之は思出の記である。物語はこの本に差挟んだ幾つかの和紙に関してである。選んだものは何も諸国の紙々に行き渡つてゐるのではない。又之で昔の紙の歴史を語らうとするのでもない。たまたまゆかりあつてこの十年の間、私が与つてきた紙を想ひ起すためなのである。だから新しく生み得たものが主である。その多くには私の友達の敬ふべき技が加へられた。さうして是等のものは、先づ私が用ゐたいものであり又現に多くは用ゐられてきたものなのである。何れにも忘れ難い思い出がまとうから、こゝに皆集めて、いつでもお互に逢へるようにしたかつたのである。
 もとよりこゝに掲げた凡ての紙が全く新しい創作なわけではない。どんな新しい試みも伝統を無視しては出来ない。吾々の為すべきこと、為し得ることは、古い伝統を新しい製作に活かすことである。こゝに納めたものゝ多くは、その意図のもとに作られて来たのである。私は是等のものを美しいと思ふ。少くとも和紙をいや美しくしようとする努力の跡は示されてゐよう。たとへ昔のものに劣るとも、いつかは優るための用意であると云へないであらうか。その或ものは既に新しい一歩を踏み出してゐると考へられる。私は是等のものによつて、直接仕事に携つてくれた多くの友達の功績を紀念したいのである。
 之に添へて私は歴史に名のある幾つかの紙や、又地方が産んだ名もない生紙を選んだ。是等のものは私の予々の敬念のしるしともなるであらう。

 和紙との濃い縁は、私に出した版本から始まる。最初に上梓したのは「朝鮮の美術」と題した本で、大正十一年のことであるから、もう二十年余りも前のことになる。続いて同年「陶磁器の美」を出し、「思ひ出」を出した。紙は何れも信州のものを用ゐた。朝鮮の紙には既に早くから親しむ折があつたが、今は和紙のことを語るのであるからそれを省こう。
 和紙に一段と近づくやうになつたのは昭和六年のころであつた。民芸の調査に雲石の二州を訪ねた時、太田直行氏から二人の人を紹介された。一人は中村和氏で製紙の技師であつた。一人は安部栄四郎君で岩坂村の業者であつた。その時幾種かの試作品を示され、私の意見を求められた。その縁がそも/\抄紙の仕事に私が進んで携はる発端を成した。その折私の希望を燃やしたのは雁皮紙であつた。薄葉のものは誰でも知りぬいてゐる。併し古書の料紙であつたあの厚手のものを、この地で再び甦らすことの出来たのは、何たる幸なことであつたか。世にも気高いこの雁皮紙に、私は私の熱情を注いだ。巻頭に貼附した実物の一と二とはかくして拵らへられたものゝ一例である。私はそれを二三の私版本に用ゐた。この世で味ひ得る感謝すべき贅沢の一つであつた。安部君は若かつたが仕事に誠意があつた。さうして私を信じ私の依頼する多くの紙を勤勉に作つてくれた。出来がよかつたのは私の私版本の一つである「茶道を想ふ」に用ゐた料紙である。昭和十年の冬、最もいゝ寒冷の季節を選んで、純楮の手堅い紙を漉いて板干にしてくれた。それは見事な出来であつた。幾枚かの残りを保存してあつたので、この本の挿絵第三に入れた。同じく第四に入れた紺紙も、岩坂の仕事を誇るに足りよう。材料は純三椏である。私はこの紙で棟方の版画を屏風に又画帖に仕立てた。今も民芸館に備へてある。
 爾来和紙の新しい気運は俄然として、この静な一村から起つた。安部一家の年産額、僅か五千円ほどであつたのが、数年にしてその十二倍、即ち六万円に達した由を聞いた。全く目覚ましい発展であつて、いつに安部君の労による。さうしてその仕事を補佐し鼓舞した中村技師と太田氏との功績をも忘れてはならない。幾度か東京や大阪や京都で、大きな会を開いた。その度に凡ては売り尽された。「出雲巻紙」とか「出雲名刺」とか云ふ木版刷の題箋を、私は旅する毎に各地で見かけた。遠く鹿児島や朝鮮ですら見附けた時、私は自分のことのやうに悦びを覚えた。この岩坂の仕事は昭和以後の和紙の歴史に、一期を劃したほどの出来事であると思へる。多くの新しい紙が考案され創作された。和紙への注意が最近之でどんなに広まつたか知れぬ。之には「たくみ」工芸店の存在も与つて力があつた。因に云ふ、出雲での初期の仕事は一番よく昭和八年の「工芸」第廿八号で語られてゐる。当時としては和紙に関する特筆すべき出版であつた。
 雲州に隣接する石州とは充分に縁を結ぶ折がなかつたが、常々石州半紙を好む私は、特に依頼して「工芸」のために用紙を準備して貰つた。第四十一号から四十八号に至る袋綴の紙は、純楮の「石州」であつて、質としては上々の品であつた。その持味の黄味が自然の発色であるのは既に名高い。恐らく石州半紙が大版で、月々の出版物のために漉かれたのは之が嚆矢ではなかつたらうか。出来たのは市山である。

「たくみ」と云へば必然に吉田璋也君のことが想ひ出される。故郷は因幡である。郷土の手漉紙にも相当の熱意を抱いて仕事に励んだが、惜しい哉、業者の中で誠意ある人が出なかつたためか、出雲ほどの業蹟を示すことなくして了つた。併し「因州障子紙」や「巻紙」はかなりの産額に達したであらう。只忘れてならないのは、その頃県の技術者に永松清一郎氏がゐたことである。私の依頼に応じて黄檗で染めた巻紙を作つてくれた。純楮耳附のもので、昭和七年頃の当時としては、之ほどの品は絶対になかつた。紙質が甚だよく、今まで試みた幾多の巻紙の中で、今も之以上のものは見出されない。墨つきがよく、肌も静で、今も私は大切に使ひ続けてゐる。紀念のため幾枚かを用ゐて、本書の口絵第五に入れた。今は永松氏のいゝ形見となつた。同氏は後に私の推薦もあつて、埼玉県の技師になつたが、昭和十五年に小川で亡くなられた。
 永松氏のことで忘れてはならないのは、当時埼玉県の商工課長であつた山口泉氏のことである。昭和九年私達が公に招聘を受けて、県下の工芸を調査し、特に小川の紙の高上を計るようになつたのは、全く同氏の熱心な慫慂に依る。永松氏を県に招いてくれたのも同氏である。(後年私共が琉球に行つたのも同じく山口氏の縁故による)。
 小川での仕事は専ら芹澤※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君の指導に待つた。短時日の間に多面な活動をなし、遂にその成績を小川町に於て公開した。又東京の「たくみ」で展示された。この企てに永松氏の援助が大きかつたのは言ふを俟たない。それ等の委細は「工芸」第五十九号に報告され、永松氏も一文を寄稿された。この号も前述の第廿八号と共に、和紙を紹介した劃期的な出版となつた。(後年「和紙研究」の如き雑誌が出たのも、是等の「工芸」に刺激されることが大きかつたと思へる)。この号には比木喬君の有益な小川古文書の解説と和紙文献の解題とが載つた。芹澤君の指導は専ら染紙と型附紙と板締との加工に注がれ、今までにない数々の品を産んだ。後それ等の品は、民芸館所蔵の屏風の裏張に沢山用ゐられた。
 併し小川でのこの仕事は、組合や指導所の建設に努力された横川禎三氏の如き有力な人がゐたのにも拘らず、不幸にして永続せずに終つた。それは業者の中に、仕事をやりぬくほどの熱意を有つた人がゐなかつたことゝ、もう一つは問屋制度の弊害を受けることが大きかつたためと思へる。私達はこの経験で色々活きた教訓を貰つた。因に云ふ、小川で出来る伝統的な良質の紙は「細川」である。紙質大にいゝ。手法も古い溜漉である。
 永松氏が亡くなられて、その後を襲つたのは、不思議にも吾々と縁の濃い中村技師であつた。吾吾は島根で会つた同氏を、埼玉で再び迎へた。同氏は小川に新設された製紙指導所長になられた。それ以来私は度々同氏を訪問し、いつもその厚誼に浴した。私の「茶と美」上製本の用紙は同氏の監督の許に作製された。同氏の和紙に関する論文は、前掲の「工芸」第廿八号及び「民芸」昭和十六年の十月号に掲載された。傾聴すべき論文であつた。「工芸」の本文用紙に関しても、度々同氏に御世話をかけた。

 私はこゝで野州烏山のことも述べねばならない。昭和八年のこと、半井清氏が当時栃木県知事であつた時、私は招かれて県下の手仕事を調査した。その一つに烏山行があつた。私は始めてそこの技術者であつた大西虎俊氏に会ふことが出来た。私は間もなく同氏の存在が、その土地にとつて大切なものであることを知つた。さうして同氏を技師として遇するよう知事に建言した。最初同氏が造つてくれたものとして忘れ難いのは、質の堅い黄味を帯びた葉書用紙であつた。後この系統の紙は外村吉之介君の「葛布帖」に用ゐられた。こゝに挿入した口絵第六は同氏の技を語るよいしるしである。工芸の本文用紙を一番沢山作つてくれたのも烏山であつた。表紙も幾度か依頼し、顔料を紙料液に混ぜることも試みてもらつた。
 だが大西氏に依頼して漉いて貰つた最も優秀なものは、海軍兵学校の依嘱による「芳影帖」の用紙である。純楮紙で甚だ厚みがあり色はやゝ黄ばんだ調である。之は戦死者及公死者の略歴附の写真帖であつて、今江田島の海軍教育参考館に収めてある。フォリオ版大冊二十巻の厖大なものであつて、私が関与した最大の出版物であつた。出版と云つても僅か一部より印刷しないものである。装幀及飾棚は芹澤※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君の図案になり、恐らく二度と繰り返らない巨大な刊行物であつた。昭和十一年のことである。

 私はこゝで他の多くの紙漉場で廻り会つた紙に就いて一括して語らう。
 最も忘れ難いのは、陸前名取郡中田村柳生で作る「強製紙」である。私はこの説明的な新しい名を好まぬが、古く何と呼んでゐたのか。今後私はそれを「紙子紙かみこがみ」と呼ばう。何も柳生だけで出来るのではないが、紙子の系統を引く紙を今も盛に漉くのは此処だけである。私がこの紙を知るようになつたのは、昭和三年の旅の時であるが、親しくその紙漉場を訪ふたのは、やはり半井清氏が宮城県知事に転任されて、再び県下の工芸品の調査を依嘱された折であつた。昭和九年のことである。柳生村に阿部亮作氏がゐて、専らこの紙の製作に従事してゐた。村は仙台市の郊外にあつたが、最近市内に編入された。この紙はその道の人は知つてゐるが、蒟蒻粉を入れて漉くのが、謂はゞ秘伝である。何枚か縦横に重ね貼りし、更にそれを揉み紙にするのが特色である。水に甚だ強く、或度の洗濯すらきくのである。それに摩擦にも強く、和紙の欠点である毛羽立つと云ふことがない。揉みを充分に施すと、鞣革のやうに柔く、肌着や股引に用ゐられる。紙子として保温甚だよく防寒の具に適する。こんな和紙は他に類がなく、それに粉白の色調がとても美しい。晒しと未晒しとの二種がある。美しくて面も充分実用に堪える点で代表的な和紙と云へよう。私は即座に書物の表紙に絶好のものであるのを感じた。爾来私も好んで用ゐ、又人々にも好んで勧め、既に多くの書物がこの紙を用ゐるようになつた。けだし装幀用の純和紙として之以上のものは他に決してないであらう。之まで誰も用ゐていなかつたのが、不思議なくらゐである。近時刊行した私の「工芸文化」や「美と模様」や「芭蕉布物語」は凡てこの紙子紙を素地に用ゐた。「民芸叢書」の最初の三冊も亦さうである。又外箱にも屡々用ゐたが、今考へるとさう云ふ使ひ方は物体ないと思へる。私と阿部氏との間には屡々手紙の往復があつた。私が始めてこの紙を手にした時、何故こんな素晴らしい存在を、今まで県の当局者が一般の人々に知らせずにおいたかを不思議に思つた。この本の表紙はその紙子紙であるが、こゝに入れた第七と八も同じ紙を素地に用ゐた。第七の方の美しい色は甚だ複雑な工程をとつて出来た。下に蘇枋、その上に朱、更に渋、之に油引し、更に水洗によつて発色を促した。第八の方は正藍染である。
 私が地方に出て感心した紙の一つは、越中八尾の産である。中でも「たゝきこみ」や「本高熊」がよく、又紅柄染の薬袋紙にも特色を見た。「たゝきこみ」の如きは健実そのもので、谷井秀峰君の説明によると、その味ひは簀の動かし方の特異性によるのだと云ふ。ほんのりと自然色があり、紙面に奥行があつて張りが強く、思はず撥く音の快さを楽まないわけにゆかない。尤もかう云ふ紙味は、却つて名もない紙漉場のものに、時折見かけるものであるが、如何にも和紙らしい和紙と思へる。口絵第九に一種を加へた。私を八尾に案内してくれたのは安川慶一君であつた。
 在来からある著名な手漉紙も、見本としてこの本に入れたく、私は二つのものを選んだ。一つは越前の「檀紙」で(実物第十)、他の一つは「程村」である(実物第十一)。「檀紙」と云ふと、普通は大高、小高など区別して襞のある糊入の紙を聯想するが、本来の「檀紙」はこゝに掲げたやうなものであることが分つた。越前今立郡岡本村の岩野平三郎翁の作にかゝる。誠に見事な楮紙であると云はねばならぬ。味ひ朝鮮の古紙に甚だ近い。「程村」は元来「西の内」などゝ共に常陸国久慈郡諸富村の産であるが、川を一つ隔てた野州の烏山でも上質のものが出来る。厚手の品位ある紙で、和紙の持味がこゝにも濃い。一種の溜漉で僅か米粉が交へてある。
 地方を旅して和紙を漁ると、時折思ひがけないものに逢へる。その一つは福島県伊達郡小国村で出来る蚕の種紙であつた。上に襞を有つ厚手の紙で板のやうな張りがある。私は私版本の表紙に之を用ゐたく百枚ほど購つたが、寿岳文章君から懇望されてその半を譲つた。それは同君の「書物」と題した本の表紙となつた。後に岩坂で之を模したものを作つた。幸ひ私の手許に残してあつた原品の幾枚かを活かして、こゝに実物を差挟んだ。第十二がそれである。地方的な需要は不思議な紙を生産させる。日本国中を探したら、まだ色々匿れてゐよう。
 越前の「鳥の子」、美濃の「書院」、摂津名塩の「間合まにあひ」、何れも見事なものがあるが、余りにも世に知られてゐる料紙であるから、事新しく述べるまでもなからう。信州の内田紙や松崎紙にも確実なものを見かけた。
 旅で忘れ得ぬ印象は、土佐国細々村の仕事であつた。極めて見すぼらしい家内工房で、もの静に黙々として仕事をしてゐるお婆さんを見かけた。之でいゝのかと思へるほど粗末な簡単な道具建であつた。だが出来上る「仙貨」を見ると、誠にりんとした所があつて、力は強く色は清く、紙味に申分がない。どこからこんな力と美とを捕へてくるのか。遠い伝統の助けを想はないわけにゆかぬ。地方に見られる多くの美しい品物は、屡々このやうな環境から生れてくる。考へさせられる公案である。私は荒縄で締めくゝつた嵩高かさだかの幾束かを求めないわけにゆかなかつた。多くの人は和紙を愛し敬つてはくれる。だが更に奥の之を作る人や暮しや信心をも振返つてくれる人が、どれだけゐるだらうか。無名の工人達はかくして忘却のうちに消え去つて行くのである。だが仕事は死なゝい。
 私は紙布の仕事にも心を惹かれた。紙布では磐城の白石が歴史的に名がある。私も度々相談を受けたが、近時その復興を見るに至つたことは嬉しい。過去に捕はれず、健全な品を新しく開托してゆかれることを熱望してゐる。白石のものではないが近年出来た新しい品物のうち、私が最も感心したのは上質の純三椏糸で繻子風に織り出した一種である。興津の太田三男氏等の厚誼によつて、本書をその実物で飾るに至つたことは感謝の至りである。製作したのは永年斯道に尽瘁された山本国蔵氏の技による。(口絵第十三)別に経木綿糸、緯楮糸の紙布を添へた(第十四)。紙布らしい持味が活されてゐる品物である。元来この種の布はその堅牢さを誇つていゝのであるから、織物の一分野として、充分な存在の理由を有つものと思へる。新しい用途の道は様々に開かれてくるであらう。紙布の未来は広い。

 顧ると、私はこの十年の間、月々是等の紙の何れかを用ゐることなくして暮したことがない。それは雑誌「工芸」を続けて刊行したからにもよる。この雑誌が洋紙を用ゐたのは最初の一ヶ年のみであつた。考へると手漉の和紙を用ゐること今日まで、百号に及んだ。その産地は前にも記したが、概括すると次の通りである。出雲岩坂(第一三―二四、三七―四〇号)、越前岡本(第二五―三六号)、石見市山(第四一―四八号)、下野烏山(第四九―六〇、七三―九一、一〇二―一一〇号)、武蔵小川(第六一―七二号)、丹波東八田(第九二―一〇一号)以上六ヶ所。吾々は出版物に和紙を用ゐることに一種の使命と誇りとを感じた。何故なら明治半以降今日に至るまで、余りにも書物界は和紙を用ゐることを忘れてゐるからである。月々手漉の紙を用ゐて百号に及んだ雑誌は、恐らく「工芸」以外にはなく、世界にも類例の稀な特異な出版ではないだらうか。その或ものは素晴らしい紙であつた。経済的圧迫から、漸次この仕事が困難になり、近年に及んで紙質を落とすに至つたのは致し方もないことであつた。それにしても、十ヶ年よく持ちこたへて来たものである。会計の任に当つてこの困難を切り抜けてくれたのは、主として佐藤佐和子姉や、近くは荒木道子姉の行き届いた配慮による。今もその苦労に感謝せざるを得ない。十六頁取の大版の紙が一号に約八千枚から一万枚を必要としたのであるから、「工芸」百号分のため総計約九十万枚を使用したわけである。吾れ乍ら驚くほどの数字である。その上約四十号分の和紙の表紙が加はり、且つ包装紙まで多くは塵入の和紙にしたから、合せると並々ならぬ量である。
 のみならず「工芸」の編輯室は純和紙で幾多の単行本を出し、之に私の私版本が加はるから、優に総計大版百万枚に達する量を用ゐて来たのである。他の書肆から出した私の特製本の用紙を加算するなら更に多くなる。それ故この十年の間、私の手を通して用ゐた和紙は一ヶ年平均少くとも十万枚にのぼる。顧みてよくもかうまで用ゐ得たものと思ふ。私が個人として使用する巻紙、便箋、封筒、原稿用紙、名刺、表具紙、帳面、障子紙、その他は別である。実際和紙への投資は屡々私を貧乏にさせた。併し仕事の悦びはそれを償つて余りあるから、心ではどんなに豊有にさせてもらつたか分らぬ。

 私共は技術家ではないから、自身で抄紙の技に携ることは出来ない。併し土地の特質に準じてどんな紙が作らるべきか、又どんな種類の紙を創り、どんな用途に之を向けるかに就いて多少の役に立つたかと思へる。又和紙の価値に就いて、吾々の筆は何かの役割を果したであらう。又は書物の装幀や掛軸の表装などは、和紙の美しさの活きた例を示し得たであらう。併し私達の仲間が、紙の仕事に寄与し得た最も大きな面は、素地に施した加工である。大体それは三つの方向で為された。一つは染色である。一つは型附である。一つは漆絵である。是等の仕事に於て私の多くの友達は、真に立派な仕事をしてくれたのである。それはいつか歴史的事実として顧みられるであらう。
 色染で一番多くの又優れた仕事をしたのは及川全三君であり、型附で新しく道を開いたのは芹澤※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君であり、又近時三代沢本寿君の努力も忘れてはならない。漆絵で見事な業蹟を示したのは鈴木繁男君である。私は是等の友達の果した仕事に就いて記録することに悦びを感じる。
 及川君の仕事は陸中和賀郡十二鏑村安俵(今は土沢町)で為された。同君の仕事の跡は「工芸」第八十七号で特輯されたから、知る人は知つてゐよう。何れも本染(即ち草木染)により、又顔料によつた本格的な仕事であつた。「工芸」の幾冊かの表紙も同君の労に成つた。同君の性格として仕事には微塵の誤魔化しもなく、厳しいほど誠実であつて、恐らく本染の仕事を実際的に会得してゐる技術者として、当今随一の人だと思へる。色よく味ひよく、染紙としては本格的なものと云へよう。近々同君の業蹟は一冊のまとまつた本として、「工芸」編輯室から出版される運びになつてゐる。私は同君を得て、和紙が如何に色に活かされたかを見て、感謝の念を新にする。私は同君の染紙なくしては、表具の仕事を民芸館のために充分になすことは出来なかつたであらう。この一冊に於ても幾枚かの紙で同君を語りたい。(見本第十五と十六、前者は渋木、後者は蘇枋染)
 当代無双の染物家として、私の信頼する芹澤※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君が、和紙の型附に寄与してくれた功績も大きい。武州小川で試みた仕事に就いては前にも記した。紋様と色調との世界に、並々ならぬ才能を有つ同君の仕事が、紙の分野に於ても一新面を開いたことは、いつか一般からも認められるに至るであらう。この本に納めた三種のもの(第十七、十八、十九)でも充分に同君の腕前を語ることが出来よう。もとより型染紙のみならず、幾多の優れた色染紙も作つてくれた。何れも蒲田にある同君の工房で出来た。私は表具のために度々同君の技を労はし幾多のものを仕立てた。若し同君がゐなかつたら、私は如何ばかり空しく意図の数々を埋めねばならなかつたであらう。
 因に、挿絵第十七に入れた型染紙にある文字は次の通りである。
「諸国生漉きずき紙、よごちり、細川、まつざき、五把、宇陀、飛駒、もりした、(厚紙)楷田、西の内、さんとめ、ほどむら、泉貨、十文字」
 この型染紙の仕事に於て、近時三代沢本寿君が払はれた熱心な努力も記録されねばならない。最近の「工芸」の表紙は多く同君の静岡に於ける工房で出来た。まだ仕事の端緒についたばかりではあるが、広い未来が待つてゐるように思へる。若しこの仕事への熱意を長く弱めないなら、結果は約束されてゐるのである。見本に貼附した第二十と廿一とは同君の技である。後者は艶出しを施してある。私はその他染物を業とする塩沢源吾、増井富次の両君にも仕事を托した。「工芸選書」第一篇と第二篇とは同君等の仕事である。
 想ふにこの型染紙の仕事は、今日まで著しい歴史の跡がないのであるから、新しい開拓として大きな未来を孕むものと思へる。在来の紋置は誰も知る通り殆ど凡て木版に依り、近頃は石版が多い。併し摺ることゝ染めることゝは自ら結果を異にする。
 是等色染紙と型染紙との二つの道の他に、最も著しい仕事を示してくれたのは、鈴木繁男君の漆絵紙であつた。「工芸」第七十三号から百〇八号に至る三十六種の表紙は、今日まで歴史の殆どない独創的な仕事であつた。漆工としての同君の才能が躍如として現れ、真に追従を許さないものがあつた。私は最近それ等の凡てを集めて、六曲一双の屏風を民芸館のために作つた。「工芸」のため月々千枚の表紙を手描きすることは並大抵ではなかつたと思へる。
 和紙と漆との結合は、多少歴史を有つが、恐らく鈴木君ほど鮮かな仕事を見せてくれた作者は嘗てゐなかつたのである。筆と型と染とを併せ用ゐ種々な変化を示した。かゝる手法は日本の工芸の新しい一分野として、人々から注目を受ける日は来るであらう。本書に載せた実物は、鈴木君の才能を語る好個の一枚である。漆紙を作り、その上に漆絵を施したのである。(第廿二)又本書の表紙に貼附した題箋も同君の筆、又口絵第七の朱染紙も同君の仕事である。

 私は之で私の親しい又尊敬する幾多の紙友に就いて語つた。私と和紙との結縁は、それ等の人々との協力なくしてはあり得なかつたのである。そのことへの感謝のしるしとしてこの一冊が編まれた。併し私はもう一人の友達に就いても書き添へるべきであるのを感じる。それは寿岳文章君である。直接紙の技に携はる人ではないが、今では和紙の学問に励しむ人として、誰も同君から学恩を受けるであらう。
 私が同君を語るのは、恐らく紙学に志すに至つた動機の一つが、私達との交友にあつたと思へるからである。爾来私達の方も同君の学識と観察とに負ふところが大きいのである。近時出版になつた「和紙風土記」は好個の入門書であつて、和紙に関して何よりの手引である。何れ大著が未来に約束されてゐると思ふが、私達のやうに見る側に立つ者の傍に、一人の学者を仲間として有つことは、感謝すべき環境だと云はねばならない。同君の向日庵本は、その道の人々には既に熟知されてゐるところ。それ等の本に幾組かの優れた和紙が用ゐられた。和紙への敬念と情愛とが背後まで濃く動いてゐることは、同君の学問を一段と確実なものにしてゐる基礎である。とかく只の考証家に堕してゐる他の学者達と、はつきりと区別されていゝ存在である。現在各地に残る手漉紙の工房も、大方同君の訪れを受けたであらう。その報告は和紙の未来に対して貴重な示唆となるに違ひない。ねがはくは之が一片の報告書ではなくして、伝統を守護しその礎の上に立つて更に健実な創造へと進むこの上ない準備となることを望んで止まない。和紙の価値への認識と、その宣揚と高上とを計ることは、共々吾々に課せられた使命だと思へる。
 十年の過去は流れた。私は来るべき十年廿年が更に尚私にとつて和紙の歳月であることを念じる。和紙を愛することは要するに日本の存在をいや美しくする所以ではないか。

昭和十七年臘月下浣
函嶺強羅にて

底本:「日本の名随筆68 紙」作品社
   1988(昭和63)年6月25日第1刷発行
   1996(平成8)年8月25日第7刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集著作篇 第一一巻」筑摩書房
   1981(昭和56)年12月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
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