あらすじ
日露戦争の英雄と謳われる広巳は、凱旋後も故郷で気ままに過ごしていた。しかし、ある日、八幡宮で喧嘩に巻き込まれ、その場に居合わせた謎めいた女性に助けられる。その女性は、広巳にとって忘れられない存在となり、彼女の正体を探し求める広巳の心の奥底には、戦場で得た虚無感と、新たな出会いを求める切ない想いが渦巻いている。

※(ローマ数字1、1-13-21)

 広巳は品川の方からふらふらと歩いて来た。東海道になったその街には晩春(はるさき)の微陽(うすび)が射(さ)していた。それは午(ひる)近い比(ころ)であった。右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のような靄(もや)が和(なご)んでいて、生暖かな物悩ましい日であった。左側の川崎屋の入口には、厨夫(いたば)らしい壮(わか)い男と酌婦らしい島田の女が立って笑いあっていたが、厨夫らしい壮い男はその時広巳の姿を見つけた。二十五六の痩せてはいるが骨格のがっしりした、眉の濃い浅黒い顔が酒を飲んでいるために※(「酉+它」、第4水準2-90-34)(あか)く沈んでいるのを閃(ちら)と見たが、気もちの悪いものでも見たと云うようにしてすぐ眼をそらした。対手(あいて)の態度(そぶり)によって島田の女も小さな河豚(ふぐ)のような眼をやったが、これも気もちの悪い物でも見たと云うようにして、すぐ眼を反(そ)らして対手の視線を追いながら嘲(あざけ)るような笑いを見せあった。
 広巳はのそりとその前を通りすぎた。川崎屋をすこし離れたところの並びの側に空地があって、そこには簀(すのこ)につけた海苔(のり)を並べて乾してあった。空地の前には鉛色をした潮が脹(ふく)らんでいて、風でも吹けばどぶりと陸(おか)の方へ崩れて来そうに見えていた。縁(へり)には咲き残りの菜種(なたね)の花があり、遥か沖には二つの白帆が靄(もや)の中にぼやけていた。空地に向った右側は魚屋になって、店には鮟鱇(あんこう)を釣(つる)し、台板の上には小鯛(こだい)、海老(えび)、蟹(かに)。入口には蛤仔(あさり)や文蛤(はまぐり)の笊(ざる)を置いてあった。そこには藻(も)のむれるような海岸特有の匂(におい)があった。
 広巳はふと何か考えこんだ。七八人の少年がどこからか出て来た。玩具(おもちゃ)の洋刀(サーベル)を持ち海老しびの竹屑(ぎれ)を持った少年の群は、そこで戦(いくさ)ごっこをはじめた。
「俺(おいら)は東郷大将だぞ、ロスケに負けるものかい」
「汝(おまえ)はクロバトキンだろう」
「やっつけろ、クロバトキンをやっつけろ」
 それは日露戦役の直後で、当時の少年の何人(だれ)もが東郷大将を夢みている時であった。広巳は足をとめた。
「東郷大将、うう、東郷大将か」物の影を追うようにして、「沙河(シャーホー)の戦(いくさ)は、面白かったなあ、俺(おいら)もあの時、鵜沢(うざわ)連隊長殿と戦死(うちじに)するところだった」
 少年の群はその時鯨波(とき)をあげて右側の路地の中に入って往った。広巳は気が注(つ)いた。
「東郷大将は、もう往っちゃったのか、東郷大将は」淋しそうに笑って、「俺(おいら)もなあ、あの時鵜沢連隊長殿と戦死(うちじに)してたらなあ」
 広巳は歩きだした。広巳の眼の前には落寞(らくばく)とした世界がひろがっていた。
「これが日露戦争の勇士か」
 右側に嫩葉(わかば)をつけた欅(けやき)の大木が一団(ひとかたまり)となっているところがあった。そこは八幡宮の境内であった。広巳はそこへ入った。華表(とりい)のしたに風船玉売の老婆がいた。広巳は見むきもしないで華表を潜(くぐ)った。欅の嫩葉に彩られた境内は静(しずか)であった。右側の社務所の前には一人の老人が黙もくと箒(ほうき)を執(と)っていた。左側に御手洗、金燈籠、石燈籠、狛犬(こまいぬ)が左右に建ち並んで、それから拝殿の庇(ひさし)の下に喰(くっ)つくようになって天水桶があった。その天水桶は鋳鉄(いもの)であった。その右側の天水桶の縁に烏(からす)のような水だらけになった一羽の鳥がとまって、それがばさばさと羽ばたきをやっていた。
 拝殿の前の金の緒の垂れさがった下には、一人の御隠居様らしい切髪の老媼がこちらへ背を見せて拝んでいた。広巳の眼は烏のような水だらけの鳥へ往った。広巳は鳥の方へ往った。それは鵜(う)であった。長い嘴(くちばし)の上の方の黄ろい古怪な形をした水禽は、境内の左側になった池にでも棲んでいるのか人に恐れなかった。
「なんだ、鵜か」
 鵜は羽ばたきをやめなかった。その眼はきろきろと鬼魅(きみ)悪く光っていた。
「厭(いや)な眼をするない」手を揮(ふ)って、「おい、こら」
 鵜はそれでも逃げなかった。汚い天水桶の上には鳥の柔毛(にこげ)が浮んでいた。右の方の横手の入口に近い処に小さな稲荷(いなり)の祠(ほこら)があって、半纏(はんてん)着の中年の男がその前に蹲(しゃが)んでいた。広巳は鵜に興味がなくなったので、天水桶の傍をぐるりと廻って、社の横手へ往ってそこの階段へ腰をかけた。
 豆腐屋の喇叭(らっぱ)の音がどこからかきこえて来た。広巳は腕組をして眼をふさいでいた。二人伴(づれ)が横手の入口から入って来た。一人は素肌に双子(ふたご)の袷(あわせ)を着て一方の肩に絞(しぼり)の手拭(てぬぐい)をかけた浪爺風(あそびにんふう)で、一人は紺の腹掛(はらがけ)に半纏(はんてん)を着て突っかけ草履(ぞうり)の大工とでも云うような壮佼(わかいしゅ)であった。
「なんだ、暢気(のんき)そうに睡(ねむ)ってるじゃねえか」
「終夜(よっぴて)稼いだお疲れか」
 二人は斜(ななめ)に拝殿の前の方へ往こうとしていた。広巳の眼が大きく開いた。
「野郎待て」
 右側を往っていた双子がちらりと揮(ふ)りかえった。広巳はついと起(た)った。双子は有意(わざと)らしい沈静(おちつき)を見せた。
「俺(おいら)に用があるのか」
「あるとも、俺(おいら)を盗児(ぬすっと)と云ったのは、何人(だれ)だ」
「ぬすっと、何人が汝(おまえ)さんを盗児と云ったのだ」
 広巳はずいと進んで往った。
「汝(てめえ)か、伴(つれ)か二人のうちだ」
 双子はそれと見て体を整えた。
「云わねえ、云うものかい、盗児と云うものかい」
「云わねえことがあるか、終夜(よっぴて)稼いだと云やがったくせに、云やしないもすさまじいや」
「終夜(よっぴて)稼いだと云ったっていいだろう、急ぎの仕事がありゃあ、終夜稼があな」伴(つれ)の方を見て、「なあ、与ちゃん」
 紺の腹掛は頷(うなず)いた。
「そうとも、そうとも、急ぎの仕事がありゃあ、二日でも三日でも、寝ずにやるとも」
 広巳はもう双子に躍(おど)りかかった。
「ふざけるない、この野郎」
 双子も負けてはいなかった。双子は広巳の拳(こぶし)を避けて広巳に立ち向った。紺の腹掛は双子と力をあわして広巳を撲(なぐ)り倒そうとした。三人の拳は搦(から)みあった。広巳の足は拳とともに閃(ひらめ)いた。双子は足を蹴られて倒れてしまった。
「野郎」
「こん畜生」
 紺の腹掛と広巳は取っ組みあってしまった。双子は放(は)ねおきて広巳の片頬(かたほお)へ拳を持って往った。
「この野郎」
 広巳は紺の腹掛を揮(ふ)り放そうとした。三人の体は黒い渦巻を作ってぐるぐると縺(もつ)れあった。
「これ、これ、何と云うことだ、ここで喧嘩をして、神罰を恐れないか、何と云うことだ、これ」
 そこには社務所の前で箒(ほうき)を執(と)っていた老人が来ていた。老人は三人を叱って諍闘(けんか)をとり鎮めようとしたが鎮まらなかった。黒い渦巻を作って縺れあった三人の口からは野獣のような呻(うめ)きが聞えた。

※(ローマ数字2、1-13-22)

「これ、これ、これ、よせと云うのに、これよさないか、罰あたり、神様のお咎(とが)めが恐ろしくないか、これ、これ」
 老人は箒(ほうき)を中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足退(さが)った。老人の小さな頭には胡麻塩(ごましお)になった略画の烏(からす)そのままの髷(まげ)が乗っかっていた。
「こ、これは、まあ、なんと云うことだ、狼(おおかみ)の噛みあうように」
 広巳は双子に帯際に掻(か)きつかれながら、俯伏(うつぶせ)に倒れた紺の腹掛の上に馬乗(うまのり)になっていた。
「く、く、く」
「う、う、う」
「む、む、む」
「う、う、う」
 三人はまた獣のように呻(うめ)きあった。剥(む)きあっている三人の歯が獣の牙のようにちらちらした。
「何人(だれ)か来てくれ、何人か来てくれ」
 老人はもう己(じぶん)の手ではどうすることもできないとおもった。牡丹(ぼたん)か何かの花が咲いたようについと来て立った者があった。
「おや、喧嘩してらっしゃるの」
 二十七八に見える面長(おもなが)な色のくっきり白い女であった。黒い筋の細かい髪を目だたないような洋髪にして、微(うす)黄ろな地に唐草(からくさ)模様のある質実(じみ)な羽織(はおり)を被(き)ているが、どこかに侵されぬ気品があった。老人はどこかの邸(やしき)の夫人(おくさま)が参詣に来あわしたものだろうと思った。
「ほんとに困っちまいます、私が云ってもだめですから、どうか夫人(おくさま)が」
 どうか夫人(おくさま)がとは夫人(おくさま)が引き別けてやってくれと云うのであった。女はちょっと老人の方へ眼をやるようであったが、対手(あいて)にはならなかった。その時広巳は二人の対手を膝(ひざ)の下に押し敷いていた。
「豪(すご)いわ、ねえ」と云って気が注(つ)いたように、「おや、貴下(あなた)は」
 貴下は何某ではないかと云う知っている人を探し求むる詞(ことば)であった。広巳は拳(こぶし)を揮(ふる)いながら眼をやった。それは知っている人ではなかったが、どこかで逢ったような気がするのであった。広巳はきまりが悪かった。広巳は二人を放して立った。広巳の口元には血があった。広巳にとりひしがれていた二人は、それと見て飛び起きて広巳に躍(おど)りかかろうとした。二人の眼はぎらぎらと光っていた。紺の腹掛の左の頬は血だらけになっていた。女はついと広巳の前へ出て広巳をかばって立った。
「およしなさいよ、この方は、もう手を引いたではありませんか、それに貴下方は二人じゃありませんか」
 二人で一人にかかって往くのは卑怯だと云うのと同じであった。紺の腹掛は立ち縮(すく)んだ。双子の眼は依然としてぎらぎらと光っていた。
「もういいではありませんか、さっぱりなさいよ、男は斬り結んだ刀の下で笑いあうと云うではありませんか」
 双子は進めなかった。
「私が仲裁するのですから、男らしくさっぱりなさいよ、それでもいけないと仰しゃるなら、私がお対手(あいて)をいたします」
 女の口元には威厳があった。それに腕節(うでっぷし)の強い男を向うにまわして、お対手をすると云うからには武術の心得があるか、それとも懐(ふところ)に何か忍ばしているか。双子も立ち縮(すく)んでしまった。女はくるりと体の向きをかえて広巳を見た。広巳はその顔が眩(まぶ)しかった。
「もういいから、お帰りなさい、だが、気をおちつけて、人と喧嘩をなさらないようにね、貴下(あなた)はいい方だが、この比(ごろ)気がたってらっしゃる、それには事情(わけ)もおありでしょうが、よく気をつけてね」
 広巳は母親から何か云われているように思った。
「では、お帰りなさい、心配なすってらっしゃる方がおありでしょう」
 広巳の頭は覚えずさがった。
「へい」
 広巳はそうしてお辞儀をするなり、体をかえして正面の華表(とりい)の方へ歩いた。そこにはあちこちに喧嘩と知って集まって来ている人の顔があった。広巳はきまりが悪いので急ぎ足になって外へ出た。そして、方角の見当もつけずに歩いているうちに、
(おや)
 と云う気もちが浮んで来た。その気もちは、面長な色のくっきりと白い、黒い筋の細かい髪を洋髪にした女につながっていた。
(あれじゃないか)
 広巳はぴたりと足をとめた。広巳の眼の前には初春の寒い月の晩海晏寺(かいあんじ)の前の大榎(おおえのき)の傍で、往きずりに擦れ違った女の姿が浮んでいた。
(どうもあの女だ)
 大榎の女はさながらの錦絵(にしきえ)になって、火照(ほて)ったようなその唇は、その晩の詞(ことば)を口にするのであった。
(今晩は)
 広巳は女に逢いたくなった。
(参詣に来たのなら、まだいるだろう)
 広巳は眼を開けた。そこは海晏寺の前のあの大榎の見える処であった。
(おや、反対(あべこべ)に往ってたか)
 広巳はすぐ引返そうとしたが、醜い争闘(けんか)を引き別けてもらったばかりの女に逢うのはきまりも悪ければ、争闘を見ていた者がまだその辺(あたり)にうようよしているようで足が進まなかった。しかし、ぐずぐずしていて女に往かれては、どこの何人(だれ)と云うことも判っていないので、また今度逢(あ)おうと思っても何時(いつ)逢えるやら判らなかった。
(今逢って、居所をつきとめておかないと、また逢おうと思っても逢えやしない)
 広巳は気まりの悪いことには眼をつむらなくてはならなかった。
(くそっ、本渓湖の戦(いくさ)の思いをすりゃ、なんでもねえや)
 広巳の耳には砲弾の唸(うな)りがよみがえり、かたかたと鳴る機関銃の音がよみがえった。砲煙、銃火、連隊旗、剣、赤鬼のような敵兵。
(左の脇腹に擦過傷(かすりきず)を一つ負うただけで、金鵄(きんし)勲章をもらって、人からは日露戦争の勇士だの、なんだのと云われるが、なにが面白い)
 広巳の感情はたかぶって来たが、それでもその感情の前方(むこう)には錦絵の女があった。広巳の感情はすぐやわらいだ。広巳は八幡宮の前へ往っていた。
(ここだ)
 広巳は入ったがすこし後めたくなった。広巳は眼をやった。あの風船玉売の老婆が、二三人集まって来ている小さな女の子に、商売物の風船玉を見せびらかしている他には何人(だれ)もいなかった。広巳は安心して華表(とりい)を潜(くぐ)って往った。華表を潜りながら拝殿の方へ眼をやった。拝殿の方から嬰児(あかんぼ)を負った漁夫(りょうし)のお媽(かみ)さんらしい女が出て来るところであった。
(もう、帰ったのか)
 広巳は社の左右へ眼をやった。稲荷の祠(ほこら)の傍には岡持(おかもち)を持った小厮(こぞう)と仮父(おやかた)らしい肥った男が話していた。
(それとも、あの二人に何か因縁(いんねん)をつけられて、どうかしたのだろうか)
 因縁をつけられて料亭(りょうりや)へでも伴(つ)れて往かれているとなると、黙ってはいられなかった。
(聞いてみようか)
 広巳は社の右側へ廻って往った。さっき己(じぶん)が腰をかけていた右側の階段に、あの箒(ほうき)の老人が傍へ箒をもたせかけて腰をかけていた。広巳は急いで老人の前へ往った。
「爺(おっ)さん」
 老人の眼はつむれていた。老人は仮睡(いねむり)をしているところであった。
「おい、爺(おっ)さん」
 老人は吃驚(びっくり)したように眼を開けて広巳を見た。
「あ、今の壮佼(わかいしゅ)か」

※(ローマ数字3、1-13-23)

 広巳は冗漫(むだ)な口を利きたくなかった。
「それよりも爺(おっ)さん、今の女を知ってるかい」
 老人はけげんそうな顔をした。
「今の女、今の女って、私が話していた女のことかな、二十七八の脂の乗った、こたえられねえ年増(としま)だが、ありゃ水神様だ、人間がへんな気でも起そうものなら、それこそ神罰で、眼が潰(つぶ)れるか、足が利かなくなるか」
 老人の話はたわごとに近いものであった。広巳はいらいらした。
「そ、そんなことじゃねえのだ、今の、それ、あの女のことだよ」
 老人はおちつきすましたものであった。
「あの女って、水神様のことだろう、今まで私の傍にな、こんな梅干爺でも平生(つねひごろ)の心がけがいいからな、神信心をして、嘘を吐(つ)かず、それでみだらな心を起さずさ、だから神様が何時(いつ)でもお姿を拝ましてくださるのだ、あのお池の中に祭ってござる水神様だ」
 広巳は老人の横面をくらわしてやりたいように思った。
「何云ってるのだ、爺(おっ)さん、俺(おいら)の云ってるのは、今、喧嘩のとき、仲へ入ってくれた女のことだよ、何人(だれ)だい、ありゃ、なんだか俺を知ってるような口ぶりだったじゃねえか、この辺(あたり)の人かい」
「なに、喧嘩の時、仲へ入った女、そ、それが水神様じゃないか」
「水神様だなんて、神様じゃないよ、色の白い、夫人(おくさま)のような女じゃねえか、判らなかったかい」
「判ってるから、水神様だと云ってるじゃないか、まさか汝(おまえ)さんがそれを拝むのじゃねえだろう」
 たった今の事実を、それも傍にいながら明瞭(はっきり)覚えていないのは、頭がぼけているのだろう。
「爺(おっ)さん、すこし、ぼけてるね」
 老人の眼はいきいきとした。
「おい、壮佼(わかいしゅ)、気をつけろ、私(わし)がぼけてる、眼は秋毫(しゅうごう)の尖(さき)もはっきり見える、耳は千里のそとを聞くことができるのだ、汝(おまえ)なんざ無学だから、こんなことを云っても判らないだろうが、私はこう見えても、安井息軒(やすいそっけん)の門にいたのだ、西郷さんの戦(いくさ)に、熊本城に立て籠って、薩摩(さつま)の大軍をくいとめた谷干城(たにたとき)さんも、安井の門にいたのだ、私は運が悪くて、こんなことになっちまったのだが、それでも谷さんとは同門の友人だ」
 安井息軒の名は判らないが、谷村計介の話で、谷干城の事は知っていた。広巳はつい釣りこまれた。
「谷さんと朋友(ともだち)かい」
「朋友だとも、だから痴(ばか)にするものじゃないよ、こう見えても、経書(けいしょ)はもとより、史子百家(ししひゃっか)の書に通じてるのだ、つまり王道に通じているのだ、この王道とはとりもなおさず神の道だ、今度の日露の戦争だってそうだ、日本には神の道に通じているものがいるから、夷狄(いてき)の露西亜(ロシア)に勝ったのだ、鉄砲を打ったり、人を殺すことが豪かったから、勝ったと云うわけのものでない、王道つまり神の道だ、だから私には水神様が時どきお姿を拝ましてくだされるのだ」
 広巳はその女が水神社の方にでも往ってるのではないかと思いだした。広巳はいきなり老人の前を離れて、拝殿の前を横ぎって池の方へ往った。池の周囲(まわり)を石畳にして蒼(あお)どろんだ水を湛(たた)え、その中に小さな島をおいて二つ三つの小さな祠(ほこら)をしつらえてあった。広巳は島へ渡した石橋を渡った。島には何人(だれ)もいなかった。それは橋を渡らなくても一眼に見わたされる島であった。前の端の祠が水神社であった。広巳がその前へ往った時、雪のような物がぼろぼろと落ちて来た。
(おや)
 それは八重桜の花片であった。広巳は四辺(あたり)に眼をやった。一方から欅(けやき)の嫩葉(わかば)の枝が出て来ているばかりで、桜らしい樹はなかった。
(間部(まなべ)山あたりからでも飛んで来たのか)
 広巳の眼は水神社の古ぼけた木連格子へ往った。そこに水神社と云う小さな木札をさげてあった。
(これが水神様か、こんなうす汚い水神様がお姿をあらわしたところで、たいしたこともねえだろう)
 広巳が口元に嘲(あざけ)りを見せた時、黒い物の影が落ちて来た。それは鳶(とび)か烏(からす)かの影のようでもあった。
(前刻(さっき)の鵜(う)か)
 広巳はまた空を見たが何も見えなかった。広巳の眼は池の水の上へ往った。しかし、そこにも鳥らしいものはなかった。
(なあんだ、ばかばかしい)
 広巳は引返した。広巳は他に女のことを尋ねる手がかりがないので、もう一度老人に逢(あ)って確めようとしていた。
(どうも、この辺(あたり)の人らしいぞ、あれが、まさか、水神様の化身でもないだろう)
 広巳はまた嘲りを浮べながら老人のいる処へ往った。老人は略画の烏の髷(まげ)を見せて稲荷の前を掃いていた。
「爺(おっ)さん」
「ほい」
 老人は吃驚(びっくり)したように箒(ほうき)の手をとめた。広巳はおかしくてたまらなかったが笑わなかった。
「前刻(さっき)の女のことだが、ほんとに知らないかい」
 老人はまたけげんな顔をした。
「前刻の女って、なんだな」
「俺(おいら)が喧嘩してた時に、仲へ入ってくれた女さ、ありゃこの辺(あたり)の女じゃないかね」
「見かけない女だよ」
 見かけない女と云うことは女を認めてのことで、さっきのように夢をごっちゃにしたような返事でもなさそうであった。
「そうかね、ほんとに知らないかね」
「知らないよ」
「そうかね」
 それ以上聞いたとて何にもならない。広巳は何か己(じぶん)の頭の中の物を無くしたような気もちになってふらふらと歩いた。

※(ローマ数字4、1-13-24)

 広栄は縁側に近いところで店男の定七と話していた。土地の大地主で、数多(たくさん)の借家を持ち、それで、住宅(すまい)の向前(むこう)に酒や醤油の店を持っている広栄の家は、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)として通っていた。
 そこは表の客座敷の次の室(へや)で、定七の腰をかけている縁側の敷板は、木の質も判らないまでに古びて虫蝕(むしばみ)があり、これも木目も判らないまでに古びた柱によって、その家が如何(いか)に旧家であるかと云うことが窺(うかが)われるのであった。もう一時を過ぎていた。広栄は左の脚の故障があるので、室の中でも松葉杖をはなさなかった。松葉杖は傍にあった。広栄はセルの単(ひとえ)に茶っぽい縦縞の袷羽織(あわせばおり)を着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。
「汝(おまえ)は知らないのか」
「それでございますよ」
 定七は皺(しわ)だらけの馬のように長い顔を見せていた。定七は広栄兄弟が生れない前(さき)からそこの店にいる番頭格の老人であった。
「どうしたと云うのだろうな、汝(おまえ)はどう思う」
「そうでございますよ、旦那が御心配なされているようだし、私もへんに思いますから、せんだって、それとなしに聞いてみたのですが」
「聞いたら、何と云った」
「俺(おいら)は、べつに何もないのだ、兄は俺を小供のように面倒をみてくれるし、不足も何もあるものかと云うのですよ」
 広栄は親子ほども年の違う広巳を、己(じぶん)の小供のように可愛がっているところであった。
「それじゃ、何だろうね、凱旋して来た当座は、やっぱり昔のとおりだったが、どうしたと云うのだろうな」
「それでございますよ。若旦那がへんにしだしたのは、昨年の暮比(ごろ)からでございますよ、元は無邪気で、きびきびして、始終(しょっちゅう)旦那に小遣をねだって、旦那が煩(うるさ)がると、私(わっし)が仲へたってもらってあげるものだから、戦争から帰ってらしても、私(わっし)に、今日は兄(あにき)の機嫌はどうだなんて、よく仰(おっ)しゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、厭(いや)な物でも眼前(めのまえ)にいるようにしてるのですよ」
「女のことじゃないだろうか」
「旦那がせんだっても、そう仰しゃるものですから、それとなしに壮佼(わかいしゅ)に聞かしたのですが、何人(だれ)も知らないのですよ」
「そうか、この比(ごろ)は、私(わし)に顔をあわすのも厭(いや)と云うように、私をさけるのだよ」
「ほんとにどうしたと云うのでしょう、あんな無邪気な、きびきびしてた方が」
「どうしたと云うのだろうな、それで、昨夜(ゆうべ)から帰らないのか」
「そうでございますよ」
「そうか」
 広栄は後の煙草(たばこ)を点(つ)けて庭の方へやるともなしに眼をやった。白沙を敷いた広い庭には高野槇(こうやまき)があり、榎(えのき)があり、楓(かえで)があり、ぼくになった柾(まさき)などがあって微陽(うすび)が射していた。
「おう」
 広栄は庭に何物かを見つけたのであった。それは見るべくして見ることのできなかった物を見つけたような容(さま)であった。それと知って定七の眼も広栄の眼を追った。
「おう、これは」
 庭の右の隅になった楓の老木の根方に一疋(ぴき)の蛇がにょろにょろと這(は)っているところであった。それは三尺近くもある青黒い中に粉のような丹(あか)い斑点のある尻尾の切れた長虫(ながむし)であった。広栄は眼を放さなかった。
「それじゃ、明日は雨だな」
「そうでございますとも、神様がお出ましになったら、雨でございましょうよ」
「今朝から生暖かい、どうも天気が落ちたと思ってたが、やっぱりそうだったか」
「御神酒(おみき)をあげましょうか」
「そうだ、そうしてくれ」
「へい」
 定七は腰をあげた。蛇は二人の正面になった柾の方へにょろにょろと這(は)っていた。定七は蛇の方を見い見い斜(ななめ)に往って表庭と入口の境になった板塀の方へ往って、そこにある耳門(くぐり)の桟(さん)を啓(あ)けて出て往った。広栄は顔を右斜にして背後(うしろ)の方を見るようにした。
「おい」
 それは女房を呼ぶところであったが返事がなかった。
「おい」
 それでも返事がなかった。広栄はすこしじれた。
「おい、お高、お高」
「呼んだのですか」
 それは気のない返事であった。
「ちょっとお出(い)で」
「ちょっと待ってくださいよ」
「何かしてる」
「衣服(きもの)の始末をしてるのですよ」
「衣服ならいいじゃないか、ちょっとお出で、お出ましになったのだから、あの楓(かえで)の」
「そう」
「だから、ちょっとお出でよ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「衣服は後でもいいじゃないか」
「だって」
 広栄はちょっと顔をしかめたが、もう何も云わないで蛇の方へ眼をやった。耳門(くぐり)の方へ往っていた蛇はその時こちらの縁側の方へ方向をかえた。それは何かを暗示しているように思われた。
「何かおぼしめしがあるのか」
 耳門が啓(あ)いて定七が小さな白木の三宝(さんぽう)へ瓦盃(かわらけ)を二つ三つ載っけて入って来た。
「定七、塩もいいか」
「よろしゅうございます」
「そうか」
 定七は庭の隅の楓の下へ往った。楓は微紅(うすあか)い嫩葉(わかば)をつけていた。定七はその楓の根元へ三宝を供えて、その前へ蹲(しゃが)んで掌を合せた。
「定七、上を見てみな」
「へい」
 定七は腰を延ばして片手を額(ひたい)にかざして梢(こずえ)の方へ眼をやった。
「どうだ」
「神様がお出ましになったから、きっとおつれあいも」
 定七は幹から左側の枝へ眼をやった。その左側の枝の中央(なかほど)に一疋(ぴき)の蛇が巻きついていた。
「おう、やっぱり」
「いらっしゃるか」
「いらっしゃいます」
「そうか」
「あらそわれないものでございますよ」
 広栄のいる室(へや)の背後(うしろ)の襖(ふすま)が啓(あ)いて、円髷(まるまげ)の肉づきのいい背の高い女が出て来た。それがお高であった。お高は長方形の渋紙に包んだ量(かさ)ばった物を抱いていた。
「出たのですの」
「そうだよ、お出ましになったのだ」
「どこ」
 庭の方へやったお高の眼に、縁側の近くまで来て、それから右の方へ方向をかえている蛇が見えた。
「ああ、そうね」
「ありがたいことだ、もったいない」
「そうね」気のなさそうに云って、「やっぱり尻尾が切れてるわね」
 広栄は顔をしかめた。
「そ、そんなことを云うものじゃない、そんなことを」
 お高はちらと嘲(あざけ)りを口元に見せた。
「我家(うち)がこうしていけるのも、神様のおかげだ、おろそかに思ってはならない」
「そうね」
 定七は楓(かえで)の下からお高の方を見た。
「夫人(おくさま)、おつれあいも、お出ましになっておりますよ」
「そうかね」
「お庭へ、ちょっとお出(い)でになっては」
「わたし、これから冬着の始末をしなくちゃならないからね」間をおいて、「平どんにでも手伝わしておくれよ」
「すぐでございますか」
「すぐさ、こうして持ってるじゃないの」
「よろしゅうございます、それでは、平吉を呼んでまいります」
「すぐだよ」
「よろしゅうございます」
「それじゃ、わたしは、土蔵の前にいるからね」
「へい」
 定七は急いで出て往った。お高はすまして立っていた。
「ちょっと手間がかかるのですが、ほかに用はないのですか」
「ない」
「それじゃ、ちょっと手間がかかりますよ」
「いい」
 広栄は蛇の方を一心になって見ていた。蛇は表座敷の前から右の方へ姿を消して往った。
「例年(いつも)のとおりだ、もったいない」
 お高は広栄の詞(ことば)を聞きながして引込んで往ったが、間もなく裏手の三つ並んだ土蔵の右の端(はし)の口へ往って立っていた。お高の頬はつやつやしていた。お高の眼は物置と庖厨(かって)の間になった出入口へ往っていた。と、十七八の色の白い小生意気に見える小厮(こぞう)が土蔵の鍵を持って来た。
「早くいらっしゃいよ、なにをまごまごしてるの」
 小厮はすました顔をしていた。
「鍵が見つからなかったものだから」
「鍵が見つからないなんて、平生(いつも)の処に置いてあるじゃないの」

※(ローマ数字5、1-13-25)

 土蔵は三戸前ともに古かった。土蔵の入口にはそれぞれ厚ぼったい土戸が締っていた。小厮の平吉はその戸の錠口へ鍵を入れて錠を放したが、重いので手ぎわよく啓(あ)けることができなかった。
「弱虫ね、このひとは」
「だって、なかなか、この戸は、ね」
「男の癖に、そんな戸が重いなんて、だめだよ」
 お高の詞(ことば)はひどくはすっぱであった。
「だって、この戸は、なかなか千人力でないと、あかねえのです」
 戸はやっと啓(あ)いた。戸は二重戸になっていて土戸の次には金網戸があった。
「だめだよ、口端(くちさき)できいたふうな事を云ったって、からっきしだめじゃないか、しっかりおしよ」
「へッ」
 平吉はとぼけるように云って金網戸の錠を啓けた。金網戸は錠前も軽ければ戸も軽かった。お高は石段の上へ履物を脱いで中へ入った。
「鼠(ねずみ)が入るから、早く入って、お締めよ」
「へい」
 平吉は後から急いで入るなり、内から金網戸を締めた。諸道具をぎっしり積みあげてある土蔵の中は微暗(うすぐら)かった。
「用心がわるいから、鍵をかけるのだよ」
「へい」
 平吉は手さぐりに鍵をかけた。
「かけたの」
「へい」
「それじゃ、二階へ往って窓を啓(あ)けておくれよ」
「へい」
 平吉が左の方にある階段へ眼をやった時、お高はまたはすっぱな声をだした。
「だめよ、汝(おまえ)、手ぶらで往っちゃ、これ持ってくのよ、お婆さんに持って往かして」
 それは抱きかかえている渋紙包を持って往けと云うのであった。
「へい」
「そうじゃないの」
「へい」
 平吉はまたとぼけるように云って渋紙包を受けとった。
「ぼやぼやしてると落っこちるよ」
「へいッ」
 平吉は階段をあがって往った。お高はその平吉の厚子(あつし)の下から露出している蒼白(あおじろ)い足端(さき)のちらちらするのを見ていた。そして、その蒼白い足端が見えなくなったところで、ごとごとと云う音がした。それは窓の戸を啓ける音であった。同時に二階の昇口(あがりくち)が明るくなった。
「啓けたのですよ」
「そう」
 お高はあがって往った。二階は昇口の処に三畳敷位の空間をおいて箪笥(たんす)や長櫃(ながもち)を置いてあった。平吉は窓の傍に渋紙包を持って立っていた。
「なにをぼんやりしてるの」
 平吉は眼に微笑(うすわら)いを見せていた。
「胡蓙(ござ)を敷いておくれよ」
 お高は渋紙包に手を持って来た。
「ここへ」
「そうよ」
 平吉は渋紙包をわたして胡蓙を探した。胡蓙はすぐ傍の箪笥(たんす)の横手に巻いて立てかけてあった。平吉はそれを執(と)って敷きかけた。
「ここには、御一新(ごいっしん)前からの埃(ほこり)があるからね」
「へい」
「気をつけてね」
「へい」
 胡蓙が解けるとともにもう薄すらと埃が見えた。お高は片手を団扇(うちわ)にして顔の前を煽(あお)いだ。
「云わないことか、それ、こんなに埃が立つじゃないの、しっかりおしよ」
「へい」
「へいじゃないよ、ほんとだよ」
「へい」
 平吉は平気で胡蓙(ござ)を敷いた。胡蓙は二枚あった。
「ほんとに厭(いや)、ねえ」
 お高は渋紙包を胡蓙の上においてその上へ横すわりに坐った。
「これから衣服(きもの)の始末をするから、手伝うのだよ」
 平吉は昇口(あがりくち)の方を背にして立ちながら何か嗅ぐようにしていた。
「臭いなあ」
 お高も鼻をやった。
「黴(かび)じゃないの」
「黴でしょうか」
 お高は艶(なまめ)かしい笑いを見せた。
「汝(おまえ)、黴の匂(におい)を嗅いで、へんな気がしやしないこと」
 平吉には判らなかった。
「黴の匂ですか」
「そうよ、黴の匂を嗅いで、何か思いだしやしないこと」
「べつに、何も」
「ないの」
「ねえのです」
「私は思いだすよ、私は黴の匂を嗅ぐと、娘の時のことを思いだすよ」
「へえ」
「汝(おまえ)はぼくねんじんね」
「へえ」
「痴(ばか)ねえ、この人は」
「へえ」
「いいから」窓の左側になった箪笥(たんす)へ指をやって「あの引抽(ひきだし)を開けておくれよ」
「へい」
 平吉はうごかなかった。平吉はなにかしら主婦から重大なものを求められそうな気がしているので、箪笥の引抽を開けると云うようなあっけないことをする気になれなかった。
「あの引抽だよ、上から二番目だよ」
「へい」
 平吉はしかたなしに箪笥の前へ往って二番目の引抽に手をかけた。
「そっくり脱(ぬ)いて来ておくれよ」
「へい」
 平吉は引抽を啓(あ)けた。中には単衣(ひとえ)らしい女物が入っていた。平吉はその引抽を脱いてお高の前へ持って往った。
「やっと持てたね」
 お高は何かしら平吉にからむのであった。
「へえ」
「これをすましたら、佳い物を見せてあげるから、ね」
「なんです」
「立ってもいてもたまらないと云うものだよ、どう」
「へえ」
 お高は引抽の中の衣服(きもの)を手早く胡蓙(ござ)の上へ出して、傍の渋紙包を解き、その中の畳(たた)んで二つにしてあるのを延ばし延ばし引抽(ひきだし)の中へ入れた。平吉は主婦の詞(ことば)を待っていた。
「ぼんやりしてないで、引抽を元へやっておくれよ、佳い物を見せてやるじゃないの」
「へい」
 平吉は急いで引抽を持って往ってさした。お高は出した衣服(きもの)を二つに折り折り渋紙の中へ入れた。
「それじゃ、ついでに蒲団(ふとん)を出しておくれ、洗濯しなくちゃならないからね」
「へい」
 返事をしたものの蒲団がどこにあるか判らないので、平吉は四辺(あたり)をきょろきょろと見た。お高は渋紙包の緒を結び終ったところであった。
「あれさ、あの長櫃(ながもち)の中だよ」
 お高の指は左側の壁に沿うて並べた長櫃の一つへ往っていた。平吉はこちらから三つ目の長櫃の前へ往った。
「その中に入ってるのを、皆出しておくれよ」
「へい」

※(ローマ数字6、1-13-26)

 平吉は長櫃(ながもち)の蓋(ふた)を啓(あ)けた。中には松に鶴の模様のある懸蒲団(かけぶとん)が三枚入っていた。裏は萌黄(もえぎ)であった。
「それも黴(かび)臭いだろう」
 なるほど黴の匂(におい)がむうとした。
「どう」
「臭いのです」
「佳い匂じゃないの、私はこたえられないよ」
「好奇(ものずき)だなあ」
「好奇と云や、好奇かも判らないが、私はこたえられないよ」ちょっと切って、「一枚敷いてごらんよ」
「そこへですか」
「そうよ」
 平吉は主婦のすることが判らなかった。平吉は傍の長櫃の上に重ねた蒲団の一枚を執(と)った。お高は渋紙包を持って起(た)ち、それを傍の具足櫃(ぐそくびつ)の上へおいた。平吉はそこで蒲団の萌黄の裏を上にして胡蓙(ござ)の上へ敷いた。お高はその上へすぐ坐った。
「佳い匂(におい)じゃないの」
「へえ」
「汝(おまえ)もお坐りよ」
「へい」
 平吉はその横手に蹲(しゃが)んだ。
「どう、こたえられない匂じゃないの、私ゃ、この匂を嗅ぐと気が壮(わか)くなるよ」
「好奇(ものずき)だ」
「好奇かも判らんが、私は好きさ、佳い匂じゃないの、この匂を嗅いでると、人が恋しくなるよ」
「へえ」
「そうだった、汝(おまえ)に見せてやるものがあったね、それでは見せてあげるから、わたしを伴(つ)れてっておくれよ」
 伴れて往けとは道の悪い遠い処であろうか。
「どこです」
「どこでもいいから、私を負(おぶ)っておくれよ」
 平吉はさすがに眼を見はった。
「そんな、へんな顔をするものじゃないよ」
「へい」
「負っておくれよ」
「へい」
 平吉は主婦の前へ往った。
「あっち向くのだよ、こっち向いてちゃ、負われないじゃないの」
「へい」
 平吉は主婦に背を向けて中腰になった。お高の体がそれに重(お)んもりと負ぶさった。
「重い」
「なあに」
 平吉は主婦を負って体を起した。
「あっちよ」
 お高の手が眼の前にあった。平吉は主婦の手の指している方へ往かなくてはならなかった。そこは長櫃(ながもち)の並んだ処で、長櫃の前には葛籠(つづら)が並んでいた。平吉はその間を入って往った。
「ここよ」
「へい」
 平吉が停まるとお高はおりた。そこに葛籠の上に寺小屋用の文庫があった。お高はその中に手をやって二三冊の草双紙(くさぞうし)のようなものを執(と)った。
「それじゃ、帰るのだよ」
「へい」
 平吉はまた背を向けた。お高はまた重んもりと負ぶさった。平吉は引返した。そして、蒲団(ふとん)の上に帰ったところで、お高の手にした書物が目の前へ来た。それは極彩色の錦絵(にしきえ)であった。
「これ、見えるの」

 庭前(にわさき)に這(は)っていた尻尾の切れていた蛇は、楓(かえで)の木へ登りかけた。平吉を呼びに往っていた定七は縁側(えんがわ)へ引返して来て、広栄とともに蛇に注意していた。
「もう、お疲労(くたびれ)になったと見える」
 広栄は頭(かぶり)を揮(ふ)った。
「いや、何かおぼしめしがある、そんなもったいないこと」
「へい、これは、どうも」
「そうじゃ」
 蛇は上へ上へと登って、やがて微紅(うすあか)い嫩棄(わかば)に覆われた梢に姿を隠して往った。
「もったいない」
「ほんとに、もったいないことでございます」
 広栄の頭を掠(かす)めたものがあった。広栄は定七に眼をやった。
「汝(おまえ)は、も一つお神酒(みき)とお洗米(せんまい)を持って来てくれないか、お倉の方へな」
「よろしゅうございます、すぐ持ってまいります」
「それじゃ、俺は前(さき)へ往ってるから」
「それじゃすぐ持ってまいります」
 定七はすぐ腰をあげて出て往った。広栄も傍の松葉杖を引き寄せて体を起し、故障のある左の脚を引きずるようにして、玄関と庖厨(かって)の入口を兼ねた古風な土間へおり、そこにあった藤倉草履(ふじくらぞうり)を穿(は)いて、ばったの飛ぶようにぴょいぴょいと裏口から出て往った。
 出口に花をつけた桐(きり)の古木があった。羽の黒い大きな揚羽(あげは)の蝶(ちょう)がひらひらと広栄の眼の前を流れて往った。
「蝶か」
 広栄はやがて土蔵の前へ往った。広栄の往った土蔵は真中の皆古い中でも一ばん古い土蔵であった。右の土蔵はお高と平吉が入っている土蔵。広栄は松葉杖に縋(すが)って休みながら右側の土蔵の口へ眼をやった。
「お待たせしました」
 定七は一方の手に神酒徳利(みきとくり)と洗米(せんまい)の盆を乗っけた三宝(さんぼう)を持ち、一方の手に土蔵の鍵を持っていた。
「三宝を持とう」
 戸を啓(あ)ける間は持たなくてはならなかった。定七は三宝を広栄にわたして戸を啓けにかかった。戸はすぐ啓いた。定七は広栄の傍へ来て三宝を執(と)った。
「それでは」
「そうか」広栄は松葉杖を執りなおしてぴょいぴょいと土蔵の中に入った。広栄が入ると定七も入って金網戸を締めた。
「鼠(ねずみ)はいいかな」
「よろしゅうございます」
「彼奴は油断もすきもできないから」
「そうでございますよ」
 微暗(うすぐら)い土蔵の中には中央(なかほど)に古い長櫃(ながもち)を置いて、その周囲(まわり)に注連縄(しめなわ)を張り、前に白木の台を据(す)えて、それには榊(さかき)をたて、その一方には三宝(さんぽう)を載っけてあった。
「それでは、三宝をとりかえてくれ」
「へい」
 定七は何時(いつ)の間にか鍵を腰にさして三宝ばかり持っていた。定七は白木の台の前へ往って三宝を除(と)り、持っている三宝をそれに置きかえた。
「いいか」
 いいかとは準備(したく)が出来たかと云うのであった。
「よろしゅうございます」
「それでは」
 広栄は一脚(ひとあし)ぴょいと進んで、そのまま蹲(しゃが)んで白木の台に向って拝礼をはじめた。そして、ちょっとの間合掌していてから起きた。起きて長櫃の方へ眼をやった。
「お塔は」
「そうでございますよ」
「拝見しよう」
 広栄は斜(ななめ)にぴょいぴょいと往って長櫃のうえへ眼をやった。そこには小さな玩具(おもちゃ)のような三寸位の富士形をした微白(ほのじろ)い物があった。それは蟻(あり)の塔で白蟻の糞であったが、広栄は神聖視しているのであった。

※(ローマ数字7、1-13-27)

 街路(とおり)一つ距てて母屋と向きあった肆(みせ)は、四間(けん)室口(まぐち)で硝子戸(ガラスど)が入り、酒味噌酢類(など)を商うかたわらで、海苔(のり)の問屋もやっていた。それはもう三時近かった。肆には二三人の客があった。
 そのとき広巳はのそりと入って来た。その広巳の眉の濃い浅黒い顔は土色に沈んでいた。広巳は肆の者には眼もやらないで、肆の左側の通りぬけになった土室(どま)を通って往った。そこに腰高障子が入っていて、その敷居を跨(また)ぐと庖厨(かって)であった。そこは行詰に釜のかかった竃(へっつい)があり流槽(ながし)があって、右側に板縁つきの室(へや)があったが、その縁側は肆の者が朝夕腰をかけて食事をする処であった。
「お帰んなさい」
 乾(ひ)からびたような声ではあるが、懐しみのある声であった。胡麻塩(ごましお)の髪の毛を小さな髷(まげ)に結った老婆が、室の中で半纏(はんてん)のような物を縫っていた。それは定七の女房のお町であった。定七夫婦はそこに起臥(ねおき)していた。広巳はぼんやりお町を見た。
「うん」
「どこへ往ってらしたのです」
「うん」
「ほんとにどこにいらしたのです、皆さんが心配してらっしゃるのよ、ほんとにどこにいらしたのです」
 広巳は上唇をちょっと顫(ふる)わすようにした。それは広巳の笑う時の表情であるが笑いにはならなかった。
「まあ、いいさ」
 お町の眼はその時広巳の右の袖口(そでぐち)へ往った。
「まあ、袖口が綻(ほころ)びているじゃありませんか」
 袖口の綻びているのは争闘(けんか)か、それとも長い煙管(きせる)で巻きつけられたがための綻びか。
「品川ですね」
 広巳はまた上唇を顫わしたばかりで何も云わなかった。
「そうでしょう、きっと」
 広巳はお町のほうへくるりと背を向けて縁側へ腰をかけた。
「まあ、いい」
「御飯はどうなさいました」
「喫(く)えるのか」
「おすみになっておりませんか、すぐ出来ますよ」
「それじゃ喫おう」
「もすこしお待ちになると温い御飯も、お菜(かず)もできますが」
「お菜はどうでもいい」
「それでは、すぐめしあがりますか」
「うん」
「それでは」
 お町はもう起(た)っていた。お町は一方の戸棚を啓(あ)けて準備(したく)にかかった。広巳はそのままぼんやりとしていた。
「上へおあがりになっては」
 膳の準備(したく)はもう出来てお町は長火鉢の鉄瓶を見ていた。
「いい、ここで」
「それでは」お町は膳を持って広巳の右側へ往った。「薩摩(さつま)あげと、佃煮(つくだに)しかありませんが」
「いい」
 広巳は体を斜(ななめ)にした。お町は後から大きな飯櫃(めしびつ)をやっとこさと拘(かか)えて来た。
「おつけしましょうか」
「いい」
 広巳はむぞうさに飯櫃の蓋(ふた)を除(と)って飯をつけて喫(く)いだした。品川の妓楼へ一泊した広巳は、家へかえるのが厭(いや)だから、朝帰りの客を待っている小料亭(こりょうりや)へあがって、旨くもない酒を喫(の)んで気もちをまぎらし、飯も喫(く)わないで帰っているので、喫いだしてみるとひどく旨かった。広巳は夢中になって喫った。
「若旦那」
 お町は下へおりて流槽(ながし)で何か洗っていた。広巳は茶碗ごしに眼をやった。
「昨夜(ゆうべ)は、品川ですか」
 広巳はまた上唇を顫(ふる)わしたが、それはいくらか笑いになった。
「なに」
「品川でしょう、それとも大森」
「なに」
「ほんとに若旦那は、この比(ごろ)へんじゃありませんか、若旦那は、どんなりっぱな家からでも、ものによっては、華族のお嬢さんでも、奥さんにもらえるじゃありませんか、つまらない遊びはよして奥さんをもらったらどうです、旦那さまも御心配になっておりますよ」
「ふん」
 広巳はそれに深く触れたくなかった。広巳はそれをはぐらかすために勢よく飯を掻(か)きこんだ。お町は前へ来て立っていた。
「ほんとですよ、山県(やまがた)さんとか伊藤さんとか、豪い方の奥さんは、歌妓(げいしゃ)だと云いますから、歌妓でもお妓(じょろ)でも、それはかまわないようなものの、お宅は物がたい家ですから、堅気(かたぎ)のうちからお嫁さんをもらわなくちゃなりませんが、どうかしてるのですか、奥さんも心配してらっしゃいますよ」
「へッ」
 広巳の口から吐きだすような詞(ことば)が出た。お町は広巳を見なおした。
「ほんとですよ、奥さまが、心配してらっしゃいますよ、今朝も奥さまがいらしたのですよ」
「俺(おいら)、己(じぶん)の女房は、己でもらうんだ、他(ひと)の世話にならないや」
 お町は眼を円(まる)くした。
「そ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ、奥さまや旦那さまが、貴下(あなた)を我が子のように、可愛がってるじゃありませんか」
「あまり可愛がられたくないや、俺(おいら)、嫌いだ」

※(ローマ数字8、1-13-28)

 その時店の方で男の子の軍歌を唄う声がした。広巳はそれに気をとられたようにした。
「ああかい、ゆうひに、てらされて、とうもは、のずえの、いしの、した、――まっさき、かあけて、とっしんし――」
「ひろぼうか」
 男の子をからかっているのか壮(わか)い男の声が軍歌に交(まじ)りあった。広巳は気が注(つ)いて残りの飯を掻(か)きこみ、落すように茶碗を置いて、お町の持って来てある番茶の土瓶を執(と)って注(つ)いだ。
「やあい、やあい、痴(ばか)やあい」
 七つか八つに見える子が駈けて来た。それは広栄の一人子の広義で、広巳の可愛がっている甥(おい)であった。広義は広巳の方へ隼(はやぶさ)のように駈け寄った。一方の手に茶碗を持っている広巳は、その茶碗の茶を甥(おい)にかけまいとして、一方の手で走りかかって来た広義を支えた。
「あぶない、茶がかかる」
「かかったって、いいや」
 広巳はすばやく茶碗を置いた。
「茶が眼にでもかかったら、眼が潰(つぶ)れるぞ」
「潰れたっていいや、東郷大将だ」
「眼が潰れたら、軍人になれんぞ、軍人になれなきゃ、東郷大将にも、乃木(のぎ)大将にもなれんぞ」
「なれるのだい、なれるのだい、眼が潰れたって、なれるのだい」
 広義は広巳の首ったまに飛びつこうとしていたが、広巳がかわして飛びつかせなかった。
「眼が潰れたら、鉄砲が打てないや、鉄砲が打てない軍人があるものかい」お町に気がついて、「なあ、姨(ばあ)さん」
 お町は笑っていた。
「眼が潰れたら按摩(あんま)さんになるのだよ、ねえ坊ちゃん」
 広義は広巳の首ったまに手がやれないのでじれていた。
「痴(ばか)、お町の痴やあい」
「だって、そうじゃありませんか、眼が潰れて、鉄砲が打てなけりゃ、按摩さんになるより他に、しようがないじゃありませんか」
「なに云ってやがるのだ、お町の痴(ばか)の、婆あやあい」
 その時広巳の支えていた手に隙(すき)が出来た。広義はいきなり膝(ひざ)の上へ飛びあがって、それから一方の足を背のほうから右の肩へ廻すなり、肩の上に馬乗になって額(ひたい)に両手をかけた。
「やあい、やあい、肩車になったのだ」
 広巳は広義の足に両手をかけた。
「按摩(あんま)さんの大将は、馬に乗れないから、肩車に乗ったのか」
「なんでもいいやい」お町のほうを見て、「お町の痴やあい」
 お町は広巳に云いたいことがたくさんあった。
「坊ちゃん、叔父さんは、お疲れになってるのですよ」
「疲れるものかい、叔父さんは、昨夜(ゆうべ)、品川のお妓楼(じょろや)へ往ったのだい」
 お町は口がふさがった。広巳は笑いだした。
「そうか、そうか、叔父さん、品川へ往ったのか」
「往ってたのだあい、品川のお妓楼へ往ってたのだあい」
「何人(だれ)がそんなことを云ったのだ」
「お母(っか)さんが云ってたのだあい」
「なに、お母さんが」
「云ったのだあい、云ったのだあい」
 同時に広巳は腰をあげた。広義は落されまいとして広巳の額にやっていた手に力を入れた。
「この小厮(こぞう)をどこかへおっぽりだして来る」
 広巳は庖厨口(かってぐち)からゆるゆると出て往った。出口には車井戸があって婢(じょちゅう)の一人が物を洗っていた。車井戸の向うには一軒の離屋(はなれ)があった。それが広巳の起臥(ねおき)している室(へや)であった。広巳は離屋の前を通って広場へ出た。そこに梅の木があり槇(まき)の木などがあって、その枝には物干竿(ものほしざお)をわたして洗濯物をかけてあった。
「おい、ひろ坊」
「うん」
「この木の上へほりあげてやろうか」
 そこには枝の延びた槇の木があった。
「厭(いや)だい」
「それじゃ、天へほりあげてやろうか」
「厭だい」
「そんな弱いことで、どうする、男は何時(いつ)でも、腹を切らなくちゃならんが、汝(おまえ)は腹が切れるか」
「厭だい」
「厭だ、怕(こわ)いのか」
「怕くなくっても、厭だい」
「怕くないのに厭だと云う奴があるか、弱虫、しっかりしろ」
「しっかりしてるのだい」
「しっかりするものか、しっかりしてないよ、ほんとにしっかりしないと、たいへんだぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかもわからんぞ、汝(おまえ)になにを云ってもわかるまいが、ほんとにしっかりせんと、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)の山田も、屋根へぺんぺん草が生えるぞ、しっかりしろよ、しっかり」
「しっかりするのだい」
「そうかしっかりするか、しっかりせんといかんぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかも判らんぞ、しっかりしろよ、汝はまだ何も判らんが、困った奴を背負いこんだものだ、畜生、弟にまでふざける奴だ、兄貴が可哀そうだ」
「あにきって何人(だれ)だい」
「何人でもいいから、しっかりしろよ、汝がしっかりしてくれんと、ぺんぺん草だぞ」
「ぺんぺん草って、なんだい」
「ぺんぺん草は、草だよ、家が潰(つぶ)れて、貧乏になると、ぺんぺん草が生えるのだよ」
「自家(うち)は、富豪(かねもち)だい」
「さあ、その富豪が、しっかりしないと潰れるのだ、家が潰れないようにするには、皆が人の道を守って、子は親に孝行するし、兄弟は仲好くするし、女房は女房で、所天(ていしゅ)を大事にしなくちゃならん、その女房が所天を痴(ばか)にして、品行(みもち)の悪いことをしよると、家が潰れるのだ」
「女房ってなんだい」
「お媽(かみ)さんのことだよ」
「おかみさん、それじゃ自家(うち)のお母(っか)さんも、女房かい」
「そうだよ」
「それじゃ、自家(うち)のお母さんが、自家を潰(つぶ)すのかい」
「お母さんが潰しはしないさ、これは物の譬(たとえ)だよ、しかし、お母さんだって、悪いことをすりゃあ、自家が潰れるのだよ」
「そう」
「そうさ、だから、お母さんもお父さんを大切にして、痴(ばか)にしちゃならんよ」
「うん」
「判ったか」
「判ったのだい」
「よく覚えとれ」
「うん」
 媚(こ)びるような艶(なまめ)かしい声がした。
「また叔父さんに、そんなことをして、叔父さんが重いじゃありませんか」
 広巳は立ち縮(すく)んだようになった。
「厭(いや)ねえ、この子は」
 お高が傍へ来て立った。
「いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「重いのですよ、叔父さんは、苦しいのですよ」
「いいのだい、いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「いいことはありませんよ、苦しいのです、それに叔父さんは、お疲れよ」莞(にっ)として反(そら)している広巳の眼を追っかけて、
「ねえ、叔父さん」
 広巳はよろよろと体をよろけさした。
「あ」
 広義は驚いて広巳の額(ひたい)に掻(か)きついた。広巳は甥(おい)を躍(おど)らすことによって気もちの悪い対手(あいて)のまつわりをすこしでも避けようとしていた。広義は騒ぎだした。
「厭(いや)だい、厭だい、びっくりさして、厭だい」
「そんなことで、びっくりする奴があるかい」
「だって、だって、黙っててやるじゃないか、厭だい、厭だい、どうしても降りないやい」
 お高がまたまつわって来た。
「叔父さん、そんな小供、うっちゃりなさいよ」
「うっちゃられるものかい、厭だい、厭だい」
「だめよ、ほんとにだめよ、叔父さんはお疲れよ、だから、今晩、お母(っか)さんが精のつくものを、御馳走してあげるのだよ」ちょっと間をおいて、「叔父さん、今晩は家にいらっしゃいよ、叔父さんは、私が嫌いだから、何時(いつ)も逃げるのだが、今晩は逃がさないわ、叔父さん、いいでしょう、今晩、御馳走しますからね」
 広巳はまたよろよろと体をさした。広義はまた驚いた。
「痴(ばか)、叔父さんの痴、痴」
 広義は広巳の顔を平手でばたばたと叩いた。それには広巳が困った。
「痛い、痛い、降参、降参」
「厭(いや)だい、厭だい、痴」
 広義は嬌(あま)ったれて泣き声をたてた。広巳は広義の足にやっていた手をはずしてその両手を捕えた。
「降参、降参、降参だよ」
「厭だい、厭だい」
 広義は手を動かすことができなくなった。
「どうだい、もう動けないだろう」
「動けるのだ、動けるのだ」
 広義は体をもがいた。
「ほんとに、叔父さんがくるしいじゃないの、おりなさいよ、それに今日は、まだ復習をしないじゃありませんか」
「厭だい、厭だい」
「この坊主、どこかへおっぽり出せ」
 広巳は何かを払い落すように叫ぶなり、ぐるりと体の方向(むき)をかえて井戸の方へ走りだした。

※(ローマ数字9、1-13-29)

「もし、もし」
 おっとりした女の児の声がしたので広巳は足をとめて後を見た。十四五ぐらいに見える二人の少女が右側の生垣のある家から出て来たところであった。少女だちは同じように紫の矢絣(やがすり)の袖(そで)の長い衣服(きもの)を被(き)ていた。広巳は知らない女の児のことであるから、他の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま往こうとした。
「どうかお入りくださいまし」
 少女だちはしとやかに頭(つむり)をさげた。それでも広巳は己(じぶん)へ云っているとはおもわれないので、そこをはなれようとした。
「あの、もし、貴郎(あなた)は、鮫洲の」
 鮫洲と云えば確に鮫洲である。広巳は足をとめて少女を見なおした。
「貴郎は、山田さんでいらっしゃいましょう」
 鮫洲の山田と云えば己(じぶん)のことである。
「鮫洲の山田ですが」
 広巳は眼を見はった。少女の一人は莞(にっ)とした。
「奥さまがお待ちかねでございます」
 逢(あ)う約束をしている者はなかった。広巳は人違いだろうと思った。
「それは、人がちがってましょう。おいらは、いや、わたしは、鮫洲の山田広巳ですが」
「人違いではございません、貴郎(あなた)でございます」
 違わないと云っても己(じぶん)には覚えがない。
「だが、わたしは、そんな方は知らないですが」
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります」
 ついしたら不倫な嫂(あによめ)ではないか。だが、まさか。
「何人(だれ)です」
「貴郎の御迷惑になるような方ではございません、お姓名(なまえ)を申しあげても、貴郎は御存じないと思いますから」
 こっちは名も知らない人か、それでは嫂でもなさそうであるが、それなら何人(だれ)か。己には他に交渉を持っている女はない。
「どうもおかしいなあ」
 広巳は考えた。
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります、どうぞ」
 嫂でなければたいしたこともない。どこへ往こうと云う当(あて)もなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は前方(むこう)が知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。
「ほんとに、わたしですか、人違いじゃないですか」
「けっして人違いではございません、どうかお入りくださいまし」
「そうですか、じゃ」
 広巳は少女の方へ往った。垣根には茨(いばら)のような白い小さな花を点々とつけていた。
「こっちですか」
 こっちは判っているが何かしらきまりがわるいので聞いてみた。
「はい」
 少女は紫の矢絣(やがすり)の袂(たもと)をひるがえして前(さき)に立って往った。門の中には禿(ち)びて枝の踊っているような松の老木があり、椿(つばき)の木があり、嫩葉(わかば)の間から実の覗(のぞ)いている梅の木があって門の中を覆うていた。少女はその樹木の枝葉の間を潜(くぐ)って広巳を導いた。そして、ちょっと往ったところで樹木の枝葉がなくなって、お花畑のような赤白紫黄、色とりどりの葉を持ち花をつけた草庭になって、その前に枌葺(そぎぶき)の庵室のような建物があった。
 四方(あたり)には麗(うららか)な陽(ひ)があった。水の澄みきった小さな流れがあって、それがうねうねと草の間をうねっていたが、それにはかちわたりの石を置いてあった。少女はその石の上を福草履(ふくぞうり)のような草履で踏んで往った。広巳はうっとりとなって少女に跟(つ)いて往った。そこには丁子(ちょうじ)の花のような匂(におい)がそこはかとしていた。少女の声が耳元でした。
「さあ、どうぞ」
 建物の前には黒い虎の蹲(うずく)まっているような脱沓(くつぬぎ)石があった。広巳は室(へや)の中を見た。室の中には二十七八に見える面長(おもなが)の色のくっきり白い女が、侵されぬ気品を見せて坐っていた。
(おや)
 広巳は胸のときめきをおぼえた。海晏寺の前の榎(えのき)の傍で擦れちがい、八幡祠の諍闘(けんか)の際に見た女にそっくりであった。女は広巳と眼をあわすなり莞(にっ)とした。
「さあ、どうぞ」
「は」
 はと云ったものの女の気品に押されて立ち縮(すく)んでしまった。
「他には何人(だれ)もいないのよ、ささ、どうぞ」
「は」
「ほんとに何人もいないから、遠慮はいりません」少女の方を見て、「お客さんは、はにかんでいらっしゃるから、汝(おまえ)だちがあげておやりよ」
 女は莞とした。それは己(じぶん)の姨(おば)さんのような温みのある詞(ことば)であった。少女の微笑が聞えた。
「さあ、どうぞ」
「おあがりなさいましよ」
 少女の手がそれぞれ双方の手に来た。広巳は気もちが浮きたった。
「あがります」
 広巳は少女の手を揮(ふ)りはらって上へあがった。広巳は笑っていた。広巳に跟(つ)いてあがった少女の一人は、女に近く座蒲団(ざぶとん)を敷いた。それは菰(こも)の葉のような蒼白(あおじろ)い蒲団であった。
「さあ、お坐りなさい」
「は」
 広巳は坐ったものの眩(まぶ)しいので顔を伏せた。少女の一人がもう茶を持って来た。
「どうかお茶を」
 広巳はちょっと頭をさげた。女の軽く少女に云いつける声がした。
「お茶じゃ、話ができないから、あれを持っていらっしゃい」
「は」

※(ローマ数字10、1-13-30)

 少女は小鳥のように身を飜(ひるが)えして往った。広巳はやっぱり眩しかった。
「こんな処で何もありませんが、何か持って来さしますから」
 何か持って来さすとは酒であろうか。ここでは謹(つつし)んだうえにも謹まなくてはならない。
「どうか、それは」
「なに、こんな処ですから、何もありませんよ」
 広巳は押えつけられているようで、それ以上は何も云えなかった。広巳は困っていた。そこへ少女だちが引返して来た。少女だちは広巳の前へ何かことことと置いた。
「それでは、めしあがれ、ほんとに何もありませんよ」
 そこで飲食するのは何だか物の霊を汚すように思われるのであった。
「どうか、それは」
「いいでしょう、めしあがれ、貴郎(あなた)は、私をあまり御存じないでしょうが、私はよく存じておりますわ」
「は」
「まあ、そう堅っくるしくしないで、めしあがれ、それじゃ話がしにくいじゃありませんか」
「は」
「男子の癖に、遠慮なんかするものじゃないことよ、貴郎は、日露戦役の勇士じゃありませんか、それに、この間はね」
 女の微(かすか)に笑う声がした。この間とは八幡祠のことであろう。それではやっぱり彼(か)の女であり、海晏寺の前の榎(えのき)の傍の女であったのか。広巳はそっと女の方を見た。女のあでやかな顔があった。広巳は恥かしい中にもひどく嬉しかった。
「私が判りまして」
「ああ」
「とにかく、一つめしあがれ、話がしにくいじゃありませんか」
 広巳は一ぱいもらう気になった。広巳は顔をあげた。細長い脚(あし)のついた二つ三つの銀盆に菓子とも何とも判らない肴(さかな)を盛ってある傍に、神酒徳利(みきとくり)のような銚子を置いて、それに瓦盃(かわらけ)を添えてあった。
「お酌しましょう」
 少女の一人がもう銚子を持っていた。広巳は気もちがほぐれた。広巳は瓦盃を持って少女から酌をしてもらった。
「二三杯つづけてめしあがれ」
 女は広巳の気もちを硬(こわ)ばらさないように勤めているように見えた。広巳は一杯の酒を空(あ)けた。すると少女がもう後を充(み)たした。
「続けてめしあがれ、そうしないと、堅っくるしくて面白い話もできないじゃないの、私いつからか、貴郎(あなた)にゆっくりお眼にかかりたいと思ってたのよ、今日はやっと見つかったものだから」
 やっと見つかったとは、庭でも歩いていて見つけたものであろうか。広巳の手はしぜんと瓦盃(かわらけ)へ往った。女は詞(ことば)を続けた。
「でも、貴郎は、私が判らないでしょう」
「そうです」
「今に判りますよ、判らなくたって、これからお知己(しりあい)になりゃ、いいでしょう」
「あ」
 広巳は曖昧(あいまい)な返事をしてまた瓦盃を持った。瓦盃は後から後からと充たされた。
「どう、これから、お朋友(ともだち)になってくれます」
 それは己(じぶん)から願うところであり、どうしてもそうしてもらわなくてはならないのであったが、はっきりとそれを口に出すことができなかった。
「あ」
「いけないの」
 広巳はしかたなしに微笑して女を見た。女は気品のある顔が心もち火照(ほて)っていた。
「どう」
「へ」
「厭(いや)なの」
「そ、そんな」
「それじゃ、なってくれるの」
「あ」
「どう、はっきりおっしゃいよ、まだ御酒がたりないじゃないの」
 酒と云われてみると佳い気もちになっていた。
「もう、酒はたいへん」
「でも、はっきり返事ができないじゃないの」
 広巳はそれを微笑で応えた。
「どう」
「もう、たいへん酔いました」
「酔ってるなら云えるじゃないの、それともこんなお婆さんとお朋友(ともだち)になるのは、厭」
「そ、そんな」
 広巳はあわてた。
「それじゃ、なってくれるの」
「なります」
「なってくれるの、うれしいわ、ねえ、それじゃわたしに盃(さかずき)をくださいよ、かための盃をしようじゃないの」
「は」
 広巳は瓦盃(かわらけ)を手にした。瓦盃には酒がすこしあった。広巳はそれを飲んで盃洗(はいせん)ですすごうとしたが、すすぐものがないので躊躇(ちゅうちょ)した。
「それをいただきますよ、それがいいのよ」
「でも、これは」
「いいじゃないの、貴郎(あなた)のめしあがったものじゃないの」
 女の手が延びて来たので広巳はしかたなしに瓦盃をだした。
「それじゃ、貴郎がお酌をしてくださいよ」
「は」
 広巳はきまりがわるいけれども、そうしろと云われてみればしないわけにはゆかない。広巳は銚子を持った。
「ちょっと」
 女が心をおくので銚子の手をひかえた。
「児(こども)がいちゃ、じゃまっけだから、あっちへやりましょうよ」
 それは二人でいるにこしたことはなかった。女は少女だちにつらつらと眼をやった。
「汝(おまえ)だちは、あっちへいらっしゃい、こんな処を見せたくないからね」
 少女だちは黙っておじぎをして起(た)った。起ったかと思うと鳥の羽ばたきをするような恰好(かっこう)をした。広巳は眼を見はった。少女だちの姿はみるみる鳶(とび)くらいの鳥になって、室(へや)の中から外へ出てしまった。それは広巳が八幡祠頭で見た鵜(う)そっくりの鳥であった。広巳はぞっとして女のほうを見た。女は小さくなって恰度(ちょうど)内裏雛(だいりびな)のような姿を見せていた。
「わっ」
 広巳は一声叫んで逃げようとした。
「おい、おい、おい」
 広巳の体は忽(たちま)ち何人(だれ)かに押えつけられた。
「いけねえ」
 広巳は揮(ふ)り放して走ろうとした。相手は手を放さなかった。
「おい、山田君、どうした、しっかりしないのか、夢を見てるのか」
 夢と云う声がはっきり頭に響いた。広巳はびっくりして眼を開けた。広巳は道傍(みちばた)に積んだ沙利(じゃり)の上に寝ている己(じぶん)を見いだした。
「どうした、山田君、どうしたのだ、こんな処に寝て」
 そこには微紅(うすあか)い月があって一人の壮(わか)い男が己の肩に手をかけていた。広巳は対手(あいて)の男を見た。
「俺(おいら)だよ」
 それは秋山と云う友人であった。
「けんちゃんか」
「暢気(のんき)じゃないか、こんな処で寝るなんて」
 沙利(じゃり)置場に寝ていることは判ったが、場所が判らなかった。
「ここはどこだ」
「判らないのか」
「さあ」
「困った男だな、ここは海晏寺の前の榎(えのき)の傍じゃないか」
「なに」
 広巳は眼をやった。なるほど枝の茂った榎の老木が月の下に見えていた。
「君、そんな処に寝ていちゃ毒だよ」
「ああ」
「何時比(いつごろ)から寝ていたのだ」
「さあ、あちこち飲んでたから」
「判らないのか」
「ああ」
「暢気だなあ」
「ああ」
「もう、十二時まわってるよ、早く往って寝たらどうだ」
 広巳は頭がはっきりしたので起(お)きた。
「おい、けんちゃん、つきあわないか」
「どこへ往くのだ」
「品川さ」
「じょうだんじゃない、これから往ったら、夜が明けるじゃないか、早く往って寝るがいい」
「あんな処へ帰るものか、厭(いや)だい、往こう、なに、おおっぴけは、二時じゃないか、往こう」
「今晩はだめだよ、今度にしよう」何か考えて、「どうだ、俺(おいら)の家へ往かないか、この比(ごろ)、親爺は、田舎(いなか)へ往って留守なのだよ」
「そうか」
「往こう、ビールでも飲もうじゃないか」
「そうだな」

※(ローマ数字11、1-13-31)

 洋燈(ランプ)の燈は沈んでいた。そこは賢次の家の二階であった。賢次の家は蒲鉾屋(かまぼこや)であるからどことなしに魚の匂(におい)が漂うていた。広巳と賢次はそこで話していた。二人の前にはビールの壜(びん)があった。
「そんなことはないだろう、君んとこは、金はあるし、兄(あに)さんはあんないい人だし、へんじゃないか」
「そりゃ、兄貴はお人好しで、俺(おいら)を児(こども)のように可愛がってくれるが、他がいけないのだ」
「他と云ったところで、姉さんばかりじゃないか、姉さんといけないのか、君を可愛がるじゃないか」
「いかん、あれはいかん」
「どうした」
 広巳はさすがに口に出せなかった。
「どうと云うわけもないが」云い方を考えて、「なんと云うのか、家が収まらん、兄貴が死にでもすると、家がめちゃめちゃになるのだ」
「まさか、そんなことはないだろう、華美(はで)ずきで、あちこちへ往くようだが、てきぱきして、家のことでもなんでも、兄さんにかわってやってるじゃないか」
「それがいけないのだ、出しゃばって、華美好きな女なんて、ろくなことはしないのだ」
「無駄づかいでもするのか」
「無駄づかい、無駄づかいも、衣裳(きもの)道楽とか、演劇(しばい)道楽とか、そんな道楽なら、たいしたこともないが、いけないのだ」
「それじゃ、素行(みもち)でもわるいのか、演劇(しばい)なんかへ往ってると、俳優と関係があるとかなんとか、人はへんなことを云いたがるものだよ、何かそんな噂でもあるのか」
「そりゃ聞かないが、あんな女だから、そんなことを云われてもしかたがないよ、困った奴よ、児は小さいし、もし、兄貴でも死んだら、どうなるか判らないからね」
「兄(あに)さんが死んでも君がありゃ、大丈夫じゃないか、君が広坊の後見をして、しっかりやるなら、なんでもないじゃないか、それとも姉さんが、君を邪魔者にして、兄さんにたきつけるのか」
「そうでもないが、姉貴はじめ、家の雰囲気(まわり)が厭(いや)なんだ」
「そうか」賢次はふと考えて、「君、いっそお媽(かみ)さんをもらって、別家したらどうだ、気もちがかわって、いいじゃないか」
「俺(おいら)は、今、細君(にょうぼう)をもらう気がしないのだ」
「何故だ」
「何故と云うこともないが、もらう気がしない」
 その時階下(した)から嬰児(あかんぼ)の泣き声が聞えて来た。それは賢次の児(こども)であった。賢次はとうに妻帯して二人の児があった。
「児が出来て、ぴいぴい泣かれちゃ困るが、君は、お媽さんをもらうといいと思うね、そうすりゃあ気もちがかわって、いいよ、今晩だって、沙利(じゃり)の上なんかに寝てて、体をこわすよ」思いだして、「夢を見てたのか、ひどくあわててたじゃないか」
 広巳の唇に微笑(うすわら)いが浮んだ。
「うん」
「どんな夢だ」
 広巳はビールを一口飲んだ。
「へんな夢だよ、俺が歩いてると、二人の女の子が出て来て、奥さんがお待ちかねだと云うから、往ってみると、奥さんらしい女がいて、響応(ごちそう)になってると、女が盃(さかずき)をくれと云うので、やろうとしているうちに、二人の女の子は鵜(う)になって飛ぶし、女は内裏雛(だいりびな)のようになったのだよ」
「それで、びっくりしたのか」
「そうだろう」広巳は笑って頭を掻(か)いて、「へんな夢だよ」
「女の子が鵜になった、鵜になるはへんだね、なにかい、この比(ごろ)鵜を見たことがあるかい」
「見た、何時(いつ)か品川の帰りに、あすこの八幡様へ入ってみると、天水桶さ、あの拝殿の傍にある鋳鉄(いもの)の縁(ふち)に、鵜がいて、ばさばさやってたのだ、ありゃあすこの池にいるだろうか」
「さあ、それは知らないが、それを見たのか」
「そうだよ」
「蒲鉾(かまばこ)にいろいろの魚を入れるように、夢も見た材料で出来るのだね」
「そうだなあ」
「それじゃ、その奥さんのような女は、どうだ」
 広巳はにやりとした。
「見たのだ」
「だろう」賢次もにやりとして、「おかっぽれだな」
「人間と判っとるなら、おかっぽれかも判らないが、それがへんだよ」
「どうしたのだ」
「それがおかしいのだ、まだ寒い時、俺(おいら)が今往ってた榎(えのき)の傍を通ってると、二十七八の上品な佳い女が通ってたのだ、夜一人で通ってるから、どこかそのあたりの人だろうと思っていると、鵜(う)を見た日なんだ、くたびれたから、休んでると、へんな奴が二人来て、俺(おいら)を盗人(ぬすっと)が午睡(ひるね)してると云うから、撲(なぐ)りつけて諍闘(けんか)になったところへ、その女が来て仲裁してくれたのだ、それで俺は八幡様を出て来たものの、その女の素性(すじょう)を確めようと思って、引返してみると、女はいないで、諍闘の時にいた社務所の爺さんが、拝殿の横に腰をかけて、仮睡(いねむり)してたから、聞いてみると、あれは水神様だ、人間じゃないと云うのだ、それだよ、夢に出て来たのは」
「君んとこは、すこしへんだぜ、蛇が出て来たり、蟻(あり)の塔が出来たり、どうかしてるのじゃないか、神様が出て来て諍闘の仲裁なんかするものか」
 茶かすつもりであった詞(ことば)の端(はし)に何か神秘的なものがつながった。賢次は洋燈(ランプ)へ眼をやった。心(しん)の切りようでもわるいのか、洋燈は火屋(ほや)の一方が黒く鬼魅(きみ)わるく煤(すす)けていた。広巳はその時頷(うなず)いた。
「そうだよ、俺の家には、魔がさしているのだよ」
「まさか、そうでもないだろうが、あまり迷信はいけないね」
「そうとも」

※(ローマ数字12、1-13-55)

 お杉は三畳の微暗(うすぐら)い茶室(ちゃのま)へ出て来て、そこの長火鉢によりかかっている所天(ていしゅ)の長吉に声をかけた。それは十時比(ごろ)であった。外出(よそゆき)の千条になった糸織(いとおり)を着た老婆の頭には、結いたての銀杏返(いちょうがえし)がちょこなんと乗っかっていた。
「それじゃ、おまえさん、往って来るよ」
 黄(きい)ろな顔の狭長い長吉は、眼が見えないので手探りに煙草を詰めているところであった。
「どこへ往くのだ」
 長吉の声は乾(ひ)からびていた。
「どこだっていいじゃないか、聞いてどうするの」
 お杉の声は憎にくしかった。
「どうもしねえが、聞いてみたところさ、だしぬけに往って来ると云うから、どこへ往くか聞いたじゃねえか」
「だから、聞いてどうすると云ってるじゃないの」
「どうもしねえが、聞いたっていいじゃねえか、家の細君(にょうぼう)の往く前(さき)ぐらい聞いたっていいじゃねえか」
「家の細君を、一人で出すのが心配になるとでも云うのかい」
「そうじゃねえ」
「それじゃ、毎日遊んで、細君に稼がしては気のどくだから、たまにはかわりに往ってくれるとでも云うのかい」
 長吉は黙って掌で燠(おき)の見当をつけて煙草を点(つ)けた。お杉の顔は嘲(あざけ)りでいっぱいになっていた。お杉は次の室(へや)へ顔をやった。
「お鶴、聞いたかい」
 晴れた外気を映した明るい室(へや)には、メリンスの長襦袢(ながじゅばん)になった娘のお鶴が、前方(むこう)向きになって鏡台に向って髪を掻(す)いていた。母親似の額(ひたい)の出た赧(あか)ら顔が鏡に映っていた。
「なにをよ」
「なにって、家の旦那さまが、家の細君(にょうぼう)の往く前(さき)ぐらい、聞いたっていいじゃないかとおっしゃるのだよ」
「そう、心配になるでしょうよ」
「なに、毎日細君に稼がして、家で無駄飯を喫(く)ってはすまないから、かわりにでも往ってくれるだろうよ」
「それじゃ、往ってもらったらいいじゃないの、とんとん走って往くでしょうよ」
「往ってもらおうかね、家には、皆りっぱな男が揃ってるから、何かの時にゃたのもしいよ」
「そうねえ、矜羯羅(あしたか)のように走る男もあれば、千里眼の人もあるし、何かのばあいは、心丈夫だよ」
「稼ぎは出来るしね、わたしも安心だよ」
 かちりと煙管(きせる)をすてる音がした。
「おい」
 長吉の声は一段と小さくなった。お杉は長吉のいることを忘れていた。
「なんだね」
「まあさ」
「まあさがどうしたと云うのだね」
「まあ、ちょっと坐れ」
「坐れ、このせわしいのに、どうしようと云うの」
「まあさ、ちょっとだ」
「ちょっと、どうするの」
「ちょっとでいいから坐ってくれ、話がある」
「なんの話なの」
「なんでもいい、ちょっとでいい」
「また愚痴かい」
「愚痴じゃない」
「煩(うるさ)いね」
「まあ、そう云うな、話だ」
「出かけなくちゃならないに、困るじゃないの」
「そんなに、てまをとることじゃない」
「てまをとられてたまるものかね」
「まあ、いい、たった一口云えばいい」
 お杉はしかたなしに蹲(しゃが)んだ。
「なんだね、早くお云いよ」
 長吉はお杉の声に見当をつけて顔を出した。
「おい、おまえ、俺(おいら)のことはかまわないが」ちょっと詞(ことば)をきって、「脚(あし)のことは云うなと云ってあるじゃねえかよ」
 お杉は嘲(あざけ)り笑いを浮べた。
「なんだね、なにを云うかと思や」
「いや、いかん、それは云うものじゃねえぞ」
「なにも、べつに云やしないじゃないか」
「いや、いかんぞ、そいつは、いいか」
「だって、なにも云やしないじゃないの」
「云わなけりゃいいが、云うなよ、いいか、頼むぞ」
「判ったよ」
「いいか、それじゃ云うのじゃねえぜ、人の嫌がることを云ったり、したりするものは、ろくなことはない、雷さんの悪口を云ってて、天気もわるくないのに、雷さまが落っこちたと云うからな」
「また、おはこかい、ばかばかしい」外出のことを思いだして、「奥さまがお待ちかねだ、ゆるゆるしちゃいられないよ」
「それじゃ、山田さんか」
「どこでもいいじゃないか」お鶴の方を見て、「それじゃ、お鶴往ってくるからね、ついすると遅くなるかも判らないよ」
 お鶴は起(た)って衣服(きもの)を被(き)かえていた。
「いいよ」
「おまえは、遅い」
「わたしも奥さんのつごうで、どうなるか判らないよ、解き物があると云ってらしたから」
「そうかい、それじゃ往くがいい」
 お杉はそのまま一方の襖(ふすま)を啓(あ)けて姿を消して往った。そして、何か云っていたがすぐ聞えなくなった。長吉は傍におろしてあった土瓶をそっと執(と)って火鉢にかけた。
「人間は、あまりあこぎを云うものじゃねえや」
 長吉は厭(いや)なものを吐きだすように云ってから口をつぐんだ。短冊(たんざく)のような型のある緋(あか)い昼夜帯(ちゅうやおび)を見せたお鶴が、小料亭(こりょうりや)の婢(じょちゅう)のような恰好(かっこう)をして入って来た。
「お父(とっ)さん、往って来るよ」
 長吉はびっくりしたように顔をあげた。
「小栗(おぐり)さんか」
「そうよ」
 お鶴もお杉の出て往った方から姿を消して往った。そして、十分位するとがたびしと云う音がして、二人の出て往った処から壮(わか)い男が這(は)って来た。壮い男は右の方の脚は骭(すね)から下がなかった。壮い男はばったの飛ぶようにして長吉の前へ来た。
「音か」
 それは長吉の甥(おい)の音蔵であった。音蔵は砲兵工廠(こうしょう)に勤めていて、病菌が入ったので脚を切断したものであった。
「叔父さん」
 音蔵の声は顫(ふる)えを帯びていた。音蔵は這(は)ったままであった。
「どう、どうしたのだ」
「お、おじさん、お、おいらは、叔父さんにすまないが、きょう、かぎり、叔父さんとこを出るのだ」
 長吉はあわてた。
「ど、どうして、そ、そんな、そんなことを云うのだ、そんなことを」
「おじさん、叔父さんの親切は、おいらは、死んでも忘れないが、叔父さん、おいらはつくづく考えた、叔父さんにはすまないが、おいらは、今日かぎり、出て往くのだ」
「そりゃ、判ってる、判ってる、判ってるがここが忍耐(しんぼう)だ、まあ、気を大きくして、時節を待て、よく判ってる、あの二人は人間じゃない、おまえが居づらいのは判ってる、すまない」
「いや、叔父さん、おいらこそ、叔父さんにすまない、おいらがいるために、叔父さんが板ばさみになっているのだ、叔父さんにすまない、おいらは諦(あきら)めた」
「ま、待ってくれ、つらかろうが、もすこし忍耐(しんぼう)してくれ、そのうちには、叔母さんも考えてくる」
「叔父さん、もういい、おいらは、おいらが世話になっているために、眼の不自由な叔父さんが、なお苦しんでいるのだ、おいらは叔父さんにすまない」
「待て、待て、なに、叔母さんも何時(いつ)までもあんなじゃない、そのうちには考えて来る、おまえもそのうちには、何かいい目が出る、人間は忍耐(しんぼう)が第一じゃ、忍耐してくれ、それでお鶴も、考えなおしてくれたら、二人で世帯を持って、おいらと叔母さんの面倒を見てくれ」
 音蔵は内職の袋張(ふくろはり)をして食費を入れていた。
「すまない、叔父さんにはすまないが、おいらはもう諦(あきら)めた」
「まて、これ」
 長吉は黄(きい)ろに萎(しな)びた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。こうして不幸な叔(おじ)甥(おい)が手を執(と)りあって泣いている時、お杉はお高の室(へや)へ往ってお高に逢(あ)っていた。
「大喜びでございますよ、りっぱな奥さまに呼んでいただくのですもの、喜ばないでどうするものですか、罰(ばち)があたりますよ」
 お杉は己(じぶん)まで嬉しいと云うような顔をしていた、お高は微笑した。
「そう、それじゃいいね」
「よろしゅうございますとも、待っていられないから、前(さき)へ出かけて往ってるかも判りませんよ」
「どうだか」
「ほんとでございますよ」
「前方(むこう)は大丈夫だろうね」
「大丈夫でございますよ、あすこは裏門から出入ができますからね」
「そう、それじゃ大丈夫だね、厭(いや)な奴に見られちゃ困るからね」
「大丈夫でございますよ」
「それじゃ、出かけようかね」
「お宅の方は、よろしゅうございますか」
「いいとも、今日も、また、あの蛇が出て、大騒ぎをしてるから、いいのだよ」
「そうでございますか」

 崖の離屋(はなれ)では三人の男が顔をあわしていた。三人のうちの一人は四十四五で、素肌へ茶の縦縞の薄い丹前(たんぜん)を被(き)ていたが、面長(おもなが)の色の白い顔のどこかに凄味(すごみ)があった。
「それで、奴さん、何と云ったのだ」
 丹前の前には円い食卓(ちゃぶだい)があった。その食卓を中心にして右側にいるのは、三十前後のセルの袴(はかま)を穿(は)いた壮士風の男であった。それはばかに長くした揉(もみ)あげの毛が眼だっていた。
「私の方は、これまで我慢をしておったが、前方(むこう)の行為(しうち)が怪(け)しからんから、今度と云う今度は、断然処分をすると云って、とっても鼻息が荒いのだ、それで君の方は、これまでさんざ、利息を執(と)っといて、それも前方に有って払わないならともかく、前方は商売に失敗して困ってるところじゃないか、俺だちは義によって、解決しようとしているのに、それを聞かないでやるようならやってみるがいい、俺だちは生命(いのち)を投げだしてやってることだから、承知しない、もし、邪魔になると思や、警察なり、どこなり、云って往けって、たんかをきってやったのだ」
「それで、奴さん、何と云った」
「何人(だれ)が何と云っても、今度は承知しない、これは何人に聞かしても、私の方が正当だから、断然処分する、どうかこの事は、ほうっといてくれと云うのだ」
「そうか」
 左側には二十五六の頭を角刈にした壮(わか)い男がいた。角刈はその時口を挟んだ。
「また荒療治をやるかな」
 揉(もみ)あげがそれに応じた。
「そうだな、君がまた三四月往って来るか」
「どうせ往かなけりゃ、物になるまい」
「今なら往っても、暖かいからいいな」
「俺(おいら)をやっといて、おめえは、新井宿(あらいじゅく)の奴の家で、納(おさま)ろうと云うのかい」
 二人は笑いあった。丹前(たんぜん)は盃(さかずき)を持って飲みながら考えていた。
「待て、待て、俺に考えがある」思いだして、「まあ、飲みな」
「そうだ」
 揉あげは銚子を引き寄せて空になっている己(じぶん)の盃へ酒を注(つ)いだが、酒はぽっちりしかなかった。丹前がそれを見た。
「酒がなけりゃ、呼べ」
 揉(もみ)あげは手をたたいた。そこは池上本門寺(いけがみほんもんじ)の丘つづきになった魁春楼(かいしゅんろう)と云う割烹店の離屋(はなれ)で、崖の上になった母屋(おもや)から廻廊がつづいて、それが崖に倚(よ)ってしつらえたあちらこちらの離屋に通じていた。そこは梅で知られている家であった。
「こんな処は、半鐘(はんしょう)でも釣(つ)っとくがいいや」
 揉あげは起(た)って欄干(てすり)の傍へ往って手を叩いた。上の方で甲高(かんだか)い女の声が応じた。
「やっと聞えやがった」
 揉あげはそう云い云い眼をまえへやった。それは二時比(ごろ)で、午(ひる)近くから嫩葉曇(わかばぐもり)に曇っている空を背景にして、大井から大森の人家の簷(ひさし)が藍鼠(あいねずみ)の海に溶けこもうとしていた。眼を落すと嫩葉をつけた梅の幹がいちめんに古怪(こかい)な姿を見せていた。
「よし、いい」丹前(たんぜん)は気が注(つ)いたように揉あげの背後姿(うしろすがた)へ眼をやった。「大丈夫だ、うんと飲みな」
 角刈は対手(あいて)になった。
「大将、俺(おいら)が一度(いっぺん)往ってみようか」
「待て、おめえは、まだいけねえ」
「だって、俺が往って、二つ三つ撲(なぐ)りとばしたら、話が早くつくじゃねえか」
「待て、待て、俺に考えがある」
「どんな考えだ」
「待て、待て、ゆっくり飲みながら話そう」
 そこへ一方の襖(ふすま)が啓(あ)いて眼の大きな年増の婢(じょちゅう)が入って来た。婢はお時と云うのであった。お時は二本の銚子を手にしていた。お時は丹前(たんぜん)に愛想笑いをした。
「お酒でしょう、旦那」
 揉(もみ)あげが横あいから口を出した。
「お時、半鐘(はんしょう)でも釣(つ)っとけ、呼ぶに骨が折れてかなわん」
 お時は揮(ふ)りかえった。
「そうね、半鐘ね」
「そうだよ、それで酒の時は三つばんだ」
「肴(さかな)の時は」
「肴は二つか」
「それじゃ、あの時は」
 揉あげは笑った。
「あれは、あの時は五つさ」
 お時はあの時から思いだした。
「旦那、八千代さんは、どうするのです、まだ話はすまないのですか」
 それは話をするために呼んでいた歌妓(げいしゃ)を出してあるらしい。丹前は頷(うなず)いた。
「もすこし待たしとけ、だって彼奴、線香代をつけてもらって、かってに遊んでる方がいいだろう」
「そう」
「肴(さかな)がない、何か見つくろって持って来い」
「そうね、どんな物がいいでしょう」
「旨いもので、早く出来て、それで金がかからなけりゃ、なおいいや」
「ずいぶん、ねえ」
 お時はまた愛想笑いをしいしい出て往った。揉(もみ)あげはどっかりと坐った。
「まずくって、遅くって、高くって、酒がわるくって、ここでいいものは、室(へや)の風景だけだよ」
 角刈がにやりと笑った。
「おめえでも、風景が判るかい」
「判るさ、俺(おいら)はこれでも、漢詩の平仄(しろくろ)を並べたことがあらあ、酔うて危欄(きらん)に倚(よ)れば夜色(やしょく)幽(かすか)なり、烟水(えんすい)蒼茫(そうぼう)として舟を見ず、どうだい、今でも韻字の本がありゃ、詩ぐらいは作れるぞ」
 丹前(たんぜん)が口を入れた。
「詩を作るより、田を作れか」
 角刈は揉あげに何か云いかえしをしなければ気がすまなかった。
「作る田がないから、東京へ来て強請(ゆすり)をやってるだろう」
「お互(たがい)さまだよ」
「お互さまじゃねえや、俺(おいら)はもとからの破戸漢(ならずもの)だ、おめえは学生から、おっこちて来たのだ、物が違わあ、いっしょにせられてたまるものかい」
 丹前が笑いだした。
「あんまり自慢にならんさ、まあ、それよりおちついて飲みな」

 三人は酒になった。三人は品川大井大森方面を縄張にしている匪徒(ひと)で、丹前は岡本と云う三百代言(さんびゃくだいげん)あがり、揉(もみ)あげは松山と云って赤新聞の記者あがり、角刈は半ちゃんで通っている博徒(ばくと)であった。三人はその時、貸借関係で紛糾している家を恐喝しているところであった。
 何時(いつ)の間にか一人の歌妓(げいしゃ)が加わっていて一座は四人になっていた。三人は他愛ない話をして笑いあっていた。
「半ちゃん、どうだい、この比(ごろ)は、佳い目が出るのかい」
 揉あげの松山はいい気もちに酔っていた。角刈の半ちゃんは笑っていた。
「佳い目が出る、おい、松山、佳い目が出る、俺(おいら)はそんなことは知らねえや、ぜんたいそりゃ何だい」
「知らねえ、佳い目ってことを知らない」右の手で何か揮(ふ)るような恰好(かっこう)をして、「これを知らねえのか」
「知るものかい、俺は堅気(かたぎ)の商人(あきんど)だ」
「堅気の商人だ、何の商人だ」
「そりゃあ、その」云えないので、「何でもいいや」
「それ、みな、云えないだろう」
「ふざけるない、おい、おめえは、俺(おいら)が、後暗(うしろぐら)いことでもやってると思ってるのか」
 松山はまた何か揮(ふ)るような恰好をした。
「これだと思ってるが、やらないのか」
「やるもんか、俺は、堅気の商人(あきんど)だ、そんなへんなことは知らねえや」
「しかし」また何か揮る恰好(かっこう)をして、「これは判ってるだろうな、何を揮るか」
「知るものか、きちょうめんの商人だ、賽(さい)ころなんか知るものか」
 松山は大声に笑った。
「お、おい、賽ころだ、云うに落ちずして語るに落ちる、賽ころと云うことを知ってるな、それじゃ半ちゃん、佳い目が判るじゃねえか」
「判らねえ、知るものか」半ちゃんはその時便所に往きたかった。半ちゃんはずいと起(た)った。「これから往って賽ころがどんなものか考えて来る」
 半ちゃんは笑い笑い出て往った。岡本の左側へぴったり寄りそうていた歌妓(げいしゃ)は無邪気であった。
「あの方、あれ、やるの」
 それは二十(はたち)位の眼の澄んだ※(「女+朱」、第3水準1-15-80)(きれい)な女であった。岡本は松山をちらと見てにやりと笑った。
「どうだ、松山、あの堅蔵(かたぞう)が、そんなことをやるのかい」
 松山もにやりと笑った。
「さあ、ねえ、彼奴とっても堅い奴だから、博奕(ばくち)なんか知らないだろう」
「そうだろう、口じゃいいかげんなことを云っても、おもが堅蔵だから」
 二人はおかしくてたまらないと云うようにして笑った。二人の話はまた他愛ない話になった。女はあくまでも無邪気であった。暫(しばら)くして岡本が気が注(つ)いた。
「半ちゃんは、どうした」
 歌妓(げいしゃ)も気が注いた。
「そう、ねえ、ほんとに長いわ、便所(はばかり)へ往ったのでしょうか」
 松山はまぜかえした。
「便所(はばかり)の中で、賽(さい)ころを揮(ふ)ってるじゃないか」
「まあいいや、廊下とんびでもやってるだろう」
 岡本は盃(さかずき)を持った。そこへ襖(ふすま)が啓(あ)いて角刈の頭が見えて来た。松山は待っていた。
「おい、半ちゃん、八千代が、便所(はばかり)へ往って賽ころを揮ってるのだと云ってたぜ」
「うん」
 半ちゃんは真顔になっていた。半ちゃんは立ったままであった。
「大将、ちょっと、また話が出来たのだよ」
「どんな話だ」
「ちょっとね」
「秘密(ないしょ)の話か」
「そうなのだ」
「そうか」
「また八千代に気のどくだが」
「おってはいけねえのか」
「いけねえ」
「そうか」岡本は頷(うなず)いて八千代に顔をやり、「それじゃ、また、あっちで遊んでてくれ、何か喫(く)いたいものがあるなら、姐さんにそう云うがいい」
「それじゃ、あっちへ往ってもいいのですか」
「いいとも」
 女はすぐ出て往った。半ちゃんは女の坐っていた処へ往って坐った。
「豪(えら)いことがある」
 半ちゃんは緊張していた。
「なんだ」
「なんだって、豪いものを見つけた」
「どんなことだ」
「どんなって、こいつあ、金(かね)の蔓(つる)だよ」
「そうか、云ってみろ」
「鮫洲(さめず)の山田って云う家を知ってる」
「山田、どうした家だ」
「それ、地主で、家作持(かさくもち)で、商売もしてる、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)と云や、あの界隈(かいわい)じゃ、知らない者はねえぜ」
「ああ、鮫洲の大尽か、知ってる、主翁(ていしゅ)は脚がわるいと云うじゃないか」
「そうだよ、俺(おいら)は知ってるのだ」
「それが、どうした」
「どうの、こうのって、大将、彼奴の細君(おかみ)さんが」声を落して、「男を伴(つ)れて来てるのだぜ」
 岡本の眼に光があった。岡本の鼻は半ちゃんの鼻にくっつくようになった。
「男は、どんな奴だ」
「俳優(やくしゃ)だな、したっぱの、品川あたりで見かけたことがあるのだ」
「壮(わか)いか」
「二十二三と云うところだ」
「二人で宜(よろ)しくやってるのか」
「婆さんが跟(つ)いて来てるのだ」
「どんな婆さんだ」
「どんなって、俺(おいら)が知ってる婆さんだ、お杉って云うのだ、厭(いや)なばばあだ」
「それじゃ、三人で飲んでるのか」
「婆さんは、次の室(へや)で、一人で飲んでるのだ、あのばばあ、酒くらいだ」
「どうして知ったのだ」
「婆さんを、廊下で見かけたから、そっと往って覗(のぞ)いたのだ」
「どこだ」
「上の段の、あの湯殿(ゆどの)のついた室(へや)があるだろう、あそこだ」
「そうか」
 岡本は考えこんだ。半ちゃんは得意であった。
「どうだ、大将、金(かね)の蔓(つる)だろう」
「うん」
「なんとかしようじゃねえか」
 松山はにやりと笑った。
「俺(おいら)が割りこむ」
 岡本は頭を揮(ふ)った。
「いかん、待て、これには謀(はかりごと)がいるぞ」
 松山はだまって半ちゃんといっしょに岡本の顔を見ていた。岡本は半眼(はんがん)になっていた。半ちゃんはもう待っていられなかった。
「ぐずぐずしてちゃ、往っちまうぜ」
 松山も好奇心に燃えていた。
「そうだ、こんなことは現行犯にかぎる」
 岡本の眼がぱっちり啓(あ)いた。
「よし、いい謀(はかりごと)を思いついた」
 半ちゃんはむずむずしていた。
「それじゃ、どうする」
「あの婆さんを、半ちゃんが往って、歎(だま)して伴(つ)れて来るのだ、それで婆さんを伴れて来たら、今度はあの色男を伴れて来るのだ」
「それで、どうする」
「それから演戯(しばい)だ」
 半ちゃんと松山は、岡本の意図にはっきりしないことがあったが、聞きかえすことができなかった。
「よし」
「そうか」
 岡本は半ちゃんに命令した。
「それじゃ、婆さんを伴れて来い、ちょっと逢いたい人があるからって、いいかさとられるな」
「いいとも、それじゃ往って来る」
 半ちゃんは出て往った。岡本は松山を見た。
「おめえは、障子を締(し)めて、外へ出て、婢(じょちゅう)に気をつけとるがいい」
「いいとも」
 松山は起(た)って障子を締めて出て往った。岡本はそれから盃(さかずき)を持った。酒がなくなると銚子を執(と)って注(つ)いだ。そして、三杯目の酒を注いだところで、襖(ふすま)が啓(あ)いて半ちゃんがお杉を伴れて入って来た。
「なに、ちょっとした話だよ」
 半ちゃんは後を締めた。岡本はいきなり起(た)って往って、お杉のそばへ往くなりお杉の頭をいやと云うほど撲(なぐ)りつけた。
「声をたてたら、殺してしまうぞ、坐れ」
 お杉はつくばってしまった。
「不埒(ふらち)な奴だ、他(ひと)に意見をしなくてはならない老人(としより)が、不義のとり持をするとは、なんだ、何もかも判ってるぞ」
 岡本は半ちゃんを見た。
「それでは、馬の脚だろう、伴(つ)れて来い」
「うん」
 半ちゃんはまた出て往った。岡本は元の座へ帰って盃(さかずき)を持った。
「声をたてたり、逃げたりすると、半殺しにしたうえで、警察へ渡すぞ」
 お杉は小さくなって顫(ふる)えていた。岡本はもう何も云わなかった。そして、十分ばかりすると、半ちゃんがまた壮(わか)い色の白い男を伴れて来た。岡本はまた起って往って撲りつけた。
「野郎」
 壮い男もそこへつくばってしまった。岡本は半ちゃんに眼をやった。
「二人の番をしとれ、じたばたするなら、殺してしまえ、これから俺がかけあって来る」
 岡本は出て往った。

 岡本は一時間近くもお高の室(へや)にいて引返して来た。離屋(はなれ)には半ちゃんが酒を飲んでいる前に、あの壮(わか)い男とお杉が小さくなって坐っていた。
「帰ったな」
 松山が岡本の顔を見た。松山は岡本の顔色によって事の成否を知ろうとしていた。半ちゃんは元より岡本の帰るのを待ちかねていた。
「お帰り」
 岡本は頷(うなず)いて元の席へ往って坐りながら、壮い男とお杉を見なおすようにした。
「いるな、馬の脚と、婆(ばば)あは」
 半ちゃんは岡本の盃(さかずき)へ酌をした。
「じたばたしたら、殴(たた)き殺すのだから、奴さん、動かれないのだ」
「そうか、そうだろう、ふざけたことをしやがってるから、だいち、その婆あがいけねえ、いい年をして、聞きゃ出入だと云うじゃねえか、大恩を忘れやがって、馬の脚なんかをとり持つなんて、不埒千万(ふらちせんばん)だ」
 岡本は室の中のむせむせするのが厭(いや)だった。岡本の眼はお杉へ往った。
「おい、婆あ、そこの障子を啓(あ)けろ」
 お杉はおどおどと起(た)って往って障子を啓けた。風が出て梅の嫩葉(わかば)は風に撫(な)でまわされた。
「障子を啓(あ)けるといい気もちだ」
 岡本は心もちよさそうに酒を飲んだ。松山は岡本から女のことを聞きたかった。
「あの媽(かか)あは、どうしたのだ」
「みっちりかけあった、他(ひと)の亀鑑(てほん)にならなくちゃならない富豪の細君ともあろうものが、怪(け)しからんと云って、みっちり意見をしたものだから、あの女(あま)、泣いてあやまりやがった」
「そりゃ、そうだろう、当然(あたりまえ)のことだ、苟(いやしく)も有夫の女じゃないか、言語道断だ、それをまたとりもつ婆あは、一層言語道断だ、天人(てんびと)ともに赦(ゆる)さざる奴だ」
 半ちゃんはむずかしい詞(ことば)は知らなかった。
「そうだとも、ふざけたことをしやがって、ぐずぐず云や、おいらが三人を縛りあげて、鮫洲大尽の家へ曳(ひ)きずってって、大将に引きわたすのだ」壮(わか)い男とお杉の方を見て、「どうだ、婆(ばば)あと馬の脚」
 松山が口を入れた。
「ただ曳きずって、旦(だん)つくに怒らすばかりじゃいけねえ、新聞に書いてもらうのだ、三段打ち脱(ぬ)きの大標題(おおみだし)で、鮫洲大尽夫人の醜行とかなんとか、処どころに四号活字を入れて書きゃ、ぺちゃんこさ、どうだ」壮い男とお杉を見て、「どうだ、馬の脚と婆あ、これでやられたら、婆あもそのあたりにはいられなくなるし、馬の脚は、もう東京附近では、馬の脚もできないことになるぞ」
 岡本は何か考えついた。
「よし、こんな手合(てあい)に云ったところで、判らない、以後こう云うことをしないと云う一札(いっさつ)を執(と)って、追っぱらえ、うす汚い婆(ばば)あや、へんな奴がいちゃ、せっかくの酒が拙(まず)くなるのだ」
 松山も同感であった。
「それがいい、一札(いっさつ)を執(と)って追っぱらおう」壮(わか)い男を見て、
「おい、小厮(こぞう)、てめえは、字が書けるか」
 壮い男は口が硬(こわ)ばっていた。
「野郎返事をしないか」
 半ちゃんがいきなり起(た)って往って、壮い男の横っ面(つら)を撲(なぐ)りつけた。岡本はそれを止めた。
「待て、待て、半ちゃん、そんなことをしてもしかたがない、待て」
「この野郎、生意気だ」
「まあ、いい、坐れ」
 半ちゃんも対手(あいて)が反抗しないのに続けて撲ることもできなかった。半ちゃんは己(じぶん)の席へ帰った。松山は半ちゃんの席へ帰るのを待っていた。
「小厮、痛い目に逢(あ)わないうちに、返事をしろ、字が書けるか」
「書けます」
「そうか、それじゃ書け、婆あは、どうだ、婆あは書けまい」
 お杉は文盲(もんもう)であった。
「私は、どうもね、その」
「くどい、書けんか」
「書けません」
「よし、それじゃ、婆あの分は、俺(おいら)が代筆をしてやる」筆のことを思いだして、「筆がないな、婢(じょちゅう)を呼ぼうか」
 岡本は注意深かった。
「婢じゃいかん、半ちゃんが往ってくれ」
「よし」
 半ちゃんは起(た)って出て往った。岡本と松山は盃(さかずき)を持った。松山は岡本に眼くばせをした。
「つるは」
「うん」
「いいのか」
「いいとも」
「そうか」
「飲め」傍の二人に聞かすように、「俺だちは、強きを挫(くじ)き弱きを授(たす)ける性分(しょうぶん)だから、しかたがない」
「そうだとも、義のためには生命(いのち)もいらない俺だちだ」
「わりにあわない商売だよ」
「損得を云ってられないのだ、が、考えてみりゃ、損な商売だなあ」
「そりゃ、しかたがない、これもお国のためだ、日露戦争で討死した軍人も、俺だちのすることも、することは変ってても、おんなじことだぞ」
「そうだとも」
 半ちゃんが硯(すずり)と半紙(はんし)を持って入って来た。
「不便なところだな、硯と紙を執(と)りに往くに、野越え山越えだ」
 松山が笑った。
「それも、お国のためじゃないか」
 半ちゃんには通じなかった。
「なにが、お国のためだい」
「なにさ、俺だちが、こうして悪い奴をとっちめるのも、やっぱりお国のためだと、今、大将と話したところだ」
 半ちゃんはやっと判った。
「そうとも、そうだとも、やっぱりお国のためだ」壮(わか)い男を見て、「お国のために、一札(いっさつ)をとるのだ、さあ、書きやがれ」

 その日午(ひる)近い比(ころ)であった。広巳は山内容堂(やまのうちようどう)の墓地のある間部(まなべ)山の近くを歩いていた。広巳の気もちは混沌(こんとん)としていた。広巳は節操のない嫂(あによめ)に対する憤りから、その嫂にまかれて不甲斐ない兄を憤る一方で、人とも神とも判らない女に心を惹(ひ)かれているところであった。
 広巳は朝から飲んでいた酒で体はふらふらになっていたが、頭は冴えていた。狭い街路(とおり)には生垣のある家があった。その時広巳の頭にふと浮んだものがあった。
(おや)
 広巳は四辺(あたり)に眼をやった。そこは右側に茨(いばら)の花の咲いた生垣があって、それが一度往ったことのある家のように思われた。
(どうもおかしいぞ、あの家じゃないか)
 鵜(う)になって飛んだ二人の少女に呼びこまれた家のように思われるのであった。広巳は気が注(つ)いて笑いだした。
(まさか、まさか)
 広巳は歩きだした。その広巳の後に物の気配がした。
「若旦那」
 広巳は足を止めた。と、ちょこちょこと下駄の音をさして来たものがあった。広巳はちらりと揮(ふ)りかえった。それはお杉の娘のお鶴であった。
「今日は」
 広巳はお鶴が時おり変にからまって来るので嫌っていたが、黙っているわけにもいかなかった。
「鶴坊か」
「どこへいらっしゃるの」
「ちょっとそこだ」
「そこって、どこですの、いい人のとこ」
 広巳は気もちがわるかった。
「そんな処じゃないよ」
「それじゃ、どんなとこ」
 広巳は煩(うるさ)かった。
「云われないとこ、それじゃ、やっぱりいい人の処ね、若旦那のいらっしゃる処だもの」
 広巳は苦笑した。
「そうでしょう、やっぱりそうでしょう、いい人の処でしょう」
 広巳はもてあました。
「ほんとに若旦那は、邪慳(じゃけん)よ、そりゃあね、私のような、女のうちにも入らないものなんか、鼻もひっかけてくれないでしょうが、それにしてもあんまり邪慳よ、若旦那は」
 広巳は平生(いつも)それで困らされていた。
「うう」
「ううなんて、ほんとに邪慳よ」
 広巳はとっとと往こうと思った。
「そんなに邪慳にするものじゃないことよ、そんなに何時(いつ)も邪慳にするなら、わたし、若旦那に知らしてあげたいことがあるが、云わないことよ」
「なんだ」
 思わずつりこまれて、しまったと思った。
「云わないわ、若旦那が、そんなに邪慳(じゃけん)にするなら、わたし、若旦那の喜ぶことを知ってるのだが、云わないことよ、若旦那のことを、平生(いつも)云ってらっしゃる方があるのだけど、それはただの方じゃないことよ、地位(みぶん)のあるりっぱな方よ、でも云わないことよ、若旦那がそんなに邪慳にするなら」
 広巳はちょっと好奇心が起ったが、お鶴が己(じぶん)にからんで来る手のようにもあるから、うっかりしたことは云われないと思った。
「聞かなくてもいいの、ほんとのことよ」
「なんだ」
「いい方のことよ」
「何人(だれ)だ」
「云わないことよ、若旦那が、わたしに邪樫にしないようになったら、何時(いつ)でも云ってあげるわ」
「嘘だろう」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、聞きたくなけりゃ」
「ほんとなら、云ってみなよ」
「厭(いや)よ、若旦那が、わたしに邪慳にしないようになったら、何時でも云ってあげるわ、ほんとよ、それも徒(ただ)の裏町のお媽(かみ)さんや娘じゃないことよ、りっぱな地位(みぶん)のある方よ、若旦那がいくら気ぐらいが高くっても、その方の前へ出たらぞんざいな口が利(き)けないから」
「何人だ」
「云わないことよ、云わないわ」
「云えないだろう、嘘だから」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、若旦那のことを思ってらっしゃる方だから」
「まさか」
「ほんとよ、ほんとだから、云わないことよ」
 広巳は惹(ひ)きつけられるものがあった。それは人か神かと思って探している女のように思われるからであった。それに場所が場所でもあった。
「嘘だよ、俺にはそんな心あたりがないよ」
「嘘なら、心あたりがなけりゃ、それにしとくといいことよ」
「だから、それにしとくのだよ」
「それがいいわ、そのかわり後になって、私を恨んでも知らないことよ、若旦那の家には、お銭(あし)がたくさんあって、鮫洲大尽(さめずだいじん)と云や、界隈(かいわい)で知らないものはないのだけど、そんな地位(みぶん)のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だから」
「いやに大きく出るじゃないか、ぜんたい、そりゃ、何だい」
「粋(いき)で、上品で、地位(みぶん)のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方よ」
「痴(ばか)にするない」
「あれ、まだ、私がかつぐと思ってらっしゃるの」
「そうだよ、担(かつ)いでるのだよ」
「痴(ばか)、ねえ、若旦那は、ひとが親切に云ってあげてるに」
「それじゃ、はっきり云ったら、どうだ、ほんとなら、はっきり云えるじゃないか」
「そりゃ、云えますよ、云えますが、若旦那が邪慳(じゃけん)だから云わないことよ」
「何時(いつ)、俺が、汝(おまえ)を邪慳にしたのだよ」
「平生(いつも)邪慳よ、私が何か話そうと思っても、逃げっちまうじゃありませんか」
「そんなことはないさ、逃げたことはないじゃないか」
「逃げることよ、何時かもお宅の御門の処で往きあうと、私を見ないふりをして往っちまったじゃないこと」
「そんなことがあるものか」
「あったわ、私、ほんとにあの時は、若旦那を恨んだわ」
「俺は知らないのだよ」
「知らんことないわ」
「ほんとに知らんよ、それとも俺が、何か考えごとをしてたから、判らなかったかも知れない、ほんとに知らんよ」
「知らんことないわ」
「そりゃ無理だよ」
 広巳はばかばかしくなって来た。広巳はいきなりお鶴を離れて歩いた。お鶴は追っかけて来た。
「若旦那」
「もうたくさん」
「ほんとよ、若旦那、聞かなくってもいいの」
「たくさん、たくさん、あばよだ」
「いやな人ね、ひとが云ってあげると云うのに」
「たくさん、たくさん」
 広巳は頭にかかっていた塵(ちり)を払い落したような気になって歩いた。
「おぼえてらっしゃい、若旦那」
「たくさん、たくさん」
 たくさん、たくさんの詞(ことば)は足の調子に乗って来た。広巳の体はたくさん、たくさんで歩いた。そして、歩いているうちに空腹を覚えて来たので、路傍(みちばた)で蕎麦店(そばや)を見つけて入り、そこで蕎麦を喫(く)ってまた歩いた。
(ぜんたい、なんのことだ)
 広巳はお鶴の云ったことを思いだしていた。
(粋(いき)で、上品で、地位(みぶん)のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方って、ぜんたいなんだ)
 広巳は考えた。
(若旦那の家には、お銭(あし)がたくさんあって、鮫洲大尽と云や界隈(かいわい)で知らないものはないが、そんな地位(みぶん)のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だと云ったな)
 しかし、広巳は海晏寺の前の榎(えのき)の傍で逢(あ)い、それから八幡祠の境内で逢った女以外の女は、求めてはいなかった。
(その女といっしょなら、逢いたいが、外(はか)の女には逢いたくないな)
 広巳は何時(いつ)の間にか大森の魁春楼(かいしゅんろう)の裏門口に近いところへ往っていた。と、その時人の気配がして裏門から出て来た者があった。それは盛装した嫂(あによめ)のお高が血の色(け)のない顔をして、一人の婢(じょちゅう)に送られて出て来たところであった。
(いけねえ)
 広巳はそこの巷(ろじ)へ隠れて往った。

 広栄は次の室(へや)で計算していた。黒柿(くろがき)の机に向って預金の通帳のような帳面を見い見い、玩具(おもちゃ)のような算盤(そろばん)の玉を弄(いじ)っていた。
 それは二時比(ごろ)で、外には絹糸のような雨が降っていた。広栄はやがて算盤を置いて、傍の硯箱(すずりばこ)を引き寄せて墨を磨(す)りだした。
「旦那さま」
 頬の赧(あか)い壮(わか)い婢が名刺を持って傍へ来ていた。広栄は顔をあげた。
「お客さんか」
「はい」
 広栄は婢(じょちゅう)の手から名刺を執(と)った。名刺には松山良蔵としてあった。
「松山良蔵、どんな男だ」
「二人来ております、その名刺を出した人は、揉(もみ)あげの長い壮士のような人ですよ」
「揉あげの長い、壮士のような人」ちょっと考えて、「どんな用事か、聞かざったか」
「聞きませんが、聞きましょうか」
「そうだ、どんな用事か聞いてみよ」
「はい」
 婢は出て往ったがすぐ引返して来た。
「聞いたか」
「はい」
「何だ」
「当方(こちら)の家庭のことで、お話ししたいことがあって、わざわざあがったと云いますが」
「当方の家庭のことで、家のことでか」
「そうだそうです」
「当方の家庭のことで」首をかしげて考えてから、「それじゃ、まあ、通してみろ、お座敷にしよう」
「はい」
 広栄は急いで机の引抽(ひきだし)を啓(あ)けて帳面と算盤(そろばん)をしまい、それから硯箱(すずりばこ)へ蓋(ふた)をしながら来客の用件について考えた。縁側に二三人の跫音(あしおと)が聞えて来た。婢(じょちゅう)が客を玄関脇から伴(つ)れて来たところであった。広栄は左右に啓(あ)けた障子の一方の陰にいたので正面(まとも)に客と顔をあわせなくてもよかった。客はあの匪徒(ひと)の中の松山と半ちゃんであった。広栄は客座敷へ入って往く二人の横顔を見て何かしら不安を感じた。そこへ婢が出て来た。
「それでは、旦那さま」
「そうか、それじゃ茶を持って往け、俺は後から往く」
「はい」
 広栄は思いだして、煙草を点(つ)けてみたが煙草の味は判らなかった。婢は庖厨(かって)から茶を持って来て客座敷へ往くなりすぐ出て来た。広栄は黙って手をあげて招いた。婢もそれと見て黙って傍へ寄って来た。
「あのな、定七に、へんな奴が来たから、そっとここへ来ているように云っとけ」
 広栄の声は小さかった。婢は頷(うなず)いた。
「いいか、そっとだよ」
 広栄は平生(いつも)傍に置いてある松葉杖を執(と)って、それにすがってやっとこさと起(た)ち、境の襖(ふすま)を啓けて入って往った。
「足が悪いものですから、失礼します」
 松山と半ちゃんは床(とこ)の方を背にして胡坐(あぐら)をかいていた。広栄はその前へ往って崩れるように腰をおろして足を投げだした。
「失礼します、こんな恰好(かっこう)をして」
 松山はすましていた。
「はじめてお眼にかかりますが、何か当方(こちら)のことで、いらしてくださいましたそうで」
「そうだ」
「どんなことでしょうか、当方(こちら)の家庭のことと申しますと」
「すこし、へんなことだから、他の者に聞かしたくない、何人(だれ)もこの室(へや)の中へ通さないようにしてもらいたいが」
 あいての語気が強いので広栄は鬼胎(おそれ)を抱いた。
「そ、それは、私が呼ばなければ、呼ばなければ、何人(だれ)も来ませんから」
「そうかね」
 広栄は、後の詞(ことば)が出なかった。松山はその顔をじろりと見た。
「それでは、話をするに当って、云っておくことがあるが、僕だちは東洋義団と云う結社のものだが、この東洋義団と云うのは、国家のために不義不正を摘発して、弱者は授(たす)け、悪人は懲(こら)して、社会を覚醒している結社だと云うことを承知してもらいたい」
「は、東洋義団、社会を覚醒なされる、結社の方でございますか」
「そうだ、その結社のものだ、だから僕だちは、金銭利得によって動くものじゃない、これもあらかじめ承知してもらいたい」
「それはもう、なんでございますから」
「よし、それが判ったら、用件に移るが、僕だちは、今も云ったように、国家のために社会の不義不正を摘発しているところで、不幸にして、ここな家庭が紊乱(びんらん)しておるから、それを摘発に来たのだ」
 広栄は眼を見はった。
「わたくしの、家庭が、紊乱しておると申しますか」
「そうだ、紊乱しておる、紊乱しておるから、それを粛正さすために来たのだ」
 広栄はさすがに腹が治まらなかった。
「私の家は、私と、細君(かない)と、それから弟が一人あって、その弟は、今度の戦役に従軍して、金鵄(きんし)勲章ももらっておりますが、べつに他人(ひとさま)から、家庭のことを、とやこう云われるようなことはないが、それは何かの」
「だめだ」松山は叱りつけた。「そんなことを云っても、種がちゃんとあがってるのだ」
「種と云いますか」
「そうだ種だ、種があがっておる、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)と云や、人に知られた家で、人の亀鑑(てほん)になる家だ、その家が紊乱さしては、けしからんじゃないか」
 広栄は何のためにそんなことを云うのだろうと思った。
「それは、どうも、それは、何かの」
「だめだ、幾何(いくら)隠したって証拠がある、それとも君は、それを知らないのか、町内に知らぬは主翁(ていしゅ)ばかりなり、君は気が注(つ)かんのか、おめでたい人間だな」
 広栄は不思議でたまらなかった。
「それは、何かのまちがいだ」
「まちがいだ、まだそんなことを云うか、それじゃ、その証拠を見せてやろう、驚くな」松山は右の袂(たもと)へ手をやって半紙(はんし)に書いた物を二枚出して、「おい、これを見ろ」
 松山はそのままそれを広栄の前へ投(ほう)りだした。広栄はしかたなしに拾ってまずその一枚に眼をやった。それはお杉の出したものであった。広栄の眼は次の一枚に往った。それは山田稔とした壮(わか)い俳優の自筆であった。広栄の顔は蒼黒(あおぐろ)くなっていた。
「どうだ、君、読んだのか」
 広栄は何も云えなかった。
「おい、その小島杉としたのは、汝(きさま)の処へ出入するお杉と云う婆さんだ、もっとも婆さんは、字が書けないと云うから、俺が書いてやったのだが、一つの山田稔と云うのは、本人が書いたのだ、品川にごろごろしてる馬の脚だ、それを婆さんが執(と)りもって、ふざけた真似をさしていたのだ、おい、一昨日(おととい)、媽(かか)あは、家にいなかったろう、どうだ、家にいたか」
 広栄は眼を伏せていた。
「おい、汝(きさま)の媽あは大森の魁春楼にいたのだが、判ってるか」
 その時客座敷の背後(うしろ)の室(へや)には、お高がそっと立って耳をすましていたが、その詞(ことば)を聞くなり、こそこそと室を出てどこへか往ってしまった。

 店頭(みせさき)にいた定七が婢(じょちゅう)が呼びに来たので、急いで番傘をさして街路(とおり)へ出た。広巳が蛇目傘(じゃのめがさ)を担(かつ)ぐようにさして、大森の方からふらふらと帰って来たところであった。
「広巳さん、若旦那」
 広巳は酔っていた。広巳ははじめて定七を見つけた。
「ああ、定七か」
「定七かじゃありませんよ、どこにいらしたのです、心配しておりましたよ」
「心配することは、家にいる妖怪(まもの)じゃ、乃公(おいら)は大丈夫だよ」
 定七は笑った。
「家にいる妖怪(まもの)って、お宅には妖怪なんかおりませんよ、それよか、二日も三日も、どこにいらしたのです」
「妖怪を退治することを考えたり、妖怪を探したり、あっちこっちしてたのだよ」わざとらしく笑って、「蛇さまを拝みにでも往くのか」
「なに、へんな奴が」と云いかけて思いだして、「ちょうどいい、若旦那も往ってください、今、へんな壮士のような奴が二人来たので、旦那さまから呼びに来て往くところです、貴方(あなた)も往ってください。きっと強請(ゆすり)か何かだろうと思います」
「壮士のような奴が二人来た」
「だから往ってください」
「めんどうだよ」
「そんなことを仰(おっ)しゃらないで、往ってください、旦那さまは、気がお弱いから、きっと困ってるのですよ」
「そうか」
 広巳もそうしたばあい、いやとも云えないので往く気になった。定七はその顔色を見てとった。
「それじゃ、往ってください」
 定七は広巳を伴(つ)れて母屋(おもや)へ往き、玄関からそっとあがって次の室(へや)へ往った。その時客座敷では、松山が黙りこんでいる広栄を叱りつけていた。
「おい、何か云わないのか、俺だちが義侠心(ぎきょうしん)を出して、家庭を粛正してやろうとしてることが判らないのか、痴(ばか)」
 半ちゃんが口をそえた。
「おい、野郎、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)だなんて、大きな面(つら)をしやがって、ざまはねえぜ」
 広栄はその時きっと顔をあげた。
「それでは、お礼を申します、どうも御親切にありがとうございました、それで私の方としましては、細君(かない)もよく調べ、お杉も調べましたうえで、いよいよ不埒(ふらち)をはたらいておりますなら」
「待て」松山は絹を裂くような声で押えつけて、「細君もよく調べる、よく調べると云うのは、俺の云うことが、真箇(ほんとう)にできないから、それでよく調べると云うのだな」
 広栄は対手(あいて)に逆(さから)ってはならなかった。
「いや、決して、そんなことはありません、調べると云ったのは、本人の口から白状さして、そのうえで話をつけようと思いまして」
「そうか、それで細君をどうするつもりだ」
「それは親類の者にも相談して、そのうえで離縁するなり、なんなり、それは私の方で話をつけます」
「私の方で話をつける、私の方で話をつけるから、他人はおせっかいをよせと云うのか、いやしくも人の亀鑑(てほん)になるべき者が、不義(ふぎ)不埒(ふらち)なことをしているに、うやむやにして、知らん顔をするつもりか」
「そんなことはありません、決して」
「それではどうする」
「それは、今も申しましたように、親類の者とも相談しまして、そのうえで話をつけます」
「話をつけるとは、うやむやにして、そのままにするつもりだろう、そうはいかねえや」
 広栄は困ってしまった。
「そ、それでは、どうしたら」
「人の亀鑑になる者だ、社会風教上、よろしくない、叩きだせ」
「それは、私も、いざとなれば、離縁するなり、なんなりいたしますがいろいろ事情もありまして」
「事情じゃなかろう、ほれてるから、踏みつけられても、尻にしかれても、どうすることもできないだろう」
 半ちゃんがまた口をそえた。
「そうだよ、鼻の下が長いのだ、この野郎は」
「そうだよ、だから、俺だちの義侠心(ぎきょうしん)も思わないで、ふざけたことを云ってるのだ」広栄を見て、「野郎、どうだ、どうするのだ」
 広栄はもう詞(ことば)が出なかった。松山はたたみかけた。
「どうするのだ、おい、野郎、媽(かか)あを叩き出すか、俺だちの義侠心を踏みにじるか」
 襖(ふすま)がずらりと啓(あ)いて定七が出て来た。
「もし、失礼でございますが、私から、ちょっとお話をあげたいと思いますが」
 松山はじろりと定七を見た。
「汝(きさま)は何人(だれ)だ」
 定七は広栄の右側へきちんと坐った。
「番頭のようなものでございます」
「ようなものとは、なんだ」
「番頭のようにしておりますが、番頭だと云うことを主人から云われておりませんから」
「そうか、それで、俺だちにどんな話があるのだ」
「隣の室(へや)で、主人の云いつけで、帳面をあわしておりましたので、前刻(さっき)からのお話を伺いましたが、それについて、ちょっと私から申しあげたいことがございまして」
「どんなことだ、云ってみろ」
「それでは申しあげますが、今承(うけたま)われば、当方(こちら)の奥さまが、何かまちがいをしでかしまして」
「言語道断だ」
「それにつきまして、私がてまえ主人に代りまして、お願いでございます」
「なんだ」
「それは奥さまが一時の心得ちがいから、皆さまに御心配をかけましたにつきましては、それ相当のことをいたしまして、今回だけは、大目にみていただいて、みっちり意見をいたしまして、元の奥さまにしたいと思いますが」
「だめだ、あんな女は」
「ではございましょうが、てまえ奉公人といたしましては、円(まる)く収めたいのでございます、どうか、皆さまも、お腹もたちましょうが、どうかてまえに免じてお赦(ゆる)しくださいますように」
 松山は態度をやわらげた。
「そうか、奉公人として、汝(きさま)がそう云うのは、もっとものことだ、奉公人としては、主人のためにそうしなくてはならんが、苟(いやしく)も人の亀鑑(てほん)になる家のことだ」
「ではございましょうが、そこが御堪忍(ごかんにん)でございます、どうかてまえに免じて、今回だけは、お眼こぼしを願います、それにつきましては、汚いことを申しあげてはすみませんが、皆さまにそれ相当のことをいたしまして、皆さまの御親切にお礼をいたしたいと思います、どうか今回だけは、お眼こぼしを願います」
「そうか、汝(きさま)が主人のためを思うて、そう云うならいけないとも云えないが」
「どうぞお願いいたします、それにつきまして、てまえ主人にちょっと申したいことがございますから、ちょっとお赦(ゆる)しを願います」
「よし、相談があるなら、往ってもいいが、長くはいけないぞ、それに俺だちを欺(だま)しといて、警察なんかに云いつけたら、承知しないぞ」
「決して、そんなことはいたしません」
「云いつけるなら云いつけてもいい、ここな署長なんか、東洋義団の連中とは朋友(ともだち)だから、そんなことは驚かんが、もし、へんなことをすると、結社には命知らずが幾人もいるのだ、殺してしまうからそう思え」
「いや、けっしてそんな痴(ばか)な真似はいたしません」それから広栄に注意して、「それでは旦那、ちょっとお話をあげたいから、あちらへいらしてください」
 広栄はほっとしていた。
「そうか、それでは」
 広栄は松葉杖を執(と)ってやっとこさと起(た)って、定七といっしょに次の室(へや)へ往った。

 広巳は母屋(おもや)の庖厨(かって)へ入って往った。庖厨の土室(どま)には年とった婢(じょちゅう)が筍(たけのこ)の皮を剥(む)いていた。広巳は庖厨に起(た)ってあちらこちらを見た。それは何かを探し求めている眼であった。
「おい、お小夜(さよ)」
 年老(としと)った婢は何人(だれ)か来たとは知っていたが、めんどうだから知らないふりをしていたところで、名を呼ばれたので顔をあげた。
「おや、若旦那、今日はお珍らしいじゃありませんか」
 広巳が母屋へ来たことは暫(しばら)くぶりであった。
「そんなことは、どうでもいい、酒はないか」
 広巳の眼は光って怒(いかり)に燃えている眼であった。年老った婢はいつもの広巳とかってがちがっているのでおやと思った。
「さけ、どうするのです」
「どうでもいい、持って来い」
 年老った婢は筍をおいて起っていた。
「あがるのですか」
「判ってらあ」
「それでは、お燗(かん)をつけますか」
「そんなことはいい、早く持って来い」
「そうですか」
 年老(としと)った婢(じょちゅう)は流槽(ながし)と喰(くっ)ついた棚の下にある瓶子(とくり)の傍へ往った。
「瓶子のままでいいのですか」
「いい、持って来い」
「お銚子と猪口(ちょこ)はいらないですか」
「いらない、瓶子と茶碗を執(と)れ」
 年老った婢はさからわなかった。年老った婢は一升瓶子と湯呑茶碗を持って往った。
「これでいいのですか」
「いい」
 広巳は上框(あがりかまち)へ出て婢の出した瓶子と茶碗を引ったくるように執り、いきなりそこへ胡座(あぐら)をかき、瓶子の栓を口で脱(ぬ)いて、どくどくと注(つ)いで飲んだ。
「うウ」
 年老った婢は呆(あき)れてその容(さま)を見た。広巳は茶碗の酒を二口に飲んで、また後を注いだ。
「うウ」
 その酒もまた二口に飲んで三杯目の酒を注ごうとして、何か気になるのか耳をすましていたが、それだけではいけないのか茶碗をおいて起(た)ち、玄関の方へ姿を消して往った。
「まあ」
 年老った婢(じょちゅう)はますます呆れたような顔をした。そこへ頬の赧(あか)い壮(わか)い婢が何かを憚(はばか)るように奥の方から出て来たが、年老った婢を見つけるなりその前へついと往った。
「お小夜さん」
「なんだね」
 壮い婢は何人(たれ)か己(じぶん)を見ているものでもないかと云うようにして、ちらと後を見ておいて年老った婢の鼻端(はなさき)へ近ぢかと顔を持って往った。
「汝(おまえ)さん、知らない」
「なんだね」
「たいへんよ」
「どうしたの」
「お座敷の方で、大きな声がしてたでしょう」
「そうね、何人(だれ)か来てるの」
「へんな、壮士のような男が、二人来てるのだよ」
「それが、どうしたの」
「それがたいへんよ」
「どうしたの」
「どうって、ここの奥さんよ」
「奥さんが、どうしたの」
「汝(おまえ)さん」周囲(あたり)に眼をやって、「男があるのだって」
「まあ、奥さんが」
「そうよ、大森の料亭(りょうりや)かなんかで、男といっしょにいるところを、今来てる男に見つかって、書きつけを執(と)られたって」
「ほんと」
「ほんとだとも、だから、人の亀鑑(てほん)になる家のお媽(かみ)さんが、男をこしらえるなんて、ふざけてる、追んだしてしまえと云ってるのだよ」
「旦那にそんなことを云ったの」
「云ったとも、それに奥さんと男の執りもちをしたのは、あのお杉さんだって」
「まあ、お杉さんが、呆(あき)れた人だね、それで、男って何人(たれ)だろうね」
「馬の脚、馬の脚って云ってたから、俳優(やくしゃ)じゃないだろうかね」
「そうね、馬の脚って云や俳優だろう、だが奥さんがそんなことをするだろうかね」
「判らんが、奥さんはへんだから、店の平どんだって、どうしてるか判らないよ、よく伴(つ)れて歩くじゃないか」
「そうね、お蔵なんかへ伴れて往くことがあるね」
「そうだよ」
「それで、奥さんは、どうしてるの」
「いないのだよ」
「どこへ往ったろうね」
「いたたまれないで、逃げだしたかも判らないよ、前刻(さっき)居室(いま)で新聞かなんか読んでたが、いないのだよ」
「里へ往ったろうかね」
「まさか里へは往かれないよ」
「それじゃ、どこだろう」
「杉本さんじゃないの」
「あの弁護士の杉本さん」
「そうよ、奥さんは、あの杉本さんとも、へんよ」
「まさか」
「ほんとよ、私は見たことがあるもの」
「ほんと」
「ほんとだとも、正月の比(ころ)よ、旦那がお蔵へ往ってる時に、杉本さんが来て、奥さんの室(へや)へ入って、秘密(ないしょ)ばなしをして、二人で笑ったりなんかしてたよ」
「そう、そんなことがあったの、ずいぶん、ねえ」
「ずいぶんよ」
 その時どかどかと跫音(あしおと)をさして来たものがあった。二人はびっくりして離れ離れになった。広巳が引返して来たところであった。
「ふざけてやがる、こんなべらぼうなことがどこにある」
 広巳は壮(わか)い婢(じょちゅう)を見つけた。
「そこで、何をまごまごしてるのだ」
 周囲(まわり)にあるものを蹴ちらすような勢(いきおい)で入って来て、瓶子(とくり)の傍へ往くなりいきなり瓶子を執(と)って、それを口からぐいぐいと飲んだ。
「痴(ばか)、どいつもこいつも、承知しないぞ、痴」
 壮い婢は恐ろしそうにしてこそこそとどこへか往ってしまった。年老(としと)った婢は筍(たけのこ)の傍へ往って蹲(しゃが)んだ。
「痴野郎だから、だめなんだ」
 広巳は三口四口続けて飲んだが、気が注(つ)いたようにしてまた耳をたてた。

 松山と半ちゃんは、山田を出て大森の方へ向って歩いていた。松山は蝙蝠傘(こうもりがさ)をさし、半ちゃんは紺蛇目(こんじゃのめ)をさしていた。絹糸のような雨は依然として降っていた。山田の塀の前を往きすぎると、半ちゃんが右側を歩いている松山の傍へ寄って往った。
「おい、旨くいったな」
「いったとも、吾輩が蘇張(そちょう)の弁をもってすれば、天下何事かならざらんやだ、どうだい」
「また、ちんぷんかんぷんか、悪い癖だよ、よしなよ、そんなことを云って、威張ったところで、どうせ人をおどして金を執(と)る悪党じゃねえか」
「悪党じゃないよ、国家のためだよ、国家のためにやってることだよ」
「国家のために、好いことをしてる奴を、ふんづかめえて、さんざ撲(なぐ)りつけたうえに、金を執るだろう」
 松山は笑った。
「まあ、そんなものさ、鑵詰(かんづめ)の中へ石ころを入れて、兵隊に喫(く)わしても、国家のためだと云う実業家があるじゃないか、それに較(くら)べりゃ、姦通(まおとこ)をつかまえて、悪いことをさせないようにするのは、たいした違いじゃないか、天と地との違いだよ、すこし位、金を執ったっていいだろう」
「それもそうだが、裁判の紛糾(もつれ)を横あいから往って、裁判所で両方を撲りつけて、金を執るなんざ、あんまりなあ」
 松山は周囲(まわり)に注意した。店員風の壮(わか)い男と、会社員風の洋服男が来て擦(す)れちがおうとしていた。松山は叱(しっ)と云って半ちゃんに注意した。
「つまらんことを云うのは、よせよ、聞かれるぜ」
 半ちゃんは口をつぐんで苦笑した。松山は話をかえた。
「半ちゃん、車がほしいな」
「そうだ、車があるといいな」
「川崎屋へでも往きたいなあ」
「川崎屋は面白くねえや、やっぱり松浅だよ、それに自由も聞くじゃねえか」
「そりゃ判ってるが、遠いや」
「なにすぐだよ」
「かなりあるぜ」
「そりゃ、すこしは遠いが、大将が来るからな」
「だから、まあ、往くようなものさ、この雨の中をぴちゃぴちゃ歩くのは気が利かないや、それに癪(しゃく)じゃないか、俺だちに婆(ばば)あと馬の脚の番をさしといてよ、大将はふざけてるぞ」
「しかたがねえや、そこが仮父(おやぶん)の役得だ」
「そりゃそうだよ、だからはやく仮父にならなけりゃいかんぜ」
「そうとも、おめえは、乃公(おいら)とちがって、学があるから、すぐ仮父になれるさ、岡本さんの後は、おめえがつぐんだ」
「ついでもいいが、乃公は、こんな狭い日本じゃだめだ、満州へ往って、馬賊にでもなろうと思ってるのだ」
「満州なんかだめだよ、酒は高粱(きび)の酒で、喫(く)うものは、豚(ぶた)か犬かしかないと云うじゃねえか、だめだよ、魚軒(さしみ)に灘(なだ)の生一本(きいっぽん)でなくちゃ」
 二人は何時(いつ)の間にか泪橋(なみだばし)の傍へ往っていた。そのあたりには漁夫(りょうし)の家が並んでいた。そこには店頭(みせさき)へ底曳網(そこびきあみ)の雑魚(ざこ)を並べたり、あさりや蛤(はまぐり)の剥身(むきみ)を並べている処があって、その附近(まわり)のお媽(かみ)さんが、番傘などをさしてちらほらしていた。
 松山と半ちゃんは、その傘の中を潜(くぐ)って一跨(ひとまた)ぎの泪橋(なみだばし)を渡った。その時壮(わか)い男が燕(つばめ)のように後から来て二人に躍(おど)りかかった。壮い男は円木棒(まるたんぼう)を持っていた。円木棒は忽(たちま)ち紺蛇目(こんじゃのめ)を潰(つぶ)し蝙蝠傘(こうもりがさ)を飛ばしてしまった。
「うぬ」
「野郎」
 二人の叫ぶまもなく、円木棒は忽ち半ちゃんをなぎ倒し、ふりむいた松山の右の肩をしたたかに撲(なぐ)りつけた。円木棒は広巳であった。
「盗人(ぬすっと)」
 半ちゃんは起きあがって広巳に飛びかかろうとした。
「野郎」
「なにを」
 円木棒は半ちゃんの胴に来た。半ちゃんはまた倒れてしまった。松山は眼を怒らすばかりでどうすることもできなかった。広巳は円木棒を揮(ふ)って松山に躍(おど)りかかった。松山はその勢(いきおい)に辟易(へきえき)して後すさりした。半ちゃんは半身を起しただけであった。
「野郎」
 広巳はどこまでもと松山にせまった。松山はとてもかなわないと思ったのか、くるりと体を返して逃げようとした。
「待てっ」
 広巳は飛びかかって円木棒(まるたんぼう)を揮(ふ)った。円木棒は松山の背に当った。松山は前方(むこう)向けによろよろとなって倒れてしまった。
「ざまみやがれ」
 広巳は松山を捨ててふり向いた。半ちゃんが起きあがって組みかかろうとした。
「この盗人(ぬすっと)」
 広巳は丸木棒を横に揮った。半ちゃんはまた胴を打たれて横倒れになった。

 川崎屋の奥まった室(へや)では、二人の客が話していた。一人はお高で一人は色の白いでっぷり肥った童顔の髭(ひげ)のある男であった。それは杉本と云う山田の地所や貸家を管理している裁判官あがりの弁護士であった。
 室の中には明るい洋燈(ランプ)の光があった。杉本は童顔に愛嬌(あいきょう)をたたえていた。お高はその時黙って杉本の盃(さかずき)へ酌をした。杉本はまたそれを黙って飲んだ。
「だから、もういいのだ、黙って僕と帰ってけばいい」ふざけるようにお高の眼を見て、「それで、仲なおりをすりゃ、いいじゃないか、夫婦喧嘩と西の風は、日の入りかぎりだと云うことがある、それでいいでしょう」
 お高は意(いみ)のある眼づかいをした。
「よかあないことよ、いやよ、帰るのは」
「帰るのはいやって、大事の旦那さまが嫌いかね」
「嫌いよ、あんな跛なんか、見たくもないわ、飽き飽きしたから、杉本さんにどうかしてもらうわ」
「それはお門違いだろう、あれじゃないか」
「痴(ばか)」
「だってそうじゃないか、それで事件が起ったじゃないか、やっぱり男に生れるなら、壮(わか)い、きれいな俳優(やくしゃ)のような男に生れたいものだな」
「痴」
「痴は、ないでしょう」
「痴、痴、痴よ、そんなことを云うものは、ただ、お杉が知ってると云うから、いっしょに飯を喫(く)ってたじゃないの、それをあの悪党が、二人を伴(つ)れだして、一札(いっさつ)をかかしたじゃないの、無実の罪よ、貴方(あなた)は弁護士じゃないの、そんな無実の罪の弁護するのが、職務じゃないの」
「だから、すぐ往って、旦那に逢(あ)って、奥さんは、決してそうじゃないと云って、旦那の誤解をといて、今晩伴(つ)れて往くと云うことにして来たじゃないか、りっぱに、弁護士の職務をつくして来たじゃないか」
「だめよ、貴方の弁護士は、女を口説(くど)く弁護士よ」
「ところが、僕は女を口説くが拙(へた)なのだ」
「だめよ、そんなことを云ったって、ちゃんと種があがってるから」
「それこそ無実の罪だ、こりゃ何人(たれ)かに弁護を頼まなくちゃいけない」
「頼んだってだめよ」
「こいつは困ったぞ」
「困ったっていいよ、他(ひと)を痴にするのだもの、今日も私の家へ往って、何を云ったかも知れやしないことよ」
「こいつは驚いた、奥さまは品行方正だ、そこは私が受けあうからと云って、旦那をなだめたじゃないか」
「ちょいと、その品行方正が受けあえて」皮肉な笑いを見せて、「どう、杉本さん」
「受けあえるさ、現に受けあって来たじゃないか」
「だから、貴方(あなた)は狸(たぬき)よ」
「すると、夫人は、狐(きつね)か」
「痴(ばか)」
「痴はもうたくさん、これから飯でも喫(く)って帰ろうじゃないか」
「いやよ、帰らない、帰らないで、今晩は、貴方を引っぱり出して、どこかへ往くから」
「うちの夫人に叱られる」
「叱られたっていいわ、そんなこと」

 お杉の家では狭い茶室(ちゃのま)へ小さな釣洋燈(つりランプ)を点(つ)けて夕飯を喫(く)っていた。
「おまえさん、まだ飲むかい」
 お杉は己(じぶん)の盃(さかずき)へ酒を注(つ)ぎながら、汚い食卓(ちゃぶだい)の向前(むこうがわ)にいる長吉の方を見た。眼の不自由な長吉は、空になった盃を前へ出していた。
「もう、一杯注いでくれ」
「もう一杯だなんて、おまえさん、もう三杯飲んだじゃないか、そんなに飲んじゃ、体の毒だよ」
「なけりゃいいが、あるなら、もうちょっぴりくれ」
「二合買ってあるから、ないことはないが、毒だよ」
 お杉は憎にくしそうに云って己の盃を手にして一口飲んだ。長吉はきまりわるそうにしていた。
「今日は、ばかに佳い気もちだ、ちょっぴりくれ」
「毎日あげ膳(ぜん)すえ膳で、飯を喫わしてもらってて、それで、悪い気もちになられちゃ、かなわないよ」
 さすがにお鶴はそれを見かねた。お鶴はお杉の右横の長火鉢(ながひばち)の傍で飯を喫っていた。
「お母(っか)さん、注いでおやりよ」
 お杉は盃を持ったままでお鶴を見た。
「酒は惜しくないが、また、せんきでも起されちゃ、困るからね」
「一杯ぐらい、いいじゃないか、一杯ぐらいで、せんきも起らないだろう」
「そうは云われないよ、何時(いつ)かもおこったことがあるのだよ」
「だって、まあ、今晩は、いいじゃないか、注(つ)いでおやりよ、そんなことを云うものじゃないよ」
「今晩にかぎって、いやに座頭(ざとう)さんのかたを持つじゃないか」嘲(あざけ)るように云って盃(さかずき)をおき、「それじゃ、親孝行のお嬢さんの、お詞(ことば)どおりにするかね」
「ばかにしてるよ」
「ばかにするものかね、親孝行のお嬢さんの、お詞どおりにすると、云ってるじゃないか」銚子(ちょうし)を執(と)って長吉の盃の近くへやり、「お嬢さんのお詞によって、注いであげるから、滴(こぼ)しちゃいけないよ、一滴でもお銭(あし)だ、それも、みんな、私の汗と脂(あぶら)が入ってるのだ」
「ふんだ」
 お鶴は不快そうな顔をして飯を喫(く)いだした。お鶴の向前(むこうがわ)にいた音蔵は、何時(いつ)の間にか箸(はし)をやめていたが、お杉が長吉の盃へ酒を注いだのを見ると、ほっとしたように箸を動かした。お杉は飲みさしの酒を飲んだ。
「親孝行のお嬢さんが、白粉(おしろい)や香水を買う金がありゃ、たまには活動の一つも見に伴(つ)れてってくれるといいが、親孝行は違ったものだ」
 お鶴はすましていた。
「何云ってるのだ、家へ入れるものは、ちゃんと入れてあるのだ、白粉を買おうと、香水を買おうと、己(じぶん)のはたらきで、己がするのだ、へんだ」
「そうそう、己のはたらきで、買い喫(ぐ)いもすれば、男狂いもするのだよ、みあげたお嬢さんだ」
 長吉は手をあげて二人を押えるようにした。
「これ、これ、お鶴、お杉、そ、そんな、そんなことを云うものでねえ、みっともない、親子が、そんなことを云うものでねえ、みっともない」
 お鶴はいきりたっていた。お鶴はお杉を睨(にら)みつけた。
「何云ってやがるのだ、この比(ごろ)こそ、あんまりへんなこともしないが、大酒を喫(くら)って、お父(とっ)さんをふみつけにして、眼にあまることばかりしてたくせに、わたしが何も知らないと思って、ふざけたことをお云いでないよ」
 長吉はまた手を揮(ふ)った。
「お鶴、まあ、これ、みっともない、そ、そんなことを云うものでねえ、みっともない、他へ聞えるのだ」
「聞えたっていいわよ」
「いいことはねえ、他(ひと)に笑われる、そんなことを云うものでねえ、だいち、親子が喧嘩するなんて、みっともないことじゃ、やめろ」
「やめないわ、わたし、あんなことを云われて、親だって何だって、承知しないから」
「そりゃ、いけねえ、みっともない、いけねえぞ」
 お鶴は何と思ったかふいと起(た)った。
「こんな家なんかに、何人(だれ)がいるものか」
 長吉はもてあました。
「お鶴、お鶴、そんなことを云うものでねえ、これ、お鶴」
「いやだよ、こんな家に何人がいるものか」
 お杉は平気な顔をして酒を喫(の)んでいた。
「へッ、お嬢さんの御立腹か、いやならどこへなりといらっしゃいませだ」
 お鶴はもう歩いていた。
「往ってやるとも、こんな家に、何人がいるもんか」
 長吉はお鶴を追っかけるように体を浮かしたが、さすがに起(た)っては往けなかった。
「これ、お鶴、お鶴」

 お鶴はもう次の室(へや)へ姿を消して往った。お杉は酒を注(つ)いでいた。
「おまえさん、いいよ、出て往きたけりゃ、出て往かすがいいよ、好きな男の傍へでも往くだろうよ」
「そ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うから喧嘩になるのだ、お鶴を呼びなよ」
「いやだよ、わたしは」
 その時がたびしと入口の障子を締めて出て往く下駄の音がした。
「困ったものだ」
 長吉はほんとに困ったような顔をした。
「うっちゃっておきよ、あんな奴は、くせになるよ」
「そうはいけねえ、娘の子だから、どんな不了見(ふりょうけん)を起すかも判らねえ」
「元から不了見だよ、あれは」
「そんなに云うものでねえ、親子じゃねえか、親は子を可愛がり、子は親を大事にしなくちゃならねえ」
「あれが、親を大事にしたことがあるの」
「大事にするじゃねえか」
「おまえさん、ばかだよ、あれで、大事にしてくれると思ってるの」
 その時入口の障子が開(あ)いて人の声がした。それは壮(わか)い男の声であった。音蔵はもう箸(はし)も何もおいていた。
「何人(だれ)か来たよ」
 お杉もそれを聞いていた。
「お客さんがあっても、取次に出るような者は、一人もいねえのだ、何と云う因果なことだ」
 さすがに声はちいさかった。お杉はさも癪(しゃく)にさわると云うようにして起(た)って往った。そこは土室(どま)に臨んで三畳の畳を敷き、音蔵が手内職の袋張(ふくろはり)の台を一方の隅へ置いてあった。土室(どま)の暗い処に三十前後の店員らしい男の眼が光っていた。
「今晩は」
「何方さまでございましょう」
「わっしは、山田から来たのだが」
 お杉は内心恐れていた山田の使(つかい)に来られてぎくとした。お杉はべったり坐った。
「や、やまだ」
「そうだよ」
「何か御用で」
「あの、旦那からだが、理由(わけ)は覚えがあるだろうから何も云わないが、今日かぎり、出入(でいり)をしないようにって、そう云いつかって来たのだが」
 お杉は何も云えなかった。
「わっしは、何も知らないが、それだけ云えば、判ると云うのだから、それを云いに来たのだ」
「そう、ですか」
「判ってるかね」
「判りました」
「それじゃ、これで」
「まあ、いいじゃありませんか」
「まだ一軒まわる処がある、それじゃ」
 壮(わか)い男はそのまま出て往った。お杉は暫(しばら)くそこに坐っていた。長吉が茶室(ちゃのま)から呼んだ。
「おい、お杉」
 お杉は返事をしなかった。
「おい、お杉」
 お杉はふいと起(た)って茶室へ引返した。長吉は待っていた。
「山田さんのお使らしいが、なんだね」
 お杉は黙って坐り、盃(さかずき)を持って飲みさしの酒をぐっと飲んだ。
「何の御用だね」
「やかましいや」
 長吉はびっくりしたように潰(つぶ)れている眼の瞼(まぶた)をびくびくとさした。
「どうしたのだ、何をそんなに腹をたてるのだ」
「煩(うるさ)いよ」
 長吉はちょっと黙った。お杉は銚子(ちょうし)の酒を注(つ)いだ。
「何云ってやがるのだ、おまえさんなんかの口を出すことじゃないよ」
 長吉は首をかしげた。
「どう、どうしたと云うのだ、怒鳴らないで云ってみな、何か山田さんから云って来たのか」
 お杉は注いだ酒をあおった。
「やかましい、どう盲人のくせに引込んどりよ」
「引込んでてもいいが、心配になるから聞いてるのだよ、どうしたのだ」
「聞きたけりゃ、云ってやるよ。今日かぎり、山田さんへ出入(でいり)をしないことになったのだよ」
「でいり、出入ができないのか」驚いて、「どうしたと云うのだ」
「この間、奥さんのお伴をして、池上(いけがみ)へ往ってて、破戸漢(ごろつき)に因縁(いんねん)をつけられたのだが、それを何かかんちがいしたものだろう、出入をさせなけりゃ、させてもらわなくてもいいや、何人(だれ)があんな処へ往ってやるものか」
 長吉はおどおどした。
「お、おい、そ、そりゃ、いけねえ、いけねえぞ、今まで御恩になった処じゃねえか、かんちがいをされたことがありゃ、りっぱに明(あか)しをたてなくちゃ、いけねえ、そんなことを云うものでねえぞ」
「やかましい」
 お杉は手にしていた盃(さかずき)を投げつけた。盃は長吉の額(ひたい)に当って食卓(ちゃぶだい)の上にある漬物の皿の中へ落ちた。音蔵は手を出してその盃を遮(さえぎ)ろうとしたがおそかった。
「叔母さん、そ、それは」
 お杉は憎にくしそうに音蔵を見た。
「何云ってやがるのだ、このばった」
 音蔵の顔は真蒼(まっさお)になった。
「お、叔母さん、叔母さん、それは」
「やかましい、黙ってろ、不具者(かたわ)のくせに、引込んでろ」
 長吉は体を顫(ふる)わした。
「何と云うあくたれだ、てめえは、気がちがったか、なんと云うことだ」
 お杉はやけくそであった。
「やかましい、どう盲人と、足のちぎれたばった野郎、よくもよくも、一処(ひとところ)へ集まったものだ」銚子で食卓(ちゃぶだい)の上を叩いて、「こんな不具者(かたわ)ばかりの処で、酒なんか飲めるものでない」とついと起(た)って、「どこかへ往って、飲みなおす」
 お杉はどんどん歩いて往ったが、やがて障子を啓(あ)けて外へ出て往く気配がした。音蔵は歯をくいしばって考えこんでいた。
「おと」
 音蔵の耳には入らなかった。
「おと」

 荒い南風の吹く中を広巳は歩いていた。その広巳の瞳には、人や車が影絵のように映り、建物が歪(ゆが)んで映り、時とすると灰汁(あく)のような色をして飛んでいる空の雲が鳥の翅(つばさ)のように映り、風のために裏葉をかえしている嫩葉(わかば)が銀細工の木の葉となって映った。
(へんだなあ、今日は)
 それは午(ひる)すぎであった。広巳は足にまかして歩いた。
(どうしたと云うのだ)
 広巳はどこへ往っているとも、またどこを歩いていると云うことも判らなかった。
(俺は、どうかしてるぞ)
 何故(なぜ)、こんなことになったのだと考えた広巳の頭に、醜い嫂(あによめ)の姿が浮んだ。
(彼奴のせいだ、あの畜生(ちくしょう)のせいだ、彼奴がいなかったら、俺はこんなことになりはしないぞ、あの畜生のせいだ)
 あの畜生さえいなかったら山田家は朗(ほがら)かで、鮫洲大尽(さめずだいじん)として人にも尊敬せられて往くのであるが、あの畜生のいるばかりにこんなことになった。
(それと云うのも、兄貴がお人好しだからだ)
 兄貴がお人好しで蛇を拝んだり、白蟻(しろあり)の糞を拝んだりしているからだ。兄貴の眼を覚(さま)すには、あの蛇からどうかしなくちゃならない。
(あの蛇と白蟻の糞をどうかして、兄貴の眼が覚めたら、兄貴も何時(いつ)までも女房の尻にしかれてはいないのだ、女房に踏みつけられて、それで他(ひと)から金をとられるなんて、こんなばかばかしいことがあるものじゃない)
 広巳の口元にはその時微笑が浮んだ。広巳は二人の悪党にせめてもの復讐したことを考えだしているのであった。
(それにしても、撲(なぐ)りつけたものが、己(じぶん)だと知れると、また何か云って来やしないか)
 云って来たところで正義はこっちにある。
「何、戦(いくさ)に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)[#「「何、戦(いくさ)に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)」はママ]
 広巳の眼に己(じぶん)の入ろうとしている門が映った。広巳は驚いて足をとめた。それは己の家の母屋(おもや)の門であった。
(おや、俺はどこからか帰って来たのか)
 広巳は門の中へ入った。表庭との境いになった板塀の耳門(くぐり)が半ば啓(あ)いていた。広巳はその方へふらふらと往った。
 庭の樹木も風に掻(か)きまわされていた。広巳は兄の姿が見えないのかと思ってちょっと眼をやった。風を入れないためか室(へや)の障子は皆締めてあった。
(締めてあるな)
 広巳はふと何かの気配を感じた。広巳の眼は白沙(しらすな)を敷いた地べたへ往った。そこにあの蛇が蠢(うごめ)いていた。
(出てやがるな、糞蛇)
 広巳は忽(たちま)ち蛇に憤りを感じた。広巳はそっと四辺(あたり)へ眼をやった。

 客座敷の方で不意に人声がした。
「どうだね、御主人、返事をしてもらおうか」
 それは愛嬌(あいきょう)のない詞(ことば)であった。広巳はそれに耳をやった。次の室(へや)の障子が音もなくすうと啓(ひら)いた。広巳は何人(だれ)だろうと思って眼をやった。定七の顔とともに定七の一方の手が出てこっちを招いた。広巳は頷(うなず)いておいて跫音(あしおと)をさせないようにして縁側をあがり、障子の引手に体を当てないように用心しながら入った。定七は広巳の入るのを待っていた。定七は急いで口を持って来た。
「また、来たのですよ」
 広巳は囁(ささや)きかえした。
「何人(だれ)だ」
「やっぱり破戸漢(ごろつき)ですよ」
「そうか」
 その時客座敷で声がしはじめた。
「もう、いいだろう、鮫洲大尽(さめずだいじん)と云えば、何人知らぬ者もない家の主人だ、何時(いつ)までもぐずぐずしていられては困る、それとも返事を延ばしておいて、警察へでも云ってやるつもりかね」
 それは嘲(あざけ)りを帯びた声であった。
「そんなことはない」
「それじゃ、警察へは云ってやらんのか、しかし、云ってやろと思えば、云ってやってもいいよ、ほんとを云や、吾輩も悪いのだ、罪悪を犯しておいて、それに未練があって、細君をもらいに来ているのだから、君に怒られて、まかりまちがえば、警察へ突き出されて、赤い衣服(きもの)を被(き)せられるかも知れんと思って、それを覚悟で来ているのだ」
 広栄の返事はなかった。広巳の眼には怒(いかり)が湧いた。広巳は定七の耳へ口を持って往った。
「関係があるから、渡せと云って来ているのか」
「そうですよ」
「けしからんぞ」
「云いがかりですよ」
「いや、ほんとかも判らん、あれは、そんなことをする畜生だ」
 広巳の声が大きくなりかけたので、定七はあわてて掌(てのひら)をその口へ持って往った。
「聞えますよ」
「聞えたっていいや」
「ま、若旦那」
 客座敷の声がまた聞えて来た。
「おい、何時(いつ)まで黙ってるのだ、しびれがきれるぜ、御主人、鮫洲(さめず)の大尽(だいじん)君、女をくれるか、厭(いや)か、返事をしてくれないのか」
「返事もしますが、家の家内が、何日(いつ)、どこで、そんなことをしたでしょうか」
「日か、五六日前だ、入用がありゃ云ってやる」
「五六日前」
「そうだ」
「それはどこでしょうか」
「大福帳へでも書きつけるつもりかね」
 広栄は返事をしなかった。
「書きつけたけりゃ、はっきり云ってやるが、場所は、池上の魁春楼(かいしゅんろう)だよ」
「池上の魁春楼」
「そうだよ、その日、君の細君は、婆さんを伴(つ)れて、壮(わか)い馬の脚をくわえこんでいるところを、壮い奴にひどい目に逢(あ)わされて、困ってたから、吾輩が慰めに往ってやって、すまないがそれからだよ」
「そうか」
「判ったかね」
 広栄は何も云わなかった。広巳は狂人(きちがい)のように室(へや)を飛びだした。飛びだすひょうしに体が障子に衝(ぶ)つかって大きな音をたてた。定七は驚いて広巳をつかまえようとしたが及ばなかった。広巳はそのまま庭へ飛びおりて庭の上へつらつらと眼をやった。楓(かえで)の老木の近くにある高野槇(こうやまき)の根方に、あの蛇がいて鎌首をもったてながら針のような赤い舌を出していた。
「くそ」
 広巳の眼は脱沓(くつぬぎ)の方へ往った。そこに庭下駄が一足揃えて置いてあった。広巳はそれを見ると脱沓の方へ往って、その下駄の片方を執(と)るなり、蛇の処へ走って往っていきなり撲(なぐ)りつけた。
「あ」
 それは定七の叫びであった。広巳は定七の声を聞くと一層力を得たように続けて蛇を撲った。蛇は紐(ひも)を解いたようにそのままぐったりとなってしまった。
「くそ」
 広巳は手にしていた下駄を投げ棄てるなり、その蛇の胴体をむずと掴(つか)んで客座敷の縁側の方へ走って往った。
「あれ、あ、若旦那」
 定七ははらはらしていた。広巳の耳にはもう定七の声などは入らなかった。広巳は縁側へ駈けあがるなり、客座敷の障子をがらりと開けた。
 室(へや)の中ではあの岡本と広栄がさしむかっていたが、魔鳥のように駈けこんで来た広巳に驚かされてきょときょとした。広巳は岡本をめがけて手にした蛇を投げつけた。
「これでも啖(くら)え」
 蛇は岡本の顔へ当って畳の上へ落ちた。岡本の手は羽織(はおり)の紐(ひも)にかかった。
「乱暴するか」
「この破戸漢(ごろつき)、ふざけやがるな、ここをどこだと思ってるのだ」
 岡本は広巳を睨(にら)みつけた。
「へん、ここをどこだ」声をおとして、「ここは鮫洲(さめず)のお大尽(だいじん)のお邸(やしき)さ、お邸と知って、奥さまをもらいに来てるのだが、汝(てめえ)はなんだ」
「乃公(おいら)か、乃公はこの家の者だが、汝(てめえ)こそなんだ、ふざけたことをしやがると、その蛇のように敲(たた)き殺すぞ」
 広栄ははらはらとするばかりでどうすることもできなかった。定七が縁側から顔を出した。
「もし、もし、どうか、もし」
 広巳は火のように怒っていた。
「やかましい、黙れ、乃公(おいら)がこの破戸漢(ごろつき)を敲(たた)き殺すんだ」岡本を睨みつけて、「野郎、出て往きやがれ、ぐずぐずすると敲き殺すぞ」
 広巳は傍の唐金(からかね)の火鉢に眼をつけた。広巳はいきなりそれに手をかけた。広栄がその手にすがりついた。
「広巳、そ、そんなことをしては、広巳」
「いけねえ」
 岡本は羽織をぱっと後に放(は)ねた。放ねると同時に背の方にまわして持っていた日本刀を執(と)った。
「乱暴するか」
「なにを」
 広巳は火鉢を持ちあげようとしたが、広栄が死力を出してしがみついているのであがらなかった。
「汝(てめえ)は、泪橋(なみだばし)の下で、壮(わか)い奴をひどい目に逢(あ)わした奴だな」
「やかましいや、この破戸漢」
「破戸漢であろうと、なんであろうと、そんなことに用はない、ここな奥さんをもらって往けば、それでいい、痴(ばか)なことをしないで、旦那にそう云って、奥さんを俺にくれるようにしてくれ」
「あんな腐った女(あま)は欲しくはないが、汝(てめえ)なんかに渡すものか、渡すようなら、首にして渡さあ」
「こりゃ面白い、首にして渡してくれるか、受けとろう、俺も、男の意地だ、こうなりゃ、首でも体でも、渡してもらわなくちゃ帰らない」
「なに」
 広巳は火鉢をすてて床(とこ)の方へ走った。床には刀架(かたなかけ)があって、広巳が記念の軍刀と日本刀が架けてあった。広巳は日本刀を引掴(ひっつか)んで執(と)り、すらりと脱(ぬ)きながら岡本の方を揮(ふ)り向いた。
「女の首を渡す前に、まず汝(てめえ)の首を渡せ」
 岡本は刀の柄(つか)に手をかけた。
「なにを」
 定七が室(へや)の中へ飛びこんで来た。
「いけない、いけない、若旦那、そ、そんなことをしては、いけない、若旦那」
「なに、今日は、この家の邪魔をする妖魔(まもの)を斬っちまうのだ」
「いけない、若旦那、あなたは」
 定七は広巳のけんまくが荒いので傍へ寄ることができなかった。広巳は岡本の前へ出た。
「野郎」
 岡本は同時に刀を脱いたが、広巳のけんまくに気をのまれて腰が浮いた。同時に広巳の刀が頭の上に閃(ひらめ)いた。岡本は逃げ走った。
「逃がすものかい」
 広巳は悪鬼(あっき)のようになって追っかけた。定七も広栄もどうすることもできなかった。
「たいへんだ、たいへんだ、何人(だれ)か来てくれ」
「広巳、広巳、そ、そんな」
「あれ、あれ」
「何人(だれ)か来てくれ」
 岡本は玄関の方へ逃げる隙(ひま)がないので、奥との境になった襖(ふすま)を突き倒すように啓(あ)けて逃げた。
「くそ」
 広巳も夢中であった。奥の室へ入った岡本は、今度は縁側の障子をこれも突き倒すように啓けて裏庭へ出た。裏庭には柿や梨の木が植わっていた。風はますます吹きつのって、その柿や梨の木を掻(か)きまぜていた。
「くそ、逃がすか」
 広巳を追って出た定七は、そこでも大声かけた。
「たいへんだ、たいへんだ、何人(だれ)か早く来てくれ」
 それと知って二人の婢(じょちゅう)も裏庭へ顔を出した。
「あれ、あれ、たいへん、たいへん」
「あれ、あれ」
 岡本は果樹の間から出て土蔵の方へ走った。広巳はどこまでも追って往った。定七や婢が後から来て叫んだ。
 その時右の端(はし)の土蔵の口が内から啓(ひら)いて、お高と小厮(こぞう)の平吉がひょこりと出て来た。広巳の体はお高の前にあった。夢中になっている広巳の眼にもすぐお高の姿が映った。広巳はお高に走りかかった。
「この妖魔(まもの)」
 広巳の刀はきらりと閃(ひらめ)いた。
「わっ」
 お高は一声叫んだなりに倒れてしまった。広巳は倒れたお高の上にまた刀を揮(ふる)った。
「よくもよくも、家に泥をぬりやがったな」
 広巳は肩で呼吸(いき)をした。広巳の刀には血が赤く笑っていた。広巳はその刀を揮(ふ)りまわしながら岡本を尋ねて走った。
「くそ」

 広巳は定七に伴(つ)れられて家を出た。広巳も定七も黒の紋附羽織(もんつきはおり)を被(き)、袴(はかま)を穿(は)いて、何か儀式へでも臨む日のような姿をしていた。広巳が品川の警察へ自首して往くところであった。
 風はますます強く雲も濃くなって、今にも雨が添いはしないかと思われるような天候になった。帽子を冠(かぶ)っている広巳は、その風のために時どき帽子を持って往かれそうになった。羽織の袖(そで)は靡(なび)き、袴の裾(すそ)はまくれあがった。
 広巳は蒼白(あおじろ)い沈痛な顔をして黙々と歩いていた。定七は広巳の後を歩いていた。定七は広巳から眼をはなさなかった。二人は八幡祠の前を往っていた。
「おや、若旦那だ、ちょうどよかった、若旦那」
 はすっぱな女の声がどこからか飛んで来た。広巳は重くるしい眼をやった。お鶴と品のある中年の※(「女+朱」、第3水準1-15-80)(きれい)な女がいた。お鶴は平生(いつも)の調子であった。
「若旦那、どこへいらっしゃるのです」
 広巳はお鶴の顔を見るばかりであった。
「若旦那、どうかなさったのですか、今日は奥さまのお伴をして、あなたにお眼にかかりに往くところよ」
 定七は困ったが、お鶴といっしょにいる地位(みぶん)のありそうな女に気がねして何も云わなかった。広巳はやっぱり何も云わなかった。
「どうしたの、若旦那、私がこの間話した奥さまじゃありませんか」
 広巳の眼はお鶴の傍にいる女へ往った。女はしとやかにおじぎをした。
「山田さま、暫(しばら)くでございました、もう十五六年にもなりますから、お忘れになってらっしゃると思いますが、私は森山節でございます」
 精神の混沌(こんとん)としている広巳にはものを考える力がなかった。広巳は痴(ばか)のように女の顔を見た。お鶴がそれをもどかしがった。
「若旦那、思い出せないですか、何時(いつ)も若旦那と遊んでいらした方ですよ、忘れたのですか、ここの八幡さまの中で、若旦那が諍闘(けんか)してた時に、留(と)めてくだされた方ですよ」
 広巳の混沌としている気もちを揺りうごかすものがあった。広巳は女を見なおした。
「あ」
 それは広巳の尋ねている海晏寺の前の榎(えのき)の下で見た女であった。女は心もち顔をあからめていた。
「月の晩に、海晏寺の前でお眼にかかりました」
「ああ」
 しかし、幼な朋友(ともだち)としての女は思い出せなかった。女は定七の方へ顔をやった。
「小父(おじ)さん、海苔(のり)をつけていた新吉を御存じでしょうか」
 定七はすぐ記憶を呼びおこした。
「そうだ、新吉の、それじゃ汝(おまえ)さんは、せつぼうだ」
 女は莞(にっ)とした。
「その節でございます、暫(しばら)くでございました」
「どうも暫くだ、暫くだから、ゆっくり話もしたいが、今日はとりこみがあって、ゆっくりしていられない、明日でも、また」
「これは、どうも失礼いたしました、それでは、また、明日にでもあがります」
 女はそう云ううちにも広巳の気配に注意していた。女は広巳をしっかりと見た。
「山田さま、それでは、また、明日でもお邪魔さしていただきます、それでは」
 女はおじぎをしてお鶴を伴(つ)れて往ってしまった。定七は気をせいていた。
「それでは、若旦那、まいりましょう」
「うん」
 二人は歩きだした。そして、海晏寺の前を通りすぎたところで、どこからか竹杖にすがった壮(わか)い男が、とんとん飛び歩きをしながら豪(えら)い勢(いきおい)で出て来た。それは長吉の甥(おい)の音蔵であった。音蔵の両手は血に染まっていた。音蔵の後から音蔵を追っかけるようにして四五人の者が来ていた。音蔵は揮(ふ)りかえった。
「乃公(おいら)は、警察へ往くのだ、邪魔しやがると、ついでにやっつけるぞ」

 夜になって雨が降りだして珍らしい暴風雨(あらし)になったが、その暴風雨の中で山田家のあの中央(まんなか)の蟻(あり)の塔のある土蔵が潰(つぶ)れた。
了

底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社
   1934(昭和9)年
※「三宝(さんぽう)」と「三宝(さんぼう)」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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