ある日……なんでもわたしの話はある日である。何月、何日といわねば気に入らぬひとがあったら、なんでもある日で片付けるわたしの話は気に入らぬかもしれぬが、わたしはつまらんことは一切覚えないことにしている。だからある日である。
 ある日のこと、わたしは一人の歌人と話をした。名はいわぬ、というより忘れた。名まで覚えてありがたがるほどの歌人は稀にしかいないものだ。稀にだっていればこんなありがたいことはないが、まあ日本に一人いるか二人いるかくらいなものだろう。
 さて歌人だが女のひとである。長身で化粧をしない顔は、いくぶんやせてはいるが、わたしからなにかを聞き出そうとして一生懸命になっているらしい。
「先生、先生はまず材料だとおっしゃいますが、そのお話はよくわかりました。ではその材料の取り合わせでございますが、そのことについてお伺いしとうございます」
 わたしは、このひとは歌人だから、歌の話に寄せて説明すればいいだろうと考えた。
 そこで、
「あなたは歌を作られるそうだが、どうですか、まあ歌のことから考えてみてください。うぐいすの歌を作ろうと思われたら、いや作りたい時に、うぐいすにはなにを配しますか」
 歌人はつつましく、ハンカチをひねくりまわしつつ、ちらりとわたしを見ていう。
「うぐいすの歌でございますか」
「さよう、あのホーホケとくうぐいすのことですよ」
 歌人はつつましく笑う。
 なにがおかしいのかわたしにはわからぬが歌人は笑う。大ていの女のひとというものは、おかしくなくとも、なにかいわねばならぬ時には笑うものだと思っているから、別にわたしが笑われたと思っていないが、この歌人も女の例にもれずホホと笑った。まさかうぐいすの真似ではあるまい。
「あの、うぐいすの歌を作ると申しましても、それはいろいろございますわ、ホホ」
 ここでまた歌人は笑う。女のひとはいくつですかと聞かれると、大ていホホホと笑う。いいお天気ですね、といってもホホホと笑う。そんなに楽しいかというとそうではない。楽しくなくとも笑うものらしい。
 わたしはそこで、
「料理だって、まぐろの刺身と、なんとを取り合わせるといっても、やはりいろいろあるとお返事するより仕方がないでしょう」
「ホホホ」
 ここでもまた歌人は笑う。ホホホといったのだからケキョと啼くかと思えるばかりのあでやかな声である。
 あまり長居されても困るので、こっちから話し出さねばならぬ。
「うぐいすに配するなら、さしずめ梅というところでしょうね」
 女流歌人は、意外という顔つきで、こんどは笑わない。
「先生」
「うん……」
「梅にうぐいすでございますか」
「さよう」
「あの、梅にうぐいすなどは、歌の方で申せば、あまり使い古されておりますんでございますが……いかがなものでございましょう?」
「使い古されているのは、歌のほうの話でしょう。梅は年々新しいつぼみを持つ、うぐいすは年ごとに新しく生まれますよ、奥さん」
 彼女はいおうかいうまいかと、しばしハンカチをひねっていたが、思い切っていった。
「先生、梅にうぐいすでは、あの、あまり陳腐ではございませんでしょうか」
 わたしはあきれて尋ねた。
「それでは伺いましょう。あなたはなんのために歌を作られるのでしょう。いや、なんのためといって悪ければ、なにを表現しようとなさいますか」
「それは先生、真実を表現することでございますわ」
「真実を表現するためには、真実を見出みいだすことが必要ではないでしょうか」
「もちろんでございますとも」
「それならうぐいすはどんな木に止まりますかね」
「それは、だからいろいろでございますわ」
「うーむ。これはおもしろい。あなたのうぐいすは浮気ものですね。わたしの庭に来るうぐいすは、やはり、梅の木に止まります。毎年春になると、母親のうぐいすが、子供をつれて梅の木にまいりますよ。そして母うぐいすが、子うぐいすに、うたを教えるのです」
 歌人は驚いたようにわたしを見つめている。
 わたしはかまわず続ける。
「梅にうぐいすということは、言葉の語呂のよさでもなく、絵描きの都合上そうなったのでもない。やはり、うぐいす自身の自由な意志で、梅の木に止まるのですよ。それを見た絵描きが、いつもうぐいすが梅に止まるので梅にうぐいすを描いた。他の絵描きも描いた。年々このようにして梅にうぐいすが描き継がれてきた。歌人もこの事実を歌った。そして、幾春秋、梅にうぐいすは一つの真実の美から、概念の美になってしまった。あなたは新しいものを歌おうとされる。だが昭和のモダーンうぐいすもやはり梅の木に止まる。あなたが概念に囚われて机上で歌を作ろうとするから陳腐なのであって、あなた自身の目でこれを見て、感じて、歌われれば、決してそれは古くはないはずです。どうです?
 梅は何百年も前からある。うぐいすもそうだ。料理の材料だって人間の食べるものは、だいたい決まっている。古くから、人間が食べなれている料理だから、この料理の取り合わせは陳腐だといい切ってしまっていいかどうか。一つ、誰も試みていない新しいものを取り合わせてやれ。握り寿司にすましは古いから、一つ、すましのかわりにとんかつを添えてやれ、ということになったら無茶苦茶。うぐいすは梅を好む。好むところに調和がある。すきやきの後では茶漬けが食いたい。洋食の前にスープを飲めば食欲が出てご馳走がおいしい。すべて、好むところに調和がある。自分で食べてみればよくわかる。虎の掛け物に、置き物は竜を置いたり、うなぎの蒲焼きと一緒にはもの照り焼きを出してみたり……すべて調和か統一かが大切だ。そして、季節のいちばん感じられるものがいいとわたしは思う。色の配合も、調和か統一だと思う。そうかといって、今までのやり古された真似ばかりでは困る。真実を少しも見ず、聞かれて返事のできないようなことはやらぬ方がよいと思う」
 歌人はひねり回していたハンカチでそっと鼻の頭を押え、それからはなにもいわないで考えていた。料理のことを考えているのか歌のことを考えているのか、それは知らない。
 みなさんも自分の今やっている仕事の真実から、料理のことへ心を通わせて考えてみればわかっていただけることと思う。

底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「独歩」
   1953(昭和28)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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