我政府が教育上に於ける施設の多大なることは否むべからず。明治年代の教育法は、維新前の教育法を継承せるものにあらずして、全く新軌道を取れるものなれば、その事業の宏大なることもまた否むべからず。この新教育制度の成功の量の大なることも、また否むべからず。されどああその成功や過ぎたり矣。今日の教育たるや、吾人をして器械たらしめ、吾人よりして厳正なる品性、正義を愛するの念を奪いぬ。一言にしていわば、これぞ我祖先が以て教育の最高目的となしたる、品格ちょうものを、吾人より奪い去りたるものなる。智識の勝利、論理の軽業、あやつり、哲学の煩瑣繊微、科学の無限なる穿究、これらはただ吾人を変えて、思考する器械たらしむるに過ぎざるものなりとせば、畢竟ひっきょう何の益かある。フレーベル及びヘルベルトの教育法も、もしこれらが吾人の目にある眼鏡に過ぎずして、ける器関たらずんば、果して何の利するところかある。
 吾人は智識を偶像として拝し、しかして智識は情緒と提携するによりてのみ、高大なる真理を捉え得るものなることを忘る。潔くして汚れざる心は、顕微鏡よりも、はた塵塗ちりまみれの書冊よりも見ること更にあきらかなり。
 予は信ず、人の衷心、聖の聖なるうちに、神性ありて、これのみく宇宙間に秘める神霊を認識し、これを悟覚するを得るものなりと。物質界に於てすらも、高尚なる真理は、たとえあるいは心があきらかにこれを覚知し、あるいは眼がこれを洞察し得るとも、その覚知認識する所を言語によりて伝えんとせば、必ずや困難なるを感ぜん。科学と哲学とは、けだし無限の長語を以て、この欠乏を補わんがために来れり。
 予の見るところを以てすれば、科学上驚異すべき発見は、皆その発見の在るに先んじて、既に久しく人の心に覚知せられたるものなるが如し。語を変えていわば、科学は常に、人の預覚のしりえに遅々として来たるものなりと。
 その初にはソクラテスの如く、洞察眼を備え、高尚なる思想、清浄純潔なる心念を育して、霊智と親しく交る人あり。これに継ぐに、プラトーの如く、その師の胸裡に雑然として存在したるものを取りて、雄弁荘重なる言語に托するものあり。而して後、アリストートルの如き者ありて、先人が悟覚し、また感応するままに語りしものをば、形式法則に配列す。もしアリストートルにして、ソクラテスの如く、霊智に従うことに忠実ならんか、また師の心に同情すること、プラトーの如くならんか、彼の科学哲学に於ては毫も非難すべきものなけん。されど彼れは感応を犠牲としても科学的ならざるべからず、霊的省観を失うとも、哲理的ならざるべからずとするものならば、彼れたるもの果して人教――まったき意義に於ての人教――の最大産物なりや、これ甚だ疑うべし。
 我が教育は全力を捧げ、霊性を犠牲として、アリストートルの業をなしたり。これ一椀のあつものに、長子の権をひさぐものなり。これ我種族伝来の最善なるものに不忠なることを示すものなり。これ単に欧洲教育の猿真似なり。これ即ち、吾人が今認めて優者とする民族に対する謬見――甚だしき謬見より生ず。彼のアングロ、サクソン人種が雄大を致す所以ゆえんのものは何ぞや、その発達の秘義とは何ぞや。
 人は、アングロ、サクソン人種に許すに、最大または最多数の哲学者を出したる事を以てせざるべし。事実は科学が彼らの中に於て、最も進歩したることを証せず。また英文学もその富を挙ぐとも、決して希臘ギリシア文学に優れりということ能わず。もしある点に於て、英国哲学及び英国文学が、大陸または亜細亜アジアの科学哲学に優れるものありとすれば、則ちこの智識顕昭の裏面には深因の存するものあるが故なり。その原因はこれを一言にして挙ぐるを得べし。曰く品性キャラクターなりと。
 キッドが、その種族の偉大なる原因は、平民的なる日常道徳を有してこれを行うことと、勤勉にして、真理を愛し、かつ正直なるとにありと主張するは正当の説にして、またデモランがこれらを以て、アングロ、サクソン人種の雄大なる所以の主質なりと説明せることも、また大にその理あり。
 一種の感情家のいわんが如くに、日本は挙げて一個の美術国たるべく、吾人は国民をして、この国土の如くに美しからしむべく、吾人は、吾人の運命をして、世界他邦の玩具ならしむべきものならんには、吾人は我が子孫を教育するに、祖先の厳正なる性格にのっとらずして、典雅魂を奪い、麗美心をとろかすべきの法を以てし、かくのごとくして、吾人をして、今や衰境におちいれるラテン民族の如くに美しからしむるを可なりとせん。
 されど今の時は夢にふけり、あるいは平凡なる歌を唸り、または利己的勉学をほしいままにすべきの時ならず。アア「北より吹き来る風は、吾らが耳に鳴りとどろく武具の響を伝えん」ものを。益荒武夫ますらたけおの雄心は吾らが父母の遺せる最も尊き賜なるぞかし。吾人は近く文相が訓示して、人格を作るを以て、我が教育策の大主旨となすべしといえるを聞く。この思想が将来、何程に発達し、幾許いくばくの実効をもたらし来るや、吾人は皿大の眼を張りてこれを注視せんとす。
〔一九〇七年八月一五日『随想録』〕

底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「随想録」丁未出版社
   1907(明治40)年8月15日
初出:「英文新誌 一巻一七号」英文新誌社
   1904(明治37)年3月1日
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2010年3月25日作成
2010年11月1日修正
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