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人物
十倉奥造   五十
娘 汲子   二十二
和久井幕太郎 二十八
従兄亜介   三十一
平木曾根   四十


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ある結婚媒介所の見合室――二階。

洋風にしつらへた八畳の日本間――事務室とも応接室ともつかぬ家具装飾。所長平木曾根が、十倉奥造と、その娘汲子を案内してはいつて来る。

曾根  (右手の椅子を薦め)さ、お嬢さまはこちらがおよろしうございませう。あんまり明るくなくつて……。
奥造  なに、明るくつてもかまひません。明るい方が結構です。器量だけは、これでも、はづかしくないつもりですから……。
汲子  いやなお父さんね。
曾根  ですから、こつちは、お写真だけで及第ですわ。今日は、あちらをよく御覧になれるやうに、さう申し上げたんです。さ、どうぞ、お父さまは、こちらへ……。(自分も傍らの椅子に腰をおろす)
奥造  もう、いらしつてるんですか。
曾根  はあ、もう、とつくに……。あちらは、それこそ、一所懸命でいらつしやいますよ。先達せんだつても申上げましたとほり、金満家のお後取あととりだけあつて、どこか鷹揚なところがおありになるもんですから、従兄さんとおつしやる方が、いろいろ、御心配なさいましてね。今日も御一緒に見えてるんでございますよ。その方のお話ですけれど、御当人は今度の話が駄目になつたら、一生結婚はしないつておつしやるんださうです。御冗談にでもさう決心をなすつてらつしやるくらゐですから、余程お気に召したんですわ。
奥造  この間もお話いたしましたやうに、たゞの縁談なら降るほどあるんですが、当人の希望で、広くチヤンスを求めたいといふわけなんです。御商売に違ひありませんが、早く纏めようといふ御方針だけは、ひとつ、お忘れ願ひたいもんです。なるべく数多くの方に御紹介願へれば、甚だ有りがたいわけで……。
曾根  かしこまりました。でも、こちらでも、ひと通り選択はいたしませんとね。頭から問題にならないやうなお話を申上げたところで……お嬢さまの条件は、なかなかむつかしいんですからね。(眼で笑ふ)
汲子  あ、あの一番しまひの箇条に、但し書を附け加へたいんですけれど……。
曾根  あの上にですの? どんなことでせう?
汲子  そら、よくなんかしながら、鼻声で歌を唱ふ人があるでせう。あれも、あたくし、いやなんですの。
曾根  さうすると、ちよつと待つて下さい。
(次の間に行く)

汲子  (父に)洋行したつていふのは、どこへ行つたんだか、今日訊いて頂戴ね。
奥造  よし。
汲子  それから専門のこともはつきりいつてくれなけれや困るわ。会社の重役だつていつたり、研究論文を書いてるつていつたり、さうかと思ふと、これから何か事業を起すんだつていつてみたり、さういふあやふやな地位ぢや困るわ。
奥造  よし。
曾根  (現れ)失礼いたしました。(手に紙片をもつてゐる)すると、まづ第一に……(読みながら)高等教育を受けてゐること、第二に月百五十円以上の収入または五万円以上の財産あること。第三に、美貌は望まざるも、風采の貧弱ならざること。第四に、女性に対して礼儀正しきこと。第五に、快活で決断に富むこと。それから、その後へ、これを入れるんですね。――但し、鼻声で歌を唱はないこと……。
汲子  なんかしながらですわ。
奥造  どうしてそんなことをいひだしたんだ。
汲子  昨日刈部かりべさんとこへ行つたら、あの方の旦那さん、工学士でせう。それに、お隣の仕事場で製図の道具を片づけながら、ふんふん歌を唱つてるのよ。あたし、くやしくつて……だから、あゝいふ人、死んでも厭だと思つたの。
奥造  しかし、お前、さういふ細かいことは……。
曾根  つまり、癖ですわね。無くて七癖つて、誰でもそれくらゐの癖はありますよ。あたくしの亡くなつた主人なんか御承知の通り裁判所へ出てをりましたんですけれど……。
この時、襖の外で、「奥さま」といふ声がする。

曾根  えゝ。ちよつと失礼……(起つて行つて外に出る)
奥造  だが、ねえ、汲子、お前のやうに、さういふことばかしいつてたら、どんな男だつて助かりつこないよ。今までがみんなそれぢやないか。もうひと息といふところで、つまらない難癖をつける。そして話をぶちこはしてるんだ。緑町の叔母さんがいつて来てくれた人だつてさうだ。学校といひ、財産といひ、風采といひ、なに一つ申し分ない人だ。それに、一度家へ来た時、帰るつていひ出してからすぐ帰らなかつたから、あんな人は駄目だつてお前はいふんだ。あれや、お母さんが「まあおよろしいでせう」つて、引止めたからぢやないか。
汲子  さうよ。それが挨拶つていふもんよ。それくらゐのお世辞をいはれて、帰れなくなるやうな人、あたし軽蔑だわ。
奥造  (仕方がないといふやうに首を振つて)今日の人も、写真で見るとおとなしさうな人だから、かういふ場所へ出るともぢもぢするかも知れんよ。初心うぶな男は、女の前で、さう抜目なく振舞ふわけにやいかん。さういふところに、却つて見どころがあるんだぜ。
汲子  はにかみ方にも色々あるわ。教養の程度でそれが違ふのよ。
襖が急に開いて、平木曾根が現はれる。両人それとなく用意をする。

曾根  それでは只今、こちらへお通しいたしますから……。お嬢様、お支度はよろしいですか。
汲子  はあ……
曾根  (また外へ出て行く)どうも階段が暗くつて……。
汲子  (大急ぎでコンパクトを使ひ)お父さんは人の前で、あんまり、あたしを子供扱ひになさるからいやだわ。ちやんとしたことが云へなくなるわ。
奥造  わしの名刺は、肩書のある方がいゝか、ない方がいゝか。
汲子  肩書つてどんな……? 東京金物商組合理事なんていふの、ない方がいゝわ。
奥造  (紙入から名刺を出し、テーブルの上におく)
やがて、平木曾根を先頭に、和久井幕太郎、続いて、同じく亜介が現はれる。両人ともモオニングを着てゐる。

曾根  あの、こちらが……和久井わくゐさんでゐらつしやいます。こちらが、十倉とくらさん……。どうぞ、そちらへ、あなた……。
(幕太郎を坐らせるつもりの椅子へ亜介がかけてしまふ、そこで汲子と亜介が向ひ合ふことになる)

奥造  (更めてたち上り)はじめまして……わたくしはこれの父でございます。かういふもので……(名刺を二人の間へ差出す)
両人会釈してそれをのぞき込む。その間に、亜介は幕太郎の肘をつゝき名刺を出せといふ合図をする。
両人、それぞれ名刺を出して、父親の方に差しのべる。

奥造  や、有りがたう。(名刺を一緒に受け取り、それをもう一度見て)ちよつとわからなくなりましたが……あの……(と曾根の方をみて)どちらが幕太郎まくたらうさんておつしやるんでしたつけ……?
亜介  僕ぢやありません。こつちです。(隣を指さす)
幕太郎  こつちです。僕です。
奥造  あゝ、さうでしたか。(名刺と見比べて)こちらが、あなたでしたな。いや、どうも失敬しました。(娘の方に耳打ちをする)
亜介  僕は、従兄なんですが、今日は、おせつかひに介添役を引受けました。直接は申上げにくいこともあると思ひまして……。それに、この男は、少し固くなると喋れないたちなもんですから……。
幕太郎  おれがかい? 冗談いふない。
奥造  ところで、この度は、不思議な御縁で、かうしてお目にかゝるわけですが、双方腹蔵ふくざうなく、いろいろお話をしてみたいと存じます。
曾根  ほんとに、さう遊ばして……。今時、仲人なんて申しますものは、たゞ御二方をお引合せしさへすればよろしいんですから……。
亜介  それがまた、なかなか重大な役目ですからな……。
曾根  第一の運命は、それできまるやうなもんでございますからね。
奥造  (幕太郎に)失礼ですが、御洋行はどちらの方へ……?
亜介  アメリカだらう。
幕太郎  アメリカだけど、まあ、ドイツみたいなもんだ。
曾根  両方へいらしつたんでございませう。
幕太郎  僕の洋行の話なら、この男に訊いて下さい。なんでも知つてますから……。
亜介  これです。自分のことを話すのがそれや嫌ひでしてね。先生、はじめ、法律の研究にアメリカへ行つたんですが、途中で、生物学に興味をもち出して、ドイツへ渡つたらしいんです。
幕太郎  その話は、もうよせよ。
亜介  だつて、さういふことでも話さなけれや、話すことはないぢやないか。
幕太郎  おれは、お前たちの話を聞きに来たんぢやないよ。お嬢さんと二人で、二人だけの問題について話をしに来たんだ。
亜介  それや、わかつてるさ。しかし、それには順序があるだらう。
幕太郎  順序は、おれたちが決めるよ。僕は、先づ、お嬢さんに伺ひたいんですが、僕の第一印象はどうですか。
亜介  おい!
幕太郎  それによつて、僕は、進退を決します。
曾根  それは、また、いづれ後で……。
幕太郎  第一印象を、後で聞いたつてしようがありません。お嬢さん、僕と話をする気になりますか、なりませんか。
汲子  (うつむいたまゝ返事をしない)
幕太郎  たゞうつむいてらつしやるのはどういふ意味ですか。普通、肯定の意味と解釈すべきですが、それで差支へありませんか。
汲子  (うつむいたまゝ)あなたのおつしやること、あたくし、面白いと思ひますわ。
幕太郎  (どんなもんだといふ眼附をして亜介をにらむ)
奥造  うむ、面白い。たしかに面白い。
幕太郎  では、お嬢さんから、直接、なんでも訊いて下さい。お答へすべきことはお答へします。
奥造  あゝおつしやるんだから、お前からひとつ……。
汲子  みなさんがゐらしつちや、あたくし、お話できませんわ。こゝで伺へることは、伺はなくつてもいゝことばかりですわ。
奥造  それぢや、どうでせう、われわれは、しばらく……。
曾根  さやうでございますね。規則といたしましては、初対面の時、お二人きりにおさせ申すことはできませんのですけれど……。
幕太郎  それはどういふわけですか。
曾根  いろいろ弊害がございますもんですから……。
幕太郎  そんなら、かまはないぢやありませんか。この方だけにゐていたゞいて、二人の附添人は、下へ降りてゝ貰ひませう。
奥造  さうしますかな。
亜介  さうしませうか。(小声で)おい大丈夫か?
幕太郎  (そつと額の汗を拭ふ)
奥造と亜介は、席を起ち、外に出る。

曾根  やかましいことを申すやうですけれど、あしからず……。
幕太郎  かまひません。その代り、僕はあなたがゐらつしやらないもんと思つてますから……。
汲子  あたくし、一人で参るつもりでゐたんですけれど、父がどうしても一緒に附いて行くつて申しますもんですから。
幕太郎  僕の方もさうです。あの従兄の奴、少しばかり年が上だと思つて、余計な世話を焼くんです。僕は、どういふもんか、何処から話があつても、大抵は写真を見せたゞけで断られるし、たまたま見合をするまでに進むと、その翌日、相手のお嬢さんがきまつて大病になるか、義理筋から縁談をもち込まれて、残念だが、こつちの話を打ち切るといふことになる。従兄の奴がいふには、お前は、第一印象が悪いんだ。肩が下りすぎてゐて洋服は似合はないし、着物を着せると落語家の前座みたいだし……。
汲子  そんなことありませんわ。日本の方としては普通ですわ。
幕太郎  さうですか。ありがたいな。尤も、あの従兄の奴は、肩が怒りすぎてます。それはさうと、お嬢さんは、結婚の相手を、どういふ条件でお選びになりますか。
汲子  それは、あの……。
曾根  あたくしが伺つてございます。
幕太郎  僕が伺ひたいんです。
曾根  第一に、高等教育を受けてゐらつしやることでしたわね。
幕太郎  僕は中学を中途でやめて、なるほど、アメリカへ渡つて皿洗ひはしましたが、義勇兵でドイツの戦線へ送られた時、もう休戦になつてゐて、そのまゝ半年ばかり、占領地で炊事係をやつてゐました。
汲子  でも、生物学の御研究は?
幕太郎  従兄の奴、なにか感違ひしてるんでせう。その次はなんですか。
曾根  第二に、百五十円の収入、または五万円以上の財産……。
幕太郎  月百五十円……? 五万円……? 僕はどつちも今不合格ですよ、今迄に月百五十円以上の収入があつたのは、おやぢが死んだ時、香奠が集つたそれが二百円ばかりになつたくらゐのもんです。財産は、お袋の住んでる家が、時価、千五百円、これだけです。
汲子  では、毎月どういふ風になすつて……。
幕太郎  毎月はどうかわかりませんが、毎日なら、どうかかうかやつて行つてます。二人で食へるなら、三人でも食へるだらうといふ腹です。第三は……?
曾根  少しお話が違ふやうですけれど……第三は、なんでしたつけ……?
汲子  それは、もう、わかつてますわ。申し上げなくつても……。
幕太郎  あなたにはわかつてる。僕にはわからない。
汲子  おわかりにならなくつてもよろしいんです。
曾根  あゝ、さうでしたね。御風采のことですわね。
汲子  (下を向く)
曾根  それは、もう。御心配はいりませんよ。
幕太郎  一番心配なんだがなあ。これは僕の口からなんと云はうと、お嬢さんが、その眼で御覧になつて、気に入つたとおつしやるなら、致し方ありません。
汲子  (羞かんで)あら、気に入つたなんて何時申しました。
幕太郎  たいていわかりますよ。それでは、第四に……?
曾根  女性に対して、礼儀正しきことでしたわね。
幕太郎  女性に対して……? 女性といつてもいろいろありますが、どんな女性に対してゞもですか。ほかの女性には、どうでもいゝでせう。
汲子  (首を曲げて考へる風をする)
幕太郎  例へば、あなたの尊厳を擁護するために、愚劣な干渉をする女なんか、横つ面をひつぱたいてもかまはないでせう。(横目でちらと曾根の方を見る)
汲子  (うなづいて)それや、かまひませんわ。
幕太郎  その代り、あなたが、足下にひざまづけとおつしやれば、僕は、よろこんでその通りにします。(大急ぎで首筋の汗を拭く)暑いですな、この部屋は……。
曾根  少しお開けいたしませうか。
幕太郎  障子を開けても、自由な空気ははいつて来さうにありません。第五を伺ひませう。
汲子  第五は、性格に関してなんですけれど、これは、あたくしの性格から申し上げた方がよくおわかりになると思ひますわ。
幕太郎  あなたの性格なら、僕があてゝみませうか。
汲子  どうぞ……。
幕太郎  どつちかといへば強情でせう、自尊心が強いでせう。
汲子  当りましたわ。
幕太郎  それから、快活だけれど、しよげ方もひどいでせう。つまり、幾分、ヒステリツクですね。
汲子  ヒステリイぢやありませんけれど……。
幕太郎  ヒステリイぢやない。しかし、ヒステリツクです。それに嫉妬深い。
汲子  あら……。
幕太郎  違ひますか。違つたら御免なさい。嫉妬は愛の波紋といふ言葉があります。誰がいつたことだか忘れました。文学はお好きですか。
汲子  小説は、少し読みますけれど……好きなもんでなくつちや読みませんの。
幕太郎  誰でもさうだ。しかし、あなたは、好き嫌ひがひどいですね。人参を見ると泣きたくなるなんていふことはありませんか。
汲子  人参はそんなでもありませんけど……。
幕太郎  そいぢや、省線の車掌が、飛び乗りをしながら敬礼するところを見て、どうですか。
汲子  さあ……。
幕太郎  それくらゐなら、大したこともありませんね。
汲子  あたくしの一番嫌ひなのは、決断の鈍いことゝ、鼻声で歌を唱ふことですの。
曾根  それは、もうこちらは、大丈夫ですよ。
幕太郎  どうだかわかりません。なにか決断のいることをいつてみて下さい。
汲子  ……。
幕太郎  そんなら、試しに、死ねつていつて御覧なさい。それも残酷だとお思ひになるなら、二階から飛降りはどうです。
汲子  そんなことぢやないんですの。例へば人の家へ行つて帰るつていひ出しといてなかなか帰らないやうな人、あたくし、どうしても好きになれませんの。
幕太郎  僕はまだ帰るなんていひませんよ。
汲子  ですから、それでよろしいんですわ。
幕太郎  よろしいとは……? ほんとによろしいんですか? 万事よろしいんですか。
汲子  (うつむく)
曾根  では、今日は、これくらゐに遊ばして……。
幕太郎  余計なお世話です。まだ肝腎の話をしてないぢやありませんか。
曾根  肝腎のお話つておつしやいますと……。
幕太郎  結婚式の期日ですよ。
曾根  ……。
幕太郎  どうですか、汲子さん。
汲子  でも、そのことは、父とも相談いたしませんと……。
曾根  ほんとですわね。あらまし、御決心がつきましたやうですから、これから先のことは、改めて、お打合せすることにして……。では、みなさんをお呼びいたしませうか。
汲子  どうぞ……。
曾根は呼鈴を押す。女中が現はれる。

曾根  (女中に)みなさんにどうぞつて……。
幕太郎  (黙つて腕組みをしてゐる)
曾根  (汲子の耳もとで何か囁く)
汲子  はあ、それはわかつてますわ。そんな勝手なことはいたしませんわ。
曾根  事務は事務ですからね。そこはちやんと筋道を立てていたゞきませんと……。
奥造と亜介が、恐る恐るはいつて来る。入れ違ひに、幕太郎が、顔をそむけたまゝ外に出る。

亜介  おい、もう帰るのか。
幕太郎  さうぢやない。
亜介  何処へ行くんだ。
幕太郎  行きたいとこへ行くんだ。お前はいて来んでいゝ。(曾根に)下ですか。
曾根  は? あ、下でございます。どうぞ、こちらへ……。
(先に立つて案内する)

奥造  (娘に)もう、お話はすんだのか。
汲子  (素気なく)えゝ。
奥造  (何かまだ訊きたい様子だが、亜介がゐるのでそれもならず、ぢつと娘の顔を見てゐる)
長い沈黙。

亜介  蒸しますなあ。
奥造  全く。こゝはやはり閉めきつて置かんといかんのでせうな。
長い沈黙。

亜介  どうも、あの男にも困るんです。お嬢さんは、どうお思ひですか知りませんが、少し非常識なところがあつて……。実は、なんです、外国へ行つてたことは行つてたんですが、学校教育は殆ど受けてないといつてもいゝんで……。
汲子  どうして、こちらでは、外国の大学を卒業した方だなんておつしやるんでせう。
亜介  それがです。やはり、仲人口なかうどぐちといふ奴で……。
汲子  しかし、収入のことは、はつきりおつしやつてあるんでせう。
亜介  それも、こつちで、食ふだけのものは稼ぐつていつたのを……。
汲子  でも、そのことはもう、よろしいんですわ。
亜介  しかし、人物の点はどうですか。やつぱり、あなた方の配偶者としては余程へだたりがあるやうにお思ひでせう。いやこれも止むを得ません。僕は、実際、あの男のためには苦労をしてゐるんです。縁談には全く不向きな男と見えて、これはと思ふ話は、みんな向ふから断られる。見てゐると可愛想でしてね。
奥造  失礼ですが、あなたはもう……。
亜介  僕ですか。僕も、実は、まだ独り者なんです。僕としては、まだ少し時期が早いと思つてゐたんですが、なに適当な相手さへ見つかれば、時期は何時だつてかまひません。僕は、さきほどの名刺にあります通り、鉄道省の運輸局に勤めてゐます。学校時代にはランニングなんかやつたもんですから、からだは先生と違つて頑丈ですし、おやぢも今、しきりに土地なんか買ひ込んで、僕の将来を考へてゐてくれますし、性質は至極呑気で、酒も煙草もやりませんし、道楽といへば野球を見に行くぐらゐなもんです。これも、結婚をしたら、二人で出掛けるつもりです。それから、また……。
汲子  さういふことは、こちらの奥さんにお話しになるとよろしいんですわ。ねえ、お父さん、もう、あたしたち、失礼してもいゝんでせう。
亜介  いや、これは、男の方から座を外す習慣になつてゐるさうです。それとも、やつこさん、もう上つて来ないつもりかな。またひとつ、慰めなけれやならない種を蒔いちまいました。何処まで惨めな男だかわかりませんよ。
すると、幕太郎がのそのそ上つて来る。

亜介  (憐憫の眼でこれを打ち眺め)おいぼつぼつおいとましようか。
幕太郎  そんなに急ぐ必要はあるまい。
亜介  いや、大体、話がすんだら、向ふさんの御都合もあるだらうから、こつちから切り上げようぢやないか。その方がいゝぜ。
幕太郎  おれや、もう少し話したいんだ。
亜介  それがさ、いろいろ訳もあるしさ、さう、わからんことをいつちや困るな。
汲子  (両手で顔を覆ひ、笑ひを噛み殺す)
亜介  (ちらとその方をみて)さ、行かう、兎に角、下へ降りよう。
幕太郎  今降りたばかりだ。
亜介  (舌打ちをする)
奥造  まあ、よろしいでせう。
亜介  さうですか。(腰をおろす)
幕太郎  汲子さんは、決断の鈍い男は嫌ひでしたね。帰りたいものは、さつさと帰るさ。ところで、こつちから伺つて置きたいことは、あなた、そんな手で、水仕事ができますか。
汲子  やつてみなければわかりませんわ。
亜介  そんなこと訊く奴があるか。
幕太郎  子供は幾人までこさへるつもりです。
亜介  おい、馬鹿!
汲子  あなたは?
幕太郎  あなたのいゝだけ……。
亜介  よせつたら……。馬鹿だなあ、こいつは……。
幕太郎  (たち上り)どれ、風を入れませう。もう障子を開けてもいゝでせう。(障子をあけ縁側に出る)汲子さん、来て御覧なさい。あの高い煙突の上へ昇つて、掃除をしてゐる男がゐる。
汲子  (やゝ躊つた後、起ち上つて、障子に手をさゝへ、そこから遠くの空を見る)
幕太郎  (姿は見えず、声だけで)僕が、あゝいふ商売をはじめたら、あなた反対しますか。
亜介  あいつ、少し、頭が変になつたな。
汲子  (笑ひながら)さあ、さうなつてみなければわかりませんわ。
亜介  (奥造に小声で)どんな失礼なことをいひ出すかも知れませんから、こゝはひとつ、習慣を曲げて、あなたの方からお引取りを願へませんでせうか。
幕太郎が、シヤリヤピンを真似て、ヴオルガの船唄を口吟む声が聞える。汲子、父の顔を見る。曾根が上つて来る。

曾根  お待たせいたしました。
汲子  (席に帰る)
曾根  では、お話がすみましたら、和久井さん、ちよつと下へ……。
幕太郎  僕もですか。
曾根  えゝ……。
幕太郎  (姿を現はし)もう上つて来ないんですか。
曾根  お話の都合でまた、それはどちらでも……。
幕太郎  それでは、降りたきりになるかも知れませんから、こゝで御挨拶をして行きます。何れまた、お目にかゝれるやうに祈つてゐます。
奥造  どうも、失礼いたしました。
亜介  お嬢さん、何分あしからず……。
曾根を先頭に、幕太郎、亜介、下に降りる。

奥造  どうだつた。やつぱり駄目か。
汲子  さうでもありませんわ。
奥造  見込があるか。
汲子  ある以上ですわ。
奥造  ほんとか、それや……。道理でお前たちだけいやに落ちついてると思つた。
汲子  あの人こそ、話をしてみないとわからない人ですわ。
奥造  どう気に入つた?
汲子  どうつて……ちよつと、口ではいへませんわ。口でいふと褒められない、さういふところが、妙に、あたしの好みにかなつてるんですわ。学校も出てないつていふし、財産もないんださうですけれど、あゝいふ人なら、一緒に暮して面白さうですわ。
奥造  さういふお前の眼はたしかだらうな。
汲子  それから先は、誰にだつてわかりませんわ。あの従兄つていふ人、勝手になんでも呑み込んでるの、可笑しいわね、どんなお嫁さんでも、自分のところへなら来ると思つてるんだわ。でも、あたし、あの人が意外な顔をしてすこし失望するとこ、早く見たいわ。
その時、曾根があたふたとはいつて来る。

曾根  どうもね、間接のお話つていふものは、いろいろ喰ひ違ひがございまして……。でもまあ、お二人とも、先ほどのお話では……。
汲子  えゝ。どうぞよろしく……。
奥造  さうしますと、今日の分はいかほど……?
曾根  お話を進めますんでしたら、五円頂戴いたします。
奥造  (紙入れから紙幣を抜き出しながら)いや、お蔭でいゝ方が見つかりました。娘の気に入りさへすれば、なに話が違はうと、どうしようとかまやしません。鼻声で歌を唱ふぐらゐなんでもありませんよ……ワハツハツハツハツ……。
汲子  (父の方をちらとみて、これも、思ひ出したやうに笑ひかけるが、つと起ち上つて、袂で顔をかくし、そのまま障子に駈け寄つて、肩をゆすぶつて忍び笑ひをする)
曾根  (なんのことかわからずあつけに取られてゐる)
――幕――

底本:「岸田國士全集4」岩波書店
   1990(平成2)年9月10日発行
底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院
   1931(昭和6)年2月10日発行
初出:「週刊朝日 第十七巻二十七号」
   1930(昭和5)年6月22日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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