広巳はのそりとその前を通りすぎた。川崎屋をすこし離れたところの並びの側に空地があって、そこには簀につけた海苔を並べて乾してあった。空地の前には鉛色をした潮が脹らんでいて、風でも吹けばどぶりと陸の方へ崩れて来そうに見えていた。縁には咲き残りの菜種の花があり、遥か沖には二つの白帆が靄の中にぼやけていた。空地に向った右側は魚屋になって、店には鮟鱇を釣し、台板の上には小鯛、海老、蟹。入口には蛤仔や文蛤の笊を置いてあった。そこには藻のむれるような海岸特有の匂があった。
広巳はふと何か考えこんだ。七八人の少年がどこからか出て来た。玩具の洋刀を持ち海老しびの竹屑を持った少年の群は、そこで戦ごっこをはじめた。
「俺は東郷大将だぞ、ロスケに負けるものかい」
「汝はクロバトキンだろう」
「やっつけろ、クロバトキンをやっつけろ」
それは日露戦役の直後で、当時の少年の何人もが東郷大将を夢みている時であった。広巳は足をとめた。
「東郷大将、うう、東郷大将か」物の影を追うようにして、「沙河の戦は、面白かったなあ、俺もあの時、鵜沢連隊長殿と戦死するところだった」
少年の群はその時鯨波をあげて右側の路地の中に入って往った。広巳は気が注いた。
「東郷大将は、もう往っちゃったのか、東郷大将は」淋しそうに笑って、「俺もなあ、あの時鵜沢連隊長殿と戦死してたらなあ」
広巳は歩きだした。広巳の眼の前には落寞とした世界がひろがっていた。
「これが日露戦争の勇士か」
右側に嫩葉をつけた欅の大木が一団となっているところがあった。そこは八幡宮の境内であった。広巳はそこへ入った。華表のしたに風船玉売の老婆がいた。広巳は見むきもしないで華表を潜った。欅の嫩葉に彩られた境内は静であった。右側の社務所の前には一人の老人が黙もくと箒を執っていた。左側に御手洗、金燈籠、石燈籠、狛犬が左右に建ち並んで、それから拝殿の庇の下に喰つくようになって天水桶があった。その天水桶は鋳鉄であった。その右側の天水桶の縁に烏のような水だらけになった一羽の鳥がとまって、それがばさばさと羽ばたきをやっていた。
拝殿の前の金の緒の垂れさがった下には、一人の御隠居様らしい切髪の老媼がこちらへ背を見せて拝んでいた。広巳の眼は烏のような水だらけの鳥へ往った。広巳は鳥の方へ往った。それは鵜であった。長い嘴の上の方の黄ろい古怪な形をした水禽は、境内の左側になった池にでも棲んでいるのか人に恐れなかった。
「なんだ、鵜か」
鵜は羽ばたきをやめなかった。その眼はきろきろと鬼魅悪く光っていた。
「厭な眼をするない」手を揮って、「おい、こら」
鵜はそれでも逃げなかった。汚い天水桶の上には鳥の柔毛が浮んでいた。右の方の横手の入口に近い処に小さな稲荷の祠があって、半纏着の中年の男がその前に蹲んでいた。広巳は鵜に興味がなくなったので、天水桶の傍をぐるりと廻って、社の横手へ往ってそこの階段へ腰をかけた。
豆腐屋の喇叭の音がどこからかきこえて来た。広巳は腕組をして眼をふさいでいた。二人伴が横手の入口から入って来た。一人は素肌に双子の袷を着て一方の肩に絞の手拭をかけた浪爺風で、一人は紺の腹掛に半纏を着て突っかけ草履の大工とでも云うような壮佼であった。
「なんだ、暢気そうに睡ってるじゃねえか」
「終夜稼いだお疲れか」
二人は斜に拝殿の前の方へ往こうとしていた。広巳の眼が大きく開いた。
「野郎待て」
右側を往っていた双子がちらりと揮りかえった。広巳はついと起った。双子は有意らしい沈静を見せた。
「俺に用があるのか」
「あるとも、俺を盗児と云ったのは、何人だ」
「ぬすっと、何人が汝さんを盗児と云ったのだ」
広巳はずいと進んで往った。
「汝か、伴か二人のうちだ」
双子はそれと見て体を整えた。
「云わねえ、云うものかい、盗児と云うものかい」
「云わねえことがあるか、終夜稼いだと云やがったくせに、云やしないもすさまじいや」
「終夜稼いだと云ったっていいだろう、急ぎの仕事がありゃあ、終夜稼があな」伴の方を見て、「なあ、与ちゃん」
紺の腹掛は頷いた。
「そうとも、そうとも、急ぎの仕事がありゃあ、二日でも三日でも、寝ずにやるとも」
広巳はもう双子に躍りかかった。
「ふざけるない、この野郎」
双子も負けてはいなかった。双子は広巳の拳を避けて広巳に立ち向った。紺の腹掛は双子と力をあわして広巳を撲り倒そうとした。三人の拳は搦みあった。広巳の足は拳とともに閃いた。双子は足を蹴られて倒れてしまった。
「野郎」
「こん畜生」
紺の腹掛と広巳は取っ組みあってしまった。双子は放ねおきて広巳の片頬へ拳を持って往った。
「この野郎」
広巳は紺の腹掛を揮り放そうとした。三人の体は黒い渦巻を作ってぐるぐると縺れあった。
「これ、これ、何と云うことだ、ここで喧嘩をして、神罰を恐れないか、何と云うことだ、これ」
そこには社務所の前で箒を執っていた老人が来ていた。老人は三人を叱って諍闘をとり鎮めようとしたが鎮まらなかった。黒い渦巻を作って縺れあった三人の口からは野獣のような呻きが聞えた。
「これ、これ、これ、よせと云うのに、これよさないか、罰あたり、神様のお咎めが恐ろしくないか、これ、これ」
老人は箒を中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足退った。老人の小さな頭には胡麻塩になった略画の烏そのままの髷が乗っかっていた。
「こ、これは、まあ、なんと云うことだ、狼の噛みあうように」
広巳は双子に帯際に掻きつかれながら、俯伏に倒れた紺の腹掛の上に馬乗になっていた。
「く、く、く」
「う、う、う」
「む、む、む」
「う、う、う」
三人はまた獣のように呻きあった。剥きあっている三人の歯が獣の牙のようにちらちらした。
「何人か来てくれ、何人か来てくれ」
老人はもう己の手ではどうすることもできないとおもった。牡丹か何かの花が咲いたようについと来て立った者があった。
「おや、喧嘩してらっしゃるの」
二十七八に見える面長な色のくっきり白い女であった。黒い筋の細かい髪を目だたないような洋髪にして、微黄ろな地に唐草模様のある質実な羽織を被ているが、どこかに侵されぬ気品があった。老人はどこかの邸の夫人が参詣に来あわしたものだろうと思った。
「ほんとに困っちまいます、私が云ってもだめですから、どうか夫人が」
どうか夫人がとは夫人が引き別けてやってくれと云うのであった。女はちょっと老人の方へ眼をやるようであったが、対手にはならなかった。その時広巳は二人の対手を膝の下に押し敷いていた。
「豪いわ、ねえ」と云って気が注いたように、「おや、貴下は」
貴下は何某ではないかと云う知っている人を探し求むる詞であった。広巳は拳を揮いながら眼をやった。それは知っている人ではなかったが、どこかで逢ったような気がするのであった。広巳はきまりが悪かった。広巳は二人を放して立った。広巳の口元には血があった。広巳にとりひしがれていた二人は、それと見て飛び起きて広巳に躍りかかろうとした。二人の眼はぎらぎらと光っていた。紺の腹掛の左の頬は血だらけになっていた。女はついと広巳の前へ出て広巳をかばって立った。
「およしなさいよ、この方は、もう手を引いたではありませんか、それに貴下方は二人じゃありませんか」
二人で一人にかかって往くのは卑怯だと云うのと同じであった。紺の腹掛は立ち縮んだ。双子の眼は依然としてぎらぎらと光っていた。
「もういいではありませんか、さっぱりなさいよ、男は斬り結んだ刀の下で笑いあうと云うではありませんか」
双子は進めなかった。
「私が仲裁するのですから、男らしくさっぱりなさいよ、それでもいけないと仰しゃるなら、私がお対手をいたします」
女の口元には威厳があった。それに腕節の強い男を向うにまわして、お対手をすると云うからには武術の心得があるか、それとも懐に何か忍ばしているか。双子も立ち縮んでしまった。女はくるりと体の向きをかえて広巳を見た。広巳はその顔が眩しかった。
「もういいから、お帰りなさい、だが、気をおちつけて、人と喧嘩をなさらないようにね、貴下はいい方だが、この比気がたってらっしゃる、それには事情もおありでしょうが、よく気をつけてね」
広巳は母親から何か云われているように思った。
「では、お帰りなさい、心配なすってらっしゃる方がおありでしょう」
広巳の頭は覚えずさがった。
「へい」
広巳はそうしてお辞儀をするなり、体をかえして正面の華表の方へ歩いた。そこにはあちこちに喧嘩と知って集まって来ている人の顔があった。広巳はきまりが悪いので急ぎ足になって外へ出た。そして、方角の見当もつけずに歩いているうちに、
(おや)
と云う気もちが浮んで来た。その気もちは、面長な色のくっきりと白い、黒い筋の細かい髪を洋髪にした女につながっていた。
(あれじゃないか)
広巳はぴたりと足をとめた。広巳の眼の前には初春の寒い月の晩海晏寺の前の大榎の傍で、往きずりに擦れ違った女の姿が浮んでいた。
(どうもあの女だ)
大榎の女はさながらの錦絵になって、火照ったようなその唇は、その晩の詞を口にするのであった。
(今晩は)
広巳は女に逢いたくなった。
(参詣に来たのなら、まだいるだろう)
広巳は眼を開けた。そこは海晏寺の前のあの大榎の見える処であった。
(おや、反対に往ってたか)
広巳はすぐ引返そうとしたが、醜い争闘を引き別けてもらったばかりの女に逢うのはきまりも悪ければ、争闘を見ていた者がまだその辺にうようよしているようで足が進まなかった。しかし、ぐずぐずしていて女に往かれては、どこの何人と云うことも判っていないので、また今度逢おうと思っても何時逢えるやら判らなかった。
(今逢って、居所をつきとめておかないと、また逢おうと思っても逢えやしない)
広巳は気まりの悪いことには眼をつむらなくてはならなかった。
(くそっ、本渓湖の戦の思いをすりゃ、なんでもねえや)
広巳の耳には砲弾の唸りがよみがえり、かたかたと鳴る機関銃の音がよみがえった。砲煙、銃火、連隊旗、剣、赤鬼のような敵兵。
(左の脇腹に擦過傷を一つ負うただけで、金鵄勲章をもらって、人からは日露戦争の勇士だの、なんだのと云われるが、なにが面白い)
広巳の感情はたかぶって来たが、それでもその感情の前方には錦絵の女があった。広巳の感情はすぐやわらいだ。広巳は八幡宮の前へ往っていた。
(ここだ)
広巳は入ったがすこし後めたくなった。広巳は眼をやった。あの風船玉売の老婆が、二三人集まって来ている小さな女の子に、商売物の風船玉を見せびらかしている他には何人もいなかった。広巳は安心して華表を潜って往った。華表を潜りながら拝殿の方へ眼をやった。拝殿の方から嬰児を負った漁夫のお媽さんらしい女が出て来るところであった。
(もう、帰ったのか)
広巳は社の左右へ眼をやった。稲荷の祠の傍には岡持を持った小厮と仮父らしい肥った男が話していた。
(それとも、あの二人に何か因縁をつけられて、どうかしたのだろうか)
因縁をつけられて料亭へでも伴れて往かれているとなると、黙ってはいられなかった。
(聞いてみようか)
広巳は社の右側へ廻って往った。さっき己が腰をかけていた右側の階段に、あの箒の老人が傍へ箒をもたせかけて腰をかけていた。広巳は急いで老人の前へ往った。
「爺さん」
老人の眼はつむれていた。老人は仮睡をしているところであった。
「おい、爺さん」
老人は吃驚したように眼を開けて広巳を見た。
「あ、今の壮佼か」
広巳は冗漫な口を利きたくなかった。
「それよりも爺さん、今の女を知ってるかい」
老人はけげんそうな顔をした。
「今の女、今の女って、私が話していた女のことかな、二十七八の脂の乗った、こたえられねえ年増だが、ありゃ水神様だ、人間がへんな気でも起そうものなら、それこそ神罰で、眼が潰れるか、足が利かなくなるか」
老人の話はたわごとに近いものであった。広巳はいらいらした。
「そ、そんなことじゃねえのだ、今の、それ、あの女のことだよ」
老人はおちつきすましたものであった。
「あの女って、水神様のことだろう、今まで私の傍にな、こんな梅干爺でも平生の心がけがいいからな、神信心をして、嘘を吐かず、それでみだらな心を起さずさ、だから神様が何時でもお姿を拝ましてくださるのだ、あのお池の中に祭ってござる水神様だ」
広巳は老人の横面をくらわしてやりたいように思った。
「何云ってるのだ、爺さん、俺の云ってるのは、今、喧嘩のとき、仲へ入ってくれた女のことだよ、何人だい、ありゃ、なんだか俺を知ってるような口ぶりだったじゃねえか、この辺の人かい」
「なに、喧嘩の時、仲へ入った女、そ、それが水神様じゃないか」
「水神様だなんて、神様じゃないよ、色の白い、夫人のような女じゃねえか、判らなかったかい」
「判ってるから、水神様だと云ってるじゃないか、まさか汝さんがそれを拝むのじゃねえだろう」
たった今の事実を、それも傍にいながら明瞭覚えていないのは、頭がぼけているのだろう。
「爺さん、すこし、ぼけてるね」
老人の眼はいきいきとした。
「おい、壮佼、気をつけろ、私がぼけてる、眼は秋毫の尖もはっきり見える、耳は千里のそとを聞くことができるのだ、汝なんざ無学だから、こんなことを云っても判らないだろうが、私はこう見えても、安井息軒の門にいたのだ、西郷さんの戦に、熊本城に立て籠って、薩摩の大軍をくいとめた谷干城さんも、安井の門にいたのだ、私は運が悪くて、こんなことになっちまったのだが、それでも谷さんとは同門の友人だ」
安井息軒の名は判らないが、谷村計介の話で、谷干城の事は知っていた。広巳はつい釣りこまれた。
「谷さんと朋友かい」
「朋友だとも、だから痴にするものじゃないよ、こう見えても、経書はもとより、史子百家の書に通じてるのだ、つまり王道に通じているのだ、この王道とはとりもなおさず神の道だ、今度の日露の戦争だってそうだ、日本には神の道に通じているものがいるから、夷狄の露西亜に勝ったのだ、鉄砲を打ったり、人を殺すことが豪かったから、勝ったと云うわけのものでない、王道つまり神の道だ、だから私には水神様が時どきお姿を拝ましてくだされるのだ」
広巳はその女が水神社の方にでも往ってるのではないかと思いだした。広巳はいきなり老人の前を離れて、拝殿の前を横ぎって池の方へ往った。池の周囲を石畳にして蒼どろんだ水を湛え、その中に小さな島をおいて二つ三つの小さな祠をしつらえてあった。広巳は島へ渡した石橋を渡った。島には何人もいなかった。それは橋を渡らなくても一眼に見わたされる島であった。前の端の祠が水神社であった。広巳がその前へ往った時、雪のような物がぼろぼろと落ちて来た。
(おや)
それは八重桜の花片であった。広巳は四辺に眼をやった。一方から欅の嫩葉の枝が出て来ているばかりで、桜らしい樹はなかった。
(間部山あたりからでも飛んで来たのか)
広巳の眼は水神社の古ぼけた木連格子へ往った。そこに水神社と云う小さな木札をさげてあった。
(これが水神様か、こんなうす汚い水神様がお姿をあらわしたところで、たいしたこともねえだろう)
広巳が口元に嘲りを見せた時、黒い物の影が落ちて来た。それは鳶か烏かの影のようでもあった。
(前刻の鵜か)
広巳はまた空を見たが何も見えなかった。広巳の眼は池の水の上へ往った。しかし、そこにも鳥らしいものはなかった。
(なあんだ、ばかばかしい)
広巳は引返した。広巳は他に女のことを尋ねる手がかりがないので、もう一度老人に逢って確めようとしていた。
(どうも、この辺の人らしいぞ、あれが、まさか、水神様の化身でもないだろう)
広巳はまた嘲りを浮べながら老人のいる処へ往った。老人は略画の烏の髷を見せて稲荷の前を掃いていた。
「爺さん」
「ほい」
老人は吃驚したように箒の手をとめた。広巳はおかしくてたまらなかったが笑わなかった。
「前刻の女のことだが、ほんとに知らないかい」
老人はまたけげんな顔をした。
「前刻の女って、なんだな」
「俺が喧嘩してた時に、仲へ入ってくれた女さ、ありゃこの辺の女じゃないかね」
「見かけない女だよ」
見かけない女と云うことは女を認めてのことで、さっきのように夢をごっちゃにしたような返事でもなさそうであった。
「そうかね、ほんとに知らないかね」
「知らないよ」
「そうかね」
それ以上聞いたとて何にもならない。広巳は何か己の頭の中の物を無くしたような気もちになってふらふらと歩いた。
広栄は縁側に近いところで店男の定七と話していた。土地の大地主で、数多の借家を持ち、それで、住宅の向前に酒や醤油の店を持っている広栄の家は、鮫洲の大尽として通っていた。
そこは表の客座敷の次の室で、定七の腰をかけている縁側の敷板は、木の質も判らないまでに古びて虫蝕があり、これも木目も判らないまでに古びた柱によって、その家が如何に旧家であるかと云うことが窺われるのであった。もう一時を過ぎていた。広栄は左の脚の故障があるので、室の中でも松葉杖をはなさなかった。松葉杖は傍にあった。広栄はセルの単に茶っぽい縦縞の袷羽織を着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。
「汝は知らないのか」
「それでございますよ」
定七は皺だらけの馬のように長い顔を見せていた。定七は広栄兄弟が生れない前からそこの店にいる番頭格の老人であった。
「どうしたと云うのだろうな、汝はどう思う」
「そうでございますよ、旦那が御心配なされているようだし、私もへんに思いますから、せんだって、それとなしに聞いてみたのですが」
「聞いたら、何と云った」
「俺は、べつに何もないのだ、兄は俺を小供のように面倒をみてくれるし、不足も何もあるものかと云うのですよ」
広栄は親子ほども年の違う広巳を、己の小供のように可愛がっているところであった。
「それじゃ、何だろうね、凱旋して来た当座は、やっぱり昔のとおりだったが、どうしたと云うのだろうな」
「それでございますよ。若旦那がへんにしだしたのは、昨年の暮比からでございますよ、元は無邪気で、きびきびして、始終旦那に小遣をねだって、旦那が煩がると、私が仲へたってもらってあげるものだから、戦争から帰ってらしても、私に、今日は兄の機嫌はどうだなんて、よく仰しゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、厭な物でも眼前にいるようにしてるのですよ」
「女のことじゃないだろうか」
「旦那がせんだっても、そう仰しゃるものですから、それとなしに壮佼に聞かしたのですが、何人も知らないのですよ」
「そうか、この比は、私に顔をあわすのも厭と云うように、私をさけるのだよ」
「ほんとにどうしたと云うのでしょう、あんな無邪気な、きびきびしてた方が」
「どうしたと云うのだろうな、それで、昨夜から帰らないのか」
「そうでございますよ」
「そうか」
広栄は後の煙草を点けて庭の方へやるともなしに眼をやった。白沙を敷いた広い庭には高野槇があり、榎があり、楓があり、ぼくになった柾などがあって微陽が射していた。
「おう」
広栄は庭に何物かを見つけたのであった。それは見るべくして見ることのできなかった物を見つけたような容であった。それと知って定七の眼も広栄の眼を追った。
「おう、これは」
庭の右の隅になった楓の老木の根方に一疋の蛇がにょろにょろと這っているところであった。それは三尺近くもある青黒い中に粉のような丹い斑点のある尻尾の切れた長虫であった。広栄は眼を放さなかった。
「それじゃ、明日は雨だな」
「そうでございますとも、神様がお出ましになったら、雨でございましょうよ」
「今朝から生暖かい、どうも天気が落ちたと思ってたが、やっぱりそうだったか」
「御神酒をあげましょうか」
「そうだ、そうしてくれ」
「へい」
定七は腰をあげた。蛇は二人の正面になった柾の方へにょろにょろと這っていた。定七は蛇の方を見い見い斜に往って表庭と入口の境になった板塀の方へ往って、そこにある耳門の桟を啓けて出て往った。広栄は顔を右斜にして背後の方を見るようにした。
「おい」
それは女房を呼ぶところであったが返事がなかった。
「おい」
それでも返事がなかった。広栄はすこしじれた。
「おい、お高、お高」
「呼んだのですか」
それは気のない返事であった。
「ちょっとお出で」
「ちょっと待ってくださいよ」
「何かしてる」
「衣服の始末をしてるのですよ」
「衣服ならいいじゃないか、ちょっとお出で、お出ましになったのだから、あの楓の」
「そう」
「だから、ちょっとお出でよ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「衣服は後でもいいじゃないか」
「だって」
広栄はちょっと顔をしかめたが、もう何も云わないで蛇の方へ眼をやった。耳門の方へ往っていた蛇はその時こちらの縁側の方へ方向をかえた。それは何かを暗示しているように思われた。
「何かおぼしめしがあるのか」
耳門が啓いて定七が小さな白木の三宝へ瓦盃を二つ三つ載っけて入って来た。
「定七、塩もいいか」
「よろしゅうございます」
「そうか」
定七は庭の隅の楓の下へ往った。楓は微紅い嫩葉をつけていた。定七はその楓の根元へ三宝を供えて、その前へ蹲んで掌を合せた。
「定七、上を見てみな」
「へい」
定七は腰を延ばして片手を額にかざして梢の方へ眼をやった。
「どうだ」
「神様がお出ましになったから、きっとおつれあいも」
定七は幹から左側の枝へ眼をやった。その左側の枝の中央に一疋の蛇が巻きついていた。
「おう、やっぱり」
「いらっしゃるか」
「いらっしゃいます」
「そうか」
「あらそわれないものでございますよ」
広栄のいる室の背後の襖が啓いて、円髷の肉づきのいい背の高い女が出て来た。それがお高であった。お高は長方形の渋紙に包んだ量ばった物を抱いていた。
「出たのですの」
「そうだよ、お出ましになったのだ」
「どこ」
庭の方へやったお高の眼に、縁側の近くまで来て、それから右の方へ方向をかえている蛇が見えた。
「ああ、そうね」
「ありがたいことだ、もったいない」
「そうね」気のなさそうに云って、「やっぱり尻尾が切れてるわね」
広栄は顔をしかめた。
「そ、そんなことを云うものじゃない、そんなことを」
お高はちらと嘲りを口元に見せた。
「我家がこうしていけるのも、神様のおかげだ、おろそかに思ってはならない」
「そうね」
定七は楓の下からお高の方を見た。
「夫人、おつれあいも、お出ましになっておりますよ」
「そうかね」
「お庭へ、ちょっとお出でになっては」
「わたし、これから冬着の始末をしなくちゃならないからね」間をおいて、「平どんにでも手伝わしておくれよ」
「すぐでございますか」
「すぐさ、こうして持ってるじゃないの」
「よろしゅうございます、それでは、平吉を呼んでまいります」
「すぐだよ」
「よろしゅうございます」
「それじゃ、わたしは、土蔵の前にいるからね」
「へい」
定七は急いで出て往った。お高はすまして立っていた。
「ちょっと手間がかかるのですが、ほかに用はないのですか」
「ない」
「それじゃ、ちょっと手間がかかりますよ」
「いい」
広栄は蛇の方を一心になって見ていた。蛇は表座敷の前から右の方へ姿を消して往った。
「例年のとおりだ、もったいない」
お高は広栄の詞を聞きながして引込んで往ったが、間もなく裏手の三つ並んだ土蔵の右の端の口へ往って立っていた。お高の頬はつやつやしていた。お高の眼は物置と庖厨の間になった出入口へ往っていた。と、十七八の色の白い小生意気に見える小厮が土蔵の鍵を持って来た。
「早くいらっしゃいよ、なにをまごまごしてるの」
小厮はすました顔をしていた。
「鍵が見つからなかったものだから」
「鍵が見つからないなんて、平生の処に置いてあるじゃないの」
土蔵は三戸前ともに古かった。土蔵の入口にはそれぞれ厚ぼったい土戸が締っていた。小厮の平吉はその戸の錠口へ鍵を入れて錠を放したが、重いので手ぎわよく啓けることができなかった。
「弱虫ね、このひとは」
「だって、なかなか、この戸は、ね」
「男の癖に、そんな戸が重いなんて、だめだよ」
お高の詞はひどくはすっぱであった。
「だって、この戸は、なかなか千人力でないと、あかねえのです」
戸はやっと啓いた。戸は二重戸になっていて土戸の次には金網戸があった。
「だめだよ、口端できいたふうな事を云ったって、からっきしだめじゃないか、しっかりおしよ」
「へッ」
平吉はとぼけるように云って金網戸の錠を啓けた。金網戸は錠前も軽ければ戸も軽かった。お高は石段の上へ履物を脱いで中へ入った。
「鼠が入るから、早く入って、お締めよ」
「へい」
平吉は後から急いで入るなり、内から金網戸を締めた。諸道具をぎっしり積みあげてある土蔵の中は微暗かった。
「用心がわるいから、鍵をかけるのだよ」
「へい」
平吉は手さぐりに鍵をかけた。
「かけたの」
「へい」
「それじゃ、二階へ往って窓を啓けておくれよ」
「へい」
平吉が左の方にある階段へ眼をやった時、お高はまたはすっぱな声をだした。
「だめよ、汝、手ぶらで往っちゃ、これ持ってくのよ、お婆さんに持って往かして」
それは抱きかかえている渋紙包を持って往けと云うのであった。
「へい」
「そうじゃないの」
「へい」
平吉はまたとぼけるように云って渋紙包を受けとった。
「ぼやぼやしてると落っこちるよ」
「へいッ」
平吉は階段をあがって往った。お高はその平吉の厚子の下から露出している蒼白い足端のちらちらするのを見ていた。そして、その蒼白い足端が見えなくなったところで、ごとごとと云う音がした。それは窓の戸を啓ける音であった。同時に二階の昇口が明るくなった。
「啓けたのですよ」
「そう」
お高はあがって往った。二階は昇口の処に三畳敷位の空間をおいて箪笥や長櫃を置いてあった。平吉は窓の傍に渋紙包を持って立っていた。
「なにをぼんやりしてるの」
平吉は眼に微笑いを見せていた。
「胡蓙を敷いておくれよ」
お高は渋紙包に手を持って来た。
「ここへ」
「そうよ」
平吉は渋紙包をわたして胡蓙を探した。胡蓙はすぐ傍の箪笥の横手に巻いて立てかけてあった。平吉はそれを執って敷きかけた。
「ここには、御一新前からの埃があるからね」
「へい」
「気をつけてね」
「へい」
胡蓙が解けるとともにもう薄すらと埃が見えた。お高は片手を団扇にして顔の前を煽いだ。
「云わないことか、それ、こんなに埃が立つじゃないの、しっかりおしよ」
「へい」
「へいじゃないよ、ほんとだよ」
「へい」
平吉は平気で胡蓙を敷いた。胡蓙は二枚あった。
「ほんとに厭、ねえ」
お高は渋紙包を胡蓙の上においてその上へ横すわりに坐った。
「これから衣服の始末をするから、手伝うのだよ」
平吉は昇口の方を背にして立ちながら何か嗅ぐようにしていた。
「臭いなあ」
お高も鼻をやった。
「黴じゃないの」
「黴でしょうか」
お高は艶かしい笑いを見せた。
「汝、黴の匂を嗅いで、へんな気がしやしないこと」
平吉には判らなかった。
「黴の匂ですか」
「そうよ、黴の匂を嗅いで、何か思いだしやしないこと」
「べつに、何も」
「ないの」
「ねえのです」
「私は思いだすよ、私は黴の匂を嗅ぐと、娘の時のことを思いだすよ」
「へえ」
「汝はぼくねんじんね」
「へえ」
「痴ねえ、この人は」
「へえ」
「いいから」窓の左側になった箪笥へ指をやって「あの引抽を開けておくれよ」
「へい」
平吉はうごかなかった。平吉はなにかしら主婦から重大なものを求められそうな気がしているので、箪笥の引抽を開けると云うようなあっけないことをする気になれなかった。
「あの引抽だよ、上から二番目だよ」
「へい」
平吉はしかたなしに箪笥の前へ往って二番目の引抽に手をかけた。
「そっくり脱いて来ておくれよ」
「へい」
平吉は引抽を啓けた。中には単衣らしい女物が入っていた。平吉はその引抽を脱いてお高の前へ持って往った。
「やっと持てたね」
お高は何かしら平吉にからむのであった。
「へえ」
「これをすましたら、佳い物を見せてあげるから、ね」
「なんです」
「立ってもいてもたまらないと云うものだよ、どう」
「へえ」
お高は引抽の中の衣服を手早く胡蓙の上へ出して、傍の渋紙包を解き、その中の畳んで二つにしてあるのを延ばし延ばし引抽の中へ入れた。平吉は主婦の詞を待っていた。
「ぼんやりしてないで、引抽を元へやっておくれよ、佳い物を見せてやるじゃないの」
「へい」
平吉は急いで引抽を持って往ってさした。お高は出した衣服を二つに折り折り渋紙の中へ入れた。
「それじゃ、ついでに蒲団を出しておくれ、洗濯しなくちゃならないからね」
「へい」
返事をしたものの蒲団がどこにあるか判らないので、平吉は四辺をきょろきょろと見た。お高は渋紙包の緒を結び終ったところであった。
「あれさ、あの長櫃の中だよ」
お高の指は左側の壁に沿うて並べた長櫃の一つへ往っていた。平吉はこちらから三つ目の長櫃の前へ往った。
「その中に入ってるのを、皆出しておくれよ」
「へい」
平吉は長櫃の蓋を啓けた。中には松に鶴の模様のある懸蒲団が三枚入っていた。裏は萌黄であった。
「それも黴臭いだろう」
なるほど黴の匂がむうとした。
「どう」
「臭いのです」
「佳い匂じゃないの、私はこたえられないよ」
「好奇だなあ」
「好奇と云や、好奇かも判らないが、私はこたえられないよ」ちょっと切って、「一枚敷いてごらんよ」
「そこへですか」
「そうよ」
平吉は主婦のすることが判らなかった。平吉は傍の長櫃の上に重ねた蒲団の一枚を執った。お高は渋紙包を持って起ち、それを傍の具足櫃の上へおいた。平吉はそこで蒲団の萌黄の裏を上にして胡蓙の上へ敷いた。お高はその上へすぐ坐った。
「佳い匂じゃないの」
「へえ」
「汝もお坐りよ」
「へい」
平吉はその横手に蹲んだ。
「どう、こたえられない匂じゃないの、私ゃ、この匂を嗅ぐと気が壮くなるよ」
「好奇だ」
「好奇かも判らんが、私は好きさ、佳い匂じゃないの、この匂を嗅いでると、人が恋しくなるよ」
「へえ」
「そうだった、汝に見せてやるものがあったね、それでは見せてあげるから、わたしを伴れてっておくれよ」
伴れて往けとは道の悪い遠い処であろうか。
「どこです」
「どこでもいいから、私を負っておくれよ」
平吉はさすがに眼を見はった。
「そんな、へんな顔をするものじゃないよ」
「へい」
「負っておくれよ」
「へい」
平吉は主婦の前へ往った。
「あっち向くのだよ、こっち向いてちゃ、負われないじゃないの」
「へい」
平吉は主婦に背を向けて中腰になった。お高の体がそれに重んもりと負ぶさった。
「重い」
「なあに」
平吉は主婦を負って体を起した。
「あっちよ」
お高の手が眼の前にあった。平吉は主婦の手の指している方へ往かなくてはならなかった。そこは長櫃の並んだ処で、長櫃の前には葛籠が並んでいた。平吉はその間を入って往った。
「ここよ」
「へい」
平吉が停まるとお高はおりた。そこに葛籠の上に寺小屋用の文庫があった。お高はその中に手をやって二三冊の草双紙のようなものを執った。
「それじゃ、帰るのだよ」
「へい」
平吉はまた背を向けた。お高はまた重んもりと負ぶさった。平吉は引返した。そして、蒲団の上に帰ったところで、お高の手にした書物が目の前へ来た。それは極彩色の錦絵であった。
「これ、見えるの」
庭前に這っていた尻尾の切れていた蛇は、楓の木へ登りかけた。平吉を呼びに往っていた定七は縁側へ引返して来て、広栄とともに蛇に注意していた。
「もう、お疲労になったと見える」
広栄は頭を揮った。
「いや、何かおぼしめしがある、そんなもったいないこと」
「へい、これは、どうも」
「そうじゃ」
蛇は上へ上へと登って、やがて微紅い嫩棄に覆われた梢に姿を隠して往った。
「もったいない」
「ほんとに、もったいないことでございます」
広栄の頭を掠めたものがあった。広栄は定七に眼をやった。
「汝は、も一つお神酒とお洗米を持って来てくれないか、お倉の方へな」
「よろしゅうございます、すぐ持ってまいります」
「それじゃ、俺は前へ往ってるから」
「それじゃすぐ持ってまいります」
定七はすぐ腰をあげて出て往った。広栄も傍の松葉杖を引き寄せて体を起し、故障のある左の脚を引きずるようにして、玄関と庖厨の入口を兼ねた古風な土間へおり、そこにあった藤倉草履を穿いて、ばったの飛ぶようにぴょいぴょいと裏口から出て往った。
出口に花をつけた桐の古木があった。羽の黒い大きな揚羽の蝶がひらひらと広栄の眼の前を流れて往った。
「蝶か」
広栄はやがて土蔵の前へ往った。広栄の往った土蔵は真中の皆古い中でも一ばん古い土蔵であった。右の土蔵はお高と平吉が入っている土蔵。広栄は松葉杖に縋って休みながら右側の土蔵の口へ眼をやった。
「お待たせしました」
定七は一方の手に神酒徳利と洗米の盆を乗っけた三宝を持ち、一方の手に土蔵の鍵を持っていた。
「三宝を持とう」
戸を啓ける間は持たなくてはならなかった。定七は三宝を広栄にわたして戸を啓けにかかった。戸はすぐ啓いた。定七は広栄の傍へ来て三宝を執った。
「それでは」
「そうか」広栄は松葉杖を執りなおしてぴょいぴょいと土蔵の中に入った。広栄が入ると定七も入って金網戸を締めた。
「鼠はいいかな」
「よろしゅうございます」
「彼奴は油断もすきもできないから」
「そうでございますよ」
微暗い土蔵の中には中央に古い長櫃を置いて、その周囲に注連縄を張り、前に白木の台を据えて、それには榊をたて、その一方には三宝を載っけてあった。
「それでは、三宝をとりかえてくれ」
「へい」
定七は何時の間にか鍵を腰にさして三宝ばかり持っていた。定七は白木の台の前へ往って三宝を除り、持っている三宝をそれに置きかえた。
「いいか」
いいかとは準備が出来たかと云うのであった。
「よろしゅうございます」
「それでは」
広栄は一脚ぴょいと進んで、そのまま蹲んで白木の台に向って拝礼をはじめた。そして、ちょっとの間合掌していてから起きた。起きて長櫃の方へ眼をやった。
「お塔は」
「そうでございますよ」
「拝見しよう」
広栄は斜にぴょいぴょいと往って長櫃のうえへ眼をやった。そこには小さな玩具のような三寸位の富士形をした微白い物があった。それは蟻の塔で白蟻の糞であったが、広栄は神聖視しているのであった。
街路一つ距てて母屋と向きあった肆は、四間室口で硝子戸が入り、酒味噌酢類を商うかたわらで、海苔の問屋もやっていた。それはもう三時近かった。肆には二三人の客があった。
そのとき広巳はのそりと入って来た。その広巳の眉の濃い浅黒い顔は土色に沈んでいた。広巳は肆の者には眼もやらないで、肆の左側の通りぬけになった土室を通って往った。そこに腰高障子が入っていて、その敷居を跨ぐと庖厨であった。そこは行詰に釜のかかった竃があり流槽があって、右側に板縁つきの室があったが、その縁側は肆の者が朝夕腰をかけて食事をする処であった。
「お帰んなさい」
乾からびたような声ではあるが、懐しみのある声であった。胡麻塩の髪の毛を小さな髷に結った老婆が、室の中で半纏のような物を縫っていた。それは定七の女房のお町であった。定七夫婦はそこに起臥していた。広巳はぼんやりお町を見た。
「うん」
「どこへ往ってらしたのです」
「うん」
「ほんとにどこにいらしたのです、皆さんが心配してらっしゃるのよ、ほんとにどこにいらしたのです」
広巳は上唇をちょっと顫わすようにした。それは広巳の笑う時の表情であるが笑いにはならなかった。
「まあ、いいさ」
お町の眼はその時広巳の右の袖口へ往った。
「まあ、袖口が綻びているじゃありませんか」
袖口の綻びているのは争闘か、それとも長い煙管で巻きつけられたがための綻びか。
「品川ですね」
広巳はまた上唇を顫わしたばかりで何も云わなかった。
「そうでしょう、きっと」
広巳はお町のほうへくるりと背を向けて縁側へ腰をかけた。
「まあ、いい」
「御飯はどうなさいました」
「喫えるのか」
「おすみになっておりませんか、すぐ出来ますよ」
「それじゃ喫おう」
「もすこしお待ちになると温い御飯も、お菜もできますが」
「お菜はどうでもいい」
「それでは、すぐめしあがりますか」
「うん」
「それでは」
お町はもう起っていた。お町は一方の戸棚を啓けて準備にかかった。広巳はそのままぼんやりとしていた。
「上へおあがりになっては」
膳の準備はもう出来てお町は長火鉢の鉄瓶を見ていた。
「いい、ここで」
「それでは」お町は膳を持って広巳の右側へ往った。「薩摩あげと、佃煮しかありませんが」
「いい」
広巳は体を斜にした。お町は後から大きな飯櫃をやっとこさと拘えて来た。
「おつけしましょうか」
「いい」
広巳はむぞうさに飯櫃の蓋を除って飯をつけて喫いだした。品川の妓楼へ一泊した広巳は、家へかえるのが厭だから、朝帰りの客を待っている小料亭へあがって、旨くもない酒を喫んで気もちをまぎらし、飯も喫わないで帰っているので、喫いだしてみるとひどく旨かった。広巳は夢中になって喫った。
「若旦那」
お町は下へおりて流槽で何か洗っていた。広巳は茶碗ごしに眼をやった。
「昨夜は、品川ですか」
広巳はまた上唇を顫わしたが、それはいくらか笑いになった。
「なに」
「品川でしょう、それとも大森」
「なに」
「ほんとに若旦那は、この比へんじゃありませんか、若旦那は、どんなりっぱな家からでも、ものによっては、華族のお嬢さんでも、奥さんにもらえるじゃありませんか、つまらない遊びはよして奥さんをもらったらどうです、旦那さまも御心配になっておりますよ」
「ふん」
広巳はそれに深く触れたくなかった。広巳はそれをはぐらかすために勢よく飯を掻きこんだ。お町は前へ来て立っていた。
「ほんとですよ、山県さんとか伊藤さんとか、豪い方の奥さんは、歌妓だと云いますから、歌妓でもお妓でも、それはかまわないようなものの、お宅は物がたい家ですから、堅気のうちからお嫁さんをもらわなくちゃなりませんが、どうかしてるのですか、奥さんも心配してらっしゃいますよ」
「へッ」
広巳の口から吐きだすような詞が出た。お町は広巳を見なおした。
「ほんとですよ、奥さまが、心配してらっしゃいますよ、今朝も奥さまがいらしたのですよ」
「俺、己の女房は、己でもらうんだ、他の世話にならないや」
お町は眼を円くした。
「そ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ、奥さまや旦那さまが、貴下を我が子のように、可愛がってるじゃありませんか」
「あまり可愛がられたくないや、俺、嫌いだ」
その時店の方で男の子の軍歌を唄う声がした。広巳はそれに気をとられたようにした。
「ああかい、ゆうひに、てらされて、とうもは、のずえの、いしの、した、――まっさき、かあけて、とっしんし――」
「ひろぼうか」
男の子をからかっているのか壮い男の声が軍歌に交りあった。広巳は気が注いて残りの飯を掻きこみ、落すように茶碗を置いて、お町の持って来てある番茶の土瓶を執って注いだ。
「やあい、やあい、痴やあい」
七つか八つに見える子が駈けて来た。それは広栄の一人子の広義で、広巳の可愛がっている甥であった。広義は広巳の方へ隼のように駈け寄った。一方の手に茶碗を持っている広巳は、その茶碗の茶を甥にかけまいとして、一方の手で走りかかって来た広義を支えた。
「あぶない、茶がかかる」
「かかったって、いいや」
広巳はすばやく茶碗を置いた。
「茶が眼にでもかかったら、眼が潰れるぞ」
「潰れたっていいや、東郷大将だ」
「眼が潰れたら、軍人になれんぞ、軍人になれなきゃ、東郷大将にも、乃木大将にもなれんぞ」
「なれるのだい、なれるのだい、眼が潰れたって、なれるのだい」
広義は広巳の首ったまに飛びつこうとしていたが、広巳がかわして飛びつかせなかった。
「眼が潰れたら、鉄砲が打てないや、鉄砲が打てない軍人があるものかい」お町に気がついて、「なあ、姨さん」
お町は笑っていた。
「眼が潰れたら按摩さんになるのだよ、ねえ坊ちゃん」
広義は広巳の首ったまに手がやれないのでじれていた。
「痴、お町の痴やあい」
「だって、そうじゃありませんか、眼が潰れて、鉄砲が打てなけりゃ、按摩さんになるより他に、しようがないじゃありませんか」
「なに云ってやがるのだ、お町の痴の、婆あやあい」
その時広巳の支えていた手に隙が出来た。広義はいきなり膝の上へ飛びあがって、それから一方の足を背のほうから右の肩へ廻すなり、肩の上に馬乗になって額に両手をかけた。
「やあい、やあい、肩車になったのだ」
広巳は広義の足に両手をかけた。
「按摩さんの大将は、馬に乗れないから、肩車に乗ったのか」
「なんでもいいやい」お町のほうを見て、「お町の痴やあい」
お町は広巳に云いたいことがたくさんあった。
「坊ちゃん、叔父さんは、お疲れになってるのですよ」
「疲れるものかい、叔父さんは、昨夜、品川のお妓楼へ往ったのだい」
お町は口がふさがった。広巳は笑いだした。
「そうか、そうか、叔父さん、品川へ往ったのか」
「往ってたのだあい、品川のお妓楼へ往ってたのだあい」
「何人がそんなことを云ったのだ」
「お母さんが云ってたのだあい」
「なに、お母さんが」
「云ったのだあい、云ったのだあい」
同時に広巳は腰をあげた。広義は落されまいとして広巳の額にやっていた手に力を入れた。
「この小厮をどこかへおっぽりだして来る」
広巳は庖厨口からゆるゆると出て往った。出口には車井戸があって婢の一人が物を洗っていた。車井戸の向うには一軒の離屋があった。それが広巳の起臥している室であった。広巳は離屋の前を通って広場へ出た。そこに梅の木があり槇の木などがあって、その枝には物干竿をわたして洗濯物をかけてあった。
「おい、ひろ坊」
「うん」
「この木の上へほりあげてやろうか」
そこには枝の延びた槇の木があった。
「厭だい」
「それじゃ、天へほりあげてやろうか」
「厭だい」
「そんな弱いことで、どうする、男は何時でも、腹を切らなくちゃならんが、汝は腹が切れるか」
「厭だい」
「厭だ、怕いのか」
「怕くなくっても、厭だい」
「怕くないのに厭だと云う奴があるか、弱虫、しっかりしろ」
「しっかりしてるのだい」
「しっかりするものか、しっかりしてないよ、ほんとにしっかりしないと、たいへんだぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかもわからんぞ、汝になにを云ってもわかるまいが、ほんとにしっかりせんと、鮫洲の大尽の山田も、屋根へぺんぺん草が生えるぞ、しっかりしろよ、しっかり」
「しっかりするのだい」
「そうかしっかりするか、しっかりせんといかんぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかも判らんぞ、しっかりしろよ、汝はまだ何も判らんが、困った奴を背負いこんだものだ、畜生、弟にまでふざける奴だ、兄貴が可哀そうだ」
「あにきって何人だい」
「何人でもいいから、しっかりしろよ、汝がしっかりしてくれんと、ぺんぺん草だぞ」
「ぺんぺん草って、なんだい」
「ぺんぺん草は、草だよ、家が潰れて、貧乏になると、ぺんぺん草が生えるのだよ」
「自家は、富豪だい」
「さあ、その富豪が、しっかりしないと潰れるのだ、家が潰れないようにするには、皆が人の道を守って、子は親に孝行するし、兄弟は仲好くするし、女房は女房で、所天を大事にしなくちゃならん、その女房が所天を痴にして、品行の悪いことをしよると、家が潰れるのだ」
「女房ってなんだい」
「お媽さんのことだよ」
「おかみさん、それじゃ自家のお母さんも、女房かい」
「そうだよ」
「それじゃ、自家のお母さんが、自家を潰すのかい」
「お母さんが潰しはしないさ、これは物の譬だよ、しかし、お母さんだって、悪いことをすりゃあ、自家が潰れるのだよ」
「そう」
「そうさ、だから、お母さんもお父さんを大切にして、痴にしちゃならんよ」
「うん」
「判ったか」
「判ったのだい」
「よく覚えとれ」
「うん」
媚びるような艶かしい声がした。
「また叔父さんに、そんなことをして、叔父さんが重いじゃありませんか」
広巳は立ち縮んだようになった。
「厭ねえ、この子は」
お高が傍へ来て立った。
「いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「重いのですよ、叔父さんは、苦しいのですよ」
「いいのだい、いいのだい、叔父さんはいいのだい」
「いいことはありませんよ、苦しいのです、それに叔父さんは、お疲れよ」莞として反している広巳の眼を追っかけて、
「ねえ、叔父さん」
広巳はよろよろと体をよろけさした。
「あ」
広義は驚いて広巳の額に掻きついた。広巳は甥を躍らすことによって気もちの悪い対手のまつわりをすこしでも避けようとしていた。広義は騒ぎだした。
「厭だい、厭だい、びっくりさして、厭だい」
「そんなことで、びっくりする奴があるかい」
「だって、だって、黙っててやるじゃないか、厭だい、厭だい、どうしても降りないやい」
お高がまたまつわって来た。
「叔父さん、そんな小供、うっちゃりなさいよ」
「うっちゃられるものかい、厭だい、厭だい」
「だめよ、ほんとにだめよ、叔父さんはお疲れよ、だから、今晩、お母さんが精のつくものを、御馳走してあげるのだよ」ちょっと間をおいて、「叔父さん、今晩は家にいらっしゃいよ、叔父さんは、私が嫌いだから、何時も逃げるのだが、今晩は逃がさないわ、叔父さん、いいでしょう、今晩、御馳走しますからね」
広巳はまたよろよろと体をさした。広義はまた驚いた。
「痴、叔父さんの痴、痴」
広義は広巳の顔を平手でばたばたと叩いた。それには広巳が困った。
「痛い、痛い、降参、降参」
「厭だい、厭だい、痴」
広義は嬌ったれて泣き声をたてた。広巳は広義の足にやっていた手をはずしてその両手を捕えた。
「降参、降参、降参だよ」
「厭だい、厭だい」
広義は手を動かすことができなくなった。
「どうだい、もう動けないだろう」
「動けるのだ、動けるのだ」
広義は体をもがいた。
「ほんとに、叔父さんがくるしいじゃないの、おりなさいよ、それに今日は、まだ復習をしないじゃありませんか」
「厭だい、厭だい」
「この坊主、どこかへおっぽり出せ」
広巳は何かを払い落すように叫ぶなり、ぐるりと体の方向をかえて井戸の方へ走りだした。
「もし、もし」
おっとりした女の児の声がしたので広巳は足をとめて後を見た。十四五ぐらいに見える二人の少女が右側の生垣のある家から出て来たところであった。少女だちは同じように紫の矢絣の袖の長い衣服を被ていた。広巳は知らない女の児のことであるから、他の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま往こうとした。
「どうかお入りくださいまし」
少女だちはしとやかに頭をさげた。それでも広巳は己へ云っているとはおもわれないので、そこをはなれようとした。
「あの、もし、貴郎は、鮫洲の」
鮫洲と云えば確に鮫洲である。広巳は足をとめて少女を見なおした。
「貴郎は、山田さんでいらっしゃいましょう」
鮫洲の山田と云えば己のことである。
「鮫洲の山田ですが」
広巳は眼を見はった。少女の一人は莞とした。
「奥さまがお待ちかねでございます」
逢う約束をしている者はなかった。広巳は人違いだろうと思った。
「それは、人がちがってましょう。おいらは、いや、わたしは、鮫洲の山田広巳ですが」
「人違いではございません、貴郎でございます」
違わないと云っても己には覚えがない。
「だが、わたしは、そんな方は知らないですが」
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります」
ついしたら不倫な嫂ではないか。だが、まさか。
「何人です」
「貴郎の御迷惑になるような方ではございません、お姓名を申しあげても、貴郎は御存じないと思いますから」
こっちは名も知らない人か、それでは嫂でもなさそうであるが、それなら何人か。己には他に交渉を持っている女はない。
「どうもおかしいなあ」
広巳は考えた。
「お入りくださいましたら、すぐお判りになります、どうぞ」
嫂でなければたいしたこともない。どこへ往こうと云う当もなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は前方が知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。
「ほんとに、わたしですか、人違いじゃないですか」
「けっして人違いではございません、どうかお入りくださいまし」
「そうですか、じゃ」
広巳は少女の方へ往った。垣根には茨のような白い小さな花を点々とつけていた。
「こっちですか」
こっちは判っているが何かしらきまりがわるいので聞いてみた。
「はい」
少女は紫の矢絣の袂をひるがえして前に立って往った。門の中には禿びて枝の踊っているような松の老木があり、椿の木があり、嫩葉の間から実の覗いている梅の木があって門の中を覆うていた。少女はその樹木の枝葉の間を潜って広巳を導いた。そして、ちょっと往ったところで樹木の枝葉がなくなって、お花畑のような赤白紫黄、色とりどりの葉を持ち花をつけた草庭になって、その前に枌葺の庵室のような建物があった。
四方には麗な陽があった。水の澄みきった小さな流れがあって、それがうねうねと草の間をうねっていたが、それにはかちわたりの石を置いてあった。少女はその石の上を福草履のような草履で踏んで往った。広巳はうっとりとなって少女に跟いて往った。そこには丁子の花のような匂がそこはかとしていた。少女の声が耳元でした。
「さあ、どうぞ」
建物の前には黒い虎の蹲まっているような脱沓石があった。広巳は室の中を見た。室の中には二十七八に見える面長の色のくっきり白い女が、侵されぬ気品を見せて坐っていた。
(おや)
広巳は胸のときめきをおぼえた。海晏寺の前の榎の傍で擦れちがい、八幡祠の諍闘の際に見た女にそっくりであった。女は広巳と眼をあわすなり莞とした。
「さあ、どうぞ」
「は」
はと云ったものの女の気品に押されて立ち縮んでしまった。
「他には何人もいないのよ、ささ、どうぞ」
「は」
「ほんとに何人もいないから、遠慮はいりません」少女の方を見て、「お客さんは、はにかんでいらっしゃるから、汝だちがあげておやりよ」
女は莞とした。それは己の姨さんのような温みのある詞であった。少女の微笑が聞えた。
「さあ、どうぞ」
「おあがりなさいましよ」
少女の手がそれぞれ双方の手に来た。広巳は気もちが浮きたった。
「あがります」
広巳は少女の手を揮りはらって上へあがった。広巳は笑っていた。広巳に跟いてあがった少女の一人は、女に近く座蒲団を敷いた。それは菰の葉のような蒼白い蒲団であった。
「さあ、お坐りなさい」
「は」
広巳は坐ったものの眩しいので顔を伏せた。少女の一人がもう茶を持って来た。
「どうかお茶を」
広巳はちょっと頭をさげた。女の軽く少女に云いつける声がした。
「お茶じゃ、話ができないから、あれを持っていらっしゃい」
「は」
少女は小鳥のように身を飜えして往った。広巳はやっぱり眩しかった。
「こんな処で何もありませんが、何か持って来さしますから」
何か持って来さすとは酒であろうか。ここでは謹んだうえにも謹まなくてはならない。
「どうか、それは」
「なに、こんな処ですから、何もありませんよ」
広巳は押えつけられているようで、それ以上は何も云えなかった。広巳は困っていた。そこへ少女だちが引返して来た。少女だちは広巳の前へ何かことことと置いた。
「それでは、めしあがれ、ほんとに何もありませんよ」
そこで飲食するのは何だか物の霊を汚すように思われるのであった。
「どうか、それは」
「いいでしょう、めしあがれ、貴郎は、私をあまり御存じないでしょうが、私はよく存じておりますわ」
「は」
「まあ、そう堅っくるしくしないで、めしあがれ、それじゃ話がしにくいじゃありませんか」
「は」
「男子の癖に、遠慮なんかするものじゃないことよ、貴郎は、日露戦役の勇士じゃありませんか、それに、この間はね」
女の微に笑う声がした。この間とは八幡祠のことであろう。それではやっぱり彼の女であり、海晏寺の前の榎の傍の女であったのか。広巳はそっと女の方を見た。女のあでやかな顔があった。広巳は恥かしい中にもひどく嬉しかった。
「私が判りまして」
「ああ」
「とにかく、一つめしあがれ、話がしにくいじゃありませんか」
広巳は一ぱいもらう気になった。広巳は顔をあげた。細長い脚のついた二つ三つの銀盆に菓子とも何とも判らない肴を盛ってある傍に、神酒徳利のような銚子を置いて、それに瓦盃を添えてあった。
「お酌しましょう」
少女の一人がもう銚子を持っていた。広巳は気もちがほぐれた。広巳は瓦盃を持って少女から酌をしてもらった。
「二三杯つづけてめしあがれ」
女は広巳の気もちを硬ばらさないように勤めているように見えた。広巳は一杯の酒を空けた。すると少女がもう後を充たした。
「続けてめしあがれ、そうしないと、堅っくるしくて面白い話もできないじゃないの、私いつからか、貴郎にゆっくりお眼にかかりたいと思ってたのよ、今日はやっと見つかったものだから」
やっと見つかったとは、庭でも歩いていて見つけたものであろうか。広巳の手はしぜんと瓦盃へ往った。女は詞を続けた。
「でも、貴郎は、私が判らないでしょう」
「そうです」
「今に判りますよ、判らなくたって、これからお知己になりゃ、いいでしょう」
「あ」
広巳は曖昧な返事をしてまた瓦盃を持った。瓦盃は後から後からと充たされた。
「どう、これから、お朋友になってくれます」
それは己から願うところであり、どうしてもそうしてもらわなくてはならないのであったが、はっきりとそれを口に出すことができなかった。
「あ」
「いけないの」
広巳はしかたなしに微笑して女を見た。女は気品のある顔が心もち火照っていた。
「どう」
「へ」
「厭なの」
「そ、そんな」
「それじゃ、なってくれるの」
「あ」
「どう、はっきりおっしゃいよ、まだ御酒がたりないじゃないの」
酒と云われてみると佳い気もちになっていた。
「もう、酒はたいへん」
「でも、はっきり返事ができないじゃないの」
広巳はそれを微笑で応えた。
「どう」
「もう、たいへん酔いました」
「酔ってるなら云えるじゃないの、それともこんなお婆さんとお朋友になるのは、厭」
「そ、そんな」
広巳はあわてた。
「それじゃ、なってくれるの」
「なります」
「なってくれるの、うれしいわ、ねえ、それじゃわたしに盃をくださいよ、かための盃をしようじゃないの」
「は」
広巳は瓦盃を手にした。瓦盃には酒がすこしあった。広巳はそれを飲んで盃洗ですすごうとしたが、すすぐものがないので躊躇した。
「それをいただきますよ、それがいいのよ」
「でも、これは」
「いいじゃないの、貴郎のめしあがったものじゃないの」
女の手が延びて来たので広巳はしかたなしに瓦盃をだした。
「それじゃ、貴郎がお酌をしてくださいよ」
「は」
広巳はきまりがわるいけれども、そうしろと云われてみればしないわけにはゆかない。広巳は銚子を持った。
「ちょっと」
女が心をおくので銚子の手をひかえた。
「児がいちゃ、じゃまっけだから、あっちへやりましょうよ」
それは二人でいるにこしたことはなかった。女は少女だちにつらつらと眼をやった。
「汝だちは、あっちへいらっしゃい、こんな処を見せたくないからね」
少女だちは黙っておじぎをして起った。起ったかと思うと鳥の羽ばたきをするような恰好をした。広巳は眼を見はった。少女だちの姿はみるみる鳶くらいの鳥になって、室の中から外へ出てしまった。それは広巳が八幡祠頭で見た鵜そっくりの鳥であった。広巳はぞっとして女のほうを見た。女は小さくなって恰度内裏雛のような姿を見せていた。
「わっ」
広巳は一声叫んで逃げようとした。
「おい、おい、おい」
広巳の体は忽ち何人かに押えつけられた。
「いけねえ」
広巳は揮り放して走ろうとした。相手は手を放さなかった。
「おい、山田君、どうした、しっかりしないのか、夢を見てるのか」
夢と云う声がはっきり頭に響いた。広巳はびっくりして眼を開けた。広巳は道傍に積んだ沙利の上に寝ている己を見いだした。
「どうした、山田君、どうしたのだ、こんな処に寝て」
そこには微紅い月があって一人の壮い男が己の肩に手をかけていた。広巳は対手の男を見た。
「俺だよ」
それは秋山と云う友人であった。
「けんちゃんか」
「暢気じゃないか、こんな処で寝るなんて」
沙利置場に寝ていることは判ったが、場所が判らなかった。
「ここはどこだ」
「判らないのか」
「さあ」
「困った男だな、ここは海晏寺の前の榎の傍じゃないか」
「なに」
広巳は眼をやった。なるほど枝の茂った榎の老木が月の下に見えていた。
「君、そんな処に寝ていちゃ毒だよ」
「ああ」
「何時比から寝ていたのだ」
「さあ、あちこち飲んでたから」
「判らないのか」
「ああ」
「暢気だなあ」
「ああ」
「もう、十二時まわってるよ、早く往って寝たらどうだ」
広巳は頭がはっきりしたので起きた。
「おい、けんちゃん、つきあわないか」
「どこへ往くのだ」
「品川さ」
「じょうだんじゃない、これから往ったら、夜が明けるじゃないか、早く往って寝るがいい」
「あんな処へ帰るものか、厭だい、往こう、なに、おおっぴけは、二時じゃないか、往こう」
「今晩はだめだよ、今度にしよう」何か考えて、「どうだ、俺の家へ往かないか、この比、親爺は、田舎へ往って留守なのだよ」
「そうか」
「往こう、ビールでも飲もうじゃないか」
「そうだな」
洋燈の燈は沈んでいた。そこは賢次の家の二階であった。賢次の家は蒲鉾屋であるからどことなしに魚の匂が漂うていた。広巳と賢次はそこで話していた。二人の前にはビールの壜があった。
「そんなことはないだろう、君んとこは、金はあるし、兄さんはあんないい人だし、へんじゃないか」
「そりゃ、兄貴はお人好しで、俺を児のように可愛がってくれるが、他がいけないのだ」
「他と云ったところで、姉さんばかりじゃないか、姉さんといけないのか、君を可愛がるじゃないか」
「いかん、あれはいかん」
「どうした」
広巳はさすがに口に出せなかった。
「どうと云うわけもないが」云い方を考えて、「なんと云うのか、家が収まらん、兄貴が死にでもすると、家がめちゃめちゃになるのだ」
「まさか、そんなことはないだろう、華美ずきで、あちこちへ往くようだが、てきぱきして、家のことでもなんでも、兄さんにかわってやってるじゃないか」
「それがいけないのだ、出しゃばって、華美好きな女なんて、ろくなことはしないのだ」
「無駄づかいでもするのか」
「無駄づかい、無駄づかいも、衣裳道楽とか、演劇道楽とか、そんな道楽なら、たいしたこともないが、いけないのだ」
「それじゃ、素行でもわるいのか、演劇なんかへ往ってると、俳優と関係があるとかなんとか、人はへんなことを云いたがるものだよ、何かそんな噂でもあるのか」
「そりゃ聞かないが、あんな女だから、そんなことを云われてもしかたがないよ、困った奴よ、児は小さいし、もし、兄貴でも死んだら、どうなるか判らないからね」
「兄さんが死んでも君がありゃ、大丈夫じゃないか、君が広坊の後見をして、しっかりやるなら、なんでもないじゃないか、それとも姉さんが、君を邪魔者にして、兄さんにたきつけるのか」
「そうでもないが、姉貴はじめ、家の雰囲気が厭なんだ」
「そうか」賢次はふと考えて、「君、いっそお媽さんをもらって、別家したらどうだ、気もちがかわって、いいじゃないか」
「俺は、今、細君をもらう気がしないのだ」
「何故だ」
「何故と云うこともないが、もらう気がしない」
その時階下から嬰児の泣き声が聞えて来た。それは賢次の児であった。賢次はとうに妻帯して二人の児があった。
「児が出来て、ぴいぴい泣かれちゃ困るが、君は、お媽さんをもらうといいと思うね、そうすりゃあ気もちがかわって、いいよ、今晩だって、沙利の上なんかに寝てて、体をこわすよ」思いだして、「夢を見てたのか、ひどくあわててたじゃないか」
広巳の唇に微笑いが浮んだ。
「うん」
「どんな夢だ」
広巳はビールを一口飲んだ。
「へんな夢だよ、俺が歩いてると、二人の女の子が出て来て、奥さんがお待ちかねだと云うから、往ってみると、奥さんらしい女がいて、響応になってると、女が盃をくれと云うので、やろうとしているうちに、二人の女の子は鵜になって飛ぶし、女は内裏雛のようになったのだよ」
「それで、びっくりしたのか」
「そうだろう」広巳は笑って頭を掻いて、「へんな夢だよ」
「女の子が鵜になった、鵜になるはへんだね、なにかい、この比鵜を見たことがあるかい」
「見た、何時か品川の帰りに、あすこの八幡様へ入ってみると、天水桶さ、あの拝殿の傍にある鋳鉄の縁に、鵜がいて、ばさばさやってたのだ、ありゃあすこの池にいるだろうか」
「さあ、それは知らないが、それを見たのか」
「そうだよ」
「蒲鉾にいろいろの魚を入れるように、夢も見た材料で出来るのだね」
「そうだなあ」
「それじゃ、その奥さんのような女は、どうだ」
広巳はにやりとした。
「見たのだ」
「だろう」賢次もにやりとして、「おかっぽれだな」
「人間と判っとるなら、おかっぽれかも判らないが、それがへんだよ」
「どうしたのだ」
「それがおかしいのだ、まだ寒い時、俺が今往ってた榎の傍を通ってると、二十七八の上品な佳い女が通ってたのだ、夜一人で通ってるから、どこかそのあたりの人だろうと思っていると、鵜を見た日なんだ、くたびれたから、休んでると、へんな奴が二人来て、俺を盗人が午睡してると云うから、撲りつけて諍闘になったところへ、その女が来て仲裁してくれたのだ、それで俺は八幡様を出て来たものの、その女の素性を確めようと思って、引返してみると、女はいないで、諍闘の時にいた社務所の爺さんが、拝殿の横に腰をかけて、仮睡してたから、聞いてみると、あれは水神様だ、人間じゃないと云うのだ、それだよ、夢に出て来たのは」
「君んとこは、すこしへんだぜ、蛇が出て来たり、蟻の塔が出来たり、どうかしてるのじゃないか、神様が出て来て諍闘の仲裁なんかするものか」
茶かすつもりであった詞の端に何か神秘的なものがつながった。賢次は洋燈へ眼をやった。心の切りようでもわるいのか、洋燈は火屋の一方が黒く鬼魅わるく煤けていた。広巳はその時頷いた。
「そうだよ、俺の家には、魔がさしているのだよ」
「まさか、そうでもないだろうが、あまり迷信はいけないね」
「そうとも」
お杉は三畳の微暗い茶室へ出て来て、そこの長火鉢によりかかっている所天の長吉に声をかけた。それは十時比であった。外出の千条になった糸織を着た老婆の頭には、結いたての銀杏返がちょこなんと乗っかっていた。
「それじゃ、おまえさん、往って来るよ」
黄ろな顔の狭長い長吉は、眼が見えないので手探りに煙草を詰めているところであった。
「どこへ往くのだ」
長吉の声は乾からびていた。
「どこだっていいじゃないか、聞いてどうするの」
お杉の声は憎にくしかった。
「どうもしねえが、聞いてみたところさ、だしぬけに往って来ると云うから、どこへ往くか聞いたじゃねえか」
「だから、聞いてどうすると云ってるじゃないの」
「どうもしねえが、聞いたっていいじゃねえか、家の細君の往く前ぐらい聞いたっていいじゃねえか」
「家の細君を、一人で出すのが心配になるとでも云うのかい」
「そうじゃねえ」
「それじゃ、毎日遊んで、細君に稼がしては気のどくだから、たまにはかわりに往ってくれるとでも云うのかい」
長吉は黙って掌で燠の見当をつけて煙草を点けた。お杉の顔は嘲りでいっぱいになっていた。お杉は次の室へ顔をやった。
「お鶴、聞いたかい」
晴れた外気を映した明るい室には、メリンスの長襦袢になった娘のお鶴が、前方向きになって鏡台に向って髪を掻いていた。母親似の額の出た赧ら顔が鏡に映っていた。
「なにをよ」
「なにって、家の旦那さまが、家の細君の往く前ぐらい、聞いたっていいじゃないかとおっしゃるのだよ」
「そう、心配になるでしょうよ」
「なに、毎日細君に稼がして、家で無駄飯を喫ってはすまないから、かわりにでも往ってくれるだろうよ」
「それじゃ、往ってもらったらいいじゃないの、とんとん走って往くでしょうよ」
「往ってもらおうかね、家には、皆りっぱな男が揃ってるから、何かの時にゃたのもしいよ」
「そうねえ、矜羯羅のように走る男もあれば、千里眼の人もあるし、何かのばあいは、心丈夫だよ」
「稼ぎは出来るしね、わたしも安心だよ」
かちりと煙管をすてる音がした。
「おい」
長吉の声は一段と小さくなった。お杉は長吉のいることを忘れていた。
「なんだね」
「まあさ」
「まあさがどうしたと云うのだね」
「まあ、ちょっと坐れ」
「坐れ、このせわしいのに、どうしようと云うの」
「まあさ、ちょっとだ」
「ちょっと、どうするの」
「ちょっとでいいから坐ってくれ、話がある」
「なんの話なの」
「なんでもいい、ちょっとでいい」
「また愚痴かい」
「愚痴じゃない」
「煩いね」
「まあ、そう云うな、話だ」
「出かけなくちゃならないに、困るじゃないの」
「そんなに、てまをとることじゃない」
「てまをとられてたまるものかね」
「まあ、いい、たった一口云えばいい」
お杉はしかたなしに蹲んだ。
「なんだね、早くお云いよ」
長吉はお杉の声に見当をつけて顔を出した。
「おい、おまえ、俺のことはかまわないが」ちょっと詞をきって、「脚のことは云うなと云ってあるじゃねえかよ」
お杉は嘲り笑いを浮べた。
「なんだね、なにを云うかと思や」
「いや、いかん、それは云うものじゃねえぞ」
「なにも、べつに云やしないじゃないか」
「いや、いかんぞ、そいつは、いいか」
「だって、なにも云やしないじゃないの」
「云わなけりゃいいが、云うなよ、いいか、頼むぞ」
「判ったよ」
「いいか、それじゃ云うのじゃねえぜ、人の嫌がることを云ったり、したりするものは、ろくなことはない、雷さんの悪口を云ってて、天気もわるくないのに、雷さまが落っこちたと云うからな」
「また、おはこかい、ばかばかしい」外出のことを思いだして、「奥さまがお待ちかねだ、ゆるゆるしちゃいられないよ」
「それじゃ、山田さんか」
「どこでもいいじゃないか」お鶴の方を見て、「それじゃ、お鶴往ってくるからね、ついすると遅くなるかも判らないよ」
お鶴は起って衣服を被かえていた。
「いいよ」
「おまえは、遅い」
「わたしも奥さんのつごうで、どうなるか判らないよ、解き物があると云ってらしたから」
「そうかい、それじゃ往くがいい」
お杉はそのまま一方の襖を啓けて姿を消して往った。そして、何か云っていたがすぐ聞えなくなった。長吉は傍におろしてあった土瓶をそっと執って火鉢にかけた。
「人間は、あまりあこぎを云うものじゃねえや」
長吉は厭なものを吐きだすように云ってから口をつぐんだ。短冊のような型のある緋い昼夜帯を見せたお鶴が、小料亭の婢のような恰好をして入って来た。
「お父さん、往って来るよ」
長吉はびっくりしたように顔をあげた。
「小栗さんか」
「そうよ」
お鶴もお杉の出て往った方から姿を消して往った。そして、十分位するとがたびしと云う音がして、二人の出て往った処から壮い男が這って来た。壮い男は右の方の脚は骭から下がなかった。壮い男はばったの飛ぶようにして長吉の前へ来た。
「音か」
それは長吉の甥の音蔵であった。音蔵は砲兵工廠に勤めていて、病菌が入ったので脚を切断したものであった。
「叔父さん」
音蔵の声は顫えを帯びていた。音蔵は這ったままであった。
「どう、どうしたのだ」
「お、おじさん、お、おいらは、叔父さんにすまないが、きょう、かぎり、叔父さんとこを出るのだ」
長吉はあわてた。
「ど、どうして、そ、そんな、そんなことを云うのだ、そんなことを」
「おじさん、叔父さんの親切は、おいらは、死んでも忘れないが、叔父さん、おいらはつくづく考えた、叔父さんにはすまないが、おいらは、今日かぎり、出て往くのだ」
「そりゃ、判ってる、判ってる、判ってるがここが忍耐だ、まあ、気を大きくして、時節を待て、よく判ってる、あの二人は人間じゃない、おまえが居づらいのは判ってる、すまない」
「いや、叔父さん、おいらこそ、叔父さんにすまない、おいらがいるために、叔父さんが板ばさみになっているのだ、叔父さんにすまない、おいらは諦めた」
「ま、待ってくれ、つらかろうが、もすこし忍耐してくれ、そのうちには、叔母さんも考えてくる」
「叔父さん、もういい、おいらは、おいらが世話になっているために、眼の不自由な叔父さんが、なお苦しんでいるのだ、おいらは叔父さんにすまない」
「待て、待て、なに、叔母さんも何時までもあんなじゃない、そのうちには考えて来る、おまえもそのうちには、何かいい目が出る、人間は忍耐が第一じゃ、忍耐してくれ、それでお鶴も、考えなおしてくれたら、二人で世帯を持って、おいらと叔母さんの面倒を見てくれ」
音蔵は内職の袋張をして食費を入れていた。
「すまない、叔父さんにはすまないが、おいらはもう諦めた」
「まて、これ」
長吉は黄ろに萎びた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。こうして不幸な叔甥が手を執りあって泣いている時、お杉はお高の室へ往ってお高に逢っていた。
「大喜びでございますよ、りっぱな奥さまに呼んでいただくのですもの、喜ばないでどうするものですか、罰があたりますよ」
お杉は己まで嬉しいと云うような顔をしていた、お高は微笑した。
「そう、それじゃいいね」
「よろしゅうございますとも、待っていられないから、前へ出かけて往ってるかも判りませんよ」
「どうだか」
「ほんとでございますよ」
「前方は大丈夫だろうね」
「大丈夫でございますよ、あすこは裏門から出入ができますからね」
「そう、それじゃ大丈夫だね、厭な奴に見られちゃ困るからね」
「大丈夫でございますよ」
「それじゃ、出かけようかね」
「お宅の方は、よろしゅうございますか」
「いいとも、今日も、また、あの蛇が出て、大騒ぎをしてるから、いいのだよ」
「そうでございますか」
崖の離屋では三人の男が顔をあわしていた。三人のうちの一人は四十四五で、素肌へ茶の縦縞の薄い丹前を被ていたが、面長の色の白い顔のどこかに凄味があった。
「それで、奴さん、何と云ったのだ」
丹前の前には円い食卓があった。その食卓を中心にして右側にいるのは、三十前後のセルの袴を穿いた壮士風の男であった。それはばかに長くした揉あげの毛が眼だっていた。
「私の方は、これまで我慢をしておったが、前方の行為が怪しからんから、今度と云う今度は、断然処分をすると云って、とっても鼻息が荒いのだ、それで君の方は、これまでさんざ、利息を執っといて、それも前方に有って払わないならともかく、前方は商売に失敗して困ってるところじゃないか、俺だちは義によって、解決しようとしているのに、それを聞かないでやるようならやってみるがいい、俺だちは生命を投げだしてやってることだから、承知しない、もし、邪魔になると思や、警察なり、どこなり、云って往けって、たんかをきってやったのだ」
「それで、奴さん、何と云った」
「何人が何と云っても、今度は承知しない、これは何人に聞かしても、私の方が正当だから、断然処分する、どうかこの事は、ほうっといてくれと云うのだ」
「そうか」
左側には二十五六の頭を角刈にした壮い男がいた。角刈はその時口を挟んだ。
「また荒療治をやるかな」
揉あげがそれに応じた。
「そうだな、君がまた三四月往って来るか」
「どうせ往かなけりゃ、物になるまい」
「今なら往っても、暖かいからいいな」
「俺をやっといて、おめえは、新井宿の奴の家で、納ろうと云うのかい」
二人は笑いあった。丹前は盃を持って飲みながら考えていた。
「待て、待て、俺に考えがある」思いだして、「まあ、飲みな」
「そうだ」
揉あげは銚子を引き寄せて空になっている己の盃へ酒を注いだが、酒はぽっちりしかなかった。丹前がそれを見た。
「酒がなけりゃ、呼べ」
揉あげは手をたたいた。そこは池上本門寺の丘つづきになった魁春楼と云う割烹店の離屋で、崖の上になった母屋から廻廊がつづいて、それが崖に倚ってしつらえたあちらこちらの離屋に通じていた。そこは梅で知られている家であった。
「こんな処は、半鐘でも釣っとくがいいや」
揉あげは起って欄干の傍へ往って手を叩いた。上の方で甲高い女の声が応じた。
「やっと聞えやがった」
揉あげはそう云い云い眼をまえへやった。それは二時比で、午近くから嫩葉曇に曇っている空を背景にして、大井から大森の人家の簷が藍鼠の海に溶けこもうとしていた。眼を落すと嫩葉をつけた梅の幹がいちめんに古怪な姿を見せていた。
「よし、いい」丹前は気が注いたように揉あげの背後姿へ眼をやった。「大丈夫だ、うんと飲みな」
角刈は対手になった。
「大将、俺が一度往ってみようか」
「待て、おめえは、まだいけねえ」
「だって、俺が往って、二つ三つ撲りとばしたら、話が早くつくじゃねえか」
「待て、待て、俺に考えがある」
「どんな考えだ」
「待て、待て、ゆっくり飲みながら話そう」
そこへ一方の襖が啓いて眼の大きな年増の婢が入って来た。婢はお時と云うのであった。お時は二本の銚子を手にしていた。お時は丹前に愛想笑いをした。
「お酒でしょう、旦那」
揉あげが横あいから口を出した。
「お時、半鐘でも釣っとけ、呼ぶに骨が折れてかなわん」
お時は揮りかえった。
「そうね、半鐘ね」
「そうだよ、それで酒の時は三つばんだ」
「肴の時は」
「肴は二つか」
「それじゃ、あの時は」
揉あげは笑った。
「あれは、あの時は五つさ」
お時はあの時から思いだした。
「旦那、八千代さんは、どうするのです、まだ話はすまないのですか」
それは話をするために呼んでいた歌妓を出してあるらしい。丹前は頷いた。
「もすこし待たしとけ、だって彼奴、線香代をつけてもらって、かってに遊んでる方がいいだろう」
「そう」
「肴がない、何か見つくろって持って来い」
「そうね、どんな物がいいでしょう」
「旨いもので、早く出来て、それで金がかからなけりゃ、なおいいや」
「ずいぶん、ねえ」
お時はまた愛想笑いをしいしい出て往った。揉あげはどっかりと坐った。
「まずくって、遅くって、高くって、酒がわるくって、ここでいいものは、室の風景だけだよ」
角刈がにやりと笑った。
「おめえでも、風景が判るかい」
「判るさ、俺はこれでも、漢詩の平仄を並べたことがあらあ、酔うて危欄に倚れば夜色幽なり、烟水蒼茫として舟を見ず、どうだい、今でも韻字の本がありゃ、詩ぐらいは作れるぞ」
丹前が口を入れた。
「詩を作るより、田を作れか」
角刈は揉あげに何か云いかえしをしなければ気がすまなかった。
「作る田がないから、東京へ来て強請をやってるだろう」
「お互さまだよ」
「お互さまじゃねえや、俺はもとからの破戸漢だ、おめえは学生から、おっこちて来たのだ、物が違わあ、いっしょにせられてたまるものかい」
丹前が笑いだした。
「あんまり自慢にならんさ、まあ、それよりおちついて飲みな」
三人は酒になった。三人は品川大井大森方面を縄張にしている匪徒で、丹前は岡本と云う三百代言あがり、揉あげは松山と云って赤新聞の記者あがり、角刈は半ちゃんで通っている博徒であった。三人はその時、貸借関係で紛糾している家を恐喝しているところであった。
何時の間にか一人の歌妓が加わっていて一座は四人になっていた。三人は他愛ない話をして笑いあっていた。
「半ちゃん、どうだい、この比は、佳い目が出るのかい」
揉あげの松山はいい気もちに酔っていた。角刈の半ちゃんは笑っていた。
「佳い目が出る、おい、松山、佳い目が出る、俺はそんなことは知らねえや、ぜんたいそりゃ何だい」
「知らねえ、佳い目ってことを知らない」右の手で何か揮るような恰好をして、「これを知らねえのか」
「知るものかい、俺は堅気の商人だ」
「堅気の商人だ、何の商人だ」
「そりゃあ、その」云えないので、「何でもいいや」
「それ、みな、云えないだろう」
「ふざけるない、おい、おめえは、俺が、後暗いことでもやってると思ってるのか」
松山はまた何か揮るような恰好をした。
「これだと思ってるが、やらないのか」
「やるもんか、俺は、堅気の商人だ、そんなへんなことは知らねえや」
「しかし」また何か揮る恰好をして、「これは判ってるだろうな、何を揮るか」
「知るものか、きちょうめんの商人だ、賽ころなんか知るものか」
松山は大声に笑った。
「お、おい、賽ころだ、云うに落ちずして語るに落ちる、賽ころと云うことを知ってるな、それじゃ半ちゃん、佳い目が判るじゃねえか」
「判らねえ、知るものか」半ちゃんはその時便所に往きたかった。半ちゃんはずいと起った。「これから往って賽ころがどんなものか考えて来る」
半ちゃんは笑い笑い出て往った。岡本の左側へぴったり寄りそうていた歌妓は無邪気であった。
「あの方、あれ、やるの」
それは二十位の眼の澄んだな女であった。岡本は松山をちらと見てにやりと笑った。
「どうだ、松山、あの堅蔵が、そんなことをやるのかい」
松山もにやりと笑った。
「さあ、ねえ、彼奴とっても堅い奴だから、博奕なんか知らないだろう」
「そうだろう、口じゃいいかげんなことを云っても、おもが堅蔵だから」
二人はおかしくてたまらないと云うようにして笑った。二人の話はまた他愛ない話になった。女はあくまでも無邪気であった。暫くして岡本が気が注いた。
「半ちゃんは、どうした」
歌妓も気が注いた。
「そう、ねえ、ほんとに長いわ、便所へ往ったのでしょうか」
松山はまぜかえした。
「便所の中で、賽ころを揮ってるじゃないか」
「まあいいや、廊下とんびでもやってるだろう」
岡本は盃を持った。そこへ襖が啓いて角刈の頭が見えて来た。松山は待っていた。
「おい、半ちゃん、八千代が、便所へ往って賽ころを揮ってるのだと云ってたぜ」
「うん」
半ちゃんは真顔になっていた。半ちゃんは立ったままであった。
「大将、ちょっと、また話が出来たのだよ」
「どんな話だ」
「ちょっとね」
「秘密の話か」
「そうなのだ」
「そうか」
「また八千代に気のどくだが」
「おってはいけねえのか」
「いけねえ」
「そうか」岡本は頷いて八千代に顔をやり、「それじゃ、また、あっちで遊んでてくれ、何か喫いたいものがあるなら、姐さんにそう云うがいい」
「それじゃ、あっちへ往ってもいいのですか」
「いいとも」
女はすぐ出て往った。半ちゃんは女の坐っていた処へ往って坐った。
「豪いことがある」
半ちゃんは緊張していた。
「なんだ」
「なんだって、豪いものを見つけた」
「どんなことだ」
「どんなって、こいつあ、金の蔓だよ」
「そうか、云ってみろ」
「鮫洲の山田って云う家を知ってる」
「山田、どうした家だ」
「それ、地主で、家作持で、商売もしてる、鮫洲の大尽と云や、あの界隈じゃ、知らない者はねえぜ」
「ああ、鮫洲の大尽か、知ってる、主翁は脚がわるいと云うじゃないか」
「そうだよ、俺は知ってるのだ」
「それが、どうした」
「どうの、こうのって、大将、彼奴の細君さんが」声を落して、「男を伴れて来てるのだぜ」
岡本の眼に光があった。岡本の鼻は半ちゃんの鼻にくっつくようになった。
「男は、どんな奴だ」
「俳優だな、したっぱの、品川あたりで見かけたことがあるのだ」
「壮いか」
「二十二三と云うところだ」
「二人で宜しくやってるのか」
「婆さんが跟いて来てるのだ」
「どんな婆さんだ」
「どんなって、俺が知ってる婆さんだ、お杉って云うのだ、厭なばばあだ」
「それじゃ、三人で飲んでるのか」
「婆さんは、次の室で、一人で飲んでるのだ、あのばばあ、酒くらいだ」
「どうして知ったのだ」
「婆さんを、廊下で見かけたから、そっと往って覗いたのだ」
「どこだ」
「上の段の、あの湯殿のついた室があるだろう、あそこだ」
「そうか」
岡本は考えこんだ。半ちゃんは得意であった。
「どうだ、大将、金の蔓だろう」
「うん」
「なんとかしようじゃねえか」
松山はにやりと笑った。
「俺が割りこむ」
岡本は頭を揮った。
「いかん、待て、これには謀がいるぞ」
松山はだまって半ちゃんといっしょに岡本の顔を見ていた。岡本は半眼になっていた。半ちゃんはもう待っていられなかった。
「ぐずぐずしてちゃ、往っちまうぜ」
松山も好奇心に燃えていた。
「そうだ、こんなことは現行犯にかぎる」
岡本の眼がぱっちり啓いた。
「よし、いい謀を思いついた」
半ちゃんはむずむずしていた。
「それじゃ、どうする」
「あの婆さんを、半ちゃんが往って、歎して伴れて来るのだ、それで婆さんを伴れて来たら、今度はあの色男を伴れて来るのだ」
「それで、どうする」
「それから演戯だ」
半ちゃんと松山は、岡本の意図にはっきりしないことがあったが、聞きかえすことができなかった。
「よし」
「そうか」
岡本は半ちゃんに命令した。
「それじゃ、婆さんを伴れて来い、ちょっと逢いたい人があるからって、いいかさとられるな」
「いいとも、それじゃ往って来る」
半ちゃんは出て往った。岡本は松山を見た。
「おめえは、障子を締めて、外へ出て、婢に気をつけとるがいい」
「いいとも」
松山は起って障子を締めて出て往った。岡本はそれから盃を持った。酒がなくなると銚子を執って注いだ。そして、三杯目の酒を注いだところで、襖が啓いて半ちゃんがお杉を伴れて入って来た。
「なに、ちょっとした話だよ」
半ちゃんは後を締めた。岡本はいきなり起って往って、お杉のそばへ往くなりお杉の頭をいやと云うほど撲りつけた。
「声をたてたら、殺してしまうぞ、坐れ」
お杉はつくばってしまった。
「不埒な奴だ、他に意見をしなくてはならない老人が、不義のとり持をするとは、なんだ、何もかも判ってるぞ」
岡本は半ちゃんを見た。
「それでは、馬の脚だろう、伴れて来い」
「うん」
半ちゃんはまた出て往った。岡本は元の座へ帰って盃を持った。
「声をたてたり、逃げたりすると、半殺しにしたうえで、警察へ渡すぞ」
お杉は小さくなって顫えていた。岡本はもう何も云わなかった。そして、十分ばかりすると、半ちゃんがまた壮い色の白い男を伴れて来た。岡本はまた起って往って撲りつけた。
「野郎」
壮い男もそこへつくばってしまった。岡本は半ちゃんに眼をやった。
「二人の番をしとれ、じたばたするなら、殺してしまえ、これから俺がかけあって来る」
岡本は出て往った。
岡本は一時間近くもお高の室にいて引返して来た。離屋には半ちゃんが酒を飲んでいる前に、あの壮い男とお杉が小さくなって坐っていた。
「帰ったな」
松山が岡本の顔を見た。松山は岡本の顔色によって事の成否を知ろうとしていた。半ちゃんは元より岡本の帰るのを待ちかねていた。
「お帰り」
岡本は頷いて元の席へ往って坐りながら、壮い男とお杉を見なおすようにした。
「いるな、馬の脚と、婆あは」
半ちゃんは岡本の盃へ酌をした。
「じたばたしたら、殴き殺すのだから、奴さん、動かれないのだ」
「そうか、そうだろう、ふざけたことをしやがってるから、だいち、その婆あがいけねえ、いい年をして、聞きゃ出入だと云うじゃねえか、大恩を忘れやがって、馬の脚なんかをとり持つなんて、不埒千万だ」
岡本は室の中のむせむせするのが厭だった。岡本の眼はお杉へ往った。
「おい、婆あ、そこの障子を啓けろ」
お杉はおどおどと起って往って障子を啓けた。風が出て梅の嫩葉は風に撫でまわされた。
「障子を啓けるといい気もちだ」
岡本は心もちよさそうに酒を飲んだ。松山は岡本から女のことを聞きたかった。
「あの媽あは、どうしたのだ」
「みっちりかけあった、他の亀鑑にならなくちゃならない富豪の細君ともあろうものが、怪しからんと云って、みっちり意見をしたものだから、あの女、泣いてあやまりやがった」
「そりゃ、そうだろう、当然のことだ、苟も有夫の女じゃないか、言語道断だ、それをまたとりもつ婆あは、一層言語道断だ、天人ともに赦さざる奴だ」
半ちゃんはむずかしい詞は知らなかった。
「そうだとも、ふざけたことをしやがって、ぐずぐず云や、おいらが三人を縛りあげて、鮫洲大尽の家へ曳きずってって、大将に引きわたすのだ」壮い男とお杉の方を見て、「どうだ、婆あと馬の脚」
松山が口を入れた。
「ただ曳きずって、旦つくに怒らすばかりじゃいけねえ、新聞に書いてもらうのだ、三段打ち脱きの大標題で、鮫洲大尽夫人の醜行とかなんとか、処どころに四号活字を入れて書きゃ、ぺちゃんこさ、どうだ」壮い男とお杉を見て、「どうだ、馬の脚と婆あ、これでやられたら、婆あもそのあたりにはいられなくなるし、馬の脚は、もう東京附近では、馬の脚もできないことになるぞ」
岡本は何か考えついた。
「よし、こんな手合に云ったところで、判らない、以後こう云うことをしないと云う一札を執って、追っぱらえ、うす汚い婆あや、へんな奴がいちゃ、せっかくの酒が拙くなるのだ」
松山も同感であった。
「それがいい、一札を執って追っぱらおう」壮い男を見て、
「おい、小厮、てめえは、字が書けるか」
壮い男は口が硬ばっていた。
「野郎返事をしないか」
半ちゃんがいきなり起って往って、壮い男の横っ面を撲りつけた。岡本はそれを止めた。
「待て、待て、半ちゃん、そんなことをしてもしかたがない、待て」
「この野郎、生意気だ」
「まあ、いい、坐れ」
半ちゃんも対手が反抗しないのに続けて撲ることもできなかった。半ちゃんは己の席へ帰った。松山は半ちゃんの席へ帰るのを待っていた。
「小厮、痛い目に逢わないうちに、返事をしろ、字が書けるか」
「書けます」
「そうか、それじゃ書け、婆あは、どうだ、婆あは書けまい」
お杉は文盲であった。
「私は、どうもね、その」
「くどい、書けんか」
「書けません」
「よし、それじゃ、婆あの分は、俺が代筆をしてやる」筆のことを思いだして、「筆がないな、婢を呼ぼうか」
岡本は注意深かった。
「婢じゃいかん、半ちゃんが往ってくれ」
「よし」
半ちゃんは起って出て往った。岡本と松山は盃を持った。松山は岡本に眼くばせをした。
「つるは」
「うん」
「いいのか」
「いいとも」
「そうか」
「飲め」傍の二人に聞かすように、「俺だちは、強きを挫き弱きを授ける性分だから、しかたがない」
「そうだとも、義のためには生命もいらない俺だちだ」
「わりにあわない商売だよ」
「損得を云ってられないのだ、が、考えてみりゃ、損な商売だなあ」
「そりゃ、しかたがない、これもお国のためだ、日露戦争で討死した軍人も、俺だちのすることも、することは変ってても、おんなじことだぞ」
「そうだとも」
半ちゃんが硯と半紙を持って入って来た。
「不便なところだな、硯と紙を執りに往くに、野越え山越えだ」
松山が笑った。
「それも、お国のためじゃないか」
半ちゃんには通じなかった。
「なにが、お国のためだい」
「なにさ、俺だちが、こうして悪い奴をとっちめるのも、やっぱりお国のためだと、今、大将と話したところだ」
半ちゃんはやっと判った。
「そうとも、そうだとも、やっぱりお国のためだ」壮い男を見て、「お国のために、一札をとるのだ、さあ、書きやがれ」
その日午近い比であった。広巳は山内容堂の墓地のある間部山の近くを歩いていた。広巳の気もちは混沌としていた。広巳は節操のない嫂に対する憤りから、その嫂にまかれて不甲斐ない兄を憤る一方で、人とも神とも判らない女に心を惹かれているところであった。
広巳は朝から飲んでいた酒で体はふらふらになっていたが、頭は冴えていた。狭い街路には生垣のある家があった。その時広巳の頭にふと浮んだものがあった。
(おや)
広巳は四辺に眼をやった。そこは右側に茨の花の咲いた生垣があって、それが一度往ったことのある家のように思われた。
(どうもおかしいぞ、あの家じゃないか)
鵜になって飛んだ二人の少女に呼びこまれた家のように思われるのであった。広巳は気が注いて笑いだした。
(まさか、まさか)
広巳は歩きだした。その広巳の後に物の気配がした。
「若旦那」
広巳は足を止めた。と、ちょこちょこと下駄の音をさして来たものがあった。広巳はちらりと揮りかえった。それはお杉の娘のお鶴であった。
「今日は」
広巳はお鶴が時おり変にからまって来るので嫌っていたが、黙っているわけにもいかなかった。
「鶴坊か」
「どこへいらっしゃるの」
「ちょっとそこだ」
「そこって、どこですの、いい人のとこ」
広巳は気もちがわるかった。
「そんな処じゃないよ」
「それじゃ、どんなとこ」
広巳は煩かった。
「云われないとこ、それじゃ、やっぱりいい人の処ね、若旦那のいらっしゃる処だもの」
広巳は苦笑した。
「そうでしょう、やっぱりそうでしょう、いい人の処でしょう」
広巳はもてあました。
「ほんとに若旦那は、邪慳よ、そりゃあね、私のような、女のうちにも入らないものなんか、鼻もひっかけてくれないでしょうが、それにしてもあんまり邪慳よ、若旦那は」
広巳は平生それで困らされていた。
「うう」
「ううなんて、ほんとに邪慳よ」
広巳はとっとと往こうと思った。
「そんなに邪慳にするものじゃないことよ、そんなに何時も邪慳にするなら、わたし、若旦那に知らしてあげたいことがあるが、云わないことよ」
「なんだ」
思わずつりこまれて、しまったと思った。
「云わないわ、若旦那が、そんなに邪慳にするなら、わたし、若旦那の喜ぶことを知ってるのだが、云わないことよ、若旦那のことを、平生云ってらっしゃる方があるのだけど、それはただの方じゃないことよ、地位のあるりっぱな方よ、でも云わないことよ、若旦那がそんなに邪慳にするなら」
広巳はちょっと好奇心が起ったが、お鶴が己にからんで来る手のようにもあるから、うっかりしたことは云われないと思った。
「聞かなくてもいいの、ほんとのことよ」
「なんだ」
「いい方のことよ」
「何人だ」
「云わないことよ、若旦那が、わたしに邪樫にしないようになったら、何時でも云ってあげるわ」
「嘘だろう」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、聞きたくなけりゃ」
「ほんとなら、云ってみなよ」
「厭よ、若旦那が、わたしに邪慳にしないようになったら、何時でも云ってあげるわ、ほんとよ、それも徒の裏町のお媽さんや娘じゃないことよ、りっぱな地位のある方よ、若旦那がいくら気ぐらいが高くっても、その方の前へ出たらぞんざいな口が利けないから」
「何人だ」
「云わないことよ、云わないわ」
「云えないだろう、嘘だから」
「嘘なら嘘にしとくがいいわ、若旦那のことを思ってらっしゃる方だから」
「まさか」
「ほんとよ、ほんとだから、云わないことよ」
広巳は惹きつけられるものがあった。それは人か神かと思って探している女のように思われるからであった。それに場所が場所でもあった。
「嘘だよ、俺にはそんな心あたりがないよ」
「嘘なら、心あたりがなけりゃ、それにしとくといいことよ」
「だから、それにしとくのだよ」
「それがいいわ、そのかわり後になって、私を恨んでも知らないことよ、若旦那の家には、お銭がたくさんあって、鮫洲大尽と云や、界隈で知らないものはないのだけど、そんな地位のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だから」
「いやに大きく出るじゃないか、ぜんたい、そりゃ、何だい」
「粋で、上品で、地位のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方よ」
「痴にするない」
「あれ、まだ、私がかつぐと思ってらっしゃるの」
「そうだよ、担いでるのだよ」
「痴、ねえ、若旦那は、ひとが親切に云ってあげてるに」
「それじゃ、はっきり云ったら、どうだ、ほんとなら、はっきり云えるじゃないか」
「そりゃ、云えますよ、云えますが、若旦那が邪慳だから云わないことよ」
「何時、俺が、汝を邪慳にしたのだよ」
「平生邪慳よ、私が何か話そうと思っても、逃げっちまうじゃありませんか」
「そんなことはないさ、逃げたことはないじゃないか」
「逃げることよ、何時かもお宅の御門の処で往きあうと、私を見ないふりをして往っちまったじゃないこと」
「そんなことがあるものか」
「あったわ、私、ほんとにあの時は、若旦那を恨んだわ」
「俺は知らないのだよ」
「知らんことないわ」
「ほんとに知らんよ、それとも俺が、何か考えごとをしてたから、判らなかったかも知れない、ほんとに知らんよ」
「知らんことないわ」
「そりゃ無理だよ」
広巳はばかばかしくなって来た。広巳はいきなりお鶴を離れて歩いた。お鶴は追っかけて来た。
「若旦那」
「もうたくさん」
「ほんとよ、若旦那、聞かなくってもいいの」
「たくさん、たくさん、あばよだ」
「いやな人ね、ひとが云ってあげると云うのに」
「たくさん、たくさん」
広巳は頭にかかっていた塵を払い落したような気になって歩いた。
「おぼえてらっしゃい、若旦那」
「たくさん、たくさん」
たくさん、たくさんの詞は足の調子に乗って来た。広巳の体はたくさん、たくさんで歩いた。そして、歩いているうちに空腹を覚えて来たので、路傍で蕎麦店を見つけて入り、そこで蕎麦を喫ってまた歩いた。
(ぜんたい、なんのことだ)
広巳はお鶴の云ったことを思いだしていた。
(粋で、上品で、地位のある方よ、それで若旦那のことを思ってらっしゃる方って、ぜんたいなんだ)
広巳は考えた。
(若旦那の家には、お銭がたくさんあって、鮫洲大尽と云や界隈で知らないものはないが、そんな地位のある方には、こっちからどう思ったところで、どうすることもできない方だと云ったな)
しかし、広巳は海晏寺の前の榎の傍で逢い、それから八幡祠の境内で逢った女以外の女は、求めてはいなかった。
(その女といっしょなら、逢いたいが、外の女には逢いたくないな)
広巳は何時の間にか大森の魁春楼の裏門口に近いところへ往っていた。と、その時人の気配がして裏門から出て来た者があった。それは盛装した嫂のお高が血の色のない顔をして、一人の婢に送られて出て来たところであった。
(いけねえ)
広巳はそこの巷へ隠れて往った。
広栄は次の室で計算していた。黒柿の机に向って預金の通帳のような帳面を見い見い、玩具のような算盤の玉を弄っていた。
それは二時比で、外には絹糸のような雨が降っていた。広栄はやがて算盤を置いて、傍の硯箱を引き寄せて墨を磨りだした。
「旦那さま」
頬の赧い壮い婢が名刺を持って傍へ来ていた。広栄は顔をあげた。
「お客さんか」
「はい」
広栄は婢の手から名刺を執った。名刺には松山良蔵としてあった。
「松山良蔵、どんな男だ」
「二人来ております、その名刺を出した人は、揉あげの長い壮士のような人ですよ」
「揉あげの長い、壮士のような人」ちょっと考えて、「どんな用事か、聞かざったか」
「聞きませんが、聞きましょうか」
「そうだ、どんな用事か聞いてみよ」
「はい」
婢は出て往ったがすぐ引返して来た。
「聞いたか」
「はい」
「何だ」
「当方の家庭のことで、お話ししたいことがあって、わざわざあがったと云いますが」
「当方の家庭のことで、家のことでか」
「そうだそうです」
「当方の家庭のことで」首をかしげて考えてから、「それじゃ、まあ、通してみろ、お座敷にしよう」
「はい」
広栄は急いで机の引抽を啓けて帳面と算盤をしまい、それから硯箱へ蓋をしながら来客の用件について考えた。縁側に二三人の跫音が聞えて来た。婢が客を玄関脇から伴れて来たところであった。広栄は左右に啓けた障子の一方の陰にいたので正面に客と顔をあわせなくてもよかった。客はあの匪徒の中の松山と半ちゃんであった。広栄は客座敷へ入って往く二人の横顔を見て何かしら不安を感じた。そこへ婢が出て来た。
「それでは、旦那さま」
「そうか、それじゃ茶を持って往け、俺は後から往く」
「はい」
広栄は思いだして、煙草を点けてみたが煙草の味は判らなかった。婢は庖厨から茶を持って来て客座敷へ往くなりすぐ出て来た。広栄は黙って手をあげて招いた。婢もそれと見て黙って傍へ寄って来た。
「あのな、定七に、へんな奴が来たから、そっとここへ来ているように云っとけ」
広栄の声は小さかった。婢は頷いた。
「いいか、そっとだよ」
広栄は平生傍に置いてある松葉杖を執って、それにすがってやっとこさと起ち、境の襖を啓けて入って往った。
「足が悪いものですから、失礼します」
松山と半ちゃんは床の方を背にして胡坐をかいていた。広栄はその前へ往って崩れるように腰をおろして足を投げだした。
「失礼します、こんな恰好をして」
松山はすましていた。
「はじめてお眼にかかりますが、何か当方のことで、いらしてくださいましたそうで」
「そうだ」
「どんなことでしょうか、当方の家庭のことと申しますと」
「すこし、へんなことだから、他の者に聞かしたくない、何人もこの室の中へ通さないようにしてもらいたいが」
あいての語気が強いので広栄は鬼胎を抱いた。
「そ、それは、私が呼ばなければ、呼ばなければ、何人も来ませんから」
「そうかね」
広栄は、後の詞が出なかった。松山はその顔をじろりと見た。
「それでは、話をするに当って、云っておくことがあるが、僕だちは東洋義団と云う結社のものだが、この東洋義団と云うのは、国家のために不義不正を摘発して、弱者は授け、悪人は懲して、社会を覚醒している結社だと云うことを承知してもらいたい」
「は、東洋義団、社会を覚醒なされる、結社の方でございますか」
「そうだ、その結社のものだ、だから僕だちは、金銭利得によって動くものじゃない、これもあらかじめ承知してもらいたい」
「それはもう、なんでございますから」
「よし、それが判ったら、用件に移るが、僕だちは、今も云ったように、国家のために社会の不義不正を摘発しているところで、不幸にして、ここな家庭が紊乱しておるから、それを摘発に来たのだ」
広栄は眼を見はった。
「わたくしの、家庭が、紊乱しておると申しますか」
「そうだ、紊乱しておる、紊乱しておるから、それを粛正さすために来たのだ」
広栄はさすがに腹が治まらなかった。
「私の家は、私と、細君と、それから弟が一人あって、その弟は、今度の戦役に従軍して、金鵄勲章ももらっておりますが、べつに他人から、家庭のことを、とやこう云われるようなことはないが、それは何かの」
「だめだ」松山は叱りつけた。「そんなことを云っても、種がちゃんとあがってるのだ」
「種と云いますか」
「そうだ種だ、種があがっておる、鮫洲の大尽と云や、人に知られた家で、人の亀鑑になる家だ、その家が紊乱さしては、けしからんじゃないか」
広栄は何のためにそんなことを云うのだろうと思った。
「それは、どうも、それは、何かの」
「だめだ、幾何隠したって証拠がある、それとも君は、それを知らないのか、町内に知らぬは主翁ばかりなり、君は気が注かんのか、おめでたい人間だな」
広栄は不思議でたまらなかった。
「それは、何かのまちがいだ」
「まちがいだ、まだそんなことを云うか、それじゃ、その証拠を見せてやろう、驚くな」松山は右の袂へ手をやって半紙に書いた物を二枚出して、「おい、これを見ろ」
松山はそのままそれを広栄の前へ投りだした。広栄はしかたなしに拾ってまずその一枚に眼をやった。それはお杉の出したものであった。広栄の眼は次の一枚に往った。それは山田稔とした壮い俳優の自筆であった。広栄の顔は蒼黒くなっていた。
「どうだ、君、読んだのか」
広栄は何も云えなかった。
「おい、その小島杉としたのは、汝の処へ出入するお杉と云う婆さんだ、もっとも婆さんは、字が書けないと云うから、俺が書いてやったのだが、一つの山田稔と云うのは、本人が書いたのだ、品川にごろごろしてる馬の脚だ、それを婆さんが執りもって、ふざけた真似をさしていたのだ、おい、一昨日、媽あは、家にいなかったろう、どうだ、家にいたか」
広栄は眼を伏せていた。
「おい、汝の媽あは大森の魁春楼にいたのだが、判ってるか」
その時客座敷の背後の室には、お高がそっと立って耳をすましていたが、その詞を聞くなり、こそこそと室を出てどこへか往ってしまった。
店頭にいた定七が婢が呼びに来たので、急いで番傘をさして街路へ出た。広巳が蛇目傘を担ぐようにさして、大森の方からふらふらと帰って来たところであった。
「広巳さん、若旦那」
広巳は酔っていた。広巳ははじめて定七を見つけた。
「ああ、定七か」
「定七かじゃありませんよ、どこにいらしたのです、心配しておりましたよ」
「心配することは、家にいる妖怪じゃ、乃公は大丈夫だよ」
定七は笑った。
「家にいる妖怪って、お宅には妖怪なんかおりませんよ、それよか、二日も三日も、どこにいらしたのです」
「妖怪を退治することを考えたり、妖怪を探したり、あっちこっちしてたのだよ」わざとらしく笑って、「蛇さまを拝みにでも往くのか」
「なに、へんな奴が」と云いかけて思いだして、「ちょうどいい、若旦那も往ってください、今、へんな壮士のような奴が二人来たので、旦那さまから呼びに来て往くところです、貴方も往ってください。きっと強請か何かだろうと思います」
「壮士のような奴が二人来た」
「だから往ってください」
「めんどうだよ」
「そんなことを仰しゃらないで、往ってください、旦那さまは、気がお弱いから、きっと困ってるのですよ」
「そうか」
広巳もそうしたばあい、いやとも云えないので往く気になった。定七はその顔色を見てとった。
「それじゃ、往ってください」
定七は広巳を伴れて母屋へ往き、玄関からそっとあがって次の室へ往った。その時客座敷では、松山が黙りこんでいる広栄を叱りつけていた。
「おい、何か云わないのか、俺だちが義侠心を出して、家庭を粛正してやろうとしてることが判らないのか、痴」
半ちゃんが口をそえた。
「おい、野郎、鮫洲の大尽だなんて、大きな面をしやがって、ざまはねえぜ」
広栄はその時きっと顔をあげた。
「それでは、お礼を申します、どうも御親切にありがとうございました、それで私の方としましては、細君もよく調べ、お杉も調べましたうえで、いよいよ不埒をはたらいておりますなら」
「待て」松山は絹を裂くような声で押えつけて、「細君もよく調べる、よく調べると云うのは、俺の云うことが、真箇にできないから、それでよく調べると云うのだな」
広栄は対手に逆ってはならなかった。
「いや、決して、そんなことはありません、調べると云ったのは、本人の口から白状さして、そのうえで話をつけようと思いまして」
「そうか、それで細君をどうするつもりだ」
「それは親類の者にも相談して、そのうえで離縁するなり、なんなり、それは私の方で話をつけます」
「私の方で話をつける、私の方で話をつけるから、他人はおせっかいをよせと云うのか、いやしくも人の亀鑑になるべき者が、不義不埒なことをしているに、うやむやにして、知らん顔をするつもりか」
「そんなことはありません、決して」
「それではどうする」
「それは、今も申しましたように、親類の者とも相談しまして、そのうえで話をつけます」
「話をつけるとは、うやむやにして、そのままにするつもりだろう、そうはいかねえや」
広栄は困ってしまった。
「そ、それでは、どうしたら」
「人の亀鑑になる者だ、社会風教上、よろしくない、叩きだせ」
「それは、私も、いざとなれば、離縁するなり、なんなりいたしますがいろいろ事情もありまして」
「事情じゃなかろう、ほれてるから、踏みつけられても、尻にしかれても、どうすることもできないだろう」
半ちゃんがまた口をそえた。
「そうだよ、鼻の下が長いのだ、この野郎は」
「そうだよ、だから、俺だちの義侠心も思わないで、ふざけたことを云ってるのだ」広栄を見て、「野郎、どうだ、どうするのだ」
広栄はもう詞が出なかった。松山はたたみかけた。
「どうするのだ、おい、野郎、媽あを叩き出すか、俺だちの義侠心を踏みにじるか」
襖がずらりと啓いて定七が出て来た。
「もし、失礼でございますが、私から、ちょっとお話をあげたいと思いますが」
松山はじろりと定七を見た。
「汝は何人だ」
定七は広栄の右側へきちんと坐った。
「番頭のようなものでございます」
「ようなものとは、なんだ」
「番頭のようにしておりますが、番頭だと云うことを主人から云われておりませんから」
「そうか、それで、俺だちにどんな話があるのだ」
「隣の室で、主人の云いつけで、帳面をあわしておりましたので、前刻からのお話を伺いましたが、それについて、ちょっと私から申しあげたいことがございまして」
「どんなことだ、云ってみろ」
「それでは申しあげますが、今承われば、当方の奥さまが、何かまちがいをしでかしまして」
「言語道断だ」
「それにつきまして、私がてまえ主人に代りまして、お願いでございます」
「なんだ」
「それは奥さまが一時の心得ちがいから、皆さまに御心配をかけましたにつきましては、それ相当のことをいたしまして、今回だけは、大目にみていただいて、みっちり意見をいたしまして、元の奥さまにしたいと思いますが」
「だめだ、あんな女は」
「ではございましょうが、てまえ奉公人といたしましては、円く収めたいのでございます、どうか、皆さまも、お腹もたちましょうが、どうかてまえに免じてお赦しくださいますように」
松山は態度をやわらげた。
「そうか、奉公人として、汝がそう云うのは、もっとものことだ、奉公人としては、主人のためにそうしなくてはならんが、苟も人の亀鑑になる家のことだ」
「ではございましょうが、そこが御堪忍でございます、どうかてまえに免じて、今回だけは、お眼こぼしを願います、それにつきましては、汚いことを申しあげてはすみませんが、皆さまにそれ相当のことをいたしまして、皆さまの御親切にお礼をいたしたいと思います、どうか今回だけは、お眼こぼしを願います」
「そうか、汝が主人のためを思うて、そう云うならいけないとも云えないが」
「どうぞお願いいたします、それにつきまして、てまえ主人にちょっと申したいことがございますから、ちょっとお赦しを願います」
「よし、相談があるなら、往ってもいいが、長くはいけないぞ、それに俺だちを欺しといて、警察なんかに云いつけたら、承知しないぞ」
「決して、そんなことはいたしません」
「云いつけるなら云いつけてもいい、ここな署長なんか、東洋義団の連中とは朋友だから、そんなことは驚かんが、もし、へんなことをすると、結社には命知らずが幾人もいるのだ、殺してしまうからそう思え」
「いや、けっしてそんな痴な真似はいたしません」それから広栄に注意して、「それでは旦那、ちょっとお話をあげたいから、あちらへいらしてください」
広栄はほっとしていた。
「そうか、それでは」
広栄は松葉杖を執ってやっとこさと起って、定七といっしょに次の室へ往った。
広巳は母屋の庖厨へ入って往った。庖厨の土室には年とった婢が筍の皮を剥いていた。広巳は庖厨に起ってあちらこちらを見た。それは何かを探し求めている眼であった。
「おい、お小夜」
年老った婢は何人か来たとは知っていたが、めんどうだから知らないふりをしていたところで、名を呼ばれたので顔をあげた。
「おや、若旦那、今日はお珍らしいじゃありませんか」
広巳が母屋へ来たことは暫くぶりであった。
「そんなことは、どうでもいい、酒はないか」
広巳の眼は光って怒に燃えている眼であった。年老った婢はいつもの広巳とかってがちがっているのでおやと思った。
「さけ、どうするのです」
「どうでもいい、持って来い」
年老った婢は筍をおいて起っていた。
「あがるのですか」
「判ってらあ」
「それでは、お燗をつけますか」
「そんなことはいい、早く持って来い」
「そうですか」
年老った婢は流槽と喰ついた棚の下にある瓶子の傍へ往った。
「瓶子のままでいいのですか」
「いい、持って来い」
「お銚子と猪口はいらないですか」
「いらない、瓶子と茶碗を執れ」
年老った婢はさからわなかった。年老った婢は一升瓶子と湯呑茶碗を持って往った。
「これでいいのですか」
「いい」
広巳は上框へ出て婢の出した瓶子と茶碗を引ったくるように執り、いきなりそこへ胡座をかき、瓶子の栓を口で脱いて、どくどくと注いで飲んだ。
「うウ」
年老った婢は呆れてその容を見た。広巳は茶碗の酒を二口に飲んで、また後を注いだ。
「うウ」
その酒もまた二口に飲んで三杯目の酒を注ごうとして、何か気になるのか耳をすましていたが、それだけではいけないのか茶碗をおいて起ち、玄関の方へ姿を消して往った。
「まあ」
年老った婢はますます呆れたような顔をした。そこへ頬の赧い壮い婢が何かを憚るように奥の方から出て来たが、年老った婢を見つけるなりその前へついと往った。
「お小夜さん」
「なんだね」
壮い婢は何人か己を見ているものでもないかと云うようにして、ちらと後を見ておいて年老った婢の鼻端へ近ぢかと顔を持って往った。
「汝さん、知らない」
「なんだね」
「たいへんよ」
「どうしたの」
「お座敷の方で、大きな声がしてたでしょう」
「そうね、何人か来てるの」
「へんな、壮士のような男が、二人来てるのだよ」
「それが、どうしたの」
「それがたいへんよ」
「どうしたの」
「どうって、ここの奥さんよ」
「奥さんが、どうしたの」
「汝さん」周囲に眼をやって、「男があるのだって」
「まあ、奥さんが」
「そうよ、大森の料亭かなんかで、男といっしょにいるところを、今来てる男に見つかって、書きつけを執られたって」
「ほんと」
「ほんとだとも、だから、人の亀鑑になる家のお媽さんが、男をこしらえるなんて、ふざけてる、追んだしてしまえと云ってるのだよ」
「旦那にそんなことを云ったの」
「云ったとも、それに奥さんと男の執りもちをしたのは、あのお杉さんだって」
「まあ、お杉さんが、呆れた人だね、それで、男って何人だろうね」
「馬の脚、馬の脚って云ってたから、俳優じゃないだろうかね」
「そうね、馬の脚って云や俳優だろう、だが奥さんがそんなことをするだろうかね」
「判らんが、奥さんはへんだから、店の平どんだって、どうしてるか判らないよ、よく伴れて歩くじゃないか」
「そうね、お蔵なんかへ伴れて往くことがあるね」
「そうだよ」
「それで、奥さんは、どうしてるの」
「いないのだよ」
「どこへ往ったろうね」
「いたたまれないで、逃げだしたかも判らないよ、前刻居室で新聞かなんか読んでたが、いないのだよ」
「里へ往ったろうかね」
「まさか里へは往かれないよ」
「それじゃ、どこだろう」
「杉本さんじゃないの」
「あの弁護士の杉本さん」
「そうよ、奥さんは、あの杉本さんとも、へんよ」
「まさか」
「ほんとよ、私は見たことがあるもの」
「ほんと」
「ほんとだとも、正月の比よ、旦那がお蔵へ往ってる時に、杉本さんが来て、奥さんの室へ入って、秘密ばなしをして、二人で笑ったりなんかしてたよ」
「そう、そんなことがあったの、ずいぶん、ねえ」
「ずいぶんよ」
その時どかどかと跫音をさして来たものがあった。二人はびっくりして離れ離れになった。広巳が引返して来たところであった。
「ふざけてやがる、こんなべらぼうなことがどこにある」
広巳は壮い婢を見つけた。
「そこで、何をまごまごしてるのだ」
周囲にあるものを蹴ちらすような勢で入って来て、瓶子の傍へ往くなりいきなり瓶子を執って、それを口からぐいぐいと飲んだ。
「痴、どいつもこいつも、承知しないぞ、痴」
壮い婢は恐ろしそうにしてこそこそとどこへか往ってしまった。年老った婢は筍の傍へ往って蹲んだ。
「痴野郎だから、だめなんだ」
広巳は三口四口続けて飲んだが、気が注いたようにしてまた耳をたてた。
松山と半ちゃんは、山田を出て大森の方へ向って歩いていた。松山は蝙蝠傘をさし、半ちゃんは紺蛇目をさしていた。絹糸のような雨は依然として降っていた。山田の塀の前を往きすぎると、半ちゃんが右側を歩いている松山の傍へ寄って往った。
「おい、旨くいったな」
「いったとも、吾輩が蘇張の弁をもってすれば、天下何事かならざらんやだ、どうだい」
「また、ちんぷんかんぷんか、悪い癖だよ、よしなよ、そんなことを云って、威張ったところで、どうせ人をおどして金を執る悪党じゃねえか」
「悪党じゃないよ、国家のためだよ、国家のためにやってることだよ」
「国家のために、好いことをしてる奴を、ふんづかめえて、さんざ撲りつけたうえに、金を執るだろう」
松山は笑った。
「まあ、そんなものさ、鑵詰の中へ石ころを入れて、兵隊に喫わしても、国家のためだと云う実業家があるじゃないか、それに較べりゃ、姦通をつかまえて、悪いことをさせないようにするのは、たいした違いじゃないか、天と地との違いだよ、すこし位、金を執ったっていいだろう」
「それもそうだが、裁判の紛糾を横あいから往って、裁判所で両方を撲りつけて、金を執るなんざ、あんまりなあ」
松山は周囲に注意した。店員風の壮い男と、会社員風の洋服男が来て擦れちがおうとしていた。松山は叱と云って半ちゃんに注意した。
「つまらんことを云うのは、よせよ、聞かれるぜ」
半ちゃんは口をつぐんで苦笑した。松山は話をかえた。
「半ちゃん、車がほしいな」
「そうだ、車があるといいな」
「川崎屋へでも往きたいなあ」
「川崎屋は面白くねえや、やっぱり松浅だよ、それに自由も聞くじゃねえか」
「そりゃ判ってるが、遠いや」
「なにすぐだよ」
「かなりあるぜ」
「そりゃ、すこしは遠いが、大将が来るからな」
「だから、まあ、往くようなものさ、この雨の中をぴちゃぴちゃ歩くのは気が利かないや、それに癪じゃないか、俺だちに婆あと馬の脚の番をさしといてよ、大将はふざけてるぞ」
「しかたがねえや、そこが仮父の役得だ」
「そりゃそうだよ、だからはやく仮父にならなけりゃいかんぜ」
「そうとも、おめえは、乃公とちがって、学があるから、すぐ仮父になれるさ、岡本さんの後は、おめえがつぐんだ」
「ついでもいいが、乃公は、こんな狭い日本じゃだめだ、満州へ往って、馬賊にでもなろうと思ってるのだ」
「満州なんかだめだよ、酒は高粱の酒で、喫うものは、豚か犬かしかないと云うじゃねえか、だめだよ、魚軒に灘の生一本でなくちゃ」
二人は何時の間にか泪橋の傍へ往っていた。そのあたりには漁夫の家が並んでいた。そこには店頭へ底曳網の雑魚を並べたり、あさりや蛤の剥身を並べている処があって、その附近のお媽さんが、番傘などをさしてちらほらしていた。
松山と半ちゃんは、その傘の中を潜って一跨ぎの泪橋を渡った。その時壮い男が燕のように後から来て二人に躍りかかった。壮い男は円木棒を持っていた。円木棒は忽ち紺蛇目を潰し蝙蝠傘を飛ばしてしまった。
「うぬ」
「野郎」
二人の叫ぶまもなく、円木棒は忽ち半ちゃんをなぎ倒し、ふりむいた松山の右の肩をしたたかに撲りつけた。円木棒は広巳であった。
「盗人」
半ちゃんは起きあがって広巳に飛びかかろうとした。
「野郎」
「なにを」
円木棒は半ちゃんの胴に来た。半ちゃんはまた倒れてしまった。松山は眼を怒らすばかりでどうすることもできなかった。広巳は円木棒を揮って松山に躍りかかった。松山はその勢に辟易して後すさりした。半ちゃんは半身を起しただけであった。
「野郎」
広巳はどこまでもと松山にせまった。松山はとてもかなわないと思ったのか、くるりと体を返して逃げようとした。
「待てっ」
広巳は飛びかかって円木棒を揮った。円木棒は松山の背に当った。松山は前方向けによろよろとなって倒れてしまった。
「ざまみやがれ」
広巳は松山を捨ててふり向いた。半ちゃんが起きあがって組みかかろうとした。
「この盗人」
広巳は丸木棒を横に揮った。半ちゃんはまた胴を打たれて横倒れになった。
川崎屋の奥まった室では、二人の客が話していた。一人はお高で一人は色の白いでっぷり肥った童顔の髭のある男であった。それは杉本と云う山田の地所や貸家を管理している裁判官あがりの弁護士であった。
室の中には明るい洋燈の光があった。杉本は童顔に愛嬌をたたえていた。お高はその時黙って杉本の盃へ酌をした。杉本はまたそれを黙って飲んだ。
「だから、もういいのだ、黙って僕と帰ってけばいい」ふざけるようにお高の眼を見て、「それで、仲なおりをすりゃ、いいじゃないか、夫婦喧嘩と西の風は、日の入りかぎりだと云うことがある、それでいいでしょう」
お高は意のある眼づかいをした。
「よかあないことよ、いやよ、帰るのは」
「帰るのはいやって、大事の旦那さまが嫌いかね」
「嫌いよ、あんな跛なんか、見たくもないわ、飽き飽きしたから、杉本さんにどうかしてもらうわ」
「それはお門違いだろう、あれじゃないか」
「痴」
「だってそうじゃないか、それで事件が起ったじゃないか、やっぱり男に生れるなら、壮い、きれいな俳優のような男に生れたいものだな」
「痴」
「痴は、ないでしょう」
「痴、痴、痴よ、そんなことを云うものは、ただ、お杉が知ってると云うから、いっしょに飯を喫ってたじゃないの、それをあの悪党が、二人を伴れだして、一札をかかしたじゃないの、無実の罪よ、貴方は弁護士じゃないの、そんな無実の罪の弁護するのが、職務じゃないの」
「だから、すぐ往って、旦那に逢って、奥さんは、決してそうじゃないと云って、旦那の誤解をといて、今晩伴れて往くと云うことにして来たじゃないか、りっぱに、弁護士の職務をつくして来たじゃないか」
「だめよ、貴方の弁護士は、女を口説く弁護士よ」
「ところが、僕は女を口説くが拙なのだ」
「だめよ、そんなことを云ったって、ちゃんと種があがってるから」
「それこそ無実の罪だ、こりゃ何人かに弁護を頼まなくちゃいけない」
「頼んだってだめよ」
「こいつは困ったぞ」
「困ったっていいよ、他を痴にするのだもの、今日も私の家へ往って、何を云ったかも知れやしないことよ」
「こいつは驚いた、奥さまは品行方正だ、そこは私が受けあうからと云って、旦那をなだめたじゃないか」
「ちょいと、その品行方正が受けあえて」皮肉な笑いを見せて、「どう、杉本さん」
「受けあえるさ、現に受けあって来たじゃないか」
「だから、貴方は狸よ」
「すると、夫人は、狐か」
「痴」
「痴はもうたくさん、これから飯でも喫って帰ろうじゃないか」
「いやよ、帰らない、帰らないで、今晩は、貴方を引っぱり出して、どこかへ往くから」
「うちの夫人に叱られる」
「叱られたっていいわ、そんなこと」
お杉の家では狭い茶室へ小さな釣洋燈を点けて夕飯を喫っていた。
「おまえさん、まだ飲むかい」
お杉は己の盃へ酒を注ぎながら、汚い食卓の向前にいる長吉の方を見た。眼の不自由な長吉は、空になった盃を前へ出していた。
「もう、一杯注いでくれ」
「もう一杯だなんて、おまえさん、もう三杯飲んだじゃないか、そんなに飲んじゃ、体の毒だよ」
「なけりゃいいが、あるなら、もうちょっぴりくれ」
「二合買ってあるから、ないことはないが、毒だよ」
お杉は憎にくしそうに云って己の盃を手にして一口飲んだ。長吉はきまりわるそうにしていた。
「今日は、ばかに佳い気もちだ、ちょっぴりくれ」
「毎日あげ膳すえ膳で、飯を喫わしてもらってて、それで、悪い気もちになられちゃ、かなわないよ」
さすがにお鶴はそれを見かねた。お鶴はお杉の右横の長火鉢の傍で飯を喫っていた。
「お母さん、注いでおやりよ」
お杉は盃を持ったままでお鶴を見た。
「酒は惜しくないが、また、せんきでも起されちゃ、困るからね」
「一杯ぐらい、いいじゃないか、一杯ぐらいで、せんきも起らないだろう」
「そうは云われないよ、何時かもおこったことがあるのだよ」
「だって、まあ、今晩は、いいじゃないか、注いでおやりよ、そんなことを云うものじゃないよ」
「今晩にかぎって、いやに座頭さんのかたを持つじゃないか」嘲るように云って盃をおき、「それじゃ、親孝行のお嬢さんの、お詞どおりにするかね」
「ばかにしてるよ」
「ばかにするものかね、親孝行のお嬢さんの、お詞どおりにすると、云ってるじゃないか」銚子を執って長吉の盃の近くへやり、「お嬢さんのお詞によって、注いであげるから、滴しちゃいけないよ、一滴でもお銭だ、それも、みんな、私の汗と脂が入ってるのだ」
「ふんだ」
お鶴は不快そうな顔をして飯を喫いだした。お鶴の向前にいた音蔵は、何時の間にか箸をやめていたが、お杉が長吉の盃へ酒を注いだのを見ると、ほっとしたように箸を動かした。お杉は飲みさしの酒を飲んだ。
「親孝行のお嬢さんが、白粉や香水を買う金がありゃ、たまには活動の一つも見に伴れてってくれるといいが、親孝行は違ったものだ」
お鶴はすましていた。
「何云ってるのだ、家へ入れるものは、ちゃんと入れてあるのだ、白粉を買おうと、香水を買おうと、己のはたらきで、己がするのだ、へんだ」
「そうそう、己のはたらきで、買い喫いもすれば、男狂いもするのだよ、みあげたお嬢さんだ」
長吉は手をあげて二人を押えるようにした。
「これ、これ、お鶴、お杉、そ、そんな、そんなことを云うものでねえ、みっともない、親子が、そんなことを云うものでねえ、みっともない」
お鶴はいきりたっていた。お鶴はお杉を睨みつけた。
「何云ってやがるのだ、この比こそ、あんまりへんなこともしないが、大酒を喫って、お父さんをふみつけにして、眼にあまることばかりしてたくせに、わたしが何も知らないと思って、ふざけたことをお云いでないよ」
長吉はまた手を揮った。
「お鶴、まあ、これ、みっともない、そ、そんなことを云うものでねえ、みっともない、他へ聞えるのだ」
「聞えたっていいわよ」
「いいことはねえ、他に笑われる、そんなことを云うものでねえ、だいち、親子が喧嘩するなんて、みっともないことじゃ、やめろ」
「やめないわ、わたし、あんなことを云われて、親だって何だって、承知しないから」
「そりゃ、いけねえ、みっともない、いけねえぞ」
お鶴は何と思ったかふいと起った。
「こんな家なんかに、何人がいるものか」
長吉はもてあました。
「お鶴、お鶴、そんなことを云うものでねえ、これ、お鶴」
「いやだよ、こんな家に何人がいるものか」
お杉は平気な顔をして酒を喫んでいた。
「へッ、お嬢さんの御立腹か、いやならどこへなりといらっしゃいませだ」
お鶴はもう歩いていた。
「往ってやるとも、こんな家に、何人がいるもんか」
長吉はお鶴を追っかけるように体を浮かしたが、さすがに起っては往けなかった。
「これ、お鶴、お鶴」
お鶴はもう次の室へ姿を消して往った。お杉は酒を注いでいた。
「おまえさん、いいよ、出て往きたけりゃ、出て往かすがいいよ、好きな男の傍へでも往くだろうよ」
「そ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うものでねえ、そんなことを云うから喧嘩になるのだ、お鶴を呼びなよ」
「いやだよ、わたしは」
その時がたびしと入口の障子を締めて出て往く下駄の音がした。
「困ったものだ」
長吉はほんとに困ったような顔をした。
「うっちゃっておきよ、あんな奴は、くせになるよ」
「そうはいけねえ、娘の子だから、どんな不了見を起すかも判らねえ」
「元から不了見だよ、あれは」
「そんなに云うものでねえ、親子じゃねえか、親は子を可愛がり、子は親を大事にしなくちゃならねえ」
「あれが、親を大事にしたことがあるの」
「大事にするじゃねえか」
「おまえさん、ばかだよ、あれで、大事にしてくれると思ってるの」
その時入口の障子が開いて人の声がした。それは壮い男の声であった。音蔵はもう箸も何もおいていた。
「何人か来たよ」
お杉もそれを聞いていた。
「お客さんがあっても、取次に出るような者は、一人もいねえのだ、何と云う因果なことだ」
さすがに声はちいさかった。お杉はさも癪にさわると云うようにして起って往った。そこは土室に臨んで三畳の畳を敷き、音蔵が手内職の袋張の台を一方の隅へ置いてあった。土室の暗い処に三十前後の店員らしい男の眼が光っていた。
「今晩は」
「何方さまでございましょう」
「わっしは、山田から来たのだが」
お杉は内心恐れていた山田の使に来られてぎくとした。お杉はべったり坐った。
「や、やまだ」
「そうだよ」
「何か御用で」
「あの、旦那からだが、理由は覚えがあるだろうから何も云わないが、今日かぎり、出入をしないようにって、そう云いつかって来たのだが」
お杉は何も云えなかった。
「わっしは、何も知らないが、それだけ云えば、判ると云うのだから、それを云いに来たのだ」
「そう、ですか」
「判ってるかね」
「判りました」
「それじゃ、これで」
「まあ、いいじゃありませんか」
「まだ一軒まわる処がある、それじゃ」
壮い男はそのまま出て往った。お杉は暫くそこに坐っていた。長吉が茶室から呼んだ。
「おい、お杉」
お杉は返事をしなかった。
「おい、お杉」
お杉はふいと起って茶室へ引返した。長吉は待っていた。
「山田さんのお使らしいが、なんだね」
お杉は黙って坐り、盃を持って飲みさしの酒をぐっと飲んだ。
「何の御用だね」
「やかましいや」
長吉はびっくりしたように潰れている眼の瞼をびくびくとさした。
「どうしたのだ、何をそんなに腹をたてるのだ」
「煩いよ」
長吉はちょっと黙った。お杉は銚子の酒を注いだ。
「何云ってやがるのだ、おまえさんなんかの口を出すことじゃないよ」
長吉は首をかしげた。
「どう、どうしたと云うのだ、怒鳴らないで云ってみな、何か山田さんから云って来たのか」
お杉は注いだ酒をあおった。
「やかましい、どう盲人のくせに引込んどりよ」
「引込んでてもいいが、心配になるから聞いてるのだよ、どうしたのだ」
「聞きたけりゃ、云ってやるよ。今日かぎり、山田さんへ出入をしないことになったのだよ」
「でいり、出入ができないのか」驚いて、「どうしたと云うのだ」
「この間、奥さんのお伴をして、池上へ往ってて、破戸漢に因縁をつけられたのだが、それを何かかんちがいしたものだろう、出入をさせなけりゃ、させてもらわなくてもいいや、何人があんな処へ往ってやるものか」
長吉はおどおどした。
「お、おい、そ、そりゃ、いけねえ、いけねえぞ、今まで御恩になった処じゃねえか、かんちがいをされたことがありゃ、りっぱに明しをたてなくちゃ、いけねえ、そんなことを云うものでねえぞ」
「やかましい」
お杉は手にしていた盃を投げつけた。盃は長吉の額に当って食卓の上にある漬物の皿の中へ落ちた。音蔵は手を出してその盃を遮ろうとしたがおそかった。
「叔母さん、そ、それは」
お杉は憎にくしそうに音蔵を見た。
「何云ってやがるのだ、このばった」
音蔵の顔は真蒼になった。
「お、叔母さん、叔母さん、それは」
「やかましい、黙ってろ、不具者のくせに、引込んでろ」
長吉は体を顫わした。
「何と云うあくたれだ、てめえは、気がちがったか、なんと云うことだ」
お杉はやけくそであった。
「やかましい、どう盲人と、足のちぎれたばった野郎、よくもよくも、一処へ集まったものだ」銚子で食卓の上を叩いて、「こんな不具者ばかりの処で、酒なんか飲めるものでない」とついと起って、「どこかへ往って、飲みなおす」
お杉はどんどん歩いて往ったが、やがて障子を啓けて外へ出て往く気配がした。音蔵は歯をくいしばって考えこんでいた。
「おと」
音蔵の耳には入らなかった。
「おと」
荒い南風の吹く中を広巳は歩いていた。その広巳の瞳には、人や車が影絵のように映り、建物が歪んで映り、時とすると灰汁のような色をして飛んでいる空の雲が鳥の翅のように映り、風のために裏葉をかえしている嫩葉が銀細工の木の葉となって映った。
(へんだなあ、今日は)
それは午すぎであった。広巳は足にまかして歩いた。
(どうしたと云うのだ)
広巳はどこへ往っているとも、またどこを歩いていると云うことも判らなかった。
(俺は、どうかしてるぞ)
何故、こんなことになったのだと考えた広巳の頭に、醜い嫂の姿が浮んだ。
(彼奴のせいだ、あの畜生のせいだ、彼奴がいなかったら、俺はこんなことになりはしないぞ、あの畜生のせいだ)
あの畜生さえいなかったら山田家は朗かで、鮫洲大尽として人にも尊敬せられて往くのであるが、あの畜生のいるばかりにこんなことになった。
(それと云うのも、兄貴がお人好しだからだ)
兄貴がお人好しで蛇を拝んだり、白蟻の糞を拝んだりしているからだ。兄貴の眼を覚すには、あの蛇からどうかしなくちゃならない。
(あの蛇と白蟻の糞をどうかして、兄貴の眼が覚めたら、兄貴も何時までも女房の尻にしかれてはいないのだ、女房に踏みつけられて、それで他から金をとられるなんて、こんなばかばかしいことがあるものじゃない)
広巳の口元にはその時微笑が浮んだ。広巳は二人の悪党にせめてもの復讐したことを考えだしているのであった。
(それにしても、撲りつけたものが、己だと知れると、また何か云って来やしないか)
云って来たところで正義はこっちにある。
「何、戦に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)[#「「何、戦に往ったことを思や、悪党の一人二人、なんでもないさ)」はママ]
広巳の眼に己の入ろうとしている門が映った。広巳は驚いて足をとめた。それは己の家の母屋の門であった。
(おや、俺はどこからか帰って来たのか)
広巳は門の中へ入った。表庭との境いになった板塀の耳門が半ば啓いていた。広巳はその方へふらふらと往った。
庭の樹木も風に掻きまわされていた。広巳は兄の姿が見えないのかと思ってちょっと眼をやった。風を入れないためか室の障子は皆締めてあった。
(締めてあるな)
広巳はふと何かの気配を感じた。広巳の眼は白沙を敷いた地べたへ往った。そこにあの蛇が蠢いていた。
(出てやがるな、糞蛇)
広巳は忽ち蛇に憤りを感じた。広巳はそっと四辺へ眼をやった。
客座敷の方で不意に人声がした。
「どうだね、御主人、返事をしてもらおうか」
それは愛嬌のない詞であった。広巳はそれに耳をやった。次の室の障子が音もなくすうと啓いた。広巳は何人だろうと思って眼をやった。定七の顔とともに定七の一方の手が出てこっちを招いた。広巳は頷いておいて跫音をさせないようにして縁側をあがり、障子の引手に体を当てないように用心しながら入った。定七は広巳の入るのを待っていた。定七は急いで口を持って来た。
「また、来たのですよ」
広巳は囁きかえした。
「何人だ」
「やっぱり破戸漢ですよ」
「そうか」
その時客座敷で声がしはじめた。
「もう、いいだろう、鮫洲大尽と云えば、何人知らぬ者もない家の主人だ、何時までもぐずぐずしていられては困る、それとも返事を延ばしておいて、警察へでも云ってやるつもりかね」
それは嘲りを帯びた声であった。
「そんなことはない」
「それじゃ、警察へは云ってやらんのか、しかし、云ってやろと思えば、云ってやってもいいよ、ほんとを云や、吾輩も悪いのだ、罪悪を犯しておいて、それに未練があって、細君をもらいに来ているのだから、君に怒られて、まかりまちがえば、警察へ突き出されて、赤い衣服を被せられるかも知れんと思って、それを覚悟で来ているのだ」
広栄の返事はなかった。広巳の眼には怒が湧いた。広巳は定七の耳へ口を持って往った。
「関係があるから、渡せと云って来ているのか」
「そうですよ」
「けしからんぞ」
「云いがかりですよ」
「いや、ほんとかも判らん、あれは、そんなことをする畜生だ」
広巳の声が大きくなりかけたので、定七はあわてて掌をその口へ持って往った。
「聞えますよ」
「聞えたっていいや」
「ま、若旦那」
客座敷の声がまた聞えて来た。
「おい、何時まで黙ってるのだ、しびれがきれるぜ、御主人、鮫洲の大尽君、女をくれるか、厭か、返事をしてくれないのか」
「返事もしますが、家の家内が、何日、どこで、そんなことをしたでしょうか」
「日か、五六日前だ、入用がありゃ云ってやる」
「五六日前」
「そうだ」
「それはどこでしょうか」
「大福帳へでも書きつけるつもりかね」
広栄は返事をしなかった。
「書きつけたけりゃ、はっきり云ってやるが、場所は、池上の魁春楼だよ」
「池上の魁春楼」
「そうだよ、その日、君の細君は、婆さんを伴れて、壮い馬の脚をくわえこんでいるところを、壮い奴にひどい目に逢わされて、困ってたから、吾輩が慰めに往ってやって、すまないがそれからだよ」
「そうか」
「判ったかね」
広栄は何も云わなかった。広巳は狂人のように室を飛びだした。飛びだすひょうしに体が障子に衝つかって大きな音をたてた。定七は驚いて広巳をつかまえようとしたが及ばなかった。広巳はそのまま庭へ飛びおりて庭の上へつらつらと眼をやった。楓の老木の近くにある高野槇の根方に、あの蛇がいて鎌首をもったてながら針のような赤い舌を出していた。
「くそ」
広巳の眼は脱沓の方へ往った。そこに庭下駄が一足揃えて置いてあった。広巳はそれを見ると脱沓の方へ往って、その下駄の片方を執るなり、蛇の処へ走って往っていきなり撲りつけた。
「あ」
それは定七の叫びであった。広巳は定七の声を聞くと一層力を得たように続けて蛇を撲った。蛇は紐を解いたようにそのままぐったりとなってしまった。
「くそ」
広巳は手にしていた下駄を投げ棄てるなり、その蛇の胴体をむずと掴んで客座敷の縁側の方へ走って往った。
「あれ、あ、若旦那」
定七ははらはらしていた。広巳の耳にはもう定七の声などは入らなかった。広巳は縁側へ駈けあがるなり、客座敷の障子をがらりと開けた。
室の中ではあの岡本と広栄がさしむかっていたが、魔鳥のように駈けこんで来た広巳に驚かされてきょときょとした。広巳は岡本をめがけて手にした蛇を投げつけた。
「これでも啖え」
蛇は岡本の顔へ当って畳の上へ落ちた。岡本の手は羽織の紐にかかった。
「乱暴するか」
「この破戸漢、ふざけやがるな、ここをどこだと思ってるのだ」
岡本は広巳を睨みつけた。
「へん、ここをどこだ」声をおとして、「ここは鮫洲のお大尽のお邸さ、お邸と知って、奥さまをもらいに来てるのだが、汝はなんだ」
「乃公か、乃公はこの家の者だが、汝こそなんだ、ふざけたことをしやがると、その蛇のように敲き殺すぞ」
広栄ははらはらとするばかりでどうすることもできなかった。定七が縁側から顔を出した。
「もし、もし、どうか、もし」
広巳は火のように怒っていた。
「やかましい、黙れ、乃公がこの破戸漢を敲き殺すんだ」岡本を睨みつけて、「野郎、出て往きやがれ、ぐずぐずすると敲き殺すぞ」
広巳は傍の唐金の火鉢に眼をつけた。広巳はいきなりそれに手をかけた。広栄がその手にすがりついた。
「広巳、そ、そんなことをしては、広巳」
「いけねえ」
岡本は羽織をぱっと後に放ねた。放ねると同時に背の方にまわして持っていた日本刀を執った。
「乱暴するか」
「なにを」
広巳は火鉢を持ちあげようとしたが、広栄が死力を出してしがみついているのであがらなかった。
「汝は、泪橋の下で、壮い奴をひどい目に逢わした奴だな」
「やかましいや、この破戸漢」
「破戸漢であろうと、なんであろうと、そんなことに用はない、ここな奥さんをもらって往けば、それでいい、痴なことをしないで、旦那にそう云って、奥さんを俺にくれるようにしてくれ」
「あんな腐った女は欲しくはないが、汝なんかに渡すものか、渡すようなら、首にして渡さあ」
「こりゃ面白い、首にして渡してくれるか、受けとろう、俺も、男の意地だ、こうなりゃ、首でも体でも、渡してもらわなくちゃ帰らない」
「なに」
広巳は火鉢をすてて床の方へ走った。床には刀架があって、広巳が記念の軍刀と日本刀が架けてあった。広巳は日本刀を引掴んで執り、すらりと脱きながら岡本の方を揮り向いた。
「女の首を渡す前に、まず汝の首を渡せ」
岡本は刀の柄に手をかけた。
「なにを」
定七が室の中へ飛びこんで来た。
「いけない、いけない、若旦那、そ、そんなことをしては、いけない、若旦那」
「なに、今日は、この家の邪魔をする妖魔を斬っちまうのだ」
「いけない、若旦那、あなたは」
定七は広巳のけんまくが荒いので傍へ寄ることができなかった。広巳は岡本の前へ出た。
「野郎」
岡本は同時に刀を脱いたが、広巳のけんまくに気をのまれて腰が浮いた。同時に広巳の刀が頭の上に閃いた。岡本は逃げ走った。
「逃がすものかい」
広巳は悪鬼のようになって追っかけた。定七も広栄もどうすることもできなかった。
「たいへんだ、たいへんだ、何人か来てくれ」
「広巳、広巳、そ、そんな」
「あれ、あれ」
「何人か来てくれ」
岡本は玄関の方へ逃げる隙がないので、奥との境になった襖を突き倒すように啓けて逃げた。
「くそ」
広巳も夢中であった。奥の室へ入った岡本は、今度は縁側の障子をこれも突き倒すように啓けて裏庭へ出た。裏庭には柿や梨の木が植わっていた。風はますます吹きつのって、その柿や梨の木を掻きまぜていた。
「くそ、逃がすか」
広巳を追って出た定七は、そこでも大声かけた。
「たいへんだ、たいへんだ、何人か早く来てくれ」
それと知って二人の婢も裏庭へ顔を出した。
「あれ、あれ、たいへん、たいへん」
「あれ、あれ」
岡本は果樹の間から出て土蔵の方へ走った。広巳はどこまでも追って往った。定七や婢が後から来て叫んだ。
その時右の端の土蔵の口が内から啓いて、お高と小厮の平吉がひょこりと出て来た。広巳の体はお高の前にあった。夢中になっている広巳の眼にもすぐお高の姿が映った。広巳はお高に走りかかった。
「この妖魔」
広巳の刀はきらりと閃いた。
「わっ」
お高は一声叫んだなりに倒れてしまった。広巳は倒れたお高の上にまた刀を揮った。
「よくもよくも、家に泥をぬりやがったな」
広巳は肩で呼吸をした。広巳の刀には血が赤く笑っていた。広巳はその刀を揮りまわしながら岡本を尋ねて走った。
「くそ」
広巳は定七に伴れられて家を出た。広巳も定七も黒の紋附羽織を被、袴を穿いて、何か儀式へでも臨む日のような姿をしていた。広巳が品川の警察へ自首して往くところであった。
風はますます強く雲も濃くなって、今にも雨が添いはしないかと思われるような天候になった。帽子を冠っている広巳は、その風のために時どき帽子を持って往かれそうになった。羽織の袖は靡き、袴の裾はまくれあがった。
広巳は蒼白い沈痛な顔をして黙々と歩いていた。定七は広巳の後を歩いていた。定七は広巳から眼をはなさなかった。二人は八幡祠の前を往っていた。
「おや、若旦那だ、ちょうどよかった、若旦那」
はすっぱな女の声がどこからか飛んで来た。広巳は重くるしい眼をやった。お鶴と品のある中年のな女がいた。お鶴は平生の調子であった。
「若旦那、どこへいらっしゃるのです」
広巳はお鶴の顔を見るばかりであった。
「若旦那、どうかなさったのですか、今日は奥さまのお伴をして、あなたにお眼にかかりに往くところよ」
定七は困ったが、お鶴といっしょにいる地位のありそうな女に気がねして何も云わなかった。広巳はやっぱり何も云わなかった。
「どうしたの、若旦那、私がこの間話した奥さまじゃありませんか」
広巳の眼はお鶴の傍にいる女へ往った。女はしとやかにおじぎをした。
「山田さま、暫くでございました、もう十五六年にもなりますから、お忘れになってらっしゃると思いますが、私は森山節でございます」
精神の混沌としている広巳にはものを考える力がなかった。広巳は痴のように女の顔を見た。お鶴がそれをもどかしがった。
「若旦那、思い出せないですか、何時も若旦那と遊んでいらした方ですよ、忘れたのですか、ここの八幡さまの中で、若旦那が諍闘してた時に、留めてくだされた方ですよ」
広巳の混沌としている気もちを揺りうごかすものがあった。広巳は女を見なおした。
「あ」
それは広巳の尋ねている海晏寺の前の榎の下で見た女であった。女は心もち顔をあからめていた。
「月の晩に、海晏寺の前でお眼にかかりました」
「ああ」
しかし、幼な朋友としての女は思い出せなかった。女は定七の方へ顔をやった。
「小父さん、海苔をつけていた新吉を御存じでしょうか」
定七はすぐ記憶を呼びおこした。
「そうだ、新吉の、それじゃ汝さんは、せつぼうだ」
女は莞とした。
「その節でございます、暫くでございました」
「どうも暫くだ、暫くだから、ゆっくり話もしたいが、今日はとりこみがあって、ゆっくりしていられない、明日でも、また」
「これは、どうも失礼いたしました、それでは、また、明日にでもあがります」
女はそう云ううちにも広巳の気配に注意していた。女は広巳をしっかりと見た。
「山田さま、それでは、また、明日でもお邪魔さしていただきます、それでは」
女はおじぎをしてお鶴を伴れて往ってしまった。定七は気をせいていた。
「それでは、若旦那、まいりましょう」
「うん」
二人は歩きだした。そして、海晏寺の前を通りすぎたところで、どこからか竹杖にすがった壮い男が、とんとん飛び歩きをしながら豪い勢で出て来た。それは長吉の甥の音蔵であった。音蔵の両手は血に染まっていた。音蔵の後から音蔵を追っかけるようにして四五人の者が来ていた。音蔵は揮りかえった。
「乃公は、警察へ往くのだ、邪魔しやがると、ついでにやっつけるぞ」
夜になって雨が降りだして珍らしい暴風雨になったが、その暴風雨の中で山田家のあの中央の蟻の塔のある土蔵が潰れた。
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社
1934(昭和9)年
※「三宝(さんぽう)」と「三宝(さんぼう)」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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