けれどもこのとき著者福沢諭吉は、一年十万の洪水的読者層からは、完全に無縁な一介の文筆家であった。「無縁な」というのは政治的に無縁なる意味である。『西洋事情』(全集第一巻)初篇三巻は「独り洋外の文学技芸を講究するのみにてその各国の政治・風俗如何を詳かにせざれば、仮令ひ、その学芸を得たりとも、その経国の本に反らざるをもつて、啻に実用に益なきのみならず、却つて害を招かんも、亦計るべからず」という立場から、「英亜開版の歴史地理誌数書を閲し中に就いて西洋列国の条を抄約し、毎条必ずその要を掲げて、史記、政治、海陸軍、銭貨出納の四目と為し、即ち史記以つて時勢の沿革を顕はし、政治以つて国体の得失を明かにし、海陸軍以つて武備の強弱を知り、銭貨出納以つて政府の貧富を示」したものである。これに、文久元年渡欧に際して見聞した西洋一般の風俗制度の解説紹介を巻頭に付したものが『西洋事情』初篇三巻である。福沢の書は宿屋の客引案内にすぎぬものという蔭口が、慶応三年版『西洋旅案内』を中心としたものであろうと、これとかれと、つとめて政治的無関心を装うた上で何の差があろう。諭吉自身が抱懐する政治的見解はこの書のすべての頁から最大の注意をもって隠匿された。逆に諭吉の自由主義的徹底開国論が宣伝されている『唐人往来』は、「江戸鉄砲洲某」の匿名で、しかも版行されず写本として、幾分流布されたのみであった。『西洋事情』初篇三巻がこの『唐人往来』と同時代に――文久度帰朝後起稿されたものであることは高橋誠一郎氏の考証(『福沢先生伝』)がある。一方をついに版行せず、他方をしかも慶応二年冬まで待って版行した。すでに佐幕派にとっても倒幕派にとっても、『西洋事情』は自家政見のための辞引であり、語彙であった。一方偽装されたこの書の政治的無関心と、他方倒幕派そのものから「攘夷」のスローガンを陰に抛棄させた「慶応」度必至の内外諸政情と、相まって驚異的な十万の読者大衆をこの書に獲得させたのである。
無表情のまま日々江戸城内の外国方翻訳御用所へ出勤し、帰れば福沢塾で英語を教え、佐幕派の人間とも倒幕派の人間とも交際はあるが、政治的にはまるで関係しない。「徳川の政府に雇われたからというた所が是れはいわば筆執る翻訳の職人で……ただ職人の積りでおるのだから政治の考というものは少しもない」(『自伝』)。ひとり韜晦しながらせっせと印税を稼いだ。
『西洋事情』初篇三巻 慶応二年初冬
『雷銃操作』 慶応三年四月
『西洋旅案内』 同年七月
『条約十一国記』 同年十一月
『訓蒙窮理図解』 同年十二月
『西洋衣食住』(筆名片山淳之助)同年同月
『西洋事情』外篇三巻 同年同月
『兵士懐中便覧』 慶応四年七月
『洋兵明鑑』 明治元年晩冬
『雷銃操作』 慶応三年四月
『西洋旅案内』 同年七月
『条約十一国記』 同年十一月
『訓蒙窮理図解』 同年十二月
『西洋衣食住』(筆名片山淳之助)同年同月
『西洋事情』外篇三巻 同年同月
『兵士懐中便覧』 慶応四年七月
『洋兵明鑑』 明治元年晩冬
「彼の著作は、今浩瀚なる十七巻の全集として行われているが、その内容を検して見ると、その著述の多種多方面なること実に驚くの外はない。彼れは当時西洋の事情に対して殆ど無智識であった日本人に向って、世界の地理と歴史とを教え、物理科学を教え、天文学の初歩を教え……小銃射撃から攻城野戦の法をまで教えたのである。一例をいうと、往年日本の陸軍の小銃に改良を加えた有名な村田少将という銃法の大家があるが、この人のごときもまた射撃の事は始め福沢の著書に依て学んだということである。一人の学者著述家が、独りでこれだけ多種多様の仕事をするということは、今後においては全く不可能ではないかと思う」(小泉信三氏、「『英訳福翁自伝』の序」、『中央公論』十月号)。
その通りたり、それ以上たり。この多方面の訳著は、今日のあらゆる投機的訳著業者の場合とまったく同様に、けっして偶然の配列をもつものではない。『西洋事情』続篇の筆を休めて、時到らば『雷銃操作』の翻訳にかからねばならない。「先生がこの書を翻訳された由来は、当時長州征伐のことあり、長州方は小人数でかつ農兵などを使用したが、その武器は新式であって、なかんずくライフルのごとき、その勢当るべからず、徳川方の敗戦は全くこれがためだとの評判であった。先生これを聞き、近いうちに日本国中にライフルの流行を見るであろう。何とかしてライフルの事を書いた原書を得たい……」(『福沢諭吉伝』)。そこで、芝口和泉屋善兵衛店で偶然ライフルに関する古本「原書」を入手した日から異常な苦心がはじまるのである。
このライフル本はおおいにあたって発売数幾万にのぼった。ついで「慶応四年」七月付『兵士懐中便覧』は東北連合軍のため仙台で版行され、これと戦うべき官軍熊本藩の依頼によって大至急で翻訳上梓された『洋兵明鑑』には「明治元年晩冬」の序文が付せられている。というふうで、着想自在、度胸もふんべつも満点のジャーナリストであった。
ちなみにこの種軍事物は、十七巻の全集中、この内乱期を除いてはただ一部安政四年緒方塾でへんな動機で脱稿して『全集』ではじめて活字になった「築城書百爾之記」全六冊があるだけだ。
サラリーマンたりジャーナリストたる(しかも自分でその点を冷静に自覚し自嘲してさえいたと思われる)それまでの福沢のいっさいの抑圧された情熱が、慶応義塾に向って、一気にひたむきに放出されたのである。「抑圧された情熱」は彼が豊前中津藩大阪屋敷勤務下級藩吏の二男に生れた時以来、そして百五十俵の旗本格「翻訳職人」の辞表を書く日まで、久しいものである。その間、「門閥は親の敵でござる」と心に叫びはしてもついぞ陽に「門閥」と闘ったことのない、固く抑制され、韜晦された魂であった。これを関東織物業中心地帯の資本家兼地主たり、かつかかるものをその多彩な「志士」活動の社会的地盤とした渋沢栄一の戊辰前史と比べてみれば、思い半ばにすぎるものがあろう。渋沢は中途で「転向」したが、転向前はあくまで攘夷討幕に、転向後はあくまで佐幕開国に、一身を殉ぜんとした不拘束の前史をもっている。この差を両者の「気質」に求めることの不当なのは維新後その死にいたる二人についてみればよかろう。渋沢のごとく自己の政見に向って不拘束たりうるための社会的地盤から福沢は隔絶していたのである。旧幕時代の福沢は典型的な近代インテリでありしかも他から独自化せるインテリであった。
幕末政情にたいする福沢諭吉のその時々の政見は資料が示す限りにおいて相当透徹せるものであった。上出『唐人往来』(全集第一巻『序』)は『西洋事情』よりもはるかに平俗に書かれたものだがなかに盛られた自由主義的開国論は構成完備している。文久二年渡欧の船中で松木弘安(後の寺島宗則)らに向い「とても幕府の一手持は六つかしい。先ず諸大名を集めて、独逸連邦のようにしては如何」(『自伝』)と述べ幕府を首班とする大名連邦論が右派綱領として日程にのぼった慶応度にいたると「(大名)同盟の説行はれ候はば随分国はフリーにも相成るべく候へども、This Freedom is, I know, the Freedom to fight among Japanese. 如何様相考へ候ふとも、モナルキに之無く候ては、唯々大名同志のカジリヤイにて、我が国の文明開化は進み申さず云々」(慶応二年十一月七日付、福沢英之助への書翰、『福沢諭吉伝』第一巻)と記し、いずれもその時期にとっては現実的なラジカルな政見を抱懐したのである。にもかかわらず彼自身はついに何一つ現実的でもラジカルでもなかった。というのも彼は自己の政見が実現さるるためのいかなる可能性も、いかなる勢力も、内外にこれを認むることをえなかったし、また触知しうるための能動性を自ら欠いていたからである。
当時――右の手紙を福沢が書きつつあったころ、西南倒幕派はすでに攘夷のスローガンを陰に撤去し、「大名同盟」の右派綱領にことごとく反対して福沢のいわゆる「モナルキ」のために着々道を舗きつつあった。しかも福沢にとって西南倒幕派はいつまでも「彼らが取って代ったらお釣の出るような攘夷家」(『自伝』)として映じ、緒方塾時代の同窓村田蔵六(大村益次郎)のごとき死ぬまで福沢の目には「云々の攘夷家」である。しょせん眼あって触手なき、福沢はインテリであった。
幕末日本のなかに現実的にいっさいの曙光を見失っている彼は、彼自身の内部にあらゆるものを――そして彼自身の内部は「西洋」のなかにすべてのものを、期待しなければならぬ。もとよりこのことは彼が終世そうであったように当時から熱烈な「愛国者」であったことと矛盾しない。矛盾しないばかりか、彼の現実のいっさいの情熱はこの矛盾の統一という一事に向って、しかりあまりにインテリ的な非政治的な、それだけ機械的で空想的でロマンチックな統一のために、ひた押しに注がれた。慶応義塾の創立がそれである。教育によって日本人の頭を改造することから始めようというのが、幕末変革期の一切物に絶望した彼の悲壮なる結論であった。
鳥羽伏見に敗走した将軍慶喜東帰して、江戸城内外戦火を予期して沸騰するさなかから、芝新銭座に「慶応義塾」が産声をあげた。動乱最中とて地所も材料も労賃も馬鹿安にあがったとはいえ、出費はことごとく印税を蓄積した私財をもって成った。彼が一生その「権利」のために戦った「生命及び財産」のいっさいをあげて、明日は兵火に焼けるかもしれぬ一洋学道場の建設にあえて捧げたのである。この時はじめて彼は、昨日までの中津藩小吏としての、「翻訳職人」の旗本としての、投機的著訳業者としての、無力な灰色のインテリとしての、抑圧された久しき存在から解放され、信念に向って不拘束なるすべての瞬間が約束する愉悦と感激の人たりえた。
彼の目には幕府以上の「非文明」の権化にすぎない官軍参謀村田蔵六が、湯島の岡から上野の森に大砲をぶっ放しつつある時、有名な「出島」演説が塾で聞かれた。「昔し昔しナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して本国は申するに及ばずインド地方まで悉く取られてしまって国旗を挙げる場所がなくなった所が世界中纔かに一箇処を残したソレは即ち日本長崎の出島である。シテ見るとこの慶応義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があってもいまだ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である世間に頓着するな」(『自伝』)。
いまは韜晦のためでなく主張のための、抑圧された魂でなく不拘束の魂の吐く――政治的無関心! 情熱やよし、結局はしかし、中世と現代を逆に組立てた場合のドン・キホーテの情熱にすぎなかった。彼にはまだ、この精神的昂揚の最高の瞬間においても、背後には何一つ現実的な勢力は見出されてなかった。
今日その生誕百年祭が祝われている「福沢諭吉」は、明治四年以後の福沢諭吉である。あの、りん然として調子の高い『学問のすゝめ』以降の福沢である。
『学問のすゝめ』はひとしく不拘束なるものである。そこにはしかし、背後に確乎たる一つの社会的基盤が脈づいている。そればかりではない、一つの明確な政治的指向がある。時の政権の将来にたいする満腹の同情と信頼があり、鞭韃がある。
錦旗東京城に飜ってのちも、福沢の心事は暗く閉じがちであった。「出島」演説の日のごとく昂揚するすぐあとから、子供を坊主にしようかとまでひとりで沈みきった。
「その時の私の心事は実に淋しい有様で人に話したことはないが今打明けて懺悔しましょう維新前後無茶苦茶の形勢を見てとてもこの有様では独立は六かしい他年一日外国人から如何なる侮辱を被るかも知れぬ、さればとて今日全国中の東西南北何れを見るも共に語るべき人はない、自分一人では勿論何事も出来ずまたその勇気もない実に情ない事であるがいよいよ外国人が手を出して跋扈乱暴というときには自分は何とかしてその禍を避けるとするも行く先きの永い子供は可愛そうだ一命に掛けても外国人の奴隷にさしたくない或は耶蘇宗の坊主にして、政事人事の外に独立させては如何、自力自食して他人の厄介にならずその身は宗教の坊主といえば自から辱しめを免がるることもあらんかと自分に宗教の信心はなくして子を思うの心より坊主にしようなどと種々無量に考えた事があるが」(『自伝』)。
政府内部といわず外部といわず、維新後の革命と反革命、開化非開化の嵐は明治四年まで上下を吹きまくって、安定することがなかった。福沢にとって暗殺の不安が一番大きかったのは明治三年で、村田蔵六がその前年凶刃に斃れたのも福沢の驚きまでにも反動非開明派の手でやられたのである。明治四年七月、維新政府ははじめて一応強固な安定を見た。それとともに廃藩置県以下の開明的諸変革の大波が、堤を切ってはんらんした。福沢にとってはただ寝耳に水である。いかに瞠目してはじめて「政治」を彼は凝視したか! そして歓喜したか!
「俗にいう悪に強きは善にも強しの諺に漏れず、昨日までの殺人暴客は今日の文明士人となり、青雲に飛翔して、活発磊落、いうとして実行せざるはなく、実行して功を奏せざる事はなし。傍観の吾れ吾れにおいても拍手、快と称す」(『全集』緒言)。
「当時、洋学者流の心事を形容すれば、あたかも自分に綴りたる筋書を芝居に演じて、その芝居を見物するに異ならず、もとより役者と作者と直接の打ち合せもなければ、双方とも隔靴の憾みはあるべきなれども、大体の筋に不平を見たることなし」(『福翁百余話』)。
福沢とその「塾」とのこの日までの悲壮なる主観いかんはべつとして、それなしにも維新政権とその施政はありしがままの姿をとったにちがいない。史家は誰しも見らるることである。「当時、洋学者流の心事を形容すれば、あたかも自分に綴りたる筋書を芝居に演じて、その芝居を見物するに異ならず、もとより役者と作者と直接の打ち合せもなければ、双方とも隔靴の憾みはあるべきなれども、大体の筋に不平を見たることなし」(『福翁百余話』)。
だからといってこのときの「作者」としての福沢の自得を笑止がる権利もまた史家のものでない。なぜならこの日の自得こそ今日「福沢諭吉」百年祭を祝わせるための現実の契機となっているものだ。福沢が旧幕以来あれほど桑原がったところの「政治」に、なかんずく禁物視した維新政権――大久保に、伊藤・井上・大隈に近づくための第一直接の契機はただこれに在った。福沢がインテリたり、ドン・キホーテたる旧境を一躍揚棄できた飛込台はこれであった。
あとはすべてそこからの当然の帰結にすぎない。『学問のすゝめ』はいわば実践期としての福沢の後史をマークする宣言書である。「慶応義塾」もまたその使命を当然に変更した。それはもはや単なる「洋学」のためのロマンチックな「出島」ではなく、新興日本資本主義の基盤部分にむかって、ついで上層建築に向って、簇々と有為新進の担当者を送りこむためのベース・キャンプとなった。
彼の後史は研究さるべき余白をなお存分に残している。一応後史を見た目からもいちど前史をふり返るとき、明治四年以前の諸論策中ことに経済学に関する部分――チェンバーによった『西洋事情』外篇、ウェーランドによった『西洋事情』第二篇、その他が興味あるものとして映じてくる。まだ生気を失っていないこれら初期俗流経済学の「エレメント」が、政治に関心なき前史時代いかに素朴に主張され、後史時代にいたっていかに拙劣に――同時に切実に――変形されていったかを見ることができる。ひとり経済学ばかりではない。薬味箪笥のごとく万能な彼の「文明」思潮のあらゆる領域について前史から後史を区別するためのいくつかの屈折点が認められるであろう。