湯槽ゆぶねのなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる――。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場とうじばから、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉じろきちではなかった。
 素袷すあわせの肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻からそそった。
 ――で、無性むしょうに、あぶない世間が恋しくなって、有馬の槌屋つちやを立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった湯女ゆなのお仙が、彼の振分ふりわけを持って、坐頭谷まで送ってくれた。
「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」
 治郎吉がいうと、
「いえ、武庫川むこがわまで」
 と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。
「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」
「――だから、旅のお客は、たよりがない」
「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」
「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」
「じょ、じょうだんだろう」
「ほんとにさ! ね、治郎さん」
 人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉のあわせたもとを、ねじきるようにつかんだ。
「……ね、治郎さん」
「よせやい」
 胸へ、もってくる顔を、邪慳じゃけんにかかえて、
「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」
「わたし、行きたい」
「どこへ」
「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」
「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、けえンねえ」
いや! ……わたしは急に、帰るのが嫌になった。連れて行ってください、どこへでも」
「わからねえことを言っちゃ困る」
「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」
「そうはゆかねえ」
 嘆息ためいきのように言ったのである。
 ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。
 第一、相手の女にもよる。こう、後腹あとばらを痛めるほど、値うちのあるきりょうとは、惚れられている彼の眼にも踏めていなかった。
けえンねえってことよ」
 振分をもぎ取って、治郎吉は、先へ歩きだした。
 女は、黙って、武庫川の見えるまでいて来た。――ちッと、舌うちを鳴らしながら、
「お仙、どうしても、けえらねえのか」
「…………」
「おめえはまだ、おれの、ほんとの素姓を知らねえからそう慕ってくるんだ。実あ、おらあ江戸をずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも、他人ひとにいわねえ方がおめえのためだぜ」
「そんなことは、とうに、知っています」
 女は、驚きもしなかった。
「えっ、知ってる?」
「有馬へだって、何度、お役人や人相書が廻って来たか知れませんもの」
「ふーム」
「そのたびに、わたしだって、槌屋つちやの御亭主に、ずいぶん腹を探られていました。いちどなんか、自身番まで呼ばれて、たたかれたことだって、あるんです」
「じゃ、おれが、ぬすだということを承知のうえで」
「え。わたしは、惚れているんです。江戸をあらした鼠小僧の」
「しっ……」
 口軽い女の二の腕を、ふいに、男の指が突いた。ぞろぞろと、渡舟わたしを下りた旅人たちが河原から上って来たのである。治郎吉は、お仙のからだを、からだで押すように、足を早めて、
「――乗りねえ、ちょうど着いた、あの渡舟わたしへ」

 パチ、パチ、と音がする。中で、将棋しょうぎをやっているらしい。
「ははあ、此家ここだな」
 と、治郎吉は、立ちどまって、ひげの伸びたあごをなでた。
 太左衛門橋の河岸ぶちである。道頓堀川どうとんぼりがわを隔てて、芝居茶屋のお内緒の桐箪笥きりだんすや、赤い座ぶとんや、長火鉢がのぞかれる。秋の陽がからんと、明るくしているその家の土間障子には、大きな奴髷やっこまげと、そばに自雷也床じらいやどこと書いてあった。
「ごめんよ」
 がらりと開けて、棒立ちに、
「すぐ、やって貰えますか」
「お掛けなさいまし」
 下剃したぞりが、腰の掛け場を片づけて、
月代さかやきですか」
「なに、こいつあ、このままでいい。髯だけだ」
「おひとり様だけ、お待ちねがいます。ま、いっぷく、おけなすって」
 煙草盆を、そこへ出しておいて、下剃は、流し元で、青砥あおとをすえて、ごしごしと、剃刀かみそりぎはじめた。二階がやわなので、地震のように、家がうごく。
 治郎吉は、真鍮しんちゅうのべで、すぱりと、一服くゆらしながら、家のなかを見まわした。床屋といえば、江戸も上方かみがたも、似たりよったりなものだった。隅では、一組、将棋盤をかこんでいる。壁には、三座の絵番付やら、素人浄瑠璃しろうとじょうるりのビラなどが、辻便所ほど貼りつけてあって、そのまえに、油染みた桐の櫛箱くしばこや、びんだらいなどをすえつけて、今、一人の客の髪を結い上げているのが、親方の仁吉にきちらしかった。
 二十七、八の苦みばしった男である。胸から二の腕にかけて、がまはだのように、入墨のぼかしが見える。その背なかに彫ってある自雷也が通称になって、自雷也床の親方で通っている彼だった。
「……ちっとも、似ていねえな。腹ちがいにしても、兄妹きょうだいなら、どこか似ているところがありそうなもんだが」
 治郎吉の眼は、煙草たばこのけむりの中で、そう見ていた。湯女ゆなのお仙から、兄の仁吉が、太左衛門橋で、髪結床をしているということは有馬の逗留中に、度々聞いていたが、今日ここへ来たのは、伸びた髯を剃るだけの用事ではなかった。――※(二の字点、1-2-22)かたがた、彼女からすがられたある問題のかたをつけるためだったが、ほかの客がいては、ちょっと、話のぐあいが悪いのである。
 ま、髯でも剃っているうちに、ほかのてあいも帰るだろうと、腰をすえていると――
「お待たせいたしました」
 と、仁吉の眼が、はじめて、治郎吉をふり顧った。
「もう、私の番ですか。先のお客があるんでしょう、どうぞ」
「なに、旦那」
 と、仁吉は、銀歯をちらと見せて、
「あの通り、夢中なんですから……」
 と、将棋の一組をあごで指して、苦笑いをもらした。
「そうですか、じゃあ」
 と、へ腰を持ち上げて行ったものの、実は、治郎吉にとっては、後の方が都合がよかったのである。
 仁吉はもう、びんだらいの湯を代えて、下剃したぞりから剃刀かみそりをうけながら、
「旦那、江戸ですね」
「わかるかい」
「わかり過ぎまさあ」
「江戸の野郎はがさつだからね」
「なに、その歯切れのいいところですよ。上方の女が好くはずです。……何ですか、御見物かなにかで?」
「ま、そんなものさ。金比羅こんぴらから、有馬にすこしばかり落着いて、御多分にもれない、上り大名の下り乞食」
「そういう乞食になら、あっしも、たまにゃなってみたい。有馬では、どこへお泊りで」
 と、仁吉は、天井から、治郎吉の顔を見直していった。
 この緒口いとぐちに、お仙の話を匂わせてみようかと、治郎吉は、次のことばを喉まで出しかけたが、やっぱり、人がいては、まずい気がした。
 ――というのが、自分よりは、向うにとって、余り人聞きのいい懸合ではないからだった。お仙の話によると仁吉と彼女とは、腹ちがいの兄妹きょうだいで、この兄貴は、かなり、極道者で通っている男らしいのである。
 で、湯女奉公をしている彼女へも、常々、小銭の無心は珍しくなかったが、こんどは何かまとまったようがあるとかで、守口もりぐちの双葉屋という遊女屋から、お仙のからだを抵当かたに、百両ほど借りてしまった。――ついては、槌屋つちやから暇をとって早速帰って来いという話が来たために、治郎吉の立つ四、五日まえから、お仙は、眼をらしていた。
 気まぐれが、また、気まぐれを生んで、先はどうでも、こっちでは、さほどにも考えていない女を、つい、あのまま、この大坂まで連れて来てしまった治郎吉が、後で、こうと打ち明けられてみると、恋ばかりではない女の気もちに、その時は、ちょっと、興もさめたが、また、抛ってもおけない彼でもあった。
 ――よし。おれが、話してやろう。
 と、ちょうど伸びたひげだしに、それとなく、様子を見に来たわけだったが、仮に、相客がいないで、すぐ問題の話にかかったとしても、相手の仁吉は、ちょっと栂指おやゆびと人差指で、つまんで食うようなわけには行かない男だと彼はにらんだ。相当に、小悪党らしい小骨が歯にも、舌にも、かかりそうに思われた。
「――こんにちは。親方さん、元結もといはまだでございますか」
 そこへ、若い女の声がした。外の陽が、治郎吉の仰向いている顔へ映した。
 仁吉は、剃刀かみそりを止めて、
「あ、お喜乃きのさんか。待っていたんだ。――はいりな、そこを閉めて」
「まいど、有難うぞんじます」
「だいぶ、お世辞が、うまくなったな」
「いえ、まだちっとも、商売あきないに馴れませんで」
「さ、荷を下ろして、そこへ掛けな。馴れねえ商売ってものは、気づかれのするもんだ」と仁吉は、治郎吉との話をけろりと、忘れッ放して――「元結もきれたから貰いてえし、ほかにも、ちょっと話があるんだが、このお客様のすむまで、しばらく待ってくんな」
「はい。ごゆっくり」
 と、お喜乃は元結箱を下ろして、陽にあたって来たびんの汗を、そっと小菊紙こぎくで抑えていた。
 仁吉に、顔をまかせながら、治郎吉の眸は、眼の隅へ寄って、お喜乃の方へながれていた。――見ると、これはすばらしい、十九か、二十歳はたちくらい、単に、きりょうがいというばかりでなく、品がいい、髪の毛がいい、唇がいい、眼もとがいい。
 それに背や、肉づきまでが、治郎吉が描いて持っている好みにぴったりと来ている。彼は、とても、お仙の比じゃないと思った。
 ――どこの娘じゃろう。剃刀の刃が、ひげを、気もちよくとおってゆく音を聞きながら、そんなことを考えはじめた。
 ――この年ごろで、木綿帯は可哀そうだ。着物もそまつだし、安櫛やすぐしをさして、なりにもふりにも関心かまわないでいるところは、問うまでもなく、貧乏人だ。そして、床屋廻りの元結売りをしているという事はわかるが、根からの、裏店うらだな育ちとは、思われない。
 ――惜しいもんだ。
 と、治郎吉は考えるのだ。同時に、有馬の気まぐれが、よけいに馬鹿らしくもなるし、一歩まちがえば、あぶない体でこんな所へ、お仙から頼まれて来たことも、軽い後悔になって来た。
「おらあ、止めた……」
 肚のなかで、治郎吉は、呟いた。
「お待ち遠さまで」
 と、仁吉は剃り上げた剃刀の毛を、指でしごいて、
「松、洗い水を」
 と、下剃したぞり吩咐いいつけた。
 だが、すっぺりと剃り上がった顔を撫でて立ったとたんに、治郎吉のするどい感覚が、ぎょッとして、うしろへ走った。
 店と奥との、中仕切なかじきり内緒暖簾ないしょのれんが、彼の眼が走ると共にうごいていた。そして、その暖簾の下に細かい茶縞の着物の裾と、塗鞘ぬりざやの大小のこじりが、ちらと見えて、すぐ消えた。
「おっと、下剃さん。どうせ、風呂へゆくから、洗い水にゃ、及ばねえよ」
 抛るように、髪結銭をおくと、治郎吉は、われながら、慌てすぎると思いながら、さっと、土間障子をはやく開けて、往来へ、出てしまった。

 二度も三度も、彼はうしろを振り顧りながら走った。往来の人の声が、みんな、鼠小僧、鼠小僧と、指さすように、思われた。
 わざと、道頓堀の人混みへはいって、細い路地から千日原まで抜けて来た。そして、はじめて、豆絞まめしぼりをつかんで、わきしたの汗を拭きながら、
「ああ、びっくりした」
 と、呟いた。
 歯磨き売りや、古着屋や、野天にいろいろな露店が出ていた。治郎吉の眼は、まだ落着かずに、そんなものにまで、気をくばりながら、草むらへ、手拭を敷いて、両膝を抱えこんだ。
「はてな……」
 来たら――と脇差の鯉口こいぐちを切って、逃げる先の先まで、微細な工夫をしていたが、こう見まわしたところでは、ひとりとして自分へ向って光って来る眼はなかった。岡ッ引くさい者も、捕手くさい人間も通りはしなかった。
「こいつあ、大笑いだ」
 治郎吉は、自分へわらった。
「ふた月も、稼ぎを忘れて、燗徳利かんどくりみてえに、湯にばかりつかっていたせいか、俺も、すこし焼きが戻ったよ。……だが、驚くのも無理はねえ。床屋の奥に、紺足袋こんたびで、茶縞の侍と来た日にゃ、誰だって、すねに傷のあるやつなら、奉行所風と思うのは当りめえだ」
 しかし、それはまったく、勘違いだと彼にも分った。治郎吉は、自分の早合点がおかしくなると共に、あの侍は、何者だろうと考えた。居候にしては、刀が上物すぎるし、着物も渋い。床屋の客にしては、奥にいるというのが変だ。
 それと、彼は何よりも、お喜乃という、あの元結売りの娘が眼に残った。お喜乃と、茶縞の侍と、自雷也の入墨とをむすびつけて、考えた。なにかそこにあるような気がしてならなかった。
 ちょっと、あきらめきれない気がする。お喜乃の住居すまいだけでも知りたい気がするのである。これも、彼の持ち前な気まぐれの一つかも知れないけれど、今まで経てきた女へ対するものでは、もっとも、根強い気まぐれに違いなかった。
「ごめんよ」
 彼はまた、とある床屋へはいって行った。床屋の男は、治郎吉の剃ったばかりな青い髯痕をながめて、ふしぎそうな顔をした。
「――なにか、御用ですか」
「てまえは、江戸のもんですが」
「ああそうか」
 と、床屋は、草鞋銭わらじせんを鼻紙につつみかけた。
「待っとくんなさい。あっしゃあ、渡り職人じゃありません。実あ、知り人を尋ねて来たんですが、その人の娘が、床屋廻りの元結売りをしていると聞いたんですが、もしや所を御存じじゃありますめえか」
「ヘエ、何ていうんですか」
「若い女で、お喜乃さんというんですが」
「お喜乃さんなら、天王寺裏のお鉄漿はぐろ長屋に住んでいる、感心な娘さんだ。何でも親父さんは、御浪人だということを聞いていました」
「そうそう、それに違いねえ。いや、大きに有難う」
 すっぱりと、こだわりのれたように、治郎吉は宿へ帰りだした。旅宿はたごは北久太郎町の鈴木屋、お仙といっしょに、そこの裏二階に、十日あまり泊っていた。
 裏二階の下は東堀。思案橋を隔てて、川向うはすぐに、西奉行所だった。女とふざけながら、治郎吉はそこからよく奉行所の屋根にとまっている鴉を見ていた。
「おや、お帰り」
 お仙は、風呂から上がって、こっそりと、厚化粧をしていた。膳も来ていた。長火鉢もきれいに、すっかり、女房気どりである。
「兄さんはいましたか」
「いたよ」
「話は」
「止めにした」と、あぐらをくんで、「仁吉はいたが、少し考え直して、おめえの話は、出さずにしまった。なあに、抛っときゃあいい」
「よかあないんですよ。こうといったら、どんなことをしても、きっとを通す兄なんですから。その話のかたがつかないうちは、恐くって、私は、外へも出られない」
「べら棒め。三都はおろか田舎いなか城下にまで、人相書の廻っているこの治郎吉ですらこうして、真っ昼間、大手を振って歩いて来らあ。……なんだ、多寡たかの知れた」
 お仙はちょっと、暗鬱あんうつになった。
 治郎吉は、膳の盃にも手が出なかった。窓の肱掛ひじかけへもたれて、女の憂鬱を慰める責任も感じないように、思案橋の往来をながめていた。
 お仙は、いきなり、ヒステリックに男の膝に寄って、
「治郎吉さん」
「よせ。泣いてばかりいやがる」
「だって……だって……一日増しにおまえさんが、私に冷たくなって行くんだもの」
「へえ、いつおれが、おめえに熱かったことがある? 俺は、初めからこの通りだ」
「いいえ、違って来ています。このごろはもう、前みたいな、優しいことばなんか、薬にしたくも……」
「おいおい、てめえは一人で、何か、夢を見ているんじゃねえか。何も俺が誘拐かどわかしたわけじゃあるめえし、嫌なら、いつでも帰るがいいぜ」
「その口が、私は、私は、口惜しい」
「何……てやんで」
 治郎吉は、突っ放して、ことさら、きりのようなことばで、
「てめえは、熱病にかかっている。のべつ、あぶねえ風をくぐって、世間の裏をあるいているお尋ねもんが、いちいち、ねちねち、色恋にしろ、かえしちゃいられるもんけえ、飽いたら、別れるまでのことよ」
 窓がまちに、頬杖をのせて、東堀の水に、眼を落した。西奉行所の黒い屋根に、きょうも夕鴉が啼いていた。
鴉啼からすなきが悪い……」
 その時、ふすまが開いた。
「まいにち御退屈様で」
「あ、番頭さんか」と、ちょっと、膝を直して――「勘定だろう」
 と、先手を打った。
「へ。毎度うるさく申し上げて恐れ入りますが、帳場の方で、いちど、お極りをつけて戴きたいと申しますんで」
「あ、いいとも。だがきょうは少し都合がわるい。知り人の家をたずねたところが、生憎あいにくと留守でな」
「それでは明日あすには、ぜひともひとつ」
くどくいいなさんな」
 客の顔いろを、さとく見て、
「今夜は、お酒は」
「お、膳が来ていたのか。酒はいらねえ。宿屋の飯にも飽きたから、たまにゃ外で、何か美味いものでも拾い食いしてみたい」
 番頭がもどるとすぐ、治郎吉は、一枚かんばんの素袷すあわせを着直して、きゅっと、帯を鳴らした。
「お仙、行って来るぜ。不味まずかろうが、飯はひとりで食ってくんな」
「どこへ」
 と、彼女の眼には不安があった。
「どこったって、べら棒め、白浪しらなみの行く先がいえるもんけ」
 とん、とん、とん、と梯子はしごを下りて行った。

「――秋だよ。治郎吉が金にあがるなんてこたあ、近年珍しい秋かぜだ」
 と、治郎吉は、自分のふところの空虚をわらいながら、あてもなく、宵を歩いた。
 今夜のうちに、その工面を、どうかしなければ、旅籠はたごからぼろの出るおそれがある。――だが、いくら詰っても、江戸の鼠が、上方でケチな仕事をしたとは人にいわれたくない。
 女に気まぐれで、仕事に見栄坊な治郎吉だった。彼が好んで、大名の屋敷にはいるのは土蔵の現金と、閨房ねやの上淫がのぞかれるからであった。武家、旗本の屋敷を選んでいるのは、比較的そういう階級の方が、町家の家庭よりは、生活がみだれているし、権門をたのんで、かえって彼等に、不用心が多いからである。
 何かそれを、武家階級に反抗する特殊な思想的泥棒のように、ふしぎと、世間の人気は盗まれた方へ寄らないで、盗む鼠の方を礼讚しはじめたので、治郎吉はすっかり、自分の職業に信仰をもってしまった。女と、ばくちのつかい残りを、貧民街に少しばかりくと、たちまち、義賊という名が、鼠の肩書に、位階のように名づけられても来るし……。
 だが、その江戸を食い詰めて上方落ちを極めてからは、華やかな悪運も、そういう目ばかりは出なかった。人相書こそ廻っているが、江戸で仕事をするほど、反響はない。鼠の人気も、無論なかった。
 なければこそ、悠々と、宵の町を、ふところ手で歩けるのだけれども、それもまた、治郎吉には淋しかった。
 彼の特徴のある草履の音は、ぴた、ぴたと何時のまにか、辻行燈つじあんどんの灯よりしかない屋敷町を歩いていた。
 ふと「洗心洞塾舎せんしんどうじゅくしゃ」という看板が眼についた。
「洗心洞」
 聞いたような名である。
「あ、そうか。有名なる大塩中斎ちゅうさいの屋敷だな。するとこの辺りは、与力町と見える」
 歩いているうちに、同じ程度の構えの、とある屋敷へ、新町と書いた提灯ちょうちんをつけた駕籠が、三挺、横づけになって、くぐりの中へ、人影を送りこんだのを、治郎吉は、物蔭から見ていた。
 一ちょうには、仲居なかいか、芸子か、とにかく送って来た女らしいのが、門にははいらずに、見届けて、そのまま空駕籠といっしょに、引っ返して行った。
「よし、仕事は、あの屋敷と極まった」
 治郎吉は、呟いた。――主人が遊里から遊び疲れて帰った家などは、彼にとって、またとない仕事場だった。そういう屋敷へはいって、失敗した例はほとんどない。
 草履をたたんで、腹巻と帯のあいだへ。そして、彼は、ぽんと、塀の見越みこしへ跳び乗った。――後は、音もしない。
 中で、ゆっくりと寝こみを待つ考えなのである。
 泉水がある、築山つきやまがある。庭は、松が多い。かなり清楚せいそな、そしてひろい庭である。
 屋敷のひろい割あいに、女気は乏しいらしい。くりや、風呂場、座敷、どうもそういう匂いがする。治郎吉は、すっかり夜更よふけの成算を立てて、奥の書院らしい、一間だけ灯のともっている座敷の縁下に、屈みこんでいた。
「ウ……聞いた声だ」
 彼は、すぐ感じた。――それも生々しい記憶だ。
 その男が座敷のうちで、いうのである。
「――旦那、もし、重松しげまつ様。うたた寝をなすっちゃ困るじゃございませんか。ここはもう新町じゃございませんぜ。夜が更けますから仁吉も、お暇をいたします」
「……なんじゃ、帰る?」
 これは酔っている。ひどく、ろれつが廻らない。
「仁吉」
「へい」
「帰ってはならん。ならんぞ」
「だって、旦那」
「ならんと申すに。女は、いかがいたした。女を連れて来い。女を」
「仲居は、御門前まで送って来て、もう帰りましたんで」
「あんなすべたではない。お喜乃をどうしたというんじゃ」
「どうも、弱りましたなあ」
「なにが弱る。そちが、たしかに、ひきうけておるのではないか。――連れて来い」
「でも、先は何しろ、素人しろうとですから、そう御短気に仰っしゃっても」
「たわけが!」
 起き直ったらしい。体の大きな侍とみえて、治郎吉のまげに、床の塵が落ちた。
「昼間なんといった。今夜のうちには、何とかすると申したではないか。先の娘へ百金、そちの礼に二十金、金もたしかに受け取ったであろうが」
「ま、旦那、そう筋を立っちゃ困ります。金はたしかに、夕刻、お喜乃の家へ行って渡しましたが、何しろ、うぶでさ、恥かしくて、茶屋へなんざ、行かれないというんです……そうした女の気もちも、少しゃ、考えてやっておくんなさいな」
「だから、ここへ連れて来いというのだ」
「もう何しろ、遅うございます。それに、彼女あれの親爺が長わずらいで、床についているところですから、もう四、五日のところ、折を見てやって下さいまし。きっと、仁吉が、腕にかけても、嫌たあ、いわせません」
「きっとか」
「あれだ……。旦那ときたひにゃ、まったく邪推じゃすいぶけえんだから」
「よし。では、日限三日かぎりだぞ」
「これや、きびしい。そのかわりに旦那、あの方もひとつ、ぜひ、お願いいたします」
「なんだ、あの方とは」
「お忘れなすっちゃ困りますぜ」
「ム。町役の株か」
「へい。旦那のさしがねで、十手預じってあずかりにして戴ければ、これから先、どんなことにも、お尽しができるだろうと思いますんで」
「そんなに十手が持ちたいのか」
「町内で、幅がききますからね」
「何とかしてやる。しかし、お喜乃をはやくどうかしろ」
「よほど、お気に召したとみえますね」
「ちょっといいぞ」
「ちょっとですか」
「うるさい。帰れ」
「やっとお暇が出た。――じゃ明晩にでもまた、お喜乃の家へ行ってみますから、その返辞次第で、お伺いいたします」
 自雷也床の仁吉だった。こういって、彼が帰ってゆくと、間もなく、寝所へ、召使が出はいりして、雨戸が閉まった。
 それから、一刻いっときばかり間をおいて、治郎吉は仕事にかかった。彼の通ったあとには、足跡もなかった。大工が建具をいじるように、楽に戸を外して、後まで、きちんと、閉めて出て行った。
 旅館やどへ帰るには、遅すぎるし、歩いて時をつぶすには、早すぎた。治郎吉は、手拭にくるんだ重い金を、ふところ手で、へその上に抑えながら、天満河岸をぶらついて、川の中をのぞいて歩いた。
「ちょいと……ちょいと……お兄さん」
 橋の下から、石垣の蔭から、時々なまめかしい鼠鳴ねずみなきが聞える。白い、手が招く。
 船まんじゅう、という、売女たちである。――治郎吉は、その一艘いっそうとまの中に隠れた。そして興味も、素ッ気もない、女を買って、とうとう川波に夢を揺られながら、お喜乃の顔を描いていた。

 ちょうど、昨日きのうと同じ黄昏たそがれごろ、治郎吉はまた、宿の鈴木屋に、お仙と夕飯の膳をのこして、出かけて行った。
 今朝、あいみじんのあわせえりに、白粉っぽい物がついていたので、お仙は、一日ふさいでいた。男が、軽くあしらえばあしらうほど、女はれて、粘って、そして、錯覚に疲れた。
「こんな男だよ、俺は」
 ――出がけに、治郎吉がいった。
「いつまで、付いていたって、面白くもあるめえ、火鉢の抽斗ひきだしに百両入れておいたからそいつを、兄貴にくれてやって、有馬へ帰るとも、身の振り方をつけるとも、いいようにしたらどうだ」
 外に出ると、彼はすぐに、辻駕籠を呼んだ。
「――やってくれ、にぎやかな所まで」
 法善寺横丁で、いっぱい飲んで、治郎吉はすっかりいい気もち……。
 道頓堀の人混みを縫う。
 それからまた、ぶらぶらと、天王寺まで歩いて行った。お鉄漿はぐろ長屋というのを聞いてその路地をのぞいてから、少し、酔がさめ加減だった。
 暗い、狭い、どぶ板をふんではいると、突き当りに、やぶがあった。藪に添って、また長屋がある。
「ここだな」
 かどの竹窓から、そっと覗いてみると、奥に病人の寝床が見えた。すすけた行燈あんどんのわきに、自雷也床で見たあの娘が、枕元に、しょんぼりと、袂を噛んで、俯向うつむいている。
「……あ。来ていやがる」
 治郎吉が、そう見たのは、うしろ向きに坐り込んでいる客だった。ゆうべも、声を聞いた床屋の仁吉にちがいなかった。
「どうだね、お喜乃さん。くどいたようだが、決して、悪いこたあすすめねえから、とにかく四、五日お屋敷へ、勤めてみちゃあどうだい」
 仁吉は、しきりと、雄弁をふるっていた。その話の内容がどんなものかは、治郎吉には分りすぎていた。
 お喜乃は、病人をはばかるように、
「親方さん、もうその話なら、なんど伺っても同じですから」
「嫌かい、やっぱり」
「いくら先様が、立派な武家様でも、妾奉公などということは、父が承知するはずもございませんし、私も、死んでも……」
「おっと、待ちな。……だが、俺がちらと聞いた噂によると、おめえは、何かまとまった金の要り用があって、新町の紅梅から芸妓げいこに出るという話じゃねえか。芸妓になるがいいか、与力衆の重松しげまつ左次兵衛様のお世話になるのがいいか、それくらいなこたあ、比較くらべてみたって、分りそうなもんだが」
「ま……誰にそんなことを、聞きましたか」
「それや、おめえの世話をしようという以上、身許から内輪のことまで、すっかり調べねえでどうするものか。紅梅から百両借りる約束をしたろう」
「親方さん、まだ病人には、聞かせてないんですから……」
 と拝むように声を制す手へ仁吉は、五両の封金をにぎらせて、
「旦那からだ、いいかい」
「あら、いけません、こんなものを」
「取っておきねえな、折角、支度金にくれたものを」
「いけません、いけません」
「とにかく預けておく」
 と、仁吉はもう、下駄をはいていた。
「――あれ、親方さん」
 と、お喜乃は、あわてて、金を持って外へ出て来た。どぶ板を踏み鳴らして、往来まで追い駈けて行った。
「甘い手だ」
 と、治郎吉は、暗がりから見送って、すぐその眼を、竹窓のあいだから、じっと、家の中へしのび入れた。
 病人は、がれいのように平たくなって、昏睡こんすいしていた。枕元には、せんぐすりも見えない。うす寒い空気と壁があるだけで、台所にも、一粒の米粒すらなさそうである。
 豆絞りの手拭から、ころりと、百両包を二つ出して、竹窓のあいだから、手をさし入れて、小壁の下に置いた。そして治郎吉は、路地を出て来た。
「……あっ、ごめんなさいまし」
 暗かった。
 それに、お喜乃は、うろたえてもいたし……。
 どんと、治郎吉の胸にぶつかったはずみに、手に持っていた封金を溝板どぶいたのうえに落した。治郎吉は、拾い取って、
「これだろう」
 と、渡してやった。
「有難うぞんじます」
「病人があったり、悪い親切にかれたり、おまえさんも、たいていじゃありませんね」
「え?」
 と、眸をこらして、
「どなたでございますか」
「ちっとばかり、お前さんを、知ってるものさ」
「どなた様でしょう、思い出せませんが」
「いつぞや、自雷也床で」
「あ、あの時の」
「よけいな差し出口をするようだが、その金は、つかっちゃいけねえ」
「え、今も、追いかけて行って、お返ししようと思ったんですけど、もう姿が見えないんです」
「あっしが、その金は、彼奴あいつに返して上げましょう。また、どんな金の要り用があるのか知らねえが、芸妓げいこに出るなんて、まずい智慧も思い直した方がようがすぜ」
「ご親切に」
 と、お喜乃はもう涙ぐんでいる。
 いかに、温かさに、飢えているかがわかる。治郎吉は、もっと、もっと、優しいことばを与えたかったが、何だか、お仙や、売女にいうように、すらすらとことばが出なかった。
「どうしてそんなに金が要るんだね。病人の薬代にしちゃ、すこし、多寡たかが大きいが」
「すこし、事情わけがございまして」
「あの大病人をおいて、芸妓に出ようという決心をするくらいだから、よくよくだろうとは察しるが」
「実は、父が浪人したもとの御主人様へ、年に八十金ずつ御返済するお金があるのでございます」
「もとの主人へ返す金なんか、浪人した以上は、どうでもいいじゃありませんか」
「そうは行かないお金なんです。父の落度のために、その旗本の御主人も、御番頭ごばんがしらやら同役のお方たちから、千何百両という大金を立て替えていただいて、一時、公儀のお帳面の表を埋めてあるのでございますから」
「じゃ、おまえさんたちは、江戸にいたのかい」
「丹後町の、脇坂佐内わきざかさない様というお旗本の用人を勤めておりました」
「で、その主人が、公儀のお納戸金か何かを遊びに、つかいこんだというわけだね」
「いいえ、脇坂様は、御普請ごふしん方をしておりますところから、永代橋のおえに、職人達へ支払う公金を、たった一晩、お屋敷の土蔵にとめておいたのが間違いだったのです。どうしてそれを知ったものか、その晩、鼠小僧という賊がはいって、盗まれてしまったのでございます」
「ヘエ……」
 治郎吉は、寒くなった。
「鼠小僧?」
「すごい泥棒だそうで、父が、寝ずの番をしていたのに、千両あまりの金を盗んで行くのに、音もしなかったと申します」
「……ふうむ」
「つまらない愚痴を申しあげました」
「だが、年に八十両ずつ返しても、十年以上かかる。これから先、どうするつもりだい」
「父が丈夫なうちは、堂島どうじまへ出て、米商こめあきないをしていましたが、それも、相場に焦心あせって、資本もとも子も失くしたうえ、あの重病でございますから、これから先は、私が、芸妓にでもなって一心に、働けるだけ働くつもりでございます」
「じょ、じょうだんいっちゃ、いけねえ」
 と、お喜乃の世間知らずに呆れたが、決してわらにはなれなかった。
「芸妓をして、千両稼ぐうちには、おまえさんがばばあになる。――ま、とにかく、家へけえって考えなせえ。そして、この金は、さっきいったとおり、俺の手から、先へ、返してやろう」
「でも、他人ひと様の手からでは」
「おれを、疑うのかい」
「そんなことはございませんが」
「じゃ、心配しねえで、預けなせえ。こう見えても――」と、いいかけたが、治郎吉は気がさして、きれいなことがいえなかった。
 寒い。いやに、背すじが寒い。
 往来を斜めに切って、向う側から、振り顧ると、路地のかどに、白い顔が、まだ立っていた。

 窓の戸を閉めようとした時、お喜乃の足の指に、二包ふたつつみの金が触った。
 びっくりして、唇のいろが変った。二百両である。――誰が? と胸がわくわくした。
「ああ、きっと、先刻さっきの人が……」
 と、思わず心のうちで拝んだ。何となく、さっきの言葉にも、情があった。父を起して話そうかと、昂奮した気もちにもなったが、病人の寝顔を見て、黙って、棚のうえに乗せて、眠りについた。
 彼女はいつまでも寝られなかった。路地の暗がりで見た男のすがたと、二包の金が、眼について寝られなかった。そのうちに、頭が思案につかれて、眠りに落ちた。
 ――もう明け方。
 何か、冷たい手にでも撫でられたような気がして、ふと、眼をあけると、うつつな、渋い網膜もうまくに、大きな人影が映った。しぼりの手拭で、頬冠ほおかむりをして、壁の下を、這ってゆくのであった。
「おやっ?」
 夢中で、彼女が、ふとんを退けたとたんに、男は、ぬっと立って、裏口へ飛び出そうとした。だが、そのはずみに、病人の枕に蹴躓けつまずいたので、気丈な、彼女の父は、自分の病体をも忘れて、
「誰だッ」
 と、賊の片足をつかんだ。
 いきなり、青い針金のような光が、賊の手元から走ったと思うと、ばすッと、生れてから聞いたことのない異様な音が、お喜乃の耳をった。
「あっ! ……お父さん」
 飛びついて、無我夢中に抱えこんだ時には、もう、父に呼吸いきはなかった。ぬるい、むずかゆい、虫のように生きてる液体が、どこからともなく噴き出して、彼女の手に、膝に、ふとんに、気の遠くなるほど溢れた。
「血だッ」
 彼女は死骸と共に、倒れながら、初めて大きな声でさけんだ。
「――来てくださいッ。御近所の方。父が殺されました。父がッ……父が」
 血のなかに、お喜乃は、泣き転んでいた。
 そして、夜が明けてみると、二包の金はなかった。
      ×   ×   ×
「金が子を生む? 金が子を生んだ」
 店を、下剃したぞりの松にまかせて、仁吉は、独りで二階に上がっていた。
 両方の掌に、百両包を、一つずつ乗せて腹ン這いに寝ころびながら、猫がまりもてあそぶように、
「ふしぎだ、金が子を生んだ」
 と、呟いている。
「たしかに、一包の金が半夜のうちに二包に化けていやがるから、ちょっと、呆れてものがいえねえ」
 包のこばを、歯で破って小判の山吹色をのぞいたり、目量めかたを手で計ってみたり、独りで、首をかしげ、錯覚を起し、そして、妙な幸運さに、陶酔をしている。
 ぎしっと、梯子に跫音がしたので、彼は、あわてて、金を、欄間らんまがくのうらへ隠した。
「誰だッ」
 妙に、尖って云った。
 ――と、消え入るような声で、
「わたし」
「わたし? ……あ。お仙じゃねえか、てめえは」
「兄さん」
 お仙は、間がわるそうに、そして力のない肩を落して、そこへ坐った。
「……こんにちは」
「どうしたんだ、お仙。すっかり痩せこけてしまって、見違えるようだ。槌屋つちやでも大変な騒ぎをしたらしい。おれも、心配していたところだ」
「有馬から、何か、いって来ましたか」
「あたりめえだ。送って行ったまま、旅の客といっしょに逃げてしまったんだというじゃねえか。とんだ浮気をしやがって、男に捨てられて来たんだろう」
「兄さん、私が逃げたのは、それだけの理由わけじゃありませんよ。おまえだって、あまりじゃないか。人の身体を何だと思ってるのさ」
「む、守口へ、おめえを身売りの一件か。……実あ、その事なら、少しほかで工面ができたから、まあ当分は間に合うよ」
「当分は間にあっても、お金につまるたんびに、私の身体をあてにされていちゃたまらないよ。――きょうは、その入り用の百両を上げますから、これッり、兄妹きょうだいの縁を切ってくださいね」
「なに、百両持って来た?」
「え。縁切り金」
 と、お仙は、帯のあいだから、それを出して、
「切る? 切らない?」
「べら棒め、兄妹きょうだいの縁なんざ、望みとあれやいつでも切ってやらあ」
「じゃ、くれてやるから、これっ限りだよ」
 ぽんと投げて、それでも、涙でいっぱいになった眼をそむけながら、梯子段を下りて行こうとすると、
「やい。お仙、ちょっと待てよ」
「なあに?」
「てめえ、この金を、どこから持って来たんだ」
 そういった仁吉のは、落せば爆発する火薬玉でも乗せたように、百両の封金をふたつの手に持って、のみの顔を調べるような眼で、封の目や、紙の手摺てずれなどを、じっと見つめていた。
「どこから持って来たッてんだよ、この金を。――ま、ちょっとそこへ坐れ。訊かねえうちは、受けとれねえ」
 お仙は、坐り直して、
「貰ったのさ。世の中にゃ、妹の体を食い物にする鬼ばかりはいないからね」
「誰に貰った」
「お客ときまっているじゃないか」
「というと、てめえと、ずらかった相手の男だな」
「そうよ」
「おかしいなあ……」と腕をんで、じっとお仙をするどく睨みながら、「もしや、てめえは、その男に何かふくませて、俺の家へ、様子を見させによこした事がありゃあしねえか」
「あったかも知れない」
「畜生」
 仁吉はいきなり、用箪笥ようだんすにとびついて、がたがたと抽斗ひきだしを鳴らして、四ツに畳んだ人相書をそこへひろげた。
「お仙、てめえの男は、こいつだろう」
「…………」
 お仙の眼は、兇状廻しの人相書へ、惚々ほれぼれと吸われていた。胸のなかには、すぐその男の声や、冷たさや、強さや、いろいろな感情が脈をってひびいてくる。
「これだな! よし、分った」
 と、妹の顔いろを読んで、
「てめえ、帰ると承知しねえぞ、禁足だ」
「縁を切ったおまえから、足止めをされるおぼえはない」
「ばかッ」
 いきなり、立ちかける腰をさすって、
「こいつ、どうかしていやがる。盗ッ人に惚れるやつがあるか」
「大きなお世話じゃないか」
「降ろさねえぞ、この梯子段から」
「帰りますよ、御勝手に」
「松ッ」
 と、下へ怒鳴った。
「――手を貸せ。はやく上がって来い。この色情狂をふん縛って、押入のなかへつないでおくんだ」

「二階の雨戸を閉めておけ。可哀そうだなんて思っちゃいけねえぞ」
 下剃の松に吩咐いいつけると、仁吉は、ひどく忙しい用事でもあるように、出て行った。
 間もなく、彼のすがたが、天王寺裏の路地へはいって行った。長屋の人たちが、口もきかずに、出はいりする様子や、近所の囁きなどを不審そうに見廻しながら、お喜乃の家の門に立って、
「おやっ。何かあったんですか」
 と、首を突っこんだ。
 奥には、七、八人、長屋の者が集まって、畳を代えたり、仏事の道具をならべていた。
「あ、自雷也床の親方ですか」
「お喜乃さんは」
「おります」
「一体、どうしたんで」
 そろそろと、上がり込みながら、
「じゃ、昨夜ゆうべのうちに、御病人の容態でも変ったんですか」
「なに、それならまだ諦めようもございますが……」と、長屋の人々は、沈鬱ちんうつに、ひとしく首を垂れて、
「可哀そうに、こんな家へ、泥棒がはいって、斬られなすったんでございます」
「えっ、親父さんが」
「はい」
「ほ、ほんとですか」
「お喜乃坊が、かあいそうでござんす。な、なんていう、運の悪いでしょう」
 粛然として、みんな嗚咽おえつした。――仁吉も、拳を膝に突っ張って、眼をしばたたきながら、
「そうですか――」と、息をふかくついて、「するってえと、ゆうべ、あっしが帰った後ですね」
「もう明け方に近かったそうです」
「ふてえやつだ。病人を斬り殺すなんて、憎んでも憎み足りねえ畜生だ。……ああ、だが考えてみると、その種は、あっしがいたようなものだ。実あ、皆さんの前ですが、ふだんからお喜乃さんの心ばえに感服して、さるお武家から、大金を戴いてやったんです。それをゆうべ届けたんで、盗ッ人のやつに見込まれたのかも知れねえ」
「長屋中で、どうにかして上げるつもりではおりますが、何しろ、幾ら寄っても、貧乏人と貧乏人、お寺への心づけさえないんでしてね」
「心配しなさんな」
 すぐ財布を解いて――
「一両と、小粒を少しばかり持ち合わせていますから、これで万端」
「あ、親方さん……」
 棺桶のまえに泣き伏していたお喜乃が、あわてて、それを押しやって、
「もう、そんな御心配は」
「お喜乃さん、飛んだことだったなあ。おめえの心のうちは察しる」と、ほろりと声を落して、
「だが、力を落しなさんなよ。及ばずながら、後々は、どうにでも、相談相手になってあげる」
「ほんとに、御親切な親方だ」
 と、長屋の人々は、いいはやすように――
「どうぞよろしくお願いいたします」
「ご検視は」
「はい、今し方、すみました」
「何か、泥棒の、証跡になるような物は」
「窓の外に、手拭が一本落ちていただけだそうで」
「え、手拭」と、思わずふところへ動きそうな手を、膝へつき直して、
「どんな手拭が?」
豆絞まめしぼりの」
 ほっとしたように、
「それっりじゃ大した手懸りにもなるまい。ことによると、こいつも、鼠小僧の仕業しわざかも知れませんぜ」
「鼠小僧というのは」
「江戸を荒した大泥棒で、なんでも近頃は、上方へ立ち廻っているという評判だ。方々の橋袂にも、この二、三日、人相書が出ているはずだが」
「あ、そういえば、いろんな噂がありますね」
「とにかく、後々まで、御相談になりますから、ここのところは、諸事よろしく皆さんにお願い申します。ちょうどきょうは、町方の用向きをもって、西与力の重松左次兵衛様のお屋敷まで伺うことがあって、先を急ぎますから」
 と、下駄をはきかけて――
「お目にかかったついでに、重松様に、一日も早く下手人がげられるように、よくあっしからも頼んでおこう」
 路地を出ると、仁吉はあたふたと急ぎ出した。駕籠をとばして、その足で、与力町の重松左次兵衛を訪ねた。
「旦那、ひょんなことが持ち上がりましたぜ」
 左次兵衛は、暗鬱あんうつな顔をして、脇息きょうそくから、庭を見ていた。
「なんだ、ひょんなこととは」
「お喜乃の親父が殺されたんで」
「殺された。――病人のはずじゃないか」
「押込みに斬られたんです。ゆうべ無理に百両置いて来たのが、かえって仇になっちまいました。――だが、親切の効き目は、こういう時じゃねえでしょうか」
「もう百両出せというのか」
「何しろ、盗まれちまったんで」
「ない」
 と噛んで吐くように、
「月でも変って、蔵米でも払わなければ、拙者も、一文もない」
 ひどく不機嫌な顔いろに、仁吉は、口をつぐんで、
「へ……」
 と、頭を下げた。
「恥をいわねば分らんが、実は、拙者も、盗賊に遭って、文庫の金を悉皆しっかいさらわれてしまった」
「えっ、お屋敷へも」
「む。貴様に送られて帰った晩だ」
「旦那、あっしじゃありませんぜ」
「誰がそちだといった。――何しろ当惑している」
「それや御災難でございましたね。下手人の見当はついているんですか」
「分らん。雑巾ぞうきんで拭いて行ったようだ」
「――じゃ、どうしましょう、お喜乃の方は」
「どうとは?」
「ここんところで、もう一度、金をやるかやらないかの思案で」
「金をやらずに、お喜乃を手に入れる工夫をしろ。来月になれば、どうかなろうが」
「じゃ、やっぱり、新町へ突っ転ばすに限りますね。――ム、そいつに限る、いったん芸妓げいこに出れや、あとは、本人の意志よりは、金次第、取り巻き次第というわけになりますから」
「何とかいたせ、何とか」
ほうっておいても、そうなるでしょうが、後始末のつき次第に、ひとつ、責めてを変えてみましょう」
「貴様、案外、役に立たんな」
「恐れ入りました。きょうは、御機嫌がわるいようで」
「飲もう、一つ」
 また、新町へであった。自暴やけやん八で、駕籠が飛ぶ。

 天保山の磯茶屋から、月見舟がたくさん出る。酒をつんで、おんなをのせて、川尻の澪標木みおつくしのあたりまで浮かび出るのである。
 十三夜の晩だった。水の上では、もう息さえ白く見えそうに薄ら寒かった。
 磯茶屋を離れた二艘の月見舟がある。与力の重松左次兵衛と、自雷也床の仁吉を客に、仲居や新町の妓たちが、月釵げっさいをかがやかせて、幾人か、乗っていた。
 そのうちに、しめしあわせてあった事とみえて、一艘は、ひとりのおんなと、仁吉と、左次兵衛だけをのせて、末広橋から海の方へ、離れはじめた。
「あ、船頭さん、戻してください。連れの舟の方へ」
 おんなは、水が怖いのか、ふるえながら、遠さかる連れの舟へのび上がっていた。――この秋、紅梅から出た、淋しい新妓しんこだった。
「お喜乃さん、怖がるこたあねえよ。月を見ながら、今夜あ、住吉のあけぼのへ行って泊るのさ。紅梅家でも承知のうえだから、案じなさんな」
 お喜乃は、わなに落ちた自分を知った。手をかさねたふなべりへ、がっくりと、額をつけて、肩をきざんで、泣いていた。
「――ずいぶん、今夜までに手間がかかったぜ。とうせ、水稼業みずしょうばいにはいった体じゃねえか。いい加減に、世間なみになりねえ。さ、盃をやろう。そして、きげんを直して旦那に一つしてくんねえ。一度は、そうしてくんなくっちゃ、どうも、この仁吉のつらも立たねえから」
「…………」
「え、おい」
「…………」
「お喜乃……。ちッ」
 と、仁吉は、かんを起しかけたが、じっとこらえて、
「強情だな。酒ぐらい飲むもんだ。さ、気を直しな、盃だけでも取ってくんな」
 お喜乃が、肩を外したとたんに、ちりんと、盃が、舟ばたに躍って、水の底へ、沈んで行った。
「これだ……」
 と、白い眼を、左次兵衛に振り向けて、
「旦那、精がつきましたよ」
 左次兵衛は、ぐび、ぐび、と酒ばかり重ねていたが、仁吉の眼交めまぜを、苦々とうけて、
「船頭」
 と、ともへ呼んだ。
「へい」
「ちょっと、その辺の岸へつけて、暫時、おかはずしていてくれないか」
 黙々と、そして緩やかに、艪をうごかしていた船頭は、頬冠ほおかむりをした手拭の耳に、ひらひらと風をうけながら、
「あっしに、陸へ上がっていろというんですか」
 と、訊き直した。
「そうだ。――少し混み入った話があるから」
「嫌だ!」
「なにッ」
「嫌なこッた」
「これっ、船頭の分際として、客のいいつけをきかぬという法があるか。船をつけろ」
「笑わしゃがる」
 豆しぼりの手拭が、つばさをひろげて、波の上へ飛んだ。
 治郎吉だった。
「こうお喜乃さん。落ちるとあぶねえよ。ともへ来て、おれの足に、しがみついているがいい」
「やっ」
 仁吉は、ぎょっとしながら飛び退いて、
「てめえは、鼠小僧だな」
「む」
 と、治郎吉は、ぬすにありそうもない笑靨えくぼを見せて、
「感心に、てめえも、知っているか。――大兄哥おおあにきの面をよく見ておけ」
 とたんに、左次兵衛は、羽織を脱いで、舟から水面へ躍りこんだ。岸へ向って、泳ぎ出したのである。
「しまった」
 と、治郎吉は舌打ちをして、
「仕事は急がざなるめえ。やい、自雷也」
 どこに置いてあったか、道中差を、抜くよりはやく、ふりかぶって、
「命はもらった!」
 ばっと、風を割って落した。
 かつんと、仁吉の膝がしらに、石でも割れたような音がした。二度目の刀は、肩さきへ来た。仁吉は、尻もちをつきながら、匕首あいくちで月光を斬った。
「――ひッ、人殺しだあっ」
 絶叫が、月の安治川あじかわから、海へ走った。
「けッ、女々めめしい声を出しやがる。病人を斬って逃げ出すような、ケチな盗ッ人ほど不愍ふびんなものはねえ。せめて、俺ぐらいにあやかるように、もう一度、生れ直して来い」
 五ツ六ツ、撲るように刀でたたくと、仁吉の体は、魚の臓物のように、船底にして、声も音も消してしまった。
 白い月と、川波と、そして、お喜乃の銀釵ぎんさいが、かすかに、ふるえているばかりである。
 ざぶりっ、とふなべりから手を洗って、
「あ、もう来やがった」
 と、治郎吉は、帯を締め直した。
 船番所が近いので、案外に早かった。蕭条しょうじょうたるあしのあいだを、捕手の灯が、いっさんに岸へ廻りはじめている。
「まごついちゃいられねえ」と、死骸を蹴落して、をつかんで、
「お喜乃さん、何処へ送ろうか」
「……もしっ」
 ふいに、盲目的に、彼女は、治郎吉の裾にすがりついた。
「どこへでも」
「えっ」
 治郎吉は、躍るような快感と、満足に、思わず口走った。
「ほんとにか」
 ――だが、彼はすぐに考え直した。
「いけねえ、いけねえ。おれは気まぐれもんだ。いつまた飽きが来ねえとも限らねえ。仕置場の空に眼をふさぐ最期にだって、生涯のうち、一つぐらいは、きれいな憶い出がねえのは淋しい。十三夜の晩だけを覚えて、おめえとは、このまま、別れることにするよ」
「…………」
 お喜乃は、何もいえなかった。氷の中の花のように、凍っていた。
「達者でいねえ」
 ――十三夜だ、後の月だ、治郎吉は、こんな月は、生れてから、見たことがないと思った。
「おれも、もう少しゃ、生きているぜ。そうよ、俺の稼ぎは、金じゃねえ、自分の寿命を稼ぐようなもんだ。――そして、きっとその間に、脇坂佐内の土蔵の中へ、千両だけはけえしてやるぜ。とっさんへの手向たむけだ。――じゃあ、あばよ」
「あっ、待って!」
 お喜乃は、飛沫しぶきをあびて、わっと、泣き倒れた。治郎吉の影は、もう、水面の下にかくれて、ただ一すじ、波の影だけが、北岸の方へよれて行った。
 また泥棒がはいった。
 しかも、仁吉が、安治川のもくずになった晩に、その仁吉の家に、はいった泥棒である。
 階下したでは、まだ弟子の松が、常連を相手に将棋をさしていた。――で物干しから用心のない戸を開けて、こんばんはといいたいくらい、楽々と、二階へはいって来た。
 むろん治郎吉である。あいみじんは、たもとも裾も、ぐっしょりと濡れていた。用箪笥ようだんす抽斗ひきだしや、そこらの間を、かた、こと、といっている間に、欄間らんまの額のうらから、手もつけない三つの封金を見つけておかしくなったように、口を押えた。
「あいつの着物じゃ、ちっと、気色がわるいが、間にあわせだ、何かあるだろう」
 咳きながら、押入に手をかけて、四、五寸、開けたとたんに、彼は、胆をつぶした。
「あっ、治郎吉さん!」
「シッ」
 絞め殺すように、そこにいた、お仙の口を押えつけて、
「おめえは、こんな所にいたのか」
「連れ出しに来てくれたんですか。うれしい! ああ欣しい!」
 お仙は、泣いて喜んだ。彼の膝へ、顔をこすりつけて、縛られている体を、押入の中から這わせた。
「さ、はやく、連れて逃げてください」
「待ってくれ、おらあ、おめえを救いに来たわけじゃねえ。この家の総勘定をつけに来たんだ」
 そんなことばは、お仙の耳にもはいらなかった。
「何でもいいから、縄を解いて、外へ出してください。私はもう、この世の中に、おまえさんよりほかに、頼る人はないんだから。ね、治郎さん」
「おめえは、まだ俺に、りねえのか」
「どんな苦労をしてもいい」
「なるほどなあ、おめえにもいい所がある。それは、いつ捨てても、大して、悪い気がしねえことだ。きっと、俺はまた、おめえを捨てるぜ」
「見捨てないで下さいよう、見捨てないで……」
 そういいながら、お仙は、治郎吉に解かれた縄をふり払って、物干しから、屋根へ、怖さも忘れて這い出したけれど、裏口はもう真っ赤に染まるほど、御用提灯ぢょうちんうずもっていた。
「あっ、治郎吉さん」
 と、座敷を駈けぬけて、表窓を開けてみたけれど、治郎吉のすがたは、そこにも見えなかった。
 太左衛門橋も、河の中も、ただ灯である、軽装した捕方の影ばかりである。

底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2003(平成15)年4月25日第8刷発行
初出:「週刊朝日 秋季特別号」
   1931(昭和6)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
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