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 おととしより去年、去年より今年と、一冬ごとに東京に殖えて来たものに河豚料理がある。街の灯が白くなる冬になると、河豚屋のかんばんが食通横丁に俳味を灯す。
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 県令を以て、「河豚料理販売ヲ禁止ス」の県は、今でも地方にある筈である。東京にその制が解かれたのもつい近年のことだそうだ。僕が味を覚えたのは、六、七年前で、多分直木の好みであったろうと思う、われわれ達で雑誌を出そうという話があり、新橋の大竹に集ろうというので行ってみると三上、大仏、佐々木、直木などの連中が、雑誌の話などはいっこうに出ずに、箸と妓と杯に終っている。そこで、真ん中にいたのが、錦出の大皿に紫陽花のごとくならべられてある僕には初対面の河豚の肉だった。
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 いやだというのに、この晩、ヒレ酒の味を僕に覚えさせたのが三上於菟吉で、飲んでみると口あたりがいい、こっぷ酒など、見ても眩いを催す僕が、うかと二、三杯やったために、この夜の帰り途、君子の過ちに似た事を起して、僕は旅の空で一年暮してしまった。決して、於菟吉のせいではない、やっぱり河豚は中たる。
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 行動的の中毒あたり方はいろいろあろうが、食後三十分間後、すぐに死斑ジアノーゼを顔に生じるような怖れなどは、絶無だと僕は信じるほうの組だ。河豚をこわがっている人が、自動車に乗って東京を歩くなどは以てのほかだろう。下ノ関の大吉だか春帆楼かで、頭山満翁が、卓上の料理が河豚だと聞くと、いきなり起ってそれへ小便したという話はあるが、あの頃よりは、河豚の科学はずっと進歩している。危険率も今日の都会の如くでなかったから、河豚といえど避けて通る理由があった。
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 長州の旧藩制度には、家士にして河豚を食して死んだ場合は、家禄没取、家名断絶というきびしい掟があった。だから、萩や山口の藩士が河豚を食うのは、生命がけどころか、先祖末代がけであった。そのせいもあろうが、ほんとの河豚料理法はここで発達したものだという。下ノ関が、河豚の本場のようにいわれだしたのは、河豚癖のある伊藤、山県、井上、などの維新の元勲たちが、お国物を阿弥陀寺町で鼓吹したためで、明治以後の地理的発達によるのだと、萩の河豚党は、今も宗家をもって任じている。
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 出雲の大社あたりでは、旅館の膳にも河豚がつくそうである。山陰あたりでも冬は河豚が盛んに供されるそうだが、まだ裏日本の河豚は僕は知らない。「なめらふぐ」という種類で、まずいという人もある。金沢の卯の花漬は、焙って食べるもので、これは人が珍重がる。萩の桜漬も焼いて食うのであるが、チリ、刺身を思っては、その味は遠い。
 別府に、冬を半月ほど暮していた間、晩になると河豚をたのしんだが、味もよし、女中のあしらいも綺麗事で、東京に近ごろ殖えたのとは比較にならない。白いキモと春菊の真っ青なのが焜炉の火のうえでコトコトと音立てている冬の夜ほど温かに囲まれたいという気のするものは他にない。
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 あれほど美味いという河豚も、もしあの刺身の黄橙酢に添える浅葱あさつきと、チリ鍋に入れるこれが冬の畑の物かと眼を醒ますような青々とした春菊がなければ、僕は箸を出す気になれまいと思う。
 その春菊は、東京の八百屋にもあるが、かんじんな浅葱がない。いつぞや、岩崎栄が電話で今夜河豚を持ってゆくから、野菜の添え物はそちらで頼むとかけて来た。新聞杜から提げてくる河豚などは、金輪際迷惑のいたりだから断るというと、馬鹿にするな、見てからものを申してもらいたいと云う。やがて、提げて来たのを見ると、木箱とブリキのハンダ付で三重に密閉され、その間は氷詰になっている。聞けば、知人の贈り物で下ノ関から着いたばかりだとある。春菊や浅葱や卸しものまで、美術的に詰めてあるのだ。これなら食べると、ちょうどよい来客も入れ、五、六人して取りかかると、野菜物が先から付いて来ただけの分では足らない。そこで、女中を八百屋に走らせると、春菊はあったが、浅葱になると、まるで駄目だ、いわゆる分茎わけぎという似て非なるもので、特有の香がないし、あの細かに刻んだこぐち切の葉の粒を糸切歯でかむ時のピリとした薄い刺戟もない。
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 こまるのは、これからの冬、河豚を一夕やると癖になることだ。雪もようになると河豚を思う、灯ともし頃になると河豚が恋しくなる。河豚マニアは、佐久間とか、大隈とか、福屋とかああいう一流河豚屋の余りに潔癖すぎた物では、食べたような気がしないとさえ云って、場末の怪しげな安値やすいおでんや兼業の河豚屋などへ首をつッ込み、近海もののトラ河豚の水っぽいのを食べて、帰り途に、中風のなりかかりみたいに、唇を痙攣させて欣んでいる連中もある。
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 分析科学では、毒は、河豚の卵巣が主で、肉、血液にはないとしてあるが、いちばん怖いのは、日数の経った古い品物らしい。学者の発表にはまだ見あたらないが、大隈の主人に云わせると、その卵巣よりは、河豚のヒレの下や腹にくいついている微小な寄生虫が猛毒そのものだと説を為している。それを料理人仲間では、「蝶々」と俗に云っているそうだ。取って壜の水に入れてあるのを見ると、米つぶぐらいな虫で、なるほど蝶の形に似ている、本河豚にも、トラ河豚にもいるが、ヒレに付いているのはヒレの色をしているし、腹についているのは腹の色をしているので、よほど注意しないと見つからないと云っている。
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「大草家料理書」に、ふぐ汁料理に、しきみの木、古屋の煤、堅く嫌うべし。とあるのは、古事類苑や、その他の辞書類にも、よく転載してあるが、どうしても、河豚と、しきみの木と、古屋の煤とはいけないのか、僕にはわからない。
 蘇東坡が食べたのも、ふぐ汁であって、さし身ではないらしい。江戸時代の料理書にも、さし身はない。震災前まで人形町あたりに流行っていた「しょうさい」鍋は、河豚の一種に、※魚しょうさい[#「魚+(萠−くさかんむり)」、U+29E00、76-5]という名があるので江戸人につかわれた俗語であろう。江戸人はまた、河豚の異名を鉄砲とよんだが、銚子の漁師は、富籤とよんでいる。――後者は、中たりっこなしというのである。
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 毒に中たった場合は、昔から口伝が多い。――山梔子くちなしの実を噛ませると吐く。黒砂糖を白湯でのむ。塩の汁をたくさん飲む。樟脳を湯にたてて服用する。などは松屋筆記の記載。今の料理でも用いられているので、茄子と共に食べると中たらないという予防法などが云い伝えられている。中たっても、土中に生き埋めすると癒るという伝説を、実際に体験した者に、清水次郎長と、角力の福柳とがある。
 下ノ関あたりでは、下宿のおかみさんが、魚屋からぶらさげて来たのを、夕方の台所でじゃぶじゃぶやって、すぐ下宿人に食べさせるぐらいだからなどと云って、素人がそんな真似をしたら、保険会社から自殺と見られてもしかたがない。
 俳人では青木月斗がすき、文壇人では久米正雄、永井龍男、三上於菟吉、女優の山路ふみ子もたべる。実業家などにマニアが多いらしい。女はわりあいに初めてでも平気で舌に載せる。自分の良人が食べているのに食べないでいることは、貞節にかかわると思うのかも知れない。しかし、怖々こわごわ食べているのでは真味が舌の細胞へゆき届く筈はないから、河豚はやはり四、五度ぐらい食べてみないと味はわからないものと云えよう。そして、そこに至ると、どうも家族にも友達にも、ついこの味を分らせたくなって僕などは自分でもいけないと思う。いくら料理が進歩しても、やはり毒魚である。秋里随筆なども、備後鞆ノ津の名物ふぐ汁を紹介しておいてその末尾に、
 ――されど、主親につかふる者は食することなかれ、はからず不忠不孝の名を下すべし、かつその人品を損なふことあり
 と誡しめている。
「――人品を損ふことあり」と考えると、いくら馴れてもやはり実は微かにこわい。量を慎しめばよかろうと、密男のように少しずつたしなむことで慰めているのである。聞くならく坐漁荘主人の西園寺公も、甚だこれを好むということである。国家の元老の老い冷えがちな冬の夜の血液を暖めるに役立てば、河豚もまた国力に関わりがあると云える。これで毒がなかったらなどという望みは、逸民の慾だ、ちり鍋の春菊が赤くなった頃によく出る囈言たわごとである。

底本:「日本の名随筆26 肴」作品社
   1984(昭和59)年12月25日第1刷発行
   1999(平成11)年10月30日第22刷発行
底本の親本:「吉川英治全集 52 草思堂随筆、折々の記」講談社
   1983(昭和58)年11月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年5月4日作成
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