私は京都に生まれ、京都で二十年育ったために、京、大阪に詳しい。その後、東京に暮して東京も知るところが多い。従って批判する場合、依怙贔屓えこひいきがないといえよう。うなぎの焼き方についても、東京だ大阪だと片意地かたいじはいわないが、まず批判してみよう。
 夏の季節は、どこも同じように、一般にうなぎに舌をならす。従ってうなぎ談義が随所ずいしょに花を咲かせる。うなぎ屋もこの時とばかり「土用のうしの日にうなぎを食べれば健康になる」とか「夏やせが防げる」とかいって、宣伝にいとまがない。
 一般的に、食欲の著しく減退しているこの時期に、うなぎがもてはやされるというのは、うなぎが特別扱いにあたいする美味食品であることに由来しているようだ。だが、ひと口にうなぎといっても、多くの種類があり、良否があるので、頭っからうなぎを「特別に美味うまいもの」と、決めてかかるのはどうだろうか。
 ここで私のいわんとする美味いうなぎとは、いわゆる良質うなぎを指すのである。「美味い」ということは、良質のものにのみいえることであって、食べてみて不味まずいうなぎをよいうなぎとはいわないだろう。その上、不味いものは栄養価も少ないし、食べても跳び上がるような心のよろこびを得ることができない。また、同じ種類のものでも、大きさや鮮度のいかんによって、美味さが異なるから、うなぎという名前だけでは、美味いとか栄養価があるとかいう標準にはなるまい。
 うなぎはにおいをいだだけでもめしが食えると下人げにんはいうくらいだから、なるほど、特に美味いものにはちがいない。人々の間では、「どこそこのうなぎがよい」というようなお国びいきもあるし、土地土地の自慢話も聞かされるが、東京の魚河岸うおがし京阪けいはんの魚市場に代表的なものがある。素人しろうとではうなぎの良否の判別は困難だが、うなぎ屋は商売柄よく知っているので、適当な相場がつけてある。従ってよいうなぎ、美味いうなぎは、大方おおかたとびきり値段が高い。美味さの点をひと口にいえば、もちろん、養殖うなぎより天然うなぎの方が美味である。そのいわれは、季節、産地、河川によって生ずる。
「何月頃はどこそこの川のがよい」「何月頃はどこそこの海だ」というように、季節や場所によって、その美味うまさが説明される。このことはうなぎの住んでいる海底なり、えさなりがかわるからなのであって、うなぎは絶えずカンをはたらかし、餌を追って移動しているようだ。
 彼らの本能的な嗅覚きゅうかくは、常に好餌こうじのある場所をぎ当てる。好餌を発見すると、得たりとばかりごっそり移動し、食欲を満足させる。彼らが最も好む餌を充分に食っている時が、我々がうなぎを食って一番美味いと感ずる時で、この点はうなぎにかぎらず、あらゆるものについても同様に解明できよう。
 例えば、つばめだってそうだ。世間では相当のインテリでさえ、つばめの移動を「寒さからのがれるために暖地へおもむく」と子どもたちに教えているようだが、それは少々誤りである。事実は、彼らの露命ろめいをつなぐ食糧、すなわち、昆虫がいなくなるからであって、つばめにしてみれば、食を得るための移動なのである。南へ行かねば彼らのくらしがたたない。自己保存のために餌を求めて移動することは、つばめのみならず、動物の本能といってよいだろう。うなぎの移動も自然の理法である。
 ところで、あのひょろ長い、無心(?)の魚どもが、住みなれた河川の餌を食いつくしてしまうと、次へ引越しを開始する。海底の餌がある間はそこに留まっているが、食べつくしてしまうと、ふたたび他へ移行する。六郷ろくごう川がよいとか、横浜本牧ほんもくがよいとかいうのは、以上の理由によるもので、どこそこのうなぎというものも、移動先の好餌のあるところを指すわけだ。
 養殖うなぎのように餌をやって育てたものでも、土地や池によって非常な差異が生じている。つくられたものでさえ差異が生じるというのは、一に水のせいもあるし、海から入り込む潮の関係も考えられる。が、なんといっても問題なのは飼料である。飼料によって、うなぎの質に良否の差異が生じて来る。養殖うなぎでも適餌てきじをやれば美味いうなぎになるだろう。だが、うなぎ養殖者は、とかく経済面のみ考えて、できるだけ安価な餌で太らせようとばかり考え、いきおい質が天然うなぎから遠ざかりすぎるのである。経済ということも一理ではあるが、かといって、いくら金をかけたところで、所詮しょせん、人間はうなぎの大好物がなんであるかを知ることは困難のようである。
 餌のことをもっとはっきりさせるために、すっぽんを例にとろう。すっぽんの好物は、あさりやその他の小さな、やわらかな貝類である。一枚歯のすっぽんの大腸をみると分るが、彼らは貝を好んで食うために腸内部が貝類で埋っている。だが、すっぽん養殖者は、彼らにその嗜好物しこうぶつを供給してやるのには費用が高くつくので、代わりににしんを食わせる頃がある。すると、いつの間にかすっぽんにもにしんのにおい、味がして、貝だけをえさにしていた時のような美味うま[#ルビの「うま」は底本では「うさ」]さが失われて来る。このように餌ひとつで極端にまですっぽんの質に影響があることは見逃せない。
 同じように養殖うなぎでもよい餌を食べている時は美味いし、天然のうなぎでも彼らの好む餌にありつけなかった時は、必ずしも美味くはないといえる。要は餌次第である。天然にこしたことはないが、養殖の場合でも、それに近いものが望まれる。
 ところで、現在市販のものでは、天然うなぎはごくわずかしか使用されておらず、ほとんど養殖うなぎばかりといってよい。天然うなぎがいないからではなく、それをるのに人件費がかかるからで、問題は商魂しょうこんにある。養殖うなぎの値が天然のそれに比して高ければ、一般の人々は手を出さないであろうし、従って、おのずと天然うなぎが繁昌はんじょうする結果となる。養殖の場合は先述したように、うなぎが太っていればよいのであるし、形ができていれば商売になる。味覚をなおざりにしているわけではなかろうが、どうしても二義的に考えられがちだ。現今げんこんでは、うなぎといえば養殖うなぎが通り相場になっているほどである。東京では五、六軒だけ天然うなぎを使用しているが、京、大阪は皆無かいむ。中には両方を混ぜて食わせる店もある。
 一方、天然うなぎは餌が天然という特質があるために、がいして美味いと考えてよい。もちろん良否はあるが。養殖うなぎにもとりわけ美味いものがあるが、よほどよいうなぎ屋に行かなければぶつからない。
 最後に、うなぎはいつ頃がほんとうに美味いかというと、およそ暑さとは対照的な一月寒中の頃のようである。だが、妙なもので寒中はよいうなぎ、美味いうなぎがあっても、盛夏せいかのころのようにうなぎを食いたいという要求が起こらない。美味いと分っていても人間の生理が要求しない。しかし、盛夏のうだるような暑さの中では、冬ほどうなぎは美味ではないけれど、食いたいとの欲求がふつふつとき起こって来る。これは多分、暑さに圧迫された肉体が渇したごとく要求するせいであって、夏一般にうなぎが寵愛ちょうあいされるゆえんも、ここにあるのであろう。もちろん、一面には土用のうしの日にうなぎと、永い間の習慣のせいもあろう。
 牛肉の場合は、冬でも肉体の要求を感ずるが、うなぎ、小形のまぐろなどは夏の生理が要求を呼ぶもののようだ。皮鯨ひげい鯨肉げいにくの皮に接した脂肪の部分)は夏季非常に美味うまいけれども、冬は一向に食う気がしない。要するにこれらは、人間の生理と深い関係があるといえよう。
 私の体験からいえば、うなぎを食うなら、毎日食ってはきるので、三日に一ぺんぐらい食うのがよいだろう。美味の点からいって、養殖法がもっと進歩して、よいうなぎ、美味いうなぎで心楽しませて欲しいものである。
 参考までに、うなぎ屋としての一流の店を挙げると、小満津こまつ竹葉亭ちくようてい大黒屋だいこくやなどがある。現代的なものに風流風雅を取り入れた、感じのよい店といえよう。中でも先代竹葉の主人は名画が非常に好きで、とりわけりん派の蒐集しゅうしゅうがあって、今日特にやかましくいわれている宗達そうたつ光琳こうりんのものなど数十点集めておったほどの趣味家で、この点だけでも大したものであった。今なお竹葉の店に風格があるのは、そのためである。
 美を知るものは、たとえ商売が何屋であっても、どこかそれだけちがうものがある。
 次にうなぎの焼き方であるが、地方の直焼じかやき、東京の蒸し焼き、これは一も二もなく東京の蒸し焼きがよい。

底本:「魯山人の食卓」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2004(平成16)年10月18日第1刷発行
   2008(平成20)年4月18日第5刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月4日作成
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