うなぎの肝吸いものというのは、相当しゃれた下手吸いもののひとつに加わっているが、これは単に肝のみを利用しているのではない。苦肝を去った臓物全部を仮りに肝と称して使っているのである。単に肝だけとしたら、取立てていうほどのものではなかろう。すっぽんの肝というのが、なんだか想像の上では、美味そうに考えられるのであるが、これはまたどうしたものか、とんと美味くないものである。それでも京の大市では、その肝を丁寧になべの中に添えて出すところから、その都度、美味かろう美味かろうで、よもやにひかされて食ってはみるが、何度食ってみても一向美味いものではない。
さかなの中で魚体も美味い、臓物全部いずれも美味い、腹子がまた格別美味いというのは、はもだけである。かわはぎの魚体は、さまで美味いとは言い難いが、しかし、その肝に至っては並々ならぬ特別の美味さを有っている。これあってこそ、このさかなが価値づけられているわけである。しかるに、その肝が捨てられるとあっては、笑止千万である。
ふぐの肝も、法をもって食うようにして食えば毒でもなし、相当美味いもののひとつではあるが、猛毒を有するとして、これを捨ててしまっている向きが多い。あるいは無闇と長時間ゆでて、なんの味も風情もないものとして、かろうじて食っているようなものもある。この肝の美味さを生かし、しかも、危険のない法を心得ないでもないが、余計なことを披露したために生兵法をやられても大変だから、特志があれば直伝することとする。
ふぐの肝をすりつぶし、醤油に混ぜて、ふぐの刺身につけて、美味がる向きもなしとはしないが、これは全然素人食である。ふぐの肉の味は、他から脂肪の荷担を受けなければ美味くないという美味さではなく、むしろ、脂肪気の稀薄な素質に特長を持ち、麻痺性を特色として、ふしぎな魅力を有するのであるから、全部が脂肪そのものであるような肝の味の荷担を受け入れる必要は毫もない。それは却って、ふぐそのものの美味さを傷つける拙案と言うべきである。
この方法を、もし生だらに利用するとせば、それは妙案であって、推賞を惜しむわけのものではない。
(昭和十三年)