久振ひさしぶりで東京へ帰ッて参りまして、安心して休むつもりであッたところが、突然お呼出しになりまして、定めしにか御馳走でもあるじゃろうと思ッて来たところが、二階の階段はしごだんで演説をという命令である。台湾から帰ッたばかりで、とても面白い話など出来る次第でもなし、けれども台湾に行ッたからというて、舌を落して来たという訳でもなし、日本語を忘れたという訳でもないからして、絶対的にお話出来ぬというお断りは出来ない。しかしただ今も横井さんの有益なる御深切なお話のあとで、私は何も附加えることはない、ことにあなた方はもう既に保険料をお払済になッたろうと思うのである。わたくしもしばしばこの保険会社の人に押込まれて、何々保険会社から入れと言うて来るかと思うと、直後すぐあとから他の会社から来る、中々勉強するものである。しかるにあなた方に対しては恐らく横井さんが初めての申込であッて、後から来るものは定めしうるさいだろうとお思いになるだろう。故に私は何も保険申込はしないから、それだけは御安心下さい。
 また横井さんのお話の後で、ただいま申した通り、加えることはないが、すこぶる御同感の点が多い、多いどころではない悉く御同感である。今日は卒業式とかいう話であッたが、あなた方が何か巻物を持ッておるところを見ると、多分卒業式は済んだのであろう。してみるとこれから世の中に出られるという方々が何人かおいでになる。私は此処ここへ参りましたついでに、十分か十五分を期して世の中に出られる方に一言を申し、それから残ッておられる方々に一口申したいと思う。世の中に出られる方は、どういう成功の条件が必要であるかということは、既にお話があッたが、ただそれを実行出来るや否や、ここが大切である。女の勢力というものはひどいもので私の知人の世の中を永く見た人が言うたことがある、世の中は三つのぽうで治まッておる。ひとつはてっ、これはマア吾々が今日新聞を取ッて見てもすぐ分る。第二はせっというので即ち宗教というのであろう、本願寺を始めとして到るところに建ッておる教会を見ても分る。第三のはにょうというやつ、これは恐ろしい勢力を持ッておるものだそうです。この三つのぽうで世の中が治まッておるのであるという。このうちにも最も勢力のあるという女房というのは、マアこの辺から出られるのであろう。他からも大分出るのであるけれども、マアここからも出るのであろう。よし女房にならぬと言うても、女房というのは広い意味においては婦人ということである、何も人の妻のみには限らない。その広い意味においての女房というものは如何いかにして成功するか、即ち人の妻であッたならば、どうして自分の夫を支配して押付けて行くことが出来るか、というこの成功の保険などはどうである。これも横井さんのお話の条件を守ッたら、自分の夫を押えるのみならず、世界を治める事も出来よう、ただその一の要素としてお話しなすッた。例えば一つの身体からだをよくしよう、最も身体をよくするには、うまい物を食え、これはなるほどお芋や南瓜かぼちゃばかりでは身体は丈夫にはなるまい、いいことをお話しになッた、皆様も御同感であろうと思う、ただどうして、うまい物を食ッて行こうか、という問題が事実問題でここが考え物だ。他の点においてもお話しになッた事を実行するに当ッて、どうであろうということは何に依て定まるかというと、やはりお話しになッたところの智識というものを利用して、それで女房の女房たるところ、即ち世界の大勢を動かす機関となることであろうと思う。
 故に智識というものはすこぶる利なものである、それでその智識を得るの要素というものは既に卒業証書は得られた、学校は学校で修めたと思いますから、それを応用する。この読書力というものは恐ろしいもので、書物を読む力さえあれば、大概な問題が湧いても、どうかこうかそれに判断を下すことが出来る。私は農学を知ッておるような顔をしている、ところがいろいろな事を持ッて来る、大根にやる肥料はどんなのがようございましょうなんとかいうのがある、私が作る大根は筋ッぽくッていかぬ、とてもあなた方の養生にはなるまいと思うような大根が出来る、そこでこれを工夫して本をけて見ると、ちゃんと書いてある。私より怜悧な人が沢山世の中におる、大根の肥料の法を永い間研究しておる。ちょッと馬鹿じみた人に思いますけれども、怜悧な人が世の中におる、その人の言うことを聞いて作ると、とても私が講釈で言うような筋ッぽい大根ではない、しばしば私は質問に答えるに苦し紛れに、本を読んで、それで間に合わせた事がしばしばどころではない始終それでやッておる、間に合うことが多い。まず書物を読む力があれば、世の中の事は大概間に合ッて行く。故に私はこの卒業せらる方々によく記憶して戴きたいと思うことは、書物を読む力を失わぬようにせねばならぬことで、もうこれで安心だ、もう学校も卒業したからして、これで学者になッた、この巻物だか紙だか何だかある、これを持ッていさえすればよい、もう極楽浄土というような考ではいかぬ、ある尼でしたね、何とかいう、悟りを開いたという尼さんの歌がある、歌をやると、少し間違ッていかぬけれども、何でもこういうような意味でした。
乗得のりえては艪櫂ろかいもいらじ蜑小舟あまをぶね
   片瀬かたせなみのあらむかぎりは
 船に乗ッてしまえば艪も櫂もいらない、ただ片瀬の浪さえあれば流れて行くから、安心してて行くことが出来る。悟道の道に入れば、もう安心じゃというた尼の歌がある。あなた方も世の中に出れば、学校さえ去ッて卒業免状を持ッて行けば艪櫂もいらないという観念を持つ人が沢山ある、口ではなアにまだまだなんと言ッておるけれども、心の中で安心する人が沢山ある。ところがその尼の歌に答えた坊さんの歌がある。
乗得のりえても心許こゝろゆるすな蜑小舟あまをぶね
   片瀬かたせなみ浮沈うきしづみあり
 いくら船に乗ッても片瀬の浪があればよいと言うけれども、浮いたり沈んだりがあるから、油断の出来るものではないと言うたが、即ちそのおつもりで、あなた方も世の中に出られぬといかないと思う。私も学校というものは二つ三つ卒業してみた、そうして何でもえらい者になッた気でおッた、ところがどうして中々えらいどころではない、大根一本碌に出来ないような始末、学校の免状位では油断の出来るもんではない。書物というものも実際の問題になッて読めるぞと安心しておるうちに、力というやつは妙に蒸発するやつで、ことに口でも開いていようものならスーッと逃げてしまう。よく口を締めてから、油断しないで読書力を続けてやらんければならぬ。それには人の妻になろうがなるまいが、女房たる以上は努めて一日に十分でも二十分でもよいから、書物を読むというみちを作ッておくことが必要である。私は先達せんだッて台湾に三月ばかり行ッていて、十日前に京都へ帰ッて、外国人に会ッて英語をしゃべるのに、平生でもそう流暢りゅうちょうにしゃべるのではないが、ことにしゃべりにくかッた、そんなもので、学力だとか読書力とかいうようなものはすぐに蒸発してしまう。私は台湾に行ッて口を開いていたから、よほど蒸発が早かッた。この点に十分御注意あッて、実際的にこれを応用するには日に二十分か三十分位はきッと本を読む。日に二十分や三十分の時間というものは、どうやッても出来るものである、工夫さえすれば、御飯時だろうが、何だろうが、……といッて早く食ッちゃァいかぬ。グラッドストーンが二十ぺんんだという如く、また近頃はスレッチャレーションという事がはやッて、スレッチャーという人が何でも噛まなくてはいかぬといッてこれをやッたというが、とにかく時をぬすんで本をお読みなさい。日に二十分や三十分はどうしても出来る。それをいやだと思ッても無理にやらんければならぬ。
 その次にはこういう事がよいと思う。これも実際の話になりますが、日記をお書きなさい、英語で日記を書く、五行でも十行でもよろしい。また知らない英語が出て来たら、字引を引く、今五十銭も出すといくらも字引が出来ておる、安いものです。それを読んでみては、知らない字を探してから日記を作るという、これらも読書力を進めて行く一つの方法であろうと思う。
 それよりも、もう一つ大切な事がある。これは今横井さんの最後にお話になッたところの人格を養うということである。つまり書を読むということも、日記を書くということも、一つの技術となッて、技芸となッて、それを以て自分の衣食の補遺ほいとしようという者はいまだいやしい。良い書物を読んで心を養うと言うても、即ち人格を養うというても思想を高尚にするというても、これには最も英語を学ぶより良いものはなかろう、ということをお話があッたが、私もすこぶる同感である。と言うと、何だか自分も英学をかじッて人格が高尚かというに、そうではない。私は生半若なまはんじゃくでとても吾々の及ぶところじゃァない立派な人格を作ることが出来ようと思う。そうしてみると、あなた方は、ああ言う当人があんな人ならば、御免蒙ごめんこうむると言わるるかも知れぬが、私は一体、地が悪い、土台が悪いのです。一体は今頃は赤い着物でも着て、市ヶ谷辺におるか巣鴨の監獄に入ッてぶら付いておるべき人間であるが、英語を少し読んだがために、こんなフロックコートなどを着て、威張いばッた顔をしている。あなた方の地金であッたならば、大したものであろうと思う、その点に於て私は保険を附ける。この思想を養うということを第一の点として、英語を読んでもらいたいと思う。
 これから世の中に出ようものなら、うるさい事が沢山あるです、男より恐らくうるさい事が沢山あろうと思う。その時にはかねてこの学校でお読みになッた書物あるいはさッきからお話するところの日々に二十分なり三十分なりお読みなさる書物で学んだところの、即ち高尚な思想を応用するということを始終考えておッてからに、即ち此処ここだなと考える。少しうるさい事があッた時には、セキスピヤの文句にこういう事があッた此処のことを言うのであろう、とこう思う。私は自分でもつとめておるが、ああ此処だな、という観念を失ッちゃァならぬ。誰でも大概な人間というものは、私みたいなしょうのわるいやつでも、人の物がある、少し綺麗だと盗みたい……というのは少しおかしいが、欲しいという考がちょッと起る。その時それをちょいと実行すると妙なものになる。そういう時に、此処だな、と思うと、ちょッと半分手を出しそうにしても引込ますことになる。またあなた方が人とつきあうにしても、人がいやな気にさわるようなことを言う、少しムッとする。引掻いてやろうか、食付いてやろうか、と思う事がある。そういう時には、此処だなと思ッて、怒ッては悪いとか、盗んでは悪いとかいうことを想う。これを応用するに当ッて、例の事は此処だなと思う。平生から大概な人はそれをやらないから、瓢箪ひょうたんの川流れみたようになッてしまう。此処だなということを十分に一つ思ッて、かねがね学校で学ばれた英文学にあるところの高尚な思想を覚えておく。とかく女学校を出ると実際的の才がなくなッて、議論ばかりなどしていけない、うちの娘は女学校へやッても、味噌汁一つこしらえられない、どうも味噌汁が鹹酸からすくッていけない、などいう人もあるが、味噌汁の鹹酸いのや、辛いのは我慢も出来る、また鹹酸いと思ッたら、こうじ何升に塩いくらと書いてあるから、読書力を利用してやればよろしい。女学校へ来て味噌汁のこしらかたを習う人はない。それより大切なのは、思想を養うということで、味噌汁を拵えるのは、下手だけれども、ここに政治の問題が出た、それはこう、生活の問題が出た、それにはこうと、判断して行く。さッき横井さんの言われたいわゆる方針を誤らぬようにして行くのが確に得難い才である、その才を養う。どうせ世の中というものはジャンけんの世の中で、生れてから死ぬまで、ジャン拳しておる。はさみを出すと、石には負ける、けれども、紙には勝つという。そんなら石が何にでも勝つかというに、紙には負けるではありませぬか。ぐるぐる廻り勝ッたり負けたりする世の中で、あなた方が鋏を出してみて石には失敗しておる、しかし石には負けても紙には勝つということがある。味噌汁の方では負けるけれども、それより遥かに大切な問題の人生の解釈ということになると勝つ。その代りあなた方に、味噌汁で勝つお婆さんは、そういう大切な問題では負けるというジャン拳の世の中である。そんなことはあまり苦にすることはいるまいと思う。最も大切な所は思想を健全にするということで、私は始終そう思うておる。英語のうちうまことばがある、日本の詩や歌にも美いのがあるけれども、私は今日卒業なされる方々にお別れの言葉として、私のごく好きな詩の一句がある、誰が書いた詩か知らぬけれども実に穿うがッた詩だと思ッておる。皆様は英学をやり、しかも卒業せられた方々であるから、翻訳してお話する必要もあるまいが、その句に、つまり困難というものは、如何いかなる困難があッてもそれを決してのがれてはいかぬ、逃げてはいかぬ、それをえろ。先刻お話のあッた通り、物に堪えるという力をかねがね養ッて行け、ややもすると困難が来ると逃げる人があるが、逃げてはいかぬ。世の中に出れば、それは困難は沢山ある、その困難をただ重い困難であるというて、それがために重きを背負ッて弱るようではいかぬ。その艱難かんなんを利用しておのれの人格を一層高くするという意味で書いた歌に、(原詩略す)実にどうも美事みごとな言葉です。世の中に出られたならば、この艱難ということのはじまりである、また既に初まッておる方もありましょう。その時に当ッてよく心を養うものは何かというと、まず耶蘇教ヤソきょうの人ならばバイブル、耶蘇教でない人ならば、これは卒業なさる方々に言うのであるが、かねがね学校で学ばれたところの英国の文学者の言葉に、かくの如き思想が始終あると、ちゃんと良い本ならば一ページごとに注意しておくようにする。この言葉を以て今日卒業せらるる方々を送る。如何いかなる困難にッても逃げないでかえッて自分の人格を養う一ツの道具として行く、即ち英文学を利用して人格を高める、ということに心を用いられんことをせつに希望しておきます。学校に残ッておられる方々にもお話するはずであッたが、何しろ五分ばかりのつもりのところが、大分長くなッたから、いずれまた学校に残ッておるお方は長寿ながいきをなさるだろうし、私は尚更なおさら長寿をするつもりだから、またいつか上ッてつまらぬ演説をする事もありましょう。
〔一九〇五年四月一五日『をんな』五巻四号〕

底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「をんな 五巻四号」大日本女学会
   1905(明治38)年4月15日
初出:「をんな 五巻四号」大日本女学会
   1905(明治38)年4月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2010年7月6日作成
2011年4月12日修正
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