船宿のお内儀さんだ。暗い河岸に立って、いつもの、美い声を、張りあげている。
息が、白く、冬の夜の闇に見えた。
寒々と更けた大川の中で、
「おう」
と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、
「あの……船のお支度が」
と、女中へ告げた。
上杉家の国家老、千坂兵部は、茶屋の若主人や、廓から送ってきた女たちの小提灯にかこまれて、ひょろりと、手拍子に、
さても見事になあ
振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「お履物を――」振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「殿様、おあぶない、肩にお手を」
兵部は、眸のながれたような眼で、明りにつれて、海月みたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、
「――船は、どこじゃ。船は」
「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋まで、おひろいを」
さても是非なや
兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、低声をあわせて、
――なびかんせ
台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
「きゃーッ」台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、
「あっッ」
と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、逃げ転んでしまった。
「――な、何とした事。これやひどい、此方、一人を置いて」
兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。
じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、
(来たな!)
と、眉間に、直感の熱痛を感じて、同時に、
(いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの刺客だ。もうやむを得ん)
と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。
「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」
案外だった。――その言葉のていねいなのに。
のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、綻びから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、鬢をみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。
「町方じゃの」
兵部がいうと、
「左様――」と、肩で、喘ぎながら一礼して、
「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首をかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」
「存ぜぬ」
と、兵部は、無駄だった気がまえを弛めて、
「――狂人かの」と、訊ねた。
「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、廓や盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で」
「ふむ……それが、女の生首を抱えてとは」
「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽い誘いに、つり込まれて、
「――江戸唄の師匠をしておる、里次という女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ深間で、何でも、二、三百石の知行を、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、愛想もつき、恐くもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です」
「む……」
「だが、一方の浪人と、どうして手を絶ったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、伊勢詣りに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の生首を片手に」
「わかった」
と、兵部は、もう興味がないように、
「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」
「かたじけない。御免を」
と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、囁いて出て行った。
そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、
「女ども、女ども」
しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお内儀だけが、
「は……はい」
と、四阿亭の蔭で、寒さと、恐さに顫えながらも低く答えた。
「お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい」
「羽織は、着ておりませぬ」
「いかさま……では、いや、あれにある、伊達羽織を」
兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それを外して来て渡すと、
「――頭巾には、ちと、綺麗」
と、呟きながら、ふわりと、後ろへ投げた。
闇が、咥え込むように、小袖はすすすと、丁字の葉蔭へ、うごいて行った。――内儀は、さっきから、見まいとしているそこの物に、また、慄然として、唾をのんだ。
初めから――かの女は、知っていた。
それは、役人より早く、女たちの眼を、吃驚させた影だった。みんなが、きゃっといって、逃げる突嗟に、兵部の後ろへ廻って、屈み込んだのである。兵部は、とたんに、刺客の一人かと――鋭い眼を投げたが、同心との対話のうちに、何もかも、解けたらしく、知らぬ顔を装っていた。
けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。――それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。
憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く――そこに屈んでいた人間は、女の生首を、手から、転がして、また頬摺りをした。そして、すばやく小柄をもって、丁字の根を、掘りかえして、生首を埋けてしまったのだった。
――そこへ。
絢爛な女小袖が、ふわと、落ちたので、男は、それを頭からかぶると、
「武士のお情け――」
四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。
「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」
「――無事な所まで、此方の船で」
「それは、あまり」
「いや……」と、兵部は立って、
「内儀」
「はい。今――お提灯を」
「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、言伝てを」
「覚えておりまする」
「そして……」
と、自分の後ろから、小袖を、女被衣にして、忍びやかに、尾いてくる者を顎で指して、
「夢――人には告げるな。――わしの浮気を」
両河岸は、霜が白い。
灯さない屋形船が一艘、氷をすべるように、大川を下って行った。
「――寒かろう、はいってはどうだ」
中の兵部は、こう、外へ声をかけた。
小袖をかぶったまま、鷺のように、舳に屈んでいた男は、振り向いた弾みに、刀の鐺を、かたんと、屋形の角に音をさせて、
「何、ここで……。すぐ其処の百本杭あたりで、降ろして貰おう」
「まあ、そう申すな、炬燵の火も、ちょうどよい加減、酒も温まっておる。はいって、一献やってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに」
それを、兵部の独り語のように、外の男は、そら耳にうけて、じっと、暗い川波を見つめていたが、
「オッ、寒いっ」
と、思わず、くさめを一つして、小袖で口を抑えた。
「風邪をひくぞよ、一角」
「えッ?」
男は、そう言った兵部の声を、疑うように、
「俺を、一角と知っているおめえは?」
「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を食んだ旧主の声を、忘れる奴があろうか」
舷に、身を這わせて、小障子の隙間から、中を覗いていた一角は、途端に、
「あっ、しまったッ」
弾かれたように、突っ立った。そして、河へ飛び込もうとするのを、兵部の手が、鐺を掴んで、
「何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」
「――面目次第もございませぬ」
屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、
「清水一角と申したの」
「はっ、御、御意にござります」
「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、何日頃であったかの」
「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」
「只今も、流浪中ではないのか」
「はっ」
一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。
「そちの仕官中に、国許で、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、此方の在府中に出奔したという事じゃった」
「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お見遁しを」
「見遁せとは」
「何事も、お訊ねなく。――犬でも助けたと思し召て」
「卑下いたすな。若い時代の過ちは、生涯の評価にはならぬ。その慚愧をなぜ有為な身に、すぐれた腕に、鞭とせぬか」
「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが病、自暴から自暴へ、持ちくずした身の傷は、癒るどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、その冷っこい川風の中で考えてみると……」
「それや、無理もない。惰性というもの、そこに、転機が来なければの」
兵部は、つぶやいて、酒瓶のくびを抓んだ。一角へ、杯を与えて、
「ひとつ、飲まんか」
「恐れいります。御大身のお酌では」
「あとも、燗銅壺についておる。では、そちの手酌にまかせて」と、膳ぐるみ、押しやって、
「――だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」
炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が――苦労が――胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、米沢の宝といわれたこの人にも、めっきりと老けてきた影がみえる。――いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。何か、尠なくもそれは、主家上杉藩の浮沈にもかかわる程な。
で、実は。
この三月でいい出府を、彼は、二月も繰上げて急に、国元の米沢から上ってきたわけだった。問題の重点は、世間からも注意されている吉良上野介の身についてである。いうまでもなく、上野介の夫人は、上杉家の当主綱憲の母にあたる――吉良家と上杉、これは、断っても断れない関係のものである。
上杉家では――いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、
(もし、父を討たれては)
と、躍起となった。
(そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば)
と、江戸家老の沢根伊兵衛に謀って、
(飯倉か――桜田か――いや白金の下屋敷が、最も、堅固)
と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。
(大事! 社稷の危機)
と、兵部は、その、余りにも無謀な――浪士と上杉家との対立を敢てする策に――驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。
社稷か父子の情かである。一人の上野介か、上杉家全藩の生命かである。
綱憲も、その非を覚って、兵部の諫めどおり、また上野介を、本所の彼自身の邸に戻した。だが、兵部の心は、それだけに、負担を感じている。公然とはできない吉良邸の警戒に、赤穂の浪士たちの行動が、潜行的になればなる程、水も洩れてはならないのである。
何よりも、彼が第一に、
(さて、人間はいないものだ)
とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。
(剣客などは、いくらでも)
と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。
町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、
(吉良の屋敷では)
と、断るのが、多いし、上杉の藩士を詰めさせては、赤穂との対立になるし、素姓の知れない人間は、敵方の諜者を入れこむ惧れがある。
今――およそ兵部の眼鏡で、八、九名の浪人を抱えて、付け人にさせてはあるが、とても、まだ安心はできない。赤穂の浪士たちに対しては、物の数でない。
で――兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが……などと炬燵ぶとんへ、横にした頭の中で、船の揺れを感じながら眼をふさいで、じっと考えつめるのだった。
今夜なども、飲めない酒を飲んでまで――また、老いと苦悩の、億劫な気もちをも曲げて、花街へ、人を招んで、おかしくもない夜更かしに帰るのも、みな、上野介のために、幕府側の人々を、手なずけておくためだった。
(これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる白髪も、苦労栄えというものだが……)
と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、
「――殿様、百本杭で」
と、船が、急に舵をまげていた。
冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、
「お、着けてくれ。――俺はそこで」
と、立ちかけると、兵部が、
「いや、そのまま、行け、着けてはならん」
と、船を河心へ返させて、一角へ、顎で、陸の人影をさしていった。
「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を尾けてくる」
「あ……」
一角は、小障子を閉てた。
船が、永代に着くと、橋袂に、迎えの灯が待っていた。千坂の家来たちに囲まれて、そこから近い兵部の下屋敷へはいってゆく浪人を、清水一角と、はっきり分っていながら、町方とその捕手たちは、どうにも、手が下せないで、
「ちッ、忌々しいなあ」
と、睨まえて見ているだけだった。
ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。
「一歩でも、出て来たら」
と、町方は、意地にもなって、
「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」
と、伏せを撒いて、張込んでいた。
「物騒だが……其方ならば」
と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら――
「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」
と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、餞別とはいえない、かなりな額の金を、こっそりと、渡した。
旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう寒明け、寒さもここらが関と、多寡をくくって、
「では、いずれまた」
と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、
「確と、そちを見込んで」
と、特に、見込んで――に力をいれて、
「……頼んだぞ」
といった。
ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。――と、すぐばたばたっと附近から雁のように立った跫音を、兵部は、知っていたが、黙然と、空を見ていた。家来たちも、主人の気持のまま、じっと、問わず聞かずに、黙っているよりほかなかった。
だいぶ、間を措いてから、やはり不安でならないように、兵部は唐突に、
「誰か、見届けて来い」
と、いいつけた。
やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいを衝いて、一気に、板橋口から街道を北へ、立って行ったと聞いて、
「――そうか」
と、初めて、ほっと、脇息に、気づかれを、落して、
「人は使いよう……。一角も、こんどは胆に沁みて、立ち直ったとみえる」
頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、呟いた。
春だが、寒かった。
山の襞には、雪が深い。
(四年ぶりだ――)
と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、板谷峠の上に立った。
そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、
(しまッた。なぜ俺は、兵部の手に――)
と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、苦く繰返して、
「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」
と、呟いた。
自分では、摺り切れてしまったと思っていた武士根性が、まだ幾分か、どこかに潜んでいたかとも苦笑されて、
「うまく、兵部に抱き込まれた。――だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの……」
城下へはいった一角は、その翌日、藩の湧井半太夫と青砥弥助をふいに訪ねた。どっちも、一角が仕官時代の旧友ではあり、また、米沢では――いや奥羽の剣人としては、五指のうちに数えられる若者たちだった。
「どうしたんだ? 一角」
ふたりは、眼を瞠って、彼を迎えた。
お互いに、飲ける口を知っているので、松川岸の隣松亭へ行って、
「まあ、久闊は、酒から」
と、すぐに、寛ぎあった。
「――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」
「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、尾羽打ち枯らしてこの姿だ」
「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」
「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」
「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」
「今さら――」
と、苦笑して、
「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」
「そいつは、目出度い話だ、どこへ」
「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか」
「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」
「そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」
「誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に」
青砥が、少し乗り気になると、湧井は、笑い消して、
「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を担ぐのも、程にしろよ」
「なに、嘘だものか」
懐中から、百両の封金を、一つ、二つ、三つ――と眼の前へ転がして、
「見てくれ、手金さえ、持って来ている」
「ふふむ……」
「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」
「――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」
「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」
「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」
「そこが、相談。うん、といえ」
「だが先に――」
「いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら」
「では、誓う」
「脱藩をか」
「いや、他言を――」
「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」
「じゃ、俺は……」
と、青砥が、言いかけるのを、湧井はあわてて、
「待て待て。――返辞はいつまでか」
「早いに、越した事はねえ。明日のうちにでも」
「じゃ、明夕までに、熟考して」
「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」
と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。
「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう?」
宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。
「やっぱり――彼女の魂が、おれを国へ……」
ぽろんと、銀脚の釵を、指先から落して、
「お里のにおいが」
と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。
まだ、女の髪油が、生々と、曇っている。見つめていると、ありし日の女の姿が、ぼっと、眸にひろがって来る気さえする。
かっと一時の感情で、自分の手に斬けた里次の釵――。その生首をつかんで、堀の茶屋へ逃げこんだ際、あの突嗟に、生首は、丁字の木の蔭に埋けたのであるが、釵は、釵だけは――自分が殺した程な女なのに、何となく、捨てきれずに、肌へつけて、持っていた。
「――いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、直に会って今度の事を話すのは、気が咎める。……おれが、お里を誘拐かして、連れ出した事は、いまだに、知らねえらしいが」
そこへ、女中が、
「おふたり連れで……。湧井様、青砥様と仰っしゃるお方が」
「お、来たか」
あわてて、釵をふところに、
「――通してくれ」
青砥弥助と、湧井半太夫は、
「よくよく、思案してみると、今の世の中では、軽輩者は、生涯つとめても軽輩者、百金の手当があれば、肉親の者の保証は充分になる。――うん、と言おう。抱える相手を明かしてくれ」
と、同意の返答だった。
「有難い、それで俺も顔が立つ」
ふたりへ、百金ずつの金を渡して、
「実は、貴公たちをお抱えになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ」
「げっ、あの吉良か」
「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の千坂兵部様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ」
「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」
「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし」
「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」
「いや、まだ丈八郎へは」
「あれ程、急いでおるのに」
非常な苦痛のように――
「丈八郎へは、貴公たちから、懸合ってくれまいか」
「む……話してもよいが」
痛いものを怺えるような眼を、ふと、反らして、
「たのむ、是非」
と、一角は言った。――ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、
「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」
「何か、弱味でも、あるのか」
「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」
「ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」
「今さらいうのも、懺悔めくが、同藩の市岡へ、嫁ぐ約束になって、結納まですんでいたあの女を、婚礼の間際に隠したのは、俺だ、この一角なのだ」
「えっ? ……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」
「川縁の下駄も、遺書も、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、彼女は、江戸で女師匠、俺は、持ったが病の博奕、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、風邪が原因で、死なしてしまった」
「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」
「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」
「なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、遉がに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の付人として申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう」
「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」
「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を」
「すぐ、行ってくれるか」
「吉報を、待っていろ」
翌日は――と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。
「こじれているな、話が」
そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。
「お里を手に斬けたさえ、後では、いい気持ではないのに、その弟まで、万一にも」
と、考えると、祈らずに、いられなかった。――どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。
「そうだ、返辞を待っている間に」
顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。
すぐ、分った。
城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の菩提寺である。
「む、ここか」
と、探しだした、一つの墓。
あたりを見廻した。――梅花が明るい。
今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていた簪を――あの里次の生首のにおいを持つ簪を――、そっと、墓石のそばの土中へ、ふかく、差し込んだのである。
悪夢を、封じたように、
「ああ、これで、さっぱりだ」
と、一角は、掌の土をたたいた。
春の雲が白い。――紅梅が紅い。
からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。
「気一つだ」
だらだらと、丘を降りて来た。
すると――麓から、若い、一人の女が、上ってくる。
「オヤ、何処かで?」
と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、
「やっ?」
愕然として、喉でさけんだ。
何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った――いや蹌めいた。そして、樹の蔭にかくれて、あらい息を、肩で、
「不思議だ、お里が来る、お里が?」
――と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。
「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ一徹者だ。二人が、何と説いて聞かせても、金で身売りなどとは、剣士の恥。たとえ、一時の方便でも、藩へ無断で、脱走するなどとは、以てのほか――とばかりで、俺たちも、口をすッぱくして通ったが、匙を投げた。あれは、諦めものだぞ」
宿へ帰ると――青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、
「どうする?」
と、彼の決意を聞くのだった。
「じゃ、兵部様の腹中を、洩らしたのだな」
「少しは、格好を話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの」
「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、発足してくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが」
「承知した」
その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。――軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。
(丈八郎を、暗討ちするか――もう一度、ぶつかって、心を翻させてみるか――)
に、彼は、迷った。
五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の乾門番士、禄は、高々百石たらずである。夜勤交代で一日おきには、家にいない事になるらしい。
(討つ気なら、造作はねえが?)
一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の姉妹を見ると、そんな気もちは失せて、
「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の血統だ」
と、感心した。
自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。――三番目のお信は、十五、六か、まだ、至ってあどけない小娘で、これは少し丸顔、兄の丈八郎の方に似ている顔だ。
「――どう見ても、お里そっくりだ。いくら姉妹とはいえ、ああも」
機があったら、口をきいて見たい気がした。
墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが――。
夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。――お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。
「はてな、俺は恋を? ……」
一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭を擡げだした。水っぽい春の月――風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。
だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。押というか、自信というか、ぶつかってゆく。――その手で、お里も、ほかの多くの女をも、経験してきた彼は、やがて、お八重がよく町医の関口庵の所へ通うのを知って、ある夜、わざと、
「お里どの。お里」
と、呼びとめた。
「え?」
案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、
「――姉の名を、お呼びになって、貴方様は」
「や、人違い。――余りよく似ているので」
「どこかで、お見かけしたような?」
「四年ほど前に、浪人した清水一角」
「あ、よく姉がお噂をしていた……」
「そのお里どのが慕わしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに」
「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」
「えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが」
「私たち姉妹ほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに良人に死なれて」
もう、美人薄命が真に近いように、美人は多淫であるという言葉がほんとなら、お里も、その一人だったし、このお八重も、そうではないかと、一角は、肩をならべて歩くうちに、勝手な異性観を、描いていた。
人なつこい――柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、蠱惑に反射してくるお八重を、彼は、幾十人もの女を手がけた経験から、
「これは、思いのほか、手なずけ易い。……それに出戻りの女は」
と、もう甘い香を――雪国の女の特有な肌を――官能の中に弄んでいた。
「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……」
「ええ、どうぞ」
「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」
「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても」
と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、泛かべながら、
「では、近いうちに」
と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。
渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。
「女庭訓で育った武家娘なんて、男にかかると、から、意気地はねえ」
一角は、つぶやいた。
反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の悪戯は、お八重を、自分のものにした夜から――
「俺も、物好き」
と、彼を、微苦笑させた。
美人にはちがいないが、お八重は、癆咳病だった。――そういえば、死んだお里も、よく、悪い咳をしていたが――と考えると、丈八郎の家系には、その血のあることが、慥である。美人系は、一つの、病系なのだ。
「旦那様、あの、お手紙が」
宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、
「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」
すぐ、お八重の文字と分るのであるが、――一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。
「べら棒な。――ほかに男をこしらえた女、俺が手に斬けて、成敗したのは、当りめえだ」
明くる日もまた、女中が、
「旦那様」
「また、手紙か」
根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。――しかし、勃然として、かれの気持は、その日から一変していた。
「丈八郎に出会ったら一討ち!」
と、むしろそれを、希望していた。
が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。この娘は、また何というほがらかに出来ているのか、出戻りの姉にいいつけられて、いつも、恋の番をしているのである。
お八重は、彼を見ると、
「まあ、憎い……」と、膝に、恨んで、
「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」
「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」
「でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」
ああ、平凡だ。
尠なくも、一角が経験した女の数では、こんな会話では、欠伸を感じる。
でも――無碍には、あしらえなかった。出戻りのお八重は、丈八郎の留守の間を、貪るように戯れた。
すると、外にいたお信が、
「あっ、兄様が!」
ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。
「帰って来ました。兄様が」
「えっ、丈八郎が」
お八重は、ふるえ声で、
「あなた。はやく……。裏口から」
一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを――身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、無性に、
「ここにいては。裏! ……あっ、いけない、そこの納戸へ」
一角は、その手を、振り払って、
「――退いていろッ」
途端に。
ばさっと、庭先の連翹の花が、嵐みたいに揺れた。垣を踏みこえて来た激しい物音から、一箇の人影が、縁側へ、躍り上がった。
「――おのれっ、一角だな」
「おっ、木村丈八郎か」
「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――」
と、鐺を上げて、ぶるぶると、右手の拳に、鍔音をさせた。
(この男か)
と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い眉目を見上げた。彼の淡い四年前の記憶では、まだ竹刀をかついで、よく道場通いの途中で見かけた前髪の小童であったが、今仰ぐと、二十歳か、一か、末娘のお信の方に似てやや丸顔な、唇の大きな、そして、健康にはちきれている逞しい青年だ。
(……ウーム、なるほどできるな)
直感的に一角も、ぴりっと、構えを、呼吸を、反射しながら、
「丈八!」
と、威圧的に、あびせて、
「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」
「だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守を狙って」
「それは、てめえの姉に訊け。おれは、お八重の媚に釣られて来たまでの戯れ男」
「な、なにっ」
「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに糺す一言がある」
「恥知らずめ」
丈八郎は、憎悪そのものの眸を、俯つ伏している姉へも投げた。が、すぐそれが、一角の眼を見ると、よけいに、焔となって、
「不義を見つけられて、居直る所存だな」
と、罵詈した。
あざ笑って、
「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、棘立つものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の苦衷を買って、吉良家へ行ってやる気はないか」
「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、真であるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ」
「では、どうあっても、嫌か」
「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」
「待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」
立つ――同時に、
「丈八郎、命はもらった」
と、鞘はうしろに飛ぶ、刀身は前に、そして、一角のからだは畳一枚、踏み出していた。
風を切って――横に。
ばすっと、丈八郎が一角の出ばなを薙いだ。
「あっッ……兄様っ」
「お信、あぶない」
「やめて! やめて!」
「ええ、邪魔」
と、妹をつき倒して。――柄を持ち直して。
「さあ、来い一角」
「おう、退くな」
「何を」
ち、ち、ち、ち……と刃と刃の先が鳴り合った。
押す。もどす。――丈八郎は、挑みかけた。――フウッと、一角の技に引かれて、はいると一気に、
(この顔ッ)
と、真っ向を睨んで、斬りつけた。
だっッと、一角は、退がった。背なかを、襖にぶつけたので、襖は、次へ倒れた。ベリッと、それを踏んで、よろめくと、
(しめた)
と、丈八郎は、盲目的に、躍って、揮り下ろしたが、一角は、反対の方へ、ぽんと、飛びかわして、
(それは柱だっ)
と、罵倒した。
丈八郎の刀は、斜かいに、隅柱へ斬りこんだまま、抜けなかった。とたんに、うしろへ一角の刃を、感じたので、手を離して、振り向くせつなに、さっと、真っ赤なものが、自分の腕にも、胸にも、部屋にも、眸いっぱいに見えた。
ウーム……と、誰か、分らない呻きがながれた。行燈は、消えて、倒れた弾みに、ころころと、灯皿が白い煙の糸をひいて、独楽みたいに、部屋を廻った。
ウウム……と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、
「あッ――お信が」
と、発狂したように、お八重がさけんだ。
丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、
「おうっ?」
と、跳びひらいたまま、一瞬、茫となって、畳に、もがいている意外な犠牲者の影を見つめたが、丈八郎は、自分を目がけた一角の刃が、弾みに、罪のないお信を斬ったことに、気がついたので、
「妹の仇っ」
と、喚いて、
「――動くなっ、そこを」
と、小脇差で、突っかけた。
組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。
盗賊。――盗賊。
そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、
「卑怯ッ」
と、よぶ丈八郎へ、
「後日っ」
と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、魔形に似た提げ刀の光を、何処ともなく、晦ましてしまった。
「――斬られたと? だ、だれが」
「盗賊ではないのか」
「灯りを。――どなたか、灯りを先に点けてください」
組長屋のものが寄って、そこに、ぶち撒かれた鮮麗な血と、お信の、むごい姿とを、見た時は、いつのまにか、姉のお八重は家の中にいなかった。
勝手口の戸が一枚、開いていた。――恥かしい! と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、焦燥に、気づかずにいるので、口に出さなかった。
「――助かる。背すじだ、薄傷だ」
来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、白晒布を、勢いよく裂いているのに、丈八郎は、初めてわれに返って、
「た、助かるでしょうか」
「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――焼酎を早く、焼酎を」
「お信っ。お信っ……」
丈八郎の眼はうるんでいた。
医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、
「姉さんは……」
と、ほそい声で、訊ねた。
「そんな事、訊いてくれるな」
夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。――淫らをしたお八重こそあの場で、斬られてしまえばとさえ思うのだった。
(お八重さんが見えない――)
(男と逃げたらしい)
組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。
傷は、日にまして快くなって行ったが、お信も、それを心に病むらしかった。兄に対して、何か、悔悟と、叱責を、恟々と待つ気ぶりも見える。
「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か事情でもあったのではないか」
丈八郎が、ある日、こう問いつめると、
「いいえ」
と、お信は、首を振った。
「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、垣根の所に、立っていただけです」
「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」
「じゃ……」と、お信は、考えて、
「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」
「む……」
「一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」
「えっ。どうして」
「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されても関わないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました」
「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡氏へ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って入水したのだから」
「いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」
「どうしてお前は、それを、はっきり言える」
「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の釵、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのお詣りをする前に、埋けて行ったというではありませんか。それが、一角なのです」
「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……」
「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」
「血だなあ」
丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、
「――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか」
「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」
「そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、二女の母親が、若い頃に挿していた品、その釵が、淫奔な血とつき纏って、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする」
「兄様。いま仰っしゃった二女の母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか」
「亡父の過失。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、姉妹の気持にけじめは持たなかったが、異母胎じゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、癆咳で、若死にをしたという話も……」
夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、
「泣くな」
と、宥めて、
「おまえと、わしは。……おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」
と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。
そこへ、裏町の――軽輩な家中へ内職の仲継ぎをしている老人が、見舞に来て、憤然と、
「丈八郎殿、貴公、とんだ濡れ衣をきておるぞ」
と、尖った拳を、膝において、いうのだった。
「何事ですか、この、丈八郎の冤罪とは」
「貴公、清水一角から、金を取っておるか」
「ばかな」と、一苦笑に、
「なんで、彼奴のごとき、人非人から。――恨みこそあれ、金子などを」
「ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の腕利きを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが」
と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、
「――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる理もないと。――ま、一理あるな。そう申しおる」
「ウウム……左様でござりますか」
「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」
「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……」
「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。冤を雪ぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには」
「は」
と、丈八郎の眼が光った。
「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより潔いことは、あるまいが」
「有難う存じます。よくこそ、御注意を」
で、――なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉の仇。
彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、狼藉の夜の足痕の残る、裏庭の連翹の花は、春をいたずらに、みだれて咲いて――。
「若いな。……は、は、は」
その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、吾家へはいった老人は、これまた、俄かに、旅支度をして、いつの間にか、米沢からいなくなっていた。
(おや? ここでも会った。――妙に何処でも会う老人)
と、思うまに、駕のタレを刎ね上げた一角の姿を見つけて、先でも、同じように、
(おや)
と、いう眼いろを閃かせた。
涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。
「駕屋、一汗拭け」
「ありがとう存じます。――旦那あ、短気だから堪らねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ」
「心太でもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。老爺、床几を借りるぜ」
須賀川並木の一軒茶屋。
松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた旅商人の老人が、
「おっと、と、と。旦那あ、其処は」
「なんだ」
「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、嬰児に粗相をさせたんでまだ、尿で濡れている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし」
「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」
「はははは。飯坂では、だいぶお賑やかなことで」
「二、三度、温泉壺の中で、ぶつかったな」
「旦那も、覚えておいでになりますか」
ぷっと、煙草の火玉をふいて、風に、ころがり出したのを、雁首で抑えながら、
「足かけ二月、永い御湯治で。――てまえが、仙台から、会津福島の花客を、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな」
「何屋だい――老人は」
「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」
「そうだな……。黒焼屋か」
「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」
「薬屋でもなし、呉服屋でも」
「だんだんお近くなりますな。実は、その辺――繭仲買の銀六と申して、こ覧の通り、秤一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国の桑ある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする」
「繭買か。なるほど」
「いやですぜ、顔を見て。――顔がさなぎに似ているなんぞは」
「人間のさなぎは、老人ばかりじゃねえ。俺なんぞも、若いさなぎの方だろうよ」
と、自嘲をうかべた。
「御謙遜で」
と、銀六老人は、首を振って、
「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」
「ひどく、感心するな」
「いたしますとも、真昼、北上川の温泉壺の中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、河鹿を聞いているなんざあ、言語道断」
「よくねえ老人だ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、覗いていやがる」
「は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して」
「もう沢山」
と、焼酎の茶椀をさしあげて、
「亭主、代りを」
しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。
近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。
(自暴に、身を腐らすというものは、底のねえものだ)
と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。
千坂兵部に、
(人間も三十に近いとなれば――)
と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の堕落を嘆いたものだったが、今を省みると、それから更に、一歩も二歩も、やくざの沼に辷り込んでいる。
(己惚れではなく、人並以上の腕を持つ一角が――)
と、腐ってゆく、身の脆さを、殊に、若さを、口惜しく思わぬでもないが、どうにもならない――宿命的なものが、折角、志した米沢でも、尾いて廻った。
第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、過ってでも、斬った事。
一つも、いい事はない。
(千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。――見込んでといわれて、米沢へ。――ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ)
悶々として、あれからの一角は、旅が、捗らなかった。悪い原因は、もう一つある。それは懐中に、兵部から貰った多分な金があることだ。
で、つい――
(ままよ)
と、酒。女。――若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。
「どれ、そろそろ」
と、腰を上げると、繭買の銀六老人が、
「今夜は、白河で」
「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」
「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。今市とまで、突っ走りとうございますね」
「行くか、交際え」
異存はなかった。
駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、抛りこまれたのはその翌日――。
三日ほど遊んでいるうちに。
「驚いた老人だ。酒も強いが、何ていう芸人だろう。してみると、俺などは、極道にかけると、まだまだ嘴が青いのかも知れねえ」
と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。猥談、酒談、博戯、悪事と諸芸、道楽の百般にわたって、この老人の該博さは、驚くべきものだった。――といって決して一角を、女たちの前で、子供あしらいにするではなく、実際に飲んで遊ぶとなればなお、面白い。彼自身が、苦労も何も忘れているばかりでなく、相手をして、ほんとに、顎を外して遊ばせるのである。
「なぜ、おめえは、秤量なんぞを、腰に差していねえで、幇間にならなかったか」
と、一角が、上わ唇を舐めあげて聞くと、
「あいつが、楽な商売に見えますかい」
と、老人は、一蹴に答えて、
「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、窮屈がっているよりも、さらりと、博奕打にでもならないのか、わしゃあ、ふしぎ……」と、真面目にいった。
女たちが、話の深味を、はきちがえて、
「博奕ならば、今、日光には、大きな賭場ができていますから、私たちが、男だったら」
「そうそう」と、老人は、膝を打って、
「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」
「行こう」
思い立つと、すぐだった。
気まぐれではない――ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。
あぶら蝉、みんみん蝉、日光山がジイ――ッと啼いているようだ。
「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、自暴のやん八」
香りの高い檜の板を、削り台にそろえて、十人ばかりの大工が、絹よりうすい鉋屑を舞わせながら、
「ふふむ、あの浪人者か。山の大賭場へ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ」
「素人のくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ」
「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」
「先へ行く路銀も失くなったんだろう。賭場をのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や塗師の手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな」
「叱ッ……。やたらに、大けえ声を出すな。眼をさますぞ」
鉋音を止めて、職人たちは、後ろを見た。板小屋の横の板束の上に、清水一角は、涎れをたらして、寝ていた。
連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。
「ううむ……」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。
毛脛が、出ている。鋸屑だらけな髷が、そッくり返っている。二寸ほど鞘辷りしている大刀の刀身も、賭場で、勝負をしてしまったのか、あわれにも、竹である。
「態あねえな」
職人たちは、べっと、唾をして、鉋に腕の縒をかけ初めた。
「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」
向う側の参道並木――杉や燈籠で鬱蒼として、人影は見えないが、胴間声で、こう呶鳴っている者がある。
板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、
「はい、今すぐに――」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ紙片らしいのを、抛りつけて、ばたばたと連れの方へ、駈けて行った。
ひら、ひら、と白い結び文は、鉋屑といっしょに舞っていた。
今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた男女の足数でも心に測っているように。
やがて。
むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、袂に突っこみながら、
「ああ、喉が渇いた」
と、まだ幾分か、宿酔の眼まいを感じるらしく、ふら、ふら、と御手洗の方へあるいて行った。
風が、山をうごかしてきた。喬木の魔形が雲のはやい空に揺れて、唸っている。足場の人影は、あわただしく、活溌になって、木ッ葉や、鉋くずが、地に舞った。
「ちょっと伺います。――職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」
仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、千種の股引を見せて、尻端折をしている、若い商人ていの旅人だった。
「――来るぜ、ひと夕立」
と、雪脚に趁われて、ばたばたと、片づけ仕事に慌てていた大工たちが、
「なんだい。物売りなら、明日来ねえ」
いい加減に、答えていると、
「いえいえ、てまえは、縮布屋の手代で、物売りではございません」と、若者は、ていねいに挨拶をし直して、
「伺いたいのは、実はこの日光の御普請場に、賭場があるそうで」
「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」
「はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと他から耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか」
「知らねえよ、一角なんていうな」
「でも、慥な所から……おかしい。間違いはないような話なのですが」
「幾歳ぐらいな浪人だい」
「やがて三十近い――どこか凄味のある痩せた男でございます」
「じゃ、あれじゃねえか。縮布屋さん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが」
「えっ」
と、身をかわすように、縮布屋は飛び退いて、
「――何処に?」
「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」
すると、一人が、
「あの浪人者なら、たった今、町から帰ってくる途中で打つかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ」
「え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに」
縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、神橋の方へ、走ったが、姿を見つけると、橋の袂から、
「あっ兄様。ここに」
と、十五、六の順礼娘が、
「分りましたか」
と、側へ駈けてきた。
「おお、お信。よろこんでくれ」
と、息の弾みにも、その欣びを昂らせて、
「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと報らせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう」
「ほんとに、不思議な。――今朝旅籠を立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が」
「いや人間の字だよ」と、縮布屋は、笠の裏を返して、読み直しながら、
「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角を狙けているなんていう事は、旅先で、知ってる者はない筈だが? ……」
ぽつと、雨が、顔に触った。
「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、
「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。――お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。……ああ困ったな」
と、焦心り顔に、つぶやいた。
すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕を拱みあわせて、こっちをながめていた繭買の銀六老人が、のそ、のそ、と歩いて来ながら、
「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」
「やっ、御老人」
と、丈八はびっくりして、
「あなたは、米沢の裏町にいた――」
「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、発足して後、わしも江戸の親戚に急用が出来てな」
「もしや、ゆうべのお報らせは」
「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、相宿の者からひょいと聞き込んだので」
「存ぜぬために、お礼も申さず」
「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」
「では、お信は、まだあの傷手の病み上がり、どうぞ」
「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」
「安心しました、それでは」
「一角も、剣を把ると、名だたる腕利き。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ」
「その儀は」
と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙を翔るように、街道を急いで行った。
みだれる雲――疾風の叫び――行く方は宵闇ほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻が眸を射、耳には、おどろおどろ、遠い雷鳴がきこえてきた。
× × ×
「あっ――傘が」
と、男女は、柄を持ちあった。
び、び、び、と傘の耳を鋭い風の戦慄と、雹みたいな雨つぶの音が、横に、なぐッて行く。
鹿沼の、博奕打、玉田屋の酉兵衛は、この一夏で、日光の出開帳から上げた寺銭の大部分を、今、連れてゆく、孫のようなお八重の身代金に、投げだしたといわれていた。
お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、素人くさいのと、武家出の女という事が、酉兵衛の心をうごかした。金で、花街から抜くとすぐ、中禅寺の乾分の家にあずけて、時折、
(どうだ、景気は)
などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、賭場へ出ることもあった。
で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。――だが、お八重は、にも、彼との事などを、酉兵衛に洩らしている気遣いはなかった。
きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。
「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」
「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」
傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、
「あらっ」
と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身を交わした。
「あぶねえ。大谷川へ墜まるなよ」
雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。蓑を、頭からかぶって、向う見ずに駈けてきた男が、どんと、胸いたへ肩をぶつけて来たと思うと、酉兵衛の脇差の柄へ、手を伸ばした。
「何をしやがる」
「かッ!」
蓑を刎ねた浪人者の顔を、酉兵衛は、あっと、一眼見たきりだった。ずばっ――と片手なぐりに、肋骨へ斬り下げられて、
「ウーム……」と、真ッ赤なものを吐く爬虫類みたいに、手も足も縮め込んで、雨の中を、転がった。
どぼうん――と大谷川に、飛沫が立った。
激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。
「しばらくだったなあ……」
一本のやぶれ傘の中で、男女は、笑い顔をながめ合って歩いた。雷光りが、絶えず、白い雨を見せて、睫毛のさきに閃いていた。
きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も――というような事を、女は、雨も雷鳴も――濡れる冷たさも、うつつに、昂奮してしゃべった。
「金は」
一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、
「――持って来たろうな」
「金なんか……。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。
「じゃ、支度をして来なかったのか」
「ええ。……だって、とても乾分たちの眼があって」
女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、
「でも、私は、嬉しい」
と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。
(馬鹿。馬鹿。馬鹿)
自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが!
(金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)
だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている――
「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、
「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」
「そんなに、この頃は、飲むのですか」
「半日も、一刻も、酒がなしじゃいられねえ」
「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう飲げない。そして可愛がってばかりあげる」
一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。
「あら、何処へ」
「居酒屋だ」
戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、枡をうけ取った。樋の雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。
ぐうっと、眼をねむって一息に――
「おお、美味え。――亭主亭主、もう五合」
一升の冷酒は、一角の体温をほどよく温めた。あきれて、後ろへ立っているお八重へ、
「オイ。銭を払え」
お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の旅籠代にもたりない。
「面倒だ――剰銭は――こう亭主、剰銭の分だけ、追い足しに」
さすがに、酔が、いっぺんに、発して、一町ばかり歩く頃から、雨が、逆さに降ッてるように見えた。
「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」
「ええ、小うるせえ」
と、女の手を、肩を振って、振り落して、
「――てめえは一体、どこへ行く気だ?」
「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」
「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……」
「清水さん。おまえ、それは本気で」
「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は」
「何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を」
「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、女庭訓を外れている。身から出た錆」
「な、なんですッ」
「おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか」
「口惜しいっ……。く、口惜しいっ……」
「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、髪の物が」
お八重は、雨の中へ、手をのばして、
「あ……姉さんの罰」
「姉さん?」
「――堪忍して、堪忍して」
と、拾った小さい物を、抱きしめた。
ぎょっと、彼女の手へ、一角は――酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、
「何だ? ……それは」
「釵」
「畜生ッ」
雨が――きゃあッ――という悲鳴を吹き攫ッた。
小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、雷にあわせて鳴る大谷川の激潭のふちを、蹌々と――踉々と――刃の血を、雨に、洗わせながら歩いて行く。
どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、縮布屋丈八は、とうとう、一角の姿を見出さなかった。
江戸らしい。どうしても。
あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。
初秋の二百十日過ぎ。――町には、祭りの提灯、花車、シャンギリの音が――そして空には赤とんぼが、江戸の秋を染めている澄んだ日だった。
「御用っ」
左衛門橋を、ばらばらっと人が――声が飛んでった。
砂利場の砂利に、腰を下ろして、
(銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが)
と、すこし疲れた面もちに、考えていた縮布屋丈八は、
「何か?」
と、橋の跫音に、顔を上げた。
とたんに――一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。――と思うと、どぼうんと、白い飛沫が、丈八の顔にまでかかった。
「石?」
と、丈八は、思ったが、橋の欄に、足をとめた町方や、捕手や、弥次馬の群れは、
「飛びこんだ、飛びこんだ」
「あの辺に――」
「水がうごいている」
わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。竿で突く、鉤を投げる。
「――はてな?」
丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で――何気なく、そこを離れて、橋袂から、欄干にかけて、背中ばかり並べている群集の空地を見ると、今、捕手たちが追い込んで来た元の方へ、ふところ手にして、にやりと、笑いを歪めながら戻ってゆく男がある。
ごくッ……と、丈八は、喉に生唾をつかえさせた。似ている! と思う直感と、たしかに! という直感と、一時に、十文字に、胸をつきぬいて、大きく心臓が呼吸した。
場所――地の理――尾けまわして、ちょうと、黄昏頃。
どこの仮巣へ帰るのか。
祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と火除地の桐ばたけを、一角は、よろめいて行った。
(よしっ、今だ)
と見て、丈八が、
「待てっ。一角っ」
と、するどく、ぶつけて、突嗟に、前へ突っ立つと――分らない――朦朧と靄でも隔てて見るように、
「だ、誰だ」
「酔をさませ。木村丈八郎だ」
「来たかっ、丈八」
「米沢への江戸土産に、その首を貰った」
「ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、閾はたかいが、一時の身の置き場はある」
「だまれ、姉の怨みも」
「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」
「何の」
「くそうッ」
ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃に刎ねた時、一角の体は、肩を落して、豹のように、丈八のふところに、はいっていた。
だっッ、と足で搏った。
(不覚)
と、丈八は、柄がしらで、一角の小手を突いたが、とたんに、足が浮いた。――投げ――食ったな――と宙で感じると、逆さまに見える敵の影を、
(おのれっ!)
と、払ッた。
びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の睫毛から、三寸とは、離れていなかった。
とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か――と見られる凄い眸を、ジッと刃のみねから真っ直ぐにつけている。
「止めろっ。おいっ! あぶない!」
突然、誰か、こう呶鳴った。
そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。
「や、青砥弥助」
「おう、湧井半太夫じゃねえか」
丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、悶え、抱きとめている手を振りもいで、挑みあうのを抑えながら、
「待てっ、任せろ。――御家老もおいで遊ばしている事だ。御家老に対しても」
と、二人は、必死に制した。
「え。千坂様が」
さらに、意外に衝たれているまに、青砥は、手をあげて、
「駕、駕」
と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。
飛んできた、町駕が二つ。――湧井は、無理やりに、
「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」
微行の塗駕が、すぐそばを通った。提灯のしるし、まぎれもない、千坂家のものである。
その後に尾いて、
「――早く、早く」
と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕を急き立てて、たッたと駈けだした。そして、真っすぐに浜町の千坂家の下屋敷へ。
祭りを見せるといって、馬喰町の旅籠から、お信を連れて、出あるいていた繭買の銀六老人は、お信には、分らぬ、知れぬ、とばかりいっていた丈八郎の行動を、どうして、そう心得ているのか、
「さ、見つかった」
と、火除地へ、急いで来たが、案外な――という顔をして、
「はてな、何処へ」
と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。
だが――それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、
「ああ、しまった!」
と、何もかも、泡沫に帰したように、しばらく、茫然と、厳しい門扉を眺めていた。
「どうも、しかたがない。――やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや……」と、振り向いて、
「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。……何、わしかい? わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」
と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。
呉と越と、仇と敵とが、こうして一つの釜の飯を食う、食うのが、間違っているか、宿命なのか。
本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、
(なんと、人間は、ふしぎな生きもの)
と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。
一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。――この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。
「――たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の社稷のために」
あの、直江山城以来の人物といわれている国家老の千坂兵部が、軽輩も軽輩――とるにたらない若輩の自分へ、
「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」
と、手をついたではないか。手を。
(衝たれずにいられるか)
丈八郎は、否やなく、
(一角とは、桐ばたけで、刺し交えたと思って、吉良殿へ、参りまする)
と答えたのだった。
ところが――初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。
「さあ来い。酒を賭けるか」
と、毛脛をむきだして、脛押しをしている一角。酔えば十一人の部屋を、ひとり顔に、寝ている一角。
「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」
飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、博奕なども初めるが、自分の首の番をしてもらっている吉良殿は、弱身があるので、
「左様な事は、相成らぬ」
とも、いえなかった。
丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。
(いつでも)
と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな遊戯、どんな、見下げるような浪人とも、楽につきあえて、面白く、相手の人間性を見ることができた。
――殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、荒んだ影がとれてきた。
「雪だ」
というので、まかない方へ、
「こん夜は、鮟鱇鍋を出せ。酒も、よけいに」
と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。
屋根の雪なだれ――かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。
がばっと、真っ先に、一角が、
「丈八郎」
と、蒲団を刎ねて――
「起きているか」
「お……。いぶかしいぞ」
「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」
もう、青砥弥助も、湧井半太夫も、十一人すべてが躍りあがって、
「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」
長押の槍へ、手をのばす者、日ごろ、稽古をしていた、半弓の弦を鳴らす者――。
「丈八郎! 俺と一緒に働け」
一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼を射るような白夜の光が、さッと、室内へ冷たい空気をふきこんだ。
裏門、表門。――室内へ、庭口へ。
烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰が某とも、わかたない。
付人側の十一人、鳥居与右衛門、須藤与一、左右田孫八たちは、みるまに、奮戦して、ばたばたと討死した。
一角は、朱になって、
「丈八郎、いるか。――丈八郎」
と、たえず、彼を呼びながら、
「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」
と、奥書院にかよう、中門に立った。
「推参ッ」
と、萩垣の横から、槍が走った。――若い、赤穂浪士の一人だった。
「うぬ!」
だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。
「矢頭。あぶないッ」
それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、
「――赤穂の旧藩士、奥田孫太夫重盛、一角どのへ、参る!」
と、槍をくりのばした。
「何ッ」
ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、鉢金の下とはいえ、あざやかに見える敵の顔に、
「あッ? 老人」
と、ど肝を抜かれて、叫んだ。
敵は、笑って、
「繭買の銀六、お覚えか」
「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」
「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の間諜は。――これも、尽きぬ御縁」
「おっ、よい敵だ」
半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと深股を抑えて、
「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。
「弱いぞ、銀六。――いや奥田老人」
振りすてて、走り去ると、奥田老人は、
「卑怯卑怯、返せ、一角」
と、どなった。
乱れ髪に雪を――全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。
「――おッ、そこにいたか」
池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、
「――助太刀ッ」
と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。
誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。
「ええッ、此奴」
踉けながら、後ろへやった刀が、かつんと、鉢金に弾んだと思うと、鍔から三、四寸の所から、折れて、氷柱のように、すッ飛んだ。
しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。――また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、紛雑する。
「丈八……俺を……丈八……俺を……」
そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。
木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、
「さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ」
「しっかりしろ! 一角、まだ、まだ」
「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。上野介の首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに」
「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」
「いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、誂え向きな晩を、さばさば……と」
彼は、雪をつかんで、唇に入れた。
「――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、惚々した。武士はやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ」
「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――」
「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!」
丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた睫毛を、しばたたくのである。
「……さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、斬ってくれ。年三十にならねえうちに、生きるに持てあましたこの首を」