ドリアン――彼女は私達の愛馬の名前である。私達といふのは、私の『西部劇通信』なる一文中に活躍してゐるその山間での村の私の親愛なる知友達である。あのアメリカ・インヂアンの着物を常住服として勇み立つてゐる――。ドリアンは私達が、水車小屋から何時でも自由に借りることが出来る私の「ロシナンテ」である。ドリアンの他に私達は必要に応じては、馬蹄鍛冶屋のタイキ、野菜市場のワカクサ、タバン・マメイドのペガウサス、蜜柑問屋のホワイト・ローズ、村長家のマーガレツト、牧場のリリイ等と、何時でも勢ぞろひをさせることができる。私達は貧しく、そして野蛮ではあつたが、不平を持つ間がなかつたから村人の間に或種の信用を拍してゐたのである。
 近郷近在の村々は祭りの季節に入つて、私の知友連は野良その他の仕事を休み私の部屋を訪れて私に依つて西洋流のダンスを習つてゐたが、あまり毎日/\麗らかな天気が打ち続く故、ひとつ、あの! ――と、私の或るアパートになつてゐる蜜柑林の中の三つのテントを指差して、
「あれらを携へて幾日間か村を遍歴して来ようではないか?」と提言した者があつたのだ。――(私は、その村のアバラ屋に移り住むまでは隣り村で、黒い扉のついた石の門のある家に住んでゐたのだが、追放され、此方の村に移つたが、私はその時、俺は斯んな狭い家には住めない、俺には単独の寝室と書斎ライブラリイとそして物理の実験室がなくては困るのだ――と呟き、思案したが、追はれる程の身分だから家の建増などはかなふわけがない、それでも飽くまでも我を張つて倒々愚かにも蜜柑畑の一隅に三角や四角のテントを建てたりしたのである。ところが私はそんなに勿体振つて「自分」だとか「書斎」だとか、「独りの――」だとかと呟いで六ツヶしい顔をしたにも関はらず、いつの間にか雑居のアバラ屋に慣れてしまつて、その上、バアバリスティクな共和生活に不思議な生甲斐を覚え、「ストア派だ、健やかなストア派だ」などと呟きながら、書をひもとき、ペンを執り、または野良に出て蜜柑運びの馬車を駆つたり、居酒屋に立寄つてポーカーで勝ち、胸倉をとつて小突かれたりしても驚かなかつた。黒い門があつたり、実験室があつたりした家の中で、生命の不安に戦きながら文学に没頭してゐた自分などは回想するだに憐れであつた。そんな三つの天幕テントなどは使用するどころか、取り脱す暇もなかつた程日々が多忙であつた。「不安は事物に対する吾々の臆見がもたらすのであつて、事物それ自体に不安の伴ふ暇はない。」――こいつは真理だ。野に出でゝ、ひかりを浴びよ。
 その提言は即坐に可決された。私達は、ドリアン以下十頭の駒をならべて――森に入つては鳥を打ち、川に降つたら魚をつかみ、夜になつたら樽を叩いて酔ツ私ひ、グウグウと鼾をあげて眠つてしまへば世話はない、明日は明日、今日は今日――そんなやうな意味で、処々に、
「ワツハツハ、グル/\回れ、上手に踊つてあの娘にもてろ!」などゝいふ合唱コーラスが繰り返されるジヤズ・ソングを歌ひながら、マメイドといふ、ちよつと美しい娘がゐる居酒屋を出発点にして賑々しく発足した。この歌は考へ方によつては、一脈のデスペレイト感を誘ふものがあるかも知れぬが、その調子が大変に爽々しく、そして実際の歌詞では、その儘此処に誌すのが何となく気が退ける位ひの抒情詞と美麗な形容詞に飾られてゐるので、唱歌者等は何んなに声高らかに歌ひ叫んでも、決して、歌意の何処かに潜んでゐる茫漠たる怖れや不安の影に気づくことなく、返つて、刹那々々の力強い享楽感に励まされて踊り出したくなるやうな面白さに打たれるといふ調子であつた。加けに、隊の中程でペガウサスに打ち跨つてゐる牧場の牛飼ひを業としてゐるRといふ若者がハーモニカの名手で、ベイスのあんばい宜しく力一杯吹き鳴してゐるので馬達までも浮れたかのやうに脚並み面白く、息を衝く間も待たずして峠の絶頂までのぼつてしまつた。ふり返るとたつた今私達が出発して来た私達の村が、遠く薄霞みの中に朝の煙りをあげてゐた。私が望遠鏡を眼にあてゝ見降すと、村境ひの橋のたもとまで私達を送つて来たマメイドの娘と、十名のうち私をも含めて三人の妻帯者だが、その三人の女房達が、私の妻が手綱をもつてゐる牛乳屋の馬車の上に立ちあがつて、切りにハンカチを打ち振つてゐた。――また行手を見渡すと、私達がこれから訪れようとする祭りの村々が彼方此方に蜃気楼でゝもあるかのやうに紫色の大山脈の麓に浮んでゐた。
 私達は、空に向つて空砲を鳴してから、一気に山道を駆け降りた。
 ――私は今此処で、それから私達が訪れた村の情景や出来事や私達の出遇つた事々をも誌したいが、それよりも今日の目的は KATA-KOMAS なる言葉の解釈なのである。これは、村から村へ流れ渡る――といふ意味の言葉である由だ。おそらく村から村へ流れ渡る者の胸のうちには、それが何んな姿であらうとも切なる寂しさを抱かぬ者はあるまい。KATA-KOMAS は「寂しき者」とも云ひ換へられるであらう。そして、この寂しき者は、三界に家なく、たゞその日/\を村から村へ食を求めて、止め度もなく流れ渡る者――永遠のヴアガヴオンドと同意の語であるが、私は私の経験に依つてこれを説明したかつたのであるが、私は未だ事実上の放浪の験を持たない――で、斯んな遊戯的情景を持ち出し何かじくぢたる感があるが――これでも、夕暮が迫り、ドリアンの嘶きを耳にしながら天幕を背に次の村へ赴く森かげになどさしかゝると、「村から村へ」の旅人のそこはかとなき万感が想像されぬでもなかつた。――そして私も生活の上では常に“KATA-KOMAS”に他ならぬではないか。町に生れ、都へ出て、村へ帰り、村を追はれ、村へ移り、そして都へ出て……。
 それはそれとして次の「言葉」のことに移らなければならない。

 おゝ、これは恰もあはれな私自身の形容詞に他ならぬ。これこそ私は私の数多き経験の何れの一片をとりあげても、この語の説明をすることは他易い。
 で――村の私達を常連とするタバン・マメイドの一場面を摘出しよう。一日の労役を終へて吻ツとした私の友達連は野良の帰りに此処に集る。彼等の団欒を思ひ出すと私も凝ツとしてゐられなくなつて隣家の水車小屋の厩からドリアンを引き出して、堤に添ふてマメイドに駆けつけることが多い。私が駆け付ける頃は、もう彼等は幾分眼を据えて腰掛の樽を叩いて、口論などが始まらうとしてゐることが多い。
 この村では毎年春秋の二期に素人芝居が行はれる習慣だつたが、永年の旧劇はもう飽きたから今年は西洋劇を上演しよう、が、もつとも吾々に手ツとり早く演れるものは何か? といふ話になり、はぢめはゴルキーの「夜の宿」の一場に仕様かといふ話も出たが、いろいろな反対が出て沙汰止みとなり、後に「アウエルバッハの酒場」といふことに衆議一決した。これなら、舞台の上でほんとうに酒を呑み、ほんとうに酔つ払つて、おしやべりをし、喧嘩をすれば好いのだから――普段とあまり変りはないだらう――と。ファウストには村長を推し、メフイストフエレスに「私」をとなつたが私が恐縮して引きさがつたので、大学生のTが代り、私は監督役となつた。そして、毎晩マメイドに集つて稽古をするのであつたが、稽古と鯨飲との差別が容易につかないのである。
 先づ学生フロッシが「誰も飲まんのか、誰も笑はんのか、馬鹿に鬱いでゐるぢやないか、君等は何時もてきぱきしてゐるのに今日はまるで濡藁の様だな。」
 と、科白を吐き、学生Bが、
「僕が愉快にならぬのは貴様が悪いのだ、御得意の馬鹿な真似も乱暴も未だ出ぬぢやないか――」で、Aの頭に酒を浴せるしぐさをすべきところを、いつも監督者の私が遅刻するので私が現れる頃には、彼等はもうほんとうに酔つてしまつて居て、ほんとうにフロツシ役のAの頭に酒を浴せかけたりしてしまふのだ。そして、ほんとうの喧嘩が始まらうとしたりしてしまふ。それでも続ければ続けられるのが一層仕末の悪いことになつた。
 アルトマイエル「えゝ騒がしい、綿をもつて来て呉れ、野郎共僕の鼓膜を破りやがる。」
 ジーベル「一番低音から始めて、だんだんと円天井の反響を発する様に優美にやつて貰ひたいね。」
 私はジーベル役に代つて幾度も、そんな風に彼等をなだめなければならぬ破目に出遇つたか知れぬ。が、まあ、何うやら、合唱に移つて収まり、いよ/\メフィストがファウストを伴れて現れる段になると、きまつて、騒動だ。
 メフィスト「先づ飲助連に紹介しませう、さうすると貴方は必ず此世は至極簡単に渡られるものだと合点するに相違ない。奴等はまるでお祭りのやうにその日を送つてゐます。恰も猫が自分の尾を弄ぶ様に、僅かの頓智で十分に満足して狭いところをくる/\廻つてゐるのです。而して訴へる程の頭痛でも無い限り、酒場の亭主に信用のある限りは何の心配もなく呑気に楽しんで居るのです。」
 メフィストのこの科白が終らうとすると必ず(何んなに私が、これは芝居だ、しつかり次の科白を続けて呉れと制しても聞かばこそ)「何云つてやがんでえ!」とか「Tの奴はあれを本気で云つてゐるんだつてさ、手前が酒が飲めないもので!」とか「あいつは、村長におべツかをつかつてゐる!」などゝ呟く者が出てしまふのだ。そんなことを云はれれば、若い生真面目なTでなくても黙つては居られない。
「黙れ、この酒樽奴!」とTは腕をまくつて仁王立になつてしまふ。
 でも、原作もさう云ふ場面なのだから、私ばかりが益々血迷ふてしまはずには居られないのである。時には弥々敵はなくなつて私は逃げ出さうとすると、Tが、私の腕にとり縋つて、「僕は牛飼ひのRと決闘せずには居られない、こんな侮辱に堪えられる位ひなら死んだ方が増だ。どうか、決闘の審判官になつて呉れ。」と引き戻し、とまた、RはRで、「あんな女蕩しを僕達の村へ伴れて来たのは誰だ。伴れて来た奴も相手に戦はう――」
 そんな騒ぎになつて、私は酷い目に会ふことが多かつた。
 無論「アウエルバツハの酒場」の場は、中止になつたが、タバン・マメイドでは夜毎々々に、その儘舞台にのぼせたらおそらく真に迫つた「アウエルバツハ――」となるであらう騒ぎが、続けられ、私に「彼等にほんの少しばかりの自制心があつたら、あの芝居こそ見事に演つてのけられるのだがな――」といふ嘆息を洩らさしめてゐるのである。
 KOMAZEIN――の意は、「酒を飲んで騒ぎまはつて止め度がない。」といふほどのものである由だ。
 その経験者はおそらく知るであらう。「酒を飲んで騒ぎまはる。」こと、それ自体は、何時も楽しいばかりではない、私達が峠を越えて村へ赴く時に歌つたあのデスペレイト調にも似通ふた、不安の森の手前で脚踏み鳴すかの如き切なさを知るであらう。そして今日の酒は強ひても愉快であらねばならぬ。KOMAZEIN に就いて私は自分の体験から引用すべき例証は、悲しく枚挙にいとまない。

 そして KOMOIDAS の語源に関しての此の文章の末尾に移る。
 KATA-KOMAS の「村から村へ」の語が源となつて、「酔ふて騒ぐ」のKOMAZEIN の単語を生じ、更にこれが転じて「喜劇的」或は「喜劇俳優」の意なる KOMOIDAS の言葉が生れたと云ひ伝へられる、この云ひ伝へは遠い昔ギリシヤ文明の発生期に起る。
 私は、或朝村の小屋隅のベットで、この三つの言葉の夢を見た。それからといふもの、この三つの言葉の連関に就いて、様々な妄想に襲はれ、終ひには身をもつて村から村へ逃げまはり、デスペレイトの酔をあがない、屡々胸を掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)つて悶絶した。
 その後私は、都に出て図書館に出入し、プラトン、アナクレオン、アリストートル、ユーリビテス、ソフオクレイスを漁り、「悲劇・喜劇の発生」「その否定」に就いて考へたり、また友達に出遇ふと、都のバアとダンス・ホールと劇場と、そして体育競技場と――何も彼も素晴しい、夢のやうだ! と讚嘆し、俺は都の住人とならずには居られない――と話してゐる。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷
底本の親本:「作品 第一巻第八号(十二月号)」作品社
   1930(昭和5)年12月1日発行
初出:「作品 第一巻第八号(十二月号)」作品社
   1930(昭和5)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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