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男甲に扮する俳優
女乙に扮する女優

舞台は神戸のあるホテルの休憩室


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男と女とが茶卓を挟んで向ひ合つてゐる。

男  (煙草の煙を大きく吐き)
   たうとう日が暮れました。
   あの船では、もう夕食の鐘を鳴らしてゐるでせう。
   瀬戸内海の島々に灯が点く頃
   日本を離れる人たちの胸は
   一斉に締めつけられるのです。
女  (遠くを見つめながら)
   でも、あの人は甲板の上で
   あんなに笑つてゐましたわ。
男  僕は、あなたのお顔ばかり見てゐました。
   あなたがお泣きになるところを
   一度見て置きたかつたのです。
女  お気の毒さま……。
   潮風が眼にしみて、
   いくらか涙ぐんでゐるやうに見えたかも知れません。
   それに、あのまぶしい海の光……
   ぢつと眼をあけてゐるのさへ苦しいほどでした。
   泣くものですか。そんな……。
男  テープが切れると
   あなたは袂からハンケチを出して
   振るでもなく、振らぬでもなく
   それを肩のへんで弄んでおいででした。
女  あの人だつて
   帽子をぬいだまま
   ぢつとこつちを見てゐるだけなんですもの……。
男  ほかの見送人をごらんなさい。
   女の人で
   泣いてゐなかつたのは
   あなた一人ぐらゐのものです。
   流石は武士の妻だと
   昔なら感心するところでせうが
   今は万事
   西洋風の世の中です。
   あなたは殊に
   われわれ仲間の細君としては
   ハイカラな奥さんで通つてゐる。
   見送人下船の合図で
   涙ながらに
   御主人とお別れのキツスをされても
   一向不思議とは思はんです。
女  あたくし、あの時は
   こんなことを考へてゐましたのよ。
   ――さあ、これでいよいよ自由になつた。
   三年間は誰に遠慮もなく
   勝手に羽根が伸ばされる。
   外へ出ても
   夕御飯を支度をしに帰る世話もなく
   帯を一本買ふのにも
   相談をする面倒がない。
   あの船が
   何かの故障で
   また後戻りをしなければいいがなんて……。
男  そんなことをおつしやると
   僕、手紙で云つてやりますよ。
   ――君の細君はけしからんぜ。
   一人で寂しく
   君の帰りを待つてゐると思ふと
   それこそ大間違ひだ。
   あの調子だと
   どんなことをしでかすかわからん……。
女  さうすれば
   第一に
   あなたが変だと思はれるだけですわ。
   男の方で
   一番、あたくしと
   親しい口の利き方をなさるのは
   あなたですもの。
   今日、船が出る前に
   あなたには聞えないやうに
   かう云ふんですのよ。
   ――今晩、東京へ帰るんだよつて……。
男  それがなんの証拠になります。
   さう云へば
   あん時、先生
   僕を喫煙室の隅へ呼んで
   家内をよろしく頼むつて云ひましたよ。
   はるばる神戸まで送つて来た
   唯一人の友人として
   それくらゐ
   信用されてもいい筈です。
   奥さん……
   あなたは
   ほんたうに、どうもないんですか。
   実を云ふと
   僕は、今日
   或る重大な役目を果すつもりで
   非常に意気込んで
   あの桟橋へ出かけて行つたんです。
   黒い煙を吐いて
   悠然と
   出帆の時間を待つてゐる伏見丸の
   あの白い船室キヤビンをバツクに
   あなた方お二人の姿を
   ふと見かけた瞬間
   僕は、もう
   喉がつまつて
   「やあ」といふ声も出ませんでした。
   それは
   この世で見る
   最も悲壮な光景の一つです。
   僕は
   自分でも可笑しいほどぎごちない手つきで
   先生の手を握りました。
   そして
   あなたに、
   頗る曖昧なお世辞を云ひました。
女  (笑ひながら)
   ――どうです
   僕たちも一緒に
   独逸へ行きませうかつて……。
男  そんなに笑はないで下さい。
   僕も軍人です。
   こんな商人服は著てゐても
   心まで武装を解いてはゐません。
   あなたのお眼に
   悲しみの色を深く読むほど
   僕は
   自分のうちに
   冷やかな力を感じた筈です。
   それがどうです。
   常よりも一層明るい
   常よりも一層落ちついた
   あなたの態度です。
   まごついたのは僕です。
女  「物足りないのは僕です」とおつしやい。
男  お察しの通り……。
   そこで
   僕は
   あなたに聞かせるつもりで
   親しい友人を送る
   感動に満ちた言葉を探しました。
女  なんておつしやつたの。
   あたくし
   聴いてゐませんでしたわ。
男  よろしい。
   今、それを云つたつて
   なんにもならないから
   繰り返しますまい。
   兎に角、僕は
   船が見えなくなるまで
   ただ一人
   桟橋に立つてゐました。
女  あたくしが
   このホテルにゐるつていふことを
   誰におききになつて……。
男  昨夜、このホテルへ泊られたことを知つてゐました。
女  油断のならない方ね。
   あなたも
   今晩、お発ちになるんですの。
男  お指図に従ひます。
女  夕食を御一緒にいたしませうか。
男  望外の仕合せです。
長い沈黙。

女  自由になるつていふことと
   一人つきりになるつていふこととは
   なんだか違ふやうな気がしますわ。
男  それは違ふでせう。
女  毎日あの人と
   顔をつき合せてゐた頃は
   自由になるといふ空想が
   あんなに楽しいものでしたのに
   かうして一人になつてみると
   自由なんて
   案外、空虚なものですわ。
男  …………。
女  これから
   東京へ帰つても
   しかたがなし……。
   と云つて
   此処にかうしてゐても
   なにがやつて来るつていふ
   あてもないんですからね。
男  …………。
女  あなたが、あんまりお煙草をめしあがるから……(かう云ひながら、袂からハンケチを出して、眼にあてる)
男  どうも失礼……。(煙草を灰皿に突つ込む)
女  あたくしの顔を
   いま御覧になつちやいやよ。
男  (微笑をうかべ)僕、耳を塞いでゐます。
女  あら
   失礼なことおつしやるわ。(かういふ声は、たしかにふるへてゐる)
男  僕が欧羅巴から帰る時
   船に一人
   若い日本の婦人が乗つてゐました。
   スエズの運河にさしかかると
   何が悲しいのか
   甲板に出て泣いてゐるのです。
   まさか、あのモオヴ色の空に
   緑の星が輝いてゐるのを見たからではありますまい。
   誰もそのわけを訊かうとはしませんでした。
女  それでいいんですわ。
男  (声を落し)
   おい
   おれや、もう、いやだよ。
   先きを続けるのは……。
女  (驚いて顔をあげるが、さりげなく)
   駄目よ、そんなこと云ひ出しちや……。
   (また、ハンケチで眼を拭き)
   早くさ
   どうしたの……。
男  (突然起ち上り)
   こんな役
   誰が演るもんか
女  (歎願するやうに男の顔を見上げる)
男  (誰かの口真似をする如く)
   奥さん
   それがほんたうです。
   しかし、泣いてゐては……。
   (急に調子をかへて)
   なにを云つてやがんでえ。
   真面目で
   こんなせりふが云へるかい。
女  ちよいと
   どうしたつていふの
   あんた……。
男  どうしたもかうしたもあるか。
   君こそ
   いい気持で
   芝居をしてるだらうが
   相手のおれは
   いい面の皮だ。
   ほんとは
   悲しくないんだけれど
   夫と別れた後で
   しみじみ泣く気持になつてみなければ
   あんまり
   つまらないつて云ふんだ。
   さうとは知らず
   このおれは
   ここでとばかり慰める。
   慰めながら
   こつちも
   いやに、しんみりして来る。
   稽古の時から
   ここんところは気乗がしなかつたんだ。
   おれや、今迄
   どんな端役でも
   文句を云つた例しはない。
   女に振られる役が
   いやだと云ふんぢやないんだ。
   まんまと乗せられて行くのが
   馬鹿馬鹿しいんだ。
この時、「幕をおろせ」といふ声が舞台裏から聞える。

女  (大きな声で)
   一寸、待つて……。
   (男に)
   でも、それが
   お芝居ぢやないの。
   御覧なさいよ
   見物が
   あつけに取られてるわ。
   さ
   続けませう――
   ええ、それはわかつてますわ。
   でも、やつぱり、涙がでるのよ。
   後生だから
   もう少し
   ほうつといて頂戴……(泣く)
男  (横を向き)
   ちえッ!
   (見物席に近づき)
   諸君、聴いて下さい。
この時、急に幕が降りる。しかし、男は、素早く幕の前へ出てゐる。

男  諸君
   僕は、この芝居の役を
   続けることができません。
   赦して下さい。
   かういふ騒動を持ち上げたからには
   僕は
   この劇団を追はれるに違ひありません。
   止むを得ないことです。
女が幕の中から現はれ、男の袖を引張り、中へはひれといふ合図をする。

男  いや
   おれに
   云ふだけのことを云はしてくれ。
   僕は、俳優として
   あらゆる人物に扮することを
   敢て辞さないつもりです。
   ただ、一つ
   女の玩具になる役は御免です。
   それも
   自分で承知の上
   玩具にされる役なら平気です。
   例へば
   「チロルの秋」の
   アマノなんかはそれです。
   ところが
   今度の脚本は
   徹頭徹尾
   男が
   女の手玉に取られてゐる。
   作者は、あれでも
   何か創造を盛つたつもりでせうが
   一向、面白くもない創造で
   殊に
   男になる役者は
   芝居をしてるのが馬鹿臭くなるんです。
   今までのところは
   まだいいですが……。
この時、舞台監督らしい男が、幕の蔭から、「おい、止せつたら、止せ」と呶鳴る。

男  おれは
   おれの責任を明かにするんだ。
   今までのところは
   まだいいですが
   その先きがたまらんです。
   折角、この芝居を
   観に来て下さつた諸君に
   お気の毒ですから
   文句だけを申し上げておきます。
   (一寸考へて)
   この女が
   ――ほうつといて頂戴……
   かう云ひます。
   そこで、僕が
   ――お泣きになるのはかまはないが
   そばに僕がゐるつていふことも
   少しは考へて下さい。
女  (真面目に、白を言ふつもりで)
   ほんとに
   こんなところをお目にかけて
   すみませんでしたわね。
   やつぱり
   えらさうなことを云つても
   女ですわ……。
男  (素読するやうに)
   そんな御謙遜は無用です。
   ただ、御主人のお留守中
   僕のやうな男でも
   あなたのお力になれればと
   さう思ふだけです。
女  ええ、それやもう
   誰と云つて
   相談相手もないあたくしですから
   あなただけを
   どんなにお頼りに思つてゐるか知れませんわ。
男  ありがたう。
   長い沈黙――といふわけです。
女  もう何時でせう。
男  そんなところは
   飛ばしちまはうよ。
女  あら……
   あたし、ここんところが
   とても好きなのよ。
男  さうかうしてゐるうちに
   たうとう、僕は
   女を愛してゐるといふことになる。
   月並な告白がはじまります。
   女は、それを
   うはの空で聴いてゐる
   やがて――
女  随分大胆におなりになつたのね。
   さつき、あたくしが泣いたのを
   あなたは
   さういふ風に
   お取りになつたの。
男  ここからです。
   僕が惨めな男になるのは……
女  そんなこと云つて
   あんた
   脚本がよくわかつてないんだわ。
男  どうして……。
女  だつて
   あたしは
   女の方がよつぽど
   惨めだと思ふわ。
   先生がさうおつしやつたぢやないの
   ――これは愛することを知らない女の悲劇だつて
男  さういふ意味でなら
   これは
   恋を漁る男の
   喜劇だとも云へるぢやないか。
   喜劇なら喜劇でいいさ。
   作者は
   この人物を冷笑してゐる。
   おれは、なんと云つても
   その態度が不満なんだ。
女  そんなことは
   役者が云ふべきことぢやないわ。
男  みんなが
   さう思つてゐた時代もある。
   役者だつて人間だ。
   自分の扮する人物は
   たとひ馬鹿でも
   気ちがひでもいい。
   泥坊でも
   人殺しでも
   高利貸でも
   市会議員でも
   それはなんだつていい。
   ただ、一点
   観客の同情に訴へるものを
   もつてゐなければいけない。
女  あたし、もう行くわよ。
男  (女の手を掴み)
   待て。
   おれは、このまま
   引込んでしまひたくない。
   これが恐らく
   おれの最後の舞台だ。
   素晴らしいモノロオグの
   おとなしい聴手になつてくれ。
   抑※(二の字点、1-2-22)
   おれが役者になつた動機を
   君は知つてゐるか。
女  …………。
男  あれはたしか二十二の時だ。
   なにかの雑誌で
   カチヤロフの扮してゐる
   ハムレツトの写真を見た。
   おれは早速
   学生マントをかうひつかけ
   鏡に向つて
   ハムレツトの思ひ入れをしてみた。
   この憂鬱な王子は
   やがて
   学校をやめてしまつた。
   そして、先づ
   アントワアヌの
   自由劇場回想録を読み
   ゴオルヅン・クレイグの
   演劇論をかぢり
   新劇団五色座の研究生に応募し
   後、転々して
   この一座に舞ひ込んで来た。
幕が静かに上る。二人はそれに気がつかない。

男  おれは、果して
   自分の道を見出したか。
   おれは果して
   自分の家を見出したか。
   否
   彼等は何れも
   道楽者か
   然らずんば、商売人だ。
   おれの求める芸術の光は
   断じて
   彼等の稽古場の窓からは射さない。
   それならば、なぜ
   其処を去らないか。
   君がゐるからだ。
   ほんとだ
   君がゐるからだ。
(間)

   おれは、今、ここで
   たれ憚からず明言する――
   おれが今迄求めてゐたものは
   かのミユウズに非ずして
   実は
   ただこのヴイイナスであつたことを……。
   作者よ
   どうか僕の役を取換へてくれ。
   この脚本を書き替へてくれ。
   何れは空しい結果を見てもいい。
   せめて相手の心だけ
   早く読ましてくれ。
   瞞されるのはいやだ。
   弄ばれるのはいやだ。
女  痛いわ、そんなに揺すぶつちや……。
男  それなら
   返事をしてくれ。
   作者に代つて
   返事をしてくれ。
   君はその台詞を
   はつきり覚えてゐるかい。
女  覚えてるわ。
   だけど
   此処ぢや、いや……。
男  どうして……。
   君は何時でも
   一人でゐた例しはない。
   僕たち二人きりになつた例しはない。
   うちへ行けば
   おつ母さんが頑張つてゐる。
   楽屋では
   あのお喋りがついてゐるし
   道で遇へば
   きつと男の連れがあり
   ゆつくり話なんか出来やしない。
女  そいぢや、云ふから
   そこ放して……。
   (白を言ふ調子で)
   あたくしね
   ほんと云ふと
   あなたのお気持
   とうから、わかつてゐましたのよ。
男  (怪訝な顔をして)
   なんだいそれや……。
女  まあ、いいから……。
   こんだ、あんたの白よ。
男  (仕方がなしに)
   僕を軽蔑すべき男だと
   お思ひになつたでせう。
   おい、よさうや……。
女  (それには耳を藉さず)
   あたくしが、若し
   幸福な女だつたら
   あなたは、もつと
   無関心でいらつしやれるでせう。
男  (つまらなさうに)
   僕、あなたを、別に
   不幸な方だとは思つてやしませんよ。
女  (舞台の椅子にかけ)
   うそおつしやい。
   だつて、おわかりでせう。
   あたくし、まだ
   男つていふものを
   一度も愛したことはありませんの。
男  (勇んで)
   そんなら……。
女  ええ
   無論、あなたまで含めてですわ。
男  ああ……。
   (思はずかう叫んで、両腕を額の上に組み合はせる)
――幕――

底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「牛山ホテル」第一書房
   1929(昭和4)年11月25日
初出:「悲劇喜劇 第四号」
   1929(昭和4)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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