この夏配達された、さる新聞の家庭用付録に「オカネの値打ち」という記事にあわせて、明治から昭和にいたる五十銭銀貨の実物大の図譜が載っていた。いまの十円青銅貨を、昭和八年の五十銭銀貨のうえにのせてみると、ぴたりと合うばかりでなくギザの数まで百三十二、そっくり同じである。物価指数(昭和九―十一年消費者物価指数)ではかると、「満州国皇帝」が「友邦」日本に挨拶にくるころの五十銭で買えた品物を買うのに、今日の百三十二円いるから、これまたギザ数である。
 その昭和の五十銭玉が出たとき、なんというケチな国になったかと、明治者は嘆いたものだ。明治末期の少年であるわたしどもが費った五十銭玉はずっと大きくてどっしりしていたが、図譜でしらべてみると日露戦争以前のものは、もひとつ大きくて直径三・一五センチ、目方は一二・五グラムある。昭和の五十銭にくらべると、目方で二倍半あまり、直径で一・三四倍。この堂々たる五十銭銀貨が、明治三年からつくられていたのである。
 五十銭図譜を眺めていると、手にしたことのない人も、なにかしら日本の国力は、明治をさかのぼるにしたがってゆたかだったような錯覚におそわれるかもしれない。
 それにしても、きょうび昭和のせ細った五十銭玉を、何枚か残している家庭がどれくらいあるか?――日露戦争前のあの大五十銭玉を、水瓶に三ばいためている山奥の大地主の噂を、子供のとき聞いたおぼえが私にはある。
 明治三、四年といえば、五十銭で米一斗買えた、ほやほやの明治政府は、内外山積の難問題で、のるかそるかというときである。財政計画はあってなきがごとく、やりくり算段も底をついたころで、そのときこの堂々たる五十銭新銀貨をつくったわけを、考えてみよう。
 この大五十銭玉は、二枚で一円、それだけの重さの一円銀貨も、べつにつくられていたのだが、この一円新銀貨は、開港いらい貿易に用いられてきた「米ドル」や「墨銀」の一ドル銀貨と同品位同価値のものにつくられている。
 この一円銀貨は貿易銀と称して、明治十一年まで開港場以外の内地通用を禁じられていたものだが、明治四年六月十六日から新円と旧銀貨(一分銀)の交換を開始するにあたって、一分銀三百十一個をもって新貨幣百円と交換改鋳する旨を発表している。
 旧幕以来の一分銀は四個をもって金一両、四百個が金百両と交換されてきたのであるが、そもそもこの一分銀三百十一個をもって米銀百ドルと交換することにきめたのは、おきちで名高いハリスの狡猾こうかつと、幕府役人のまぬけさに基づく、日本にとっての大失敗であった。
 というのもその時――一八五八(安政五)年正月江戸で調印された日米通商条約第五条で「外国の貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」ときめたのだが、同種類の同量をもっては、金貨は金貨、銀貨は銀貨と、同じ重さで交換するということで、品位は互いに論じないということでもある。その証拠に、はかりの一方に一分銀を一方にドル銀をのせて、三百十一個対百枚という比率が双方で確認され、この条約を継承した明治政府も、これに従うほかはないことになる。
 なぜそれが日本にとっての大損になったか? ちょっと見にはたいへん「紳士的」なハリスの出方であるように見える。日本よりも「文明開化」しているアメリカ合衆国の貨幣は本位貨幣たる金貨、補助貨幣たる銀貨、量目も品位もちゃんと整って、間然するところがない。当年の日本にも、保字金ほうじきんや古二朱金のような、世界のどこに出してもひけをとらぬ良品位の金貨はあるが、安政二分判のように、保字金の半値に及ばぬ悪い金貨がある。銀貨にいたっては、天保一分銀、嘉永一朱銀と、しだいに品位が落ちて、統一がない。それをだまってアメリカの金銀貨と、同じ量目で換えるというのはナント紳士的な謙譲ではないか。
 たしかに領事ハリスは、ニューヨーク州生れの熱心なクリスチャンであったが、ついこのほどまでながいこと東洋貿易に従事してきたぬけめのない商人でもあった。立派な品位のアメリカ銀貨を、もっとも悪い品位の日本銀貨――安政一分銀――と量目で交換して百ドルにつき三百十一個となる。三百十一個の一分銀を、当時の貨幣制度に従うと一分銀四個で小判一枚となるのだから、金貨に換えると金331/4=77.777両を得る。かりにこの金貨が、最も品位の悪い安政二分判だったとしても、七十七両三分で百五十五個半の安政二分判を、れいの「同種類同量」の原則でアメリカ金貨と交換すれば、百五十ドル余りになるということは、ハリスはチャンと見越していたはずである。ぬれ手で粟の百ドルにつき五割のもうけはたいした腕だ。
 同じ手品で古二朱金と換えれば、米銀貨百ドルが米金貨二百三十ドル二六余となってもどり、保字金ならばじつに三百四十四ドル二五となってもどる。鎖国日本の金銀比価が世界の金銀比価とこんな開きをもっていたことが、目のつけどころとなったのである。
 貿易の開始とともに、日本の金貨は洪水のように海外に流れ去ってしまう。当年の外字新聞の計算によれば、開港第一年度の日本輸出総額は英貨に換算して百万ポンド、そのうち現実の商品――茶と生花――は二十万ポンド、のこり八十万ポンドの大部分は貴金属すなわち黄金だったという。八十万ポンドは小判にして約百万両にあたっている。
 当時国内市場に流通していた金貨は、保字金約三百六十三万両、古二朱金八百十二万両、安政二分判二百三十七万両、正字金九万両、合計一、四二一万両と推定されているから、連日の金貨輸出がどんなに日本をみすぼらしい金欠国にしたか、しかもそれが物一つ買わぬタダ金の輸出であったことを思えば何人も民族の憤りを新たにするに違いない。
 さて明治四年六月といえば、貿易開始後あしかけ十四年めにあたっている。桜田門さくらだもん事変から戊辰ぼしん戦争にいたる大小幾多の政争や内乱をそのあいだにさしはさんで、混乱しきっている日本幣制を、金銀両本位の円制度に切替るというはなれわざが、どうしてあの貧乏政府にできたかという問題である。
 イギリス公使パークスが京都政権の支持者としてあらわに立現われたのは、明治元年九月二十一日(会津あいづ落城の一日まえにあたる)、横須賀よこすか造船所を差押えたフランスの債権を解除するための五十万円を横浜のイギリス系オリエンタル・バンクから新政権に融通したのがはじまりである。――それまでの裏面工作のことはさておくとして。
 二度めは明治二年十一月十二日付で「英国最高バス勲位」ホレーシォ・ネルソン・レーと天皇の名において契約した鉄道公債またはロンドン公債とよばれている英貨一〇〇万ポンド公債で正式の名称は「日本帝国政府英貨百万ポンド関税公債」というのである。
 このネルソン・レーはそれまで中国の総税務司をつとめて、パークスとは中国いらいの相棒であった。この公債の日本政府委員は民部大蔵大輔大隈重信おおくましげのぶと少輔伊藤博文いとうひろぶみであるが、さなきだに財源にくるしんでいた他省方面の閣僚から、不急事業というので猛烈な反対をうけたのをあえて押切って調印したのは鉄道とは表看板で、そのじつこの百万ポンドの大半をあてがって幣制改革を行うのが、主目的であった。
 幣制改革といえば名はいいが、そのじつこの年正月いらい、パークスを先頭にたてた外国公使団から、矢のさいそくをうけてきた贋貨問題のしめくくりである。
 贋貨問題というのは戊辰戦争で、官賊両軍ともに軍費の捻出にくるしんでさかんに贋貨を鋳造した。会津藩と薩藩がその双璧で二朱金が最も多くつくられたが、太政官札だじょうかんさつの不融通にくるしんだ明治政府が東京大阪の金銀座で濫造させた一分銀貨も、贋貨というにちかい品質のものだった。
 その結果ほんとうに苦しんだ者は人民であった。会津贋金がもたらした悪性インフレは、領内はいうまでもないが、ひろく信越関東にまたがる「世なおし一揆」を元年、二年にわたって激発させている。贋貨を正貨に引換えることを人民が要求するのは、旧藩の権利義務のいっさいが名目(版籍奉還)だけでも新政府に引きつがれたいまとなっては、なおさら正当であるだろう。
 だが、外国公使がそれを要求するのは、正当であったか? 明治政府が濫造した一分銀が贋貨にちかいものだったにせよ、れいの「同種同量」の条約文が生きているかぎり一分銀三百十一個をもって米ドルなりメキシコドルなり香港ドルなり、精粗さまざまの外国銀貨一ドルと引換えられる権利(※(感嘆符疑問符、1-8-78))があろう。すくなくとも、文句をつけられる条約上の理由はないのである。
 小判買いで儲かったあいだはだまってこの条約をおしつけておいて、もう小判が日本中にはなくなってしまった――あるにしても三井やこういけや大大名の金蔵の奥ふかく死蔵されてしまった今日となって、銀貨の品質に文句をつけて「贋貨」というのは居直り強盗というものである。
 その先頭に英国公使パークスが立っていた。
 他方アメリカ公使デ・ロングは、戊辰内乱の火事場につけこんで、慶応三年十二月二十三日付で、徳川幕府から江戸横浜間の鉄道利権を、米国市民ボルトメン(じつは米国領事館員)の名で獲得していた。相当の金は出したのであろうが、昭和終戦後の軍部書類とひとしく、明徴はどこにも残されていない。この許可状をたねにして、米公使から明治政府に、その確認をきびしく要求してくる。これにたいして明治政府は日本国民に鉄道を経営させる方針であるといってつっぱねさせた陰の演出者は、これまたハリー・パークスであった。
 鉄道利権をめぐる米英公使のさやあてはしだいに激しくなってゆくのであるが、いまは筆をはぶく。
 パークスの強引戦法が当面の勝ちを制して英貨百万ポンドの借金をお世話いたしましょう、鉄道は国営ということにしてアメリカをことわり、さしあたり東京横浜間の建設に百万ポンドの半金をあて、残り半金を贋貨引換にあてることで二大問題をいっきょ解決するがよろしい――という、おそるべき示唆を鵜呑うのみにしたのが明治二年十一月五日、岩倉右大臣邸で持たれた日英秘密会談のありようであった。同月十二日付のネルソン・レーとの契約書が「海関税公債」とうたっているのは、この百万ポンドの抵当に現在および将来の日本海関税の全部をあてていたからで、そのほかになお、この公債で建設される全鉄道の利益までが抵当にひきあてられていたのである。利子は年一割二分。
 このような内容をもつ、正当な手続(!)のうえで、翌明治三年三月下旬のロンドンタイムスに、ネルソン・レーの名をもって発表された日本公債が、利子年九分であったこと――つまり、公債を買ったヨーロッパ諸平民にはレー閣下は九分の利子を支払い、日本政府からは一割二分をうけとって三分の利さやを稼ぐこんたんであったという事実が大隈・伊藤にわかったとき、御両人にとって最悪の日が到来する。彼らのこの最悪の日こそは、その日まで袖にされつづけてきたアメリカ公使デ・ロングにとって最良の日とはなる。東京外交界のリーダーシップは、パークスの手を去ってデ・ロングにうつる。「幣制改革」の範を合衆国にとるために、伊藤少輔は七カ月間アメリカにわたる。その七カ月のあいだに新橋横浜間の「国鉄」第一線が起工される。レーの世話で届いたイギリス製の機関車六台とレール等々は、中古品を含んでいたのはもちろんであるが、「文明開化」の欧米諸本国とゲージを同じくする広軌ではなくて植民地の、「軽便鉄道」である狭軌から成っていたことは、すべてこれ、居留地外国商館のための「贋貨」引換に、公債の大半を割かねばならぬやりくりさんだんが、させたわざと見てよい。
 わたしはそのように見る者であるが、論証の筆はこの小文では割かねばならぬ。この小文の目的は、ロンドン公債百万ポンド、邦貨換算四百七十八万余円のうち、横浜東京鉄道諸機械に支払われたものが百四十六万余円、これにたいして百九十八万余円というものが「銀塊百九万二千六百八十七オンス五分の一、一分銀七十八万二千六百十五個六分七厘」の購入費にあてられているのであるが、この一分銀こそは居留地外人から明治政府が買上げた「贋金」であったということを、この銀塊こそはそれの代りにひきわたす明治新銀貨――合衆国の一ドル銀貨にはおよばぬとしても、当時のアジア貿易にもっぱら通用したメキシコ銀とリンクする品質と重量を、直径三・一五センチ、目方一二・五グラム、ギザ百三十二という外形におさめるための手品のたねであったということ、それを証したいというにある。
 ついでにいえば、この十進法のアメリカ明治幣制で、「銭」sen が出現するのも、名前のうえまで cent にリンクした向米一辺倒のけっかであろうかもしれぬ。
 そのために、明治四年六月三十日付、大蔵少輔伊藤博文から大隈(重信)参議、井上(かおる)大蔵少輔、渋沢(栄一)大民権大丞あての書簡から、次の部分を引用しましょう(以下候文を現代文に翻訳した)。
「一昨二十八日兵庫ひょうご着港、昨日十一番会社(オリエンタル・バンクのこと)ロッセル、ゴロンビー両人に面会したところ、造幣寮開設後追々おいおい外国人から地金を差出し、新旧政府から発行の一分銀三百十一個を以て新金百円に引換くれるよう願出ているが、造幣寮規制に照せば、じかに引換るという主意ではなく、三百十一個を百円に均しいものと見做みなし、これをうけとり、鋳造するため規則通り二分の鋳造料を受取ることは当然のことであるので、そのように指図しておいたから、議論区々にならないよう、御承知おきいただきたく、この儀についてはややもすれば各国公使からも異議申出るやも計りがたく、畢竟ひっきょうこれらの儀は未だ詳細の談判は遂げてなきことゆえ、御心得のため申あげておきます。」
 旧幕時代には、交換に際して鋳造手数料をとるというあたりまえの権利すら、うちすておいたのを、こんどは一方的に主張したから、そのつもりでいてくれというのである。
「政府で鋳造の一分銀一個ごとにその量目百三十四ゲレイントロイで、すなわちメキシコ銀百ドルに適応すべき三百十一個の量目は四万千六百七十四ゲレインである。この量目を保有しておれば、造幣寮で受取るけれども、もし三百十一個で右の量目に不足すれば、増加させるか、或は当人これを肯じなければ差返すべきである。」
 メキシコ銀や香港ドルは、中国でさんざん使用されたあとのものとして磨損毀傷して目方の減ったものが多かったのであるが、この交換のばあいには、受取るのは外人所有の日本の一分銀で、渡す銀貨は新鋳の一円銀貨だから、目方を厳重にするというのは一分銀のほうである。その一分銀というのが、ハリス時代の最悪銀貨だった安政一分銀すら、もう明治四年ごろは市場から姿を没して、もっと悪い「ドロ銀」――これは、安政一分銀などと引換えに幕府が外人からうけとったメキシコドルや香港ドルのドル銀を、手数料なしで改鋳してつくった一分銀のことで「ドル」と「泥」をかよわせた粗悪銀貨の代名詞――だの、それよりもっともっと悪い戊辰戦争いらいの各藩密造の贋一分銀や、それにたいしてあまりいばれない明治政府鋳造の一分銀やが、横行していたのだから、どだい量目などはめちゃくちゃであった。質はともかく、せめて量目だけでも頑張ろうぜというしだい。ところがそれにつづいて――
「右のとおり取りきめれば、量目においての損減は持主(外人)の損失であって、品位の高下は政府の得失にかかるであろう。量目は通用中に必ず些少の磨消をするものと認められるから、その(外人の)訴訟(文句)を拒むことができるであろうけれども品位にいたってはかつて政府の不正から生ずることであって、いい遁れることのできないものである。」
 オリエンタル・バンクを通じて政府に提出される外人所有の「ドロ銀」以下の「贋造」一分銀の山にたいして、ギザも真新しい一円銀貨または一円金貨を、安政条約できめた百三十一個[#「百三十一個」はママ]対百枚の交換比率で、惜みなく与えたという証拠だけは、以上でもう十分だろうと思われる。しかし念のため手紙のそのつぎの一文は――
「横浜出帆前十一番会社(オリエンタル・バンク)と取極ておいた一分銀代価はロンドンで払渡し、(鉄道公債ではロンドンで入手した金で現地でオリエンタル・バンク本社に支払い)残高と造幣勘定向の払方を差引いた新金貨十八万八千六百二十三円五十三セント[#「新金貨十八万八千六百二十三円五十三セントを」はママ]を大阪で十一番会社へ渡すことを約束しておきましたが、右の内七万八千円は神戸で渡してくれ、残金は新貨を以て横浜で受取たいと願出ましたにつき、聞届ました。残金だけの船賃と請負金(保険料)を横浜までの積りでくれてやるまでのことです。」
 新造幣寮は大阪の住友すみとも屋敷に新設されていたのだから、大阪で渡す約束の金額の一部を横浜まで送るための輸送費と保険料は政府の損になることをあきらめましょうというわけである。なかなか心づかいのこまかな伊藤少輔であった証拠は、明治五年十一月三日付、そのときは工部大輔たいふ遣外副使として在米中の彼から愛妻お梅に送った手紙に、
「まゆげをたてたるも、かねをおとしたるも、至極しごくよきことなり。しかし、こころで、おさき(長州の方言生意気の意)にならぬよふ、御つつしみありたきものにて候。このたびの手紙(妻からうけとったばかりの)は、よほど字もよくかけて、よみやすく、さだめし御手習の勢にこれ有る可くとぞんじ候。しかしながら、かなのつかひかた、まだじうぶんにおもひ申さず、よくよくおんおぼへなさるべく候。いつもおなじことながら、むえきの金をつかはぬよう御用心」
 伊藤が責任者であった大阪造幣寮の諸機械は、パークスの世話で上海の中古品を買いこんだもので、技師キンドルも英人であったが、蒸気力は不足する、炉壺はしだいにこわれるというありさまで、予定のキャパシティーは容易に発揮しなかった。それでも明治八年までに、金貨五千三十三万八千余円、一円銀貨四百八十六万三千余円、五十銭・二十銭・十銭銀貨一千一百二万一千余円を鋳造している。
 明治三年昭和四年の刻印をもつ大五十銭銀貨は、ざっとこのような運命の象徴としてうまれでたものである。表のデザインは神鏡に菊桐をあしらい、裏には竜模様がある。外国の貨幣は総じて君主または元首の顔が鋳出されている。そのまねもしたいが竜顔はおそれ多いとあって、竜紋にしたと伝えられている。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「社会労働研究 創刊号」
   1954(昭和29)年1月
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年9月13日作成
2011年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。