ちょうど科学者が少しでもこの世を真理に近づけたいと仕事にいそしむように、私は生きている間に少しでもこの世を美しくしてゆきたいと念じている者です。宗教家の身になれば、どうかして神の国をこの世に具現したいとねがうでしょう。同じように私は美の国をこの世に来したいばかりに、様々なことを考えまた行おうとしているのです。
 それならどうしたら美によって義とせられる国が実現されるか。このことを用意するためには、どうしても二つのことが根本になると思われます。第一は何が正しい美なのかを明らかにしておかねばなりません。いわば美の標準を定めることです。これがなければ進むべき方向が分らなくなるでしょう。それもあたう限り物に即してその標的を示すことが肝要に思われます。基準は具体的であることがさらに望ましいのです。抽象に止っては活きた力をもたらし難いからです。
 第二にはどうしたらかかる正しい美しさでこの世を広く潤すことができるか。それを実現し得る道筋を見出さねばなりません。それには美が量に交る必要がありましょう。ですがたくさんできるものが果して美と結び合うかどうか。そのことがまず以て明らかにされねばなりません。もし不可能なら吾々の希望は果敢はかない夢に過ぎなくなるでしょう。
 私はこれ等の真理を明らかにするために、無数の品物を顧みました。そうしてそこから何が正しい美しさなのかを学ぼうとしました。かくして長い間の経験と反省とはついに一つの結論に私を導いたのです。それはこうでした。美のことについては今までは誰も美術にのみ注意を傾けましたが、美の密意を解くためには、工藝がいかに大切な鍵を与えるかを悟るに至ったのです。そうしてその工藝の中でも民藝が、すなわち民衆的工藝がいかに美の国を来すために、重要な役割を勤めるかを切実に感ずるに至ったのです。のみならず何の摂理か、美の健康さが最もゆたかにそこに見出されることを知ったのです。しばらくの間、私のこの信念について心を開いてよき聴手となって頂けたら幸いに思います。

 様々な作物を前に置いて眺めると、大体これ等のものが二つの種類に分れていることを気附かれるでしょう。もっとも時代をさかのぼればこの区別が薄らいできますが、近世になるとはっきり左右に分かれ、しかもそれ等に位の差さえできてしまったのです。
 一つは貴族的な品物で、少数の富者のために作られるもの。ぜいつくすので高価であり、手間がかかって少量よりできませぬ。何がな立派なものを作ろうと意識を働かせ技巧を凝らしますから、華麗なものとなります。それ故装飾が複雑になり、色調が多彩となり、形態が錯綜してくるのは止み難い結果です。一方これとは性質が逆な民衆的作物が眼に映ります。一般公衆のために備えるもの故多量にまた廉価に作らねばなりません。それには簡単な手法や工程をいつも必要とします。のみならず用途を眼目とするのでできるだけ不要な装飾を省かねばなりません。その結果必然に質素なまた単純な性質をつものが多くなります。
 さてこれ等二つのうち何れが美しさで優るかというと、今日までは云うまでもなく貴族品を尊んできたのです。安ものの民器など省みる者はほとんどありませんでした。これも道理であって、一方は金をかけ技を凝らした上等の品でありますから、その美しさを疑う者はなかったのです。まして多くは名工と呼ばれる人達の作物ですから、いやが上にも信頼を得ました。これに比べ、もともと美を目当に作らない品、安いざらにある品が平凡極まるものに思えたのも当然です。それどころか下等な下品な品と思われ、その美しさを省みる者とてはなかったのです。第一そんなものに美しさがあるとは考えられないことだったのです。ですから美の標準は貴族的な品に置かれていました。
 常識はこれで筋が通るわけですが、この批判は果して物をじかに見てのことでしょうか。概念的な判断ではなかったでしょうか。技巧と美とを混同しているからではないでしょうか。無名な職人達への侮蔑に由来するのではないでしょうか。

 ここで私一個人の考えを述べるよりも、私達が皆幼い時から聞いてきた道徳や宗教の教えを省みてみましょう。幾多の聖者や賢人達が教えたことですから決して間違いはないのです。それに依れば奢る者より質素な者の方が神の意に適っているのです。富者は天国に入ることが難しいと云います。自我に高ぶる者より謙遜けんそんな者の方が慕わしいのです。徳と交り易いからです。道は異常なものにはなく平常心にあると云います。事なき境地に在る者こそ貴い人だと云われます。技巧よりも無心がもっと大きな働きをなすのです。閑居する者は不善に染まり易く、働く蜂には悲しみの時間がないと云います。
 もしこれ等の教えが真実であるなら、貴族的なものに病いが多く、かえって民衆的な品に健康さがあるのは必然な理ではないでしょうか。温室の花は虫に犯され易く、野の花は雨風にもよく堪えるのです。平凡なものだからといって直ちに蔑むのは正しい見方ではないでしょう。それは決して直観が吾々に示してくれるまともな事実ではないのです。品物だとてきた人間にたとえられていいのです。質素な器物が徳から遠いものだと考えることはできないのです。人間が正しくなる道と物が美しくなる道と、相矛盾すると考えることはできません。私達は貴族的なものよりも民衆的なものの中に、もっと無事な安全な健康なものが多いのを知るに至るでしょう。何もすべての貴族的なものが悪いと云うのではありません。ですがその性質にいかに危険なものが多いかは明かな事実なのです。同じようにすべての民藝品が皆いいわけではありません。しかしいかにそれ等のものが健康さと結ばれ易いかを見逃してはならないのです。私達はここで貴族的だという性質が何も美の標準とはならないことを、よく了解しなければならないのです。

 もっとも私はこれ等のことを理論から言い張るのではないのです。物をまともに見て、与えられた真理を述べているに過ぎないのです。美の問題は物に即さずば成り立たないと云ってもいいのです。美しい物を離れた美しさということは、弱々しい思想の影に過ぎないでしょう。美しさへの知識は美しい物への直観と結ばれない限りは、抽象的な論理に落ちてしまうでしょう。
 さて様々な品物は私に何を見せてくれたでしょうか。その中から美しい品々を拾い上げた時、そこには貴族的なものも民衆的なものも共に見出されました。しかし次の三つの明かな事実を見逃すことはできなかったのです。
第一 今まで多くの人々から信頼を受けた貴族品には、真に美しいものはかえって少ないという事実。
第二 これに反して今まで無視されてきた民藝品には、美しい品が豊富にあるという真理。
第三 貴族品の中で美しいものは、大概は素材や手法が未だ単純であった古作品に多く、したがってそれ等のものは民藝品を美しくしているのと同一の法則のもとで美しくなっていること。
 それで私の見た事実は次の如きことに帰着しました。道徳と同じように、自然さとか謙虚とか質素とか単純とかいうことが、美を育てる根本的な要件であるということです。なぜ民藝品に美しいものが多いか、それは必然にこれ等の性質をち易いからと説いていいでしょう。これに反し貴族品にいいものが稀なのは、それ等の性質を欠き易いからと考えて、充分理由が通るはずです。ですから私達はむしろ民藝品の中に一段と豊に美の標準を学び得るのです。この新しい真理こそは、美の問題に対して重大な示唆を含むものではないでしょうか。
 しかしこう私はなじられるかも知れません。直観でそう見たと云っても、直観は畢竟ひっきょう主観的な独断に過ぎなくはないか。勝手に民藝品に美しいものが多いと云っているのではないかと。
 しかし直観への否定は美の問題を全く閉塞させてしまうことに外ならぬでしょう。それは直観の性質に対する誤解から来る非難に過ぎないのです。もし独断的なら物をじかに見ていない証拠であってもともと直観ではあり得ないのです。直観は云わば概念以前であって、独断等入る時間すらないのです。直ちに見るのであって、概念で見たり偏見で眺めたりするのではないのです。もし見誤るなら充分に直観が働いていないからです。もともと美は見ることなくしては知ることはできないのです。知ることから見ることは決して生れてこないでしょう。ちょうど活きた樹を根や幹や葉や花に分つことはできますが、切ったそれ等のものから、活きた樹を得ようとしても無益なのと同じです。美しさへの理解の基礎は直観を措いて他にないのです。

 話をまた中心に戻しましょう。私達のすべてはこの世を美しくする任務があるのです。しかしどうしたら美の国を将来することができるか。よく倫理学者や経済学者は最大多数の最大幸福ということを説きますが、美の領域でもわずかな少数のものが美しくなっただけでは何もなりません。また特別な場合にのみ存在するものが美しくなったとて美の時代は来ないでしょう。それ故少量の特別な貴族品が栄えるより、数多くできる民藝品の隆盛が極めて重要な意味をもたらすわけです。
 ここで量を求める工藝品が、美の領域においていかに大きな社会的意義をつかを知られるでしょう。たくさんできるということは大きな名誉であって恥辱ではないのです。稀有な美術品をのみ尊ぶ習慣は、決して正当な健全な見方ではないのです。美しさを公衆の所有にすることがいかに大切だかを想いみねばなりません。ですから工藝の分野が衰頽しては美の時代は来ないのです。
 この理想を充たすためには、特に人々の生活に、それも平常の生活に美を交えしめることが最も緊要なこととなります。信者は会堂における時のみの信者であってはならないでしょう。普段の生活そのものが信仰生活であってこそ本当なのです。同じように特別な時に美を求めるより、平常の生活に美を即せしめることが何より大切です。この要求に応ずるものこそ民藝であるというのが私の答えなのです。民藝品こそ生活になくてならない用具だからです。何も民藝品ばかりが大切だと云うのではありません。しかし美の国を具現するためには、どうあっても民衆と美とを結び、生活と美とを近づけねばならないのです。その時民藝が有つ使命がいかに大きいかを了得されるでしょう。今日までこの領域の価値をほとんど全く等閑なおざりにしてきたのは、多くの批評家多くの美学者達の無理解によるのです。

 ですが在来の考えの如く、もし民藝品が価値に乏しいものであり、独り貴族品のみが優れたものであるとしたら、いかに大きな悲劇でありましょう。なぜならわずかよりできない貴族品だけでは美の国は到底とうてい実現されないからです。贅沢ぜいたくな高価な品物のみが美しいなら、大衆と美とは全く交渉がなくなるからです。まして無数にある民藝品がもしも宿命的に美から遠のいたものであるとするなら、この世は結局醜さに包まれて終るでしょう。
 しかし何の摂理か、かえって多数な廉価な民藝品に美しいものが豊富にあるのです。民藝品であると云うことと美しい作物であるということとには、密接な関係が潜んでいるのです。そうしてそれ等のものに美の標準をすら学ぶことができるのです。ちょうど一文不知いちもんふちの者にかえって信心の精髄が宿るのと同じなのです。そうして下根の凡夫にかえって救いが誓われているあの他力の妙理がここにも見られるのです。凡庸な民器と見過ごされがちな品々に、豊な美が契われているとは、何たる大きな福音でしょうか。これあるがために美の国の具現に対し私は燃ゆる希望を抱くのです。たとえ幾多の難関や障壁が前によこたわるとも、この事実と信念とは人間の希望をいつも引き立たしむるでしょう。民藝への正しい理解がいかに美の問題にとって大切であるか、このことが多くの人々に了解される日の来るのを信じたく思います。私達はただ言葉ばかりではなく、物を通してじかにこの真理をべ伝えるために「民藝館」を興しました。私達は多くの読者がそこに足を運ばれ、美についての幾多の真理を想いみてくださる日のあることを望んで止まないのです。心を虚しくされるなら、品々はこの上なき真理を貴方がたに囁いてくれるでしょう。

 それに民藝品が特に注意されねばならない大事な理由の一つは民族性や国民性が一番率直にこの領域に現れてくるからです。さきにも述べた通り、様々な工藝の中で最も吾々の日常生活に深い交りをつものは民藝です。民藝こそは国民生活の一番偽りなき反映なのです。それもまがうことのない具体的な形をとる表現なのです。それ故民藝の興隆こそは、国民の文化を固有なものたらしめる力なのです。もし民藝が衰頽するなら、やがて国家はその特質を喪失するに至るでしょう。
 かかる国民的性質に充ちた民藝が、自から手工藝と結ばれ易いのは必然なのです。なぜなら機械工藝は科学的原理に依るために、各国とも多かれ少かれ共通な道を進みます。それがために国民的色彩が乏しくなってくるのは止むを得ないのです。これに反し手工の道は土地の伝統や材料に依るところ大きく、必然に民族的な特色を鮮かに示してくるのです。そうしてかかる民藝が都市よりも地方に根強く残っていることは云うまでもありません。近時地方文化の価値が再認されてきましたが、それは特色ある国家を再建するために、是非ともなければならない基礎なのです。国家はその独自な表現を今や地方の民藝に托していると云っても過言ではないのです。民藝をおいて国民の率直なる具体的表現は他にないからです。民藝に健全なる発達を与えることこそ、独自なる国家を世界に示す所以となるのです。

 さて、以上の論旨を要約すると、単純とか健康とかいう美の目標が、最もゆたかに民藝の領域に見出せるということ。そうして美が生活に即するものは、かかる実用的な民藝をおいて他にないこと、しかも特色ある民藝こそ、民族の独自性を最も如実に表現する力であること。したがって民藝の健全なる発育と、美の国の実現とが、いかに密接な結縁を有つかを知らねばならないのです。

底本:「民藝とは何か」講談社学術文庫、講談社
   2006(平成18)年9月10日初版発行
   2009(平成21)年10月27日第5刷
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2012年6月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。