「攘夷」は幕末日本の専売ではない。シナの方がもっと大規模でも深刻でもあった。そして朝鮮をこの点でシナや日本から区別するものがあるとしたら、明治八年までこの国だけは、断然攘夷戦勝国として、いい気持でふんぞり反えれたという点であろう。もっとも近代朝鮮の排外スローガンに「夷倭」とならべ記したのから弁じて、「攘夷」を欧米人に限られたことがらと見れば、明治八年日本に屈服したことなんか当然問題外となって、朝鮮はおよそ攘夷で負けた歴史を持たぬことになる――まことに大日本帝国にとっては、「併合」するに恥かしからぬ国柄であった!
 朝鮮攘夷運動の大立物大院君たいいんくんは、摂政として全実権を収めていたから、幕末の副将軍家水戸斉昭みとなりあきの比ではなかった。摂政となって二年目(一八六六)、当時潜入中の仏人天主教宣教師十二名中九名を断首して、剛愎ごうふくな排外主義の火蓋を切った。
 同様のことは十七年前にもあって、およそ十八世紀末以降の朝鮮西教史は、保護者フランスの面目丸つぶれといった形だったが、一八六六年(慶応二)といえば、日本もシナもちょっと対外問題が収まった閑時だったから、朝鮮国王をフランス皇帝の保護下におきキリスト教徒たらしめる旨を前もってシナに宣言したうえで、七隻のフランス艦隊が江華島こうかとうに攻め寄せた。かろうじて朝鮮を脱出した三名の仏人宣教師が、この「聖戦」の案内役として先頭に立ったのはいうまでもない。
 ところが、下関しものせき戦争ではさすがの武士道国民に物もいわせなかった近代的軍隊も、一つは安心していたせいもあるが、結局八百名の朝鮮虎手の旧式火繩銃にのされてしまった。虎は一発勝負だ。八百発のねらい撃ちである。正規兵の代りに全朝鮮の虎猟師を駆集めたなぞは、楠正成くすのきまさしげそこのけの戦術家だった。
 腰を据えて再征すれば、今度は虎手八千名をもってしても、結果は知れたものだったろうが、翌年は安南あんなんに兵を動かさなければならなくなり、日本の内乱も、英国とにらみ合って監視する必要がある。そのうち普仏戦争、そして、パリ・コンミューン。ゼスイットをお先棒に使ったルイ十四世以来のフランス植民政策は、やきの廻ったナポレオン三世に踏襲されて朝鮮で最後の実を結ぼうという瞬間に、虎手八百でつまずいたばかりに永遠に駄目になったのだから、この戦、偶然の勝利とはいえ決定的な勝利になった。
 地獄に堕ちたように悲嘆した者に、ふたたび今は上海租界シャンハイそかいにあじきない日を送っている三名の仏人宣教師と、これを取巻く数名の朝鮮人信者とがあった。仏人宣教師の一人をアベ・フェロン師という。

 同じ一八六六年には、米国船との間にも事が起った。米国スクーナー「サープライズ」号は、朝鮮近海で難破したが、風の吹廻しか親切に救助され(日本では難破米船員はみんな牢屋にぶちこんだうえでオランダに渡したが)、そのまま義州越しにシナに渡されて、無事に帰った。ところがその翌月、大同江だいどうこうをぐんぐんさかのぼって、平壌へいじょうに迫った米船「ジェネラル・シャーマン」号は、むろん朝鮮人にとっては船の英米を弁じる由もなかったけれども、たしかに妙な船だった。船籍は米船だが、英商船の傭船として芝罘チーフから商品を積んできたものとも記されており、多量の武器弾薬を備えていたところから、平壌の古墳発掘を目的とした略奪船ともあとで噂された。とにかく平和な船だけではなかった。自分の方から手出しをして、平壌の官吏を人質にとる。上陸して略奪する。ところが、虎手八百の代りに今度は大同江の水が減って、船がエンコしてしまった。大同江が洪水中だった事実を知らずにいい気になって遡行そこうしたのが手落だったのだ。えたりと朝鮮側は東洋的戦術で、河上から火をかけたいかだを流してシャーマン号を焼払い、乗組員を虐殺または投獄した。
 つづく一八六七・八両年にわたって二回、シャーマン号事件の米国調査隊が派遣されるけれどもいっこう要領をえない。そのうち、朝鮮国は前記二事件にたいする謝罪および賠償のため仏米両国に使節を派遣する意志をもっている、両国政府は果してこれを受理するかどうか、内意をたしかめるため二人の特使が上海に来ている――という報告を、上海米国総領事セワードにもたらした者に、F・B・ジェンキンスというのがある。文献によってはたんに米人冒険者といいあるいは米国市民とのみ記すが、「前米国領事館通訳官、幼少からシナ語を習得して、書くこともできた」というのが本当らしい。
 総領事セワードはジェンキンスの報告に基づいて、本国政府に、自己を朝鮮開国交渉特使に任ぜられたいと禀請りんせいした。折返し本国政府からの訓令で、全権として在北京米国公使ロウを任命し、国威を示すに足る艦隊を付属するということになった。朝鮮でフランスは失敗している、英国は文句をつけたくも手がかりがない、北ドイツ連邦は、二年前にできたばかりでまだ極東政策を確立していない。いまこそ米国が対朝条約のイニシアチヴをとらなければならない。米国としては一方サープライズ号救助の感謝、他方シャーマン号事件の糺明、恩威ならび行うための口実に事を欠かないのだから――内訓はこうした意味を伝えていた。とかくするうち、朝鮮にとって三度目の、実に怪しからぬ洋夷事件が起った。
 一八六八――李太王りたいおう五年四月十七日、一隻の黒船が、忠清ちゅうせい牙山かざん湾の行担ハンタン島に投錨した。そこから小艇に乗換えて插橋川そうきょうせんを遡行し、九万浦きゅうまんほ付近で上陸した洋夷の一隊は、自ら俄羅斯オロス国(ロシア)軍隊と揚言しつつ、忠清道徳川とくせん伽洞かどうにある大院君の父王、南延君球なんえんくんきゅうの陵に向った。
 守衛および伽洞民衆は逃散してしまう。洋夷は王陵の発掘をはじめたが、どうしたわけか中途でやめて、行担島へ引揚げたのが四月二十日(旧暦)。
 入違いに忠清監司閔致痒みんしようが軍隊を率いて徳川に馳行する。洋夷は船を行担島からさらに江華島南方の東検とうけん島に移して、上陸、ここで朝鮮軍隊と衝突して敗走した。
 大院君摂政時代にはいって三度目の勝利である。永宗僉使えいそうせんし申考哲しんこうてつがこの戦勝を京城けいじょうに報告した文中に「…………きずつく者はなはだおおし。溺水できすいして死する者的数てきすうを知らず。故にあえて枚陳せず。ただ二賊首をもって東門に斬懸し、もって賊衆を威す!」とある。二賊首はすぐさま京城に送られ、改めて軍民に梟示きょうじして、おおいに戦勝を祝賀した。
 五月になって、この撥陵遠征隊事件が、がぜん上海租界の大問題となった。殺された「二賊首」というのは――ついでながら、溺死者確数を知らずは、デマで、遠征隊の死者はこの二人以外にはなかったが――たまたまマニラ人で、傭兵として遠征隊に加わった者だった。その方面から事件がバレて、正式にスペイン領事から、上海の米・仏・独領事にたいして交渉がはじまった。遠征隊の指導責任者として、上海在住の米仏独三国市民の名が、挙がっていたからである。
北ドイツ連邦市民、ユダヤ人、商人、エルンスト・オッペルト。主謀者。
フランス人、天主教朝鮮布教師、アベ・フェロン。案内者。
アメリカ市民、F・B・ジェンキンス。金方。
 目的は、朝鮮某王陵を発掘して宝物と遺骸を奪い、これにたいする身代金を要求するにあったというのである。
 米国総領事セワードはやむなくジェンキンスを拘引した。拘引理由は「合衆国が条約関係を結んでいない国土に対する不法にして破廉恥はれんちなる遠征ならびに暴行のかどにより」というのだった。どうして仏独よりも先に米国側が問題になったのか、ともかく仏独両国領事裁判の結果を見たうえで処置するということになったから、それだけジェンキンスの公判は、センセイショナルなものになった。
「解剖のためとか、科学上の目的とか、いうならまだしもだが、金のため、身代金欲しさにやったというんだから……」
「さよう。船には北ドイツ連邦の国旗を掲げていたそうじゃありませんか? いっそ質屋の戸口にぶら下っている、れいの三つの金の玉印を、堂々おったてて行くんでしたね!」
 いずれは、食いつめた植民地インテリ同志の、会話だったんだろうが、「三国三教(ユダヤ教、ジェスイットおよびプロテスタント)、いずれもこの遺骸劫掠ごうりゃく遠征隊中に代表されたれば、真にインタナショナルなる事件というべし」などという前後に、さし挾まれている、ある著者の、批評文なのだ。
 当時上海租界の「輿論よろん」が大体この辺だったと見ればよい。人でなしの三人に向って、思いきり唾を吐きかけてやる。そうすることによってのみ、「三国三教」――ただしユダヤ教はどうだかしらんが――の名誉と権威を救い出すことができるのだ。しかし同時に、三人はあまりに単なる「市民」でなさすぎる。ジェンキンスとセワードとの関係は、すでにわれわれが見たとおりに一通りのものではない。現在の領事裁判長はついこのほど被告の報告に基づいて米国対朝策を進言して、しかも実現の途上にあるのだ。
 フェロン師と仏国官憲との緊密な関係については繰返す必要がない。最後にオッペルトだが、彼はこの事件の「主謀者」というので、輿論は例の調子を最も露骨に示して、「ユダヤ人行商人」「ちゃちなハムブルグ貿易商」などと書かせている。だが彼は二年前、二本マストの外輪蒸汽船「エムペラア」号の主人となって朝鮮にゆき、漢江かんこう下流一帯の測量をやっている。測量が目的だったのか何が目的だったのか、例によって不明だが、ともかくそのとき、生命からがら潜んでいたフェロン師の密書をことづかって、在支仏国官憲に取次いだという因縁がある。彼とフェロンとの関係はそれ以来だ。こんなふうで指導者たる三国三教人は、いずれも在支当局者との間に、切ってもきれぬ従前からの関係があった者ばかりだ。スペイン領事からの横槍とそれに基づいた「輿論」さえなかったら、何とか無事に済んだ手合であろう。
 そのときジェンキンスの領事裁判に、「参審アソシエート」の一人として列席した上海在住米人の有力者A・A・ヘイーズ氏なる者が、後年ある機会にアメリカの新聞に寄せた一文を見ると、事件から正に十二年も経ったのちでありながら、いかにもさっぱりしないいい方である――
「………王陵侵掠という前代未聞の事件は、朝鮮人の攻撃に逢ってマニラ兵が死んだばかりに、ボロを出した。領民が殺害されたというので、スペイン領事が事件をセワード氏――当時の上海米国総領事――に照会する、セワード氏は早速ジェンキンスを捕縛する。四人の“参審”の一人としてこのときの領事裁判に列席した私は、事件がどんな茶番だったか、よく記憶しているが、予審で何から何までしゃべったシナ人が、公判廷では牡蠣かきのように沈黙を守るので、参審会議を開いても判決のしようがない。とはいえ、事件を知悉ちしつした者の眼からすれば、この海賊的遠征隊の暴状は、花崗かこう岩の霊廟を石炭ショベルで破壊せんと企てた馬鹿さ加減以上であることは、明らかであった……」。
「シナ人」というのは遠征隊に傭兵として加わった一人であろう。予審ではすっかり自白したが公判廷で証言する段になると牡蠣のように黙ってしまったから、参審一同「暴状」について知悉しているにかかわらず、判定のしようがなかったというのだ。形式上はそんなものかもしれないが、実質的にいかにも割切れない何ものかが残されている。

 公判廷におけるジェンキンスは、遠征隊の目的はあくまで、「条約締結」の契機をつくって祖国に利せんとする念慮にほかならなかった旨を主張した。そして遠征事実に関して比較的この裁判事件を詳細に扱っているグリフィスの『仙逸国民ハーミット・ネイション』が記している点は、
 使用した船は外輪蒸汽船「チャイナ号」六八〇トン。ほかに六〇トンの小蒸汽船「グレタ号」を準備して、黄海を渡るときはチャイナ号に曳航えいこうさせた。
 国旗は北ドイツ連邦旗を掲げた。
 乗組遠征隊員は、欧米人八名、マニラ人二十名、シナ人百名。マレイ人およびシナ人は、苦力クーリー、船員などを上海で集めたもので、一行の「護衛兵」たるべきものだった。
「艦隊」は一八六八年四月三十日、上海を発して、まず長崎に向った。二日間の長崎寄港中に、石炭、水および「小銃十箱」を積込んだ。むろん「護衛兵」のための武器である。
 プリンス・ジェロム湾(牙山かざん湾)に着いたのが五月八日(新暦)の金曜日、翌日漢江を遡るという段になって、武器を一同に渡して使用法を教えた云々。
 このあたりのことは馬鹿にくわしいくせに、それ以後の肝心な経過についてはほとんど何ら記されてない。そもそもジェンキンスは肝心の撥陵事件そのものをどこまで認めたのか、また認めたとすればこの手段と条約締結という目的との関係を彼はどんなふうに陳弁したのか、いっさい不明に終っている。そしてただ、その後朝鮮人と衝突して死者二名負傷者一名を出したこと、結局前後十日間朝鮮にいて二週間目に上海へ帰りついたこと、結局この公判におけるジェンキンスの陳述には「安全弁から吐出さるる蒸汽ほども真実味も認め難かった」こと、だが結局ジェンキンスは「証拠不充分」で釈放されたこと、そして結局、どうもいっこうに苦々しいはなしなんでして……といった調子なんである。
 ジェンキンスが釈放されたから、フランス側はお座なりの領事裁判を開く手数さえ省けたというものだ。そしてお付合までに、問題のアベ・フェロンを本国に送還したが、彼はすぐさまポンジシェリィの布教団へ派遣されて、倍旧の戦闘的ジェスイットとして、「神と祖国のために」極東での経験を役立てることになった。

 十二年経った、一八八〇年の三月に、『禁断国・朝鮮紀行』という堂々たる本が、英独両国語で同時に、ニューヨークおよびライプチヒから出版された。「その地理、歴史、生産および商業上の能力、その他その他を解明す」と副題してある。著者はエルンスト・オッペルト。
 朝鮮はその四年前に開国して、英国産の金巾カナキンを先頭とする欧米商品は日本商人の独占的仲介を経て釜山ふざんから、元山げんざんから、旧朝鮮を揺動かしつつあったくせに、依然日本以外の国にたいしては厳として門戸を閉じていたから、列強の対朝鮮条約熱はいよいよ高まっていた矢先である。著書としてのテーマ・ヴァリューは相当のものといえよう。今日の日本の出版界だったらさしづめ豪華版と名乗ってもいい装幀で、菊版クロース三百数十頁、本文以外に海図が二葉、插絵が二十一枚、堂々たる朝鮮誌である。もしも最後のたった一章を「その他その他」つまり撥陵遠征隊事件そのものの「解明」に当てなかったとしたら、同名異人の例はあることだ、どうして著者エルンスト・オッペルト氏を、往年の「ちゃちなハムブルグ貿易商」、「ユダヤ人行商人」――憎むべき撥陵遠征隊事件の主犯その人だろうと思う者があろう!
 ところで四月二十一日の『ネイション』に下のような投書が載った。
「ネイション編輯へんしゅう足下
 朝鮮に関するオッペルトの新刊が紹介されてるのを読んで、私は偶々たまたまある奇怪な事件を想起した。……この海賊的行為のため、故国で入獄の憂目を見たと伝えられるオッペルト自身が、臆面もなく当の事件を解明上梓じょうしするが如きは、実に言語道断の沙汰さたといわざるを得ない」。
 署名は往年の「参審」A・A・ヘイーズ、十二年前の上海の輿論がそのままの形で顔を出したわけだが、われわれにとっては、事件の「主謀者」から直接物語って貰えるのだから、何より興味があるわけだ。

 オッペルトによると「主犯」の名誉はそっくりアベ・フェロン師に譲られている。そしてアベ・フェロン師は最高の人格者だ、「師をもってすれば物の数にもあらざる人々が、師を蔑視し論難するの甚だしきを見るにつけ、愈々いよいよ余は、師の情操品性の稀有なる高潔さを証明し、かつて至純の動機以外の何物によっても行動せることなき人物たるを確言するの義務を痛感する者である」。
 これが全章のまくらになっているのだから、撥陵遠征隊事件はオッペルトによると、アベ・フェロン師の――および師の提言にしたがって全幹部の――稀有なるまで高潔な品性を論証する事例として、展開されるのだ。
 あなたこそ、喜んで手を貸して下さる御方と御見受けしてと前置があって、某日フェロン師が、オッペルトへ、上海租界の茶亭の一隅で、ひどくもったいぶった説教だった。
「これからおはなししますが、最初びっくりなさるかもしれません。奇怪とも突飛とっぴともみえましょう。しかし、よくよくお考え下さい、現在わたしたちが望んでいる朝鮮開国の一事を摂政(大院君のこと)に強要する途は、これ以外には絶対にありません。わたくしの案が、奇怪であり異常であるとしても、大事は小策をもって成すべからずということは忘れないで下さい。偏狭な目で見てはならないのです。
 それから、いかにも摂政を強要しようというのですけれども、しかし何もひどい危害を加えるというのではありません。国内の誰一人、生命財産を危なくする心配はないのです。もっとも、かなりの護衛兵は必要ですが、これだって、実際上の危険をおもんぱかってのことではなく、つまらない邪魔を避けるためです。」
 このようなフェロン師の科白せりふが、まだまだ数頁にわたって書かれているのだが、そもそものプランはフェロン師と「わたくしの朝鮮人の友人」との間でできたことになっている。朝鮮人というのは、ジェンキンスが総領事セワードに向って朝鮮からの特使だといって報告した者で、実はフェロン一行を朝鮮から救い出した数名の朝鮮人信者団である。漁民だったと伝えられている。で、そのプランというのは――
 迷信深い摂政(大院君)の家に伝わる聖骨があって、ある秘密の場所に護持されている。この聖骨のおかげで彼とその一族の幸福が保証されているものと信ぜられているので、これにたいする尊崇は異常なものだ。こいつを奪ってしまえば、ほとんど絶対権を取ったも同様、首都漢城を陥れたのも同然である。摂政は唯唯諾諾いいだくだく、聖骨取戻しのためでさえあれば、開国ぐらい何でもあるまい!
 だが、これに続くフェロン師の言葉は、今度はあまりにも実際的であり、科学的であり、立派な探偵小説ものだ。
「何人の生命にも別条がないと信ずればこそ、あなたの御助力を拝借したいのです。しかしまた何等の困難もないとはいえません。ことに、例の物が納っている場所の問題です。そこへ行くには、プリンス・ジェロム湾のとある河口を汽船で三十マイルも遡らなきゃなりません。ところが、その河は、一ヶ月のうち大潮の三十時間しか、役に立たない、というのも、この三十時間だけは最深約三フィートの水量がありますけれども、そのほかの時は殆んどカラカラに乾上るのです。
 問題の場所は、上陸地点から徒歩でたっぷり四時間、途中、相当人口のある町を一つ通過しなきゃなりません。
 で、行きも帰りも、大潮の三十時間しか使えないのですから、牙山湾の河口へは、潮時かっきりに、到着している必要があります」。
 冒険家は話上手だ。話上手であることが冒険家のための資格の一つである。フェロンが喋ったにせよ、オッペルトが書いたにせよ、ともかくこれが、のちの失敗を説明するための伏線になっている。
「なによりも、はっきりした御返事をいただく前に御考え願いたいのは、この一事から生ずる利益は大にしては全世界、小にしては朝鮮国民自体のものであるという点です。そして、これに較べたら摂政個人の被害なぞは、物の数でもないという点です…………」
 ジェンキンスが公判廷で撥陵事件と「条約締結」との関係を問われたとしても、これ以上の答弁は不可能だったにちがいない。

 上海出発は「ある天気晴朗なる朝」だった。汽船「チャイナ号」には船長メラー、フェロン師、その朝鮮人の同志たち、「余」および「余に最も有用な援助を与えてくれたアメリカ紳士I氏」以上「幹部」のほかに、十二、三名のヨーロッパ人水夫、二十五人のマニラ人および数名のシナ人が乗組んだ。本船「チャイナ号」のほかに水深二フィートの箇所まで航行しうる小汽船「グレタ」を曳航した理由は、いうまでもあるまい。
 長崎に寄港した点まではオッペルトの『紀行』には全然省略されている。やや荒天だったため、かっきり大潮時までに到着する予定が数時間おくれて、真夜半になった。翌早暁、例の「護衛隊」を率いて小艇に乗換える。河幅は約半マイル、平野で、村々が指呼できる。村人がいぶかしそうに土手にならぶ。グレタ号は中流に位置を保ちながら、三十マイルを四時間で上陸予定地へ着くつもりのところ、午前十一時までかかった。
 上陸する。小村を支障なく通過。樹影一つない平野を過ぎると、やがてうるわしい丘陵地帯になって、相当な町に出た。外郭をそっと通過するつもりが、運悪く一隊の朝鮮兵と出逢ってしまった。「恫喝どうかつ」したら兵士は逃散したが指揮官だけは決死の形相で道をはばんでいる。今度は朝鮮語のできるフェロン師の番だ。うまく説教したと見えて、やがて指揮官は、おりがら日射病で倒れた「護衛隊」の一人のために、山駕やまかごを心配するという変り方だった。それはよいとして、すでに大変な予算狂になっているのが発見された――厳密なスケジュールによると少くとも午後一時には目的地に着いているはずが、今その時刻になってしかもやっと半途、加えるにこれから先きは上り坂の難路ときている!
 だが、四辺はいよいよ美わしく、二、三の牧夫以外には人家も認められなかった。ようやく五時前になって、ガイドの朝鮮人が指呼した方角を見上げると、西側が絶壁となって谷へ陥ち込んでいる峻険な連山が望まれた。約半時間の後その頂上に一行は立った。
 オッペルトには生れてはじめて見る絶勝だった。山腹の森蔭に村があって、やがてぞろぞろと出てきた村人たちから、難なく問題の場所を教わることができた。
(朝鮮の史料では伽洞民衆は武装した洋夷一行を見て守衛とともに逃散したはずだ。が、ともかくオッペルトについてゆこう)。
 非常に奥まった場所だった。ところが、案に相違したのは王陵の物々しく厳重な構造である。「聖骨」は単に石造の建築物中に納められているものとばかり想像して来たのに、これはまた四周一面頑丈な土壁でまもられていた。ともかくまず壁の一部を壊して入口を作る仕事にとりかからなければならない。もとよりそんなはずではなかったから道具の準備もないので、村から「撰んで」きたくわか何かで、とりかかった。
 壁破りの仕事だけで、五時間も費した!
 と、今度は、もっともっと大きな困難に出くわした。せっかく壁を壊してみたら、予期した通路どころか、大きな切石が背中を見せて塞がっていたというのだ。
 石を取除くにはあとまだたっぷり五、六時間かかるとわかったとき、もはや完全に断念するほかはなかった。「遺憾千万であったが、余はフェロンに告ぐるに、既に予定の時間を超過すること十二時間に及ぶから、これ以上滞在するにおいては、余は一行の生命を保し難き旨をもってした。けだし、潮が干き終らない前に帰船するためには、即座に出発してようやく間に会うくらいであったから」。生命あっての物種というどたん場に遭遇しては、遺骨強盗もへちまもあったものではなかった。実際、早々に引揚げてグレタ号へたどり着いた時は、もう潮は干きはじめたところで、もう四、五時間も遅れたら立派にエンコして、つぎの大潮まで一カ月は身動きがとれなかったのだ。
 オッペルトの『紀行』は、つとめて一行と朝鮮民衆との間柄が平和的であった点を弁そしている。彼には、こうした弁そのための理論上の根拠があった。いわく大院君の虐政は一般民衆の怨嗟えんさの的になっている――そこで、たとえば失敗したグレタ号が大いそぎで川を下る途中でも、「人々はひどく友誼ゆうぎ的だった。上陸して休んでゆけと、たびたび誘われたが、この際そうするわけにもゆきかねた。段々我々の目的がわかって、憎むべき摂政その人に対する行為である点が明かになると、いたる所で人々はあからさまに、我々の失敗を悲しんでさえくれた。」同じく――これは東検島へ根拠地を移してのちの記事なのだが――「人々は我々一行の不成功を悲しみ、酒を飲んだ後なぞは、陸上だったら首が飛ぶような摂政攻撃に、花を咲かせた。なかんずく摂政が貨幣を改悪して懐をこやしたはなし、あるいは人民が、必らずや外人は間もなく武装してとって返し、自分たちをこの虐政から救い出してくれるものと信じているといったはなし!」
 理論は理論としておいて――この後の場合の「人々」というのがオッペルトの手記によると「役人」で、しかも大院君から一行へあてた「返翰」をもたらして、このとき東検島沖のチャイナ号へやってきた使者なのだから、事実としては、つじつまが合いかねてくる。第一「摂政に鎖国政策を抛棄ほうきさせるための第二策」として「朝鮮文でしたためて(オッペルトが)署名した」不敬きわまる手紙を大院君へ送ったのにたいして、四日目に返事が来たというさえおかしいのに、その使者が摂政の悪口をさんざんわめいたうえ、翌日東検島の官庁へオッペルト一行を招待することを申出て下船したのだ! こうした二重三重の不可能事がかりにすべてありえたとして、そしてそのいっさいが洋夷一行を黒船から陸へおびき寄せて撃つための策略に出たものとして、オッペルトの物語を合理化してやろうにも、翌日上陸後に起った「不祥事」の原因を、あくまでオッペルトは、「一行中唯一人の不徳漢たりし一外人水夫」の所為に帰している。
 彼ら――オッペルト、船長、フェロン師以下――は官兵と仲よく談笑しながら「散歩」していた。その間に例の不徳漢が朝鮮人の小牛を盗んで帰ろうとしたので、朝鮮兵から射撃され、マニラ人が一人即死、一人負傷、問題の不徳漢自身も負傷のため死んだ。「マニラ人は可愛想だったが、事件の元凶たる不徳漢が所詮しょせん天罰を免れあたわなかったという事実は、我々一同を満足させた、小牛はいうまでもなく返却した…………」。
 してみるとオッペルトは、その敵を最後まで疑ってすらみず、引懸った策略の結果をさえひたすら自己側の不徳に帰して自己を責めるほどの、善人中の善人として、いみじくも自己を画き出したものといわねばなるまい。彼の『紀行』中に出てくる悪人といっては、ただ虐政者大院君と牛泥棒の水兵あるのみで、前者にたいする王陵発掘事件も後者にたいする死の処罰も、ともに天理と世界正義の発動であり、しかもオッペルトが最後にいたって天から降ったように書加えたところによると例の牛泥棒の不徳漢は「我々の内地進入(撥陵行)を遅延させた張本人でもあった」(どこで? いかにして? はいっさい不明)というから、彼の物語は天の配剤をうまく表現した大メロドラマでもあるわけだ。
 ともあれこれで、撥陵遠征隊の指揮者オッペルトと提案者フェロン師との至善至高の人格は、一応論証された形であろう。だがそれならなぜ、いま一人の大幹部――そもそもこの遠征隊の金方であり、しかもこの事件のため公判廷に立ったただ一人の幹部であった、米人ジェンキンスの人格のために、一言半句オッペルトは弁じることをしないのであるか? ジェンキンスに関しては最後にただ一回きり、しかも本名を記さずイニシァルをさえ一字動かして、「私に最も有用な援助を与えてくれたアメリカ紳士I氏」の存在を書いたのみである。
 いかに巧妙に粉飾されたスキャンダルでも、金筋をたぐってゆけばその地上的本質がたあいもなく曝されるということは、疑獄検事よりも犯人の方がまず知っているはずだ。いわんや聖骨によって開国を所期するの迂を正銘本気で考えた証拠として、敵の術策に最後まで思いおよばぬお人好しにまで自己を画きあげたほどの用意周到なオッペルトが、どうして金方ジェンキンスについて書こうはずがない。結局、海賊扱いのジェンキンス裁判からと同様、善人呼ばわりのオッペルト紀行からも、依然撥陵遠征隊事件の基本的な謎は解かれていない。
 だが、すでにこの事件に関して何が不明であるかがほぼ明らかにされた以上、二、三の合鍵をつくるのは、さまで困難ではないだろう。ジェンキンス裁判当時における輿論や、拘引理由や、「参審」の一人が後年発表したところや、またセワード総領事がワシントン政府に送ったという報告――「一、二の朝鮮王陵よりして遺骨を奪い、おそらくはそれに対する身代金を要求せんと企てたるもの」――は、ジェンキンスが他の何人にも関係なく自分で遠征資金を投機した場合として妥当する。だがそれならばわざわざ「証拠不充分」として、疑惑を残す必要もあるまい。第二に、ジェンキンスが総領事セワードから、撥陵遠征隊のプランを打明けたうえで費用を引出したと考えることは、両者の関係ならびに裁判の結果を一面裏付けるもののようではあるが、米国の利益と撥陵事件との内的関係は、『紀行』がフェロンにいわせている趣旨からはもちろんのこと、その他のいかなる趣旨からも理由づけられないていのものだ。そこで結局は、総領事セワード氏が領事館通訳者ジェンキンスに一ぱい食わされた――しかも発表できない点で食わされた――という仮説が成立ちそうだ。事実セワードは、ある文献によると、「出発前」のジェンキンスから遠征隊の目的は「条約を締結し、かつは米仏政府に対して朝鮮における外人殺害事件を釈明するための朝鮮国使節をヨーロッパに伴い来るため」であると告げられている。してみるとセワードは、撥陵計画については知らなかったとしても、遠征隊そのものについては事前に関知していたのである! 一方そもそもジェンキンスの報告に基づいてセワードが本国に禀請して成った対朝交渉案の実行を、公使ロウが大事をとってなかなか動かないので、セワードとしてはあせり気味の折でもあった。
 もとよりジェンキンスがあざむいてセワードに撥陵遠征隊の資金を仰いだという仮説は、この種の事件がほとんどすべてそうであるように永遠に証明さるることのない仮説であり、たんに一つの合鍵であるのに過ぎないが、アメリカ外交史にとってはおそらく比較的名誉ある合鍵であろう。なぜなら、いかなる仮説も必要としない動かすべからざる事実として、オッペルト遠征隊事件の後三年目の一八七一年には正真正銘の合衆国遠征隊が、三艘の蒸汽船の代りにフリゲート一隻、コルヴェット二隻、砲艦二隻からなる大艦隊を伴い、牧師と山師の代りに全権ロウおよび提督ジョン・ロージャースに率いられて同じ江華島を襲い、五個の砲台を破壊し、破四百八十一門、軍旗五十流、朝鮮兵の生命二百五十を奪ったが、そのための理由は前に記したる大同江上の怪米船ジェネラル・シャーマン号の被害(※(疑問符感嘆符、1-8-77))にあったのだから、どう弁じてみたところで「名誉ある」遠征とはいえそうもないのだ(この不名誉な居直いなおり強盗的遠征もまた失敗に帰した。米国の戦略は一八五八年の太沽たいこ砲台攻撃の故智にならったのだといわれているが、大院君は清帝とちがって、首都間近の砲台を破られても絶対に恐入らなかったから、空しく引揚げるほかはなかった)。
 最後にオッペルトの「物語」中、唯一の正しい告白は、神の教のためには王陵を曝くもまた可なりというフェロン師その人の心事のみであろう。儲けそこなった山師オッペルト自身は、著書『禁断国・朝鮮紀行』一巻を、フェロン師でなくドン・ペドロ二世に献題した。
謹んでこの書を
ブラジル皇帝
ドン・ペドロ二世陛下に捧ぐ
陛下の保護によりて地理学および人種学の研究は長足の進歩を遂げたるが故に。
(オッペルトの『禁断国』は英独両語版とも、上野図書館にあるが、たしか英語版の方だったと思う、「明治十四年十二月七日購求、教育博物館印」と大きく押してあった。このほかにW・E・グリフィスの『仙逸国民』(一八八九)、モールスの『支那帝国国際関係史』、窪田文蔵氏『支那外交通史』その他を参照したことを付記しておく)。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「黒船前後」大畑書店、
   1933(昭和8)年9月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年5月24日作成
2011年4月4日修正
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