今は特に工藝の面で日本を樹て直さねばならぬ時に来ました。今後手仕事の要求はいよいよ深く感じられるでありましょう。幸か不幸か今に至ってその意義を深く省るべきよき機会が到来したと思えます。日本は手仕事の日本を更に活かさねばなりません。それ故この一冊は戦争直前の日本を語ったものではありますが、戦後においてかえって必要とされる案内書となるかと思われます。仮令幾許かの部分は、現在を語り得なくなったとはいえ、追憶すべき記録として、私はそのままにして版に附します。そうしてこの本を通し、どの地方にどんな伝統があるかを顧み、そこに根ざして新しい発足を促し得るなら、著者にとってどんなに感謝すべきことでありましょう。
終りにこの本の出版にまつわる一、二のことを書き添えます。この本はもう三年前に書き終えて、日本出版文化協会の規定によって検閲を受けました。今から想うと笑い草にもなりますが、幾多の言葉が不穏当だというので、修正を受けました。例えば佐渡が島を語る時、順徳帝のことに言い及びましたら「絶対削除」と朱を加えられました。地理を述べる時、「日本は朝鮮のような半島ではなく島国である」と記しましたら、朝鮮云々の数語は抹殺されました。岐阜提灯には、「強さの美はないが、平和を愛する心の現れがある」と書きましたら、平和の二字は用ゆべからざるものとされました。その他種々。こうしてやっと検閲者の眼に穏当となった原稿は、東雲堂の手で組版にかかりました。しかし幸か不幸か戦争はその完了を困難にしました。そうして他に種々な事情も加わり一旦仕事は中止され、出版は新しく靖文社の手へ移されました。かくするうちに戦争は終結し、厳しい統制は崩壊し、「文協」もまた程なく解体しました。私は再び原稿を校訂し、多くの増補修正を施して、面目を一新する機会を得ました。
元来この本は若い青少年を目当に書いたので、なるべく平易な叙述を心掛けましたが、この種の書き方に慣れぬため、不充分な結果に終ったことを本意なく思います。むしろ一般の人々へ常識の本として更に役立つのかと思います。本書の意図については巻末の後記に記しました。
準備された沢山の小間絵は不幸にして戦災を受け悉く烏有に帰しました。そのため再び芹沢介君の手を煩わして、凡てを描き改めて貰わねばなりませんでした。しかも前よりも一段と数多くのものが届けられました。これらの小間絵はきっと読者の目を楽しませることと思います。その組入れ方は必ずしも本文に該当する個所に差入れたのではありません。ほぼ国別にして順次に挟んだものであります。
今から想えばこの本の草稿が災禍を免れて無事なるを得たのは大きな恵みでありました。ただこれとほとんど同時に出すはずでありました更に大きな著書『民藝図録、現在篇』は、不幸にも原稿の全部が灰燼に帰しました。長年の努力に成っただけに深い痛手でありました。この本の最もよい参考書となるはずでありましたので、心惜しく思います。
本書の出版に関して厚誼を受けた新井直弥、南方靖一郎の両氏に、また補筆のため私に静かな室を与えられた斎藤一二君に厚い謝意を表したく思います。校正その他荒木道子さんに負うところが大きいのも書き添えねばなりません。
昭和廿一年正月下浣
総州九十九里浜の寓居にて
著者
[#改丁]貴方がたはとくと考えられたことがあるでしょうか、今も日本が素晴らしい手仕事の国であるということを。確に見届けたその事実を広くお報らせするのが、この本の目的であります。西洋では機械の働きが余りに盛で、手仕事の方は衰えてしまいました。しかしそれに片寄り過ぎては色々の害が現れます。それで各国とも手の技を盛返そうと努めております。なぜ機械仕事と共に手仕事が必要なのでありましょうか。機械に依らなければ出来ない品物があると共に、機械では生れないものが数々あるわけであります。凡てを機械に任せてしまうと、第一に国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものを共通にしてしまう傾きがあります。それに残念なことに、機械はとかく利得のために用いられるので、出来る品物が粗末になりがちであります。それに人間が機械に使われてしまうためか、働く人からとかく悦びを奪ってしまいます。こういうことが禍いして、機械製品には良いものが少くなってきました。これらの欠点を補うためには、どうしても手仕事が守られねばなりません。その優れた点は多くの場合民族的な特色が濃く現れてくることと、品物が手堅く親切に作られることとであります。そこには自由と責任とが保たれます、そのため仕事に悦びが伴ったり、また新しいものを創る力が現れたりします。それ故手仕事を最も人間的な仕事と見てよいでありましょう。ここにその最も大きな特性があると思われます。仮りにこういう人間的な働きがなくなったら、この世に美しいものは、どんなに少くなって来るでありましょう。各国で機械の発達を計ると共に、手仕事を大切にするのは、当然な理由があるといわねばなりません。西洋では「手で作ったもの」というと直ちに「良い品」を意味するようにさえなってきました。人間の手には信頼すべき性質が宿ります。
欧米の事情に比べますと、日本は遥かにまだ手仕事に恵まれた国なのを気附きます。各地方にはそれぞれ特色のある品物が今も手で作られつつあります。例えば手漉きの紙や、手轆轤の焼物などが、日本ほど今も盛に作り続けられている国は、他には稀ではないかと思われます。
しかし残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだという反省が行き渡っておりません。それどころか、手仕事などは時代にとり残されたものだという考えが強まってきました。そのため多くは投げやりにしてあります。このままですと手仕事は段々衰えて、機械生産のみ盛になる時が来るでありましょう。しかし私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日本の固有な美しさを守るために手仕事の歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。
それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。この本は皆さんにそれをお報らせしようとするのであります。地方に旅をなさる時があったら、この本を鞄の一隅に入れて下さい。貴方がたの旅の良い友達となるでありましょう。
元来我国を「手の国」と呼んでもよいくらいだと思います。国民の手の器用さは誰も気附くところであります。手という文字をどんなに沢山用いているかを見てもよく分ります。「上手」とか「下手」とかいう言葉は、直ちに手の技を語ります。「手堅い」とか「手並がよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか皆手に因んだ言い方であります。「手腕」があるといえば力量のある意味であります。それ故「腕利」とか「腕揃」などという言葉も現れてきます。それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」、「騎り手」などの如く、ほとんど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから、手に因む文字は大変な数に上ります。
そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。手より更に神秘な機械があるでありましょうか。一国にとってなぜ手に依る仕事が大切な意味を持ち来すかの理由を、誰もよく省みねばなりません。
それでは自然が人間に授けてくれたこの両手が、今日本でどんな働きをなしつつあるのでしょうか。それを見届けたく思います。
[#改丁]
私と一緒に日本の地図を広げて下さい。故国の地図はいつ見ても見厭きません。その島や岬や港や町はみんな物語を有っているからであります。山や河や平野や湖水も、それぞれに歴史を語っているからであります。この親しい国を離れて吾々の生活はありません。地図はいつ見ても私たちに母国への愛を呼び醒まします。どの国の人といえどもその国に生れたという運命に、どこまでも感謝と誇りとを有つことが務めではないでしょうか。
日本の姿とでもいえるその地図を、今日はまた新な見方から眺めましょう。見ても見厭きないのは、見る毎に何か新しい日本の姿が浮んでくるからであります。今日眺めようというのは、他でもありません。北から中央、さては西や南にかけて、この日本が今どんな固有の品物を作ったり用いたりしているかということであります。これは何より地理と深い関係を持ちます。気候風土を離れて、品物は決して生れては来ないからであります。どの地方にどんな物があるかということを考えると、地図がまた新しい意味を現して来ます。仮りに図面に、各地で出来る品物の絵を描いて見るとしましょう。それはとても面白い地図となるでしょう。南の方では焼物が美しく肩を並べていたり、北の方では蓑だとか藁沓だとかが大変綺麗に編んであったりするのを見かけます。そうかと思うと離れ島の八丈には、黄色い立派な織物が描いてあったりするのを見出します。この本はそういう地図を皆さんにお見せするために書かれるのであります。
皆さんも知っておられるように、日本は南北にとても細長い国であります。北は北海道という冠を頂き、大きな本州はその体であり、四国や九州の島々はいわば手足に当るような部分であります。千島の果から沖縄の先まで見ますと氷りついている寒い土地から、雪を知らない暑い国にまで及びます。寒帯、温帯、亜熱帯、その凡てを備えているのが我が国であります。面積の小さな一国でこんな様々な風土を有っている国も珍らしいでありましょう。
日本は島国であります。支那のような大陸でもなければ、朝鮮のような半島でもありません。亜細亜の東に全く海に囲まれながら、長い帯でも引くように連っている島国であります。西には日本海を湛えて大陸に対し、東や南には、果しもない太平洋の海原を控えます。中央には富嶽の麗わしい姿を中心に山脈が相連り、幾多の河川や湖沼がその間を縫い、下には模様のように平野の裳裾が広がります。南は常夏の国とて、緑の色に濃く被われ、目も鮮かな花が咲き乱れ、岸辺には紫や青や黄色の魚が游ぐのを見られるでしょう。北は冬にでもなれば、満目凡て雪に被われ、山も河も野も家も、凡て白一色に変ります。
こんなにも様々な気候や風土を有つ国でありますから、植物だとて鳥獣だとて驚くほどの種類に恵まれます。人間の生活とても様々な変化を示し、各地の風俗や行事を見ますと、所に応じてどんなに異るかが見られます。用いている言葉だとて、それぞれに特色を示しております。これらのことはやがて各地で拵えられる品物が、種類において形において色において、様々な変化を示すことを語るでありましょう。いわば地方色に彩られていないものとてはありません。少くとも日本の本来のものは、それぞれに固有の姿を有って生れました。
さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えてみますと、二つの大きな基礎があることに気附かれます。一つは自然であり、一つは歴史であります。自然というのは神が仕組む天与のものであり、歴史というのは人間が開発した努力の跡であります、どんなものも自然と人間との交りから生み出されて行きます。
中でも自然こそは凡てのものの基礎であるといわねばなりません。その力は限りなく大きく終りなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する宗教が絶えないのは無理もありません。日輪を仰ぐ信仰や、山岳を敬う信心は人間の抱く必然な感情でありました。我が国の日の丸の旗も、万物を照らし育てる太陽の大を讃える心の現れだと見てよいでありましょう。
ですが轟く雷鳴に神の威光を感じたり、吹きすさぶ嵐にその怒りを畏れたりする気持ちは、素朴な人たちの感情とも見られます。段々人間の智慧が進むにつれて、自然への尊敬は、もっと理由のはっきりしたものへと進みました。科学者たちは自然がどんなに深いものなのかをよく知っている人たちであります。凡ての学問はその不思議さの泉を訪ねるためだともいえるでありましょう。ですが科学者ばかりではありません。藝術家も自然の美しさの終りないことをよく知っている人たちであります。その美しさへの驚きを語ることが彼らの製作でありました。学藝の道が開かれるにつれて、自然の姿はますますその大きさと深さとを現わして来ました。それはもはや素朴な驚きではなく、もっと理に適った驚きなのであります。人間にもしこの驚きがなくなったら、真理を探る心も美を現す道も衰えてしまうでありましょう。
私は再び地理に帰りましょう。日本は美しい自然に恵まれた国として世界でも名があります。四季の美を歌った詩人や、花鳥の美を描いた画家が、どんなに多いことでしょう。前にも述べました通り、寒暖の二つを共に有つこの国は、風土に従って多種多様な資材に恵まれています。例を植物に取ると致しましょう。柔かい桐や杉を始めとし、松や桜や、さては堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、斑のある楓や柾目の檜。それぞれに異った性質を示して吾々の用途を待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか木目だとか、好みは細かく分れます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は他にないでありましょう。しかしそれは凡て日本の地理から来る恩恵なのであります。自然からの驚くべき贈物でないものはありません。美しい材を用いるということは、やがて自然の美しさを讃えているに外なりません。平に削ったりあるいはそれを磨いたりすることは、要するに自然の有つ美しさを、いやが上にも冴えさすためであります。自然を離れては、また自然に叛いては、どんなものも美しくはなり難いでしょう。一つの品物を作るということは、自然の恵みを記録しているようなものであります。そうして如何に日本が、そういう自然に恵まれた国であるかを反省することは、日本を正しく見直す所以になるでありましょう。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然であることを見ました。何ものもこの自然を離れては存在することが出来ません。しかしもう一つ他に大きな基礎をなしているものがあります。それは一国の固有な歴史であります。歴史とは何なのでしょうか。
それはこの地上における人間の生活の出来事であります。それが積み重って今日の生活を成しているのであります。ですからどんな現在も、過去を背負うているといわねばなりません。吾々は突然にこの地上に現れたのではなく、それは長い時の流れと、多くの人々の力とによって徐々に今日を得たのであります。日本はもう二千余年という齢を重ね、その間に多くの祖先たちの力が合さって、今日の日本を築き上げてくれました。どんなものも歴史のお蔭を受けぬものはありません。天が与えてくれた自然と、人間が育てた歴史と、この二つの大きな力に支えられて、吾々の生活があるのであります。
古くから東洋の教えは、祖先を尊ぶべきことを説きました。そうして家々には厨子を設け、祖先の霊を祀る風が行われております。これが東洋における一つの道徳となっていることは皆さんも御承知のことと存じます。実際吾々が今日こうやって活きているのは、祖先のお蔭であって、吾々の智慧も経験も生活も思想も、多かれ少かれ、祖先から受け継いでいるのであります。もし自分一人の力で何もかもしなければならないとしたら、どんな人も極めて幼穉な生活より出来ないでありましょう。否、生きてゆく力さえないでありましょう。火をどうして得、家をどうして作り、着物をどうして織るか、誰がそんなことをすぐ知り得るでしょう。皆祖先たちの智慧や経験に助けられて、今の生活を得ているのであります。もし歴史が後に控えていなかったら、あの簡単に見える草履一つだって作るのに難儀をするでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方にくれるでありましょう。吾々の言葉だとて、なくなってしまうでありましょう。これを想うと、どんなものも歴史的なつながりを有って、存在していることが分ります。吾々の生活はどうしても歴史と縁を切ることが出来ません。
ここで私たちは、歴史を大切にすることがどんなに必要だかが分ります。大切にするというのは、歴史が積み重ねてくれたよい点を更に育てて、歴史を更になおよい歴史に進めてゆくことであります。私たちの為すべき務めは、ただ歴史を繰り返すことではありません。まして歴史に叛いたり歴史を粗末に扱ったりすることではありません。歴史の中で最も特色がありまた優れている面をよく理解して、それを更に進歩させ発展させてゆくことであります。こういう進み方が一番理に適ったものでありましょう。またそれが祖先たちの功績に報いる所以だと思われます。のみならず歴史の上に立つということは、丁度確りした大きな礎の上に家を建てることと同じでありまして、これほど安全なまた至当なことはないでありましょう。
吾々は日本人であります。それ故日本人としての生活に悦びを抱きます。しかし考えてみますと、吾々が現在用いています品物にどれだけ日本的なものがあるでしょうか。都会の生活などを見ますと、それが甚だ乏しくなっているのを気附きます。知らず識らずの間に、余りにも沢山西洋風なものを取り入れて来たからであります。それは明治この方起った著しい変化でありました。それ以前の日本人はほとんど凡て純粋に日本のものばかりで暮していました。そうしてそれらのものには立派なものが沢山ありましたが、新しい時代では一途に古くさいものと思い込まれました。従ってその値打が軽く見られ、日本的な多くのものを惜気もなく棄て去りました。
もとより明治になって西洋文化を盛に取り入れ、これを熱心に勉強したことは、日本の発達にとって大変役立ったことは申すに及びません。ですが半面に二つの弊をも伴いました。一つは極端な西洋崇拝に陥る人が沢山出たことであります。二つにはその結果、日本的なものを軽んずる風習がこれに伴ったことであります。これは日本文化にとって由々しき問題ではないでしょうか。
吾々は日本人でありますから、出来るだけ日本的なものを育てるべきだと思います。丁度支那の国では支那のものを、印度では印度のものを活かすべきなのと同じであります。西洋の模造品や追従品でないもの、即ち故国の特色あるものを作り、またそれで暮すことに誇りを持たねばなりません。たとえ西洋の風を加味したものでも、充分日本で咀嚼されたものを尊ばねばなりません。日本人は日本で生れた固有のものを主にして暮すのが至当でありましょう。故国に見るべき品がないなら致し方ありません。しかし幸なことに、まだまだ立派な質を有ったものが各地に色々と残っているのであります。それを作る工人たちも少くはありません。技術もまた相当に保たれているのであります。ただ残念なことに前にも述べた通り、それらのものの値打ちを見てくれる人が少くなったため、日本的なものはかえって等閑にされたままであります。誰からも遅れたものに思われて、細々とその仕事を続けているような状態であります。それ故今後何かの道でこれを保護しない限り、取り返しのつかぬ損失が来ると思われます。それらのものに再び固有の美しさを認め、伝統の価値を見直し、それらを健全なものに育てることこそ、今の日本人に課せられた重い使命だと信じます。
私は伝統という言葉を用いました。それはどういう意味を持つのでしょうか。伝統とは長い時代を通し、吾々の祖先たちが、様々な経験によって積み重ねてきた文化の脈を指すのであります。そこには思想もあり、風習もあり、智慧もあり、技術もあり、言語もあるわけであります。それは個人のものではなく、国民全体の所持するものであります。いわば歴史的なまた社会的な性質を帯びます。かかる伝統はその国固有のものでありますから、国家的な財産と見做してよいでありましょう。吾々の祖先が吾々に伝えてくれた大切な遺産なのであります。いわば最も国民的な持物であります。吾々の文化に固有な性質を与えているのはかかる伝統の力であります。それ故日本の存在にとってこれがどんなに貴重なものであるかは申すまでもありません。もし伝統がなかったら、どんな国も独立した文化を保つことは出来ないでありましょう。伝統の豊な国ほど、はっきりした存在を持つことが出来るわけであります。
それ故私たちは現在の日本が伝統に基いてどんな仕事を続けているか。またかかるものにどんな価値を見出し得るかを、まず訊しておかねばなりません。それによって始めて未来の方針を正しく樹てることが出来るでありましょう。どこにどんな品があり、どんな材料があり、どんな技術があり、そうしてどんな工人たちがいるか、まずこれらのことを知っておかねばなりません。伝統の上に立つ日本を活かすためには、これらの理解がどんなに役立つことでありましょう。
[#改丁]
私はこれから日本国中を旅行致そうとするのであります。しかし景色を見たり、お寺に詣でたり、名所を訪ねたりするのではありません。その土地で生れた郷土の品物を探しに行くのであります。日本の姿を有ったもの、少くとも日本でよくこなされたものを見て廻ろうとするのであります。それもただ日本のものというのではなく、日本のものして[#「日本のものして」はママ]誇ってよい品物、即ち正しくて美しいものを訪ねたく思います。そういうものが何処にあり、またどれだけあるのでしょうか。どんな風に作られているのでしょうか。
何も一種類のものを見て廻ろうとするのではありません。平常吾々が生活に用いるものを凡て訪ねたいと思います。焼物もあり、染物もあり、織物もあり、金物もあり、塗物もあり、また木や竹や革や紙の細工などもあるでしょう。きっとある国には甲のものがあっても、乙のものがなかったり、また同じ乙でも地方で材料の性質が違ったりするでありましょう。またある種類のものはほとんどどの県にもあるのに、あるものはわずか二、三の個所によりないということもありましょう。また同じ地方でも、ある村で立派なものを作るのに、すぐその隣村では作り方すら知らないというような場合もありましょう。それ故もののある場所やその技は、万べんなく一様に行き渡っているわけではありません。日本は今どんな所でどんなものを作っているのでしょうか。私の筆はこれから全国を廻って、日本がどれだけ誇るに足りるものを有っているかを、記してゆこうとするのであります。
時代はますます機械の発達を促すでありましょう。しかし不幸なことに今日までは、それが主として慾得のために利用せられる形となりました。そのため良い品を作るということは二の次にせられました。物が粗悪になるのは避けられないその結果でありました。人間の道徳がもっと進み、機械もそれに応じて発達するなら、どんなに製品はその姿を更えることでありましょう。ですが機械はいつ人間の利慾から解放せられるのでありましょうか。
幸にも手仕事の世界に来ますと、人間の自由が保たれ、責任の道徳が遥かによく働いているのを見出します。親切な着実な品を誇る気風が、まだ廃れてはおりません。品物として幾多の健全なものが今も作られつつあるのを見ます。しかも多くはその土地から生れた固有な姿を示します。もとより手仕事の凡てが良いわけでは決してありません。中には誤ったものや粗末なものもまじります。のみならずこれからの仕事を凡て手に委ねるわけにはゆきません。しかし手仕事の中に見出せる健康な性質や固有な特色は、今後ますます活かされねばなりません。段々機械の力に圧倒されて、正直な仕事が衰えてきた今日、尚更手仕事のよき面を省るべきだと思います。ですが日本には果してどんな着実な手仕事が残っているのでありましょうか。
この旅は幸にも、激しい変り方をした日本であるにかかわらず、今なお固有な品が決して少くないということを示してくれるでありましょう。伝統は根強く今も護られているのであります。おそらく狭い面積の割には、世界中で日本ほど多くの手仕事を有っている国は、他に少いのではありますまいか。
ただそういう手技は、いち早く外来の文化を取入れた都市やその附近には少く、離れた遠い地方に多いということが分ります。それは田舎の方がずっとよく昔を守って習慣を崩さないからであります。それに消費者の多い都会は、機械による商品の集るところですが、これに引きかえ生産する田舎は自ら作って暮す風習が残ります。しかも自家使いのものや、特別の注文による品は念入りに作られます。これに対し儲けるために粗製濫造した商品の方には、誤魔化しものが多くなります。手仕事の方には悪い品を作っては恥じだという気風がまだ衰えてはおりません。このことは日本にとって、地方の存在がどんなに大切なものであるかを告げるでありましょう。もし日本の凡てが新しい都風なものに靡いたとするなら、日本はついに日本的な着実な品物を持たなくなるに至るでありましょう。
概して言いますと、特色ある品物が一番数多く作られるのは農村で、山村これにつぎ漁村は割合に少いことが気附かれます。それは暮し方や仕事の性質にも因り、また資材の関係にも依るのでありましょう。また古い城下町などには伝統を続ける工人たちをよく見かけます。そういう町々には、紺屋町とか箪笥町とか塗屋町とか鋳物師町とか呼ぶ名さえ残ります。日本におけるそういう町の名を集めたら、面白い一冊子さえ編めるでありましょう。
また注意しなければならないのは、商売人に成りすました人が作る品よりも、半分は百姓をして暮す人の作ったものの方に、ずっと正直な品が多いということであります。それは農業が与える影響によるのだと思われます。大地で働く生活には、どこか正直な健康なものがあるからでありましょう。これに比べ商人に成り切ると、とかく利慾のために心が濁ってしまうのに因りましょう。半農半工の形は概してよい結果を齎らします。
それに正直な品物の多い地方を見ますと、概して風習に信心深いところが見受けられます。時折その信心が迷信に陥っている場合もあるでしょうが、信心は人間を真面目にさせます。このことが作る品物にも反映ってくるのだと思われます。良い品物の背後にはいつも道徳や宗教が控えているのは否むことが出来ません。このことは将来も変りなき道理であると考えられます。
概して申しますと、日本の固有な暮しぶりや、日常用いる特色ある品物は、北の端と南の端に行くにつれ、著しくなってくることであります。ここで北といっても北海道は別でして、そこは歴史がごく新しいために、これとて固有な土着のものを見かけません。それ故暫くこの旅から除くことと致しましょう。しかしごく南のはずれの沖縄は大変大切な所なのであります。日本の古い固有の姿が非常によく保たれているからであります。
これで見ますと、近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後れたもので、単に昔の名残に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。歴史は丁度根のようなものであります。根を弱めて幹や葉や花を得ようとしても健かには育ちません。仮りに活き得ても浮草のような弱いものになるでありましょう。遠く深い歴史を持つ国こそ、倒れない力に樹つことが出来ます。吾々は伝統を大切にせねばなりません。それは単に昔に帰ることではなく、昔を今に活かす所以であります。伝統を正しく育てることによって、新しい日本を着実に建設せねばなりません。それ故各地方の存在こそは、未来の日本にとって大きな役割を持つことが分ります。
さてこれから旅を始めるに当って、大体日本を幾つかの群に分けて、順々にそれを訪ねることに致しましょう。北から南に下りますと、次のように数えられます。
東北 いわゆる東北六県であります。本土の北部に当ります。
関東 東京都を中心に北は栃木県から南は神奈川県まで。八丈島もこれに入ります。
中部 名古屋市を中心に北は長野県から南は岐阜県まで。
北陸 上は新潟県から、下は福井県までを含みます。
近畿 京都大阪を中軸とし、東は江州から南は紀州まで。
中国 播磨以西の山陽道と、丹波以西の山陰道。
四国
九州
沖縄
以上の九つになりますが、もとよりこれは便宜のために仮りに分けたのであります。これからそれらの各地を訪ねて、長いその旅日記をつけることと致しましょう。東京を振出しに一旦北に上り、それから順次に南へ下ることに致します。前にも述べた通り、各地で出来る特色ある手仕事を通して、我国の姿を見ようとするのであります。それはやがて固有な美しい日本を皆さんに示すことになるでありましょう。[#改ページ]
東京を中心にして関東の地図を見ますと、その中には相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野などが現れます。それらの名の読方が難かしいのは歴史が相当に古いことを語るのでありましょう。これを東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県の七つに分けます。遠い南の八丈島も東京都の中に加わります。
江戸は徳川氏三百年の城下町であり、西京に対して新しい都でありました。中央の江戸城を始め、諸大名の屋敷が並び、人の往き来は繁く、町々は栄え、風俗や言語やその他凡ての面で漸次に江戸の文化を築き上げました。ここにもろもろの手仕事が起ったのは申すまでもありません。あらゆるものが作られたでありましょう。そうして代は代を重ね、技は磨かれ、種目は殖え、これを売る店構も大きくまた忙しかったでありましょう。古い本の挿絵などを見ますと、日本橋附近はその中心で、どんなに栄えたかが偲ばれます。
ですが明治の維新は古い江戸を新しい東京に変えました。大きな歴史がこの時からこの都に始まりました。皇居がここに遷されてから、もとより政治や学藝の中心地になりました。さなきだに幕末頃から、近くの横浜が港として開かれ、西欧の文化がこの新しい都になだれこみました。特に人々は科学の力に驚きを感じ、多くの学者がそれを勉強しました。日本はそれ以来凡そ半世紀の間に、どんなに心をまた姿を変えてしまったでありましょう。古いものは流され、新しいものは迎えられました。こんなにも早い変り方は、おそらく世界の歴史のどこにもなかったのではないでしょうか。
目覚めた日本はこの都を中心として前に進み進みました。国力は強まり、学問は励まれ、交通は開かれました。この勢いは世界の中に日本の存在を知らせました。かくして日本は東亜の中で最も進歩した国となるに至りました。東京もいつしかその人口において面積において、世界に一、二を争う都となりました。
しかしかかる繁栄につれて、今から考えますと甚だ残念だと思われることがあります。それは余りにも西洋のものを沢山取り入れるのに急いだため、日本の多くのものを惜気もなく棄ててしまったことであります。これは勢い止むを得なかったことでありましょう。全く余裕ある気持ちに欠けていたのであります。もっと思慮深くあったら、棄てるべきでないものは棄てずにすんだでありましょう。今の東京人の生活を見ますと、もう半は西洋の風であります。建物も衣服も食物も、そうして用いる言葉さえも、どんなに多く外から来たものが混じるでありましょう。これをよくとれば国際的になったとも思えます。しかしいつしか日本的な日本は薄らいでしまいました。東京のみならず、大きな都市の生活は、多かれ少かれこの欠点を有ちます。
それに遺憾なことには、近頃の都の人たちが用いる品物が大変粗悪になって来たことであります。押しなべて商品はその格が落ちて来ました。人間の智慧はいつも良いことのみには注がれません。ある時はずるい作り方を覚えたり、上べだけよく見せかけることなどをも考えました。儲けることに熱心になると、とかく正直な仕事を忘れます。一般に売っている品物は、多くはそのために粗末なものになって来ました。今では本当の正しい品物を見つけることの方が、むずかしくさえなって来ました。大きな百貨店にはあらゆる品々が所狭きまでに並んでいますがその多くは誤魔化しものなのを匿すことが出来ません。どの品物を取り上げても形は瘠せてくる一方ですし、色は俗になりがちですし、模様も活々したものを失って来ました。それ故、たまたま昔風に作ってある着実なものを見ますと、かえって新しく生れたもののようにさえ受取られます。
東京には箪笥町とか鍛冶町とか白銀町とか人形町とか紺屋町とか弓町とか錦町とか、手仕事に因んだ町が色々ありますが、もう仕事の面影を残している所はほとんどなくなりました。仏具を沢山売っている通りとか、箪笥類を扱っている所だとか、多少そういう個所もありますが、大概の品物は昔のに比べますと見劣りがしまして、特に誇ってよい仕事は少くなりました。それに東京の店々に並ぶ品物は、各地から集められますから、東京でなければ出来ないものとか、また東京出来のものが一番よいというような品は、ごくわずかだと思われます。例えば煙管筒のような品は、東京出来を誇っていましたが、もう流行おくれになりました。中で手拭とか中型の染物の如きは、おそらく今も東京が中心でありましょう。
面白いことに、今東京の面影を偲ぼうとするなら、下町を訪ねるに如くはありません。品物にも何か昔の江戸風な気質が残されております。下谷から浅草にかけて町々を縫って歩きますと、日本で昔から用いているものを、今も作ったり売ったりしているのを見掛けます。主に台所道具で、上等のものではないにしても何か活々したものを感じます。浅草の歳の市や酉の市など、昔に比べては格が落ちたでありましょうが、それでも心をそそる光景を示します。まじり気のない日本の生活の勢いが、幾分でもこういう市日で味われます。羽子板などが山と高く掲げられるのも見ものでありますが、酉町の熊手など、考えると不思議にも面白い装飾に達したものであります。玩具の犬張子などにも、何か紛いない江戸の姿が浮びます。今まではどの家でも子供のお宮参りの時、これを祝いに求めましたが、犬をこんなにも特色ある形にこなしたものは、他にないように思われます。
上野近くを歩くと田村屋の煙管だとか、十三屋の櫛だとか、道明の組紐だとか今でも古い看板を降ろしません。浅草の「よのや」も櫛で見事なものを売ります。大太鼓を作る店なども真に見ものであります。革の厚み、胴の張り、鋲のふくらみ、健康な姿を思わせます。日蓮宗の信徒が手にする団扇太鼓も東京出来のをよいとします。弓の道具類も仕事のよさを未だに失っておりません。紙縒細工の矢筒、革細工の弓懸など見事な手並を見せます。幾許かの人が良い仕事を愛すると見えます。この細工を「長門細工」と呼びます。
銀座のような通りは、日本の生活の一番先の端を示すものでありましょうが、西洋人が見たらどこに日本があるのかと思い惑うでありましょう。何か活気を感じはしますが、いたずらに洋風に媚びたものの多いのは残念なことであります。これに比べますとむしろ下町の方に日本らしい品が多く見られます。
注意してよいのはいわゆる「老舗」でありまして、必ずしも東京出来のものばかりを売る店ではありませんが、家名を重んじますから品のよいものを置くのを誇りとしています。襟円の半襟、阿波屋の下駄、「さるや」の楊子、榛原の和紙、永徳斎の人形、「なごや」の金物、平安堂の筆墨、こういう店々は東京の人たちには親しまれている名であります。歴史を傷つけないというような気風は、品物の性質を保障する大きな力であります。
品物を通して眺めますと、東京に近い千葉県や神奈川県は特色に乏しい地方になりました。館山に唐桟の技がわずかに残っていたり、銚子に大漁着の染めが見られたりはしますが、取り残された姿ともいえましょう。値打のあるものでありながら流行に押されてしまいました。ただ思いがけなくも所々の農家で今も手機の音を時たま耳にします。しかし織っているのはいつも年とったお婆さんのみですから、若い嫁の代となれば、もうその音も聞えなくなるのでありましょう。
ただ安房や上総の国で特筆されてよいと思いますのは、日蓮宗のお寺で名高い清澄山やまた風光のよい鹿野山に建具を職とする者が集っていて、細々ではありながら今も伝統が続いていることであります。飛び離れた所でありますのに、面白い歴史を持つものだと思います。技はなかなか優れているのであります。
神奈川県で第一に推さるべきものは箱根の寄木細工であります。相模の国が吾々にお与えている唯一の立派な手工藝でしょうか。小田原から宮下にかけて仕事場を見出しますが、見ていると技としては進む所まで進んだものなのを感じます。少し進み過ぎて仕事が細かくなり弱くなってきた恨みさえあります。もっと板を分厚くし模様を単純にするなら、力を得てくるでありましょう。近頃は象嵌も試みますが図案があり来りで、無地ものの方がずっとましであります。寄木細工が大体によいのは、絵模様でなく線模様を用いるからでありましょう。線の方は数に基く模様で、法則に依るため間違いが少いのだと思われます。ともかく日本で今売られている土産品としては出色のものといわねばなりません。それが持つ楠の香りもよいものであります。小田原は挽物の盛な所でありますが、余りにも安いものを心掛けるためか、概して質が落ちているのは残念なことであります。
鎌倉の名に因んだ「鎌倉彫」なるものがありますが、今はむしろ素人の玩びになって、本筋の仕事からは外れました。神奈川県に日本風な手仕事が乏しいのは、横浜のように早く開けた大きな港があって、外来のものを盛に取り入れたためだといえましょう。
織物の世界に来ますと、東京の西から北の方にかけ、大きな生産地が点々と続きます。東京都下では八王子、青梅、村山の如き、そのやや北には埼玉県の秩父更に溯って群馬県の伊勢崎や桐生。そこから右に折れて栃木県の足利や佐野、更に東すると茨城県の結城があります。凡てを合せるとその生産高は年々驚くべき数字を示すでありましょう。作っている品も質も同じではありませんが、関東の織物として一括して語ることに致しましょう。
昔はいずれも手紡手織の布で、農事の合間になされた仕事でした。今も一部はそのようにして織られていますが、大部分は仕事を家庭から工場に移しました。そうして小さな経済から大きな資本へと変ってゆきました。また静かな手機から喧しい織機へと転じました。それは真に烈しい推移でありまして、ついには何千という織手が集って、一つの町を形造るまでに急速な生長を示しました。機械は休みなく動き、その販路を東京のみならず、中京にも京阪にもまた遠く海外にも拡げました。
しかしこれらの大きな機業地で、盛に作られているのは、どんな品物でしょうか。惜しい哉、どこまでも営利の目的を離れませんから、段々物が粗末になってきました。どう手を省くかについて智慧を働かすことを怠りません。人絹も盛に取り入れられ、染料もほとんど化学品を用います。従って今まで見たこともないような俗な彩りが現れるに至りました。今の都の人たちは多くはこれらのものを用いているのであります。作り方には長足の進歩がありますが、作られる品にはむしろ退歩が目立つのは大きな矛盾といわねばなりません。なぜ幼穉だと笑われている手機や草木染の方が実着なものを生むのでしょうか。考えさせられる問題であります。
それらの織物は土地によって多少の特色を示します。八王子、所沢、青梅、飯能、村山とほとんど隣同志でも、八王子は絹の節織を主にし、村山は絣を専らにするという工合です。秩父はその銘仙で名を成しますが、昔のような太織はもうほとんど影をひそめました。伊勢崎は同じ銘仙一点張りで進んでいますが、これに対し桐生は何でも作ります。全町これ機屋といいたいほど仕事は盛であります。これに続くのは足利で、織機の音はせわしなくこの町にも響いています。佐野は綿織物を主にして作ります。しかし前にも述べた通りいずれも商品化し過ぎた恨みがあって、これとて地方色に富むものは見当りません。段々お互が似通って来て一列の品になりつつあります。これは機械や化学染料に仕事を任せた必然の結果と思われます。
しかしこれらの有名な織地の中で、たった一ヵ所例外があるのを見出します。それは「結城」であります。結城は茨城県にある土地の名でありますが、そこはむしろ取引する町で、織るのは多く川向うの栃木県に属する絹村でなされます。評判が高くなったため、まがいものも作られはしますが、少くとも一部は本当に手堅い仕事を続けます。糸も手紡で、染めも正藍を用い、昔風な地機で織ります。土地の人はこのやり方だけが生む織物の佳さをよく識り、道を守って仕事を崩しません。従って機械にかけて多量に安く作るやり方とまったく反対に、佳い品を少量に作ります。値が嵩むのは止むを得ません。しかしこのやり方が世人の信用を博し、「結城紬」といえば、本ものだという定評を作りました。そのためこの紬織への需用は絶えません。味いの極めて深い品でありまして、今日の日本の織物の中で最も正しいまた立派な仕事の一つといえます。関東には右に述べたように沢山の機場がありますが、結城のみがただ独り名誉を重んじて頑固にその格を守り続けているのであります。少しより出来ないことや、値の高いことは欠点ともいえましょうが、余りにも周囲に安くて悪い品が多いので、結城紬のように正しい筋の通った品物が在ることは有難いと思います。
「真岡木綿」は有名でしたが、もう全く廃れました。同じ栃木県の鹿沼や栃木あたりは麻の栽培が盛でありますが、材料を出すに止って織物は作られておりません。その麻殻からは懐炉灰が作られます。
埼玉県の加須や羽生の「青縞」も名がありましたが、藍を生命としている縞物だけに、本藍から離れたことは大きな引目といえましょう。
ここで筆を改めて述べねばならぬ織物がもう一つあります。東京から遥か南に離れた八丈島で、有名な「黄八丈」が出来ます。今も美しさを失っておりません。近頃の改良染の方はいずれも見劣りがしますが、本来の染と織とを守るものは一流の品物と讃えてよいでありましょう。黄八丈の特色は黄と褐と黒との三色より用いない縞物だということであります。染の材料はいずれも島の草木でありますし、「晴天四十日」などとも申して、それほど念入に日数をかけて染めますから、大変に堅牢であります。用いる絹糸も元来は島のものでありました。縞柄のとり方にも自から道がありますが、共に平織も綾織も見られます。分厚い綾織でその名を成したのは「八反」であります。「八反」の名は普通の織物八反分に等しい手間がかかるのに依るといいます。織に奥行があって、とても立派であります。昔を守る者は今も地機を用い続けます。いずれも正しい道を踏む織物でありまして、どんな時代が来ても、変らぬ美しさを示すでありましょう。面白いことに幕末から明治の始め頃にかけて、この「黄八丈」は漢方医の制服でありました。八丈の島は小さくとも「黄八」や「八反」の島は大きいのであります。
東京近くの県で比較的様々な郷土品を有つのは埼玉県であります。秩父の仕事は既に織物の個所で語りました。東京の北を流れる荒川の向岸に川口の町があります。鋳物の技が盛であります。日用品で特に見るべきものはありませんが、指導さえ宜しきを得たら、随分色々なものを生み得るでありましょう。同じ川口では釣竿を作ります。おそらく仕事が栄えている点では日本一ではないでしょうか。そのあるものは念入の作で、日本の手技に最も適した品ともいえましょう。もとより竹細工であります。
西に川越、東に粕壁といわれ、この二ヵ所は箪笥作りの町であります。着物箪笥、帳箪笥、鏡台、針箱、その他一渡りのものを作ります。何といっても桐の箪笥が主で引出の出し入れが滑かなのが腕自慢であります。技は随分進みました。昔はこれに沢山の鉄金具が附いて、それが立派な装飾でもありましたが、今出来のものがとかく見劣りするのは、その金具が弱々しく花車なものになったためでありましょう。桐の家具は日本好みの出たものでありますから、よい技が害われないようにしたいものであります。桐材は軽いということのほかに伸縮が少いとか、湿気や火気に強いとか、または色に品位があるとかを特色とします。用材は福島県のものが良いとされます。
武蔵の産物としては騎西や加須の鯉幟もその一つに挙げるべきでありましょう。五月の節句に勢いよく高く靡くあの幟であります。出来のよいことと産額の多いこととではこれらの町のが全国第一でありましょう。眼でも鱗でも鰭でも皆手描でありまして、割筆の用い方など妙を得たものであります。真鯉と緋鯉とがありまして、あるいは布であるいは紙で作り、大きいのになりますと長さが五、六間にも及びます。
それから岩槻と鴻巣とは共に雛人形の産地で有名であります。後者は土俗的な人形でも久しく名を得ました。雛祭の風習が続く限りこれらの土地に仕事は絶えないでありましょう。こういう行事は出来るだけ保存したいものと思います。今出来の品は昔ほどの品格がありませんけれど、よい手本が沢山あるのでありますからそれをよく学んだら伝統は更に活々してくるでありましょう。ここに越ヶ谷の達磨のことも言い添えておくべきでしょうか。木型を用い、紙で作ります。この県の唯一の窯場は深谷であります。今は土管が主な仕事となりましたが、少し前までは大きな火鉢や蒸籠などで面白いものを焼きました。
仕事として大きいのは比企郡小川町の手漉紙であります。川に沿うて点々と昔ながらの紙漉場を見られるでしょう。ここの紙では「細川」と呼ぶものが有名で、その漉き方にも特色があり、いわゆる「流漉」と「溜漉」とを合せたようなものであります。これはおそらくごく古いやり方だと思われます。日の照る日何枚もの板に白い紙を貼って立て掛けてある様は、農村の風情を一入美しくします。乾かすには天日と板干とに如くはありません。土地で「ぴっかり千両」などといいますが、日の光の貴いことを語ります。この小川は東京に一番近い大きな紙漉場なので、仕事が年と共に栄えているのであります。
埼玉県では小絵馬で今も見るべきものを描きます。売る店も残り、また盛な市日さえ立ちます。大体からいうと信仰的な土俗品は、年と共に衰える傾きがありますが、致し方もないことであります。
茨城県に来ますと、そう語るべきものを有ちませんが、何といっても「西の内」とか「程村」とか呼ぶ純楮の和紙を生んだ国で、幸にもこの仕事は今も続いております。まだ板干をしているような紙の村は、正直な仕事を見せてくれます。本場は久慈郡の西野内や那珂郡の嶐郷村であります。
稲荷神社で有名な笠間は、窯場のある所であります。筑波山を真近くに見ます。昔から雑器を焼きましたが、徳利や蓋附壺などに見るべきものがあります。水戸は徳川三家の居城でありましたから、昔は色々の手仕事が栄えたことと思いますが、今は衰えてしまいました。馬乗提灯で鯨の筋を用いた出来のよいのを売りますが、昔の名残りであります。常陸では和鞍に刺繍を美しく施す習慣があります。
群馬県に入りますと、赤城、榛名、妙義の三山が目に映ります。麓に高崎や前橋の如き大きな町はありますが、その山間で一番興味のある古い町は沼田でありましょう。鉄道の敷かれるのがおそかったせいか、まだ郷土の香りの濃い町であります。店々を訪ねますと色々の品が現れます。山刀に鞘の美しいのがあって桜皮で編んだりまた浮彫をこれに施したりします。この鞘は主に利根郡白沢村高平の産だといいます。ごく小型のものなどに特に愛すべき品があります。沼田では金物にも火箸、灰均などの野鍛冶の技で野趣あるものを見かけます。大体上州は養蚕の盛な所で建物も造りを変えていますが、それに用いる道具類にもなかなか面白い品を見出します。刳った浅い木皿だとか、「はきたて」と呼んでいる羽根帚などは、茶人でも好みそうな品であります。この町で売る長帚も特色ある形で他に見かけません。有名な鹿沼帚などと全く違う形を有ちます。近くには赤城山が聳えますが、山に生える山芝を材料にして「しょいご」を編みます。背負籠のことであります。編み方に非常に念を入れたのを時折見かけます。これらは皆まがいもない郷土の香りを放つものであります。
高崎近くの豊岡は張子の達磨で有名で、今も盛なものであります。凡て木型を用いて作ります。日を定めて市日が立ちますが、農家や町家などでは年々購うことを忘れません。この国も紙漉場をあちらこちらに見ます。多野郡、山田郡、吾妻郡、いずれにも仕事場を見るでしょう。この県の織物については既に記しました。
栃木県のものとしては、益子の焼物や、烏山の和紙や、鹿沼の帚をまず挙げねばなりません。それほど仕事は盛であります。益子は東京に一番近い大きな窯場とて、東京の台所で用いられる雑器の多くは、この窯から運ばれます。鍋、行平、片口、擂鉢、土瓶、火鉢、水甕、塩壺など様々のものを作ります。中で一番盛でもありまたよい仕事ぶりを見せたのは土瓶の類であります。山水や四君子の絵を好んで描きます。黒の線描に緑や飴色を差します。一日に何百と描くその技の早さは見ものでさえあります。中に「窓絵」と呼ばれ、白い丸を窓のように胴につけこれに梅の花などを描いたものがあります。簡単でありながら美しいやり方であります。近頃はどこの陶器も絵が少くかつ拙くなっていますので、この益子の絵土瓶の如き今では大切な存在であるといわねばなりません。この窯で出来る火鉢に流釉のがありますが、巧妙な技を示します。
このほか那須郡に小砂と呼ぶ村があって窯が立ちます。材料はむしろ益子に優るのではないでしょうか。匿れた窯場で県の者さえも知る人が少いのです。
烏山は同じ那須郡にある町で、那珂川のほとりにあります。川向うは茨城県でありますが、この辺一帯に紙漉場が少くありません。有名なのは「程村」と呼ぶ楮の紙であります。これもいつだとて和紙の美しさを語ってくれるものの一つであります。烏山近くに向田という部落があって、ここで出来る檀紙に野趣のあるのを見かけました。こういう世に知られていない小さな工房で、しばしば正直な手堅い仕事が為されます。安蘇郡飛駒村の産は、早くから「飛駒」でその名を広めました。
同じ烏山の町を歩きますと、馬具屋が目につきます。何も下野の国ではこの町ばかりではなく、日光近くの今市などでも見られますが、それは美しい和鞍を作ります。白、黒、赤、緑、黄、紫、藍、紺など様々な色糸で、前と後とに美しい刺繍を施します。線模様があり絵模様があり、これに様々な飾りを加えます。皆男の手仕事であります。このような美しい多彩な刺繍の和鞍を作るのは、ただこの下野と常陸との二ヵ国だけであります。正月の初荷の時や、嫁入の時に新しく誂えます。少し前までは朱塗金箔の革も用いました。おそらく郷土的な香りのする鞍では世界でも一、二を争うものではないでしょうか。この烏山はお祭りに見事な山車を引くので有名であります。
鹿沼は上都賀郡で、日光には近いところであります。ここは前述のように麻緒で名を広めましたが、しかしその他に関東一帯はもとより、随分遠い地方までこの町から運び出されるものがあります。それは「鹿沼帚」の名で何処でも知られているものであります。附根がふくらませてあって、色糸や針金でかがり、ゆったりした大型の帚であります。おそらくどこの産の帚よりも広く行き渡っているでありましょう。
「日光下駄」も有名なものであります。土産に持ち帰る人が少くありません。その値打が充分にある品だといえましょう。竹皮の表と白木綿の鼻緒と、そのすげ方とに特色を見せます。他の土産物のように遊びがないので、本当に役立ってくれます。日光土産には盆があって、その上に日光山の廟だとか眠猫などを彫った物を売ります。彫る技は実に達者なものでありますが、もう少し図がよかったらと思います。ここの「日光羊羹」は誰も自家へ持ち帰るでありましょう。
宇都宮の町に挽物師が、形のよい漏斗を手轆轤にかけているのを見ました。売る先は静岡県の酒屋だということでありました。今時、木で作られる漏斗は珍らしいのでありますが、この方が酒や醤油の味を変えません。それ故正直な酒屋は金物を忌みます。驚いたことにこの漏斗は荒挽きして四年間も涸らさないと仕上げをしないそうであります。安い品にもこれだけの手間をかける忠実さに心を打たれます。
宇都宮近くに大谷という土地があります。いわゆる「大谷石」の産地で、遠く弘仁時代にその石で刻んだ仏像が今も残っております。同じ石でその地方では見事な屋根をふきます。他の県には全く見当りませんが、日本一の立派な屋根で、建物にどんなに重みや力を与えているでしょう。またこの石で厨子だとか像だとかを刻みます。無名の石工にどうしてこんな彫刻が出来るのかと思うほどの傑作にも出会います。
奥日光の北に栗山と呼ぶ広い部落があります。全くの山村で物語りの多い所ですが、山の生活が色々のものを生み出します。木鉢や杓子を始め胡桃の一枚皮で出来た箕や、山芝で編んだ「びく」即ち背負袋や、科の木の皮の蓑など、いずれもこの土地あってのものであります。日本の民具を語るよい例となるでありましょう。中で把手附の「栗山桶」は特に名を得ました。
さてこの山奥を関東の旅の終りとしまして更に北に上ることと致しましょう。
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東北といえばいわゆる「東北六県」を指します。北から数えますと、青森県、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県となります。国の名で申しますと、陸奥、陸中、陸前、羽後、羽前、磐城、岩代の七ヵ国となります。昔の「みちのく」即ち道の奥と呼んだ国の果であります。それに出羽と名づけた地域をふくめ、「奥羽」の名でも呼ばれました。昔は夷即ち蝦夷が沢山住んでいた地方で、方々から出てくる石器や土器がその遠い歴史を物語ってくれます。地名にも「伊保内」とか「毛馬内」とか「沼宮内」とかのように、アイヌの言葉を残す所も少くありません。
東北は日本本土の北に位しますから、気候が寒く、ある個所は半年近くも雪に被われます。こういう自然の障害があります上に、中央の都からは遠い国々でありますから、交通も大変不便でありました。そのため新しい文化を取り入れることが遅れたのは止むを得ません。自然の強い力に抑えられたり、進んだ施設に乏しかったりすることは、人々の生活をも気持ちをも重くしました。さなきだに時として烈しい雪や雨やまたは旱などが続いて、災害を被ることが度々であります。こういう事情は東北人を貧乏にさせ、その働きをにぶらせました。そうしてこれが奥羽というと何か暗い気持ちを伴わせる原因となり、北の雪国は貧しい地方だという聯想を誰の胸にも刻ませました。実際それらの国の生活はなま易しいものではありません。
しかしそれらの地方を旅して見ますと、たしかに貧しいとか遅れているとかいう一面はあるとしても、大きな自然の中に住んでいるその暮しぶりや、信心深い気持や、行事をおろそかにしない風習や、重くねばりこい性質や、それらのことが純朴な実着な気風を醸していることを気附きます。しかもその生活に取り入れている品物は、多くは郷土のもので、祖先から受継いだ技で拵えられたものであります。こういう風習が濃く伝わることは、大きな強みと思えないでしょうか。何よりそれらのものは日本固有の性質を示すからであります。これに比べますと都の人たちが今用いている大概のものは、弱さや脆さが目立ちます。仮令暮しに進んだ面があっても、半面にかえって遅れた所があるのを見出します。かく考えますと、東北人の暮しには非常に富んだ一面のあることを見逃すことが出来ません。そこでは日本でのみ見られるものが豊に残っているのであります。従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう。なぜかくも手の技が忙しく働くのでありましょうか。思うに三つの原因があって、それを求めているのであります。
一つは中央の都から遠いため、かえって昔からの習慣がよく保たれているからであります。このことは郷土固有のものを暮しに多く用いることを意味します。作るものに外国の品を真似たものをほとんど見かけません。そんなものの存在を知る機縁がないともいえましょう。それらの土地の伝統は根強いのであります。
二つには地理がそれに応じるものを作らせるからであります。その気候や風土は多くの独特なものを求めます。雪国の人たちは雪に堪える身形や持物を用意せねばなりません。それらのものは都からは運ばれて来ません。人々は色々のものを作って、自分やまた家族の者のために準備せねばなりません。しかもそれは実用に堪え得るように念入りに作ることを求めます。このことは手仕事を忙しくさせ、またその技を練えさせました。仕事に実着なものが多いのはこのためであります。
三つには雪の季節が長いことに因ります。自から家に閉じこもってその長い時間を手仕事で過ごします。野良で働くことは封じられても、家の内には為さねばならぬ仕事が待っているのであります。これあるがためにもの憂げな冬の長さも、早く過ぎて行きます。雪と手仕事とには厚い因縁がひそみます。これこそは北国に様々な品物を生ましめる一つの原因であります。
これらのことを想うと、東北の国々になぜ固有の品が豊にあるかを解することが出来るでありましょう。今まで何かにつけ引目を感じていた東北人は、かえって誇りをこそ抱いてよいと思います。後れていると思う品物がむしろ新しい意味を以て活き返って来るでありましょう。旅をするなら一度は北の国を訪れねばなりません。そうしてそれは二度三度の旅を誘うでしょう。品物を探し求めると、雪国は魅力ある地域となってきます。東北は日本にとって実に大切な地方なのであります。
一番南に位するのは福島県であります。福島、特に郡山を中心に養蚕や製糸の業が盛であります。川俣は羽二重の産地として名を成しました。ですが主に輸出ものでありますから土地の暮しとは深い結ばりがありません。ただ年産額はかなりな数字に上ります。
福島は都でありますから、町を歩くと、塗屋だとか紙屋だとか土地出来の品を置くよい店を見出します。古風な看板を今もはずさない店があるのは、伝統の残るのを語ります。しかし品物の側から申しますと、若松地方の方にずっと心を引かれます。いわゆる「会津」で若松はその中心であり、今も昔の城址が残ります。ここは少年白虎隊の物語で誰も想い起す所でありましょう。古い城下町でありますから、今も色々のものが作られます。一番仕事が盛なのは「会津塗」で聞える漆器であります。技を心得た工人の数は多く、商う店も栄えております。ただ近頃の品は昔ほどの手堅い性質がなくなってきました。悪い意味で作り方が悧口になったため、正直に手間をかける仕事が少くなってきました。買手にも罪はあるでしょうが、それよりも問屋が粗末なものを強いる結果だと申す方が本当でありましょう。何も会津塗だけの過ちではありませんが、もう少し親切な仕事をすれば、この塗の名誉は高まるでありましょう。
若松はまた蝋燭で有名であります。特に絵を描いた蝋燭が見事であります。呼んで「絵蝋燭」といいます。元来は凡て手描でありましたが、近頃は印刷することを始めましたので、ずっと見劣りがします。多くは花模様で、時には立花のように花籠に活けてある様を見事に描きます。赤、黄、緑、青、黒など様々な色を用い達者な筆を示します。仏事に用いる大きなものから、ごく小型の豆蝋燭に及びます。この絵蝋燭は他の国にも、まま見かけますが、会津出来のが一番だと思います。
この町は煙管を作るのでも名があります。もっとも安ものが多いとされていますが、中にはとても面白い形のがあって、かえって民衆の持物にでなくば見られない美しさのものがあります。刃物もこの町で色々作ります。金物で想い浮ぶのは「塔寺釜」でありますが、もとは河沼郡八幡村塔寺の産であったかと思われます。今はかえって他郷に仕事を奪われました。
会津のものとして更に語らねばならぬものを二、三添えましょう。本郷という町は焼物でその名を高めました。磁器も陶器も共に作ります。大体北国には磁土が少いのでありますが、ここの茶器、とくに急須の如きは販路を広めました。しかし出来上った品から見ますと、実は一番人々から粗末に扱われているいわゆる「粗物」と蔑まれているものが、最も特色のあるまた見事なものだと評さねばなりません。今はこの「粗物」を焼く窯がたった一つより残りませんが、白釉のものと飴釉のものと二通で作ります。これに緑釉を流したり海鼠釉を垂らしたりして景色を添えます。緑の方は銅から取り海鼠の方は鉄から取る青味の色をいいます。ここで出来る長方型の「鰊鉢」や、「切立」と呼ぶ甕の如きは、他の窯に例がありません。本郷の仕事としては、どこまでもこの粗物類を大切に続けるべきでありましょう。この窯では一番健康な仕事であります。
若松から程遠くないところに喜多方の町がありますが、ここでは良い生漉の紙が出来ます。材料は凡て楮で強い張りのある紙であります。大体福島県は紙漉の村が多いのでありまして、岩代の国では伊達郡山舟生や安達郡の上および下の川崎村や耶麻郡熱塩村の日中。磐城の国では相馬郡の信田沢、石城郡の深山田の如き名を挙げねばならぬでありましょう。昔から「磐城紙」の名で知られます。
会津の山々は雪の多いところとて、藁で出来た雪踏や雪沓や、曲木のや形の面白いのを見かけますが、かかる品を求めるには一番山奥の檜枝岐を訪ねるに如くはありません。もう尾瀬沼に近い随分不便な村ですが、ここで色々面白い品に廻り会います。手彫の刳鉢や曲物の手桶や、風雅な趣きさえ感じます。特にここで出来る蓑は大変特色があって、背を総々とした葡萄皮で作り腰を山芝で編みます。裏側が美しい網になっていて見事な手仕事であります。纏っているのを背から眺めますと、活きた熊でも動いているように見えます。
昔から磐城の国の相馬焼は有名でありました。窯は原町に近い中村にあります。馬の絵を描くので誰も知っているものであります。相馬の地は馬の産で名があり、野馬追の祭や三春駒など、馬に因んだものが多いのであります。慣れた図柄ですから焼物の上にも上手に描きます。ですが好んで作る急須や湯呑などは、形が崩れてしまい、品物としては上出来とは申されません。しかしこの窯は昔はなかなかよい雑器を焼きまして、その青土瓶や絵土瓶などは忘れ難いものであります。もっと実際に使う台所道具に帰るなら、また昔の息吹を取戻すでありましょう。浪江近くに一基の窯があって、海鼠釉を用います。鉢だとか擂鉢だとか片口だとかに、しっかりした品物を見かけます。
有名な三春人形は非常に美しいものでありましたが、早くもその歴史を閉じてしまいました。「こけし」人形は方々で作られ、むしろ流行にすらなりました。
福島県を北に上りますと山形県に入ります。その大部分は羽前の国であります。この国は手仕事の種類の非常に多い所で、おそらく日本でも有数の土地でありましょう。米沢を中心とした置賜の文化と、山形を中心とした村山の文化と、鶴岡や酒田を中心とした庄内の文化と、この三つの異る地域がそれぞれに栄えたために、歴史が豊な手仕事を授けたのかと思われます。
米沢は上杉氏の城下町、鷹山公の名君を戴きし都。そこは何よりも糸織の産地として著名であります。糸織というのは縒糸で織った絹織物のことであります。何処でも同じでありますが、手機や草木染の時代は手堅い仕事を見せましたが、機業が盛になって機械を入れるにつれ、仕事は落ちて来ました。いわば商業主義の犠牲であります。この町で出来る袴地には見るべきものがありました。
米沢の名を被るものに「米琉」があります。しかし主に織ったのは長井であります。それ故「長井紬」の名でも呼ばれました。「米琉」というのは「米沢琉球紬」のことで、琉球の織物に似せて作った絣を意味します。まま色が入ったりして一種の美しさを出しました。一事は流行さえしましたが、いつしか廃れてわずかな仕事になってしまったのは惜しいことであります。
紬のほかに長井は、その帚でも名を成してよいでありましょう。手帚も長柄のも共に作りますが、形に特色がある上に、紺糸で綺麗に草を編むので、品のある品であります。それに柄は多く焼杉を用いますので、どんな座敷で用いても悦ばれるでありましょう。
近くの笹野は笹野彫の玩具で有名であります。鷹、亀、鶏など色々刻みます。木を削りかけにして羽だとか毛だとかを巧みに現します。郷土玩具としては出色のものでありましょう。
置賜郡には小国郷のような、めったに旅人も行かない部落もあって、従って百姓の持ち物にも色々変ったものがあります。「じんべい」と呼ぶ鼻緒入の藁沓や、「にぞ」と呼ぶ蒲製の帽子や、また「たす」といっている葡萄皮で網代編にした背負袋や、いずれも民具として出来もよく形もよく、忘れ難いものであります。これらのものは時折運ばれて米沢などの荒物屋の店先に掛ります。この地方の蓑も特色があって、襟の周囲をきっと白と紺との麻糸で模様を巾広く出します。藁沓で最も出来の美しいのは西置賜郡東根村浅立の産で、仕事が極めて入念であります。見る人は誰も感心するでありましょう。
米沢から遠くない所に成島と呼ぶ窯場があります。鉄釉の飴色や海鼠色で鉢だとか片口だとか甕だとかを焼きます。仕事はまだ害われてはおりません。大体北の国には窯場が少いのでありますから、この窯も大事にされねばならぬ一つであります。附近の荒砥の瀬戸山はその兄弟窯であります。
置賜を北に進みますと、まもなく村山の平野に出ます。山形は水野氏の小さな城下町でありましたが、県庁が置かれてこの方、米沢を越す都となりました。山形の産物としては「節織」も名がありましたが、それよりも「紅花」の産地として特に聞え、一時は盛な商いでありました。紅花というのはもとより植物で、これから紅色をした色料をとります。それが明治に入って突如化学染料の力に追いやられて、全く倒れてしまったのは悲惨な出来事でありました。ただ宮中の御用が今もあって、郊外の漆山でわずかに栽培を続けているに過ぎません。しかし色の美しさは無類なのでありますから、山形の名誉のために、何か復興の道を講ずべきではないでしょうか。
山形市で是非訪わなければならないのは銅町であります。よい家並が今も揃っております。往来をはさんで両側はほとんど凡て銅器の店であります。店の裏にはすぐ仕事場が続きます。概して置物類は面白くありませんが、火鉢や湯釜や仏器などの実用品には見るべきものが色々あります。中でも男釜、女釜など呼ぶ立派な形のものがありますが、ここで出来る品としては「はびろ」と呼ぶ鉄瓶が一番特色を示しているでありましょう。銅の下端が広がっている形なので「端広」と呼んだのではないでしょうか。把手も太くて握りよく、珍らしい形で他の地方では余り見かけません。これを砲金でも作ります。また吉原五徳や灰均などの美しいのを真鍮で様々に作ります。音のよい鈴も客を待ちます。探しますと様々なものが現れます。山形の町には鍛冶屋も多く、鉄製のよい自在鉤を作るのを見かけるでしょう。
町からそう遠くない所に、平清水の窯場を訪ねましょう。白釉を用いた雑器に、見るべきものを焼きます。便器にも非常に自由に大まかな絵附をします。しかしこれはおそらく瀬戸の風を伝えたものでありましょう。窯場としては県下第一の大きなものであります。
山形市の近くに天童と呼ぶ小さな静な温泉町があります。ここは将棋の駒を作るのに忙しい所であります。吾々が玩ぶ駒の大部分はこの小さな町から出るといわれます。まだ六つ七つの小さい子供までが、とても巧みにまたすばやくあの文字を漆で手書する様は、見る者の興味をそそります。反復は驚くべき技の母なのを感じないわけにゆきません。度々見るものなのでかえって気附きませんが、駒の文字は王将から歩に至るまで、特別な書体を現し、よくもここまで模様のような形に納めたものと感心さされます。
村山の平野は米の産地であります。藁細工が栄えるのも当然であります。そこの草履表も今は忙しい手仕事の一つであります。山寄りの地方で出来る蓑だとか帽子だとかには、非常に美しい出来のがありまして、他の土地では見かけない編み方を示します。どれも自分の家族の者たちのために拵えるのでありますが、利得のためではないので決して手を省きません。作り方は代々伝えられた技であります。こんなものでも一朝にして生れたものではないのを感じます。
南村山郡の高松には「麻布」と呼ぶごく薄手の紙を漉きます。上ノ山温泉には遠くありません。この紙は漆を濾すのになくてはならない紙なのであります。
蓑といえば最上郡がまた素晴らしい産地であります。この地方の蓑の特長は模様を入れる襟巾が広いことで、色々の材料で色々の紋様を出します。蒲、稈心、科、葡萄蔓、麻糸、木綿糸、馬の毛など様々なものが使われます。新庄の市日などに在からこれを着て出てくる風俗は、都の者には眼を見張らせます。
新庄の町はずれに東山と呼ぶ窯場があります。美しい青味のある海鼠釉を用いて土鍋だとか湯通だとか甕だとかを焼きます。中で耳附の土鍋は、三つ足も添えてある古い型を伝えるものでありましょう。土鍋としては日本中のもので最も美しいでしょうか。
新庄に近い舟形村の長沢では、今もまじりけのない生漉紙を生みます。悪く作ることを知らない漉場の一つであります。最上郡の金山には盆だとか木皿だとかを作るよい店を見かけました。
最上川に沿うて西に進みますと庄内の中心に出ます。この辺は日本で一、二を争う米の産地ともいえましょうか。鶴岡と酒田との二つの大きな町がありますので、手仕事も一段と栄えました。鶴岡は酒井氏の城下町であります。店々を覗くと色々見慣れないものが現れます。ここは黒柿の細工所で、この優れた自然の賜物を用い色々のものを作ります。小箱の類から大きなものでは鏡台や机の類まで見かけます。材料が貴いためか薄手に作るので時折冷い感じを受けますが、もう少し豊な形を与えたら見違えるほどの品になりましょう。この細工は山形でも見ることが出来ます。
同じ鶴岡には竹塗と呼ぶものがあって、材は檜でありますが竹を模してあります。多少無理な仕事で活々した味いを欠く恨みがあります。それより普通の漆器で出来のよい「わっぱ」だとか、柄杓子などを選びたく思います。「わっぱ」は曲物の弁当箱で別に汁入も拵えます。手堅い品になると布引であります。この町で出来る漆工品として特色の目立つのは長方形の茶盆で、簀の子入りのものです。形もすっきりして使い工合も上々であります。土地ではこれを「茶舟」と呼びます。
この町の絵蝋燭も世に聞えました。もとより仏事に用いるものであります。色糸でかがる手毬も名があります。煙草の道具を売る店を時折見かけますが、旅の者の目を悦ばせます。胴乱だとか煙管筒だとか、色々の種類を並べますが、中で注意すべきは紙縒細工で、黒塗のも朱塗のも見かけます。大体紙縒細工は朝鮮が優れた仕事を見せますが、我国では江戸で発達しました。残念にも今は衰えましたが、私の知る限りでは伝統は羽前の国に一番よく残されているように思われます。時折百姓たちが素晴らしい胴乱を腰に下げているのを見かけます。多くは自製の品であります。煙草具で更に面白い一種のものがあり、呼んで「じんぎり」といいますが語原は審でありません。糸編みの品で、煙管入や燧石袋や、これに煙草入や火口の粉炭入など一式揃っているものでありますが、面白いことにこれには必ず強く撚った糸の総を長く垂らします。土地の人にいわせると、この糸のよじれ方で、その日その日の天候を予め知ることが出来るそうであります。町の晴雨計とでも呼びましょうか。
鶴岡で出来るものでは、竹細工に見るべきものがあります。「亀子笊」と呼ぶものは、縁作が丁寧で、巾広く網代編にし、所々を籐で抑えます。形といい作りといい笊の類では一等でしょう。町はずれには太鼓を売る店も見かけます。
荒物屋は北の国では民具の陳列場ともいえましょう。大体どの町でも、町はずれには荒物屋があるとほぼきまったものであります。在の人が町に出た帰りに必ず立ち寄るのがこれらの店であります。農村で使う一渡の品が皆揃えてあります。ほとんど土地出来のものばかりを並べていますので、ここで一番手短にその地方の暮しを見ることが出来ます。もっとも最近はいわゆる「下り物」といって、中央から流れ込む商品に段々犯されて来ました。それでも雪国の荒物屋は、都からは運ばれない品々を置きます。いずれもその土地の技を示すのみならず、どこか暮しの力を想わせます。稈心で綺麗に編んだ「いずめ」を何段も積み重ねてあるのをよく見かけます。「いずめ」というのは冬の寒い間、幼児を入れておくもので、お櫃入の大きなような形をしています。また天井からは蓑だとか背中当だとか荷縄だとか、様々なものが吊されているのを見られるでしょう。中でも面白いのはこの地方の背中当で土地では「ばんどり」と呼びます。重い荷物を担ぐ時、背中に当てるものであります。語原はまだはっきり致しません。大体を藁で編みますが、念入に作ったものになると、これに古い布裂や色糸や、時としては色紙まで交えて作ります。そのため彩が綺麗で目が覚めるようなのがあります。それに形が独特で全く他の地方に類似する品を見かけません。日本の農民工藝の代表者にいつだとてなれるでありましょう。同じ荒物屋で売る品で感心するのは蒲で編んだ雪沓で、男のは白いフランネルで女のは赤いので縁を取ります。編み方が丁寧で形に品があります。おそらくこの種の形を持つものは起原が古く、よく絵にある藤原鎌足公の履かれている沓の形そのままであります。
近くの酒田市は最上川の河口に位し、古くから港として栄えました。羽前の文化は主としてこの港から入ったともいえましょう。本間一門の名家が邸を構えているのもこの町であります。有名な庄内米のことは他の本が語るでありましょう。ここは船の出入が多かったため、昔は船箪笥を作った所として名がありました。その技は今も残っていて、見事な箪笥類を作ります。ただ昔のような頑丈な金具は跡を断ちました。職人はいても誂える人がなくなってしまいました。胴は欅を用い磨出漆の上等のを作りましたが、段々流行おくれになってしまったのは惜しいことであります。この町は曲物細工も甚だよく、地方色の鮮なものとしては、「浜弁当」と呼ぶ入れ子のある蓋の深い曲物で、楕円形をしたものがあります。止めは例の桜皮を用い一種の飾りとさえなります。大型のは船で遠出をする時に用いるといわれます。普通の「めんつ」などより一段と立派な品であります。
町を歩きますと長い竹の柄の附いた塗杓子の美しいのを見出されるでしょう。これは鶴岡でも作りますが、この辺一帯で用いられる特産物であります。内が朱塗、外が黒塗の品で、品のよい美しさがあります。多くは大中小を三重ね一組として売ります。どの家庭にも薦めたい品であります。きっと重宝がられるでありましょう。その他この町で作る漆器の仏具や、祝いの時に用いる酒樽などにも塗や形のよいのを見かけます。白木のもので二段になっている脚立、即ち踏台がありますが、組立て方が美しくかつ軽くて使いよくどの家庭でも悦ばれるでありましょう。他では見かけない品であります。
この庄内に観音寺と呼ぶ村があります。正月に市日が立ちまして、それは賑わいます。深い雪の中で往来の両側に小屋を組んで物を並べます。十町も続きましょうか、全く人で埋まって身動きも出来ぬほど盛な市であります。訪ねますと色々の珍らしい郷土の品を買うことが出来ます。それに近在の風俗や食物や言葉などまで知ることが出来、いたく興をそそります。この市で私が感心したものの一つは正月に餅を載せる大きな台でした。一枚板の刳盆で隅切となっています。巾は三尺にも及びます。農村の力強い暮しぶりをそぞろに想わせる品であります。花車な都会の台所は、もうこれほどの大きな品を用いる力がありません。
庄内は稲作の盛な所ですから、藁工品が多く、中に優れたもののあるのは申すまでもありません。特に藁沓には様々な形のがあって見事な作り方を示します。材料の扱い方、こなし方は心得たものであります。「べんけい」と呼んでいる藁細工にも面白い形のがあります。炉の上に吊し、串に魚を刺して干す時に用いるものであります。弁慶が七つ道具を背負う様に似ているところからその名を得たのでありましょう。余目で出来る釜敷にも立派な形のがありました。
また「尾花帽子」といって猟人などが被る帽子があります。尾花で作り色糸でかがり、山鳥の羽などをあしらって、それは美しく作ります。こんなものが今時あるのかと思うほどであります。
庄内や最上地方にかけては刺子着の美しいのが見られます。袖細のや袖無のや形は様々でありますが、随分心を入れて刺したのを見かけます。いずれも女の手技であるのは申すまでもありません。刺子は着物のみならず足袋だとか「あくど巻」などにも施します。「あくど」は踵のことであります。
話をこの辺で宮城県に移しましょう。仙台はその中央の都、常に政宗の偉業を誇る伊達氏の大きな城下町でありました。昔は様々の手仕事が藩から特別の保護を受けたでありましょうが、どういうものか目星しいものは数多くは残されておりません。
仙台の名に因むものは二つあります。「仙台平」と「仙台箪笥」。仙台平は専ら袴地として作られ、その質のよさを以て名が知られました。目が密で厚みがあり織もよく、縞もまた上々であります。この絹織物を見ますと、袴地としては最も正しい系統の品だということを感じます。袴は礼儀の品でありますから、張りのあるきちんとした楷書風のものが本筋でありましょう。こういう性質のものとして仙台平は正しい品でありますから、どこまでも質を落さずに守り続けたいものと思います。越後の「五泉平」の如きもこれを倣ったのでありましょう。
仙台にはまた「八橋織」の名が聞えます。紋綾織の一種で、よく市松模様などを見かけます。好んで下着などに用いられる品であります。染物では「常盤型」と呼ぶものがあり、紺地の木綿に花模様などをあしらった型染で、どこか郷土の香の残るものであります。
仙台といえば更に「仙台箪笥」のことが想い起されるでありましょう。しかしその名声はかえって外国の方に響いているのかも知れません。好んで欧米の人に購われました。欅を表板にしこれに漆を施し、いわゆる「蝋色」に磨き出します。そうして鉄金具を四隅や錠前などに、たっぷりと宛行います。金物にはしばしば毛彫が施され様々な紋様を現しました。引手金具も色々あって美しいのが少くありません。巾が普通四尺あるので「四尺箪笥」とも呼ばれます。もとよりこの大きさのみならず小箪笥も様々に作りました。凡てこの種の箪笥は、日本のものとして特色が鮮かで立派なものといわねばなりません。土地の人はそれほどにも想わないのか、当然守るべき市の特産品でありながら、廃ってゆくままにしてあるのは惜しい限りであります。ただ一番見劣りがして来たのは金具の部分で、段々細く瘠せて来ました。
町では「埋木細工」を名物として沢山売り出します。しかし器物とするには材料にどこか無理があるためか、品物に成り切らない所があるように思われます。形のよいものを稀により見受けません。もう一工夫したらと思うのは、私のみでありましょうか。
仙台市の町はずれにある堤の窯は力のあるものを焼きます。ここも東北によく見られる海鼠釉が主で甕や皿や様々なものを作ります。形にも色にも強い所があり立派な感じを受けます。土焼の竈や七厘、炮烙、または厨子などにもしっかりした形のものを作ります。仙台の人たちはこの窯の雑器をもっと重く見るべきでありましょう。
近頃は同じ市の中に編入されましたが、もとの中田村柳生に紙漉場があります。ここで他ではほとんど作らない紙を漉きます。「強製紙」と新しく名附けていますが、「紙子紙」とでも呼ぶ方が至当ではないでしょうか。即ち紙子の一種で秘伝として蒟蒻粉を入れて漉きます。これで紙が全く毛羽立たなくなり、水にも強くなってある程度まで洗濯がききます。これを揉紙にし柔くしますから、下着などにも用いることが出来て、よく温かさを保ちます。書物の表紙などには大変適した紙であります。将来ますますその値打が認められて、用途はいよいよ増してくるでありましょう。
和紙を語れば白石のことが想い浮びます。この町は陸前ではなく磐城の国に属します。古くからここで紙布が発達し、麻布か絹ものかと間違えるほどの細かい織物を作りました。紙布としてはこんなにも技術の進んだものを他に見かけません。一度廃れましたが最近また起き上りました。ただ白石の紙布は上物でありますけれども、余りに細かい技に陥ってかえって紙布としての味いを欠くともいえましょう。それに高価に走るの弊を免れません。紙布はもっと紙布でなければ持ち得ない性質を活かすべきでありましょう。ここに白石の新しい道が見出せると思います。
仙台から古川あたりにかけて、お百姓が被っている笠を見ますと、他の国のと形や編み方が違うのが気附かれます。また好んで背負う竹籠に「壺笊」と呼んでいるものがあります。深めの形で下に輪の台が附けてあります。これもこの辺だけに見る形であります。更に北に進みますと岩出山という町に達します。ここは納豆を名産とする町でありますが、それよりも竹細工で名が売れてよいはずと思います。仕事に従事する者は大勢で、作られる品も様々であります。篠竹で作った小型の「めざる」は編み方が亀甲の目になっていてとても形が可愛らしく、旅する者は誰しも一つ買わないではいられないでありましょう。
また陸前では箕で美しいものを作ります。篠竹と桜皮とで組まれ形にも特色があります。類似したものを埼玉県でも見ましたが、陸前の方が原かと思われます。主な産地は黒川郡宮床村であります。思い出しましたが仙台市の郡山で出来る小型の手帚に、編み方が大変綺麗な上に、形の美しいのがあります。着物の埃を払うのに上々の品であります。
鳴子温泉の「こけし」も名が聞えます。「こけし」の語原は分りませんが、人形としては特色あるものであります。北の国には「こけし」を土産物に作る所は多いのでありますが、鳴子のは絵が上手なように見受けられます。好んで赤と緑との二色で花模様を胴に描きます。慣れ切った筆の跡であります。もとより「こけし」のみならず挽物で独楽だとか針入だとか様々な玩具も作ります。仙台市の木下薬師で売る木下駒は忘れ難い郷土玩具の一つといえましょう。
この陸前の国で見られる「神酒口」も民間の品として顧るべきものでありましょう。何も陸前だけのものではありませんがここのは出来がよいように思えます。御神酒徳利に差す飾り物で、竹を縦に細かく裂いて、平たく模様風に結んだものであります。よく宝船や宝珠玉などを現しますが、巧みな技なのに驚きます。
終りにもう一つこの辺の民具として、他にないものの一つに、古裂のみで作った背中当があります。陸前の北と陸中の南とが主な区域のようでありますが、様々な布をまぜて組んであるので色も美しくかつその作り方も平組にしたり網代編にしたりして変化を与えます。藁沓でも布を入れたのに特色ある形のを見かけます。古裂は手仕事にいつも一役を買っています。この辺で旅の足を羽後の方に向けるとしましょう。
秋田はその国の主都、佐竹氏がその城を築きしところ。陸奥を北に羽前を南にして、日本海に面している国であります。この地方から吾々は今どんな手仕事を見出すことが出来るのでありましょうか。
郷土の人が自慢するものが幾つかあります。能代の漆器はいつもその一つであります。「秋田春慶」とも呼ばれていて檜の柾目を素地にし、幾回かこれに漆を塗って、なおかつ柾目の見えるのを誇りとします。透明な黄味を帯びた塗であります。塗方に秘法を守って、一子のほか誰にも伝授しない風さえあります。塗りを重ねること数十回といい、ために値も嵩みます。仕事は極度に埃を嫌いますので、海に出て舟の上で塗るといいます。上品などこか女性風な優しさがあって、技が充分でないと出来ない仕事であります。しかし薄手に作るせいか、塗に気を配り過ぎるせいか、どこか弱々しい一面を有ちます。それに高価ですから民衆の日々の生活に交るわけにはゆきません。冴えた仕事ではありますが、人間に譬えれば蒲柳の質とでもいいましょうか。
「秋田八丈」と呼ばれるものがあります。これも綺麗な織物で、色は主に黄と褐とを用い、上品な感じを受けます。しかし八丈島の例の「黄八」を真似たもので、やはり真似るということに既に引目がありましょう。本場の品に比べると一歩を譲らねばなりません。本人と代人との差はどうすることも出来ないものであります。これよりもむしろ郷土風なものとしては由利郡亀田町の薇織を挙げるべきではないでしょうか。厚みもあり温みもあり、北の国の持味があると思います。
もう一つこの国が他国に誇るものがあります。これは充分に誇るに足りる品物といわねばなりません。それはいわゆる「樺細工」、即ち桜皮の細工であります。樺とは樺桜のことで、山桜の一種でありますが、その皮を用いて様々な細工ものを作ります。この仕事は他の国にも稀に見られますが、今は仙北郡の角館町に仕事のほとんど凡てが集りました。同じ国の大館町にもよい仕事が見られますが、仕事は角館ほど盛ではありません。この細工は元来は阿仁の山間に発したものといわれます。樺細工はいわゆる「型もの」と「板もの」との二つに分れますが、技術としては随分進んだものであります。最も沢山作るのは胴乱で、煙草入であります。その他茶筒、茶入などは型を用いて作られ、硯箱、角盆などは板を素地とします。大きなものでは机や棚の類に及びます。樺細工は全く外国には見られず、日本の材料と日本の手技とから生れた美しい仕事の一つであります。その色や艶やまた強さは、天与の賜物でありまして、この仕事の持つ大きな強みであります。ただ近頃はこれに模様を加えることがはやって、かえって自然を人工でこわすようなものが多く、残念に思います。よい模様ならまだしも、多くはなくもがなと思われます。もし正しい形と、新しい用途とに交るなら、この手仕事は角館の名をいや広めるでありましょう。ともかく羽後の国の特産として最も誇るに足りるものの一つであります。近頃桜皮で下駄を沢山作りますが勿体ない感じを受けます。既に皮は少く貴いのでありますから、永く使えるものを作って自然からの贈物を大切にすべきだと思います。
北秋田郡に阿仁と呼ぶ部落があります。ここで「岩七厘」を作ります。軟い石を材にし、それを軽く焼き、これに白と黒との漆喰を施します。隅切の四角型で、上にやや開く形をします。大中小と作りますがおそらく七厘としては最も美しいもので、どんな室で用いてもよいでありましょう。七厘というのは妙な言葉ですが、炭の代七厘にて足りるという所から来たそうであります。秋田県では「しょっつる」という料理があって、それにはいつもこの岩七厘を用います。「しょっつる」とは塩汁の訛であります。郷土の料理を郷土の七厘で煮るということは、一つの自慢であってよくはないでしょうか。鍋には好んで帆立貝を用います。
羽後の国にはたった一ヵ所だけ焼物の窯場があります。神宮寺という駅から少し南に行ったところに楢岡と呼ぶ村があります。ここにわずか一基の窯があって親子水入らずの仕事であります。釉薬は他の北国のものと同じように青味の深い海鼠釉を用います。これで壺、甕、鉢、片口の如きものを焼きます。最も貧しい窯の一例でありますが、出来るものを見ますと誠に立派で活々した仕事であります。雑器のこと故、極めて無造作に作りはしますが、中から選べば、名器と呼ばれてよいものに出会います。海鼠釉では朝鮮の会寧が有名であり、遠くは元窯に及びますが、この無名な楢岡のものは、決してそれらに負けないでありましょう。知らなかったら古作品かと思われるものさえあります。貧しい安ものを焼く小さな窯でありますが、東北第一と讃えても誤りはないでありましょう。つい先日まで角館近くの栗沢にも窯がありましたが、今は煙が絶えました。
雄勝郡に川連の町があります。漆器の産地で名が知られています。昔から形をくずさない品物は、伝統のお蔭で見ごたえがあります。ここのものでは「茶膳」と呼んでいる一種の茶盆が特色あるものであります。仏具にも見るべきものに出会います。概して新しい試みの品は形が瘠せて見劣りがしますが、それは今の暮しそのものが弱まって来たからではないでしょうか。
横手の市日などに山と積んで売っている「通草籠」は、その地方の誰でもが背負うものでありますが、形になかなか力があります。また竹で編んだ大きな籠に「よこだら」と呼ぶものがあります。おそらく「横俵」から来た言葉でありましょう。横長で俵に似た形をしていますが、編み方が立派であります。土地から生れて来るものには、めったに間違いがありません。この「よこだら」という言葉はずっと離れた地方にも広がっているのを見ます。
横手からそう遠くない千屋村あたりの蓑や深沓で大変細工のよいのを見かけます。蓑はここでも襟飾りに矢絣などを入れて凝ります。藁沓では先を細かく丁寧に編んだのがあって、少しも荒々しい仕事ではありません。似ているようでいて隣の羽前や陸中のものと異ります。鹿角郡の花輪附近も蓑が立派で形に力あるものを作ります。花輪といえば紫根染や茜染で聞こえます。日本にとっては大切な染物ですが、このことは陸中を語る場合にあわせて述べることに致しましょう。
秋田県の農具で見るべきものは箕であります。南秋田郡太平村黒沢の産が一番でありましょう。真白な「いたや」で綺麗に編みます。角館近くの雲然村も同じ技を有ちます。「いたや」は楓の一種といいます。
大館町で樺細工が出来ることは前にも述べましたが、この町はむしろ曲物の仕事で記憶されてよいでありましょう。よい「わっぱ」を作ります。羽後の金物では蔵戸の錠前や五徳の類などに見るべきものがあって、秋田、大館、花輪などの鍛冶屋で作りましたが、流行おくれの型となりました。
この国の和紙は平鹿郡の睦合村のが一番かと思われます。楮の材料と、伝わる古法とは悪い品を許しません。これに背けばとかく質が落ちてしまいます。何故でしょうか。
陸中の大部分は岩手県に属します。大きな地域を有つ県で、昔は南部領でありました。更に溯れば藤原一門の文化が栄えた所で、有名な平泉の「金色堂」は、その栄華の夢の跡を語ります。もっと古を訪ねれば多くの蝦夷がいた土地でありましょうが、それらのことは歴史家の筆に任せましょう。私はなおもこの国で今も作りつつある優れた品物を訪ねて、各地を旅致しましょう。
南部といえば誰も鉄瓶を想い起します。それほどこの仕事は盛でありました。盛岡の町には大きな店構えが並び今も仕事を続けます。名を広めましたので随分遠くまで品物は運ばれて行きます。従って技術も進み様々な作り方が考えられました。しかし現状を見ますと、大変見劣りがするのはその形で、これは江戸末期の弊を受けたのでありましょう。いたずらに凝って作るため形に無理が出来、美しさを殺してしまいます。もっと単純に素直に作ったら、どんなによく改まることでありましょう。浮模様を附ける場合もまたは膚を工夫する場合も、大概は度が過ぎて、これでどんなに損を招いているか知れません。ふくらかな確かりした形がどうして生れなくなったのでしょうか。名が高いだけに将来の歴史を深めたいものであります。これに反し名が少しも聞えていない田舎の野鍛冶などでしばしば美しい伝統の品に廻り会います。私が山の町軽米で見た「口鍋」などは大変美しいものでありました。
南部の名を有つものに古くから「南部椀」があります。時にはこれを呼んで「秀衡椀」という人もあります。この藤原秀衡の名に因む椀が、果してどこで出来たか、実は確かでありません。しかし南部椀と呼ばれるものの系統は、細々ながらも雑器のうちに伝っております。二戸郡の荒沢から荒屋新町にかけて漆の業に従うものが少くありません。界隈で有名な斎藤善助の邸の如き仕事が栄えた頃の面影をよく宿します。「浄法寺椀」の名も残りますが浄法寺は同じ街道にある村の名で、そこや一戸などに、今も市が立って品物を売ります。中で椀類が一番多いのでありますが、もとより片口や木皿や膳なども見かけます。
漆器では他の国にもっと有名な所が沢山ありますし、技でも更に優れたものが少くないでしょうが、しかし昔の格をどこか保っている点で、仮令安ものでも二戸郡のものは見直さるべきだと思います。それに土地の漆を用いる割合が多いことも大きな強みでありましょう。近頃輸出ものを作らせて洋風の形など取入れたものまで出来ますが、歴史を深める仕事ではありません。やはり昔の格を守った椀や「ひあげ」と呼ぶ片口の如きものの方に、遥かに正しい美しさが輝きます。「ひあげ」は酒器として用いられますが、外は黒、内は朱、口の根元を黄漆で模様風に飾ります。大きいのになると堂々たる趣きさえあります。「ひあげ」は提子の転訛であります。
それに荒屋新町などの仕事で眼を引くのは絵附けであります。銀杏だとか桃だとか富士山だとか、三、四の定まった模様が古くから伝わり、今も描き続けます。慣れているので筆がよく運び、絵に勢いがあり、新柄のものに比べて段違いに活々したところがあります。伝統の力で模様に成り切っているので自由さがあるのだと思われます。こういう図柄は仮令簡単なものでも、祖先が遺してくれたものでありますから、大切にされねばなりません。まして美しいのですから。
陸中の漆器は他にもう一ヵ所あって仕事をします。村は名高い衣川に在りますが、その一番奥の増沢という村落であります。山に包まれた寒村ですが、ここで今も忙しい仕事が続きます。誇ってよい点は塗が正直で手堅いことで、村の人たちもその名誉を涜しません。この村に住む者はいずれも「隠念仏」の信者であります。「隠念仏」というのは、真宗に属していますが、念仏を同行の者の間だけで他には秘して修める行であります。いわゆる「秘事法門」の一種であります。想うにこの信心こそ仕事を真面目なものにさせている大きな力なのであります。この村で面白いことは今まで商人と取引したことがなく、いずれも在家から直接注文を受けて仕事をすることであります。世にも珍らしい生産の形で、これがどんなに仕事を実着なものにさせているでありましょう。多くの場合工藝の堕落が問屋や仲買の仲介によることは、歴史の示す通りであります。作る者から用いる者へ、直ぐ品物が渡ることは最も望ましいことだと思います。これが価格を合理的なものにする基礎となるのは申すまでもありません。こういうよい事情が見られるのは、一つにはこの国で漆器を食器として何より多く用いる習慣が残るためだとも考えられます。そのため何十人前と注文をすることが今も珍らしくありません。土蔵は何より塗物のための土蔵だといわれています。おそらくこの地方ほど漆器が愛されている所は他にないではないでしょうか。
漆器で忘れ難いのは盛岡や日詰の荒物屋で売る「菓子櫃」であります。横巾一尺五寸近くの楕円の櫃でありますが、その蓋の上に大まかに色漆で牡丹の模様を描きます。図のこなし方に大時代の風があって、近頃の小器用な弱々しいものとは雲泥の差があります。雑器の一つではありますが、今描く漆絵としては最も立派なものといえましょう。地は黒塗で、牡丹の花弁は朱、葉は緑、幹は黄、これに金箔をあしらいます。蓋には二つの桟、胴には二段の箍、その間に線描の葉を散らします。作るのは盛岡であります。
南部の名といつも結ばれるものに「南部紫」があります。紫とは紫根染のことで、この紫で今も絞を染めているのは、わずか盛岡と花輪だけのようであります。共に茜でも染めます。どんな紫もこの紫根の色より気高くはあり得ないでしょう。禁裡の色となっているのは自然なことのように感じます。惜しい哉、色を出しにくかったり、日光に弱かったりする恨みはあります。染めが難かしいために、技は古来秘伝となって残されます。しかしこういう風習を破って、染方を広く世に知らせる方が正しい道ではないでしょうか。紫根染は絞染に限られる傾きがありますが、糸染をして見事な織物を今も作るのは独り下閉伊の岩泉であります。何してもこんな気品のある紫色は少いのでありますから、もっと世に流布したいものであります。
同じ岩泉によい帯地の「桃山織」があります。「南部紬」も名があって各地で細々ながらも織られます。大体紬類は手機あってのものですし、織味も優れているのですから、仮令沢山は出来ないとしても郷土の織物として是非続けたいものと思います。人々もその値打をもっと認めねばなりません。製作に困難もあるでしょうが、結城紬の場合のように、正しい仕事はいつか大きな味方を得るでありましょう。
陸中のものとしては竹細工も挙げねばなりません。二戸郡の浪打村鳥越が最も沢山作る部落であります。かくて近くの一戸、福岡などの荒物屋に数多く運ばれます。南国の竹細工とは全く違うもので、細い篠竹を材料とします。土地では「黒竹」とそれを呼びます。笊、箕、籠、行李など様々なものに及びます。方言では「おぼけ」とか(これは緒桶のことであります)、「とす」とか(これはの意で篩のこと)、「かこべ」とか(これは葉籠のこと)など色々面白い呼び方をするのも、郷土のものである証であります。いずれも姿よく、細い篠竹から自然に生れる形であります。それにこの鳥越の竹細工には黒染の竹を用いて線を入れたりしますので一入美しさを添えます。小さい竹行李で二重編のものは特に上等であります。販路は北の県境を越えて青森県の八戸あたりにまで及びますが、南の宮城県には届きません。
同じ二戸郡に姉帯村と呼ぶ所があって、ここで「いたや細工」を作ります。箕が主でありますが、饂飩の揚笊の如きものをも作ります。材料の良さと腕の良さとで、仕事は見事であります。ただの農具や雑具と見過ごすべきではありません。
和賀郡の成島には古くから紙漉の業が伝わります。近くの土沢でも優れた染紙の仕事が興りました。江刺郡の田茂山は金物の土地として記憶されるところ。岩谷堂は箪笥の技の伝わる町、「四尺箪笥」と呼ぶものが昔の型であります。この国の唯一の窯場としては九戸郡の久慈があります。白釉や飴釉で片口だとか鉢だとかを焼きます。近頃花巻にも窯が開かれましたが、仕事はこれからであります。よき材料があるので、よき作手を待つのみであります。花巻はむしろ人形で知られております。
上閉伊、下閉伊の両郡や九戸郡の如きは、山が重なり交通の便も悪いので、訪ねる人は余りありません。ですが遠野だとか岩泉だとか、もっと北の軽米だとかいう町は、今も昔の生活を濃く思わせる所であります。そういう地方の山村には特色の著しいものが少くありません。蓑だとか雪沓だとか、背中当とか背負袋とか、そういう民具に立派な手の技を示します。集めたら心をそそる陳列となるでありましょう。一番手短にそれらのものを窺うには、荒物屋を訪ねるに如くはありません。奥地に入らずとも、盛岡市の仙北町はよい例を示すでありましょう。径二、三尺にもおよぶ大きな捏鉢だとか、非常に立派な箕だとか、手の込んだ蓑だとか、形の面白い編笠だとか、または紺の麻布に染模様のある馬の腹掛だとか、それは様々なものの陳列を見ます。この地方の風俗をそぞろに想わせます。
風俗といえば御明神のことが想い出されます。雫石に近く、山を越えればもう羽後の田沢湖に出ます。この村に見られる女の風俗は世にも珍らしいものであります。笠や頭巾や顔網や背中当や腰廻や手甲や、幾つのものを身につけるのでしょうか。その一つ一つが他の国のとは違ってあるいは色糸でかがってあったり、模様があしらってあったり、編方が凝ってあったり、形が珍らしかったりします。雪でも降れば襟編の綺麗な蓑も纏います。もとより脛巾、足袋、藁沓などは申すに及びません。これが野良で働く出立であります。京の大原女は名が響きますが、御明神の風俗はそれにも増して鮮かなものであります。いたずらに都の風を追う安っぽい身形よりも、土地から生れたこういう風俗の方が、どんなに美しいでありましょう。借物でも嘘物でもないからであります。
雪が求めるものの一つに雪下駄があります。歯を斜めにとるもので、これがために雪が附かないといいます。長い経験から生れた形と思います。好んで栗の材を用います。黒沢尻あたりでも見かけましたが、形が一番立派でかつ古格があるのは胆沢郡衣川村増沢のものであります。歯が下に張っているもので、この様式を守る下駄は、今は薩摩の川内下駄と琉球那覇のものと、この衣川のものとだけになりました。中でも衣川のものが形の立派さでは第一であります。鼻緒は好んで馬の毛を組みます。
「裂織」といって、古衣を裂いて織り込む厚い布があります。廃れ物のよい利用で、見違えるように甦ってきます。主として炬燵掛に用いられます。様々な布が交るので、しばしば美しい彩を示し、白雪一色の冬の暮しを温めてくれます。陸中ではとりわけこの裂織が盛で、特に七戸や八戸地方に多く見受けます。もっともこの裂織は他の国々にもあって、信濃のような山国では農家で好んでこれを織り、ほとんどどの家でも用います。この種の織物はむしろ世界共通のものといってもよく、欧米にも見られ、農民の暮しに所の東西がないことを想わせます。今も織り続けられますが、ただ最近の布は染めが悪く色もあくどいので、落ちつきを欠きます。
北の国々は寒い地方ですから囲炉裏とは離れられない暮しであります。それ故必然に炉で用いるもの、自在鉤とか、五徳とか火箸とか灰均なども選びます。所によっては炉に綺麗な小石などを敷きつめたりして、火を楽しみます。また長火鉢で見事なものも用います。堂々たる大型で、欅の材を太々と使い、これに蝋色漆を塗ったりまた黒柿の内縁を入れたりします。これに用いる吉原五徳も磨くことを忘れません。雪国は火に親しむ暮しを求めます。
文字がよく示しますように、日本の一番奥のはては陸奥の国であります。県庁は青森市に在りますが、津軽氏の居城は弘前でありました。今もその城址には立派な城門や櫓が残り、花の季節などには絵のようであります。雪に深い町でありますから、店の前に更に軒を設けて雪よけの囲いをします。これがいわゆる「小店」でそれがどこまでも連なり、一種の風情を醸し出します。ですが度重なる大火のために漸次少くなりました。もっとも小店は弘前ばかりではありません。越後の高田だとか陸中の花輪だとか、雪の深い町では好んで設けます。その冬の日、この小店を縫って、店を次から次へと見て歩くのは、旅する者の眼を忙しくさせます。
すぐ眼に入るのは「津軽塗」であります。色漆を用いて雲形の斑紋を作り、それを研ぎ出して仕上げます。おそらく若狭塗に由来したものでありましょう。塗が丁寧な場合は丈夫であります。机、棚のような大きなものから、盆や箱、はては小さな箸、糸巻のようなものにも及びます。
金物屋の前を通りますと寒い国のこととて炉に用いる色々の道具が見出されます。飾り立てた真鍮や銅の自在、丸輪五徳や吉原五徳、さては火箸、灰均など。中で北の国だけのものと思われるのは「炉金」であります。大きな囲炉裏の中に仕込むもので、火を長く保たせるのに役立つといいます。四角なもの円いもの共にありますが、多くはその二つをつなぎ炉縁と五徳とを合せたようなものであります。
米屋の前を通りますと、いたや細工のとても大きな米漏斗を見られるでしょう。朝顔のように上に開いた形で、花籠にでも応用したらさぞ立派でありましょう。弘前近くの目屋村の産といいます。他国では竹で作ります。
荒物屋を訪ねますと、思いがけなくもそれは美しい帚を見出します。田舎館の産でありまして、編み方によき技を示します。色糸を使って密に編んだり、また籐を用い上手に段をつけて締めたりします。日本全国の帚の中で最も優れたものの一つに推さねばなりません。店の天井にはまた幾種かの藁沓が下っていますが、赤い布を入れたそれは可愛い子供の沓も見られます。
次には神棚に据えるお宮を作る店が現れます。白木ですが所々に墨で縁などをとって珍らしい型のものであります。隣りにはまた玩具屋があります。覗くと見慣れない独楽が眼につきます。土地では「ずぐり」と呼びます。これは古語をそのままよく伝えているのでありまして、形が大変面白く、中には随分大きなのを見かけます。内側を深く刳った挽物で、そこに様々な色で横筋を入れてあります。かかる独楽は他の国に例が見当りません。
また少し歩きますと通草細工が眼に止ります。この細工は秋田県や岩手県にも見られますが、仕事が盛なのは弘前だといいます。便宜な材料でありますから、更に美しい形を与えたら、まだまだよい仕事に延びて行くでありましょう。次には馬具屋が現れます。ここの鞍骨は金具のよさではたしかに日本一でありましょう。浮出模様で所狭きまでに飾るのでありますが、それが今時には珍らしいほど活々した仕事であります。昔の技が今もなお衰えておりません。馬子でなくとも手に入れたいほどの品であります。
更に小店を追って行きますと、駄菓子屋がとても沢山ある通りに出ます。こんなに盛な駄菓子屋の町は全国にないでありましょう。それが見たこともないような恰好のものや、形や色で食慾をそそるようなものが多く、見るだけでも大したものであります。中には本当においしいのがあって、一度味えば誰も包を抱えて帰らないわけにゆかないでしょう。既にお土産ものが充分出来たのでこの辺で小店を去ることに致しましょう。
この陸奥の国には見逃してならない二つの民藝品があります。一つは刺子着で一つは蓑であります。いずれもその出来栄は日本一の折紙をつけてよいでありましょう。
刺子の方は二種類あって、二つの地方に分れます。津軽を中心として作られたものを土地では「こぎん」といいます。小布の意味であります。一つは南部地方のもので「菱刺」と呼びます。「こぎん」の方はもうほとんど絶えましたが、近頃それを惜しんで再び立ち直ろうと試みられております。これは紺の麻布を地にし、白の木綿糸で目を拾って刺して行くのであります。凡て直線から成りますから絵模様はありません。刺す部分は着物の胸と背とであります。もともと着物の破れやすい個所を繕ったり、丈夫にしたりするためだったと思います。模様は色々あって、一々方言でその名を呼びます。ごく娘の時から習い始めるといいますが、随分手のかかる仕事で、刺子としてはこれほど念入のものは他にありません。弘前を中心に発達した農民の着物であります。狭い地域の中にも自から特長があって、「東こぎん」「西こぎん」「三縞こぎん」などと名を附けて区別します。いずれも美を競うほどの出来栄であります。一方の南部系の「菱刺」は、七戸から八戸あたりに栄えたもので、これはわずかながらなお続いております。この地方は今も丈夫な麻布を産します。菱刺には多く白と藍と紺との三色が用いられ、上着のみならず股引にも刺し、また色糸入で前掛も作ります。刺し方で模様が菱形をとるので「菱刺」の名を得たのであります。
これらの二つは日本の刺子着としては一番手を込めた立派なもので、技から見ても美しさからいっても、農民の着物としては第一流のものでありましょう。これも雪に埋もれた長い冬の日の仕事であるのはいうまでもありません。今も冬はあり今も女たちはあり今も技が残るのですから、こういう刺子こそ何か新しい道で活かすべきではないでしょうか。
津軽が吾々に与えるもう一つの驚くべき仕事は蓑の類であります。蓑というと東京あたりでは、ごく粗末に藁で作ったもののように考えますけれど、津軽のは全く違って、飾っておきたいほどの品であります。実際土地でも「織げら」とか「伊達げら」とかいっていますから、晴着に自慢で着る織物のようなものであります。「けら」とは蓑のことで、ごく古い和語であります。碇関や、北の方では金木辺のが仕事が特に優れます。この種の「けら」の特長は、襟から肩、背にかけてを白い紙縒糸で編み、これに黒糸や時としては色糸で模様を入れることであります。そうしてその周囲には黒く染めた胡桃皮を毛のように長く垂らします。時としては「すごも」と呼ぶ海藻を黒髪の如く靡かせます。背から腰にかけては丈夫な科の皮を総々と用います。蓑といえばとかく荒々しい雑具のように考えますが「けら」の類はむしろ高い品位を想わせます。大体北の国々は美しい蓑を作りますが、わけてもこの津軽のは眼を見張らせます。知らない人はこんなものが日本に在るのかを疑うでしょう。まして現に用いられているのを知ったなら、さぞ驚くでありましょう。
羽後にもありますが陸奥の織物として近く再び興されたのは薇織であります。温いので雪国で求められる布の一種であります。材料は山野に限りなくありますから、地方の特色ある織物としてよい生い立ちを見たいものであります。弘前近くに「悪戸焼」がありまして絞描で巧みに絵を描きましたが、惜しくも歴史は中絶しました。近年新しく一基が市内に設けられましたが、よき生長を望みます。
この国では和紙は見るべきものがありません。ただ紙漉町とか紙漉沢とかいう名が残って昔の歴史を語るのみであります。
日本に三駒などといって愛される馬の玩具がありますが、その一つは八戸の「八幡駒」であります。他の二つは仙台の「木下駒」と磐城の「三春駒」とで、郷土の香が著しく、形に特色があって忘れ難いものであります。
陸奥物語の終りに来ましたから、最後にこの国の一番北はずれにある珍らしい手仕事の話でこの一章を結びましょう。下北郡といえば本土の地図の一番の北で、旗のような形をしている半島であります。そこの大畑村小目名という村に「檜皮細工」があります。これで物入や籠や鉈鞘など、山や野で用いる色々の品を拵えます。他国にないもので、いずれも形が立派でどこにも病のない仕事であります。
東北の旅に思わずも長い時を費しました。ここから踵を返し中部を見学することに致しましょう。
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ここで中部と名づけるのは便宜上、美濃、飛騨、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃の九ヵ国を指します。岐阜、愛知、静岡、山梨、長野の五県でありまして、その多くは昔の東海道に含まれます。その中の名古屋は中京と呼ばれました。
美濃国といえば、誰もすぐ「美濃紙」を想い起すでありましょう。武儀郡の下牧から洞戸に至る板取川の川辺に、数限りなく和紙を漉く村々を見ることが出来ます。材料は主に楮であります。「美濃判」などという言葉が広まっているのは、ここの仕事の栄えたのを語ります。古くは「直紙」ともいいましたが、広く「書院紙」の名が聞えます。生漉の丈夫な紙であり信頼のおける品でありまして、美濃紙の名が高まったのも、全く質の良さに依るのであります。美濃町に行きますと店に紙を高く積んだ老舗を沢山見られるでしょう。近来パルプだとか鉄の乾燥板だとか便利なものがどの国の紙漉場にも入りましたが、これらは量を増しますが質を高めるものではありませんでした。ある店の老主人が私に述懐して「もう昔のような良い紙は出来ません」といいました。なぜだかを吾々は考えねばなりません。
美濃の都は岐阜であります。鵜飼で有名な長良川の辺りに在る町であります。この都の名に因んだものでは、誰も岐阜提灯のことが想い浮ぶでありましょう。夏の夜軒端などに吊して涼しさを添える品であります。細い骨の上に薄い紙を貼り好んで草花などを描きます。上と下との曲木には厚ぼったく白の胡粉で割菊の紋などをつけます。優しい品のよい提灯であります。大きさや強さの美はありませんが、平和を愛する心の現れであります。その他和紙を用いたものでは、傘や団扇などがその郷土をよく語ってくれます。後者はよく「岐阜団扇」の名で通りました。漆塗の紙を用います。今に流行ませんが油団も和紙のものとして忘れ難い品であります。何枚も紙を貼り合せ油または漆をひきます。
美濃といえば多治見や駄知を中心とする焼物の仕事が盛でありますが、それは広い意味で瀬戸の一部と見てよいので、尾張を語る時に譲りましょう。それに多治見のものはおおかた西洋風な法で多量に作ることに忙しいので、手仕事としては見るべきものが少くなりました。
美濃で語らなければならないのは、関町の刃物であります。昔の刀鍛冶の技が伝えられ、質の優れた刃物を育てるに至ったのだと思われます。短刀だとか小刀などに実によい技を示します。かつ鞘の細工にも工夫が見られ、優れた品の数々を見ます。誰も使ってみたい心を起すでありましょう。たしかにこの国が誇ってよい産物の一つであります。
岐阜県の中には山の国飛騨が含まれます。鉄道が敷かれたのも割合に近頃のことで、つい先日まではその都高山に行くのは並ならぬ旅でありました。近くの白河郷には有名な大家族の家が残るほどで、大きなゆったりした合掌造りの家々が見られます。嶮しい山路で他の国から遮られていたせいか、暮しにも持物にも行事にも色々珍らしいものが見られます。ここの品物でとりわけ不思議なのは木工具でありまして、全く他の日本のものと類を異にし、大変朝鮮のものに近い性質を有ちます。特に椀だとか木皿だとか高坏だとか、または蓋物や印籠の如きものなど、全く見分けのつかないものさえあります。何も朝鮮と歴史の繋がりがあったのではなく、全く山国の生活が淳朴で自然で、気持ちにも似通った点が互にあるからだと思われます。もっとも近頃は激しい時の流れに押されて、段々この山国の仕事も平凡になって来ました。今も作るもので感心するのは印籠であります。全く他の国にない作方で材料をこなし形を生み出します。欅の皮を用いるのが特色であります。姿は横長で左右の紐穴には好んで鹿の角を用います。外側は多く溜塗でありますが、内側は朱塗で屋号を焼印で押します。この印籠は主として煙草入として用いられ、形に幾つかの型を有ちます。高山が第一に誇ってよい品と評したく思います。この町の「一位細工」も名があります。一位と呼ぶ赤みがかった木理の美しい木を材料とするもので、今まではこれでよく笏が作られました。編笠は今も盛に作られます。用途を考えよい形を与えて色々と試みたら、一つの世界が開けるでありましょう。
つい近年まで農家などで愛された「三番叟釜」などを見ますと、湯釜として独特な形を有つのに心を惹かれます。今残る金物類としては山刀や鉈の類を挙げるべきでありましょう。これにしばしば桜皮で巻いた美しい細工の鞘を附けます。桜皮編の籠も見事に作ります。
高山の品としてはいわゆる「飛騨春慶」が有名であります。家庭で用いる一渡りの器物を作ります。春慶塗のことについては秋田の産物を語る時に既に記しましたが、日本ではこの高山のと、前に記した能代のものとが双璧であります。美しい品のある塗でありますから、正しい道を進むなら、名声はなお上るでありましょう。
山の生活は自から都会の暮しとは持物を異にし、町はずれの荒物屋にでも行けば、近在の人たちの買う品々が、よく軒に吊されているのを見かけます。背当の「ねこだ」とか背負袋とか鉈鞘とか笠だとか、あるいは「はばき」の類などは、他国の者たちの目を引きます。特にいたやや桜皮で出来る籠類は見事で、そぞろに山の生活がどんなものであるかを想わせます。飛騨の国は旅の心を誘うところであります。荒物では高山の他に古川町などにも寄って下さい。
尾張国の名古屋を中心とするのが愛知県であります。名古屋城は今も昔の姿を変えず、下には濠を漂わせ、高い石垣の上に聳え立つ様は壮大であります。お城の屋根の金の鯱はどの本も忘れずに書く名物であります。しかしそれは昔の姿でありまして、新しい名古屋は盛な商売の都として様子を一変しました。大きな工業が栄える土地だけに、手仕事を町に見ることは難しくなりました。ただ世俗の勢いの蔭に、茶の湯を嗜む者が少くありません。
尾張で出来るもので、まず誰でも挙げるのは焼物であります。瀬戸と呼ぶ古い町が中心で、煙の勢いは今も衰えません。歴史は甚だ遠く近在に多くの窯場を産みました。それというのも良い陶土を近くに得られるからであります。瀬戸の周囲には品野、赤津などの窯があり、この系統が引いて美濃の方にまで及びました。瀬戸の町に行きますと、何百年かの窯の煙が、町そのものを黒くしているくらいであります。ここの本業窯といわれるものは、大した大きさで、中に何万個という品物を積み上げ、これを焼き上げるには一週間も松薪を燃やし続け、半月以上も冷めるのを待たねばなりません。陶土もここのは骨があり肉があるとでも申しましょうか、どこか確かりした、質の優れた材料であります。自然がこの地で陶器を作れよとさながら命じているように思えます。日本では最も古いまた大きな窯の一つであります。瀬戸で出来る品物なので「瀬戸もの」といいましたが、東海道一帯では焼物といえば多く瀬戸のものを使うため、ついには焼物のことを「瀬戸物」というようになりました。それ故この言葉は九州あたりでは通用致しません。なぜなら九州では「唐津」と呼ぶからであります。ここでも地名が焼物の一般名にまで高まった例を示します。
この瀬戸ものにはあらゆるものがあります。もとより轆轤も用い型物も作ります。中で昔から近所近在に行き渡って使われている雑器は紅鉢といわれる大きな深めの鉢であります。また「石皿」と呼ばれる径一尺前後の浅い大皿であります。旅籠屋や煮売屋を始め、どんな台所ででも重宝がられました。この皿には昔は巧みな絵を描きましたが、いつしか絶えて今は無地ものばかりであります。しかし便器のようなものには今でも達者な筆で、牡丹紋だとか竹に雀だとかを自在に描きます。もっとも用いる青絵具は天然のものでないため、どぎつい色を示します。
日常の雑器でおそらく今一番よい品を作るのは品野であります。行平などは今も大時代の形であります。蓋物で黒地に白の打刷毛を施したものがありますが、他の窯には見当らない特色を示します。大中小とあります。この品野の窯で最も誇ってよいのは、土地で「赤楽」と呼んでいる土で、これでよく縦に縞を入れます。いわゆる「麦藁手」といわれるものの一つで、品野の特産でありました。色は燻んだ赤黄色のもので、よい彩を与えます。この窯でかつて長方形の片口のような擂鉢を作りましたが、惜しいことに絶えました。
この品野と並んで瀬戸の一翼をなすのは赤津であります。ここはいわゆる「織部焼」の本場と称するところで、今も盛に作ります。昔茶人であった織部正重然の好みの焼物だといい、鉄で簡素な紋様をあしらい、所々に緑の色を垂らしたものを指します。全く和風な好みの濃く現れている焼物であります。ただ近頃のは緑の色が悪くなりましたのと、形をわざわざ曲げたりするのとで、横道にそれた仕事に落ちました。もっと素直に作ったらさぞよくなるでありましょう。この織部といつも一緒に挙げられるのは「志野」と呼ばれるもので、半透明な厚い白釉の下に、鉄で花や草などを簡素に描いた焼物であります。これもいい伝えでは茶人志野宗信の好みに出たものといいます。支那や朝鮮にない大和風な焼物を代表します。ですがこれも近頃のはわざとらしく凝ったもの多く、感心致しません。今はなくなりましたが美濃の笠原あたりの窯址から出る雑器を見ると、「織部」も「志野」も趣味の犠牲ではなかった時代のあることを語ります。いつでも本筋の仕事を追うべきではないでしょうか。
ともかく瀬戸は有田と並ぶ二大窯業地の一つで、陶器も磁器も共に焼き、仕事は今も盛大なものであります。もっとも近頃は大部分が近代風な機械産業に移りつつあります。そのため産額や生産は昔に比ぶべくもない数字を示しますが、質が手仕事に及ばぬのは大きな恨みであると申さねばなりません。それに輸出向の洋風な安ものに熱中した窯は、どんなに日本の名誉を涜したでありましょう。
尾張の国では窯場として犬山があります。陶器に赤絵を施した焼物として名を広めました。しかしいつも絵に生気が乏しいのを残念に思います。その他知多半島に常滑があります。ごく薄く釉薬をかけた赤褐けた焼物であります。急須だとか皿や鉢など小ものも焼きますが、近頃は土管の仕事が専らで、見るべき品が少くなりました。
この愛知県は富んでいて商業が盛であり、従って色々のものを生産はしますがどうも商品化し過ぎて、これぞといい得るものが少い恨みがあります。中で記してよいと思うものの一つに「端折傘」があります。丹羽郡扶桑村で作られます。産額は大きくないとしても、傘の類では日本一と讃えてよいでありましょう。神官や僧侶の用いるもので形大きく立派なものであります。色に赤と黄と白とがあります。端折と呼ぶのは傘の端が下に折れているからであります。伝統が古いのを想わせます。こういう品より世間にもっとよく知られているのは絞染であります。「鳴海絞」とか「有松絞」とか呼ばれ、いずれもその土地で出来ます。絞染はもと支那から法を教わったものでありましょうが、これを細かい柄に育てたり、色々の模様に進ませたりしたのは我国であります。そのため糸のくくり方が発達しました。かくて絞柄に様々な名を与えます。京都などもこの技術で名がありますが、仕事の盛なのは鳴海地方であります。大体染物は色に浸し漬けるのが本式で、近頃流行の捺染のように上から色を置くのは、本筋の仕事ではないように思います。絞染が心を惹くのは、やはりその多くが漬染の道を守るからではないでしょうか。それにどこか日本味のあらわなもののように感じます。
「知多木綿」はその半島の半田が中心地で、地面の上に広げて天日に晒す様は見ものであります。三河の国では岡崎地方で出る「三河木綿」が有名ですが、水車紡績で織ったものはもうほとんどなく、機械の仕事に任せましたので特色は薄らぎました。東加茂郡旭村の「足助紙」は今も続きます。宝飯郡の小坂井にある菟足神社で売る風車は甚だ味の富んだ郷土玩具の一つであります。三州の有名な花祭に用いる「ざぜち」と呼ぶ切紙も見事な出来栄を見せます。半紙に鳥居だとか馬だとか鹿だとかを巧みに活々と切り出します。この種のものは北の国々などにも祭の時に見られはしますが、三州のは特に鮮かな図柄を示します。
静岡県は遠江と駿河と伊豆との三国を含みます。富士の国といってもよいでありましょう。四季をその眺めで暮します。遠江の都は浜松で、ここは誰も知る機業の地、激しいほど機の音を町々に聞きます。しかしこれとて目星しい手仕事の跡を見ることは出来ません。むしろよい仕事を希う人は、取り残された状態にあります。周囲は余りにも多くの量と早い時間と、少ない費用とを目がけて進むからであります。仕事は悦びで為されるよりも、儲けのために苦しみを忍ぶ方が多くなってしまいました。
織物の名誉はむしろ掛川の仕事の方に懸っているといわねばなりません。掛川の宿が葛布の名で知られてから、もう何年になるのでありましょうか。江戸時代に書かれた東海道の地誌は、欠かさずに「掛川、葛布」と記しました。幸にも伝統は今も絶えません。近時近くの袋井でも優れた仕事が試みられました。葛の材料は朝鮮から入るといいますが、緒にする技は掛川で為されます。昔は袴や裃の素地として主に織られましたが、今はほとんど皆襖地であります。ここでも仕事は手をぬいたものが少くありません。しかし葛は滑かで塵を止めませんから、襖地としての需用は長く続くことでありましょう。いつか洋間の壁張として迎えられる時が来るに違いありません。それより更に書物の装幀として悦ばれる日が近いでありましょう。絹になく麻になく木綿にもまたない味いがあります。その光沢は葛布のみが持つ特権ともいえましょう。
遠州の織物でもう一つ言い添えるべきだと思われるのは、磐田郡の福田で出来る「刺子織」であります。刺子の仕事を織で行い、分厚な仕事着地として作られます。本当の刺子には及ばないとしても、用に備えた仕事であります。布は木綿、色は藍と白。
遠州の海辺寄りに横須賀という町があります。そこで売る凧は珍らしいものであります。形が他になく、丸型と扇型とが上下二段に繋がっていて、よく巴紋などを描きます。いずれも手描きで、凧の好きな人はきっと見逃さないでありましょう。同じ小笠郡の平田村で作り出す麦藁細工の玩具に、昔から伝わる面白いものがあります。形もよく作り方も巧みで、長く残したいと思います。
静岡は昔は色々な手仕事の栄えたところと思います。今盛なのは漆器や木工の類であります。しかし安ものが多く、輸出向の品に忙しかったりして、見るべき品が少いのは残念なことであります。ただ昔の風を守る木地蝋塗の重箱の如きは、間違いのない品といえましょう。安く早く多く作る技の上から見れば、進んだ土地でしょうが、それが誠実なものでない限り、遅れた土地ともいえるでしょう。町には所々に大きな紺屋が残ります。かつては大柄、中柄、小紋など注文に応じて随分染めたようでありますが、いつしか古きものの中に入りました。まだ型紙は残りしかも数多くあるのですから、何か新しい用途に向けたら、仕事はまた起き上るでありましょう。夜具地に広く用いた大唐草模様の如き、見返すと立派なものですから、何かに甦らさずば勿体ないと思います。窓掛にでも染めたら、流行を外国にまで及ぼすのではないでしょうか。
静岡県でも和紙の仕事が見られます。志太郡朝日奈の如きはよい生紙の産地でまた周智郡鍛冶島などにも仕事が続きます。
伊豆の国は名にし負う温泉の地でありますから土産物の店々を沢山見ます。拾えば木工品などに多少は見るべきものがありましょうが、しかしここでなければ他にないものを見かけません。日光にしろ宮島にしろ何処の土産物も同じになって来たのは、土産物専門の会社が出来たためであります。土産物は須らくその土地のものに限りたいと思います。中で目を止めてよいと思う品は「麦藁細工」でありましょう。様々な色に染めて、これを箱なり糸巻なりの上に貼ります。女の児への土産ものとしては相応しいものであります。熱海地方はかつて「雁皮紙」や「雁皮紙織」で聞えましたが、もう純粋な品は見られなくなりました。伊豆を旅してむしろ眼に入るのは路傍に立つ石像などではないでしょうか。伊豆は石の国ともいえましょう。無名の石工は時折驚くべき手並を見せます。
甲州は海を有たない山国で、甲府はその盆地に位する都であります。町を歩いて店を覗きますと、他の国には見かけないものが二つあります。一つは水晶細工で一つは「印伝」であります。荒っぽい原石から綺麗な艶を有った品になるまでの手間は大変なものでありましょう。「玉磨かざれば光なし」とはよい言葉であります。しかし玉を磨く前に腕を磨かねばならないのは言うまでもありません。ここにも天然の資材が如何に美しいかを知りますが、しかしそれを更に美しくさせるのは人間の技であります。
「印伝」というのは「印伝革」のことで、文字が示します通り、印度より伝わった革細工を意味します。多くは鹿革で柔くなめしてあります。これを燻して茶色にし、模様だけを白ぬきにするのが普通でありますが、あるいは色を変えたり、あるいは上に小紋の漆置をしたり致します。昔は「印伝」は好んで武具の一部に用いられました。それにはしばしば菖蒲模様を見かけますが、それは言葉が尚武に通じるからであります。これを一般に「菖蒲革」と呼びますが、模様として既に古典的なものといえましょう。今も愛する人々があってよく繰返されます。「印伝」は何も甲府ばかりで出来たものではなく、昔は江戸が中心だったと思いますが、いつしか伝統は甲府に集るに至りました。丁度「金唐革」が姫路の産となったのと同じであります。他にない革細工でありますし、質もよくまた美しさも豊でありますから、永く仕事が続くことを望んで止みません。明治までは革羽織の需用もありましたが、今作るものは主に煙草入や財布のような小ものであります。
甲州にはまた紙漉場もあって、南巨摩郡西島村や西八代郡市川大門などに、今も仕事が見られます。
それらの紙よりも産額の大きいのは織物であります。勝山城のあった谷村町は「甲斐絹」の産地として名があります。この絹織物は薄手で密で、艶があり滑かさがあり、特に裏地には適したものであります。風呂敷にも好まれました。
硯石として日本一といわれる「雨畑」も甲斐の産であります。名は地名にもとづきます。石の色は黒で、発墨の工合がよいといわれます。これに優れた形を与えるのが工人たちの務めであります。
身延山の霊場、御岳の風光、富士の五湖、それに勝沼の葡萄、甲斐の国といえば誰もこれらのものを想い浮べることでありましょう。しかし私はそれらの地に旅する暇もなく、先を急がねばなりません。
甲斐を北に進めば信濃の国に入ります。長野の善光寺でこの国を知らぬ者はありませぬ。歴史好きな人なれば、川中島の古戦場でこの国を偲ぶでしょう。近頃の若い人たちには飛騨山脈、木曾山脈、赤石山脈、八ヶ岳山脈などの名で親しまれているかも知れません。国としても南北に広い面積を擁します。
誰も知る通り、製糸の業が盛な所で、岡谷とその近在だけで、日本全産額の半を占めるといいます。この国はどんなに多くかつての綿畑を桑畑に変えてしまったでありましょう。絹糸の国であり、またそれを紡ぐ女工の国であります。そのため労働についての色々の問題も起りました。傭う者と傭われる者との関係を正しくすることは大切な事柄だと思われます。
織物では紬類が多少残り、上田紬など名がありましたが、今は衰えました。麻布では木曾に開田という村があってよい品を出します。座蒲団地として巾広のを試みていますが、服地としても好個のものであります。
木曾といえばその渓谷の都福島で、漆器を作り出します。一つは材料に恵まれてここに発達を得たのでありましょう。膳とか重箱とか板で組むものも作り、また盆や木皿の如き挽物も拵らえますが、曲げやすい檜を材にしていわゆる曲物を作ることが盛であります。飯櫃や湯桶や弁当箱などによい技が見られます。もとより凡てが漆器でありますが、塗に手堅い所があり、形にもよく伝統を守りますから、漆器の産地として大切にしたい所の一つであります。
同じ木曾で飯田にぬける山街道に蘭と呼ぶ小さな村があります。「檜木笠」を編むので名がありますが、それよりこの村で面白い漆器の片口を作ります。珍らしくも口も共に一木から刳り出します。他に例を知りません。外は黒塗、内は朱塗であります。更に面白いことにはこの片口の売れる先は福井県と決まっている由であります。時々手仕事は不思議な因縁を持ちます。
木曾の藪原や奈良井は櫛の産地として名が聞えます。「於六櫛」といい、もとは吾妻村が本場だったといいます。於六という女が作り始めた梳櫛であります。
伊奈から飯田にかけての渓谷の村々でも時折曲物の技を見かけます。これは檜や杉の材に恵まれているからと思います。曲物はいずれも柾目を用いねばなりません。止めは桜皮を用います。作るのは「めんつ」即ち弁当箱が、その多くを占めます。次には柄杓の類でしょうか。
飯田は珍らしくも元結水引の産地であります。傘もまた名を売りました。それというのも近くに紙漉場を持つからでありましょう。
生漉紙で一番優れたのを作るのはおそらく飯山近くの「内山紙」でしょうか。下高井郡豊郷村坪山などで産します。これに劣らないのは大町の奥の北安曇郡の「松崎紙」や「宮本紙」かと思います。いずれも雪晒しによって、その白さを得ます。寒い国にも恵みは失われておりません。飯山地方の藺草の栽培と、畳表の製造も、忙しい仕事であります。
松本市は今も城廓を遺し、かつては小笠原氏の居を構えしところ。この界隈の製紙の業も盛なものでありましたが、私どもにとってもっと興味深いのは、この南安曇の有明村から出る「山繭織」であります。自然産であって、極めて堅牢であります。わずかより織られませんが、もっとその価値が認められねばなりません。但し山繭糸は容易に染めを受けつけませんが、自然の黄味が既に美しい色を呈します。松本市は古い町故、色々の手仕事が為されたでありましょうが、今作るもので私の眼に止まったのは竹細工でした。寒い国のこととて細い篠竹を使います。いわゆる「水篶竹」で、それで作ったものを土地では「水篶細工」と呼びます。沢山売る「竹行李」は別に珍らしくはありませんが、平に網代編にした敷物や炉縁は他の地方にないものであります。どんな大きさにも作られます。どの家庭でも、愛用されてよい品だと思うので、もっと世に知られることを望ます。松本市外の村々に工房を見られるでしょう。
藁工品で特色のあるのは凡そ尺二寸角ほどの「かます」であります。「かます」は叺の字を用いますが、元来は蒲簀から来た言葉であります。背に負う袋で稲藁の稈心で美しく作ります。約束のように上の方に一本棕櫚で横筋を入れます。「はばき」即ち脛当も信州のは特色があって、多くは中央に縦に古裂を編み込みます。好んで紺の布を用います。俗に紺色は蛇が除けるからといいます。戸隠山の篠竹細工も数え挙げねばなりません。手提籠によい考案のを見かけます。また信州は山国のこととて大きな捏鉢も作ります。楢、撫などの大木を刳り出した見事なものであります。大きいのになると直径三尺ほどにも及びます。これらを荒削りするには山に幾日かをこもらねばなりません。
近頃のことですが飯田やまた埴科郡の東条村などで、よい手織物が栄えてきました。
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ここで道を北陸に転ずることと致しましょう。北陸道というのは、若狭、越前、これが福井県。加賀、能登、これが石川県。越中、これが富山県。越後、佐渡、これが新潟県。以上の七国四県であります。昔はこの地方を「越」の国と呼びました。日本海を差挟んで露領と相対し、いわゆる裏日本の一部を成します。特に北の方は積雪の量が夥しく、しばしば丈余にも達します。
若狭は狭い国でありますが、「若狭塗」で名を広げました。小浜町がその中心地であります。赤や青や黄や黒などの色漆と、金、銀の箔を塗り込んで、これを研ぎ出したものであります。時としては青貝もちりばめます。絵模様はなく一種の斑紋を一面に現します。ここにこの塗の特色がありまして、その兄弟とも見るべき「津軽塗」と共に世に聞えます。多く作るのは箸、箸箱、盆、膳、重箱、硯箱、文箱などのたぐいであります。ここでも仕事の忠実な品は美しさをも保障しております。
越前の福井は松平氏の城下。また永平寺の国。ここの名は久しくその「羽二重」を以て聞えました。中にはその名を辱かしめないものがありますが、その大部分は外国へ出すのでありますから、吾々の生活とは交る面が限られております。それに大きな産業に進んだために、機械を盛に取入れましたから、地方的な手機ものの味いはありません。営利の仕事としては大きく、工藝の仕事としては小さいというのが実情であります。この県は優れた絹糸の産地としても名を得ました。
町として昔の面影を留めているのは武生であります。往来の中央に溝が流れて両側に並木が立つのは昔の町の風情であります。この町は打刃物の鍛冶屋が多く、見ると灰均や火箸などにも棄て難い趣きがあるのに気附きます。町の名を有つ「武生蚊帳」の名はよく全国に行き渡りました。質のよさを自慢とします。しかし越前の名を高めたのは、何よりも紙漉の業であります。武生近くの岡本村がその中心をなします。立派な厚みのある「奉書」はここのを第一といいます。有名な「鳥の子」は今や海外でも、もてはやされている品。三椏を主な材料とします。きめ細かく滑かなため、印刷の用紙として上々のものであります。日本には紙を漉く法が二つあって一つを溜漉といい、一つを流漉といいます。前者は我国では少いのでありますが、「鳥の子」はこの法で漉かれます。日本の楮紙の多くは流漉であって、これは外国にない特色あるやり方であります。つなぎに「とろろ葵」を用いる妙案は、誰の始創にかかるのでありましょうか。越前はたしかに紙の越前でありますが、しかし仕事が栄えると、とかく営利に走って、質を忘れる傾きが生じます。惜しい哉、越前の紙も、よい品ばかりではなくなりました。
この国のものとして更に二つの品を言い添えましょう。一つは氷坂と呼ぶ窯のことであります。郡は丹生で村は吉野であります。福井や武生の陶器屋に行くと、この窯のものをよく見かけます。壺や甕が主で、黒の胴に白の流釉を垂らします。陶器の窯の少い北陸では、大事にされてよい仕事だと思います。他の一つは麻の織物で、土地では「さっくり」と呼んでおります。働く時の着物として農家で作られます。多くは白と黒との細かい縞もので、他では余り見かけません。調子のよい布であります。主に鯖江附近の田舎で作られますが、郷土の品として誰に誇ってもよい布であります。
三国港はその昔、船箪笥の産地として名がありましたが、千石船が廃れると共に、その歴史も終りました。
更に北に登れば加賀の国であります。金沢は前田氏百万石の城下町で、兼六公園で誰も親しんでいるところであります。ここはまた能狂言と茶の湯の町と呼んでもよいかと思います。それほど人々に嗜まれているのであります。昔曹洞宗の大本山総持寺のあった能登の国と、この加賀の国とを合せ、今は石川県を成します。加賀第一の名物は「九谷焼」であります。伊万里焼と相並んで日本の磁器の双璧であります。藍絵の染附もありますが、特に赤絵で名を広めました。九谷焼は支那の影響を受けているためか、伊万里焼のような優しい美しさではなく、どこか大陸的な骨っぽいところがあります。絵にも格のはっきりした楷書風な趣きが見えます。仕事は江沼郡が中心であります。
九谷の色料は甚だよく、素地の良さと相待って優れた品を生みます。ただ惜しい哉、赤絵の生命となる絵附けが昔ほどの格を有たなくなりました。そのためどんなに見劣りがすることでありましょう。名手が出て息吹を取戻す日が待たれます。九谷の未来には希望を抱かざるを得ません。
加賀の焼物としては「大樋焼」があります。楽焼風なものを作ります。窯は金沢の市内に在ります。茶器の類は末期を思わせますが、雑器として作る赤楽風な「火消壺」は、長方形のもので、なかなか品がよく、どんな座敷に置かれてもよいでありましょう。私は同じものを富山県の婦負郡長岡村でも見ました。大樋のを倣ったのに違いありません。金沢の特産としては金銀の「箔」があります。裏町を歩くと時折箔打の澄んだ音を耳に聞かれるでしょう。これも不思議と思われるほどの技であります。
金沢近くの鶴来町も一度は訪れねばなりません。町そのものもよく昔の風を止め、その家並は忘れ難いものであります。鍛冶屋の仕事が眼につきます。色々の農具を作りますが、刃物によいものを見かけます。この町の荒物屋で蒲製の模様入の「はばき」を売ります。紺の麻糸で編み紺の布で縁をとります。他に例の少い、美しい品であります。またたび細工の負籠などにも実に見事なのがあって、方言で「いこ」と呼びます。
この県が誇るものとしては漆器があります。就中能登の輪島は盛な生産地であり、これに次いで加賀の山中があります。金沢も上ものを作る所として知られます。しかしこの国の漆器といえば誰も輪島を筆頭に挙げるでありましょう。はっきりした分業になっていて、まず木地、指物、檜物に分れます。即ち轆轤で椀を挽く者、板を組立てて膳や箱などを作る者、次には檜を材に曲物を作る者の三つであります。これらは素地でありますが、これに塗師と蒔絵師と沈金師とが加わって様々な漆器が出来上ります。輪島のものは塗が手堅いのを以て世に知られ、その年産額は三百万円ほどに達するといわれます。ここでは今も「ほかい」のような昔風の品も作ります。行器のことで、物を入れて運ぶ器であります。形が立派で堂々とした趣きがあります。しかしこれを使いこなす暮しはもう去りつつあります。漆器は何といっても椀、膳、盆、重箱の如き食器が主要なもので、その需用は永く続くでありましょう。概して見ますと輪島のものも近頃の品は降る一途なので、工人に望むところは形を豊にし絵附を活々したものにして貰うことであります。正しく進まば今よりずっとよい仕事を示すに至るでありましょう。
もとより漆器にとっても、営利主義は大きな妨げとなります。手をはぶくことに悧口になることは、出来を愚かにしてしまいます。山中の漆器は余りにも安ものを心掛けた傾きがあります。じきに塗が剥げたり色が褪せたりすることは漆器にとっても禁物であります。誤魔化しの暮しをする人はいつか信用を失うでありましょう。器物とても同じことであります。山中ではいわゆる「吉野絵」と呼ぶ昔からある芙蓉紋を椀や木皿によく描きます。永く続いている昔からの模様で、一つの型にまで成り切ったものであります。全体として模様を生む力が衰えて来た今日では、こういう伝統的な図柄の存在は、仮令新しみを欠くとしても、日本固有のものとして大切にすべきだと思います。
ついでですから輪島の名産として記しますが、この町の「ゆべし」は真に名菓と呼んでよいでありましょう。「ゆべし」と名附くるものは各地にありますが、ここのは日本一の折紙をつけてよいと思います。柚の中に餅を入れて作ります。形よく色よく、味いよく香高く、それに長い月日によく堪えます。この町を訪うことがあったら忘れずに味って下さい。
能登といえば鹿島郡能登部村の上布が有名であります。世に「能登上布」というのはこれであります。ごく細かい麻糸の織物で、夏の着物に悦ばれます。品のよい織物であります。しかし上布としては、小千谷のものに席を譲らねばなりますまい。能美郡白峯の「白山紬」の名も言い添えねばならないでしょう。紬の仕事にはそう間違いがありません。
私は旅を急いで越中に入りましょう。富山はその首都で、ここも前田一門の居城でありました。しかしそういう殿様のことよりも、富山といいますと、すぐ売薬のことが想い起されるでしょう。興味深くもこの町から年々三、四千人の行商人が薬を背に負うて、日本国中を指して旅に出ます。おそらくどんな田舎にも入りこんでいない所はないでありましょう。営業者五百戸、製薬者は八百人近く、年産額二千四、五百万円といわれます。不思議な発達を遂げたものであります。もとよりそういうことは、この本の直接関係するところではありませんが、実はこの売薬の行商人を見るにつけ、心を惹くものが二つあるのであります。一つは薬売りが背負っている小型の柳行李であり、一つは薬を包む和紙なのであります。
実はその「柳行李」は富山で出来るのではなく、遠い但馬の国の豊岡で作られて、ここに運ばれます。それを仕上げるのが富山で、町はずれに行くとそれを作っている店々を見られるでしょう。黒塗の革で四隅をとり、更に中央に帯をあてがいます。そこに金箔押で屋号を入れます。行李の形は特別なもので、背負うのに丁度よい大きさに作られます。行李の中には珍らしくも入れ子が四つ重ねてあります。それ故全体としてやや高めになり、形がよく仕事も丈夫を旨としますから入念になされます。入れ子には更に仕切りをして薬の類を分けますから、これが重宝な行李であるのは言うを俟ちません。長い経験がここまで仕事を煮つめたのであります。吾々が不断用いてさえ大変に便利なのを覚えます。見ても美しいこういうものを、必ず行商の持物にするということに心を惹かれます。長い旅のことですから、間に合せものではこまるでありましょう。これを人生の旅に置き換えて考えると、なお値打ちが分るように思います。
この行李を開くと様々な薬が現れます。それを包む紙を「薬袋紙」と呼びます。昔は色々の種類があったようですが、今一番沢山用いているのは楮に紅殻を入れた紙であります。落ちついた赤い色で、他では見かけません。包む紙にも心を込めてあることは、やがてその薬にも心を込めていることを語りましょう。もしこういう品々が粗末なものになったら、やがてこの商売も終りに近づくこととなりましょう。
今申しました紅殻入の紙は、越中婦負郡の八尾地方で作られます。土地では「赤傘の相竹」と呼びます。この町は和紙で誇るべきものを幾種か有ちます。例えば傘紙として作られる「たたきこみ」と呼ぶ紙の如き、張りのある色味のよい活々した紙であります。漉く時の手の動かし方が、この紙に特別な力を与えるのだといいます。ここで出来る「本高熊」と呼ぶ紙も上等であります。見ただけでも便りになる手堅い性質の持主であります。高熊は村の名であります。ちょっと考えますと、同じく楮で同じく水で同じく流漉で漉くのでありますから、皆同じような紙に成りそうなものですが、それぞれに異る性質を見せるのは、やはりその土地の自然や伝統が異るからに因ります。いずれにしてもその上に確と樹つものほど、美しさを鮮かに出します。
八尾町は小原節で名を成しますが、「玉天」と呼ぶ菓子でも名を成してよいと思います。
富山に次ぐ大きな町は高岡であります。漆器も色々と出来、「錆絵」で名を売りましたが仕事が最も盛なのは銅器であります。火鉢だとか花瓶だとか、置物だとか、全国に売り出します。銅のみならず真鍮や鉄も材料となって様々なものが拵えられます。工人の数を想えばこの仕事が盛なのを思わせます。しかし高岡の銅器には末期を思わせる飾りの多い風が残って、度を過ごしたものが多く、意匠に活々したものが欠ける恨みがあります。特に置物類にこの弊を多く見受けます。それ故かえって装飾を持たない無地のものや、台所で手荒く使われる湯釜だとか七厘だとかに見るべきものがあります。なぜこんなことになるのでしょうか。銅器は飾物が多いため、仕事がとかく遊びになるからと答え得るでありましょう。これに比べ実際に働く品は着飾ってはいられませんから、自然に丈夫な身形を得るのだと説いてよいでありましょう。簡素な健康なものにはいつも勝ちみがあります。
漆器では城端が白漆を使うので有名ですが、仕事は盛ではありません。出町、戸出、福野、福光、井波などの町々は、あるいは木綿、あるいは麻布、あるいは紬で、見るべき品を産します。中でも「福野紬」や、「井波紬」は知れ渡った名であります。麻布は福光を中心に、今も一万台の手機が動くといいます。主な用途は畳縁であります。加越の境にある石動では、「竹簾」を挙げるべきでしょうが、この附近でよく見かける「藤帚」は全く他の地方にない形を見せます。
それからこの県で他の国より盛だと思われる仕事は欄間の木彫であります。富山市を始め井波町が仕事に忙しいのであります。象嵌も得意でありまして、技術はなかなか進んだものといえましょう。ただこれも江戸末期のごたごたした風が残って、無駄な労力をかけることが多く、出来るだけ細かな細工をするのを誇るようであります。しかしもっとあっさり簡素に作ったらどんなに仕事が活々してくることかと思います。必要以上に手をかけることは、かえって美しさを害う所以なのを省るべきだと思います。
北陸一帯は獅子舞が盛であるため、獅子頭や胴幕を今も作ります。中に仕事の甚だ佳いのを見かけます。
富山湾に面した海寄りの地方に、藁を材にし紺の麻糸で編んだ大きな夜具包があります。船で用いるものですが、他の国では見かけないものであります。
ここで書き添えておきたいのは、北陸地方で見られる自在鉤であります。特に越前、加賀、越中のものは立派で、炉の道具としては日本一でありましょう。堂々とした姿のものがあります。天井から「戎」または「大黒」と呼ぶ欅作りの大きな釣手を下げ、それに自在を掛けます。その鉤の彫りに実に見事なものがあります。好んで水に因んだものや、吉祥の徴を選びます。例えば鯉だとか菊水などは前者で、打出の木槌や扇子の如きは後者の場合であります。煙で充分に燻り、これをよく拭きこみますから、まるで漆塗のように輝きます。こういう力強いものが用いられている炉を見ると、何か生活にも大きな力のあるのを感じます。弱い暮しからは現れない豊かさが見えます。
越中の秘境といわれる五箇山のことも是非書き添えねばなりません。合掌造りの大きな家が群をなして村を形づくる様も壮観であります。ここは麦屋節とその踊とでも名をなしますが、用いる品々も特色があり、竹細工や桜皮の編物なども忘れ難いものであります。もう飛騨境に近い赤尾は信者道宗の物語で、その名を永く歴史に止めるでありましょう。
私たちは北陸道の北の端の越後に達しました。また海を渡って佐渡が島を訪ねる時が来ました。越後は信濃川のような大きな河があって、平野が広く、農事に忙しい国であります。越後米は庄内米と覇を競うでありましょう。しかし手仕事の特色あるものは、むしろ山間に求めねばなりません。越後が第一に誇りとしてよいのは「小千谷縮」であります。縮では十日町の「明石縮」もありますが、小千谷の上布に如くはありません。江戸時代この方実に見事な仕事を見せました。塩沢が今はかえって中心であります。雪に埋もれたそれらの地方は、雪水を活かして天然の晒しを施します。これがこの麻布を美しくしまた丈夫なものになします。仕事を見ると一朝一夕で生れたものではないのを感じます。多くの祖先たちの多くの経験が積み重って、驚くべき今日の技を成しているのであります。麻を裂き、緒を績み、色に染め、経を綜、機に掛け、これを晒し、これを仕上げそうしてこれを売るまでに、どんなに苦労や技が要るでありましょう。縞も絣も作りました。特に絣には念を入れた仕事を見ます。ここも社会の事情に押されて、漸次仕事がしにくくなり、心を込めた品が少くなって来たことは、誠に残念なことであります。しかし本当の品を手にすれば、どんな時代でもどんな人でも、小千谷の仕事に帽子を脱ぐでありましょう。その他越後の織物としては「五泉平」の如きを挙げねばなりません。主に袴地で名を得ました。
越後人が忘れずに語るものとしては三条の刃物があります。仕事は日々栄えました。もとは農具から始まったものと思われます。越後の山野で日々働く人々のために、鎌や鋤や鍬や鉈などを作らねばなりませんでした。漸次仕事が広げられ、鋸や鋏や金鎚に及び、更に栄えるにつれて機械を入れ、ナイフ、フォークの類にも及び、盛に中央の都市の需めに応じ大きな産業へと発展しました。ただこういう発展の後に見られる欠点は、余りにも営利が主となって、とかく品物を第一にする心が薄らぐことであります。これを用心しないと三条は金物で不名誉を買うに至るでありましょう。手堅い品が盛に作られてこそ本当の発展だというべきではないでしょうか。三条に続いて燕で、鍋、釜、薬缶の類に忙しい仕事を見せます。東蒲原郡豊実村新渡はもう岩代境でありますが、ここで生漉のよい紙を今も作ります。
昔は順徳帝を始め、日蓮上人などが流罪の歳月を送られし佐渡が島は、多くの物語を残す所であります。今は新潟市から両津の港までわずか三時間の旅となりました。小さな島でありますが、産業は水産と礦山とに集められ、また牧牛でその名を得ました。あるいはそこの「おけさ節」で、もっと広く知られているかも知れません。手工藝では多くのものを見ることは出来ません。朱泥で煎茶器を作りますが、郷土の特色を誇り得るまでには至らないでありましょう。それよりもむしろ竹細工の仕事の方が、この島の産物として認められてよいでありましょう。幕末頃、即ち千石船の出入りが盛であった頃、小木の港は船で用いる小箪笥を作るので有名でした。欅材を用いて、これに頑丈な鉄金具を纏わせ立派な技を見せました。千石船の禁止と共にその種の船箪笥は終りましたが、箱造りの技は続き、主に衣裳箪笥や帳箪笥を作り始めました。今も小木町には幾軒かの箱屋があって、大きな鉄金具を打った桐箪笥を作ります。近年著しく金具が薄手になり弱まってきましたが、それでも地方的な趣きは現れます。小木の港からやや離れたところに宿根木と呼ぶ小さな漁村があります。折があったら訪ねて下さい。世にも珍らしい家並の村で、二階建がそれは狭い石畳の道を中に挟んで寄り添います。千石船時代の面影がそのまま濃く残っていて、旧家を訪れると昔語りを聞くことが出来るでしょう。
佐渡では、海辺にまた山に働く時、好んで刺子着を着ます。もとより丈夫さと温かさとを兼ね備えるからであります。刺し方は丹念で、おろそかな仕事ではありません。雪の降る時は好んで棕櫚で編んだ、まるで兜のような笠を被ります。深い形で頭のみならず襟まで総々した棕櫚毛で被うように作られてあります。もっともこの様式の帽子は、越後や羽前の地方にも見られます。島の人の持物で面白いのは煙草の道具であります。特に火口炭を入れる器は、木を刳って可憐な姿に仕上げます。使い古せば味いが一段と冴えます。小品に過ぎませんが、どこからその美しい形を捕えて来るのかと感じ入るほどであります。玩具としては首人形がありますが、郷土色のあるものとして認められてよいでありましょう。急ぎの旅でありましたが、北陸路を終えましたので、次には近畿へと歩みを転じましょう。
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ここで近畿地方というのは便宜上、京都や大阪を中心に山城、大和、河内、摂津、和泉、淡路、紀伊、伊賀、伊勢、志摩、近江の諸国を包むことと致しましょう。京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県の二府、五県になります。以上のうち京都府の北の一部と兵庫県の西の一部とは中国の部に入れて述べることと致しました。
近畿という言葉は、そこが昔皇都のあった地方であることを意味します。いわゆる関西はその内に属するのでありまして、京都を中心に大阪、堺、神戸、奈良などの大きな都がそこに寄り添います。中で奈良の文化は余りにも遠く、京都は静かな古都となり、今は財力の大きい大阪が最も繁栄なまた大きな都会となりました。これに次ぐものは新しい神戸であります。大阪とその周囲は誰も知る通り大きな工業地でありまして、そこから生産される種目は多く、産額もまた大きいことは申すまでもありません。それに販路は全国に拡げられ、多かれ少かれ大阪ものを見ない土地とてはないくらいになりました。しかし産業の大は機械の大を意味し、凡てが営利の制度に左右されて来るのは、避け難い勢いであります。惜しむらくはこれがために品質は落ち、粗製のものが氾濫するに至ります。大阪の商業は大を誇り得ても、製品の大をも誇ることは出来ません。この弊は名古屋を中心とする中部や東京を中心とする関東でも共に見られることであります。もとより古い大阪は今と違って、興味深い色々な手仕事を見せました。幾つかの老舗にその面影を今も見られるでしょうが、しかし商人の大阪は、変化する大阪を厭いはしませんでした。かくして多くの手仕事は過去へと流れ去りました。
ただ有難いことに近畿地方における一つの恵みは、京都の存在であります。誰も知る通り平安朝この方、実に千有余年の間、歴代の皇都でありました。日本のあらゆる固有の文化はここを中心としたのであります。度々兵乱はありましたが、学問、文藝、美術、工藝は依然としてここに栄えました。もとより宗教の中心もこの都にありまして、神社仏閣の多いことも京都が第一であります。御所を軸とし、整った町の形をなし、内に外に名所旧蹟は数えるに暇ないほどであります。その長い歴史は京都の言葉を作り、風俗を作り、習慣を作りました。それらは根強く京都人の血に滲み込みました。それ故移り変りの激しかったここ百年の間にも、京都ばかりは多くの点で昔を守って崩しませんでした。加茂祭や祇園祭など、昔もかくやと思われます。
長い歴史は様々な藝能を発達させ、ほとんどあらゆる種類の工人が出ました。京都人は旧習を守ってみだりに昔を変えません。人々の需めは、それに応ずるものを今も作らせます。町を歩くと様々な工房が、昔ながらの仕事を見せてくれます。このことは日本固有のものが、まだ豊にこの町に生れつつあることを語ります。
京都の手仕事といえば、すぐ西陣と清水との名が想い浮ぶでしょう。前者は織物で、後者は焼物でその名を高めました。仕事の跡を見ますと、技の点では随分進んだもののあるのを見出します。西陣の誇りとする「綴錦」の如きはよい例といえましょう。豪華なまた高価な織物は主にここの技であります。その後にはどんなに貴重な伝統が流れているでありましょう。しかし概して見ますと、それらのものへの驚きはむしろ技術のことでありまして、必ずしも美しさのことではありませぬ。甚だ見劣りのするのは意匠の点でありまして、模様と色合とは、もはや昔の気高い格を持ちませぬ。本能の衰えに帰すべきでありましょうか、末期の徴とも見るべきでありましょうか。いたずらに細かい技に落ちて、活々した生命を忘れた恨みがあります。しかしこの欠点は何も織物の領域ばかりではなく焼物だとて同じであります。
清水から五条坂にかけて軒並に列ぶ店々を覗いて見ましょう。何某何世と名のる焼物師も少くはありません。この都から作り出される焼物の量も些少なものではありません。品物もあらゆるものに及び、技法もあらゆる変化に及びます。堅い磁器から柔かい楽焼、白い白磁、青い青磁、藍の染附、赤の上絵、または象嵌、絞描、流釉、天目、緑釉、海鼠釉、その他何々。共に轆轤と型。ここに陶法一切の縮図が見られます。
しかしこれらのものの中から、さて何を取上げようかと思うと、意に満ちたものが如何に少いかに気附かれるでしょう。昔の品を熟知する者にとっては、見劣りがしてならないからであります。ここでも形の弱さと、模様の低さとが目立ちます。しかも悪いことには、浅い趣味のために、仕事が遊びに終っているものが多いのであります。特に茶趣味は多くの陶器を害いました。真の茶器は、趣味の遊びから出たものではないことを忘れるからに因るのであります。しかし轆轤を巧みに廻す人も絵を描く腕のある人も、またこれをよく焼き上げる人も、また窯も松薪も皆揃っているのであります。しかもその数は決して少くはありません。もし京都の焼物がもう一度実用に即して、健全を旨として作られるなら、見違えるほどの力を取戻すでありましょう。今何を為しつつあるのかを、もっと省みる人たちが出たら、救いは近き日にあることを想わざるを得ません。
この旧都はまた上質の漆器を産する所であります。特に蒔絵のような技は遠い歴史に根ざして見事な仕事を見せます。しかしここでも技のみ勝って美しさに破れる矛盾を見せられます。それに一般の民衆とは縁遠いものといわねばなりません。私たちはむしろそういう著名なものに、京都の仕事のよさを求めるより、もっと小さな規模の色々な細工ものに、それを見出すことが出来るように感じます。例えば京扇の如きを挙げましょう。何も皆よいというわけにゆきませんが、品位の高い品が今も作られます。有職ものから各派の舞扇、祝扇から不断遣い、男もの、女もの、いずれにも典雅なものが用意されます。形もよく色もよく、模様も大和風を崩しません。平和で美麗で、日本味の濃いものといえましょう。
あるいはまた京人形を例にしてもよいでありましょう。特に「御所人形」とか「嵯峨人形」とか呼ばれるもので、昔からの技を守るものは出来が上等であります。顔立にも身形にも型を守って乱しません。仮令今の生活から離れたものとしても、こういう品位あるものからは何か学ぶもののあるのを感じます。特に今の世には卑しい俗に落ちたものが多くなってきたので、この感を深くします。
京都は織物と共に染物でも早くから名を高めました。とりわけ「京友禅」の評判を知らぬものはありません。友禅染はその優雅な婉麗な紋様と色調とにおいて、日本味の豊な染物であります。それ故その生命ともいうべき模様や色が、近頃俗に流れがちになったのは、惜しみても余りあることといわねばなりません。よい染の道でありますから、もう一度歴史を高めたいものと思います。
著名な京染の一つに「絞」があります。今も昔の店を守るものがあって、よい仕事を見せます。様々な絞染がある中に、特に「鹿子絞」の如きは、その美しさで永く持映されるものと思います。どこか女の身形に相応しい麗しさを持ちます。元は外来のものでも、日本で育てられた染の一つとして讃えられてよいでありましょう。ただ色味を落さぬようにすることが肝要だと思います。
組紐の技も京都は優れております。古くは何よりも武具がこの技を求めたでありましょう。更にまた茶の湯がその発達を促したでありましょう。箱紐に袋紐に人々は念を入れました。羽織紐や帯紐の需用は、もとより今も盛であります。これらのものは新しい機械がその製作を容易にしましたが、その丈夫さにおいて味いにおいてついに手仕事を越えることは出来ません。
同じく京都の技で忘れ得ないものに表具があります。昔はといいました。作る者を経師屋と呼ぶのは、経巻の仕立が表具の起りであったことを示します。表装の技は誠に日本において完成せられたといってもよく、微妙な腕前を示すのみならず、優に一つの創作にまで達します。寸法の割出しは既に法則をすら生みました。
京都は名にし負うお寺の町であります。二千ヵ寺もあると聞きます。ほとんど凡ての大本山がここに集ります。浄土宗の知恩院や百万遍、真言宗の東寺や智積院、真宗の両本願寺、禅宗の南禅寺や妙心寺や大徳寺、時宗の歓喜光寺、天台宗の妙法院や延暦寺。加うるに由緒の深い寺刹がどれだけあるでありましょうか。従ってそれらのお寺や信心に篤い在家で用いる仏具の類や数は並々ならぬものでありましょう。概していいますと、江戸時代は仏教藝術の末期で、見るべきものが少く、仏具もその影響を受けて、いたずらに装飾を過ごしました。門徒宗のお厨子の如きは贅を尽したものが作られました。しかし数ある仏具の中には簡素で健実なものがないわけではありません。真鍮製の燭台だとか仏飯器などには雄大な感じさえするものを見かけます。あるいは漆器の経机や経箱、過去帳、または応量器だとか香炉台だとか、あるいはまた過去帳台とか位牌だとかに、しばしば優れた形や塗のものに廻り会います。いつも伝灯の深さが後に控えます。
中で興味深いものの一つは木魚でありましょう。よく「玉鱗」という文字が彫ってあるのを見ると、元来は支那から来たものでしょうが、今は和風になって色々な形のを作ります。向い合う魚頭や魚鱗を彫りますが、余り手の込み入ったものはかえって面白くありません、白木でも朱塗でも作ります。大型のを作る様などは見ものであります。胴の虚を巧みに彫りぬきます。
法事に用いる蝋燭も見事なのがあります。特に赤蝋燭は美しく、上にやや開く形は姿を一段と立派にさせます。この蝋燭には二つの興味深い道具が添えられます。いずれも真鍮細工で一つは芯切鋏であり一つは芯切壺であります。両方とも真に美しい形のを見受けますが、特に鋏は先が四弁の花形をしたものがあって、見ただけでも使いたい心をそそります。
私はここで老舗鳩居堂などが鬻ぐ香墨などのことも言い添えるべきでありましょう。筆、紙、硯、墨を文房の四友といいますが、これも吾々の生活に交ることの深いものだけに、それぞれに技を示します。中でも筆と墨とにおいて京都は今も客を引きます。
木工具の領域を見ますと、京都出来のもので心を惹くのは「水屋」と呼ぶ置戸棚で、好んで勝手許で用います。形に他にない特色があり、洋式の模倣品よりどんなによいか知れません。もっともこれは関西の式といってもよく、大津や大阪あたりまで見られます。引戸や小引出の多いもので、しばしばその横桟には透彫を施します。つい先日までは鉄金具の引手で、ほとんど円形に近い肉太のものがありました。これらの棚や箪笥類を鬻ぐのは夷川で、全町家具の通りであります。
京都は金物の技もよいとされます。刃物や鋏の類がよく、花鋏の如き古流、池の坊、遠州流とそれぞれに特色ある形を示します。よい品になると、日本の鋏類の中でもとりわけ立派なものといえましょう。もとより銅器も鉄器も、色々に出来ます。竜文堂の如き鉄瓶や釜で名を得た老舗もあります。煙管の如きも京出来を誇ります。
こういう風に挙げてくると、女の黄楊櫛から、さては菓子型の類、庭を掃く棕櫚帚などに至るまで、仕事のよいのを色々と拾うことが出来ます。京都は今も手仕事の都といわねばなりません。
古い奈良の都は、余り歴史が遠いせいか、一時衰えていたせいか、寺院の立派さを仰ぐのみで、目星しいものは沢山残っておりません。それでも古梅園の墨の如きは、歴史が続き、よくその声価を保つものの一つであります。毛筆が悦ばれる限り、硯と共に墨の需用は絶えないでありましょう。奈良の文字を被るものに、「奈良人形」や「奈良扇」があります。人形は木彫のもので、これに厚く胡粉彩色を施します。ごく簡素な刀の跡を示すだけに、力を失わず、その著しい特色は誰からも認められるでありましょう。「奈良扇」はいわゆる奈良絵を描いたものであります。丹緑の絵で、奈良絵本がなくなった今日では、この扇が唯一の名残でありましょう。稚拙な風がかえって雅致を誘います。どこか品のよいしかも平易な美しさを示します。公園で売る多くの土産品は粗末さが目立ちますが、中で手向山の台附の絵馬などはよき郷土土産となりましょう。三笠山ほとりでは刃物を多く並べます。それよりも町で売る竹皮の下駄によい品を見かけます。食物ですが「奈良漬」はここを本場とするのでその名を得たのでありましょう。
大和国吉野郡の国樔村は関西の紙の需用を引受て盛な仕事ぶりを見せます。種類も一、二ではありませんが、「宇陀紙」の名は世によく聞えます。高田近くの磯野や御所で細々ながらも地機で「大和絣」を織るのを見られるでしょう。しかし下り坂なのをどうすることも出来ません。郡山は金魚の養殖を以て名がありますが、品物としてはその近くに産する「赤膚焼」が世に聞えます。釉薬に一種のおっとりした持味がありますが、これも今出来のものは昔ほど味いを持ちません。宇治は茶所で昔から名を高めましたが、茶筅作りは大和が中心とせられ、生駒の麓の高山が仕事に多忙であります。茶筅を見ますと誠に繊細な技に達しておりますが、やや度を過ごして病いに近づきつつあると思われます。何かもっと健かな姿となり得ないものでしょうか。
大和の国の吉野は、誰も知る「吉野桜」を思い起させますが、この地名に因んだ品物は少くありません。世に聞えたものでは「吉野織」、「吉野紙」、「吉野簾」、「吉野雛」など、その他「吉野絵」とか「吉野漆」など色々あって、歴史にその仕事を止めます。しかしこれらのものは時の流れに押されて、あるものは既に絶え、あるものはいたく衰え、勢いあるものを見かけません。この国で特色のあるものは桜井に見られる経木織でありましょう。珍らしくもごく薄い経木を経緯に用いて織物にしてあります。壁張や襖地には好個のものであります。
大阪の真近くに歴史の古い堺の港があります。そこの「堺緞通」は、昔から「鍋島緞通」などと共に有名なものであります。大体室で用います敷物の類は、日本では畳がありまた座蒲団があるため、支那や中央亜細亜のような発達の跡を見せません。それ故幾種かある日本の緞通は大切に保護されてよいでありましょう。生活の様式が変りましたから、敷物の需用は大きくなるはずであります。堺ではこの仕事は一時廃れましたが、漸く再興の気運に向いました。模様と色とに注意すれば未来は待たれるでしょう。堺はまたよき刃物の産地としても、当然記憶せらるべきだと思います。小刀とか鋏とかにもよい仕事を見せます。河内の国に因んだものでは「河内木綿」が名を得ました。
摂津の国で特筆しなければならないのは、有馬郡塩瀬村の名塩で出来る紙であります。古くから「間合紙」と呼んでいるもので、雁皮を材料にし、これに細かい泥土をまぜて漉くものであります。表面が滑かな肌ざわりを持つ艶消しの紙で、他に類を持ちません。古くは書物の用紙として悦ばれました。また地袋を張るのにも好まれます。品位のある紙であって、忘れ難い和紙の一つであります。もしこの紙が更に精製せられたら、銅版の印刷に好個のものとなるでありましょう。
玩具に近いものでありますが、有馬の「人形筆」も他では見かけないものであります。綺麗な色糸で軸を巻いてあります。温泉場の土産物としては珍らしく特色あるものといえましょう。
私はここで淡路島に立寄ることにしたく思います。今は兵庫県に属します。この島の名に因んだ言葉としては「淡路結」とか「淡路半紙」とか「淡路焼」とかを想い起します。中で焼物は伊賀野附近で焼かれ、主に黄色い鉛釉を用います。丼、皿、土瓶などを見かけます。しかしこの島の産としては「文楽」の人形を特筆せねばならないでありましょう。名工といわれる者もなお存し、生々しいまでに様々な型の人形を作ります。目や口や耳や首や手や足を動くようにするので、作る技は並大抵ではありません。
和歌山は名君徳川頼宣が出て栄えた都でありますから、ここでも様々な手仕事が保護されたに違いありません。しかし今はその面影がないほど工業の地となってしまいました。捺染物や綿ネルやまた家具の如きも、産額は大きなものでありますが商品に止るというだけであります。それより黒江町の漆器や内海町の番傘の方が記録されてよいでありましょう。後者は「八丁傘」の名で通っております。その辺より南は紀州蜜柑の本場であります。
根来寺の「根来塗」は昔の物語りになりました。しかしこれを試みる者が何処かに絶えないのは、塗として一つの型をなすからでありましょう。粉河寺のある粉河では、よい団扇を作ります、渋色をしたおとなしい形のものであります。片隅に押してある老舗「ひしや」の印に気附かれるでしょう。もっとも同系の団扇としては大和の五条で出来る五色のものの方が出来が更に上等で上品であります。これらの団扇は使い工合が頃合で、どの家庭にも薦めたい品であります。
真言宗の霊場、紀州の高野山は誰も知らぬ人はありません。ですがその麓にある村の古沢や河根などで漉かれる「高野紙」もこの寺につれて記憶されねばなりません。厚みのあるよい紙であって味い深いものであります。この山寺の町で作られるもので特色があるのは、棕櫚で拵えたお櫃入であります。他では見ることがありません。
紀州には御坊、串本、勝浦などの町々がありますが、大体漁業を専らとする地方は海の生活が主なためか、手仕事の発達は著しくありません。これに引きかえ山村や農村はその環境が多くの手仕事を招くのだと思われます。山間の東牟婁郡請川村は曲物で色々土地のものを作ります。檜や杉に恵まれているからであります。「やろ」とか「わっぱ」とかいう言葉を聞かれるでしょう。「やろ」は薬籠、「わっぱ」は弁当箱であります。
伊賀、伊勢、志摩は三重県に含まれます。伊賀は上野を都とする小さな国であります。「伊賀傘」はその上野が中心で名を広め、用いる紙は多く「名張半紙」であります。名張といっても丈六や柏原がその産地として知られます。しかし伊賀の名を負うもので最も有名なのは「伊賀焼」であります。茶の湯では、そこで出来た昔の種壺を水差などに用いて珍重しました。大体飾りのない、素地の荒い焼物で、そこに雅致が認められ、茶人たちに好まれた窯であります。しかしかえって「茶」に毒されたとでもいいましょうか、わざわざ形を歪めたりして作るので、渋味は消えてむしろ騒がしさが目立ちます。そのためとかく横道にそれた技となりました。それよりも本当の雑器を焼く丸柱村の窯の方を取上げたく思います。土鍋、行平、土瓶など色々出来ますが、とりわけ丸柱の土瓶は評判であって、多くの需用に応じました。中でも緑釉のものなど、特に美しく立派であります。汽車土瓶も一時この村で引受けて盛に作りました。しかし丸柱の仕事は、大体江州信楽の系統を引くものといえましょう。
伊賀の隣りは藤堂藩の伊勢の国であります。それよりも大廟の伊勢というべきでありましょう。四日市や津や松阪や宇治山田は、この国の大きな町々であります。伊勢の名の附くものに「伊勢編笠」や「伊勢縞」があり、また松阪の「伊勢萌黄」があります。しかしそれらのものよりも、私たちにとって心を惹くものはいわゆる「伊勢型」で、如何なるわけか、白子でのみ栄えました。海寄りの小さな町でありますが、染物に用いる型紙の産地となって、名を全国に広めました。何も伊勢国の染物屋だけが用いるのではなく、「紺屋型」と呼んで、日本国中どこの紺屋へも運ばれたものであります。おそらく紺屋という紺屋、この白子の「伊勢型」を幾枚か持たない家はないでありましょう。大柄、中柄、小紋、凡てありますし、その模様の変化は数限りなく、その数は驚くべき量に上りましょう。大きな紺屋になれば何千枚も仕入れたのであります。それ故この町は日本の染物模様の泉をなしたといえましょう。仕事は今も続きます。昔には及ばずとも、これに従事する人数は依然として多く、小さなこの町も、この技のために経済を支え名誉を保っているのであります。用いる紙は特殊なもので、燻して作るため、色は褐色を呈します。型紙だけでも美しい工藝品といえるでしょう。額にでも入れるとくっきりと引立って見えます。
四日市は有名な「万古焼」の土地ですが、この焼物には不幸にも見るべき品がほとんどなくなってしまいましたから、通り過ぎることと致しましょう。今も沢山作りはしますが、いやらしいものが余りにも多いのであります。
桑名町を歩くと、珍らしくも竹椅子だとか、桜皮の組物だとか、また形のよい赤蝋燭などが目に止ります。産額は小さくとも土地のものとして記憶すべきでありましょう。
琵琶湖で名高い近江は滋賀県であります。大津絵で名高い大津がその都であります。湖に臨んだ古い町は、昔の姿を今もそう変えておりません。近江聖人で名を得たこの国は、また近江商人でも名を高めました。日野の如き富有な町が他にも幾つか見られます。産業としては織物が最も栄えました。「浜縮緬」だとか「近江麻布」だとか「高島縮」だとかよく聞えた名であります。浜縮緬は湖北の長浜を中心とし、麻布や蚊帳は湖東の各部落で出来、高島縮は湖西の今津地方の産であります。これらのものは民衆の生活に深く入りました。
ですが江州のもので最も注意すべきは信楽の焼物でありましょう。歴史の起りは甚だ古く、それに室町時代から茶人との縁が深かった窯であります。その地方は松の多い山間の部落でありますし、周囲の丘は皆これ陶土であって、窯が栄える事情がよく備わっております。ここで出来る品で最も有名なのは茶壺でありました。随分大型のものを作りますが、どう運ばれたものか非常に遠出をして、日本全国の葉茶屋の店には、これらの大壺が二つや三つ置かれていない場合はないまでに広まりました。仕事はごく最近まで続いていたのであります。日本の陶器の大型のものとしては代表的なものでありましょう。好んで流釉を施しますが、最も多く流布されているのは白地に緑を縦に幾条か流したものであります。
この信楽は近年は海鼠釉の大火鉢で名を挙げました。持映されて、これも販路の広いのに驚きます。ですがこの窯で特に賞めてよいと思われるのは、不透明な厚い白釉であります。味が温かで静かで、時にはほんのりと「ごほん」と呼ぶ桃色の斑が中に浮びます。この白釉で長方形の深めの流を作りますが、信楽以外には決してない品であります。同じこの白で厠に取りつける朝顔を作りますが見事な形のを見かけます。信楽の一部をなす神山はその土瓶でよく知られました。特に山水を描いたものが持映され、土瓶絵としては一つの型にまで高まり、後には多くの窯でこれを摸するに至りました。例えば野州益子の如き、明石の如き、また遠く筑州の野間の如き、その流れを汲みます。雑器において信楽の仕事は甚だよく、その他土鍋、植木鉢、湯婆など、ここの品には使いたいものが多々あります。
比良の山裏に朽木があります。昔から盆や片口や椀などに特色のある漆器を出しました。今は細々と仕事を続けているに過ぎませんが、昔の力を取戻したら再び名物となるでありましょう。古作品には非常によいものがあります。
いい忘れましたが、栗太郡上田上村桐生では、御用品として年々良質の「雁皮紙」を漉きます。「雁皮紙」は和紙の主と讃えらるべきものであります。
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播磨、美作、備前、備中、備後、安藝、周防、長門の八ヵ国を山陽道と呼びます。県にすれば兵庫県の一部分、岡山県、広島県、山口県となります。ざっと明石から下関までであります。前には美しい瀬戸の内海が島々を泛べているのを見ます。山陽とは、もとより山の南側を意味します。その北側を山陰と呼びます。山陰道は丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見の七ヵ国でこれに隠岐の島が加わります。県は主として鳥取県と島根県とでありますが、東寄りの国々は京都府や兵庫県の一部を占めます。この山陽山陰の二道を合せて、昔から「中国」と呼びました。背をなす山脈には大山のような名峰も聳えます。山陽は宮島で山陰は天の橋立でその風光を誇ります。
両道は山を背にして表裏の位置に在り、陽は明るく暖く、陰は暗く寒い地理を持ちます。自ら南は人口も多く、町々も多くまた繁昌を来しました。しかしどういうものか、それに比べ手仕事が特に豊だとは申されません。これに引き換え北の山陰は貧しく思えても、案外に色々な品物が見出されます。
播州では明石を振り出しに見学の旅を続けましょう。この町の名に因んだものとしては「明石縮」がありますが、仕事はかえって京都の西陣や越後の十日町の方に奪われました。夏着に涼しさを添える織物であります。町の名物として丁稚羊羹は、誰も土産物の風呂敷に包むでありましょう。在には鯉幟を作る村があって一時栄えましたが今は衰えました。明石には明治始頃まで窯場があって、特に土瓶の製作が盛でありました。例の山水を描いたものも見られます。惜しいことに仕事が絶えましたが、工人たちは今も生き残っているのです。播州の赤穂は四十七士の物語で誰も想い起す所でありますが、また「赤穂緞通」でもその名が知られます。惜しい哉、仕事は過去のものとなってしまいました。今も金物の仕事をするのは三木町であります。様々な刃物の類を作りますが、中では鋸を選ぶべきでしょうか。ある町がある品物で名を成すということは、面白いことだと思います。姫路もまた同じように、一つの技で聞えます。
この都は播州一の町で、酒井氏が居を構えし所、日本第一の名城「白鷺城」が聳えているのもこの都であります。豪壮なその白壁造りの建物が、緑の松に囲まれ建つ様は、美しく大きな景観であります。しかし名だたるそのお城の物語は他の本に譲りましょう。私はここで出来る特産のものを語らねばなりません。名を成したのは革細工であります。革細工といえばすぐ姫路を想い起すほど、その名は遠くまで響きました。とりわけ「金唐革」と呼ぶものが有名で、金泥や色漆を用い模様を高く浮き出させた鞣革であります。草花や小鳥や獣などを美しくあしらいました。よく文箱や袋物などに見られます。今も技は残りますが、昔ほどの活気を見ないのは、流行らない品となったからでありましょう。もとより姫路の細工は「金唐革」だけではなく、他に色々なものを作ります。ごく最近までは朱塗に金箔を置いた美しい馬具も作りました。見返すと立派なのに驚くのは、剣術の道具類であります。今も需用は絶えません。革のこなし方が実に見事で、一朝にして生れた仕事でないのを想わせます。面頬も胴も籠手もしばしば見とれるほどの技を示します。革の美しさはもとより、漆塗の色、刺し方の術、組紐の技、間然する所がありません。特に籠手のようなものは、革の性質から生れた形の美しさが、露であります。昔の立派な武具の歴史が控えているのを見ます。烈しい用途は軟弱な仕事を許しません。
岡山は備州の都、池田氏の城下町で、黒い烏城の姿と、緑の後楽園とは、訪う者にとって忘れ得ない景色であります。我国の著名な刀工の大半は備前備中に住んだといいますから、刀作りの術がこの地方で進んだのは申すまでもありませんが、時遷って今は昔語りとなってしまいました。金物ではわずか「備中鍬」の名が残るだけでしょうか。しかし国の名と離れたことのない著名なものは、何といっても「備前焼」であります。世に「伊部焼」ともいいます。伊部はもとより備前にある町の名であります。上に釉薬を施さず焼締めたもので、色は茶褐色を呈します。これが渋い味いを示すので、早くから茶人の間に持映されました。今も煙の勢いは絶えません。岡山にはこれを売る沢山の店を見られるでしょう。しかしどの窯でもそうですが、余り茶趣味に縛られると、仕事が本道からそれて遊びごとになってしまいます。それに趣味の中に逃げるような嫌いがあって、活々したものを失います。茶器のみならず彫刻した置物の類も多いのでありますが、末期の形に沈むもの多く、これで日本を誇るわけにはゆきません。もっと平易な通常の雑器に帰ったら、見違えるほどの力を得るでありましょう。
この窯よりもむしろそういう雑器を焼く酒津の方が、注意されてよいでありましょう。倉敷市外に流れる高梁川のほとりに建つ景色のよい窯場であります。近年この窯で鉄釉の地に絞描で線を引いた丼鉢を作りました。大型も小型も拵えます。調子が甚だよく、どんな台所に入っても、また卓上で用いられてもよいでありましょう。近年倉敷に羽島窯が起り、よい雑器を試みます。浅口郡に大原窯があって、釉のない瓦焼で、土瓶とか焙烙とか土鍋とか蛸壺とかを作ります。少しもいやみのない品々で、こういう質素なものの値打は、もっと認められてよいと思われます。
この県で力を入れたものに「花莚」があります。浅口郡西阿知が本場であります。彩と模様のある茣蓙で、藺の茎を材料にしたものであります。織方で色々な縞を出します。紗綾形とか市松とか菱紋とか、線の組合せで様々な紋様を織り出します。時には手をかけて絣をも試みます。日本味のある敷物として永く栄えしめたい仕事であります。ただ時折色に俗なものがあるので、それを避けねばなりません。無地で紋織のもありますが、品がよく間違いのない品であります。「花莚」には輸出の将来があります。普通の畳表は都窪郡の妹尾町や早島町から最も多く出ます。同じ藺で編んだ厚手のマットによい品があって、洋間の暮しには悦んで迎えられるでしょう。
敷物では別に「倉敷緞通」があります。近頃盛になった品でありますが、織方は特許で、巻くのに易く、それに緞通としては値も格安であります。材料は絹、人絹、麻、木綿などを混用します。特に緯縞や霞縞に美しいのを見かけます。これも色染を注意したら一段とよくなるでありましょう。とりわけ日本間の敷物として大変相応わしく、どの家庭にも薦め得ると思います。また町内に藁で丈夫に編んだ厚手の敷物を産します。これも洋間には好個のものであります。
岡山市富田町に籐細工の優れたのを作る店を見ました。「一楽」と呼ぶ瓶敷で、細工の細かいものは極上であります。同じ瓶敷ですが近時通草蔓を花形に編んで籐で止めた美しいものを作り出しました。近くの町で革表紙の立派な「判取帳」を見ました。黒革の上に朱塗で太々とその文字が模様のように記してあります。こういう品に今も需用が絶えないのを面白く思いました。足守町近くの竹細工「まふご」や、真庭郡中和の背中当「胴丸」の如き極めて立派なのがあります。
庫造の家並で美しい小田郡矢掛町の産に田植笠があります。特色あるものの一つであります。同じように優しい品でありますが、撫川に「撫川団扇」があります。しかしそれらのものより更に注意されてよいのは勝山町に出来る硯で、「高田硯」と名づけます。石質では日本一と評する人もありますし、細工の秀でた点でも認められねばなりません。硯のほかに技は置台や箱や急須のようなものにまで及びます。歴史に名高い「備中檀紙」はもう昔語りになりましたが、美作の苫田郡の勝田郡では多少の漉場を今も見ます。
さて、近時倉敷市に建てられた倉敷民藝館は、是非訪わねばならぬ施設で、特に中国の様々な民藝品をここに見られるでしょう。
備後の国に入れば、もう広島県であります。備後といえばすぐ「備後表」や「備後絣」の名が浮びます。表とは畳表のことで、良質を以て名が聞えます。この地方は藺の産地で、水田に植えられている様も、土地の一風景であります。畳は日本の生活になくてならないものでありますから、売捌く先も手広く、大きな産額に上ります。「備後絣」も「伊予絣」や「久留米絣」などと共に、名を高めた産物であります。蘆品郡新市町には今も多少は手機の音が響きます。しかし今までのような勢いはなくなりました。紺絣は誰も知る通り日本では男も女も年寄りも子供も皆身につけた着物でありましたから、いくら織ってもよく売れました。近頃これを用いる人が段々少くなってきたのは如何にも残念に思います。なぜなら絣こそは日本の織物と名附けてよく、西洋には発達の跡がないからであります。しかも見直せばその美しさは紛うことなきものと思います。「柳原奉書」で有名な備後国比婆郡庄原町の仕事も、今はその名誉を続け得なくなりました。奉書は楮紙でありますが、これに米の粉を加えて抄造します。昔も今も典式の用に使われます。
安藝国の広島は浅野氏が城を構えしところ、山陽第一の都であります。つい先日までかつて大名であった九十余歳の老侯が住んでおられました。物資も豊で富んだ県であります。しかし昔と違って今は工よりも商が盛なためか、作るよりも使う側に立つためか、この都で出来る特色あるものは、少いように見受けます。町を歩いて眼についたものに座蒲団入の四角い行李がありました。竹編でこれに渋紙を貼り定紋を大きくつけます。見てもなかなか立派で使えば重宝でありましょう。鳥籠で形の変ったのを見かけました。しかしこれらのものは少しも名が聞えておりません。食物などにはかえって有名なものがあって、牡蠣や干柿や「でびら」などは誰も味ったことがあるでありましょう。女の用いる髢も多くはこの県から出します。安藝郡の熊野町や矢野町は毛筆の産地であります。しかし質よりもむしろ量に重きを置いた仕事といわねばなりません。宮島で客を待つ土産物も色々ありはしますが、郷土的な香りのするものは大変衰えました。箱根あたりのものまでまじる始末であります。
この国が持つ特色ある手仕事としては、何よりも「山繭織」を挙げねばなりません。可部地方のもので黄と褐との色合いを持つ織物であります。一時は着尺にも夜具地にも用途が広く、相当に栄えた仕事でありましたが、いつしか流行におくれ、今は絶え絶えになりました。しかし一見特色の明かなものでありますしまた美しい布でありますから、本来なら流行などに左右されないでよいはずであります。もし郷土の品に誇りを誰も持つようになったら、必ずや勢いを得てくるでありましょう。いつかきっと見直す人が出て再び立ち上ることと思います。
周防や長門の国では焼物のことをお話せねばなりません。ここは山口県であります。防府市には珍らしくも国分寺が今も建っていますが、その前を過ぎ東に向いますと、程遠からぬところに堀越と呼ぶ窯場があります。岸辺にあって海や島々の景色に恵まれた土地であります。多くは雑器を焼くためか、ほとんど歴史には知られておりません。しかしこの窯で出来る大きな甕や壺や徳利などの類には、強いしっかりした形のものがあって、都風に染まった弱さがどこにも見られません。近在の需用はもとより、舟で遠く九州にも運ばれます。鉄釉のもの多く、これに好んで白の流しを加えます。山陽第一の民窯と呼んでよいかも知れませぬ。近くの佐野にも匿れた窯場があります。釉薬も何も施さない土焼のものを焼きます。好んで「なばむし」という土瓶を焼きますが型物で浮出し模様をつけ、野趣に富んだものであります。「なば」とは方言で「きのこ」のことを意味します。つまり土瓶蒸に用いるものでありますが、茶に用いても使い慣らすと味いがよいといいます。大体こういう種類の土焼は、ごく古い型が残るもので何か美しさの素を感じます。
右のような窯場は顧る人もない無名のものでありますが、これに対し長門の国には「萩焼」と呼ぶ名高いものがあります。萩市は毛利氏の古城のあった所であります。港でありますから早くから朝鮮とは交通がありました。初代を高麗左衛門というのは、もと手法を朝鮮から伝えたことを示します。白い厚みのある釉薬のかかった陶器で、絵も何もない無地のものであります。味いがあって早くから茶人たちに愛されました。さすがに昔のは素直な出来で、温い静な感じを受けます。しかし段々茶趣味が高じて来て、わざわざ形をいびつにしたり曲げたりするので、今はむしろいやらしい姿になりました。自然さから遠のくと美しさは消えてゆきます。こういうことがよく解ったら、今の萩焼とても、ずっとよくなるでありましょう。同じ長門国に小月という窯場があることも言い添えておきましょう。雑器に見るべきものがあります。
長門の名で呼ばれるものに「長門細工」があります。紙縒細工の総称として今もこの名が用いられます。述べ洩らしましたが、周防国佐波郡島地村は「徳地半紙」の産地であります。しかし和紙は山陽よりも山陰の方に栄えました。中国街道の終るところは下関であります。ここでは赤間石の硯を得られるでしょう。赤紫を帯びた良質の石で、主に厚狭地方の産であります。ここで私たちは石見の国に入り、漸次東へと道を取って山陰の品々を探ることに致しましょう。
同じ島根県とはいい、その中にある二つの国に目立った相違のあることは不思議なくらいであります。この県は石見と出雲との二国から成っていますが、互の気風がまるで異るのを気附かれるでしょう。石見の方は荒くして強く、力を感じます。これに引換え出雲の方は穏かで温かで細かいところがあります。男性と女性とにも譬うべきでしょうか。一方は波風の烈しい磯がそうさせたのかも知れません。一方はもの静かな湖水がそうさせたのかも知れません。しかし歴史がなおそうさせたとも思えます。石見の方は原始的で出雲の方は文化的であります。まだ一世紀半ほど前のことに過ぎませんが、出雲には松平不昧公という殿様が出ました。名君で産業に学藝に並びつとめ、国を富ましめ文化を進めることに身を砕きました。特に茶の湯を嗜まれ、有名な茶器を沢山集め、菅田庵という茶室を設け、楽山では好む茶器を焼かせました。参勤交代の時ですら、道中愛器を駕籠に乗せてお伴をさせたといいます。こういう平和な気風が出雲人に及ぼした影響は大きかったと思います。松江を始めこの国の町々は茶事が盛で、面白いことにはほとんど凡ての家庭に行き渡り、車夫までが待合う間に一服建てるという気風が見られます。こういう風習は様々なものを楽しみまた作らせる原因をなしたと思われます。
石見の古い町といえば津和野に誰も指を屈するでしょう。亀井藩で今も昔の屋敷が見られます。近くの益田は雪舟の庭を以て名があります。しかしそれらのことはさておくとしましょう。その剛直を語る石見人は吾々に何を贈物としたでしょうか。浜田の在や温泉津やその他方々に窯場があるのが目に入ります。窯自体がとても大きく、二十五、六の室を持つものさえあります。室というのは傾斜面に設けた細長い登り窯を幾つかに仕切ったものを指します。各の室に各の屋根がつきます。それが全部上釉のある赤瓦なのですから見事なものであります。その赤い屋根が階段のように坂に沿って重ってゆきます。窯の外観としては日本一でありましょう。しかもそれらの窯がしばしば寄り添って建てられ、遠くには青い海、近くには緑の林があるのですから、絵のような光景であります。その大きな窯で盛に大きな水甕を焼きます。山陰、北陸一帯はもとより、遠く北海道にまで船で運ばれます。嵩のある仕事だけに働きも激しく、体力のない者は堪え得ないでありましょう。こういう窯に、優れた小ものを求めても無理であります。もっとも昔は燗徳利などに巧な絵を描きました。ともかくこの大きな窯場の強い仕事には、石見人を見る思いがします。国のごく左の端に一つかけ離れて喜阿弥と呼ぶ窯があります。ここでは鉄釉で土瓶や小壺などを作りますが、可憐なものがあります。「糊壺」の如きよい例をなします。この窯の品は主に益田や津和野の荒物屋で売られます。
しかし石見が今日まで歴史的に誇りを続けて来たのは和紙であります。「石州半紙」とか単に「石州」とかいう名は、どんな紙漉の本にも出て来るでしょう。もともと日本の抄紙の歴史を見ますと、この石見が発祥の地かと考えられます。万葉の歌人柿本人麿を紙祖と崇めますが、この歌聖は石見の人でありました。歌と紙とには縁が濃いでありましょう。おそらく紙漉の技は最初朝鮮から教わったろうと思われます。石見と南朝鮮とは向い合っている間柄であります。「石州」と呼ばれている手漉紙は、強い楮から作られ、色は黄味を帯び極めて張りのある品であります。その黄味は天然の色で、楮の甘皮から出てくるものであります。本当に文字通り「生紙」という感じで、和紙の持味がにじみ出ているものであります。小さな箱舟の中で小型の紙を作るため「石州半紙」の名で通りました。舟というのは紙を漉く水槽であります。石見には今でもなお昔ながらの原始の法で手漉をしている仕事場が山間の部落には見られます。貧しく小さな仕事とはいえ、出来る紙は強く正しく清いものであります。邑智郡市山村は仕事が最も盛であります。
紙といえば出雲は岩坂で近時その名を広めました。この紙漉場は八束郡にありますが、以前は傘紙とか障子紙とか大福帳の紙とかをわずかに作り出していたに過ぎませんが、この十数年の間に素晴らしく仕事を進め、新しい和紙の運動の魁をなしました。ここで出来る紙の第一等のものは、何といっても「雁皮紙」であります。大体紙料には雁皮と楮と三椏とがありますが、雁皮を以て最上とします。これは野生の灌木で繊維が長くかつ細く、それに強さがあるので紙の材料としては理想に近いものといわれます。おまけにその色の落ちつきや光沢の美しさや品位の高いことで、天下第一の紙と呼んでも過言ではないと思われます。昔の上等な書物は好んでこの雁皮紙を用いました。その昔のものに負けない上質の厚みある品をこの岩坂で作り出したのであります。ごく薄葉のものは複写紙として用いられて来ました。岩坂ではこれと共に楮でも三椏でも新しい紙が色々と試みられ、これを愛好する人々が段々殖えて来ました。「出雲名刺」とか「出雲巻紙」とか銘打ったものは随分遠くまで旅出をするに至りました。
出雲の産物で是非とも記さねばならないのはいわゆる「黄釉」の焼物であります。布志名、湯町、報恩寺、母里などは皆同じ系統の窯場でありますが、中で歴史に古いのは布志名であります。黄釉というのは鉛からとる釉薬でありまして、他の窯では余り用いられません。西洋では大変多いのでありますが、日本では稀であります。他の大部分の窯では鉛ではなく灰が釉に用いられます。白土の上にかけますと、光沢のある鮮かな黄が出ますので、一目見て特色ある焼物なことが分ります。これで鉢、茶碗、皿、徳利、片口など多くの食器を作ります。食卓に台所に用途を満たしてくれるでしょう。このほか出雲で見るべき窯は袖師であります。ここでは黄釉を用いません。花器や雑器を作ります。手頃な品なので多くの家庭で喜ばれます。もっと有名なのは楽山焼でありますが、余り茶器に沈み過ぎて、日常の生活の面とは縁遠くなりました。それよりも近時起った簸川郡出西村の窯がよい品に努力しつつあります。
出雲の品で忘れ得ないもの、また忘れてならないものの一つは「日出団扇」であります。簸川郡塩冶村浄音寺で作られます。紙の部分は横に広いやや楕円の形をなし色が白と紺との染分けであります。白は上に、紺は下にその三分の一ほどの座を占めます。
柄に太い根竹を用い、縦に置いて必ず立つのを自慢とします。形が如何にも大時代を想わせ、作りもしっかりして気品ある品であります。蓋し団扇としては日本随一でありましょう。
出雲は旅するとまだ色々のものが眼につきます。手帚で根元を綺麗に針金で編んだものがあります。八束郡竹矢村大門の産で、丁寧な可憐な品であります。山間の仁田郡亀嵩村は「出雲算盤」で名を成しました。織物では「広瀬絣」がありましたが、不幸にも跡を断ちました。今残っているのは絞染でありますが、手技のみによる正直な品を示します。安来節で名高い安来も、近年織物に金物の竹細工に努力を払いました。能義郡山佐村で織られる「裂織」も特色あるものであります。いつも白と紺と藍との三色を用い、経糸は必ず麻にして、ひとえに丈夫を心掛けます。野良や山での仕事着として申分ありません。
出雲は古い風土記で知られているように、遠い神話の国でさえあります。大社は社の中の社であります。日本の最も古い建物の様式がここに見られます。宍道湖や中海の風光もこの国をどんなに美しくしていることでありましょう。その湖畔の都松江市は松平氏の城下町で、今もその古城の下に、町々が休みます。この町に「八雲塗」なるものがあって、色漆で模様を内に沈め、これを研ぎ出す手法を用います。絵さえ美しかったらと思われます。町はまた「瑪瑙細工」を以て聞えます。客を待つ店が少くありません。荒物ではありますが、町に鬻ぐ舟の垢取で形のよいのを見かけます。材は松板を刳ったものでありますが、茶人だったら塵取にでも取り上げるでしょう。荒物屋ではまた簓のような茶筅を売ります。この地方に残るいわゆる「ぼてぼて茶」即ち「桶茶」に用いるものであります。番茶に花茶を一摘み入れ、この茶筅で泡立てて飲みます。この習慣は面白いことに沖縄にも見出され、そこでは「ぶくぶく茶」と呼びます。起原が遠いのではないかと想像されます。「桶茶」とはしばしば桶で茶を泡立て、これを茶碗に移して飲むからによります。沖縄でも同じことを致します。抹茶と何か関係がないでしょうか。
街道を東に進んで右手に大山の美しい姿が見え出しますと、もう伯耆の国に入ります。県も鳥取県に移ります。かつて夜見ヶ浜は綿も植えられ、その和田村あたりには絣の手機も動きましたが漸次衰えました。絣といえば「倉吉絣」を想い起しますが、これも残念なことにほとんど歴史を終りました。米子近くの淀江は番傘の産地であります。海岸にそれを何百と並べて日に干す様は見ものであります。
温泉の村々が続いてなおも東に道をとりますと鳥取市に達します。ここははや因幡の国で、池田氏が居を築きしところ、惜しくも松江のような城を既に失いましたが、二、三の武家屋敷の門構えが昔の勢いを語ります。町々には必ずや多くの細工が見られたでありましょう。幾つかの町の名はそれを明かに語ります。漆器とか土工とか金工とかにその名残りを見ますが、近年漸くその復興が企てられました。町で売る雨傘に美しいのがあります。内側の骨を編む色糸の仕事が、他に見かけない飾りを示します。
市から三、四里ほど離れたところに「因久」と名のる窯場や「牛戸」と呼ぶ窯場があります。前者は茶人たちにも聞こえ書物にも記してあります。これに反し後者は今まで知る人がほとんどない雑窯の一つでありました。しかしこの十五年ほどの間に新しい道で熱心に日常の器物を焼き続けました。陶土の質がとても硬く、ほとんど磁器に近い強さがあります。そこの染分の皿や鉢などは幸にも広く流布されました。よく描く蘆雁の模様は古くから伝わるもので、おそらく仕事は石州の脈を引くものでありましょう。
手紡手織の木綿が近年盛になったことをも書き添えねばなりません。美穂村の向国安で織り、隣村で紡ぐという賢い道を取り、一時は盛な成績を見せました。染めも努めて草木から得ました。こういう手機ものが他に少い時とて、仕事ははっきりした存在を示しました。もとより絹でも織り、好んで太織風なものを機にかけました。
この国には和紙も産します。「因幡紙」の名で知られ、八頭郡の佐治とか、気高郡の日置村とか、その他の漉場から楮の紙が出されます。
山陰道の東端は丹波、丹後、但馬であります。これらの国々の名は色々の言葉で思い出されます。丹波栗、丹波酸漿、丹波焼、丹後縞、丹後紬、丹後縮緬、但馬牛など、皆よく響き渡った名であります。中で与謝郡地方から出る縞ものや縮緬なども、指折るべき産物ではありますが、一番特色の鮮かなのは丹波焼でありましょう。
窯はその国の古い都篠山から、そう離れたところではありません。立杭と呼ぶ村で、今は兵庫県内の多紀郡今田村に属します。窯の形はごく背の低い、どちらかというとみすぼらしいもので、用いる土とても轆轤にかかりにくいのであります。作る品物とても、徳利とか塩壺とか大根下とか、台所の雑具が多いのであります。模様も余りなく、ただ流した線が主であり、色も多くは白と黒とですませます。いわばごく貧しい姿をした焼物に過ぎません。ですがごく質素だということは、謙遜深い性質や淳朴な趣きを与える原因になります。いわば貧しさの美しさとでも申しましょうか。茶人たちが尊んだ渋さの美が、丹波焼には自から現れてくるのであります。雑器でありながらそのまま立派な茶器として用い得るものが少くありません。こういう品物から教えられる訓は、質素が如何に美しさの大きな原因となり得るかということであります。昔偉い坊さんたちが「清貧」の徳を説きましたが、それが深い教えであることを、こういう品物を通してもよく学ぶことが出来ます。眼のある人なら今でも安い普通の品から、色々美しいものを選び出すでありましょう。
丹波で想い出しましたが、その地方の田舎を旅しますと面白い財布を使っているのに気附かれるでしょう。随分大きなのもありますが、紺の布を長方形の袋に縫って、これに白の木綿糸で刺子をする風習です。その刺子模様は麻の葉だとか紗綾形だとか、定紋だとか屋号だとかを入れ、なかなか心の入った仕事を見せます。よく風呂敷の片隅にも刺子をしたのを見かけますが、これは丹波地方のみとは限りません。
特に焼物で丹波を語りましたが、但馬を語るものは「柳行李」であります。これは豊岡町が主な産地で仕事は盛なものであります。杞柳を編んで籠を作る仕事は支那にもありますが、豊岡ぐらい産額の大きいところはないでありましょう。日本全国に売られてゆきます。おそらくどの家庭でも柳行李の一つや二つは持っているでありましょう。自然は編むためによい材料を与えてくれたと思います。そうして祖先たちはよい技術をこの町の人々に授けてくれたと思います。
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四国というのは、地図がよく示しますように四つの国から成立っている島であります。讃岐と阿波と土佐と伊予と、県にすれば香川、徳島、高知、愛媛の順になります。これらの国々は昔は南海道と呼ばれた地方の一部をなします。その文字がよく語りますように、南の海にある島との義であります。北は美しい瀬戸内海を隔てて中国に対し、南は果しもない大洋を控え、暖い明るい光を浴びる島国であります。四国といえば昔から八十八箇所巡礼の国で、桜や菜の花が咲き乱れる頃、諸国から集るお遍路の白い姿が道を伝って流れるように続きます。あらたかな御慈深い観世音菩薩をまつってある寺々に、お札を打って巡るのであります。私もまた丁度その巡礼のように、四国の品々を追って歩きましょう。
讃岐の国は香川県であります。昔から高松城や栗林公園で名高い所。源平の戦いで有名な屋島も、金毘羅様の名で船乗に知られている琴平神社も、同じ讃岐の名所であります。ですが私はそれらの所を訪ねるよりも、この国が生み出すものの技について語りましょう。
産額で一番大きなものの一つは団扇であります。丸亀市がその産地で、特に塩屋はその中心であります。年額は三百万円を超えこれに携る工人は三千人と称します。日本の国々で用いる団扇の八割までがこの町で出来るのであります。多くの骨を組んでそのまま各地へ送り出します。
凡ては手仕事であり、家内工藝であります。仕事を見ていますと、その手技の早いのには驚かされます。竹を縦に細かく裂く仕種、裂いた竹を拡げて糸で編む手捌、凡ては目にも止まらぬほどの早業で、手がどんな奇蹟を行うかが目前に見られます。長い働きの歳月があるとはいいじょう、それは驚くべき手技であるといわねばなりません。おそらく一日の口賃はわずかなものでありましょうが、そういう人たちの仕事を見ていると、沢山酬いてやらねばすまない心地がします。
この丸亀では様々な団扇が出来まして雑なのから手を入れたのまで作ります。中にはとても見事なのがあって、作りのよいのや、形の豊なのや色の美しいのがあります。とりわけ漆塗のものは眼を引きます。よく琴平や屋島などで客を待つ「元黒」と呼ぶ大きな赤い団扇も、同じくここで出来るのであります。暑くて湿気の多い日本の夏は、団扇がないとこまります。これも竹と紙というよい資財に恵まれて、仕事が栄えたともいえましょう。
高松市といえば例の漆塗の茶箱や茶盆が想い出されます。刀の削り跡を残したやり方で、一時は随分盛な売行をみせました。しかしわざわざ削目を出すのですから、どこか作りものに落ちて、自然さを持ちません。それに新しい思いつきで歴史も浅いのであります。そういう手法より、昔からの当り前な作りの方に勝ちみがあるでありましょう。表通りを進む仕事だからであります。
高松の町を歩くと大変珍らしい凧を売っているのが眼につきます。模様が他の国にないものが多いのであります。蝉だとか牡丹だとか中でも不思議なのは猩々で盃を手に持つ図柄であります。どうも図の取方が西洋の骨牌に似たところがありますが、誰が描き始めたものでしょうか。近年各地の凧は絵が粗末になって来ましたが、高松のばかりは少しも格が落ちておりません。子供も欲しがるでしょうが大人だとて欲しい気を起すでしょう。どういうものか世に広く知られていないので、ここに書き記しました。
どの国でもそうでありますが、少しも有名でないものに、是非見直したいものがあります。この県のものとしては三つのものを挙げましょう。荒物屋で扱うものだからといって見過ごしてはなりません。一つは土地で「飯室」と呼んでいる品であります。木田郡木田村の特産で、御飯のお櫃入であります。作り方は他の国にもあるのですが、仕事が丁寧な上に特に蓋の形が豊で美しいことが気附かれます。材料は稈心を用います。上品でどの家庭でも用いてほしいと思います。私が見たお櫃入としては、この「飯室」を第一に推すべきでしょうか。
善通寺の荒物屋で見かける品に、一閑張の塵取で、とても便利なものがあります。作り方は一枚の厚紙をとり、下の二隅を重ね合せたものに過ぎませんが、その合せ方から自然に生れた形が美しい姿をなすのみならず、使い工合も申分ありません。安ものに過ぎませんが、諸国の塵取の中で第一に推してよいでありましょう。紙は渋色で柄は竹であります。私はこれを見る毎に誰にでもお土産に上げたい心を起します。
同じ地方の荒物屋で、「すべ帚」と呼ぶものを売っています。「すべ」は草の名でありましょう。これも安く売る品でありますが、形がふっくらして大変美しく、茶人でも誂えた品かと思われるほどであります。安くてしかも味いのあるこういう品をこそ、一つでも多く家庭に取入れたいものと思います。
阿波の都は徳島であります。県の名もこれにもとづきます。もと蜂須賀氏の城下町でありました。あるいは「阿波の鳴戸」で人々はもっと記憶するかも知れません。または撫養の有名な凧上でこの国を想い起す人もありましょう。「織」と呼ぶ織物でも名を広めました。糸の太いのと細いのとを混ぜ、張り方を一様にしないため、布の面に凹凸が現れる特別な織物であります。見たところでは縮緬に似ているものであります。昔は他でも織られたでありましょうが、今はこの地方にだけ見られるので、土地の産物として続けたいものであります。しかし織物や染物には流行の移り変りが激しく、漸次時勢に押されぎみなのは致し方もないことであります。
手漉の紙もこの国に見られます。一般に「宇陀紙」の名で聞え、主に傘紙として用いられます。傘紙の需用は今まで和紙の丈夫さを保たせた一つの原因だとも思われます。丈夫な紙でなければ雨に堪えません。
その他阿波には色々のものを数え得るでありましょうが、この国が天下にその名を成したのは何よりもまず「藍」のためであります。「阿波藍」といって、日本全土に行き渡り、おそらく紺屋という紺屋、皆多かれ少かれここの藍を用いました。それというのもかつては吾々の着物のほとんど凡てが紺染であったからによります。需用は莫大なものであったでありましょう。盛に藍草を植えて、それを藍玉に作ったのは徳島市から程遠くない村々で、今も訪ねますと、それは見事な蔵造の仕事場が見られます。何しろ江戸中期この方、日本中の販路をほとんど阿波の国一手で引き受けていたのですから、如何に仕事が盛であったかが分ります。徳島市を流れる河岸に白い壁の大きな土蔵が列をなして列んでいますが、皆藍を入れた倉庫であります。よい品を出すことを互に競って、年々等級を定めて名誉の札を贈ったものであります。誠に天下一の藍でありました。
藍というのは一年生草本で蓼科に属する植物であります。葉は濃い紫色を呈し花は紅で、阿波の平野にこれが一面に植えられている様も見ものでありました。その葉から染料を取ります。醗酵させて固めたものを「藍玉」と呼び、まだ柔いのを「」といいます。紺屋はこれを大きな甕に入れ、石灰を加え温度を適宜にし、かつ混ぜつつ色を出します。よい色を出すのはなかなかの技で、昔は藍のお医者があったといわれるほどであります。
もとより青の色でありますが、普通淡い方を「藍」といい濃い方を「紺」と呼び慣わしています。この色は広くは東洋の色と称してもよく、西洋には余り発達の跡を見ません。そのためでもありましょうが、西洋人は植物から取るこの天然藍に一入感じ入るようであります。かえって私たちは余りにも見慣れているため、その価値を顧みない傾きがあります。もとより支那でも好んで常民の服に用いられましたが、おそらくこの色を最も多く取入れたのは日本人ではないでしょうか。その証拠にはこの色を以て凡ての色を代表させました。染物屋を呼んで「紺屋」といいます。庶民の着物であった絣もまた「紺絣」の名で親しまれました。それほどわが国では紺が色の本でありました。遠い地方にはいわゆる「地玉」といってその土地の藍もありましたが、何といっても「阿波藍」は藍の王様でありました。色が美しく、擦れに強く、香が良く、洗いに堪え、古くなればなるほど色に味いが加わります。こんな優れた染料が他にないことは誰も経験するところでありました。
しかし時は流れました。明治の半頃までさしも繁昌を極めた「阿波藍」にも大きな敵が現れました。化学は染めやすい人造藍を考え出しこれを安く売り捌きました。利に聡い商人たちはこれにつけ込みましたから、非常な早さで蔓延りました。そのため手間のかかる本藍はこれに立ち向うことが難しくなりました。それは近世の日本染織界に起った一大悲劇でありました。昔あれほど忙しく働いた大倉庫は、まるで空家のように荒れ始めました。そうして今は細々とわずかばかりの仕事を続けているような事情に陥りました。
これは時勢といえばそれまででありますが日本人は人造藍で便利さを買って、美しさを売ってしまいました。この取引は幸福であったでしょうか。そうは思えないのであります。なぜならこれは少数の商人に大きな利得をさせたというに過ぎないでありましょう。買手はこれで安く品が買えたとしても、色は本藍ほどに丈夫ではありませんし、使えばきたなく褪せてゆきます。それに何より取返しのつかないことは、天然藍が有つ色の美しさを失ってしまったことであります。化学は人造藍の発明を誇りはしますが、誇るならなぜ美しさの点でも正藍を凌ぐものを作らないのでしょうか。それは作らないのではなく、作れないのだという方が早いでありましょう。この点で化学は未熟さを匿すことは出来ません。美しさにおいても正藍を越える時、始めて化学は讃えられてよいでありましょう。化学は天然の藍に対しては、もっと遠慮がなければなりません。
誰も比べて見て、天然藍の方がずっと美しいのを感じます。それ故昔ながらの阿波藍を今も用いる紺屋は、忘れずに「正藍染」とか「本染」とかいう看板を掲げます。そうしてその店の染めは本当のものだということを誇ります。また買手の方も「正藍」とか「本染」とかいうことに信頼を置き、かかる品を用いることに悦びを抱きます。これは今では贅沢ということにもなりますが、本当に仕事を敬い本当の品物を愛するという心がなくなったら、世の中は軽薄なものになってしまうでありましょう。つい半世紀前までは日本の貧乏人までが、正藍染の着物を不断着にしていたことをよく顧みたいと思います。嘘もののなかった時代や、本ものが安かった時代があったことは、吾々に大きな問題を投げかけてきます。これに対しどういう答えを準備したらよいでしょうか。
私は思わずも藍のことで余り長く阿波の国に止まりましたから、旅を土佐の国へと急ぐことに致しましょう。ここは高知県で都は高知であります。山内氏の居城のあったところであります。この県にある色々の産物の中で主なるものを三つ四つ挙げることに致しましょう。一つは高知や御免のような町々で出来る金物であります。一つは世に聞えている土佐紙であります。一つは能茶山の焼物であります。それに多少竹細工その他のことを附け加えましょう。
高知の町を歩きますと、なかなか大きな店構えをした金物商があることに気附かれます。色々の金具類を売りますが、他の国にない特色あるものが少くありません。「お染錠」とか「なば鉈」などいう名前は、それらが地方的なものであることを語ります。見ると出来が皆手堅いのは、歴史に由来すると思われます。昔の刀鍛冶が明治維新この方、新しい職を求めて鉈、鉞、手斧というような日常の用具を作るようになりました。刃物の鍛え方に昔の法が残るためか仕事がよく、また切れ味が冴えているのが気附かれます。仕事をする人たちも、自分の名誉にかけて作る風が残り、鑚彫で見事な書体で「土州住国光」とか「豊光」とか「国清」とか、古鍛冶に見られるような銘を刻むことを忘れません。伝統が今も続いていることが分ります。こういうような品物は、いわば職人気質が残っていて、粗末なものを作るのを恥じる気風があって、仕事の裏に一種の道徳が守られているのを感じます。こういう風こそはどの世界においても尊ばれてよいことと思います。仕事は安藝郡、香美郡、長岡郡などにも及び、信用は販路を遠くまで拡げました。土州が誇るに足りる手仕事の一つであります。
しかし土佐といえば、誰も産物として手漉の和紙を挙げるでありましょう。「土佐半紙」の名は「土佐絵」、「土佐犬」、「土佐節」などの如く、土佐に因むものとして広く聞えます。時と共に需用が多く、色々新しい機械や道具も取入れましたが、しかし昔からの手漉紙は今も絶えません。ここでは特に「仙貨」(または仙花)と呼ぶ紙が沢山作られます。仙貨は人名にもとづくといわれ、伊予宇和島で出来たのが事の始めだといわれます。今は吾川郡の伊野が中心でありますが、少し田舎に入って仕事場を訪ねますと、昔ながらの風情で流漉をしている様が見られます。しばしばごく小さな箱舟で、みすぼらしい道具を使いながら細々と紙を漉いている光景に接しますが、出来る品物を見ますと、清くて張りがあって誠に立派な品であります。貧乏くさいそれらの仕事は決して小さな働きではありません。手漉の業は農村の家庭に行き渡っていて、これが土佐紙の手堅い基礎をなしていると思われます。障子紙、傘紙などの需用は、丈夫な質のよい生紙を求めて止みません。いずれも楮を主な原料として作ります。和紙はこの郡の物産として年産額の最も大きなものであります。紙を用いたものとしては香美郡の山田町の雨傘が久しく名を成しました。
私はここで高知市の町はずれにある一つの窯場についても書き添えねばなりません。「能茶山」といいまして、古くは「尾戸焼」の名で知られた窯場であります。ここは四国での唯一の窯らしい窯で、近在で用いますひと渡りの雑器を皆焼きます。甕だとか土瓶だとか壺だとか茶碗だとか、今も盛に作られます。いずれも安い不断使いのものでありますが、しばしば大変美しい上りのものを見出します。凡て実用品には遊びがないので、これが品物を正しい品物にさせる原因をなすと思われます。
能茶山ほど知られてはいませんが安藝町近くにも一基の窯があって、烟が立ちます。こういう雑窯はかえって省みられねばなりません。正直な仕事をしていますので。
「土佐玉」の名で知られた「珊瑚細工」も高知の誇るものであります。甲府の水晶細工や松江の瑪瑙細工などと共に、その土地の土産ものとして想い起されるものであります。近年になってからのものでありますが、この高知市では盛に裂織を作って輸出ものに応じました。花模様の入ったものなども作られます。不用の布を裂いて緯に織り込むものでありますが、これも色と模様とさえよかったら、見違えるほどの効果を示すでありましょう。
南の暖い国でありますから、竹が生い茂るのは申すまでもありません。そのため竹細工の技にも見るべきものがあります。海辺でありますから釣で用いる畚などにも美しい出来のを見かけます。竹細工の一つで「竹の子笠」と呼ばれているものがあります。お百姓や車夫たちが用いている普通のものでありますが、仕事が大変丁寧な上に、特に形の品がよく、さながら公家衆が用いたものではないかとさえ見間違えるほどであります。そのまま能役者が用いたとて相応わしいでありましょう。こういうものを誰も不断に用いるとは有難いことではありませんか。
土佐といえば室戸崎の風光や、食物では鰹の「はたき」と呼ぶ料理が自慢であります。旅では眼に口に味うものが山々あります。
伊予の国に入りますと、県も愛媛に変ります。この国は宇和島とか大洲とか松山とか今治とか名のある古い町が少くありません。道後の温泉の如きも広く知られた地名であります。松山市には今も久松氏の旧城の一部が残って、町に重みを加えております。
伊予の国は昔は和紙でも名を成し今も多少は見るべきものを残しますが、今は仕事が土佐に奪われました。この国の物産は何といっても「松山絣」であります。広く「伊予絣」の名で聞えております。木綿の紺絣で久しく「久留米絣」などと並んで販路を全国に拡げました。大柄小柄色々と織りましたが、前者は主として夜具地に後者は着尺であります。大柄の方は大概は「絵絣」でありまして、色々の模様を織り出しました。その中で何といっても秀逸なのは、松山城の図柄であります。日々見る郷土の風景を写し出したものとして忘れ難いものであります。下には松に囲まれた石垣を控え、上にはお城の建物が聳え、鯱を有った屋根から、空を飛ぶ鳥に至るまで、よくも上手に織り出したものと思います。日本の絣類ではこの種の大柄ものになかなか立派なものが見られますが、伊予絣もその名誉を分つものであります。しかしこれも段々流行はずれと思われて、買う人がなく、従って作る人もなくなってゆくのは是非もないことであります。しかも近頃は手機に便るよりも機械に任せることが主になったので、格安には出来ますが、品質は著しく落ちて来ました。しかし日本で育った織物として絣類ばかりは是非とも健かに栄えさせたいものであります。吾々はもっと日本から生れた日本のものを愛そうではありませんか。そうしてそれらのものを用いることに悦びを抱こうではありませんか。
伊予の国は別に竹細工の産地として名を成しているわけではありません。しかし南国のこととて太い竹に恵まれ、色々のものが作られてあります。かえって名もない台所用具や、戸外で手荒く用いる籠などの類に、形に特色あるものを見かけます。こういう地方的な品物の中で、「竹面桶」の如きは全く他にない品と覚えます。他では杉か檜の曲物細工でありますが、これは珍らしくも竹を曲げて作ります。多くは大洲町で売りますが、伊予郡の出淵などで出来るものであります。面桶は字の宋音だといいますが、多くは楕円形をした弁当箱で、地方によって呼び方の変化が多く「めんば」「わっぱ」などともいいます。こういう品物の方言的な名称を集めたら、一冊の大きな興味深い字引となるでありましょう。伊予郡砥部町の窯は久しく名があります。材料のよい磁器などを見ると、今日品物の格がいたく落ちたことを一入残念に思います。また西宇摩郡の穴井にマウラン製の敷物を産します。岡山県のものと共に好個の品で、洋間には大に用いられてよいと思います。
道後の温泉場の小間物店などに、色糸で美しくかがった手毬が見られます。如何にも日本の娘たちの優しい心相手だと思われます。「姫達磨」もここのは丁寧な作りであります。温泉で一夜巡礼の足を休め、更に九州へと旅を続けることと致しましょう。
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九州というのは、もとより九つの国から成立つのでその名があります。筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九ヵ国。それに壱岐、対馬が加わります。昔は「筑紫の島」と呼びました。今はこれを七県に分ち、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県とします。昔はこの島を、東海道や南海道に対して、西海道とも呼びました。西方の海にある国だからであります。地図の位置はそれが熱い地方であることを示します。
中でも日向の高千穂は天孫降臨の地として古い物語を有ち、日本の歴史にとって由緒の深い土地であります。名にし負う耶馬渓の奇観、霧島のあらたかな峰、阿蘇のものすごき噴火など、いずれも九州の大きな自然を語ります。今この島を仮りに右と左とに分けますと、東側に当る右の方より、西側に位する左の方に、早くから様々な文化が栄えました。思うにこれは西の面が亜細亜大陸と相対し、また外国との交通が港を通して早くから行われていたのに由るのでありましょう。博多、平戸、長崎、鹿児島のような港は、海外にもその名が知られていました。それらの港を指して四つの方向から文物が入りました。一つは朝鮮、一つは支那、一つは南洋、一つは西洋であります。かくして様々な新しい知識や技術が迎えられました。それに福岡の黒田、佐賀の鍋島、久留米の有馬、熊本の細川、鹿児島の島津など、最も大きな大名たちの居城がほとんど西側の国々に在りました。これに引きかえ裏九州には、中津、大分、臼杵、延岡、宮崎、都城の如き町々はありますが、表九州の都には比ぶべくもありませんでした。
私はここで国々を順次に訪ねるよりも、品物の種類を追って、手仕事の跡を見ることに致しましょう。九州を語るについては、何よりもまず焼物のことが心に浮びます。それほどこの九州と焼物とは関係が深く、また窯数からしましても、どの地方よりも多いのであります。九州は地図が示しますように、支那と朝鮮とに最も近いため、それらの国から色々の影響を受けました。中でも朝鮮との縁故は深く、江戸時代三百年の間に、日本の焼物を非常に発達させる原因をなしました。豊臣秀吉の軍が、朝鮮に攻め入った時、彼は不思議な命令を下しました。それは俘虜の中から、陶工をつれて帰れということでありました。秀吉は武人でありましたがなかなかの風流人で、ことのほか茶事に熱心でありました。その頃は日本の焼物はまだ発達していませんでしたから、朝鮮から多くの焼物師をつれて来て、茶器を焼かせたかったのであります。大勢の俘虜は西九州の方々へ分れて住まわされました。彼らは大名たちの保護を受けて、陶土のある各地へ窯を築きました。
有名な有田の磁器はかくして起ったのであります。李参平という人がその開祖として名が残ります。古薩摩と呼ばれるものも、かくして始まりました。有名な唐津も新しく仕事を起しました。八代の象嵌の法も彼らから教わりました。象嵌というのは模様を中に嵌め込むやり方であります。かくして焼物は新しい産業として目覚ましい発展を遂げるに至りました。今でも九州ほど製陶の業が盛なところを他に見ないのは、そういう歴史に由来するからであります。三百年の歳月は朝鮮の風を充分に咀嚼して、日本のものに凡てをこなしました。果して今どんなものが作られつつあるのでありましょうか。私は地図を追って、それらのものを訪ねて歩きましょう。
窯の大きさからいって、また作り出す品物の数から見て、一番仕事が盛なのは磁器であります。有田を中心に、肥前の国には所々方々に窯があります。ここで簡単に磁器と陶器との区別をお話しておくのも無駄ではないかと思います。一番早い見分け方はもし白くて半透明で、表面に少しも細かい罅が入っていない焼物がありましたら、それは磁器なのであります。これに反し全く不透明で罅が沢山入っているものがありましたら凡て陶器であります。また普通は磁器の方が焼く時の熱度が高いので、よく焼きしまり従って硬くて丈夫なわけであります。今多くの家庭で用いている白い素地に藍で絵附けがしてある御飯茶碗は、凡て磁器であります。しかるに台所で使っている水甕だとか、擂鉢だとか、行平などは、おおむね陶器であります。
前にも申したように肥前の有田を中心に今も沢山に磁器が焼かれます。ここは北陸の九谷と並んで磁器の二大産地であります。磁器には大体二通りありまして素地の上に藍色の絵具で絵を描いて焼いたものと、一度焼いたものの上に更に赤、緑、黄、黒、金などの色で絵を加え、それを再び弱い火度で焼いたものとがあります。慣わしとして前のものを「染附」または「呉州」といい、後のものを「赤絵」とか「上絵」とか呼びます。よく寿司屋が用いる「錦手」の皿や鉢は皆赤絵であります。有名な柿右衛門はこの上絵を試みた古い人でありました。
さて右のような二種類の磁器で九州出来のものを一般に「伊万里焼」と呼んできました。伊万里は産地ではなく肥前にある港の名で、ここから有田その他の焼物が船に載せられて諸国へ運ばれました。そのためこの辺の磁器を凡て「伊万里」と呼ぶようになったのであります。もとより生産は有田が中心でありましたから「有田焼」の名でも聞えました。この地方に磁器がかくも栄えたのは全く質のよい磁土が近くに見出されたからによります。今も窯の煙が絶えたことはなく、夥しい需用に応じます。家庭で日々用いる食器としてはこれらの磁器にまさるものはありません。磁器は特に支那、朝鮮、日本の三国が本場で、西洋では古くは発達の歴史がないのであります。
しかし現に作られている仕事を見ますと、残念にも四つの点で昔のものに劣るのを感じます。一つは形が弱くなり、昔のようなふくらかさや張りを失いました。一つは絵が段違いに拙くなって、活々したものがなくなりました。充分模様にこなされていないためとも思われます。一つは用いる色が俗に派手になって落着きを欠いてきました。これは天然の呉州が廃れ化学的なコバルトがこれに代ったことが大きな原因でありましょう。一つは材料が人為に過ぎて骨を持たなくなりました。無理して白さを追ったり、また余りにも火度を上げたりすることも、味いを奪う原因となったと思われます。別に技が下ったためではなく、むしろ醜いものを上手に作っていると評する方が早いでありましょう。そのため仕事が盛であるにかかわらず、選び得るものが案外少いのは遺憾に思います。古い「色鍋島」や柿右衛門風な品を上手に真似る人はありますが、単なる模写に止って、創作の強みを持ちません。材料をもう少し自然さに戻し、形や模様や色を健かにしたら、仕事がどんなに甦って来るでありましょう。
しかし幸なことに磁器を去って陶器の世界に来ますと、昔にも負けない堂々たるものが作られているのを見出します。何も凡てが優れているわけではありませんが、健康なものや淳朴なものや質実なものが数多く見出されます。ただそれらのものがほとんど約束でもしたかのように、雑器の中にのみ見られるということは、興味深い事実だと思います。茶人好みで作った趣味の品や、贅沢に凝って作った高価な品にはかえって活々したものが見つかりません。考えると安い品物の方にかえって美しいものが多いのですから、こんな有難いことはありません。更によく考えますと、質素な性質があればこそ、美しさが保障されて来るのだという真理が分ります。昔から聖人たちが質素な生活と健全な生活とには深い結縁があると教えているのを想い起します。贅沢や遊びはとかく悪の原因になることを工藝の世界でも学ぶことが出来るのであります。
薩摩の国に苗代川と呼ぶ古い窯場があります。まずそこを訪ねることに致しましょう。場所は伊集院の近くであります。三百年の昔、大勢の陶工が朝鮮からここに移住しました。それ以来幕末まで、日本人とは婚姻を結ばずにずっと此処に住んでいたのでありますから、今も沈とか金とか崔とかいう名を用いる者が少くありません。古い時代の品は「古薩摩」と呼んで珍重されます。今この窯では二種類のものを焼き、一方を「白もん」、他方を「黒もん」と名附けます。「もん」は「物」の義であります。白い色の焼物の方は上等で、黒い方のは安ものとされます。それ故「黒もん」といえば軽蔑の意味が含まれます。ところがこの「黒もん」の方にこそ、実に見事なものがあって、古薩摩に劣らぬ力と美しさとを示します。またこの方にずっとよく伝統が残され、形に素晴らしいものを見出します。鉄釉一色で模様も何もありませんが、この釉薬が火加減で「天目」ともなり「飴」ともなり「柿」ともなり時としては「青磁」ともなります。酒注である「ちょか」とか、汁を煮たり御飯を焚いたりする「山ちょか」とか、「そばがき」と呼ぶ碗だとか、他国にないものを色々と作ります。中から上りのよいのを選び出しますと、本当に名器と呼びたいものに廻り会えます。時勢の流れが激しいのに、よくもこんな仕事が廃れずに続けられているものと不思議に思われるほどであります。苗代川は「黒もん」があるが故に、日本で最も優れた民器を焼く窯として、賞め讃えられねばなりません。
薩摩の隣りは大隅の国であります。皆ここに帖佐という窯場があって、苗代川と兄弟の間柄でした。幸その歴史が今は竜門司というところに伝わって、よい仕事が見られます。特に今出来るもので美しいのは「飯鉢」と呼んでいるもので、素地の上に白土をかけ、これに緑と飴色との釉を垂らします。色が冴えて上ると、まるで支那の有名な「唐三彩」を想わせます。安いのでなお誰にも使って欲しく思います。飯鉢とは、暑い地方のこと故、御飯が饐えないようにとて作った鉢であります。そのほか「しゅけ」と呼んでいる蓋物や、「からから」と呼ぶ醤油注など、皆よい家庭の友となるでありましょう。
これらの窯と共に、なおも驚くのは日田の皿山であります。豊後の国の山奥にあるため、今日までほとんど誰からも知られずにいました。皿山という言葉は九州ではよく用いられ、焼物を作る場所のことであります。この窯は日田郡大鶴村の小鹿田という所にあるため、近在では「小鹿田焼」で通ります。不便な所で荷を車で出す道さえありません。福岡県と大分県との境にある有名な英彦山にはほど遠くない所であります。その山の近くに小石原と呼ぶ窯場がありますが、小鹿田の皿山はその系統を引くものであります。この小石原でもよい雑器を見かけます。小鹿田では近在の農家で用いる品は一通り皆作りますから、種類が大変多いのであります。甕、壺、鉢、皿、碗、土瓶、徳利、口附、片口、擂鉢、水差、何でも揃えることが出来ます。それに無地はもとより、流描、櫛描、指描、飛ばし鉋など様々なやり方を用います。絵ものは一つもありませんが、その代り極めて多彩であります。白、黒、飴、黄、緑、青など、これらのものがあるいは地色になったり、流の色になったりします。こういう品物を台所なり食卓なりに置くと、花を活けているのと等しいでありましょう。それに驚くことにはいずれも形がよく、醜いものとてはありません。どの窯でも多かれ少かれ醜いものが混りますが、この窯ばかりは濁ったものを見かけません。伝統を猥りに崩さぬためと思われます。もし今後醜いものが現れますなら、それは新しく試みた品物に限るでありましょう。九州に窯は沢山ありますが、おそらくこの日田の皿山ほど、無疵で昔の面影を止めているところはないでありましょう。こういう害われない状態で今日まで続くとは不思議なことだといわねばなりません。それ故昔の窯場がどんな様子であったかを思いみる人は、現にあるこの小鹿田の窯を訪ねるに如くはないと思います。
筑後にある窯場では三池郡の二川を挙げるべきでありましょう。仕事場として美しい茅葺の建物が見られます。この窯は昔北九州地方でよく描かれた松絵の大捏鉢や水甕を、一番近年まで焼いていたところであります。近頃また再興しましたが雄大な作品であります。ここで出来るもので水甕や蓋附壺によい品がありますが、甕で「利休」と呼んでいる黄色い釉薬のがあります。この色は特別に美しくやや艶消の渋い調子であります。その他肥前の窯場として、注意すべきは白石の鉛釉の陶器や、黒牟田の品であります。前者の土鍋は多彩で美しく、飯鉢にもよいのがあります。後者は昔から色々のよい雑器を焼いた窯でありまして、今も伝統が残ります。美しい櫛描の捏鉢を作った肥前の庭木は全く廃れましたが、弓野はわずかに烟をあげます。筑前の野間の皿山で盛に作る行平は、白土で線を引いた地方的な味の濃いものであります。ですが筑前では何といっても西新町の窯を挙げねばなりません。古くから「高取」の名において歴史に知られた窯であります。福岡市の郊外に在ったのですが、今は市内に編入されました。この窯はいわゆる「遠州七窯」の一つで、茶人遠州の好みの品を焼かせた所として名が聞えます。しかし他の窯の例と同じように、茶器の類にはよいものがなく、活々しているのは大捏鉢とか、水甕とか、「うんすけ」と呼んでいる口附徳利だとか、そういう台所道具の類であります。形も釉薬もよく、強くて立派な感じを受けます。またここで作る焼物の厨子も忘れ難いものであります。近頃色々な事情で仕事がやや荒れて来ましたが、もし福岡の人たちがこの窯の雑器にもっと誇りを感じ出すなら、再び力を取戻すことは決してむずかしくはないと思います。今から十年ほど前までは、堂々たるものを無造作に焼いていたのですから。久留米近くに赤坂の窯があります。西新町の系統を引く品物を焼きます。
もとより歴史に有名な窯で廃れてしまったり全く昔の面影がないほどに衰えてしまったものも少くありません。例えば肥前の唐津や、または現川や、筑前の上野や、筑後の八代の如き、昔の勢いは過ぎ去りました。唐津で想い起しましたが、この窯は歴史が古くまた甚だ栄えたと見えて、今でも九州では焼物のことを凡て「唐津」といいます。固有名詞が一般名詞に高まったのでありまして、丁度関東で焼物のことを「瀬戸物」というのと同じであります。焼物は九州の最も大事なまた盛な仕事でありますから、思わず筆が長くなりました。次は織物のことへと話を移しましょう。
豊前の小倉といえば、すぐ「小倉縞」とか「小倉織」とかいう言葉が浮ぶほどこの織物は有名でありました。木綿のもので、よく目がつんでいて丈夫を以て名があり、主として帯や袴に用いられました。町の特産物として大切なものでありましたが、惜しいことに今は全く衰えて復興の気運も見えないのは残念なことであります。この織物と共に想い起されるのは筑前の「博多織」であります。「博多」といえば誰も知っているほど特長のある織物で、幸に今も続いて織られます。「博多帯」の名があるほど帯地を主に作ります。絹を材料とする密な堅い織で、柄にも特色があります。仕事として誠に立派なものといえましょう。ただ織の技をよく守っているのに比べて、染の技が近頃落ちて来たのは、如何にも残念に思います。昔のように色を草木から取ることをしなくなりました。染めやすいためまた値が安いため、とかく化学染料を用いるので、今まで見なかった俗などぎつい色が現れるに至りました。なぜ化学は美しさの点で天然の色に負けるようなものを発明したのでありましょうか。便利を得て、美しさを失うような発明のために、この世が醜くなるようでは、片手落な学問といわねばなりません。なぜ化学は安くてしかも美しい染料を見出し得ないのでしょうか。
九州の織物ではもう一つぜひ忘れてはならないものがあります。それは「久留米絣」でありまして、おそらく日本のどの国の人も、これで着物を拵えたでありましょう。品物は久留米に集められますが、仕事の中心は八女郡であります。年産額は一千万円を超え、二百万反余を産し、十万戸の家がこれで生計を立てているといわれます。天明年間に井上伝女の始めるところと伝え、阿波藍を用い丈夫を旨として出来る絣であります。中に「白絣」もありますが、「紺絣」がその大部分を占め、時としてはこれに多少の赤を交えたのを見かけます。
絣の技はもと琉球から伝ったものでありましょう。しかし久留米において最も大きな仕事に育ち、民衆の不断着になくてならないものとなりました。余り見慣れているので、またかと思いますが、しかしよく考えてみますと、日本の織物として最も誇り得るものの一つではないでしょうか。もし海外に輸出を計るとしたら、必ずや賞讃を博するものと思います。外国には全くその伝統がなく、容易に作り得るものではないからであります。
絣はなかなか手間のかかる織物で、一朝一夕に考え出された仕事ではありません。手法も様々に分れましたが、凡ては日本の所有する大切な技術だと思います。ただ愚かな流行に押されて、こういう伝統がとかく顧みられなくなる傾きがあるのは如何にも残念なことであります。それに正藍を棄てる者が漸く殖えて来たことは、紺絣の名をどんなに痛めているでありましょう。再び本筋の仕事に戻って、その声価をいよいよ高めたいものと思います。そうして声を大にして、この仕事の値打を語り、ますますその美しさを広めたいものと思います。絣は「飛白」とも書き、また「綛」「纃」などの字も用いますが、「かすり」は「掠る」という言葉に由来するものであります。
ここで「薩摩絣」または「薩摩上布」といわれるものについても記しておかねばなりません。元来は琉球のものでありまして、実際薩摩ではこれを「琉球絣」と呼んでいるほどであります。それが薩摩を経て内地に入ったために「薩摩絣」の名で呼ばれるに至りました。しかし後にはそれを模して作る者が出で、その国の一つの産物になるに至りました。木綿の紺絣のほかに、上布があって生麻の上等のを用い、柄の細かいよい品を手機にかけました。決して粗末な仕事ではありません。
しかし更になお鹿児島県のものとして特筆されてよいのは「大島紬」であります。奄美大島は今は大隅の国に属していますが、元来は沖縄の一部でありました。そのため凡てに沖縄の風が残り、この紬もその影響で出来たものであります。本来は手紡の糸を地機で織ったのでありますが、段々普通の絹糸を使うようになりました。染めに特色があって、「てえち木」と称する樹の皮を煎じて染め、更にそれを鉄分の多い泥土に漬けて染め上げます。それは黒ずんだ美しい茶褐色を呈します。模様は凡て絣で出します。仕事は盛で、島を訪うと筬の音をほとんど戸毎に聞くでありましょう。特色ある織物としてこの島にとっては大切な仕事であります。近頃非常に細かい柄に進み、織締というやり方でそれを織り出しますが、しばしば度を過ごしかえって活々したものを失いました。仕事が技の末に走ると、美しさはかえって逃げ去ります。大島紬はもっと単純さを取戻すべきでありましょう。
歴史の古い博多には面白い町が色々ありますが、とりわけ馬出町には眼を引かれます。そこには軒並に曲物細工の店が見られます。歴史は相当に古いようであります。主に杉の柾目を使って曲物を作ります。柄杓のような簡単なものから、飯櫃だとか水桶だとか寿司桶など、色々と念を入れた品を見出します。よい品は二重三重に貼って、これを桜皮で縫って止めます。よい品は必ず二十年三十年と材を涸らしてからでないと作りません。ごく手堅い職人気質の残る仕事で、その出来栄には見事なものがあります。ここに手仕事の道徳とでもいうものを、まともに感じさされます。こういう気風が衰えて来た今日のこと故、尚更心を打たれます。
福岡市では「菱足」と呼ぶ鋏を売ります。左右の足に菱紋が刻んであるので、その名を得たのでありましょう。形もよく切れ味もよい品であります。福岡県内の三瀦郡木佐木村八丁牟田という所で、一時「花筵」の美しいのを作りました。随分盛に輸出したといいますが、よい仕事でした。岡山県のものと共に花筵の存在を語るものであります。色にもぼかしなど用いて綺麗なものがありました。輸出の仕事は盛衰がはげしいので、近頃はどうなったでしょうか。佐賀の町で売る赤塗の飯櫃も特色あるものといえましょう。他では見かけません。漆器では熊本で売っていた仏器を想い出します。形も塗もよく、いわゆる「地出来」の味の濃いものであります。また同じ町で白木で箍の入った桶類によい形のを見かけます。鹿児島は近在が黄楊の木の産地であるため、そこの黄楊櫛は仕事のよさで名があります。更になお名があるのはその町の錫細工で、伝統はどういう仕事が正しいのかを工人たちに教えています。長崎の鼈甲細工も世に聞えます。南の海からこの材料を得やすいために、この港で発達したのでありましょう。美しい材料ですし、自然の斑が既に模様をなしているのですから、あとはよい形さえ与えればよい仕事となるのは必定であります。
九州は暖い地方とて竹に恵まれます。細工は各地で多かれ少かれ見られますが、特に名を高めたのは別府の仕事であります。そこに行きますと、如何に様々なものが竹で作られているかを見られるでしょう。もとより籠や笊はその筆頭をなすものでありますが、仕事が盛なだけに、組方に、色附に、形に様々な工夫を凝らします。竹細工の技ではおそらく別府が最も進んでいるかと思われます。しかしそれだけにここの仕事には危険が多く、技の末に陥って、特に花籠の如きはいやらしいものさえ少くありません。こういうものを見ると、単純に用途のために出来る雑具の方に強みのあるのを感じます。日向の高千穂地方に「かるひ」と称する竹籠がありますが、山に行く時よくこれを背負います。「かるひ」とは方言で担う意の由であります。この背負籠の作り方などは、全く竹の性質をよく活かしたもので、別府あたりの品がとかく造作に過ぎて竹の性質を殺しているのとは、大変な違いであります。「かるひ」の如きは誰も注意しませんが、九州で出来る竹細工としては第一流の列に入るものでありましょう。主な分布区域は宮崎県から熊本県にわたる県境いであります。また大分県の水郷日田町に近い大鶴村で竹製の飯櫃を作ります。珍らしい品といえましょう。
日向で思い出しますのは、碁石であります。いわゆる「本蛤」と呼んで、この国の製品のよさを誇ります。
九州には四国ほどではありませんが、和紙を各地に産します。日向国東諸県郡の本庄や、薩摩国日置郡伊作や、肥前国北高来郡湯江村や、まだ色々の個所がありますが、九州第一の紙の郷土は筑後国八女郡でありまして、矢部川に沿う村々で盛に漉かれます。中でも古川村がその中心をなします。
和紙を用いた加工品としては、肥後来民の団扇を挙げねばなりません。柄は平竹を用い、骨は上にやや開き、色は淡い渋色に染められます。使いよい品なので、この町の特産として名を広めたのは当然であるといえましょう。紙を用いたものとしては紙鳶があります。紙鳶といえば誰もすぐ長崎のものを想い浮べるほど、その町のものは名を得ました。
九州には玩具の見るべきものも残ります。博多の鳩笛、柳河の羽子板、熊本の独楽や金太郎、または木の葉猿、肥前神埼郡尾崎の子供笛、同国北高来郡の古賀人形、鹿児島の香箱や糸雛など、挙げれば色々と想い出されます。女達磨も豊後竹田のものは野趣があります。博多人形は名は聞えていますが、ほとんど昔の美しさを失いました。
終りに鹿児島辺で見られる馬具についても言い添えるべきでありましょう。前後が山型をした珍らしい鞍で、多くはこれを朱塗にし、上に金具の飾りを沢山あしらいます。北の端の弘前の和鞍と南北好一対をなすものといえましょう。形が珍らしく他に類を見ません。
ここで九州の旅を終え、鹿児島から船出して更に南へと下りましょう。既に旅の終に近づきました。
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火に燃ゆる桜島を後にし、右手に開聞ヶ岳の美しい姿が眼に入りますと、船は早くも広々とした海原に指しかかります。煙に包まれる硫黄島とか、鉄砲で名高い種子島とか、恐ろしい物語の喜界ヶ島とか、耳にのみ聞いたそれらの島々を右に見、左に見て進みますと、船は奄美大島の名瀬に立寄って、しばし錨を下ろします。更に南へと船首を向ければ、早くも沖縄の列島に近づきます。行く手に細長い島が横わりますが、古くからこの島を沖縄と呼びました。沖に縄が横わるように見えるので、その名を得たといわれます。支那ではこの島を琉球と呼びました。沖縄はその本島のほかに沢山の島々があって、中で久米島とか宮古島とか八重山島とかの名は、度々耳にするところであります。
日本では一番南の端の国で、荒れ狂う海を渡って行かねばならないので、昔はそこに達するのが並大抵な旅ではありませんでした。この文明の世の中でも、神戸から早い船ですら三日三晩もかかります。島の人たちは孤島にいるという淋しい感じをどんなにしばしば味ったことでありましょう。
ですが面積の小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、長い歴史が続き立派な文化が栄えました。尚王が城を構えたのは首里で、その近くの那覇は国の港でありました。外との往き来が不便でありましたから、凡てのものをこの国で作らねばならなかったでありましょう。このことが沖縄に独特なものを沢山生み出させた原因となったかと思われます。
琉球といいますと、すぐ支那風ではないかと思う人がありますけれど、家も大和風でありますし、着物とても全く我国の風俗であります。そうして用いられる言葉も、ごく古い和語であって、今も候文がそのまま活きた会話であります。「候え」とか「はべれ」とかいう言葉で今も語り合うのは、もうこの沖縄だけとなりました。その他草々のことで、この沖縄ほど古い日本の姿をよく止めている国はありません。大体鎌倉時代から足利時代にかけての習俗がそのまま今に伝えられているのであります。それ故古い日本を知るのに、この島の研究は、非常に大切なものとなってきました。
この島に来て心を惹かれるものが色々ありますが、まず染物や織物のことから、話の糸口を解くことと致しましょう。南国のこととて四季花が絶えることはありませんし、緑は濃く海は青く地は白いのでありますから、その自然に似合う着物の色や柄も自から大変に美しく作られました。中でも染物は目が醒めるほど華かであります。土地ではこれを「びんがた」と呼びます。色差しの模様染との意であります。着物の類はいずれも型紙を用いて染めます。型紙には様々な模様が切りぬかれ、花だとか鳥だとか貝だとか、時には家や舟なども画題に入りました。柄のよいこと、色の美しいことで、かの有名な友禅染にも比ぶべきものであります。おそらく女の着物としては世界で最も美しい例の一つに挙げられるでありましょう。技の方から見ましても、よくもこうまで発達したものと思います。仕事が一番盛であったのは首里でありました。絹にも木綿にも麻にも染めました。ですが残念なことに、その優れたことをよく知らないためか、または流行におくれると考えたのか、近頃は作る人も求める人も急に減って、ほとんど絶えようとしているのであります。日本の染物の歴史にとって、取返しのつかぬ損失だと思われます。人間は時として愚かな行いを平気で見過します。
しかしこの型染の他に、糊引といって、布の上にじかに糊を絞り出しながら絵を描き、それを藍甕に漬け、これに色を差してゆく方法があります。よく風呂敷に見られるもので、松竹梅その他の模様を大柄にあしらいます。土地ではこれを「うちくい」と呼びますが、立派なので誰の目をも引くでしょう。天気のよい日、その風呂敷を竹で張って、沢山並べて干す様は、誠に見ものであります。材料は麻を主に用います。
染物について想い起されるのは沖縄で用いる染めの材料であります。本土では既に正藍が得難くなってきましたが、この島ではまだ活々と用いられています。種類が違って、広くは「山藍」の名で呼ばれます。色を出すのが容易で、どの家でもしこむことが出来ます。国頭地方に行きますと藍畑や藍溜がしばしば眼に止ります。このよい材料がある上に、黄は庭先にある「ふく木」から、茶は「てかち」と呼ぶ木から、たやすく得られるのは、沖縄の染物の強みであるといわねばなりません。
染物にも劣らず、美しいのは織物であります。織方も様々で、浮織といって、模様の部分を浮き糸にさせるものや、綾織や絽織や、変化が多いのであります。「みんさあ」と呼ぶ帯の織方も特色を見せます。しかし何といっても、ことのほか優れているのは絣類であります。それもただに紺絣や白絣のみではなく、色絣に進み、それも三色や四色を用いるものさえ見られます。もとより縞ものもあります。その他縞と絣とをよく合せ、「手縞」と呼ぶものが好んで織られました。これらの織物類は彩の多い点でまた柄が麗わしい点で、染物と競うほどの美しさを示しました。実際これらの絣類には醜いものが一つとしてないといい得るでしょう。何がこんな不思議な力を呼び起させているのでしょうか。
よく省みますと沖縄の絣には、どうあっても美しくなるような掟が働いていることが気附かれます。それは悉く「手結」と呼ぶ方法で織られます。絣になる部分を括る時、単位を定め、その組立で模様を生むようにしてゆきます。いわば数理の法則で、いつも模様が出来上ってゆきます。そのため人間の過ちが介入する余地がないのであります。つまり凡てが自然の数に依るため、人間の勝手な自由が許されなくなります。従って人間の誤りをも許さない方法で、凡ての絣が出来上ります。醜い品があり得なくなるのは、このような道を踏むからであると説いてよいでありましょう。
面白いことには沖縄では、島によって違うものを織らせるようにしました。これは島々の経済を無駄な競争から救う賢明な道であったと思います。八重山では白絣を、宮古では紺絣を、久米島では紬をと、各の持前が定まっていました。「久米紬」は泥染をしますから、その鉄分のため茶色がかった織物になります。これに絣が入って静かなよい調子を示します。しかし近頃は「手結」の法を棄てて、新しく「絵図」と呼ぶ法に更えたため、柄の過ちが急に目立って来ました。自然に向って矢を射る者の受ける当然の罰だといわねばなりません。実は同じような欠点が宮古上布や八重山上布にも現れて来たのでありまして、無理に細かい柄を追ったために、ここでも「手結」の道を棄てて、「板締」の法を取入れました。この法が必ずしも悪いとはいえないでしょうが、このために漸次病に落ちて活々した性質を失いました。細い柄が必ずしも美しくなく、高価なものが必ずしも上等ではないことを、よく悟るべきではないでしょうか。これらの織物には絹も麻も木綿もまた桐板と呼ぶ繊維も用いられました。
今も沢山織っているもので、おそらく一番美しいのは芭蕉布でありましょう。芭蕉から糸を取って機にかけます。沖縄の夏は暑いので涼しいこの布が悦ばれます。この布で醜いものがないのは何故でしょうか。絣柄を昔通りに「手結」で出してゆくからであります。そうして糸の性質が手機をどうしても必要とするからであります。仕事は首里でもなされますが、最も盛なのは国頭の今帰仁や喜如嘉であります。
沖縄の女たちは織ることに特別な情熱を抱きます。絣の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集って、沖縄の織物を守り育てているのであります。
次にこの島が生むものとして、忘れてならないのは焼物であります。那覇に壺屋という町があって、そこに多くの窯があって仕事をします。「南蛮」といって上釉のないものと、「上焼」と呼んで釉薬をかけたものと二種類に分れます。日々の生活に用いる茶碗とか皿とか鉢とかはいずれも皆「上焼」でありまして、「南蛮」の方は主に泡盛の甕を拵えます。これらの焼物は一見して他の国のものと違うほどその特長を示します。「ちゅうかあ」(酒注)とか「まかい」(碗)とか、「わんぷう」(鉢)とか、「からから」(口附徳利)とか、「じいしいがみ」(厨子甕)とか方言で呼ばれますが、言葉のみではなく、その形において、釉において、色において、模様において、皆沖縄のものであることを語ります。用いる手法も大変に変化が多く、白や黒の無地はもとより、染附もあり赤絵もあり、それに珍らしく線彫で模様を出します。この窯のは筆使いも活々していて、こなれた絵を自在に描きます。用いる釉薬は他に例がなく、珊瑚礁から得られる石灰と籾殻とを焼いて作ります。おっとりした調子で、白土の上にでも用いますと、支那の宋窯を想わせます。工人たちはいずれもよく伝統を守って、仕事を乱しません。かえって土地の人たちは自国の焼物を粗雑なものとして卑下していますが、多くの日本の窯場の中でも、最も美しいものを焼いている個所の一つに数えられねばなりません。また窯場の村としても大変に美しく、訪ねる人は、受ける印象を鮮かに胸に残すでありましょう。沖縄の人たちはもっと自信を持って、故郷の品を誇りとして用ゆべきであります。
この国はまた漆器を以ても名を高めました。堆金といって模様を高く盛り上げるものや、沈金といって逆にそれを沈めたものや、また螺鈿といって貝を嵌め込んだものなどを作ります。塗りが手堅く容易に剥げないのを以ても聞えます。特に朱塗は評判を高めました。面白いことに地塗に泥土と豚の血とを交ぜて用います。血は凝結して膠のような役を勤めます。一種の秘伝ともいいましょうか。しかしこれは上塗の赤い朱の色とは関係がありません。血は黒くなるものであります。様々な塗物が出来ますが、特に珍らしいのは茶盆の類で、足附のものや、ごく低い巾広の縁を持ったものなどは沖縄だけのものであります。箪笥も特色のある美しい溜塗のがあります。その他厨子、箱、笥などにもしばしば見事なものを見ます。いずれも廃れかかっていますが、何故土地の人々はこういう品をもっと自慢しないのでしょうか。
島尻に糸満という漁師町があります。暮し方が違うので、風俗も違い持物も違います。臼だとか船枕だとか煙草入だとか、立派な形を木から刻み出しますが、中でも見事なのは舟で用いる垢取で、思わずその形の美しさに見とれます。材は松を用います。同じく木工品で注意してよいのは那覇で作る下駄でありまして、歯が下に張った形のものであります。鼻緒に好んで棕櫚を用いますが、昔の様式を残した珍らしい下駄であります。履物の類では同じ町に見かける阿檀葉の草履を挙げねばなりません。よく燻して海水で洗いますが、これを繰り返すこと二十年にも及ぶものがあります。嘘のような話ですが、年を経て茶色の濃くなったものは事のほか美しく、まるで茶人のために作られたかと思うほどであります。その他編笠の類や、竹笊や帚などにも、大変面白い形のものを見かけます。子供の玩ぶ太鼓にも珍らしい出来のがあり、また女の児が遊ぶ手毬にも美しいものを見かけます。多くは黒地に色染にした木綿糸でかがって紋様を出します。玩具の類も沖縄は沢山美しいものを生みましたが、これは最近に見かけなくなりました。蛇味線の音楽が盛で、楽器作りにも技を示しますが、それに用いる爪の形は、見とれるほど立派なものであります。牛角や象牙で作ります。
この島のものは実に見厭きません。もとより古い城址や寺院や廟や神社や、それらの建物には、忘れ得ぬ数々のものがあります。またそこに施された彫刻も優れた作が多く、長く歴史にその跡を止めるでありましょう。石灯などにも実に見るべきものが多いのであります。沖縄の墓は壮大で誰も一度見たら忘れられないでありましょう。その他芝居や踊や音楽は日々行われ、それが地方的なものであるだけ、また古い歴史を持つだけ、大切なものであるのはいうまでもありません。まして美しいのでありますから。民謡に至ってはことのほか秀で、八重山の如きは唄の国とでもいいましょうか。唄に生れて唄に死す島であります。沖縄の島は小さくとも、美の国においては大いなる島と呼ばれているでありましょう。
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私たちは日本国中を訪ね、ここに一渡りの旅を終りました。そうして幸にも数々の優れた品物が、各地に今も続いて作られている事情が分りました。これらの事実を祖国日本のために祝おうではありませんか。もし私たちが見た色々のものが、仮りに日本から消え去ったとしたら、どんなに日本の姿がみすぼらしいものになるでありましょう。固有のものがなくなって、どこにも特色のない粗悪なものばかりが殖えてしまうからであります。私たちはそうなった生活を誇るわけにはゆきません。私たちの願いは、日本人が出来るだけ日本独特のものを生み、これを用いて暮すことであります。国民の生活にはかかる悦びがなければなりません。このことに対し私たちが長い旅で見届けてきたものは、どんなに吾々を気丈夫にさせるでありましょう。
もっともその中のあるものは、周囲の事情に押されて、間もなく絶えようとしています。あるものは反省が足りないため、間違った方向に誘われようとしています。あるものは立派な技を、無駄なことに費したりしています。何が正しい品物なのかを識らないからに因ります。またある場合はよい仕事を続けたいと思いながらも、粗末に作ることを強いられてしまいます。主に経済的原因から、それを余儀なくされているのであります。これらのことを顧みると、どうしたら手仕事を安全に持続させまた発達させるかということは、国家にとって大きな課題だといわねばなりません。
各地に見られた手仕事は、いずれも遠く深い伝統の上に立っているのでありますから、一度倒れると再び起き上ることはむずかしいと思われます。伝統は丁度大木のようなもので、長い年月を経て、根を張ったものでありますから、不幸にも嵐に会って倒れてしまうと、再び旧のように樹ち直るのは容易なことではありません。起し得たと思っても前ほどの勢いはなく、ついには枯れてしまう惧れがありましょう。ましてそれに代るものは、易々とは得られません。しかも大木には名木が多いのであります。私たちは大切な伝統を粗末に扱うようなことをしてはなりません。それは故国に叛くようなものであります。私がこの旅日記を書きましたのも、日本に伝わる手仕事を大切にする根本の方策が、定まるようにと希うからであります。
もとより伝統を尊ぶということは、ただ昔を繰り返すということであってはなりません。それでは停滞を来したりまた退歩に陥ったりしてしまいます。伝統は活きたものであって、そこにも創造と発展とがなければなりません。樹木は育ち来り、また育ちゆく樹木であります。吾々が伝統を尊ぶのはむしろそれを更に育てて名木とさせるためであります。伝統の生長こそは、国家を大きくしまた強くする所以であります。もとよりその生長は、いつでも正しさや深さや美わしさを目標として進むべきなのは言うを俟ちません。私は品物の世界において、尊ばねばならぬどんな伝統が我国にあるかを探り求めたのであります。それが明になったからには、それを更に健かなものに育てる任務だけが吾々に残されているのであります。
さて今や旅を終えて、それらの固有な手仕事を見るにつけ、色々省みねばならぬことがあるのを気附きます。ただ郷土的なものであるとか特色あるものであるとかいう判断で終ってよいものでありましょうか。私たちはもう少し深く立ち入って、何がそれらのものに正しさや美しさを与えているのかを見極めねばなりません。考えねばならない大切な点が三つあると思います。第一はそれらのものを作った人たちのことであります。誰がかかる立派なものを作っているのでしょうか。考えますと彼らは別に学問とてはない職人であったり農民であったりします。ですがどうして彼らによって優れた伝統が保たれているのでありましょうか。どういう力が彼らによき仕事を果させているのでありましょうか。これこそは省みられねばならぬ最初の問題でありましょう。第二はそれらの品物が持っている性質のことであります。何がそれらのものに確実さや美しさを与えているのでありましょうか。考えますと彼らは実用品であって、別にこれとて美しさを目当に作られたのではありません。どうしても実用という世俗的な面に交ってゆくものであります。それなのに何故美しくなるのでありましょうか。考えさせられる第二の問題であります。第三にはそれらの品物が持つ美しさのことについてであります。美しさも様々なものがありましょうが、どんな性質の美しさがそこに現わされているのでありましょうか。またどんな性質の美しさであるが故に尊いのでありましょうか。これらのことを考えることによって、品物への理解は深まるでありましょう。
私がここで答えようとするのは、如何に職人たちが伝統の世界で大きな働きをしているか、またなぜ彼らにそんな力があるのであるかということであります。次にはどうして実用品に美しさが約束されるのか、否、用途に交ってこそ現れてくる美しさがあるのを、明かにしようとするのであります。そうして最後には、それらがどうして尊ぶべき美しさなのか。結局は健全な美しさなるが故だという事実、更に進んでは健康なものが一番本当の美であるという真理。私はこれらのことを語ってこの本を結ぶべきだと思います。
興味深いことには、方々で廻り会ったそれらの品物は、それがどんなに美しい場合でも、一つとして作った人の名を記したものはありません。時として何地名産とか、何々堂製などと貼り紙の附いている場合もありますが、個人の名は何処にも記してありません。
ところが近世の「美術品」と呼ばれているものを見ますと、どれにも皆銘が書き入れてあります。または落款が押してあります。銘というのは作り手の名であり、落款というのはその名を記した印形であります。仮令どんなつまらない作品にも、何某の作ということが記してあります。
ここに面白い対比が見られます。一方は名など記す気持がなく、一方は名を書くのを忘れたことがありません。なぜこんな相違が起るのでありましょうか。要するに一方は職人が作るものであり、一方は美術家が生むものだからであるといわれます。前者は多くの人たちの作り得るものであり、後者はある個人だけが作り得る作品だからであります。しかしこのことは、とかく前者を卑しみ、後者をのみ尊ぶ風習を醸しました。なぜなら職人の作ったものは平凡であり、美術家の作るものは非凡であると思われるからであります。どんな品物も銘がない場合に、その市価が落ちるのは常に見られる現象であります。ですがこういう見方は果して当を得たものでありましょうか。
私たちは無名の職人だからといって軽んじてはなりません。大勢の工人たちが作り得るものだからといって、蔑んではなりません。なぜなら仮令彼らが貧しい人々であり、作るものが普通のものであろうとも、大きな伝統の力に支えられていることを見逃すわけにゆきません。彼ら自身は小さくとも、伝統は大きな力であります。それが彼らに仕事をさせているのであります。のみならず彼らの多くは辛棒強く年期奉公を経て、腕を磨いてきた工人たちであります。その腕前には並ならぬ修行が控えています。どんなに平凡に見えても、誰にでもすぐ出来る技ではありません。それに仕事を疎にしないのは、職人の気質でさえありました。
それ故彼らにも仕事への誇りがあるのであります。ですが自分の名を誇ろうとするのではなく、正しい品物を作るそのことに、もっと誇りがあるのであります。いわば品物が主で自分は従なのであります。それ故一々名を記そうとは企てません。こういう気持こそは、もっと尊んでよいことではないでしょうか。実に多くの職人たちは、その名を留めずにこの世を去ってゆきます。しかし彼らが親切に拵えた品物の中に、彼らがこの世に活きていた意味が宿ります。彼らは品物で勝負をしているのであります。物で残ろうとするので、名で残ろうとするのではありません。
彼らの多くは教育も乏しく、識見も有たない人たちでありましょう。しかし正直な人であり信仰の人であることは出来たのであります。自分独りでは力が乏しかったとしても、祖先の経験や智慧に助けられて、力ある仕事を為し得たのであります。伝統への従順さは彼らの仕事を確実なものにしました。彼らがもし自分の力にのみ便って歩いたら、きっと踏みはずしたり躓いたりしたでありましょう。荒波を一人で漕いで横切ることは、難しいからであります。ですが他力に任せた時、丁度帆一ぱいに風を孕んで滑かに走る船のように安全に港に入ることが出来たのであります。私たちは自力の道のみが道でないことを知ります。工人たちはわが名において仕事をする美術家たちではありませんでした。しかしわが名を棄ててかかる彼らの道にも、驚くべき仕事が保障されていることを知らねばなりません。この世では貧しい職人たちも、美の国では高い位を得ている場合が、決して少くないでありましょう。
この世の人たちは、名を記す必要のない品物の値打ちを、もっと認めねばなりません。そうして自分の名を誇らないような気持で仕事をする人たちのことを、もっと讃えねばなりません。そこには邪念が近づかないでしょう。ですから無心なものの深さに交り得たのであります。この世の美しさは無名な工人たちに負うていることが、如何に大きいでありましょう。
さてかかる工人たちが作る品物は、どんな性質を有つのでしょうか。何より著しい点は、どれも実用を旨として作られているということであります。用いられるために作るのでただ眺めたり楽しんだりするためのものではありません。ここでも実用的な工藝品と、鑑賞的な美術品とは、性質が大変違うのを見られるでしょう。鑑賞というのはその美を眺め味うことであります。用いる工藝と眺める美術と、この区別があるため、とかく後者は前者よりも高尚なものとせられました。そうして実用に交る品物の如きは、位の低いものと評されて来ました。なぜなら実用品は純粋に美を現したものではなく、用途に縛られたものに過ぎぬと考えられるからであります。その結果美はかえって生活から離れた世界にこそあるものだと信じられるに至りました。
しかし生活の中に深く美を交えることこそ大切ではないでしょうか。更にまた生活に交ることによって、かえって美が深まる場合がないでしょうか。むしろかくなる時に、美しさが確実なものになりはしないでしょうか。果して生活から離れた時に、美が高まってくるでしょうか。日々の生活こそは凡てのものの中心なのであります。またそこに文化の根元が潜みます。人間の真価は、その日常の暮しの中に、最も正直に示されるでありましょう。もしも吾々の生活が醜いもので囲まれているなら、その暮しは程度の低いものに落ちてしまうでありましょう。いつか心はすさみ、荒々しい潤いのないものに陥ってしまうでありましょう。一国の文化はその国民の日々の生活に最もよく反映されます。生活を深いものにするために、どうしてもそれは美しさと結ばれねばなりません。これを欠くようでは全き生活はついに来ることがないでありましょう。
さて生活と美しさとを結ばしめる仲立は、実に用途のために作られる器物であります。それ故日々用いる器物がどんなに美の世界で大切な位置を占めるかが分るでありましょう。これが醜かったら生活に親しさや温みはなくなるでありましょう。たとえ当り前な平凡なものに思われても、人間の生活に大きな役割を有っていることが分ります。
不幸にも今までの多くの人たちは、実用というと何か卑しい性質のもののように考えました。そのため実用品を「不自由な藝術」と呼びました。実用ということに縛られているからであります、自由な美術を尊んだ時代に、不自由な工藝が軽く見られたのも無理はありませんでした。
しかし考え直すと不思議なことでありますが、かかる不自由さがあるために、かえって現れて来る美しさがあるのであります。色々な束縛があるために、むしろ美しさが確実になってくる場合があるのであります。なぜでしょうか。実は不自由とか束縛とかいうのは、人間の立場からする嘆きであって、自然の立場に帰って見ますと、まるで違う見方が成立ちます。用途に適うということは、必然の要求に応じるということであります。材料の性質に制約せられるとは、自然の贈物に任せきるということであります。手法に服従するということは、当然な理法を守るということになります。人間からすると不自由ともいえましょうが、自然からすると一番当然な道を歩くことを意味します。それ故、かえって誤りの少い安全な道を進むことになって来ます。ここで不自由さこそ、かえって確実さを受取る所以になるのを悟られるでしょう。
これに引きかえ人間の自由はとかく我儘で、かえってこれがために自由が縛られることがしばしば起ります。それ故人間の自由に任せるものは、とかく過ちを犯しがちであります。人間は完全なものでないからであります。これに反して自然は法則の世界でありますから誤りに落ちることがありません。仮令誤りが起るとも、罪からは遠いでありましょう。実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を越えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡てかかる大きな他力であります。かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せ切る時、新たな自由の中に入るからであります。これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を甞めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少いのはこの理由によるためであります。
それ故実用こそはかえって美しさの手堅い原因となります。ただに実用に交るものに美しさがあるのみならず、用途に結ばれずば現れない美しささえあるのであります。実用性が美しさを涜すどころか、かえってそれがために美しさが確実になることが多いのであります。この世が美しい国となるために、実用品こそは大きな役割を背負っているのであります。美と用とは叛くものではありません。用と結ばれる美の価値は非常に大きいのであります。
それでは職人たちが用途のために作る品物はどんな美しさを示すでしょうか。私たちは手堅い手仕事の中から、どんな美を汲み取ったのでしょうか。
役立つということは仕えることであり、働くことであります。実用品は一家の中の働き手なのであります。裏からいえば働くことを厭うものや、働きに堪えないようなものは、実用品の値打ちがないでありましょう。よき働き手であってこそよき実用品なのであります。
働くものは弱い体を有ってはいられません。また不親切な心を有ってもいけません。じきに毀れたり破れたり剥げたり解けたりするようなものでは役に立ちません。荒い仕事にも堪えるだけの丈夫な体と、忠実に仕えたいという篤い志とを兼ね備えていなければなりません。これらの性質に欠けるなら、よい品物と呼ぶことは出来ないでありましょう。それ故品物の良し悪しを定める標準は、それがどれだけ健かな心と体との持主であるかを見ればよいわけであります。この点で品物だとて人間と変るところはありません。
ここで私たちは美しさの一つの目標を捕えることが出来ます。工藝の美しさは当然どんな性質のものでなければならないのでしょうか。どんな美しさが、品物の持つべきはずの美しさなのでしょうか。それは結局「健康」の二字に尽きるでありましょう。美しさにも色々あります。どれでも美しい限りは尊ばれてよいでありましょうが、しかしそのあるものは社会を幸福にさせ、あるものは生活を暗くさせます。それ故多くの美しさの中から、何が一番正しい美しさなのかを選び出さねばなりません。ただ美しいからといってこれに溺れてはならないでありましょう。美しさに対しても、正しさは要求されねばなりません。
それではどんな性質の美しさを一番尊んだらよいのでしょうか。それは結局「健康な美しさ」ということに帰って来ます。どんな性質の美しさも、「健康」ということ以上の強みを有つことは出来ません。なぜかくも「健康さ」が尊いのでしょうか。それは自然が欲している一番素直な正当な状態であるからと答えてよいでありましょう。
医学は人間の生理を健康な状態にしようと努力する学問であるともいえます。私たちが病気になって苦しむ時、私たちはしみじみと健康の有難さを感じます。医者の凡ての意志は、病人を再び健康に戻そうとするにあります。または病気に犯されないように準備することにあります。健康の何よりの特色は、それが一番自然な本然の状態であるということであります。健康に暮すということが、自然自らの意志に適ったことなのであります。それ故医者がその智慧と技術とを傾けて、人々を癒そうとする如く、吾々もまた美しさの性質を出来るだけ健全なものに育てねばなりません。これが一国の文化そのものを健かなものにする所以であるのは言うを俟たないでありましょう。
健康の反対は病気であります。それ故何かの意味で病気にかかっているものは取除かれねばなりません。それは人類の幸福を保障するものではないからであります。病気は色々あるでしょう。弱々しいことや、神経質なことや、たくらみの多いことや、角のあることや、冷いことや、それらは皆健康な状態にあるものとはいえません。私たちはそういう性質のものを、美の世界からも追払わねばなりません。健康な美しさを選ぶことこそ、作り手や使い手の務めであります。否、健康なものとならずば、真に美しいものとはならないのであります。種々なる美しさの中で健康な美しさ以上に、この世に幸福を齎らすものは決してないのであります。
健康ということは無事であることであり、尋常であることを意味します。一番自然な正当な状態にあることであります。この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であることを知らねばなりません。凡ての美はいつかここを目当に帰って行くのであります、「正常」というと何か平凡なことのように取られるかも知れませんが、実はこれより深く高い境地はないのであります。昔南泉という支那の偉い坊さんが、仏心とは「平常心」に、ほかならぬと説きましたが深い教えだと思います。
それに有難いことには、健康な性質の品物は、自から単純な形を取ることであります。もし複雑な姿をしなければ美しくならないとするなら、どんなに都合が悪いでしょう。しかしこの世には感謝すべき仕組みが用意されているのであります。込み入った装いのものよりは、単純なものの方に、かえって美しさが豊に現れるようにしてあるのであります。この仕組みをどんなに有難く思ってよいでしょう。何も複雑なものが直ちに醜いものとはいえないでしょうが、単純なものの方に恵みは多く降り注がれているのであります。単純さと健全さとは極めて深い間柄にあります。日本で深い美の姿として、いつも讃えられる「渋さの美」は、要するに単純な姿を離れては存在しないのであります。
私たちは健康な文化を築かねばなりません。日本を健康な国にせねばなりません。それには国民の生活を健全にさせるような器物を生み育て、かかるものを日々用いるようにせねばなりません。器物は種も数も夥しいだけに、これらのものを健全なものとすることは、社会への絶大な貢献であります。幸にも私たちの旅は、如何に日本に多くの健康な品物が、今も人々の手で作られつつあるかを報らせてくれたのであります。それらのものの価値は結局生活に忠実な健全な性質を有っているということに他なりません。日本にはかかるものが豊にあるのであります。こういう恵まれた事情を更に活かすことこそ、国民の務めではないでしょうか。健全な固有な日本品を用いて暮すことこそ、吾々の何よりの悦びであり誇りではないでしょうか。そうしてこのことが可能だということを、この本は読者に保障しようとするのであります。
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この一冊は若い方々のために、今までよく知られていない日本の一面を、お報らせしようとするのであります。ここでは手仕事に現れた日本の現在の姿を描くことを主眼としました。それは三つのことを明かにするでありましょう。
第一は手仕事が日本にとって、どんなに大切なものだかを語るでしょう。固有な日本の姿を求めるなら、どうしても手仕事を顧みねばなりません。もしこの力が衰えたら、日本人は特色の乏しい暮しをしなければならなくなるでありましょう。手仕事こそは日本を守っている大きな力の一つなのであります。
第二に、この一冊は日本にどんなに多くの手仕事が今なお残っているかを明かにするでしょう。昔に比べたらずっと減ってはいますが、それでも欧米などに比べますと、遥かに恵まれた状態にあることを見出します。それ故この事実を活かし育てることこそ、国民の賢明な道ではないでしょうか。
第三には地方的な郷土の存在が、今の日本にとってどんなに大きな役割を演じているかを明かにするでありましょう。それらの土地の多くはただに品物に特色ある性質を与えているのみならず、美しくまた健康な性質をも約束しているのであります。私たちはそれらのものを如何に悦びを以て語り合ってよいでありましょう。
吾々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、日本の姿を見守らねばなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒まさせてくれるでありましょう。ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、他の国のものを謗るとか侮るとかいう意味が伴ってはなりません。もし桜が梅を謗ったら愚かだと誰からもいわれるでしょう。国々はお互に固有のものを尊び合わねばなりません。それに興味深いことには、真に国民的な郷士的な性質を持つものは、お互に形こそ違え、その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます、この意味で真に民族的なものは、お互に近い兄弟だともいえるでありましょう。世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学びます。
私はここにお報らせした品々を調べるために、ほぼ日本全土を旅し、ここに廿年近くの歳月を重ねました。記した品物のほとんど凡ては私が親しく眼で見たものでありますから、ただ文献による記述よりは、活きた実状を伝えているかと思います。もっともそのうちの幾許かは早くも絶えてしまったかも知れませぬ。移り変りの激しい昨今では、その憂いがなお深いのであります。今後これを守り育てまた高めるには、日本人が日本固有のものを敬うその情愛と叡智とに便るよりほか仕方ないのであります。私は多くの人々がかかる心を養うために、この本がよい案内書となることを望んでいます。不思議にもこの種の本は、今まで誰の手によっても書かれたことがありませんでした。それ故ほんの手引になる小冊子に過ぎませんが、相応の役目は果すことが出来るかと思われます。
数え挙げた品はもとより洩れなく凡てに行き渡っているのではありません。しかし主なものや特色あるものは、ほぼ示しましたから、これで日本の手工藝の現状をあらまし知ることは出来るでありましょう。ただ注意して頂きたいのは、この本はけじめもなく現在の品物を列べ数えたのではなく、正しい美しさを持つもののみを顧みたことであります。それ故雑然とした記述を避け、一定の目標を立てて取捨選択を施してあります。私は何が信頼し得べき品であるかを読者に語る義務を感じました。郷士的な実用品を主に取扱いましたから、玩具の如き類はわずかの例に止めてあります。また伝統的なものを主な相手としましたから、個人的な作品は省きました。列挙しました品物の多くは、幸にも東京都駒場に在る「日本民藝館」の陳列に見ることが出来ますから、親しくそこを訪われて、実物に交られることを望みます。
この本には挿絵として沢山の小間絵を入れましたが、いずれも芹沢介君の筆になるものであります。これで本文がどんなに活かされているでしょう、感謝に堪えませぬ。またこの本の出版に関し書肆から受けた厚誼に対し、厚く謝意を伝えたく思います。
昭和十八年正月中浣
於函嶺強羅
柳 宗悦