井伏鱒二の作と人。
 斯の題を得て私は、一昨夜彼のこれまでの作品――主として「鯉」から「シグレ島叙景」まで幾篇かの傑作佳作に就いて感ずるところを誌して見た。そして、また、昨夜は、それを書き続ける前に――と思つて、彼の単行本「夜ふけと梅の花」及び「なつかしき現実」の二部を取りあげて読みはじめたところが、凡て雑誌に発表された当時読んだものばかりでありながら、更に感興を強ひられること切りで、とう/\通読してしまひ、感想の続きを書く余裕を失うてしまつた。
 そして今夜、再び前々夜の稿を続けるべく机に向ひ、四五枚の書いてある部分を閲読して見ると、それらの文字は悉く推賞感嘆の声に充たされてゐた。私は、これまで、文に、口に、あらゆる場合に、それらの作品に就いての推賞の言葉を惜まぬ者であつたが、これも亦それの執拗なる繰り返しの言葉のみを見たのである。賞める場合に就いては、何んなくどさも私はテレぬ者であるが、既に発表したことのある賞揚の言葉と似通うたものを幾度か繰り返して公言するのは、何うか? と気づいたので、此度は、その人物に就いての断片的な印象風のことを主に誌して見ようと考へ直した。
 それにしても彼の作品「鯉」「シグレ島叙景」をはじめとして、「谷間」といひ、または「朽助のゐる谷間」「談判」「山椒魚」「埋憂記」「尾根の上のサワン」「一ぴきの蜜蜂」その他幾篇かの「挿話・小品」などは、何れも不滅の名作であることは、私が云ふまでもなく大方の読者が既に認めてゐる事実である。その奇想の澄明、その繊細巧致を極めたる諧謔味、その霊麗なる純樸味、その他の滋味、光沢の豊かなるおもむきは、古今の東西を通じて独特なる妙境の持主であることは否めない。
 彼は未だ文を発表しはじめて僅に二年位ひの年月しか経つてゐないが、このまま彼が創作の筆を擲つて、社会学の闘士になり、或ひは画壇の人になり移つてしまつたとしても、以上の作品は日を経れば経るほど奇体な光りを放ちながら多くの読書子の渇を医す作品として文壇の空に輝き続ける逸品であらう。
 が、彼は小説作家以外の者には凡そ、なれぬ者であることは、その作物を見ても明らかなことである。僅かな歳月の間に、斯程までに完成された作品を次々と発表し得た彼が、この先とも専念の精進を続けて独自の境地を開拓して行くことを想像すると、私は愉快なる生甲斐を覚え、楽天観を助長せしめられる所以である。私は、作家としての彼の将来を飽くまでも期待する。
 彼は、小説より他に何も出来ない馬鹿かと私は思つてゐたところ、大分前の話であるが、散歩の途中で、不図話が画のことに移つた時――自分は作画の方ならば小説よりも寧ろ自信がある――と声を大きくして呟いた。私は、彼に画才のあるであらうことは常々その文章の筆致などから想像もし、また、私の眼前で作成した楽焼なども貰つたこともあるので一応は点頭いたが「小説よりも――」は可笑しいと首を傾けた。何故ならば彼の楽焼は、私には感心出来なかつたから――。感心どころか、その壺のやうな灰浴しの肩に彼が描いた模様は得体の解らぬインクのしみのやうな図柄で、裏に「鱒二」といふ署名などはしてあるものの、私には一向つまらぬものであつた。然し、その時、その作画の筆を執る時の態度や、壺を掌に載せて、暫し図案を考へてゐた時の顔つきなどを思ふと、その落着き具合は全く偉らさうに映つたのである。その態度を思ふと、そんな壺の模様一つ位ひでは律しられぬ趣きもあつた。それにしても「小説よりも――」とは、実に逞ましい自信である! と私は内心舌を巻き、その時話題になつてゐた後期印象派に関する私自身の意見を、怖れをもつて中止したのである。
 続いて彼は、以前は画家を志望してゐたこと、そのために犬の島といふ処へ旅行をした、瀬戸内海の春景色は共に画板を肩にして君を案内したい――などと種々な挿話を伝へた後に、今度は話頭が日本画壇のことに移ると、彼は、これを大変低く評価して、さういふ画壇に自分は出ることを欲しない――と幾分声さへ荒らげ、あんな画壇に出るのは文壇に心ざすよりも遥かに、いと易いことである――と哄然と胸を張つて云ふのである。その気勢におされて大分たぢたぢとなつてゐた私を彼は、何となく嗤ふやうに傍見して、帝展などは幾度かパスしたことがあるけれど、馬鹿々々しいので……何故なら彼処の画は彼処向きに描きさへすれば、中学生にだつて通過出来る、実にクダらん、だから僕は一切御免蒙つて、文学に走つてしまつたのだ――といふやうな意味のことを、いとも滑らかな調子で飄々とうそぶいた。
 私はこの四五年来帝展を見てゐないので、一体君のは洋画か日本画か? と問ふと、日本画である! との答へ、名前は、そのままの文字か? と訊ねると、いや、それは雅号……「何といふ?」と更に私が畳みかけると、彼は、今はそれを云ひたくない、古傷に触るやうな思ひがするからもう勘弁して欲しい――と頼むので、私もそのまま、勘弁した。
 処がその時私の傍らにゐた私の愛する一人の弟は、画家志望で、且つ、帝展出品が一代の念願であつた。井伏に別れると彼は、憂鬱になり、そして私に向つて、帝展向きとは何んな風に描くんだらう、井伏先生に訊いて見て呉れないか? と頼むのであつた。私は、井伏の高邁なる自信を口を極めて賞讚すると同時に、弟の不甲斐なさを嘆じて遂に彼を泣かせてしまつた。が、そんなに容易いんなら私が先生にその要領を訊いてやらう、心細かつたが、お主の出世の為とあらば是非もない――と引き受けて、で次の時に井伏に会ふと、私は早速「帝展の要領」を質問した。すると彼は、恰で口笛を吹く見たいに無責任に、ああ、あれは嘘だつた! と云ふのである。私はつとして、回れ右をし、独りですたすたと歩き出した。彼は、狼狽して私を追ひ、そんなに癪に触つたのなら、その感情を「時事新報」に書いて僕を罵らないか――とか、画を志ざしたことは飽くまでも真実である、そして帝展に持込んで落選したが、相当の自信はある――とか、近くに某といふカフエーがあつて、其処の娘は自分を神のやうに尊敬してゐるから、その様子を見て呉れ、そしたらその憤慨の情は収まるであらう――などと私を誘うた。私も、収まりたかつたので、意に従うて(彼の狼狽の姿が、前の時の自信に引きかへて余りに可憐でもあつたから――。)カフエーに立寄り、酒を飲み、私は、諳誦をしてゐるプラトンのソクラテスの演説「アテナイ人諸君よ」と叫び、クリトンを引き出し、デモスゼネスを拉し来つて、とろとろと鱒二の罵倒演説を試みた。神の如き先生の受難と思つたらしく、美しい娘は彼の傍らに寄り添うて、敵意を含む眼光で私を睨めてゐた。私の演説は次第に激して、内々彼から聞いたことのある彼の遊蕩を難ずるに至つた。新婚の可憐なる妻を自家に残して遊里に出没するとは何事ぞや、いつぞや浅草を彼と散歩してゐたら背後から、「イーさん」と呼びかけた年増女があつた、あれは確かに吉原のヤリテ婆に相違ない、ああいふ女性に肩など叩かれてヤニ下つてゐる鱒二の姿を写真にとつてやりたい――その他のことを私はしやべつた。
 ところが後になつて彼が私に伝へるには、あの演説の個所で最も痛かつたのは、遊蕩云々の事であつた! と云つて憾みを述べた。何故ならば、あのカフエーのマーガレットは井伏を聖者のやうに敬ひ、また彼自身も左様な仮面をかむつて遊里などといふものの存在さへも知らぬ気な態度をもつて、常に人生の悲哀を語つてゐた由であり、以来面目を潰したと、今度は此方に喰つてかかつた。
 好い気味だ!
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 それはそれとして、如上の事柄なども翻つて考へて見るまでもなく、ローマン的な傾向を持つ作家の一面として見るならば、決して難ずべき程のことではなく、却つて長所として羨望に堪へぬ独特な才能である。決して所謂の嘘つきでもなければ、偉がりでもない、それは彼の傑れた文章が証明し、また、人物に接して見れば、「嘘をつけばつくほど」微妙な敬意を持つことが出来る得難き人格であるといふことが、立所に解るのである。
 だが私は、あの時、あれほどおこつたことを私としては別段後悔してはゐない。某友がいつぞや彼を私の処へ誘つたら――牧野なんて、いやに、真面目くさつて面白くないから行かないよ――と云つた由、真実なれば私は一本参つた感であつた。
 兎も角彼は、小説より他のことは出来ぬ男に相違ない。画の話の時には、実際私は驚き、やがて文壇のことも、「帝展の要領」の如く罵つて、文筆を棄て「二科会」へでも走つてしまひはしないか、それにしては余りに惜しい小説才能だ! と案じたが、帝展に落選するやうでは画才は小説に劣ること確実であらう、飽くまでも彼は小説創作の道に進むに違ひなし――。可祝。
 もう一言附け加へるならば、その画家時代に用ひた雅号を私はその後再三訊ねるのであるが、決して返事しないところを見ると帝展落選の話もまた遊蕩の話しも悉く彼の空想であつたのかも知れぬ――そは、彼のみぞ知る。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第二十八巻第一号(新年特大号)」新潮社
   1931(昭和6)年1月1日発行
初出:「新潮 第二十八巻第一号(新年特大号)」新潮社
   1931(昭和6)年1月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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