「蒲団は――お炬燵こたは――入れたかえ」
 船宿のお内儀かみさんだ。暗い河岸かしに立って、いつもの、こえを、張りあげている。
 息が、白く、冬の夜の闇に見えた。
 寒々とけた大川の中で、
「おう」
 と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、
「あの……船のお支度が」
 と、女中へ告げた。
 上杉家の国家老、千坂兵部ちさかひょうぶは、茶屋の若主人や、なかから送ってきた女たちの小提灯こぢょうちんにかこまれて、ひょろりと、手拍子に、
さても見事になあ
振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「お履物はきものを――」
「殿様、おあぶない、肩にお手を」
 兵部ひょうぶは、眸のながれたような眼で、明りにつれて、海月くらげみたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、
「――船は、どこじゃ。船は」
「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋ふなばしまで、おひろいを」
さても是非なや
 兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、低声こごえをあわせて、
――なびかんせ
台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
「きゃーッ」
 前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、
「あっッ」
 と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、まろんでしまった。
「――な、何とした事。これやひどい、此方このほう、一人を置いて」
 兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。
 じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、
(来たな!)
 と、眉間みけんに、直感の熱痛を感じて、同時に、
(いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの刺客せっかくだ。もうやむを得ん)
 と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。

「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」
 案外だった。――その言葉のていねいなのに。
 のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、ほころびから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、びんをみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。
「町方じゃの」
 兵部がいうと、
「左様――」と、肩で、あえぎながら一礼して、
「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首くびをかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」
「存ぜぬ」
 と、兵部は、無駄だった気がまえをゆるめて、
「――狂人かの」と、訊ねた。
「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、さとや盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で」
「ふむ……それが、女の生首を抱えてとは」
「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽いさそいに、つり込まれて、
「――江戸唄の師匠をしておる、里次さとじという女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ深間ふかまで、何でも、二、三百石の知行ちぎょうを、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、愛想あいそもつき、こわくもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です」
「む……」
「だが、一方の浪人と、どうして手をったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、伊勢詣いせまいりに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の生首くびを片手に」
「わかった」
 と、兵部は、もう興味がないように、
「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」
「かたじけない。御免を」
 と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、ささやいて出て行った。
 そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、
「女ども、女ども」
 しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお内儀かみだけが、
「は……はい」
 と、四阿亭あずまやの蔭で、寒さと、恐さにふるえながらも低く答えた。
「お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい」
「羽織は、着ておりませぬ」
「いかさま……では、いや、あれにある、伊達羽織だてばおりを」
 兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それをはずして来て渡すと、
「――頭巾には、ちと、綺麗きれい
 と、つぶやきながら、ふわりと、後ろへ投げた。
 闇が、くわえ込むように、小袖はすすすと、丁字ちょうじの葉蔭へ、うごいて行った。――内儀は、さっきから、見まいとしているそこの物に、また、慄然りつぜんとして、唾をのんだ。
 初めから――かの女は、知っていた。
 それは、役人より早く、女たちの眼を、吃驚びっくりさせた影だった。みんなが、きゃっといって、逃げる突嗟とっさに、兵部の後ろへ廻って、かがんだのである。兵部は、とたんに、刺客せっかくの一人かと――鋭い眼を投げたが、同心との対話のうちに、何もかも、解けたらしく、知らぬ顔を装っていた。
 けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。――それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。
 憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く――そこに屈んでいた人間は、女の生首くびを、手から、転がして、また頬摺ほおずりをした。そして、すばやく小柄こづかをもって、丁字ちょうじの根を、掘りかえして、生首くびけてしまったのだった。
 ――そこへ。
 絢爛けんらんな女小袖が、ふわと、落ちたので、男は、それを頭からかぶると、
「武士のお情け――」
 四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。
「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」
「――無事な所まで、此方このほうの船で」
「それは、あまり」
「いや……」と、兵部は立って、
「内儀」
「はい。今――お提灯あかりを」
「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、言伝ことづてを」
「覚えておりまする」
「そして……」
 と、自分の後ろから、小袖を、女被衣おんなかぶりにして、忍びやかに、尾いてくる者をあごで指して、
「夢――人には告げるな。――わしの浮気を」

 両河岸りょうがしは、しもが白い。
 ともさない屋形船やかたが一そう、氷をすべるように、大川を下って行った。
「――寒かろう、はいってはどうだ」
 中の兵部は、こう、外へ声をかけた。
 小袖をかぶったまま、さぎのように、みよしに屈んでいた男は、振り向いた弾みに、刀のこじりを、かたんと、屋形の角に音をさせて、
「何、ここで……。すぐ其処の百本杭ひゃっぽんぐいあたりで、降ろして貰おう」
「まあ、そう申すな、炬燵こたつの火も、ちょうどよい加減、酒もあたたまっておる。はいって、一献いっこんやってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに」
 それを、兵部ひょうぶひとごとのように、外の男は、そら耳にうけて、じっと、暗い川波を見つめていたが、
「オッ、寒いっ」
 と、思わず、くさめを一つして、小袖で口をおさえた。
「風邪をひくぞよ、一角いっかく
「えッ?」
 男は、そう言った兵部の声を、疑うように、
「俺を、一角と知っているおめえは?」
「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄をんだ旧主の声を、忘れる奴があろうか」
 ふなべりに、身をわせて、小障子の隙間から、中を覗いていた一角は、途端に、
「あっ、しまったッ」
 はじかれたように、突っ立った。そして、河へ飛び込もうとするのを、兵部の手が、こじりつかんで、
「何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」
「――面目次第もございませぬ」
 屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、
「清水一角と申したの」
「はっ、御、御意にござります」
「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、何日いつ頃であったかの」
「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」
「只今も、流浪中ではないのか」
「はっ」
 一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。
「そちの仕官中に、国許くにもとで、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、此方このほうの在府中に出奔したという事じゃった」
「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お見遁みのがしを」
「見遁せとは」
「何事も、おたずねなく。――犬でも助けたとおぼめして」
卑下ひげいたすな。若い時代のあやまちは、生涯の評価にはならぬ。その慚愧ざんきをなぜ有為な身に、すぐれた腕に、むちとせぬか」
「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったがやまい自暴やけから自暴へ、持ちくずした身の傷は、なおるどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、そのひやっこい川風の中で考えてみると……」
「それや、無理もない。惰性だせいというもの、そこに、転機が来なければの」
 兵部は、つぶやいて、酒瓶ちろりのくびをつまんだ。一角へ、杯を与えて、
「ひとつ、飲まんか」
「恐れいります。御大身のおしゃくでは」
「あとも、燗銅壺かんどうこについておる。では、そちの手酌にまかせて」と、膳ぐるみ、押しやって、
「――だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」
 炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が――苦労が――胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、米沢よねざわの宝といわれたこの人にも、めっきりとけてきた影がみえる。――いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。何か、すくなくもそれは、主家上杉藩の浮沈にもかかわる程な。

 で、実は。
 この三月でいい出府を、彼は、二月ふたつきも繰上げて急に、国元の米沢から上ってきたわけだった。問題の重点は、世間からも注意されている吉良上野介きらこうずけのすけの身についてである。いうまでもなく、上野介の夫人は、上杉家の当主綱憲つなのりの母にあたる――吉良家と上杉、これは、っても断れない関係のものである。
 上杉家では――いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、
(もし、父を討たれては)
 と、躍起となった。
(そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば)
 と、江戸家老の沢根さわね伊兵衛にはかって、
飯倉いいぐらか――桜田か――いや白金の下屋敷が、最も、堅固)
 と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。
(大事! 社稷しゃしょくの危機)
 と、兵部は、その、余りにも無謀な――浪士と上杉家との対立を敢てする策に――驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。
 社稷しゃしょくか父子の情かである。一人の上野介か、上杉家全藩の生命かである。
 綱憲も、その非を覚って、兵部のいさめどおり、また上野介を、本所の彼自身のやしきに戻した。だが、兵部の心は、それだけに、負担を感じている。公然とはできない吉良邸の警戒に、赤穂の浪士たちの行動が、潜行的になればなる程、水も洩れてはならないのである。
 何よりも、彼が第一に、
(さて、人間はいないものだ)
 とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。
(剣客などは、いくらでも)
 と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。
 町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、
(吉良の屋敷では)
 と、断るのが、多いし、上杉の藩士をめさせては、赤穂との対立になるし、素姓の知れない人間は、敵方の諜者を入れこむおそれがある。
 今――およそ兵部の眼鏡めがねで、八、九名の浪人を抱えて、付け人にさせてはあるが、とても、まだ安心はできない。赤穂の浪士たちに対しては、物の数でない。
 で――兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが……などと炬燵こたつぶとんへ、横にした頭の中で、船の揺れを感じながら眼をふさいで、じっと考えつめるのだった。
 今夜なども、飲めない酒を飲んでまで――また、老いと苦悩の、億劫おっくうな気もちをも曲げて、花街へ、人を招んで、おかしくもない夜更かしに帰るのも、みな、上野介のために、幕府側の人々を、手なずけておくためだった。
(これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる白髪しらがも、苦労えというものだが……)
 と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、
「――殿様、百本杭ひゃっぽんぐいで」
 と、船が、急にかじをまげていた。
 冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、
「お、着けてくれ。――俺はそこで」
 と、立ちかけると、兵部が、
「いや、そのまま、行け、着けてはならん」
 と、船を河心へ返させて、一角へ、あごで、おかの人影をさしていった。
「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船をけてくる」
「あ……」
 一角は、小障子をてた。
 船が、永代えいたいに着くと、橋袂はしたもとに、迎えの灯が待っていた。千坂の家来たちに囲まれて、そこから近い兵部の下屋敷へはいってゆく浪人を、清水一角と、はっきり分っていながら、町方とその捕手たちは、どうにも、手がくだせないで、
「ちッ、忌々いまいましいなあ」
 と、にらまえて見ているだけだった。

 ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。
「一歩でも、出て来たら」
 と、町方は、意地にもなって、
「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」
 と、伏せをいて、張込んでいた。
「物騒だが……其方そちならば」
 と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら――
「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」
 と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、餞別せんべつとはいえない、かなりな額の金を、こっそりと、渡した。
 旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう寒明かんあけ、寒さもここらが関と、多寡たかをくくって、
「では、いずれまた」
 と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、
しかと、そちを見込んで」
 と、特に、見込んで――に力をいれて、
「……頼んだぞ」
 といった。
 ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。――と、すぐばたばたっと附近からがんのように立った跫音を、兵部は、知っていたが、黙然と、空を見ていた。家来たちも、主人の気持のまま、じっと、問わず聞かずに、黙っているよりほかなかった。
 だいぶ、いてから、やはり不安でならないように、兵部は唐突だしぬけに、
「誰か、見届けて来い」
 と、いいつけた。
 やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいをいて、一気に、板橋口から街道を北へ、立って行ったと聞いて、
「――そうか」
 と、初めて、ほっと、脇息きょうそくに、気づかれを、落して、
「人は使いよう……。一角も、こんどは胆にみて、立ち直ったとみえる」
 頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、つぶやいた。

 春だが、寒かった。
 山のひだには、雪が深い。
(四年ぶりだ――)
 と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、板谷峠いたやとうげの上に立った。
 そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、
(しまッた。なぜ俺は、兵部ひょうぶの手に――)
 と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、にがく繰返して、
「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」
 と、呟いた。
 自分では、り切れてしまったと思っていた武士根性が、まだ幾分か、どこかに潜んでいたかとも苦笑されて、
「うまく、兵部に抱き込まれた。――だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの……」
 城下へはいった一角は、その翌日、藩の湧井わくい半太夫と青砥あおと弥助をふいに訪ねた。どっちも、一角が仕官時代の旧友ではあり、また、米沢では――いや奥羽の剣人としては、五指のうちに数えられる若者たちだった。
「どうしたんだ? 一角」
 ふたりは、眼をみはって、彼を迎えた。
 お互いに、けるくちを知っているので、松川岸の隣松亭りんしょうていへ行って、
「まあ、久闊きゅうかつは、酒から」
 と、すぐに、くつろぎあった。
「――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」
「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、尾羽おはち枯らしてこの姿だ」
「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」
「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」
「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」
「今さら――」
 と、苦笑して、
「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」
「そいつは、目出度い話だ、どこへ」
「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか」
「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」
「そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」
「誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に」
 青砥あおとが、少し乗り気になると、湧井は、笑い消して、
「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人をかつぐのも、程にしろよ」
「なに、嘘だものか」
 懐中ふところから、百両の封金を、一つ、二つ、三つ――と眼の前へころがして、
「見てくれ、手金さえ、持って来ている」
「ふふむ……」
「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」
「――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」
「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」
「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」
「そこが、相談。うん、といえ」
「だが先に――」
「いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら」
「では、誓う」
「脱藩をか」
「いや、他言を――」
「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」
「じゃ、俺は……」
 と、青砥あおとが、言いかけるのを、湧井わくいはあわてて、
「待て待て。――返辞はいつまでか」
「早いに、越した事はねえ。明日あしたのうちにでも」
「じゃ、明夕みょうせきまでに、熟考して」
「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」
 と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。

「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう?」
 宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。
「やっぱり――彼女あいつの魂が、おれを国へ……」
 ぽろんと、銀脚ぎんあしかんざしを、指先から落して、
「お里のにおいが」
 と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。
 まだ、女の髪油かみあぶらが、生々なまなまと、曇っている。見つめていると、ありし日の女の姿が、ぼっと、眸にひろがって来る気さえする。
 かっと一時の感情で、自分の手にけた里次のかんざし――。その生首くびをつかんで、堀の茶屋へ逃げこんだ際、あの突嗟とっさに、生首くびは、丁字の木の蔭にけたのであるが、釵は、釵だけは――自分が殺した程な女なのに、何となく、捨てきれずに、肌へつけて、持っていた。
「――いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、じかに会って今度の事を話すのは、気がとがめる。……おれが、お里を誘拐かどわかして、連れ出した事は、いまだに、知らねえらしいが」
 そこへ、女中が、
「おふたり連れで……。湧井わくい様、青砥あおと様と仰っしゃるお方が」
「お、来たか」
 あわてて、釵をふところに、
「――通してくれ」
 青砥弥助と、湧井半太夫は、
「よくよく、思案してみると、今の世の中では、軽輩者けいはいものは、生涯つとめても軽輩者、百金の手当があれば、肉親の者の保証は充分になる。――うん、と言おう。抱える相手を明かしてくれ」
 と、同意の返答だった。
「有難い、それで俺も顔が立つ」
 ふたりへ、百金ずつの金を渡して、
「実は、貴公たちをおかかえになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ」
「げっ、あの吉良か」
「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の千坂兵部ちさかひょうぶ様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ」
「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」
「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし」
「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」
「いや、まだ丈八郎へは」
「あれ程、急いでおるのに」
 非常な苦痛のように――
「丈八郎へは、貴公たちから、懸合かけあってくれまいか」
「む……話してもよいが」

 痛いものをこらえるような眼を、ふと、らして、
「たのむ、是非」
 と、一角は言った。――ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、
「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」
「何か、弱味でも、あるのか」
「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」
「ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」
「今さらいうのも、懺悔ざんげめくが、同藩の市岡へ、とつぐ約束になって、結納ゆいのうまですんでいたあの女を、婚礼の間際まぎわに隠したのは、俺だ、この一角なのだ」
「えっ? ……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」
「川べりの下駄も、遺書かきおきも、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、彼女あいつは、江戸で女師匠、俺は、持ったがやまい博奕ばくち、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、風邪かぜ原因もとで、死なしてしまった」
「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」
「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」
「なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、さすがに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の付人つけびととして申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう」
「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」
「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を」
「すぐ、行ってくれるか」
「吉報を、待っていろ」
 翌日は――と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。
「こじれているな、話が」
 そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。
「お里を手にけたさえ、後では、いい気持ではないのに、その弟まで、万一にも」
 と、考えると、祈らずに、いられなかった。――どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。
「そうだ、返辞を待っている間に」
 顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。
 すぐ、分った。
 城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の菩提寺ぼだいじである。
「む、ここか」
 と、探しだした、一つの墓。
 あたりを見廻した。――梅花うめが明るい。
 今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていたかんざしを――あの里次の生首くびのにおいを持つ簪を――、そっと、墓石のそばの土中へ、ふかく、差し込んだのである。
 悪夢を、封じたように、
「ああ、これで、さっぱりだ」
 と、一角は、の土をたたいた。
 春の雲が白い。――紅梅が紅い。
 からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。
「気一つだ」
 だらだらと、丘を降りて来た。
 すると――ふもとから、若い、一人の女が、上ってくる。
「オヤ、何処かで?」
 と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、
「やっ?」
 愕然がくぜんとして、喉でさけんだ。
 何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った――いやよろめいた。そして、樹の蔭にかくれて、あらい息を、肩で、
「不思議だ、お里が来る、お里が?」
 ――と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。

「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ一徹者いってつものだ。二人が、何と説いて聞かせても、金で身売りなどとは、剣士の恥。たとえ、一時の方便でも、藩へ無断で、脱走するなどとは、以てのほか――とばかりで、俺たちも、口をすッぱくして通ったが、さじを投げた。あれは、諦めものだぞ」
 宿へ帰ると――青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、
「どうする?」
 と、彼の決意を聞くのだった。
「じゃ、兵部様の腹中を、らしたのだな」
「少しは、格好かっこうを話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの」
「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、発足ほっそくしてくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが」
「承知した」
 その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。――軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。
(丈八郎を、暗討やみうちするか――もう一度、ぶつかって、心をひるがえさせてみるか――)
 に、彼は、迷った。
 五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の乾門いぬいもん番士、ろくは、高々百石たらずである。夜勤よづめ交代で一日おきには、家にいない事になるらしい。
(討つ気なら、造作ぞうさはねえが?)
 一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の姉妹きょうだいを見ると、そんな気もちは失せて、
「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の血統ちすじだ」
 と、感心した。
 自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。――三番目のおのぶは、十五、六か、まだ、至ってあどけない小娘で、これは少し丸顔、兄の丈八郎の方に似ている顔だ。
「――どう見ても、お里そっくりだ。いくら姉妹きょうだいとはいえ、ああも」
 おりがあったら、口をきいて見たい気がした。
 墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが――。
 夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。――お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。
「はてな、俺は恋を? ……」
 一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭をもたげだした。水っぽい春の月――風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。
 だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。おしというか、自信というか、ぶつかってゆく。――その手で、お里も、ほかの多くの女をも、経験してきた彼は、やがて、お八重がよく町医の関口※(「王+奇」、第3水準1-88-6)きあんの所へ通うのを知って、ある夜、わざと、
「お里どの。お里」
 と、呼びとめた。
「え?」
 案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、
「――姉の名を、お呼びになって、貴方様は」
「や、人違い。――余りよく似ているので」
「どこかで、お見かけしたような?」
「四年ほど前に、浪人した清水一角」
「あ、よく姉がお噂をしていた……」
「そのお里どのがしたわしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに」
「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」
「えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが」
「私たち姉妹きょうだいほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに良人おっとに死なれて」
 もう、美人薄命が真に近いように、美人は多淫たいんであるという言葉がほんとなら、お里も、その一人だったし、このお八重も、そうではないかと、一角は、肩をならべて歩くうちに、勝手な異性観を、描いていた。
 人なつこい――柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、蠱惑こわくに反射してくるお八重を、彼は、幾十人もの女を手がけた経験から、
「これは、思いのほか、手なずけ易い。……それに出戻りの女は」
 と、もう甘い香を――雪国の女の特有な肌を――官能の中にもてあそんでいた。
「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……」
「ええ、どうぞ」
「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」
「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても」
 と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、かべながら、
「では、近いうちに」
 と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。

 渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。
女庭訓おんなていきんで育った武家娘なんて、男にかかると、から、意気地はねえ」
 一角は、つぶやいた。
 反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の悪戯いたずらは、お八重を、自分のものにした夜から――
「俺も、物好き」
 と、彼を、微苦笑させた。
 美人にはちがいないが、お八重は、癆咳病ろうがいだった。――そういえば、死んだお里も、よく、悪いせきをしていたが――と考えると、丈八郎の家系には、その血のあることが、たしかである。美人系は、一つの、病系なのだ。
「旦那様、あの、お手紙が」
 宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、
「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」
 すぐ、お八重の文字と分るのであるが、――一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。
「べら棒な。――ほかに男をこしらえた女、俺が手にけて、成敗したのは、当りめえだ」
 明くる日もまた、女中が、
「旦那様」
「また、手紙か」
 根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。――しかし、勃然ぼつぜんとして、かれの気持は、その日から一変していた。
「丈八郎に出会ったら一討ち!」
 と、むしろそれを、希望していた。
 が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。このは、また何というほがらかに出来ているのか、出戻りの姉にいいつけられて、いつも、恋の番をしているのである。
 お八重は、彼を見ると、
「まあ、憎い……」と、ひざに、恨んで、
「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」
「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」
「でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」
 ああ、平凡だ。
 すくなくも、一角が経験した女の数では、こんな会話では、欠伸あくびを感じる。
 でも――無碍むげには、あしらえなかった。出戻りのお八重は、丈八郎の留守の間を、むさぼるようにたわむれた。
 すると、外にいたお信が、
「あっ、兄様が!」
 ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。
「帰って来ました。兄様が」
「えっ、丈八郎が」
 お八重は、ふるえ声で、
「あなた。はやく……。裏口から」
 一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを――身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、無性むしょうに、
「ここにいては。裏! ……あっ、いけない、そこの納戸なんどへ」
 一角は、その手を、振り払って、
「――退いていろッ」

 途端に。
 ばさっと、庭先の連翹れんぎょうの花が、嵐みたいに揺れた。垣を踏みこえて来た激しい物音から、一箇の人影が、縁側へ、躍り上がった。
「――おのれっ、一角だな」
「おっ、木村丈八郎か」
「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――」
 と、こじりを上げて、ぶるぶると、右手のこぶしに、鍔音つばおとをさせた。
(この男か)
 と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い眉目びもくを見上げた。彼の淡い四年前の記憶では、まだ竹刀しないをかついで、よく道場通いの途中で見かけた前髪の小童こわっぱであったが、今仰ぐと、二十歳はたちか、一か、末娘のお信の方に似てやや丸顔な、くちの大きな、そして、健康にはちきれているたくましい青年だ。
(……ウーム、なるほどできるな)
 直感的に一角も、ぴりっと、構えを、呼吸いきを、反射しながら、
「丈八!」
 と、威圧的に、あびせて、
「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」
「だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守をねらって」
「それは、てめえの姉にけ。おれは、お八重のこびに釣られて来たまでのたわ
「な、なにっ」
「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえにただす一言がある」
「恥知らずめ」
 丈八郎は、憎悪そのものの眸を、している姉へも投げた。が、すぐそれが、一角の眼を見ると、よけいに、ほむらとなって、
「不義を見つけられて、居直る所存だな」
 と、罵詈ばりした。
 あざ笑って、
「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、棘立とげだつものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の苦衷くちゅうを買って、吉良家へ行ってやる気はないか」
「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、まことであるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ」
「では、どうあっても、嫌か」
「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」
「待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」
 立つ――同時に、
「丈八郎、命はもらった」
 と、さやはうしろに飛ぶ、刀身は前に、そして、一角のからだは畳一枚、踏み出していた。

 風を切って――横に。
 ばすっと、丈八郎が一角の出ばなをいだ。
「あっッ……兄様っ」
「お信、あぶない」
「やめて! やめて!」
「ええ、邪魔」
 と、妹をつき倒して。――つかを持ち直して。
「さあ、来い一角」
「おう、退くな」
「何を」
 ち、ち、ち、ち……と刃と刃の先が鳴り合った。
 押す。もどす。――丈八郎は、いどみかけた。――フウッと、一角のわざに引かれて、はいると一気に、
(この顔ッ)
 と、真っ向を睨んで、斬りつけた。
 だっッと、一角は、退がった。背なかを、ふすまにぶつけたので、襖は、次へ倒れた。ベリッと、それを踏んで、よろめくと、
(しめた)
 と、丈八郎は、盲目的に、躍って、り下ろしたが、一角は、反対の方へ、ぽんと、飛びかわして、
(それは柱だっ)
 と、罵倒ばとうした。
 丈八郎の刀は、はすかいに、隅柱へ斬りこんだまま、抜けなかった。とたんに、うしろへ一角の刃を、感じたので、手を離して、振り向くせつなに、さっと、真っ赤なものが、自分の腕にも、胸にも、部屋にも、眸いっぱいに見えた。
 ウーム……と、誰か、分らないうめきがながれた。行燈あんどんは、消えて、倒れたはずみに、ころころと、灯皿が白い煙の糸をひいて、独楽こまみたいに、部屋を廻った。
 ウウム……と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、
「あッ――お信が」
 と、発狂したように、お八重がさけんだ。
 丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、
「おうっ?」
 と、跳びひらいたまま、一瞬、ぼうとなって、畳に、もがいている意外な犠牲者の影を見つめたが、丈八郎は、自分を目がけた一角の刃が、弾みに、罪のないお信を斬ったことに、気がついたので、
「妹の仇っ」
 と、わめいて、
「――動くなっ、そこを」
 と、小脇差で、突っかけた。
 組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。
 盗賊。――盗賊。
 そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、
「卑怯ッ」
 と、よぶ丈八郎へ、
「後日っ」
 と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、魔形まぎょうに似たがたなの光を、何処ともなく、くらましてしまった。

「――斬られたと? だ、だれが」
「盗賊ではないのか」
「灯りを。――どなたか、灯りを先にけてください」
 組長屋のものが寄って、そこに、ぶちかれた鮮麗な血と、お信の、むごい姿とを、見た時は、いつのまにか、姉のお八重は家の中にいなかった。
 勝手口の戸が一枚、開いていた。――恥かしい! と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、焦燥しょうそうに、気づかずにいるので、口に出さなかった。
「――助かる。背すじだ、薄傷うすでだ」
 来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、白晒布しろさらしを、勢いよく裂いているのに、丈八郎は、初めてわれに返って、
「た、助かるでしょうか」
「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――焼酎しょうちゅうを早く、焼酎を」
「お信っ。お信っ……」
 丈八郎の眼はうるんでいた。
 医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、
「姉さんは……」
 と、ほそい声で、訊ねた。
「そんな事、訊いてくれるな」
 夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。――みだらをしたお八重こそあの場で、斬られてしまえばとさえ思うのだった。
(お八重さんが見えない――)
(男と逃げたらしい)
 組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。
 傷は、日にましてくなって行ったが、お信も、それを心にむらしかった。兄に対して、何か、悔悟かいごと、叱責しっせきを、恟々おどおどと待つ気ぶりも見える。
「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か事情わけでもあったのではないか」
 丈八郎が、ある日、こう問いつめると、
「いいえ」
 と、お信は、首を振った。
「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、垣根かきねの所に、立っていただけです」
「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」
「じゃ……」と、お信は、考えて、
「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」
「む……」
「一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」
「えっ。どうして」
「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されてもかまわないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました」

「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡うじへ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って入水じゅすいしたのだから」
「いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」
「どうしてお前は、それを、はっきり言える」
「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀のかんざし、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのおまいりをする前に、けて行ったというではありませんか。それが、一角なのです」
「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……」
「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」
「血だなあ」
 丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、
「――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか」
「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」
「そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、二女ふたりの母親が、若い頃にしていた品、その釵が、淫奔いんぽんな血とつきまとって、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする」
「兄様。いま仰っしゃった二女ふたりの母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか」
亡父ちち過失あやまち。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、姉妹きょうだいの気持にけじめは持たなかったが、異母胎はらちがいじゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、癆咳ろうがいで、若死にをしたという話も……」
 夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、
「泣くな」
 と、なだめて、
「おまえと、わしは。……おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」
 と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。
 そこへ、裏町の――軽輩な家中へ内職の仲継なかつぎをしている老人が、見舞に来て、憤然と、
「丈八郎殿、貴公、とんだぎぬをきておるぞ」
 と、尖ったこぶしを、膝において、いうのだった。
「何事ですか、この、丈八郎の冤罪えんざいとは」
「貴公、清水一角から、金を取っておるか」
「ばかな」と、一苦笑に、
「なんで、彼奴きゃつのごとき、人非人から。――恨みこそあれ、金子きんすなどを」
「ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の腕利てききを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが」
 と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、
「――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておるわけもないと。――ま、一理あるな。そう申しおる」
「ウウム……左様でござりますか」
「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」
「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……」
「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。えんそそぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには」
「は」
 と、丈八郎の眼が光った。
「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それよりいさぎよいことは、あるまいが」
「有難う存じます。よくこそ、御注意を」
 で、――なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉のあだ
 彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、狼藉ろうぜきの夜の足痕あしあとの残る、裏庭の連翹れんぎょうの花は、春をいたずらに、みだれて咲いて――。
「若いな。……は、は、は」
 その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、吾家うちへはいった老人は、これまた、にわかに、旅支度をして、いつの間にか、米沢からいなくなっていた。

(おや? ここでも会った。――妙に何処でも会う老人)
 と、思うまに、かごのタレをね上げた一角の姿を見つけて、先でも、同じように、
(おや)
 と、いう眼いろをひらめかせた。
 涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。
「駕屋、一汗拭け」
「ありがとう存じます。――旦那あ、短気だからたまらねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ」
心太ところてんでもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。老爺おやじ床几しょうぎを借りるぜ」
 須賀川すかがわ並木の一軒茶屋。
 松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた旅商人たびあきんどの老人が、
「おっと、と、と。旦那あ、其処は」
「なんだ」
「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、嬰児あかご粗相そそうをさせたんでまだ、尿ししれている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし」
「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」
「はははは。飯坂いいざかでは、だいぶおにぎやかなことで」
「二、三度、温泉壺ゆつぼの中で、ぶつかったな」
「旦那も、覚えておいでになりますか」
 ぷっと、煙草たばこの火玉をふいて、風に、ころがり出したのを、雁首がんくびで抑えながら、
「足かけ二月ふたつき、永い御湯治ごとうじで。――てまえが、仙台から、会津福島の花客とくいを、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな」
「何屋だい――老人は」
「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」
「そうだな……。黒焼屋くろやきやか」
「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」
「薬屋でもなし、呉服屋でも」
「だんだんお近くなりますな。実は、その辺――繭仲買まゆなかがいの銀六と申して、こ覧の通り、はかり一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国のくわある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする」
「繭買か。なるほど」
「いやですぜ、顔を見て。――顔がさなぎに似ているなんぞは」
「人間のさなぎは、老人としよりばかりじゃねえ。俺なんぞも、若いさなぎの方だろうよ」
 と、自嘲をうかべた。
御謙遜ごけんそんで」
 と、銀六老人は、首を振って、
「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」
「ひどく、感心するな」
「いたしますとも、真昼、北上川の温泉壺ゆつぼの中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、河鹿かじかを聞いているなんざあ、言語道断」
「よくねえ老人としよりだ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、のぞいていやがる」
「は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して」
「もう沢山」
 と、焼酎しょうちゅうの茶椀をさしあげて、
「亭主、代りを」
 しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。

 近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。
自暴やけに、身を腐らすというものは、底のねえものだ)
 と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。
 千坂兵部ちさかひょうぶに、
(人間も三十に近いとなれば――)
 と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の堕落だらくを嘆いたものだったが、今をかえりみると、それから更に、一歩も二歩も、やくざの沼にすべり込んでいる。
己惚うぬぼれではなく、人並以上の腕を持つ一角が――)
 と、腐ってゆく、身のもろさを、殊に、若さを、口惜しく思わぬでもないが、どうにもならない――宿命的なものが、折角、志した米沢でも、いて廻った。
 第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、あやまってでも、斬った事。
 一つも、いい事はない。
(千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。――見込んでといわれて、米沢へ。――ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ)
 悶々もんもんとして、あれからの一角は、旅が、はかどらなかった。悪い原因は、もう一つある。それは懐中ふところに、兵部から貰った多分な金があることだ。
 で、つい――
(ままよ)
 と、酒。女。――若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。
「どれ、そろそろ」
 と、腰を上げると、繭買まゆかいの銀六老人が、
「今夜は、白河で」
「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」
「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。今市いまいちとまで、突っ走りとうございますね」
「行くか、交際つきあえ」
 異存はなかった。
 駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、ほうりこまれたのはその翌日――。
 三日ほど遊んでいるうちに。
「驚いた老人としよりだ。酒も強いが、何ていう芸人だろう。してみると、俺などは、極道ごくどうにかけると、まだまだくちばしが青いのかも知れねえ」
 と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。猥談わいだん、酒談、博戯ばくぎ、悪事と諸芸、道楽の百般にわたって、この老人の該博がいはくさは、驚くべきものだった。――といって決して一角を、女たちの前で、子供あしらいにするではなく、実際に飲んで遊ぶとなればなお、面白い。彼自身が、苦労も何も忘れているばかりでなく、相手をして、ほんとに、あごはずして遊ばせるのである。
「なぜ、おめえは、秤量はかりなんぞを、腰に差していねえで、幇間たいこもちにならなかったか」
 と、一角が、上わ唇をめあげて聞くと、
「あいつが、楽な商売に見えますかい」
 と、老人は、一蹴に答えて、
「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、窮屈きゅうくつがっているよりも、さらりと、博奕打ばくちうちにでもならないのか、わしゃあ、ふしぎ……」と、真面目にいった。
 女たちが、話の深味を、はきちがえて、
博奕ばくちならば、今、日光には、大きな賭場とばができていますから、私たちが、男だったら」
「そうそう」と、老人は、膝を打って、
「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」
「行こう」
 思い立つと、すぐだった。
 気まぐれではない――ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。

 あぶらぜみ、みんみん蝉、日光山がジイ――ッと啼いているようだ。
「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、自暴やけのやん八」
 香りの高いひのきの板を、削り台にそろえて、十人ばかりの大工が、絹よりうすい鉋屑かんなくずを舞わせながら、
「ふふむ、あの浪人者か。山の大賭場おおとばへ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ」
素人しろうとのくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ」
「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」
「先へ行く路銀も失くなったんだろう。賭場とばをのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や塗師ぬしの手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな」
ッ……。やたらに、けえ声を出すな。眼をさますぞ」
 鉋音かんなおとを止めて、職人たちは、後ろを見た。板小屋の横の板束の上に、清水一角は、よだれをたらして、寝ていた。
 連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。
「ううむ……」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。
 毛脛けずねが、出ている。鋸屑おがくずだらけなまげが、そッくり返っている。二寸ほど鞘辷さやすべりしている大刀の刀身も、賭場で、勝負をしてしまったのか、あわれにも、竹である。
ざまあねえな」
 職人たちは、べっと、つばをして、かんなに腕のよりをかけ初めた。
「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」
 向う側の参道並木――杉や燈籠とうろう鬱蒼うっそうとして、人影は見えないが、胴間声どうまごえで、こう呶鳴どなっている者がある。
 板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、
「はい、今すぐに――」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ紙片かみきれらしいのを、ほうりつけて、ばたばたと連れの方へ、駈けて行った。
 ひら、ひら、と白い結び文は、鉋屑かんなくずといっしょに舞っていた。
 今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた男女ふたりの足数でも心に測っているように。
 やがて。
 むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、たもとに突っこみながら、
「ああ、喉がかわいた」
 と、まだ幾分か、宿酔しゅくすいの眼まいを感じるらしく、ふら、ふら、と御手洗みたらしの方へあるいて行った。
 風が、山をうごかしてきた。喬木の魔形まぎょうが雲のはやい空に揺れて、唸っている。足場の人影は、あわただしく、活溌になって、木ッ葉や、鉋くずが、地に舞った。
「ちょっと伺います。――職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」
 仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、千種ちぐさ股引ももひきを見せて、尻端折しりはしょりをしている、若い商人あきんどていの旅人だった。
「――来るぜ、ひと夕立」
 と、雪脚くもあしわれて、ばたばたと、片づけ仕事にあわてていた大工たちが、
「なんだい。物売りなら、明日あした来ねえ」
 いい加減に、答えていると、
「いえいえ、てまえは、縮布屋ちぢみやの手代で、物売りではございません」と、若者は、ていねいに挨拶をし直して、
うかがいたいのは、実はこの日光の御普請場ごふしんばに、賭場とばがあるそうで」
「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」
「はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらとほかから耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか」
「知らねえよ、一角なんていうな」
「でも、たしかな所から……おかしい。間違いはないような話なのですが」
幾歳いくつぐらいな浪人だい」
「やがて三十近い――どこか凄味すごみのあるせた男でございます」
「じゃ、あれじゃねえか。縮布屋ちぢみやさん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが」
「えっ」
 と、身をかわすように、縮布屋は飛び退いて、
「――何処に?」
「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」
 すると、一人が、
「あの浪人者なら、たった今、町からけえってくる途中でつかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ」
「え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに」
 縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、神橋しんきょうの方へ、走ったが、姿を見つけると、橋のたもとから、
「あっ兄様。ここに」
 と、十五、六の順礼娘が、
「分りましたか」
 と、側へ駈けてきた。
「おお、お信。よろこんでくれ」
 と、息の弾みにも、その欣びをたかぶらせて、
「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっとらせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう」
「ほんとに、不思議な。――今朝旅籠はたごを立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が」
「いや人間の字だよ」と、縮布屋ちぢみやは、笠の裏を返して、読み直しながら、
「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角をけているなんていう事は、旅先で、知ってる者はない筈だが? ……」
 ぽつと、雨が、顔に触った。
「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、
「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。――お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。……ああ困ったな」
 と、焦心あせり顔に、つぶやいた。
 すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕をみあわせて、こっちをながめていた繭買まゆかいの銀六老人が、のそ、のそ、と歩いて来ながら、
「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」

「やっ、御老人」
 と、丈八はびっくりして、
「あなたは、米沢の裏町にいた――」
「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、発足ほっそくして後、わしも江戸の親戚みよりに急用が出来てな」
「もしや、ゆうべのお報らせは」
「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、相宿あいやどの者からひょいと聞き込んだので」
「存ぜぬために、お礼も申さず」
「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」
「では、お信は、まだあの傷手いたでの病み上がり、どうぞ」
「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」
「安心しました、それでは」
「一角も、剣を把ると、名だたる腕利てきき。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ」
「その儀は」
 と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙をかけるように、街道を急いで行った。
 みだれる雲――疾風はやての叫び――宵闇よいやみほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻がひとみを射、耳には、おどろおどろ、遠い雷鳴かみなりがきこえてきた。
      ×   ×   ×
「あっ――傘が」
 と、男女ふたりは、を持ちあった。
 び、び、び、と傘の耳を鋭い風の戦慄せんりつと、ひょうみたいな雨つぶの音が、横に、なぐッて行く。
 鹿沼かぬまの、博奕打ばくちうち、玉田屋の酉兵衛とりべえは、この一夏で、日光の出開帳でかいちょうから上げた寺銭の大部分を、今、連れてゆく、孫のようなお八重の身代金に、投げだしたといわれていた。
 お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、素人しろうとくさいのと、武家出の女という事が、酉兵衛の心をうごかした。金で、花街まちから抜くとすぐ、中禅寺の乾分こぶんの家にあずけて、時折、
(どうだ、景気は)
 などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、賭場とばへ出ることもあった。
 で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。――だが、お八重は、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも、彼との事などを、酉兵衛とりべえらしている気遣きづかいはなかった。
 きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。
「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」
「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」
 傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、
「あらっ」
 と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身をわした。
「あぶねえ。大谷川だいやがわまるなよ」
 雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。みのを、頭からかぶって、向う見ずに駈けてきた男が、どんと、胸いたへ肩をぶつけて来たと思うと、酉兵衛の脇差のつかへ、手を伸ばした。
「何をしやがる」
「かッ!」
 蓑をねた浪人者の顔を、酉兵衛は、あっと、一眼見たきりだった。ずばっ――と片手なぐりに、肋骨あばらへ斬り下げられて、
「ウーム……」と、真ッ赤なものを吐く爬虫類はちゅうるいみたいに、手も足も縮め込んで、雨の中を、転がった。
 どぼうん――と大谷川に、飛沫しぶきが立った。
 激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。
「しばらくだったなあ……」
 一本のやぶれ傘の中で、男女ふたりは、笑い顔をながめ合って歩いた。雷光いなびかりが、絶えず、白い雨を見せて、睫毛まつげのさきにひらめいていた。

 きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も――というような事を、女は、雨も雷鳴かみなりも――れる冷たさも、うつつに、昂奮こうふんしてしゃべった。
「金は」
 一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、
「――持って来たろうな」
「金なんか……。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。
「じゃ、支度をして来なかったのか」
「ええ。……だって、とても乾分こぶんたちの眼があって」
 女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、
「でも、私は、嬉しい」
 と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。
(馬鹿。馬鹿。馬鹿)
 自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが!
(金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)
 だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている――
「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、
「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」
「そんなに、この頃は、飲むのですか」
「半日も、一刻いっときも、酒がなしじゃいられねえ」
「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もうげない。そして可愛がってばかりあげる」
 一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。
「あら、何処へ」
「居酒屋だ」
 戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、ますをうけ取った。といの雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。
 ぐうっと、眼をねむって一息に――
「おお、美味うめえ。――亭主亭主、もう五合」
 一升の冷酒ひやは、一角の体温をほどよく温めた。あきれて、後ろへ立っているお八重へ、
「オイ。銭を払え」
 お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の旅籠代はたごだいにもたりない。
「面倒だ――剰銭つりは――こう亭主、剰銭の分だけ、追い足しに」
 さすがに、よいが、いっぺんに、発して、一町ばかり歩く頃から、雨が、逆さに降ッてるように見えた。
「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」
「ええ、小うるせえ」
 と、女の手を、肩を振って、振り落して、
「――てめえは一体、どこへ行く気だ?」
「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」
「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……」
「清水さん。おまえ、それは本気で」
「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は」
「何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を」
「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、女庭訓おんなていきんを外れている。身から出たさび
「な、なんですッ」
「おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか」
「口惜しいっ……。く、口惜しいっ……」
「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、あたまの物が」
 お八重は、雨の中へ、手をのばして、
「あ……姉さんのばち
「姉さん?」
「――堪忍して、堪忍して」
 と、拾った小さい物を、抱きしめた。
 ぎょっと、彼女の手へ、一角は――酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、
「何だ? ……それは」
かんざし
「畜生ッ」
 雨が――きゃあッ――という悲鳴を吹きさらッた。
 小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、いかずちにあわせて鳴る大谷川の激潭げきたんのふちを、蹌々そうそうと――踉々ろうろうと――刃の血を、雨に、洗わせながら歩いて行く。
 どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、縮布屋ちぢみや丈八は、とうとう、一角の姿を見出さなかった。

 江戸らしい。どうしても。
 あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。
 初秋の二百十日過ぎ。――町には、祭りの提灯ちょうちん花車だし、シャンギリの音が――そして空には赤とんぼが、江戸の秋を染めている澄んだ日だった。
「御用っ」
 左衛門橋を、ばらばらっと人が――声が飛んでった。
 砂利場の砂利に、腰を下ろして、
(銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが)
 と、すこし疲れた面もちに、考えていた縮布屋ちぢみや丈八は、
「何か?」
 と、橋の跫音に、顔を上げた。
 とたんに――一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。――と思うと、どぼうんと、白い飛沫しぶきが、丈八の顔にまでかかった。
「石?」
 と、丈八は、思ったが、橋のてすりに、足をとめた町方や、捕手や、弥次馬の群れは、
「飛びこんだ、飛びこんだ」
「あの辺に――」
「水がうごいている」
 わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。竿さおで突く、かぎを投げる。
「――はてな?」
 丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で――何気なく、そこを離れて、橋袂はしたもとから、欄干らんかんにかけて、背中ばかり並べている群集の空地を見ると、今、捕手たちが追い込んで来た元の方へ、ふところ手にして、にやりと、笑いをゆがめながら戻ってゆく男がある。
 ごくッ……と、丈八は、のど生唾なまつばをつかえさせた。似ている! と思う直感と、たしかに! という直感と、一時に、十文字に、胸をつきぬいて、大きく心臓が呼吸した。
 場所――地の理――けまわして、ちょうと、黄昏頃たそがれごろ
 どこの仮巣へ帰るのか。
 祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と火除地ひよけちの桐ばたけを、一角は、よろめいて行った。
(よしっ、今だ)
 と見て、丈八が、
「待てっ。一角っ」
 と、するどく、ぶつけて、突嗟とっさに、前へ突っ立つと――分らない――朦朧もうろうもやでも隔てて見るように、
「だ、誰だ」
「酔をさませ。木村丈八郎だ」
「来たかっ、丈八」
「米沢への江戸土産みやげに、その首を貰った」
「ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、しきいはたかいが、一時の身の置き場はある」
「だまれ、姉の怨みも」
「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」
「何の」
「くそうッ」

 ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃にねた時、一角の体は、肩を落して、ひょうのように、丈八のふところに、はいっていた。
 だっッ、と足でった。
(不覚)
 と、丈八は、つかがしらで、一角の小手を突いたが、とたんに、足が浮いた。――投げ――食ったな――と宙で感じると、逆さまに見える敵の影を、
(おのれっ!)
 と、払ッた。
 びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の睫毛まつげから、三寸とは、離れていなかった。
 とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か――と見られるすごい眸を、ジッと刃のみねから真っ直ぐにつけている。
「止めろっ。おいっ! あぶない!」
 突然、誰か、こう呶鳴った。
 そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。
「や、青砥あおと弥助」
「おう、湧井わくい半太夫じゃねえか」
 丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、もだえ、抱きとめている手を振りもいで、いどみあうのを抑えながら、
「待てっ、まかせろ。――御家老もおいで遊ばしている事だ。御家老に対しても」
 と、二人は、必死に制した。
「え。千坂様が」
 さらに、意外にたれているまに、青砥は、手をあげて、
「駕、駕」
 と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。
 飛んできた、町駕が二つ。――湧井は、無理やりに、
「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」
 微行しのびの塗駕が、すぐそばを通った。提灯ちょうちんのしるし、まぎれもない、千坂家のものである。
 その後にいて、
「――早く、早く」
 と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕をき立てて、たッたと駈けだした。そして、真っすぐに浜町の千坂家の下屋敷へ。
 祭りを見せるといって、馬喰町ばくろちょう旅籠はたごから、お信を連れて、出あるいていた繭買まゆかいの銀六老人は、お信には、分らぬ、知れぬ、とばかりいっていた丈八郎の行動を、どうして、そう心得ているのか、
「さ、見つかった」
 と、火除地ひよけちへ、急いで来たが、案外な――という顔をして、
「はてな、何処へ」
 と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。
 だが――それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、
「ああ、しまった!」
 と、何もかも、泡沫ほうまつに帰したように、しばらく、茫然と、いかめしい門扉もんぴながめていた。
「どうも、しかたがない。――やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや……」と、振り向いて、
「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。……何、わしかい? わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」
 と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。

 えつと、あだかたきとが、こうして一つのかまの飯を食う、食うのが、間違っているか、宿命なのか。
 本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、
(なんと、人間は、ふしぎな生きもの)
 と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。
 一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。――この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。
「――たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の社稷しゃしょくのために」
 あの、直江なおえ山城以来の人物といわれている国家老の千坂兵部が、軽輩も軽輩――とるにたらない若輩じゃくはいの自分へ、
「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」
 と、手をついたではないか。手を。
たれずにいられるか)
 丈八郎は、いなやなく、
(一角とは、桐ばたけで、ちがえたと思って、吉良殿へ、参りまする)
 と答えたのだった。
 ところが――初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。
「さあ来い。酒を賭けるか」
 と、毛脛けずねをむきだして、脛押しをしている一角。酔えば十一人の部屋を、ひとり顔に、寝ている一角。
「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」
 飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、博奕ばくちなども初めるが、自分の首の番をしてもらっている吉良殿は、弱身があるので、
「左様な事は、相成らぬ」
 とも、いえなかった。
 丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。
(いつでも)
 と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな遊戯ゆうぎ、どんな、見下げるような浪人とも、楽につきあえて、面白く、相手の人間性を見ることができた。
 ――殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、すさんだ影がとれてきた。
「雪だ」
 というので、まかない方へ、
「こん夜は、鮟鱇鍋あんこうなべを出せ。酒も、よけいに」
 と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。
 屋根の雪なだれ――かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。
 がばっと、真っ先に、一角が、
「丈八郎」
 と、蒲団をねて――
「起きているか」
「お……。いぶかしいぞ」
「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」
 もう、青砥あおと弥助も、湧井半太夫も、十一人すべてが躍りあがって、
「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」
 長押なげしの槍へ、手をのばす者、日ごろ、稽古けいこをしていた、半弓のつるを鳴らす者――。
「丈八郎! 俺と一緒に働け」
 一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼をるような白夜の光が、さッと、室内へ冷たい空気をふきこんだ。

 裏門、表門。――室内へ、庭口へ。
 烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰がなにがしとも、わかたない。
 付人つきびと側の十一人、鳥居与右衛門、須藤与一、左右田そうだ孫八たちは、みるまに、奮戦して、ばたばたと討死した。
 一角は、あけになって、
「丈八郎、いるか。――丈八郎」
 と、たえず、彼を呼びながら、
「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」
 と、奥書院にかよう、中門に立った。
「推参ッ」
 と、萩垣はぎがきの横から、槍が走った。――若い、赤穂浪士の一人だった。
「うぬ!」
 だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。
矢頭やとう。あぶないッ」
 それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、
「――赤穂の旧藩士、奥田おくだ孫太夫重盛、一角どのへ、参る!」
 と、槍をくりのばした。
「何ッ」
 ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、鉢金はちがねの下とはいえ、あざやかに見える敵の顔に、
「あッ? 老人」
 と、ど肝を抜かれて、叫んだ。
 敵は、笑って、
繭買まゆかいの銀六、お覚えか」
「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」
「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の間諜かんちょうは。――これも、尽きぬ御縁」
「おっ、よい敵だ」
 半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと深股ふかももを抑えて、
「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。
「弱いぞ、銀六。――いや奥田老人」
 振りすてて、走り去ると、奥田老人は、
「卑怯卑怯、返せ、一角」
 と、どなった。
 乱れ髪に雪を――全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。
「――おッ、そこにいたか」
 池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、
「――助太刀ッ」
 と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。
 誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。
「ええッ、此奴こいつ
 よろけながら、後ろへやった刀が、かつんと、鉢金に弾んだと思うと、鍔から三、四寸の所から、折れて、氷柱つららのように、すッ飛んだ。
 しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。――また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、紛雑ふんざつする。
「丈八……俺を……丈八……俺を……」
 そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。
 木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、
「さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ」
「しっかりしろ! 一角、まだ、まだ」
「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。上野介こうずけのすけの首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに」
「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」
「いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、あつらえ向きな晩を、さばさば……と」
 彼は、雪をつかんで、くちに入れた。
「――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、惚々ほれぼれした。武士さむらいはやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ」
「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――」
「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!」
 丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた睫毛まつげを、しばたたくのである。
「……さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、ってくれ。年三十にならねえうちに、生きるに持てあましたこの首を」

底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2003(平成15)年4月25日第8刷発行
初出:「中央公論 夏季増刊号」
   1932(昭和7)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
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