東西もまた然り、誰人も知るかのキップリング氏の「東は東、西は西、両者永遠に相逢うことなし」の一句を聞けば、前の詩篇の句の如く東西は全然反対の位地にあるものの如く聞ゆれども、そもそも東西を別つ標準は何にあるかと質せば、これ実に独断的のものにして、各自の立っているその場所を以て基点とする位なものである。地理学者が東西を論ずる時、何処を起算点となすか、決して未だ一定してはいない。ただ普通には倫敦の近郊グリーニッチを以て起算点とするが、それはこの村に天然に起算点とすべき物が備わっているためでもなく、天啓によりてこれを定めたわけでもない。たまたま此所に相当完備した天文台があったからかく定めたので、仏人はこの地を択んだことを喜ばないで、自国に便利なる場所を主張する。独逸人も寧ろ伯林を以て起算点としたいと論じ、米国人はワシントンその他何れにても相当に完備した自国の天文台の所在地を以てこれに当てんとしている。十五世紀の頃にはアレキサンダー法王が世界を二分して西は西班牙に与え、東は葡萄牙に分けた。しかしてその時の起算点はアゾーレス群島の近傍であった。かくの如く東西なる語は単に相対語であって、しかもこれを測る標準さえも確定していない有様である。まして東邦とか西国とかいうが如き区域を指すにはあまりに茫漠の言葉である。
我々幼少時代に読んだ西遊記の如きは支那人が印度に旅行した記事であって、印度を西国といったのである。西洋人がこの表題を見たら理解に苦むであろう。元来関係語である以上、同じ国土を東の人は西と称し、西の者が東と称するは、猶太の例を以ても知らる。即ち欧洲人は猶太の国を東国と称し、波斯人は彼らを西人と呼んでいる。もっと著しい例は彼の比律賓群島である。前述の如くアレキサンダー法王の分割により西班牙人は西方を我が領土として進んだがために米国に渡り、その後なお西漸して太平洋を横切って比律賓群島に達した。その時、この群島を西ヶ島と命名した。殆どこれと同じ時代に葡萄牙人は東方を領土と心得てその方角に進み、亜弗利加に国旗を建て、なお東漸して印度に渡り、遂に比律賓群島を占領し、この群島を東の島と名づけた。されば比律賓は西島とも呼ばれ東島とも称された。かくては「東は東、西は西、両者永遠に相逢うことなし」の面目は何処にあるか。寧ろ西も東、東も西、両者永遠に別るることなしというもまんざら詭弁ではなかろう。
然らば一体どういう理由で東方西方、東洋西洋などいう言葉が今日の如く盛に用いらるるようになったか。我輩思うにこの区別の起りは最初は羅馬時代であったと。羅馬はその範図を拡張するに当り、西方は渺茫たる大西洋に遮られ、その間僅に西班牙、仏蘭西、英吉利等あるのみであるが、東方に於ては欧洲の大部分を征服し、更に足一たび亜細亜に向えばそこに茫漠たる大陸を占むるの余地あり、少しく南方に向えば同じく大陸として亜弗利加を領するを得たが故に、羅馬帝国は制限なしに東方に進展するを得た。ところが羅馬に最も近き所に希臘あり、その文化は羅馬に比べて遥に優っていた。また小亜細亜よりアラビヤ、埃及に進めば、これまた本国羅馬に優るとも劣らぬ文化があったために、羅馬人はこれらの国を治むるに到底本国と同じ筆法を以てするの不可能なるを察し、始から特別の行政機関を設けて、政治的には羅馬人は優秀であるが、文学技術その他文化の大体に於ては東方が遥に羅馬に優れているので、羅馬人はこれらの諸国を治むるに少なからざる尊敬を払うていたらしい。しかしてその制度は本国を治むるのと大分に異っていた。ここに於て東西の区別を明にし、その後羅馬人は帝政を建てるに及んで、西帝国、東帝国の起ったのもこれが故である。これが伝統的に当年まで続いて、西といえば欧羅巴、東といえば亜細亜というように大体区別がつくようになった。その以前を考うればかくの如き分割法は当を得たものでない。欧洲と亜細亜との境界は山でも海でも判然としたものでない。陸にはウラル山が境をなしているが、この山はその長さこそ百四十哩もあるが、幅は拾六哩ないし六拾六哩にして、最高点は僅か五千呎位なるを見れば、如何にその傾斜の緩なるかが分る。お互に西伯利亜鉄道で欧洲に行くものは何時の間にこの小山脈を越えたか気づかぬ位である。欧亜間の海に至っては五拾哩で、南路の広い所を迂回しても弐百哩位なもので、その間は幾多の島つづきであって、小舟を以て自由に来往される。ダーダネルの海峡は遠い所で五哩、近い所は拾四町。
ただに地理上欧亜の区別なきのみならず、民族関係に於てもまた両者の間に明瞭な区別が存していない。欧洲人が誇りとしている希臘文化を建造した人種は果して何者か、未だ学術上の調査は審でないが、仮りに彼らは北方より来たアキアン民族であったとしても、小亜細亜との関係の密なるものあることだけは確らしい。よし同地には別な人種が住居していて、両者の間に区別があったとしても、その文化は複雑し密接しており、仏国のある地理学者が亜細亜の西の端を「ノーダル・ポイント」(結紮点)といい、東方文明と西方文明とが結びつけられ、何れともつかぬ所もしくは両方についた所ともいい得べき場所柄だと称しているが、実にその通りであって、東西の相融和しないという説の如きは甚だ疑わしく、両者は融和するのみならず、その元は一なりともいいたいほどである。
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中古時代、土耳古人が勢威を振うに及び、折角アレキサンダー大帝の苦心にかかる東西結び着けの計画も全く破壊され、小亜細亜に一大城壁を築いて、西から東に来るものを禁じ、また東から西に来るものを止め、鎖国政策に似たる政策を行うて東西の関係を阻隔してしまった。これがために文化的交通は行われず、商品さえもその輸出入の自由を欠き、東西はいよいよ分離した。丁度我国に於て鎖国を行ったために曲りながらも自国の文化がある程度まで発達した如く、中古時代になって西洋は西洋で独立の文化を営み、東洋は東洋で固有の発達をなすことになり、相互に補う便利がなくなった。あるいはこれがために各民族が各々固有の文化を発揮し、かえって独得の美術、思想等を涵養し、大体に於て人類一般の進歩に貢献するようになったと思われようが、ある事に就てはそうであろう。しかし他の方面に於てはこれがために何れも円満なる発達を阻止された憾も大にあると思われる。現に我国の鎖国制度の下に我国固有の文化が奨励されたとはいいながら、我民族の精神的に圧迫されねじけた結果は決して喜ぶべきものでない。芸術はために進んだとしても、科学と政治思想はために畏縮した。由って広い世界の空気を吸い損ない、人間が大きく太り兼ねたこと、また大志大望あるものが世界を相手に競争の出来なかったこと等を想えば、ある小さな技芸に於て繊細な手先の仕事は発達したとしても、差引勘定して利害は果して如何あろう。それと同じく東西の交通の切断されたために東も西も共に精神的に少なからぬ損害を蒙って片輪になったのではなかろうか。
プラトーの物語に人類はもと真円の球形をしていた。顔は両面あり手も四本、足も四本あり、両性を兼ねていた。そして各人間は完全円満なものであった。然るにその完全円満を誇った罰としてそのまま二にぶち割られてしまったために、脊には五感の機能もなく、一方のみを見る存在となった。かつ性も分れて男性女性となって今日に至った。然るに昔の夢恋しきために男性は女性を慕い、女性は男性を慕うに至ったという。この有名な話は一種の滑稽談に過ぎぬとはいいながら、人間の性質のもと円満なりしものが今日の如く一方に偏するに至った説明としては教訓多き物語である。人間の説明としては疑わしいが、これを全世界にあてはめてみれば、この教訓は一層興味を加える。円満なる地球には東も西もなかったが、前に述べた土耳古人の障害物によりて地球は二に割られ、ここに始めて東と西とに分立し、互に敵視していたが、爾来星霜幾変遷するに従い、自分個人のみにては完全ならざることを悟り、近来真面目に人生を考うるものは、西洋人で東洋に憧がれ、東洋人は西洋を慕う有様にある。ただしこの景慕の情がまだ充分に成熟せずして東洋人中には西洋人を忌み嫌うものあり、西洋人中には東洋人を劣等視するむきもあるから、理想家が望むが如き融和を見るに至らぬけれども、しかし今日ではたしかに両者相接近する傾向あることだけは否まれぬ。この傾向の人々は今なお少数の個人に止まれるも、しかもその説教、学説、あるいは文章、あるいは芸術、あるいは政策によりて東西の益々近づくものと信じている。この任に当るべき個人は未来の世界の構造者であり先駆者である。ただ惜むらくは先覚者あるいは予言者たるものが自己の時代に名誉も名望も得難いことは歴史のよく示すところである。近頃誰人も口ずさむキプリング氏の「西は西、東は東、両者永遠に相逢うことなし」の一句が不幸にして各国に拡がっているが、同詩の次の句中に、「されど二人の強き者ども相直面して立つ時は、両者の間国境も種族も系統の差なし、ヨシ彼らは世界の端と端より来るとも」とある。
ここだ、二人の強き個人が互に直面して互の顔を見合い、互の心を打明けて相接する時は、両者は純然たる人間として交わることなれば、その間に何の蟠もなく、相手が外国人なるか自国人なるかの差までも消え失せるのである。我々もしばしば知人の口より聞くことであり、また外国人よりも同じことを耳にするが、卓越した人が相逢う時は国籍や人種の区別なく、碌々言語が相通ぜなくとも、一見旧知の如く愉快に数時間の会見をして別れることは、我輩の多く目撃したことである。これらは何れも人間として普通の性質を遠慮なく発露するからである。朋遠方より来るまた悦ばしからずや。
キプリング氏のこの詩句は大に味うべき所がある、ただに美辞というに止まらない、その根柢的思想は、東西の別は風俗習慣あるいは思想に於て大差を見るが、境遇に捉われない、進んだものの中には共通点あるを意味するのであって、風俗習慣あるいは民俗を支配する思想から姑く脱すれば、西人東人の共鳴する所が多い。これ即ち国民外交の基ともいうべきものであって、かくの如き心柄の個人が益々多くなればなるほど東西の親睦の強度が加わる。東西の諒解を図るに当って、勿論国家の斡旋は欠くべからざる条件であるが、これは寧ろ形式、法理の上のことであって、事実上、精神的にこの目的を遂行するには高き人道の立場あるいは深き学理に基いて、理由もなきに常に他国を敵視するが如き、狭小なる国家主義を脱したものの力によらざれば、実現は不可能である。個人としても国民としても自ら悪意や猜疑心を以て暗雲を立て、東西の方角までも朦朧たらしむるに代え、善意と友情によりて碧空一点の雲翳を止めざる所まで昇るを要する。
雲よりも上なる空に出でぬれば
雨の降る夜も月をこそ見れ
誰かこの雲上の高きに昇るものぞ。雨の降る夜も月をこそ見れ
横なる東西の関係を理解するものは、縦なる上下乾坤のそれを会得してしかして後に初めてなし能うものであるまいか。分け登る麓の途こそ東西南北の差あれ、達する末は高嶺なる如く、種々に分かるる人種、互に敵視する数多の国家の使命も終局の点に於て一に帰するであろう。現代の将来に貢献すべき事多き中にこの終局に向って一条なりとも光明を放ち、あるいは一歩なりとも進むのが第一の任務である。殊に昔より日本人は国外の思想や文化を鑑識する事を以て得意としている。現に我国の今日あるは外国に負うこと多きに見ても明である。近頃メーソンという米国人が『東方の光』の題の下に一小冊を公にした。その中に印度は宗教霊的の天恵に富み、支那は礼儀芸術の道に篤いけれども、両民族とも功利活用の才能に乏しい。独り日本人のみが人類に欠くべからざる三徳と称すべき、霊妙の作用と美的観念と応用の能力を平等に兼備すると歎賞している。ウッカリ人の誉詞には乗れないが、同氏の言は確かに我民族の特長を挙げたものと思わるる。この活力と才能を有すればこそ、メーソン氏のいう西洋の功利的文化を咀嚼し得る東洋人は同胞のみなのだ。西洋人は到底日本人ほど印度の霊妙、支那の技芸の蘊奥を研め得ぬから、結局東西の文化を悉く咀嚼し世界的完全なる発達を遂げる者は大和民族ならんか。
〔一九二八年一〇月二九日『東西相触れて』〕