と夏を過ごさるるならば、私はどのように幸福だか知れません。けれどそれはもとより無理に勧めるのではなく、あなたの都合でどうでもよろしいのですけれど、私の希望を申しておきますのです。
 あなたは歯が痛むそうですが、不愉快なことでしょう。しかし埋めてもらえば大したことはありませんでしょう。わたしも埋めてからは何のこともありません。
 私は胸のほうも痔のほうもずっとよろしいのですから、あなたが来て下さっても、心細い感を与えるような憂いはありません。安心して、永くいる気で来て下さいまし。ほんとに、遠方から、よく訪ねて来て下さいます。私の母などは、彼女たちの習慣にては、理解のできぬほど厚い友情としてどのように感謝しているかもしれません。本田さんがあなたを訪ねたそうですね。あの人はもとより Kunstsinn のすぐれた人ではありませんけれど、無邪気な、心の明るいよい人だと存じます。愛し導いてあげて下さい。私はこの手紙があなたの出発の前に届くようにと急ぎますから、いろいろな話はお目にかかってからのことにいたします。私はあなたと会うことばかり考えています。今日きょうこの頃は。
 さらばあなたに安らかな、愉しい汽車の旅を souhaiter いたします。
(久保正夫氏宛 七月三日。庄原より)
   初めての説教

 あなたのアドレスを忘れたので手紙を出すことができませんでした。数日前にあなたの愛らしい贈り物が私たちの手に届きました。そして平和と友情とのたのしい悦びを、私たちの胸に運びました。あなたの恵みを感謝をもって受け取ります。そして私の妹がぜひその扇をくれよとねだりますゆえ、この夏のあいだじゅう私が持って、友の好意を十分に受け取った後であなたにあげましょうと約束いたしました。妹もたいへん悦んでいました。まことに嬉しゅうございました。
 久しい間待ちかねていた正夫さんはついに参りました。十日の夕方、私は私の故郷から五里はなれた、私の中学時代を過ごした小さな町なる三次というところまで迎えに出ました。私はプラットホームを、群れをなして出て来る、田舎ものばかりの群衆のなかに、美術家らしい様子をした、帽子をかぶった、正夫さんをすぐ見つけました。そこですぐに涙が出ました。正夫さんは私の手を握りました。私たちはどうしても感傷的にならずにはいられませんでした。それから二人は馬車にのって五里の間を、森や畑のあいだを、お互いの言葉を吸い込むように、よろこび味わいながら、語りつづけて、火のともる頃に私の家の前に着きました。
 その夜、私の家族を紹介したり、町端れの河ばたを妹と三人で散歩したりしました。その時私たちはあなたのことをどれほどおうわさし、一緒にいらっしゃるのならいいのにと思ったか知れませんでした。月のない河のほとりの草のやみに螢なども飛んでいました。私たちは秋からは上京して、みんな、朝夕、往復することができるたのしさなども語りました。
 私たちはこれから一と月足らずの間は正夫さんと毎日一つ家でたのしく暮らされるのです。ながいあいだ、私をいたわり、はるかなるいのりを送っていてくれた善き友を、このように、朝夕、私のそばに持つことのできるのは、神様の恵みなのでございましょう。私は、正夫さんが私のそばにいてくれるあいだ、私たちのミットレーベンをお守り下さいませと祈りました。私はやはり、バウエルやビュルゲルたちと一緒に、町の小さな教会にまいっていますので。
 昨日きのうは、私の部屋に据えてある古いオルガンで、正夫さんは、ほとんど終日、ブラームスや、ベートーヴェンなどをひいてきかせてくれました。また、正夫さんが近頃書いた短篇をいくつか読ませてもらいました。朝、町から十五、六丁はなれた森のなかの沼のほとりを散歩して、ほがらかな小鳥の声をきいたり、虫のたくみな巣をウォッチしたり、そして花を摘んで帰って正夫さんの机の上のコップに插したりしましたのちに、私たちは人生や芸術や宗教や、すべて私たちの、たましいの純なる願いとかなしみについて、互いに訴えたり、はげんだりしました。そして二人が今幸福であるがゆえに、私たち以外の人々の幸福についての、心づかいなどもしました。そしてやはり、人と人とのあいだの自由、自分の幸福を願うことが同時に他人の幸福になるような、メンシュリッヘ、フライハイトに達したい。そしてそれはできないことではないような、気がするゆえに、永く生きていたいなどと申しました。そして私たちは、私たちの今幸福であるように、あなたに今幸福でいてほしくてなりません。謙さん、あなたは今幸福に安らかに暮らしていらっしゃいますか。あなたは、あなたの家庭においてもかなり多くの心配や、弟や妹さんたちのための心づかいなどもあるでしょうね。妹へのお手紙でもそれらは察せられます。けれどそれらの心づかいはあなたの生活に尊い知恵と忍耐との味わいを滲み出させる一つの要素でもございましょう。どうぞ周囲の人々をいたわりつつ、あなたの生活を守って下さいまし、あなたはできれば、一つ勉強して何か書いて、私にも見せて下さい。私はあなたには博い、静かな、あのセザンヌの絵のような、平和な力のあるものが書けるだろうと思って期待しています。
 私は昨晩、町の汚ない教会で、町の人々の前に立って一つの説教をいたしました。その聴衆は田舎のピープルばかりです。そのなかに、正夫さんも来てきいていました。私のいったことは、あまり、理解されなかったようでした。けれど私の話しおえた時に、ひとりの農夫は私に神様のことを熱心に問いました。そして私はその農夫にキリストの生涯や、人間は相愛せねばならぬことと神様の命じなされたことなどを話しました。そして私の心の底にはひとつの満足がございました。昨夜はまた正夫さんと蚊帳かやのなかで、十二時頃まで眠らずに語りました。私はいかに長い間友なくして、自分の感情を胸のなかにおさめておかねばならなかったでしょう。そして正夫さんのように、私を信愛してくれるよき友と語り、訴えることは私には久しい間ゆるされなかったところの幸福でした、私は私たちの幸福の上に送って下さるあなたの祝福を待ち望みます。そしてそれはあなたのお心に適うことを信じています。
 あなたの御近状をお知らせ下さいまし。また書きます。今日は雨が降っています。私があなたにたよりを書き、艶子は読書し、正夫さんはダンテの「新生」の翻訳しています。雨があがれば、近日中に、町から一、二里ばかり隔った、牧場に行く気でいます。
(久保謙氏宛 七月十二日。庄原より)
   被造物としての知恵と徳とを求めて

 坂手島でのたのしい健康な生活を終えて四十幾日ぶりにおかあさんの家にお帰りになされ、このたびは静かな心持ちで家のなかにも安住でき、家族の人々にも温かいこころを感じていらっしゃいますと聞いて私もやや安心いたしました。感じの強い人には共同生活はなかなか気苦労なものですのに、あなたのお宅は人と人との結びつかりがそんなにしみじみと濡れた愛でなりたっているわけでもないのですから、あなたのような方にはずいぶん居心地のわるいこともおありなさるのは十分に察せられます。けれどやはり私の申すまでもなく耐え忍んで調和をはかり愛で包むように努力するのが最も強い、博い、そして知恵のある仕方なのでしょうね。私はあなたがさまざまな ung※(ダイエレシス付きU小文字)nstig な境遇のなかで、かくも研究や仕事に精出しなされ、またまっすぐな心を保ち、また人生のあらゆるよきものをかりそめに逃すまいと種々な方面に注意を払いなさるのをまことにお強い尊いことに存じます。願わくばたゆまぬ努力と忍耐とをもってあなたの未来を開拓して下さい。私はあなたの将来を祝福します。そしてそこには幸福と成就とが待っているように思われるのです。あなたなどは、最もいろいろな意味で、プロミッシングな方だとおもいます。
 庄原にいらっしゃいました二十日間は、土地がつまらないのに、私はからだは弱し、何もかも心に任せぬことばかりで、あなたのお立ちなさった後でも、私はそのことが気にかかってなりませんでしたけれど、あなたのようにおっしゃっていただけば、私はまことに安心し、どんなに嬉しいかわかりません。またあなたは私の持ってるよき部分を理解して下さって、私を愛し、私との今後の交わりに大きな期待をおいて下さいます。私はまったく、それに相当しているとは思われませんけれどでもそうしていただくことはどんなに心強い、嬉しいことかわかりません。私はあなたの博い知識から私に入用なものを与えられ、またことにさまざまな verfeinern された、エステティシュな感情や趣味を教えられ、どれほどためになるかも知れませんのに、私はほとんど何ものをもあなたに与えることはできません。けれど人間と人間との交わりの契機はタレントではなくて、愛だと思いますから、こうして交わっている間には少しはあなたによき Vertu を及ぼすこともできるかもしれないと思います。
 私はこれまでの人と人との接触を重大な問題として暮らしてきました。そして幾度もつまずいた苦い経験を持っています。そのために私はいかにせば、私たちは、地上のものとして、よきコンスタントな交わりができるかということについて知恵が育つようになりました。私は、私たちの、人間としてのさだめを知ってのうえで、すなわち互いに救い取る力のないこと、完全には理解し合う知恵を持たぬこと、まったき愛を献げようと願いつつもなお自らのエゴイズムの根をもてあましつつあることなどを嘆きつつ、まったき交わりの理想に向かって憧憬どうけいしながら、赦し合って交わりつづけて行かねばならぬと存じます。互いを憐れむ、隣人の愛の基礎の上に友としてのスイートな接触をも要求せねばならぬと存じます。私はそのように用意したうえで、心をつくしてあなたを愛し、また赦しを期待してわがままをもさせてもらおうと存じます。私はあなたが「考えることよりも行なうことにおいて弱い」ことなども認めてそして許します。また私の数多き欠点をも赦していただき、お互いに未来に期待を持ち、尊敬と祝福を寄せたいと存じます。私は教会で集まりの終わり頃に、みな立って「主の祈り」を一緒にいのる時、「われらに罪を犯すものをわれ赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」というところになるといつでも涙が滲みます。私たちは、地上ではどうせ罪を他人に犯さずにはいられない。赦し合わないならば、どうして交わるよすががありましょう。だから私にあなたはまったく安心して、私のおもわくなど気にせずに交わって下さい。私もそのようにいたしましょう。
 庄原をお立ちなさってから、今日までの御様子は、たびたびの詳しいお便りでよくわかりました。宮島の海岸での少女を連れたフランス人の婦人の話や、坂手島の女の水汲みの話や、またことに星かげのうつる夕なぎの海べに、淋しきキリストの悲哀や、あの可憐なお友だちのお妹さんの今は天国にある魂について語りなさったところなどまことになつかしく感動して読みました。この夏休みの四十日の旅があなたに感謝をもって思い出され、前よりも愛とまじわりの心地に和らげられて感ぜられることは実に尊いしあわせなことと思われます。ロバートソンの説教集は私も読んでみましょう。また「母たちと子たち」も早く読む機会を持ちたいと思います。まだお目にはかかりませんけれど、あなたのお母様は私にも愛の誘われるような心地もいたします。
 あなたと別れてから、私は急に淋しくなり、沈鬱ちんうつな気分におそわれ、とりとめもないメランコリーに身をまかせてしまいました。私がたよりをしなかったのはそのためでした。赦して下さい。私は手紙もかかず書物も読まず、立ったりすわったり心も落ち付かず、いろいろなことがかなしくかなしくなりました。私は三年前の夏のようになるのではないかと不安になりました。私の運命の拙ないこと過去の生涯の冷たい後悔、人の頼みがたきこと、今の私の弱いからだや心のなかのエゴイズムの嫌悪やまた、将来にも何の温かい花やかな希望もたわむれず、ただ忍耐せねばならない永い永い日がつづいているように思われたりして、私はかなしく、恨めしくなりました。私はこんどでいかに私が自らを意志をもって支持しているのかを知りました。その意志を弛める時私はかなしみに敗けてしまうのです。私はどうしても自分の運命を淋しい、かなしいものに思わずにはいられません。この二十日のあいだ、私はそのように望みのない思いに打ち沈んで、妹や母にも心配をかけました。教会に行っても、いやなところばかり目につくし、私はついに十七日の朝急に、庄原から八里ほど山の奥にある帝釈たいしゃくという村に参りました。家がのがれたく、人のいないところで心を整えたかったのです。
 けれどそこも乾からびた、倦怠な、貧しい村で、宿につくとすぐに私は帰りたくなりました。けれど私は三日のあいだ神に祈り、心を静め、はげましてその村で心をととのえました。「どこへ行ってもかなしいのだ」私は思いました。「私の運命を抱け、もはや私のかなしみは女を得れば癒されるかなしみではない。人間としてのかなしみで私のかなしみではない。人生の永い悲哀と運命の淋しさである。もう私は私に媚びる甘いものの影に心をひかれまい。運命を直視しよう。そして運命に毀たれない、知恵と力とにあこがれよう」私は山かげの暗い洞穴のなかで、渓川たにがわの音の咽び泣くのを聞きながら、神様に祈りました。「神様、あなたは私を造りなさったとき何かの御計画があったのでしょう。なにとぞ、その計画を私の上に成就せしめ給え。あなたの地上になし給うよき仕事の一部に私をあずからしめ給え」
 私は涙がこぼれて洞穴のなかで泣きました。外に出ると驟雨しゅううに洗われた澄み切った空の底に、星が涼しそうに及びがたき希みのように輝いていました。その時私はふと聖者になりたいと思いました。そして奇蹟を行なう力と、挙げられて壇からはなれる徳とがなくては聖者にはなれないとあなたのおっしゃったのを思いました。あのとき私はまた思いました。「私はただ一つのクレアトールとして、造り主と、他のクレアトールとに対する徳を得たい、神に仕え、隣人を愛して、ひとりの力なき忠実なしもべとして生きよう」
 そのようなことを考えて、宿へ帰る間私は幸福でした。そして私にはまだ残された未来と開拓すべき私の領地とがあるような気がして心強くなりました。私は帝釈たいしゃくの三日の間にしだいにのぞみを恢復かいふくいたしました。そして帰る日の朝には、宿の川向かいの貧しい家に夏蚕なつごを飼っているのを勤労の心地で眺めたり、宿の寡婦の淋しい身上話をしみじみと聞いてやれるほどおちつきを得ました。
 そして「帰ったら勉強しよう」と決心して帰途に就きました。
 車の上でもいろいろと考えてみました。そして将来の私の仕事についても、もはや二十五にもなり、学校へは行かれないのだし、考えてみねばならぬと思いました。
 私は自分の生活をただちに隣人に献げたい、一つの芸術、一つの哲学として提出する才能はなくても、「生」をけたものは何とかして生きて行かねばならない。そして一個の神に造られたる人間がいかに生き、成長し、運命を知り、徳を得たかは、他の共存者の力となり、望みとなり、少なくとも自らの運命を省るたよりとはなると思います。私ごときが何によって他を潤おすことができましょう。ただ一つ与えられたる素材をもって最も真摯しんしに生きること、そしてその生涯を他人に献げたい、「共存者よ」私は言いかけたい。「私を見てくれ、私はかく虫けらのごとく貧しく醜く造られ、そしてかくつたなき運命を与えられ、しかしてこのところまで生長した。私に神の祝福を祈ってくれ」
 私はそのような態度でこれから生きてゆこうと思います。それで私は私の生活について語るために、表現してゆきましょう。それについて私はこれから書物を一冊世に出そうかと思います。それは私がこれまでいかに歩んで来たかを示し、この後の歩みの行く方に続く必然性を見てもらいたいためでございます。それで私は「他人の内に自己を見いださんとする心」と「恋を失うたものの歩む道」とのほかに、この三年間に育ってきた私の思想をまとめて、現在、他人に語りたい、すべての考えを集めて、書物にして出したいと思います。そしてこの書物によって私の仕事の第一歩を初めたいと存じます。
 私はその講文集を「善人にならんとする祈り」という名にしようと思います。そして名もない私のものなど受け合うてくれる本屋もありますまいから、自費出版にしようと思っています。私は明日からこの仕事に着手いたします。なにとぞ私の仕事と運命を祝福して下さいませ。私は病気のためにあなたの半分ほども仕事はできず、学校へも行かれず、才能は輝かず、何かについて ung※(ダイエレシス付きU小文字)nstig な境遇にありますけれど、前に述べたような考えから共存者に向かって、心から心へと、語るようなものを出したいと存じます。私を助けて下さいませ。
 秋からは上京いたします。あなたは私を近くに持つことに、それほど期待を置いて下さるのを、相当しないとは思いながら、嬉しく思わずにはいられません。待っていて下さい、今に参りますから、やがて謙さんも北海道から出て来られるでしょうし、私たちの東京での生活はまたいっそう活気を帯びてくるでしょう。愛と運命との博い、濡れた接触の上に立って、仕事と生活とを共にして参りましょう。私はもはや一か月ほど謙さんにも書かないで、昨日妹への手紙にはたいへん心配してよこしました。明日は私の心を乱して無沙汰した詫びをして永い手紙を出しましょう。私は秋からはカソリックの神学校のようなところに身を置きたく思うのですが、僧侶そうりょとしてのマナーや、儀式や古いキリスト教の教育を授けてくれるところはありますまいか。ついでの時にしらべて下さいませ、またお手紙出します。今日はこれで筆とめます。幸福にお暮らしなさいませ、また弱い私のために祈って下さいませ。
(久保正夫氏宛 八月二十一日。庄原より)
   「愛と認識との出発」の準備

 この頃は静かな読書や、たのしい訪問などして、おちついて暮らしていらっしゃいます由、安心いたします。東京へ参る日も近づきました。そしてその日を十月一日と心に定めながら、私のたびたびの不幸から生じて来た不安な心持ちから、私はそのときにはまた何かそれをさまたげるような出来事が起こりはしまいかと気になります。どうかそのような事のないように祈ります。艶子は九日の朝庄原を出立いたします。別府で親しくなったひとりの娘さんと尾道で乗りあわして東京まで一緒に行くことになりまして、好い都合でございます。私は二十日ほどおくれて参ります。私は、少し都合があって妹とは別れて住みます。妹は寮舎に、私はどこか郊外に下宿でもいたしましょう。まことにごめんどうですが、どこか心あたりのところを探しておいて下さいませんか、けれどそれはついでの時でよろしいのです。また見あたらなければ見あたらなくてもいいです。散歩の時にでも少し気をつけておいて下さい。
 私はあなたや、謙さんと互いに慈みつつ、近くに、暮らすことのできるようになることをしあわせに思います。幾度も申しましたごとく、私は乱れやすく、常にものごとがなやましく、あなたやことには謙さんと同じような気分のなかにいられない時が、おそらくはしばしばあることと存じます。そのような時には、気まずさを忍んで下さい。そしてお互いの自由とわがままとを認め合いましょう。それでなくては、おのおのの成長がのびのびせず、また特色があらわれないと思います。あなたのいいたいこと、したいことは何でも私には遠慮せずに、自由にして下さい、このことは謙さんにもいっておきます。私たちは親しくなるに従って、refuse することの自由ができねばなりません。そして自分を守りつつ、仲善くいたしとう存じます。
 あなたが、愛するよりも愛されたい心だとおっしゃるのは私はよくわかります。私はあまりに他人がエゴイスチッシュゆえ、もはや求めまい、訴えまい、と思ったこともしばしばあります。けれど私はこの頃は訴え求める心の尊いこと、それがなくては互いに従属できないことを感じだしました。与えられねばかなしみつつやはり求めましょう。私は今取りかかっている仕事のなかにも、「人間と人間との従属」というのを書きたいと思っています。それには愛されないことを知って、ただ与えることばかりに生きようとする不幸にしてかなしき人々に、なお求めよ、訴えよとすすめたいつもりでいます。ドストエフスキーは牢獄でかたくなな野蛮な人々から排斥された時に、軽蔑けいべつと白眼とをもって孤立せずに、それを心から悲しきことに思いましたのでしたね。私は「隣人の愛」というのを一つ書きました。どうもあまりパッショネートになっていけません。そして近代のエゴイズムに対するプロテストがむらむらと生じて、はげしくなって困ります。一つ二つ書く間に静かなものが書けるかもしれません。しかしまだまだ天に属した調和のある文体にはなられず(それが私の願いですのに)さながら、たたかいのようなはげしさをなくすることができません。これは今の私には仕方のないことでしょう。私は静かな天の使のような声で語られる日のいつかは来らむことを祈ります。あるいはこのたびのものは、あなたや謙さんにはよろこばれないかもしれないと思いますが、私の性格のなかには、そして私の周囲の時代というものが、私をしていくらかチャレンジするようなはげしいところを持たしめるのでしょう。私は、けれど、あたうかぎり静かに、平らかに書きます。そして涙と訴えとをもって、心から心へと語るような、博い、潤うたものを書きたいと思います。けれどもできますかしら? 私は受け合うことはできません。あるいは中途でよすようなことになりはしまいかと思われます。私の仕事のために祈って下さい。
 謙さんの小説ができあがったら、読ましていただこうと楽しみにしています。学校の始まるのも近づきましたね。今度は学校もかわって少しは新しい気持ちもいたしましょう。
 学習院の雑誌は送りました。今日はこれで失礼いたします。お目にかかりますまでに、ふしあわせなことが、あなたにも、私にも起こりませんように。
(久保正夫氏宛 九月七日。庄原より)
   寮舎にまなぶ美しき妹

 先日は妹がお訪ねしましたそうですね。妹からの手紙にもあなたのお母様にお目にかかったことや昼飯をいただいたことなどかいてありました。あれも寮の生活が御存じのとおりなので居心地の悪いのも無理はないと思われます。昨日はまたおハガキ下さって私の宿のことを心配して下さって実に何から何までありがとうございます。私はなぜにあなたたちにこのように愛され、そして私の上京が、何かの大きな祝福をでももたらすかのように悦び迎えらるるのかわかりません。それにつけても正夫さん、私はまた少しく不安なことをこの手紙に書かなくてはならない事になりました。
 私は十月初めにはもはや上京することと心に定めて人々にもその旨を通知などもいたしました。
 そしてあなたのお手紙で宿も適当なのが見つかったので昨日私は父に相談いたしました。しかるに私は父の話をきいているうちにしだいに暗い、淋しい心地になり後にはもう上京したくないような気になりました。実は私の姉が肺が悪いのです。私は温泉からかえるまでは全く知らなかったのですが、私の留守のあいだに悪くなり、そしてこの頃はだんだん悪くて発熱したり、せきがかなりはげしくなって、どうも病勢が進みそうなのです。この姉は私が家出すれば私の家をつぐべき大切なからだで、両親はおもにこの姉を力にしていたので、私も姉の病気については少なからず心を痛めてはいたのです。で父のいうのには、今のうちに姉を海岸の温かい土地にやって保養させたいというのです。それには女の身で病気ではあるし、ひとりはやれない。するとお前も上京すれば、四人も出ることになる。そうなれば家のうちも急に淋しくなるし、だいいち費用がたまらない。それでお前だけは、今上京しなければならないときまった用事もない身ゆえ、姉が保養して帰るまで一、二か月の間は家にいてくれ、そうすれば気丈夫にはあるし、費用もたすかるというのです。私は、黙って承諾するよりほか仕方はありませんでした。私はつねづね両親をも隣人のようにして対したいと思っています。私には何のかいしょうもないのですから、私は与えてくれる以上のものを父に求める気にはなられません。それにながい間心配ばかりさせているのですから。父はまあ姉と相談してみることにしようと申しました。私は、私としては姉が養生するあいだ私の宅にとどまるのが私の道であろうと思います。それで私は今は東京で姉と家持ちをすることを考えています。艶子と三人で、郊外に一軒借りて、女中をひとり置いて暮らしたら、かえって経済的にもなって好都合であるまいかと思われます。その事について私はこの四、五日のうちに相談して決める気でいます。でおハガキの家はしばらく取り決めずにおいて下さいませ。このような内輪のことまであなたに話さなくてもいいのですけれどつい話してしまいました。みんな私の上京するのを悦び待っていて下さるのですから私はなるべく上京したいのです。どうもさまざまな障りができて私はつくづく先のことは決められないと思います。私は今は少ししょげています。けれど失望はいたしません。何もかも耐え忍びます。もう四、五日の間お待ち下さいませ。
「よくなろうとする祈り」は少しずつ筆をすすめています。「母たちと子たち」は妹の次ぎに私が読ませてもらいましょう。
 あなたは幸多き日々を送って下さいませ。私はどうも何もかも私のくわだてることは成就しないような気がしてなりません。けれど私の希みはますますはるかにそしてたしかになって行くばかりですから心配して下さいますな。
 謙さんにもこの手紙の旨を伝えて下さい。私はやさしい謙さんが私のために失望してくれはしまいかと気の毒です。どうぞどうぞしあわせに暮らして下さい。
(久保正夫氏宛 九月二十八日。庄原より)
   親子の愛と知性の愛の矛盾

 私はまたしばらく御無沙汰いたしました。あなたは仕事に充ちた、そして文化の吸収に余念のない生活をしていらっしゃいますことと存じます。からだを損わないようにして下さい。しかし風雪に鍛えたあなたの健康はなかなかたしかなもののようですね。妹をコンサートに連れて行ってやって下さった由ありがとうございます。あの子は美しい女性の生長に大切な宗教と音楽との教養が足りないと私は思います。私から彼女に影響するところは主として強い淋しい徳の感化で、豊醇な乙女心をなくさせるような気がして私はうれしくないのです。私としては仕方がありません。私は妹は、傷つけられない、ゆたかな生活がさせたいのです。私はすでに傷ついたところの不幸な魂に深い慰安を与えるような有徳の君子になりたいのですけれど。
 私の姉は一昨日養生に出発しました。どうか少しは快くなって帰ってくれればいいがと思っています。私はあれからまた悲しい思いにばかり訪れられましてね。私はこの頃はどうも私の両親の家にいるのが uneasy で仕方がないのです。両親を親しくそばに見ていると胸が圧しつけられるようです。私はあなた――母親思いのやさしい人に申すのは少し恥ずかしいけれど、どうも親を愛することができません。そしてまた母の本能的愛で、偏愛的に濃く愛されるのが不安になっておちつかれません。それでおもしろい顔を親に見せることはできず、そのために両親の心の傷つくのを見るのがまたつらいのです。私はわがままな子なのですよ、私の妹に家庭における私の様子を聞いてみて下さい。私はただ朝から晩まで苦しい苦しいで暮らしています。いっそのこと親が他人ならば私は苦しくても笑顔を向けて愛そうとするのに、親にはそれができないので悪い顔ばかり見せます。私はこの頃つくづく出家の要求を感じます。私は一度隣人の関係に立たなくては親を愛することができないように思います。昔から聖者たちに出家する者の多かったのは、家族というものと隣人の愛というものとの間にある障害があるためと思われます。私はあれからたびたび家を出ようと思いました。そして本田さんには長門の秋吉村の本間氏の大理石切場に行くように、また文之助君には京都在の西田天香という僧のところに行くように手紙にも書きましたほどです。しかしやはり私は躊躇ちゅうちょしています。私の十字架は家に止まるほうにあるのではないかと考えます。私は私の家にいて、しかも私があなたや謙さんにするように私の両親を愛すべきでしょうか。けれどそれがなかなか困難なのです。私は依然として孝行ができません。家を出ればかえって孝行になれるのですけれど、私は家庭というもののなかには、とても安住できない人間のように思われます。私の両親ほど子に甘い親はありません。しかし私は親に対する不満と悲哀とをますます深くいたします。私はやはり出家の心、すべてのものを隣人として神の愛で愛したいねがいが強いのです。おそらくは将来はそのようになるようになるでしょう。そして親にもやさしい子になりたいと思います。
 私は今でも私にパンの保証さえあればそのようになりたいのです。パンだけは親に頼り、親のトイルの上に立って隣人となることはできないことです。といって私は病弱無能でとてもパンを得るかいしょがありません。正夫さん、これは実に切実な問題ですね。私はこの頃になって初めてキリストのパンの問題の解決が徹底したものだと思われだしました。キリストに従えば財産を貯えることはその心に適いません。「汝ら行くには二つの衣をも携うべからず」です。また家族関係もキリストの本意でないことは明らかに聖書でわかります。それならパンの問題はいかにしましょう。キリストはそれは「神様が保証して下さる」と信じました。主の祈りのなかにも「我らの日用の糧を今日も与え給え」とあり、「なんじら明日のことを思い煩うなかれ」とあり、「なんじら何を着、何を食わんと思い煩うことなかれ、ただ神の言葉を求めよ、さらばこれらのものはその上に加えられん、そは天に在る父は、これらのもののなんじらに無くてかなうまじきことを知り給えばなり」とあり、これと「求めよ、さらば与えられん」というのを一緒にして考えてみれば、キリストの理想は、パンを神にデペンドして出家することにあったと思われます。キリストはそのとおり実行しました。フランシスコもその約束の上に立ちました。また西田天香氏もその約束を信じて現に出家の生活を持続しています。他人から喜捨されたものを、神の賜物として感謝して受けて暮らしています。私はこの頃この生活法に大なる暗示を受けました。そして社会主義はこの信仰に立ちたる時、最も自発的な、内面的な調和を得、神の国の地上における建設はかくしてのみ得られるのではないかと思われだしました。私は、信仰の大切なこと、そして徹底した深いキリストの心地が感服いたされます。私は、けれどなかなか信じられません。パンを神にデペンドする大勇猛心が出ません。私はしかし私の将来を純粋の信仰生活のなかに築きたい気はもはやコンスタントな深い根を張ったねがいになっています。私はそちらの方角にしだいに深入りいたします。私は心の熟す期のいたるのを待っています。「善くなろうとする祈り」はあれから大分書きました。後もう二つ三つ書けば私の書きたいことはみな書くことになります。
 謙さんはどうしていますか。よろしくお伝え下さい。いずれ手紙を出します。私は姉の帰郷するまで庄原を出られますまい。苦しくなると出ようか出ようかと思いますが、やはり出ないでしんぼうするほうがよいと思われます。
 大切になさいませ。
(久保正夫氏宛 十月二十五日。庄原より)
   出家の願い

 久しぶりのお手紙懐かしく読みました。私こそ御無沙汰してすみませんでした。あなたは転宿なさいましたのですってね。居心地よろしゅうございますか。上野倶楽部クラブというのは私には見当がつきません。しかし不忍池しのばずのいけのほとりならばまあ下宿としては眺めもあって結構と申さなければなりますまいね。あなたのこのたびのお便りは私にものかなしい感じを起こさせました。私も実はあなたとかなしみを共にするほかはありません。やさしい謙遜なあなたがそのような感じをお持ちになるのはまことにごもっともに思われます。私は未来のことなど人間にわかるものではないと思います。私は一昨年以来続けざまに立てては崩れ崩れしたむなしい計画のことを思うときにつくづく神の司り給う領分に人間が侵入してはならないと思うようになりました。運命は意志以上のものです。私たちは運命は受け取らねばなりません。ただ私はその運命を善なるもの、調和あるものと信ずるのが宗教だと思われます。私は任受の生活が人間に許さるる最高のものではないかと思われだしました。私は昔はツルゲーネフなどの思想を弱いもしくは回避したものとしてイプセンなどの意志の生活を強いものと思っていましたが、今は任受の生活をもっと深い、そしてけっして弱くないものと思うようになりました。私は運命を認めます。そしてそれをわれに非なるものと感ずるときはデスペレートなニヒリズムになるほかはないと思います。私のねがいはこの抵抗すべからざる力を正しきもの、われに愛なる神の摂理として感ずるようになりたいことです。これは私の根本信念です。私はいつも申しますように世界(現われたる世界のみでなく)をコスモスと信じます。そしてその実感に達するまではいかにイヴィルが重なり来たろうとも絶望する気はありません。私はオプチミストです。光の子です。今は涙に濡れていますけれどけっして呪いの息を吐かないつもりです。「おお、美しき世界よ、よきつくり主よ、私は感謝いたします」といいうるまで、あらゆる悲しみと悲しみを耐え忍ぶ気です。
 私は「毀たれざる生活」を求めます、そしてそれは任受の生活、運命とともに生死する生活のほかにはないと思われます。そのほかの生活はことごとく運命に当って崩れます。個人の意志というようなものは最ももろいもので、それ自身では、確実に立つことはできないと思われます。私は任受の心持ちをあきらめとはいいたくありません。「善きもの」に任せるのはあきらめではありますまい。親鸞聖人の「任受はいかにあせっても、もがいて逃げることのできない仏の慈悲に」任せたのです。彼にあっては打ち克ちがたき運命は彼によきものでした。そこに彼の宗教的意識が感謝に満つることができました。またその任受の生活はさまざまな、人間の積極的な努力をも、また苦痛や悲哀をも、ゆたかに含みうると思います。私は深い豊富な、そして確かな任受の心持ちの、完成した世界観を実感として持つことのできることを理想としています。昔から聖者と呼ばるるほどの人は、そこまで達しられたのではありますまいか。私たちもけっして力を落としますまい。
 私は、とはいえ、毎日心のなかに何の幸福もなく、味気ない苦しい暮らし方をいたしているのですよ、私は、どうしても私の家のなかに安住することができません。正夫さんにも申したことですが私はしみじみと出家のねがいを感じます。愛の生活と家族関係とは両立できないと思います。このように抽象的にいってはわかりますまいが、私は親に対する子の悲哀を痛切に感じます。私は愛に徹するためにも親とも隣人の関係に立たねばならないと思います。私などはそのほうがかえって親を愛しよいのです。私はそれを断行せねば、とても親を愛するようにはなれそうにありません。私は隣人には親切、親にはあさましいほど不幸です。私は自分で苦しくてならないのですけれど、そうなるわけがあるのです。(私は、そのことを私のエッセイに詳しく書きました)私は一度出家したならば、きっと、親にもかえって孝行のできる時が来ると思うのです。それについて私はこの頃一つ深く感じたことがあります。それはキリスト教とパンの問題です。キリストの十字架を負えば私有財産も家庭生活もできないことになりますが、しからばいかにしてもパンを得たらばいいのでしょうか。私は考えてみるにキリストの考えはパンを神にデペンドすることにあったのだと思われます。「なんじら何を着、何を食わんとて思い煩うなかれ、ただ神の道を求めよ、さらばこれらのものはその上に加えられむ、けだしは、天にいます父は、これらのもののなんじらに無くてかのうまじきことを知り給えばなり」「なんじら明日のことを思い煩うなかれ」とあり、また「主の祈り」のなかにも「われらの日用のかてを今日も与え給え」とあり、しかして「求めよさらば与えられん」とあるのを見るとキリストはパンを神にデペンドしてか、人類財産を私有せずに相愛することによって、地上に天国を建設しようと考えたのではありますまいか。私はこの頃出家のねがいの強まるとともに、どうしてもパンの問題に触れます。愛に徹すれば出家せねばならぬ。出家するには親のトイルに依頼することはできない。しかし私は病弱で無能でパンを得るかいしょがない。その時私に暗示を与えるものは、キリストのこの約束だけです。昔フランシスはこの約束に依頼して「杖をも、二つの衣をも携えずに」出家しました。キリスト自身もそれを実行しました。また西田天香氏は今日現にこの約束に立って暮らしている純粋なクリスチャンだそうです。この人は財なく家なく妻なくフランシスカンのような仕方でキリストの主義を実行しているそうです。三界さんかいに家なけれど、いずこもおのが家のような気で、呼ばれればどこにでも行き、喜捨されたものは何でも感謝して受け取り、あたかもキリストが無一物であって、税吏の家にでも、パリサイ人の家にでも、招かれて行かれたように、与うることと、受くることの自由を得ているそうです。すでに御承知かもしれませんが、よほど深い偉い人らしいです。魚住さんはこの人を昔の仏徒よりも偉いといって感心しています。死んだ梁川のひとりの友だちで梁川はこの人の小著「天華香録」を読んで自分の「病間録」を焚いてしまいたくなったと恥じたそうです。「この人ほど人生の深い悲哀を知れる人はなく、この人ほど、その悲哀に打ち克って平和を得たる人はない」といっています。私はかねてシューレのようなところでなく、ありがたいという感じのする高僧のそばに侍して修業したいと思っていました。それで私はこの人の弟子にしてもらおうと思います。京都在の一燈園という寺がこの人の Ordo のようなところなのだそうですが、この頃は東京にいられるそうです。私はそれで岩波さんのところへ尋ねてやりました。西田氏の在所がわかれば、私は父に頼んで、一日も早くこの人の教えを受けたいと思います。姉は養生先から帰らなくても、私の一大事のゆえに、父に頼んで早く庄原を出させてもらおうと存じます。考えてみれば私は、著書のことなどはむしろどうでもいいことです。また父に気の毒だといっても私の家にいて何一つ孝行もできません。それよりもキリストの「マルタよ、マルタよ、なんじ思い煩いて労れたり、されど無くてかなわぬものはただ一つなり」といわれた、その一つのものを得るために一心になるべきだと思います。それがやがて他人を潤おす本になるのだと思われます。私は神を求めてまだ神にあいません。いわんやパンを神にデペンドする強い信仰はありません。だから今はほんとの意味の出家はできません。しかし私の目ざしている境地はフランシスのような生活を実践することです。私はかつて恋を求めている時には、身も世も忘れて熱心でした。そして神を求める今、その熱心が足りないでどうしましょう。カルチュアやマンナーや骨肉の姑息こそくな愛(私は父母を愛するのに何の自信もありません)は第二義以下のことです。まず「無くてかなわぬもの」を握らねばなりません。その時私はすべてのものを愛する立場を得るのでしょう。釈迦、キリスト、日蓮などの出家は、両親を愛せぬからではなく、もっと深い愛、実力のある救済を求めたからでありましょう。私の愛は、他人の運命を動かす力なき愛です。親鸞の「心のままに助け取ることありがたき」聖道の愛にすぎません。私は浄土の愛がほしいです。私はコンセントレーションをせねばなりません。「愛と認識との出発」以来、私はあまり私の熱注的な性格を制して、多くの方向に心を向け過ぎました。かくして得られたる「静けさ」のなかには、怠慢と姑息とが芽を出しかけました。私は多くの data を隈なくならべて、それを統一することは単純化の道ではないと思い出しました。単純化は一つのエッセンス、精、法則の柱を握って、他のものをそれに依属せしむることだと思います。根本の深いものを一つつかまえねばなりません。そして私はそれを愛と運命との問題だと思います。私は文化の吸収に費やす力を少し惜しみましょう。生の歓楽を捨てて忍耐しましょう。(たとえば女の肉、快適な衣食住など)そして力を集めて私の問題に向かいましょう。それが私のアイゲントリッヒな性格なのですから。あきらめればあきらめられるものはみな捨てて、あきらめるにも、あきらめられぬものに集注しましょう。歓楽はあきらめられます。名誉も捨てられます。愛は捨てられません。今の文壇から誉を除けば、いかなる動機が残りましょうか、深い思想と濡れ輝いた個性が出ないのはもっともに思われます。弥陀みだの誓願の一つに「この本願かなわずばわれ正覚をとらず」というのがあります。愛せんとするねがいが、いかに強かったのでしょうか。
 私は岩波さんから返書が来れば、すぐに仕度をして、両親に願い、できるだけ早く庄原を出る気です。西田さんが東京にいられれば、あなたがたにも、お目にかかられるわけです。もし東京より遠いところならば、お目にかかれぬかもしれません。しかし少なくとも、あなたがたに会いには参りますから、お目にかかれることと存じます。けれどこの計画も神の聖旨でないならばまた崩れるかもしれません。まったく十日先のことは予言できませんね。
 明日は本田さんが、帰国の途中私の宅を訪ねて下さるそうです。東京の様子も聞かれることと楽しんでいます。
 愛する謙さん、なにとぞ自重して下さい。祝福せられて暮らして下さい。私はこの数か月迷って迷ってちっとも方針が決まりませんでした。あなたは魚住遺稿をお読みなさらぬなら、終わりのほうだけ読んで御覧なさい。私は感動いたしました。
(久保謙氏宛 十月二十九日。庄原より)
   乱るる心と修道院への憧憬

 湿潤な秋の雲のように物憂い私の心のうちは、近頃ややもすればみだれがちにて、今朝もとうとう雨になった庭を見ながらさまざまな淋しいことが考えられて、しおれていました時にあなたのお手紙が参りました。あなたのゆき届いた優しい言葉は静かに私を慰めてくれました。なんで私の心が傷つきましょう。私はむしろいつもうろうろと休息を知らない私のたましいのふつつかな騒擾そうじょうがあなたの生活をみだすことをおそれています。自分の近くに unruhig な人を持つことはうれしいものでないことは知っていますけれど、そして私はみだれたときには少し待っておちついてから後に手紙を書くべきかとも思いますけれど、思ったことをすぐに書くものですからあのようになります。しかし私のどのような心地で暮らしているかということはあなたは察して下さいます。私はやはり私としては自然な手紙の書き方をすることを寛大に容れて下さることを期待して遠慮せずに心の一仰一揚をそのままたよりさせていただきましょう。
 あなたのこの前のお手紙にあった「愛されの意識」は私も人性の深い純なねがいとして、私たちの完くなろうとする憧憬どうけいのおもなる動機と思います。私は「神となり、超人となろうとする意志」などはかえって被造物としての互いの従属を防ぐるものと思います。求めずに、ただ与えようとすることは傲慢ごうまんな、そして不可能なるのみならず、願わしからぬことと思われます。愛されたいねがいこそ人間と人間とを結びます。私は初め熱心に求めた人が、傷つけられたために、求めなくなる心の過程に深く同情します。けれどそれはあるがままの社会に不調和があるためであって、神の国に民たる人はその大切なツーゲンドとして、求めることアクセプトすることの自由がなくてはならぬと思います。エス様もよろこんで求めかつ受け取りなさいました。罪人からも税吏からも、ニイチェなどのいわゆる「与うるもの」よりもフランシスなどの、日の光をも恵みと感じた心の持ち方を私は喜びます。いつかあなたのおっしゃった Ich bin weil ich geliebt werde. の心地が最ものぞましいと思います。私は自分を全きものとしようとする努力は、常に自らと共存者とを調和のなかに従属せしめようとするねがいとはなるべからざるものと考えます。他のものをふみ越えて成長しようとする心は、神の子の属性ではありませんね。私はこの頃つくづくキリストがニイチェよりも深い感情の持ち主であったと思います。征服欲などは、所詮、運命を知らざる間の出来心にすぎませんね。私は私たちが造られたる物であることを意識することが、人と人との従属の鍵だと思います。私は愛を求めましょう。神の恵みと同胞の愛とに依属せずに、生きることはできないのは、たしかな事実であって、それを認めないのは、自分を知らないからだと存じます。私は宗教は汎神論でなくて、一神論、世界は現象即実在でなくて、「彼の世」こそわれらの誠のふる郷とする世界観がたしかであると思われます。私は二元論でさしつかえないと思います。これらのことは今は私の心持ちだけに止めておきましょう。
 親と子の問題はクリストリッヘ、リイベの必ず一度は衝突するはずに思われます。私の理想はこれをも、再び包摂して、けっして誤謬ごびゅうとして捨て去るつもりではありません。しかし、そこには天よりの Reinigung がなくてはならぬと信じます。「母性」は、しばしば考えらるるごとく、動物の原始的衝動としての献身と哺育からではなく、別の天よりのつとめとしての価値が付せられるべきと思われます。鳥が雛を育てる心(私の二年前のあくがれでした)でなくて、メッシヤとして子を神に渡した聖母のあくがれのなかにマザーフッドの高められたる姿が見いださるべきものと考えられます。私はなにものをもむげに斥けはしません。恋も骨肉の愛もエルヘーベンされた姿において、再び私に帰り来るものと思います。私は肯定の勇者光の子になりたいのです。私をどうぞ乱を喜ぶもの、悲苦を求むるものと思って下さいますな、私はキリストが自らは独身でも婚莚こんえんを祝し給うたように、他人の楽しさ安けさを祝さぬことはできません。やかましい裁きは私のねがいではありません。けれど自らはどこまでも厳しく裁く気でいるのです。西田さんなども菜食をしていても、他人の肉食を責めはしませんそうです。主義として独身ではなく、おのずから独身だそうです。
 あなたがインテレクシェルな生き方から、愛の体験のなかに入り、他人の不幸や悲哀を分けもつことが深くできるようにおなりあそばすことはまことに嬉しく存じます。私は日本の思想界に最も欠けたところは、濡れ輝く愛の個性に乏しいことと思います。Aさんなどの思想が愛を取り扱うて、しかも深く人の心を動かさないのは、深い悲哀と無常と、そして運命の感じとが沁み出ていないからではありますまいか。私はあなたのお書きになるものでは、やはり、あの短篇集などが最近のものだけに、最も潤うているのではないかと思われます。やはり悲哀と運命とは感動の源ですね。そちらのほうにあなたの歩みの向かうことは、あなたの作の深くなる源であろうと思われます。
 私は、やはり、心のあくがれが、私を淋しい僧院のようなところに誘います。謙さんに申し送ったように、西田天香さんのところに教を乞いに行く気でいます。たぶん東京にいられるのでしょう。御住所がわかれば、早く準備して、両親に頼んで、出してもらおうと思います。姉は来年にならねば帰りません。私は、深い悲哀の味を知った、お翁さんみたいな人の慈悲に包まれたい気がします。そして私自身は、慈悲深いモンクのようなものになって、世の傷ついたたましいの一つの慰めの Refuge になりたいのです。私は忘れ得ぬ人々のさまざまな淋しい生活を思うときに、それらの人々の友としてだけでも生きていたい心地がいたします。いつでも私を愛してくださいませ。
 本田さんも不幸な人ですね、私の家に今日は来て下さるはずですけれど、この雨ではどうですかしら。
 お絹さんは広島のある病院に勤めています。ホームにいのちを見いだそうとする彼女のねがいに、私のような淋しいあくがれでどうして応じられましょう。私はおなかのうちで深く彼女のいじらしい姿を抱き収めています。人生の永い悲哀と恨みとは私の心の底に沁み込んで私の魂の本質になりました。あなたの二十日ほど寝起きなさったあの裏座敷に、妹の上京後は私ひとりで陰気くさい顔をして、暮らしています。今日はことに雨が煙るように降って心が沈んでいけません。妹が今朝謙さんの「朝」を送ってくれました。文展の絵はがきなど見ながら、東京の様子をしのんでいます。早くあなたがたにもお目にかかりたいものですね、大切になさいませ。
(久保正夫氏宛 十月三十日。庄原より)
   お絹さんとのトラブル

 庄原を出発してから一度も便りをいたしませぬゆえ、私の身の上を案じていて下さいますことと存じます。その間に私にはまた事件が生じました。私は今夜から鹿ヶ谷の一燈園に入って修業する決心になりました。その間の経過をお通知いたします。
 私は庄原を出て広島の親戚に二日泊り、翌日尾道に来る途中糸崎という海岸の漁師町のとある宿屋でお絹さんに会いました。そして今の私のあくがれを語りました。その語らいはどうしても悲しいものにならずにいられるはずはありません。彼女はいく度もいく度も泣きました。そして私も何ともいたし方はありませんでした。彼女は別れを惜しんでなかなか帰ろうとはいたしません。私も無理に帰す勇気もありませんでした。病院の方は二、三日暇をもらって出たのだからかまわないというものですから、ついに糸崎で三日泊りました。四日目の朝もはやどうしても帰れと私は強く主張しました。それはもし病院のほうが免職になってはならないと私が心配したからでした。そして「今日帰る」と電報を打たせにやりました。しかるにお絹さんは「明日帰る」と打電して帰りました。それで一日のびました。同じ一日過ごすなら糸崎よりも福山に行こうといって福山に参りました。翌朝今朝はどうしても帰れといってまた電報を打たせにやりました。しかるに彼女はまた「あすかえる」と行って帰りました。そして「どうしても別れたくない。も一日そばにおらしてくれ」といって泣くばかりでした。私もあわれにかわゆく思われて無理に帰らすこともできず、また一日延びました。このようにしてついに六日が過ぎました。そして六日目にお絹さんも決心して今日の午後には必ず広島に帰るといって食後二人でまた悲しいことばかり繰り返して語っているところへ、突然警察署から巡査が来ました。そして二人は福山警察署に連れて行かれました。
 警察署に行ってみると、尾道から私の叔父が来ていました。あとで事情を聞けば、お絹さんは私が庄原から一燈園に行くという手紙を出してから、常に病院で悲しそうな顔ばかりして、「私は死ぬ死ぬ」と朋輩の看護婦たちにいっていたそうです。それが「ちょっと宮島に行って来る」といって病院を出たきり六日も帰って来ないので、病院のほうではほんとに死にでもするのではないかと心配して、警察に保護願いを出したものとみえます。
 私たちは病院のほうで前からの関係を知られていたのでした。私たちは警察でまことに腹立たしいまた恥ずかしい目にあいました。私は叔父に連れられてその日の午後尾道に帰りました。お絹さんは巡査に守られて病院に送られました。私が警察から帰る時お絹さんは後に残って泣いていました。それから私たちは会いません。私は親戚しんせきではげしく叱られました。また正直な国許の父は警察沙汰になったのをひどく不面目に感じて、私を恨みました。私はお絹さんの身の上を心配して、お金や電報や手紙を出しましたが何の返事もありません。どうしているのかわかりません。ただ病院のほうは辞職して太田看護婦会長の家に監禁せられていることだけわかりました。国許の両親はお絹さんをお嫁にもらえと勧めます。また親戚もみなお絹さんと結婚せよと勧めます。そうすればお絹さんもどれほど悦ぶか知れないのです。けれど私は今は宗教的生活の深いねがいを持っています。それに妻を養うかいしょがありません。今の私の心に描いている生活はどうも結婚生活とは調和しそうにありません。私は一概にお絹さんと結婚しないというのではありません。けれど今の私はそんなことをしてはいられない気がするのです。
 私は一昨日尾道を無解決のままに放擲しておいて京都に来て西田さんに会いました。そして西田さんの話を聞いてまことに畏れ入りました。私はこれまでの私の生活やまた文壇の今の人々の生活などの虚偽と空虚とをかれました。そして恥ずかしくまた uneasy になりました。
 私は西田さんは実に偉いと感服しました。この後は一燈園にとどまり、天香師を善知識として修業したいと考えます。お絹さんのことも詳細打ち明けて相談いたしました。そして天香師の勧告と私の熟慮の末、お絹さんをも一燈園に来るように勧める決心をいたしました。お絹さんはこのたびの騒動で病院は辞職しなければならず、パンにも苦しんでいる状態です。そしてどうしても私と別れる気がしないならば一燈園に来ればお金はなくとも天香師が引き受けて下さるのです。そして天香師のいわるるには、さきのことは神のほか知るものはない。今は夫婦約束などせず、ともかくも共に信仰生活にはいって修業するがいい。その間にもし神意ならば、結婚してもいい時期が熟するだろう、あるいは僧と尼としてフランシスとクララのごとくに暮らしてもいい、ともかく先のことはわからない。今は両人とも人間としてなくてかなわぬ唯一のものを求むるがよい。もし女に菩提心ぼだいしんあらば一燈園に来させよ、との勧めでした。私も熟考してみるに、この方法が最も私の心にも適い、真理に即したる解決のごとく思われます。それで私はその方針を取ることに定め、尾道の私の叔父の尽力を乞い、その運びにするつもりです。もとよりお絹さんの決意はお絹さんに任せるほかはありません。はたしてお絹さんが一燈園に来るか、来ないかは、わかりません。私はお絹さんの運命に没交渉ではいられません。一燈園に来なければ新しい職の得らるるまで、私の家にでもいてもらいます。そしてこの後もお絹さんを愛します。ただ私の今あくがれている宗教的生活を捨てることはできません。私はどうかしてともに同じあくがれに進むことができれば幸いだと思います。しかしそのようなことは自由には参りません。私はお絹さんの心に任せます。私はお絹さんがいとしくてなりません。そのうちに何とか解決がつくことと存じます。今は向こうから少しも便りがないのでまったく困っています。解決がついたらお知せいたします。どうぞ私たちの運命のためにお祈り下さい。
 私はこれから根本的にひとりの人間として地上に置かれたる Mensch としての生活をやり直さねばなりません。つまり衣食をも父にたよらずに神に頼って暮らす工夫をしなくてはなりません。天香師はその方面に私を導いて下さるそうです。
 私のこれまでにしてきた生活は、私が uneasy であるのはあたりまえだ、と天香師は申されました。そしてパンを父に頼って、贅沢ぜいたくな生活をしていることを叱られました。私ももっともに感ずるほかはありませんでした。
 宗教的生活の純粋なるものは必ず衣食の道を神に depend してはたらくことに根をおろさなくては虚偽だと思われます。一体に天香師に会って話してみると、師の考え方には浮気な eitel なところがありません。すべてがたしかな深い地盤の上に立っています。そして私の持っている色気や衒気げんきが、実に目に鮮かに見えて恐縮いたします。私はこれから天香師の生活から吸収しうるすべてのよい Einfluss を受け取りたいと思います。
 書物の出版の話は恥ずかしく天香師に話すには話しましたが uneasy でなりませんでした。そして私の威力なき生活を省る時に、そのことはひとまず中止にするほかはありませんでした。かく申しましても、私は私自らのものを捨てる気は少しもありません。
 ただ天香師の生活の実状を見る時に、私の生活よりもそこには光り輝いてるところの真理をみとめますから、師から Einfluss を得ることを光栄に感ずるのであります。
 私は一燈園にとどまることは私の生涯にけっして無駄ではあるまいと思われます。聖フランシスのことは師とも語り合いました。そして一燈園の組織はフランシスカンのと酷似しています。天香師の生活法は、フランシスその人のと酷似しています。私はひとりのフランシスカンになれるわけです。みなよく働いて相愛しています。私もはたらかしてもらいたい気がします。そして無能な私はもうけることはできなくても一燈園で養われます。つまり神から衣食を得て暮らすことができます。
 私はただ「神の国とその正しきとを求め」ればよいわけです。天香師は慈悲深い飾り気のない徹底的な方です。その自由な暮らし方はそばで見ていても気持ちがいいほどです。しかし少しエクセントリックなところがありすぎるように思われます。これも年とともに円熟することでしょう。まだ四十代ですから。
 私は不思議な運命に押されて、ここまで参りました。これから後どのようになりますかは神様のほか知る方はありません。どうぞ深い真実な生活のできるようになりたいと思います。神仏の加護を祈り求める心がせつでございます。私はどうも腰が決まらず、色気や衒気が多くて困ります。深い真実な人に触れると鏡の前に立つように、はっきりとそれが見えて恥しくなります。宗教生活の深い味にこれから少しずつ味識し身読してゆかせてもらいたいものです。お絹さんのことが解決すればまた便りをいたします。一燈園の様子もだんだんとお知らせいたします。そのような事情で当分あなたにもお目にかかれません。どうぞ大切になさいませ。
 神様の恵みのゆたかにあなたを包むようにお祈りいたします。
 私はこの頃は何だか悲しい変な心地がして私の力でなく、何らかの力――運命に引きずられて生きてるような心地がいたします。おちつきますまで謙さんに手紙がしみじみと書かれませんので、なにとぞこの手紙の旨を謙さんにお伝え下さいませ。
 今日はこれで筆をおきます。
(久保正夫氏宛 十二月四日。一燈園より)
   聖者の子

 御親切なお手紙をありがとうございました。お父さんはもはやお帰国なさいましたか、叔父さんが病篤き由さぞ御心配のこととお察し申します。何やかやであなたの心も不安でおちつかないでしょうね。しかしあなたは怒号せず叫泣せざる静かな悲苦と調和との心をもってそれらの思いのままにならぬ周囲に対して平和を保つように努めていられることと思っておいとしく尊く存じます。なにとぞ静かに大きくふくらむように成長していって下さい。私はあなたのために祈っています。私は一燈園で毎日よく働いて暮らしています。畑の仕事や洗濯せんたくや車曳きなどもいたします。昨夜はバケツを携げてお豆腐を買いに十町もある店まで行きました。そのような卑しいしもべのようなことも心にうちより溢るるものがある時には悦んでできます。四、五日前には三条の河道屋というそばやに手伝いに行き、粗末な黒木綿の絆纏はんてんを着て朝から夜の七時まで働きました。車を廻したりそば粉をこねたりしましたが馴れない力わざなのでぐったり疲れて半里もある一燈園への帰り道に燈火の明るい京女の往き交う二条通りなどを歩む時には私はロシアの都会などを歩く労働者などの気持ちがしのばれました。そしてやはり小説を読んだだけではわからないところの、ただ労働者の眼にのみひらける一種の世界があるような気がいたしました。畑へ出て耕したり、野菜を植えたり、草を刈り、焚火をしたりしていると土に対する親しい感じや農夫に対する同悲の心などがしみじみ起こります。私は畑から担いで帰ったねぎやしゃくし菜などを谷川を洗いましたが、その冷たさ、それからは路を歩いても、子をおぶった女などが手を赤くして菜を洗っているのを見ると(これまでは少しも目につかなかったのに)限りなき同悲の情が起こります。私は社会の下層階級の人々の持つ感じ方に注意せられます。そして共に労働するものの間に生まれる愛憐と従属との感じなどを思うときに古えの聖者たちが愛と労働とを結びつけて考えたのは道理のあることと思われます。私は健康さえたしかならば労働者として暮らしたい心地さえいたします。しかし謙さん、私に不安なのは私の健康のことです。一燈園は麦飯と汁のほかは食物はありません。そして労働しなければなりませんし、睡眠もとかく乱れがちになります。私はこれまでの養生法と正反対の生活状態にはいりました。どうも他の質素な人々の目の前で私だけ豊かな暮らし方をするわけにも参りません。私は一昨日も荷車の後押しをして坂を上る時息が苦しくて後で嘔吐を催しました。また立膝をして菜などを洗うので痔のぐあいもよろしくないようです。幸いにして今のところでは無事で暮らさせてもらっています。けれどどうも不安が去りません。天香師は強い信仰から、仏によりて養われるならば粗食でも仏の加護で壮健を保たれるといわれます。また私の二つの病気を知りながら労働することもあまり気にもとめられません。私は慈悲深い西田さんが私の健康をおろそかに取扱って下さるはずはないと信じていますけれど、でもまだ不安は去りません。そしてどこまでも私の理想を妨げる病気が怨めしい心地も起こります。からださえ丈夫ならば、労働は私はたしかに大切な、生活を清新にする尊いものと信じますから喜び勇んでいたしますが、今のところ、まだ少し不安があります。私はこのことに関して神様に特別に祈っております。一燈園は喜捨で生活して行くので、他家ではたらくのは無報酬なのです。二十九人おりますが、みなそれぞれ不幸な運命のもとに生まれた人ばかり、白髪の老人や、切髪の奥様や、宿無し児や若い娘などもおります。私といつも一緒に畑に行く人は気狂いで時々無理をいって私を困らせます。私はこれからおいおいそれらの人々についてあなたにお知らせいたしますつもりですが、今日は天香師の息子さんの理一郎という十四になる少年について少し書きましょう。理一郎さんには母がありません。それは西田さんが出家の生活を初めた時に西田さんを気狂いだと思って西田さんを捨てて行かれました。それは今から十数年前まだこの不幸な少年が三、四歳の時でした。理一郎さんは純な愛らしい少年です。色の白い丸ぼちゃの活溌な子です。それがまたどうした因縁か私をたいへん好くのです。そして寝床も私のなかにはいって寝ます。幾らかそして私に甘えるようにもいたします。昨夜はいい月夜でした。私は理一郎さんと一緒に散歩しました。畑の間や林のそばを通って街の方へ歩きながら、いろいろ話しました。私はこの少年の感じやすい純な性質によく触れました。そしてこの少年の小さな胸のなかに動く悲哀や疑いや憧憬などを聞き感動させられました。母のことを語る時には特別にセンチメンタルでした。「長浜から来た当分は悲しくて悲しくて泣けてしようがなかった」などともいいました。また「みな私のお父さんを偉い偉いといやはるけど私はお父さんの主義はきらいや」などともいいました。その理由を聞くと西田さんは理一郎さんをも他人をも同じように愛するのだそうです。そしてものを買うのにでもなかなかお金を出してくれない。不自由を忍耐させる。また学校も早くやめさせるつもりなのだそうです。私は西田さんの心持ちをよくわかるように説明してやりましたらうなずいていました。そして少年倶楽部が買いたいけれどお父さんが買ってくれないといいましたから、私は「西田さんはお金は幾らでもあるけれどあなたを贅沢な習慣にしないために買ってくれないのだ。それさえわかってれば私が買ってあげる」といって寺町の本屋まで行って少年倶楽部を買ってやりました。帰り道に博覧会のイルミネーションのそばを通る時、急に曲馬の楽隊の音が始まりました。少年は好奇心を挑発されたと見えて大分見たそうでした。私はこの少年は平常このようなものを少しもお父さんに見せてもらっていないことを知りました。そしてちょうどこの年頃の少年の好奇心の強い時代には苦しいことであろうと推察しました。「今晩は遅いから、みなが心配するから帰ろう、また私が見物に連れて来てあげる」と私がいうと「いいえこんなものとは縁を切ります」といいました。しかし見たそうでした。
 私は西田さんの子供の育て方はよいかどうか疑問だと思いました。「そして私のことは習ってはいけない。お父さんのいうとおりにしなさい。しかし今度曲馬を見せてあげるよ」と約束しました。昨夜もこの少年と一緒に寝ました。あわれではありませんか。お絹さんは免職になり今は広島の牧師の家に預けられています。私は彼女をゆくゆくは妻にしてやる気です。彼女を苦しめはしませんから、安心して下さいませ。今日はこれで筆をおきます。どうぞ御大切になさいませ。「朝」と「百合の谷」は今一燈園の人が読んでいます。いつでもお返しいたします。
(久保謙氏宛 一燈園より)
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 大正五年(一九一六)


   離れ島にさまよう

 私は今広島の南にあたる瀬戸内海の一小島倉橋島にある倉橋という漁村のさびしい旅屋の二階でこの手紙を書いています。あなたのお手紙は尾道で読みました。実富君と往復することが妨げられたという報知は、私を失望させました。そしてそのような目にあうときには、人間はだれでもその動機の世にはありがちなものとは知りながら、非常に不愉快になることを免がれがたいものです。私は何だかあなたの傷つけられた心持ちに同情せられて一緒に不愉快に感じます。自分がただ向こうの幸福を祈る心のほかにはないときに、向こうからあたかも愛するものを損う誘惑のごとくに取扱われるときには淋しいものですね。いったいに子を守る母の愛には他の人に対してえてかってなふるまいが多いものですね。H・Hの母はそのようなふうに私を取扱いました。私はその時の傷つけられた心持ちを今に忘れることができません。そして私は実富君の態度にも少しく不満足を感じます。しかしあなたの手紙には少しも怒りの心持ちは現われていませんでしたのをいとしく、また尊く感じました。何事も耐え忍んで平らかな静かな暮らし方をなすって下さい。あなたはいったいに人に誤解されやすい方だと思われます。これはあなたの自由な対人態度が常人の習慣と容れなかったのでしょうか。実は私はあなたのことを多くの人がよくいわないのを知っています。そして注意しておきますが、御木本君のお姉様に与えたあなたの印象はよいものではありませんでした。私はその事を聞いた時には大いにあなたを弁護いたしました。私はあなたを不幸な、淋しい人だとその時思いました。私はあなたを愛していますから、人があなたをよくいわないのは苦痛に感じます。私はあなたに注意しておきますが、あなたが愛せられていると信じていらっしゃる人々のあいだには、ほんとうはあなたを愛しない人が多いかもしれません。信ずる心はいつでもよい心です。私はそれを知りながら、上のようなことを書かなければならないのでした。人間と人間との交わりはどうしてこのように虚偽が多いのでしょうね。
 私は尾道の叔父からぜひ帰れという手紙に接して尾道に帰ってからずーっと叔父の家にいました。両親は私の一燈園にての生活を非常に心配いたします。そしてこの寒さの増して行く季節を、ことに寒い京都の修道院にて暮すことはどうしても許してくれません。そして冬の間はぜひ暖地で暮らせと申します。まだ荷物はすべて一燈園にあります。私はしいても争いかねてまだきめずにあります。広島の牧師の家にいるお絹さんは私には悲しい、せつない、諦めの手紙をよこしました。そして艶子へは「兄さんの心配を除くためにあきらめるといってやったけれど、私にはどうしてもあきらめられない、私は朝顔日記の深雪みゆきや、袖萩のような強い恋をする。その心は兄さんにも告げない、あなただけは知っていてくれ」という手紙をよこします。そのようにしていつまでも結婚せずにいてくれては私もまことにあわれにかつ責任を感じずにはいられません。
 しかるに最近に、私は驚くべき音信に接しました。それは「H・Hを君の妻君にすることは可能である、私がほねをおりたい、至急帰郷せよ」という私の同郷の、札幌の農科大学を出た友人からの手紙なのです。三年昔の苦しい、血の出るような思い出が急に心に蘇りました。H・Hはたしかに結婚したはずです。してみれば去られて帰ったのでしょうか。なにしろ私は心が動揺しました。私はH・Hと結婚することが可能であっても、今は考えなければならない真実な問題がたくさんあってけっして軽率なことはする気はありません。三年の間に私の思想は、いうにいわれぬ淋しい無常な気持ちを植えつけられて、魂のあくがれははるかに遠いあなたに向かっています。私は今もH・Hを愛し、彼女の幸福のためにはどのようなことでもしてやる気です。しかし結婚することがどれだけ二人のために幸福かわかりません。また今そんなことをしたらお絹さんはどうしましょう。私はかわいそうです。とはいえもし今私がH・Hに会いでもしたら、どんな心になるかもわかりません。おそらくは衣の袖にすがって千行の涙を垂れて泣くでしょう。私はけっして忘れてはいないのですもの。
 それやこれで私の心はちぢに乱れ、尾道にいたたまらずに、船に乗って遠くへ行って考えたいと思ってここまで参りました。雨が降って小さな汽船に揺られて、船に酔い、頭の底はしんしんと痛み、傘がないので衣は濡れ、まっくらなこの漁村に昨夜おそく着きました。
 今朝も空は灰色に低く垂れて、船宿の汚ない部屋の欄干にすがって、海のどんよりした色を見ていると、淋しい淋しい気がいたします。何ともいいようのない無常を感じます。私はこの頃は西行や芭蕉などの行脚あんぎゃ托鉢たくはつして歩くような雲水のような心に同感します。
 私は西国八十八か所を遍路して歩きたいと思いましたが止められました。天香さんは勝淳さん(一燈園の尼さん、切髪の品のいい四十歳ぐらい、天香さんと、夫婦のようにして暮らしていられます)と一緒に去年の春西国巡礼をせられました。「お遍路さん――」といってみちばたの茶屋などでも大切にしてくれるそうです。
 私はこのようにぶらぶらしていてついにどうするのでしょう。明日はともかく尾道に帰ろうと存じます。そのうえでまた何とか考えをつけましょう。私は考えをまとめたいと思ってここに来たのに、来てみれば冷たいおちつかぬ心地ばかりして、アンイージーで、はやく帰りたくなりました。
 艶子はこの冬休暇にお訪ねいたしましたかしら。今日は何だか悲しくて書く気がいたしません。寒いゆえできるだけ大切にして御勉強なさいませ。
(久保正夫氏宛 一月十日。倉橋島より)
   師と弟子との純情

 今日はあなたの「聖フランシスの小さき花」が届きました。装いも、内容も、文体も典雅な美しさとよろこびを保ち、私の心にふさわしき、感激を帯びたひびきを伝えました。私はあなたのお仕事が初めて世に公けになったことを祝します。やがてあなたの創作なども公けの宝として人々に別けもたるる日の早かれかしと祈ります。あなたのプレゼントを私ははじめから、あたりまえのこととして待ち設けられるほど、あなたの生活と仕事に親しくなっていることを悦びました。感謝と同慶の心をもてあなたの送り物を受け取ります。
 私は先月の末からこの宿にうつりました。青い畑と、静かな林を後ろにして小さな牧場とが二階の欄干から眺められる小じんまりした、感じのいいところです。一燈園から七、八丁ばかり、天香さんは町へ出るたびに、下から倉田さんと声をかけて下さいます。ちょうど通り路にあたるのです。私は二階から首を出して晴れやかな親しい挨拶あいさつを交わします。私は一燈園へ毎朝通ってお経を誦し礼拝した後で、天香さんの次男の、理一郎という十五になる少年を連れてかえって英語を教えています。この少年は色の白い美しい悧溌りはつな子で私を信じてすがります。
 私はふしあわせな人々のためにできるだけ力を分かっています。それらのさまざまな物語りはあなたにお目にかかって話したらば限りなくたくさんに多様にあります。よく私は一燈園で何心なく座敷のふすまをあけると、天香さんの前に奥様らしい三十女などの泣きくずれて訴えているところを見受けて、はっと心を打たれることなどございます。私は天香さんのひとりの弟子として信愛されその愛憐の仕事をたすけることを幸福に感じます。
 あなたは日々仕事にいそしみ、御家庭の不調和にもたえて、愛と忍耐とをまなび、そのなかからあなた自身と周囲とをしあわせにする道をひらきつつ、努力していらっしゃるのですね。そのなかからあの「小さき花」の訳書などもできたのですから尊いと思います。フランシスのものなどこそローマンスを求める心や、ドキュメントをあさる心などで読まれるべきものではなく、己れの日々の生活に愛と忍びとの味を沁み出させんとの実践の気持ちでしかせられなくてはなりませんね。天香さんなどはフランシスのとおりに行なっていられます。たしかに聖者という感じがいたします。天香さんは昔西村家という待合に十何年間も住んでいられました。今の勝淳さんという一燈園のクララともいうべき尼は、昔の西村家の仲居でした。品のいい静かな婦人です。一燈園の二階の婦人のへやには大小をはさんだりっぱな武士の絵姿を軸物にして懸けてあります。これは勝淳さんの祖父の肖像だそうです。私が一燈園にかえってあくる朝は大雪で、林も垣根もま白になりました。私は顔を洗いに庭に出ますと、そこに勝淳さんが、白雪の重たく降るなかに、立ちつくして、天を拝しつつ、指を輪のようにして黙って祈りの姿でいました。私はその気高い、切髪にした四十幾つの女の祈りの姿を忘れることができません。
 また一燈園の仏壇に飾られてある観音の絵像は、西村家の娘なつ子さんの似顔です、なつ子さんは二十四で、四年前になくなりました。私は天香さんの日記「天華香洞の礎」というのを読ませていただき、なつ子さんの死がいかに天香さんへの打撃であったかを知って涙をこぼさせられました。多くの若い娘たちが、天香さんを慕うて来て、なつ子さんのようになくなったそうです。私は深い深いこの聖者の胸の底の悲哀の測りがたきことを感じます。ある時私は問いました。
「あなたに求めに来た人が、あなたを去る時に淋しいでしょうね」と。天香さんはよく問うてくれたというように感動した様子を帯びて答えました。「初めはずいぶん淋しかった。けれど今はそうでもない。別れる時、自らの不徳をわびて、去る人の後ろ姿を手を合わせて拝んで送っておけば、その人が行きつまった時には必ず帰ってくるものです」
 私はそういう深い別れの心持ちがまたとあろうかと思って泣きたくなりました。そして、その心持ちを自己のものとするまでに、この淋しき聖者はどれほど苦しんだことでしょう。
 天香さんをあなたに紹介する日の早く来らんことを祈ります。
 一昨日お絹さんが突然夜更けに私をたずねて参りました。広島の牧師に恋慕せられて、奥さんに虐げられ、いたたまらずに書置きを残して逃げてきました。私は西田さんにお目にかかって、お絹さんを托しました。西田さんはいつでも一燈園に置いてあげるとおっしゃいました。お絹さんは京都に二日私と一緒に暮らして、昨日故郷なる丹後の宮津に帰りました。お絹さんは福山での騒動以来よほどつらかったものとみえて、世帯やつれがして、涙もろくなり、泣いてばかりいました。私は心からあわれになりました。そして行く末は、美しくないのはしんぼうして、私の一生の伴侶にしてやろうと思います。色香はなくても私は大切にしてくれるでしょう。
 この頃の私の心は慈しみと悲しみとに濡れています。今日は雨が煙るように降って肌さむく、火鉢に親しみながらぼんやりしていました。あなたのことを思います。軽ろいところを捨てて重たくなり、甘えるのも脱して真実なるものへ深入りして下さい。あなたの成長をいのる。
(久保正夫宛 二月八日。京都岡崎より)
   隣人としての共棲

 私はこの二十日ばかり病気で寝ています。根気がなくて御無沙汰になってすみませんでした。堪忍して下さい。正夫さんの「完全の鏡」は確かに受け取りました。また、長らく拝借していた「朝」と「イミテイション、オブ、クライスト」とを二、三日前に送り出しました。こちらで私のほか、数人読みました。まことにありがとうございました。私はこの頃毎日発熱して食事が進まないので物憂い心地で暮らしております。今日は根気がありませぬから著しいことだけ書き送ります。実は私は明日、お絹さんと家持ちを初めます。父母の許可も得ました。この二十日ばかりお絹さんは私の下宿に来て毎日看護してくれております。私は一生めとらず、お絹さんをそばに置いて、結婚でなく共棲を続ける気です。お互いの自由を縛らないで、隣人として相哀れみ、平和な、むつまじい暮らし方をする気です。私はこの病弱なからだを優しいお絹さんの看護の手に委ねます。そして私は思想上の師として彼女を導き、キリストとマルタのごとくあるいはむしろ乳母と病みやすき若者とのごとくに慈愛と憐憫れんびんとで包むように愛し合いましょう。私はお絹さんの腕に抱かれて死ぬ気です。
 お絹さんは年二十六、人生の悲哀をかみしめています。もはや色香もあせています。私への愛もどこかに母らしい気持ちも伴ないます。私は今の若さでもっと若い、美しい女との華やかな結婚を思わぬではありませんけれど、もはや恋のできる心ではなし、お絹さんがあわれであわれで振り捨てる気にはなれず、何もかも運命の催すところとあきらめて、一生涯の共棲と心を決めました。とはいえ淋しい心地がして、スイートな感じなどちっとも起こりません。お絹さんも私の心を察して淋しい思いに沈みます。そして「あなたは私と共同生活をしても気に入った人ができればいつでも結婚なさい」と申します。私はお絹さんの心をあわれみます。そして、もうどんな美しい女があっても娶りません。そして淋しく睦じく、二人で暮らします。四月初旬には妹も帰り、三人で京都で暮らします。そして機を見て上京いたします。あなたはこの春休みに私の新しい家にいらっしゃいませんか。春の京都を見物かたがたいかがですか。
 私はどうしてこのように病弱なのでしょう。つくづく病むものの悲哀を感じます。
 まだお寒うございますからお大切になさいませ。
(久保謙氏宛 三月二十四日。京都より)
   妹来たる

 お手紙いつもやさしく慰め励まして下さってありがとうございます。あなたは近頃風邪かぜの加減でこの前植物園で妹がお目にかかった時にもお顔の色もすぐれなかったようにお見受けしたということですが、昨今はいかがでございますか、ほんとに大切になさいませ。私は一時は少なからず心配しましたが、お絹さんの親切な看護のおかげか、今では熱も去り、食事も進み、ほとんど常態に恢復いたしましたから悦んで下さい。
 昨日は、また、久しぶりに、めでたく卒業した、愛する妹が帰って来まして、七条駅まで迎えに行き、昨秋以来の、なつかしい逢瀬おうせの、互いにねぎらう挨拶を交わす時にも、兄妹ともしあわせな心地につつまれました。
 私の新しい家に着くと、お絹さん――これは別府の時から、妹を渇仰してるのです――が、かいがいしく、いろいろと世話をして、荷物の世話などしてやりました。天香さんにも通知をして悦んでもらいました。これからしばらく、京都で三人暮らすことになります。私の住所は、東山のふもとに近い、田圃たんぼのなかの淋しいところにあります。父からもらう少しのお金で、三人貧しく、睦じく暮らすつもりです。お父上がお国から見えになるそうですね。その後で私のとこへもいらしていただけるかもしれない由、もし、そうできたなら、私はどれほど悦ぶか知れません。正夫さんとは昨夏をああして二十日も一緒に暮らせましたけれど、あなたとは三年夏のなかばの日に、カフェで別れたきり、お目にかからないのですものね。まことにずっと昔の、昔のことのような気がいたします。
 四月は京都のもっともたのしい季節で、祇園ぎおんの桜も咲き、都踊りも始まります。あなたも一度は京にお越しなされませ。天香さんにもお絹さんにもお引きあわせ申します。お絹さんを、私はあわれに、いとしくおもい、仏の眼のうるおいとゆるしとをもって、優しく、いつくしむ気でいます。お絹さんは私を玉のように大切に、守るように世話をしてくれ、いつもよく働きます。そしてその容色や才能が私を満足させてはいないことを熟知して、心の底でいつも遠慮していることを私は知っていますから、私はお絹さんを淋しがらせぬように努めています。私の、若い、おとこ心は、時としては、若い、美しい娘さんなどを見る時、お絹さんと一生共棲することを大きな寂寞せきばくと感じさせることもありますけれど、そのような時には私はいつも考え直します。
 病院時代の物語りや、別府の船の別れや、福山警察署の別れや、一燈園での再会や、さまざまのことを思い出す時に、私はお絹さんをあわれにあわれに、思います。そしてできるだけ愛そうと思います。
 一緒に暮らして感ずる淋しさは、このまま振り捨てた後で私の心を責められる気がかりより、いくらましかもしれません。私は、私らしい、淋しい共棲生活をいたしましょう。あなたのお優しいアドヴァイスは嬉しく心に納めました。私たちは、淋しい、睦じい暮らし方をし、愛と赦しと労いとをひろく、あまねく、隣人に及ぼしてゆく気ですから悦んで下さい。
 私たちはどうせ、東京に参ります。しばらく京都で暮らします。お絹さんは東京のような、はなやかな都に行くのは、はれがましく、私の友人に会うのは自分の卑しさが気にかかり、また東京は美しい女の多いところゆえ、私の醜さが眼に立つから行きたくありませんというので困っています。
 艶子にも東京に出るように勧めてもらっていますが、あなたも今度京都にいらして、東京に行く気になるように勧めてやって下さい。正夫さんの結婚問題は、私はどうもまだ熟していない気がして、賛成できません。正夫さんには、くれぐれも慎重な熟慮を持たるるようにお願いしておきました。それでは、今日はこれで、筆をおきます。では大切になさいませ。たぶんお目にかかれることと思っています。
(久保謙氏宛 四月六日。京都より)
   美的態度と愛の実践との接着になやむ

 あなたは私があまりに長らく便りを怠りましたから、さだめしお心淋しく思っていて下さったことと存じます。ほんとにあなたから四、五度もお便りをいただいておきながら、黙っていてすまないことをいたしました。どうぞお許し下さい。その間にもあなたのお宅の不祥な出来事の成行きはどうなりましたか。母なき後の小児たちのありさまや、それを世話なさるあなたの母君、またそれを悲憐の眼で見つつその間にも仕事に出精せられるあなたのお姿を想像するとまことに悲しみも、涙とならぬほどの深刻な苦しさを察せられます。またあなたの手紙はあなたの性格の抜きがたき欠陥に対する嘆きとたたかいを伝えてきましたが、私は、そのようなたたかいは、いかに根の深い惨憺たる性質を帯びるものであるかを知っているだけに、私は少しもあなたをそれらの欠陥について責め裁く気はせず、ただ深く御同情いたします。性格上のたたかいは、しばしば、神の恵みと強い忍耐深い祈りのないときには、古来の偉人たちにおいても絶望に終わるほかはなかったほど fatal なもののごとくに見えます。私などはいつもゾルレン癖から、かつては他人を責め裁く心の烈しかったものです。しかし今は人間の天賦の性格のよほど運命的なものであることを知ってきましたから、むしろそのたたかいに同情いたします。佐野文夫君などはそのたたかいのために非常に悩んでいました。そして私の知ってる限りではそのたたかいにまだ成功してはいませんでした。私はただその苦闘を祈りによって、たえず続けてゆける人を尊敬いたします。私などがいうべき限りではありませんけれど、あなたの認められるあなた御自身の欠点は私もたしかに認めています。
 さまざまな尊き内容を持つ言葉や文字が、十分に実践的な意志を伴なわずに表現せられるときには、それのエフェクトはインテンシチーの足りないものとなって受け取られます。読む人は軽く、受け流してしまいます。博識の人たちに多い欠点と思われます。上田、森、姉崎博士たちからは、私たちの生命、こころ、のかては与えられぬように思います。ほんとうは、聖者たち、あなたの好んで訳さるるフランシスのごとき実行家からばかりまことの深い感動は与えられますね。そしてフランシスのごときものを物語的な心持ちで読むほどの冒涜ぼうとくは少ないと思います。一杯の水を隣人に乞う心と、カフェで紅茶を飲む心持ちとはまるで似ていないのに、私たちは紅茶の後でフランシスを語りつつ弄びます。そのようなところに私たちの一番大きな、直接な間違いがあるようですね。キリストや、釈迦や、親鸞聖人などの托鉢の生活を思い、またその生活をそのままに、今なお乞食のごとくに暮らしている天香師などのそばに行くときに、私はいつもはげしく私の仮虚の愛を指示されて苦しみます。しかも私はまだ天香師をそのままにナハフォルゲンできない心のありさまにありながら、私のすぐそばにかかる愛と犠牲の行者ぎょうじゃを持っているのはどのように不安だか知れません。
 私は少なくとも天香師の前では愛を口にすることだけはさし控えます。「私は少しも愛してはいません」というほうがどれほど安らかか知れません。そして世のなかの、ことに文壇の愛の論者たちが皮肉にさえ感じられます。私は天香師のそばをしばしば逃げ出したくなります。しかもその真実な性格にひきつけられてそれもできません。私は、謙さんにも話したことですが、今心の生活が行きつまっています。どちらにも進まれないような境涯きょうがいに座して苦しんでいます。自分のなかのむなしいものや、甘えるものや、また自分の発心ほっしんや動機などに根在する不純な趣味的要素(妙な言葉ですけれど)に眼がつくほど、新しい生活に対して二の足を踏みます。真の祈りの心持ちは隙間すきまのない実践的意志から必然に分泌せられるべきものなのに、私たちには、その実践的意志が、まじめになっていません。したがって真実に祈ったことはありません。それゆえに神の姿は私たちの眼には封じられています。
 昨日も天香師から宗教は趣味ではないといって、宗教的空気を享楽し、あるいは眺め、きわめるような態度を難ぜられるのを聞いている時に、私ははげしい叱責を受けているごとくに苦痛を感じました。そしてただ畏れ入って退きました。
 謙さんがはるばる訪ねて来て下さって十日間一緒に暮らす間にも、話題はいつもその愛の問題と私たちの態度の気まぐれを省みて、互いに恥じるところに落ちて来ました。時としては二人とも自らの「光の子」と認めて遠い完成の希みに微笑したり、また時としては救われがたきいたずらもののごとくにのみ思われて、悲しくなりました。私は十日の間にも、時々私のわがままから重たいムードになって謙さんも、渋い顔を見せたこともあり、叔父おじ叔母おばの見物の案内や、またある先輩の用事の手伝いなどして、謙さんのもてなしができなかったこともあり、そのようにして謙さんを七条に送った時には、すまないとばかり思っていましたのに、東京からの謙さんのお手紙を見れば、私の想像しないような、感謝の情にみちているので、もったいないように感じました。ことに天香さんは謙さんに深い強い印象を与えたらしく、内山君の手紙とともに昨日天香さんは私に謙さんの手紙や歌を見せて悦び、たのもしく思ってかつ感謝して栄えを神様に帰していられました。近々上京せられる時には謙さんや内山君にも会って話したいといっていられました。
 この前のあなたのお手紙にあらわれていたあなたの心の態度もうなずかれます。あなたは今は天香さんにお会いなさらなくてもよろしかろうと思われます。もっと先で機縁の熟した時に、会いたい気の起こった時にお会いなされませ。
 私たちを徳へと駆る原動の力は、私たちの心の内に働く、罪や、刑罰や、羞恥しゅうちや、後悔や、すべて道徳的の苦痛の感じ――それは享楽と観照のできない直接な意識――です。そのほかにいかほど博く知ったり集めたりきわめたりしても、推進する力にはならないと思います。
 あなたの「母たちと子たち」はこれから拝見いたします。そしてあなたのおおせに従い、私も遠慮せずに、読了後の感想を送ることにいたしましょう。「完全の鏡」は先日読み終わりました。直ちにお送り返しいたそうと存じましたが、こちらにひとり私の親しくなった画家の方に読みたいという方があるのですが、もし今ただちに必要でなくば、もう少しの間拝借できませんか、それとも入用ならばただちに御返送いたします。ただひとりの隣人をでも真に神の名によって愛することがかかる書を読んだものの努めと思います。あなたの勤労のおかげで私はこのようなありがたい書物を読むことができて深く感謝いたします。あなたの考証の深くして博いことは註や序などを見てもわかります。姉崎さんのいわれたごとくに日本のほかの何びとよりも委しく確かにフランシスを研究していられるように私にも感ぜられます。「この書を写すものは祝福さるべし」とあったように、あなたの勤労は確かに酬いられることと信じます。私もあなたのことを思うときに病身ながらも、けっして怠惰になるまいと励み心地になります。
 私はあなたにまた不幸な便りをしなくてはならないことを悲しみます。私の庄原にいる姉が、先月二十三日に分娩して以来産後の日だちが悪しく、かねて肺が悪かったので衰弱はなはだしく一昨日突然父より電報が来てお絹さんは急に庄原に帰りました。看護になれているお絹さんに姉を世話してもらうために。父の手紙によればとうてい回復の見込みなしとのことです。私たちも近日のうちに庄原に帰るようになるかもしれません。今は形勢を見て待っています。艶子はなれない炊事をして私を養っていてくれます。庄原から凶報が来はしまいかと不安でなりません。私は今はひたすらに姉の本復を祈っています。私はどのようなことが起こっても耐え忍びます。もし姉が亡くなれば、私の一身上にも大きな変化が来ることは免れません。しかし今はそのようなことをおもんぱかるときではなく一心に姉の本復を祈っています。
 艶子はいつ出発せねばならぬかもしれないのでおちつかず、また炊事になれないので心せわしく手紙をかかないからあなたにくれぐれもよろしくとのことでした。
 あなたの御家庭にもどうぞこのうえの凶事が訪れませんように。南無阿弥陀仏。
(久保正夫氏宛 五月十三日。京都鹿ヶ谷より)
   なんじは主なりや

 この頃のあなたのお手紙は輝きと潤いと喜びで私の心をたたきます。あなたはこの頃心の歩みが深まりいきいきとしているのを感じていらるるらしくあなたの手紙にそれがあらわれています。
 私はあなたを祝します。そしてあなたのその成長が京都への旅に機縁を持っているようにおもわれるときに私は私の気持ちがつぐなわれるように感ぜられてまことに嬉しく存じます。
 私はあなたを七条に送った夜にはあなたをひとりぼちであったという気がしてまことにすまないと思っていました。十日の御滞在中あなたをほったらかした時も多く、私の気むずかしさはしばしばいろいろなことで渋い表情をあなたに見せました。なにとぞ私を許して下さい。それにあなたのお手紙は不相応な感謝の情にあふれています。私はあなたの寛大な、人を裁かぬ、明るいお心でなかったならば、私をもの足りなくさえ感じられてもいたし方はないと思っています。神は不思議な仕方にあなたを恵まれました。私はあなたから輝かしい、力ある証をきくことができました。私ははげまされました。あなたはまっすぐに博く深く成長してゆかれる方のように思われます。
 天香さんはあなたと内山君とのお手紙を読まれてたいへん悦び感謝なさいました。またかかるまじめにして有為なる人々の味方のできることを頼もしく感じると申されました。
 天香さんは多分二十日頃に上京なさいます。あなた方にも会って話したいといっていられます。それについて天香さんが私におっしゃったことがございますから参考のために申し上げましょう。
 天香さんはあなた方お二人の手紙を私に見せた後で「この人たちはからだが悪いのかね」と問われました。「いいえ丈夫です。どうしてそんなことをおっしゃいます」と私は伺いました。
「どことなしに感情が弱々しいからからだでも悪いのかと思った」
「そのようなところもありますね。しかしこの人たちは今は砕かれた心持ちにいて自らの弱さを重荷に感じている心のありさまでこの手紙を書いたのではありますまいか」
「それもそうだな、けれどただ優しく美しいだけでは悪の勢力に打ち克つことができないからな、強者の残した屑のなかでわずかに他のものを害さぬようにして生きてゆくことになる。それでは悪強いものをひざまずかすことができぬ。今の世界はギリギリまで切迫した問題にみちている。私たちは力と権威を持たねばならぬ」
「そうです、しかしこの人たちは、今は他人を救うために働きかけることを思うよりも、他人を傷つけることを恐れているところに今はいるのです。つまり自分の無力や醜劣やを感じてネガチブにばかり、反省せられる時にいるのだと思います」
「そうです、しかしそこでとどまってはいけない。宗教は力と権威を帯びねばならぬ。いったい趣味のほうから宗教にはいった人には美しい情趣はあっても力と意志との強い実行的権威がないことが多い。あなた方はそれを気をつけねばいけぬと思います。感情ほど享楽的になりがちなものはない。ありがたいと思う感情はすぐにその感情を享楽する気持ちにうつる。その後のものは宗教的意識ではない。芸術と宗教との区別はそこにある。ながめ、味わい、表現しようとするすきまのない時が宗教的意識です。芸術家には宗教にはいるのにそこに障害があります」
「ごもっともです。私たちにはそのような欠点の確かにあることは認めます。なにしろもっと実行家にならねばいけませんな。そのときに祈りやたたかいの気持ちも深くなりしたがって力も備わるのですね」
「私はたのもしい若い人たちに意志と力の欠けないように願わしい。それでないと世界を神の国にするたすけにはなりかねます。私は今度東京に行けば、その点について久保さんがたに話すつもりです」
 それから天香さんは、いろいろな実験上の例をあげていかに今の世に悪の威力の強いかをお話しになりました。私はいちいちうなずいて帰りましたけれど、私の内を省みてどうも天香さんのいわるるごとき威力を感ずることはできませんでした。「なんじは主なりや」と問われて「しかりわれは主なり」と答えたキリストの自信と権威とは、罪の子であることを自覚せる彼の内にいかにして生じたものでしょうか。私には今のところ遠い彼岸の景色にすぎません。今はまだ砕けることさえもできない自分の傲慢とたたかっているばかりです。
 私はこの頃は、心の歩みのなかに渋滞と障害とを感じて苦しんでいます。進みにくくて困っています。内に熟するものの力をせつに祈り求めています。享楽的な生活をしている人々のなかにいると天香さんのような生活にはただちに、力さえあれば、入れるように感じますが、天香さんのそばに来るとまたその生活にも懐疑ができて享楽的の生活にも真理のあることが認められます。私は天香さんのそばでは、その享楽的の方面のことばかりいっています。そしてはっきりした態度に出ないので天香さんははがゆがっていられます。私たちは、詩として心に思い浮かべてみたときには完全なように感ぜられても、さて実行しようとすると、すぐに欠点が目に見えて来ます。その点からいっても、ものの真実に触れるためには実行意識にならねばならぬと思います。紅茶を飲みながらのフランシスのうわさが容易なのは、私たちが紅茶を断念せずにできるからであって、さてフランシスの後を実践しようとすれば、前には何でもなかった紅茶について考えてみねばならなくなります。
 書物を読みながら本はつまらないといっていても、書物を断念しようとすればなかなかできはしません。「一燈園にはいって書物にだって……」とすぐ思います。私たちの物質欲はよほど根の深い力を備えています。私たちが物質欲のなかにいて、物質欲をなみすることは容易です。それには力はいりません。しかし物質欲をはなれようとする意志を起こすときには、その根の深い力と争うて打ち克つだけの魂の実力がいります。そしてその実力はもう詩でも観照でも表現でもない。ひとつの意志です。形式からいえば、食欲や性欲のような実質的な、最も詩と遠い意志です。天香さんが私たちに欠乏しているといわれるのはかかる力のことなのであろうと思います。
 キリストや釈迦はかかる力にみちたる天才だったのでしょう。四十日食わずに野にいることは、それ自身宗教の本質とは縁遠いようでも、実際は宗教の本質はかかる力の上でなくては栄えないであろうと思います。ああ思えば、私たちはフランシスの伝記など読むにたえる人間ではありません。薄き衣で寒風に立つときの肉体的苦痛などを考えもせずに、フランシスの生活を心に描くのはすまないことと思います。フランシスの伝記を読む時には、この肉体的苦痛はほとんど読者の頭にないけれど、もし私たちがフランシスをナハフォルゲンすれば、ほとんどこの苦痛だけが意識をみたすでしょう。寒風に凍えつつ私たちは、この苦痛に堪える力だけが自分の宗教生活の全部だとさえも思うでしょう。私たちに力の問題があまり生じないのは、実行的精神の欠けている証拠と思います。天香さんはその隙間をかれたのであろうと思います。
 私はこの頃は自分に勇猛心のないことを感じだしました。自分の宗教的情操は、いまだ気分の域を出でず、自己に甘える、アイテルな部分が、おもな部分を占めているように思います。自分ながら自分の興奮のすきが見えてその結果は興奮しないことになります。私はつくづく自分の器量不相応な大げさな感情の高潮のアイテルなことを知りました。力を伴のうた感情だけ起こしたくなりました。これは天香さんにしじゅう接触しているためなのでしょう。
 たとえば、
「妹にこれから経済問題にぶっつからせてやろうと思います」などと自分でも悲壮な気持ちになって天香さんに話します。すると具体的な実行の話になります。すると天香さんは「それではぶつからすのではなくて、そっと触れさすのですね」といわれます。そして私は、前に起こした自分の悲壮的な感情などをアイテルに思いつつ帰ります。
 そんな目にたびたび出あったので、私はつくづく自分の感情の分不相応なことを知るようになりました。そして自分の器量、実力を省みます。実行的精神を伴なわない興奮は私たちを軽くし、表現の威力を減ずるばかりですね。このようなことをいうのは失礼ですけれど、妹がいつしか「正夫さんのお手紙を読んでいると、私は軽く受け流すような気持ちになります。そのなかに不幸なこと悲しいことが書かれてあっても、そんなに心配する責任を感じなくてもよいような気がします」
 と私に話したことがあります。これなどもいろいろな原因もありましょうが、正夫さんが大切な文字を軽く使うからだと思います。実力の上に建てられた表現ならば必ず威力を持つはずと思います。
 とにかく私たちは、願いのなかに実が足りませんね。いいかえれば、願いがまだ祈りになっていませんね。祈りの気持ちは実行的精神の最深なるものと思います。私はこの頃何だか力抜けがしたような気がして空虚でたまりません。もっと確かな歩みをしたい。それにはやはり感情のなかからアフェクションを取り去るのが第一と思います。そうすると寂しく孔雀くじゃくの羽根をむしったように、自分の姿がみじめに見えるでしょう。けれど私たちの本体はそれだけにすぎないと思います。それから実体のある感情を起こして成長して行きたいと思います。でなくては私はもはや行きづまりました。進みにくくて困ります。私たちのアイテルさは、私たちの感情のなかに本丸を据えています。
 私は天香さんに衝かれてから、この頃自分の浮足なことが目に見えて仕方がなくなりました。私は不幸です。しかし「これからだ」という気もします。私は絶望はしません。
 庄原の姉はやはり毎日発熱して危険の状態にあります。父は私には今帰るなといってきました。艶子に炊事をしてもらっています。お絹さんは一心に姉の看護をしています。先のことはわかりません。どんな不幸が落ちてきても私は絶望だけはせぬ気ですから安心して下さい。
 私もあなたもこれからですね。私たちはのんきになってはいけませんね。コケおどしでない、真の威力ができねばいけませんね。大切にお暮らしなさいませ。私はあなたの成長を祈っています。
(久保謙氏宛 五月十七日。京都より)
   久保正夫氏宛

 私は、明日艶子を庄原に病篤き姉を見舞うために帰らせることに決心して、妹にその準備をさせているところであります。私と妹と急に一時に帰ると姉が自分の病気が死におびやかされていることに気がつくことを恐れますから、妹だけ先に帰して、私は少し遅れて帰ろうと思っています。姉は今日や明日にどうというのではありませんけれど、医者も恢復の見込み立たず死期も近づいているように申されると父よりの便りでありました。私は今日まで父がも少し待てと申しますので帰省を見合わせていましたが、どうも気になりますから近く帰るつもりです。私は今は姉の万一にも恢復することをはかない頼みにいたしています。姉亡き後の嬰児や養子や家事の心配などは今考えることさえ不安になりますから、私は姉の息のある限りは、ただどうぞえてくれるようにとのみ祈りつづけてほかのことは思わないつもりです。あれでも不思議に力を持ち返してくるようなことはあるまいかと、空だのみのようなことを考えています。
 私の宅の、あのあなたが二十日ほどいらした裏座敷で、姉は寝床のなかでどんなことを考えているでしょう。生まれたばかりの子は乳母うばもなく、老いたる母はうろうろしているでしょう。お絹さんは看護に疲れているでしょう。沈痛な、父の黄いろい面が目の前に浮かびます。――私は来たるべき不幸の前に、心をととのえて用意しなければなりません。私はどんなことにも心を乱さずにおちついて面接できるように、私のこころを鍛えねばなりません。泣いてうろたえている時は過ぎました。涙は外にながれずに内に沁みます。私は運命の前に知恵をもって立ちます。黙ってすべきことをして行きます。あなたはあなたの魂の法則で生きて下さい。私は私ので生きます。私はあなたのこの前のお手紙を対抗的には感じませんでした。私はあなたの歩みを承認し、愛の眼で見守りましょう。私たちは遠慮なくおのおのの歩みに忠実であって、姑息な礼譲から、したいこともせずに置くようなことは必ずやめましょう。私たちには性格の強さが必要です。時として私は自分を偽っているように感じて、窮屈な気のすることもあります。私はこれからは、ことに秋から東京で日夕往来するようになれば、今よりもっと自由にふるまわせていただく気でいます。refuse したいことを refuse できないような友情はいやですからね。
 私はこの頃生活が晦渋かいじゅうしてはかどりかねているかたちです、どうも私の起こす感情には affection が多くて確かでない。もっとたしかに、甘えずに――と、こう考えています。カソリックの坊主になりたい、出家したい、乞食こじきになりたいというようなことを心に描いては、すぐにそれがなかなかできないことを悟ります。それくらいなことは初めからわかりそうなものだに、私にはわからないのです。自分の発心がどこまで確かであるか、自分の魂の力はどれくらいなものか、私の器量、素質の勢力をはからずに、ねがいばかりが先に行きます。いや、それは本当はねがいではなくて、そのねがいの持つたのしき感動だけです。かくかく願うというときには私はほんとうは願っていないのでした。私はほんとに願を起こしたい。「この本願かなわずは正覚を取らじ」という願を起こしたい。もし起こらぬならば、それを起こっていると自ら欺くまいと思います。真実な人がそばにいると、その自欺と自媚じびとははっきりあらわれます。せめて私はうそだけいわぬようにしたい、――天香さんの前で私はこうしばしば思います。
 インノセンスの自由は私からたえて久しい幸福であります。私はどうしてヴァニチーがこんなにとれないのでしょう。犠牲と、Verzichtung とは、ヴァニチーの混じた感情では実行できません。アン・ジヒ・ゼルプストな目的、実行的意志でなくては、私はこの頃私の感情が不信用になって、感動というものをあまり重んじなくなりました。ある実行の動機となるためには、その感動は常に持続しなくてはなりません。
 しかるに私たちの感動は衝動的なもので持続しはしないから、私たちは実行を決定する時には他の利害の観念のごときものを動機としています。ゆえにその感動はいつでも動機にならない、エステーティスムスです。私たちにもし一の「願」が起こったといいうる時には、その願は食欲(形式からいえば)のごとく、常住なむしろ非感動的なものでなければなりません。願がそのようになった時に、初めて aneignen された確実なものといえると思います。かかる願は常に動機になります。天香師は時々愛の問題など話している時にあくびをします。私は初めは不愉快で天香師の真実を疑いましたが、後にはむしろ愛が天香師の日常茶飯事(ある意味)で、別にその時限りの感動を生じないほど aneignen されていることを悟りました、日夜働けば肉体は疲れてあくびも出ます。しかもあくびをつきつき愛の実行をしています。私たちと愛につきて語っている時は、天香師にとってはもっとものんきな時ですもの。(私たちには一番愛の起こっている時なのに)私たちは感動すべき出来事を待っています。その出来事は多くは他人の不幸なのに。天香師は感動すべき出来事のなくなることを祈っています。私たちのは享楽で天香師のは祈祷きとうです。
 私もしだいに、「本物」と「偽物」とを弁別する眼が明らかになってくるのを悦びます。「偽物」を相手にするのはたいぎになります。そして「本物」にだけ動かされたいと思います。私は天香師のそばにいたおかげで、自分の心の願が今どのくらいなものかを知り、その姿を明瞭に見るようになりました。そして今は天香師をナハフォルゲンできる心でないことを知りました。私は私の心の実ある要求に従って動きましょう。魂の意志(変な言葉ですけれど)で動きましょう。あるがままの器量で、分相応な表現をしましょう。その器量の太った時にのみ私の表現を大きくしましょう。
 私は今そのような努力をいたしつつあります。アイテルな私の性格にはかかる努力は欠くべからざるものと存じます。
 あなたの労働には深く同情いたします。私はあなたの精力と勤労とを思うと、怠慢を責められます。私があなたならとてもかなわないような時でも、あなたは強く境遇に支配せられずに仕事を選んでゆかれます。私はあなたを全くプロミッシングに期待しています。
 なにとぞ自重して下さい。
(五月二十五日。京都より)
   忍耐することによって所有する

 お手紙うれしく読みました。あなたの家の不祥な出来事のためにあなたは何ぼうにか心を暗くせられ、また便利のお悪いこととお察しいたします。この休暇中も東京にとどまって勤労の生活をお続けなさることにお定めの由、尊いこととは申しながら味気ない心地がせられることでしょう。お察し申します。けれどあなたの勤労は必ず報いられることを信じます。私は私があなたの境遇にいたら、持ちこたえる精神の力を失って、あなたの十が一の仕事もできはしまいと思います。まことにあなたの努力は感服いたします。私はあなたのことを思っては、私の怠慢な生活が心に咎められてもっと出精せねばならないと励まされます。
 あなたのいわるる「忍耐することによってそのものを所有する」という思想は、真実な深い意味があると思います。ひとつのことを経験することと、その経験を aneignen することとは別のことですね。私たちに、ひとつの思想が真に自分をつくる要素となるまでには、私たちはいかに忍耐と謙遜とをもって、その思想を実行しなければならないことでしょう。「新しい思想を知る」というような言葉を聞くと、私は不思議な気さえいたします。思想は知られるものではなくて、行ないながら、持たるるもの、身読せらるるものと存じます。あなたのいわれた「確実性」が「真実性」となりうるまでは自分のものとはいえませんね。
 あなたは謙さんのためにもお働きなされます由、私は実に悦びます。たとい結果がそれだけの運びにならなくても、そうするだけでどんなに美しいことか知れません。労働は必ず祝福せられます。私はあなたを祝します。あなたが御家庭でどんなふうにして暮らしていらっしゃるかは、およそ察せられて私は涙ぐみます。私は高い高いところからあなたにひどい裁きは下しません。
 あなたくらいにできれば、比較的にいえばほめるに価します。ただあなたのような人には、高いところから裁かるるに堪うる魂の力があると信じるものですから、いつも行なわれそうにもない理想からあなたを責めるようにも思われる態度でもののいい方をしているのです。私は人間の現実の心の動き方を知っています。そしてあなたに同情しています。どうぞあなたのその勤労の生活を常に純な愛の動機の上に建たしめるように、心を浄めることを忘れて下さいますな。
 あなたは私よりもずっとウングュンスチッヒな家庭で、常に忍耐していらっしゃいました。そしてその間でそれだけの知恵と徳とを積んでこられたのは、あなたの魂の力の非凡であったためと思います。私はあなたが後にいい家庭の主となられて、かつて得られなかったところのドメスチックの愛と睦びと、ゆったりした幸福を得られることを心から願います。
 私はあなたにこそ幸福な結婚がさせたいと思います。あなたの幼ない甥たちも、母なき淋しさと不自由から、暗い影響を受けて、深いすぐれた人となるまでは、その不幸に打ち克つためにどんなにか悲しみを味わうことでしょう。父なくして耐えてこられたあなたにはその感じがいっそう強いことでしょう。私の宅にももし姉に不祥なことが起これば、母なき、おそらくは両親なき孤児ができるわけです。私はその女の児を、私の児のように愛し、そしてその不幸によって、かえって深い人生の味をさとるように育ててやろうと思います。
 親のしたあやまちが幼ないものの未来を支配し、その幼ないものの繰り返す過ちの種となるということは実に恐るべきことですね。罪の怖ろしいのは、他の罪の原因になることですね。艶子はすでに出発という朝、父の音信が来てしばらく帰らないことになりました。私は腸と痔とがまた悪くなったのでまことに困っています。病気には忍びなれてはいるものの、どうして私にこんなにしつこく試みが来るのであろうかと、弱くなる時は怨めしくもあります。あなたもからだを大切にして下さい。無理をして働きなさるな。
 艶子は炊事をなれない手でしています。妹のような性質の女には、炊事はよほど無意味な気がするらしいです。そのように詩を読むことのみ特別に尊いことのように考える癖は私がつけた過ちでした。私は妹に兄妹二人を養うことがいかに実なる値ある、仕事であるかを教えています。時々は妹と暮らしていることを堪えがたい苦痛と感ずるようなこともあります。愛と犠牲とに教えならされない妹は私の心を傷つけます。私はつくづくとこれまで私が妹にしみ込ませた空華なものの憧れと、実なるものの軽蔑との、むなしい教訓を後悔いたします。ここでも私は私の過失の報いを受けねばなりません。時々私は私の妹のエステーティスムスの前に、茶碗を持ち襤褸ぼろを着て乞食として立って見せたい気がします。そして私は妹と私との共同生活の近き破産を予想いたします。
 私はもはや私の生活の基礎をギリシア主義の上に置くことはできません。私は妹の持っているアイテルなものに反抗しなければなりません。私は妹を深く愛しています。それゆえにこの後は妹にもっときつくなろうと決心しました。甘やかすことは弱くむなしくさせるばかりですからね。私は一度は妹とも強いはげしい関係に立たねばならない時を予感いたします。
 昨日、突然、本田さんが私の宅に訪ねて来ました。結婚の話はよしてしまったのだそうです。
 しばらく一燈園にいるつもりだそうです。本田さんにはアイテルなところがありませんから、一燈園の生活には適当と思って私も賛成いたしました。
 私はこの頃いつも内から何か促されているようなおちつかぬ心地で暮らしています。どうにかしなければならないという気がしじゅうしています。今の暮らし方、父に働かせて、読書と散歩とをしているだけの生活がどうも心にしっくりいたしません。そうしてるうちにほかの人々との交わりと調和させねばならず、私の生活は何の特色もない、軽いものに押し流されて行くようでなりません。読書したり散歩したり、芝居やカフェや活動写真を見たり(誘われれば断われないので)して日を暮らしている生活がフリボラスな気がしてなりません。暮らし方からどうにかあらためて行かねばならないと思っています。
 私は、周囲と自分との関係をはっきりさせなくては、破産しそうです。refuse することは、refuse して、今後はフリボラスなことはやめようと思います。それというのも怠慢な暮らし方をしているために、人が遠慮しないのでしょう。天香さんのようにして暮らしていれば、だれもその生活を軽い遊びで乱そうとあえてするものはありません。
 今日はつまらないことばかり書きましたね。あなたは出精して労働して下さい。はたらくということはいつでも祝福せられます。私は「母たちと子たち」を四綴だけ読み終わりました。艶子の話では、まだ二綴あったそうですが、中外日報社からは四綴しか来ません、どうしたのでしょう、一応お伺いいたします。
(久保正夫氏宛 六月十一日。京都より)
   久保正夫氏宛

 昨日国許から電報が来て、私たち兄妹は今日午後出発して帰国の途につくこととなりました。家のうちの暗いありさまが心に浮かびます。しかし私は何もかも起こり来るものには勇ましく相対します。姉は赤児を残して逝くでしょう。そして後に複雑な問題が生ずることも予期しています。あなたのこの夏のお暮らし向きも察せられて同情いたします。人生はどこへ行ってもイヴィルがまとわっていますね。私が今日別れた人々のなかにはもはや二度とは会えそうにない人々もかなりあります。ともかく私は別れて帰らなくてはなりません。あなたの「母たちと子たち」についての私の感想は、帰国後書き送ります。今は心せわしくてその暇を持ちませんから。
 秋からは東京に行かれるようにする気でいます。妹の写真はとる暇がありませんから、前のを焼き増して送るようにして置きました。では今日はこれで失礼。「母たちと子たち」の原稿のいたんでいるのは、中外日報社から来た時にそうだったのですから、そのおつもりであしからず思召して下さい。
(二十二日。京都より)
   死にゆく姉

 無事御帰省なされ日々さわりなくお暮らしなされます由、安堵いたします。なにとぞ私の家を訪れたような不祥があなたの家庭に起こらぬように祈ります。私は京都を出立してよりさまざまな不幸にあいました。尾道に夜遅く着くと思いもよらぬ姉の重患にてちょうど担架にのせられて出養生でようじょうするところでした。私はこの姉の病気のことは全く知らなかったので驚きました。そして叔父に容体をたずねると「この夏を過ごすのはむずかしい」と医者がいうのだそうです。叔母は私たちを見ると泣きだしました。その時私は叔父から国許の祖母もまた重患にてとても助かる見込みのないことをききました。私は恐ろしいような、何かの罰のような悲しみと恐れとを感じないではいられませんでした。尾道の姉は私の姉妹のなかでも最も美しく情深く私はひそかに誇りにしているほどなのにもしも亡くなったらどうしましょう。しかも私たちは国許の姉の病篤く尾道にて姉をいたわる暇もない身でした。翌日尾道を出発したところ、広島への途中汽車中にて妹ともはげしい腹痛が起こり広島に着いた時は吐瀉としゃはげしくやむをえず広島の親戚に三日間苦しい、いらだたしい日を送りました。広島を出発して帰る途中は水害にて線路がこわれ兄妹は病後の疲れた足で二里も徒歩せねばなりませんでした。ために時間は遅れ雨風ははげしく三次に着いた時には日も暮れてやむなくその夜は旅館にあかしました。兄妹は宿屋の淋しい燈火のそばに悲しみと疲れに黙して雨風の音を聞きつつ「今夜の嵐で橋が落ちて帰れなくならねばよいが」などと心配なことを考えていました。
 翌日やっと帰宅しました。両親の悲哀を耐えた沈痛な顔を見て私も今は悲哀に身を任かしてはならないと心を強くしました。しかし姉の枕元に座した時には私は勇気を失ってしまいそうになりました。それは恐ろしいほど瘠せ衰えて死の影はもはや顔にかかっていました。姉は二人の弟妹を見て泣いて喜びました。私たちは励ます言葉もありませんでした。人間の顔はいかに醜く恐ろしくなりうるものでしょう。あの美しかった姉がこのようになろうとは想像もできませんでした。祖母も病床に臥したまま動かれず、老耄ろうもうして白痴のような矛盾むじゅんしたことを申しますし、一家は二人の看護で秩序を失っていました。それから二十日間姉は苦み続けました。そばに見ているのは実にかわいそうで堪えられないほど苦しみました。しかし死ぬ三日前から、苦痛はほとんどなくなりました。私たちはよい兆候なのかと思ったら医者はもう二、三日の命だと宣告しました。三日たちました。七月十五日の朝、姉は虫が知らすとでもいうような死の予感を感じたらしく、和枝(生後七十日足らずの姉の子)を見せてくれと申しました。和枝は乳がないので乳母の手で育っていたのです。姉は不幸な、嬰児の顔をしみじみ眺めていました。その日の午後姉は一同を病床に呼んでくれと父に乞いました。その時、医者はもはや臨終であると告げました。一族は姉の枕元に集まりました。それから息を引き取るまでは実に美しい、尊い感動すべき光景でありました。姉は一同に別れの言葉を告げ、両親に愛育を感謝し、祖母の身の上をねぎらい、自ら合掌して念仏してくれよとたのみ念仏の声につつまれて消ゆるごとくに死にました。死ぬ間際まで意識は水のごとく澄んでいました。死ぬ三分間前に姉は「百三さん、百三さん」と呼びました。私は姉の手を握りました。「あなたは私を可愛がってくれたわね、兄妹のなかでも……」ここまでいった時にもはやものをいう力がなくなりました。「お前は見あげたものだ、このような美しい臨終はない、私もじきに後から行くぞ」父はこういって涙をこぼしました。まったく、十分間後に死ぬる人間の口からさまざまないじらしい道徳的な言葉を聞くのはやる瀬のないようなものですね。私たちはみな本能的に、「じきに行くよ」「私もじきだじきだ」といっせいに申しました。そして本当にじきだという気がいたしました。私もじきに死ぬのだということが一番私たち自らの慰めになりました。医者もこのような美しい臨終に立ち会うたことはないといって賞めました。全く上品往生じょうぼんおうじょうというのはかような死に方をいうのであろうと思います。並みいるものは尊い力に打たれました。私は姉は今はもはや美しい仏となって聖衆しょうじゅたちと交わり、私たち生き残れる者をあわれみ守っていてくれることと信じます。
 姉の三十年の短かい生涯は幸福なものとはいわれませんけれど、今は安らかな国に観音様のようになっていることと信じます。死は安らかな、休息であろうというような、死のなぐさめというような感じがいたします。その人にとって地上の生涯は苦しみとかなしみの連続であった、人は受くべき罰と負うべき重荷を果たして今こそ安らかな時は来たという気がするであろうと思います。人生はさまざまな苦しみと悲しみから脱することはできません。彼岸の安息の希望なくば私たちは永遠の地獄に住まねばなりますまい。私はやはり刑罰の思想が一番この世界のイヴィルを説明して心に適うように思います。私たちはかつていつか悪いことをした。その罰でこの世では苦しまねばならない。その負担を果たしてかの国に往生することができる。なぜに世界はコスモスでないかということは私たちの道徳的意識を満足させるためには、ただ私たちは悪いことをしたからだと思うよりほかに道はないように感じます。ストリンドベルヒは It is a crime to be happy and therefor happiness must be hastized. といっています。地上の幸福というものは望みうべからざるものであるのみならず罪深き人間には不合理なものではありますまいか。神の法則は一度人間を罰しなくてはならない、その後ろに、むしろそのなかに救済はあるのでありましょう。
 私は姉の死から深い感銘を受けました。私たちもじきに死ぬのです。なつかしいかの世界の民となるために、この世では一つずつ負担を果たさせてもらわねばなりません。ああわれらモータル! あるいは今年の夏には他の二つの不祥に遭遇そうぐうせねばならぬかもしれません。私は葬式後初七日しょなのかの喪のあけぬまの、fun※(グレーブアクセント付きE小文字)bre な空気のなかでこの手紙を書きました。私自身は淋しく強く生きます。人生はどのような畏ろしいことが起こるかわからないのですから、いつも運命を受け取る覚悟と謙遜とが必要と思います。あまり永く御無沙汰したから今日は私のことのみ書きました。姉の戒名は釈貞室妙証大姉と申します。
 一片の回向えこうをお願い申し上げます。
(久保謙氏宛 七月二十日。庄原より)
   久保正夫氏宛

 お手紙読みました。
 ひとりの姉を喪うて二七日の法事もすまぬうちに、尾道から今ひとりの姉の病気篤しとの電話がかかって、父はあわただしく尾道に参りました。それから三日後にその姉の死去の電話がかかりました。母は三年前に別れたきり会わないので、見舞いに行くといってたのが、急に死なれて臨終にも間に合わなかったのを残念がってほとんど狂うように泣きました。私と妹とは両方から取りすがってなぐさめかねつつ共に泣きました。同じ月に二人の美しい若い娘を失った母親を何といって慰めましょう。二、三日後に父は疲れたかなしみを耐えた顔つきをして帰宅しました。父は物静かに臨終や葬式の模様などを話しました。母はまた泣きました。私と妹とは頭を垂れて聞きました。その後の私の宅の空気は喪の感じにこめられてうち湿っています。母が夜な夜な仏の前に火をともして片言混りの経文などあげているのも哀れですが、ことに老いたる父の忍耐深く、老母のこれも遠からぬ死に脅かされているのの手あてや、家事を支配して倦むことのないのを見るときに、私は気の毒でなりません。私も気がくじけて手紙をかくのも物憂くて、こんな御無沙汰になりました。お許し下さい。
 あなたのお宅も相変わらずの不調和で、そのなかにあなたがんでいられるのは何ともおいとしいと申すほかはありません。おつらいことと深く察します。しかし忍耐なさい、というほかあなたを幸福にする道を知らないのを悲しみます。わけてお母上をそのような境遇に置いて見ていなければならないのはやりきれますまい。ほんとについに墓に入るまでそのような重荷を持ちつづけなくてはならないようだったら、そしてそのような運命は人間のみな負わねばならないもののように私には見えだしました。やはりトルストイなどの考えたような、罰せられたる、負債を払う生活というのが人生の真の相のような気がします。私は父母に向かっても現在の不幸のなかにあって、しあわせな未来を約束することもできません。
 先日父と二人で種々と話しました。父ももはや未来のしあわせなこの世の生活には希望をつないでいないように見えます。人生はこうしたもの、それは何かの報いであって、墓のあなたにのみ安息を待つ心になっています。そして私の心持ちとよくあい、私の話を悦んでききました。あなたの母上といい、私の父といい、まことにいとしい身の上と思います。けれど私の父はつもる不幸を耐えてきたおかげか、人生に対するさまざまのかなしみにもなれ、心の自由と愛とをているようです。
 私は静かななやみに練らされた心で日々の努めをはたしつつ暮らしています。からだはまず障りのないほうですが疲れやすくて困ります。肉のとらわれを脱して、高きにかけらんとねがうたましいばかりは、ますます濡れ輝いてゆくのを感じます。深く深くなりまさります。東都の天香さんは別れて後もたびたびねんごろな励ましの手紙を下さいます。その手紙のなかには私に出家することを古えからの聖人たちの例を引いて勧めていられます。一燈園では私の亡き二人の姉のために二七日と四七日の法事を営んで下さった由、天香さんから便りがありました。本田さんは一燈園で満足して日々の労作にいそしみつつ念仏の生活を送っています。虚栄心の少ない、誠実な彼女のような性格には一燈園はもっともふさわしいところと思われます。
 天香さんは近く上京せられる由、その節はあなたにも会われることでしょうが、ものの考え方や、身の持ち方が、あるいはあなたには心にしっくり合わないかもしれない、とひそかに危ぶんでいます。天香さんはあたかも、あなたと私との性格の相違した部分を誇張して具象化したようなふうにあなたの前に現われるかもしれません。けれど博くして、理解の細かなあなたは天香師をもつつみうることとは信じています。
 私の家は姉の死によって起こされた変動のために後始末を整えなくてはならないことになっています。あるいは一家を引きあげて東京近くに移住するような議も出ていますが、さまざまの事情ではたしていかになるかはまだ定まりませぬ。
 一番かわいそうなのは和枝という子です。和枝はおそらく母とともに父をも失うことになりましょう。この間の夕ぐれも、私が亡き姉の生前中のことなど思いながら、田圃みちを散歩していますと、向こうのあぜのようなところを乳母が和枝を抱いて、おのが家に帰って行くのを見かけました。私は近づいて乳母と一緒に姉の新しい墓のところまで歩きました。乳母は別れの挨拶を残して、林の下みちを子供をあやしつつかえって行きました。私は後を見送って立ちつくしました。私はあわれな気がして、この子を私の子にして愛してやろうと思いました。
 私は読みかきすることのほかに、この頃はあわれな、卑しい仕事をしている年増としまの女のところに三味線にあわして歌うことをならいに通っています。
 艶子はからだがやや弱く、音戸という内海に臨んだ浜辺に海水浴に行くはずになっています。お絹さんは母をたすけてよく働いています。
 私はあるいは九月から千家元麿という人の「善の生命」という雑誌に「愛と知恵との言葉」という題で、短いものを、毎月組曲のようにしてしばらく書くかもしれません。九月のは「他人に話しかける心持ちの根拠について」というのです。
 庄原は毎日晴れた、影のない暑さが続いています。昨夜は田舎らしい盆踊りがありました。ではいずれまた。大切になさい。
(十六日。庄原より)
   われもまた病む

 私は持病がまた発熱してこの二週間ばかり臥ています。どうも左の肺をやられたらしいのです。私は父母に気の毒でいけません。私の家のものの心は重たく沈んでそのうえ掻き乱れるような家事上の紛糾があります。人間の心の醜さを私は見せられました。そのために心がひどく傷つきました。この不幸つづきの喪の感じのしめやかさを損じるようないやな方面に触れました。私はいいがたきわるいふしあわせな心のありさまにあります。祈って下さい。私はたまらなくなります。私は毎度のふしあわせな私の手紙に対して、いうべき言葉はなし、でも何とか慰めてやりたく、お困りなさるあなたのお心持ちも気の毒になります。ただ祈って下さい。どうもして下さることはできないのは知っています。真実心は通います。私は永い御無沙汰をしました。その間私はさまざまの苦しみに瘠せました。物語るだけの余裕と潤いのない圧しつけられた心でいました。私は人生が呪いたくなります。祝さねばならぬというゾルレンがあればこそ心の常識を保ってはおれ、私は苦しくてたまりません。二人の姉の後を追いたくなることもあります。私の祖母も死にました。私は二つの死をまだあなたに報知していませんでしたのですね。このように数えるように並べるのはあまりに痛ましい気がします。しかし死んだのです。吉也さんも死にましたね。
 あなたに不幸が訪れぬように祈ります。天香さんは秋田から、平常の天香さんとも思えぬような淋しい悲しい手紙を下さいました。あなたに行き違うた残念さも漏してありました。私はあなたのために祈ります。大切にして下さい。御無沙汰を堪忍して下さい。私は今心の力を集めるために祈り求めています。私は心身の内外に多事になりました。考えねばならぬことがいくらも切迫し、それがまた一つも考えがまとまりそうなのはありません。私は来春は父になるのです。
 私が強くおちついていっさいの混雑を整理し、病気に打ち克ち、真実の道に深入りする結果に、この困難を通過できるよう祈って下さい。私は今暗いところにいますから。
(久保謙氏宛 庄原より)
   迫り来る現実の中に

 私はまだすっきりとしない病後の衰えのなかに生きています。しかし熱は退きましたから危機はひとまず通過しました。喜んで下さい。まだ寝床は敷いてありますけれど、私は晴れた午後には散歩もいたします。今度の発熱で病気は進んだらしいのです。医者はまじめな顔をして私はもはや読み書きを断念して、花を植えたり、動物を飼ったりして暮らさなくては危ないと警告しました。私はこの頃健康のことを非常に気にかけています。昨年頃まで平気で散歩していた同病者が今年になって相次いで死んだのを見たり、私の二人の姉の同じ病気でのこの夏の死を目撃した私は、私のからだのことを気にせずにはいられません。私は不安になります。私には死の用意もなく肉体的苦痛に対する覚悟もありません。まだ死にたくありません。今に散歩もできなくなりはしまいかと思うとなさけなくなります。だれに訴えたとていたし方はありません。自分で苦しむほかはありません。私はこの健康の怖れのために大分心を圧しつけられています。私に取っては存在を脅かされる重要なことなのですからやむをえません。このような精神的内容のない要件で心を占められるのはつまらないとは思っても、私は毎日その不安から離れることができません。私は養生をしようと思ってもさまざまの事情がそれを妨げるのでできません。
 私の家には複雑な問題が起こっているのです。私の家にはかなり多額の負債があるのです。父は私にそれを隠していたのです。その整理をしなくてはなりません。それから養子(姉の夫)の今後の方針について紛糾があって、それはいやな現実的な利害問題のゴタゴタのなかに私も入り込まねばなりません。それが実に忌まわしい事情になっているのです。私はどれほど心を傷つけられたかわかりません。しかもまだ解決できないのです。それからお絹さんの問題がまたすこぶるいやな事情になっているのです。私は人間の醜さはどれほどまでか私などの思っているようなものではないと感じました。私は知恵がありません。悪魔を見破る力がありません。そのような事情のなかに、私は来春は父にならねばならないのです。このことがまた私を非常に悩まします。私はさまざまなことを道徳的に考えるとほとんど頭が支えきれなくなりそうです。私は後悔や、憤怒や、怨恨や、自責や、そのような呪わしき感情の連鎖の内に私の拙なき運命を嘆息しています。地上の醜悪と窮乏に打たれて天を仰ぐばかりです。今のところでは私の考えは少しも具体的にまとまりません。ただ私はそれらのゴタゴタの向こうに涼しき世界をあえぎ求めています。その世界にいこいの場所をつくらねばならぬと感じているだけです。どうしてよいのかわかりません。私が病身でさえなければと幾度思うかしれません。すべての徹底した解決はみな私に経済的独立を必要とさせます。
 しかし私にはそのかいしょがありません。私はそのために姑息になってしまいます。死ぬれば死んでもよいと覚悟すればできましょうが、私はその気になれません。からだのことが気になります。じきに病気がひどくなりそうです。それに来春からできる子供のことも気になりますので、私は父母にたよることになります。するとそこから姑息な罪悪が続出するのです。天香さんは私の一家をあげて道場にせよと勧められます。しかしそれは菩提心のない父母や家族に強いるべき性質のものではなくて、私ひとりで初めなければならぬことです。しかしこれも私の病気のためにとてもできそうにありません。
 ことに私を最も深く悩ますのはお絹さんと私との関係です。私が病気になったのもほとんどその心配からです。どうも父母との間、私との間、妹との間、親戚との間がことごとくうまくゆきません。それにはさまざまな事情が各自にあるのです。だれも無理はないともいえるし、だれも悪いともいえます。私は私を責めています。私の知恵と徳の足りなかったのを悔いています。私は忍耐します。何も許します。私の過失の結果をにないます。
 そのようなしだいで私は祝福されていません。苦しんでいます。ますます人生は私に淋しく、つらきものになりそうです。私は心のうちに寺を建てることを急がなくてはなりません。私はあなたにも実にすみません。私はわがままで身勝手をいたします。私はそれをよく承知しています。許して下さい。私は人を、おのれをむなしくして愛するにはあまりに貪婪どんらんで、執着心が強過ぎます。自分のことばかり考えています。そのくせ他人の愛を求めてその薄いのを怨むのです。
 あなたは人並みでない、独自な心の生活をしだいに深くしてゆかれるように私には見えます。そして他人にはうかがわれないような、知力や意力の非凡な人のみ持つことのできるような世界を魂のうちにつくってそこに棲むようにおなりなさるのではありますまいか。それは淋しいものでしょう。山の中の湖水のような、他から何とかいって浅く、普通な見識で裁くことはできますまい。あなたの世界も淋しい、不幸な、人にこぼたれないようなものを望んでいられるように見えます。私も心のなかに寺を建てたいのです。人の批評に超越した安息の場所を。それは不幸な苦しいものに打ち克つ魂の力によってのみ成立するものでありましょう。私もなにとぞほかの境遇とはかけ離れたような、深い魂の境涯に入りたく思います。今のところではまるでほかのもので支配されています。財産が少ないといっては驚き病気が進んだといっては嘆き、惨めなものです。自分のつまらなさにあきれます。では今夜はこれで失礼いたします。乱れた手紙ばかり書いてすみません。
(久保正夫氏宛 庄原より)
   瀬戸内海の漁村に「出家とその弟子」を執筆す

 かなり長い間手紙らしい手紙もあげずに失礼しました。あなたの日光からのハガキと今度のお手紙とを私は広島で見ました。実は私はあの後健康がおもしろくなくて、広島に診察を受けに来ました。医者は今が大切な時期であることを警めて、私にこの冬期を温かい海辺で過ごすように勧めました。で私は四、五日前にここに来ました。ここは広島湾の東南部にある小さな漁村です。あたたかくて静かです。私はとある裕福な農家の二階を間借りをして、お絹さんと二人で暮らしています。ここに移ってからは私の病気は大分よいようです。晴れた日には広い畑に出てなれぬ仕事、稲こぎや麦蒔むぎまきなどの手伝いなどもできるくらいになりましたから、あまり心配しないで下さい。
 あなたのこの頃のお手紙は、真実が輝いて、私は厳粛な気持ちで読み、まじめに注意をひかれてきました。あなたの著しい特殊な性格は前から私は認めていたのですが、この頃ますますその光が出てきだしたような気がして、それに向き合う私の心持ちは緊張します。私は何よりもあなたを一種の深い優れた性格として承認せざるをえません。それがどのようにして神と民との持物になるかは私にはまだ知るよしはありませんが、私はその行くべきところまで成長を遂げることを心から希んでいます。私もあなたの性格と私のとの相違を感じます。あなたの強い、冷たい、すぐれた知力と意力とは私をある意味で圧迫します。高山の霊を呼吸し、淋しい孤独のたましいを、森や湖と通わす超人のような感じがします。ただ願わくばあなたの特長を生かしきって下さい。そこに必ず普遍性が現われて、万人と和らぐ道が通じることを信じます。あなたに Herz が欠けているとのお言葉に私は深く響きました。普通の意味ではそのとおりでしょう。私はそれも認めます。そしてその自認からあなたの運命が輝かされて、大きな ※(ダイエレシス付きU小文字)bermenschlich な Herz がつくり出されるのではないかと思います。
 私はあなたの将来の運命に非常に関心しています。好奇心からではなく、温かい人間的な愛をもって。何でも自分の本来の霊境にいたるまで自分になりきることだと思います。あなたが芸術家でないというのは私にはわかりません。あなたはりっぱな芸術家としての素質と運命を持っていられると信じます。あなたの不幸な性格――私流の見方から――深い冷たさと魂の孤独の奥には詩人としてのすぐれたリズムが響いているではありませんか。そこから一つの Religion さえも生み出されること、私は予感せられます。なにしろいろいろの Verwanderung は免れますまいが、あなたは哲学者でなくて芸術家だと思います。あなたの芸術のために祈ります。というよりも、あなたの芸術に生かされつつ深まさり行くところのあなたの魂のために祈ります。その魂は私のそれと同じく神のたくみで創られて、ひとつの神の属性を成し、異なりたる音色をもって共に天のシンフォニイに参ずるものと信じます。違った特色を発揮しましょう。そして互いにそれを認めて尊敬しましょう。そこに真の友情が成立するであろうと思います。私はあなたがあなたの作品にあなたの特色を発揮せられることをせつに希望します。六号雑誌に出るあなたのエッセイはぜひ拝見したく思います。私はあなたのヤコボネの評伝を読んで、あなたは評伝としても、中沢氏や廚川氏らよりはるかに深い、人間の心のなかの歩みを伝える才能を持った記者であると思いました。しかしあなたの真の仕事は創作にあるのはいうまでもありますまい。私はあなたが力を芸術に注がれることを望みます。
 私は生命の川の十一月号から「出家とその弟子」という五幕の脚本を連載します。私の処女作ですから読んで下さい。私のは一種のセンチメンタリズムです。いわば存在的感傷主義とでもいうようなものです。「愛と知恵との言葉」はできるだけ哲学を用いずに、心から心に語りたいと心がけて書いているのです。文章のスタイルなどもあれで気にしてあるのです。私はエピクテタスやトマス・ア・ケンピスなどのように天の感じを文章の味に泌み出させようと努めました。しかしセレスチアルな感じは今の私ではどうしても出て来ません。争われぬものだと思います。徳を積むほかはありません。江馬さんの「受難者」は読みました。私とリズムの合いそうな人のように思いました。
 私はこの漁村で病気を養いつつ仕事をしています。これからは脚本や小説を書こうと思っています。「歌わぬ人」という脚本を書きました。「愛らしい鬼」というのをこれから書こうと思っています。「出家とその弟子」は正月号かあるいは二月号で終わりますからその後で、「若き罪」という長篇小説をのせようと思っています。
 今夜はいい月が出ています。私の宿はずいぶん淋しくて、遠くの方を通る汽車の音より物音は聞こえません。私は窓の下でこの手紙を書き、お絹さんは私の衣物を縫うてくれています。私とお絹さんとはゆるしの上に成り立つ平和の中に日を送っています。私はお絹さんの色香にも、性質にも満足してはいません。時々ずいぶん淋しくなります。しかし何事も縁と思って仲よく暮らしています。私は「出家とその弟子」の二幕目にお寺で僧たちと同行衆とがしみじみ話すところを描きましたが、そこで私は縁の話をさせました。親鸞が「たとい気に入らぬ夫婦でも縁があれば一生別れることはできないのだ。墓場に行けば何もかもわかるのではあるまいか。そして別れずに一生連れ添うたことを互いに幸福に思うだろう」というと、弟子の一人が「愛してよかった。赦してよかった。あの時呪わないでしあわせであったと思うでしょうね」というところを書きました。私は自分でかきかき涙がでました。そしてお絹さんとも一生別れずに仲よくしようと思いました。
 私は東京に行ってみたく思います。今のうちに十分養生して来春にはぜひ上京してみなさんにお目にかかりたいと思っています。でも来年のことをいえば鬼が笑いますけれどね。今日はこれでやめます。いずれまた。寒いゆえに大切になさいませ。
(久保正夫氏宛 十一月十一日。丹那より)
   久保正夫氏宛

 六号雑誌にのせてあるあなたの論文を気をつけて読みました。
 あなたのものにはいつも内面的な、冷たい情熱がこもっていて強い感じがします。あなたはたしかにストリンドベルヒの性格と似たところがありますね。それは時として、はげしさが内攻して文章の上に反映するために一種の冷酷(言葉が不適当ですが、あなたは私の意味をとって下さると信じています)な強さを表わします。しかも一つの愛と不幸の意識から流れを汲んでいます。魂の強さが読むものに迫ります。ベートーヴェンが江馬さんには涙を、あなたには、頭と胸の痛みを価したというのはつよく私のこころにひびきました。私にはあなたの不幸がよくわかります。
 その不幸は、しかしながら、あなたの特色をなすもので、あなたの魂の優越をあかしするものであると思って自ら慰めています。あなたの前に私はある不幸な一生涯の旅を想像せざるをえません。あのニイチェやストリンドベルヒなどの負わされたような運命を。けれどその運命はいつかは恵みによって、あなたに、祝福さるべきものとなることを信じて、私はある意味で安んじています。
 人間のイデアで、人と人との相互の要求を自主的な犠牲的精神によって、エゴイズムの仮定なしに説明しようとする方針(あなたの付記の意味に従って)は私もたしかに一つの道理ある考え方として注意させられました。私はあなたがその方針で、あなたの対人関係の意識を生かしてゆかれることを希みます。
 ただそのような思想が、人間のシュチンムングを動かしうるには、哲学的努力を要し、理智と意力とに待たねばならず、したがって高踏的になりはしないかと思われます。罪とか、報いとか、祈りとかいう考え方は、くわを持つ農夫にも、心で会得えとくすることができるので、その実践的の気持ちを支配する力を持つために、民衆的となりやすいいいところもあると思います。一つの共存の意識が、違った表出の仕方でおのれ自らを外へと道を求めるのであろうと思います。
 人生論者たらんとする、その要求を、根拠づけているところのあなたの感情を私は深く尊敬いたします。
 私の脚本は、も少しで完成します。今六幕目の終わりを書いています。親鸞聖人の臨終は、一つの罪の意識が救われの意識となって、この聖者の魂が天に返るように、罪を持ちながらも、一つの調和した救済の感じの出るようにかく気でいます。ファウストのグレートヘンの「審判された」が「救われた」となるように、私も親鸞の煩悩に苦しみつつ死ぬるのを成仏じょうぶつと読者に感ぜられるように描きたいと思っています。最後の幕切れは、親鸞の魂の天に返れることをあらわすために、平和な、セレスチアルな音楽で終わらせたいと思っています。
 私は早世するきざしか、もはや老年期のような調和的なものがかきたいのです。ゲーテのあるものは私の心に適います。私はゲーテの影響で、独白をたくさん使いました。私は独白は古典的な感じがして好きです。
 あなたにほめてもらったので、大分自信がつきました。どうも技巧が未熟で困りますが、だんだんとじょうずになれることと思います。気のおつきになったところは、遠慮なく注意して下さい。
 ここまで書いたところに、艶子が来ました。ちょっと、三次まで叔父の法事に立ち会ったついでに見舞いに来てくれたのです。蜜柑みかんをむきつつ話しています。あなたによろしく申してくれといいました。二、三日泊ってすぐに帰るでしょう。
 私の健康はだんだん恢復してゆきますから喜んで下さい。春にはお目にかかりたく思います。私も写真をとりましたから、数日の内にお送りいたします。脚本は、艶子の「禍いの日」というのを、謙さんのところに送りましたから、見てやって下さい。前にかいた「臆病にされた女」というのをそのうちにあなたのほうに向けてお送りします。私のは、遅筆で、汚なくて、清書しなくてはだめですから、また、いつか見て下さい。すぐ原稿用紙に、きれいに得かかないのです。私は「人類の愛」という喜劇をかく気です。愛を口にして隣人の運命に不注意な文士の虚偽に対する私の鋭い批評です。
 茅ヶ崎の大沢さんは実に同情します。あのような運命の下に苦しんでいる人に、なぐさめとなるには、いかにしたらいいのでしょう。あなたは自分の不幸な心で、なお静かな、つつむような同悲の情をおくって、よくなぐさめておあげなされました。今度お便りなさる時には、同じ病気を耐え忍んでいる私からの、ねぎらいの挨拶を伝えておいて下さい。
 また江馬さんにも私の好意を伝えておいて下さい。何事もすぐれた魂を持つものの寂しさだと思って、忍耐なさるように。
 私は「愛と知恵との言葉」のエッセイを続けたいのですが「生命の川」はお金が高くかかるのでたくさんかけないので困っています。新思潮もお金がかかるし得かきません。もっとフェボラブルな発表の場所がほしいと思っています。
 謙さんにソフォクレスを送ってもらいました。イフィゲニーやタッソーも読みましょう。詩はわかりにくくて困ります。
 今日はこれで失礼します。ではいずれまた。
(十二月十三日。丹那より)
   淋しき浜辺のクリスマス。ソフォクレスの悲劇について

 よいクリスマスをあなたに祈ります。
 東京のまちはショーウィンドーのクリスマスの祝いの飾りなどで美しいことと存じます。妹とそのようなはなしをいたしました。
 ここは淋しい漁村とて、この救い主の誕生を祝う何の美しい催しもありません。人は早くから戸を鎖ざして、海から吹いて来る寒い風をふせぎ、一日の労働――この頃は全村こぞって、牡蠣かきを殻からこわして出す見るから冷たそうな仕事を一日じゅうしています――の休息をするために炉辺に集まっています。私たち三人も今夜は仕事を休んで、火を囲んで親しい話や無邪気な遊びをして過ごそうと思っています。庄原であなたとして遊んだ花合わせなどをして、――外は風が吹いてすぐ裏の小山の森が淋しく鳴っています。
 クリスマスを祝うという習慣は本当に美しい習慣と思います。貪欲な人間たちがよくこんな習慣を津々浦々にいたるまで行き渡るように守るようになったと不思議に思われます。やはり人性の善と愛の勝利というようなことが考えられます。
 ヤソの生きていられた時には拒んだ人たちの子孫も、今は神の子としてあがめるのですね。これほど民衆化せられるところにヤソの人類的な力があると思います。「天には栄え、地には穏やか」でなくてはならないのに、ヨーロッパでは今も戦争しているのですね。陣営にたむろしている兵士たちはどんなに不幸なクリスマスを持つことでしょう。家に残っている妻や子は? あなたのお手紙にあったラスクの戦死したことなど思われます。あなたのお写真はよくとれていましたね。少しお瘠せなさいましたね。あまり心を苦しめなすったせいではないかと思いました。魂の悩みを持っている人のように見えました。私の写真はずいぶんふけてうつりました。私はいったいふけました。みなそれを認めて驚きます。私はもうユーゲントを見捨てました。もう一人前になりました。私は老年期の完成を急ぎます。早く堅まりすぎるという人もあるでしょうが、私はあらかじめ自分を七十も八十も生きるものと定めておいて、プログラムをつくって生きることはできません。堅まりたいと常につとめて、しかも堅まれないのが真実と思います。それに私はとても長生きはできません。ゲーテが八十までに成就したことを、私は四十くらいで成し遂げなくてはならないのですから。
 ソフォクレスのフィロクテテスを読みました。今から二千年の昔にこのようなものが書かれてあったのだと思うと驚きます。フィロクテテスの深い不幸な魂のうめきは、私の心につよく響き、そしてなぐさめに近い同悲の情を呼び起こしました。ヨブなどの運命を思いました。私はあたかも鬼界ヶ島に流された俊寛をドラマに描こうと思っていたので、ことにおもしろく読みました。私は俊寛が鬼界ヶ島に流されて、年老い一緒に流されて苦しみと淋しさを分かっていた二人の仲間は、迎いの舟が来て京に帰り、ただひとり残された淋しさを描こうと思うのです。そして清盛に反抗するいっさいの手段は尽きたけれど、ただ一つ呪うことはできる、それで平氏の子孫のすえにまで呪詛じゅそを遺して死ぬところを、その呪詛を眼目にして描こうと思っています。
 私は今は「人類の愛」という喜劇を描いています。愛を口にして、隣人の運命に不注意な文士のカリカチュアを描く気です。私はたくさんかきたいものがあるのですが、生命の川は一ページ約五十銭の印刷費を自分で持たねばならぬので、短いものしか描かれず、困っています。謙さんに新思潮を交渉してみてもらったのですが、これもお金を出さなくてはならないそうです。どこかお金なしで作を発表できるところはありますまいか。「愛と知恵との言葉」ものせる余裕がないのです。「出家とその弟子」は完成しました。生命の川は正月を休刊したので、二月からのせると四月にならなくては終わらないので、ほかのを出せなくて困っています。江馬君にでも頼んで、どこか私の作をお金なしで、発表できるところを工夫してみて下さいませんか。ただし、気らくに、責任を持たずに考えておいて下さいというだけですよ。なければなくてもいいのです。艶子のものも、どこかお金なしで発表できるところをつくってやりたいのです。もしあなたの力で何とかなれば考えておいてやって下さいませんか。
 茅ヶ崎のほうは、そんなにたびたび血が出ては実に淋しいでしょう。あなたも慰めかねなさいますでしょう。その忍受して耐えていらっしゃるのを見るのははたの人はいじらしいでしょう。私はこの頃は神経痛で腰が痛むので、不自由を感じています。どうせ病身なのですから、もうなれています。あまり案じて下さるな、私は病苦の間から仕事をする気です。
 アヤスというのを私も読みましょう。私はソフォクレスはたいへん好きになりました。今日もソフォクレスの彫像の写真を出してながめました。あなたのおかげでいろいろないいものを読まれることを感謝いたします。
(久保正夫氏宛 丹那より)
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 大正六年(一九一七)


   芸術創作とパンの問題

 新しい年が来ました。今年があなたに豊かな祝福をもたらすことを祈ります。東京の松の内の賑わしさなど想像いたします。どのようにしてお過ごしなされますか。
 丹那は淋しいお正月です。私たちは二人で心ばかりの祝いのお雑煮餅もいただきました。艶子が二十九日に帰ってからはたいへん淋しくなりました。
 私はやはり丹那に隠遁してひそかな松の内を送るでしょう。階下の農夫の夫婦と話したり、近所の子供たちでも集めて花合わせでもしたりするでしょう。
 あなたの新潮社から出されるトルストイの「人はどれだけ土地を要するか」という小話はかつておもしろく読みました。平和ということが第一なのを忘れて貪欲になってはいけないのですね。土地を耕して生きてゆくのが一番安定した健全な暮らし方なのでしょう。
 あなたのお手紙にあるように、私も私のパンを父母の労苦から得ているのが気になってならないのです。けれどくわを持つには健康が侵され、ペンではお金を得るどころでなく、お金がかかるようなしだいで困っています。あなたのおっしゃるように、私たちが自分たちの雑誌を持ち、それを自分たちの労働で支えることができるならばフェボラブルでまた合理的だと存じます。やがてそのような時が来ることを望みます。
 私のために、私のものをのせる雑誌を世話してみて下さるそうでありがたく存じます。無理にできなくてもいいのです。できれば悦びますけれど、艶子にはあなたのおっしゃるごとく習作のために努力させましょう。本人もそういって出すのを控えているのです。謙さんのお手紙にどこかに発表してみないかといってあったものですから、ちょっとその気になりかけただけです。「臆病にされた女」はたぶん庄原から送るでしょう。そういっていましたから。あの子も普通の結婚のできかねる悲劇的な性格を持っていますので、将来の運命を心配しています。しかし心配すれば限りがありませんから一日一日を勤勉に正しく送らせるほかはありません。私と二人で、艶子が炊事を受け持って家持ちをして東京で暮らせばいいのですが、費用を父が出してくれません。労働してお金を儲けるかいしょはなし、艶子も困っているようです。
 私は社会的に無力を感じます。あなたの境遇に私がもしいたら、とてもあなただけの仕事と勉強とをつづける力はあるまいと思います。あなたはほんとに力づよくすべてのものを失わないで運命を拓いてお進みなされます。そこには鍛錬せられたる能力があります。その能力のあなたの地位を安固なものにするのに大いに役立つことと存じます。あなたはしっかりした心丈夫な気がします。
 謙さんなどもやがて社会のなかの自分について一つの困難に遭遇そうぐうせられることと存じます。学校の教師なども一つの労働として許される仕事だろうと思います。
 あなたなどもそのようなことも考えなくてはならなくなるでしょうね。学校の教師という地位はほんとに労働ですから、創作などするに要する精力と時間とを削がれるでしょうし、だんだん苦しくなってゆきますね。しかし口を糊するための労働のない生活はけっして健全なものではありませんね。そのような生活から生まれる芸術が、芸術家という一つのプロフェッショナルな地位からの産出でなく、真の人間(そこらにいる農夫や商人などのような)としての芸術ですね。
 私はどうしてお金を得たらいいのでしょうか。自らの額に汗してパンを得るには実に ung※(ダイエレシス付きU小文字)nstig な位置にいます。教師をするには学歴なく、翻訳をするには語学の力なく、創作をして原稿料を得るには名がなく、また精力がありません。私は一か月に原稿用紙に五百枚より多くはどれほど努力しても書けそうにありません。
 庄原にいらした時のあなたの精力に比して、四分の一くらいしかエネルギーがありません。ですから「出家とその弟子」を六幕書いたのでも私はずいぶん努力がいりました。少し長くつづけて書いてるとすぐにからだにさわります。昔から病身でずいぶんたくさんな作をした人があります。よほど忍耐と勤勉とを要したであろうと察せられます。
 私は今アヤスを読んでいます。フィロクテテスの時もそうでしたが、自分の呪わしき境遇を天地の名によって呻き訴えるところなどにほんとに底のある力を示していると思います。私は「人類の愛」という喜劇を描いています。「生命の川」は廃刊するのかもしれません。二月号を出すという通知もまだ来ないようなことですから。
 私は語る友もなく侘しい新年を迎えて、あなたがたの東京での集いを少しおうらやましく思っています。いずれ手紙は出しますが、みな様によろしく伝えて下さい。江馬さんが新年の雑誌にかいたものなど見せてもらって下さいませんか。ではいずれまた、たのしくお正月を送って下さい。少しは遊戯などもして正月らしくお暮らしなさい。さようなら。
(久保正夫氏宛 一月一日。丹那より)
   春知らぬ従妹への同情

 あなたの一月三日出のお手紙を読んで私はあなたの細々とした御親切に深く動かされました。あれを読んでいると、あなたが心から私を愛しそして憐れんでいて下さることがよく現われています。そして私は、私の作の発表の便宜がたとえ与えられなかったにせよ、私はその愛で十分だという気がしきりにしました。
 私は私の心があせっていたのを感じました。そしてそれは私のような地位にいるものには無理はないとはいえ、純粋な芸術的衝動を濁すものと思いました。
 あなたは「青年」や「母たちと子たち」や、短篇集や、すぐれたものを幾つも発表する機会をまだえないで忍んでいられるのに、私はなぜ作品を公けにすることを急ぐのか? そのような機会があってもなくても、創作活動はそれとは独立に起こるのではないか。私は黙っていい作を創ろうという気が強く動きました。そして私は愛と祈りと仕事との生活を今までのとおりに忍びをもって続けてゆけばいい、その必然の道筋で私の仕事が民のものになるだろうとは思いました。その時私はすぐに、私のひとりの小さな従妹いとこが私のなぐさめを待ちわびているのを思い出しました。そしてあなたの手紙で濡らされた心で、すぐにその従妹をなぐさめてやろうと思いました。そしてすぐ車で(私は腰の神経痛で歩行がたいへん不自由になっていますので)従妹の家に行きました。車の上で私は、あなたが、正月の元日を、謙さんや江馬君やその奥さんと、たのしく往来して暮らされたのを思って心から幸福に感じました。
 あなたにはそのようなたぐいの幸福がこれまで恵まれることがあまりに少なかったように思われましたので、江馬君の宅で遅くまで話し込んで泊ったりなさったのですね。
 あわれな病める十八になるせむしの処女は、私を見て気の毒なほど喜びました。足がまがって歩くことがむずかしいのに塀にすがって迎えに出ました。玄関までいそいそとして、脊髄病で嫁入りできない不具者なのです。いつか病院からこの娘について、手紙に書いたと記憶していますが、その家で炬燵こたつを囲んで、その娘の父母、その兄や妹たちと花合わせなどして夜になるまで遊びました。父、母は物質的な人なのに、その娘は病身なせいかもののあわれを早く知って、精神的ないい性質を持っているのです。眉の濃い大きな大きな眼を持ったいい子なのですが、体はまだ十四、五の子供くらいしか発育していないので、畸形的きけいてきなみじめな印象を見る人の心に感ぜしめます。この子は来客――それは親戚の人でも――があると、その醜い姿を見つけられまいために、すぐに自分の部屋ににげ込みます。父母がそうしろと命じてあるのです。初めは私にもそうしていたのです。けれど私の愛が勝って、彼女は私のものになりました。私にだけ何でも話します。私が行くと実に悦びます。私は小説をかしてやったり、たびたび手紙をかきます。いつもはひとりで裁縫などしています。昨日も夜に入ったので私が暇ごいをすると、泣くようにして私に泊ってくれよと嘆願しました。私はまけてしまって、叔父、叔母に対しては気がねでも、その子のために泊りました。今朝私としばらく二人きりになった時、その子は大きな大きな眼にいっぱい涙をためて、自分のはかなさを訴えました。私はできる限りの愛の雄弁で彼女をなぐさめ励ましました。そして暖かい日に、彼女を丹那の私の家に連れて来てやるという堅い約束をして、やっと別れて帰りました。
 その時お絹さんが、私にかぜを引かすまいためにとて、無理に持たせてよこした懐炉に、灰に火をつけて彼女が、ハンカチに包んで、私の懐に入れてくれました。私は帰り道にくるまの上で思いました。私はこのようにして多くの人たちの愛の守りのなかにいるのだ。両親、艶子、お絹さん、その従妹、そして東京にはあなたや謙さん、天香さん、私は生きる価がある、それを感謝しなくてはならない。そして純な希望のみで仕事をしてゆこう。それが文壇的になることはしいては求めまい、いわんやそのために心を煩わされるのは卑しい――そんなことを考えつつ、今は葉が落ちつくして裸になった、はぜの木のたくさん両側に並んでいる堤の上を俥で帰りました。
 わずかに芽の出た麦畑の間を通って、海べの砂州に海苔のりの乾してある、丹那の村の入り口の橋のそばまで来ると、私の家の飼犬のイチという子犬が、私の姿を見つけて跳ね廻って悦び、吠え、尾をふり、俥の前に立って、私の家の門まで走りました。お絹さんは私の帰りを待ちわびていてくれました。そしてあなたの手紙が来ていることを私は聞きました。
 私は今日はつくづく愛の幸福、私の身の廻りをつつむ温かな人のなさけを感じました。私はどうして人に愛されるのだろうと思って、ありがたい気がしました。そして不純な欲望さえ起こさなければ、私はしあわせを感ずることができるのに、貪欲になるからいけないのだと思います。
 あなたの四日付のお手紙も読みました。私のためにいろいろと心配して下さってありがたく思います。あなたの親切をしみじみと感じます。労働と報酬との独立については、私も全くあなたと同じ意見です。
 天香さんのもつまり同じ意見で、人は愛し労働する。パンはそれとは別に神様が保証して下さる。労働できない境遇の者は、たとえば病者、幼児などは神様に養われて生きるのである。健康なものも愛のために働き、その報いとしてではなく、パンを神様からいただく。そして「なくてはならぬもの」で生きる時、平和が地上に保たれるという意見です。私なども怠惰でなく、贅沢ではないならば、金を他人から、(今では父母ですが)神の名によってもらって生きるのは許される生活だろうと思います。ただそのもらっている金が、他人の労苦より出ずるものゆえ気の毒なのです。つまり「なくてならぬもの」だけは費やして許されるのですね。今の私は、節倹をしつつ、養生し、許される限り仕事をし、愛を実行するほかはないのですね。またそれが最もいいことなのですね。
 あなたの勧めて下さるように私は「若き罪」に力を注ごうと思います。私は今ユーゲントと別れを告げようとしています。そのはなむけにこの作をかきます。私は実に愛すべきしかし間違いの多い青年期を過ごしました。私は涙をもって、そして愛のねぎらいをもって、私の青年期を葬ります。私は「若い罪」には熱い熱い愛を感じて書くことができます。また後悔の苦しみをもって、しかし、それは、その償いとして私の後の生涯がひらかれています。私の今持っている多くの尊きものは、ほとんどみな私の青年期の私に与えた贈り物ばかりです。
 私はあなたが私の「若き罪」に期待して下さることを実に感謝します。私は今から毎日毎日この作に力をそそぎます。そしてまったく文壇的成心をはなれて、純粋な愛で、私のユーゲントを葬るためにのみかきます。たぶんそこには、私のユーゲントも、他の人々のと同じような、珍しからぬ材料、恋が中心になるでしょう。しかしそのようなことは顧慮せずに私のユーゲントを描きます。あなたが、その一部分を知っていて下さるところの私の青年期には、それはそれはずいぶん愛すべき、また愚かなところが数知れずあります。それを私は今まであなたに語ったことはありませんが、この作であなたに語ることになります。千ページぐらいの予定で、四月末までには完成するつもりです。
 私は景色の描き方がへたなので、小説はむずかしいと思ってドラマの形を選んだのです。受難者のようなふうにかくのなら、私にでも小説は描けそうです。あなたや、謙さんのを読んで、とても景色などあんなには描けないと思って、気がひけているのです。しかし私はまったく私の流に描きましょう。人々でその形は変わるのが本当ですから。
 謙さんや内山君も卒業したら、作をするようになるでしょうし、あなたのはだんだん発表されてゆくし、あなたのおっしゃるように、私たちの仕事はいきいきとしてきますね。
 今年はみなの上に実りの豊かな年であってくれよかしと祈りたくなります。あなたのレーウィンのエゴイスムスというのを読みたく思います。いつか「人生論の倫理学」を創り上げなさることを希望します。実に大きな仕事です。おそらく大分後になることと思いますが。
 仕事は多くして時間は短いという気がします。ことに私は健康のことを思うては、あせります。弓矢取るもののふに比べれば、ペンを執るものの文運を神々に祈りたくなります。
 江馬さんが、私のを読んでくれたのと、佐藤氏に話してくれたのについて私がありがたがっているとおっしゃって下さい。私もいつか、江馬さんと親しくなるだろうと思っています。あなたの手紙にしばしば出る奥さんもいい人のようですね。
 まだ書きたいことはたくさんありますが、夜がふけますから、またこの次に残します。今夜は霜をあざむくようないい月夜で、海をへだてて島山が凍るように冷たくかたまって黒く見えます。私はひとりで外套を着て海べを歩きました。乾草の堆や小舎こやなどある畑の側の広場に立って、淋しい月あかりの海を見て立ちました。舟がかりをしている漁師の船窓にはあかりがこもっていました。この寒く透き通る空は脅かすような威厳の感じを持っていますね。長く見てはいられなくなります。さようなら。
(久保正夫氏宛 一月七日)
   病重くなり、常臥時代始まる

 私はまた不幸に襲われました。私は病気にかかって入院しました。私はあなたに長い長いお手紙をあげたいのですが、熱があってどうしても根気がありません。どうぞもっとよくなるまでゆるして下さい。私は読むことと書くこととを禁じられているのですから。何もかもこらえるほかはありません。
 あなたもからだを大切にして勉強して下さい。私はあなたがたを悲しく、なつかしく思います。なにとぞ熱が下ってくれればいいがと祈っています。世界が暗く暗く心に映ります。新年とともに幸福を待ったのはそらだのみでした。どうぞ大切にして下さい。あなたはからだは丈夫でも、他に魂の不幸を負わされていらっしゃる。私はそれを忘れたことはありません。何といいましょう。忍べということもいい古しました。祈りに倦みそうな誘惑さえ感じられます。でも祈るよりほかにすべはありませんね。もっとよくなったら手紙をかきます。今はかなしみに打ちかたれています。
 広島市木挽町中村病院に入院しました。昨日の夕方に。
(久保正夫氏宛 中村病院より)
   久保正夫氏宛

 あなたはさぞ私のことを心配して、私の手紙を待っていて下さることと思います。私も手紙がかきたいのですが、この五日ほどすこしですけれども血が出たあとの安静を命じられているのと、根気がないのとでほんの容態しか通知できないことをゆるして下さい。
 一時は実に不安な気持ちでしたが、止血の注射で、血もきれいに止まりそれとともに熱も平熱になって今日で三日ほど無熱です。この調子でゆけばほどなく恢復するだろうと思いますが、熱が一月以上続いたのでずいぶん衰弱しています。しかし医者は大丈夫恢復するというてくれますから安心して下さい。
 二月も今日ぎりで、人は春を待つ楽しい心地を感じる時候となりましたが、私は一つの部屋にたれこめてわびしい気がいたします。読み書きできないので心のやりかたがありません。屏風びょうぶや、ふすまの絵模様など見るともなしにみています。悲しみにもなれた淋しい気持ちです。あなたの学業や仕事のよい実りを祈ります。東京ならあなたにも見舞いに来てもらえるのにこちらは友だちがひとりもありません。
 江馬君のうちで楽しい集まりがよくあるのですね。あなたのお手紙でその様子を想像されて私も嬉しくおもいました。私は健康の不安を非常に増しました。仕事が健康にさわるということは実につらいことです。江馬君は貧しいために時間がなく、私は病気のために時間があっても仕事ができないのです。どちらが不幸でしょう。どちらもつらいことです。しかし私は覚悟をきめて仕事をする気です。私の「出家とその弟子」は、「生命の川」へ出すと七月頃までかかるので岩波からひとまとめに出すことにしました。「生命の川」へはほかのを出します。
 お大切にして下さい。もすこし恢復すれば長い自筆の手紙を書きます。待って下さい。あなたの愛をこの頃はしみじみ感じます。

   あわれなる二十日鼠

 お手紙ありがとうございました。この頃は春らしくなりお天気つづきで東京もたのしそうになったことでしょう。私は今朝本当に久しぶりに二分間ほど干棚に出てまちの上にかかる青空と遠い山脈の断片とをぬすみ見ましたが、もう春が地上に完全に支配しているのを見て驚いたほどでした。あなたはミルトンについての論文で忙しいのですね。やはり身を入れて丁寧にお仕上げなさるようにお勧めします。学校時代の終わる時の記念ですからね。私はだんだんと健康を恢復してゆきますから、悦んで下さい。安静にして何もしないでいれば熱も出なくなりました。しかし少し何かするとすぐに少し発熱するので、やはり読み書きも許されず無聊ぶりょうに苦しみます。しかしあせらずに養生しています。私の気質として物事を不足に不幸にばかり考える悪い癖があるので、このような場合には生きがたい気がします。私はひとりの友もなく、まったく淋しいので四、五日前から二十日鼠を三疋飼っています。よく車を廻します。少しの米を食って何の不足もなさそうに遊戯して暮らしています。時々小さな声を立てて鳴きます。私は寝床に横になって、そのさまを見ています。これだけが私の一日のなぐさみです。あわれんで下さい。私の心はどうしても不幸の意識から自由になることができません。やはり死に脅やかされるのが一番原因になっています。血の出る時の本能的な不安は実にいやなものです。私は死に身を任せる覚悟のできていない生活はたしかなものではないと思いだしました。そして人間の幸福はやはり安息にあると思います。エピクロスなどの考えたのもそのような気持ちだったのであろうと思います。さまざまの悲哀や心配のたえ間のない人生の終わりに来る死、それを relief のように、迎えることはできないものでしょうか、私は故郷の父のことなど思うと、そうであってほしいとせつに思います。私は墓場の彼方に平和をのぞむ生活を一番いいような気がします。やはりこの世は仮りの宿というようなテンポラルな気がします。トルストイやナポレオンは今どうしてるだろう。夏目さんや魚住さんは? と思うと私は変な、淋しい気がしてなりません。今から百年たてば私らのうちひとりも生きてる人間はいないのですね。そのくせこの世は私たちに強い強い愛著を持たせるのですね。私は長生きができないのがなさけなくてなりません。そして死ぬる時の肉体的苦痛が今から気にかかります。私の初子ういごが十日以内に生まれるはずです。私はじっさい何と思ってこの子の誕生を迎えていいか自分にわかりません。不思議というほかはありません。生まれた赤ん坊を見たら急にかわゆくなるのでしょうか。みなかわゆいと申しますから、私もそうなるのでしょう。男子ならば地三、女子ならば桑子と名をつけようと、お絹さんと相談しました。いまだかえらぬ卵をかぞえるような愚かなことですけれど。天香さんがはるばる私を見舞いに来て下さるそうで、もったいなく思っています。私は四月中旬まで病院にいなくてはなりますまい、私の書物が出るのは五月初旬でしょう。まだ自分で書くと手が慄えて少し無理です。
(久保謙氏宛 三月十八日夜。中村病院より)
   久保正夫氏宛

 しばらく御無沙汰しました。実は昨日の朝男の子が生まれました。私は興奮してそわそわしています。男の子で、よく肥って元気そうな男らしい顔をしています。母親も達者ですから悦んで下さい。名は地三とつけました。赤ん坊の泣き声を隣室できくとすぐ父の愛が湧きました。それまでは何の感じもなく、ただ産婦の呻吟しんぎんするのを不安に感じて、うろうろしていましたが、不思議なものですね。私はこの愛すべきものを保護してやろうと思いました、そして長生きがしたくなります。私の健康を大切にせねばならぬと思います。
 先日謙さんに手紙をかいたら後で熱が少し出ました。それで長い手紙をかくのを恐れています。お絹さんが寝ているので代筆してくれるものがなくなりました。読書もまた禁じられています。春の動いていることを物干場に出てわずかに知っています。そこからまちの上にかかる青空と遠い山脈の一端とを見ます。
 私はまことに貧しい生活をしています。江馬君の書物は喜んで頂きます。やがて私のも同君にあげたく思います。
(三月二十三日)
   久保正夫氏宛

 ながらく御無沙汰となりましてまことにすみませんでしたがどうぞお許し下さいませ。
 先日は脚本を頂戴いたしましてありがとうございました。早々お礼を申し上げねばならぬと心にかかりながら、どうも病気がよくありませんので、そのほうに手をとられまして手紙かくことができませんでした。
 この頃もやはり三十八度八分の熱は午後に出ますので困っております。それに食欲がだんだん減退しますので、心細くていけません。江馬様にお礼が申し上げたいのでございますが、今どうしてもしみじみとした手紙が書けません。どうぞこの場合何もかもお許し下さいますように、あなたからよろしくお伝え下さいませ。みな様へすまないと思う心にせめられています。どうぞ許して下さいませ。少しく快くなりましてからお手紙がかきたいとばかり思っています。
 日増しに暑くなりますからお体お大切に暮らして下さい。もう近いうちに「出家とその弟子」の本ができますから、そしたらあなたと江馬様に送りますから読んで下さい。
(中村病院より)
   墓場にこそ幸福はあれ

 ずいぶん御無沙汰いたしました。あなたはこの頃はどうして暮らしていらっしゃいますか、相変わらず熱心に勉強していらっしゃることと思います。何か書いていられますか、暑さがさわりはいたしませんか。
 私はこの頃は大分心よくなりましたから喜んで下さい。けれどまだ読み書きも歩行もできません。しかし危険な時期を通過した、やや安らかな気持ちです。苦しみも悲しみも忍び受ける、淋しい心地はいよいよたしかに私の基調となってゆきます。その地に立ってしかも世界のさまざまの Irrungen を眺め、しかし冷やかに傍観するのではなく、それを人間の分として、淋しく受けとるような気持ちで見ている姿です。私はやはり心の静けさ、というものが、一番尊い幸福であるように思います。そして死は永久安息を私たちに与えてくれるのではありますまいか。
 私は死のねがい、あこがれ、というような気持ちがしだしました。墓場こそ私たちのもとめている本当の幸福があるのではありますまいか。私は自分の墓を生きているうちに建てその墓もりとなっているような気持ちで、これから後の生涯――それは必ずながくありますまい――を過ごすつもりです。常に死を待つ心地で。そして健康が許すなればそのような気持ちで芸術の仕事にたずさわりたいと思います。
 この世の希望はことごとく私から去りました。しかし私はもうそれを悲しみますまい。昔から人生の無情から深き知恵に達した、聖者たちの淋しき道を分けゆこうと思います。どうぞ私に変わらぬ静かな愛を終わりの日まで送って下さい。
 今日はやっと表記だけ私が書くことができました。
(久保正夫氏宛 中村病院より)
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 大正八年(一九一九)


   久保正夫氏宛

 先日は久々で、お目にかかってうれしく思いました。
 私は二十三日の夕方当地に参りました。ここは淡路島のすぐ前に横たわっている浜辺で、眼の下を船がたくさん通ります。単調ではありますが、海のない京都に住んでいられる貴兄には、一日のリフレッシュメントになるかと思います。
 まだ、引き越したばかりで、取り乱れていますけれど、いらして下されば、喜びます。熱は少しありますけれど、用心深く話せば、さわるようなことはあるまいと思います。いろいろ書きたいことがあるのですが、おちつきませぬからお目にかかった時にゆずります。あまりくどくいう事はかえって貴兄の心に適わないかと思いますので。
 ベートーヴェンについての本をお出しになる由、私のところにレコードがありまして、ベートーヴェンも少しありますから一緒に聞きましょう。楽しみにしてお出でをお待ちします。
 ではお目にかかって、さよなら。
(十一月二十六日。明石より)
   二、三枚ずつディクテイトしてもらって

 お手紙うれしく拝見いたしました。あなたに若々しさが再び帰って来たように、いきいきした日を送っていられることをうれしく思います。
 私は昨日明石へ来てから初めて外出して、電車で須磨まで行き入院していられる、小川君の奥さんを見舞って来ました。三年ぶりの再会をよろこんで二人とも病身ではあってもこうして生きて会われるのは幸福だと思いました。金曜日に来て下さるかもしれない由、私はできるだけたびたびお目にかかりたいのですが、実は新小説からたびたび頼まれて新年号に「俊寛」をまに合わせるために、二十日までに書き上げてしまわねばならないので、エネルギーが乏しいので心忙わしくくらしていますから、せっかくわざわざ来て頂いて落ち付いて話せなかったりして残念だと思いますから、かってがましゅうございますが、二十日以後にいらっして下さいませんか、そしたらゆっくりといつまでも話す事ができてうれしいと思います。
 明石ではまだ一人も知人がありません。君が帰られてからは未だ一人も訪問者はありません。毎日静かに養生しながら二、三枚ずつディクテートしてもらって仕事をしています。それだけでも仕事をしていると思えば生きがいを感じます。関口君に御会いでしたらよろしく伝えてください。ちょっと取り急いで。いずれまた。
(久保正夫氏宛 明石より)
   久保正夫氏宛

 先日は京都からわざわざいらっして下さって本当にうれしく思いました。何のこだわりもなく親しく温かに語りあうことができて、昔の友情に立ち帰った喜びを感じることができました。私があなたに対してつくったあやまちや、また鋭い裁き方についての不満足を、少しも数えずにあなたの責めのみを感じていて下さるようですまない気がいたします。三年前にくらべれば私の心も博くなりまして前に裁いたことをも今は受け入れるようになりましたし、私の感じたところではあなたの人柄も私には前よりも親しみやすく、温かく、また無邪気になられたように思われます。(このようなことをいうのは失礼ですけれども)それでこの後は二人の友情が、平らかに続いてゆくことを予感できるような気がいたします。
 星坐表を語って下さってありがとうございました。一昨夜窓を開けて星を眺めました。月が明るいために星の位置ははっきりわかりませんでしたけれども、琴坐やペルセウスや鯨坐などと見分けることができました。Im Abendrot のテックストを送って下さってありがとうございました。あなたのひろい知識ならこの後も私の仕事に助けを与えて下さるように願いいたします。あなたの貴い学問上のお仕事に豊かな稔りのあるように祈っています。京都へは時々出る気ですからその時は寄せてもらいます。こちらへも土曜日にでも時々いらっして下さい。それから丸善へでもいらっした時に画の本でもいいのがあった時にはちょっと知らせて下さいませんか。またレコードや書物などに心当りのものが眼に触れた時にはちょっと知らせて下さい。お願いいたします。謙さんには近いうち手紙を出してあなたとの会話の話しも伝え、私との友情も回復したく思っています。私は昨日から少しずつ仕事を始めました。「俊寛」の二幕の二場を今書いています。今日も晴れた海に船が賑おうています。静かな心でこの手紙を書きます。御大切に。いずれまた。
(十二月四日。明石より)
[#改ページ]

 大正九年(一九二〇)


   「俊寛」の完成

 しばらく御無沙汰いたしました。紀州の海岸から帰られたのですね。そのように野に山にまた海に自然の膚と気息とにたえまなくふれ、また都会の人々が自分らの生活を、楽しく、ゆたかにするためにつくり出した設備や催しのなかで自分を富まし、また緻密な学究的労作のなかに、知性を鍛え、すべて人間の持ちうるカルチュアーの機会をことごとく享受することのできるあなたを心からお祝いしたく思います。あなたがいって下さるように、私はきわめて不利な外的条件のなかで自分の仕事をつづけています。けれども今は、私の心が静かさを保つことができて、人の幸福をも自分の不幸と較べて淋しくなるようなことはなく心からよろこぶことができ、また自分の生活に失望しなくなりました。私がそうなるまでには忍耐と祈りとで心の平和を恵まれるまでの苦しい時代が必要でありました。今は自分の運命を受け取り、ゆるさるる幸福をけ楽しんで死を待ちつつ仕事にいそしむことができるようになりました。私はそれを恵みと思っています。私はこの頃は神に対し、人に対して感謝することを知ってきました。
 私ごときものがこうして何不自由なく、(私はそれを享ける値はない気がします。ましてそれを要求する権利などはどこにもない気がします)暮らしてゆくことができることを感謝せずにはいられません。私は父の恵みと、友の好意と私の著書をよんでくれる人の報謝とで暮らしています。「われらの日々の糧を今日もまた与えたまえ」というような感じがしています。
 私はいつも寝てますけれども、常に看護してくれる妻と、忠実なる助手とまた愛らしい男の子とまたその子供を非常に可愛がってくれる子守とに囲まれ、書物や絵や音楽が与えられ、晴れた日には「海の幸」を思わせるように港に賑わう船を数え、また窓の下の少しばかりの草木や、鳥やを楽しむこともゆるされています。私の心が貧しく潤うているならば、私の日々新しい興味で生きてゆくみちは残っていると思います。心静かに暮らしていますからよろこんで下さい。家内と子供とは実は赤痢だったのですが、幸いに全快しましたから安心して下さい。
 クリスマスには地三におもちゃを送って下さって子供も親もたいへんよろこびました。よく心にかけて下さいました。お礼申し上げます。正月はひとりの訪問者もなく淋しくしかし平和に迎えました。二日の午後あまり天気が美しかったので車に乗って明石中の町や川や公園などを見て廻りました。いろいろなものが私には物珍らしくいきいきと眼にうつりました。ことに道で会った朝鮮の少女の正月の晴着を着たらしい、愛らしい服装が今でも眼に残っています。赤や青の単純な、日本の巫女みこの着るような服を着て、小さな靴をはいたのが母親らしいのと楽しそうに町を歩いていました。あなたの「ベートーヴェンの生涯」を近いうち読みたいと思っています。「イタリア紀行」も書物になるのですか。ぜひ読みたく思います。私は「俊寛」をとうとう書き上げました。これはしかし三年前の着想なので今では少し私とぴったりしない気がします。早くほかのものにかかりたく思います。おひまの時に遊びにいらっして下さい。幸福に仕事に実り多く暮らして下さい。
(久保正夫氏宛 一月五日。明石より)
   恵みに向かって高められつつ

「ベートーヴェンの一生」をありがとうございました。これから読むのがずいぶん楽しみです。あなた自身の初めての著作を心から御祝しいたします。読み終わった後でいずれ私の感想を書いて送ります。先日のお手紙にありました、私のあなたに宛てた手紙集を読みたいとおっしゃる哲学科の人には、私は少しもさしつかえありませんから見せてあげて下さい。私が仕事を初めるまでの二、三年間の努力と悩みとがあなたに宛てた手紙のなかに最もよく現われていると思っています。ひとりの友にあれだけ身を入れて手紙を書くことは、この後の私の生涯にもめったにあるまいと思われるくらいです。
 私は私の、悩みの多かったけれど、それをくぐってしだいに一つの恵まれた静けさに向かって成長してきた魂の歩みの記録として、これらの手紙に対して、愛とそしてなみだをさえ感じます。何となれば悩みはその後けっして減ぜられずしてますます重く、課せられたにもかかわらず、私の心がある恵みに向かって高められて来つつあるからです。そこには私の醜さと拙なさとがあとつけられてあるとはいえ、私はそれをあまり恥ずかしいとは思いません。
 私は、先月二十六日にはあなたを心待ちしていましたが、御都合でいらっしゃいませんでしたね。その後あなたはおさわりなくおそらく「親和力」の翻訳にいそしんでいられることと思います。その書物は私が心をひかれ、そしてまだ得読まずにいるものですから、あなたの忠実な翻訳によって読むことができるのを楽しみにして待っています。私は「父の心配」という現代もののドラマを書いています。毎日寝床で。仕事と読書と祈祷と音楽とで暮らしています。先日お絹さんの母が亡くなりまして、今朝納骨式に地三をつれて里へ帰りました。今日はたいへんな嵐で海が荒れています。
 今晩この手紙を書く前にムーンライト・ソナタや、葬送曲をききました。不思議なことに巻頭にあるベートーヴェンの写真が君にたいへんよく似ています。私の「俊寛」を読んで下さったかしら。方々からいろいろ言ってきましたが、そのなかで長与善郎君が永久的なクラシックだといってほめてくれたのが一番私をよろこばせました。機があったら読んで下さい。お絹さんはたぶん十日ばかり留守になるだろうと思います。
 それから「紡ぎ車のグレートヘン」のテキストがわかればついでの時に教えて下さればたいへんよろこびます。私は次から次へと仕事の計画に満ちています。もし私の健康さえ保たれるならば、今年は仕事の収穫の非常に豊かな年となるだろうと思っています。私の「俊寛」を「出家とその弟子」を上演した創作劇場が上演したいといってきましたが断わるつもりです。今の仕事を仕上げたら「イダイケ夫人」というインドの材料で長いドラマにとりかかるつもりです。では御大切に。いずれまた。
(久保正夫氏宛 二月十日。明石より)
   モデル問題

 お手紙拝見しました。「文壇への批難」の中の聖フランシスについての一節は、僕は君を目安にして書いたのではありませんが、君の名誉のために断然省略するか書き替えるかして、君に迷惑のかからぬようにしますから安心して下さい。歌わぬ人については、今の君の非文壇的な仕事とシュテルングからいっても人が誤解することは少なかろうと思います。機会あるごとに僕が取消しましょう。君に迷惑をかけてすまなく思います。先日の君のお手紙にあった、僕の君への手紙の整理については、僕は君がそれほどまでに僕の手紙を大切に保存していて下さっただけでも実に感謝します。君のそういう方面の性質は真実に尊いものだと思います。あのゲーテなどが持っていた、そしてそれは親和力の一部にものっていると思いますが、君に独特な一つの本能となっているほどなよい性質と思います。僕などはどうしてそういう性質が乏しいのだろうかと思います。恋人の手紙さえも失ってしまったことを恥じます。一つは病身で手がないのといろいろな心を打つような出来事にたびたび遭遇してきたので、そういう尊い思い出であっても、直接に重要でないものは省みていることができなかったからではありますが、しかし僕の徳の欠けているということはあらそえない気がします。僕には蔵書ができず、また学者になれないのもそういう性質の欠乏がるいをなしていると思います。大庭君なども君のそういう性質をほめていました。
 しかしあの手紙を多くの人々にみせることは私は好みません。あるいは僕がこの世を去ったあとでそれが公けにされて、たとえばゲーテとシルレルとの書信の往復のごとき、文献の一つとして後に伝わるというようなことはふさわしい気がしますが、僕がなお生きているうちにそれがいくらか公けな性質を、たとい出版されるものでなくても、持つことは好ましくない気がします。ことにあの手紙のなかには、僕のプライベートな、したがって親しきものへのほかは秘密にしておきたいような部分をも含んでいるのですから。
 しかしながら、きわめて少数の心ある人たちに真実に私的な意味で、君がその手紙の集をみせて下さることはかまいません。そしてその手紙の集に僕が一つの記念の言葉をかいて付加することは僕もふさわしく思いますから、ひまな時にかいて送らせていただきます。僕は君が僕との友情をそれだけに重んじていて下さることを感謝しないではいられません。そしてまた、あれだけの手紙をかくことはめったにあるまいという気もするのです。僕は今「父の心配」という四幕物の現代物の戯曲の三幕目をかいていますが、これはたぶん君に気に入ってもらえるだろうと思っています。
 僕のかいた物の中で一番すなおで教養的で僕の無理をしない自然な持ち味が出ていると思っています。来月初旬「俊寛」を、小山内氏が監督して左団次一派が、明治座で上演することになりました。艶子はあれからずっと病気がなおらないので、ねたきりでいます。この頃母が看護に来ています。僕はあいかわらず室に閉じこもったままで少しも外出しません。三月になったら時々出てみたく思います。一度どこかへ旅行がしてみたくてたまりません。君の研究がますます学術的に精密となり深奥となりゆくのを心からお祝いします。では今日はこれでよします。
 私からはたびたび便りをしなくても、からだのいい貴殿からはなにとぞたびたび便りを下さい。僕は君の手紙を読むのはたいへん好きなのですから。そしてその手紙のなかにある教養的な、君でなくては書けない、美にまで解かされた理智的空気に触れることは僕にとってよい刺戟しげきでもあるのです。僕が便りを怠るのは真実にからだのせいなのですから、あしからずゆるして下さい。
 君の歯の痛みが早く取れるように祈ります。ではお大切にいずれまた。
(久保正夫氏宛 二月二十六日。明石より)
   有島武郎の訪問

 おはがき拝見しました。二十日にいらっして下さるそうでうれしく思います。ずいぶん長い間御無沙汰しました。ようやく数日前から手紙も出すようになったようなわけなので御無沙汰をお許し下さい。あなたはすこやかで仕事に励んでいられるそうで喜びます。私は一時はずいぶん苦しみましたが、この頃は熱もなく、気分もよくなりましたから喜んで下さい。ただずいぶん長らく寝たきりだったので、頭を枕から離すと眩暈めまいを感じますので、床を離れることはまだできないでいますが、これはおいおい治ると思います。この頃になってようやく少しずつ読書ができるようになりました。「哲学研究」のあなたの論文を感心して拝見しました。りっぱな学術的論文と思います。そしてそういう論文としてのりっぱなスチィールを備えているのに感心しました。あなたがこういうものを書かれるようになったことを祝福したく思います。
 かつては私が志していた知的な世界へあなたが分け入られ、そして私が思いもかけなかったドラマチストになろうとしているのも不思議な気もします。けれど私はあなたの創作のほうの仕事をあなたが棄てられることはずいぶん惜しく思います。もしできたらそのほうの仕事もされてはいかがですか。しかしあなたのまれな精力をもってしても二つの方面の仕事がそのいずれかを希薄にせずにはできないようだったら考えねばなりませんね。しかしシルレルやレッシングやまたロマン・ローランなども、両方の仕事ができたのですね。ともかくこれまで書かれた創作のほうの仕事を発表されたらいかがですか。
 有島さんのところへ行っていたという小説なども、私や妹がその作のどこかに関係を持っていたにしても、私や妹に対する現実の愛と尊重とを信じている以上は狭量な、穿鑿せんさくだてをして気を悪くしたりしないことを誓いますから、その点は御心配なく発表されてはいかがですか。私は君の小説には知的な教養的な優れた要素が非常に多く含まれていて、そしてそれは今の日本の小説に最も欠けている点と思います。
 有島さんはあなたの作を読んで何といわれましたか。「青と白」などはどうなされましたか。私も近いうちに岩波から第二の本が出ます。「俊寛」と「歌わぬ人」と「病む青年と侍する女」とを集めてあるのですが、私はもっとたくさん書いてから集めて出したかったのですが、書店のほうの都合と私の生計のほうの便宜とで、貧弱な書物になって何だか気恥ずかしく思っています。そのなかの「歌わぬ人」というのは私の初めて書いた習作で、あまりモチーフがアプジヒトリッヒなので、今の私にはかなり気になる作なのですが、自分には思い出もあるし、友だちからも勧められたので一緒に集めることにしました。(それに「俊寛」だけではあまり薄くなるので)それからあなたに一つお断わりしなくてはならないのは、その作の中にひとりの詩人がピアノをひくところがあるのですが、その頃の私は音楽についてほとんど知識を持たなかったので、君の手紙にあったブラームスについての感想をその詩人に語らせ、そしてブラームスをひかせてあることです。そしてその詩人は作者が蔑意べついをもって取扱ったキャラクターなのであるいはもしあなたが読まれたら、不愉快を感じられるかもしれないと思いますがこれは私のそういう方面の知識を持たなかったためですから悪く思わないで下さい。もっとも作者が好意を持って取扱った主人公にもあなたの手紙のなかから言葉が使ってあるところもかなりあるのです。
 とにかくその詩人は作者が最もきらっている文士のキャラクターを書いたのですが、その境遇もベルーフも主人公との関係もあなたとは全く異っていて、読者にあなたを連想させる心配は絶対にないと信じますから私は安心しているのですが、ただあなたが使われた言葉がその詩人に用いられている時には少し気持ちが悪いかと思いますが、前述のようなわけですからお許しを願います。
 私は今しばらく仕事を休まねばなるまいと思います。今年の春は知らぬ間に過ぎ去ってしまいました。明石の海も初夏らしく爽やかになりました。早く仕事を始めたく思います。「父の心配」というのは現代物で教養的なものです。梅雨つゆがはれる頃までは仕事につくことはできますまい。それから妹が「葛の葉」というドラマを書きました。彼女ももはや二十五を過ぎますからこれからは発表させるつもりです。ではいずれお眼にかかっていろいろお話いたしましょう。
 それから私はまだ疲れやすいので少し話しては休み休みして幾度にも切って話をせねばなるまいと思います。これも含んでおいて下さい。有島氏も二十日に来て下さるらしいそうで喜んでいます。
(久保正夫氏宛)
   「歌わぬ人」

 今朝お手紙拝見しました。明日午後来て下さるそうでうれしくお待ちします。あなたが京都から四時間もかかるところへいつも心にかけて訪ねようとして下さることをいつもうれしく思っています。ただ残念なことには私の健康が疲れやすくて長く話すことができないことです。それで少しずつ話しては休み休みして散歩したり蓄音機を聞いたりして泊ってゆっくりして、そのかわり私のからだが疲れないように私が注意することを私のあなたを迎える気持ちが愛と体とにかけているためでないことを信じて下さい。実はこの前有島さんたちといらっして下さった時に話し過ぎたので、後で疲れが出てその恢復に一週間ばかりかかりました。本当に病気は対人関係の慰めともてなしを稀薄なものにしてしまう点で最も苦しい気がします。そして私のように溺れやすい者にはことに苦しいことです。
「歌わぬ人」は一幕物でなるべくなら発表したくなかったほどつまらないもので「俊寛」だけでは薄いのでいやいやながら添えたのですから期待されると困ります。ではお眼にかかっていろいろ話しましょう。ちょっと急いで返事だけ書きました。
(久保正夫氏宛 六月十一日。明石より)
   ゲーテの「親和力」

 その後心にもなく御無沙汰してしまいました。あなたから心をこめた手紙をたびたびいただいてそのたびごとに、私からも手紙を書きたい衝動を強く感じながら、私の心がある事件のために打ち砕かれて、深く苦しんでいたので、しみじみとお手紙を書くだけのゆとりを得るまでに力なく乱れてしまったので、今日まで手紙を差し上げることができなくて本当にすまなく思っています。
 ことに上州の山の中の小屋で私を思い出して下さって、あの深い孤独と、澄んだ叡智えいちとに輝いた便りを下さった時、また湖のほとりの旅館からの静かな心をこめた手紙、また母上を東京に送って行かれて帰られた時の手紙など、感動と非常に親しいいきいきしたシンパシーとをもって拝見したのでした。あなたがそのようにも孝心深く、老いたる母上をなぐさめいたわりなされたことは、かつて別府にいた頃、あなたの手紙でよく知っている母上のことを思い出したりして、美しくそして称讚にみちた心で二人で旅しておられる様子などを心に描いたのでした。
 私はあなたの温かい人間的な愛情をあなたの母上に対せらるる行為において最もウィルクリッヒに感じます。(他の場合では私はあなたについてどちらかといえば超人的な意思と叡智とを感じるほうが多いのですが)私がこんなに御無沙汰したのは全く私が悩んでいたからでした。なにとぞお許し下さい。しかし今は努力ののち心の平静を取返し、進むべき途がはっきりと見えてきましたから安心して下さい。
 私は急に東京のほうに引き越す決心をしました。そして二十七日の午後七時、神戸を発する汽車で上京の途につきます。大森に艶子とともに住むことになりました。お別れするまでに一度お眼にかかりたいのですが、私もお絹さんも病気で寝ており、転宅の準備に忙しく取込んでいますし、あなたも学校の講義で忙しいことと思いますから、もしあなたにできるならば、京都駅で停車の間にちょっとでもお眼にかかってお別れしたく思います。お絹さんと地三とはしばらく明石に残り当分私だけで艶子はあとから上京することになっています。
 私はこの二十日ばかり腸をいためて弱っていましたが、この頃ようやく恢復してきました。あなたとしみじみした別れをすることができなかったのを残念に思います。しかし、東京へはあなたはわりあいにたびたび出られることと思いますから、お眼にかかれる機会は少なくはなかろうと思います。私は先日「親和力」を読みました。そして実に感心しました。ゲーテの海のようにひろい、そして悠々としたおちつき、そしてそのなかに含まれた限りなく、複雑な要素、本当に磨かれた教養に感心してしまいました。礼儀とか作法とかいうものもゲーテにおいて最も適当な正しい意味で理解することができました。人と人との関係における、種々の心づかい、謙遜、節制などの用意にも感心しました。いたるところにゲーテの優れた、かつ耕された知恵が出ていると思います。私はこの小説において本当にゲーテに愛と尊敬を感ずることができたことを感謝します。そして種々の大切な物の見方考え方を教えられました。
 この頃は私も物事に対して一面的な考え方ではなく種々の方面から眺め、かなりひろい見方をすることができるようになってきましたが、この小説を読んでますますその方面に私の教養が必要であることを感じました。ゲーテにおいてキリスト教的要素と、ギリシア的要素とが非常に美しく調和されているのを感じました。そしてそのことは人間としても、芸術家としても私の常に志している課題でありました。近頃こんなに感心した小説はありませんでした。そして私はあなたの訳文が、ゲーテのこの作のムードをうつすのに最もふさわしく成功していることを感心せずにいられません。私にはあなたの訳が最も理解しやすく、そして正確に感じられました。この訳をぎこちないと評する人があるのを不思議に感じました。あるいは私があなたの文章のスタイルを習熟しているからかもしれませんが、私は、この訳はあなたの頭のクリヤーなこと、そしてムードの品よく礼儀に適い、またクラシカルでいくらかロマンチックであることをよく表わしていると思います。私はこの訳はりっぱに成功しているものであることを信じます。そしてあなたにゲーテをもっとたくさん訳して下さることをお勧めし、かつお願いしたく思います。あなたは小説を書かれてはどうかと思わずにはいられませんでした。
「イタリア紀行」はまだ出ないのですか。前の小説を発表してはいかがですか。有島さんが見るはずだったという小説を新潮社からでも出してはいかがですか。私は私の論文を集めて七月頃出そうと思っています。私もあなたに気に入るような作をお眼にかけることができる時がわりに近く来そうに思えてきました。私が広く豊かに、そして悠々としてくるに従って、あなたを理解してゆくことができてゆくのをうれしく思っています。そしてあなたの友情に厚いのを感謝しています。
 私はもっと清まり豊かになり、すべてのものをけ入れることができ、あらゆるものをその正しき根拠と、そして限界において、承認することができるようになれることを祈っています。とにかく、二十七日の夜には京都駅のプラットホームであなたの姿を窓から求めてみましょう。そしてあなたをそこに見いだして親しい挨拶を交わすことが、十分間でもできるならばたいへんうれしく思います。
(久保正夫氏宛 十月)

底本:「青春の息の痕」角川文庫、角川書店
   1951(昭和26)年4月30日初版発行
   1965(昭和40)年10月30日31版発行
   1972(昭和47)年5月30日改版5版発行
底本の親本:「青春の息の痕」大東出版社
   1938(昭和13)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では編集に当たった藤原定氏が、手紙の日付を推定して括弧付きで復元している部分がありますが、本ファイルではその著作権を考慮して削除しました。また、同氏によって付されている注についても、同じ理由から削除しています。
入力:藤原隆行
校正:土屋隆
2008年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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