目次

折々の記





 子が生まれる。子の命名が夫婦話題の悶着になる。いや、生まれない前からといつてよい。最初の子をもつ夫婦ほど、事は重大に考へられるらしい。思案にあぐねて、知己先輩へ「ひとつ、子どもの名を」と、世の幸福者に選ばれた人間のやうに、相好くづして、もちこんで來る良人もある。
 ぼくなども、頼まれてはつい、世の幾十人もの、あかン坊たちのために、名づけ親となつて來た。うれしい煩瑣と輕い責任を感じるものである。戰前、ある婦人雜誌では、あかン坊の命名サービス欄を設け、各界の名士を名づけ親係りに依囑し、讀者の好評をはくしたこともあつた。菊池寛などもそのひとりだつたが「ぼくは人にやらせておくよ」と、この課題では代作を公言し、そして「誰かにたくさん書かせておいて、その中にいゝ名があつたら、小説の中の人物につかふために、ぼく、取つておくよ」と笑つてゐた。命名なんていふ“聖なる仕事”を大量生産にすれば、かうなるのは當然である。
 個人同士のばあひは違ふ。多少の祝福感と責任の分け合ひを、ぼくは感じる。ぼくのばあひは、色紙を一枚ふんぱつして、選名の文字と、誕生の年月日に、祝ひの言葉を二、三行書いて上げるのを例としてきた。
 そんな事も、初めは、人樣のお子であり、未來を豐富にもつ新しい生命にたいして、自分の丁重さを表示するための思ひつきに過ぎなかつたのだが、年とともに、わが“名ヅケ子”が社會に殖えてゆくに從ひ、じつは名づけ親のぼくが、徳をしてゐた事にも氣づいた。
 つまり、結果だけをいへば、それらの“名ヅケ子達”が成人した後、自分の選名者が、社會の惡徳漢であつたり、詐欺漢であつたりしたら、さだめし我が名に不潔を感じるだらうと思はれ、そのためにも、名づけ親は、名ヅケ子にたいし、惡人にならない心がけを持つ一つの支へをうけてゐたと云へるからである。
 また偶然。酒席かどこかで、かりの名づけ親が、その子の親に久し振で會つたりすると、何のあいさつよりも先に、かう、ひとりでに口から出るのだつた。
「どうだい、君んとこのあかン坊は、丈夫かい」
「冗談ぢやありませんぜ、もう本年は學校ですよ」
 とにかく日本人は名まへに凝る。そのため、漢字制限のワクと戸籍係りを相手に、世の親たちの物議もあつた程だが、ぼくの家へよく來てゐた某社の若い記者などは、子の生まれる數ヶ月前から、手帖の間に、その漢字制限表をはさんでおいて、奧多摩電車の中では、それを考へることにしてゐると云つてゐた。源實朝ではないが、まことに、――あはれなるかなや親の子を思ふ、である。
 幼少の頃、ぼくが覺えてゐるぼくの父の選名法は、さうして考へた名を、お七夜の朝、幾つも紙に書いて、コヨリにし、神だなに上げて、いちばん小さい子供にその中から一本引かせる方法だつた。つまり籖引きである。
「高イ/\」の恰好で、父親に抱き上げられた小さい手から、わが家の何チヤンだの何子がこの世に出來たのだつた。考へてみると、名だけでなく、以後何十年への生命のスタートも、どうも多分に、籖引であつたやうに思はれる。



 近頃、村を離れてよそに假の書齋をもつたので、東京との間を、伊東線で往復する日がまゝ多い。
 行く春の俳趣ともいへまいが、行樂季節の車中には、また別趣な人間風物がゆたかである。それと主要驛には近來、生ビールのスタンド迄すゑてあるので、毎度、ぼくも紙コツプの一箇を窓ぶちに載せて、窓内窓外を樂しむことをつねとしてゐる。
 平和は有難いなあ、と紙コツプを手にとるたび、沁々おもふ。座席の新しさにまで感謝されてくる。腰かけの古ビロードやレザーが、ズタ/\に切り盜られてゐた敗戰後の闇列車を思ひ出すと、夢としか考へられない。
 それを、昨日うごかした人間、今日の車中の人間、人間に變りはないのだ。いつたい、だれがあんな地獄列車を仕立てたのか、と今さら東京裁判みたいなことを云つてみても始まるまい。裁判人がいつまた特急原爆の運轉手などを開業しないかぎりもないのだから。どうも、それが人間なのだから。
 ――などと愚劣な妄想のあひだに、紙コツプのを、ひと口飮む。ぼくは、酒のみでも、ビール飮みでもないから番茶代りに時々チビ/\やるにすぎない。ビール會社の重役でも乘合せてゐたら、さだめし、いやな奴だナ、と横目で見られることだらう。
 中共土産ばなしが、晩春の話題になつた。蠅も乞食も見えなくなつたさうである。曾遊の北京天津間、南京上海間などの車中風景はどう變つたらうか。そして日本の、この車中はと見廻せば、これは説明を要しまい。行樂列車だか、塵芥列車だかわからない。それに車體はピカピカした新車だが、窓ガラスが、きれいなことは甚だ稀れだ。顏ぢゆう白粉はぬつてゐるが耳のあなは薄ぎたない不精女のやうである。
 けれど、車中一般の服飾や持物は、まさに都會中心の過剩文明の弊をもうあらはして、昨日の惡夢などは忘れすましてゐるかに見える。そこでもし、かりにこの車中の男女をして、中山服一色にしてしまふやうな政治力なり社會道義をもつとすれば、車中の芥も窓ガラスもたちまち清掃化されるにちがひない。唯、それには、必然、壓力がいることである。壓力はすぐ全體主義國家へ、乃至、強權政治へつながつてゆく。
 それでは困る。車體や街路は整然だが、個々の生活は社會服一色制といつたやうな事には一致できる日本人ではなささうだし、といつて、個々は塵芥的人權と、資本主義基調の自由をむさぼり合つてゐるだけでは、平和の長持ちもむづかしいのではなからうか。窓外も透明に、窓内の個々もきれいに、兩方ともいいやうなわけにはゆかないものか。ほんとの民主々義文明なら、そこまで行かなければなどとおもふ。
 ――ここでまた、何氣なく、紙コツプを手にしたら、何と、手の中でヘナ/\といびつになつてしまつた。膝や靴などのビールだらけを覗きこみながら、ぼくは今さらのやうに、氣がついた。コツプは紙製であつたといふ當然な事をである。



 可愛らしい中學生たちが通ひ出してゐる。まだ制服が體につかないから一年坊主だなと、すぐわかる。人間生涯のうちでいちばん樂しい時期だらう。國電や路傍に見るかれらの群は、相當いたづらつぽいが、それがいかにもホヽ笑ましい。どれも、はつらつたるものだ。しつかりやれ、と呼びかけたくなる。
 ぼくは中學生時代の味を知らずに來た。家庭の事情で望めなかつたのである。いま考へても、あんな悲しい思ひはない。小學校時代の級友がみな中學服で通つてゆく。ふと、道で會つたりすると、少年勞働者の身なりのぼくは、顏を赤くしてつい俯向いた。男生徒の友だちはまだいゝが、以前の校庭でほのかに好きだつた女生徒などに會ふと、ついと横丁へ隱れてしまつたものだつた。單なる卑屈感だけではない。説明しがたい少年の哀傷や成長のもだえがある。
 だからいまだに、小つぶな中學生たちの姿はすぐ眼の中へとび込んでくる。君らはよかつたなあと、人知れず呟いてしまふ。同時に、その蔭には、自身の生活はみな犠牲として通はせてゐる親や兄姉も中にはあらうにと考へられる。それはまだしも、ぼくの少年期同樣な思ひに閉ざされてゐる子も下層世間にはなほあるかもしれない。
 中學も、もつと家庭の負擔が少なく、そして優秀な學童は、家が貧しくても高校へも入れるやうな、せめて、それ位な社會制度をもつ國家にはなれないものか。まだ、見るからにチビだが、春の燕のやうな生命よ、ひとつ、君たちが良い大人になつてやつてくれ。君たちは入學できたのだし、何しろ、今の日本の政治家といふのが、暢氣でズルクて、欲は深いが、欲も小さな、ケチ臭い大人ばかりなんだ。
 決して、ズルかつたりケチ臭くはないが、暢氣な方では、今の政治家にも負けないやうな中學生が、じつは、ぼくの家にも二人居る。
 この新學期で、弟のホーちやんの方も、二年生のすそに、やつとこさで、昇級したが、あはや落第の境目らしかつた。しかし母親もまあホツとしたわけで、休みに兄弟二人をつれて村から東京へ遊びに出かけた。
 途中、乘物のなかで、ぼくが「ホーちやん、來年の試驗には、もう餘りお母さんにスリルを味はゝせるなよ」と云ふと、素直に「うん」と笑ひながら、持つてゐた學帽を膝の上でクシヤクシヤに揉みつぶしてゐる。その帽子が又、まるで雜巾みたいなボロなので、母親が「さうねえ、ホーちやんの進級祝ひには、帽子を買つてあげよう。學帽は幾値なの」と、きいた。ホーちやんは餘りうれしさうでもなく「六百八十圓」と答へた。その數字に、古い唱歌を思ひ出して、何氣なくぼくが、「帽子は六百八十圓――か」と駄洒落をとばした。するとホーちやんが、それにつゞいてすぐ「――頭は三百二十圓」と節をつけて歌つた。かういふ暢氣家さんである。だから、せつかくの中學生だが、ホーちやんには未來の日本の政治家を囑すなんてわけにはゆかない。
 だが、現在の何黨、何黨、何々黨などの連中の頭だつて、三百二十圓以上な値段には、選擧した國民も謳歌してはゐないであらう。それも二年生になれるかどうか、テストは今年うちと世界も見てゐる。



 沖繩島民にたいし、二十九日の天皇誕生日には、日の丸の旗を掲げるもさしつかへなし、と米軍側の指示があつたと、新聞に小さく出てゐた。
 地域的にもだが、心域的にも、日の丸へのこだはりは、まだまださつぱりしないらしい。國内の元日や祝祭日でも、掲揚率はいたつてマバラである。
「隣りは掲げたけれど、うちでは掲げられない」「向うは出したつて、こつちは出さぬ」それぞれの心理、家々の事情、どちらも、よくわかる。多分、無關心の人だつて、あるだらう。あつたつて、ふしぎはない。
 以前の日の丸を、なほ持つてゐる家など稀れだらう。新に買ふには、買ひたくも儘にならない家だつて多い。また、日の丸を見ると、思ひ出したくないことも、そゞろ思ひ出されてならないとする人々もあらう。なかには、終戰直後、風呂敷がはりに使つてしまつた奴さへある。ひと頃の買出し車中でそれは目撃した。
 けれど、そのどれだつて、むりはない。よくよく察してもみ、反省もすべきだ。戰時中、頼みもしないのに、世間が寄つてたかつて、戰死者の家の道かどや軒近くへ「何々君戰歿の家」なんてペンキ書の棒杭を立てた。ぼくの疎開してゐた村でも見たが、終戰後、その、戰歿者の家と書いてある棒杭に、すつかりワラを着せて、繩でグル/\卷に被ひかくしてゐた農家があつた。いたいたしい遺族のジレンマではあるまいか。
 また、未亡人たちの身になつてみれば、日の丸は、眼に沁む涙の旗にちがひない。先議會で、遺族手當を可決したからいゝと國會はしてゐるのかもしれない。議事堂の日の丸ばかりはすばらしく威勢がいゝ。
 終戰後から今日まで、その國會から「あなた方の家々にもつ故人――息子さんや、良人や、わけて若々しい學徒だの、女子挺身隊など、いやおうなくとられて、あへなく死なれた人たちは、まつたくの犠牲者でした、よい若人たちでした、愛する國からいけにへを強いられ、愛ゆゑに死なれた美しい殉國者でした。罪は、權力の府にあり、あなたがた犠牲者の家々にむかつては、政府をはじめ、心ある同胞は、むしろ永遠な謝意と同情をもつでありませう」と、たれが心から詑びたか。だれひとり、あきらかに、云つてあげた人間がない。
 たゞし、吉田さんなどは、いきなり、道義昂揚の必要は力説したことがある。冗談ぢやない。造花の花環屋ぢやあるまいし、道義なんて、御註文に應じて、ハイとお屆けできるものぢやあない。土から芽生えるものゝはずだ。大事な地ならしも怠つてゐて、とんでもない。
 とにかく、日の丸は、外國旗ぢやない。祝祭日には、爲政者として、日の丸の見えない軒にこそ、なほさら、いたはりを寄せるべきだと思ふ。お互ひも、出す出さぬは、ご勝手だが、無關心は、よさうぢやないか。



 天皇誕生日である。古くは、宮中のみの御式であつたらう。國祭日の制は、明治からで、また明治大正期が、もつとも祝祭日氣分も大らかだつたことをおもふ。
 だから、ぼくらの古い童心には、いまだに天長節があたまにある。何だか、陽氣ちがひで仕方がない。十一月三日、菊の佳き日、戸々も、道のべも、元日のやうに清掃された朝を、校庭で君が代を歌ひ、紅白の打菓子をもらつて歸つたことなど、わすれかねる。
 一昨年の十一月三日だつた。府中の競馬場へゆく途中、朝早めに吉野村を出て、朝霜の寒さにふるへながら、千葉胤明翁を訪ねたことがある。いまは知る人も少いであらうが、明治天皇から三代の宮中に仕へ、お歌所寄人よりんどでは、最古參の老歌人である。
 それより數日前の讀賣や朝日の紙上に、「翁は近く疎開先から四谷の舊地へひきあげる、新築の家は、無名の義人が、翁にも默つて建てたうへ贈つたものである」といふ記事が見えた。
 かねがね、疎開のお住居は、大菩薩峠の中里介山居士の生家に近い羽村はむら附近とは聞いてゐたが、つい、ご不沙汰に過ぎてゐた折へ、翁の方から先にお訪ねをうけてしまつた失禮もある。自宅製の梅酒一壺をたづさへて、早朝に伏水莊を訪うたわけである。伏水莊は、多摩川べりの崖にのぞみ、むかし、伏見宮の休み茶席だつたが、いまは農家と隣りし、農具やツイにかこまれ、翁の居室は、四疊半一つにすぎない。
 “清貧”といふ語が、その儘、ふさはしい。机と文房具と、さゝやかな食器を片隅に見るのみである。「せつかく來てくれたのに何もないなあ」と、美しいお孫と、子息のお嫁さんをかへりみ「茶を」と、机で煎茶を入れ「まあ、ご馳走に、あれでも見て貰ふか」と、軒端を指さした。
 彼方の多摩川丘陵の上に、あざらかな富士が見えた。翁は、短册をとつて、何か書き出した。和歌かと思ひのほか、富士山をよんだ都々逸であつた。そして「今日は十一月三日だね、君」と云つた。主客、富士山を默つて眺めあつた。その年八十八だつたから、四谷の新居で、今年は九十を無事に迎へられたことゝおもふ。
 十年ほど前、ぼくの家は、赤坂表町だつた。翁の家と近かつたので、起拔けの散歩に、よく立寄つては長話をしてゆかれた。翁の宮廷三代に亙る思ひ出など、生きた史料でもあつたのに、座興にのみ聞いて、健忘症なぼくはあらかた忘れてしまつた。
 だが、忘れ難いのは、その朝の富士と翁の姿である。敗戰後の歴史的な巷で、ほんとに大宮人らしい大宮人を見たのは、この老歌人の姿、たゞ一つだつた。



 チンドン屋はむかしから町の愛嬌者だつた。サンドイツチ・マンは、それの進化か、別派か。戰後は急に十字街や裏町にふえ、かれらの扮裝も、雜誌口繪やグラビア編集者にも劣らない創意苦心を拂つてゐる。
 ぞろ/\、ぞろ/\、繁華街のブラ・マンは流れてゆくが、かれに一顧を與へてゆく男女も少ない。にもかゝはらず、超然、おどけてゐる。振子みたいに、首を振つたり、眼を剥いたり、齒を見せたり。
「一種の哲人だな」ぼくはいつも思ふ。感心する。食ふためサ、もちろんだ。けれど見給へ、アベツク、醉つぱらひ、高級車、あらゆる逸樂と贅美な流れをまへに、かれは少しも、さもし氣でない。卑屈でもない。むしろ、流れる綺羅な群集を、芥と見てゐるかのやうだ。近代都市に生えた皮肉なキノコ。街の哲人。それはサンドイツチ・マンである。
「なに哲人だつて、ヘンなこと云つて貰ふまいぜ、變人のまちがひだらう」と、かれらはセヽら笑ふだらう。が、空想癖の者の眼には、さうも見えるといふのである。
 都市の色調や夜光度は、途方もなく強烈になつた。それと音響狂騷だ。また流るゝ男女の半夢遊雜閙ときてゐる。あの中でポツンと孤影をもち耐へ、その職能を價値あらせようとする彼らの努力は、涙ぐましい。ふと、うら悲しくもなる。
「チ、つまんねえセンチを云やがる。それぢやアまるで逆効果だ、おれたちのスポンサーに申しわけねえや」と、云ふだらうが、これもぼくだけの思ひだ。君らの職業に衰微をきたす憂ひは絶對にない。
 ぼくの舊作に――寄席へ來て寄席藝人の身を案じ――といふのがある。いらざるおせつかいと云はれさうな駄句だ。サンドイツチ・マンの生活の蔭に、その女房子だの、ひよつとしたら養つてゐる年よりだの、それがチラチラ見えて仕方がない。だから、愛人らしい男女一對の仲よきチンドン・アベツクは、もつとも、心おきなく微笑できる。
 この正月か、年暮だつたか、何しろ寒い日だつた。あの河童も住めない數寄屋橋の下の河中に身を挺して、橋上橋畔の通行人に、あらゆるチヤツプリン寫しの表情をやつてゐたサンドイツチ・マンがありましてネ――と、見て來たばかりの訪客から語られたときも、何だか、胸をふさがれた。
 當人にすれば、日當何倍かの爲の、離れ業にすぎなかつた迄だらう。それにしてもだ、生きるための敢鬪ぶりは、立派だといへる。じつに善人なるものだ。もしそれまでして稼いだ金が、女房子か家の老人への、一椀のあたゝかい物にでもなつてゐたら、ぼくは、尊敬を惜まない。
 また先頃の都下版には、よく銀座にゐた前海軍大將の子息が、へうへうと、八王子市に現はれたと出てゐた。あの仲間にも、いろんな人々がゐるにちがひない。中國でも、みんが亡んで清朝しんちやうとなつたとき、洛陽の狂畫人といはれた八大山人みたいな人もあつた。かれはサンドイツチ・マンではなく路傍の賣畫者だが、道化、狂態は相似たものである。いつの時も、國亡んでピエロ出づ、かもしれない。いや日本そのものが、完全な“サンドイツチステーツ”でもあつた。



 見たのさへ、路傍で一度、ホテルのサロンで一度、ぐらゐなのに“テレビ對談”をやる破目になつた。何の破目やら、わからない。
 講演、放送、對談など、みなニガ手だし嫌ひである。文春一座の文士劇などが再燃して、文壇迷優が輩出し、その都度、ぼくらまで狩出しをうけるが、逃げの一手で通してゐる。どうしても、出ろといふなら、謝罪の意味で、會場の受付をやるから、かんべんしてくれと迄、あやまると、たいがい濟む。
 故に、テレビへ出るなど、思ひもよらない。だが、なぜ「うん」と承諾したか、あとで自分の悔いる「うん」の心理が分らないことはあるものだ。今度も、そんな破目からである。しかし、あひてはその道の夢聲さん。あなたまかせで、とにかく、悄々しほ/\、出かけてゆく。
 NHKの藝能人待機室みたいな所で、約三、四十分間、待つあひだ、夢聲君から、事前教育を授けてもらふ。徳川君など、こゝは吾が家にひとしい職場。ぼくにはまるで屠所としよの羊の、羊小屋である。
 市丸君、豐吉君など、晩春の名花が揃つて、幾組となく、前でも横の方でも、“出”の下調べをぞよめきあつてゐたが、どうして皆、あんなお氣樂なのか、彼女たちが大膽不敵に見えたりする。
「講演よりは、ずつと、テレビの方が樂。テレビはね、吉川さん、ヤジられる怖れはない。つかへたら、かう、默つてポーズしてゐればよろしい。しくじつても、消えちやうからいゝ。ね、テレビは、消えちやうものですよ。恐いのは、その點、活字ですな。文章はダメ、映畫もいけませんな。テレビは消える、おまけに、見る方も、やる方も、まだ出發時代、つまりアンニヤモンニヤ時代だ。どうです、氣樂でせう」
 わが講師は、じゆんじゆんと、教育してくれる。成程と、渇いてゐた口へも、やつと、番茶がおいしく通る。
 そこで思ひ出したのである。
 六代目(菊五郎)が生きてゐた頃、ある時、彼が沁々、ぼくに云つた。「うらやましいな、あんたの仕事は」「なぜ」「だつて、文章は殘るだろ。そこへゆくと、舞臺の藝なんて、消えちまうもの」――ひと息、おいてから、こんどは、ぼくの方から云つた。「うらやましいナ。君の仕事は」「ヘエ、何がね」「だつて、舞臺の藝は、消えちまうが、書いたものは、消えないもの。殘したくないものまで殘るもの」「‥‥あ。さうか」と、笑ひあつたことがある。
 テレビ對談をすましたあと、解かれた羊になつて、その夜、五階の放送ホールで、マリアン・アンダソンの獨唱を聽いた。
 シユーベルトの幾曲から黒人靈歌まで、全一時間聽いて、深夜を奧多摩へ歸るうちに、晝のコセついた神經や疲勞も、洗濯した夏のワイシヤツを着更へたみたいな輕い氣もちになつてゐた。アンダソンの力唱と、あの生命力の火花に似たリズムが、自動車とおなじスピードで、なほ夜風となつて聞え、タイヤの歌となつて走つてゆく。歌が人の心を乘せ、歌が明日の仕事や生きがひをも勵ますかと思はれる。
 やはり、消えるものでも、消えないものは、永遠に、消えない。



 五月五日には天皇賞レースがある。淀競馬場は沸くだらう。日本のクラシツク・レースでも最長距離の力戰である。
 天皇賞レースには、御紋章づきの楯が授與されるが、陛下が競馬場へおいでになつたことはない。
 なぜだらうか。側近の思案もあらうし、陛下御自身の好き嫌ひもおありだらう。もし、兩陛下とも“見ず嫌ひ”でいらツしやるなら、ぜひ一度は御覽ねがひたい。また、側近も、考へ直して欲しいとおもふ。
 明治天皇は、よほど競馬がお好きであつた。春秋の横濱根岸競馬へは、前後十八回も行幸になつた。横濱ぢゆうは、ロンドン市民がダービーに熱するみたいな他愛なさと國際色に雜閙する。鹵簿ろぼはたしかオープンの三頭立て馬車で、道幅せまい相澤の貧民街も通つてゆく。
 その兩側に、ぼくら小學生も立ち竝んだことがある。みんなで紙旗を打振るのが、鹵簿の車輪やお體にも觸れるほどだつた。白い手袋とニコ/\したお顏が、小學生や貧民街の人々や競馬フアンにこたへて行かれた。
 あゝしたオープンな陛下の姿は、以後、絶對に庶民の眼から遠ざかつた。思ひ出すと、その日のみは、陛下も、フアンのおひとりだつた。明治天皇が、わけても民情に通じてをられたのも、偶然ではない。
 競馬は、宮廷が最初の主催者である。奈良朝の文武帝に始まるといふから、佛教と前後して渡つた事かもしれぬ。聖武帝と光明皇后。また、代々の天皇、春宮とうぐう、上皇、女院、藤壺ノ君などが、群集と共に、笑みを竝べて競馬を見る――そんな繪畫的想像もわく。
 わけて、平安朝の末期には、年表にも「天皇、皇后、競馬を給ふ」の項が隨所に多い。神泉苑の競馬、仁和寺の競馬、加茂の競馬。時には、公卿の邸地でも、都の大路でも、臨時競馬をやつた。
 すべて直線コースで、今の千二百メートルぐらゐがせい/″\であつたらしい。騎手は、朝臣たちだ。中には、負けたくやしさに、切腹した者もある。
賭物かけものみつぎノ式」といふのが、春と秋に、宮中で行はれる。天皇の前で、負け組から勝組へ、罰として“みつぎ”を贈る儀式である。あとは無禮講となり、敵味方、勝敗を忘れて、大らかに飮み遊ぶ。
 いつたいに、その頃は、賭け事を、さう危險視や不潔視してゐなかつたやうである。僧侶をあひてに天皇が、賭け碁をしたりしておいでになる。
 とにかく、競馬場には、素裸な庶民が、終日、他愛もなく渦まいてゐる。僞似えせ君子でなければ、この中にも人間の眞を見出すであらう。本來の人間とは、何と愛すべき生態で、そして無邪氣なものか。いろ/\な人間圖、本能圖、可憐なる家族圖なども、御覽になれることゝおもふ。馬は見給はずとも、いちどは、おいでになる價値はあらう。



 下町の古い人が、初鰹を珍重したのは、鰹そのものより、じつは花のよごれも新緑となつた今頃が、もつとも酒が美味いといふ歳時記感ではなかつたらうか。
 牧水の歌つた――秋の夜もだが、新緑の宵も、酒呑みには、夕べ夕べが煩惱の辻だらう。と、ぼくなどにさへ、察しができる。
 そのせゐか、妙にこの所、酒のみと會する機會が多い。それで、啓蒙された事なんであるが、酒間藝術の畑にも、とみに新人の輩出がいちじるしいやうである。
 飮めば歩き、醉へば論じるしか能がないのかと思つた文春の池島信平すらも、シンペイ節を自ら歌つてウクレレを彈じるのを見て、これは異變だと思つた。扇谷正造のザツク、ザツク軍靴葬送曲にとつて、強敵が現はれたものといへよう。ある夜の會では、この二禍頭が、ぼくら音痴を、惱ましたものである。川口松太郎の本格テキ音曲、岩田専太郎の揮毫夕ぐれ、佐佐木茂索の小唄など、罪はかろい方。村上元三は、お家藝十何種を持つと聞くが、まだ、内二種しか、觀賞の機會がない。ひとり、斯道の古老、永井龍男は、近ごろ四本柱によりかゝつてゐるかたち。
 つい先夜は、べつな場所で、久しぶり尾崎士郎の手に杯を見たが、かの莊重なる浪花ぶしがむせび出るにいたらぬまに別れてしまつた。酒間藝術の感銘は、數年も前の古い印象さへ、その人の姿へ墨繪のやうな追憶の影を重ねる。藝術の無我境に、その者の赤裸なたましひが、その者の人間像を、人のひとみにやきつけるものとみえる。
 ぼくは、音痴である。酒間の音痴は、まるで惡役みたいなものだ。少くも愛し難い僞君子にはみられる。けれど、餘りの忍耐をかさねにかさね、内心、うつぼつの氣も生じないではない。むかし、淺草は“おせん”といふ家の二階で、これも文壇きつての音痴白井喬二と二人だけで、ひそかに、日頃の鬱積ばらしをやつたことがある。宵から十二時過ぎ迄、交りばんこに、音痴と音痴とが、何でも歌ひツこ、といふ約束で喚いたのである。彼の鳩ポツポに初まつて、ぼくの汽笛一聲、螢の光り、アヽ夢の世や、酒は涙か、とにかく正味三時間はやつた。そして汗ぐツしより、深夜の星の下へ泳ぎ出たときほど、氣の晴々したことはない。
 いや、もう一ぺんある。
 これは唯一人の旅先だつた。ちやうど五月の暴風雨しけあと、仙臺石ノ卷から、金華山へ小汽船で渡つたときである。荒海にもてあそばれ、船中、ゲロゲロの慘状だつたが、ぼくは、波洗ふ甲板の上に出で、身を帆柱にしばりつけた。そして寄せくる一波々々を、おせんの夜の白井喬二と見立てゝ、聲いツぱい、怒濤の聲と交りばんこに、喉もシヨツパクなるほど、歌を吠えつゞけてゐたのである。
 靜な釣舟の上でさへ、すぐ船よひを催すぼくが、金華山沖では、船頭さんに、賞められた。酒間藝術家たちが、いよいよ、はびこる理由はこれだらう。ネオンの海も、まだ/\、大きな底波の上にある日本のことだし。



 人づてなので、ほんとにはしきつてゐないが、まさか、かついだわけでもあるまい。某社の記者が「志賀直哉さんにお會ひしたら、吉川君に上げたい物があるよと云つてをられましたが」といふ。「なに」と訊いたら「石橋山の合戰のとき、頼朝が隱れたといふその大木の根ツこか何からしいんですがネ」と、その人も見ては居ないらしいのだ。
 箱根、熱海には、埋れ木細工が、以前はよく名産屋の店頭に見えた。今でも多少はやつてゐるのだらう。そして、たぶん、さうした材料屋が「これは、頼朝が隱れた椙山すぎやまのあの木の埋れ木だ」といふ由緒から、土地の志賀さんに獻呈し、志賀さんがまた、「頼朝なら、吉川君行きだナ」と、客に語つたことかもしれない。――と想像はしてみたが、その後、氏にお會ひしてもそんな話は出なかつた。こちらもまた、もしや貰つても持て餘すやうな物かもしれずと、愼重を期して、云ひ出さずにゐる。伊豆バスの遊覽案内にも、頼朝遺蹟は少くない。伊豆は頼朝の地元である。ところが、どうも彼には庶民的關心も人氣もうすい。幸田露伴翁の“源頼朝”は、代表的頼朝びいきの史談だが、あゝいふ精密な見方までして人間頼朝の良さを知らうとは誰もしない。あながち、判官(義經)びいきの反動ばかりでもないやうだ。
 ぼくなども、史論でなく、單に、好きか嫌ひかを問はれゝば「あまり好きではない」方に傾くだらう。頼朝の持つ理性の冷めたさに同調できないのである。冷めたさとは又、どんな内容か、を分析してみると、二つある。“復讐心”がつよいこと。もう一つは“どこにも馬鹿氣の見えない人”であることだ。
 然し、拔け目のない理性家といつても、全部が全部とまではゆかない。政子夫人の前では、たとへば、現今の阿部眞之助老みたいな者で、てんで頭は上がらないし、又、ツマミ食ひなどもやつてゐるが、その浮氣ぶりもじつにケチ臭くて男性の恥辱みたいなものである。
 また、もう一つの、猜疑と復讐心の方には、いさゝか同情もできる。戰後の少年期に、父の義朝が、父が無二と信じてゐた家人のため、風呂場の中で欺し討に虐殺された。それが、十三歳の少年の魂に、大きな慟哭と、生涯のふかでを與へたのは確實である。――人は信じられない――どんな肉身でも[#「肉身でも」はママ]友でも疑つてみるもの――といふ後天的性情は、そのとき、植ゑつけられたものだらう。その後天性が、以後の克己と大成に役立ちもしたにちがひない。しかし、頼朝の晩年の悲劇と、忽ちに來た源氏の自壞も、彼のその性情に起因した。
 權力で作つた權力の府だから、亡ぶのも自然だが、あゝ血みどろな骨肉の殺し合ひをやつた鎌倉の末路のあとは、何とも、いやである。こけの花まで、可愛く見えない。
 案外、遊覽バスの他愛ない旅客も、そんな嗅覺を、ちやんと持つてゐて、頼朝の跡は、さう、戀しがらないのかもしれぬ。



 子供の世界には、またそろ/\、糖分過剩の兆候がみえる。一人あたりの砂糖消費量は、その國の生活民度を示す、とかいふ説に、從へば、自由販賣ともなつて、同慶の至りなんであるが、砂糖といふやつ、無いとなれば、あの通り糖分の餓鬼を作るし、御座います、となると忽ち、社會老幼の舌を、砂糖漬にしてしまふ。
 過剩の不幸といふこともある。農村までを、さうとは云へないが、都會の子はもう、甘きに飽いてゐるやうだ。アメリカのガムやキヤンデーなど、をかしくつて、近頃の子は、かへりみもしない。
「宅の子ときたら、お父さんに似て、お酒のさかなみたいな物ばかり好くんですの」と、子供の異常味覺を、優秀兒の特性かのごとく思ひ誤つて、客に語る母親もある。じつは、わが家にも、そんな傾向がないでもない。
 ぼくは「子供の不幸だ」と思つてゐる。榮養價には心をこめてやるもよい。然し「なるべく、まづい物をやれよ、粗朴なお惣菜がいゝよ、ヘンな大人好みのお料理はよせよ」と、それだけは、女房に云つておく。
 食味の世界なんて、すぐ突き當るものである。美味い物食ひを追ふ食通などは、おほむね“つう沽券こけん”と“通のジレンマ”ばかり食べてゐるやうなものだ。醍醐味は、苦勞の遊戯にあると云ふならそれも遊びで結構なことだ。然し結局、死に際には、案外正直に、「水がいちばん美味いや」なんていふかもしれない。
 とは云へ、美味はやはり死までの魅力だ。わけて、少年や青年期の胃袋には、絶大な欲望と、日々の課題である。漠然たる「人生への希望」の中には、當然その欲望も加算されている。
 だから、食味は、これから大人になつて行く者たちにとつては、“人生の懸賞”でもある。それだけになほ、幼少のうちに、親たちがいたづらに子供の味覺の驚異をオモチヤにし、限りある人生味を先に舐め飽かせてしまつたら、子供にとつて、どうなるかである。成長の意味は減じてしまふだらう。また、未知への驚異や、欲望のために克己する樂しみも少くなる。プチ・ブル家庭に見るお上品で、ひよわい子弟は、かういふ肥料過剩に根を傷められてゐる不幸な麥だ。
 貧しい家の子たちを、幸福だとはいはない。けれど懸賞はまだ前途に約してゐる。ぼくなどもその組だつた。青年時代に、何とかして、いちど、十二錢の上等な“天どん”にありつきたいと思ひ惱み、やつと希望の天どんに巡りあつたときは、その中味よりも、まづ、どんぶりの重量感に「人生、生きるべし」のよろこびを心に躍らしたものである。
 子供の世界ばかりではない。何もかも都市中心の偏向が見える。餘りに都會を“過剩な不幸”にしたくない。適度に過剰率を避け、地方文化や貧しい末端社會へ、それを頒かつやうな政治作用が望ましい。



 天下にトラも多いが、橋本關雪畫伯みたいなトラは、めつたに知らない。
 もう故人となつたが、近頃また、新聞の海外電報に眼を落すたび、あの大トラ振りが、時々、眼に泛かんでくる。
 ――といふのは、タイ、ラオス、ヴエトナムなど東南アジアの空が、朝鮮に代つて、俄然、國際報道の焦點になつて來たせゐだ。戰時中、關雪老と二人で、南の空を飛んだ思ひ出がわくのである。
 出發前夜、築地の錦水で、初めて會つた。一見、温雅で東洋的な老畫人である。ボソ/\と、聲も低い。然し、腰も低く、ぼくは「これは、‥‥」と内心悲んだ。「いやでも、旅行中、この年よりのお守りをする事になるんぢやないか」と惧れたのだつた。
 あにはからんや、この翁、南方、何萬何千哩の空を、三十餘日間飛んで廻るあひだ、地上に降りさへすれば、泥醉、亂醉、怒喝、なぐり合ひ、大トラを演じない地は一夜もない。
 航空中は、をとなしいかと云ふと、行動範圍は限られるが、大醉しては、デツキへ大の字なりになつて寢てしまふ。そのイビキと、ヱンヂンの音響と、何ツちが大きいかと云ひたい程である。そして、目覺めると旺にぼくへ筆談を挑む。内容は、たとへば、こんなふうである。
 關「飛行機ノ旅ハジツニ快適デス。日々好日」僕「氣ニ入リマシタナ」關「ヨイ所ガアツタラ、永住イタシタイ」僕「じやんぐるノ中ナド如何」關「怪シカラン。足下マデ餘ヲ虎ト揶揄スルカ」僕「三國志ナドニハ、虎侯、虎伯、虎將軍ナド、ミナ豪イ人ノ代名詞デス。虎畫伯ガ有ツテモヨカラン」關「デハ、私モ以後、別號ヲ“雲虎”トデモシマスカナ」僕「連想ガワルイ、虎關ハドウデス」關「足下ハ、ナカナカ口ガ惡イ、栖鳳サンノ若イ頃ニ似テイル、髮ノ生エ方マデ似テイル」
 筆談には、まゝ栖鳳氏の名が出る。“栖鳳と關雪”といふ話題は、多年、兩者の不和と、名聲の對峙から、畫壇ゴシツプとなつてゐた。ぼくらの知る處ではない。然し、不和の原因は、何も知らない。
 タイのドンムアン飛行場を立つ朝の事である。前夜、ぼくは同盟通信の人から、栖鳳翁が死去したといふニユースを聞いた。けれど、關雪老には、わざと、默つてゐた。萬里の異境にある旅先だし、何といつても、もう虎髯もマバラに白い年齡のお年寄だ。半生の好敵手、また師弟關係もあるとかいふ相手が、世を去れりと聞いたら、さだめし、氣落ちしよう。憮然たる寂寥にとらはれよう。さうぼくはお察ししたのである。
 ところが、その日、機上で、辨當を解きかけると、運惡く包みの新聞紙に“竹内栖鳳畫伯死す”と大きく記事が載つてゐる。――と忽ち、デスクの鉛筆を取つて、老は、ザラ紙の筆談用紙へ、何か、ガリ/\書き出した。そしてぼくの眼のまへにつきつけた。
 讀むと、全文、栖鳳氏への惡たいなのだ。終りに、乾杯、と書いてある。そしてトラ畫伯は、悠然と獨りで乾杯した。



 馴れるものである、もう、ぼくらでも驚かない。公園、お濠ばた、海濱、ホーム、隨所隨時、どこで、接吻の男女を、ふと、見かけようともである。
 接吻映畫、接吻ポスター、接吻雜誌、かうなると、効果はないも同じだとも云へよう。獨立日本は、まず接吻を卒業した。米上院議員あたりで讃辭しさうなものである。
 ひと頃は、世相異變かのやうに「日本接吻考」などを雜誌も載せ、我が國の接吻は、江戸初期からだとか、中期を初見とするとか考證してゐたが、なあに、秀吉さへ遠地から留守の淀君へ、歸つたら接吻してあげよう、と手紙で云つてゐたほどだし、醍醐寺藏稚兒双紙にも類似の一圖があると聞くから、鎌倉期や平安朝にも、いやそれ以前にも、接吻は、母親が乳兒の頬へする本能と共に、日本でも世界並みにあつたにちがひない。たゞ外人とは、觀念と習慣の相違にすぎまい。
 だが、短時日に、その異習慣を容れて異としなくなつた日本人間には、接吻のもつ廣義な愛情の表示が、まだ若い男女にも味はひきれてゐないのではないか。
 たとへば、次のやうな接吻など、ひどく、ぼくの心の唇に沁みついてゐる。――季節のバラの花を銀座の店頭に見初めると、人混みの中でも思ひ出されるのである。
 巴里の路傍に、汚ない廢人が、物乞ひしてゐた。第一次世界大戰の後である。が、華やかな人通りは、もう戰爭の惡夢も忘れ顏だつた。彼は、戰爭犠牲者なので、平和な雜閙の流れへ、同情を求め、身のあはれを叫びぬいてゐるが、振返る者もない。
 三人づれの少女が通りかゝつた。廢人は彼女たちを見て、その乙女心へ懸命に訴へた。氣の毒さうに、中の一人が、小さい銀貨を與へた。次の少女も一枚の銅貨をやつた。廢人は、なほ、聲をふりしぼつて「三人目のお孃さんも、何か施してくださるでせうね」と云つた。ところが、さいごの少女は、まが惡さうに、體ぢゆうのポケツトを探つてばかりゐた。彼女は、貧しかつた。路傍の手にやる一枚の小錢も持つてゐなかつたのである。
 だが、少女は、つと廢人のそばへ寄つて行つた。そして、與へる物質の代りに、彼の異臭を放つ汚い顏をかろく抱いて、その頬へ、チユツと接吻してやつた。
 廢人の眼は燃えかゞやき、アカの底から顏ぢゆうにボツと血の色がのぼつた。――彼は、突然、松葉杖をついて立ち上り、ピヨンピヨンと、向う側の百貨店の入り口まで跳んだ。そして、いま貰つた銀貨で、花賣りの籠から、眞紅のバラを一輪買つて歸り「お孃さん、これは私からあなたへ」と、少女の胸に差してやつたといふ。
 當時の海外ニユースを蒐載した古雜誌で讀んだのである。もう何百ペンも製紙會社の再製機を通つた紙と活字の古い話だ。今日の市場價値はもちろんあるまい。けれど、この話の價値は、接吻もいゝものだといふことにある。赤い羽根、白い羽根にも、匂ひあれ。



 熱海在住の文化人會といつたやうな席。
 志賀、廣津、福島繁太郎氏などの古顏は、まるで市會みたいに山形市長をいぢめぬく。もちろん、むきなわけではない。氣儘に熱海を語つてくれといふのが、主催者のあいさつだつた。
 と。田岡典夫氏が、ぼくに、特にぼくの顏を見て「豐臣秀頼は、熱海へ來たことはありませんね」と云つた。「えゝ、ないと思ひます」「秀次は來てをりますね」「來てゐます、たしか」と、答へた。
 それから二、三日間、妙に頭のすみで、その事にこだはつた。「たしか」などと答へたが、いつ、何で、豐臣秀次が、熱海へ來たか、確たる出典が思ひ出せないため、さきの言葉に、自分で不安になつたのである。
 數日、子供が風邪で寢こんだ。で、お醫者さんの聲を階下に聞いたときである、ふと、思ひ出した一書があつた。元龜、天正の名醫といはれた曲直瀬道三まなせだうさんの診療簿「醫學天正記」である。刊本もあらうが、ぼくのは寫本で、その中に、道三が秀次の病を診た診斷が誌してあるはずだ。
 手許にないので、さつそく、吉野村へ電話して郵送してもらひ、見ると、あつた。
 文祿二年初め。關白秀次が、四十日餘り、熱海へ湯治に來てをり、その間、曲直瀬道三が、往診してゐるのである。
 文祿二年は、秀次二十五歳。例の亂行の罪で、高野山に自刃を命ぜられ“殺生關白”の悲慘な死をとげるつい二年前である。
 道三の診斷簿によると、秀次は、喘息ぜんそくもちであつた。熱海へ來て一時よくなつたが、湯に入り過ぎて、こんどは、「氣、逆上シ、胸フサガリ、痰喘たんぜん、臥スモ能ハズ」といふ苦しみ方であり「喘聲ぜんせい、四隣ニ聞ユ」とも誌してある。
 彼の喘息が、いつからだか、明記してないが、これでみると、殺生關白の亂行も、どの程度か、どうも疑ひたくなる。野史によれば、朝鮮へ征けといふ秀吉のいふ事も肯かず、通行人を鐵砲で撃つたとか、孕み女を裂いたとか、また、死を賜ふたときも、「――秀次、色ヲ好ミ、博ク名妹めいまいヲ求メ、公卿士庶人の間ヨリ、漁致シテ、後房ノ美姫數百人、淫樂ヲ極ム」などとあるが、喘息持ちの、しかも二十五歳の弱體に、そんな絶倫な精力があつたかどうか。
「醫學天正記」は、醫書としてより史書としてじつにおもしろい。今上皇帝、女院、公卿、秀吉、淀君、蒲生氏郷などの生理的症状も、打診できる。
 もし、ルーズヴエルトの健康状態が、あゝでなかつたら、ヤルタ會談は、違つてゐたらう。以後の歴史も、變つてゐたかもしれない。
 歴史と、時人じじんの診斷簿。これは、密接だ。ぼくら作家も、時には、醫眼を借りて、史を觀ることも、必要だ。
 もひとつ、日本の現議會にも、一册の診斷簿をそなへて、折々、現代の曲直瀬道三に、首相以下全議員たちの生理状態を、記録させておく必要もありはしまいか。



 “母の日”だといふ。
 いつたい母の日とは、何をする日か、意味するのか、考へると、分らない。
 母を思へといふのか。ばかなことである。母が子を思ふ、子が母を思ふ。そんな特別な日があるなんて事からして、をかしいではないか。
 母の愛を讃へようといふのか。おそらく、世の母親の本心は、當惑を感じるだらう。純愛の中に、自己の母の姿を見出して、滿足してゐる母親なら、それは女の一生を、自己の信じる幸福なあり方において、辛くも、悲しくも、重荷でも、それを生きる樂しみとしてゐる人にちがひない。何か、規定された道徳か善行みたいに、讃へられなどしたら、かへつて、味氣ないし、まが惡い母親だつてあるだらう。
 母の日は、理窟ではありません、社會教化日であります、かういふ設定日でもおかなければ、女性は母の使命を忘れ、子は母親を生理的分身とみるだけで、相互、母性愛の本來を、また感謝を、忘れさうです。それゆゑの母の日であります。――といふならば何をか云はう。メーデーもおなじ社會行事である。わかることは、わかる。
 だが、どうも、安つぽい母性觀が、社會表皮に浮はつくだけで、すこしいやな云ひ方だが、人間下落だと云へなくもない。
 父の日はなく、母の日だけといふのも、へんなもので、なぜいツそ“親の日”とでもいはないのか。
 依然、女性水準を低く見ながら、その知能や本能をあまやかしてゐる社會風潮のむしろ横着さが窺はれるといつたら、母の會などから怒られるであらうか。
 ぼくの母は、とうのむかしに、この世にゐない。だが、夏隣りともなつて季節の野菜物、たとへば、味噌汁のなかのサヤゑんどう、竹の子めし、新そらまめ、若い胡瓜モミなど、母が好きだつたお菜に會ふと、ふと、母が胸をかすめる。
 母はビールの一口を美味がつた。初夏の夕、夕方の掃除や打水もすました母と、青すだれの小窓を横に、よく一本の小瓶を二人して一杯づつ酌み分けた。
 近頃また、舊に復して、ビールの小瓶が市販され出したので、どうかすると、妻と二人で、それをやる。するといつか、妻がおふくろに思はれて來たりして、そゞろ、ほろ苦い淋しみと、また、新たなる妻へのいとしみを覺えることがある。
 この妻も、子等にとつては、もう古びたる母である。不出來な子等でも、ビールの小瓶の半分ぐらゐは、永くこの母に酌いでやつてくれるだらう。
 やはり女性は“母の座”を占めることに、悔いのない生涯の率が多さうである。平凡陳腐な結論になるが、戀愛などは、やつてもやつても、火花である。燃燒のあとは、燃燒の前より暗い。
 母は、確實に、子の胸に住む。三十年前に亡くした母も、まだ、ぼくの想ひの中には、そこはかとなく生きてゐる。だからぼくは妻へも正直に云つておく。ぼくにとつて、この世で知つた女性のうち、第一の戀人は母だよ、と。



 世界的な松方コレクシヨンの浮世繪版畫は、いま、どこに何うなつてゐるのだらう。寫樂だけでも八十點はあつたといふが、岩井半四郎、市川白猿、松本幸四郎、仲藏、菊之丞などの似顏繪、あの一種皮肉な“東洋人の顏”は、世界のどこに散らばツたのか。
 いつたい、寫樂自身が、能役者だつたので、俳優の顏のアラがよくわかり、その爲、あゝした批評的で意地の惡い誇張を描いたといはれるが、この説に、ぼくは前から疑ひをもつてゐる。
 あの特有な畫の顏は、じつは寫樂自體の顏ではないか。もちろん、半四郎の顏やら幸四郎の顏やらは、自らひとつではないが、然し、寫樂的同型な骨格を基本とし、それから幾種類もの彼の役者似顏は畫かれてゐる。ところが、それ以前に、もうひとつ、寫樂自身の顏があつて、それが原型だつたのだと、ぼくは、想像したいのである。
 人氣を氣に病む人氣俳優の似顏を、あんな風に描いた寫樂は、當然、怨みを買つたらしく、そのため、暗打ちを食つて、片腕を斬られたとか、藩公の蜂須賀侯から畫筆をとめられたとか、いふ話も遺つてゐる。
 だが、彼の個性は、迫害惡聲も、恬と、一笑にふして居たのではあるまいか。さういふ面構へが、つまり寫樂繪の骨格である。彼の郷里、徳島市の本行寺にある墓碑には、上の院號は忘れたが、たしか下の法名は“しやく蛙水居士あすゐこじ”といふのであつた。
 蛙水あすゐなんて戒名は珍しい。かへるつらに水と讀める。寫樂その人の風貌と、寫樂繪のツラがまざまざと連想されてくるではないか。
 ところが、ぼくの連想には、もう一人の徳島人が結びついてゐる。すでに故人となつたが、伊上凡骨といふ木版彫刻家である。夏目漱石の著書は、全部といつてよい程、彼の木版によるものだし、與謝野寛、晶子夫妻の明星派やまた、百穗、溪仙、劉生、御舟、麥僊、弘光、武二などの洋畫日本畫家にわたつて、その技術と、名人肌的な畸行ぶりを、愛されてゐた男である。
 寫樂がよく描くあの特異な鼻、顎の線、頬の幅、顏總體の大まかさなど、およそ寫樂によつて誇張されたものが、この凡骨の顏にはあつた。そして、伊上凡骨、と東洲齋寫樂とは、同郷人であり、仕事も、版と繪といふ唇齒の關係をもつてゐる。
 時代は、餘りに距てゝゐるが、ぼくの頭には、かう二人が、いつも雲母刷きららずりを背景とした一枚の中に竝んでゐる。要するに、寫樂の描いた顏は、彼の郷土に幾つもあつた郷土の顏ではなかつたかと思ふのである。
 終戰直後だつたがと思ふ。寫樂と共に、郷土の藝術家として、伊上凡骨の事蹟を殘しておきたいが、といふ問合せが、徳島縣からあつたが、その後、どうなつたか、結果を聞いてゐない。
 いつか、吉井勇氏に會つたとき、凡骨の話にふれたら、「あゝ、それは遺しておきたいですな」と云つてゐた。吉井氏の歌にも、凡骨を歌ふの舊作が幾首かあつたやうに思ふ。いや歌の數よりも、凡骨の畸人と奇行ぶりは、まだ覺えてゐる人は他にも多いはずである。



 丹後の宮津へは二度行つた。いちどは釣に。いちどは夏季大學の講座に。
 なぜか、そこの婦人會長さんの家に立ち寄つたことがある。いや、珍らしい小鳥を見せようといふ話からであつた。目ぬきな市街の商家で、そこの御主人公が、アマチユーアといつても、ちよつと世間に少ないほど奇特な小鳥の研究家だといふのである。
 その人の小鳥好きは、先天的で、小學校の頃から、學校にゐても、家庭にゐても、小鳥にばかり氣をとられてゐるため、早くから、商家の丁稚奉公に出されてしまつた程だつたといふ。
 ところが、この小僧氏は、奉公先でも、いつか、一羽の小雀を袂の中に飼ひ、人知れず、ふところで遊ばしたり、御飯時には、袖口から、こつそり飯ツブを入れてやつたり、夜は、蒲團の中で、雀と頬ずりなどしながら寢入るのを、獨りで樂んでゐたさうだ。
 もちろん、小僧氏の秘め事が、長く知れずにゐるはずもない。まもなく、店主はそれを發見した。然しさまでな彼の小鳥に對する愛情を知つては、店主も、「よく働いて、責任を怠りさへしなければ、小鳥を飼ひながら勤めてもよい」といふ特例をゆるさずにゐられなかつた。小僧氏は、なほ勤勉に勤めあげた。そしてそれから數十年間、老いの今日まで、今も小鳥をそばから離したことがないといふ――婦人會長さんの説明であつた。
 つまりこの婦人會長さんは、小僧氏が仕へた主人の家つきの娘であり、小鳥好きな小僧氏の勤勉と愛情のこまやかさを見て、後に、彼をお聟さんとして迎へ、そのまゝ今日にいたつたものらしい。そんなふうに、ぼくは聞いた。
 コマ鳥や、何鳥や、その折、見せられた鳥は、名も忘れてしまつたが、話だけは、今も覺えてゐる。
 もつとも、鳥類研究家の中西悟堂氏などには、日常茶飯の小景に過ぎまいが、ぼくには、旅情の中で聞いたせゐか、いつ思ひ出してもホヽ笑ましい。
 その中西悟堂氏にいはせると、鳥群の棲息分布には、繩張があつて、その鳥類が生きるに必要な地上の食餌領域が、ちやんと計算されてゐるといふ事である。渡り鳥なども、一定の地域領に、棲めるだけの數しか棲まない。同族の鳥が殖え、餌と地域の限界をこえると、彼らは、他の新天地を見つけ、かならず、移住鳥民を組織して、そこへ棲ませる習性をもつてゐるといふ。
 だから、彼らの世界には、賢明による平和がいつも保たれてゐる。
 しかし、時には、異鳥族が、不法侵略して來るばあひも無いではない。すると、彼らの間にも空中で、血の羽毛をとばし合ふ猛烈な攻防戰が演じられる。
 だが、鳥は人間より悧巧だから、そんな例は滅多にない。人間が鳥より確實に馬鹿である證據には、棲息の地上分布といふ考慮と公平に缺けながら、平和とか平等とか云つてゐるのを見てもわかる。もし人類がほんとに戰爭を厭ふなら、この地球面の住み方を、小鳥の智惠に習つてみてはどうであらうか。



 育つものを見るのは氣もちがいゝ。ぼくは、育つものが好きである。
 友人達が骨董談に耽けつてゐる中で、舟橋聖一氏ひとりは「ぼくは生きてるものが好きだ」と云つたさうだが、ぼくは骨董も嫌ひではないが、より以上に、育つものが好きである。
 だから季節的には、五月はもつとも自分の生理に適してゐる。芍藥の新芽が土を割つて眞つ赤なキバを地表にあらはしたり、孟宗竹のたけのこが朝な朝な伸びつゝあるのを見たりすると、自分の生命にまで影響があるかのやうで何か樂しい。へんな云ひ方だが、土に性慾を感じてくる。
 反對に、おなじ土でも、たとへば現代の寺院などに立ち入ると、あの數世紀間も踏みかためられたまゝ、冷んやりしきつた土が、今では、育つものを生む何の力も失つた老女の肌かのやうで、單なる地べたを感じるほか、何の希望もよろこびも足の裏から觸れて來ない。
 人間のばあひにしてもさうである。「もう育ちはない」と思はれる人と對坐してゐると、堪らない退屈が座間にたゞよひ、こつちも、やりきれないものに鬱してしまふ。
 育つ人、育ちのない人の差は、あながち年齡には依らないやうだ。若い見事な筋肉の持主にでも、五分間で、欠伸をおぼえることもあるし、老いすがれて見えながら、なほ對者に、ゆたかな生命のひろがりを覺えさせる客もある。
 政治家の影像なども、一般のあひだに漠然と判斷されてゐるこの「育つ人間か、否か」に依つて、大體の支持が分れてゐるのであらう。大衆の生理とそして無意識な嗅覺とは、「育ちのないもの」は好まないに極つてゐるからだ。決して、嫌ふ氣はなくても、尾崎咢堂翁を落選させたなどは、一例といへよう。廣川和尚なども、要するに、野狐禪的な藝當はおもしろいが、育たない人と、區民に觀られたのではないか。
 牧野富太郎博士の病床の寫眞を近刊の何かで見た。あの老齡と清貧な書齋圖である。だが、寫眞ですらも、その人のなほ育ちつゝある生命が窺はれる。たゞ然し、人間には天壽があつた、と知るとき、育つものをなほ持つ生命には、たまらない、いぢらしさと愛惜がわく。詩を謳つて無情をべるしか人間には解決の方法がない。
 だが、個々の生命の開落は、花や落葉の移りとおなじで、地球自體の生態は、四季不斷に、何かを育てたがつてゐるものにちがひない。そしてその大きな地表の部分々々でも、育つてゆく國、育ちのない國とがあるのは、そこに住む民衆の人爲にすぎまい。長い歴史と文化にふみかためられてきた日本の土も、今日の寺院のやうな單なる地べたにはしたくないものだ。



 街も夏姿である。
 例のトツパー風な茶羽織も、見なくなつた。だが、あの流行は、一つの示唆を殘してゐるとおもふ。
 茶の作用が、あんな形で、流行面に浮かび出したのは、おもしろい。
 利休時代の、いはゆる堺町人を主とした初期の茶人なるものには、現代の若い人々や知識人以上、古いものゝ脱皮と、新しい物への進取的な意識はさかんだつた。
 茶羽織には、堺の文化人も考へさうな、茶意織が[#「茶意織が」はママ]、よく出てゐた。――實生活の中での氣分の遊び、あの簡素化、また、廢物も生かしうる工夫など、あんなのが、まづ、生きた茶道といふものであらう。
 といつても、茶は、たれも知つてゐるあのお茶にはちがひない。ぼくなども、その抹茶を愛飮すること、二十年餘にもなるが、無作法、無茶心、何ひとつ卒業してゐない。
 そればかりか、多年、他家の茶席には招かれてゐる。なるべく辭退はしてゐるが、それでも、飮み逃げ食べ逃げの儘、こちらは唯の一ぺんも、お返しをしてゐないのだ。さういふ不義理先が、何十家にも及んでゐる。吉屋信子さんにさへ、その御不沙汰の借がある。
 が、そこは、茶の世界ほど、氣らくな所はない。何もむりに常識で割り切つて不義理を苦にやむ必要もないのである。たとへば藤原銀次郎氏のごとき大茶人格の招きなどは、すべて“茶施”といふもので、借とは考へないことにしてゐる。
 どうも、ぼくは茶にたいして、どこかに不逞で横着な考へが潜んでゐるらしい。そのくせ、茶は愛するのだが、茶にたいして、嚴父のやうになれない。母に甘えたやうに甘えたがる。そして、それでいゝと思つて改める氣もない。
 川端康成氏などは、茶にも謙虚だし、器物を觀るにも、作品の肌目のやうに細やかである。川口松太郎氏にしても、習ふ事だけは、素直にひと通りやつてゐる。ぼくには、それがない。
 根本は、ぼくの考へ方に、しよせん、やり拔けない道なら、そして自分の本道でもないのだから「初心うぶとほした方がいゝ」といふ横着があるからだつた。
 だから稀々、冬の夜など、爐に釜が鳴つてゐても、客と爐にあぐらを組んで、放談、漫飮、茶も何もあつた景色ではない。――非茶人と非茶人と爐に蜜柑喰ふ――そんな駄句を作つたりして興じるぐらゐが、せきのやまのお茶人である。
 小説中に、野立ての茶を書いたり、茶について、知つたふうな事を早くに書いたとがであらうか、世にはぼくを、少しは、茶も分つてゐる男のやうに思ひ誤まつてゐる人が多い。じつはかくのごとき非茶人なのである。



 ダービーが近づいた。
 競馬社會には「ダービー馬は、ダービー馬から」といふ鐵則みたいなことばがある。
 名駿は凡馬の血からは出ない。名門かならず名馬を生む、といふのである。それほど、馬には、血統書が重んじられる。
 人間はどうだらう。熊澤天皇はしらないが、人間の系圖とくると、馬の血統書ほどな信用もおくわけにゆくまい。
 だいいち、馬は血統書ひとつで國際的評價さへもつが、人間のは、桓武の末流も、清和源氏のながれも、古本一册にも値しない。人間の値が、馬以下とは、いやなことだが、このばあひだけは、さうである。
 馬は、自己の血統だけの値打を、とにかく「走る」といふ事實で立證する。が、人間社會では、じつさいの生存競爭場裡で、走りも馳けもしない名門やら名家の子弟が多すぎる。馬ほどに信用できない。
 M氏は、明治元勳の孫と聞いてゐる。ある夕べ、二人でビールを飮んだ。戰前のことである。M氏のなじみの美妓もゐるのに、庭を見ては、時々、沈み顏になる。ぼくはM氏の憂ひを訊いてみた。M氏は、その日、學習院の運動會を見に行つたといふのである。「するとさ、きみ‥‥」と嘆いて云ふ。「うちの子が、馳けツこに出たと思つたら、ゴール迄ゆかないうち、やめちまうんだね、競爭を拔けて、ぶら/\歩いてゐやがるんだ。考へたね、あれぢやあ、社會に出てから、どう生きてゆくかと思つてさ」
 明治の元勳などは、みな野性の球根だつた。それが二、三代咲き變ると、もう青白い温室植物化してしまふ。文壇人の例では、二世といふと、はや、おもかげはない。ぼくが云ふのは、親の天才とか優秀性のことではない。單なる生活力をさすのである。生命力の退化の餘りに早いことを考へたいのである。
 漱石、秋聲、獨歩、誰、彼の二世たちを考へても、なぜかの疑問がわく。みな善良ではあるが、どこか、ひよわい。文壇人の二世だけでなく、その型は共通してゐる。云ひすぎかもしれないが、皇室は、その典型的なものであらう。象徴としてたゞ美しくあるにはよいが、優生學的には、あの長い世紀にわたる同族結婚にちかい名門婚は、人間的不幸である。
 平家史をいぢつてゐると、そんなよけいな連想もする。おそらく、いま、御渡英中の皇太子さまも、御歸國後は、やがて御婚儀の問題が出よう。ふとそんな臆測をいだいたせゐか。
 人間のばあひ、優秀と優秀との交配は、優秀を生むとかぎらない。むしろ優秀のまゝ退化する。
 皇太子さまのお妃は、ぜひ野性の庶民から選ばれて欲しい。どうしても、名門にかぎるなれば、山嶽地方の平家村から、平家のひめをお迎へになるとよい。



 幸に日本人は、四季にめぐまれ、また民族の血は、自然な歴史のカクテルをうけて、比較的に優秀である。らしい、などとは云ひにごさない。優秀だと、ぼくはおもふ。
 いまどき、日本人の優秀性などを口にすると、吉屋信子氏のはからずもうけた聲のやうに、相似た非難をあびるかもしれない。「なに、どこが優秀だと。敗戰後のあのざまや今日の政黨をみろ。ばか野郎。日本は四等國民ではないか」書いてるうちにも、世の反撥が、きこえる氣がする。
 だが、愚劣をいふなら、人類そのものが、まだ愚の域を脱してゐるとは決していへまい。その中では、比較的に、まあまあ、優秀な方ではないかと、考へるだけのことである。
 しかしぼくは、日本の舊上流や智識層には、うぬぼれていない。云つてゐるのは、多分になほ野性な、未完成な、分厚い庶民層のことだ。その中に「よい日本人」を觀るし、また「さう捨てたものではない」と思ふ愉快をひとりで見出すのだ。
 もつと、具體的にいひたいが、廣汎すぎるし、云つては、平凡な獨善にならう。それよりは、讀者個々で、自分の中に見つけて欲しい。ぼくは、かう、見つける。
 ひとつは、日本の緯度だとおもふ。地球儀を見ないでは正確にいへないが、北緯三十七、八度から十度あたりへかけて、斜めに位置した細長い土壤の宿命だといひたい。つまり日本の四季と、その上に住む生物との關係にある。
 それと、自然の歴史が、こゝの住民を、極めてゆるい年代の流れのあひだに混血してきた人種の鍛冶たんやが考へられる。北、南、西、あらゆる海外からの古代人と、土着人との混血によるとする研究は、専門家のよくいふ所だが、近ごろ清水橘村氏の書いたものを見たら、天平時代にも、黒人種は住んでをり、萬葉集の内には、黒人と和妻の仲に生まれた黒い日本人や赤毛とよばれた白人系らしい人の和歌すらあると、その和歌や作者名をあげてゐる。
 また、興亡史からみても、奈良朝、平安朝の良血人種は、地方官になつてゆき、山間僻地にまで子孫を播いてゐる。平家、源氏、吉野朝、戰國期などの、支配者や文化面に、大きな變革をおこしたときは、なほさら、中央と地方との、血種の交流が行はれた。敗者は、野にかくれ、野の者が、中央へ進出し、そこに、次代へ、次代への、清新な交代が行はれてゐる。
 たとへば、海水と雲のやうなものだ。雲は雨となり、海水が雲となる。あの作用に似た血のカクテルが行はれて來たのである。庶民の健康と優秀性の中には、そんな秘密もかくれてゐるのだと、ぼくは觀る。
 今日の混血兒問題なども、さう考へると、氣にやむことはない。おたがひの血と血のなかに、愛しんで溶かしあつてゆかう。



 一茶に、牡丹の句は、なかつたかしら。
 あつたら、おもしろい句にちがひない。彼の貧乏性とあの皮肉が、牡丹を、どんな風に觀たらうか。
 牡丹を想ふと、蕪村の句がうかぶ。彼の句風が、牡丹の古木だ。牡丹には、どこか漢詩臭がある。唐朝盛時に流行つた花だと聞けば、成程とおもふ。
 茶花としての牡丹は、きぬた手の宋青磁が約束のやうだ。それも、浮ぼたんの花生でなく、たけのこと呼ぶ手がつかはれる。
 あれもよい。床の墨跡などは、牡丹の大輪の映えをうけて、いちだん、墨光を放つてみえる。また、古伊賀の壺に一と水かけて、白牡丹の清々すがすがしさも捨てがたい。
 だが、牡丹と茶との調和なら、支那茶がよい。籐椅子か何かで、あのふた付きのウス手な茶碗に指をかけて、直接、蛤の口でも吸ふやうにすゝるお茶。鼻腔にくる香り。抹茶にはない。
 巴峽の絶壁で摘まれるといふあの上茶の味など、ぼくらはもう十年以上も舌に忘れてゐる。上海あたりの茶舖で買ふと、蘭の花などがはいつてゐた。中共となつても、茶はあらう。しかし、牡丹はもう富家の庭に誇つてはをるまい。
 東京の下町にも、とんと、牡丹は見なくなつた。四ツ目の牡丹などを知つてゐる人は、その人の年齡も知られるといふものである。ぼくは、銀座の花卉店に、鉢植ゑ牡丹が出はじめると、亡友鈴木文史朗の武勇傳など思ひ出す。むかし、朝日新聞社の編輯局へ、白刃をもつた暴漢がちん入し、敢然、それと渡りあつて、文史朗氏の入院をみた事件がある。そのさい、彼の枕頭へ、鉢植ゑ牡丹をたづさへて見舞つたことがあるからである。獅子と牡丹、文史朗と牡丹。ふさはしくないこともなかつた。
 過ぎた東京の夢でなく、もう一ぺん、四ツ目に勝る牡丹園の花の奢りに會ひたいと思ふならば、どうしても三、四時間の汽車の旅は費やさねばなるまい。だが、福島縣の須賀川では、つい、おつくうも先に立つ。
 しかし、須賀川へは、いつかと、再遊をそゝられてゐる。牡丹の種類は百種以上もあるとか聞いた。頼山陽の黒牡丹の詩は、これかと思ふやうな異種もあつた。
 それよりは、生涯、そこの園を育てゝ貧苦をかへりみなかつた花作りの老翁が、いまはどうしたか、問うてもやりたい。
 夜櫻は、京大阪、どこでも聞くが、夜牡丹の人出は、須賀川だけであらう。牡丹祭りの提灯の田舍町を、靜な人影がぞろぞろ行く。若葉のうへに、月がある。かうなると、牡丹も漢詩の花ではない。蕪村にも見せてやりたいナ、とおもふ。
 江戸のチヨン髷西洋畫家、亞歐堂田善あおうだうでんぜん[#ルビの「あおうだうでんぜん」は底本では「あおうたうでんぜん」]はこゝの生れである。畫僧白雲も、この邊の坊さんなりと聞く。遺作もこの地方に多いさうだ。まだ、日本の田舍には、花の富貴だけは、絶えてもゐない。

 この稿が出てから、幾人かの親切な讀者が、一茶に、牡丹の句、數句あることを知らせて呉れた。その中で、如何にも一茶らしい句二つを掲げておく。
金儲け上手な寺の牡丹哉
侍が傘さしかける牡丹哉



 先斗町のある一亭で、その晩、丹羽文雄氏と落ち會つた。丹羽氏はあとからやつて來て、坐るとすぐ、卓の上に、何かおいた。
 妓たちは、好奇な眼をよせて、覗きあつた。水をたゝへた淺い小鉢の底に、ソラ豆大の生き物が、灯を恐がるかのやうに、じつとしてゐる。
 ぼくには京言葉の模寫がうまくできない。彼女たちは小鉢の上へ、櫛、かんざしを、キラキラあつめて、魚だと云ひ、いや魚ではないといひ、しきりに評議してゐたが、結局「河鹿や」「河鹿やわ」といふことに落ついた。
 こんなときの丹羽氏は、年に似げなき老巧である。妓たちを、いつ迄、あいまいに、あやなして、にんまり、にんまり、飮んでゐたが、「河鹿なもんか、すつぽんの子だよ」と、そこで、いきなりタネを明かした。妓たちは、大げさに、ひえツと肩をすぼめ合つた。赤ンぼでも、すつぽんなら食ひつくだらうと思つたにちがひない。
 丹羽氏は、なじみの飮み屋で貰つてきたのだと笑つたが、じつさい、すつぽんとは、そんなにすぐ食ひつくものかどうか。すつぽんに云はせれば「ご冗談でせう、食ひつくどころか、骨までしやぶるのは、人間ぢやありませんか」と、大いに抗議するだらう。のみならず「人間といふやつは、愛だの、平和だの、と口ぐせに云ふが、われら眷族にとつては、すべて惡魔だ、人間と見たらすぐ食ひつけ」と、すつぽんは親代々、子のすつぽんへ向つて、この世へ出るやいな、云ひ聞かせてゐるかもしれない。
 たれに聞いた話か、聞いた人まで忘れてしまつたが、さる婦人が、病人のため、すつぽんの生血を服ますとよいと聞き、やつと探し求めて、買物籠の底深くに收め、混みあふ國電にのつて歸つた。
 生き物なので、とかく氣にしてゐたので、スリの眼には、何かよほど大事な物のやうに思はれたらしい。スリの手は、買物籠を狙つてゐた。ところが、突然、スリは氣が狂つたやうな叫びを發し、乘客たちのうへに、多年練磨の右の手を振りまはした。「助けてくれ、助けてくれ」と叫んだといふ。しかし、スリの指頭に咬みついてゐたすつぽんは、彼が泣いても吠えても、離れなかつたさうである。スリを泣かしたのはおもしろい。歳時記にある“龜啼く”といふ季題のあべこべだ。
 すつぽんといへば、京都の大市か、そのほか、殘り少くなつたが、東京にも京橋にまるやといふのが、以前はあつた。與謝野晶子女史の一派や當時の畫家仲間が、よく集まつた家である。主の鴻ノ巣山人と號したひとも、恒友や劉生ばりの畫を描いて、一つの部屋には“月下すつぽん圖”と題する小屏風が立てゝあつた。
 すつぽんを喰べ、すつぽんの血をのんだりしたのは、江戸人の食通からであらう。柳だるには「すつぽんに拜まれた夜のあたゝかさ」などといふ無情と極道ごくだうに徹した句もある。鴻ノ巣山人の後家さんは、山人亡きあと、しきりに、すつぽん塚をどこかに建てたいと云つてゐたが、さて、塚ぐらゐでは、すつぽんの人間にたいする怨念が失せるかどうか。



 旅行の先々で、よく出會ふのは、近ごろ、美味い名物でもない、郷土美人でもない、ましてや人情のよさでもない。「何か、きねんに一筆」と、いんぎんに持ち出される用意の色紙、畫帖である。
 旅館に備へつけての畫帖とは、いはゞ名士と稱するものを待つカスミ網みたいなものだ。おほむね、これに掛かツて、カラスの足痕のごとき文字やら駄句など、みじめに、とゞめざるはない。
 いんぎんと、硯箱とを、見くらべて「ニガ手だな」と、固くなる眞面目派もあるし、「旅の恥」と、書きすてゝ苦にやまない洒脱派もある。ぼくはと訊かれゝば、後者である。どうせ、自分の墨イタヅラなど、さう、世に殘されてゆくはずはない。自然の作用が、やがて、灰か、紙屑にしてくれよう。
 かう云つたら、箱根のある温泉宿のおかみさんが「いゝえ、だめ。だつてうちからお嫁に行つた女中の××子は、もう五人の子持ですけれど、まだ、あの頃いたゞいた色紙を持つてますもの」と云つた。
 これは驚いた。しかし、市價もない自分の戯れ書などが、女中氏のお嫁入り道具の一つに加へられたとは、聞くだにうれしい望外なことである。また例外といつていゝ。
 泉鏡花氏がまだ在世の頃だつた。吉原の山口巴か桐佐かで、めづらしく、鏡花氏の俳句の額を見た。それが、また、おかみの自慢物で、「泉さんは、とても、あとで後悔なすつて、返せ返せと、未練がましく、何度も仰つしやるんですよ。けれど、返しやしませんよ、こつちだつて、家寶ですから」と、誇つてゐた。一代の不覺、後世の恥とでも考へてゐるやうな鏡花氏のアト味のわるげな顏が見えるやうである。しかし、まもなく、吉原ぐるみ、灰になつた。げにも、とり越し苦勞ほど、つまらないものはない。
 けれど、鏡花氏の「いらざるものは殘さぬがいゝ」とする身持ちにも、時には共感を禁じえぬこともある。今日、一流旅館の主などが、自慢さうに示す書畫帖を、何げなく繰りひろげてゆくと、まゝ往年の陸海軍大臣やら顯官諸公の名が、ゆくりなく顏を出してくる。それぞれ、胸中の覇氣やら、蘊蓄あるかの如き文字を、墨痕りんりと書いてゐるが「あゝ、巣鴨帖」と、思はず、卷を閉ぢずにゐられない。
 おなじ權力の府にゐた人でも、ひと時代前だと、伊藤博文の春畝山人にしろ、木戸松菊や清浦奎堂にしろ、墨いたづらをやるには、やるやうに、官衣を脱いで書いてゐるが、このあひだうちの人々は、陸軍大將何々だの、勳何等何々だのと、肩書いかめしく、詩味も餘裕もなかつたやうである。
 いや、やめよう。その人たちも、今では、鏡花氏の心境同樣、そんな墨の跡は、どうか早く世間から消滅してくれればよいと祈つてゐるにちがひない。
但看ル花ノ開落  言ハズ人ノ是非
 皮肉にも、これは、同じ畫帖の中に書いてゐた菊池寛の、中學生みたいな文字だつた。



 稀れに女房と散歩する。極めて、稀れなことなのに、彼女は、その貴重を、味はひきれない。「ちよつと、待つて」と、しばしば、善良な良人を路傍にすてゝ、どこかへ這入りこんでしまふ。
 きまつて、子供の買物か、臺所用具だ。心までは散歩の夕風に吹き拔かれてゐない證據で、要するに、彼女の道づれは、いついかなる場合でも、子供か、鍋釜なのである。
 いつかも、ひよいと、見えなくなつた。金物屋の中で花鋏や庖丁など包ませてゐる。しびれをきらして「まだか」と覗いてみたら、こんどは、文化かまどの陳列場にゐた。恐妻家にあらずとも、へツついを買ふ女房を待つ男などは、われながらいゝ圖ではない。また、夕方の銀座ほど「やあ」「やあ」と、知つた顏が流れてゆく時刻でもない。
 そこで、裏通りへ行つて、佇んでゐた。こんどは、向うが探す番だ。少し慌てさせてやれと、辛抱づよく立つてゐた。
 すると、時々、何か、頭の上から降つてくる。見ると、附近に所せましとおいてあるトラツクの下に三、四人の子供が這ひこんでゐた。
 よく砂遊びでやるやうに、トラツクの下の乾いた土を掻きよせては、ひと握り、ひと握り、打つけ合ひをしてゐるのだつた。みな、黄な粉にまぶされたやうな顏してゐる。ハイヤが來る、一つのトラツクが動き出す。自轉車が交はしてゆく。大人にどなりつけられる。――が、子供は子供の小天地をこゝに見つけ、他愛がない、不平もない。
 思はず、近所の建物を見まはした。どの窓や路次の中にも、この子供らの遊ぶ空間など、ありさうもない。都心の、かういつた所の子供、緑地を知らぬ都會地の子をかぞへたら、たいへんな數ではなからうか。
 新潟縣のどこかに、里子村といふのがあつたと、記憶する。子供のため、親も働きよいため、里子制度を、もう一ぺん、近代的な要意と理解のもとに、考へてみてはどうだらう。
 ぼくの弟の一人は、※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)タレ時代、根岸村の漁師の家へ、里子にあづけられた。母と一しよに、會ひに行くと、まツ黒けで、漁師の子とちがはない弟が、濱邊から、はにかみながらやつて來て、母の手に、甘へかゝつた。何ともいへぬ、母子の愛情の姿が、ねたましい程であつた。いまでも、ぼくの眸にある。
 大都市から二、三時間の農村や漁村ならどこでもよい。まじめに、考究してみては、どうだらう。都會の親たちも、きつと、共鳴するのではあるまいか。
 里子村は、子のためばかりのものではない。親の生活も健康になると思ふ。
 麻雀、競輪、晝寢などに、つい過ごしやすい休暇の一日を、前の夜から、子どもの好きな物など揃へて、夫婦して、田園の子に會ひにゆく。夫婦生活を詩化するし、二人の倦怠にも、オゾンを吹きこむにちがひない。
 これは、政府がやつても、よいことではないか。農漁村のうけ入れ側も、見てくれの衞生や、經濟的打算だけでは、親として心もとない。問題は、里親の愛情である。愛情があつて、美しい村。それができれば、都會と田舍とのよい文化交流にもなる。



 書棚で參考書をさがしてゐるうち、用もないをかしな雜書が目についた。つい、必要を措いて、つまらない本に、うつかり氣をとられる例はまゝ多い。
 これは、刊行ではなく、大正末年に、大分裁判所の奇特な一檢事さんが、知己に配つた「僞印譜(ぎいんぷ)」と題するものだ。
 序文によると、當時、關西方面で摘發された書畫僞造團の檢擧にあたり、うづ高い僞印の山が證據物件として法廷に積まれた。判決後、これは、裁判所の庭で燒却することになつたが、「世には、かくも古書畫の僞印は多いといふ事實を知らすため、數十帖に、一部の僞印をして、これを頒つ」といふことが書いてある。
 すでに、僞印譜とあるから、どれも一見して、僞印とわかる程度のものだが、古い所は、周文、雪舟、啓書記、秋月、雪村、また古法眼だの、山樂や永徳、文人畫の大雅、玉堂、木米、竹田、蕪村、崋山、四條派の應擧、呉春から明治の雅邦、芳崖にいたるまで、大家といふ大家の印で、ないものはない。
 光琳、乾山の印のまづさなど、こんな物で、だまされる人があるのかと疑はれるし、僞造團の粗製濫造ぶりもわかるのだが、とにかく、そんな存在もあつたとみえる。
 佐久間象山や一茶の僞筆の名人といはれた長野の中寅といふ經師屋などは、他家へ行つて、眞物を見ると、まつすぐに、わが家へ歸つて來て、たち所に、寸分たがはぬ象山を書いたといふが、さうなると、僞筆も、ひとつの神技である。かつての有名な“春峯庵事件”のウラにも、ふしぎな僞筆の天才がゐたといふことであるが、肉筆浮世繪の世界には、いまでもその春峯庵物の幽靈が掻き消えてゐない。
 ついこの間も、中野實氏が、「いちどあなたに紹介してくれといふ人があるが」といふ。「なんの用」と聞くと「知人が、武藏の書を見てもらひたいといふんだけれど」聞くうちに僭越だが、もうぼくには分つてゐる氣がしてしまふ。おまけに、中野氏の知人が見てほしいといふのは、武藏の短册だといふのである。しかも十二枚あるといふのだ。そんなものが絶對にあるわけはない。
 熊本地方を旅行中、亡友野口駿尾氏と、一日亭に四、五日泊つてゐたことがある。あの地方の“木挽こびきぶし”といふ民謠がおもしろくて、毎夕、仕事がすむと、土地のおばあさんを呼んで、物ずきに、木挽ぶしを習つてゐたのだつた。ところが、その間に、宮本二天の繪なるもの、書なるものを、約五、六十本も鑑定にもちこまれた。すべて、僞物といつてよい。ぼくは鑑定家でもないのに、武藏を小説化したたゝりで、いま以て、時々、こんなわづらひによくぶつかる。それでも、前後にたつた一度、ほん物と見て、箱を書いたことがある。故人の山本實彦氏が紹介してきた人の孤雁の圖だつた。それ以外、ほんとの雁にも燕にも行き會つたためしはない。



 到來物の生菓子のふたをひらく。もらひ物をくさすわけではさらさらない。ふと、寸感をもつたのである。
 きれいだ。菓子とはいへ、光琳梅だの、椿の花だの、意匠、色の配合、一種變つた手藝品ともいへよう。手がこんだものだと感心する。だが、これは菓子だ。菓子にすぎない。手藝品を食べるといふ感じを伴ふのは妙なものだとおもふ。
 もつと、端的にいへば、實質の代價のほかに、手藝品的な價も加算されてゐるか、實質から引かれてゐるわけであらう。冠婚葬祭、何かの意味をふくむ時ならべつだが、くだらない贅である、いゝ趣味ではない。
 むしろ、素朴な“ゆであづき”が美味い、と正直にぼくらはいひたい。西洋菓子も同樣だが、和菓子ほどには凝ツてもいないし種類も少い。子供の菓子類では、菓子を賣るのか手藝品を賣るのか分らない物だらけである。日本人のかういふ因習と、惡洒落みたいなデザイン過剩は、すべての面で、病的にまでなつてゐる。ちと、物好きも過ぎはしまいか。
 旅館や料亭の建築でもさうである。らんまの彫刻、ちがひ棚、書院窓、その小障子、天井造り、床飾り、何しろ、これでもか、これでもかの數寄好みである。便所へゆけば便所も、風呂場へゆけば風呂場も、氣のやすまる所もない。
 名古屋ぶしんとか、すきや建築なども、もとは簡素と清洒以外のものではなかつたらう。だが今では、ムダ金と人工を費やすためのものになつてしまつた。およそ、全國の旅館や料亭が競爭して投じてゐるこの惡趣味代は、けだし巨額にのぼるにちがひない。もしその大半でも、社會的な協力にむけて、觀光道路にでもかけ合へば、地方々々の道路苦情もなくなる程ではあるまいか。
 デザイン過剩を氣にしだすと、ぼくらの生活身邊にも、眼まぐるツたいほどそれが多い。膳にむかへば、鉢、茶わん、小皿、子供のハシ箱にまで、ニス繪がこびりついてゐるし、女の子の下駄まで繪が描いてあるといつたあんばいである。
 婦人の服飾は、その傳統では、主座を占めるものだが、和服の模樣や好みなども、このへんでいちど、すツきりと、單調に返すがいゝとおもふ。いつたい、帶、半襟、着物のガラなどは、おほむね江戸文化から明治大正の繼承から出てはゐない。いつそ、慶長桃山、足利期あたりの放膽さや、天平期などの單調にいちど返つて出直した方が、むしろ、流行の新風になるだらう。
 デザイン過剩は、要するに、ゆきづまりの混亂である。末期神經の喘ぎともいへよう。整理のない繁茂はありえない。單調に返す文化作用もつねに必要だ。
 いゝものほど、ほんとは、單調である。人間でも、ほんとの人物ほど、有の儘だ。民衆の素朴さは、それゆゑに尊いのだし、健全だともいへるのだとおもふ。



 藤の花は、酒好きださうである。培養にも、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)花にも、根に酒をやると、御機嫌をよくするといふ。さういへば、彼女の體臭にも姿態しなにも、そんな風情がなくもない。
 土壤には、科學者もまだ汲みえぬ、人間の酒呑み共もなほ直接には味を知らない、美酒のかめが隱されてゐるにちがひない。梅にもおなじ説がある。しかし、人が酒を與へないでも、彼女らのグラスには、つねに、えならぬ香氣が立つ。そして、それはみな醉ふ種類のものである。
 ぼくは花に醉ひやすい。醉ふものだといふ先入主のつよいせゐかもしれない。小學生頃、家は、横濱山手の植木商會の何萬坪ともしれぬ園内の一隅にあつた。つゝじ、芍藥、あやめ、牡丹、ばら、百合、藤の花などの花畑や花壇に沿ふ道を縫つて、學校へ通ふのであつたが、朝々、めまひするほどな醉ひにくるまれたことを忘れえない。特に、藤の花の印象と、あの匂ひは、童心には強烈すぎた。
 金髮美人を擁した在留外人の群れが、よく鉢植ゑの藤を買つて行つた。季節には、居留地のサロンも辨天通りのウインドも、藤の花に染められたものである。戰後の横濱、東京、神戸などの外人生活には、なぜかそんな餘裕は見えない。
 藤をこよなく愛したのは、王朝の公卿たちであらう。奈良付近にはそのせゐか藤が多い。いや先頃、北越を旅行中の嘉治隆一氏からの便りによると、大伴の家持が赴任したといふ國府の跡には、今も、藤を多く見るとあつた。王朝の日本人趣味と、西洋人の嗜好とが、藤の花では共通してゐたといへよう。あの貴族的な香氣と陰影にやどす想ひは、和歌にも詠へるし、グラスに盛れば、紫いろの婦人好みな洋酒にもなる。
 鬼怒川と川治温泉の途中で、山藤の盛りを見ながら、眞晝、斷崖の草むらに車座をくんで冷や酒を酌みあつた旅すがらの事である。一行中の田中貢太郎老が、なに思ひけん、發情して、それから里の女たちを追ひまはし、同行者を手こずらしたことがあつた。あれは、藤の花に醉つたものだと、ぼくだけは思つてゐる。
 それほどな惡醉ひではないが、百合には、ぼくもコリたことがある。岡山縣の宮本村地方を旅行したときだ。小雨ふる日を、佐用、三日月、龍野と山越えして、あの邊りの山百合の群生を見かけ、餘りの美しさに、その二、三莖を採つて自動車の中に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して走つたところが、やがて、ウインドの中のれと百合の匂ひに、船よひに似たむかつきを覺えてきた。百合の魔精と、氣がついて、あはてゝ谷間へ投げすてたが、運轉手君も、ヘンに眠くなつたさうである。あとでは、慄然としたことだつた。
 書齋の深夜、ふと、花生けの百合に意識すると、何か、ぼくは鬼氣をうけてしまふ。また、蒸れ匂ふ白晝の藤に逢ふと、少年の日の醉ひが、こめかみに、のぼつて來る。
 ちやうど、酒場のひと達に圍まれて、杯をしいられたときみたいに、どうも、藤にも百合にも、ぼくは弱い。



 すてゝもおけないが、法令化したとこで、どうにもなるまい。さう、じつは分つてゐながら、時々問題化するのが、例の、賣春取締法といふものであらう。
 その問題では、ぼくも若年の頃、夕刊紙の一記者として、よく赤坂の婦人矯風會など訪れたものだつた。矢島楫子かぢこ女史が主宰のこの會では、公娼廢止、私娼撲滅が、婦人運動の第一目標に叫ばれてゐたからである。
 若い新米の家庭部記者は、久布白落實くぶしろおちみ女史だの、守屋東女史などの卓説を、熱心に筆記しては、社へ歸つた。だが、編集では、餘りよろこばれないし、讀者反響もほとんどない。
 しかしぼくは、婦人運動者のよくいふ社會淨化の論旨や、獻身的な實踐には、感激してゐた。そのため「どうも、君はすこし、女史たちに捲かれてゐるよ。君自身、もつと、その方面の社會觀をもつことだな」と、デスクの古顏には、ひやかされた。
 ある日の晝、淺草公園の一隅で、黒山の人だかりを見かけた。「なんです」と、人にきくと「おきんですよ」と、笑つていふ。
 泥醉した女乞食がロハ臺から落ちて大地に寢てゐる。五十か六十か年頃も分らないが、鼠色に白粉だけはなすくつてゐた。群集は興がつてゐたが、ふた目と見られる姿ではない。
 後日、知つたのだが、彼女は、加藤某といふ舊幕臣のお孃さんで、良家の子女としての教養にも、父母の愛にもはぐくまれてきたが、維新の戰亂で、家は悲境に沈み、十五、六歳で、もう田舍酌婦から夜の女への道を生き喘いだ。
 そして、十二階裏や土手の私娼窟などでは、大酒のみと、齒ぎれのいゝ啖呵で、土手のお金の名を賣つてゐたが、やがて年もとり、男から相手にされなくなると、果ては、公園の浮浪者や乞食を客とし、なほ、錢さへもてば、大酒を飮んでゐたといふ。
 震災前の彼女は、五十六、七であつたらうか。ぼくは二度と見かけなかつたが、人のはなしによると、醉ツぱらつて、公園や六區の街上に、寢仆れると、群集の男へ、「やい、何が面白いんだ、色餓鬼め。どいつも、こいつも、男は、助平野郎ときまツてら。おたんちんめ、獸め、おれを、こんなにしやがつて、畜生ツ」と、いつた調子で、痛烈な呪咀と、惡罵と、聞くにたえない猥雜なタンカを浴びせたさうである。
 もちろん、あたまに、きてゐたのだらう。警察でも、何度擧げたかわからない。六十二で野たれ死にしたとき、七十二犯といふ記録保持者だつたさうである。
 社會は進歩した。淺草の灯も昔日の淺草の灯ではない。だが、矯風會の運動が、柳の芽ほどな實現でも見たらうか。夏柳は、茂り垂れてきたが、夜の女は、依然、夜をさまよつてゐるし、數は、全國の基地にまでひろがつてゐる。法令もよいが、ヘタな扱ひかたをすると、お金の呪咀に似た啖呵を、いまに、社會人として男共は、あつちこつちで、耳痛く、聞かされる惧れがあらう。



 梅の實の落ちる音ほど、何か、素氣ないものはない。雨ダレの音の方が、まだ曲がある。
 梅の實は、いたづら者のマリのやうに、時々、梅若葉のあひだから、ぽとんと、人の心のうつろを衝く。
 村の家にゐると、よくそれに耳を疑ふのであつた。ふと、書齋の障子の外だの、また、夜半の雨戸の外などに。
 ひと握りの鹽も得難かつた疎開生活のころは、梅の實も漬けることができず、落ちるにまかせ、それが、梅雨明けの日照りにあふと、滿地にえて、黄熟した果肉の醗酵にアブや蜂が、醉ひ舞ふのだつた。都會から來る客は、みな「勿體ないなあ」と、道の梅の實を踏み踏み應接へはいつてきた。そして、食べ物のはなしのあひだに、バラの葉だとか、あやしげな葉を刻んだのを、パイプにつめて、煙草代りに、くゆらした。
 三國志の中の曹操そうそう[#ルビの「そうそう」は底本では「そうさう」]は、飮み水にかわいた炎天の兵をはげまして「峠をこえれば、梅の村がある」と、兵に、酸味を思はせて、苦熱の渇をわすれさせたといふが、ぼくは、梅の實が生ると、あの頃の、梅より青い庶民の飢ゑの顏と、戰爭の慘が、梅酸のやうに思ひ出されてくる。
 終戰後、鹽が買へると、まつ先に、梅干を漬けさせた。次の年には、ヤミ砂糖も燒酎も出てきたので、梅酒を造つた。
 梅酒には、水を用ひない。梢からもいだ實を、一粒々々、布巾で丹念にこすつて、燒酎へ漬けこむ。ぼくもやつて、半日で、指から血を出した。
 その冬、六代目が、青梅町の小屋へ、一日興行で來た。ふつうでは、ありえない事である。小屋から使をよこして「これで茶をのむのがいちばんいい」と、小鉢に入れた黒砂糖をわざわざぼくに屆けてくれた。食生活もまだそれ程だつたのだ。ぼくも家内に手製の梅酒をもたせて「ぜひ、ひと晩、うちへ來て泊り給へ」と、すすめたが「あすの旅もある」と、寒夜の舞臺白粉もろくに落さず、終電車で歸つて行つた。「あの名優を」と妻など、ひどく、いたましがつたものである。
 梅の村に住んで、梅酒はその後も、年毎に造つて來た。古美術を愛する風雅な友は、花の頃に來て、半開の紅梅白梅の花をもぎ取り、天ぷらに揚げて、食べることも教へてくれた。味は、ほろ苦い。香を喰ふのである。
 また、花のまゝ鹽漬けにした物は、櫻湯とおなじ仕方で、梅湯として、清雅な飮料にもなると聞いたが、これはつい試みてゐない。
 花も實も、よくつくのは、おほむね、一年おきだといふ。ことしは、たくさん實るであらう。だが、世間にはもう梅酒もめづらしくなく、梅干などは人にもよろこばれない。さりとて又、落つるにまかせ、地上の昆虫に醉歌させておくのも、平和冥加につきる氣がしてしかたがない。



 机の下には、つねに、ぼくをからかふために、とんでもない惡戯をやつては、ひとりでよろこんでゐる魔法使ひの小人こびとでも住んでゐるのかもしれないと思ふ。
 何しろ、のべつ、物が失くなる。
 たつた今、わきにおいた赤鉛筆。ページの間に挾んだ覺え書。必要な名刺。パイプ。はさみ。要返信の郵便物。校正原稿。なんによらずしばしば、消えてしまふ。
 そのたびに「おういつ」と、家人をよび、物情騷然の景を呈するが、めつたに下手人のあらはれたためしはない。
 どうかすると、後に、雜書の間などから、思ひがけなく、出て來たりするが、どうも、まのわるいものである。けれど、まのわるさを忍んで「こないだの、あつたよ」と、かろく告げると、「それ、ごらんなさい」と、家人たちは、ひどく誇る。しかし、かういふ無費用を以て、家族共の誇りを滿たしてやり、稀れに、こちらがヘコんでやるのは、むしろ、いゝ事だとも思つてゐる。
 困るのは、本だ。書物はさはるなと、云つてあるので、誰が書齋の掃除をしても、机、書棚の書物だけは、いつさい原型のまゝになつてゐる。だから、それが見えないとなると、誰のせゐにもならない。あたかも、ライム・ライトの、蚤のサーカスみたいな場面を、ひとりして演じぬくわけだ。
 ところが、それさへも、姿を消す事が、じつに、頻繁で弱る。多くは、參考書のばあひである。人名とか、系譜とか、月日などの照合をしながら、一方、原稿紙にむかつて、うつゝを拔かしてゐるときなのだ。それでむなしく疲勞してしまひ、あたまの辭句も幻想も、とぎれてしまふ事などがある。
 要するに、ぼくの机邊は、無秩序の廣場らしい。だから小人の魔法使ひが住むには好適地だらうと疑ふわけだが、小人が、どんな扮裝をし、どんな道化た顏をした惡戯者かは、多年、眼に見たことがない。
 ある時、徹夜が續いた。
 電力節約が、やかましかつた頃である。徹夜仕事のスタンド一つでも、恟々と、ともして居たのだから、もちろん、かはやの電燈なども、いちいち、スイツチを忘れないやうに、家族共へ、いましめてゐた。
 ところが、明けがた、厠へ行つてみると、もう誰か、電氣をつけツ放しにしてゐる。山妻をよび、子供らもよび集め、「誰だ」と、とがめると、誰も自分だと名乘らない。ささいな事だが、いさぎよく名乘り出ないのが、不愉快だつた。
 次の晩。「ちよつと來てください」と山妻がいふ。「何だ」といふと「あなたこそ、つけ放しは困りますよ」「ばかを云へ、ぼくは」と云ひながらも、行つてみた。
 今、ぼくの出たあとの電氣が、どうしたのか、ついてゐるのだ。はてなと、よくよく考へてみたら、ぼくは、厠へはいるとき、電氣をつけずに這入つたらしい。然し、出てくるときは、まちがひなく、スイツチをひねツて來たのだ。



 新ジヤガが出初めた。
 世界中でジヤガ芋料理が最も多種類あつて、かつ、うまいのは獨逸だと、獨逸人の自慢を聞いたことがある。ぼくが「それは、ドイツの農土と生活の貧困な證據でもあるんでせう」と云つたら「さうだ」と、耐乏精神までを、自慢してゐた。
 耐乏生活とジヤガ芋との關係は、何か、隣人愛的である。“貧乏仲よし”と云つてもいゝ。長い戰爭苦をしのいで來た主婦たちには、年々の新ジヤガにも、それぞれ何か、深刻な思ひ出があらう。
 菜根をよく畫題にとる武者小路實篤氏は、あの變哲もないジヤガ芋も、東洋的な線で巧みに描く。それに添ふトマトやら玉ネギなどの團欒は、平和な家族圖にもみえて、どこか樂天的でさへある。が、土の恩寵だけが歌はれ、貧乏の辛味はない。
 芋や南瓜を描いた無名畫家の半切はんせつに、有島武郎氏が讃をしたのを、以前、ぼくは人から貰つて持つてゐた。讃には「帝力われに何かあらん」とあつた。惜しいかな、火事で燒いてしまつた。
 ジヤガ芋を見ると、繪にさへぼくは、ある慚愧をいだく。十六、七の頃である。たつた一度、芋泥棒をした前科があるからだ。
 多くは、語り難いし、また話したつて、ひとに面白い事でもない。たゞその頃は、母を助けて、ぼくは自由勞働に出かけ、いはゞ年少なぼく一人のヤセ腕で、病父と幼い弟妹など六、七人の家族が、貧乏長屋の片隅に、やつと生きてゐる状態だつた。
 だから、けふこの頃のやうに、梅雨がつゞくと、食ふ物も賣る物も無くなつてしまふ。母は雨戸のスキへ向つて、「夜が明けるのが怖い」と云つた。病父も幼い者も、喰べないことが二日もつゞく。方面委員の制がある頃ではなし、いま考へても、一家生きて來られたのが、ふしぎである。
 そんなときだつた。
 ふらふらと、夜、戸外へ出て、ぼくはいつのまにか、西戸部といふ横濱郊外のまつ暗な畑の中にゐた。ジヤガ芋畑の露にまみれ、手を肱まで入れて、黒土の下を掻きさぐつてゐたのだ。
 からだぢゆうは、罪の意識にそゝけたち、不氣味な闇が、まだ明るすぎる氣がした。けれど、爪のさきが深々とはいつてゆくほど、土はまるで、人肌みたいであつた。世間が餘りに冷めたいためか、自分の心が凍えきつていたせゐか、何ともいへない温かさなのには驚いた。指にふれる丸い大小の物にも高い體温があつた。どんな戀にも、あんな烈しい動悸は打つまい。夢中でぼくは風呂敷一ぱいの新ジヤガを抱へて逃げた。走つた道も、覺えはない。しかしたしかに、七人の露命は、梅雨の間を、それでつないだ。
 戰後のひと頃、芋盜人がよくあつた。ぼくの畑の物も荒らされた。しかし、ぼくの借の利息にもそれは足りてゐない。八百屋に新ジヤガを見ると、ぼくは大地へ返すべき罪の借を、今でも、ひそかに負債としてゐる。



 自慢にもならないが、ぼくはよく「お若いですな」と人から云はれる方である。たつた今も文藝家協會のT氏と座談のうちに、その「お若いですね」が出たので「いや、つまりは、幼稚なんだよ」と、笑つて別れたところである。
 机にもどつて、この事を、自分にただしてみたが、幼稚と答へたのは、詭辯ではない。
 いつたい、文壇人は、年のわりにみな若い。ものに興じる稚心と、老いない意欲をもつせゐであらう。かへつて、同人雜誌の若い人の創作などに、老成を模す風があるのは奇異である。
 畫にしても、石濤、金冬心などの枯淡のまねや、宗達風の運筆などを見、よほどな老畫家かと思ふと、まだ三十そこそこの畫學生だつたりするのである。どうして、さう、老成や枯淡を急ぐのだらうか。
 田能村竹田などは、四十幾歳かの畫に、もう、叟だの翁だのと自署してゐるし、佐久間象山も、三十にして立つ、といふあの古語を、本氣で座右の銘にしてゐたやうだ。しかし、現實の社會では、しよせん、理想すぎる。ぼくは、四十をこえるとき“四十初惑”と觀じて、さう、早くから大人になるのは、あきらめた。
 人生階梯を、順々に、ふんで行くほか、ほんとの大人にはなれツこない。大人のまねして、冷や汗をかいたことが、過去には一、二度ならずある。
 以前、横濱の同人間に、一つの自由詩運動があつた。安齋一安氏といふ老辯護士が、その短詩社の主宰で、同人雜誌も出してゐた。
 短詩社の詩會の日である。「おう、あんたですか」と、安齋氏が、にこやかに、ぼくを見て云ふ。初對面だし、ぼくは固くなつた。べつな雜誌で、ぼくは若氣にまかせて、安齋氏の短詩の提唱と作品とを、こツぴどく批評し、内心、得々としてゐたからでもある。駁論だな、とすぐ思つた。
 ところが、「あんたにお會ひしたら、いちど話さうと思つてたんですがね」と、好々爺らしい氏の話は、まつたく、わきへそれて行つた。
「あんたのお父さんの訴訟事件に、私が辯護をおひきうけした事がありましたよ。さうです。あんたがまだ四ツか五ツ頃でせうかな。どうして、覺えてゐるかといふと、あんたが、お母さんに手をひかれて裁判所へ來ました。すると、あんたが白いエプロンをかけてゐる。あの異人館へ勤めるアマさんがよく掛けてゐるエプロンですね。それを子供のあんたが掛けてゐるのがまことに珍しかつた。お母さんに訊くと、着物を汚して仕方がないから、アマさんのから思ひついて――と云つてをられましたよ。名案ですナと、私が賞めた。子供のエプロンは横濱から流行つた物ですが、その元祖は、あんたです。事物起源にもないが、あんたですよ」
 短詩の議論などは、おくびにも出ない。ぼくは、穴でもあつたら這入りたかつた。
 自分は幼稚だといふ信念(?)は、それからのものらしい。そして、いまだにまだ胸は汚すし、ころびもするので、そのエプロンが、心から脱げないのである。



 話題にも餘りのぼらなくなつたが、しかし依然、新興宗教は強力らしい。これも、戰後社會の落し子だと、云はれたものだが、じつは、時代や社會條件をとはず、いつでも、焚きつければ火になるものを、人間自體がまだ持つてゐる社會なのだと、近頃では、こつちが、反目してみたくなる。
 考へてみると、新興宗教的なものは、なにも戰後が初モノの走りではない。大正、明治、江戸、いつでもあつたことである。たゞ時の法律に保護色をとつて、すがたをちがへて來たゞけにすぎない。今さらの批判や迷信よばはりなど、うかつである。そして、何と人間とは、進歩しないものか、自嘲のほかはない。
 東京の基地、立川市にも、かつては、すごく頭のいゝ教祖が出現したことがある。平安朝末期の、任寛といふ坊さんである。
 當時の武藏國立川で、この任寛がいひ出したのは、“性の宗教”だつた。つまり解放である。人間のもつ最大な人間的弱さと秘密をついて「淫欲ヲ以テ求道ノ本義トスル」と、大膽に宣言し、男女の妙合そのまゝのすがたを以て即身成佛の修法を工夫するといふのだから、これは、人間界に大變な野火となつてしまつた。
 といつて近頃の流行宗教のやうなチヤチな教格ではなかつたやうである。眞言の密教を骨子とし、あらゆる教典から、性の部分だけをとつて、高唱したものらしい。
 高野山の水原堯榮氏の「邪教立川流の研究」にそれらは詳論されてゐるが、とにかく、この野火は、當時の關東、北越、近畿、洛中までの人心を燒きつくし、既成佛教の諸山も、まつたく、手がつけられなかつたやうである。
 開祖の任寛から二百餘年の後まで、なほこの性教は、全國の信徒に、命脈をもつてゐた。そして文觀もんくわんといふ傑僧まで出した。文觀は、後醍醐天皇の御歸依をうけ、天王寺別當にもなつたほどだから、朝廷にまで行はれたものとみえる。然し、さいごには彼も流罪となり、立川流教團は、彈壓され、解散された。
 舊教の諸山が、結束して鬪つたのは、いふまでもない。高野山、そのほかで、數千部の[#「數千部の」は底本では「教千部の」]立川流性教を、燒きすてたといふことである。
 キンゼイ博士の“キンゼイ報告”などの書も、むかしなら密教の厄をうけたであらう。性の秘密が、秘密でなくなつた半面には、かういふ野火の惧れはなくなつた。その代りにまた、基地立川のあくどいネオンとジヤズが、夜々、混血兒の數を加へてゆく世代にもなつてゐる。



 大阪の市街に泊ると、朝、ぼくらには、大阪特有な“大阪の音”があることに氣がつく。
 東京にも“東京の音”がある。大阪のそれよりは、もつと複雜で風速的な光りさへ覺える。稀れに、ごく稀れに、都心に立つぼくなどは、騷音に吹き刺されて、しばらくは、その音感影響の外に身をおけない。
 箱根あたりに寢て「流れに枕す」の溪流に馴れるには、人によつて、ひと晩ぢゆうもかゝるが、全身をくるむ音響にはすぐ馴れるものである。“東京を聽く”フレツシユな感覺も、自分を雜閙の中に溶けこますと、もう、騷音は騷音でなくなつてしまふ。
 しかし中には「いや、たまりませんよ、かう神經をマヒさせて居ちやあ」と、騷音制限の對策を説く人もあり、その嘆息の裏では「何しろ、たまには、靜に居たいですな。どこか、靜な所へでも行つて」といふ。
 ところが、ビル暮しの多忙人などが欲してゐる“靜”とは、どういふ型の靜なのだらうか。これも、幸福のありか、とおなじ主觀的なものでしかないやうだ。
 たとへば、郊外の丘の一軒家は「靜なハウス」と眼には思へるが、主人公の胸までが、つねに靜かどうかは分らない。
「人中はうるさい」として、人中をのがれて、獨りの自分を、無人の境においたとき、望みどほりな靜に澄みきれることは、まあないと云つていゝ。家人をみな出して、ひとり留守番をしてゐる日など、家人のゐる時以上、心噪がしく日をつぶしてしまふこともある。
 四六時中、都心にゐる運轉手君が、數日、海濱の旅館におかれてゐたが、やつと解かれて、有樂町の雜閙へ歸つてくると、水をえた魚のやうに、ピチピチして、ぼくに云つた。
「ああ、うちへ歸つた。これで今夜からよく寢られます」
 いかに、居る處の「靜」を、靜の姿のまゝ味得するかは、ぼくら凡夫には、ちよつと、むづかしい。いはば哲人の心といふものだ。さういふことに苦勞したのは、やはり過去の中華の一部人士であらう。たぶんさうした文人雅客の愛誦語でもあらうか、ある中華料理店の聯に、
林泉、いちニ近ク、ゆうさらニ幽
 と、書いてあつた。
 なるほどと思ふ。幽(しづか)は、かへつて、都會の足もとにあるといふのだ。
 さういへば、皿を待つ中華料理の卓にも。裏町の灯影にも。わづかな壁と壁のかこひにも。二坪か三坪の小庭の打水にも。アパートの窓の風鈴のゆらぎにも。――靜はある。
 たゞ、ほんとの靜とは、山野の彼方にではなく、自己の中にあるものだといふことに氣がついた人だけに、見つかるものである。それは、颱風の眼にも似て、ふしぎなほど靜な都會の翳である。



 芝浦にレツスン倶樂部があつた頃である。夕飯後、よくヘタ球を打つてゐたが、ある時、めづらしくヒツトしたと思ふと、夕空で、ぼくの球が、二つに割れた。
 ボールが、宙で二つに割れるなんて、ありえない。然し、たしかにさう見えたのである。ところが、ぼくから四、五人ほど後にゐた人も、奇異な顏を茫然と仰向けてゐる。
「ヘンだな」と向うでも云ひ「をかしい」とぼくも呟き、顏を見合せて、初めて覺つた。
 二人のボールとボールとが、偶然にも、空で衝突したのである。「こいつあ、奇蹟だ、飮みませうや」と、握手して、銀座へ出、その晩一しよに歩き廻つたが、さいごの酒場を出たとたんに、その男は何思つたか、ロスト・ボールみたいに、どこかへ、それて行つてしまつた。それきり、その人を見ないことも、いまだに何か、奇蹟に思へてしかたがない。
 ぼくは運命論者でもないが、さりとて、人生の萬端が、人間の思惟どほりな推理の軌道をたどるものとも思へない。一箇のゴルフ・ボールを追つてゆく規定のコースにさへ、運命と名づけるしかない偶然にのべつ出會ふ。「それは、君がヘタだから」と云はれゝば二の句はないが、プロにだつてそれはある。また、ゴルフ場は、人間専有の天地ではないから、惡戯者の蛇もゐれば、イタチも住む。カラスが、ボールを咥へて、逃げまはり、遊戯する人間を、さらに遊戯して、よろこぶやうな例だつてあるのだから。
 あの何センチかの小球さえ、宇宙でぶつかり合ふこともある偶然の實在を思ふと、自動車などは、つねに一種の冒險に身を托してゐるやうなものだ。ある夜、その自動車が新宿の雜閙で止まつてゐるあひだ、ふと、横を見ると、ゼイちくやサンを机にすゑた易者たちが五、六名も店をならべて、鋪道の散歩者を呼びあつていた。
 夜空のネオン、ビル、ウインド、人波の近代カラーなどと、賣卜者諸君の机上とは、いつたい、どういふ併存の呼吸を現代に合せてゐるものなのか。天體の量と、地底の水ぐらゐな時差と無縁を感じるのだが、ぼくの見てゐる間にも二、三の人影が、もうその「周易」の灯に佇み、何か、心の岐路を、八卦はつけにたづねてゐる。
 重大な人生の方向が、確實につかめるものとは、八卦へ料金を拂ふ人でも思つてはゐまい。しかし、占者に頼らないまでも、人間とは、無意識のうちに、始終、一擧一投足に、自分で獨り占をしてゐる者ではなからうか。汽車に乘つたり、見合せたり、避姙法を誤まつたり、思はぬ來訪者をうけたり、とかく、自分には、自分以外の、もう一人の道づれみたいなものがゐる氣がする。
 その點、李承晩氏でもア大統領でも、例外な人ではない。かう二つの白い球が、球同士で空中衝突をしたなども、一例といつていゝ。人間のすべて、自分の何分の一かは、どうも、占で暮してゐるやうだ。思へば、心もとないが。



 梅雨の晴れまを、列車が行く。沿線の田といふ田には、田植ゑ笠が忙しげである。
 九州方面の水害はひどい。カラ梅雨も困るが、實朝も歌つたやうに「ときにより過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ」である。
 しかし、お百姓ほど、天を信じてゐる姿はない。また、土ほど正直な相手もない。それゆゑ、一切の希望と苦樂を托してゐるわけだが、かりに、これが單なる政治家あひての氣持だつたら、出來ツこない。
 田植ゑ笠は、そのまゝが俳畫である。しかし、田植ゑ仕事は、たいへんだ。都會人のぼくなどが、云ふのもヘンだが、ある農學校で見學の折、半日ほど、お百姓に交じつて、自分もまねてみた經驗はある。
 ヒルには吸ひつかれるし、足は泥田から拔けなくなる。だいいち、苗がちつとも揃はない。そんな苗は、もちろん、大減收になるだらう。
 シヤム、アユチヤあたりの水田は、雲の峰の根もとまで、水田千里の廣さだが、生えてゐるのは、稻だか芦だか、訊かなければ分らない。臺灣なども、むかしは、さうだつたとか、聞いてゐる。
 朝鮮や蘭印方面にしても、日本人が遺したことのうちで、確實に、原住民の福祉になつてゐるのは、この田植ゑの仕方ではあるまいか。“日本の罪ほろぼしの一つになつてゐる田植ゑ――”さう考へると、瞼があつくなる。
 純米だの、プラチナの御飯だのと、最大敬語をつかつてゐた頃の列車は、旅客のあひだでも、田や畑や、氣候の順不順が、よく語られてゐた。「ごらんなさい。田にも、若い男や女が殖えてきましたよ」それは、お互ひ、感謝にみちた眞實な聲だつた。
 もう、そんな話題は、車窓にも聞かれない。けれど、旅客の眼など、どう變らうと、ことしも、田植ゑは始まり、田の行事には、變りもない。もつとも、變つたら、たいへんである。
 おなじ植ゑる事でも、植林の方は、ちがふやうだ。以前はよく、暮れかゝる汽車の窓からも、なほ、夕月の下で、杉、ひのき、などの苗を植ゑてゐる老人の影を、窓外に見たものである。
 そんなとき、ぼくは、人事ならず考へられた。かりに、その老人が、幾歳になつたら、今、自分が植ゑてゐる苗の成長を眼に見るつもりで居るのか、と。
 苗が、材木になるには三、四十年はかゝるといふ。すると、老人の仕事は、生きてゐるまの計算ではない、生命をも超えた何かである。あんな崇高な人影も、いまの山野には、見なくなつた。
 地方の山林は、禿げてゆくばかりらしい。祖先の遺産を食ひつぶしてゐるわけだ。夕月の下に、腰をまげてゐた老人たちが遺した物を、その子孫が、伐つても食つてもふしぎはないが、その人はまた、次代のために、明日の苗を植ゑておく義務はあらう。元々、植ゑる仕事は樂しいものゝはずである。それさへ樂しませることを知らないなら、その國に政治家は居ないといつてよい。



 近頃の流行兒は、ジヤズの新人と、河童ではないかとおもふ。
 ジヤズ界は、黎明的なバンド陣を展開して、いまやぼくらの古いジヤズ觀念では語れないものになつてきたが、スター河童氏となら、一語を交じへるぐらゐな資格が、ぼくにだつてあるかもしれない。
 街の畫廊をのぞいたら、河童圖が幾點かあつた。どこかでは河童祭りがあるとも聞く。假裝河童が町角で中元賣出しのチラシを撒いてゐるし[#「撒いてゐるし」は底本では「撤いてゐるし」]、週刊紙の表紙にも河童、飮み屋のマツチにも河童、お客にも醉ひどれ河童、どうも、近頃、君とよく出會ふ。
「長雨がつゞきましてね」と、水陸兩棲の君は云ふのかい。嘘をつけ。ほんとは、ぼくら人間の暮し方を見て「何テ、だらしがねえんだろ。ひとつ、からかつてやるか」と、人間揶揄に出て來たのだらう。
 だが、さう思ふのは、何も君だけぢやないよ。世は、落首時代だ。夕刊各紙の「短針」「三角點」「よみうり寸評」を初め、漫畫漫文、ウソシンブンの類まで、君が云はんとする所は、人間も云つてゐる。
 それでさへ、政黨や政治家は、ビクともこたへやしない。君などが、くちばしを尖らせてもむだな事だよ、なに「ワレニ神異ノ智ナシ、アニ廟堂ニ近ヅカンヤ、尾ヲ垂レテ我ガ生ハ足ル」だつて、それは頼山陽の“龜の詩”ぢやないか。はゝあ、君はやはり龜の種族か。
 いや、甲羅は背負つてゐるが、龜の化物ぢやあるまい。第一、腦天のくぼが皿になつてゐる。これは低能兒型だし、全身が青い。顏は、榮養不足な虎に似て、貪欲さうなくせに、髮はオカツパさんではないか。ヘエ、年はまだ十二歳だつて。それぢや、日本とおないどしだ。この國の民たることは間違ひない。
 然し、先祖はいづれ渡來民族だらう。君の迂愚と、多情と、あはれさと、飄逸性とを、もつとも愛して、君を神韻化した畫家に、小川芋錢のあることは知つてゐるだらうな。あの人の話では「自分が河童を描き初めたのは、莊子の秋水篇からヒントをえたのだ」と云つてゐた。河童の題語も多く、詩も作り、“渇波童子”などといふ變つた文字も使つてゐるね。
 さうさう、七月二十四日は“河童忌”だつた。君の恩人、芥川龍之介を忘れてはいけない。あの人、河童の繪もちよつと描いたね。インテリ河童だ。また、高田保も火野葦平も、河童を書いた。川上三太郎は、河童に淫するごとく、君を川柳にうたつてゐる。清水崑の河童漫畫と双璧といへよう。
 どうしたい。ちつとも喋らないぢやないか。なに、泣きたくなつて來たつて。おやおや、君は、泣き上戸か。
「――いゝえ違ひます」ぼくの前に居た河童は、初めて、口をひらいた。「わたしは牝です。うちのひとがもう何年も歸らないので探しに來たんですけれど、一體どうしたんでせう、この頃の日本は。どれが、うちのひとなのか、人間さまか、てんで、見分けがつかないんですもの」



 お盆が來る。下町でも、お迎へ火など焚く家は少くなつたが、わびしい夏景色の一つではあつた。
 一年に一度は“死者を想ふ日”があつてもよい。うつし身の認識でもある。このお盆に生きてゐる全部の人間は、單に、今年度の生き殘り分に過ぎないのだから。
 亡き父母とか兄弟はいふまでもない。憎い、いやな、どんな人々でも、死者となれば、みないい人であつたと思ふ。生き殘り心理として、さう思ひたい。さもなければ、生きてる事自體、助からない娑婆なのだ。
 亡友を偲ばう。偲ぶことが、魂まつりである。
 ついこの間は、もう、林芙美子女史の三周忌であつた。あのお芙美さんが、菊池寛の葬式で讀んだ弔詞は、ふつうの弔詞でなく、ひどく死を詠嘆した詩のやうなものだつた。讀みつゝある喪服姿のお芙美さんに、ぼくは「はてな」と妙な不審を抱いた。忘れられない。
 その菊池寛が死んだ當日の朝、氏と將棋をさしたと、後でぼくに語つた人がある。「三番さして、二勝した」と、自慢して云ふ。「日頃は」と訊いたら「日頃だつたら、十回に一ぺんだつて、勝ツたためしはありませんよ」ぼくは、暗然としてしまつた。で、つい「君は、菊池の死期が迫つてゐるなと、そのとき、氣がつかなかつたのか。君なんか、將棋をさす値打がないよ」と、吐き出すやうに惡たれてやつた。何も、その人のせゐではないのに。
 ぼくにしろ、人の寸前の死期なんか、分りつこはない。菊池の死ぬ四、五日前だつた。見舞にゆくと、ベツドに寢てゐる。せまい、薄暗い、書齋の袖部屋である。「どう?」「まだ下痢が止まらないんだよ」「この間、人に教はつて、へそに、味噌きうをすゑたら、ぼくの下痢には効いたがね」説明すると「それ、すゑてくれよ、ぼくに」といふ。
 指壓も、あんまも、したことがなく、女はべつとして、人に肌をさはられるのが、大嫌ひな彼である。よくよくな心理だつたとみえ、ラクダのシヤツをめくつて、ヘソを出した。ぼくは、奧さんが持つて來た灸のモグサと味噌をうけとつた。味噌を小さなせんべい形にして、彼のヘソに乘せ、丸めたモグサを上においた。部屋ぢゆうが、特有な匂ひにけむつた。
 仰臥のまゝ、彼は、麥ワラで、カルピスを吸ひながら、時々、自分の燃えるヘソをのぞいてゐた。「きみ、今日は、横光利一の追悼會だろ、ぼくの代りに、行つてやつてくれよ」また、新刊の自著“好色物語”へ、流し眼をやつて「その本、ひどいだろ。ひどいよ、戰後の出版は」
 いま思ふと、もう死色は漂つてゐた顏だつたにちがひない。だが、いゝ氣もちさうに、彼はウトウトし出した。それから、ぼくの、そつと押したドアが、別れになつた。



 めし屋は、なくなつた。都會も地方も、食堂になつた。食堂なら都心、場末、地方の驛前、どこにも見られる。いちばん多い看板が、大衆食堂。
 外觀は變つたが、元來は同目的のものだらう。だが、同質ではなくなつたやうだ。燒豆腐や芋の煮しめが、カツドン、コロツケに變つたやうに。
 過去のめし屋には、客のわが身が、うら悲しくなるのや、不精ツたい家も多かつた。しかし又、大都會の朝の活動は、こゝの食慾から明けるといつたやうな、さかんなる繩のれんも少くなかつた。
 朝の常連、晩の常連、そこでは、きまつた顏が出會ふ。
 いま云ふニコヨン組から、下級月給取、職工、學生、職人衆、集金屋さんといつたやうな顏ぶれである。中にかならず異彩ある風貌の持主や、“めし屋の先生”なる人物もあつて、時事を論じ、諷刺を好み、大臣富豪をあげつらひ、一ぱい何錢の汁と一ぜん飯は食つてゐたが、和氣あいあい、卑屈やニヒルの陰影がなく、社會力の岩磐らしい不屈さと、洒脱があつた。
 何よりは、どこか、希望にも泡立ツてゐた。
 あれはやはり、時代が釀したあの頃だけの、雰圍氣に過ぎなかつたのか。とすれば、めし屋亡んで庶民に夢なし、の感が深い。
 めし屋とは事違ふが、高村光太郎氏の「米久の詩」には、當時の庶民がよく出てゐる。庶民の食慾をうたひ、野性、自由、可憐さ、衆愚性、その夢など、牛鍋のコゲつくばかりな匂ひを濛々と感じさせる詩である。
 初期に「放浪記」を、絶筆に「めし」を書いた林芙美子女史など、おそらく、めし屋のめしを噛みしめた一人であつたらう。晩年の兒玉花外氏が、本郷根津邊のめし屋でよく醉つてゐると戰爭中に聞いたときは、何か、うら淋しかつたが、“めし屋と詩人”――それも現實の詩だとも思つた。
 今月の「文藝首都」に、菊岡久利氏が、西銀座の並木横丁で、十人の青年をおき、牛めし屋を開業したとか、欄外記事に見えた。万太郎宗匠の俳句短册を掛け、コツク帽十人の青年が、庶民に牛めしを供す樣は、想像してもホヽ笑ましい。詩人菊岡の意圖は、どうなのか、知らないが、とにかく愉快である。また、志次第では、大きな意義があるともおもふ。
 ぼくもまた、馳出し記者時代には、牛めし、深川めし、三好野の強飯など迄、およそ、いかに安く、うまく、かつ滿腹するかに、苦心經營したものだつた。東京中の一品屋のライスカレーを食ひくらべ、どこの屋臺が最も安くて美味いかも知つた。
 柳橋や築地など、一流どこの饗膳は、あはれ、味覺の奈落である。そこのお客は、通や思ひ上りばかり食べて、眞の食味を知らず、冥加を知らない。
 庶民の胃ぶくろは、うんと正直だ。だいいち、答へを知つてゐる。よろこべば、滿腔でよろこび、そのカロリーは社會力の石炭だ。庶民食堂に歡聲の沸かないのは、社會衰弱の兆といつてよい。安く美味く、庶民の夢の語り場となるやうな、樂しい近代的めし屋出でよ、とおもふ。



 氣狂ひじみた騷音の東京は、近年、日本迷所の一つらしい。
 來日外人の感想は、きまつて、その事にふれてくる。ついでに、主要驛毎の擴聲器などにも、たまげて、日本人の聽覺や自律神經の、にぶさ、圖ウ圖しさ、に例外なくあきれてゐるやうだ。
 だが、それを以て、日本人の聽覺的野蠻性と見なされては堪らない。日本人の耳は、もすこし上等なはずだからである。
 音響面から指摘されても、日本は、社會音感にも、でたらめと、無關心と、無秩序を暴露してゐること、あちらさんの驚嘆のとほりだが、個人の耳は、さう劣等なものではない、むしろ、洗煉された高尚な風さへもつてゐると思ふ。
 たとへば端的に、夏の庶民生態を見てもわかる。耳から涼味をとるといつたやうな洒落たことは、外人などの知らない境地ではなからうか。虫カゴを愛し、風鈴をつり、竹を通して水音を聞く――といふ類の消夏法は、貧しいにはちがひないが、扇風機だの、冷房だの、花氷の柱を立てるなんていふ智惠よりも、はるかに、すぐれた頭腦である。いや、耳であるといつてよい。
 この頃はもう、何うか知らないが、以前にはよく夏すだれの軒から、河鹿の聲が洩れる家もあつた。
 小さい水盤のそれを、縁先へおくと、横丁の夜風や、町の月影に誘はれて、河鹿が美しい聲をまろばせて啼く。――居ながらにして、多摩川、桂川の涼夜を、味はひ得ようといふもの。
 むかしぼくは、芝公園に借家してゐた。家はお寺の一部なので、古池があつた。縁日で買つた螢を放しておくと、ひと夏、ビールの友となり、客の興にもなつた。
 ある年、名案を思ひついた。
 よく原稿を書きに行く飯坂温泉で、河鹿はじつに聲が美しい。そこで、附近の腕白連をあつめ「一匹捕へて來たら十錢やる」といふ懸賞を出した。すると忽ち、ツクダ煮にするほど河鹿を捕へてきた。「もう、いゝよ。もう、たくさん」と斷つても、なほ持つて來るので閉口した。
 歸京後、さつそく、一升ビンに詰てきた河鹿族を、わが家の池へみな放した。友人にも吹聽して、「摺上すりかみ川の河鹿でことしは一夕やらう」と、期待させてゐた。
 水が變つたせゐか、河鹿共は、なか/\啼き出さない。片言や、ケロケロぐらゐが、最初であつた。夏はまだ早い。そのうちに、あの惚々するやうな、美音を張りあげるにちがひない。何しろ夜毎、心待ちだつた。
 ところが、わが家の池には、前住民族のタヾの蛙が住んでゐて、これが、さかんに啼き初めた。すると、これは意外、摺上川の河鹿までが、みな蛙の聲を出し初めた。河鹿變じて蛙になつてしまつたのである。
 その夏中の、わが家の庭のやかましさといつたらない。近所隣りも、さぞ、大迷惑をしたらうとおもふ。ちやうど、先頃の日本の國會そのまゝな噪ぎであつた。
 個としては、すぐれた聽覺も、天性の美音も持つてゐるはずの河鹿だが、池へ入ると、みな一つ蛙に化けてしまふ。議會といはず、日本の各部門の池といふ池には、何かそれと相似た不思議な作用が潜んでゐるのではないかしら。



 いまでは、眞ツ平だが、ぼくは子供の頃、へんに、かみなり好きだつた。遠かみなりを聞くと、やたらに、はしやぎ出したものである。三十歳頃までは、さうだつた。一時だが、いつぺんに、鬱を忘れる。失業も失戀も。
 ある夏、眞晝のむし暑さを破つて、はい然たる大雷雨になつた。サルマタ一つで机にゐたぼくは、憑かれたやうに、庭へとび出し「行水だ、行水だ」とばかり、誕生佛のまねしてゐた。
 すると、晝寢してゐた母が、ふと、ぼくの影を豪雨の中に見ると、いきなり、はだしの儘、馳けおりてきた。そして、子供のころ、誰もがよくやられるやうな恰好で、やにはに縁側へ引きずり上げられ「ばか、ばか、ばか。この子はまア」とぼくのお尻をピシヤピシヤ打つた。もう三十男になつてゐたぼくも、母の眼には、腕白坊主の儘に見えてゐたのだらう。あんな怖い母は、生涯に見たことがない。かみなりが鳴ると、思ひ出す。
 はなしは、べつだが、
「かみなりを甘く考へてはいけませんよ」
 と、友人の杉本健吉君は、口ぐせに云つてゐる。奈良にアトリエをおき、誰よりも奈良を愛してゐる人だけに「どうも、奈良には避雷針が少ないです。避雷針があるのは、大佛殿と廊門、その他一二しかありませんよ。わづかな費用と手間ですむことなのに」と、毎年、今頃になると、奈良のかみなりばかり心配してゐるのだ。あいにくと又、奈良地方はかみなりが多いときてゐる。
 法隆寺、金閣寺、出雲大社門、近江神社の火災などは、みなアプレの所業であり、雷神の災害ではない。で、奈良のお坊さんたちは、「えらいもンで、當寺などは、千年以上も落雷はありませんでな」と、今日もなほ、神威や佛天を信じてゐるやうな暢氣さださうである。
 いにしへの内裏には“雷鳴かんなりつぼ”といふ一舍があつて、かみなりといふと、陛下はそこへ逃げこまれた。公卿殿上は、非常の裝ひをして、紫宸殿ししんでんの前庭に“かんなり陣”をしいて、萬一の守備にあたつたといふことである。
 避雷針一本の工事ですむものを、奈良の文化財聚落に住む人々は、いまでも“かんなり陣”で守らうものと、してゐるらしい。「萬一、戒壇院や二月堂にでも、いちど、落ちてごらんなさい。追ツつきやあせんでせう。しんぱいだなア。いちど折々の記に書いてくださいよ、ぜひ各塔各院に、避雷針を付けなさいと」健吉さんは、蝉しぐれをよそに、ある日、切々とぼくに訴へたが、また急に人のいゝ眸を深めて「だけど、ぼくが云つたなんて、書かんでくださいね。奈良を追ン出されたら、弱りますからなあ」と本氣で云ひ足した。
 しかし、ぼくは正直者なので、つい右の通りに書いてしまつた。けれど、もし健吉さんがそのため、奈良の法師にヘソを取られたら、ぼくが清盛入道になり代つて、東大寺へでも何處へでも、取り返しに行つてやる。考へてみる迄もない、恐いのは雷でなくて、人間の方なのだ。



 いま頃、疎開歸りでもないが、子供らの巣立ちにひかれて、東京へ居を移した。
 吉野村には、足かけ九年住んだ。村の梅とも、人ともお別れかとおもふと、人生の一齣を覺える。何かやはり淋しいものだ。いつのまにか、村へ根が生えてゐたのである。
 それほど、吉野村は好きだし、村びとたちも、愛すべき人々だつた。奧多摩峽谷にふさはしい勤勉と親切氣とをもちあつてゐる。ひと口にいへば、理窟なしに、平和といふものを、誰もが身にもつてゐる村なのだ。
 あの終戰後のひと頃さへ、こゝでは物騷な事件も血ぐさい話題も起らなかつた。そのくせ、梅の名所であるくらゐだから、土は痩せ、耕地は少く、働けど働けどと云つてよいほど、農家の暮しは、樂でない。湘南地方の農村にくらべれば、何倍も働いて、何倍も苦しいのである。
 いつたい、農家の税とは、沃土、氣温、海濱などに惠まれてゐる地方と、山村の痩地とも、同率一視のものだらうか。それとも、何か地區的等差があるのだらうか。日本の地形と條件の不平等を、非農人のぼくらさへ、ときには考へてみたりするほど、吉野村は、冬が寒い。土は、石コロが多い。
 しかし、村には、數ヶ所の“名水”がある。水の美味さは、大人たちより、子供と螢がよく知つてゐる。わが家の井戸なども、名水の一つださうだが、配水裝置をしたために、あたら水の味を惡くしたと、ポンプ屋に笑はれた。
 去年、米川正夫氏の作詞で、吉野音頭もできたりして、梅の吉野村は、年々人出をましてゐる。けれど、鶯もほかの小鳥もめつきり減つた。減つたといへば、鮎も減つたし、山の木々も減つた。
 いま頃の季節、山村の家で、一燈の下に徹夜仕事でもしてゐると、夜通し時鳥の聲を聞いたものである。時鳥だけは、減りもしまい。
 元々、都會育ちのぼくは、とかく、山家暮らしに、戀はしたものゝ、子にひかれてだが、やはり都會へ歸つてしまつた。村に行く前、赤坂で半燒けの厄にあつたとき、半分燒けん、を洒落て戯れに「半野軒はんやけん」といふ雅印を一つ人に彫つてもらつたが、これは自分の性を何氣なく告白してゐたものだつた。
 これから先も、都會に歸れば歸つたで、四季折々にはまた、山野を戀しがるにちがひない。どのみち、自分の性は、半野人なのである。どこに住んでも、半端な知性と居るところの安定をえない人間なのであらう。
 村びとたちと、別れの會を催した日、長年、川をへだてゝ住んできた川合玉堂翁へも、ひと言、お別れに行つたら、翁は、例のやうに、畫筆をもつてゐた。そして、ことし八十餘齡なのに、新しい畫室を増築中だつた。これからの仕事場を、八十歳を超えてから建てつゝある畫人には、まことに羨むべき靜な坐り腰が見えた。
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 じつは歴史そのものが生きものである。捕捉し難い生命のものだ。歴史小説作家は、木の枝からブラ下つて水面の月をつかまうとするあの牧谿猿の繪みたいな意欲を企むものと似てゐる。でなければ、土中の白骨へ自己を輸血しようと試みる無謀にも似てゐよう。嚴密にいへば、そんな仕事は、われながら時々、氣恥かしい。
“歴史の本當は分らない”それはだれも感づいてしまつてゐる。こゝ數年の時局や世界觀が教育したのだ。ものを考へる階級の思索ではなく巷の常識になつてしまつた。じやあ、どう扱はうと、何を書かうと勝手か。さうは行くまい。エノケン氏が演るばあひは、正直にナンセンスを看板にあげてゐる。作家が、歴史めかした題材を掲げて、無責任な仕事場とするのはゆるされまい。その國の歴史は、その國の國民が所有者なのだ。人間業の過去をくだらなく引つかき回すのは、人間自身の冒とくでもある。惡結果を怖れないわけにはゆかない。
 といつて、だれにも、歴史小説はかうあるべきだなんていふ規格は定義づけられもしまい。ぼくのばあひはぼくの歴史觀と仕事の仕方といふだけでしかない。反省の文學だといふ事は、宮本武藏の頃に言つた自分のたてまへである。時々古い鏡に自分の今日の顏を映してみる――といふのが今も變つてゐない氣もちである。やつて見給へこれを。おれはおれの顏をだれも知りぬいてゐるつもりだらうが、思ひがけないシミだの、いつのまにか出來てゐる小ジワだの、二日醉の白眼のにごりだの、いろいろな物を新しく發見するものでもあるから。そしてをかしい事なんだ。自分の顏といふやつは、つひに自分でほんとの評價もほんとの視方も一生できないでしまふらしい。かういふ情ない奴が、歴史へ意欲を――歴史小説を書かうといふんだから、じつさい、牧谿猿のあのかつかうを、自分の仕事の風刺畫みたいに思はずにゐられなくなる。
 しかし、史學者の歴史も、また、のん氣すぎる。實證の學問以外、一歩も出ない。餘白は永遠の餘白としてゐる。文藝視野から、もどかしく、疑はしく、立入りたくなる衝動がうづくのは當然だ。これへの意欲は、歴史の所有者たる民衆の欲求でもある。ぼくは多少その代行者をもつて任じないでもない。やりがひがといへば、その意味でも熱情はかきたてられる。
 石川達三氏の「風にそよぐ葦」は現代小説ではない。だが、壇一雄氏の「石川五右衞門」が歴史小説かといへば、大きにちがふ。歴史觀といふものに、現代人はまだぼんやりした概念しかもつてゐないやうだ。歴史とは、つねに、今日の事である。アナタハン島から歸つて來た人々には、ついこの七月上旬がもう遠い歴史の日であつた。小さい自己の身邊は平凡無爲な昨日であつても、世界のきのふは刻々大きな歴史を歩み去つてゐる。――歴史小説とは、遠い近いの問題ではない。從つて、すぐ今日に直結し明日への生命に何かを作用してゆくもの。で、なければ意味はないとおもふ。
 史料や、史實の問題など、まづ人それぞれな歴史觀から始まつてゆく。作家自身の態度により、こゝで複雜な諸問題が生じてくる。ぼくのばあひを一言にいふなら、ぼくはかつての史學者たちの何世紀にもわたる血業の結晶である歴史といふものに大きな尊敬をはらふ。しかし自分の仕事上の參考までにである。不逞な言かもしれないが、ぼくは歴史家を超えた歴史家にもなつて、歴史小説を書きたいと思つてゐる。何しろ問題は大きすぎる。編集者から言はれた四枚程度では書けもしない。
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 ――さう、この家のある吉野村は梅の名所なんだ、いや大して古いことはないらしいね、小金井の櫻は徳川吉宗時代の植林だが、もつと新しいんだ。小金井といへば勿體ないな、あの櫻は。終戰後、花見る人もないんぢやないか。花時、ぼくはよく東京から車で歸るとき、夜櫻を見たりしたが、人影もないほど淋しいよ。醉つぱらひが木へ登つて花を折つてゐたり、觀光バスが止まつて、車中へ持ち込めないやうな大きな枝をかつぎこんだりして、騷いでゐるのを見かけたりしたな。都廳あたりで何とかもつと保護と利用を考へないと、だいなしになつてしまふ惧れがある。
 吉野村の梅は、實を採るのが目的だが、花頃には近年なか/\な賑はひだ。去年、米川正夫氏に依頼して梅の村音頭を作つたり、アマチユアの[#「アマチユアの」は底本では「アマチュアの」]寫眞コンクールが來たり、花火を揚げたり、おかげで梅見時はぼくの書齋までチヨロ/\[#「チヨロ/\」は底本では「チョロ/\」]人が覗きに來たりするので、去年は原稿紙を持つてほかへ逃げ出しましたよ。花火や人出に驚いたか、近年、鶯も餘り啼かなくなつたな、ぼくは鶯と道行きだ、梅忠より洒落れてゐるだろ。
 え、梅里先生行状記、あれはまだこゝに移らない前に書いた作品さ。さう、水戸光圀の行状記です。光圀も梅が好きだつたんでせうが、要は治國食糧政策さ。梅干は軍行糧だもの、風雅だけぢやない。
 三國志のうちにも、梅の話がある。曹操さうさうが、地名は忘れたが、夏の日、苦戰あげくの兵を率ゐて、山を越える。ところが山中に水が無い。疲れきつた兵がヘト/\になつて、もう歩けないと云ひ出すと、曹操が「我慢しろ、この先に梅の村がある。村へゆけば梅の實が噛じれるぞ」といふんだ。梅の酸味を思ひゑがいたので、兵はみな渇を忘れてまた歩いた、といふんだ。作家の作爲だらうが、ちよつとおもしろいね。
 作爲といへば爲永春水ためながしゆんすゐ梅暦うめごよみにも、小梅の茶屋で、逢曳する所があるね、そして約束の男の丹次郎がなか/\來ないのを、米八よねはちが獨りじれながら待つてゐる。そのうちにやつと男の姿を見ると、米八が梅の蕾をむしツて唇に噛む、といふ描寫があるが、憎いほど巧みな作爲だと思ふな。口紅のうちに梅の香をもつた女との接吻を連想させるぢやないか。
 ぼくの小説ではといふのか。さあ困るな。新平家物語のうちにも、梅を使つたところはある。平治の合戰のあとで、十三歳の頼朝が捕まつたところさ。
 捕まつて平宗清の屋敷に圍まはれ、いけ禪尼ぜんにが、憐れがつて、清盛に命乞ひをするところ。あのくだりに、宗清が紅梅を折つて來て、部屋の壺に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し、頼朝をなぐさめてやる場面がある。そして、木の折れ口に氣づくと、紅梅は芯まで紅い、花ばかりでなく幹の芯まで紅いのだ。これは木の天性といふものだらう。頼朝といふ子は、今はしほらしげに見えるが、この子にも、持つて生れた天性がある、武門の子の天性はやがて怖しいものになるのではないかと、ふと、將來を考へる。――あれはべつに史實ではなく、ぼくの創作だが、やはり春水の梅暦の作爲には到底及ばない。かなはないと正直に云つておく。
 いや話は、歴史上の人物といふことだつたんだね。丹次郎や米八は、史上の人物ではないから論外に措かう。歴史小説がよく云ひはやされるが、あるかね、歴史小説なんて堂々と名のれる作品は。さ、昨年度の作品の中では、立野信之氏の「叛亂」などは、立派にさういへる作品だ。ほかには、ぼくが讀んでゐないのかもしれないが、餘りないやうに思ふ。あつたら讀みたい、教へてくれ給へ。


 歴史は見方なんだ、作家の眼でどうにも見られるし、書けもする。だから史上の人物も作家の人物觀が主題といふ事になつてくる。例へば澁澤榮一を書くとすれば幕末から明治大正への資本主義に乘つて巨富榮爵を得た人といふ概念と、またその人の人間的半面をみるといふべつな澁澤榮一の見方がある。そのまた人間觀にも作家の眼による違ひがある。社會觀のおきどころも違ふ。小説のおもしろさは、そこなんです。
 だから宮本武藏を誰が何べん書いたつていいし、義經、辨慶を誰がどう扱つてもいゝわけです。けれど唯、讀者はさう無知でもお人好しでもないから、餘りな架空や作家のでたら目を、さう何でも感心して讀むかといへば、さうはゆかんでせう。今の讀者は、歴史的知識はないとよく輕くいふが、知識は淺くても、感覺はするどいから、恐いよ。大衆は大知識とぼくは怖れてゐますね。
 また、讀者の小説の讀み方をみてゐると、讀者は作中人物と知りながら、いつか自分の境遇や心理にひきくらべて、共感したり反駁したりしながら讀む。批評家にもなるし、作中人物の同伴者にもなつて讀む。歴史小説、時代小説、といつても、時代を超えて、そんな氣もちで讀むらしいから、やはり現代感情や生活から離れたものは讀まれない。同時にその影響といふことも考へられてくるんだね。
 近頃はなくなつたが、よく戰時中などには、僕に吉田松陰を書いてくれといふ人がありましたね、あの時分の空氣が松陰を書かせたらと、ジヤーナリストなら誰も考へたんでせうな。だが僕は松陰を書く氣がなかつたし、事實、一回も書いたことがない。なぜつていふに、松陰の場合、たしかに松陰は異常な一種の天才だとは思ひますがね、またあの時代に一つの大きな思潮と社會作用をもつて、後の明治にかけての大人物をその松下村塾しようかそんじゆくから輩出した偉大もみとめるがだ、その人を現代に小説として再生させることに不安があるんです、ぼくには。つまり松陰の思想がですね。だから書けないし、書かなかつたんです。どうしてといふに、松陰は僅か三十二三歳で死んでゐるんだから、どう優れてゐる人物にせよ、そのことは、松陰全集を見てもわかるし、吉田松陰といふ人の史論を見てもわかるが、餘りに儒學の尖鋭なところばかりを學びとつて、老子らうしとか易學えきがくまでには行つてゐない。儒學といふものは忠君愛國の純粹性を研くところや、義の爲に信念を貫ぬくといふ風に徹しさせるには眞向きな學問でせうが、然しその儒學の奧の奧には、なほ大人の學問としての老子とか易學などがあるわけだよ。ところが若い松陰の學問はそこ迄いつてゐないんですよ、年齡からいつて。さう思ふんです。
 すると松下村塾的な思想はその時代にはいいけれども、時代によつては危險なんですな。また事實、あの時代としても、櫻田門をやつたり、維新革命をやつたりしたけれども、結果をみれば、功罪は分りません。易學でいつてるとほり、時代は變るんだ。井伊掃部頭ゐいかもんのかみが主義の邪魔者だといふので、斬つて時局を動かしたけれど、それから二十年後には反對に井伊掃部頭の銅像が横濱に建つてしまひ、こんどは開國の偉人といふことになるでせう。吉田松陰の學問にはそこ迄の見通しがなかつたといふことだよ。櫻田門的なところ迄が吉田松陰の作用といふことでは、小説化してそれを敷衍ふえんすることにはぼくは氣乘りがしない、つまり書けないといふことになるね。
 その井伊掃部頭はまた、この頃劇や小説にもぼつ/\取上げられて來たが、僕にはその井伊大老について面白い思ひ出がありますよ。

 僕がまだ十三四歳の時だつたでせうな。横濱に掃部山かもんやまといふ――野毛山、紅葉山のつづきですがね、その掃部山は幕末の頃、彦根藩の飛領とびりやうで、明治になつても井伊家の地所だつたんでせう。その高い所に井伊掃部頭の銅像が立つたんです。今もあるだらうと思ふんだが、櫻木町驛を出ると汽車のすぐ左側の山ですよ。非常に高い臺石の上に、又衣冠束帶の銅像が立つてゐるから、見上げるやうに高い銅像でしたな。
 その銅像の除幕式が行はれたんです。その日は餅や蜜柑を投げたものでね。僕ら子供連はその蜜柑拾ひを目あてに、見物に行きましたが、大變な賑やかさでした。
 たしか東京から大隈重信、その他の大官が除幕式へ來て、祝辭を讀んだり、井伊大老が横濱開港の恩人であり、早くからの開國日本の先驅者であるといふやうな演説があつたんだ。ぼくなどは子供で、それを聞いたわけではないが、後にその時の記録を讀んだんです。たしか島田三郎の「開國小史」ではないかと思ふが、その銅像建設の由來が實に面白い。
 井伊大老はとにかく櫻田門で討たれて、それから維新の革命騷ぎを越えて明治になつたわけです。明治になると同時に文明開化といふ合言葉のもとに横濱が開港されたり、いはゆる鹿鳴館時代を招來した。それで明治に入つてすぐ、たしか十三年に井伊大老の銅像の議が初めて起つた。井伊大老家の舊彦根藩の系統の人から、井伊直弼といふ人は非常に先見の明があつた、今日、井伊大老の理想としたやうな時代がきたではないか、だから銅像を建てて表彰したいといふ運動を起したわけですね。つまり井伊大老銅像建設會のやうなものをつくつたわけ。さうすると勃然として舊水戸藩出身の者を中心とし、幕末時代の勤皇派の人達から反對論がでた。それでつまり明治を越えても一つの尊皇攘夷が始つたわけだ。尊皇攘夷的鬪爭ですな。
 これが私の記憶によれば、明治十何年に始つて、銅像を建てるといふ運動がことごとに邪魔されたんだね。例へば敷地などでも、その爲に轉々とするんですよ。愛宕山へ建てようとすると駄目になり、楠正成の銅像のあつたところへ建てようとして駄目、櫻田門に建てることも、日比谷のどこかに建てようとしてもみんな駄目になり、終ひに閣議で爭ふやうになつたんだよ。たしか明治十何年からその裏面鬪爭が、ずつと續いてきたわけだね。僕が明治二十五年生れだから、十三の時として明治三十八、九年迄續いてゐる。それで終ひに、舊彦根方では自分の地方内へ建てるのなら苦情はないだらうといふので、掃部山へ建てたわけだ。そして盛大な除幕式をやつたんだね。
 すると除幕式が終へてから數日經つたら、人々がアレヨアレヨと騷いでゐるんだな。なんだと思つたら、掃部頭の銅像の首がないといふ。それで、その日の横濱貿易新聞といふ僕らなじみのある新聞が「掃部頭の首が二度取られた」と書いてゐた。ほんとに、銅像の首が失くなつてしまつたんですよ、だから人物の消長といふものは泡沫のやうに時の流れで變つてゆくんです。
 銅像の首は地上へ降したら大變な目方の物だつたさうだが、いつたい、どういふ風にしてとつたものかわからないんだ。それから京濱國道をトラツクに銅像の首を乘せて運ぶところを、捕つたといふ別の記事を、それは何年も後ですが見たことを憶えてゐる。新聞にはやはり水戸方のした事だと傳へてゐたやうです。表面の歴史は、手際よく整理されて、時代々々を劃してしまふが、底流の歴史もあるものなんだ。大阪落城の翌日は、すぐ徳川時代だといふわけにはゆきません。人間は生き續いてゐますからね。いはゆる時代小説はよくそこを狙つて取材してゐますよ、これには歴史家も反證の擧げようがない。


 將來、さうした時代小説でも、歴史小説といへるものでも、もつと取材の範圍を中古へ擴げてゆくでせうな。江戸、幕末も餘りにあさりつくされたかたちだし。それに飛鳥あすか、平安時代までゆけば、まだまだ小説素材は豐富です。まるで未開拓の領野ですよ。額田王ぬかだのおほきみなども書けるでせう、三條天皇なども好資料でせう。ことに奈良朝などは朝廷、貴族といつても生活ぶりがオープンだつたし、戀愛問題にしても型にはまらない自由さが、むしろ今日の作家の空想以上だと思ふね。
 けれど、さういふ未開拓地の作物を讀者の嗜好に向けようとしたら、やはりその仕事は新聞小説でなければ駄目だと思ふな。新聞小説ですと、僅か原稿用紙三枚半のなかに繪といふ重大な援けがある。豫備知識の乏しい讀者には、繪解き的な理解も共にして見せなければ無理でせう。でなければ、さういふ顧慮はまつたくやめて純文學的に書くかです。然し從來さういふ試みをもつた作品はあつても、取上げられてゐないですな。どうしても一度は大衆の知識と興味に廣く敷衍してからでないと、そこの土から純文學の花も咲かないのではないですかね。

 平安朝となれば、今昔物語だとか、著聞集ちよもんしふとか、公卿日記とか、參考書はあるし、作家の意をそゝる素材はいくらもある。それもなるべくは新聞小説がいゝでせう。一回宛、繪のたすけがあるから、讀む方も、書く方も樂です。

 わりあひ手近かでゐて、一番、書かれてゐないのは室町朝です。ま、時代のエア・ポケツトだ。わけて一休和尚などは面白いと思ふがね。面白い人物ですよ。ぼくも眼に觸れると一休關係の物は蒐集してゐるけれど、この人の生涯も史實はじつに少い。傳説ばかり多いんです。それも單なる奇人的な奇行でなく、佛教をつきぬけた人生哲學だから、それと、取つ組んで書くのは相當ほねだね。よほど、こちらも大人でないと書けない。從來書かれたやうな道化者の一休ぢや仕方がない。人間一休となると、意欲はもつても、さ、むづかしいな。書けない氣もして來てしまふ。
 一休を人間的に見る一番な手がかりには「狂雲集」といふ詩集がありますがね。好きな女性に與へた詩だの、いやな奴の惡口などを詩でいつてゐるのだよ。事實、一休は女もなか/\やつてゐる。女との關係もあるし、子供も生ませてゐるんです。一休の哲學からは、ちつとも破戒でも墮落でもない、極めて自然なる現象なんですね、たいへんな自信家ですよ、一休はね。
 沙門しやもん紹偵せうていといふのは彼の息子です、佛門へ入つて修行してゐる。ところが、これが親父の眞似をするわけです。親父ほどな人間的えらさもなく、學問もなく、人生に身を賭けるといふ信念もなく、かつかうだけ眞似るんですな。とんでもない道樂者になるんです。一休もこの子供の始末には困つたらしい。一つの人生敗北を味はうわけです。さういふ一休は小説になるのぢやないかな。泣きベソをかいた一休。彼の弟子の墨齋ぼくさいが描いた一休の肖像畫を見てゐると、じつに人間臭い顏つきをしてゐる。後小松帝ごこまつていの落胤などともいはれるが、インテリ臭のない野人そのまゝな風貌だね、長壽もしたし、精力家だつたでせう、然し昔から警戒人物です。禪家のうちでも、かう云つてゐますね。一休ノ禪ハ愛スベシ、學ブベカラズつて。するとやはり今日の小説に書いたりなどしないで、あのまゝの道化者にしておくのがいゝかもしれませんな。

 應仁の亂を、見直すもいゝ。あの暗黒期やら暗黒の下から芽ばえてゐるもの、文獻としては、「陰凉軒日録いんりやうけんにちろく」などの幕府の記録があります。よく美術史家などの引例には重寶に使はれてゐますよ。そのなかには當時、室町幕府の繪所だつた周文とか、當時の畫僧や武人の日常のさまも分るが、ぼくが面白いと氣づいたのは、狩野派畫家の祖といはれる狩野正信が折々都へ出てゐることです。その正信の更に遠い祖先をたどると、こんどは保元、平治の時代にむすびついて、伊豆の狩野川にゐた狩野介光茂かのうのすけみつもちとなり、どうやらこの光茂が狩野家の遠祖と考へられて來るんです。
 光茂は伊豆の住人だつた關係から、保元の亂後に捕はれた鎭西八郎爲朝が大島へ流されるとき、その島送りの任に當つてゐる。そして又、頼朝が後に旗擧げしたときには、その子の狩野五郎頼光などをつれて源氏方につき、石橋山の合戰で討死してゐるんですが、よく人口に膾炙されてゐる徳川家の御用畫家の狩野元信や探幽などの巨匠が、さういふ郷土武人の末から出てゐるといふことは、誰も知らないのではないかと思ふ。かういふ系譜的な考へ方も、また何かを書くときの一つの構想のたねになるんですな。
 戰國期となると、これはもうどの人物も一般に馴じみなので、それだけでも小説は書きいゝわけです。ぼくにも「太閤記」の作があるが、こんど書くなら反對に「太閤記」の全然裏側をいつて曾呂利そろり新左衞門を書いてみたい。尾崎士郎氏がたしか曾呂利を書いたと思ふが、べつな見方から書きたい。これも一休と同じやうに、おどけやの皮肉屋で朝から晩まで茶化してゐる狂歌師か、幇間みたいな曾呂利が通念になつてゐるが、ぼくの考へでは、何も青年時代からあんな洒落一點張の道化師ではなかつたらう、さういふ諦觀に行きつく迄の曾呂利新左衞門といふ人間の、苦しい人生道中と苦悶を探り知りたいと思ふ。そして秀吉といふ王侯の上をも超えた、達觀と人生に克つた皮肉を小説にしたらと思ふんですな。事實、ある意味では、同じ時代をスタートした人間として、曾呂利は秀吉よりも人生に勝つたともいへるからです。
 その曾呂利新左衞門、利休、呂宋るそん助左衞門、石川五右衞門、石田三成、とかう秀吉をめぐる五人のそれぞれ特徴のある人物を組ませて、是を「慶長五人男」とし、二百回ぐらゐな新聞小説にかいてみようと思つたことがあるが、何かの都合でよしてしまつた。
 それから「雜兵物語ざふひやうものがたり」といふ江戸初期の隨筆物があるが、題をその儘に、戰國期の一人の兵隊を書いてみるのもいゝと思ふんです。始終、命がけの戰ひに追はれながら、武力も才もなく、貧乏しつつ、子澤山で、あはれな老母や女房をもちつゝ、碌々として老兵で終るといふ一人の凡々たる雜兵の眼から見たその時代ですね、また當時の英雄像といふものですね、これは自分でも興味をもつてゐるが書く時間がない。時々、思ひ出してめんどりみたいに温めてゐるだけだね。
 伊賀上野の人で山田道庵といふ、その時代の畫家がゐる。その道庵が書いたのではないけれど、道庵のゐた藩に殘つた記録に、戰國期の世間を武者修行に出た男がゐる。それの道中の憶え書きに、姫路の城下で秀吉を見た事が書いてある。ちやうど京都に政變が起つたときで、織田殿が明知光秀に殺されたさうだといふ風聞が傳はつてゐる。その爲に今日の曉がた、中國攻めに出てゐた信長の部下の羽柴筑前守秀吉といふ人が、京都へ引返して行くさうだ、といふことを聞いて、人混みにまじつて、姫路城下で見物してゐた。そして秀吉殿とはどういふ人かと好奇心を持つて背伸びして見ると、どうも、さしたる風采でもない、小柄な男が馬に乘つて行つた。五、六騎一かたまりのなかで、どれが羽柴殿かわからない、どれが大將とも見えない。そばの者が指していふには、あの躰の小さい人がさうだといふので、つらつら見たところが、一向につまらない人だつた、といふことが書いてある。
 その數行を讀んだ時、ぼくは歴史的な上から想像する秀吉よりも、非常に身近な秀吉像が、はつきり眼に映つた氣がしましたね。前にいつた「雜兵物語」の着想は、そこを狙ひたいと思つたわけです。
 もつとも、秀吉に限らず、人間像をほんとの人間らしく再現できたら、それでもう立派な文學だ。けれど肖像畫などにしてみても、古人像はみな妙にしやちこばつてゐて、衣冠束帶いくわんそくたい式に、わざと實感から遠くしてしまつてゐる。
 例へば親鸞しんらんなどでもその像といへば、端麗な貴族出の人、聰明と信念をもつた美僧に描かれてゐるがね、本願寺にある親鸞のほんたうの肖像は、とても怖い頑固な容貌をしてゐるさうです。容貌魁偉な僧ださうだよ、本願寺ではあまり人に見せたがらないさうだ。
 利休などもさうらしいな。骨組のいかつい人で、茶人といふよりは頑固な感じのする人ださうだ。京都の千家に木像があるが、怖い顏をしてゐると聞いた。觀相の本には、偉人は異相なり、とある。いゝ男には大した人物は居ないといふ事になると、ぼくらの友人達の中にも面相だけは偉人といへる怪異がずゐぶん居るなあ。
 だが、歴史上の人物には讀者の先入主と、一種の崇拜感があつてね、往々それに困ることもある。僕が高山右近を讀賣に書いたときも、それがあつた。右近と女の關係を書いてゆくと、上智大學の先生あたりからすぐ横槍が出た。「決して右近樣は戀愛などはしません」とか、「女などはお犯しになりません」といふ抗議ですな。「小説ですから」といふことは認めるんだが、「それでは事實と違ふ」といふ。
 そしてキリスト教者の手になつた史料や、宗教的な高山右近をもつてきて「參考にしてくれ」といふわけですが、かういふ應援者が多くては作家は書けない。ぼくもあれは中途でやめてしまつた。
 ぼくが右近を書かうとしたのは、終戰後、一時亂脈になつた男女問題で、その、誰でも通る自然な性慾の處理を、どうとるか、その方法をテーマにもつて、右近の未成年時代から晩年の教徒右近までを書かうとしたんです。それは宗教家も答へを持つべきだと思ふんだが、「マリヤは婚せずして孕む」――では、現代人への答へにはなりませんよ、小説ならそれが答へられると思つたんだが、結局、信徒的な容喙が多くては、書けないですね。宗教小説のばあひでは、どうもさういふ例がありがちのやうだ、そのせゐか、直木氏が弘法大師を書いた以後、新聞小説にも宗教家を題材としたものは出ないな。
 誰が強いつて。
 劍客の中でですか。それあ劍道といふ限界でいふなら、やはり宮本武藏と山岡鐵舟ですよ。あの二人はハツキリしてゐる。然し、ただべら棒に強いといふだけなら、古來から無名人の中にも、どんな化物がゐたかわかりませんな。べら棒に強い、合せて人間ができて居て偉いとなると、さあ、さう無いだろ。技だけ強いのは劍道では強いとしないんだよ。何十人を斬つたり張つたりしても、そんな者は強いとしない。ほんたうに強いといふのは不敗でなければならない。武藏や山岡鐵舟を強いといへるのは、疊の上で死んでゐるからだ、平穩な往生をとげたといふことだけは強い證據なんでね。
 武藏にして云へば、生涯に三十六度も試合したと自分でいつてゐますが、山岡鐵舟となると、一生涯、人間の指も斬つたことがないんだよ。およそ生き物の生命といへば、蚤を捕へても、わざわざ縁側へ行つて、指先からピヨンと逃がしてやるほど、ものゝ生命を大切にした人だね。生命への愛情あふるゝばかりな人だつたんです。しかも劍道に於ての力は底が知れませんね。
 あの時分は桃井春藏もゝのゐしゆんざう、齋藤彌九郎、千葉周作など、劍道の撩亂期を呈したんですな。維新革命の世相を映し出したわけ。けれど江戸の中間期はカラ駄目だな。武藝小林など見ると、ずゐぶん劍人の小傳や名は羅列してあるけれど、さあ、どうだつたらう、大した名人はゐなかつたでせう。初期なら、小野次郎右衞門ですね。
 荒木又右衞門などはぼくは買つてゐない。鍵屋の辻の事件が、たまたま社會面のニユースに大きく扱はれたけれど、又右衞門級の人ならほかにもまだいろ/\居た氣がしますね。
 鐵舟といふ人は氣のどくですな。通俗小説の道具に使はれすぎて、ほんとの山岡鐵舟は知られてゐないんだよ。維新劇の中に、覆面出沒して、近藤勇的に血煙をたてるといふ風にばかり書かれてゐる。まつたく本物の鐵舟とは遠いものですよ。

 明治へかゝるが、その鐵舟と並んで、書いておもしろいと思ふのは、三遊亭圓朝さんいうていゑんてうですな、圓朝は、長編小説になります。
 正岡容まさをかいるる氏が三遊亭圓朝をかいてゐますが、落語家圓朝の半面だけで、圓朝の藝の裏づけには、鐵舟とか、滴水和尚てきすゐをしやうなどといふ、彼をひいきにした人たちのべんたつがあつたんです。圓朝と山岡鐵舟だけでも、絶好なワキ、シテだし、滴水の禪は、よほど彼の藝道に影響してゐると思はれるふしがあるんです。
 ちよつと、一例をいつてみれば、ある時、それは鐵舟がひいきの圓朝を自宅の大勢の客たちに紹介するため呼んだことがある。滴水和尚もゐたらしいんだね。
 もちろん、酒宴があつて、彼の餘興があり、そのあと、酒と雜談になつた。ところで鐵舟が、圓朝の忙しい體を知つてゐるので、彼にむかつて「師匠、そろ/\お歸り、だが名人といはれるお前のことだ、足をつかはないで歩いて歸れよ」と云つた。これには、圓朝も首をひねつて「足を使はないで歸れと仰つしやつても、こゝでは幽靈になれませんしなあ」と弱つてゐる。それを滴水はニヤ/\笑つてながめてゐたといふんです。すると鐵舟がまた「おい師匠、おまへは高座で話をするとき、舌の使ひ方をいち/\考へて話してゐるか、舌があるとか無いとか意識するか」さう云はれて、圓朝が悟つたといふんだね、なるほど朝から晩まで喋舌り通し、舌を商賣にしてゐるが、舌が有るとか無いとか意識したことなどは一ぺんもない。さうか、意識しないといふことは、それを用ひても、意識では用ひてゐないといふことだ――と、かう思つたから圓朝は「はい、それでは皆さん、お先に」とスタ/\先に歸つて行つた、といふ話などあるんです。落語家の圓朝と禪なんて、まるで縁がないやうに思はれてゐるが、彼はさういふ一面もあつた、いはゆる名人だつたのです。ですから圓朝は自分の號を無舌居士むぜつこじとつけてゐました。無舌の由來で、ぼくの放談もこれで、ハイ左樣なら。
〔談話筆記〕
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 人物といふものは、ジヤーナリズムの上に持てはやされてゐるやうな人々のなかによりも、むしろ、無名の民衆のなかにこそもとめるべきものではないだらうか。八百屋、魚屋、下駄の齒入れ、いろいろな職業にたづさはつてゐる無名の人々のなかに、人間として面白味をもつた人が澤山ゐるにちがひない。さういふ人物を、大臣とか何とかいつてゐる人物と、裸で對決させてみると、より立派だと思はれるやうなものがゐると思ふ。さういふかくれ埋れてゐる人物を探りだすことが必要ではなからうか。
 こんにち、有名になつてゐるといふことは、いはばそれぞれの形で虚名を博してゐることにすぎないと思ふ。人物として偉くない場合が多い。
 人氣といふものは、低氣壓のやうなものでまるであてにならないものだ。第三者として見物してゐる分にはあるひは面白いかも知れない。その半面、人氣に乘せられたゝめに、自分で自分の方向がわからなくなり、一生を誤つてしまふことになつた天才的な人がいくらもゐる。氣の毒なことだ。持ちあげても、二尺か三尺のところで落して呉れゝばまだいゝ、それならば怪我をせずにすむのだが、當人の思惑も考へずにワツシヨイ、ワツシヨイと天井までかつぎあげておいて、いきなりドスーンと落してしまふ。人氣といふものはさういふいたづらものである。
 ところが、この氣まぐれものゝ低氣壓がつねにあちこちにある。相撲とか藝能の世界では、それがとくにいちじるしい。人氣に弄ばれてゐる人々の浮沈は、見物人には面白いにちがひあるまい。しかし、さういふものに乘せられてゐる人はたまらない。はたでみてゐても氣の毒である。私自身は、人氣に乘せられたことはない、したがつて人氣の味は知らないし、嫌ひだ。乘せられるのはかなはない。
 かりに私に人氣があるといふやうなことになつたら、それは、いきなり夕立にあつたやうなものだから、傘をさして逃げだしてしまふ。

 歴史上の人物を、偉いとか偉くないとかいふが、世の中もいきもの歴史もいきものである。たえず流動變遷してゐる。たとへば西郷隆盛といふ人をとつてみても、明治の人間がみた西郷、昭和のはじめ頃の人間がみた西郷、こんにちの人間がみた西郷、その間にはいろいろとちがひがある。それは西郷といふ人物に對する見方、評價といふものが、つねに變化してゐるからだ。偉いとか偉くないとか、かんたんに言ひ切れないのが本當だ。私は西郷といふ人物を特別に研究してゐるわけではないから、これは、なほさらわからないわけだ。偉くないといふのも間違ひだらうし、さうかといつて、徹底的に偉いといふのもまた間違ひになるのではないか。

 アメリカの占領政策で歴史教育が禁止され、日本の歴史上の人物が抹殺されたことについてはいろいろのことが言はれ、これに關して歴史教育を復活し、歴史上の人物に對する尊敬崇拜を再び喚起しなければならないといふ議論がおこなはれてゐるといふが、しかし變革期にあたつて、歴史上の人物が封じ込められてしまふやうなことは往々あることで、不思議な現象でも何でもないと思ふ。むしろ世の中が流轉してゐる以上これは年とともに變つてゆくのが當然であらう。もちろん、國民性としては、古いものに偏せず、さりとて新しいものにも偏せず中庸を得たものをつくつてゆくことが望ましい。だが變革期といふものはどうしても偏し易い。新しい時代が來ると、とたんに古いものをぜんぶぶちこはしてしまふ。ところがその新しいものが永遠に新しいかといふと決してさうではない。その新しいものもたちまちのうちに古くなつてしまふ。かういふことの繰返し、それが人間の歴史なのではないだらうか。日本人ばかりではない。世界中の人間、つまり人類全體の姿がさうなのではなからうか。中庸を得るのが理想であり、それに近づきたいものだが、不幸にしてなかなか思ふやうにはゆかない。哲人とか偉人とかいはれる人々の銅像は、日本にいくらでも立つてゐる。さういふことになつてゐてもいいと思ふのだが、これは古いとなるとすぐにハンマーでぶちこはし熔鑛爐にたゝき込んで新しい銅像をこしらへる。ところがその新しい銅像が地球とともに永遠であるかといふに決してさうではない。もし、そのやうに考へるとすればまことにおろかなことである。
 よく、日本人はうぬぼれてゐると言はれるが、うぬぼれてゐるのは日本人ばかりではない。世界中の人間がうぬぼれてゐる。醫學を例にとつてみてもそれがわかる。太古の草根木皮を煎じて飮んでゐた頃に比較すると、今日の醫學はたしかにある程度進歩してゐる。しかし、ひとたび長い目標からながめると、それはまだ幼稚なものにすぎぬ。その幼稚なことを知らずに醫學を盲信するところに間違ひがおこる。改造社の山本社長などの死なれたのもやはり、今日の醫學を萬能と信じてゐる風潮の結果ではないだらうか。
 原子爆彈をつくつたといふが、その使ひ方のそぶりをみると、人類といふものは、石のかまや槍を使つてゐた原始時代に比べてそんなにちがつてゐない。本當にちがつてゐるといふのならば、原子爆彈をつくると同時に、その驚異すべき精密さに相當するだけの、進歩した政治的理念をならべてみせてもらふのでなければ納得できない。原子爆彈をつくるといふ方面では大きく進歩したといふことはできても、精神文化の面では原始時代とそんなに變つてゐない。このことはわれわれのやうに原子爆彈を一發くらつたものとして、深く考へてみるべきことである。

 人物について誰が好きかと問はれると、私は、人に好惡なし、と答へるよりほかはない。少年期、青年期にはそれはあつた。むしろ私にはそれが非常に強くあつたといつてもいゝ。私は青年期の一時、政治家といふものが非常に嫌ひであつた。旅館にはよく政治家の書いた字を額にしてかけてあるが、私には非常に不愉快だつた。ある時、旅館に泊つて夜中にふと目ざめて上を見るとその政治家の額がかゝつてゐる。人の頭の上にのしかゝつてくるやうで癪にさはつてしやうがない、たうとう起きて、方向をかへ額の方へ足をむけて眠つたことがある。
 子供の時の好惡といふのは、やはりその時代の型のやうなものに支配される。私は明治の子で、十一月三日に小倉の袴をはき、きれいにはき清められた學校の門をくぐり、天長節の歌をうたつて育つたのだから、やはりその時代に語られた型、それを好きになつたり嫌ひになつたりしてきたのである。
 しかし、年をとるにしたがつて自分にあたへられた生活を通して社會をみ、歴史をみることによつて次第にさういふものを卒業してくる。つまり青年時代にあたへられた教育の型をいつまでもまもつてゐるわけではなく、したがつて毎日子供の時の好きな型なら型といふものをかついで歩いてゐるわけではない。このごろでは好惡といふことをはなれてゐるやうになつた。つまり色氣がなくなつてきたのだ。歴史上の人物の誰が好きだとかいふのはその人に色氣があることだ。色氣があれば、人に會つても、この人によく思はれようと思ふからいゝ態度をとるのだが、それがいまではなくなつた。

 作家が作中人物を愛するといふが、それは結局作家が自らを愛してゐることであらう。
 作家は時には自分に愛情を持ち、また時には自分を憎む、それはいろいろあると思ふ。自分を愛し、あるひは嫌惡する。それが作中人物に對する態度に現はれるのである。結局、作家といふものは、いろいろの人物を描くのであるが、それは自分を書いてゐることだと思ふ。
 いろいろの歴史觀を持つた作家がゐる。唯物史觀によるもの、あるひはさうでない古い史觀によるものなどがあるが、私などいずれか一つの史觀に立つて歴史と人物に審判を下すといふ氣持にならない。
 そこで私の書く物に對して、あるひは曖昧だとか、あるひは史觀が淺いとか、いろいろ批判を受けるのだが、しかし、一つの立場一つの史觀といふものを信用することができるかといふと、それは非常に問題だと思ふ。
「新・平家物語」にでてゐる仲綱の子の有綱だが、あの青年は二つの彷徨する世界で一方的な一邊倒な情熱を持ち、じつに思ひ通りにまつしぐらに動いてゐるが、あれに對しその好惡とか肯定否定を問はれても惡いともまたいゝともかんたんにはいへない。私が、あの青年よりも年上で、人生經驗の多くを持つたものとして考へてもさうであるし、また父兄としての立場に立つてみても、青年の心情に對する理解は持つとしても、また一面においては、あれでは非常に危險じやないかといふ心配もおこつてくる。さういふ風にこれをいちがいにいゝとか惡いとかきめてしまふわけにはゆかないのである。源平時代といふ半世紀から一世紀にわたつて動いてゐる時代そのものが、あの作品の大きな主人公であつて、無數の登場人物がゐるが、人間同志にはなんにもわかつてゐない。さういふ大きな時代を相手にものを書くといふことは、人間に對する善惡とか好惡といふことを超えて、人と時代を動かしてゐるもの、宇宙の大きな意志をみつめることになる。それが私のあの作品における主張なのである。
 時代の動き、人間の運命に對して作家の立場から答へをだしてゐる作品がある、短篇にも中篇にも長篇にもある。しかし、作家がその答をだすにあたつてどれだけわかつてその答をだしてゐるのかはあてにならない。作家は自分を附託した人物を描いてその人物にいろいろのことを語らせるのだが、しかし、それはおほむね彼の勝手な想像である。勝手な想像で書くといふことになれば誰にだつて書ける。何だつて好きなやうにとらへ好きなやうにをどらせてもいゝわけである。歴史や時代、あるひは戀愛といふものについても書かれてゐる。讀者がこれに興味を持つて讀み、讀み放しにする。それはそれでいゝけれども、そこに書かれてある通りに實行しようとするとこれは大變なことになる。書いてある通りにやつたのだが、どうもうまくゆかないからといつて、どこにも文句の持つてゆきやうがない。作者が答をだしてみても、それはただそれだけのものにすぎない。私は作家が立場とか史觀とかいふものをもつてゐて、それでもつて歴史を解釋したり、人物を好惡するといふことは、それだけのことで、本當に信用されるものではないと思ふ。

 歴史小説における史實といふものについてもいろいろの意見があると思ふが、史實といつても、それが書かれたものである以上、すでにその筆者の主觀を通つてゐるのだから、もうそれは事實そのまゝのものではない。だから、その史實をどこまで信用していゝかといふと問題がある。
 私はむしろ、作家の想像力こそが、本當の眞實をつくりだすものではないかと思ふ。
〔談話筆記〕
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 日本の讀物文學のうちに、かくもさかんに“捕物帖”的なものが讀まれてゐるのを見ると、日本人といふものは、よほど捕物に――といふよりは逆に、どろ棒なるものに――興味をもつ人種だといふやうなことが云へさうではあるまいか。もし外國人的な口吻をまねて文明批評みたいなことを云ふならば、こんな風に云へるだらう。
 日本の庶民文學のうちには、泥棒文學ともいふべき泥棒を取材として人間性の一面をさま/″\に戯畫化した好致なるストオリー小説が廣く行はれ、それは庶民のふしぎな愛好にさへなつてゐる。これはいはゆる推理小説とか、他國の探偵文學趣味ともまつたく異なる獨得な日本人の犯罪觀、泥棒觀をも示すものでもある――と。

 泥棒根性は、もちろん、日本人だけの専賣ではない。いや、外國人のばあひの方が、もつと多いといへるかもしれない。その唯物的な考へ方や、社會風俗の雜多な國情ほど。
 推理小説が主人公とする近代的な怪盜よりも、また科學的犯罪よりも、民度の低い社會に行はれた“泥棒型”の方が、何となく、吾人に親しみがあり、人間らしさがあつて、讀物として讀まれる讀者心理には、まつたく異なる二つの違つた境地のものであることも確かだと思ふ。その點で、日本では推理小説よりも、捕物帖の方が、讀者の支持をうけてゐる。讀者にとつて、何か、泥棒型の犯罪の方が、身近な氣がしてゐるにちがひない。

 たれの中にも、泥棒根性はある。
 もちろん、ぼくの中にもある。ぼくはぼくを誰よりも知つてゐる。
 野村胡堂氏などは、よほど惡智奸才に富んだ人であるにちがひない。でなければ、あれは書けない。もちろん、野村氏の人格とこの問題とはちがふ。
 錢形平次とがらつ八といふ人物は、よく犯罪の因子を見やぶり惡人を捕へるが、この二人も、自己の性質の中には、泥棒根性や惡智を豐富に持つ者たちである。――だから惡漢のすることを彼らは神の如く感知する。野獸の行爲を知る獵犬は、獵犬もまたじつは野獸だからである。
 讀者が捕物を讀んでおもしろいといふものを感じるその――心理には――讀者の心のなかにも、その兩方のものが確實に有るからであり、もしまつたく、泥棒性もその反對な正義觀もないとしたら、捕物帖の興味には、不感症のはずである。

 日本泥棒史といつたやうな著書はないが、平安朝時代の檢非違使の記録とか、江戸時代警察史などを見ても、いかに古くから吾人のあひだには、吾人も持つ盜癖性が、いろ/\な形で、社會の表裏に登場してゐたかゞよくわかる。
 今昔物語などにも、盜賊談がよく出てくる。或は、捕物帖の始祖は、この著者の宇治中納言どのと云へるかもしれない。
 おもしろい、と云つては當らないかもしれないが、平安朝時代には、宮中の奧深くにさへ、泥棒が出沒してゐた。陛下がそれを見つけて騷ぎたてたことさへある。そして紛失した衣類の下手人が女御によごづきの女房であつたりした例などを見ると、宮廷生活も、貧しい所は極めて貧しかつたにちがひない。――源氏物語的な生活や色彩が王朝の女性だつたといふ風な考へ方は、ずゐぶん他愛のない皮相觀である。

 寛喜年間の大飢饉のときなどは、社會的例外だが、一般の盜癖性が、どんな形で現はれたかを知るにはよい史料といへるであらう。
 これも、宮中のことだが、内大臣が、就任式をやる。その饗膳をならべた所へ、宮廷の舍人や雜色たちが、ふいに階を登つて來て、饗膳の食物をみな掻ツ拂つて逃げてしまつたことがある。
 親王のお祝ひの時にも、同じやうな事件があつた。藤原定家の“明月記めいげつき”などによると、息子の爲家と來客とのはなしのうちに――都は夜毎群盜になやまされ、この頃では、食へない公卿の家人はみな夜稼ぎに出かけると云つてゐる。すると又、べつな客が來て、家僕のみが盜賊化してゐるのではない。今朝などは、なにがしと云はれる朝臣が、その召使と共に、群盜を組織して、夜毎、掠奪を働いたといふので、使廳の捕手につかまつて行つたと云ひ――一座唖然としたなどといふ日記の斷片さへ見える。

 群盜横行の記事は、平安朝から武家世代を通じ、およそ近世の戰國時代まで、たえまなく、日本の世相史の裏面には、つきまとつてゐたといつてよい。
 この習性が、僻地や農土には、長く潜伏して、戰國末期になつても、戰亂の前とか、後かには、いろんな形で、現はれてゐる。――落武者や戰死體の持物を剥いだ連中などは、その餘風といへるものであらう。
 かういふ過去をかへりみると、江戸時代の市井しせいの泥棒などは、なか/\洗煉されて來たものである。默阿彌もくあみなどは、たうとう泥棒たちを、歌舞伎の花形にまでしてしまつた。江戸文化は、泥棒までを、白浪五人男のやうに理想化して、これに“美”をすら見ようとしてゐる。おそらく世界のどこの國でも、かくまで人間の盜癖性を、美化し、戯曲化した藝術は持つまい。

 菊池寛氏の啓吉物語だつたとおもふが、たしか中學生じぶん、友だちが果物屋の店頭の物をちよいと失敬したのを眞似て自分もやり、ほかの友達もおもしろ半分にやつたといふやうな事を書いてゐたとおもふが、ぼくの少年期にも、それと似たやうな覺えがある。
 本が讀みたいが、本が買えない、そこでよく古本屋の店頭に立つて、毎日、同じ本を立ち讀みしてゐた。あるとき、立ち讀みしながらふと見ると、午飯時とみえ、古本屋のおやぢは奧にはいつて居て姿が見えない。ひよいと、本を持ちかへたのである。すぐ棚へ返さないで、へんな氣持の中にたじろいて居た。すると、箸を片手に持つた古本屋のおやぢが、書棚の横から半身見せて、いきなり、こらつと、ぼくへ呶鳴つた。とたんに、ぼくは逃げ出した。うしろを振向く餘裕などはない、たゞ怖しかつた、そして持つてゐた本を、道ばたへ抛り投げて、なほ三十分も馳けてゐた。それきり、一年の餘も、その古本屋の前を通れなかつた。夜半でも、考へ出すと、恐くなつた。
 かういふ性情のものは、それつきりかといふと、以後の長い生涯のうちにも、いくたびか同じたじろぎを心に覺えたことがある。終戰後、自分の疎開してゐた村で、夜ごと、疎開者たちの、女性も加へて、いろ/\な動きや迷ひを見聞きしたときも、同情はされたが、心からは憎めなかつた。唯誰にもあるものが、あのやうにお互ひの中でむき出しになつたことは、近世にはない事だつた。思へば、吾人の社會は、まだ/\さう平安朝や戰國期の暗黒から急に進歩したといふわけではないらしい。條件が伴ふと、いつでも、その潜在性を外に行爲する性能をなほ多分に殘してゐるものと考へたい。

 火事にはこりてゐるが、ぼくは、泥棒には餘り恐い目にあつてゐないせゐか、何となく、一種の愛嬌をすら泥棒にはつい持つてしまふ。

 昨年、朝日新聞の人たちや杉本健吉氏などと、新平家物語の史蹟をあるき、新潟のさる旅館に泊つたとき、手際の凄い白浪氏に襲はれたが、この朝なども、警察部の總員が來て調べるやら、旅館の夫婦は青くなつてゐるといふのに、何か、さういふ騷ぎの光景が、をかしく見え、笑つては惡いと思ひながら、時々、笑ひが出て仕方がなかつた。
 ぼくと杉本君とは、二階に寢てゐて、何も被害をうけなかつた組だから、このをかしさが、ぼくの寛々たる大腹に依るわけでは決してない。偶然、見物側にゐたからだつた。さうして、第三者になつて見てゐると、じつに、滑稽な感じがわいて來る。被害者自身も、初めの驚きや悄然から醒めると、やがて一しよになつて抱腹し出す。“災難”といふ假面を被つたものが、奇妙な演出をさせてゐるのだと氣がつくわけである。
 けれど、泥棒の足あとといふものには、妙な凄さがあるものだと思つた。斑々點々と、縁側や庭上に殘されてある印影には、何か寒々しい鬼氣があつた。
しら浪の足あと凄し朝の月
借着して宿たつ朝や秋の風
 そのときの駄句である。それから、醉ふとよく裸ダンスをやるHさんもその夜の被害者のひとりだつたので、戯れて、
梁上りやうじやう君子くんし梁下の踊りかな
 と、あとで書いて示したら、たいさう恨めしさうな顏をした。

 ぼくが十一、二歳の頃、ぼくの家に泥棒がはいつた。兄の部屋にあつた物だけが盜まれ、障子紙に、舌で濡らして開けた穴があいてゐた。
 刑事が來て、舌の穴の所へ、自分の顏をよせ、この泥棒は背が低い、と云つて歸つた。數日後、時計だけが出た、受取りに出頭せよといふ通知があり、ぼくが代りに、山手警察署へ、貰ひに行つた。
 刑事部屋に待たせられてゐる間に、そこにゐた色の小白い男が、ニコ/\しながら、頻りにぼくに話しかけ、
「坊や、何年生」
 と、云つたり、
「一人でよく來られたね」
 と云つたりした。
 やがて刑事が來て、兄の時計を渡してくれた。そして、いきなりそばにゐたその愛嬌のある男の頭を輕いゲンコツでこつんと叩いて、
「坊やの家へ這入つた泥棒はこいつだよ」
 と云つた。ぼくは眼をまろくしたが、男は相變らずニコ/\してゐた。ひどく硬さうなクセ毛の濃い額ぎはをした小男だつた。そして刑事が前に豫言したやうな脊の低い姿を發見して、いよいよぼくは眼をまろくしてゐた。けれど、恐い氣もちはしなかつた。ぼくの泥棒印象の初まりがこの小男だつたことが、泥棒と聞くと、今でも何か、恐い中にも愛嬌のある頓馬で人のいゝ偶像を連想させる一因になつてゐるのかもしれない。


 よく、こんな事を思つたりする。
 むかしぼくらが觀た新派芝居――壯士芝居といつたやうな時代の舞臺に出て來る泥棒は、みな顏を“泥棒被り”にし、下座の太皷のドロ/\ドロン/\で及び腰になり、屋内の寢息をうかゞつた後、やがて、部屋のシキヰに水を流したりしては、一寸開け、二寸開け、いかにも、四隣のしゞまを漂はせて見せる。
 終戰以後、近頃の盜兒は、トラツクで乘りつけたり、白晝公然と、ギヤングして去つて行く。ずゐぶん派手になつて來たものである。これは、泥棒變化ではなく、世間が變つて來たのだと思ふ。ぼくらが舞臺の上で見た泥棒氏のやうな泥棒が、世間の深夜を歩いてゐた時代は、シキヰに水を流してふすまを開けなければならない程、世は泰平で、世間の眠りも靜だつたと云へるであらう。けれど、今日此頃のやうなギヤング振りの時代となつても、なほ吾人の夜の眠りは、むかしと變らない安眠をむさぼつてゐる所を見ると、現代人の神經も、相當、太くなつて來たものである。見上げたものだと、うぬ惚れてみたい氣もする。だが、考へてみると、泥棒ごときに神經を細くしては生きてもゐられない今日ではあつた。原子爆彈さへ、降るや降らずみの世界の屋根の下である。ある夜、ある醉つぱらひのつぶやいた句に、
原子爆彈どこにあらうと秋の月
 とあつた。どんな秋の夜のあはれよりも、かなしい月の句ではなからうか。
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まへがき
 ――牝鷄が卵を抱けばかならず孵るといふわけにゆかないやうに、ぼくらの書齋にも孵化しない小説の無産卵が常に紙屑籠と一しよに有る。
 それは一たい何のことなのか。
 前おきがないと何なのか分りつこない。云つてしまへば、二百號記念に約束の小説が果せなかつた云ひわけである。しかし、書く氣もなく放抛してゐたのではありませんといふ陳辯書とごらんねがひたい。
 だいたい、何のはずみか、二百號記念を最初に提唱したのが小生であり、酒興の上とはいひながら、必ず一篇を寄すべしなどとも大言を拂つたらしい。しかるに、最終々の〆切日に至るも出来なかつたといふ次第である。
 そこではる/″\山村から文春編集部に出頭して、叩頭百ぺんしたのであるが、聞きわけの惡い新社同人のゆるすところとならず、當日、中山婦人文化講座で講演する豫定があつたので、くるしまぎれの一案、そこでの速記を補筆して、いさゝか責めをふさぐといふ事でやつと妥協を見たのであつた。
 小説にもあらず、隨筆にもあらず、かういふ畸形稿が記念號の百卵中に生れ損つて出るのも、考へやうでは、小説優生學上、讀者にはかへつて一興であるかもしれない。

 昨年もたしか今頃でした。やはり井上秀子女史の御慫慂でこちらの婦人講座で話しました。四月十二日です。どういふわけか、さういふ約束をしますと――豫定は二月も三月も前から承知してゐながら――極つてと云つていゝほど、必ずその日がりに選つての最惡みたいな日にぶつかるんです。
 昨年はたしか前の晩、仕事で徹夜したまゝ一睡もせずにやつて來たと思ひます。演壇に立つてから、話の途中で中山さんが私に藥をのまして下さつたことを憶えてをります。一體何をしやべつたか憶えてゐません。その歸りに又、文藝春秋か朝日新聞かの會に臨んで、一つの責任がすんだ、といふ氣のゆるみで山水樓で少し酒を呑みました。そして奧多摩迄歸る途中、自動車が急バツクしたとたんに、シートからうまくころげ落ちて、前齒を缺いてしまつたんです。この一本の齒を缺いたのは、こゝの婦人講座のせゐなんです。(笑聲)
 さういふ前例にかんがみて、じつは、今年こそはと氣をつけてゐたんです。ところが又、昨日、今日の體の都合は、最惡中の最惡ときてゐるんです。ちやうどオール讀物の二百號記念號に約束した原稿のギリ/\〆切日が、今日なんです。それが出來てゐないんですなあ。考へてみるとオールの第一號が昭和五年に出來るとき、私は信州の上山田温泉にゐました。菊池寛氏から頼まれて、頼山陽のお母さんのことを書いた「※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)ばいしの杖」といふのを書いたおぼえがあります。梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)女史といふ人は非常なしつかり者で頼山陽の父、頼春水へお嫁に行つてから三年目で子供が生れたんですが、そこへ嫁いだ日から日記をつけ始め、そしてわが子の山陽が死んだ後まで日記をつゞけてをりました。梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)は長生きしましたから、つまり頼山陽の生れる三年前からつけ始めて、山陽の死んだ十一年後迄、日記を書いたわけなんです。それを「梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)日記」といひまして、刊行もされてゐますが、じつに尨大な記録になつてゐます。さういふ非常にはつきりした傍證がありますから、山陽などは小説に扱つても、さう空想をさしはさむ餘地がありません。そこで「梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)の杖」を旅先きで書くには、參考書がなくて困りました。毎日、上山田からハイヤーを頼んで長野市にゆき、圖書館やら町の古本屋をあさつて、何とかまとめて書いたんです。するとその途中で土地の警察の刑事みたいな人が來て、「毎日ハイヤーに乘つて長野方面を遊興してをられるさうだけれども、御商賣はなんで、收入はいくらで、住所はどこですか」などと怪しまれたことなどあります。歸京後、菊池氏とも大笑ひしたことでした。そんな因縁もあつたりして、オールの記念號には、何か書く義務がある、書く約束もしてしまつてゐる。ところが、昨日今日、つひに一字も書けてゐません。そして今日いやおうなく、こゝでおしやべりする約束にもなつてゐます。進退これ極まりながら、演壇に立つてゐる私です。正直、氣が氣ではありませんので、ろくなお話のできるはずもないのです。で、實は講演といふことは、終戰後は殆んどどこへもお詑びして出ないことにしてゐます。ところが、この婦人講座の廣告が出たとみえ、最近、家に來る人が、「私はあなたのいふことを信じてゐたけれども、あなたは矢張り講演するぢやありませんか」「それはたつた一つ、引き受けたのがある」「どうも私のはうだけ斷つてひどい」といふんです。これは是非、井上さんにも聞いておいて頂きたい。(笑聲)
 どういふ譯で井上秀子女史だけ贔負をするのか――井上さんが非常に美人ででもあつたら寃罪を受けるところなんです。(笑聲)實は今を去ること――井上さんの年も僕の年も判つてしまひますが――東京毎夕新聞の駈け出し記者として、家庭部兼學藝部に二年ほど勤めてゐたことがあります。あすこは三上於菟吉氏も居、それが辭めて尾崎士郎氏が入り、尾崎氏が辭めたところ私が入りました。家庭婦人部にも文壇にもなんの經驗もぼくは無かつたんです。實は入つて一月位は途方に暮れてをつたのであります。途方に暮れると、目白女子大の井上さんの所へ行つた。すると何か話してくれました。時には折角日曜のお休みのところを、お宅迄伺つたこともあります。當時の駈出しの新聞記者として、生涯忘れ難い嬉しさであり、今でも一つの恩とすら感じてゐるんであります。
 もう一つ、その頃の思ひ出で、忘れ難い人は亡くなつた有島武郎氏であります。あの人の面會日は金曜日でしたが、その金曜日でも近頃は面會謝絶が多いから、恐らく會ふまいと聞いてをつたのですが、駈け出し記者の盲蛇に怯ぢずで、お訪ねしたところが、ヒヨツと快く應接間へ通してくれました。そのとき「父性愛について」といふやうな談話をしてもらひました。ところがぼくの覺つかない筆記の手許をみて、「君はまだ新聞記者は此頃なんだね」と訊かれ、「はい、さうなんです」「ぢやあ、ちよつと見せ給へ、ぼく見てあげる」といつて、鉛筆で書き足して下さつたりした。それを私は非常にありがたく思つたんです。そして又、お子さんの寫眞をおねだりしたんです。すると、ちよつと考へてをられたが、「探してみませう」といつて隣の部屋へ行かれました。あすこは後に平凡社の社屋になつた家で、有島生馬さんが住んでをられた麹町六番町の舊旗本の大きな屋敷なんです。應接の隣りの書庫のやうなところへ欅戸をガラツとあけて入られた。窓にカーテンが垂れてゐたが、明りとり位に開けて、とつかうつしてをられましたが、やがてストーブの傍へ行かれて、その中の紙屑の中からお子さんの寫眞をもつて來られました。そして「じやア」といつて、私に渡されたもんですから、いそ/\社へ歸つて來て、それを婦人欄に載せたわけです。すると、それから十日位經つてから有島さんは輕井澤で例の婦人と心中された。これはあの時分としては大きなニユースでありました。その時分の新聞は、夕刊に婦人の素性がわかるか、わからないか、とか、刻々に入る電話をとつて何版におろす、とかいふやうなことで、戰場のやうな騷ぎを新米記者のぼくはぼんやり眺めてゐたものです。
 數日の後です。社會部の記者達が集つて、その時の功名話やら苦心談をしてをりますので、私もなにげなく、十日ほど前に、有島さんを訪ねた話をしますと、「あゝ、君、何かとつてゐたね」「あの時の寫眞、ストーブの中の紙屑の中から出してくれたんですよ」といつたところが、後に朝日へ行きました岡部齋氏といふ辣腕な社會部記者が愕然としまして、「あゝ、君は新聞社の飯を食ふ資格がない、君、もうよせ」といふんです。どうしてだらうと思ひましたら、「大體、子供の寫眞をストーブの紙屑の中から出す理由があるか、それを目の前で見てゐながら、何故その時、ピンとこないんだ」といふことなんです。さういはれゝばさうなんですけれども、その時はピンともスンともこない程の僕はまあその、新聞記者だつたんです。(笑聲)
 その時分記事に困りますと井上秀子女史の所へ行つて談話を頂いた、といふ曾て大きな借財がありますので、どうもその井上さんが今日、齡七十になんなんとしながら、はる/″\奧多摩迄、來られまして、慇懃にいはれますと、どうも、僕、お斷りが云へないんですよ、つまりさういふ譯なんですけれども、一般には諒解してくれませんので、たいへん恨まれたのでありますが、それより、去年は齒を一本かきましたが、今年は歸りに何をかくだらう‥‥(笑聲)
 さつきいひましたオールの二百號へ書くといふのも、隨筆かコント位なものなら‥‥といふことで、十枚から十五枚位のものを早くから構想はしてゐたのであります。それが出來ないで、じつは此處へ伺ふ前に文藝春秋へ寄りまして、さんざん頭を下げて來たやうなわけなんです。
 一體、作家が出來ない、出來ないとよくいふけれども、どうして、さう出來ないんだ、と編輯者ばかりでなく、讀者も質問したくなると思ひますが、正直、それは自分にもわかりません。なぜといふのに、決して書かない氣でゐるのではなく、むしろ陣痛のやうにうん/\いひながら産れないんですから、自分にも自分が判斷つきません。そこで、“小説にならない小説の話”といふのを今日の話題にして、オールの讀者へも謝まり、皆さんにも、ひとつ御理解していたゞきたいと思ひます。つまり頭の中で練つてもこねても、※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、135-15]まらなかつた小説の構成――孵らない素材をそのまゝ打明けてお話しするわけですから、もしその素材で、よし自分が書いてやらうといふ御奇特な人がありましたら遠慮なく書いてひとつうまくラストまで※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、135-17]めてみて頂きたい。(笑聲)
 十枚から十五枚位の輕いコントといふ腹案でまる二日間ほど頭におき通してみたんです。何か泡粒みたいな幻想やら着想は頻りに出てくるんですが、ペンの先にかゝるまでには、どうしても熟してこない。その間に、突如としてマツカーサー元帥が辭めるといふニユースがあつたんです。それが頭へくる、思索へ波長をもつてくる。マツカーサー元帥が日本を去ることは日本にとるとこれで終戰第一頁のエポツクだなと思ふ。といふやうな考へ方の延長が、この五年半を總て歴史として回顧する。その追憶の中からコントになりさうな幾つかの世相や社會斷片を拾つて篩にかけてみます。マツカーサー元帥が厚木飛行場に降りて、都の司令部へ入つたといふあの前後には、今思ひ浮べても異樣な人心の渦が思ひ/\な不安や動搖を描いたものです。てんやわんや心理の狂瀾でした。今になつてみると滑稽でもあるが、あの中に人間のほんとの姿も露出します。
 それは溝ノ口にゐた部隊にあつたといふ人聞きです。どつちみちアメリカが來れば命がないかも知れない、それよりは、といふので、四五人の士官がリードして、奧多摩かどこかへたて籠らう、上野の彰義隊、といふことになつたんです。例が古すぎますが、あゝいふ氣持でせうね。で、軍隊にあつた砂糖、罐詰、煙草、武器彈藥などを、各々が持ち出して、八王子附近の丘陵の横穴へ隱しまして、最後の一戰をやるといふ約束をした、といふことを終戰直後の農村風聞の中で聞いたことがあります。その連中は結局どうしたか、といふ事、つまりこのあとが小説になりさうなんです。
 あとは作家の想像とします。一應、軍隊が解散になつて、それぞれの生活が始まりませう。解散する時は、半年經つたら會はうとか、三月經つたら會はうと約束してゐたんでせうが、そのうちに仲間の一人が横穴にある物資が氣になつて、樣子をみに行く。すると最初に入れたより煙草が大分減つてゐる、次に他の者が又、出かけてみると砂糖が半分位になつてゐる、それぢや俺も少し持つて行かうといふことで、銘々が來て銘々の考へで、蟻のやうに、生活の巷へ持ち出してしまひ、その儘、彼らの事業はうたかたとなり、各自のえらぶ生きる道が、ほんとの眞劍さを街の中に向けてゆく。
 これは固着した人間心理が起す現象とその分解作用を描いて、ちよつと短篇ものになるんぢやないかと思ふんです。ずつと古い話ですが、大正何年かに東京に大洪水があつたことがありますが、月島で洪水に遇つた人の話が丁度これと似てゐるんです。高潮がくる、といふので、或下宿屋の二階に皆、荷物を上げて陣どつたといふんです。附近の平家の人もその二階へ寄つてきたさうです。するとだん/\風がひどくなり、高潮があげてくるにつれて、水嵩が増してくる、一寸あがつた、二寸あがつた、といつて、その夜は暴風雨と戰つて夜の明けを待つてゐた、といふんです。その時、一つの二階に避難してゐる仲間といふものは、人間といふものは斯くばかり美しいかと思はれるほど、一つに協力し、お互ひに援けあひ、いたはり合つて夜を明かしたさうでした。
「お腹が減りはしませんか。皆さん、食糧は私が持つてゐます」
「大丈夫々々々。ぼくらはいゝから年よりや子供にやつてくれ」
「まあ、それでもこれを食べておきなさい」
 といふ風だつたんですが、さて、いよいよ水が引いてくると、
「それはあなたのぢやない、持つて行つちや困る」
「いや、これはおれのだ。これは家のだ」
「冗談ぢやない、命を助けられた上、人の家の物を持つて行くやつがあるか」
 といつたやうに、潮が引いた途端に、物と物の喧嘩をして別れた、といふんです。
 高潮は恐怖を與へたが、退くときは恰も「ゆふべの事を忘れずに、もう仲よく平和にお暮しなさい」といふやうにひいて行つたけれども、平和になると、そのあとの人間はかへつて葛藤を[#「葛藤を」は底本では「葛籐を」]起したり、お互ひを困らし合ふといふ人間性の一面がありますが、終戰後の社會心理と相似たものがありはしませんか。ちよつと誰かうまく書くといゝ短篇になりはしませんか‥‥と私、思ふんですが‥‥(笑聲)
 次にもう一つ素材をもつてをります。それも終戰後、あの世相を去ること遠からざる頃でありますが、一、二年經つて、やゝ落着いた頃、家内の茶道の先生が、その頃よくいはれた殺人的電車の中で目撃したといふのを聞いた事なんです。その先生は私共へ來られますと、あの時分のことですから、とても歸れませんので、山村の私共の宅へ泊つて、朝、歸られるんです。
 山村地帶の奧から炭の買出しがさかんでした。炭の闇ですね。小河内や氷川の奧から炭を擔いでくるのがもの/\しいばかり、何しろ炭には皆困つたものです。よほど後に何時か江戸川亂歩氏に聞いたら、「僕の妻も氷川ひかはのはうまで些細な炭を買ひに行つたもんだよ」といふんです。それなら僕の所で下車してくれゝば中つぎになつたのに、といつて笑つたんですが、同時に職業的な女の人や少年たちが、背に一俵、二俵づつ背負つて新宿迄くると日當になつたのも當然でせう。
 その時分ですな、背の高い人たちがさかんに逍遙してゐるのに、パンパン孃といふ蝶々が舞ひ戯れてゐるのが到るところに見られました。よくこの蝶々と背の高い人が立川附近ばかりでなく、もつと奧のはうへ泊りに行くんです。御嶽、鳩の巣といふはうには、溪谷に臨んだ、なか/\しやれた所がありますので、蝶々連れの背の高い人達が泊るにはいゝ所です。これが朝、歸つてくる。幾組も歸つてくるわけです。
 丁度、私共へ泊りましたお茶の先生が途中の驛でやつとこさ乘りますと、たいへんなんです。
 片方は炭の買出しの女の人達、それから片方は蝶々と背の高いアベツク達、その中にお茶の先生が入つてゐる。(笑聲)ちよつとコントラストが面白い。これは築地の小劇場あたりの小場面になりさうでせう。(笑聲)背の高い人と蝶々、鼻の孔を眞黒にした女の人達――かういふ舞臺裝置です。それで電車が動き出したんです。
 動き出すうちに、背の高い人が自分の腕にとまつてゐる蝶々に、そこいらの炭俵に腰かけたりしてゐる吉良上野介みたいな顏をしてゐる(笑聲)女の人達をゆびさして、「あれはなんだ」と聞いたらしいんです。蝶々は「あれは炭の闇屋よ」と輕く答へたといひます。すると、炭俵に腰かけてゐた女の一人が「おまへさん、今、なんていつたの」といつたんです。
「私? あんた、炭の闇屋だから炭の闇屋だといつたのよ、どうしたの、それが‥‥」
「なんだと‥‥」
 といふ譯ですな。
「わたしや、炭の闇屋をしてゐるけれども、お前さんみたいな變なものは販賣してないんだから‥‥」(笑聲)
 するとこの蝶々のはうも一匹ぢやありませんから、幾匹も陣形をとりまして、
「何を賣らうと、私のものならかまはないぢやないか、大きなお世話だ。(笑聲)お前さんみたいに闇を潜つて眞黒なものを賣つてゐるんぢやないんだ」
 すると黒いはうの蝶々團がきゝません。
「闇をしようと、黒い物を賣つて、黒い道を歩かうと、私はかう見えても戰爭で夫を死なしてゐるんだ。何人もある子供をこんな女の痩腕一つで育てゝゐるんだ。それでも私は女の操はもつてゐるんだよ。お前さんみたいな變なことはしないよ」
 すると蝶々のはうも顏を赤らめまして、「生意氣なことをおいひでない、お前ばかりが女の中の女みたいなことをいつてゐるけれども、私だつて夫を死なしてゐる、私だつてこんなことやりたくないけれども、夫の年寄りがゐる、まだ小さいのがゐるんだ。此所にゐる者は皆、さうなんだよ、誰も好き好んでこんなことをやつてゐるんぢやないよ。お前ばかり立派なやうな口をきくんぢやない」
 女と女が貞操といふ問題について、殺人電車の中で鎬をけづり出したんです。會場にも女の方がたくさん見えますが、女の人は相手の肺腑をささうとすると實に鋭い言葉を出すさうですね。聞いてゐても胸の痛くなるやうな言葉が飛ぶんださうです。
「自分は闇の女こそしてをれ、女そのものは賣らないんだ」
 といふと、
「自分ばかり女だと思ふな、自分達にもかうかういふ事情があるんだ」
 といひ返す。戰爭の慘禍にあつたといふ原因は同じなんです。兩方共、夫を死なしたとか、年寄を抱へてゐる、子供を抱へてゐる、それで食ふに食へないから、かうやつてゐる、といふやうな、感情の上で火花を散らしてゐる。それを眞中でポカンとみてゐた背の高い人は、何を白い蝶々と黒い蝶々が喧嘩してゐるのかわからないやうに、びつくりしてみてゐた、といふんですよ。ほかの乘客もすべてシーンとしてしまつたといふ事です。
 これは深刻だし考へる問題をふくんでゐると思ふんです。これは小説だと思ふんです。ヨーロツパ、フランスあたりのいゝ腕の作家に書かしたら、コツクリといゝものが書けると思ふんです。
 これは女の兩方の苦痛の問題――誰が解決してやればいゝか、といふと、政治家でも社會家でも誰でも手がつかない、と思ふんです。これに手がそめられるのは文藝家だと思ふんです。この喧嘩の仲裁をするところに小説が書けると思ふんです。それをまづ頭へ舞臺裝置から人物から並べてみると、女の人が女の人を相責めるといふ火花を散らすやうな場面はなか/\愉快でしたね、これはきれ/″\に頭へ浮かんで來て興味があるんですが、どうもよく考へてみると書きにくいところもある。本當に掘り下げていくには時期尚早なんです。第一、これは十枚ぢや書けないと思つちやふんです。それで半日暮れちまふ。結局、止してしまふ。
 他に何か、と素材をさぐり直します。思ひ出したのは僕の知人のO氏です。もと神戸あたりで、ネーブル(へそ)――といふ眞面目な喫茶店をやつてゐたらしいんです。ネーブル(へそ)なんて妙な喫茶店ですが‥‥(笑聲)それが戰爭中徴用されたんでせうか、滿洲へ行つて、滿洲の學校で先生かなんかやつて、終戰で歸つてきた極く眞面目な人なんです。終戰後の日本へ歸つてみたところが、あたり荒寥、人心はバラ/\、世の行く末もありやなしや、といふ中へ立つて、何をしたらいゝか、と考へたんです。とにかく終戰時の空氣に於ては一番の極惡罪人みたいな極印を押されてしまつたのは、あへなく學徒として出陣して戰死したり、あの頃の言葉で「若櫻」といはれたりして特攻隊で若い命を落してしまつた人達であります。さうした人達の家を訪ふ人もない、さうだ、自分はその訪ふ人もない門を訪うて、殘つてゐる人々を慰めて歩かうと發心したんです。そして海軍の終戰事務局かなんかで特攻隊の亡くなつた若い人の姓名や郷里の住所などを調べまして、自分の氣持を述べて及川さんの署名を書いて貰ひ、司令部の許可もとりまして、順序をきめて始めたのであります。そして、とにかく終戰翌年から今日迄、まだ歩いてをります。九州の果、四國、山陰、山陽、北海道、青森縣、東北、北陸、全部を能ふ限り脚で歩いてゐます。最低の生活で、愈々食べられなくなつたら働き/\ながらでもやらうといふので、初めのうちは自轉車に箱をつけて、晝間は巡禮し、夜はその箱の中へ入つて寢るやうにしてゐたやうです。又その箱へニユームの鍋などを入れてやつてゐたらしいんですが、四國、中國あたりへ行くと、特攻隊で亡くなつた人の家が山又山みたいな所にあるので、とても自轉車では行けないんで、竹の杖をついて歩くことにしたんです。
 その人が、ゆくりなくも私の家に一晩泊つた時、いろいろ述懷してゐましたが、「この頃は大分世間も落ついて來ましたし、遺族の人にも一つの理解なり、諦觀なりがもたれるやうになつたんですが、あの終戰直後の世相の中では、遺族の人達も泣いても泣いても泣ききれない、この恨みをどうして誰に訴へる術があらう、といふ氣持でした」といふことなんです。さういふ所へO氏が行つては話相手になつて慰めたり、佛前に供養したり、殘つてゐる老人、兄弟を慰めたりするんですが、中には行くや否や途端に怒つちやつて、兎に角俺の大事な玉のやうな一人の息子を死なしてしまつて、一體どうしてくれるんだ、といふ劍幕の人にも幾人となく會つたといふんです。陛下をはじめ、あの時分の軍の指導者の名前まで言つて、それを貴樣などが歩いて、慰めるといふんだ、といふわけで、唾を吐きかけんばかり、足蹴にせんばかりな目にも度々會つたさうです。あの直後の人心ではおそらく尤もだらうと思はれます。
 そんな無數の苦しい目にあつたことを聞いて、私はO氏へ、
「あなたは、よく、それを堪へて歩いてゐるね」
 といふと、だんだんそれをやつてゆくうちに世の中も落ちついて、みんなも泣く涙も涸れて、前のやうではなくなつた、といふのです。
「私が慰問して上げると、喜んでくれる人もありますが、振り返つてみると、私は頭からいきなりガミ/\といはれて、もうその手にのるか、といふ風に唾されたり、足蹴にされたりした時のはうが、非常に張合ひがありました」
 といふのです。どうして? と聞くと、
「さういふ遺族に、この野郎、俺の息子をどうしてくれる、といふふうに、足蹴にされたり罵倒されたりすると、一つ足蹴にされると足蹴にされながら、これだけ陛下にお代りして陛下のおん罪が輕くなるやうに、腹の中で思ふから嬉しくなる、一つ唾をかけられると、曾ての軍閥や陛下のなされたことの罪滅ぼしになる、と思ふから張合があります」と云ふのです。
「君はさういふ氣持で歩いてゐるんですか」
 と、私が心打たれて、驚きの眼をみはりました所、
「他になんの樂しみがありませう」
 といふことでした。
 私は驚いたんです。正直、O氏の姿が地藏菩薩か何かみたいに見えました。終戰以後、本願寺をはじめ、あなたこなたの宗教、新興宗教を見ましたが、その中に本當に宗教人らしい宗教人を私はまだ見てをりません。ところが宗教といふやうな事はおくびにも口にしないO氏の言葉を今もつて忘れることができません。俺の可愛い息子を奪つてと、痛恨の唾を吐きかけられ、足蹴にされると、それだけ陛下の御罪が輕くなるといふ考へ方は、何といつたらいゝでせう、それが嬉しいといふO氏を私は見まもりました。この人は神戸の陋巷に住んでゐて、子供が三、四人あります。奧さんが市役所の自由人夫かなんかになつて、道路の掃除みたいなことをしてゐて、うちの人は變りもんだから當にしない、といつて、自分の働きで三人の子供を中學へ入れてをります。御亭主は今もつて歩いてをります。東京をよぎる時に、どうかして私の所へ一晩泊るんですが、或時、餘りにつらい家々ばかりお訪ねするのでと、顏を沈めて、あゝ、と一人で溜息をついてゐた時があります。
「Oさん、疲れたんぢやないか。あんた、折角、東京を通るんだから、何か自分で希望してゐることでもないか」
 と聞いてあげましたら、
「はあ、なんにもありませんが、一度、笑つてみたうございます」
 といふんですな。笑つてみたい、といふんです。私はなるほど、尤もだと思ひました。その時は水戸から土浦へ行く、といふので、途中、東京でエノケンでも觀て行つてはと、切符かなんか用意してやりまして、發つて行きました。竹の杖をついて發つて行きました。それから暫く沙汰がありませんでしたが、鉛筆の走り書きで、ハガキが來まして、その節、折角エノケンを觀て行くやうにとのことで觀ましたけれども、矢張り笑へませんでした。と書いてありました。
 といふやうなわけで、この二日間、やつたんですが、たうとう十五枚のコントは出來上らずじまひ。その上こゝでも、※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、145-8]まらない話ばかり、きれ/″\に喋つてしまひました。小説が出來損つた上に、講演も※[#「纏」の「里」に代えて「黨−尚−れんが」、「广」に代えて「厂」、145-9]まらずでは困りますから、※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、145-9]まりをつけ退きさがります。‥‥むづかしいですね、※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、145-10]まりは、やはり‥‥。
 考へてみると、僕が作家として描きたいといふものが、他の作家たちと根本的に考へ方も違ふかもしれません。そこが又、小説になりにくいんですな。なりにくいものを僕がもつてゐるのかも知れません。どういふものが僕を作用してゐるか、といふと、僕の頭の中には始終――ちよつと大袈裟なことをいふやうですが――宇宙觀といふものがあるんですよ。さういふものをもつて始終をみてゐるんです。ですから第一話の溝ノ口の兵隊さんが彰義隊をやらうとした、といふことに着想して書かうといふのは宇宙觀ですよ。現實と思つてゐる秒間にも現實は動いてゐる。固着する間斷もないといふ事なんです。咲いたと見てゐる間にも櫻の花は散る姿へ刻々と動いてゐるといふ眼です。
 人と人との對話もです。そこにはたゞ二つの生命が向ひ合つてゐるといふことだけしかないんです。二つの生命體がある、といふことしかない。
 アメリカ思潮といはれるプラグマチズムにも、空觀の把握が云はれてゐます。われわれの宇宙觀といつたやうなものと似てをります。
 ところが近代人に一番缺けてゐるのは宇宙觀ぢやないかと思ひます。餘りに現實に重心をおき、現實に固着する結果です。それを、そんな小むづかしくない、小説のうちに、たとへば片々たる短篇のうちにも私はたゞよはせてみたいし、それがこつくりと出來たらといつも思ふことなんです。しかしいくら温めても、孵化しない無産卵ばかりでは、何とも仕方がありません。
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【‥溢れるやうな拍手。靜まると‥】あいにくと徳川君は數日前にヨーロツパへ行つてしまつて、(笑)講演はぼく一人みたいな恰好になつて、(笑)助太刀の杉本君のお話も、いつもの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪程度より少いし(笑)横山君も繪さへ描いてしまへば、さつさとひつこんでしまひました。講演べたな私は、まことに畫家はうらやましいな(笑)何もしやべらずにゐられる(笑)と思つたのでございます。(笑)
 實は先ほども、この大會に地方からお出でになつた讀者代表の方たちとお晝のお辨當を一緒にいただいた時、その中に週刊朝日の讀者欄で話題を賑はした「妻を語る」の投稿者がをられた。(「幸福な奧樣がた」4月5日號、齋藤由起さん)それは「私はいま一人です。あの妻を語るの頁をめくる毎にさまざまな思ひにとざされる。」といふやうな御感想のものでありますが、ぼくもあれを拜見して、非常に面白い――といつては何ですが、何か胸うたれるものがありました。
 お晝の席でその御婦人との話の中で「しかし人生のことは、とかく向う河岸がよくみえるものぢやないですか」と何氣なく申上げたのですが、それと同じことを、僕もいま横山君や杉本君たちを、作家からみて、畫家はいいなあ、とつい思つたわけであります。(笑)
 大分前のことですが、仕事に追ひつめられ、どうしても書けないので、福島縣の飯坂温泉に行つたことがあります。が、そこへ來ても書けない。七日間ぐらゐは壁に突き當つたやうに、徹夜を續けても書き出しがつきません。朝々、女中さんが部屋を掃除に來てくれますが、机の上をみられるのがきまりが惡いほど一字も書けてゐない。しまひに、女中さんまでが「いつそのこと、早くおやすみになつて、氣を變へて、机にお向ひになつたら‥‥」といふので、飮めないビールでも飮んで寢ちやはうかと思ひ、夕方女中さん相手に、一本飮んでゐたわけです。
 すると、どこからかバカヤロウとか、極道者とかいふやうな、あの地方の方言で、よく判らないのですが、とにかくひどい惡口らしい大聲が聞えるんです。だれにいつてゐるのか、初めはまさか自分がいはれてゐるのだとは思ひませんでしたが、部屋はちやうど摺上(すりがみ)川の川べりで深い斷崖のガケぷちになつてゐる。その對岸に七、八人の影がみえるんです。そしてみんな向う岸からぼくの部屋を見てさわいでゐるらしいのです。(笑)ちやうど夏で、カジカの鳴く灯ともし頃です、向うから見ると、温泉宿で二人の男女がさしつ、さされつ、ビールを飮んでゐる。(笑)何も近くでみれば女中さんだつて決して美人でも何でもありやしませんが(笑)遠くからみたら、さだめし、うらやましい情景にもみえたのでせう。そのとき、しかしぼくは、ああ、さうだつたかと考へさせられました。
 ぼくにすれば、毎日毎日何も畫けない[#「畫けない」はママ]懊惱をくり返しながら、向う河岸を見てゐます、そして、毎日、あの米澤街道の奧から材木や野菜を積んだ車が、健康な太陽の下を朝早く福島の町をめざしてどんどん通つて行く、それを眺めては、一字も書けてゐない原稿紙と見くらべて、何で自分はこんな業にとりつかれてゐるのか、人の寢るやうな時間に起きて紙クズカゴを埋めてばかりゐるのか(笑)本當の人生、人間らしい生命の喜びといふものは、向う河岸を通る人にあるんじやないか、とその人たちの生活をむしろうらやましく見てゐたんであります。
 ところが、その夕方、向う側からは、ぼくの方がうらやましくみえるのでせう。さういふ經驗がありました。じつさい、お互ひの生活のまはりには、よくかういふことがあるんぢやないでせうか。
 けれど、ぼくには、ものを書くといふ能しかありません、作家の業を今も一すぢにつづけて來て、新・平家物語も、いつか三年をこえ、かへりみて時々茫乎としたおもひにとらはれますが、またよくもこのやうな長篇を讀みつづけてくださるものと、讀者諸氏の御支持とべんたつにもしみじみ感じているのでございます。

 稀には現代小説を書いてみませんかと人にいはれることがあり、私自身もそんな氣をもたないこともありません。けれど過去を書いて現代を反照してみるのもおもしろいし、それの意味もあると信じてゐます。過去といふと人はもう無用な昔と觀念しやすいのですが、やはり現在につながつたもので、歴史小説といふのは、たとへていふなら、自動車のバツク・ミラーみたいなものではないでせうか、と私は思ふのです。
 バツク・ミラーは自動車の主體ではありませんが、行動と思考のひとつの眼であります。進歩的であればあるほど、さうした後ろも見つつ進むといふ、時には反省の眼もあつていいんではないでせうか。
 例へば、戀愛といふ問題。終戰後には、ひところ貞操とか、夫婦生活はかくあるべきもの、などといふことが、座談會などにもよくとりあげられてゐました。夫婦生活の仕方まで(笑)あちらさんのおセツカイをやかれたり、教へられたりしたものであります。また、大事な處女性といつたやうな論題でも、いとかんたんに座談會などでかるがると、「そんなものに執着する必要はない」なんて、かたづけられました、杯のあひだの酒のはなしにですね。しかしよく考えてみると、さう語つた人たちだつて、だれも責任をもつてゐるわけではありません。極めて進歩的な貞操觀や戀愛論の放談を信じて、かりにそれを實踐した女性があり、その女性が後に不幸なめに落ちたからつて、だれも責任のもちてはないんです。
 バツク・ミラーは、つまりさういふときの考へ方にちよつと自己に反省も加へてみる、ひとつの資料になるだらうとおもふのです。そのやうにして中庸のとれた、堅實な前進がほんとの進歩ではないかと私は考へるわけであります。
 もつと分りやすくいひますと、思考の合せ鏡です、婦人方がよくなさるあのお化粧のときの合せ鏡ですね。現代小説を前の鏡とすれば、ぼくらの歴史小説は後鏡といへます。その兩面の中に浮いた自分に最も似つかはしい調和のポイントをとつて、裝ひの美と均衡を保つた新しさをお化粧にも創造してゆく。生活にもさういつた氣もちをたたへてゆく。ま、そんな中に過去を書く小説などもあつてよい意味があるものと信じるわけであります。
 平家物語といふ、一つの題材をとつて、そして、思はず三年を越してしまつた今日、私は、過去を書きつつ、やはり今日と重り合つて、日本人のよさとか短所とかといつたことも、いろいろ考へさせられてをります。
 また、こんどの小説の場合はべつに主人公といふものもきめてをりませんで、あの頃の約半世紀にわたる“時の流れ”を書かうとしてをります。時の流れといふだけでは、たいへん漠としてをりますが、平家を中心とした過去、現在、未來をとほして、人間社會の浮き沈みを今日から眺めようといふわけでございます。
 おたがひの周圍をふり返りましても、この十年ぐらゐ、世界も世間も、烈しい變り方をした時代はまあ過去にもありません。その中でおたがひは、大きな生きた歴史を體驗してきました。そればかりでなく、皆さんの家々でも、一人一人の肉親の間にも、その歴史につながつて、みな生々しい傷手を殘されてをられるでせう。さういふ深刻な國民的體驗を經てきたおかげで必然的に、たれもが歴史や古典の鑑賞にもひとつの讀み方が生じてゐるとおもひます。つまり我々のなめた苦いかなしい體驗にひきあはせて、身に即して歴史を見るといふ氣持に必然的にならざるを得ないのは當然であります。

 一體、文學といふものは、自己の表現であつて、自分の意慾を欲するまま書いて僞りや挾雜を[#「挾雜を」はママ]交じへないといふのが、文學至上的なたてまへであります。だから讀者を意識したり影響を考へたりするのは、もう文學的な作家の態度でないといふ意見もあります。けれど新聞小説だの週刊誌の連載などになりますと、當然、對象は百萬二百萬といふ讀者層がいふまでもなく對象でありまして、讀者を度外視した文學者のための空欄なんかをわざわざ新聞や週刊誌が提供するわけなどありません。
 作家もまた新聞小説とか雜誌の仕事を引受けるときには、すでにそのページのもつ社會的な使命といふものを承諾してゐるのでありまして、從つて文學至上的な固執をもつたり批評をうけるいはれはないのであります。べつにその使命を果しながらも一つの文學形式を創造しなければなりません。
 新・平家物語もそれの例外ではありませんです。大いに讀者を意識してをります。むしろ讀者と共にといふ氣もちすら明け暮れもつてをります。しかし、私は私なりのべつな新な文學形式と云ひますか、小説の形といひますか、とにかく、これを以つて何らかの轉機を生み出したいといふ良心と苦吟はつねにそそいでをります。それが新・平家のうちでもいろいろな形で構成されますので、あるひは、これが小説ではないといはれましても、かまはないとおもつてをります。小説といふものは、かういふ形でなければならないなどといふ決まつた方程式なんかは決してないはずのものでございますから、要するに、自分の最善をつくしてゆくといふ以外にはないのであります。
 そのやうに、紙面のもつ使命の容易ならないことを考へさせられました一つの例として、こんな事もあります、餘談の餘談になりますが、週刊朝日の編集長、先ほど、御あいさつをされたと思ひますが編集長の扇谷正造氏です。その扇谷氏が、週刊誌の擔當になつたとき、まづ、どうしたら今日の讀者へ、日本中の健全なる家庭に、自分の編集する週刊誌を廣く讀ませることができるだらうか、何か、名プランはないだらうか、寢ても起きても、プランを考へてゐたけれど、なかなかいいプランも思ひうかばない。ある夜はそれで寢られなかつたりしたさうです。そしてある朝、朝めし前に家をとび出して、やはりプランを考へながら歩いてゐたさうです。そしてふと氣がついてみると、自分は自分もわからないうちに、世田ヶ谷の八幡樣の前で、拜んでゐたさうです。どうかいいプランを授けて下さい、と拜んでゐたといふんですね。(笑)その時、彼はかう考へたといふことです。おれも神さまにプランをさづけてくれなんて拜むやうでは、ジヤーナリストもおしまひだ。日頃知識人を以て任じながら恥しいことだ、いまいましいと思つたのださうであります。
 いつか扇谷氏からそんな述懷をきいたとき、私は宮本武藏が一條下り松に臨むあの場面をおもひ出しました。一乘寺山から下り松の決戰にのぞむあのときの武藏が、八神殿の前でおもはず手を合せて、今日の戰ひに勝たしめ給へと、拜殿のワニ口を振りかけて、思ひとまつた話があります。武藏もその朝は、すでに死を決して來たのですが、それなのに、勝たしてくれ、つまり生きたいために、神頼みするのは矛盾していやしないか、さう氣がついたので、振りかけた鈴を振らずにかけおりて行つたといふ話でありますが、人間といふものは、古今、心理のうごきは一つにうごくものとみえます。何か、生涯の仕事のため身も生命もうちこんでゆく時は扇谷氏のばあひでも、三百年前の人でも、同じやうな心理になるのではないでせうか。私はおもしろいと思つたのであります。
 そしてその朝、扇谷氏が、その八幡樣の歸りに思ひついたのが、御承知の、今でも週刊朝日の誌上で呼び物の一つになつてをりますロータリーといふ、あの頁ださうであります。私はあの一ページに目がゆくとき、ひとり扇谷氏だけでなく、およそたくさんな新聞雜誌をとほして、その一ページ一ページの蔭に粒々辛苦している現代ジヤーナリストのなみたいていでない苦勞ばなしや苦心をあはせて感じてくるのであります。そして自分に與へられてゐるスペースにたいしても、その貴重さと責任を覺えないわけにゆきません。なほ、その作家をしてよい物を書かせて十分な使命を果させようとしてゐる蔭には、編集はいふまでもなく、業務とか製版とか校正とか工場全部の人までの樂屋の努力も拂はれてゐるのであります。容易ならないものを自分も三年ごし身に知りながら執筆してまゐりました。そして今夜、かういふ會にめぐりあつて、直接、たくさんな讀者諸氏にお目にかかることは、何よりも感慨無量であります。御支持を給はつた諸君にも自然感謝のおもひがいつぱいになつてまゐります。
 讀者の反響といふものは、私ばかりでなく、作家をどんなに勵ますかしれませんが、作家はそのためには自分の健康さへも、危險な線にまでもつていつて自分を沒しきるものです。それが私たちのしてゐる仕事の特有性だと思ふのであります。
 よくいはれる言葉に、大衆は低い、低俗が大衆だ、といふことになつてゐますが、さうでせうか、自分は前から大衆は大知識だと考へてゐますし、今もその考へに變りはありません。といふと、大衆をおだてて甘やかすやうに聞えますが、日本の大衆は、いはば日本そのものであります。日本のレベルと共にそれは世界的に低いかもしれません。かといつて、大衆の一人々々はいちがいに決して低俗とみるわけにゆきません。たとへば、ものを書くとか、歴史の知識とかいへば、私はいささか大衆の水準より知つてゐるものや考えをもつてゐるかもしれません。けれど、大衆の一人々々はまた何か私以上なものをかならず持つてゐるのであります。その職業の上でも、實生活の苦勞や辛酸の上でも、人間的ないろんな體驗でも、何かしら一つは、一作家の私よりはまさつたものをきつと持つてゐます。それが無數に相寄つてゐる大衆とよばれる對象にたいして、私はおそれをいだかずにゐられないのであります。大衆は大知識なりとおもふのであります。
 その大衆の中には、つまりこの國の民衆には、自然長い歴史と文化のうちに育まれてきたいいものが多分にある。それを私は小説のうちにも見出すのでありまして、何も、高踏的に讀者に與へるとか、民衆をひきあげるとかいふほどのものではありませんし、氣概をもつてもをりません。いはばひとつの“呼び水”であります。
 呼び水といえばロマンな情調でも、人間感情の憎惡や批判でも、文學や詩はすべて呼び水作用のものでありますが、私もその方法をとつてすでに大衆の中にあるものへ、歴史物語をもつて呼び水をさしてゐるにすぎないのであります。話がついいろいろな方に亙りましたが、新・平家物語をおひきうけした當初のことについて、終りにもう一言述べさせていただきます。

 最初に編集部からお話がありましたのは、いまから五年位前のことでした。初めはかう長くは書くつもりでなく、壇ノ浦あたりからと思つたのです。壇ノ浦の後、勝者の源氏方の陣營から幾多の人々が法然上人の門へ投じてをります。なぜ勝者の陣から世をはかなむやうな人々が出たらうか、そこを書いてみたいつもりでした。その主題を編集部の方と話合つてゐるうちに、いつそ書くならばと、編集の方のお考へも自分の意欲もだんだん變つて、つひに、平家の興りからそして平安末期の世相やら時代の轉換する俤へ、保元、平治もつらぬいてといふふうに、大抱負になつてしまつたわけであります。
 ところで、平安朝といひましても、一般のかたには觀念だけで、はつきり、どんな時代といふことは、ピンとこないとおもはれますが、大體、桓武帝が京都に都をたてられたときから安徳天皇までの四百年間を平安朝といふのであります。この東京にしてみますと、東京に徳川家康が入つて、江戸城が開かれて、この街が開拓されて今日にいたるまでよりも、もう少し長い期間です。その四百年間の中期頃にはあの有名な紫式部の「源氏物語」が書かれ、清少納言の「枕草子」とか、「榮華物語」を書いた赤染衞門などといふ才媛が輩出しました。そして、けんらん優婉いうえんな藤原文化が現出したのでありまして、四世紀間も戰爭もなく、一つ國の人間が暮らして來たといふことは、西洋史にも、中華の歴史にもみないことですから、藤原文化といふものには、それだけでも一つの特徴があるんです。けれど、どんな特徴のある文化でも政治でもそれが熟れ盛るころになりますと頽廢期に入り、ひどい惡弊も生じ、やがてその腐つた土壤から平家がおこる、つまり權門、貴族の下にひしがれてゐた地下人が歴史に登場してくるのです。その中心人物が御承知の平清盛だつたのであります。
 新・平家物語は、その清盛の青年期、二十歳頃から書き出しまして、今、彼の死に近づいてをります。つまり今日までのところ約四十何年間をとにかく書いて來たわけであります。
 もともと、平家物語といふものは、日本の古典として、源氏物語と共に、有名なものであります。ですから、これまでの研究家の累積やまた古典そのものを、いたづらに冒涜するやうなことはないやうにと、留意してをります。もとより私のは新・平家とうたつてゐますし、今日の讀者を對象としてゐますので、内容、文章、構成、ことごとく古典とはちがつてゐます。けれどごくわづかな假想人物を傍系に加へてあるほか、ふつうの時代小説のやうな架空人物だの、しひて史實をゆがめるやうな作爲も餘り用ひてをりません。
 史料としては原典の平家のほか、當時の公家日記やら隨筆、物語など漁つてをりますが、仲々新しい發見などはないものであります。ただ一册の史書にしましても、讀み方によつては作家の眼ではかう見えるといふ見方があるものであります。
 たとへていつてみますと、私たちはこの二つの目で日常の事物なんでもみてゐるつもりであります。けれど案外、それは粗漏で、じつはぞんざいな見方に慣れてゐるのぢやないかといふことです。かりに、山は何色かと訊かれるとします。たちどころに緑、青いと答えます。しかしよくみると緑は緑に違ひないが、どういふ種目の緑によつて構成されてゐるかといふことをつい考へません。ジツと見つめると、初めて一つの山も、淺緑、深緑、暗緑、白緑、それは十種も二十種もの緑の系統が組み合はされてゐるものだと氣付くでせう。今夜、この歌舞伎座の中を見てもさうです。何か白いものが、あつちこつちにいつぱい見える。扇子も白い、ワイシヤツも白い、婦人の顏も白い、手袋も白い、とみなかう單純に白いと見てゐるのでありますが、しかしその白さの中にも、みな違ひがあります。家庭でみる膳の上の瀬戸物の白さ、その一つ一つの白も、よくみるとみな違つている白であります。古陶磁などを見る美術の眼もそれを直視して、すぐ何時代、どこの燒き、どういふ系列とわかるのであります。作家の目で見るといふのも、古書の中の史實からその矛盾や疑問をひき出すのもつまりさういふことなのであります。
 もう一つ、私は、いつ終るともつかない氣もちで書きながら、新・平家はかう終らせようといふやうな一つのラストポイントはいつもあたまにえがいてをります。古典の平家物語では壇ノ浦が終りですが、私はもう少しその先まで書いてみたいと思つてをります。
 いまから申しても、はつきりさうなるかどうかはわかりませんが、一つの考へを申しますと、一昨年でしたか、朝日の人々と一緒に九州地方へ旅行したことがあります。御承知のやうに各所に平家の遺跡がある。平家村など各地を歩いたあの旅行中であります。九州で稗搗節といふ歌を聞いたのです。歌詞も古く非常に古雅で内容がおもしろい。壇ノ浦で敗れた平家が九州の山奧へ逃げこむ。その一群は、宮崎縣と熊本縣にまたがる五箇ノ庄といふ有名な平家部落を作りましたが、その五箇ノ庄のもつと山奧に今、椎葉村といふのがあるんです。――この村も今度ダムの計畫によつて湖底に沈むさうですが――そこへいろいろ調査で行つた人が調べますと椎葉村も平家の子孫で、嚴島神社――瀬戸内海の中にある嚴島神社が、その椎葉の山中の山の高い所に祀つてあり古い言葉や遺跡文獻なども殘つてゐるさうです。そしてヒエツキ節はそこで昔から歌はれてゐた歌だといふことでありました。
 歌の意味は、平家が椎葉に逃げ込んだ時に、源氏方の那須の與一の弟の那須大八といふ人が、頼朝から追討を命じられて山また山へ追ひかけ追ひつめてゆく。そして椎葉山中に入つたのでありますが、そのうち、平家方の一女性と追討方の大將那須大八とが戀におちる。そのため追討の手もゆるんだでせうが、當然、鎌倉へ歸らなければ、那須一族は頼朝から罰せられます。で、むなしく戀人に別れて、大八は椎葉の山を去つて行く。その悲戀を歌つたのがヒエツキ節であります。
 その後、平家村の人々が月の夜だの稗をつく時に歌ひ傳へて殘つてきたのださうでありますが、私は、これは一つのテーマだと思ひました。大きくいへば平家と源氏といふものの二つの最後の姿がこれにシンボルされてゐるやうに考へられたのであります。
 人間といふ集團、この複雜で哀れな存在も、なるほど巷の地上ではすさまじい生存競爭と優勝劣敗をやりつづけ、源氏とよび平家とよんだりして、せまい地上をさらに二つの陣營にたちわかれまして、鎬を削り、或ひは骨肉相剋の血みどろをしたのでありますが、ひとたび、その世間からあの九州の山奧のやうな大自然の中にゆけば、そこには、平家も源氏もないのであります。敵味方となつて、憎み合ふ何の理由も見いだされなかつたのであります。あるのは、一つ太陽と、たれにも平等な自然のほゝ笑みがあるだけであります。追討に向つたますらおの心も何のためにここへ來たか、またさうまで人を憎みきらなければならないのか、自分でも分らなくなつたらうと思はれます。そして一つの戀といふもののかたちのなかに、愛情の中に、平家もなく、源氏もなく溶けこんでしまつた人間のすがたと、またそれをも、もぎ離されてしまつて、もとの地上へひきもどされてゆく人間の宿業とを、この新・平家物語の終りの方で書きむすんでみたいと、構想の一つにもつてゐるのであります。
 ところで、人間歴史の方で見ますと、勝者の源氏方も、またたくうちに、わづか二代を保つたのみで、また慘たる殺し合ひやら陷し合ひをやつて、頼朝、義經、頼家、實朝を初め、みな亡んでゆく、平家以上、源氏の末路こそ悲慘であります。これが、どうしても、人間の姿なのでせうか、作家はこの人間のありのままをも冷たくみつめて行かねばならない、‥‥といふ風に私は平家、源氏の末路を見くらべたり考へたりするのであります。
 然し讀者の方には、かういふことが耐へられぬらしくて、さきに黄瀬川での頼朝、義經對面を書きました頃から、私はもう六、七通讀者からお手紙をいただきました。「從來の歴史では、義經と頼朝とは互に憎しみ合つて、義經は非業の運命に追はれますが、あんな骨肉の不和はどうか書かないでください」といふのであります。(笑)然し、これには、私だつて非常に困る。(笑)これはもうあまりにも歴然とした歴史的事實でありまして、作家の私としてその義經の姿を書くのも辛いのでありますが、史上からこの事實を抹殺することは私には到底駄目なんであります。(笑)つまり作家は、冷い作家の眼をもつて時の流れのまま、流れの中に浮きつ沈みつするそのままを書くしかない。讀み進まれる皆さんも辛いことでせうが、書く私の方は、なほ辛いことを(笑)申上げる次第です。
 どうも大へん長くつまらない話でありますが、この機會に改めてお禮申上げておきたいのは三年の間、實に讀者の方から澤山の手紙をいただき、資料を送つて下さつたことであります。この町にはかういふ平家の傳説がある。あるひは自分の家にはかういふものがあると、家寶ともいふべきものをお送り下さつた方もあり、お手紙に到りましては、數知れぬのでございますが、何分にも毎週原稿に追はれ、ほとんど讀者の方には全部といつていいくらゐでありますが、返事を出してをりません。どうか御勘辯下さいますやうおねがひいたします。しかし御誠意と御べんたつとには、つねに感謝いたしをります。この上とも勉強しておこたへしてゆきたいと思ふばかりでございます。(拍手)
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 九年ぶりで、思ひがけない赤ン坊が生れた。私の年なので、晩實りすぎる。山本五十六赤ちやんより、二つも晩い。
 その前に、子どもは男女三人あるが、書齋仕事と赤ン坊とは仲が惡い。すぐ、あつちへ行け行けで、餘り抱いたこともなかつた。こんどは年のせゐであらう。産れ落ちるのからウブ湯まで側でまじ/\見まもつてゐた。
 どうもシワクチヤなものである。赤ン坊とはよく云つたり。だが小人島の老人みたいに見えるのはどうしたものだらう。まもなくクシヤミをする。驚いたのは、忽ち欠伸をしたことだ。それは、百年の眠りからいま醒めたといつたやうな悠久を大人に思はす天然な欠伸であつた。
やよ赤子汝れはいづちの旅をへて
    われを父とは生れ來ませし
 その日の父の愚歌である。正直、私はふしぎにたえない。三人兄弟が、即座に四となり、十人家族が、たちどころに十一といふ數になる。
 こつねんと、こゝに人權をもつた1といふ數が立つのである。數字といふものはあくまで起因と無窮數につながつてゆく科學基點の明確なものとばかり思つてゐたが、どうも人間の子の1は、突然である。1の前は、何なのか、どういふ微分數なのか、數學的に判定がつかない。佛教辭典は、父母未生前などといふ重寶な語をもつてゐるが、科學辭典だとどういふ語を牽いたら分るだらうか。女の子だが、まあよかつた。幸にして鼻もあり、眼も二つある。これが三つあつても人權は2でもないし、0でもない。しかし將來、どんな困り者になつても、確實に1であることもまた、何か恩惠すぎて、社會にすまない氣もしたことであつた。

 都會の騷音の中に明け暮れしてゐる人はみな欲望するにちがひない。「たまに靜かに居たいなあ」と。そして屈托事でもあると「靜かな所で、靜かに考へたい」とも思ふことがある。
 ところが、さういふ人を、欲するままに、ぼくらの住んでゐるやうな田舍の夜にでも置いたら、その人のあたまは、靜かどころか、妄念雜念ばかりよび起して、胸の騷々しさは、都音の中にゐるより烈しいに極つてゐる。
 たとへば、ぼく自身にも、經驗がある。きのふも、久しぶりで東京に出、博物館の田山方南氏や友人のO氏などと梅露庵のお茶によばれ、三疊臺目の茶室に坐つて、ふと思つたことだが「ああ、東京にも、こんな靜けさがある」と氣がついたことである。
 小隱は山野にかくれ、大隱は市に住む、といふが、たしかに市のなかにも、幽寂はあるものだ。いや、古いことばにも、
林泉、市ニ近ウシテ、幽サラニ幽
 なんて洒落れたことばがあるのを引いて、北京の茶館の聯に懸けてあるのを見たことがある。中華の都會人は、早くからかういふ境地を見出してべつな天地を樂しむ工夫を知つてゐた。
 丸の内何號街といふビル街の地下室で、道路面からわづかにさす明りで、他念なく、篆刻に耽つてゐる騷音裡の靜人の姿をふと見たことがある。ドアが開いて、たれかと思つたら、山水樓の主人のM氏であつた。
 また、毎春やつてくる鶯もよく都會の靜所を知つてゐる。氣をつけて見れば春は、不公平なく都塵のなかにも訪れてゐるし、また、ほんとの靜寂といふものも、われら凡夫の身には、實は都心にあるといへよう。

 鶯の聲を聞かないうちに、よそから鶯餅をもらつて喰べ、何となく明治の世代を思ひ出した。菓子のすがたと味にも世代がある。
 さくら餅、かしは餅、鶯餅などを盆に見ると、一葉女史の小説の世界だの、自分にとつても、青年頃の濱町河岸や隅田川べりに、遊び呆ふけてゐた春日が連想されてくる。然し、これはやはり自分などの官能がもう古い證據で、おそらくは、今の多くの若い人々には何の共鳴も得られないにちがひない。
 美術院の新井勝利氏に聞いたことである。院の總會か何かで、横山大觀氏が、若い新進や中堅をべんたつして、一場の畫談と述懷をした後、宴となり、大觀氏もめづらしく大醉の果て、例の老畫學生ぶりを發揮して、「谷中うぐひす」を歌ひ出した。ところが、この歌の意味が今の新進にわからない。といふよりも「谷中うぐひす」が歌はれてゐた時代の“夢”が今の中堅や新進の人にはない。あの頃の大觀や古徑や春草や誰や彼が矜持してゐた苦節とか氣概とか、上野の森を中心とするりんりたる美校男子の水々しさも誇りもない。
 老大觀の歌ふのを見て、ひそかに、杯中に涙をたれた人もあるさうだが、分らない者は、ポカンとして、大觀が寢仆れたのを、風癲病でも見るやうにクス/\笑つてゐたといふ。
 大きな斷層だ。ひとり畫壇だけの斷層ではない。政治、經濟、文學。どの部門にもある殘雪斷橋といつた景である。
 過去の岸、現代の岸。どつちにも、いゝ要素はあるだらうに、これをつなぐ橋をもたない文化態の中では、夢のない新進も不幸だし、老書生の歌もたゞ悲しい。
 ことしも、鶯が、訪れ初めた。戰後の市中にも、山村にも、鶯はなほ春の消息を缺かさない。
 が、中西梧堂氏などの、鳥類科學によると、鶯のあの美しい音も、鶯自身の本能に云はせると、何も人間の俳味や耳を樂しませる爲に啼いてゐるのでなく、鶯は自らの生存のため、既得生活權の主張を叫んでゐるのだといふことである。――といふ説明を氏の“鳥類研究”に見て、愚な私は今さら慄然と、鶯の聲に、身の毛をよだてた。
戰さやみぬ藪鶯もなき出でよ
 など、私は終戰感のよろこびを詠じたりして、こゝわづかな幾年の春を目出度がつたりしてゐたが、この句は、やはり私の早計だらうか。
 さう反省はしても、頭ばかりか耳までもう古いらしい私には、鶯の聲は、どう聞いても、生存權生存權と、啼いてゐるとは思はれない。平和の女神の“春告鳥”としか聞かれない。そこでつい、今年の句も、
鶯やなぜ人間の世の戰さ
 といふやうな陳腐な愚痴になつてしまつた。

 大きな眼で視ると、人類の生存のすがたはそのまゝ勝負の世界といへるかもしれない。人間は朝眼をさますとたんから寢る迄、無意識にも或る勝負への働きをしてゐる者だと云へなくもないからだ。
 勝負師の勝負生活は、それのきびしい縮圖である。故にまた傍觀者の興味も大きい。傍觀者といへ、じつは自分も勝負の輪廻に生かされてゐる人間なので、事、人間同士の勝負とあれば、假設的な土俵の形式でも、大方の棋盤に過ぎないばあひでも、血をわかして關心を持つ、持たずに居られない本能を驅られる。
 よく名人戰の會場になつた白山の「もみぢ」といふ家は庭に沿つて東から南へいやに長い建物であるが、晝間の勝負が差しかけになつて棋士が寢るときは、木村は、東の一ばん端れの部屋に坐し、大山は南の最端の部屋を取り、どつちも極力遠くへ離れて眠ることを希望してゐたといふ。
 おそらく、寢る間も二人の夢と夢とが、相鬪ふおそれを、どつちも感じ合つてゐるのではあるまいか。
 また、木村付きの女中と、大山付きの女中も、連日の勝負中は口もきかず、廊下で會つても互いに眸を研ぎあつて摺れちがふ程、自分たちが勝負師に成つたやうな心理になるさうである。そしてどつちかが敗けたとなると、女中までが泣くさうである。
 往年、前名人の塚田が木村に敗れたときの事、その日原田八段が疲勞しきつた塚田を郊外の家まで送つて行つたといふ。然し途々も、塚田は、なほ戰氣を醒し得ないで、さかんに次期の雪辱を口にしてゐた。やがて彼の家の近所まで來た。すると路ばたに、子供たちが無心に遊んでゐる。連れの原田八段がふと「あ、お宅の坊つちやんが遊んでゐる」と指さすと、塚田は悴然と立ちすくんだまゝ急に涙をながして泣き、腕を曲げて顏を蔽つてしまつた。わが子を見たせつなに初めて彼は「‥‥おれは負けた」といふ姿を連れに見せたのださうである。
 先頃、徳川夢聲君が木村對升田の勝負を大阪で見て歸つてから頻りに「ゆめにも子どもは勝負師にはさせたくない」と洩らしてゐたが、まことに同感にたえない。だが人間あはれなる哉。その夢聲君もまた日々勝負の輪廻の中に今や放送の“夢聲百夜”などえらい公約をしてしまつてゐる。辛くないのかなあと思ひ、ぼくにはあれもなかなか他人の氣もちでは聞いてゐられない。
 以前、双葉山が全勝の常勝將軍であつた頃、場所からS伯だの、ひいきの實業家たちと共に、双葉を拉して、辰巳家の本據にひきあげ、お作ばあさんが、一切合財のさしづで、八方からかかる双葉へのお座敷電話をみな斷り、天下の人氣横綱を獨占して、歡呼亂杯。こゝへは、招かずして新橋、柳ばしの美妓が群れ集まり、わが世の五月を謳歌した一夜がある。その折、誰の發意だつたか、双葉の爲に寄せ書して双葉の父なる人へ送らうと云ひ出し、S伯まづお得意の席畫を描き、財界政界の名士がそれに合讃した――で、ぼくにも順番が廻つて來て、何か一筆書けといふ。そこで即興の一句をぼくも書いた。句は、
江戸中で一人さびしき勝角力
 といふのであつた。
 だれもみなヘンな顏をした。「淋しい」といふ語への不審であらう。だがさすがにその夜の常勝横綱の双葉にだけは、いささか分つてゐてくれたらしい。ぼくの眼を見て眼で默禮した。その眼には、今でも覺えてゐるが、彼の人の良い一面の涙がういてゐた。木村に敗れて歸つた日、路傍に自分の子供を見て、ばうだと涙を垂したといふ塚田の涙と同じものなのである。見物心理でわれ/\が勝負を騷ぎ囃す“おもしろさのわけ”もそこにある。人間は罪の子なり、と神さまはいふ。それも一つのいひ方にちがひない。だが人間は生れつき勝負の子なのだ。だから多かれ少かれ、勝負師の涙をもつてゐない人間はない。

 封建社會にも「浪人」とか「浪々の身」とか「浪宅」とか「蟄居」などゝいふ言葉が、あつたが、こんどの追放解除で、陽の目を仰いだ人たちも形こそちがへ、各々そんな境界を、相當、身に沁みて、味はつたにちがひない。
 が、さて、あれだけの浪々の身を通つた人々が、その期間をどれ程人間的にプラスして來たか、マイナスして出て來たかを興味といつては失禮だが誰しも一應は今日抱いてみる氣もちだらう。新聞で久々に見る“以前の顏”には、自然、さういふ觀方が伴ふ。
 もし六年間の空白期間が、天與の内容への充實として送られてゐたなら、豈、その人の多幸のみかはである。日本の健康を加へるだらう。けれどあのうちの何パーセントが、破れ扇にならずに、よく自分を作つてきたかとなると、新聞の寫眞や談話だけで、分りかねる。去年の一部解除のとき、或る人が、友人の解除を祝つて「名鷹の拳離るる秋の空」といふ句を送つてゐたが初夏の薫風にこんどは、どれほどな名鷹が放たれる事やら?――と僕が應接間で云つてゐると、口の惡い一客が「たいがい鳶か禿鷹だらうね」と云つてゐた。そんな中で折も折、鳩山さんの病臥は政界の事などに興味はないぼくらにさへ、同情にたへないものがある。けれどその鳩山さんの家へさつそく見舞に行つたといふ知人のはなしによると腦溢血といふのに、いくら輕症だとはいへ、まるでお醫者のツクダ煮ができるほど、入り代り立ち代りの來診で、お見舞ひ派遣の醫者攻めであつたとか云つてゐた。
 人間は餘り無病息災もいけないさうだ。何か一病はあつた方がいゝとか云ふ。これで癒れば鳩山氏も、追放と突發の厄と、二病を通つたゞけの厚みを持つて床上げをするだらう。もし癒らなかつたら、それは追放解除豫報がまだ出ないうちに寢なかつた不運だといふしかない。もしまだまだ解除の見通しがつかないうちの腦溢血だつたら、口惡な客がぼくに云つたやうな、お醫者のツクダ煮が見舞ひに押しかけるやうな現象は起らなかつたであらうから――だ。
 中華の名醫と云はれた或る醫者は、自分が老境に近づく前から、遺言代りに、かう書いて人に渡しておいたさうである。
「わしが中風で仆れたら、仆れた近くにたゞそつと寢かしておけ。やたらにわしをいぢくり廻さないでゐる者が、わしを助ける名醫だ」

 木の芽時である。ひと朝ごとに土壤の植物が芽を伸ばし山の色まで變化してゆく――中でも目立つのが筍から若竹になつてゆく――あの育ちである。
 歌右衞門の襲名披露を歌舞伎座に見て、あとで大谷さんと「育つものを觀るといふのはいゝ氣持なもんですな。そして確かに海老藏も育ち、歌右衞門も育つてゐますよ。その意味で歌舞伎の襲名制度には意味がありますね」と幕間話しをした事であつた。
 ちやうど、その日の午前中には、ぼくの子どもが成蹊中學へ入學したので、子どもの入學式に列席してゐた。それこそ季節のタケノコ以上に伸びてゆく新鮮な生命群の中に半日を嬉々と暮してゐると、ぼくらの古びた生命さへ、何か生々たるものを注ぎこまれる心地がしてくる。
 いまの歌舞伎を、ぼくはかつてのやうな觀劇眼で見たくない。爛熟期の餘りに老成に墮しすぎた昨日までの批評態度で、「うまい」とか「若い」とかいつてるよりも、水々しい生命の育ちがあの中に有るか無いかが問題である。そしてこの“木の芽興行”の歌舞伎に、その育つものがあつたのを觀て、ぼくは獨り樂しかつたわけである。
 育つもの――總てのものに亙つて――育つものゝ中に在るのがぼくは好きだ。たとへば、育ちの止まつたやうな人と話してゐると、五分か十分の應接の間にも、ぼくは苦痛を覺えて、やりきれない倦怠にくるまれる。その人が、育つものを持つてゐるか否かは、年齡ではなくその人の生命自體にある。青年でも萎んでゐるのがあるし、老木でも新緑をしたたらせてゐる生命もある。
 育つものを響かす音樂を聞きたい。育つものを脈々とつたへてくる美術にふれたい。そして自分の仕事にも育つものゝ要素を失ふまいと思ふ。本能的にそれの容易であるうちはその事の重要さに氣がつかないし、その大切を知る年齡になると、さて、老朽せずに、いつも育つてゐる自分を持つといふ願ひは、さう、かんたんではない。人間の育ちは、太陽も土壤も、じつは自分の中に有るものによらなければ木の芽をふいて來ないからである。

 いまは、亂世にちがひない。戰爭下だけが亂世とはかぎらない。いろ/\な意味、世相現象から、時々、さういふ氣がする。
 朝、夜、のニユース時間十五分は、亂世の壓縮版である。新聞社會面は、亂世縮圖版だ。その中で、おたがひは、祈りに似た氣もちで、そつと暮してゐる。周圍に破壞や、不安を起しあはないやうに、じつに、壞れ物の中にゐるやうに、そつと、今日を守りあつて暮してゐる。
 家々の小さなともしびが、しづかに晩秋の夕べをともると、軒毎のきごとにある人間苦が、覗かれる氣がする。それ/″\の冬のいとなみに、もう惱み始めてゐるであらう主婦や娘や、氣の弱い父親などの氣もちを思ひやると、秋の夕霧も、なか/\、西行さいぎやうが歌つたやうなものではない。
 日本に、南鮮北鮮のやうな酸鼻が起らないのは、諸種の條件もあり、もちろん、政治力もだが、何よりの要素は、日本人の良識が支へてゐるものだと思ふ。眼には見えないが、大きな良識が、なほ、亂世を、この程度にとどめてゐるものなのだ。
 政治家たちが、自分でしてゐると思ふとまちがひである。

 露惡主義がよろこばれ、美しい話題は少くなつた。戰後派青年も、日本人全般も、利己、無情、極端な唯物的人生觀に一變したといはれ、事實、それを立證するやうな社會事件が、次々に人を驚かせてゐる。それについて、よく日本人を悲觀する日本人も多くなりつゝあるやうだが、頑迷な私などは、どうしても、まだ一縷の望みを、日本人の美點から捨てきれない。
 たとへば、日本人の涙もろい、泣き蟲なところなど、せめていゝ所の一つだと私は思つてゐる。
 金閣寺に放火したお小僧でも、大學教授の老父をすてゝ強盜青年と身をかくした娘にしても、落ちついて、我れに返れば、みな、泣くのである。じつに、いぢらしい。
 病氣の良人をすてゝ、(初めは、その良人を助けるためにであつたらう)立川へ、夜の女に行つた若い農家の女性が、そのまゝ、歸つても來なくなつた。――それを探しあてて、家につれ歸る途中、その若い良人が、國電の中で、女を責め始めた。女の金時計やマフラを、ひつくツて、こんな物が何だと、乘客たちの前も忘れて、叩きつけるのを、女が、拾はうとすると、そんなに虚榮心が捨てられないのかと云つて、横顏を、平手でなぐつた。
 女が抗辯する。男はなほ激昂する。女が泣き出す。男も、つひに、泣いてしまふ。
 私のゐる田舍に近い郊外電車での出來事である。それを見て來たといふ客のはなしであつた。その客も、居合せた乘客も、初めは、興味をもつて、見物してゐたさうだが、女の抗辯のうちにも、今日の社會苦がもつ深刻な理由があり、男の激怒にも同情されるし、果ては、乘客もみな、瞼を赤くして、しいん、としてしまつたといふ事である。

 夕刊紙や、雜誌面でも、女性の身上相談欄が、ちか頃また、復活してゐる。
 前述の、郊外國電の中にあつた一場面などは、相談部へ集まるたくさんな投書からいへば、類似の事、それ以上な問題が、山積してゐるのではあるまいか。
 それにたいして、現代の知識人、文化人が、親切に答へてやつてゐるのを、私もよく讀むが、殆ど、十が十の場合まで、解答者の指針によつて、その人が、よく救はれるであらうと、思はれることはない。
 迷ふ人と、その周圍とは、とても、短い文字にいへるやうな、そんな簡單なものではない。おそらく、訴へてゐる人の一文も、ほんとの状態とは、どこか、違つてゐるにちがひない。まして、それを、判定して、幸福な道を示すといふことは、第三者としては、不可能な事ではないかと、私は思ふ。
 單に、精神的な慰安とか、わかりきつた道徳上の判斷をするといふ程度なら、それはそれだけの効果もあらう。けれど、折には、よくも活字になる事を覺悟して訴へられたものだと、その勇氣に、驚かされるやうな投書もある。そんな人の苦悶は、すゝんで、自らの苦惱を、衆の見せ物に、提出してゐるやうなものではあるまいか。
 かういつたら、ジャーナリストに怒られるかもしれないが、女性身上相談などは、紙上の讀み物になるだけで、ほんとに、幸福な道を探してゐる當人の煩悶にとつては、結局、何の解決にもならないであらう。――次に、かう云ひ放したら又、世の憂ひある女性から無情に思はれるかもしれないが、幸福をえらぶには、その幸福を受けとる當人以外に、判斷をもてる者はゐない。
 そして、それはたいがい、その當人が、好まないでゐる道にちがひない。なぜなら、身上相談へ云つてくる迷ひは、すべて、自分のとりたい道と、好まない道との、岐路の判斷にほかならないからである。
 ほんたうは、たいがい、自分の本然な心のうちで、誰でも、分つてはゐる事が多いのだ。

 ひとを幸福にするといふことは、決して、容易でない。誰だつて、自分でさへ、じつは、さう安直に、幸福はもてないのだから――。
 自分が愛する者にでさへ、それは、思ふままに贈られないものだ。幸福に、幸福に、と心をつくして、した事も、その人にとつて、後の不幸を見る場合もある。
 幸福は、たゞ、自力でつかむしか、道はない。自力で、つかむ意志、希望を、與へてやることが、隣人の愛では、精いつぱい可能な範圍である。
 幸福な條件の中にゐて、不幸だといつてゐる人があるし、不幸な中に住んでゐて、案外、さゝいな幸福を、大きく感じて、生き/\と人生を味得してゐる人もある。幸福とは何か、といふ事からして、人それ/″\に、定義がない。

 貧しい日本の中でも、ともあれ、やゝ確實に、幸福に暮らせさうな道は、二つしかないと思ふ。
 一つは、せめて、家族たちの中だけでも、ほんとの、肉身愛と[#「肉身愛と」はママ]、感謝をもちあふこと。もひとつは、この國のもつ四季の風物による自然を生活に樂しむ事。それ位なところが、日本人の確實につかみうる自由と、まちがひない幸福の道であらう。
 どつちも、精神的なもので、それだけでは、腹も張らないし、愉快でもない、とするところに、日本のいまの貧乏のみじめさがある。
 夫婦ふたりでも、ほんとに、愛しあへたら、日本の土壤の、どんな狹い場所でも、生きるに樂しくないほどな寒冷ではない。まして、子あり、親あれば、である。
 この基本が、こはれてゐる上に、實は、どんなに、物質的な營みをもつても、所詮は、知れきつた不幸の支度にきまつてゐる。

 新興宗教は、下火らしい。といつて、あゝいふ門へ、すがり寄つた無數の庶民的な精神の空虚が滿たされてきたわけでもなささうだ。
 むしろ、よるべない、迷ひが、それにも、忽ち、幻滅を感じ、いよ/\迷ひを深くしてゐるだらうと思はれる。
 ジャーナリズムは、さういふ邪教の門をあばく事には、全力を以てしたが、そこにすがつてゐた無數の人々にたいしては、その無知と愚を嘲笑するだけである。無知であればあるほど、さうした盲目の庶民はいぢらしいと私は思ふのだが、社會は、それにたいして、代るべき泉も木蔭も、何の安心の據り所も考へてはやらないのである。舊宗教に頼れないから、新興宗教へ行つた人々であらうから、そこから、さまよひ出ても、舊教には、歸るまい。とすると、この迷へる無數な、素朴な、そしていぢらしい程、無知な良心は、どこへその善性を向けたらいゝのか。
 善性にむすびつくものが容易に見つからない。これは、かなしい今日の現實である。

 おそろしく、都會官能は、どぎつい原色に染まつてきた。百貨店の百選會、秋の染織何何會などといふ陳列場をのぞいても、紅紫青黄、じつに強い原色の展列で、かつてのやうな、淡雅、清明な日本的な色は、日本服からも、殆ど、姿をなくしかけてゐる。
 音感が、時代を出してゐるやうに、色の流行も、時代感能を、現はしてゐる。うす紅梅、ほの紫、青磁色といつたやうな奈良朝以來の、植物的な、匂やかさをもつ色では、もう今日の音感や街の視覺に、追ひつかなくなつてゐるとみえる。
 けれど、日本人の黄色系の皮膚に、原色が添ふと、いかにも、野性が助長されて、決して、ノーブルな調和の效果はあがらない。どうしても、インドネシア系にちかい、南方文化が、うかび上つてくる。
 でも、流行といふものは、批判のほかとみえ、男性のネクタイ迄が、この頃、じつに飛躍した色や柄をもつてきた。折々、これはそも、何の前兆かと、銀座の人ごみでも、眼をみはることがある。
 以前はよく、流行色の先驅によつて、その秋、その春の、景氣不景氣が豫想できるなどといふメーターにも云はれたものだが、近來の流行色では、その打診計も、指すところがないのではあるまいか。
 植物色から鑛物色への推移は、きのふけふの事ではないが、原色流行は、戰後色であるといつていゝ。餘りに文化の荒廢されたあとでは、原色の強烈を以てしないでは、塗りつぶしきれないといふペンキ工の塗抹法と同列な考へ方から來たものかもしれない。
 そして、海外の流行色は、日本人が原色をごて/\粧つてゐるまに、今や、光線色時代に移つてゐるやうだ。光線的な色彩もまた、背のひくい、小づくりな日本人には、さう似合ふものとも思へない。やはり桔梗の桔梗色、寒菊の白黄、臙脂、そのほか、千種の中に、日本人の皮膚と風土によくうつる祕色があるやうに、ぼくらには思はれる。スタイル社の宇野千代女史が、和服で、大勢の中に坐つてゐる姿が、お市の方の畫像のやうに、或る會合の席で、鮮らかに見えた。日本的な祕色を、調和による頭で着こなした姿ほど、いつまで、新鮮なものはない。國際的な日本になればなるほど、都會の色感や女性の色調などには、せめてこの國特有な何かをもちたい。

 新聞の婦人欄に、この頃の女性粧は、カクテル・スタイルだと、ひやかしてあつた。何でも新奇な物といへば、すぐ顏や姿に取ツつけたがる女性の無知的色盲を、諷刺してゐるつもりであらう。
 だが、これは何も女性の風俗に限つたことではない。新しい道徳から生活基調のすべてに云へることである。由來、カクテル文化は日本の特質といつていゝ。藤原文化は、唐朝たうてう大陸との交渉から。桃山文化は、歐羅巴や南方諸島との交流から。明治文化は鎖國の解放から。そして今は、敗戰といふ革命を經て、特殊な時好と混亂を來してゐるだけのことである。
 やがて、次の作用は、徐々にこの現象を自分のものに、調和してゆくにちがひないと思ふ。
 その意味で、“おんなの貌”は、他からの影響と、獨自の條件との、調和の象徴と云へないこともない。そのメーターにより、およそその國の文化程度は、觀光客にも、ひと目でわかる。

 アメリカ婦人の眞つ紅な美爪法をまねて、日本の女性も、そのまゝ眞つ紅にしてゐるのは、智惠がない。獨創味がない。
 きのふ洋裝のひとの眞つ紅な指先を見たのに、同じ女性が、けふは和服のせゐか、洗ひ落した素肌の爪をしてゐたりするのは、男にとつて、おもしろくない。何だか、女の美が、拵え物にすぎないやうなきやうざめを持つ。
 古い日本の美爪術には“爪紅つまべに”といふ風俗があつた。つねにきれいに爪を切りそろへ、その爪先と指肌のあひだだけへ三日月なりに、紅をさすのであるらしい。想像してみると、ベタ紅よりはどうもこの方が、どぎつくもないし、若いひとの爪そのものゝ自然美も活かしてゐて化粧法として高級のやうに思はれる。何より又、洋裝和服を問はず、いつも同じ指を示してゐることができる。
 もし、日本の女性が、なべて、日本式美爪法を、きちんとして見せたら、アメリカの若い女性グループからも、きつと、これに倣ふ流行が生じると思ふ。アメリカでも、全部の婦人が爪を染めてゐるわけではなく、あの不自然なベタ紅を嫌つてゐる婦人も多いのである。オフイスで仕事をしてゐる女性なども多くは爪を染めてゐないといふ。
 ――などと、がらにもない事を、考へたりしたわけは、女の流行の一つぐらゐは、こつちから賣出して、あつちへ、まねさせてやりたいからだ。

 明快な客、むつつり客、いんぎん丁重客、粗忽客、不得要領客など、客さまざまの中に、來るとよく冗談ばかりいつて家人を笑はすことを以て、自分も樂んでゐる一客がある。その客が、茶の間の爐ばたで、女たちをつかまへて、例のごとく喋舌つてゐるのを聞いてゐると、「この雜誌は、智惠がないな。今頃また、附録に、新語辭典だ。ぼくなら、廢語辭典でもつけるのに」「廢語辭典つて、どんなの?」と女たちが、からかふと、その客「すぐ、口で編集してみようか。まづ女子ノ部からだよ。――女らしさ。女でこそあれ。夫婦は二世。女は三界に家なし。弱き者汝の名は女なり。――どう、みんな廢語だらう。まだあるよ。――やまとなでしこ」
 つり込まれて、ぼくもそばから、からかひに出た。「君。廢語があるんなら、復活語もありさうなもんぢやないか」「もちろん、ありますとも」「たとへば?」「たとへばですね。――子は三界さんがい[#ルビの「さんがい」は底本では「さんかい」]くびかせ

 ごく一部ではあらうが、一部の大學生、高校生、中學、女學生間などのグループに、近頃、さかんに、戰後派アプレ的な新造語がつかはれ、國電の中やホームや盛り場で、あたりの大人たちの耳に、怪訝な思ひをさせてゐるとある。
 寶塚フアンの間から釀されるといふ“ヅカ語”だとか、夜の女の“樂町英語”だの、町の子供等の“チンピラ隱語”だの、また、新制大學生あたりの“チヤンポン語”――やくざの隱語、外國語、日本語、戀愛新語のカクテルなどが、事實そんなに、現代の若い中樞に使はれてゐるのだらうか。
 從來、私は半信半疑に思つてゐた。應接間の雜談や、小説やジヤーナリズムのいろんな面に見ても、さう濃厚な世相現象とは考へてゐなかつた。
 ところが、ある時、村の路ばたに大勢の子供を集めてゐる紙芝居の前にちよつと立つてみると、なる程、この紙芝居屋さんのセリフのうちには、前述のやうなアプレ語がさかんに驅使されて、子供たちの喝采を博しているのだ。私はうかつであつた。ことばは生きものである。都會にはやり風邪のはやるときは、近接の山村にだつて必ず惡い風邪が傳播してゐる。道理で、村の子ども等の會話までが、近ごろは、だいぶ變つてゐるはずと、今更のやうに、認識した。
 けれど、村の場合では、この言語のカクテル性が、都會以上、もう一つ複雜である。なぜならば、古くからある“村のことば”は、文部省でしきりに云つてゐる日本の標準語にさへ未だなつてゐないのである。たとへば、私のゐる村は、東京近郊の國電で二時間ぐらゐな所だが、新制小、中學ぐらゐの女の子が、自分のことを「おら」とか「おれ」とかいつてゐるし、語尾に、關東ことば特有な「‥‥べえ」をつける風習もいまだになか/\拔けてゐない。
 私の家のことし九歳になる女の子が、やはりさかんに、おら、と、ベエ、をつかふので、母が時々注意すると、「だつて、わたし、なんて言ふと、學校で、お友達が、笑ふんだもの」と、正直な嘆きをいふ。
 この間も、朝、書き取りの豫習を中途で止めようとした時、母がもう少しおやりなさいと勸めると、「うん」と、合點して、持つてゐる罫紙を指さし「じやあ、もう二タサク‥‥[#「もう二タサク‥‥」は底本では「もう二タサク ‥‥」]。二タサク書けばいゝでせう」と言つた。
 いつたい、何の事を言つたのかと、あとでよく訊いてみると、畑の畝の一すじを、農家では單に一サク、二サクといつてゐる。そこで子供も、率直に、書き方の一行二行を、一サク二サクと言つてゐるものと分つた。
 みんなして、笑ひもしたが、考へさせられることでもある。このやうな條件のところへ、「ギヨーツ」だの「しけてンのさ」だの、いろんな、アプレ語が輸入されてきたら、一體、このカクテルはどんな味のものになるのか。文部省の努めてゐる標準語への整調などは、夢みたいな話である。
 漢字の數を極端に制限し、習字を廢し標準語の母胎であつた文字の理解がすつかり失はれた頃には、ちやうど恰好な、四等國民以下の、文字なき饒舌の民が、背をそろへて、出來あがるにちがひない。
 ご注意しておくが、その頃になると、いま文部省がつかつてゐる官用文書の語意などは、特種な教育をうけた者以外、一般には、わけがわからないものになる惧れは充分にある。

 赤ンぼが生れる。すると、赤ンぼが、一番初めに洩らす言葉が、「――」といふ音ださうである。佛教でいふ阿字觀あじくわんとは、その生命の根元をさすのだとか聞いてゐる。
 だから、坊さんが、お經を讀むのを聞いてゐると、隨所で、「ア‥‥」と引つぱツては又、朗々と、續けてゆく。あれは、赤ン坊のごとき、きれいな生命の聲によつて、菩提へとどかうとする一種の修練法ではないかと思ふ。
 ヨハネ傳の第一章には、こんなことが書いてある。
初めに、ことばあり
ことばは、神と共にあり
言葉は、神なり
 さあ、かうなると、現代世潮の中のカクテル語も、パン/\語も、チンピラ語も、うかつに、ひんしゆくしたり、笑い事に聞き流したりしてゐて、いゝものかどうか。
 初めに言葉あり。――まさに、その通り。戰後派などといふが、いまは日本の文化の新しい創造期。初めの言葉と聞くべきである。
 ことばは神なり、を眞理とするなら、かれらの會話は、神が言はせてゐるものだらう。言葉と神とは、アベツクなものだと聖書は言ひきつてゐる。
 家庭の大人たちも、社會人も、ことばを通して、よく/\、社會の底に、神を觀るべきである。戰後派は神である。

 都會の子等は、どうであらうか。ほかの地方の子供たちは何うだらうか。それは知らないが、私のゐる山村の女の子たちは、正月が近づくと、やはり鞠もつき羽子もつき、また、アヤ取り、おはじき。昔ながらの遊戯は今もやつてゐる。
 だが、うたがない。かの女たちは、歌を忘れたカナリヤのやうである。それでも、謠ふことは謠つてゐるが、「滿洲のウ――豚の子がア――ぶウ、ぶウ、ぶウ‥‥」なんていふ數へ謠で、鞠をついてゐる。
 女の子でない私たち少年にも、その頃の、乙女たちの謠つてゐた鞠謠や數へ謠は、いまでも、なつかしい、あたゝかな、優雅な思ひ出を、胸にのこしてゐる。
 それらの、子供の世界に慈しまれた歌謠は、みな、四季に因んだり、自然と人生とを結んで、叙情味のゆたかなものであつた。たとへば、あのやさしい慈愛にみちたセレナーデともいへる日本の子守歌などの聲は、もう、どこの赤ンぼにも謠はれなくなつた。
 幼い搖籃のたましひが、あゝした平和な灯と、愛情の屋根の下に、夜を慈しまれた記憶は深く、成人の後まで、思ひ出すたび、心にうけたその培ひは忘れ難く思つてゐる。いまの子には、それがない。
 郊外にゐる知人が話した事である。その人の隣りに、若い御夫婦がゐる。生れてまだお誕生ぐらゐな赤ちやんが一人ゐるが、若夫婦は時々、ニユースタイルで、家を閉めてどこかへ出かけてゆく。赤ちやんは、家に殘してゞある。
 婆やもお女中もゐない家庭なので、ふしぎに思つて、ある時、訊いてみると、新婚二年ぢかい若奧さんは、「えゝ、宅では、出かける時、ベビーにミルクをたんと飮ませておいて、家の中のハンモツクに、落ちないやうに縛つて入れておくんですの。馴れると、とてもおとなに、お留守番してくれるんですのよ」と、この妙案を誇るやうに言つたといふのである。
 生れては、子守歌なく、物心ついては鞠歌も知らない、今の日本の子ども。
 この子どもが、自分々々に、やがて、どんどんカクテル語を自作し、濫用し出す。そして、自分自分の生活をやつてゆく。
 いつたい、たれに、それをとやかく言ふ資格があるのか。
 先頃、十一月三日の文化の日に、あれから後も、國歌君ヶ代の是々非々論をあちこちに見かける。
 結論として、君ヶ代は、ふさはしくない。新しい國歌を作るべきである。といふのが多い。
 だが、借問したい。
 新しい子守歌さへ作れない國民に、國歌などが、作れるかしら?
 また、自分の生んだ赤ン坊に、子守歌ひとつ謠つてやれない國民が、よしや新しい國歌などが出來たところで、氣をそろへて歌ふだらうか。
 君ヶ代がぴつたりしないといふ異論には、私も、さうかなあと思ふだけである。けれども、國歌などといふものが、作詞家の頭や企畫的な衆の頭で、さつそく出來ると思つてゐる人々の頭には、私はどうも同感しかねる。

 ――だれも云はないが、だれも氣がついてゐないのかしら?
 この頃の子どもには“笑靨”といふものが無くなつてゐる。僕には、幼年の頃、くツきりと笑靨があつたらしく、よく人にそこを指で突かれて、何かいはれたことを覺えてゐる。また赤ン坊にも、腕白にも、笑靨のある兒がたくさんゐた。
 この頃の子どもの顏にはそれがない。笑靨も、何かの意味をもつて、時代を象徴するものであらうか。

 白鳳、奈良朝の佛像のおん手には、笑靨がちりばめてある。佛師は、菩薩像のおん手を彫るとき、子どもの笑靨を連想してゐたにちがひない。それにしても、あんな女相がどうして、人間の幻想に描けたのだらうかと、時により、近代の美といふもの、現實の美といふものが、みんな永遠性のない繪そらごとに見えてくることがある。

 電髮とルージユとで、とてつもないおめかしをし、爪紅に煙草をはさんで、男どもをやツつけてくる一群の少女たちのなかに、どうかすると、そのまま聖觀世音菩薩像か吉祥天女にそつくり成るやうな顏が交じつてゐることがある。造化の神は、性來、よほど惡戯者らしい。

 この頃の雜誌の表紙、口繪はこぞツて女の顏、女の半身、女の横顏、女の正面。
 ただ、わからないのは、描かれてある女のひとの國籍である。

 早曉の急行列車に乘らうとおもひ、朝寒の東京驛前の廣場に立つてゐると、どこから起き出して來たか、もう三々伍々の浮浪兒たちが、裸足はだしの爪さきたてて、雀みたいに、そここゝを見まはしながら歩いてきた。
 十二、三から十五、六までが多い。さつそく短い煙草に火をつけ、駐車場の街路樹へむかつて、煙をたてて、小便しあつた。さて、この子たちは、これから一日、どう暮すのか?
 その日の汽車で、僕は、豐太閤三百五十年祭の京都へ來た。そして隨所に豐公時代の文化色と、かれへの昂い追慕を見た。
 阿彌陀ヶ峯のいただきへ登り、ふと、東京驛の浮浪兒たちをおもひ出した。そして、秀吉もまたあの年頃にはあの子たちと大差のない戰災浮浪兒のひとりだつたことを思ひあはせ、ひよつとしたら、天が、現日本の無數の浮浪兒のうちから、その艱苦と巷の試練を經させて、第二の豐公ともいへるやうな偉大なる天性を生みつつありはしないだらうか――などと儚い白晝夢を抱いたりした。

 高槻へ行つてみた。ジユスト高山右近の舊城地なので、そこの郷土史家たちに教へを乞ふためにであつた。
 もとの城址には、何もない。いまは市の中學校になつてゐる。ただ、永祿、元龜年間から、城内の禮拜堂のそばにあつたと當時の宣教師の報告書にも見える巨きな椋の木がのこつてゐるとのことで、慕はしさに、椋の木を訪ねた。
 巨岩に似た巨きな根瘤と朽ち折れた大幹が宙にとどまつてゐるのみで、椋の木はもう枯れてゐたが、ふところの宿り木が、あたかも椋の木の子孫のやうに茂つてゐる。
 頭髮を歐羅巴風に斷髮しきらびやかな大小をさし、元龜天正風な衣裳をつけた當年のキリシタン武士の子弟たちが、また右近その人も、この椋の木の下に立ち宗教を通じて、西洋の文化を、いかに想念してゐたらうか。
 かれらは、地球が圓いものだといふ知識を、漸く得初めてゐた頃なのである。それからまだ四百年とも經つてゐない。
 圓い地球は、おどろくべき速度で廻つてゐる。椋の木に心あらば、感なきを得ないであらう。秋の日の下で、その肌をなでてみたら、椋の木の肌は、ものいひたげにあたたかだつた。
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ある結婚式の式場で
 たしか、終戰後の翌々年かと覺えてをります。春の四月頃でした。まだ汽車の中で白いお握りを食べてゐる人は幾らも見られませんでした。旅行などは、とてもムリだと思はれたのですが、どうしても行かなければならない羽目になりまして、京都から大和地方へ、講演に行くことになりました。初め、交渉に來た人から謝禮を問はれたので、謝禮は要らないから、向うへ行つたら何とか自動車を一日貸してくれないかと頼んでおきました。それはお易い事といふわけです。
 じつは、戰爭中から終戰後にかけて、宅の家内も、すつかり參つて、長いこと寢こんでしまひ、漸く、病み上りといふ所でした。いづこも同じな主婦の苦勞をしのいで來た結果の大病でしたが、性來、細ツこい體質がそれきり牛蒡か人參みたいな細い手脚をしてゐます。こいつを一つ慰めてやらうといふ氣もちから、その旅行に、家内を連れて行つたといふと、たいへんいい良人みたいですが、じつはやつぱり、ぼくの身の廻りの世話に連れて行つたわけであります。けれど、ちよつぴり、稀には、女房にも、何か樂しい記憶になる思ひ出を、二人の記録に殘してやらう。そんな亭主心もあつたのは事實です。
 ところで、講演先の用も終り、約束の自動車も貸してくれました。そこでちやうど大和地方の春でしたから、吉野山へ行つてみようといふ事になり、丹波市から車で吉野山へ行きました。終戰後二年しかたつてゐないのに、花見電車は滿員でしたし、山道は家族連れの行樂の列でたいへんな賑はひです。東京とは違ふなあ、とその風景に感心して、越えて來た數年間の殺伐無慈悲な月日も忘れる思ひがしました。
 そのうちに、山上に近い所で、車がとまり、運轉手君が指さして「この谷間の向うに見える一帶の花の山が、有名な一目千本といふ所です」と、教へてくれました。
 まつたく、吉野山らしい景觀です。ぼくらも車を降り、何も忘れて佇みました。――すると、ぼくらのすぐ前に、ひと組の老夫婦が、谷間へ向つた崖ぶちの草の上に、新聞紙を敷いて、置物のやうに、坐つてをります。やはり、谷向うの一目千本を眺めてゐるのでせう、行儀よく並んで、ちよこねんと、坐つてゐるんです。
 ぼくは、煙草をつけました。家内もぼくのそばに佇み、こんな天地もあるのに何で人間は昨日みたいな業をやらなければならないのかと、疑つてゐるやうな眸で滿目の花に見とれてゐます。
 そのうちに、ふと氣がついたんですが、草の上に畏まつてゐる老夫婦は、各々その膝の上に、アルミの粗末な辨當箱を乘せ、手にお箸を持つてをりました。麥メシか豆の御飯に見えました。梅干に卵燒きか何かの佗しいお菜にすぎません。それを、ひと箸口に入れては、彼方の花の山を眺めてゐます。思ひ出しては、また、ひと箸口へ運び、飽かずに、さうしてゐるのです。
 老夫婦は、その間、ひと言も口をきゝません。ぼくが一本の煙草を吸ひきつてしまつても、まだ二人のあひだに一語の聲もしませんでした。
 けれど、ぼくはふと思つたことです。この老夫婦の無言といふものは、じつは生涯の千言萬語をお互に語り合つてゐるものではなからうか――といふことなんです。
 どちらも、もう七十がらみ、女の方も白髮まじりのお人でした。ひと組の夫婦といふものが、戀愛か、見合か、盛大な結婚式をされて門出したか、また巷の裏で、貧しい誓ひをやつた仲か、とにかく、出發はどうでも、お互が、かうなる迄、一つに暮して來たといふことは、たいへんな人生記録の保持者です。歴史の中に、自己の歴史をつらぬいて來た人です。ぼくは何かしら敬虔な氣もちに打たれ、老夫婦の姿に、平和な虹の輪がかゝつてゐるやうに思ひました。些細な妨げをしても惡いと思つて、そつと靴音をしのばせて少し離れた所へ足を移しました。
 ぼくの家内も、同じやうな感動をうけたやうです。しかし、ぼくらも口には何も語りませんでした。ただ、この廣い世界で一しよになつた男と女といふものが、老夫婦のいま位置してゐる峰まで、共に人生を歩いて、そしてあんなふうに、或る一日を、草の上に坐つて回顧してみたら、夫婦の歴史といふものも、さだめし興味津々たるものだらうなあ、といふ羨望だけが、ぼくらの胸にも一致してをりました。
 かりに、あの老夫婦の身になつて、その長い過去をひもどいてみるならば、それこそ、いろんな事が、あつたに違ひありません。若かつた頃は、喧嘩もしたでせうし、仕事の失敗とか、不時の災難とか、良人の浮氣とか、子供たちの心配とか、およそ男と女が一ツ屋根の下に住んで起りうべき問題はみんな體驗してゐるでせう。そしてそれを今、この老夫婦は、振り返つてゐたにちがひありません。谷間をへだてた吉野山の花を前に、じつは、自分たち二人の歴史を二人で讀み合つてゐるのです。ひとが書いた歴史ではなく、男の一生と女の一生を賭けて書いて來たお互の記録です。
 夫婦の成功は、人生の勝利です。人間の幸福なんていふものは、この邊の所が、最高なものではないでせうか。強烈な刺戟や物質的なものが幸福として永續されるはずもありません。歸するところは、平凡なものです。
 新婚生活も、またゝくまに、平凡生活にはいるもんです。夫婦、こんな陳腐な形式つてあるものぢやありません。その陳腐な傳統形式を承知して結婚しながら、平凡化すると、夫權と婦權の主張が折合はないで、俄然、男も居直り、女も居直るなんていふのは、をかしな話です。ぼくは戰後的な夫婦解釋についてまだ多分な疑問を抱いてをります。むかし、與謝野晶子女史から直接聞いたことばですが「夫婦愛は、その日その日の創作ですよ。わたし達夫婦のことを、よく人がどうしてそんなに仲がいゝかと云ひますが、毎日の創作ですからね、夫婦の愛情生活は」と云はれたことばが、今でも思ひ出されます。
 平凡生活から、初めて、ほんとの夫婦の生活が始まるのです、それは晶子女史が云つたやうに、何一つ他力に恃めるものでなく、男と女ひと組づつの創作です、ですから、お祝辭の代りに、ぼくがこんなお喋べりをしても、じつは、よけいなおせツかいに似たやうな事でしかありません。新しい夫婦評論や夫婦座談會などの記事も、要するに、多くは、おせツかいな解釋や指導にすぎまいと思ひます。――なぜならば、もしそれを標識として自分たちの新婚生活をすゝめ、かりに大きな破綻や傷手をうけたとしても、社會的には、誰も責任をもつてくれるわけではありませんからね。――ぼくのおせツかいも、このへんで。どうも失禮しました。
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 たいがいな人が、色盲である。特に、女性には色盲が多い。――と云ふことは、眼科醫的な見地からではなく、生活良識から見ての私の診斷である。もし、まちがひであつたらごめん下さい。

 女性の裝身や化粧にとつて、色は重大である。もし色の使用を誤まつたばあひは、そのひと自身の存在はない。べつなものが表現されてしまふであらう。
 色感にたいして、女性が男性よりも關心をもつのは、當然である。一見、彼女は鋭感のやうに見える。ところが實際はその反對で、色盲が多いといふのは、何うしたわけであらうか。

 あなたのお好きな色は、と訊けば、彼女はきつと、紫といひ、青磁といひ、褪紅色と答へたりする。たれでも「好きな」と「嫌ひな」色は持つてゐるものらしいのである。これが、選擇のばあひに作用する。無意識に基準になつてゐると思ふ。
 色感色盲症をもつ一因である。

 色の數はどれほどあるか、自分でテストしてみるのもよい。
 赤、青、白、黄、黒、原色は限られてゐる。古九谷、伊萬里などの色繪ものゝ陶器が、五彩物とか七彩物とかに、ひと口で色調の作爲が云ひ分けられてゐるのも、火の藝術といはれる窯工美術では、色と色との交合による中間色が生めないからである。
 もし、配合による中間色の濃淡とり/″\な色種をも加へて――となつたら、さあ、幾種類の色數をかぞへられる者が、平均點といへるだらうか。
 三、四十種。いや五、六十種。うんと智惠をしぼつても、百種類をかぞへられる人はあるまい。畫家や染色家でもむづかしいかもしれない。
 常識としては。――常識でいゝと思ふ。どれくらゐを心にとゞめてゐたら、女性として色の驅使に、生活の彩どりに、不便のない良識といつてもよいかである。

 色の種類は、ほんとの所、百種や二百種のものではない。具體性を伴はずに云ひ放してしまふなら、“さうです、色彩の種別は、科學の微小分的な云ひ方をするなら、星の數ほどあるもんです”――さう云つても決してウソではないのである。
 たゞ、そんなたくさんな色、複雜な色、といふことになると、「日本色名大鑑」をさがしても無いし、辭書を見ても、色の名がない。
 學術上の色の名や、色の標本はなくても、しかし、宇宙にはそれほど色の數があることは確實なのだ。
 で、かういふ事が云へてくる。
 色の選擇や、色の使用を、ぼくらは自由に、豐富な中でしてゐるつもりでゐるが、じつは、非常にかぎられてゐる狹いワクの中で、しかもまた、自分々々の好き嫌ひにも固着して、まことに貧困な演出や扮裝をやつてゐるのだといふことである。
 色にたいして、もつとゆたかな、しかも自由な主人に立つて、それを用ひられなければ、どんなに綺羅をこらしても、その人は、色の召使ひにしか見えないであらう。色彩を使ふのでなく、色彩に人が使はれてゐる。――そんな人を、色感色盲と私はいひたい。

 學校もわるい。色の教育などは、てんでやつてゐない。家の父兄や母姉が、これの教師になるしかあるまい。
 旅行中、遊んでゐる間、御飯をたべてゐる雜談のあひだにさへ、基本の教育は、おもしろ半分にできる。
『夏の山は、何色だね』
『青さ。きまつてゐるよ。緑といつてもいいや』
『ぢやあ、山は緑。なるほど。けれど一つ緑ぢやないでせう。あの山の緑の種類は、幾つあるか、數へてごらん』
 おたがひが、山に對して、眼を凝らしあふ。初めは五ツ色と答へ、十色と答へ、十三色いや十五、もつとある‥‥とだんだんにその數を加へてゆく。
 色の發見である。色の見方は、こんな風にして、眼をひらかせる。
 この部屋には、何色がいちばん多いか。白。ではその白の色が幾種あるか。
 茶碗も白、用箋も白、テーブル掛の地も白、掛物の紙も白、額も白、ちらばしてある手紙も白、障子も白――無限無數の白が眼につく。
 けれどよく見ると、どれ一つといへ、同じ色はない。赤といふばあひも、黒といふばあひにしてもさうである。同じ黒といふ黒はめつたにない。
 色に眼を養ふ習慣をつける。習慣の集積をさして、審美眼といつたりする。

 色を見ることで難かしいのは、陶磁を見別けることである。あの釉藥や肌あひを、ひと目で、これは朝鮮、これは南方もの、これは和もの。そして時代はいつ頃とまで、その道の人は直感で見別けてしまふ。
 たいへんな事みたいだが、何でもない。なぜなら、無い物を見るわけではなく、眼の物を云つてゐるのである。
 朝夕に肌身に着け、寢ても起きても愛用してやまない日常の着ものなどの見方は、それに較べるとじつに易しい。何と易しいことかわからないのだ。所が、それにさへ女性たちは餘りに良識をもつてゐるとは見うけられない。色盲的な錯誤をもつてゐるからである。

 自分の顏は、自分では、一生涯、鏡とにらめツこしてゐても、なか/\ほんとには分らないものらしい。
 錯誤の根本は、自分がよく分つてゐないせゐにも依る。
 客觀が大事である。正直な自畫像を自分で持つてゐることが必要だ。そして自分のせまい色の知識を取り外づしてしまふ。好き嫌ひに固執しないこと。それらの條件のもとに、何よりはまた、調和といふ結果の作用を考へてもみなければならない。

 ぼくら男性にとつては、さういふ女性の細やかな心づかひが、一身の美に綜合されたものを見ることは、じつに樂しくもあり社會が美しい。「女美しければ國美し」と、ぼくは何かに書いたが、正直、その感想にいつはりはない。
 けれど、家族や傍人の色盲症をながめてゐると、何とも焦れつたいし、やりきれない心地もする。もすこし日本の學校は、色の教育をしてもよい。一例のみを云つたけれど、色感の大切なことは、決して、着物や裝身の具に限つてゐることではなく、一つの家の中の色、社會の色、ひいてはそれが、人々の生命の色に染まるものであると思ふ。
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 人はたいがい、自分は苦勞なしに生きて來たとは思つてゐない。おほむねが「苦勞に克つて來た」と思つてゐる。或は「自分ほど苦勞して來た者はない」と考へてゐる。後者の考へは、特に、女性に多い。
 見るからに、憂暗な、苦勞やつれの影をもつて、作家の應接間でさう訴へるひとを、われわれ作家はよく客として見るのである。そして「わたくしの半生は小説以上ですの」と語りたげに、手紙にも訴へてくる。
 然し、およそ「自分ほど苦勞した者はありません」などと自ら云へる人の苦勞と稱するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦勞であつたためしはない。とるに足らない人生途上の何かに過ぎないのである。ほんとに人生の苦勞らしい苦勞をなめたにちがひない人間は、そんな慘苦と鬪つて來たやうにも見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗はれた花の淡々たる姿のやうに、さりげない人がらをもつに至るものである。
 なぜならば、正しく苦勞をうけとつて、正しく克つてきた生命には、當然、さういふゆかしい底光りと香ひが、その人の身についてゐるはずのものだから。――それと反對に、めそめそと、人にも見せ、自ら、自分ほど悲運な人間はないなどと語れるうちは、まだその人は社會そのものも苦勞の實相も、何も知つてゐない證據である。ひとりで、觀念の苦勞を惡夢してゐるやうなものだ。もつと、無慈悲なことばで云ひ放すならば、苦勞を遊戯してゐる者にすぎない。

 長谷川伸氏の“或る市井の徒”を讀むと、何さま、氏の苦勞人といはれてきた理由がわかる。數奇な人生行路と、孤愁苦鬪な道を通つてきたこと、氏のやうな人も稀れな方であらうが、あの自傳の著には、どこにも、苦勞ばなしめいた暗さはない。むしろ苦勞を樂んできたふうさへある。
 それがそのまゝ今も長谷川氏のからつとした人がらになつてゐる。つい先日も、源氏物語の試寫會のボツクスに、土師清二氏とつれだつて見に來てゐる氏の影をみとめたので、しばらくと、あいさつすると、氏はボツクスから身をさしのばして「おう、いゝ顏になつたね、君、いゝ顏になつたぜ」と云つた。それがじつに若々しい。巖々とした岩根にあぐらをくんでゐる植物がふと風にふれると嘯き出すあの聲みたいに云つたのである。氏と會つたのは、たしか、終戰後では、初めてゞあつたかと思ふ。

 ところで、長谷川氏のその、何年ぶりかで會つたとたんの――いゝ顏になつたね、といきなりぼくへ云はれた氏のことばであるが、ぼくには、愉快な、温い、多くを云はずに、率直な情をよく盡したものに耳を打つた。歸り途まで語氣の快いひゞきが耳にのこつたほどである。
 けれど、觀客席のうす暗い中で、氏のことばを傍らで聞いてゐた人が、もしその語意を分らうとしたら、判斷にくるしんだにちがひない。いゝ顏になつたなあ、君、いゝ顏になつたぜ――である。うけとりやうに依つてはじつにをかしい。顏の意味が、へんな事に解されるかもしれない。
 だが、これは長谷川氏が、ぼくの近頃やゝ健康色になつた顏を、うす暗い中の一瞬の貌診ですぐ直覺され、それを祝福してくれたものなのである。氏も、“ある市井の徒”の前章を“新コ半代記”として週間朝日に四、五回書いてゐるうちに、死生の間をさまよふやうな大患にかゝつて一時筆を措いてゐたと聞いてゐる。ぼくもその前後、胃癌らしい、を宣告されて、怏々と、一年半ほどは、おかゆと麩とクズ湯にばかり馴づんでゐた。相病み相見舞はず、風の便りに相問ふだけの淡々たる交友の間である。
 近書の“ある市井の徒”を手にとつて、ぼくは氏の老成さらに健康と愛日の晩生にめぐまれつつあるを知り、遇然、ぼくは又、ぼくの顏を氏に示して、いゝ顏になつたなあ、とほめられたわけである。顏に關してひとから何かいはれると、ひどく意識をつかれるものでもあるらしい。

 顏について、ひとつの思ひ出がある。
 年の暮、水仙の花を見ると、何だかその頃を思ひ出すのである。ぼくが三十がらみの年。
 家は、向島の植木畑にあり、よく通る道の右側に、幸田露伴翁の住居の竹垣の門が、いつも蝸牛庵らしく閉まつてゐた。
 その頃、ぼくは、職がなかつた。履歴書をふところに、毎日、下駄を平たくして、向島から出歩いてゐた。母がゐて、また、ぼくより下の弟妹がたくさんゐる。母は、手内職でも何でも、子を育てる爲には、働くのをいとはない人であつたが、冬になると、痰せきに病み細つて、啄木の歌ではないが、冗談に、背中に負ぶつて庭先へ出ても、餘りの輕さに、いやになつてしまふ。
 ぼくは幸に、年少の頃から、貧しさには、きたへられて來た。けれど、その年の暮せまる頃ほど、物質の窮乏ばかりでなく、精神的にも、いろいろな憂苦が、三十を股ぎかけてゐるぼくへ襲ひかゝつて來たときはない。
 見るからに、憂鬱なる人間が、若いぼくの影像だつたらしい。
 或る時、母に云はれた。後ろ姿にも、顏にも、貧相な、苦勞負けみたいなものを、若いくせに、ぶら下げてゐて、たれが、おまへの履歴書などをとりあげるもんですか――と。なるほどと思つた。履歴書といはれゝば、ぼくの履歴書は、「學歴ナシ」と「賞罰ナシ」の二行しか書いてゐないのである。
 朝。鏡を見ることにきめた。意識的に、つねに、微笑をもつことに心がけた。向島のその借家は、家賃は安かつたが、隱宅むきな古雅な家で、手洗鉢の下にも、井戸端のふちにも、小庭の石の間にも、水仙がよく咲いてゐた。顏を洗ひに出て、齒ぶらしを咥へながらも、水仙の顏を見て、自分の顏も明るくもてるやうに氣をつけた。
 ひどいものである。それからどれくらゐ經つてからの事か忘れたが、ある折、母にかう云はれた。「このごろ、おまへは、寢てゐても、笑ひ顏をしてゐるのね」と。
 ひとつの習慣になつてゐたのであらう。もう、ぼく自身は、顏に微笑とか、心がけてとか、さういふ意識的な氣もちはとうに忘れてゐた頃だつた。にも拘らず、母にさう云はれたのだつた。そして、その前後が、物質にも、精神的にも、じつは、ぼくとして最惡な苦鬪を心のうちではやつてゐた時であつた。

 水泳のけいこと同じやうに、人はだれでも、いちどは、社會の辛い水をしこたま飮み、そして、いちどは、體で水の底をついてくる。
 だが、あぷ/\を、さんざんやつて、どん底を體でついたとき、たいがい、その人の處生觀も、人生哲學といつたやうなものも、そこで、ふたつの岐路をとる。
 世のなかは、金だ。とする者と、いや、かう迄、うらぶれても、結局は生きてゆけた、と達觀する者と、ざつな云ひ方だが、どつちかに傾むく。
 ぼくは、どうやら後者であつた。だから、世の辻で、食へなくなるといつたやうな怯えをもつたことはない。たゞいつも、健康と自分で正しいといふ道を思ひどほりに歩くことしか考へない。また、かならず食へてゆくのがふしぎである。
 いまでも、ぼくは、いつでも、何でもやりうるだけの氣もちだけは失つてゐない。成蹊中學へ通學し出した長男にも、かういふ生活信條だけは自得させるやうにしたいと思つて、家を離して、中央線の知人の家の小部屋に下宿させてしまつた。そんな事では、なか/\習び得まいが、初歩水泳のひとつにはなるかとおもふ。
 雜誌富士の“大衆文藝家の過去を語る”座談會のなかに、講談社の舊幹部のひとりが、ぼくが、大正大震災のときに、スイトン屋をしたといふことを話してゐるので、應接間の客から、よくほんとですかと笑つて訊かれる。ほんとですよと、笑つて答へる。しかし、ぼくは元來、自分の履歴をひとに餘り語らないたちである。なぜならば、その多くが、苦勞ばなしみたいなものに成るからである。その苦勞みたいな事も、殆どが、父母弟妹の養育をひとりで擔つて來たやうな誇りと聞かれやすいからだ。けれど、大正大震災のときのそれは、まつたく自分のためだつた。あんな有意義なそして愉快な二ヶ月ほど働きすごしたことはない。

 震災のとき、ぼくは東京毎夕新聞といふ社の編輯部にゐた。家庭部と學藝記者をかねてゐた。ひる、編輯局であの異變にあつたのだつた。もちろん、社屋は灰燼になつてしまつた。新聞も、工場が全燒したので、まづ再起の見込みはないといふ。
 燒あとに、大きな社の金庫が、無難に燒け殘つてゐた。全社員の解散が必然とされると、その金庫が、共有物のやうに、みなの眼から監視され出した。そして、赤穗城の分配金と同じやうな論議が風説され、また諸所で、社員たちによる會合もあつたりした。
 社員としての年歴も淺いぼくでもあつたが、さういふ會合にぼくは一切出なかつた。ひとの話をよそ事にして、上野に一個の床几と葭簀とをもち出して、軒なみのスイトン屋牛めし屋さんの一軒にわりこんだのである。そして、夜も葭簀がこひの櫻の木の下で寢た。
 この間に、この葭簀の蔭で、ぼくは幾十人の宿無き人を泊めたかしれない。そして、その人々の巷の經驗を夜もすがら聞きあかない思ひで聞き學んだことかしれない。造船界に知名な科學者もゐたし、吉原にゐた、たいこもちの夫婦もあつた。盲人で大火傷をしてゐたが、生命のあるかぎり行方のしれなくなつた老妻を探しますといふ針醫の顏も忘れかねる。監獄なら、網走まで知つてゐると嘯いた凄いのもゐたし、何しろ、數かぎりもなく、あらゆる職業と、世の體驗をもつた人たちと、宿を一つにしたのである。ぼくは、わづか二ヶ月ばかりで、上野を去り、そして信州の角間温泉に、その冬を籠つて、初めて、小説みたいなものを、書き初めたが、それが、後に、文筆生活にはいることになつた機會であつた。
 をかしいといつては惡いが、じつさい、をかしな事には、燒跡の金庫があくのを待つてゐた人たちは、むなしく數ヶ月もその分配を待ちあぐねてゐた末、やがてその分配金なるものが交附されたのをあけてみると、暮の餅代にも足らなかつたと云つてゐた。

 ぼくは、少年期から青年期にかけて、おもはぬ家庭の變り方にぶつかつた爲、幸か不幸か、とにかく、幾多の職業と、世の辻々の、うらぶれを早くから知つた。
 正當な學歴を、順當に通つたよりは、この方が、人生見學にも、習得にも、たしかにぼくを益してくれたし、後の職業などを問はずに、單なる、一箇の人生として、多彩多感で、おもしろかつたと思つてゐる。
 つい先頃のこと。ひどく古い反古行李を家内が整理してゐたら、どうして殘つてゐたのか、ぼくが初めて、月給といふものをもらつた最初の辭令が出てきた。
 十三、四歳の頃だとおもふ。
 税務監督局給仕を、拜命したことがあつた。
 初給、金七圓也を給す。とある。
 ずゐぶん、なつかしく、ぼくはそれを眺め入つた。横濱税務監督局といふのは、その頃、西戸部町のかなり繁華な町中にあつた。煙草專賣局構内とひと所にあつて、門をはいつて局の玄關まで行く途中に、コスモスの亂れ咲いてゐる工場の窓があり、そこに眞白い作業服を着た女工たちが、よく眸をこつちに向けてゐた。ふしぎに、その中の二、三人の女工の眼もとを今でもはつきり覺えてゐる。もうその頃から、すでに女性にもつ感能がぼくには育ち出してゐたのかもしれない。
 給仕には、制服が支給され、ぼくはその黒地に金ボタンのついた給仕服で、小使部屋と吏員室の間を走つた。週に一、二度、「事務官どの」と守衞から敬稱されるお役人が來ると、ふだん鍵のかゝつてゐる階上の事務官室にストーブが焚かれ、ぼくはフタ付きの九谷燒の湯呑茶碗を盆に捧げ、最大な緊張をもつて、卓にそれを運ぶのだつた。その役をいひつけられる前に、小使室で、老守衞長から、盆の捧げやうや、置いて禮をし、ドアへ返るまでの足どりなどを、幾たびか、お稽古をつけられたものだつた。
 こゝも、家庭の都合で、一年ぐらゐしか勤めてゐなかつたと思ふ。世話して下すつた人は、横濱税務所勤務の小島常吉(?)といふ人だつた。この小島さん御夫婦に、ぼくの母も病父も、いたくお世話になつたらしい。ぼくは、やがて東京毎夕に勤めるやうになつた頃、しきりと、この小島さん夫婦がなつかしまれ、職員録などをよく繰つて、その後の任地をさがしてゐたが、つひぞどこに轉任してどこに晩生を送られたものか分らずじまひになつてしまつた。いちど、誰やらに、藤枝税務署長の小島氏ではないかといはれ、手紙を出したこともあるが、附箋がついて戻つて來た。母はこの御夫婦の恩情を、死ぬまで語りぐさにして忘れなかつた。ぼくが、税務署又は税などといふ文字にたいして、よく人がいふやうな特種な對立感などを以前からちつとも感じないのは、過去に、かういふ人生の道のべの憩ひをもつてゐるせゐかもしれない。
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 以前には十二月ともなると、一年の感慨をかへりみたものだが、近年は、歳暮の感などといふものはない。時代の感があるのみである。
 それも極めて茫漠としてゐるのに、われながら忘失力の強健なのにおどろく。だが、忘れるといふ性能があつたことは、人間にとつて、せめてもの救ひであつた。もしこれがなかつたら――と考へると、人間は、非常な滑稽なものになるか、悲痛が全部といふものになるか、どつちかであらう。忘年會といふものは、人間の“忘”を祝福し、“忘”に感謝する會みたいにおもへるが、ちがつてゐるかしら。

 東京裁判の判決についての、新聞記事、社説、また各方面の文化人たちの、いはゆる所感や評論も、隨時隨紙に讀んだ中で、僕は、T新聞にのつた高田保氏の「審判」といふ一文にまつたく心をうたれた。
 高田氏は、自分で自分を語ると、雜文家といひ、賣文の徒と自らよく云つてゐたし、戰時中なども、人のいひえない諷言警句を放つて、よく時人的弊を冗談のうちに、ついてゐたものである。その諧謔家で一見飄乎とみえる高田氏の審判の日の一文が、私の讀んだかぎりにおいては、もつとも嚴肅であり、自己への内省と、同時に人をして深思反省のうちに、同痛のおもひにたえざらしめるやうなものがあつた。それには、何か、人間の表裏とか、眞價といふものを考へさせられ、今さらのやうではあるが、氏にたいして、あらためて敬意をいだかずにゐられなかつた。子どもじみてゐるが、私は、その日の、T紙の一欄を切りぬいて、雜記帳の中へ貼つておいた。――氏の文章の脇みだしにあるとほり、“神に祈らうとする氣もち”それをともにするために。

 べつな某紙の寸評欄には、絞首刑の宣告をうけた戰犯者たちが、どんな死に方をするかといふやうな意味を、興味づけて書いてゐた。
 なんの示唆も反省もあたへない興味ねらひの文字であるが、讀む方には、をかしくも何ともない。何だか、死に方まで云々するのは、すこしおせつかい過ぎやしないかと思はれただけである。
 しかし、ひとの死に方まで氣にするのは、東洋人の特性かもしれない。年齡にもあるが、私などもそろ/\、ひとのではなく、自分の場合を、折々、氣にかけ出してゐる。
 この、いやな期間を、なるべく早くから、超脱しようといふのが、禪などであるが、禪家では、自分で息をつめて、坐禪のまゝ、假死に入る修行もある。死んでみて、死がどんなにつまらないものか、生きてみて、生がどんなに他愛ないものか、悟るのである。
 そんなことを、何十年も、哲學してみて、では、悟れるかといふと、たいがいだめださうだ。やはり本當の超然死をとげた者は、宋代の中華の禪僧から、日本の鎌倉以降、五山から今にわたる無數の和尚のうちでも、いくたりもないさうである。
 よく、坐定、立定、火定などといつて、大悟した大往生のやうに名僧傳に書いてある死に方なども、あれは、禪からいつても、滿點ではないらしい。坐定はもつとも多く、火定は惠林寺の快川などがやつて有名であり、女でも鎌倉の惠春尼のやうな美僧さへやつて見せてゐるが、立定では、妙心寺の關山和尚があるのみである。
「たいへん御やつかいになつたが、この世も、いくらゐても、同じやうだから、ひと足おさきに、出立するよ」
 と、何でもない時、何でもない顏をして、道友に暇を告げ、旅支度して、關山は、妙心寺を出て、百歩ほどゆくと、そこで杖をたてたまゝ、立ち止つたのである。人々が、そばへよつてみると、もう死んでゐた。
 こんなのは、ずゐぶん超然たるものゝやうに思へるが、やはりお點は九十點ぐらゐな死に方で、決して、立派といへないのださうだ。
 なぜといふに、立定をして見せるといふ氣が、みじんでも、そこにあるからだめだといふ。なるほど、さういはれてみると、火定でも、坐定でも、意識がある。多少とも、死と鬪つてゐないものはない。
 そこへゆくと、明治何年かに歿した峨山和尚のは、すこしいゝ。九十五點ぐらゐにはいつてゐるらしい。――といふのは、峨山、久しく病んで、病いよ/\あらたまると、年來の弟子坊主を枕元へよびあつめ、枕に肘をかつて、息もたえ/″\、かう云つたといふ。
「やい、みな見ておけやい。死ぬといふものは、どうやつてみても、やはりなか/\苦しいもんぢやぞ。うつかり、おれはもう悟ツてゐるなんて、うぬぼれるぢやないぞ」
 と、ふう/\うめきながら、往生したといふのである。
 これを何かで讀んでから、僕などはたちどころに、こいつはいけないと觀念した。そして以後は、峨山でさへそのくらゐだから、自分などが死ぬときは、死にたくないとおもつたら「死にたくない/\」と子どもみたいに云ひ、もし泣きたかつたら、泣き/\死なうと腹をすゑた。

 この頃は、友人たちと、一しよに樂しい旅行をする機會などもさツぱりないので、或は、その後ちがつて來てゐるかもしれないが、僕の記憶では、旅行先などで、色紙畫帖などに、何か餘戯をと、筆墨をつきつけられた場合、たいがいは、まづ、君から、イヤ君から――などゝ押しつけツこになりがちで、恥を百年にのこすまいとするのか、この場合にだけは、自然兒も出てこない。
 この點で、いつでも機嫌よく、早速に、しかも誰の乞ひにも平等に、さツさと書いてやるのでは、久米正雄氏ほど、恬淡と氣樂さをもつて、やつてのける人はない。
 小島政二郎氏も、よく書いてやるはうだが、こつそり、君だけにはね、といふ所もある。
 なか/\書かないのが、大佛次郎氏である。書いても、楷書で署名だけときめてゐる。その大佛氏が、自由を愛す、と小屏風の貼りまぜへいちど書いたのをおぼえてゐる。もう不幸な大戰爭へ突入してゐた頃のことだ。別府の料亭だつたとおもふ。その筆を、醉つて書いてゐるのではないなと見てゐたこともおぼえてゐる。
 横光利一氏も、不承々々だが、わりあひに書いてやつたはうだ。哲學者の語などをよく書いた。佛典の一章などを書くのもまゝ見た。愛誦の辭句だなとそばで見てゐておもふ。太い、拙にして、雅味のある書體だつた。あの字を見てゐると、あんな早死にする氣はしなかつた。菊池寛氏にも、同じやうな感がある。

 うちの小學校四年になる坊主と三年生になる坊主とが、同級の友だちと、鉛筆を持つて、何か、書きあつてゐるのを、ふと、覗いてゐると、漢字の劃を、ヘンもツクリも、上からのも、下からのも、でたらめに、あつちこつちから、書き寄せて、一字の構成を、やつてのけてゐる。
 考へてみたら、この頃の小學校には、習字といふ科目がなかつた。
 習字がはりの習字としては、教科書の活字を見ながら、それを寫すことだけだといふ。
 もつとも、先生の方では、一は左から右へひき、口は左のタテの線を先に次にどうと、教へてゐるにちがひないが、その程度では、子ども自身、子どもの眼と手に從つて、思ひ/\にやりたくなるにちがひない。
 決して、書道、書風をいふのではないが、運筆の約束や、字劃の順序は、漢字を用ひる以上、充分、それを習得させておかなければ、將來、今の程度の子どもたちが、やがて多忙な事務や書簡をかくときに成つて、走り書きでもやり出したらお互ひに、讀み判じのつかないものができあがつてしまふだらう。
 簡易化や、制限はよいが、その範圍内の漢字の習字ぐらゐは、やはり必要なのではあるまいか。運筆の約束は、速度と、判讀の利を考慮されてゐる符號の科學であり、その舊手法を、亂雜にしていゝ理由はどこにもない。

 近くのA中學校から、校歌の歌詞をたのまれて、つい承諾してゐた。それから二年になる。春秋の運動會が近づくごとに、校長さんから、こんどの運動會には、まにあはせてほしい、作曲の都合もあり、子ども達も待ちぬいてゐるからと御催促がある。その都度こちらもくるしい云ひわけの辭を盡しては、遲延を謝してゐたが、たうとう、さきも堪忍の緒をきつたとみえ、歌詞は募集によつて選定することにしたから、さきの御依頼は取消したいといつてきた。
 正直、私はほつとしたのだが、子ども達を失望させ、先生たちにも徒勞を煩はした大罪を感じ、長文の手紙をかいて、お詑びした。そんな思ひをしたり、たび/\手紙をかいたりする暇には、歌詞ぐらゐできないこともあるまいにと、誠意を疑はれてもしかたがないが、よく/\自分の心をさぐつてみると、まつたくべつな理由が伏在してゐる。それは、自分はまだ自分といふものを、餘り信用するまでに到つてゐないことである。
 實際、自分はまだ、このさき死ぬまでに、なほどんな懶惰をやり、失敗をし、不名譽をまねき、人間的缺陷を暴露し、世間の非難をうけるやうな事がないとも限らない。書くものだつて、元來、讀者の方が、自分を實質以上、買ひかぶつてゐてくれるに違ひないのだから、いつかへりみられなくなるかも知れないし、自分自身も、老耄の後には、どんな拙惡なものを示して、自分へあいそをつかすやうな日がないとも思はれない。
 さうなつても猶、純眞はつらつたる童心の校庭で、そんな人間の作歌が、歌はれるとしたら、こちらは愧死しなければならないが、もちろん學校當局は、よろしくないと思つて、廢歌にするであらう。
 校歌などといふものは、さう折々變更されるのは、子ども達の心理にも、おもしろくない影響をもつであらうし――餘すところ少い自分の生涯へすら自信の持てない人間が、一時の興にのツて、作訶などしておいたら、大きな心の負債になるにちがひない。――そんな氣もちからついこの作詞はできずにしまつたのである。
 だが、困ることには、小説は、棺をおうてからでは、書けない。職業、とはいへ、作家とは、心臟のつよいものと、われながらおもふ。

 競馬場がふえ、競馬フアンもふえてきた。應接間の座談として、競馬が語られる時代がきた。その中で、時々、知人のあひだにも、“樂しみを樂しまざる人”がまゝ多い。――競馬を苦しむ方の人である。
 このあひだも、某社の、記者としても人間としても、有能な若い人だが、競馬に熱中して、社にも負債を生じ、家庭にも困らせてゐる人があるといふ話が出て――僕はその若い有能な雜誌記者を惜むのあまり、その人は知らないが、忠告のてがみを送らうとおもつて、客に、姓名まで書いておいてもらつたが、やはり未知の者へ、いきなりそんな手紙をやるのもためらはれ、必ず他にも近頃は同病の士も多からうとおもつて、こゝに書くことにした。
 ――といつても、僕自身、競馬は好きなのであるから、單に、競馬の弊を説くのではない。
 しかし、樂しみを樂しむには、害をも、理性にとめてゐなければなるまい。
 害を、強調する者は、よく、そのために産を破り、不義理をし、家庭をそこね、夜逃げまでするやうな例をあげて――だから有爲な者が、近よるべきでないと云つたりする。
 國營になつても、その社會害は、かはらないといふ。
 その通りである。だが、私はそれだけを思はない。
 あの競馬場の熱鬧は、そのまゝが、人生の一縮圖だと、觀るのである。あの渦の中で、自己の理性を失ふ者は、實際の社會面でも、いつか、その弱點を、出す者にちがひない。
 あの馬券賣場の前で、家庭を賭けたり、自分の信用や前途までを、アナ場へ、突ツこんでしまふものは、世間においても、いつか同じ心理のことをやつてしまふ危險性のある者にちがひない。なぜならば、その人間に、あきらかに、さうした素質があることを、あのるつぼの試練が、實證してみせるからだ。たゞ、競馬場は、それを一日の短時間に示し、世間における處世では、それが長い間になされるといふ――時間のちがひだけしかない。
 競馬場のるつぼほど、自分の脆弱な意志の面と、いろ/\な自己の短所がはつきり、心の表に、あらはれてくるものはない。自分ですら氣づかなかつた根性が、あり/\と露呈してくるものである。それを意識にとらへて、理性と鬪はせてみることは、大きな自己反省のくりかへしになる。そして、長い人生のあひだに、いつか禍根となるべき自分の短所を、未然に、矯正することができると[#「できると」は底本では「で きると」]おもふ。理性をもつて、自由な遊戯心を、撓め正すなんてことは、それ自體、遊びではなくなるといふ人もあらうが、人生の苦しみをも、樂々遊びうる人ならいゝが、さうでない限り、苦しみは遊びではなくなる――といふ結論はどうしやうもない。
 ほんの小費ひとして持つて行つたものを、負けて歸るさへ、歸り途は、朝のやうに愉快ではない。だから私は、以前の一レース二十圓限度時代に、朝、右のヅボンのかくしに、十レース分、二百圓を入れてゆき、そのうち一回でも、取つた配當は、左のかくしに入れて歸つた。その氣もちは、どんな遊戯にも、遊興代はいるものであるから、あらかじめ、遊興費の前拂ひとおもふ額を、右のポケツトに入れて出かけるのである。左のポケツトに殘つて歸る分は、たとへいくらでも、儲かつたと思つて歸ることなのである。――だから私は、どうです馬券は、と人にきかれると、負けたことはありません、と常に答へた。歸り途も、いつでも、朝の出がけの氣もちのまゝ、愉快に歸るために考へついた一方法である。

 みんな金を持つて、金を捨てにゆく群衆が、どうして皆あんなに愉快さうな顏を揃へてゆくだらうか。時にふと、あの朝の夥しい足なみを、ふしぎに眺めることがある。
 競馬は、人間のひとつの強い慾望を、濟度する不可思議な力をもつてゐる。
 競馬場に集まるほどの者は、もとより君子賢人ではない。利慾にも旺盛なら、金錢にも一ばい貪慾であるべきはずのやうに思はれてゐる。事實、見るからに、紙幣の洪水の中で、血眼な顏が無數である。
 だが、自分の知つてゐる範圍や、バスの中で一しよになる人たちを見てもその朝の他愛なさといつたら、事競馬に關するかぎり、誰も彼も、まるで子どもみたいな稚氣に返つてゐる。どんな強慾でも拔け目ない男といはれる者でも、例外なく、少年時代の遠足氣分をそのまゝ持つて出かけてゆく。
 また、競馬場の中では、案外、スリや強奪が少ない。國電などの場合と比較したら、豫想外に、そんな被害はない。おもふに、スリも、あの他愛なきるつぼに立ち交じつては、たゞ單に、人のポケツトの物を、自分の懷中へ移轉させるだけでは、彼のほんたうの慾望が滿足できなくなるにちがひない。スリも、馬券を買つて、的中した歡喜を穴場で味はひたくなるのだ。私はさう思ふ。
 競馬の眞味を知らない人が、あの混雜と血眼だけを冷眼視して、もしそれを、淺ましい俗のすがたといふならば、さういふ人自身のうちに、つゝまれてゐるものこそ、もつと淺ましい、俗の俗なるものである。

 若いまじめな人が、或る折、云ひにくさうにしながらも、眞摯な面もちで私へたゞしてきた。近頃の雜誌に出た“性慾は果して禁斷の木の實か”といふ座談會記事だの、それに似よつた性座談會や文化人、わけて文壇人などのいろ/\なことばをとりあげ、信じていゝものでせうか、と訊くのである。
 信じる信じないは個々の自由ですよ。私には、さう答へるしかない。かう云つてゐることは、眞實でせうかと、また問ひつめてくるのである。若い人は、たしかに、惱んでゐるらしい。まじめな者は、更に、迷つてゐることも事實である。私には、かはいさうに見えた。餘りにも、近頃の先輩たちの性談は、その豐富な體驗にまかせて、奔放でありすぎる。これからの、夢たゞならぬ若人たちにとつては、却つて、懊惱のタネになりやすい。
 文壇人は正直ですからね、云つてることは、みな本當にちかいですよ。そのほかの文化人たちの説も、信ずるにたりるでせう。うそをいふ必要のない問題ですからね。――と、私は答への前提をおいて云つた。
 けれど、それを信じた通りに實踐して行つて、それが、人生の岐路において、過程において、かりに生涯の不幸となつた場合がきても、たれも、責任のもちてはありませんよ。責任つきの座談會なんてないですからね。話してゐる者にとつては、たしかに一夕の座談にすぎないんです。また、それ等の人たちの人間觀でも、性愛觀でも、その人が生涯不變としてゐるものぢやありません。四十代の作家も、五十になつたら、ちがつた人生觀をもつやうにです‥‥もし違つて來なかつたら、その人は、生長してゐないやうなものでせう。
 僕はおもひますね。と、こんどは自分の愚説をのべた。――おたがひ人間のもつ性慾は、たとへば造化の神が人間の誰にでも平等に附與してくれた天工の樂器のやうなものと考へたいんですよ。男女各々が、生れながら持つた名工の作の樂器とおもふんです。妙齡ともなれば、自然にこれを彈きたくなります。けれど、この名樂器をかなでるには、充分な扱ひの練習と、曲譜の勉強から初めなければなりません。青春に逸つて、いたづらに彈奏して、樂器をそこねたらどうなるんでせう。初歩の譜から、小學生のごとく、素直に、謙虚にまなんでゆくうちに、妙を會得するのではないでせうか。小夜曲でも何でも、思ひのまゝ、長夜の奏でと、人生の長い行旅の伴侶として樂しんでもゆけるのではないでせうか。
 いきなり、少年にたいして、火酒の味を説くやうな性愛談は、僕にはおそろしく聞えますなあ。火酒ほどでない古典の作品を耽讀してさへ、少年時代すでに僕など、後に悔いをかんだ記憶がいまにありますからなあ。
 若い客は、うなづいて歸つたが、さて、つよい風潮のなかへ歸つては、何うだらうか。僕は、僕の愚説が、いまの若い人々などには、耳をかされないことを知つてゐる。
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 君はまだ髮が黒いぢやないか、とよく人から怪しまれる年齡になつてきた。をかしな次第である。どうして白くならなければいけないのか。義務があるのか。人の心理が分らない。佐佐木茂索も黒い方だから、こんど會つたら訊いてみようと思つては訊き忘れてゐる。たぶん人類のつきあひを知らん奴だといふ事なんだらうと思ふ。小島政二郎、濱本浩など、ひとの顏を見るたび、麻のごとき頭髮を撫して、やたらにひがむので、ぼくも今年あたりはぜひ四、五本でも白くなつて欲しいと念じてゐるが、今のところ初霜ほどな白さも見えない。困つたものである。老人特有な老いの風情といつたやうな人柄に接したり、よそ目に見るのは、惡くないものだ。年をとるならあゝ成りたいと常に思つてゐる境地である。

 いやなぢゝい、いやなばゝあ、といふ者は家の中にも世間にもずゐぶん多い。これがもつと、いゝぢいさん、いゝばあさんに成り揃つてくれると社會はも少し景色がよくなる。人も助かるし若い者の品性も良い反應を示すであらうと思ふ。いや、ひと事でなく、自分も相成るべくは、いいぢゝい組へ加入したいものだとそろ/\思ふのだが、さて年を老るのも易しくない事だと心のなかでもう躓き始めてゐる。青年期の熱病とか盲目とか、人生の關門は青春にだけあるものと思つてゐたら、初老、中老の途上にも、ひとつの試練期があり、漫然と年だけ加へてゐたゞけでは、いゝぢゝいには成れさうもないことが分つた。青春の危險は、生理的な感能感情に左右され易い爲といふが、老境にもそれとひとしい生理上の變化があつた。いやなぢゝいの表情、狡智、横着、陰險、短氣、悠長、硬直などすべての「いやがらせの年齡」的なものゝ多くは、生理症状であつて、ほんとのその「人」ではない。
 さうも云へるし、またその「人」の眞性は、あらゆる後天的な教養だの色氣だのといつた僞粧が、生理的にすつかりタガの弛み出した老境になつて、初めてほんとの人柄を出してくるのかとも考へられる。どつちにしても、いゝ老人になるのも又、いゝ青年になりいゝ壯年期へ向つてゆくやうに難しいものだと近頃感じ出してゐる。

 いつか、話ずきな志賀直哉氏との雜談のうちに、あのよく年をとつたよい老翁といつた感じの顏を見ながら、ふとそんな話題をもち出したら、自分はそんな心がけをもつたことはないと云つた。老いる儘、ふんわり老いてゆけばいゝさとも云つてゐた。成程と思はれた。漁夫田老の中に見る自然と共にあるやうな人間の年輪の光澤はさうしたものにちがひない。けれど市井の中で突ツつき突ツつかれ合つてゐる生活神經ではさうもゆくまい。自分などの接觸も志賀氏のやうに超然と閑窓を守つてゐられないから困る。訪客ばかりでなく、また、仕事の性質もである。その點、自然美とかあるひは物の美を對象としてゐる畫家なども、いゝ老人となつてゆくには都合のいゝ仕事といへやう。總じて顏だけ見ても、老畫家などにはいゝ顏が多いのはそのせゐである。

 よい老人のよい顏といふものは美人よりもむしろ印象的である。幾つかを思ひ出すことができる。
 何かの用でぼくのタクシーが東大(その頃の帝大)前の電車道を横斷しかけた。すると線路を越えかけてゐた老人が自分の外套のすそで可愛いゝ孫を抱へながら、ぼくの乘つてゐる車へあわてゝ手を振つた。その老人の顏がじつに慈愛にみちたいゝ顏であつた。それから二ヶ月程たつと、新聞に大きく同じ顏の寫眞が出てゐた。二・二六事件で殺された高橋是清氏であつた。あんないい顏を短銃で撃つた人の氣がしれない。
 陶工の河合卯之助氏の老顏もいゝ。ろくろを懸け、酒をのみ、ろくろを懸け酒をのみ、あんな顏が出來たのだらう。酒は呑まないが、社會黨の鈴木茂三郎氏の顏もあたゝかい。政治家にしてはきりやうが好すぎるといひたいのである。ぼくの近村にゐる川合玉堂氏などは、あの畫趣と平和な歳月をそのまゝ人としたやうな顏である。なぜか同じ畫家でも大觀氏には苦澁がある。青邨氏となると、童顏だ。まつ白な髮がをかしいほど童色をたゝへてゐる。何かの席で、この頃ひどく健康な正宗白鳥氏のことを、誰かゞ童顏だな、と云つてゐたが、白鳥氏のは、もつと古怪な氣味があつて石みたいだ。云つてみれば寒山子か拾得子のやうである。
 文壇にはまことに古怪が多い。顏が何かを象徴するものならば、それぞれ自己の生涯と文學を顏に裝幀してゐると思つてもさう見當ちがひではあるまい。永井荷風氏は直接に知らないが、潤一郎氏、春夫氏、犀星氏、如是閑氏と、いちいち例にあげてはすまないが、おもしろい。
 美人といへば、むろん若いといふ意味をふくむが、老美人といふものもある。多くは知らないが、先年、三淵忠彦氏の未亡人を小田原に訪ねたとき、裏の椿山莊から石段を降りてきた七十幾歳かの老美人があつた。むかし山縣有朋氏の何かであつたと聞いたが、梅樹の下であいさつしたとき、何か中華の美人畫を想ひ出したことである。また千葉胤明氏の子息の結婚式でテーブルの向ひ側にをられた梨本氏夫人も、老美人のひとりに數へられよう。以上の二人は、いはゆる名門美だが、どうかすると街頭や山村などにも、さうした老美人はゐるものである。ほんとの美質といふものであらう。
 老について云ふと、きりがない。老なるゆゑんかもしれない。ぼくは四十になつたとき、「四十初惑」と云つたりしたが、六十になると、また「六十初惑」なんていふことが云ひたくなる。どうもだんだん歳月感といふものが稀薄になつてゐるのかもしれない。去年、三角寛がやつて來て、赤い座蒲團だの、ヘンてこな羽織や頭巾などをくれて行つたが、押入の中へ突つこんだまゝ忘れてしまつた。文藝家協會の文學祭で、還暦作家祝ひといふので、記念品を贈るといふことであつたが、それにも出かけなかつた。そしたら記念の手箱を屆けてくれた。これなら使へるので机のそばにおいてある。還暦とは、耳順といふことだが、現代の社會音政治音が耳にはいつてくる限り、どうも耳順にはなれさうもない。せめて記念の手箱を耳袋として、こつ/\小説資料でも蒐めながらよいぢゝいにだけでも成りたいとのみ願つてゐる。
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 先づ、今度の菊池寛賞受賞のことでありますが、初めに「キミに賞を」といはれた時、私はどうしようかと思つたのであります。といふのは、私たちの仕事、つまり、大衆を相手とする文學は、日ごろの讀者大衆の支持と反應こそが、大きな張合ひでもあり眞實な批評でもあるからであります。つまり讀者の應へそのものが、何よりの受賞であります。それで貰ふならば、大衆の手による大衆賞を、貰ひたいと、常に思つてゐるのであります。(拍手)
 最初の約束において、すでに大衆の文學といふことを標榜してゐる以上、社會人の健康な應へが何より私たちを勵ますものだといふ考へは當然だと信じてをります。といつて讀者を意識しすぎてはいけませんし、また、それでは文學本來の使命にもとりますんで、大いに惱むところでありますが、まあ、私などがそれくらゐな精進をするのは、當り前なことで、大して賞められる程なことではございません。むしろこの、多數を對象とする文藝の部門では、ともすると、その仕事の性質上から、實質以上に虚名を謳はれやすいといふことも、いつも考へさせられてゐます。私なども、つらいやうなイヤな氣もするんですが、年々税金のトツプにおかれてゐるやうなわけで、正直、むくいられる點では過分なほど報いられてもをるのであります。(笑)それにおなじ文學に精進してゐる人でも、ごく目立たない地味な仕事をしてゐて、まことにめぐまれないで居る人々もあるのを知つてをります。さういふ人々の前に私などがこんな賞を貰つていいかどうかも、反省させられるのであります。つまり、今日の文壇水準からいつて、惠まれるところだけが、惠まれすぎる嫌ひがあり、その上、ややもすれば、私なども虚名を受けすぎてゐる方であります。さう省みられますので、じつは、この二つのことから、今度の賞をいただいては、有難迷惑だ(笑)といつては、言葉が過ぎますが、有難當惑といつたあんばいで、何とも申譯ない氣がしたのでありました。
 けれどまた、ひそかに欲目を出して考へますと、今度の受賞は、生前、私も敬愛し、親しくしてゐた故菊池寛氏の賞である、菊池氏がくれるんなら貰つておかうかといふ氣になつたのであります。人間この年になりますと、いろいろと、考へまどひ、――おほむねつまらぬことでありますが――結局は狡い方へ落着くものでございます。(笑)

 ところで先程、發起人の一人、夢聲氏から暴露されましたが、私は實は結婚式もしてゐないのであります。(笑)もつとも新婚旅行はいたしてあります、この點は訂正いたします。(笑)いや、それのみではありませぬ。賞を貰つたのは、實は私は、今度が初めてであります。競爭馬の賞は、一昨日(三月二十二日)貰ひましたが、これは、無知なる動物をそそのかして搾取したもの(笑)でありまして、取つたのは、馬でして、これは私の克ちえた賞とは云へないのであります。(笑)
 およそ、私は不徳な人間で、自分のこれ迄の生涯では、私自身の祝ひ事らしいことは、一ぺんもしたことがないのでありまして、結婚披露もしてゐない、出版記念會もしてゐない。(笑)四人の子供の誕生日は缺かさずいたしますけれども、私たち親の誕生日はしてゐないのであります。
 この前、去年ですが、還暦を迎へましたんで、お祝ひをやつたらどうかといふやうな話も周圍から出まして、その折、三角寛氏などは、ある日自動車一パイ何かのせまして、赤い烏帽子やら、赤いフトンやら、お猿のチヤンチヤンコみたいな祝物をうんとこさと持ち込まれ、おめでたうといひに來てくれました。しかし、どうもその、私には、ちつとも、おめでたい氣持になれない(「その通り」の聲)。で、そのお祝物は、そつくり押入れにつつこんでしまつたきり、つい仕舞ひ忘れてしまつたのであります。(笑)ところが、先日、友人の春海君らと、熱海のうなぎ屋の「重箱」へ食事に行つて、重箱のばあさんを、からかつたりしながら一パイやりました。その時、ばあさんが何かの話から「わたしも今年は還暦になる」とほくほく云つたんです。そこでふと、押入れのものを思ひ出し、三角君のお祝品をそのままそつくり、このおばあさんにやる約束をしてしまつたのであります。(笑)この席で、三角君に對し謹んで謝罪とお禮を申しておきます。(笑)まだ結婚披露もやつてゐない花聟に、還暦の祝を先にされては困るからであります。(割れるやうな大拍手)
 さて、結婚披露の方でございますが(三角寛氏は、持參のカメラで、吉川氏夫妻をしきりに撮影する)どうも、すこし、あがつてしまひます。(笑)
 實は、ここにゐるのが、花嫁の文子と申します者で(場内に小波のやうな笑ひ)私は、御承知のごとく、前の家内とは離婚し、二度妻をもつたのでありますが、それはもう今を去る十九年か二十年前のことになるのでございます。現在恐妻會の總裁とか、會長とか申しまして天下に令名サクサクたる阿部眞之助――この阿部老は、一昨日突如、東北へ講演旅行にゆくと稱して本日の會には出られないからよろしく、と通知してまゐりました――もし今日、ここへ來てゐたら、私ども夫婦が一刀兩斷にしてしまはねばならない(笑)と思つてゐたのであります。
 その事情と申しますのは、これも二十年も前のことですが、川原湯温泉の一夜、阿部老が奧さんとの將棋の上で、じつにハタの見る目も憐れなほど、奧さんからコテンコテンに叱られたり負けたり、何ともおなじ男性として見るにしのびないほどヤツつけられてをりましたのを、歸京後、私が友人間に洩らしたといふので、以後、いまだに女々しい恨みをいだいてをりまして(笑)、ややもすると、吉川英治もわが黨の恐妻家であるなどといふ風説を撒きひろめ、昨年の文春でしたか、何かの誌上にも、恐妻家列傳の中に私のことを長々と書いたりいたしました。が、實はこれは阿部眞之助自身の話が多分に混入してゐるのでございまして‥‥(笑)
 小生にとつては現在の新郎新婦には何らかかはりのないことでございます。まことに恐るべきデマ、いや、デマ製造家でございます。(笑)しかしじつを申すと、私もたしかに以前は、恐妻會の副會長位の資格があつたには違ひございませんが‥‥それは前の家内とのことなんです。(笑)
 けれど、世間の方たちは、知りませんから、そんな阿部傳説が世間に擴がりますと、地方の女性讀者の方などから「あなたは、奧樣に、そんなに不幸な方でしたか。何なら私でも‥‥」(笑)といふやうなお手紙もまゐるといふわけでございました。(笑)私は憤慨いたしました。新婦にたいしても困ります。(笑)けれどこれも私が結婚披露をやつてない事に原因があつたわけであります。阿部老のごときは、時に吉野村の私の家へもまゐり、文子とも會ひ、その後を知つてゐるはずであるに拘らず、さにあらずで(笑)何とも、友達ガヒのない男でございます。(笑)
 ところで、前の家内と離婚後の二、三年は、よく銀座裏を放浪してゐたものですが、ある折、「ああ、こいつだ」(笑)とつかまへたのが、今、ここにゐる花嫁でございます。家計のため銀座へ働きには出てゐましたが、まだ西も東もわからない乙女でして、もつとも西や東が分つてゐたら私の手にはおへませんが、分らない樣子なので、これをと見こみをつけました。いつたい、私は借家でも椅子でも、これと思つたら、きつとそれに腰かけてしまふ。(笑)さういふ一途な性格がございます。ただ女性に近づくことは、生來、甚だ不器用なんでありますが、少年時代には、トンボをつかまへるのは上手でございましたから、その自信を以て彼女に近づきまして、今になると、新婦にはお氣の毒な至りでありましたが、まんまと、手に入れました。まあ、たぶらかしてしまつたのであります。(大拍手)

 さきほど、徳川さんが結婚式も新婚旅行もやらなかつたといはれましたが、どういたしまして、新婚旅行の方だけはやつてをります。(笑)
 たしか、あれは、伊豆の湯ヶ島でしたか‥‥、旅館の廊下で運惡く、誰だつたかな(傍らの文子夫人の方へ顏を寄せて「誰だつた?」に爆笑)――さうさう中野實君でした。惡い奴、いや惡い人(笑)にみつかつたと思ひましたが、こちらも圖太く構へて二日二夜すごしました。するとつぎの朝早く、中野君が私の部屋を訪ねてきました。ひやかしに來たのかと思つたら、緊張した面持ちでした。
「赤紙がきた」
 といふわけです。當時、今からもう十數年まへで、御承知の中日事變がはじまつた頃で、中野君は倉皇として發つ。私たち、うひうひしい新郎新婦はあとに殘される、といふ意外なことになりました――。そのころからです、もう身邊あちこちの知人の間に應召の“赤紙時代”が押寄せてまゐりました。さういふ中で自分たちの結婚披露でもあるまいと思つてゐるうちに、やがて太平洋戰爭になつてしまひました‥‥。
 もうひとつ、結婚披露をためらつていたわけがあります。前の家内との頃に、さる人のすすめで一人の養女を家庭にもらひうけてゐまして、その娘が淑徳女學校に當時在學してをりました。私が結婚披露をすれば、何しろ、年頃のことです。感じ易い時代でもありますので、世間にもよくありがちのやうに、女學生同士のお友達から「あなたは、お母さんが二人いらつしやるの?」などと、いはれたりしては可哀想だと思つたのでございます。(會場すすりなきの聲)‥‥それで、とても結婚式どころではないと思ひ定めてをりました。ところが、この子はあの三月十日の東京大空襲のさい、女學校から女子挺進隊にとられてゐて私のそばにも居られませんで、つひに戰災のもとに死なせてしまひました。(すすりなきの聲)‥‥やがて終戰、そしてあの、今度は戰後の世態です。とても御披露どころではない――、そのうちにまた、「新・平家物語」です。(笑)そんなこんなで、まことに遲くなりましたが、ついつい十八年間、私どもには、結婚式を擧げる間がなかつたのでございます。決して、世間一般の結婚式を否定してゐるわけではございませんので、自分のまはりの弟妹でありますとか、身近な者の結婚には、どれもさゝやかながら式はやらせて來てゐるのですが、自分自身の方は、不徳にして、ついやるひまもなく來てしまつた次第でございます。で、今日――ここに來て私のそばにをります女房は、これはまさしくわが家の女房でございますので(笑)――多少年はちがひますが、ひとり阿部眞之助老だけでなく、幸いに、ここにお集りの方々も、とくと御覽おきを願つて(笑)なほ將來よろしくおねがひいたしたいのであります。
 もし、菊池賞をいただかず、今日の機會をのがしてしまへば、おそらく私共ふたりの結婚式は見ずじまひで、結婚式と吉川英治の告別式とが重なつてしまつたであらうと思はれます。きつと花嫁は黒の喪服姿で結婚式をあげることになつたにちがひありません。(爆笑、哄笑、すすりなき)それが今日、かういふところで、新郎新婦めでたく相並び得ましたことは、ひとへに亡友菊池氏の名を冠したこの賞のおかげでございました。まことに有難いことと感謝してをります。(われるやうな拍手)一層の精進を重ねなければ申し譯ないと思ふのであります。

 さて私ごとにばかり亙りますが、もうひとつ、御紹介申しあげたいことがあります。
 じつは、この一週間ほど前、三月十五日、わたしの幼少時代の小學校の先生――山内茂三郎先生にお會ひできました。五十年もまへに教はつた先生でございます。横濱の教育界にあること六十七年、ことし八十八歳になられます。殘り少い同窓生で、先生の米壽をお祝ひいたしたいとのことで、私も駈けつけまして、横濱の山ノ手の一校舍で、老先生を中心に、樂しいお祝ひ日を過したわけでございました。
 考へてみると、私は、自分の過去に、あの學校生活といふものの味は、小學校の校庭しか知らないのでございます。ですから、私には、恩師となつかしめるお方は、この老先生おひとりなのでございます。その晩、私は同窓の人たち五六名と、老先生御夫婦をおつれして、よそへ食事にまゐりました。そして米壽の赤いワイシヤツを着た老先生と御夫人を床の間に、きれいな藝妓さんをあげて子供みたいな大騷ぎをやりました。
 先生はこの年で藝者さんと遊んだのは初めてだと仰つしやるんで、私たちは先生の晩節を破つたわけです。(笑)それも愉快になつて、むかし歌つた「汽笛一聲新橋を‥‥」だの「箱根の山は天下の嶮‥‥」なんていふ唱歌を大聲で合唱し出しますと、先生もお顏のシワに涙を溜めて、手拍子をとりながら「箱根の山は天下の嶮」を唱はれました。そして、ぜひ、自分も今日の記念會に來たいといはれ、わざわざ、今日ここに横濱からお出で下さつたのであります。(大拍手)
 まことに、何やら感慨にたへなくなりました。先生が八十八歳、生徒の私が六十二歳です。七つ、八つのころから、文字通りイロハのイの字、ABCと教へていただいた先生を、五十年後の今日、このやうな席に、お迎へすることができたといふのは、長い人生としても、ことに私ごときに、望外なことでありまして、何といつてよいか言葉にもつくせない‥‥(吉川氏嗚咽‥滿座肅然、東京會館ウエーター君まで貰ひ泣き)‥‥このうれしい機會をめぐんで下さいました故菊池寛氏といふ有難い友人、また日頃、仕事のため、不義理ばかり重ねてをりますのに、寛大な御參會をいただきました滿堂の皆樣に厚く御禮とお詫びを申しあげます。(大拍手)
 本當に有難うございました。(大拍手)
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 常春とこはるとか常夏とかいふ語はあるが、常冬とこふゆといふのは眼にふれたことがない。そんな熟語はないだらう。けれど事實の上ではあつたといへる。また觀念的にはさういへるものがある。前者は、史上にみえる寛喜くわんき年間のやうな長い天變地異のつゞいた季狂期をさして。後者は、戰爭前夜から昨今までのこれも長い世相の頽亂と日本の良心の凍結といふ恐怖的な現世代をさしても――である。

 寛喜年間の常冬といふのはいつたいどんな世の中だつたのかといふに、これは歌のみちで名だかい藤原定家の日誌の『明月記』と五位ノ藏人經光の日記の『民經記』とにもつぱらくはしく書かれてゐる。定家はその頃六十八、九歳の老齡。經光は中納言頼資の息子で十七、八歳から二十歳はたちがらみの青年期に體驗した事實だつた。で、史學專攻家は配合もいゝこの二書を基本にして、なほ吾妻鏡とか隨聞私記とかいふ當時のものを捗獵し、その研究はもうよほど以前の史學雜誌にも報告されてゐるのである。もちろんわたくしのこゝに語るごときは、それから一歩も出てゐるものではない。けれどこのごろ稀々、定家の晩年を知りたいため『明月記』を見てゐるうちに、隨所に寛喜の世相と今日この頃の世間とがおもひ合はされ、以前は何氣なく讀み過ぎた寸行の記事にも、今日では心大いにおどろくものを抱かせられた。そこで、そんな事もあつたのかと多少時感の反省にもなりさうな話だけを他の書物からも拾つてこゝにこの記をかいてみるわけである。

 鶴ヶ岡八幡の銀杏いてふの下で、源實朝が別當べつたう公曉くげうに刺されてから十年目。親鸞が若い眉に時代の意志を象徴させて、佛教革命をひつさげ庶民宗教としての新しい淨土眞宗を町に唱へ初めてから六年目。
 寛喜元年は、その頃にあたる。――一二二九年だから逆算すれば今から七百十九年前である。
 覇府鎌倉はほろび、北條の政策もまだ人心を安めるには足らず、文化は低落し、宗教は宗教家自體から腐れ、坊主も武器を捨て得ないといつたやうな社會不安の久しいうちに、『時と庶民』はいつのまにか恐怖的な無季節の天地と、常冬の生活にはいつてゐた。
 すでにそれ以前の承久の四年間も貞應の三年間も、作物は惡く、疱瘡は流行するし、何となく社會不安はやまないで、一般の生活はつかれてゐたところへ、寛喜元年の前の年の十二月には、鎌倉大地震があり、新春にはまた二回も關西方面に大震があつたりして、かういふ惡歳に氣を病むと、必ず『改元』をいひ出す公卿や爲政者も、新に『寛喜』と年號をかへたばかりのことなので、生活不安の底にある一般庶民と同じ樣に、只何となく凶歳來の豫感に怯えながら社寺祈祷でもする他何の策も無かつたらしい。
「ことしはすこしへんだぞ」と云ひあつてゐた豫感はあたつて、その年の夏六月九日、美濃みの、信州を中心に、諸國に大雪が降り出した。吾妻鏡、鎌倉年代記などの記事によると、美濃がよひの飛脚がこの椿事を同月十六日に京都へ報じ、美濃路で積雪三寸の餘と云つてゐる。
 關東地方はといふと、武藏入間、金子郷あたりで、雪まじりの雨や雹が降つたとある。また京都の町では、老人の定家の日記に、
「夏といふのに、夜は秋天に似、晝も涼風がふき、とてもうすものではゐられないから小袖を重ね着する」とある。
 ところが、七月には更に全國的に霜が降り、その間も冷雨がつゞき、咲きかけた槐の花もみな腐れ落ちた。九月には、草木の葉も枯れはてゝ冬景色を見せはじめた。そしてつひにその年は夏無し秋無しに過ぎ、十一月になつて麥の穗がやつといつもの三月頃の程度に出揃つたのを眺めて、「これはいよいよたゞ事でない」と、定家も日記におどろきを書いてゐる。そして彼も、諸方の公卿屋敷でやり初めたやうに、家人に命じて庭園を掘り返し、泉も築山もみな麥畑にする耕作をやつてゐる。
 定家の日記ばかりでなくほかの記録にも、このときの季節異變には、信じられないやうな記載がみえる。『明月記』の十一月二十五日のところに「ほとゝぎすが啼く」とあり、類聚るゐじう大補任にも諸家が麥の耕作に熱中することや時鳥の事のほかに「十二月十八日、きり/″\すの啼くのを聞いた」とあり、立川寺年代記には「冬空なるに蜩蝉ひぐらし鳴く」とあつて、これはどうした事だらうと、自分のあたまを疑つたり、恐怖したりしてゐる。そして時人は、かつて推古朝の三十四年六月にも、大降雪があつたことを回顧して、やがて當然に來る飢饉におびえ上つてゐた。
 不順はつゞいて、翌二年の八月には大暴風雨があつた。この颱風は全國的なもので、定家は、八月八日の午後二時頃、訪客の大宮三位を送り出してから間もなく大風襲來で邸内の樹木も折れ出したとつぶさにもやうを日誌してゐる。しかも對島地方[#「對島地方」はママ]、關東地方などには、九月にかけて二回も颱風が見舞つてゐる。
 そのほか季節の狂ひから地上にはろくなことはなく、明けて寛喜三年になつたら、いくら何でもこんな惡歳はやむだらうとおもつてゐると、依然春へかけての霖雨はやまず、また八、九月には大暴風雨があつて、京都では加茂川の大はんらんが起り、全國の河川田畑の損亡は耳目もこれを知りつくし得ないとまで嘆じてゐる。
 この結果はいふまでもない地上の人間の慘状になつた。諸國からの貢税は絶え、餓死者、病人、捨兒は街路にみつといふ有樣だつたが、國家に救濟の力もない。例へば獄囚も喰はせておけない爲にこれを放ち、番人も惡徒に從つて、食を求めに走るといふやうな状態。
 當然、都も田舍も惡徒の活躍にまかせてしまつた。當時のことばを以ていへば『天下ニ群盜横行ス』である。放火、強盜、殺人、窃盜、威嚇などはすべて白晝の出來事だつた。無數の良民は餓死、病死、離散をとげ、路傍に山をなすむくろの上に、むくろを積んでゆくしかない。しかもあはれむべき無策の爲政者と無知の民衆のあひだでは、(これはきつと餘りに餓死者を道や川原へ捨てるので、この七日は祇園の御神輿迎へだから、きつと天が不淨の大掃除をするために、こんな洪水をおこしたにちがひない)などと云つてゐた。

 宮中でも社寺でも祈祷ばかりが行はれた。けれどその祭事や讀經に徴せられてゐる雜役たちが病み仆れたり、結願けちぐわんの日の神饌や供物を奪つて逃亡したりしてしまつてゐる。主上もまた九月一日に持明院へ御祈願にお出ましになつてをられる。ところが行幸のお道すがら大宮大路までくると、道に死骸や病者が充滿してゐて、お輿の進みもはかどらず、さらにお輿をかついでゐる輿丁よちやうや雜人たちからして空腹を訴へ、つひに陛下のお輿こしを路傍にしてみな平臥してしまつたとある。これはそのとき十九歳の五位ノ藏人くらんど經光が目撃してその日記『民經記』にかいてゐる状況である。そこでお供の武士がやむをえずお輿をかつぎ奉つて、からくも渡御あらせられたものゝ、還御のときにまたこの失態があつてはと、供の人々にはお着きになつた先で内々食を宛て給ふと傳へてゐるのである。
 かういふ社會異變は、おそらく枚擧にいとまもないほどあつたのではあるまいか。これより前の四月中の日誌であるが、それには次のやうな記事がみえる。
 四月二十六日、こんど皇子が秀仁親王とならせ給うたので、その御祝典にさゝやかながら饗宴の御式が執り行はれることになつた。ところがその際、宮中の雜人たちがやにはに殿上に昇つて饗膳の食物を爭ひ奪つて逃げてしまつたといふのだ。覇力主義で階級別のひどかつたあの時代の事としてこれはおどろくべき事件といつてよい。しかもそのあくる日には大納言兼右近衞大將の藤原實氏が内大臣となつたので、その任官祝賀の會でも、同じやうに雜人たちが押しかけて來てその饗を奪ふといふ記事がある。以て、一般社會状態の混亂がどんなに恐怖的なものだつたか想像にかたくない。

 あちこちのそんな事實を拾ひ出せば拾ふにも拾ひきれない。定家の息子の爲家が、老父をたづねてこんな世間ばなしを聞かせてゐる。「この頃の人間は牛でも馬でも見つけ次第喰べちまふさうです。その骨を捨てちらすので野鼠がたいへん殖えました。いまにその鼠も喰べつくしてしまふでせう。官廳で云つてゐることにはもう天下の人民の三分の一は飢え死にしたんぢやないかと云つてゐます。今朝聞いたことですが、中納言どの(藤原實基)の許に永年仕へてゐた雜色長の老人も、飢じさにたへかねて、先公のお墓まゐりにゆくと僞はつてお館を出て、どういふつもりだつたか徳大寺への途中で斃れてつひに道で死んでしまつたさうです」
 定家は自分の家にもさういふ老人や家人を抱へてゐるのを思つて内心慄然としたとある。その時代、牛馬の肉などはまだ一般には絶對に喰べない習慣だつたのである。
 又或る日、定家を訪れた一客人はこんなことを彼にはなしてゐる。「いやもう世の中はどうなるのかわかりませんな。都のまン中に住みながら一夜もまんじりと寢られたことはありません。この月四日のことですよ。坊門の南洞院にある宰相家に群盜が押入りました。また賢寂の宅へは毎晩、車馬に乘つた群盜がやつて來て佛像から内陣の帳までひツぱがして奪ひ去つてしまつたさうです。火事は毎晩です。盜賊と家人との合戰から失火になるんです。六波羅の役人どもは、何を見たつて、駈けつけて來たことはありません」
 するとそこへ、召使の者や、息子の爲家なども來て、うはさを持ちより、ひとりが又かう話した。
「それは限りもないからですよ。いまでは誰が盜賊で誰が盜賊でないかは、おたがひ人間同士ではわかりません。先月の二十九日には、入道尹時卿の家人のうち三人もが實は群盜の仲間だつたことが知れて、獄へ曳かれましたが、それからまもなく又、四位ノ仲兼どのゝ從者は全部夜は群盜になつて荒稼ぎをしてゐたものだとわかつて、六波羅へ揚げられましたが、何ぞはからん、實は主人の仲兼も、それを後ろ楯してゐた張本だといふ嫌疑からつい先刻、繩付きになつて持つてゆかれましたよ」
 官位のある者ですらかうなつた。必然、京都の民家は、各戸に武器を購入し、各自の力で身をまもる方法をとつた。これが更に後の長い社會禍となつたことはいふまでもない。天臺の良快僧正が周圍に話したことでも、叡山においてゐた中年少年の弟子徒弟を養つてゆけないので、これを悉く飢えの俗界に放したと云つてゐる。これらの者が何をし又どういふ成人をして行つたかもおもひやられる。

 こんな世態のうちにも、太政大臣公經とか内大臣實氏などを中心とする一部上流貴族のあひだでは、依然たる王朝餘弊を生活にもつて、騎射競馬が催されたり、有馬温泉を別莊にひかせたり、若き『民經記』の筆者經光に悲憤をもらさしめてゐる例がいくらもあつた。さすがに執權の北條泰時は、明惠上人のことばをいれ、諸州の富者から米錢を強請的に借りあげ、窮民救濟にのり出してゐるが、おそらくこのときの未曾有の大飢餓にたいしては、いくらの施策ともならなかつたであらう。
 かへりみて今でも訓へられる點や反省されるものが多分にある。かういふ地上の常冬がやつてくれば、人間といふものはいつでもたちどころに人間初期の本相にかへり、自分たちでつくつたものを自分たちで破壞し、無警察無秩序の暗黒へもあまんじて自ら驅りこむ危險性を多分にもつてゐるものだといふことである。そして吾人は六百年とか千年とかいふ歳月はずゐぶん久しい進歩のあとみたいに思つてゐるが、實はこればかしの過程はまだ一民族のあひだでは眞に人間が人間へ移行する文明的階梯としてたいした時間でもなかつたのだといふことにも深く思つてみる必要がある。現におたがひのあひだでは、寛喜の常冬とはまつたく事態はちがふものゝ、わすれてゐた自分たちの血の中に、その時とひとしい恐るべき素質をもつてゐたことが眼の前の社會相にてらしてみても思ひ當らうではないか。
 また、春は花、夏は青葉、秋は月と、わたくしたちの長い生活文化の基調をなして來た日本の四季についても考へさせられる。日本の四季こそ樂しいものであり、四季なくして日本の文化はなかつたといつてよく、これからもわたくしたちをして本來の平和で優雅な國民に導き伴奏してくれる唯一の自然の友ではあるが、上代からの農民史や天災史などに據つてみると、四季は決して、日本に和樂や優雅のみをもたらしてゐる自然の惠みだけのものではない。夏の颱風、秋の洪水、冬の風雪、火山系に伴ふ地震の多さなど、自然はこの土壤の上の住民にたいして、實は酷烈過るほどな災害をも不惻に約してゐるのである。花笑ひ鳥歌ふ常春だけがお前たちの大地ではないぞと初めから明かに示してゐるのだつた。が、性懲もなくすぐ忘れてしまふのがこの國の者の明るい一面でもあつた。しかし、どうしてもこの土壤では勤勉でなければやつてゆけない約束にはなつてゐるやうだ。常冬はもうやつて來ないとは決していへない。
〔世間・昭和二十三年二月號〕
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 吉川でございます。少し顏が赤いかと思ひますが、實はここへ來ます前に、友人の杉本健吉畫伯が個展をやつてをりまして、ちよつと三十分ほど拜見してゐるうち、私が時間ばかり氣にしてゐるものですから、友人どもが、これから何處へ行くのかといふ。じつは澁澤敬三さんといふ罪な友達がゐて、僕は終戰後、人中ではお喋りしないと方々に誓つて出ないことにしてゐるのに、引つ張り出されてしまひ、やむなくそこへ行かなくちやならないといひますと、皆が笑つて、少し元氣をつけて行けといふわけで、別室でビールを一杯注いでくれたんです。ところが、さあなかなかさめません。時間は迫るし顏は熱くなつてさめない、自動車のウインドをあけて、お濠端を二、三回あつちこつち廻つて來たのですが、まださめません。(笑聲)たうとうかういふ赤い顏のままでここに立ち、非常に失禮不遜、申しわけありませんが、どうかお許しを願ひます。
 今夜の會がどういふ會だか、僕よく知らないのです。(笑聲)大變えらいお人の名ばかりが並んでをるのですが、恐らく、これはみんな財界知名の方たちで、お話もきつとさういふ面の有益な事だつたらうと思ふのですが、僕は何の話をしたらいいのか、そしてしなければならないのか、(笑聲)要するに僕は根つきり葉つきり僕の話をするしかないと肚を据ゑました。

 ところで經濟に關しては私は全然駄目です。第一經濟的な頭なんかがあるなら小説なんか書きません。小學校のときから、算術はすでに五點以下といふので通つて來てをるんですから。(笑聲)しかし僕らの、大體書齋人のグループを見ますと大概さうですね。(笑聲)そのくせ欲望は財界人にも劣らない、一ぱし計數に長けたやうなことはみないふのです。そして二た言目には科學的、科學的といふことをいひますが、その科學的たるや非常に怪しいものなんでして、たとへば、ダービーが近づきますが、菊池寛氏なんかよく馬に熱中してゐました。私もそれに感化された一人ですが、あの人のいはゆる競馬哲學、また馬券を當てる科學的算出法などは、非常に該博なものでして、タイムが一分何秒何分の一、そして馬は血統はどう、またこの馬の特性や馬場の條件などと、一氣にうんちくを羅列して聞く者を感心させます。そして、君、このレースの一着馬はこれだよ、これに決まつてゐると、豫想をつけてくれますが、有力な本命馬を一頭除外してゐるから、ふと、どうしてこの本命馬を君はレース檢討に入れてゐないのかときくと、いやその馬の持主が僕嫌ひなんだよ(笑聲)と大眞面目でいつたことがあります。文壇人の數學的頭腦なんて[#「數學的頭腦なんて」は底本では「數學的頭惱なんて」]、概ねこの類なのであります。甚だ無邪氣にみえますが、かといつて、無欲や恬淡と同じなのではありません。文學や美術、音樂など、何か藝術家であれば、大變物質から超然としてゐるやうですが、さにあらずなんです。(笑聲)超然としようとすれば、よけい妄慾になりやすいものでして、ここにもまた日本人の妙な一般通念があるんです。誰は文學者なのにとか、あの人は畫家なのにとか、すぐみんなが人格的に見るものですから、勢ひ書齋人、あるいは畫人、歌人といふやうなものは無欲恬淡が當りまへみたいに躾られてゐますが、そんなはずはないわけですし、事實そんな僕らでもないのです。物慾も大いにありますし、何か大づかみな計數は持つてをるつもりなのです。それで僕は計數といふものをかう思ふのです。人の性格のおのおのの中にいはゆる大勘定の人と小勘定の人がある。非常に精密な頭腦を働かして緻密に組立てた計數的生活をして行かれる人と、實は非常にずぼらのやうに見えてあにはからんや大きく結末の數字はちやんと事前に掴んでゐる人、かう二つのタイプがあると思ふのです。よくいへばわれわれ書齋人はその大勘定派なのです。その大勘定哲學からいひますと、私は金といふものに對してもかういふ考へを持つてをるのです。
 金のあり方といふことなんですが、金は、人おのおのの器量、頭腦、モラルに應じて、人々それ自體の器なみに分相應な金が持てたならば天下太平だらうと思ふ。それが皮肉にも常にバランスがとれないで、失禮ですけれども、持つべからざる人が多額に抱へこんだり、あいつはじつにいい奴だし、あれに持たせればいい仕事をするがなあと思はれる人間にはなかなか金が行かなかつたりするところに、人生の複雜さが始まり、金が描く社會相やら人間苦なども起つてゐます。また金のおもしろさもあるのでせう。しかし、金のありかたを、理想的にいへば、まあそんなふうに僕は結論づけてをります。

 それから僕らは資本主義經濟の中に生存してをりますが、資本主義の特徴には人間本能に則したなかなか面白いところもあります。資本主義社會は、いはば生存や成功といふものを、一つのチヤンピオンレースみたいな法則においてゐます。しかしその社會約束が、つまり資本主義社會が、健全に發達し呼吸しつづけて行くためには‥‥何といつたらいいかな、要するに、餘りに巨大な富のプールが出來てはいかんといふことです。あつちこつちに富のプールが出來過ぎると、資本主義社會は必ず病症も重態に陷ります。世相の危險信號はたちどころに起るんです。けれどそれが資本主義社會の繁榮みたいに見えたりもしますから、そこが危險だし弊害だと思ふんです。ですから流動資本主義、そんな言葉なんかありはしませんけれど、(笑聲)結局、餘り一つプールに停滯しないやうに、たとへば僕の懷みたいに、こつちから入るとこつちへ拔け、常に流通をよくすることが、人體の血行と同じで、健康を保つ原則ぢやあないかと思ふんです。それが反對になりますと、戰前の日本みたいに、惡い面が實例としていくつも社會に出て來る、延いては思想的な對立に拍車をかけ、おたがひに何か住みにくい社會になるのではないかと思ひます。
 それからどうも恐らくここにをられる方は、みんな僕よりは數字に長けてゐる方だと思ふので氣おくれがしますが、もう一つ數字についての感想を申し上げてみます。僕は一といふ字に大變ふしぎを感じてをるのです。たとへば、デモクラシー、あるひは平等主義といひ、人權といひ、あらゆるものの社會經濟、それから政治機構の發足も、その起點が單位一から始まつてをるのです。單位一から‥‥。選擧、誰がやつても一票。赤ん坊がおぎやあと生まれると戸籍を屆ける、もう一人、一が始まるのです。さあ僕はどうもこの一が眉唾ものぢやないかと思ふのです。量子學だの電子學だの、隨分細かい天文學的數字が原子分解まで成功させてゐる今日でありながら、べつな部門では平氣で、今まで無い物を持つて來て「はい一」と是認してしまふ、その「はい一」を無條件に受けとる心理がどうしてもわからないんですよ、僕には。どうしてこれは一なんでせうか、そして一の前は何なんでせうかといふことなんですね。僕にはわからないのです。一の前がすぐ零なんて、をかしいです、まつたく何んにも無い所からどうして一といふ「有」が飛び出すのでせうか、それぢやあまるで手品みたいです。貯蓄の通帳でも零は百年据ゑおいても零でせう、だからといつて、いきなり、基本に一をたてて「はい一」と銀行の窓口へ出したらどうでせう。認めるでせうか。ところが政治や社會組織の上では、この唐突なる一をまづ置いていろいろなものをここから編み出しにかかつてゐる。もつとも一といふ單位がなければ、政治、經濟、選擧、デモクラシーの思想、何もかもが成り立ちませんから、現代人の知識では、これ以上は仕方がありません。けれどそれにしても僕には疑問であります。ふしぎは解決しないんです。たとへばですね、何といつたらいいかな、人間でいへば一が生まれるとたんに突然、社會數の中にこの一が立つのです。僕の家族五人とすれば、おぎやあと聲が起ると、五人が忽然と六人になるわけですが、その一の正味は何なのでせう。まつたくの「無」なら無から「有」が出るわけはありませんし、一でなくても、何千萬分の一の「有」でも有なら零ではないわけです。何かしら一の前にも數字がある氣がしてなりません。ぢや一の前は何だらうといふことが、どうも私ども書齋人の愚鈍な頭にはふしぎなのでございます。
 たとへば、この頃よくいはれる平等といふことにしましても、おたがひはみな自分を謙虚にして、ほんたうに平等の生活や福利の社會を心から希求してゐるにはちがひありません、けれどさて實現がむづかしいのです。どうしてむづかしいのか、といふと、これはみんな一から立つてをるからむづかしいのだと思ひます。一例を自分の身の廻りでいひますと、僕は七人の兄弟です。幾人か缺けてをりますが、とにかく七人としまして、これが親戚の法事とか、新年とかいひますとみんな揃ひます。揃つたときに、僕はつくづくと一つの腹から出た自分の兄弟なる者を見廻して見ることがあるんです。出た所の母の腹は一つなのに、僕とは似もやらず、もう頭の毛の薄い者、齒のぽろぽろな者、生活力がないのに子供ばかり澤山生んで困つてゐる者、何しろみんないろいろなんです。そのいろいろな素質の中に、僕自身をかへりみると、生産力も他の誰よりもある、また健康條件も誰よりよい、そしてこの一つ腹の仲間のなかでは、家も一番大きな家に住み、勝手なことをいひ、そして兄貴ぶつたことをいつてをるといふことは、はてな、これは同じ腹から出て來た者に對しては隨分不平等だなと思ふのですが、不公平は母の腹を出る以前から宿命して來た條件でして、今さら何ともしやうがないのです。そのしやうがなさを更に一例でいつてみますと、もしここにこの七人を平等に愛する兩親がをりまして、そして死ぬときに、お前達誰一人憎い可愛いといふ者はない、みんな同じだといふので、みんなに一萬圓づつ與へて死ぬとする、さうすると、この一萬圓は三年經つたらば、もうこれを澤山にする奴もあれば、なくしてしまふ者もある。また、なくした上に借金をこしらへる者などいろいろな凸凹状態になつて參りませう。それはいかん、平等でないと訂正するには、先の親が墓の下からもう一ぺん出て來て、數字の配分をやり直さなければできないことになりませう。かういふことは明かに不可能です。數字面の配分はたとへ可能であるとしても、七人の健康、知能、運命率の配分までを平等にしなければいけないんですから、できつこありません。そこで考へてみますと、そもそもの人類の不平等の惱みは、おたがひの母親のお腹の中にまで遡つてみないことには何だか解決しさうもありません。思ふにですね、僕みたいな才能か何かわかりませんが、とにかくものなど書いて、今日まで押し太く生きて來た者は、きつとお母さんのお腹の中にゐたときに、一番母胎の條件がよくて子宮の中から貪慾にカルシウム分やらビタミンやら、とにかく生後の毛髮の資になるものや骨量や齒の琺瑯質など、また頭腦の營養みたいなものも一番旺盛に慾ばつて、吸收できるだけ先に吸收して飛び出したんだらうと思ひます。そこであとから入つた者は見廻して子宮は貧乏でもう何もなかつたといふのがゐるのぢやないかと思ふのですね。(笑聲)さうすると僕はどうも今兄弟中で一番よい生活をしてをるといふことが何だかすまなくなつて來るんです。僕が一番貪慾で惡い奴みたいな氣がして來ます。けれどこの不平等は誰も不平等とはいひません。民主主義社會もマルキストもこれはさう怪しまないんです。一の前は零といふ概念ですから、神さまだつて認めてゐるかつかうです。けれど僕はまあ同じお腹から出た者にそれを今日少しばかり返してやるかといふ氣持で、ときどき厄介事やら何やら頼まれるとさう諦めては返してゐるんであります。(笑聲)
 大變變てこな例をもつて、マルクスにもエンゲルスにもないややこしい哲學を述べましたけれども僕はほんたうに人類がよい社會を作るために平等を念じるならば、それを哲理的にもつと突きつめるならば、現在の「はい一」からの立て方では、矛盾を先に持つてゐるやうなもので、社會科學として決して精密なもんぢやないと思ふのであります。まだまだ現代は極めて初歩な考へ方の下に、國家や社會方式を組みたててゐる幼稚な時代かもしれません。そのため思想對立だの社會混亂がこんなに紛糾してゐるのぢやないかなどと、僕だけは考へたりしてゐます。そこで僕のやうな書齋人の空想も、ひよつとしたら後世の偉大なる社會科學者のヒントになるかもわからないと存じまして、ここに記録しておいていただく次第であります。(笑聲、拍手)

 ビールのせゐかだいぶ脱線しましたけれども、もうすつかりさめて來ましたから、今度は我に返つて自分の話をします。この頃よく古典文學とか時代小説が流行するといはれてをります。映畫でも、讀物でも、劇でも。今日も歌舞伎座の前を通りますと、源氏物語五十日續演なんて景氣よく出てをりました。これはどういふ現象だらうかといふことなんですが、ジヤーナリストは逆コースといふ言葉で、もう一ぺん變てこな時代が來られちや困るぞと大いに警告してをります。けれどこれは粗雜な考察でありまして、もつと理由らしい理由があると思ふのです。私は馬鹿の一つ覺えみたいに、昔からいはゆる歴史を素材にしたものを書いてをりますから、特に考へるのですが、おたがひにここ十數年、あるひはもつと壓縮したならば、戰爭中、あるひは戰後、とにかく十年間ばかりは、實に生々しい生きた歴史を見たのです。世界の上にといつてもいい、日本の歴史の中にもあんな時代はまあなかつた。それを見たのぢやなくて、おのおの自分の生命の上に、生々しい骨肉の上に、手をつないであの大きな風雲の中を通つて來たのであります。やや今日おたがひにかういふまどかな日の下で生活することを得てをりますけれども、さういふ體驗の上からも、振返つて、歴史といふものに、みんなが今日思ひを新たにしたのは當然なんであります。私どもの書いてゐる古いかつての時代の書籍などをお讀みになりましても、皆さんはたちどころに戰前戰後になめたあの生々しい體驗を思ひ合はされるにちがひありません。人心の表裏とか、世間の流轉とか、人情の酷薄、またその温かさなどさまざまなものを思ひ合はせながら讀むところに、ただ骨董的な、あるひは過去の歴史小説あるひは史實といふやうなことでなく、自分の體驗と結び合はせて脈を打ち、さうして今日に思ひ、明日に考へるところがあるところに、私はいろいろなものが復古的な色合ひを見せてをるのぢやないかと思ふのです。これが私は一番大きな原因ぢやないかと思ふのです。
 ところが、古典や時代小説も多種多樣であります。源氏物語のやうなものは全然私たちの昨日今日の體驗や、それから現代感覺からはずつと遠い。あんなことがあつたかと思ふやうな繪空事のやうな、且つ夢幻的なものです。それは一つは餘りに傷つけられすさみ切つた自分たちのこの頃の生活の上に、ああいふメロデイーなり源氏的な※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)たけたといふか、あるひはやまと的な色合ひなり階調なりが、その傷痕を癒してくれるやうなものがあるので觀られてをるのではないかと思はれます。ところがあの源氏物語が書かれた時代はどうであつたかといふことになると、問題がちがつて來ます。古典としての文學價値を別にしまして、歴史觀的にいひますと、あの源氏の書かれた平安朝の中期といふやうなものは、これは決してあの繪の上に現はされたやうな世界だけではなく、あの世界が現出するためにその下部、中層にはもつと慘憺たる多數の人の苦しい生活があつたのであります。源氏物語は、その點においてただ平安中期のほんのある宮中の一室の繪卷といふふうに見たらいいのではないかと思ひます。
 まことにをこがましい自分の望みではあるのですが、さういふ意味で、いろいろな古典が書かれたり評釋されて來ましたけれども、源氏的な訴へ方だけではまだ物足らないのぢやないか、そしてほんたうに一つの歴史的知識と役目を伴つてゐないのぢやないかと思ひまして、自分が三年ほど前から書き出しましたのが、今書いてゐる新・平家物語といふ作品であります。それはもう二ヶ年餘にわたつて週刊朝日に連載中で、この頃はそれに沒頭してゐる次第であります。

 この新・平家物語を書いて行くために、私は隨筆以外の小説一切を斷りまして、ただあれ一つに集中してをります。といふのは、ちよつと長いものですし、精進しませんと力の分解になるといふことと、もう一つは何といつてもそのために資料あさりをしましたり何かしてゐるうちに、私自身が、實に昨日今日の世の中にも思ひ合はせて、歴史といふものが何と面白いものだらうかといふ氣持に捲き込まれてをるからであります。あの小説には主人公といふものを持つてゐません。大體時代の中心人物は平清盛でありますが、この清盛といふ人を新・平家物語を書くにつきましていろいろな角度から見直しますと、これはまた實に、從來の僕らが小學、中學の時代から教へられたところの清盛とは、全く違つてをるのであります。どうしてこんなに一個の人間の精神や履歴が故意に歪められて傳へられたものか、人間の罪深さに驚くくらゐなのです。要するに、平家物語といひ、それから保元、平治、ああいつた類の平安朝の末期から源平期のことを書いた古い物語は、みな學識のある寺院の僧侶とか、相當博識な人が書いたには違ひないのでありますが、それを書いた時代がみんな鎌倉幕府、いはゆる源氏の頼朝時代以後に書かれてをります。するとこれはやはり勝者が書いた敗者の歴史といふか、歪められたものに必然になつてをるのであります。正しくないのであります。
 では清盛といふ人間は、一體どういふ人間かと申しますと、僕らの概念には、小學時代からいはゆる極惡無道な入道殿といふ言葉さへあつたくらゐですが、實際はそんな人でなかつたのです。今日現存してゐる寺院の肖像畫も、古いのが二、三殘つてをりますが、端麗なおほどかな顏をした人であります。美男だといはれてをります。小さいときには、祇園で舞を舞つたりして優雅な美童であつたといひます。それから彼の長所の點を述べれば、いろいろありますけれども、たとへば、頼朝を助けたのは清盛の母の池の禪尼だといはれてをります。池の禪尼が、自分の死んだ子に十三、四の頼朝が大變似てゐるので、憐れを催してどうか助けておやりなさいといつて頼んだ、清盛がなかなかきかなかつた、それを禪尼が頼んだのでたうとう清盛が我を折つて蛭ヶ小島に流したとなつてをります。しかし助けたのはやはり清盛であります。何故ならば、清盛自身が助けるつもりがなくて、あの源氏の巣窟であつて最も危險な伊豆などに流すはずはありません。清盛が池の禪尼がさういふのだからといやいや承知したのならば西國に流します。西國には平氏の氏族が多く、監禁するによい幾多の島もあり、第一源氏の地盤でないんですから、西國へ流します。もし頼朝にして西の方へ流されてゐたならば、後の頼朝は決してなかつたのであります。それを、關東は由來源氏の發祥の地です、その關東へ頼朝をわざわざ、いつてみれば故郷へ歸してやつてをるのです。これは清盛が太つ腹なところです、もう軍に勝つた以上こんな幼子をどうしよう、將來のことは大きな運命に任せて、そしてその慈愛の下に故郷へ歸してやつたのだと思ひます。
 また清盛は、あの時分の宋大陸との交通を開きました。これは平安朝四百年の間に誰もしなかつたことを武門の人である彼が敢然とやつたのです。あの時代において、國際的な文化の交流を計つたといふことは、大きい活眼だと思ふのであります。今日の神戸が港として開かれたことが實例であり、あの地方一帶に着眼したのも清盛であります。それから安藝の宮島のやうに、非常に美術的な、そして着想からいつても、規模からいつてもじつに時代を超えた非凡な建築を海上に實現させてゐます。また、かの平家納經といふやうなものを今日見ても、平家は非常に優雅な一門であります。何しろそのほか清盛が人情に厚く、決して極惡無道といふやうな人でなかつたことは、史料を漁つて行くにつれ、なほいろいろな點から實證できるんであります。もちろん彼とても凡夫煩惱の人間であることには變りありませんし、惡い點も多い人ではありました。けれど大體清盛をああいふふうに歪めたといふのは、勝者の下に書かれた敗者の歴史である哀れさの一つなのです。
 次にまた私は新・平家物語であの時代を書きつつ非常に感じますのは、人間といふものはどうしてかう勝つたり負けたり、勝つたり負けたりの戰ひを繰返すものだらうといふことなのです。これは今日の私たちもまだ生々とその惱みの中に置かれてゐる問題ですけれども、あの時代の歴史を見てみますと、まことに目を蔽ひたい事件がいくらもあります。中でも保元の亂などには、私もその原因や結果にかなり筆を用ひてをりますが、願ひは、骨肉同志の爭ひはこんなにも酸鼻極まるいやなものだといふことを讀者に知つてもらふために書きました。そしてその戰ひの原因は何かといふと、やはり權力の爭奪、名譽、閨門の爭ひなど、古今を通じて變つてをりません。人間の鬪爭と相剋の面では、人間社會はちつとも進歩してゐないかのやうであります。そしてあの時代も源平、紅白二つの陣營に分れまして、人を見れば彼は源氏か、彼は平家かといふふうに問ひつ問はれつして、兄弟叔父甥の仲まで戰つてしまつたのであります。これだけはどうか繰返したくないものだといふことを痛切に思はせられるのであります。

 新聞などにも今日、軍備の問題がいろいろ論じられてをるのでありますが、歴史を振返つて見ると、むづかしいものだなといふ思ひをつらつら抱くのであります。もし武器も武力も何にも持たないで、いはゆる平安朝中世期のやうにこの國が暮せるものなら、もうこれに越した喜びは誰としてもないはずでありますけれども、しかし今日の私たちの住んでゐる地上といふものは、ひとり私たち同志、日本人同志だけの庭園だといつてゐられないのであります。またここのみは庭園だとしましても、僕は夏の夜などよく仕事の上で徹夜して體驗することでありますが、夜半も暑いのでガラスも障子も襖もあけて夜もすがら仕事をしてをるわけであります。朝になつてふと夜が白んでからスタンドを消して机の上を見ますと、山村に棲んでゐる無數の昆蟲が、まるで昆蟲館みたいに死骸を並べてゐる、蟲眼鏡でその一つ一つを見てみますと、美しい纎細な蟲といへども何か自分を護るものは持つてゐるといふことであります。たとへば、やさしい蛾のやうなものでも、自分を護るためにはあの花粉のやうなものを持つてゐる。これつぱかりなまるで爪の先にも足らないくらゐの小さな蟲でも、何かちよつとさはれば噛みつきさうな鋏みたいなものを持つてゐるといふことを、私は發見いたしました。面白いものだなといふことを、やはり今日の新聞記事と思ひ合はせて見る、さうすればやはり生物であるからには、人間は自分を護るものは持たなければならないのだな、かう思ひます。けれどもこれを持つたために、また戰爭をしなければならないといふのは、これはまた厄介だなと思ひます。どうして戰爭しなければならないのかと思つてみると、今度は要するに内心の問題でございます。もうさういふ問題を考へるには、人の書いたものや人の議論で考へてみたつて判斷がつかないもので、結局は自分の生命、自分の肉體を内省してみて、一體どうして、人間は護るものは持たなくちやいけないけれども、護るものを持つためにまた爭はねばならないかといふことを反省するのであります。確かに僕らは鬪爭の本能を持つてをる。佛教でいふと人間の本能は大體三つだと申します。飮食即是道、これは食本能、淫慾即是道、すなはち生殖、それから鬪爭即是道といつて、人間の鬪爭本能なんであります。怪我をします、病氣をします、自分は昏々とうつつになつてうめいてゐますけれども、自分の肉體の中では、たちどころにその病巣の患部に向つて白血球が蝟集して、病菌と戰つてをるさうです。主體の自分自身も知らないうちに起つてをる鬪爭本能です。僕らの肉體の中に、つまり人間といふ主體の中にもう鬪爭があるのです。これをいはゆる生活の面、あるひは社會の面、あるひは骨肉の面、交友の面、いろいろなものに普遍化して、外部的に出たものが葛藤となり戰爭となるのであります。歴史の方の法則で見てみますと、大體人間の社會の發生を見て行きますと、ちよつと固苦しい話ですけれども、小さな無數の部落が戰ひ戰ひして合して町となり、また町と町と戰つて市になり、市と市が戰つて國となり、國と國と戰つてまた大國となり、つひには二つの勢力となる。つまり複數からだんだん單數につまる方式です。これは西洋の歴史でも、中國の大陸の歴史でも、それから小さな僕らの國の日本の古くからの歴史も同じことをやつてをります。複數から單數に、最後には勢ひどうしても二つになります。さあこの二つのときになつたら、もう仲良く山分けにして、お前はそちら側で仲良く暮せ、俺はこちら側で平和に暮すといふぐあひにうまく話合ひがつきさうにも思ふのですが、世界史の中、あるひは中國史の中、日本の歴史の中、日本などは特に關ヶ原といふ言葉がある、二つになるともうその僞裝してをる對象がないのであります。ですからよけい對立がきびしくなつて、この二つもつひには、いはゆる關ヶ原をやつてしまふといふ例がこれまでの人類の鬪爭史となつてをります。リユシエの人間論に、人間愚なるものといふことを書いてをりますけれども、じつにこれを繰返して來たのが人類です。平家物語もさうです。以後のいはゆる南北朝、吉野朝の時代もさうです。戰國時代然り、それから維新、さうです。世界の歴史も例外なくさうです。さういふかつかうで地球は廻つて來てをります。昆蟲ですら護るものは生れながらに持つてゐる。そしておのおの自體の中に鬪爭の本能は否み難く宿命されてゐる。じつにかういふ物騷な生き物が人間なんです、それが數億と生き合つてゐる社會や國家なんです。かうおのおのが考へまして、謙虚になり合ふことが大切だと思ふのであります。そしてもつと人間本能の重大な一つである鬪爭の根元をおたがひに見究めて、たとへば、一つ家庭内のことにしましても反省し合つて、この物騷な本能を丁重に見まもり合ふやうにしなければいけないと思ひます。現在國際段階でいふならば、今日以後に戰爭といふ手段を見ることなく、二大勢力が共存共榮して行けるのだつたら、初めてこの二十世紀になつて、人間は何千年來一歩の進歩をしたといふことがいへるのぢやないかと思ひます。
 歴史小説、古典を素材にしたものなどを書いてをりますと、古今の史料を通して、そんな事もいろいろ思ひ合されるのであります。それがいにしへの世をかりて筆に出るところもあります。ですからどうかすると邪推されまして、左からは吉川は右だぞといはれたり、右の方からは吉川は少しこの頃赤つぽいぞといふやうなことをいはれたりしますけれども、私としては文筆一路の人間です。右も左もありはしません。ただこの世が平和に、おたがひが仲良く暮せることを祈つて、そのために、いささか皆さんが、勤勞の間に、あるひは毎日毎日の生活の少しの間に、幾らか慰められ、また反省させられたり考へさせられたりするやうなことがあれば、望外な倖せだと思つてをります。机は右でも左でもなく、眞直ぐに向けて書いてをるやうな次第であります。(拍手)夢々どちらへなんといふ宣傳文學など書かうとは思はないのであります。
 非常にとりとめのないことばかり喋りました、何とも恐縮にたへません。餘り長くなりましても、かへつて皆さんの家路のお妨げになるばかりですから、今夜はこの邊で失禮いたします。
〔昭和二十七年五月〕
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 いま、夢聲さんの話をぼくも皆さんの間へ入つて聞いてをつたんですが、實に辯達なもので、感心したんです。その説話の達人のあとのぼくの話は、とかく固くなり勝ちで、それにぼくは終戰後演壇に立つたことがないんです。何か人中に出るのが氣が進まなかつたんです。それなのにかういふところへひき出されてしまつたのは、週刊の編集長がだまつて名前を出しちやつたんです。(笑)發表されてから、これは大變だと思つたんです。(爆笑)久しく話をしつけないので、このごろは結婚式に行きまして、テーブルスピーチを頼まれても話してゐる中に口ん中が乾いてしまつて胸がどきどきばかりして、(ひめやかな笑)かういふ高いところで、果して話が續くかどうかわかりませんが、少しの間御辛抱願ひます。‥‥
 去年あたりから古典文學、それから歴史小説、時代物といひますか、さういふものが多くなり、映畫あたりにもさういふ傾向のものが多くなつて來ました。淺草あたりにはハデな女劍劇なども盛んで、ジヤーナリストはこれを一つの逆コース的現象だといふ風に割り切つて云つてゐる。それも一つの見方でありませうけれども、この流行の奧底にはもうちよつと――深く考へると別な大きな理由があるやうに、私には思はれる。それはどういふことかといひますと私たちは、とまれ、かくあれ十年の長い間生々しくもめまぐるしい歴史といふものを間近にみた。大きくいふならば、國の治亂興亡といふもの、人間と人間の戰ひといふものを他人事でなく、自分たちのこととして、それぞれの家々に、自分一個の身に、いやといふほど體驗させられて來た。‥‥終戰直後は、これを落付いて省みる餘裕はなかつたが、このごろになつてやゝ、心が靜まつてくると、いつたいかういふ人類の樣相といふものは、いつたい、どういふことなのだらうかと、みんな熱心に、眞劍に考へ始めて來てゐるんぢやないかと私には思はれるのです。
 そしてそれを考へる時、その問題を世界の歴史、日本の歴史――と結びつけて考へてみる。自分一個人の十年間の傷痕を、過去の私たちの祖先と結びつけて考へ出してゐるのではあるまいか、と僕は思ふのです。その思ひを、人々は歴史に取材した讀み物、あるひは古典のいろんな文學、あゝいふものを、經て來た自分の身に引きあはして讀む。そこに、時代小説が、知らず識らずの間に人々の心の中に強い大きな“反省の文學”といつたやうな使命をしてゐるんぢやないかと私には思はれるのです。
 私も時代小説の上では、いままではよくロマンテイツクな傳記的なものを書き、讀者の方もそのやうなものとみて來た。が、今度の新・平家物語では書く私も讀まれる讀者の方も、意欲は、いままでとちがつたところ――反省の文學といふところにあるのではあるまいか、と私には思はれる。で、私は、この作品を書くにあたつて忠實にと申しますと、少し誇るやうでありますけれども、能ふ限り史實を探つて、さうしてその時代の生々しい眞實を、今日に現はし、みんなが身に引合はして讀まれるやうにと心掛けてゐるわけであります。
 そして、書をあさり史實を調べ史蹟にあたり、書きつづけている中、いま、私につくづく感ぜられますのは、人間といふものは大變進歩してきたやうに思つてをりますけれども、果して、本當に人間は進歩してきたのか知らん、としばしば深い懷疑に囚はれるのでありました。
 例へば何よりもその大きな證左の一つは、現代人はつい先ごろまで、あれ程の戰爭をやりながら、また戰爭をやりさうな氣配を漂はしてゐる。そして人間が、社會がこの樣相を漂はしてゐる限り、私は絶對に人間は進歩してないではないかと思つてみたりするのであります。

 先ごろのメーデーの、そのすぐ翌日のことでありましたが、週刊の編集の方がきまして、あの場面を直接目撃した社の社會部のI記者の話をまざ/\と聞いたんでありますが、それによるとかういふ状景だつたといひます。I記者が見てゐると、あの時、宮城廣場において、一方の警官隊と一方のメーデーに參加したグループが兩方から相迫つた。I記者は、ちやうど、その中間にゐたのでありますが、ある距離を持つてゐる間は、兩方すさまじい勢ひで近寄つた、「これはいかん」とI記者が思つてみてゐると或る距離――お互ひの顏が見える位な間隔のところまできたら、兩者ともピタリとたち止つてしまつた。無氣味な沈默が支配したと思つたらどつちからともなく「わあツ」といふ、それは人間の聲とも獸のうめき聲ともつかぬ聲があがる。時をおいて相對してゐる一方が「わあツ」と何ともいへない聲をあげると、一方が相應じて「わあ」といふ聲を投げあつてゐる。そして、そのたびに間隔はじりじりじりとつまつてくるけれども、しかしなかなか何といふこともなく、たゞさういふことを繰返してゐる。そのうちにメーデー隊の方にゐた女の人がポケツトに入れてゐたパチンコの玉か何かをばら/\と警官隊の方に投げつけた。と警官隊からパラパラつと二、三人とび出した。二三組がつかみ合つたと思つたら、一瞬のうちに兩方が相亂れ、なぐり合ひ、蹴り、つひにあゝいふ樣相を呈したといふのであります。
 その話をぼく聞きまして、聞きながら思ひ出してゐたのは三宅軍兵衞の『門人筆記』であります。これは『隨筆宮本武藏』の中にも書いたと思つてをりますが、武藏が中國を遊歴中に姫路の城下に來ました。姫路公の劍道指南に三宅軍兵衞といふ人がをり、その人が若年の時大阪陣に參加した實戰の體驗を弟子に話してゐるのですが、はげしく打合ふ門弟たちの劍術の練習をみて、自分はかういふ打合ひや形式を教へてはゐるけれども、しかし本當に人間が命を捨てて戰ふなんていふ時になると、かういふものは何の役に立つものぢやない。かつて自分が大阪の陣に參加した時の樣子はかうだつた。兩軍が段々と殺氣をはらんで押しよせて行く、陣太鼓――かういふ場合の太鼓を押太鼓といふのですが、これが軍勢の後からドーン、ドーン、ドーン、ドーンと、打ち出して來る。そして軍勢は進撃するのでありますが、この押太鼓がたゝかれても、ある一定の距離まで進むと、もう、あの具足甲胄をきた武者と稱するものも、どうしても足が前に出なくなる。一歩も前へ出なくなる、その間隔のところまでくると、もう武者といへども身がすくみ、天地も晦瞑になつたやうな氣持ばかりして、一歩も前へ出れるものぢやない。その一瞬、どつちからともなく、つまり命知らずか、あるひは無法者といつたやうなのが名乘りをあげるか何かして躍り出す。さうして二、三の一騎討がはじまつたとたんにあとは亂軍になつて前後もわからない、修羅場に一變してしまふものだ、といふことを三宅軍兵衞が話してゐるのです。その話と、それから三、四百年もたつた、しかもあの東京の丸の内の眞ん中で、文化施設の眞ん中で、文化人といひ、現代人と稱する人たちのやつてゐることを思ひ合はせると、寸分も變りないではないか、と私には思はれるのです。しかもこの間は各々、近代裝備はなく、パチンコの玉とか、竹やりじみたものとか、コン棒とか、取つ組み合ひとかでありまして、考へるだけでも再び何百年も前のことをここに再現して見せてゐるのではないか。私はしみじみと人間はこの重大な戰爭といふものを持つてゐる限りにおいてはちつとも進歩なんかしてゐない。進歩したなんてうぬぼれることは大なる危險である。あたかも我々はおしりにさはるとまだ尾※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)骨の痕跡をもつてゐる如く、原始人の域をいくばくも出てゐないのではないか。といふことを考へずにはゐられないのであります。
 しかも戰爭だけといふ面からみると、進歩どころか、逆に退歩さへしてゐるやうに、私には思はれる。昔の戰爭は近代戰に較べると小規模なものであつたし、現在よりいくらかましかと思はれる點は、とまれかくまれ敵といひ、味方といひ、憎む者同志で戰かつてゐるのであります。あるひは戰爭のエチケツトといふか、勇ましくとか、花々しくとか或ひは奧床しくといふやうな人間の息吹がした。ところが今日の近代戰は、一體相手の顏をみたこともなければ、何の某かわからない。しかも憎みもしなければ、憎まれもしたことのないものを相手にして殺し合はなければならない、といふことを考へると、人類は進歩どころか、むしろ退歩さへしてゐるのではないかと思はれるのであります。
 僕が、今書いてゐる新・平家物語は、これから源平紅白二つの世界に分れ、相爭ふことに入つて行くわけでありますが、すでに書いた保元、平治の亂においても私が戰爭の樣相を生々しく書いてきたのも、私としては、自分たちの祖先が、こんなにもおろかな、そしてこんなにも見えすいたつまらない歸結になることを各々やつて來てゐるのに、しかもなほ、今日われわれは祖先のやつて來たことを讀みつつも何故にかういふものをくりかへさねばならぬかといふことをよく考へ、そしてそこに問題の解決をお互ひに考へてみようではないかと、私としては、さう思ひつつ、毎週さういふ場面を書き續けてゐるわけであります。

 といつて、あたくしたちは、生きる上において、なにも戰爭にばかり、終始してきたわけぢやない。文化といふ面から考へてみると、これはもう、はつきりと、大きな進歩をとげてゐることはもちろんであります。たとへば谷崎さんが“源氏”をまた新しく出されてをり、また當代は源氏復活ともいはれる位、源氏は劇や映畫にもなつてをる外、――さかのぼつては古美術の面でも、有名な「源氏の繪卷」なども新しくとりあげられてをります。今あれをみるとあの時代――あの時分の生活といふものは、何と、幸せに暮せてゐたものだらう。今日からみると、まことに羨望にたへない、と、しばしば思はれるのでありますけれども、さて實際にこの生活に對して、やゝ科學的な眼をあてますと、あの「源氏」のらふたけた姿もつく/″\考へると貴族社會に咲いた花でありまして、あれがあの當時の社會の姿では必ずしもなかつたと思はれるのであります。御堂關白の「榮華物語」といひ、入道相國清盛の平家一門榮華を極めたといはれることなどでも、あの時分には、よく榮華といふ言葉が使はれてをりますが、この榮華といふ言葉にしてもこれをいささか唯物的に考へますと、この“榮華”すらも今日の我々の實生活から比較してみますると、實に幼稚な、他愛のない榮華でもあつたのであります。といふのは例へば食物を一例にとつてみますと、あの時分の公卿たちの最大のもてなしに“大饗”といふ言葉がしばしば出てまゐりますが、その内容をみると實に貧しい。第一に、あの時分は、佛教思想の關係から肉食はしてをらない。たまたま肉を使つても、キジの燒肉とか、どうかするとツルなど使つても、その他の鳥の肉などといふのはあまり食べてゐない。四つ足は忌んでもちろん食べてゐないのであります。從つてその味覺の範圍は極めて限定されてゐたものでもありませう。砂糖などといふものは全くない。僅かに甘味といへば、甘ヅルといつて植物を煮出して甘味をとつたり、極上のぜいたくにしても、文書によると、干柿をためて、この上にコウジのやうに自生する、白くさゝやかなものをかき集めまして、これを唯一の甘味にしたりする。もちろんこれは貴族社會のことで、庶民の生活においては甘味といふものはほとんどとれなかつたといつてもいい位のものであります。そして、かういふ生活を私たちがつい先刻の戰爭時代に甘味が絶え、終戰後はじめてユデアヅキをみた時の喜び、――生き甲斐といつてもよい位の喜びと考へ合はせますと、甘味のほとんどなかつたその當時は、現代人の味覺生活に比し、何と貧しく、味氣なかつたか、としみじみ思はれてならない。或ひはまた果實といふ例をとつてみても、ミカンのごときは橘と稱して――あれを移植したのは平安朝中期ごろ、それも僅かに紀州南端の一部に移植したのでありまして――“橘の實”と稱し、歌に讀み、繪にも畫いて當時の人々は珍重してをりますけれども、その橘とはいつたいどんなものかといつたら、ちやうど私たちが年少のころ、よく種の多い酸つぱいのを、せがんでは、母親から「そんなの食べるとオナカを痛くしますよ」ととめられました。まアあんな程度のものが、橘の實だといつて、差支へないのであります。しかもこの橘の一枝を引出物に女院なり、あるひは公卿堂上に贈り物にでもすれば、相手方にとつては一生忘れられないほど喜ばれたといふことでありまして、その食生活の貧しさ、味氣なさを考へ合はせますと、正に雲泥の相違でありまして、大げさにいふなら、現代のどんなさゝやかな家庭でも、あの時分の御堂關白や平相國清盛の食生活よりはゆたかで多彩であることは斷言できるのであります。
 また例へば、源氏といへば、すぐ藤壺の女御とか女三ノ宮のタヲヤカな數々の宮中女性の姿が連想され、またこれもそのありのままの姿は「源氏の繪卷」などからも想察されるのでありますが、さて、實體は、どんなものであつたらうか。一つの例をとつて化粧法といふことを考へてみましても、第一オシロイといふものなども、宋國へ行つた坊さんが持ち歸つて間もない時代でして、宮中女性や上流の間には一部にこそオシロイは知られてをつたかも知れないが、いはゆる庶民一般の中にはオシロイなどといふものは全く沒交渉で、僅かにウルチの粉をぬつてをつたといふ有樣で、紅にしても庶民の生活のものとはなつてゐなかつたらうと思ひます。その外、香油などといふ語が散見するが、これとて今日から考へたならば夜店で賣つてゐる香油よりもはるかに粗製なものではあるまいかと考へられるのであります。それからまた毎日の湯浴みとか、體の清潔なんていふ點については、あの時代の女性はよく伽羅とか蘭麝、或ひは沈香といつたやうな香ひのものを豐富に使つたと書いてあり、それが“源氏文學”の一つの特徴ともなつてゐて、源氏にはしばしば出てをるのでありますが、さて、この實際はどうであつたらうか? 第一に京都のやうな盆地、しかも日當りの惡い宮廷生活においては女性たちにとつて、朝夕髮を洗つたり、湯浴みしたりするやうな設備も、方法も恐らくはなかつたのではあるまいか。從つて湯浴みする回數も少く、夏などはさだめし、髮油の臭ひとか、女性の體臭とか、およそ清潔といふこととは程遠い、もろもろの臭ひが發散し、それを融和し、正直にいへば、ゴマカスためにいろいろな香木が使はれたんぢやあるまいかといふ風にも考へられるのであります。
 また例へば醫學なんていふ問題も、まことに微々たるもので、一度疫痢がはやると、もうその手當の方法もなく、近畿一帶、大宮人すらバタバタ斃れて行く。しまひには屍を鳥邊山へ埋葬し切れないで、加茂川のほとりへ運んで行つては積んでおいたといふやうなことさへあります。そして、たまたま大洪水でもあつて、その死骸を洗ひ流してでもくれると、「これこそ神の潔め」だといふやうなことをいつてをつた。故芥川氏の「羅生門」に書いてありますやうに、都のすぐ入口の羅生門の屋根裏には死骸がルヰルヰとして捨てられ、その中にやはり遺棄された病人がうめいたといふ工合で、この一端をみても當代の庶民層の生活といふものが、どんなに哀れなものであつたかといふことが知られるのであります。ですから、私は「源氏物語」を讀む場合、いつも感じるのは、平安朝時代にこのやうな華やかなうるはしさ、平和さ、のどけさといふものを私たちの祖先が持つてゐたといふことに對しては大いなる誇りと、ゆたけさを感ずるとしても、あの「源氏物語」を文學的に支へてゐるもの、あるひは「平家物語」において平家の榮耀榮華を支へてゐたものは、實はその下にいまのべたやうに生々とした庶民の生活があつたからである。いひかへると、この庶民の生活の犠牲の上に咲いた花が平安朝文化であり、その一部は「源氏物語」であり、「平家物語」であると、私には思はれ、それはまた私の新・平家の一つの構想でもあるのであります。

「源氏」と「平家物語」とは約一世紀近いへだたりがあり、紫式部が源氏を書いて、ちやうど一時代約七、八十年後に平安朝文化は崩壞し、そしてそれまでは、いはゆる地下人――地上の人間ではない地下の人といふのですから、隨分ひどい言葉なんですが――その地下人といはれ、禁門の番犬にすぎなかつた地方の若人や武者たちが立ち上つて、タイハイした末期平安朝文化をつひにはくつがへしてしまふのであります。それがいはゆる武士の擡頭であり、平家物語になるわけなのであります。そこに行くまでに、すでに御承知のやうに保元の亂、平治の亂、この二つの亂を經驗してゐるのでありますが、私はこの二つの亂をみ、またこれを書きながら、いつも途中で胸が痛くなつてたへられなくなる。こんな恐しい、むごたらしいことがあるかと思はれるのです。といふのは正にこの二つの戰ひこそ骨肉相食む戰ひだからであります。しかもこれが單に人民同士、大衆同士の戰ひではなくて、上は皇室にからみ、權門にからみ、權勢にからみ、榮華にからみ、あらゆる人間慾望と人間愚にからみあつて、一方は皇室、他の一方は皇室から出て皇室の祖父或は御父君にあたる院を中心として、いつてみれば皇室御自身からも骨肉の戰ひをおやりになつてゐる。そしてそのあげくの果は四國にお流されになつた崇徳上皇といふやうな、身、皇室の御一方と生れながら、非業な最期をとげられたといふ有樣で、實にあゝいふことは、私自身、書きながら胸が痛むんでありますけれども、そのたびに私は自分にムチ打つやうな氣持で、あへてこれを書き通してきたのであります。
 けだし、當時の私の氣持を率直に申しますならば、これを見たら、こんな悲慘にも殘酷なる史例をみるならば、骨肉同士のけんくわなどといふことはいかにムゴタラしくもまたおろかなことかといふことを感じては貰へないであらうかといふのが、私のひそかなる願ひだつたのであります。さうして、その骨肉同士の戰ひ、けんくわ、葛藤が、幾百年後の今なほ、今日のジヤーナリズムの上に別な姿と形においてみる時、私は何かたまらない氣持になるのであります。せめてどうかお互ひ、骨肉の間柄でも樂しまうではないか。狹い國土の中で、しかも慘澹たる負けたこの大地の上で、お互ひが仲よく暮す以外、これからの人生に何の樂しみがあるだらう。それなのに‥‥といふ悲嘆にくれずにはゐられないのであります。
 それについて思ひ出しますのは、三國志の中に出てくる“七歩の詩”といふ歌のことであります。魏の曹操が天下をとりましたのち、息子の曹丕といひましたか、それが大變な武將で、弟たちを戰爭にかりたてようとする。ところがその弟のうちの一人、たしか曹植といふ弟は、生れながら非常に文學好きで、なかなか戰爭をしたがらない。そしていつも、「戰爭なんか結構だ。おれは詩さへ作つてをればいい」といふのでありますけれども、兄の曹丕は武將の面子上さういふ態度を默認するわけには行かない。そこで、餘りさういふ態度をとつて改めないならば切つてしまふといふことになつた。といつてすぐ切つてしまふのも餘りにもふびんだからといふので、ある時、弟の曹植を呼びつけた。「お前は詩が好きで、戰爭がいやだといふ。といつて、軍律上、さういふわけにも行かない。それでおれが一、二、三、四、五と七歩まで勘定する間にお前が詩を作つたら仕方がない、これはお前は武門の生れ損ひと思つて、お前に勝手な生活を許してやる」とかういふ條件で、曹植を兵隊の前に立たせ、一、二、三、四と足數にして七歩曹丕が數へた。とキツカリ七歩目に曹植が筆をとつて詩を書いた、いはゆる「七歩の詩」といふのがこれで、私ももううろ覺えでありますが、それは大體かういふ意味の詩だつたと覺えてをります。
豆を煮るに豆の豆がらをたく
相煮ること何ぞ急なる
 御承知のやうに豆がらといふのはよく燃える。それを「急なる」といふ言葉で現はしてゐるわけです。
釜中の豆フツフツ泣く
 釜の中の豆は煮られてふつ/\とお互ひにあへぎ、泣いてゐる。といふのが第三句で、最後の句が、
もと、これ同根より生ずるを。‥‥
 といふのであります。一文の意味は、たきぎにした豆がらも、それから釜の中で煮られて泣き合つてゐる豆も、これはもと/\同じ根から生じた豆ガラと豆ではないか、それが一方は煮られ、一方は焚く身の上となる、今こんな悲慘なことがあるか。といふわけであります。
 もう一度いひますと、
豆を煮るに豆の豆がらをたく
相煮ることの何ぞ急なる
釜中の豆ふつ/\泣く
元これ同根より生ずるを
 私はこの詩が好きで、いつも愛誦し、そして、そのたびに、私は思ふのだが――
 今日の文化の中に生き、お互ひ近代人といひ科學生活を享受し、さらにはモラルを持つてゐるともいつてゐる。だが私はその現代人の中に七歩の詩の悲しみを嘆ぜざるを得ないのです。例へばこの間のメーデーです。或ひは今日(三十一日)京都から大阪へくる途中においても辻々に立つてゐる巡査の姿(五・三〇事件の警戒)を見ると、ぼくはうたゝ七歩の詩を思ひ出さずにはゐられない。どうしてあの警官が學生を、またどうして學生さんが警官を、お互ひ「もとこれ同根より生じながら」憎みあはなくちやならないか。と私は歎かざるを得ないのであります。‥‥
 新・平家を書き進みつつ、私は幾度か、私たちの祖先の上にこの七歩の詩の歎を深くした。皇室と院政、また叡山僧徒、公卿勢力を挽回しようとする策動――かういふ社會的斷面だけではない。
 草の實黨と、私は命名したが、例へば、いまは地下に埋れてゐるが時を待つ、地方源氏の人々、機會をみつけて生命を投出さうとしてゐる人々、その中に伊豆に頼朝あり、漂泊の子として義經がある。そして、これらの源氏がさて平氏を亡ぼすとなるや、今度は兄頼朝は弟義經を追ひ、遂に、これを亡ぼしてしまふ。そして、その頼朝はまた北條氏に亡ぼされて行く。
 結局、人間この愚かなもの――どこかの哲人のいつた――といふこの言葉を私はしみじみと思ひ返さざるを得ないのであります。といつて心あるものは、その當時でも決して、かういふ問題を考へてゐなかつたわけではありません。その一例として例へば北面の武士であつた西行法師などはそれで彼は二十三、四歳の時にはもう太刀を捨て、御承知のやうな姿になつて流轉と興亡の外へ出てしまひます。それははつきりした人間のおろかさと、これを繰返して行くうちはお互ひの生活は本當の人間らしい生活にはなれない、修羅の巷だといふところに早く見切りをつけてしまつたわけであります。しかし私たちが今日、西行法師のやうに見切りをつけてしまふわけにいかないところに、現代人の西行以上の惱みがあるともいへるかも知れません。
 西行法師の惱み――いつたい人間とはいかなるものかといふことにつきあたるわけであります。これについては佛教の方でも早くから考へてきてをりまして、例へば佛教の哲學の上からはよく人間の要素を三分類するのであります。人間は實に始末が惡い、始末の惡い素因といふのは何だといふと、人間の本能に三つある。その一つは飮食即是道である。食物、食ふこと、これが人間の大きな問題である。次に淫慾即是道といふことをいひます。生殖、人間の生きてゐる限り續くもの。これまた大切な本能である。これもまた佛教の上でも人間本來の姿として認めてゐます。もう一つは鬪爭即是道、人間の本能の中には食ふことと生殖のほかに始末の惡い鬪爭本能がある。たしかに私たちさういはれますが、さういふ本能を自らのうちに持つてゐます。しかも自らの生命體の中に持つてゐる。例へばぼくが怪我をします。或ひは急性の惡い疫病にかゝる。すると、“自分”は昏々と昏醉状態に陷りますけれども、自分の生命體を形づくる白血球は腐りかけてゐる傷口の黴菌をとゞめるため鬪爭を展開する。自分自身の生命の中にさへ、すでにこの本能は生得のものとして出來てをるんです。われわれ昏睡におちいつてわからなくなり、氷袋や氷枕で冷したり、注射をしてもらつたりしてをりますけれども、生命體そのものは外部のものと猛烈に鬪つてゐる。さういふものの上に成り立つてゐる人間でありますから、その人間と人間とがふれあへば、そこに自ら鬪爭本能が現はれてくるわけであります。私は人間が、人類が本當に幸福になるには、この鬪爭本能の解決をはからねばお互ひは幸福になれんと思ふのであります。
 例へば前にあげた三分類の中、性愛の淫欲即是道の問題については、去年のチヤタレイ夫人の問題なんかでも非常に文壇の人たちや、法理諭的な人たちの鬪爭もあり、文學者らも愛欲、それから性愛といふ問題については戰後一ころは非常に突つ込んで書いて解決を促したりした。ところが鬪爭本能の方はさういふお互ひの上に重大な問題でありながら取上げられることは少いのです。宗教の上に取上げられてゐないのです。私たちのささやかな四、五人の家庭の中においてすら、すぐお互ひの鬪爭の本能を出しつぱなしにしてをつて、朝夕荒々しい茶わんの音などをさせて、けんくわをしあつたりなんかしてをる。我々は鬪爭本能といふいかに重大な――とり扱ひものを持つてゐるかといふことを私たちは考へてみようともしない、果してそれでいいものであらうかと私には思はれるのです。私の平家物語は、これからさらに回を追ふにつれて源氏と平家の人の鬪爭本能がすさまじい樣相をもつて壇の浦まで渦まいて行く。これは一體どういふことなのだ、といふ疑問については、私のごときさゝやかな文學者の力では到底解決なんてできるものとは思ひません。お釋迦さんでも孔子でもこの問題は出來なかつたことでありますから、ぼくにはできないのはあたりまへでありますが、いまの私のねがひとしては、お互ひがもうちよつと、この本能を冷靜に考へようぢやないか。見直さうぢやないかといふことを考へ考へ、この考へを平家物語に入れて書いて行かうといふのがまた私の一つの願ひでもあります。

 最後にまた私の一つのねがひは平家の人々の末路であります。
 壇の浦から御承知のやうな末路をとげた平家一門のあとといふものは、いつかこれも週刊朝日がいろいろお世話して下さいまして、各地から平家村の資料を寄せていたゞいた。それをデーターにして一覽してみますると、平家村といふのは北は岩手から南は四國の山の奧にまで分布されてゐる。思ふに平家が亡ぶや、各地にゐた平家に附隨して一ころの繁榮をほこつてゐた人々、あるひは平家の血縁の者たちはいつせいに家の子郎黨をつれて山の中へ入つてしまつた。その姿のままに平家村が殘されたんぢやないかと思ふのであります。同じ武門でも平家といふものはかなり武門とは性格が違つてゐるといふことを私は發見したんです。これ以後の源氏或ひは吉野朝時代となり、室町となり、戰國時代となり、江戸になつてきた私たちの通念にあります武門とは、落ちては必ず生き返り、死に返る。七生報國といふ言葉もありますが、この思想に拍車をかけてきたのが武門の歴史であります。それは儒學と武士とが結びついたのは、鎌倉幕府以後で、平家の頃はまだこの輸入思想が全面的に武門に浸透してゐなかつた爲です。
 ですから平家に限つてはあの壇の浦の最後が象徴するやうに全國の平家はいひあはせたやうに皆素直に山間僻地へ姿を隱してしまつてゐる。いはばあの大自然の中に、各々自然の美しい中にとけ合ひ、或ひは畑を耕し、ハタを織りして、平家村を作つた。そしてそのまま自然な大地の中に解け込んでしまつた。それが日本の武門の中では平家だけの性格であります。かういふ武門は平家以後には一つもないのであります。平家物語といふものは今日皆さんがお讀みになつても、哀音重疊として何となく私たちの詩情を、人間宿命の涙をそゝらずにはゐられなくなる氣持はそこから起るものでありまして、平家といふ武門はそのためにあはれにも美しい詩になつてゐる。私たちは北に南に、この平家史蹟を求めて歩いたり見回したりしてゐますがその史蹟に立つて今日の平家をふり返る時に、何ともいへない詩の奏でがする。
 それで平家は亡び損をしたか。あるひは哀れに消えたまゝであるかといへば、私は今日になつてみるとさうでないと思ふ。以後の源氏は鎌倉幕府を立ててみましても平家ほどの壽命を持たず、實朝が殺されましたり、頼家が殺されましたり、頼朝、政子の間ですら北條家とのいろんな介在があつたりして幸福でなく、立ちどころに骨肉同士相食む修羅を演じて亡んでゐるのであります。
 以後の武門の宿命はそれからはじまりまして、打ちつ打たれつ、實にあわたゞしい治亂興亡をくり返してきて、それが何とはなく私たちの昨日の戰爭にまできたやうな氣がするのであります。さういふ治亂興亡を相互ひに繰り返したくないといふ祈りを持つのは當然だと思ふのであります。そこで自分の仕事のうちにも何とはなしにさういふ祈りをもつのでありますが、平家のことを調べてをりますうちに、特に私が感じますのは、現代人の間には宇宙觀といふものが一番かけてゐるんぢやないか。自分たちの仕事の面で、つまり文學の面で見ましても、今日の文學があまりに現實事象の生々しさだけを課題にし、その事象がそのまま動かない鐵則みたいに考へて、現實に固着しすぎて、そのじつ、生々發展の宇宙の中にお互ひは一刻も休みなく變化し流動してゐる社會の中に生きてゐるんだといふ宇宙觀を忘れてしまふんです。さういふ考へ方が文學の上にも稀薄なんぢやないか、といふことが考へられます。
 平家を讀んでもつとも著しい特徴はといへば、あの「祇園精舍の鐘の聲」からはじまりまして、壇の浦の最後までの大きな詩韻の中には絶えず人間と宇宙との關係を奏でてゐると思ふのであります。宇宙觀といふと大變難しいやうですけれども、私たちのお互ひの生命、また社會現象、かうやつてここへ皆さんお出になつてをりますが、皆さんの生命體はもうこの會場へ入つた時よりは違つてゐる生命である。私のしやべつてゐるこの生命といふものも演壇に立つた時と、もうかうやつてゐる今とは、刻々變つてゐる生命であるといふことなんです。まして社會の樣相や地球の上においての事は大きな流轉の宇宙のリズムによつて流れてゐるのだといふことを、ものの批判や考慮の時に、ふと思ふことです。お互ひさゝやかな家庭生活においても、この儘ではやりきれない、苦しい、といふ事のみ多いんです。たとへば愛兒の病床の枕元に坐つて、この子生きるか、助かるかといふやうな時にもさういふ宇宙觀を現實にもつてゐると、いくらか親の呼吸も樂ですし苦勞がしよいやうに思ひます。
 もうこれつきり、根つ切り、葉つ切り動かない現實、この通りこの儘な敗戰國の國土と思つた日には、たまらなくなりませう。またそんな事はあり得ませんです。けれど昨日、今日の街頭に見るあの矢たけびをあげてゐる學生さんなんかでも、若い方たちでも、もすこし宇宙觀を持つてほしいと思ひます。あんなにまで短氣に警察官と相撲をとらなくても、そしてもう少し宇宙のタイムと個々の成長をまつて、こゝは靜かに勉強された上で、これこそお互ひは、かう行くのが幸福だと信ずる理想を堅實にきづいていつたらどうか、と思ふのであります。そんなことを平家を書きながら祈つたり、反省しながらやつてゐるわけであります。
〔昭和二十七年六月〕
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 菊五郎氏の死は、何といつても惜しい。ひとり歌舞伎を愛する人々のうちだけでなく、何か、文化の一華を失つたやうな日本の淋しさを、誰もが、時代感の中に抱いたであらう。だが私は、友人として、寺島幸三氏自身へ云つてやりたい。なぜ君の如き藝苑の至寶が、もつと自己への自覺をもつて、生命を大事にしてくれなかつたのか――と。
 君の死は、天壽とはいへないよ。さういひたいのが私の悼辭である。六代目菊五郎はたしかに名人の境に迫つた一世の藝術家だつたが、人間の修業と人生の完成では、つひに尾上丑之助で初舞臺して、丑之助で終つてしまつたやうなものだ。
『そこが六代目のいゝところだ』とか、『彼の彼らしい點だ』とか、『舞臺も生活も、氣いツぱいに、自分を通して生きたからいゝのだ』とかいふ衆の定評は、要するに、ひいきの言葉の花輪にすぎない。どうも六代目びいきといふ者も、ひいきのひき仆しだけで、彼を見送つてしまつた傾きがある。

 菊五郎の吾儘といへば有名で、氣儘吾儘を通してこそ菊五郎だといふ寛度で、周圍はつねに彼を甘やかして來たが、それを彼自身が、彼以外には、誰もどう制しようもない晩年の療養にまで、吾儘を振舞つて、つひに癒りかけてゐた病氣を惡化させて、六十四や五で死んでしまふなんて、どうしても君は丑之助だ。友人としてかなしむ中にも腹が立つ。
 もし私が、君の息子の九朗右衞門氏だつたら、或は、肉親のひとりだつたら、そんな自身で自身の生命を粗末にするやうな吾儘おやぢとは、喧嘩しても、云つてやつたのにと、そこ迄の仲でなかつたのが惜まれる。
(――自分の生命をさへ、そまつに抱く者が、どうして他人の生命を愛せよう。他の生命を愛さない者の藝術が、どうして人間にとつて、眞に價値のある藝術といへやう)
 こんな事から初まつて、ともあれ、君のやうな、二度とは梨園に生れないであらうほどな天質をうけた者が、たとへ松竹の仕組みがどうあらうと、複雜な歌舞伎の内部事情や周圍が何であらうと、まづ、いのちを大事に、健康のためには、「おのれにも打ち克てなかつたのか」それを私は云ひたかつた。

 亡くなられるつい半月ほど前、朝夕、病窓の六代目の世話も見てくれてゐるOさんに會つたとき、病状を聞くと、もうだいぶ元氣になり、熱海へ一しよに行かうなどとせがんでゐるが、まだ梅雨上りで氣候もよくないからと、子供をあやすやうに止めてゐるほどです――といふ事だつたので、自分もつい、菊五郎氏の蕎麥好きをおもひ出して、
『ぢやあ今度、僕が奧多摩の蕎麥を打たせて持つてくるから、一しよに行つて、久しぶり話さう』と、約束した。
 菊五郎氏はOさんからそれを聞いて、たいへん樂しみにして居てくれたらしい。ところが、私の家内はそれを聞いてひどく反對をとなへた。――夏ソバは猫もくはない、とさへ蕎麥通は云ふ。おまけに、菊五郎氏の病症には、食事療法と攝養が絶對に大切だといはれてゐるのに、滅多なものをすゝめてもしもの事があつたら――といふのである。私自身も、日頃でさへ、食物と健康には、臆病なほど細心なので、『それもさうか‥‥』と、つい數日を過ごしてゐた。と、次にOさんと會つたときは、もう俄然、氏の容態は惡かつた。惡いと聞くとすぐ危篤の報といふほどあわたゞしい死であつた。

 葬儀の日、築地の本願寺から近い新橋文化クラブに知人を待たせておいたので立寄り、そこでもみな菊五郎氏の死を惜み合ふ話ばかりだつたが、倶樂部のマダムの話によると、木挽町の菊五郎氏の家から、醫師や看護の人の眼をぬすむやうに、時々、ビフテキなどの註文が來てゐたといふので、私も唖然としたことだつた。そばに居たOさんも云ふには、何といつてもきく病人ではなく、家族たちも彼の吾儘を通すことの方がむしろ彼の本懷を邪げない事であるやうに思ひ、或る時など、この重態の腎臟病患者の部屋から、そつと麥酒の空びんを隱すやうに退げてゆくのを見たこともあつたと嘆いてゐた。

 ――及ばぬ後の嘆聲はもう止めよう。私がこんなにも彼の氣儘な不天壽を惜むのは、眞實、彼の偉大な素質が思ひ出されてならないからだ。かつて――戰前の事だが、私の太閤記を歌舞伎座で上演するとなつた前後などは、彼の藝道三昧なすがたが、眞夜半まで、私をたゝいて、私をさへ毎晩、眠らせないほどだつた。
 夜半の午前二時半ごろ、突として電話のベルが鳴りぬく。私もその頃は、赤坂に住み、徹夜や夜ふかしはのべつだつたので、すぐ電話へ出てみると、六代目だ。夜ぶん、お起しして――なんといふ世間常識のあいさつは彼にはない。『‥‥淺野又右衞門の家でネ、君』といきなり來る。『そら、聟の藤吉郎が、寧子ねねと婚禮の式になるね。そこへ、前田犬千代や、惡友どもが、水かけ祝ひといつて、なだれ込んで來る。‥‥そこんところだがね、いきなり、花嫁をおいて、立つのは、味がない。脚本には、さうあるがね。どうだらう君、そこで藤吉郎が、テレ隱しに、一さし舞つて、舞ひながら惡友共とつるんで外へ出るとしたら‥‥。むづかしいんだ。寢床の中で、とんと足拍子から、寧子のあきれ顏を、ヒヨイと捨てゝ、立つところを、繰返してみるんだが、そこの“間”がね‥‥“間”がむづかしいんだよ』
 こんな電話が、毎晩だつた。午前二時、三時、明け方の四時頃かゝる時もある。そして長い通話になると、三十分以上、一時間近くもしやべつてゐる。何しろ、話の調子は、愉快なんで、むだを云はず、要點を、折々ユーモアをまぜて話すので、深夜の電話はおたがひに、膝組み合せて語るやうに時間も忘れてしまふのである。しかし、然し一體、菊五郎氏は、いつ眠るのだらうと思はれた。

 歌舞伎座で「吃又どもまた」をしてゐたときである。その頃、私は横山大觀氏の紹介で、鍼灸家の岡部素道氏の治療をうけてゐた。素道氏は、私をすますと、次には、六代目の伊皿子の家へ廻つて、彼の治療をしてゐた。
『六代目も、どこか惡いんですか』私がたづねると、素道氏は、『え。腎臟疲勞もありますが、まあ吃又症といふんでせうな』と云つた。
 それ又、どういふわけですと訊くと、素道氏の診斷學から觀ると、菊五郎氏の肉體は[#「肉體は」は底本では「肉禮は」]、吃又の上演以來、聲帶、脈搏、血行などが、そツくり吃患者の生態になつてしまつてゐるといふのである。
 かれが舞臺に立つと、寺島幸三といふ人間を脱けて、舞臺上の人物に成りきるといふことは、その藝能精進からいつても分ることであるが、生理的にも、肉體が變つてくる――と聞いて私は今さらのやうに、この世紀の名優を見直したことだつた。
 だが、この生理學上の不可解みたいな人間移行は心理學的にも、説明がつかないことはない。
 すこし、むづかしい問題だが、要するに、かれの藝術は、心理學上でいふ第七識から第九識までの高い心態から生れるもので、無我、無想の境――などいふ古來の諸藝道の名人の域とほゞ相似たところまで行つたものと思ふ。

 新聞連載中の太閤記に、明智光秀の反旗をひるがへす前を約一ヶ月餘も書いてゐるうち、私は、何となく病氣になつた。光秀の複雜な心理經過を、克明にたどり/\書いてゐるうち、私は光秀のやうに、毎日、欝々と氣がはれなかつたのである。だから[#「だから」は底本では「だがら」]、岡部素道氏に、『こゝを書き終れば、自然に體もからりと快くなりませう』と云つたところ、それを傳へ聞いた菊五郎氏が、手を打ツて、
『それだ。それでなくツちやならねえ。分るよ/\』と、何度も大きくうなづいて、いかにも會心な笑みをたゝへたといふ事だつた。
 この事を見ても、かれの至藝は、要するに“成り切る”といふ點にあることがわかる。これは當人と直接話してゐたときの事だが、
『おやぢが(五代目菊五郎)ね、やつぱりそれをよく云つたもんでさ。ある時、私や弟子のゐるとき、ふいに、おい、松になつてみナつていふんで、みんな、へんな手つきやかつかうをして、松の木になつてみせたが、おやぢが笑つて、それぢや薪雜ツ棒にしか見えやしねえ、松は、かうサつて、ちよつと姿態をした。それだけで、何だか、廣重の松みたいに見えたもんだが』
 と、手眞似ばなしに、松の木のまねをした。私は、五代目の松の木は見なかつたが、そのとき六代目が松の木になりきつた瞬間を見て、その至妙におどろいた。
 菊五郎藝談となれば、話せば限りのないほど、その道の人々は、もつと深く話題をたくさんもつてゐるであらう。――秋には癒つて、久しぶり、吉川さんのものを演る、と病床の中でも、何やら常に舞臺を夢みて熄まなかつたさうであるが、醫師や周圍の者が嚴にいましめてゐた肉食などを攝つたのも、營養をとつて、はやく舞臺に立たうとする心根かとおもふと、かれの吾儘にも、私はまぶたに熱さを覺えてくる。

 かれの盛大な葬儀に列した同じ日の午後、私は、六代目の死とはまつたく對蹠的な、笠置シヅ子を、有樂座で觀た。
 時流の兩面の、何と極端なまでの距離差であらう。私は、短い一日に、今日の歴史の兩端を歩いた氣がした。
 笠置は、愉快な存在である。たしかに今日の女の子だ。かの女に向ひあつた樂しさは、こちらに何の反撥も起させず理窟も無しにただ同化して居られることである。あの肉聲とあの奔放さは、舞臺を、自然の野として、有りツたけな生理を以てする人間性の底のものに通じてゐる。それは、原始的でさへある。原始の野の太陽と、裸の子を想はせるのだ。アプレゲール派の何だとかいふ作爲的藝能に屬するものではなく、もつと遠く遙かに起因する潜在的な庶民意志が、突然のやうに、時に會つて、温泉のやうに噴き出たものだとおもふ。

 こゝの觀衆も、六代目の會葬者とは、およそ對蹠的な色彩に見えた。時粧と時流の落差はそれでも著るしいものだ。私は、心を素裸にして有樂座を呼吸した。エノケンが安價にお客を笑はすためにいふ笠置の大きなおくちは、たしかに何か庶民の吐きたい聲を有りつたけな體力で歌つてゐるものだつた。二時間半、そこを出ると、私も何か、曠野で聲を張り上げた後のやうな爽快さを覺えた。

 山村に住んで、ごく稀れにしか都會へ出ない私は、時間を慾ばツて、さらにその夜、東劇で東西合同の歌舞伎の若手に井上正夫氏を加へて演じてゐる宮本武藏を觀て歸つた。
 六代目の藝は、完成と、圓熟と、理想化された傳統にたいし、たえず彼の熱と精進がそそがれてゐた。まさに、落日の壯嚴ともいへる光搖を、つひに死去前まで失はなかつた。
 しかし若い生命力をもつはずの若手にはかへつてそれが稀薄であり、歌舞伎あやふしの嘆を識者にはもらさせる所以となつてゐる。
 むしろ私は、その日だけの感想でいへば、笠置シヅ子の生命の方を敬愛する。決して、歌舞伎の將來や若手に絶望してゐるといふ意味とはちがふ。ともかく、彼女の藝能には、菊五郎氏にもあつた情熱がある。まつたく相反した形態と内容のものでありながら、舞臺使命の上において、この古今二つの對蹠的な生命が、やはり一つだといふことはおもしろいことだと思つた。
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 田中厩舍。かつて菊池氏が加藤雄策氏などと一しよに競爭馬をあづけてゐた調教師の家に、今でも色紙がかゝつてゐる。――人生は一番勝負の將棋の如し さし直す與はず 菊池寛――とある。これを見るたびにいつも私はほゝ笑ましくなる。その字も文句も餘りにも文雅的でないからだ。文筆を解しながら、また、文豪ともいはれながら、あんなに迄、文臭を持たない文學者はなかつたとおもふ。自然、日常の起居言動にも、文學至上的な風臭はどこにも見えない。つねに一個の世俗的な大人だつた。といふことは、文學者としての質の粗ではなく、かへつて文壇には稀に見る量と幅のあつた人物を示すものだつたと云つてよい。文學に持たれた奉仕者ではなく、文學を持つた社會的な大人だつた。おそらく自分でも、文豪などと見られるよりも、或る所まで達成した大人と見られた方が居心地もよかつたのではなかつたかと思はれる。

 文學者としても、人間としても、立派な大人だつたと見られる人に、私は、明治以降ではふたりしか數へられない。ひとりは幸田露伴翁である。だが、露伴翁と菊池氏との大人振りは、まつたく對蹠的な相違をもち、どつちも文學者にちがひないが、露伴翁をそれといふならば、菊池氏は文學者ではないやうだし、菊池氏をそれといふならば、露伴翁は文學者とはいへないやうな氣がする。この二人は、その文業の跡では、まつたく契合する點のない他人でありながら、或る人生觀の視角では、甚だ似かよつた共通點をもつてゐた。もし菊池氏が露伴翁ぐらゐな年齡まで生きてゐたら、きつと、この空言を事實づけて、世の一隅から世をながめて、ずゐぶん横着な達人の晩生ぐらしをやつたにちがひないやうな氣がする。また、さういふ晩年の菊池氏を私は見たい、とよく思つたことだつた。

 島の名はわすれたが――年をとつたら郷里高松の何とか島に暮して釣でもしてゐたい、と私にもらしたことがある。山水不感症の氏が、隱棲を山水の中に想ふなんて、私には本氣にうけとれなかつたが、晩年になるほど、東洋人通有の老莊的な人生觀が菊池氏の場合でもあの風貌に滋味を加へてゐたことは見のがせないし、實際、そんなことも、大映社長をやめた以後には、時には本氣で考へたのかもしれない。
 露伴翁には辱知もない私には、あまりふかいことも云へないが、先ごろ露伴全集の刊行會から翁の史論隨筆に關する感想を月報から求められ、もういつぺん「游塵」その他のものを精讀してみるに及んで、とても露伴翁の書に、自分などが讃辭をかくのは、孫がオヂイさんの白髯をかぞへるものみたいで、とても勉強の背丈がちがひすぎるし、まじめに賞めても、おつきあひの語をならべてみても、自分が恥かしいだけで、全集刊行のたしにはならないとおもつて、平におわびしてしまつた。かういふ該博な學識のなかであんなふうによく飽きもせず天壽をまつてをられたものだと、游塵一册を見てさへ舌をまいてしまふのである。

 同時に私には、文字の世界といふものが、非常にうす氣味のわるい油斷のならない人間も住んでゐる所だといふ戒心が催されたのであつた。年經て自然の通力を得た不氣味な古猫たちが、この世界には、佗びしく、貧しく、比較的、眠るがごとく、どこやらに住んでゐる。たとへば正宗白鳥氏だの、永井荷風氏だの、そのほかたゞものならぬ者がゐる氣配は、實はなか/\大きな無形の作用をしてゐるのである。それらの靈猫たちの達人的な横着さの中にあつては、菊池氏などはまだなかなか正直な方で、露伴翁などとくらべれば一段も二段も毛なみは若かつたと云つてよい。佛教の五智、五典を劍道哲學へもつてきて、そのまた劍道釋義を五匹の猫になぞらへて書いた“猫の妙術”といふ一奇書は、たれかに抄出されて、活字になつたこともあるが、この中の五番目の猫を、私はいつも露伴翁の晩年のすがたに想像を附し、菊池氏の境地は、まづ四番目の猫か、三番目ぐらゐなところかと私は觀てゐたものである。これを辯證法づけるには、猫の妙術の解説に亙らざるを得ないからやめておくが、とにかく、人間と、同書曰ふところの、五典の猫の五段めに位するほどな古猫ともなれば、半眼の月眸、よく宇宙の輪行を觀、つねに眠るがごとくにして、よく政治を察し、人心のうごきを知り、世潮の變に處して煩ふなく、いはんや、うつばりの鼠などは、コソとも音をたてなくなり、その居るところの四隣には、つひに鼠穴もあとを絶つてしまふ――といふのが、猫中最上位の猫、つまり五段の猫といふことになつてゐる。
 まだ多少とも、鼠足を聞き、ときに、俊敏をあらはして、大鼠を捕つたりするやうでは、まだまだこの名人位の五段の猫の資格はない。すべて、三段以下の、世間に無數の雜猫の類のみ、とこの書は、當時の劍術天狗どもを、手いたく戒め嗤つてゐるのである。

 昨夜、某旗亭で文春編輯子とぶつかり、三月は菊池氏の三周忌だから、菊池的人生觀といふのを、ちよつぴりねがひますといはれ、即座に、この愚文をかいたわけだが、こゝまで書いてみると、すこし編輯子の註文とはちがつたやうで申しわけがない。しかし、菊池的人生觀なるものは、死ぬまへの三、四年を劃して、非常な老成に入り、もうその以前の、菊池氏華やかなりし頃の文字や逸話などをとつて、かうだつた、あゝだつたなんて、安直に云ふわけにはゆかなくなつてゐる。人生は一番勝負の將棋の如し、さし直す與はず――なんていふのも、戰前天皇賞レースで大銀杯を兩手でさゝげ持つた頃のことばで、戰後の氏の人生觀ではない。戰後にうかゞへた心境の一端は――但看ル花ノ開落ヲ、不言人ノ是非――といふあれだつた。そのくせなかなか、タヾ花ノ開落ヲ看ル――ではゐられなかつたのであるが、さういふ東洋的な古語を坐右に拾つてゐたりして、大人の心がけの篤かつたことは事實である。そして廣い社會人の中に置いての自分には、なほ謙虚だつたが、文壇人の中でなら自分は大人であるといふ自負は相當高くもつてゐたらしい。何かの折だつた。私が、小林秀雄氏の一文とその人がらを賞めたら、菊池氏は言下に「まだ子どもだよキミ、小林は。」と、まるで舌頭にかけなかつた事などが思ひ出される。もつともそれはまだ文藝春秋祭などが毎年行はれた頃のはなしだが、文壇のたれかれを寸評するのに、あれは子どもだよ、といふ云ひ方はよくした人であつた。
 菊池的人生觀は、菊池的處世法に實は端的によく出てくる。また、この方から觀たはうが、正直にうけとれて、おもしろい話はいくつもあり、ことしもまた三周忌を機として、いろいろ語り合はれることだらうとおもふ。この一文に、結論をつければ、菊池的人生觀の晩年には、もう、「固着」はなかつたといふことである。實利主義、唯我主義、現實主義を、淡々と、たゞ人を犠牲にしない限りにおいて、顧慮なく日常交友のあひだにも振舞へたほど或る達人には近づきかけてゐたけれど、もうそれらのものゝ永遠においては無價値なことと、現實は刻々にも現實から移行してゐるといふ、いはゆる花の開落の宇宙のリズムは、はつきりと心に聽いてゐた人だつた。それだけに、私などにも、氏の人生觀などを、手がるに抉出してみることは粗相になるおそれがある。一休の禪は愛すべし 一休の禪は習ふべからず――と云はれたやうに、菊池的人生觀、また處世には、警戒すべきところもあるからである。
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 友人として、菊池さんに接してゐるとき、私はいつもひとりかう思つてゐた。
“菊池氏の人格は愛すべくしてまなぶべからず”
 菊池さんには人間として實にいゝところがたくさんあつた。永い旅行などで起居を共にしてゐると殊にそれを感じた。けれどそれは所詮、菊池さんの持ち味といふべきもので、取つて範とするにはおほきすぎるし、矛盾だらけでひとには眞似られるものではなかつた。矛盾は“菊池といふ人”の風格をどれほど豐かにし偉きくし、また理窟ツぽい周圍の人々を和ませてゐたかわからない。云ひかたを更へれば、菊池さんの在るところ、周圍はいくらかづつでも、何かの意味で人生を明るくされ、會つてゐる間の少時間でも、その少時間の生活を共に樂しむことができた。
“習ふべからず”といつても、實によく知人や後輩の世話をされる點などは、氏を知るほどな人はみな氏の感化を多少なり享けてゐるにちがひない。そのほかにも、怠らない讀書と良識の涵養とか、それからあふれ出る日常片語にも聞くところ教へられるところはずゐぶんあつた。けれど遂に氏の人間そのものは容易にうつし得ないものだつたし、あんな“型”はふたたび日本人の中に二度とつくり出されては來ないだらう。ひと口にいふならば“人間菊池氏”とは、聰明良識な大常識家であるとともに、私行的にはそれと正反對なわれ/\の常識とはケタ違ひな非常識をもたくさんもつてゐる――餘すなき人間性を具備した一箇の人間――といへるかとおもふ。要するに、偉きかつた。長短兩面ばかりでなく、四面も八面ももつてゐた。だから賞揚すればいくらでも賞揚できる。また、クサせばいくらでもクサし得る點もあつた。故に、菊池氏の生涯は、ただに文壇の足跡ばかりでなく人物觀の對象としても、つねに毀譽褒貶のなかにあつた。おそらく、これからもしばらくはさうだらうとおもふ。

 菊池さんと私との交友は、年月は長いが、まことに淡々たる交りだつた。交友は淡なること水のごとくに――とむかしのたれかが訓へてゐたそれのやうに私は菊池さんに心がけて交はつた。だから文壇的利害も、經濟的利害も、菊池さんとはもたなかつた。從つて氏が文字通りな大御所時代には、私はたのみなき片友にすぎなかつた。近年、おたがひに小閑をもつ身となつてからの交りのはうがずツと深かつた。ことに最近はなんでもはなしあへる氣持でよく往來してゐた。
 菊池さんほど、云ひたいことを率直に云へた人はまづ少い。イヤだとおもふことは相手のいかんによらず、「イヤだ」とまツすぐに云へる人だつた。「あれをくれよ」「いくらくれなければイヤだよ」「すぐにしてくれよ」などと種々な場合の意志表示を實に子供の慾求のやうに云つてのけた。これは氏の人格の正直をあらはしてゐるもので、自己の欲するところを歪めずに云へるといふ人間は、古今の大人物のうちにもさう幾人もゐないとおもふ。
 だが、その云へる人が、戰爭中にはやはり云へないことのみにぶつかつた。終戰後もまださうだつた。この數年に、氏がめツきり老けこんだのは、精神的なそれに起因するところが多かつたやうに見られた。

 菊池さんは人間好きである。田舍ぎらひ、温泉ぎらひ、また自然生活ぎらひで、いはゆる文人の山水癖などはすこしももたない。あくまで都會趣味だつた。
 その人間菊池が、人間の中に滅失を感じ、人間ぎらひになりかけた傾向が終戰後にはちらちら見られた。そして云ひたさうなことも餘り云はなかつた。若いときから弱い弱いと氣にしてゐた心臟症状の昂進よりも、これは氏の命數に大きな毒となつたにちがひない氣がする。よく私に云つてゐたことは、「自分はいつも中道をあるいてゐるんだ。だから自然、時勢が極右すると自分の位置が左視され、時勢が左傾し出すと、こんどは急に右視された。これでは中庸も何もあつたものぢやない。正しいリベラリストの節操を保つことは日本では苦行にひとしい」といふ思ひだつた。このかこちごとは近來何度も聞かされた。私は氏のその思ひにいつも同情を禁じ得なかつた。

 菊池さんを間接にだけ知つてゐる人は、よく菊池さんを評して“事業家的な”といふ人物評を下すが、これはすこし菊池さんの一面を買ひかぶつてゐる評である。なるほど氏は事業好きでもあつたし、文藝春秋社や大映の社長としても、大きな成功を示してはゐるが、決して、事業家目的の事業家でもなく、さういふ才腕に長けてゐたわけでもない。文藝春秋の經營を成功にみちびいた内助の人は、佐佐木茂索氏であり、新進の大映をして近年の躍進を偉ならしめた實際の事業人は永田雅一氏なのである。そこで菊池さんはどつちの場合も、ただの“御大”や“おやぢさん”の愛稱をうけて納まつてゐるだけのものだつたが、それだけの存在にしてなほ社運の隆盛に大きな寄與をなしてゐたのも又事實である。それらの社友たちにとつては、社に菊池さんが在ることはとにかく大きな張合ひであり苦樂を共にしうる確實な中心になるらしかつた。いはば菊池さんは漠とした將帥の器であり、何もしなくても、居てさへくれればいい――といつたふうに皆から慕はれてゐた。
 では、何もしない人かといふに、實は、菊池さんは稀れなるプラニストだつたのである。菊池さんの與へるプランはいつも實際的であり非凡であり適確であつた。それは文化的な大處から時流を見、民衆の希求を察するに敏な氏特有な感能によるもので、數學的また科學的な算出によるものとはおもはれない。
 かういふと當人はいつも不服な顏をするのがつねであつた。自分の思考は科學的な根據をもつと菊池さん自身はうごかない理念をもつてゐるからだ。ところが菊池さんの數學は觀念であつて數學ではない場合が多い。たとへば氏の會話のなかには、“何倍”といふ表現がよく出てくる。對象が物の場合でも精神的な場合でも、「キミ、あれは三倍ぐらゐなよろこびだよ」とか「何倍ぐらゐな損だね」とかいふ語をつかふ。時には、倍數でいふには滑稽なやうなことにむかつても、よくこの“何倍ぐらゐ”といふ表現をすぐに用ひた。
 つねに大きな古ボケた紙入をライターと一しよに銀鎖を付けてポケツトに入れてゐた。しかし競馬場などで見ると外套、上着、チヨツキ、ヅボンのかくし、どこにでも全身、入るところには、紙幣をつツこみ、それが鼻紙だの手紙だの、マツチの棒だの[#「棒だの」は底本では「捧だの」]、菓子の喰べかけだのと一しよくたに、つかみ出され、それを選り分けては馬券を買ひにやつてゐた。そして當つた馬券を失くしたりしたことも度々だつた。かういふ風態は隨所隨時だつた。數字をつねに、觀念の倍數ぐらゐでかたづけてゐるところに、菊池さんの經濟的才能があつた。だから私はいつも氏のこの經濟的才能と文化性を、もつと大きな國家的機局に用ひさせたなら、かならず大きな仕事をなし得たらうにと惜しく思つた。文壇的な埒内では大成功者のやうにおもはれたけれど、人間菊池の天分としては、わりあひに時に遇はずにしまつたやうに考へられる。從つてこの天分の故に、同じ文豪といつても、かつての漱石や鴎外や露伴のやうに純粹性が文學者として感じられないのはやむを得ない。當人もまたそれは充分みとめてゐたし、また純粹なるそれ以上に、對大衆文化への全面的な考慮こそ自分の文學の中心をなすものとしてゐたことにまちがひはないやうである。菊池さんは眞實、大衆を愛してゐた。わけて女性にとつては大きな女性の理解者だつた。同情者であつた。だから有縁の女性たちにはたれかれといふことなく實に親切であつた。菊池さんが死んだと聞いて心から泣いた女性は世間にどれほど多かつたらうと私は氏の死とともにすぐそれを思つた。

 文學者として生涯にあんなにたくさん講演をした人も少いとおもふ。そのくせ講演ぎらひだつた。
 演題はわすれたが、日本の歴史中の人物を拉し來つては語るものなどは、いつか、もう八十何回もやつてるけれど、それでも話す前になるとイヤで仕方がないと樂屋でこぼしてゐた。時間が來て、あの大きな體躯を、演壇に運んでゆくのを見ると、私には、屠所の羊のやうに見えた。
 けれど講演はたれよりも上手だつた。能辯や雄辯では決してない。むしろあの特有な音聲で咄々と處女みたいなはにかみさへもつて話すのだが、それが却つて、眞實感を與へ、ゆたかな辭句と相俟つて、聽衆の心をとらへるに至妙な才氣があつた。講演旅行にはいたる所で色紙や紙片の揮毫を求められ、それにもよく書いてやつてゐた。特に女性から頼まれると一も二もなかつた。

“讀書隨所淨土”とか。
“但ダ看ル花ノ開落スルヲ。謂ハズ人ノ是非”
 などといふ古語を戰爭中には好んで書いてやつてゐた。戰時中の菊池さんの心裡を私はいつもそれらの辭句から讀んでゐた。

 文壇の能筆家として、谷崎潤一郎氏ひとりが、本格的な習字を經てゐるものだと、私がいつか菊池さんに話したあと、菊池さんは、このごろ自分もすこし習字をし初めたと云つたことがある。私はそのとき、それはとんでもないことだ、やめた方がいいと答へた。理由は、「あなたの字は、天眞らんまんだ。中學生時代とそんなにかはつてゐないでせう。いや、いまみたいな年齡になつても、あなたの字は、まるで子供だ。――その貴重なる童心の書をすてて、なにも今さら古法帖なんか習ふ必要はない」といふことだつた。容認したか、その後、習字は云はなくなつた。
 ところが、お通夜の夜、息子の英樹さんに聞くと、近頃は、畫などすこし描いてゐたさうである。茄子、南瓜の圖などらしい。私は菊池さんの繪だけは見たことがない。これは後で聞いて實に惜しいとおもつた。畫をやるなら反對はしなかつたのに。――もしあの氣性と書風のゆきかたで、菊池さんが畫をやつたら、武者小路氏の精進を以てしても、ちよつと寄りつけない南瓜圖なんかが出來てゐたかもしれない。が、こんなところにもちよつとあの人の子供ツぽいはにかみなどがあつて人にはその習畫の一片も見せないでゐたらしい。

 菊池さんの味覺ときてはゼロである。戰爭苦もこの點だけはさほどこたへなかつたといつてゐた。生涯でいちばん美味いとおもつたものは、學生時代に小島政二郎氏におごツてもらつた親子丼だとよく云つてゐた。その小島氏への友情でおもひ出されるのは、戰爭中は何かといふと、小島氏の生活を心配して、書いてゐるものの範圍や經濟上のことまでよく私に心配をもらしてゐた。
 また、亡くなられる數日前、私が病床を見舞ふと、ちやうどその日は銀座のレバンテで、故横光利一氏と故鈴木氏享氏との追悼會がある日だつたので、自分が行かれないからぜひ私に行つてくれとたのみ、「横光君の遺族はさう困るまいとおもふが、鈴木君の遺族はすぐにも困るんだよ。だからなるたけ香奠を皆からよけいにもらつてやつてくれよ」と人事ならぬ面持をして云つてゐた。
 無頓着で、知人たちと會食し、そのあとで皆がのこした生菓子などを「これはうまいからボク貰つてゆくよ」などと紙にもつゝまないで外套やヅボンのポケツトのあつちこつちへ入れて歸つたりするやうな神經の持主ではあつたが、知友をおもふことは實に細やかなものがあつた。無神經な點では、去年の夏頃、永田氏や僕などと福岡へ旅行した船中で、船室で例の將棋をさしながら、菊池さんがかたはらの生菓子へ手をのばしたので、「先生、よしなさい、蟻がいつぱいたかつてゐるがな」と永田氏が注意したところ、菊池さんは、ふツ、ふツと、二つばかり息で蟻の群をふいて、殘餘の蟻ぐるみその菓子をむしや/\喰べてしまつたといふのでもその程度がおよそわからう。そのほか、湯(入浴)ぎらひも有名だし、朝顏を洗はない不精さも、知人のあひだでは知らないものはない。

 さうした菊池さんの逸話となると、いくら話しても語りつきない。私などは餘り知らないはうである。叡智な文化人菊池も、ありのままの人間菊池とは、かうして矛盾だらけな相對性を融和させてゐて、それが現在した當人のやる場合においては、實に、天衣無縫であり、自然にみえてゐて、いさゝかの矛盾でもなく衒ひともみえなかつた。文化性と野性と、科學性と非科學性と、常識と感情と、いくらでも相對し得る兩面性が全部菊池さんのなかにはあつた。たれか親切な知人がこれを克明に分析してみたら實におもしろいそして偉大な“人間型”のひとつであらうとおもふ。もうだいぶ前になるが小島政二郎氏が「菊池寛傳」を書きたいといつてゐた。小島氏なら適任者である。だが、人を知るといふことは、自分をたれが知つてくれるかを考へるときすぐ分るやうに、到底むづかしい問題である。ずゐぶんよく知つてゐてくれるやうな知己にしても、たいがいは自分の一部分を熟知してくれてゐるに過ぎないものだ。その意味で、わたくしのこんな追憶記なども、所詮、菊池さんの片鱗もつたへてゐるものではない。ことに夜、お通夜に明かし、晨に、菊池さんの遺骸を火葬場に送つて、あの火葬場の無慈悲な煉瓦の窯口から、鐵のマンガみたいなもので、數片の白骨と灰とを掻き出すところを拜んできたばかりなので、自分のあたまも甚しく整理を缺いてゐる。故人や御遺族に禮を失してゐるところもあらうし、私のおもひちがひも多からうと惧れられる。そして、ふたゝび見るなきこの偉大な畏友については、後日故人と交りの厚かつた他の舊友諸子について、もつと深く正しく沁々うかゞひ得る機會もあらうかと希つてゐる。菊池さんの眞の全貌は、死後まだ淺く、たれにも描かれ盡してゐないといふのがほんたうのところである。
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 ことしは豐臣秀吉の歿後三百五十年目にあたつてゐる。またその秀吉よりきつかり百年前に、蓮如れんによが歿してゐる。
 この四月、蓮如上人四百五十年忌がいとなまれ、京都が久しぶりに、佛都的な色めきをなしてゐるのは、そのためである。
 いまみたやうな世に、もし蓮如のやうな人がゐてくれたら、どんなにか、庶民のなかの悲運な人々と連れ立つて、こんな時代に生きとほしてゆくに良い友となつてくれたかしれまい――などと追憶される。
 親鸞の生涯した時代よりも、蓮如のゐた時代のはうが、はるかに世のなかは惡かつた。暗黒的で、その日ぐらしの絶望觀につゝまれてゐた人々が、今よりも、地にみちてゐたやうに思ふ。
 有名な、應仁の亂の最後から、文明、長享、延徳などといふ年代は、蓮如の中年期から晩年期だつた。
 年表をみても、戰亂につぐ戰亂の記載ばかりである。大戰がなければ、私黨と私黨の抗爭だ。群盜の横行、諸國の飢饉、道徳の頽廢、疫病の流行、物價高、火災流亡の住宅難など、昭和の敗戰後にあらはれたものは殆どあの時代にもあらはれてゐる。要するに、さうした世相とは、國が混亂して衰弱すると忽ちふき出す大地の皮膚病なのである。國が治まれば、皮膚病がなほるが、素質はおたがひにまだ/\脱けてはゐない住民の國なのである。
 だが、そのむかしには、蓮如がゐたし、一休のやうな人もゐて、庶民には、偉大な友があつた。
 蓮如の足のおや指の間には、大きなわらぢダコができてゐたといふ。生涯、薄命な庶民のなかを布教にあるき通したかたみだつた。樹下石上といふ生活も、彼にとつては、形容詞ではない。
 この人が、八十五で病み、いよ/\御往生と聞えたとき、一門の徒はもちろん、はるばる北越から詑びにやつて來た勘當中の弟子まであつたが、蓮如が、自分から求めて、枕元へ招きよせて、名殘りをつげたのは、一頭の馬だつた。
 山科の病室四間のうちの疊を二枚上げさせて、そこへ日頃可愛がつてゐた栗毛の馬を曳かせ、蓮如は、病床に起きあがつて見た。
『長い年月、わしをのせて、愚痴もいはず、怠けもせず、布教の旅を助けてくれたおまへに、あらためてお禮をいふぞ。畜生とはいへ、おまへの助けによつて、救はれた人間はかずかぎりなくあらう。蓮如もいかいお世話になつた。餘生を安樂に送つてくれよ』
 蓮如は云つたさうである。枕元には、下間しもづまなにがしといふ信徒が見舞に持つてきた吉野の櫻が竹花生に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してあつた。それとやはり一信徒が見舞にくれた鶯籠があつたが、その鶯は今朝放してやつたので、籠は空になつてゐた。
 臨終の室の空氣は感じたか、しれないが、おそらく馬は無心だつたらう。栗毛は尾を垂れ首をうなだれたまゝだつた。が、病室にゐあはせた多くの弟子や信徒たちは、さびしかつたにちがひない。取り返し難い自責のおもひにつゝまれたことだらう。なぜならば、世を去らんとする蓮如からこれほど感謝された者は、自分たち人間の中にはなくて、もう野良にでも働かすほかつかひ途がないものとわすれてゐた厩の中の老馬だつたからだ。


 馬の好きな畫家はたくさんある。
 蕪村には馬の繪、馬の句が多い。渡邊崋山は、癈馬圖として、痩馬を描き、それに詩を題してかういつてゐる。若駒のときは、千軍の中を駈け、老いては耕田に勞役し、やがて、秋にむかつて嘶くも、藁一把與へてくれる者もないと。
 子昂すがうの馬の圖は、東洋畫の一精彩である。歐羅巴の古畫にもあるはずであるが寡見にしておもひ出せない。鎌倉末期の“朝臣庭騎卷”は日本の馬の繪としては古畫中の白眉といはれてゐる。俵屋宗達の平治合戰屏風にある奔馬はみな關東平野産の馬のすがたをよく心得て描いてあるとおもふ。
 さうした著名作家ではないが、馬を描いたことゝ馬が好きな點では、古今隨一だらうとおもはれる人は、谷洗馬といふ畫家である。僕らの少年時代の少年雜誌には、よくその洗馬氏の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪が載つてゐたことをおもひ出す。そしてその繪が殆ど馬の畫だつた。
 覇氣のつよい線の奔放な筆致で、あらゆる姿態の馬の畫を洗馬氏のかくものに依つてみた記憶がいまもあるが、その人が、どういふ系統の畫家で、どういふ代表作をのこしてゐるか、またいつ頃歿したかなども、よく知らない。
 ところが、その谷洗馬氏をよく知つてゐた人があつて、いつか私に、洗馬氏の臨終のはなしをした。亡くなられた年やお住居の所などは、忘れてしまつたが、ふしぎと次のことだけは、あざやかに覺えてゐる。
 洗馬氏の愛馬ぶりは、馬を畫くことだけではなくて、家にはつねに一頭の馬を飼つて、乘用とし、研究の資とし、手入れ、飼育、すべて自分でやつてゐたといふ。
 その洗馬氏が、長く病んで、いよ/\醫者にも見離され、命旦夕と知ると、氏は、愛馬に別れをつげるつもりか、
『馬を、出してくれ』と、家人にいつた。
 家はせまいので、疊を上げて家の中へ曳き入れるわけにもゆかない。家人は、病人の枕元にある肱かけ窓まで愛馬をつれて來た。すると、洗馬氏は、身もうごかせない重態なので、仰向けに寢たまゝ、馬の手綱をもたせてもらひ、窓から首をさしのべてゐるわが愛馬と、しばし別れを惜んだのち靜に瞑目したといふことである。
 で、葬式には、友人の田口掬汀氏などの發意で、洗馬氏の遺骸を、この愛馬の背にのせ、芝の増上寺まで、友人たちが交々、手綱をひいて行つたさうである。眞に馬を愛した“馬の畫家”として、古今にちよつと類のない洗馬畫伯の永別を飾るものとしてまことにふさはしい葬儀であつたらう。客にこのはなしを聞いたとき、私は、もし自分が畫家ならば、さつそく「洗馬病床に愛馬へ別れを告ぐる圖」や、また「畫家洗馬葬送圖」などを畫題にして、構圖をこゝろみるがなアなどと思つたりした。それは一篇の愛の詩である。


 愛馬家はみな無常をおもひ知つてゐる。さきも生きもの、こつちも生きものゝ常である。籠のカナリヤに死なれてもいやなものだ。まして、馬といふ動物は、何となく、人情ツぽい、いや愚鈍なほど、情に順なところがあつて、これが何かのことで斃死すると、家族のひとりを失つたやうな氣のするものだ。
 故菊池寛氏も、そんなおもひを、幾度かなめたひとりにちがひない。何しろ競馬界における菊池氏の過去は二十數年にもなる。持つた馬も何十頭かしれまい。アラブ“トキノハナ”は當り馬といはれたうちでも華やかな戰蹟をのこした一頭だつた。それ以來、呼馬にも、氏の持馬はみな“トキ”といふ頭字を冠して名づけた。帝室御賞典レースの榮冠をかち得た“トキノチカラ”を持つてゐた時代が、氏自身の環境も最も得意な頃だつた。菊池家でのお通夜の夜、たれかゞそのときの御賞典カツプを金屏風の前にすゑて寫眞を撮つてゐたのを見て、私は感慨にたへなかつた。
『もうぢき春のシーズンだね。ぼく、死なゝいよ。競馬の前に死んぢや意味ないもの』
 亡くなられるつい十日ほど前に、見舞のひとにむかひ、氏が病床からかう云つてゐたと、それも、笑ひばなしに、友人の永田雅一氏から聞いて、僕もおもはず笑つた。
『それぢやあ、死ぬ間がありやしない。春が終れば、又すぐ、秋のシーズンだもの』
 それほどにたれもこんどの臥床が菊池氏のさいごに來てゐるものと思つてゐなかつたのである。もちろん、菊池氏自身も、[#「、」はママ]
 だから病中も、それ以前からも、春季の中山競馬の再開を、子どもみたいに、待つてゐた。春や秋のスタンドで、菊池氏のすがたをかこみ、豫想や諧謔やいろ/\な戯れまじりに、平和な半日をすごすことは、同じ趣味の友だちにとつて、忘れがたい樂みだつた。
 菊池氏の死後、幾日も出でずして、春季中山のレースはあの緑地でひらかれた。熱鬪するスタンドの群集の一部でわれわれのゐるところだけは、折々、池のやうなさびしさをたゝへ、故なく、あたりを見まはした。こんなときたれもが菊池氏をおもひ出してゐるらしい。
 菊池氏の持ち馬は近來みな友人の永田氏と協同持ちになつてゐたが、そのうちの六歳馬のひとつに“トキノワダイ”がある。所有者死亡の屆けと同時に、これは都合により私の名によつて、二日目の障碍競走に出場し、一着をかち得た。
 このときも、勝ちながら、私たちのまはりは、あたりの歡聲と反對に、寂然とひそまりかへつてゐた。“生きてゐたら”とおもひ“見せたかつたなあ”とおもひ、友人たちはみな在りし日のことのみ、とたんに思ひ出されてゐたのだつた。
 しかもこの“トキノワダイ”は、氏の在世中は、スタート癖が惡かつたり、勝つべきときに惜敗したり、少しも、氏を熱狂させるほどよろこばしたことのない馬である。終戰後の競馬再開にあたり、農林省から抽籤で配布された馬で、これを引いたときは、即刻、私のところへ手紙をよこして、「憚りながら、今度の僕の馬は、君が引いた馬などとは、血統も價格も、較べものにならない逸駿さ。どうだ、羨やましいだらう」などと長い文章で私をからかツて來たものだが、どういふものか、氏の生きてゐるうちは、不成績であつた。
 持主の死後、旬日ならずして、その馬が一勝し、また明日(この原稿をかいてゐるあした)は、再び、春の大障碍レースとして、もつとも晴々しい農林賞典の三千三百五〇メートルに參加する事になつてゐる。フアンの豫想では勝つかもしれませんよと云はれてゐる。ほんとに勝つかもしれない。が、もし勝つたらどんなにさびしいだらうと思ひやられる。何萬といふ人々が一齊に歡呼する中で、氏の友人たちのゐる一區劃だけはまた無言の思ひを一瞬にたゝへあふだらう。また、その遺愛の駒が、長距離を疾驅して、汗しとゞにまみれつゝ、頸に榮冠の花輪を授けられ、どよめく群集の前を、なほ醒めぬ悍氣にたけりながら、緑地を一巡するのを見てゐたら、私は今からもう春愁に耐へ難い氣がしてならない。追憶の傷みと歡びと、どつちが胸を占めるかわからない。と云つて、もちろん、負けてくれた方がいゝなどとは夢にも思はない。常に強氣な菊池氏は、これに似たやうな場合、私のやうな弱氣をいつて、負けるかも知れないなどと云へば、いつもきまつて、ムキになつて駁論したものだ。一體、私は氏と違つて勝負事には弱氣である。だから馬など持つことは、結局、無常を知ることになるとはいつも思ふが、人生、友をもつことも、無常に會ふ約束事みたいなものである。
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但ダ見ル花ノ開落ヲ
言ハズ人ノ是非
 さき頃、忽然と亡くなつた友人の菊池寛氏は、この古語が好きだつた。人からせがまれる色紙などへ、よくかう書いてゐるのを見かけた。それは戰時中も、終戰後もだつた。こゝ十年來のおもひを、菊池氏はひそかに、この古語に托していたにちがひない。
 ことばの意味は、それをうけとる人によつてちがふであらう。これを處生的達觀となす者もあらうし、また、宇宙を透した人生諦觀とする者もあるであらう。が、いづれにしてもこの中にまたゝいているのは、片々たるおたがひの“いのち”の影である。
 事實、こゝ數年間ほど、人間が“いのち”の問題についておもひを深くしたことはあるまい。それを考へる者も、考へる習性を持たぬ者も、意識・無意識のうちに、おそろしいこの課題を身をもつて通つて來たはずだつた。ひとり日本人ばかりでなく、世界の人類すべてが、と言ひ得られる。
 一世紀の十分の一も、この大きな受難期を歩んで來ながら人間は果して、その生命觀のうへに、どれほど、その以前より“いのち”に就て、澄明な思慮をもつたらうか。われながら恥かしい。蒙を加へたのみではないか。ふりかへると、生命の光明は、むしろ過去の遠くにあり、今日のうへに晦く、明日へむかつては、いよいよ夜靄の濃いこゝちがする。
 こんな時、どうして、かういふ状態の下にある民衆のくらい“いのち”のさまよひに向つて、宗教の曉鐘は鳴つてくれないのだらうか。宗教家自身が、宗教の無力を肯定してしまつてゐるのだらうか。
「食へないから」といふ近頃の通用語は、一般庶民の生態には一理由になるが、まさか宗教家の言ひわけにはなるまい。飢餓にぶつかるときこそ、庶民は“いのち”の支へをさがすのである。とたんに宗教家も、その彷徨混亂に伍して、無力化するばかりでなく、依然たる布施經濟の習性をもちつゞけようとするのは無理である。いや、あまりに無慈悲である。
 法然出でよ。親鸞出でよ。蓮如、今日に生れよ。なんて、そんな大それたことを、今日の教團に向つて、私はねがはない。到底、失望してゐるからである。――が、せめて、末法的なら末法なりに、蓮如さんの草鞋の一そく分ぐらゐな慈悲をもつ人はあつていゝはずと、たれもおもふであらう。ことし、蓮如上人の四百五十年の大遠忌と聞くにつけても。



 今にはなくて過去にのみ、慕はしい人を見るのはうらさびしい。蓮如さんの詠といはれる――かきおきし筆のあとこそあはれなれ、むかしをおもふ今日の夕ぐれ――の感を今日におもふもの、ひとり私のみではあるまい。
「何しろ時代が惡い。世の中がこれでは」と、人のせゐではないやうに言へば、言つてもおけるが、蓮如、親鸞、法然ひとりとして、結構な世の辻に立つて、春眠飽食の庶民へ念佛をすゝめたわけではない。
 いや、困難と言つたら、むしろ、蓮如の生涯した八十餘年の時代のはうが、今よりもつとひどかつたのではなからうか。こゝ數年の近代的ヤミ世相よりも、室町中期から以降への、「明日はどうなるか」を憂ひつゞけた暗黒期のはうが[#「暗黒期のはうが」は底本では「暗黒期にはうが」]、上層部はともかく、一般の庶民にとつては、いかに長く、晦く、果しない不安であつたかしれないとおもふ。
 舊教勢力の貴族色を脱して、親鸞が、飢ゑの群れや、迷へる凡下のなかへ立ちまじつて、衆生の光明となつたのも、蓮如が、足の拇指に、大きな草鞋まめをつくつて、布教の旅につい一生涯してしまつたのも、みなこれ、渇ける“こゝろ”に慈雨をまつ旱天の痩民いとしさからであつたらう。同じやうな痩民は、今も地にみちてゐるが、なぜ今日は、來るべき人が、こゝへは來ないのであらうか。


 眞宗の教義も、佛教全般にわたつても、専門的には、よくわからないが、わたくしにも、もしこゝに、蓮如さんでもゐたら、あまへてもみたい、嘆いてもみたいやうな、孤寒な心が、たしかにある。
 わたくしは、何といふことなく、親鸞がすきだ。蓮如がすきだ。すき、嫌ひでいふのはへんだけれど、正直な表現でいへば、さうなる。
 蓮如のすきな點は、佛法も世すごしも、かろ/″\と言つてゐる、あの明るい無態度がいゝ、何か訊いてくれるだらうと、夜がたりの膝を交じへ、人々が固くなつたり、眠氣をこらへてゐるむなしさを見て、慈愛のやりばを託つてゐる、あの親切なおもひやりの温かさがなつかしい。
 言へばきりもないが、傳はる畫像をみても、あの福々しさは、どうであらう。貧乏や、迫害や、人の世の艱難は、時をかへ、形をかへ、幼少から老年まで、たえまなくこの餅肌のやうに、ふツくら肥えた體躯の持主に挑みかゝつたが、この人はいつも、右の耳たぶにあつたといふ大きないぼを指のさきでまさぐりながら、いかなる困難にも、ひしげたことがない。書を讀む油が買へなくても、彼には貴人の風があつた。
 榮譽、格式、大伽籃の莊嚴は、庶民を信の友とする蓮如の周圍にはないものだつた。錦襴の法衣、雲上の施與は、足利將軍の歴代を通じ、五山十刹の群僧がほこるところだつた。また、天臺叡山の傳統がなほ、いさゝかでも持つところだつた。
 蓮如の持つてゐたのは、わづかなる弟子、信徒と、裸馬と一足の草鞋とだけだつた。
 が、庶民は、この人を、光とした。
 五山は、朝廷と幕府とを持つた。いや、それに持たれ、それに管領されてきた。
 この歸趨は、やがて一方が、民衆のものとして、ふたつの大本願寺をなしとげる頃になり、五山は、人なき苔の庭と、林泉に蝉の啼く山をもつだけのものになり終つた。


 蓮如は、庶民の肌へ、肌をもつて接した。中興の起因は、庶民層の下に根をおいたところにある。鎌倉以降、足利期を通じての、五山の隆盛も、大衆につながる功績は大きい。たとへば、蓮如の居た頃の應仁、文明の暗黒期のうちにも、五山の詩僧、畫僧は、超然と詩にあそび、水墨といふ日本的な一畫風を起し、茶道の規矩をたて、建築の樣式に示唆をあたへるなど、これが後世の一般生活のうちにもたらした文化の効果は少くないものといへる。
 が、それが禪家の目的ではない。意圖しない後世の副作用である。禪本來の目的から言つても、應仁、文明の混亂期に五山が庶民の外にあつたのは、ぜひがないといつてもよい。敗戰後の今日においても、やはりさうであるやうに。
 けれど、法然に起り、親鸞を祖とし、蓮如によつて中興を見、今日まで庶民に“たのまれ”て來た宗教としては、いまはよほどな考へ時――と、私には考へられる。蓮如上人の大遠忌を修行するといふにつけても、その蓮如をいまに偲ぶにつけても、私は考へられてならない。これでみな、淨土眞宗の宗教家として、安んじて居られるのだらうかと、ふしぎにさへおもはれる。もちろん、その中でも、有爲な若い人々の個々のむねには、おもひ、憂ひ、自責、幾多の内欝はあるかもしれないが、要するに、庶民のひとりとして、私などの感じてゐる限りでは、まへのやうに云はないわけに行かない。


 たとへば、敢て、本願寺とあきらかにいふが、その本願寺が、四世紀にもわたる長い間、今日までの榮譽と、莊嚴と、安住と、尊敬とを、世表のうへにうけてきたのは、ひとへに庶民の力によるものではなかつたらうか。平たくいへば、信徒の親代々、家代々の淨財による支持、素直なる尊敬、それであつた。
 敗戰後、その庶民のうちの、何分の一が、祖先以來の、安住と無事をもつてゐるだらうか。
 よけいなことを思ひ患ふやうだが、もし本願寺に據る現在の佛心が、けふ迄のやうな習性まかせにすぎるならば、十年後には、親鸞、蓮如の教へは、庶民のなかになくなるとおもふ。現に、かたちのみはあつても、生ける親鸞のこゝろ、蓮如の慈愛は、なくなつてゐる。法然をかたらず、蓮如を知らず、マルクスを信仰し、スターリンをおもふ子弟たちが、すでに、本願寺の信徒原簿には、むかしのまゝ信徒としてのこつてゐる家々のうちから、たくさんに出てゐるにちがひない。
 なぜことしも、蓮如の大遠忌などをやるのだらう。いや、大遠忌はけつかうである。が、依然たる大伽籃の莊嚴と、儀式と、むなしい法會修行の群集をほしがるやうな形式を捨てないのであらうか。私には、わからない。
 佛教の慈雨は、そんなことでは降らないとおもふ。佛教のさかんとは、そんな作つた光榮や、演出ではないとおもふ。目に見えず、しかも急速に、眞宗崩壞の音が、どこかでするばかりである。本願寺のもつ使命の晩鐘とならなければ倖せである。
 こんなことを書いて、親しい友もたくさんゐる本願寺の人々に憎まれるのは私もいやである。が、つい思ふのあまり、憂ひがこゝに出てしまつた。私はもう、齒に衣着せずに言つておく。今にして心から醒めなければ、あゝ勿體ない、本願寺は、地上からなくなるだらう。教行信證や、御文抄や死も生もない“いのち”をもつた不滅の文字は、たゞ心あるもののみには持たれて殘りもしやうが、伽籃、及び教團のごときは、いくらその大を恃みにしてみたところで潰え去るであらう。なぜならば、元々、庶民の中に芽ばえ、庶民によつて、育てられ、愛され、敬され、維持されて來たものであるから。
 私が、もし蓮如さんだつたら、大遠忌をかなしむだらう。やめてくれと、言ふとおもふ。


 蓮如上人の大遠忌をいとなむならば、蓮如のこゝろになつてやるのがほんとだとおもふ。
 この御遠忌の催しには、前例もあるから、さだめし數萬、或ひは十數萬もの人々が、京都へ詣るであらう。だが、それは物質的に、また、境遇からも、來られる資力と、都合のゆるされる人だけである。蓮如さんは、來たいにも、來られぬ人々をこそ、どんなに思ひやつてゐるかしれまい。地下から起きあがつて、もう一度、あのわらぢダコのある足に、草鞋をはいて歩きたい、とおもつてゐるかなどと私には妄想される。


 妄想の徒のことばを、もうすこし言つてみる。なぜ、あの賢明な衆僧と、碩學の長老もそろつてゐる兩本願寺の人々がそのたくさんな、全國にわたる教門の善導をもかたらつて、このさい、蓮如さんのはいた草鞋を、みんなして穿いてみようとはしないのかしら。そして、家なき信徒をたづね出し、なやみ多き門戸をたゝき、親を失つて惡へ走れる子を抱き歸り、病める者、職なき者、自暴自棄に落ちてゐる者、佛に反抗してゐる者、寡夫となつてゐる者、後家となつて迷へる者、あらゆる今日の不幸の下にある信徒たちを――いや、すでに信から離れてゐる者をも――蓮如さんのわらぢを心に穿いて蓮如さんの根氣と、あの明るい自らのよろこびとを以て、全國的にたづね歩く運動を起さないのであらうか。
 そのためには、大遠忌に要する淨財を、擧げて投じてもよいではないのだらうか。もちろん、それで足りるはずもない。足りなかつたら、言ひすぎかもしれないが、現本願寺の寶財、土地、伽籃、すべてを賣り拂つてもよいではないか。
 もと/\それらの物は、みなこれ國恩のものであり、庶民大衆のさゝげて來た淨財であつた。蓮如は、求めたのではなく、山科のも、石山のも、庶民からよろこんでさゝげたものだ。その以後の隆盛もさうであつた。――が、それらの積徳の檀家の子孫たちは、もう今日では、その力がない。自分だけの糊口にも暗澹としてゐるのが無數である。そして、それらの人々は、御遠忌ときいても、參詣に行くどころではない。默然と、敗戰後の瓦礫のあひだに、或ひは僻地に、つかれ呆けてゐる。
 本願寺は、返す時である。庶民からうけた淨財を、今こそ、わらぢを穿いて、全國的に返してあるく時である。
 決して、物質をいふのではない。宗教家ならば、無限にもつてゐるはずのものを、戸々に訪づれて、與へてあるくときである。斷じて、布施經濟習性の、寄せれば集まる組織になれて、衆から貰ふときではない、與へるときだ。
 布施經濟も、その作用と使命をよく果せば、世の中をよくする、美しくする、功利でできない偉大なる文化をも生んで行く。
 その布施經濟に絶息を告げないためにも、どうか、今日の本願寺教門が、さうあるやうに祈つてやまない。
 もし、それを行ひうれば、それこそ蓮如上人の大遠忌は、無數の蓮如を、今日に生むことになる。
 本願寺は、裸になる。しかし、本願寺は亡びない。やがて日本の地上に、新たなる彩光をもつて多くの心を救ふであらうカソリツク教と相並んで、淨土眞宗の鐘も、世界的に鳴るであらう。


 どんな大きなと凡愚にはおもはれるものも、形のものは捨て去るに惜みはない。むしろ、捨てきつてこそ、新らしいものが、きつと生れやう。今日の佛教全體のかたちなるものはすべて悉く古くさく、舊態舊臭で、新らしい世代の人々には何らの魅力にはならない。江戸時代から明治以降の、長い沈滯文化期にさうなつてしまつたのである。鐘の音、馨の音、誦經、建築、墓門、莊嚴具、一切が古い感覺をさそひ、若い人たちにとつては、親しみを拒みこそすれ、何の隨喜にもならないものばかりだ。時の苔だ、時のほこりだ。しかたがない。
 しかし、天平文化は、つねに新鮮である。飛鳥佛は、文化人の新鮮な感能まで魅了してやまない。古いものすべてが黴るのではない。永遠な“いのち”あるもののみが、つねに新鮮なのである。末法、すたれたりといへ、その意味から言へば、親鸞、蓮如の遺語、遺文のうちには、人類とともに“いのち”かぎりなき珠玉は無數に、今日もそのまゝあるのだ。それは、不要なかざりやら、形やら垢やらを洗ひ去つて、たゞ名のみの本願寺となることにより、却つて、それの生れたときの産ぶ聲のやうな力と希望と、新鮮さをあらはすであらう。
 筆を擱くにあたつて、私も私へおもふ。ひとり宗教家へのみ、せめるべき問題でもなかつた。恥じるべきは、自分などであつた。書くのはやさしい、しかし、行ふのはむづかしい。が、敢て、その非禮を冐したのも、庶民のひとりの敬愛である。淨土眞宗にたいする惜みであり、憂ひである。黄口の兒臭の辯をわらひ給へ。
[#改丁]


 ふちも高臺もない、一片のねん土を、鹽せんべい大に、手づくりした小皿が十枚ほど、いつ頃からか小宅の厨房に交じつてゐた。いつか、北原大輔氏が山屋に見えた折、膳の端に、その一枚がのつてゐたのを、ふと、手にとられ、「これは、誰の?‥‥」と果てしなくそのゴス繪の芒に見入つてしまはれた。「靈山とかいふ人ださうで。燒いたのは、今戸の何とかいふ陶工らしいんです」私の知る限りの知識はそれだけだつた。北原氏は、私の膳、隣りの人の膳、さらに次々と幾枚も手にとつては、それらの掌のひら大の上に、ゴスで子供が描いたやうな書、また草花、山水などを見て行つて、かう長嘆したものだつた。
「まるで、無心の境ですなあ。かうまで繪に樂んでゐる作家が現代にもゐるのでせうかな。人をも娯ませずに措きませんなあ」


 また、いつ頃からか、私は、靈山人、或は靈山子と篏した十數枚の繪畫やら一帖餘の繪反古をも、書庫につツこんだ儘、時折、くり展げては、
 ――どうして、これ程な人が、不遇のまゝ終つたらうか。また、世人に今もかへりみられないのだらうか。
 そんな想ひを久しく自問自答してゐた。
 そのくせ私もまた、反古のまま、表具も與へず、望む人があればやつてしまつたり、とかくぞんざいにしか扱つてゐなかつた。何せい、いくら人にやつても、自分が欲しいとおもつて、故靈山子の知人になど頼んでおくと、一枚五圓か十圓づゝで、いくらでも搜して來てくれたくらゐなので、この粗雜は、故人への非禮ではなく、市價的に、また當時は、幾らもあつたといふ所から自然に來てゐる凡夫の通念だつたのである。


 その後、靈山子のことに就ては、かなりくはしい平安堂筆舖の岡田君や、故人の有縁者などからも聞き、私の考へが、ほゞ誤まつてゐなかつたのを知ると共に、近代ジヤーナリズムの外に措かれては、天分かくも豐な藝術家でも、かういふ末路と待遇におき捨てられるものかと、その人の繪畫に接するごとに、その人の薄命が傷まれてならなかつた。


 磯野靈山畫伯の人となりや小傳は、昭和七年、氏の歿後、知友の間で刊行された「靈山子遺墨集」にかなりくはしいが、その書も、わづか五十部か百部ほどしか刷らなかつたといふことであるから、今日ではもう有りや無しやの數しか殘つてをるまいとおもふ。
 五十五歳で世を去つたといふことであるから、畫家としては、夭折といつていゝ。しかも、陋屋の極貧裡に、その大才も伸べ終らずに果てゝゐる。まことに、惜い畫人のひとりであつた。
 夭折の天才畫家としては、草坪、春草、御舟などがすぐ思ひ出されるが、その才華、天分、精進においては、靈山子もまた決してそれらの惜い人々にまさるとも劣つてゐるわけではない。
 たゞ、その畫風、精進、生活態などは、まつたくちがつた――むしろ畫家的な軌道をそれた人といふことはいへる。
 美術學校の日本畫科卒業のとき、卒業式の生徒代表としてするあいさつに、當時の日本畫壇の弊を痛罵した答辭を讀みあげ、來賓の先輩諸名士を驚倒させたといふ逸話は、話として、われわれも面白くは聞けるが、畫家靈山子が、以後、みづから畫壇生活の道をふさぎ、長く、先輩から白眼視されて、つひに世に浮かび出せなかつた生涯の慘たる門出を公約してしまつたことに結果したことは事實であらう。さういふ點において、故人の半面には、世にいふ一種の狷介不覊なるものが、どこかにあるのは否みがたい。


 けれど、かれの若い純想誠な藝術への信念は、實際、さう叫びたかつたらうし、叫ばずにゐられなかつた程のものにちがひなかつた。かれは生涯、畫家にして、畫壇の外に生き通した。しかも、それをひがんだりしてゐる風はすこしもなかつた。洒々、超然の風をもちつゞけ、むしろ、はた目には、不運薄命と見える生活のうちにも、かれ自身は、いつも繪三昧のよろこびに浸りきつてゐたやうである。


 世間的には、おろかな畫家にちがひない。しかし、このおろかさの偉大は、近代において、たれひとり、磯野靈山に追躡することもできないものである。われわれなど、すき勝手なことを云つて、古今の畫家の心血の結晶を、いとも氣らくに、娯樂の對象とする者にとつては、涙のこぼれるほど、かれのさうしたおろかさこそ尊くてたまらないものなのである。
 靈山子ほどな心ねと、眞向きな精進をやり通して仆れた人の遺作にたいして、私など、さかしい批評などはいひ難いが、これだけのことは、云ひきつてもいゝ。水墨の自由と玄味をあれほど畫精進ににじみ出してみせた藝術家は、近代畫家中において、磯野靈山を第一に推してもいゝ、といふことである。


 靈山子は生前、小川芋錢氏に私淑してゐたらしい。芋錢翁も、珍重して、いつも迎へたといふはなしも聞いてゐる。
 兩者のあひだには、どこか、共通したものがある。けれど温雅な田園畫家の高士と、市井の陋屋に獨樂的な畫三昧と生活のさすらひをしつゞけてゐる一種の氣概にとむ貧畫士ほどな相違がふたりにはある。
 芋錢子の畫境も高いものにはちがひないが、靈山子の片々たる水墨畫がさう芋錢子のものに劣るとはいへないものがあると思ふ。
 殊に、書においては、私は、芋錢子のよりも、靈山子の書のはうが、ずつと、調子もたかいと思つてゐる。


 この頃、さる人の携へて來た靈山子の、習畫帖といふやうな反古とぢを見たが、それを繰つてゆくと、よく崋山などがやつてゐたやうに、諸所の寺院、客室などでの遇目の古畫を、折あるごとに、手控へしてゐたことがわかる。
 そして又、宋元の畫、足利期のたれかれの作品、宗達、光琳などにいたる琳派のものまでを、よく模寫したり、骨法を寸描してゐたりしてゐる。
 雪舟の山水圖卷の複製などをひろげて、數旬、無我の習畫三昧になつてゐたこともあるといふ。
 足利水墨の、ことに溌墨ものなどには、ずゐぶん造詣してゐるらしい。
 書格を見ても、漢土の金石は何をやつたかしれないが、假名などみると、あきらかに、行成、貫之、或は道風あたりまでを、やりにやりぬいたことが、たれにもすぐわかる。――といつても、古格をそのまゝかた寫しにしてゐるいはゆる書道家の書などとは同日にかたるべきものでなく、かれ自身の、靈山子の假名として、あざらかに獨創のいのちをもつてゐる。


 この頃、探してみたが、見つからずにゐるが、私は、靈山子が、むかしよく荒物屋で賣つてゐたネヅミ半紙といふ一帖二錢ぐらゐなチリ紙に、山野の名もない雜草を、幾十種類となく寫生したものを、一たばほど持つてゐた。
 たれか、自分で窯でももつて、自分で繪付けでもしようといふには、これはよい繪ツケ手本になると思ひ、やる人を心がけてゐるまに、疎開中、何かと一しよに、つツこんでしまつたものとみえる。
 それを買ふとき、たしかこんな話を聞いてゐた。靈山子の許へ、依頼畫などをもちこむ人はほとんどない。生涯、ひとりも畫商も知らず終つたほどな人である。――でも、無性に畫が描きたくなると、荒物屋からチリ紙を十帖も買つて來て終日、或は幾日も、一室のうちで畫きぬいてゐる。そしてぶらりと、外出して行つたあと、家人があとを見ると、滿室、足のふみ場もないほど、チリ紙に描いた繪で埋まつてゐることがあるのです――と。
 あはれ、なるほど、靈山子遺墨集を見ても、この人の遺作には、麗絹、金泥、屏風などは一作もない。大にしても半切にとゞまり、横もの、小點にとゞまつてゐる。


 逸話といつたら、限りなく、いろ/\な奇行があつたらしい。爲に、靈山子を、白隱、仙※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)、一茶、良寛など、いろいろな風趣裡の古人になぞらへる人もあるが、なるほど、かれの畫は禪畫ともいへるし、俳畫ともいへるし、見方により、興趣の汲み方により、人さま/″\に味得できやうが、要するにやはり近代の生んだ一畫人として、決して古人に擬せなければ説けないやうな類型の畫ではない。その書だけでも、立派に單一して、靈山の書といつてよい獨歩のものをもつてゐると思ふ。
 たゞ、市井の趣味人は、とかく無いものねだりの心理がある。靈山子の書畫は、その點において、今でもかなり有るらしい。戰時中、ずゐぶん燒けもしたらうが、何しろ、有る所には、きつと十枚も二十枚も、ひとからげに出てくるの通例だ[#「出てくるの通例だ」はママ]。缺點といへば、これだけだらう。
 それにしても、私は、勿體ないことだとおもつてゐる。靈山子のやうな畫人が、一世紀に幾人と出るか。いやこれから先はなほ有り得ないやうな藝術家なのである。御舟、春草、草坪などひとしく惜まれる人ではあつても、その短い生涯の結晶は、まづ/\幸福に文化的生命をもたれてゐるといつてよい。それに比して、靈山子は、死後なほ、餘りにその生命を見すてられてゐる。
 おもへば、畑はちがふが、自分などは、つまらぬ惡文を書いて虚名を賣り、こんな山居に安んじてゐるのに、靈山子ほどな天分と精進と、あの人間としても、美しいものをもちながら、世に不遇に終つたことを思ふと、何ともすまない心地がする。表具ができたら、そこらの雜草の花でもあげて、反古供養でもしてあげようと思ふ。
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 何年ぶりだらう。私は上野の秋に佇んだ。日展を觀るためであつたが、半分は、久しぶりにここのどこかで持つて來た辨當を喰べながらゆつくり秋の日を樂しまうといふ氣もちだつた。
 けれど二年半も山村に住みなれてきた私はもう立派ないなか者だつた。以前、美術の秋といふたびに必ず一日は散歩したあの頃の上野といまの上野とはちがつてゐる。妻子とともにどこかで握り飯を解かうとおもひ、木蔭をさがせばそこには家なく働く力もない人々が晝間も正態なく眠つてゐた。茶店らしきものはあつても立ち寄る何の風情もなく、芝の小山や草むらはあつても、乾ききつた埃や紙屑が舞つてゐるだけである。
 さきに繪を見ようよ。妻子をつれて日展へはいつた。そこで知人の制作に出會ふと、知人のその後の精進がうかがはれ、また無沙汰の詑びもしてゐるやうな氣がして樂しかつた。とりわけこの一會場に朝倉文夫氏の令孃がふたりとも入選して、巨匠の父の作家へ迫つてゐるのが、觀賞とはべつな意味で美しい思ひ出を私によび起させた。それはちよつと外國にも例のないやうな一家族がみな藝術にひたりきつて樂しみきつてゐる朝倉氏の特色のある家庭をちよつと知つてゐたからであつた。かつてその朝倉さんの家族は私のゐる奧多摩の峽谷からさらに山深い古寺に疎開してゐたことがあり、その古びきつた山寺の中でも、あのはげしい戰爭の下でも、毎日を實にうらやましいやうな藝術的な實生活と團欒に暮らしてゐたことをおもひ出したからでもある。
 めぐまれてるよ、日本は。こんな大戰爭に敗けて、なほこれだけの美術が製られたり觀られたり出來るんだからね。
 子どもはすこしくたびれたらしいが、まだ陽がたかいので、そんなことを語りながら私はなほもう一つ觀たいものゝある三越へ廻つて行つた。そこの三階畫廊には和田三造畫伯の個展があつた。近年、おもふところがあつて日本畫に精魂をこめてゐるといつか聞いたその展示を見ておかないとまた一年觀る機會がないし、それとその作品のうちには、或る年の夏、伊豆山のひとつ蚊帳のなかで、明け方ちかくまで三造氏が私に寢ものがたりしてゐた谷崎氏の『春琴抄』を描いてみたいといつてゐたことが、ことによるとこんどの個展に作品となつて出てゐやしないかなどともおもはれたからであつた。
 はたしてその『春琴抄』の繪が出てゐた。いつか伊豆山の蚊帳のなかで眼をつむりながら、構圖の苦心やら、大阪風の家造りの考證の至難さなどを、はてしなく私に苦吟してゐたそれが、繪となつて公衆のまへに示されてゐた。かうした題材を繪としてあらはすことが、小説として文字であらはすよりも、はるかにむづかしいと云つてゐた和田さんのことばがよくうなづかれる氣がした。私に批評はできないけれど、畫に描かれてゐる春琴と佐助とが、おたがひに三味線を持ちあつて、絲と絲とのあひだに張りつめてゐる何とも得知れぬ藝氣のうちに、この小説の畫題化された興趣もあるし永く觀てゐるうちに、春琴か佐助か、どつちかひとりが原作者で、對してゐるひとりが三造畫伯みたいな氣もしてくるのだつた。
 夜。家に歸つた。山村の家の壁には、遇然二三日まへに、知人が携へておいて行つた明末清初みんまつしんしよの畫僧八大山人の水墨畫が懸かつてゐる。梅花小きんと函題にある半切ほどな繪なのである。外は夜風が出て、山村の雨戸にはもう落葉の音がしはじめてゐる。
 繪に暮れた一日がまだあたまに興味をつゞけてゐて、私はまた貧しいわが家の床の間を第三會場みたいに觀てゐた。そして八大山人といふ性行の變つてゐた畫僧の奔淡な墨の色をながめてゐるうちに、彼の生きてゐた中國大陸のその頃の世相までがなぜかそれからそれへと想像にのぼつて來てならなかつた。
 それは無意識のうちに、清に敗れた明末の世と、敗戰後の日本とまた八大山人の狂態してさまよひ歩いた南昌の城市と、けふ自分の歩いて來た上野の秋や銀座に近い街などを、あたまのどこかで比較しながら、且つぼんやりと明人の古い畫をながめてゐたせゐであらう。
 八大山人の傳といふものを私はよく知らないが、彼は明の王族で南昌城の太守の子だつたと呉昌碩か誰かの著書で見たことがある。彼が二十歳のころ明朝みんてうは覆滅し、滿洲から起つた清軍が北京を陷しさらに湖南湖北までを席捲した。もちろん彼は身をもつて南昌をのがれ、山深くかくれて僧となつた。そしてそれつきり二十年餘も世を絶つてゐたが、やがて清朝の世も定まり、眞の平和が南昌にも見られて來た頃、彼はすりきれたわらぐつをはき、垢じみた布帽をかぶり、破衣はいをひるがへしてむかしの王子として君臨してゐた城下を氣のへんな風來僧となつて歩きまはつてゐた。
 けれど彼は人に物乞ひするやうなことはなく、時に、天にむかつてひとり笑ひ、時には地に伏して嗚咽したり、また突然高歌して走り出したり、さうかとおもふと落陽の岡に立つて、その氣狂ひじみたあたまで何を回顧するのか日の沈み入るまで默然と冥想したりしてゐた。だから誰も彼の前身をさとる者はなく、風來の狂僧とのみ見てあはれにおもひ、食を與へたり、酒を飮ませた。彼はそれに對してたちどころに畫を描きのこして去つた。そして落款には八大山人と書くのだつたが、それに筆癖があつて、八大の二字も山人の二字も、二字づゝ劃をつゞけてひと筆に書いてしまふので、ちよつと見ると「哭之」「笑之」といふやうに讀めた。
 同じやうな前身と運命をたどつた畫僧に、石濤といふひとがあつた。石濤の繪もその時代のもつとも高い東洋畫として今日もその遺作は世界的に尊重されてゐる。その石濤と八大山人とは、ずつと晩年になつてからおたがひにすが/\しい詩文の交友をむすび、ともに餘生をその藝術と共に完うした。
 石濤は市井へ出なかつた。八大山人は人戀しさに舊城市へ出た。しかし彼の風癲はおそらくほんとの狂人ではなかつたにちがひない。明が滅んで、城士里人もみな清朝風の辨髮すがたとなつた街ではなほその前身が知れたら生命の危險があつたによるものであつたらう。
 今夜は停電がない。節電勵行で、折々、無事に電氣のついてゐる夜は有難い。何だか電氣とともに夜を惜んで起きてゐたい氣がするほどである。八大山人の梅花小禽圖も、ものいひたげにその墨氣をこよひの燈下にあたらしくして觀せてゐる。――が、もし八大山人に風狂のことばを吐かせたら何といふだらう。私は、けふの秋の一日をあらためて感謝した。そしてそれは世界史にも例がないくらゐ幸運な敗戰國にして有り得る異例にちがひないことも痛感した。同時に八大山人の繪を單なる消閑の具として觀てゐるには絶えなくなつた。
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 その始末をしてしまつたのが、もう三年も前の事なので、自分の家に有ることは有つた物にちがひないが、猫の捨子でもしてしまつた飼主のやうに、けろりと忘れ果ててゐたものを、此頃になつて、二度三度ならず、思ひがけない訪客の口から、藪から棒に訊きたゞされるので、自分も變には考へてゐたのである。
 すると又、週刊朝日のY君が來て、今朝もまたいきなり原稿の催促でも、朝飯の消化に惡いと思はれたのであらう。木炭ストーブに手をかざしながら、
 ――さう云へばお宅に、百穗さんの出世作だつたといふ、鴨の屏風とかゞお有りださうですね。
 と、およそいつも原稿の期日にばかり會ふので、繪だの陶器だのといふ閑談を出してくれたことのないY氏が――これも藪から棒のかたちで云ふ。
 前々から變に思つてゐた不審が、又おやと自分を輕く驚かした。Y氏にはそんな暇はけちりんもないので云ひ足さなかつたが、同じ訊ねかたをしたその客たちは、きまつてさう云つた後で、
 ――あれはたしか大正初年頃に、畫壇の問題になつた作品でせう、いちど見せてくれませんか。
 と云ふのである。
 ――無いよ君、そんな物は。
 と自分が正直に斷わつても、中には承知しなかつたN氏などもあつた。
 毎日毎夜、足や電話を煩はせながら、いつかう原稿はできないで、顏を見るとたゞもう處女の如く謝まり入つて居るほかない場合などに、かういふ原稿とはかけ離れた話題を先樣から出してもらふ時は、慈雨に浴したやうに有難いもので、こちらはなるべくその話題に枝をついだり花を咲かせて、締切の時間だの、工場の印刷時間だのといふ怖いことばかり一分間でものがれようとするので、折もこそあれと、自分の不審に輪をかけて、
 ――いつたい君、そんな物が僕の家にあるなんて、誰に聞いたんですか。
 と訊いてみるとY君が云ふには、
 ――たしか、十一月號か十二月號の三田文學に、誰かゞ書いてゐたのを見たんですが。‥‥それには、その百穗氏の屏風の事と、美術倶樂部に藤田東湖の遺品か何かが出た時、徳川家が何萬圓かで落札したのを、あなたが、二番札で落し損ねたとかいふ話も書いてあつたやうですよ。
 はゝあそれで――と先頃からの不審は解けたけれど、話は大きい。そこで十二月號の三田文學の隨筆欄を見たら、なるほど横山重氏が「書物搜索」の中の一節にかう書いてゐるのである。
 十一月はじめの土曜日。私は二時間の授業を終へて、すぐ青山會館へ行つた。此日、藤田幽谷父子の遺墨展覽會があるといふ案内状をもらつたからだ。幽谷の寫した常陸風土記だの東湖の弘道館記述があつた。その他澤山あつた東湖の刀や飯茶椀や、彼の射止めたといふ鹿の頭やなにかもあつた。――これが美術倶樂部で入札された時は、徳川家が何萬圓かで落札したが、二番札は吉川英治氏であつたよし、さる人が話してゐた。
曾て、平福百穗遺墨展覽會に、吉川英治氏の出品した鴨は、場内でも逸品の一つであつた。私は今、宮本武藏を讀んでゐるが、その當時、頭にあつたのは鴨の所有者としてであつた。
 覺えてゐる必要がなくなつた自分の過去の雜事は、自分よりもかへつて他人の記憶の中に永續性を持つてゐてくれる。横山氏の文にある私に關する二つの事も、思ひ出せば覺えのない事ではなく、又思ひ出してみるとその二つとも、事實がすでに茶ばなしになつて居る。
 美術倶樂部の入札で、徳川家と僕とが、何萬圓といふ品物の札値を突き合つたなどといふ話は、かりそめ事にしても擽つたい事で、ダツトサン一臺運轉し出しても、あいつがあいつがと眼にかどの立つ文壇人の中で、僕にだけそんな噂があつたりしては、噂だけでも面目ない。


 何年前のいつ頃か忘れたけれど、たしか改造社で維新小説全集の計畫があつて、自分も「櫻田事變」の一卷を書き下ろしで執筆する約束を持つてゐた頃と思ふから、さう遠い前でない事はたしかである。美術倶樂部の展觀品中に、水戸藩關係の古書類、手簡、日記、書畫什器などが※[#「纏」の「里」に代えて「黨−尚−れんが」、「广」に代えて「厂」、335-13]まつて出たのを、わざわざ知らせてくれた人がある。
 行つてみると、まるで足の踏み場もないやうな市場的風景で、何萬圓などゝいふ銘品が顏を出してゐる展觀ではない。その雜然たる中に、自分が欲しいと思つた物は、古つづら一ぱいに突つ込んであつた手紙、古卷物、寫本などの一括りの荷で、
 ――これはどの位なら落ちる?
 と札元へ訊いてみると、
 ――さあ、三百圓ぐらゐは入れないと。
 と云ふ話だつた。
 三百圓前後ならぜひ買いたいと自分は思つたのである。何やら不用な古反古も入り交つてゐるが、皆多少なり水戸藩の掃き屑だし、それに何より欲しかつたのは、その中に、櫻田事變に參加した關鐵之助や大關和七郎などのいはゆる水戸浪士十七名の肖像畫があつて、しかもその筆者が、同藩の士で南宋畫の名手だつた立原杏所が精密な筆で描いてゐるのである。
 當時、洋畫の影響をつよくうけて、渡邊崋山が肖像畫に興味をもつてゐた事は有名であり、その崋山と杏所とは、畫風の交渉も深いし、私交も密であつたから、杏所の肖像畫も多分に藝術的な良心と、又當然にあの事變前後の水戸藩の誰もが持つてゐた熱意がそこに潜んでゐたはずである。
 水戸浪士のうちでも佐野鐵之助とか、その他二、三者の肖像はほかにも傳はつてゐるが、十七士全部の肖像はまだ嘗つて世に出てゐない。それも珍しいと思つたし又、水藩史料や櫻田事變にかゝはる文獻のうちにも、一度も所載されてない未發見の手簡が――それも十七浪士の物がかなり多く、反古つゞらの中にあつたので、自分はちやうど、改造社の維新小説全集の仕事を準備してゐた折でもあるし、うまく手に入つたら、その杏所が手寫した肖像畫も、新刊書の中に入れることが出來ると考へて、
 ――ぢやあ札を入れといてくれ。
 と、倶樂部員にたのんで歸つて來た。
 すると二、三日たつてから、期待してゐたかんじんな古つゞらは持つて來ないで、その折、ついでのやうにふと札を入れておいた藤田東湖の吉野の詩と、藤田小次郎の筑波山の詩の二幅が屆けられて、
 ――あのはうは、どうもせつかくでしたが、八百何圓とかで、ほかへ持つてゆかれました。
 といふ挨拶だつた。
 東湖父子の詩幅も、藤田家が今日まで、先祖の遺品として持ちつゞけて來たものとか云ふだけあつて、彼の父子の淋漓とした墨いろと詩懷がまざ/\受けとれる物ではあつたが、それよりは多分に、まだ文獻的に未發見の肖像畫と手紙のはうを期待してゐたので、何だか、駿馬を求めたのに驢馬を曳いて來られたやうな失望を感じてしまつた。
 その後、改造社の櫻田事變を、書おろしで約四百枚ほど、一ヶ月ほどかゝつて毎日書いてゐる間も、どうもそれへ變に未練がのこるので、或時又、その倶樂部員に、あれは一體誰が買つたのかと、行方を調べさせたところが何でもよく分りませんが、飯倉邊の質屋さんの主人が落したらしいやうで――と聞かされて、質屋さんとあんな文獻と、そもそも何の關係があるのかなどゝ思つたきりで、それなりその事はけふ迄忘れてゐたわけである。
 自分が美術倶樂部で、水戸藩關係のものを入札したことといへば、後にも前にもそれしかない。そんな至つてケチくさい不出來な話が、どう轉々と値が付いて行つたものか、數萬圓といふ事になつて、しかも徳川家と札値を爭つたなどゝいふ由々しいことになつたのは、骨董屋によくある銘物茶入の出世とちがつて、これは「話」の出世といふものであらう。
 それからもう一つの「鴨」のはう。
 これは鴨だけに[#「鴨だけに」は底本では「鴨たけに」]、鴨が鴨を背負つてきたやうな、自分には偶然なぶつかり會ひで、これも又、由々しき名門の金持に縁のある話であり、その上、この話にはサゲみたいなものがついてゐるので、藤田東湖よりはもういつぱいお愛嬌がある。
 人形町の水天宮前に、おもしろい男だけにいつも貧乏ばかりしてゐる百和堂といふ店がある。こゝの主人の澤といふ男は、今の横山大觀と死んだ菱田春草とをコンビにして、絹本の尺五で七圓か、八圓の會費で、畫會の田舍廻りをさんざんして歩いたといふからずゐぶん古い彩畫屋で、その仲間の者なら誰でも知つてゐやう。餘談にわたるが、その頃、大觀、春草、武山などをコンビにして、地方で畫會などを開くと、席畫を依頼にくる畫會のお客が、武山や春草の前にばかり押しかけて、大觀のところにはちつとも紙も絹も持つて來ないといふ有樣だつたさうである。そこで大觀は時々ぽかんと手があいてしまひ、會衆には、アノ先生は下手だから誰も頼まないのだといふ心理があるとみえて、よけいに武山や春草のはうへばかり絹や紙を積みかさね、何とも大觀が手持不沙汰に見えて氣の毒でしかたがない。そこでよく、畫會元の澤君などは、武山や春草のはうから依頼者の繪絹や色紙などをソツと拔いて來て、大觀のはうに振り向け、自分もそばに取ツついて、大觀が筆を執つてゐると、わざと側で、うまいなア、さすがに何ともいへない所がありますなア、と會衆をこつちの方へ適當に寄せることに、ずゐぶん氣苦勞をしたものですと、これはその澤君がよく述懷する思ひ出だつた。今でも何うかすると――いや何うかしないでも彩畫の賣立などを見ると、ずゐぶんその時代の菱田春草と「若かりし頃の大觀」のコンビが、いはゆる大觀の若ガキと稱せられて市場には姿を見せてゐる。
 ――ところで少々、話がお茶を飮みすぎたが、その澤君と小宅の懇意にしてゐるM君とが、竹馬の友からつゞいて晩年まで惡友のやうな善友のやうな親類づきあひをしてゐたので、自然僕もいつか懇意にしてゐたが、或時――といふのは今を去る七、八年も前のことだが散歩か何かに出た足で、何氣なく百和堂へ立ち寄ると、店は猫の額みたいな家なので、まあまあと云ふわけで二階へ上げられた。二階は二間で、犬の額ぐらゐはあり、かういふ商人氣質として、自分の部屋の床の間や壁には、金づくでも賣らない、人にも見せないといふ物を、藝妓屋の主が蔭で藝妓を買つてながめてゐるやうに、こつそり懸けて樂んでゐるものなのであるが、その日は上つてみると、二間とも藁ゴミだの繩だのが散らかつてゐて、壁といふ壁や、襖から疊にいたる迄、殆ど、空間がないやうに、新畫の絹本だの小點だのが、いつぱいに懸け並べてあるし、疊にも箱のまゝ雜然と積んである。
 ――ほう、みんな百穗ばかりぢやないか。
 僕がいふと、澤君は兩手を箒のかはりにして、藁ゴミの中に僕の座ぶとんを置く場所を作りながら、
 ――この間、秋田の賣物があるからといふので、買出しに行きましてね、その荷物が、今し方着いたばかりの所なので。
 と澤君は、解いたばかりの繪をながめ廻し、
 ――百穗さんは寡作家のはうで、此頃なぞは殊に依頼畫なども描けて來ませんが、かうしてみると、畫家といふものは、やつぱり見えない所ではずゐぶん描いてゐるもんですね。こんなに、百穗の繪ばかりが、おまけに雜に描きなぐつた物が、たくさんかたまつてゐる所など、買ふお客には見せられませんよ。
 と、みち買はないお客と、僕はあきらめられてゐる[#「あきらめられてゐる」は底本では「あきめられてゐる」]ものゝやうに、遠慮なく、これなどは一本々々といはずに、何本幾値で買つて來た物だとか、この聯落の支那美人などは、今に年數が經つと、出來が出來だから、物はほんものでも、僞物になつてしまふだらうとか、あけすけに話してくれるのであつた。
 そのうちに僕の眼はふと、隣りの部屋に半開きになつてゐる屏風を見出し、何といふこともなく、その繪に惹きつけられてしまつた。圖は屏風の端の上下に、ちやうど天平漉きの歌紙にある雲のやうに、大膽な水の波紋が描いてある。その波紋が又、觀世水とも光琳水ともつかず、側へ寄つてみると、やたらにボトボトと色をこき交ぜた繪の具を落してあるといつたやうな調子で、わざと美術批評家の頭をジレンマに墮し入れようと計つたやうな意地のわるい難解な水なのである。
 それだけでも、ちよつと不思議な繪といふ感じがするのに、なほよく見ると、屏風の全面に描いてある二十羽ほどの鴨の群が、みな首が無いのである。
 ――さつきから何となく變に見えたのは、そのせゐであると分つた。もつとも首が無いと云つても、半端に描きかけてあるわけではない。うらゝかな春の日を浴びて、陸へ上つてゐる鴨が、どれもこれも、阿片室の支那人のやうに、とろんと眠つてゐるのだつた。この繪に接してから動物學にうとい僕は、初めて、鴨といふ物は、眠る時には、自分の翼を人間の寢具蒲團のやうに被いで、頭を深く翼の下へ突つこんだ儘、立ち往生したやうに靜に眠るものであるといふ知識を教はつた。
 ――その中で、たつた一羽だけ、首をあげて眼をさましてゐるでせう。そいつが、おもしろいぢやありませんか。何だかかう面白いぢやありませんか。
 と澤君がそばから云ふ。
 その一羽の鴨は、ちやうど、世間の人間が皆、寢るべき時をちやんと寢てゐる時分に、ひとりで机に眼をさまして――そのくせちつとも書けもしないで、壁ばかり見てゐる誰かに似てゐるナ、と自分は苦笑をもよほして來た。
 だが、澤君も名言を吐いた通り、何だかしれないがこの繪は愉快である。そこで僕がこれをくれと云ひ出した。澤君にはさう執着がない。値だんも今は荷が着いたばかりで分らないし、それにとにかくこの中では、その百穗が王樣なのだから、ほかの品物を市場へ出してそろばんを取つてみない事には、いくら位にしたらかんじやうが合ふか見當がつかないが、持つておいでになるなら持つて行つてもいいと云ふ。たしか自分ですぐ自動車を呼んでそれへ載せ、わけもなく、
 ――何だか、何となく、おもしろいな。
 と、家へ歸つてからもそんな程度に欣んでゐたやうに覺えてゐる。
 そのうちに澤君から、あれは千二百圓位もらはないと困るので、と云つてよこした、困るので――は此つ方の事になつて來た。そんな金はありはしない。第一家がまだ卅五圓ぐらゐな借家ずまゐで、狹い部屋は、屏風を頬張つてゐるやうなかつかうになり、掃除をする者も出入りにもとかく邪魔あつかひにばかりされる。然し懇意な百和堂のことなので、何とかならなければ又、擔ぎ返すまでの事と、出來ただけの金で負けてくれといふと、いくら貴方にでもそんな無茶な値にはならないと云ふのだ。結局、返すのもこけんにかゝはるやうな氣がしてしまつて、家にあつたほかの品物を金に添へたりして、とにかく自分の物になり、夜半になると、十九羽の眠り鴨の中に、今までは起きてゐるやつが一羽だけだつたのに、今度は机の前にも一羽殖えたから、あはせて廿一羽の鴨になり、起きてゐる鴨がそれからは二羽になつたわけである。


 ところが或時、夏の日か秋ぐちかの暑い日だつたやうに思ふが、自分が外出して家に歸つてくると、せつかく廿一羽になつたのに一羽減つては淋しいとでも察してゐるやうに、留守に訪れた彫刻家の――もう故人になつてゐるが、伊上凡骨がその屏風のまへで、手枕をかつて鴨みたいに晝寢してゐた。
 やがてその凡骨が、むつくり眼をさましたと思ふと、いきなり僕をつかまへて、この屏風はいつたい誰の物だと訊くので、おれのだよ、と答へると、なか/\信じないのである。
 ――ほんとに君のか。
 と何度も念を押すので、
 ――どうだ、いゝだらう。
 と、その念を押し返してやると、
 ――ウヽムいゝ。ウヽムいゝ。
 屏風の前にあぐらを組んで、睨めつこしてゐるやうに動かないのである。然しそれでも僕は、凡骨が鴨の圖の藝術を作家と共に理解して共感してゐるのだとは思はなかつた。なぜならば伊上凡骨は、ずつと以前から、その木版藝術の仕事のうへから、平福百穗氏とは親交があるのでただ單に、交友的な氣持から、百穗氏の平常の非凡を讃へてゐるのだと見てゐたのである。
 すると、數日經つてから又やつて來て、この男のふだんの持ち前として、おそろしく感興的に、あの屏風をもいちど見せろと云つて、家の中いつぱいに展げ、
 ――これやあ君、百穗氏の問題作だつた、あの鴨かも知れないぞ。
 と云つた。
 あの鴨とは、いつたいどんな鴨かと訊くと、凡骨は人を叱りとばすやうに、
 ――百穗の鴨つたら君、餘りにも有名ぢやないか。それを君は知らないか。ヱー、知らないのかい、あきれたもんだなあ。
 と罵倒して、それから巨匠百穗と鴨とについて呶々と唾をとばし初めた。――つまり大正三年に於ける大正博覽會に、それ迄は、名聲微々たるものだつた百穗氏が、鴨の圖を出品して、その奔大なる筆致と新鮮な構圖が、餘りにも時流の傾向と常識からは進歩的であつた爲、畫壇へ投じた問題の一石となつて、俄然、百穗といふものの名聲が、それから彗星のやうに群小を壓して行つたといふ話なのである。
 ――さうかなあ。
 と僕は、まだそんなでもない氣のする眠がり鴨をぼんやり見直してゐた。
 ――さうかぢやない、おれもそのうち行つて、百穗君から訊いてくる。
 頼みもしないのに凡骨が又、ご苦勞樣にも幡ヶ谷の百穗氏まで確めに行つたものらしい。もつとも、彼の話によると、平福氏が鴨で有名になつたそれから後といふものは、畫の依頼者がみんな私にも鴨を描いてもらひたい、私にも鴨といふやうな有樣で、屏風にも懸物にも、ずゐぶんその後も鴨を描いた筈だから、それとは思ふが、果して問題の大正博覽會に出品したその鴨だか、ほかの鴨だかを、確めてくると云つてゐたのであつた。
 ――やつぱりおれが最初にぴんと感じたとほり、たしかにこれらしいよ。平福君に話したら、どうしてそんな秋田の方へ行つて又、東京へ流れて來たのだらうつて不審がつてゐた。第一あれほど喧しく云はれた有名な作品だから、商人の手にわたつてまご/\するわけはないがとも云つてゐたね。でもおれが詳しくいふと、やつぱりこれに違ひないのだ。それとすれば懷しいなあと平福氏も云ふのさ。君、こんなにぞんざいにして置かないで、箱か何かこしらへろよ、さうすれば平福氏が、感想か何か書いてもいゝと云つてゐたし、自分でも、もいちど見たいと云つてゐたから。
 これに違ひないと斷定する凡骨の有力な立證の一つとして、この屏風が一双でなくて、半双だつた事も云ひ添へられてゐた。
 さういへば六曲屏風は、必ず一双であるべき筈のものに違ひない。まして一代の力作を畫匠が托さうとする場合などは猶更といへやう。所がこの屏風は最初から半分しかなかつた。もちろん自分も知つてゐたがそんな事は僕には少しも氣になつてゐなかつたのである。所が、凡骨がそれを百穗氏自身に問ひ糺してみると、あれはやはり半双しか描かなかつた物で、知人のうちにはをかしいといふ者もあつたが、何も屏風を示すのではなく、畫を出すのであるから半分でもかまはないと頑張つて、その儘出してしまつたのだと云つてゐたといふ取次ばなしなのだつた。
 そこ迄に凡骨は云つてくれたけれど、自分はつい箱を作るのもおつくふだし、又平福氏の所までわざ/\見せに行つてから、違つてゐたなどと云はれては、寔に間のわるいものになると思つて、ついずる/\に忘れてゐるうち、その凡骨も死に、平福百穗氏も故人になつてしまつた。
 で、百穗氏の死後、たしかをとゝしの春だつたかと思ふ。上野の美術協會で、同氏の遺墨展覽會がひらかれる事になつた。そのちよつと半月程の前の事である。新潮社の中根駒十郎氏が、出版の用事か何かで來訪された事がある。その折、中根氏が、健康上の話から、どうも人間なんて達者があぶないのか、あぶないのが達者だか分らないものですと云ふ。どう分らないのかときくと、中根氏はその前年あたりか、ひどく一時不健康な體状だつた。するとお互ひがまだ下宿屋書生であつた時分からの友人である平福百穗氏が枕元へ見舞に來て、
 ――君と僕とは、肥り方といひ、體質といひ、甚だよく似てゐるから、君が死ぬと僕もきつと神經を起して弱くなるかもしれん。だから丈夫になつて、長生きしてもらはんとこまる。
 と冗談を云つて行つた。
 それから四日目に、百穗氏は郷里の秋田へ歸國して、ぽつくり病死してしまつた。そして、それにびつくりして葬式や何かに馳けずり廻つた中根氏は、
 ――こいつはいかん。
 と思つたが、以來、鬪病的に體も氣持もつよくなつて、そのまゝ達者になつてしまつた。
 そんな話の末からなのである。僕はふと鴨の事を話すと、
 ――え。ほんとですか。
 中根氏はその時ちやうど、遺墨展覽會の事でも世話をやいてゐたので、實は今、故人の作品の代表的なものを、所藏家先から借り蒐めてゐる所であるが、例の百穗氏にとつては思ひ出の多い記念すべき出世作の――鴨だけが、いつたい何處に所藏されてゐるのか分らないで皆不審がつてゐた所だといふのである。
 何でもかんでも、出してみせろと云ふので、僕も見てもらつて結構なので、承諾はしたが、すぐに出せない。といふのは、其後、家も二度まで移轉し、その時住んでゐた芝公園の僕の家といふのが、所詮、半双の屏風にも席を與へられない程な手狹まなのである。それに屏風以上に置場に困るのが書物であつて、これがどの押入を開けてもいつぱいに頑張つてゐる。さうほんばかり入れられては蒲團の入れ場所がなくなつてしまふと女共の抗議がくる始末なので、屏風もここへ引つ越して來た際に、その押入の奧へ横に突つこみ、その前へ後から後から書物の巣を作つてしまつたので、出すだんになつて、惡くすると鴨にカビが生えてゐるかも知れないぞと思つた。
 中根氏は要意ぶかく、次に來た時は、百穗氏の畫譜を持つて來た。書中の寫眞と屏風をつきあはせてみると、やつぱりこの屏風が故人の記念作にちがひなかつた。
 ――これですよ、偶然ですなあ、お宅にこの鴨の屏風があつたなんて。‥‥故人のひきあはせでせう。
 中根氏は、故人の遺墨展覽會と[#「遺墨展覽會と」は底本では「邊墨展覽會と」]いふものゝ爲に、ひどく欣んで、もちろん屏風がそこへ出陳されたのもそれからの同氏の斡旋に依るものであつた。
 こんなわけで、僕が鴨の所有者として、一部の人に記憶されたのであらうが、品物がさう出世すると、こんどは經濟的に所有者の經濟的位置と均衡を[#「均衡を」は底本では「均衝を」]缺いてくる。それから間もなく、その鴨の屏風が欲しいがと、それとなく僕に交渉してくる者があつたりして、折から自分もちやうど、青年文化協會のはうに金のいる事もあつたので、賣つてもいいと云つてゐた。

 そのうちの一つの交渉に、中根氏から取次いでくれたのがある。それは百穗氏の未亡人からで、買ひたいといふ先は富豪の某家だといふ。なぜ中根氏がそれを頼まれたかといふと、百穗氏は生前保險に加入してゐなかつた上、畫債もだいぶ多く、何かと未亡人も手づまりであるから、故人の生前のパトロンであつた某家へ、それを取次げば、幾分でも未亡人のたしまへにならうと云ふ、亡友への友情からである。
 さういふ話なら、こちらも一も二もない、先は日本での富豪なのだから、希望があるなら、出來るだけ高價に買つてもらふがよいでせう。自分はこんなわけで、たゞ偶然持つてゐたに過ぎないし――と返辭してやると、それから百穗氏の未亡人が幾たびか某家へ足を踏まれたらしい。
 ところが、富豪の心理といふものは、自分たちには解しきれない特殊なものを持つてゐる。さういふ通有性は今さら驚くにたりないものだが、實際にあたつてみると、更に意外な物質的なこまかさを發見するものだ。某家などに取つて、そんなわづかな單位を値切つてどうするのかと思はれるやうな返辭をたび/\うけたらしい。平福家とすると故人が生前に世話になつたといふ氣がねもあるらしく、これしか出せないと云はれると仕方ないかたちになるし、話が不調に終れば、先の希望を容れなかつたといふ風に取られる氣づかひもされるのだつた。そんなこんなを中根氏から話されてみると、元々、自分のはうは、藁ゴミの中から求めた鴨にすぎないので、某家の所望の値で――それがたゞ未亡人にはせつかく何のたそくにもならないも同樣な値ではあつたが、お氣の毒なのはいつも弱い者にくるものと慰めて、問題の鴨も、さうして、私のところから、眠りの居場所が移ることになつた。

 私は留守の時だつたが、數日すると、某家から當主の名刺を持つて、家令だか、執事だか堂々たる人が二人、
 ――お屏風をいたゞきに[#「いたゞきに」は底本では「いたゞにき」]參りました。
 とやつて來た。
 分つてゐるので、僕の弟たちが、手助して屏風を出してあげた。そして、外に待つてゐる自動車へそれを載せるだんになつて、前からの交渉を聞いてゐた弟は、何だか今日が急に、明治廿年頃のやうな氣がしてしまつたと後で僕に話すのだつた。
 六曲屏風は、當然、あの大きな寸法からして、ふつうの自動車には載らないから、いづれ横へでも縛つて持つて行くのかと思つたら、さすがに某家あたりでは、そんな見つともないことはゆるさないとみえ、六曲二双ぐらゐ、横にしたまゝ、抽斗のやうにすうと樂に入る「御屏風專用車」が用意してあつて、しかも屏風の坐る中の棚には、繧繝縁うんげんべりの疊まで敷いてあるのだといふ事だつた。

 三田文學に横山氏がちよつと書かれた雜筆の端し事も、話せばこんなわけになる。それにしても、前の藤田幽谷父子のはうの遺墨展覽會には、東湖の射た「鹿」の首が出品されてゐたとあるから、後の百穗遺墨展覽會に私の出した鴨の圖が、「馬」の圖でなくてまことにしあはせであつた。
〔改造・昭和十二年一月號〕
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 とかく、吉野村のぼくの書齋も、近ごろは閑靜ではない。
 來客のせゐとか、原稿がとか、よく云ふが、じつは主の心が成つてゐないのだ。
「靜」といひ「寂」といふのも、考へてみると、へんなものである。よく環境のせゐにしたがるのが人間の常だが、何の物音も煩ひもない山野へ來ると、かへつて、凡人の頭は、忙しなく騷いでくる。
 と云へもするし、また、都電、サイレン、ラジオ、人語、機械音の騷然たる市街の中でも、一とき、ひそとした靜けさに身をくるまれないこともない。
 市街のふとした横丁の露路に水を打つた圍ひの中、狹いながらも塵をとめないで、火入かどこかに、ひそと香の一つも忍ばせてある壁の中などに、思ひがけない、ほんとの靜寂があつたりする。

 梅が好きなので、年々梅を植ゑた。吉野村の茅屋の前にである。村の衆は、紅梅を好まない。紅梅は實が採れないからである。
 ぼくの家のぐるりは、紅梅を交じへて、春は、鶯を待つばかりになつた。ところが、ことし邊りは、觀光客の激増を見越して、村でも梅祭りなどやり、花火を揚げる騷ぎとなつた。
 觀光バスが、毎日、村へはいつてくる。そしてかならず、ぼくの家で乘客を降ろす。罪のない梅見客は、庭にまではいつて來て、果ては、ぼくの書齋を、たくさんな顏を並べて覗きこむ。ぼくが振向くと、散つてゆく。
 鶯どころか、これではぼくも仕事ができない。おそらく、村の鶯は、ほかの谷間で啼いてゐるのだらう。そこで、ぼくもと、飛んで行く先を考へた。新・平家物語の史蹟調べもあるしと、急に、京都へ飛んで來た所以である。

 大原へ行つた日は、薄曇りで寒かつた。いや、あの北山谷の山蔭が、町中よりは、何度も寒いせゐかもしれない。
 三千院から寂光院あたりには、まだ白々と梅が咲いてゐた。吉野村ではもう散り了へた頃なのにと思ふ。三千院の門前で、色紙短册をひさいでゐる老女の俳人は、道づれのH氏の舊知であつた。もう、歸るところを、そのひとに呼び返され、何ぞと、畫帖をさし出されたくるしさに、
大原にことし二度目の梅を見る
 と書いては來たが、さて、どこの人間が、どこの梅を見てやら、わかるまいにと、われながら拙さに苦笑する。

 寂光院の尼さんが、冷やゝかな室で、冷やゝかにたてゝくれた茶は、まことに、尼院の味のするものであつた。紅と白の打菓子にさへ、何か、建禮門院に侍く女官のすがたを想はせられる。
 あたゝかな茶、冷やゝかな茶、さわがしい茶、しづかな茶。茶の香にも、音樂がある。
 水の味は、たいへん佳い。名古屋といひ、京都といひ、町でいたゞく茶には、まま水道の殺菌劑か何かの香がつんと舌をさし、それに馴れない者の舌にはおそろしくニガ手である。馴れた人同士の日常は知らぬこと、あの水なら、客にはさしあげない方がよいかと思ふ。

 ある朝、洛陽ホテルのヱレベーターの入口で、ふと、すれちがつた紋服袴の人に眼をみはる。
 小雨の中を、奈良へ車で走つた朝である。
 車の中で、やつと、その人を思ひ出した。井口海仙氏であつたらしい。十數年も前に、千家の洛北の茶席に招かれ、歸り道、田井さんと三人づれで、廣澤の池のまはりを歩いたことなど思ひ出す。それも春であつた。ひとり苦笑をふくむ。
 この日まで、櫻の蕾はかたかつたが、夜來のひと雨で、奈良の町の古壁に、初櫻がほころびてゐるのを見る。東大寺のほとり、煙る雨に、人は少なく、花は今咲いたやうな顏。
 ちやうど四月八日だつた。
 大佛殿の花御堂に、青竹の杓子を[#「杓子を」は底本では「子杓を」]把り、誕生佛のあたまに甘茶を灌ぎ參らせる。つい、何度も何度も浴びせまゐらせた。いたづらではない、少年の日の思ひ出のなつかしさに。
 それから後の一夜である。
 千家のお誘ひにあまえ、日・布茶道文化會の歡迎晩※[#「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38、353-2]にゆく。つる家の全部が會場にあてられてゐる。井口海仙氏と、ヱレベーターの入口での、お見それ話しに興じあふ。海仙氏もあたまをかく。こちらも掻く。おたがひにこれからは餘りご不沙汰をしないことにしませうと云ふ。
 遲刻したので、茶席に臨まれなかつたことが惜まれた。それはいけませんな、と海仙氏も叱る。叱られる値打ちがある。さかんな夜景といつてよい階上廣間の一席にかしこまる。隣りに吉井勇氏、彼方に、洋畫壇の猪熊弦一郎氏夫妻など、來賓の中にも、をちこち、知人の顏の見えるのが心づよい。
 この夜の餘興は、おもしろかつた。京洛人の多藝もさる事ながら、東京では見ない隱し藝をいくつか拜見した。たとへば、初瀬川松太郎氏の祇園ばやし、中野商工會議所會頭の高山彦九郎など、しかし、寺尾愛子夫人の七福神の一とさしの舞が、まことに、壓卷と思つた。京都の女流といふものや、その家風とか町の傳統までを、旅のぼくなどは舞に見せてもらつた感じである。
 それと似た興趣で、それとはまつたく反對なのが、ハワイの二世三世諸孃の踊りであつた。ハワイの月下に、ハワイの人々の働いたあとの歡びといふやうなものがそのダンスには感じられた。
 ぼくは、物好きにも、この夜の會記を書かうと、自分から千嘉治氏へ云ひ出したほどである。蛙聲庵老の河内山、三輪晁勢氏の綱渡り、中澤申庵老分の謠曲熊野など、ホテルに歸つた後までも、瞼にあつた程である。だが、藝評といふものは、褒めてばかりゐてはおもしろくないらしい。その點、茶の會記にないむづかしさがあらう。そんな物好きをしないでよかつたと後では思つた。ぼくもしたゝか醉つてゐたとみえる。
 たゞ、この晩、もうひとり特別な來賓があつたことを、ぼくは見てゐた。それは、ちやうど宴もたけなはな頃、つる家の階上と眞つ直ぐな位置に昇つてゐた東山の大きな月であつた。

 日をおいて、千家へ行く。この日も、お招きはあつたが、自分としては、ごぶさたのおわび、また、前夜のお禮のつもりであつた。
 をとゝしか、もう、先をとゝしの頃、それも晩春の今頃であつたが、ふいに、たそがれ頃も思はず、千家をお訪ねしたことがある。
 入口の左手にある馨板を叩いて訪れたが、いらへが無いので、露路をさまよひ、お住居の方を、驚かしたりして、いやもう、迷惑といふ文字どほりなお客であつた。
 こんなお客でも、又隱席の釜鳴りは、まあおゆるりと、云ふやうに靜な鳴りをひそめてをられた。軸は、墨齋の一行、花は思ひ出せない。忘れ難いのは、遲ざくらと銘のある一碗で、宗匠のお茶をさつそくいたゞいた事である。
遲ざくら千家の露路に行き暮れて
 訪客帖に、そんな一句をしたゝめて、宿へ歸つたことがあつた。――そんなことを、今日も思ひ出しながら、又隱席の坐りごゝちに、うたゝ古往今來の思ひに耽けつた。
 ところが、この日の道づれは、朝日新聞社の大阪、東京のジヤーナリストばかり五人づれ。それにぼくの山妻である。由來、知識人ほど、妙に茶を恐がる者はない。みな、表面にはおそれ、内心には傲つてゐるのである。法然の云つた“凡夫直入”が出來ない半凡夫がインテリといふものだと思ふ。
 宗旦の草庵、利休堂など、小雨もよひの中を、そろと、拜見してまはる。案内の業躰さんが、利休堂をそつと四、五寸ほど明けると、ほの暗い御堂の中に、お弟子であらう、ひとりの老女が、合掌してゐて、うづくまつて居られた。凡夫直入の人である。法然上人は、かういふ人を、お愛しになつた。宗教と茶の道とは、もちろん大いに違ふが、道に參じる行念には、近いものがある。かういふお人は、かうしたなりに、ぼくらよりは、はるかによいお茶をうけ取つて居られやう。

 日・布茶道文化會の方たちの稽古日であつたらしい。恐縮して、歸りを急がうとしたが、東山の桐蔭席の方に、お支度が設けてあると云はれるまゝに、またその方へ、皆して車を向ける。
 京都の例會が月々あるので、席の名は夙に伺つてゐた。阿彌陀ヶ峰の中腹、そして、席の庭ごしに、小松谷の堂宇の屋根が望まれる。平家物語にはゆかりの深い、燈籠の大臣、小松重盛の館の跡であることに、そゞろ自分はうれしくなつた。
 また、小松谷の上を越して、視野は清水寺の堂塔まで遠望される。その邊りの櫻が、雨後のせゐか、眼にしみるほど白い。京洛の眺めに接して、いつも羨ましく思はれるのは、あの赤松の肌と姿である。やなぎ櫻と、大宮人は云つたが、松の京都といつてもよい。
 辻留老の料理になる辨當をいたゞく。その一膳は、青竹二た節を並べ、竹の上を削ぎ切つて、中にくさ/″\な喰べ物がはいつてゐる。もちろん、竹は蓋をした儘、膳のわきに出された。櫻の花が、二た節の竹の結び目に、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んである。
 花筏――と、ぼくは眺めた。
 で、無意識に、取つた竹の蓋の二片も、筏の姿をくづさないやうに、斜形に並べておいたのである。
 すると、やがて淡々齋宗匠が見えたので、ぼくの横に座をおすゝめした。業躰のおひとりが、すぐ座蒲團をたづさへた。ぼくも自然、膳を殘して位置をひらいた。
 そのとき、業躰さんが、ぼくの方へ、青竹の辨當を、膳と共に、動かした。決して、これに粗漏はない。ところが、宗匠は、すぐ云つた。
 いけない/\。花筏をくづして、蓋をそんな風に置いては、と。
 ぼくは淡々齋の茶心を知つた。もう、そのときじつは、ぼくは外の春雨以上に、しとゞに醉つてゐたのである。鎚に答へるに鎚を以てするやうに、思はず「おえらい」と口に出してしまつた。お家元に招かれて、お家元をえらいと云ふなどは、非禮も甚しきものである。何とも、あとでは、まが惡かつた。
 折もよし、お柳さん竈の素燒が、おびたゞしく並べられ、一同、競つて、落書の下繪付をすることになつたので、清水燒の陶繪の具を、筆にふくませ、一箇の茶碗の中に、東大寺で見た花見堂の誕生佛を小さく描いた。これは金泥に。
 そして、茶わんの外へは、黒繪具で「旅情童心」と書いた。旅情童心、これしか、てれ隱しにも、お詫びにも、ほかに言葉もなかつたからである。
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 奧多摩の山峽部落には、古く手斧ケヅリの柱や長押をとゞめてゐる舊家が、つい戰前頃までは、ずゐぶんあつたものだといふ。いまは解體されたり、よそへ運ばれたりして、ぼくの家などは殘り少ない舊家の一型になつてゐるが、戰後だいぶぼくの素人設計で、改造といふよりは改風してしまつた。一つの納屋の土臺が腐つて、どうにもならなくなつたので壞したとき、棟木に「安政三年建之」と書いてあつたのを見た。釘も一本々々鍛つたむかしの角釘がつかつてあつた。けれどぼくがヘタにいぢくつた爲、正直、山村の舊家としてのおもかげはまことに乏しい。
 袖部屋のある長屋門は原型のまゝにしてある。先頃まで疎開の人を住ませてゐたが、いまは片方は、薪炭だの農具や菜根の物置とし、片方の袖部屋には、ぎつしりぼくの雜書がつめこんである。つまり文庫代りといつてよい。
 門は閉め通しで開けたことはない。この門を拔けて檜皮葺の母屋の屋根を見るところに、舊家の前栽が感じられるのであらうが、ぼくのやうな老書生が客を迎へるには、ちとものものしい氣もして、いやなのである。それに又、たいへん客が廻り道をすることになるので、古い裏木戸を門に直して、通路としてゐる。
 入口の洗ひ出しのタヽキは農家によくある土間で、以前には、これが臺所と爐部屋の方へ、つづいてゐた。そして、風呂に入るにも、臺所をするにも、下駄をはいてやることになつてゐたのを、現在のやうに、直したのである。
「前の方がよかつた。いかにも田舍家らしくて」と人にはよく云はれるが、客の觀賞によろこばれるやうな構造を保つには、臺所とか、風呂を焚く女たちに朝夕の不便や、嚴冬のつらさを忍ばせなければならない。――疎開中はやつてゐたが、日常都會生活の人々とも交渉をもつ忙しい家庭では、とても下駄ばきの炊事や水仕事では間にあはなくなる。いきほひ、甚だ中途半端な舊體彩衣ができてしまふ。
 五坪の應接は、俗に“ゲヤ”と田舍でいふ屋根裏じかのいはゆる下屋である。以前は飼蠶部屋になつてゐたのを、かんたんに改造した。これは、ぼくの設計にしては、大出來と思つてゐる。
 といふのは、五坪の三分の一を、切り落しにして、椅子と卓にし、あとを疊と平床にしたことにある。屋根裏は、前にいつたやうに天井なしなので、竹でかくした。この竹のならべ方は、この邊の農家の爐部屋では、よくやつてゐることなのである。つまり煤煙ふさぎによいのであらう。
 切り落しカマチに曲線をとつたこと。床わきの出入口のふすま口を、一尺五寸、奧へふみ込ませて凹みを取つたことなどが、この和洋式應接を、たつた五坪とは思はせない廣さに感じさせてゐる魔術である。魔術といへば、もう一つ仕掛けがある。土間から應接への出入になつてゐる部分のドアがそれだ。ちよつと見ると、すばらしい絲目杉の厚い一枚板に見えるが、じつは杉箱なのである。そして上部の細障子は、どつちから見ても棧(さん)が障子骨の表を見るやうになつてゐる。骨裏が出ては、をかしいからである。そのしかけは、同型の障子二枚を箱の中で、背中合せに篏めこんであるだけだ。これは、ぼくの考へで、獨りでおもしろがつてゐることである。田舍の舊家といふものは、眺めて、一種の野趣と豪放な線のおもしろさはあるが、住んでみて、さう住みいゝものではない。ことに、家族たちにとつては、なか/\負擔である。
 間取りなどは、この地方のどこの舊家も、同じ型で、例外なく、家のまん中を四つ割りに取つてある。つまり八疊なら八疊四つ取つて、それに爐部屋と、上り口が付いてゐるといつた風である。樣式は、鎌倉建築をひいてゐるものらしい。屋根や破風などは、甲州地方とよく似てゐる。御嶽に住んでをられる川合玉堂翁が、よくこの屋根を描く。屋根ばかりでなく、玉堂翁のかく一木一草、みな奧多摩そのものゝ姿といつてよい。
 むかし養蠶が盛んであつた時代があり、そのため二階部屋(頭がつかへるくらゐ天井が低い)全部が養蠶に使はれてゐたらしい。そして、屋根裏の三階へ、梯子をかけ、養蠶用具の置き場所になつてゐた。いつか、ぼくの病氣見舞に來た新國劇の辰巳君と島田君が見せてくれといつて、屋根裏の三階へ上つてゆき、そこの眞つ黒な中に縱横してゐる巨大な梁(はり)を見て、
「いつぺん、こゝで芝居がしてみたいなあ」と顏を合せて笑つてゐたといふ。――なるほど、何とかの屋根の場として、舞臺にこれを組んでみたら、都會人の眼には物めづらしい、といふよりは、何とむかしは、豐富に木材をつかつたものだらうといふ一驚には値するかもしれない。
 いつか高島屋の川勝竪一氏も見て、下から二階、三階へと、天井を拔いて、北歐風の欄をめぐらし、十八世紀風なギヤマンのシヤンデリアをさげ、隨所、椅子にしたり、ソフアをおいた休み部屋にしたらいゝと、頻りに、空想力を働かせてゐたが、とてもぼくにはそんな實行力はない。
 奧多摩の山々も、他地方と同じやうに、すつかり伐られて、淺い山にはもう材木らしい木もなくなつたが、こゝは古くからの“材木所”でもあつた。ぼくの家のわづかな改造も、殆ど、木は土地のものでやつたのである。東京から仕入れたのは應接間の床の間の松一本と、天井にならべた竹だけであつた。ついでにいへば、床の袖壁を切拔いた壁の背に、釜をかける爐をきつたので、ちよつと棗(なつめ)ぐらゐは載せておける小さな棚をつけた。その棚の小板は、庭の梅を伐つて板に挽かせた物である。
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 住みついてから四年、この家を求めてからもう九年になる。疎開意識が何かにつけてけじめとなつてゐた頃、村役場から、疎開者としておかうか、「農」としておかうかと問はれたので、「農」にしていただきませうといふことになり、以來私は、供出も農家並みの完全な村の衆のひとりになつたつもりでゐる。この頃またつまらぬ原稿を書き出したが、村民簿では私の本業は百姓で、文學は副業といふことになる。
 今ゐる家は、古いといつても、一世紀ぐらゐしかたつていないが、前に住んでいた野村五平さんといふ、この地方の舊家で、何でも武田氏沒後の移住から始まつてゐるやうに聞いてゐる。武田氏の歸農者たちが、この河筋の吉野村から軍畑、御嶽、古里、鳩ノ巣あたりには、たくさん開拓者としての門戸をもち始めたことは事實らしく、それらの家では、むかしからみな家屋の正面は甲府の方へ向けて建て、多摩川の上下をいふにも、土地の方向をいふにも、すべて東京を下といひ、上とはいはない。古くから甲府を都心の觀念として來てゐるのである。
 私のゐる村のアザを、柚木といふ。柚の木の多いところから來てゐる。ところがユギと讀む人は少く、電報などはユノキだのソデノキだの、人いろ/\にまちがへてくる。柚はたいがい伐られてしまひ、今は殘り少くなつてゐるが、それでも晩秋の山すそを所々まつ黄色に染めるぐらゐは實つてゐる。自分の家のすみにも一本ある。二百年以上の木だと村の人はいふが、まことに小さいものである。でも人の背はとどかないので、女たちは物干竿で實をたたいては落してゐた。叩かれた枝から近年枯れかけてゐる。植木屋に注意され、それからは木枝の股を株の先につけてねぢ切るやうにしてゐる。柚ばかりでなく、民力の實り物は、政府もかうして採るといい。
 奧多摩はまた、水の奧多摩といつてよく、吉野村にも名水が多い。御嶽にも、古里にも日原の道にも、名水とよんでいい水がいたるところにある。
 私の村の近くでは、澤井の「澤の井」が銘酒の名がたかい。この間、伊藤大輔君が來て一獻のことばには、大菩薩峠を映畫化するとき、奧多摩の奧の細道までわたり歩き、この澤の井に邂逅して、これは灘のものよりのめるとあつて、以來久しく京都にありながらこれを送つてもらつて愛飮してゐたといふことだつた。
 その澤の井の釀造水も、渡樋をもつて、多摩の河ぞひを架け渡し、わが吉野村から對岸へながしてゐる。もひとつ、わが家の附近には石割梅の水と呼ばれるのがあり、同じ藪葉の茶を入れて飮んでも、これを汲んでやると三十匁の茶が玉露みたいにうまい。
 水の味をよく知つてゐるのは村の子供である。うちの坊主たちも、夏よく山の不動の水を飮んできたといふので、水ならばうちの井戸は名水といはれるくらゐうまいのだよ、と言つても、不動谷の水の方がうまいといつては飮みにいく。ホタル來い/\。あつちの水ァあまいぞ、こつちの[#「こつちの」は底本では「こつちちの」]水ァまづいぞ――子供が唄ふあの通りに知つてゐるのだ。だが、そんなはずはないと思ひ、ポンプやの爺さんなる古老に家の井戸を見て貰ふと、これは死水だと言ふ。この井戸はコンクリートでぴつたり蓋をして、井戸の氣が出るすきもない。これではうまくないはずです、と言はれて早速にとりのけたところ味が非常によくなつた。
 もと自分の家の庭には、たくさんな石がるゐ/\とあつた。それを終戰後、私はみな土中に埋けて平庭にしてしまつた。知る人がみなもつたいないことをしたといふ。だが何分にも、この地方は“石どころ”で、東京への庭石は、むかしから殆どこの附近より送り出してゐたほどである。村の道、畑、山ぞひ、どこを歩いても名石だらけだ。名石も過ぎては名石ではないことになる。せめて庭のうちだけでも餘り石を見ないやうに私はみんな元の土のうちへ返したのである。
 それでも埋けるには惜しい二、三の石もあつて、中には、むかし先代の五平老が愛宕山の谷から酒一升で運ばせたといふ平たい石も一つある。人よんでこれを一升石といふ。松下に一壺おけばそのまゝ卓ともなり、默石彈松の間に、何をひとり考へようと自由である。
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 横濱とは十九歳の年の暮に一別したきりである。當時の京濱間は、汽笛一聲新橋を――の唱歌どほり沿線は田ンぼや森や田舍家ばかりだつたが、今は東京とくツついてしまつた。“故郷忘じ難し”の感慨もないゆゑんである。
 それでもたまに横濱を歩くと、少年の日がなつかしい。明治末期から大正の初期だ。その頃のすばらしい横濱のヱキゾチツクな夜景や平和な町々の散景は、シヤボン玉みたいに行方も知れないが、生れた土地の土への執着と幻想は妙なものである。伊勢佐木町通りの人混みに、今でも亡母が見えたり亡父のうしろ姿に似た人が見つけられ、よく買喰ひした店のあとなどについ佇んでしまつたりする。しかし横濱ほど慘酷にローラされたり地形を切りさいなまれた町は日本中でもまあ少い。阿蘭陀製の陶器畫に見るやうな山の手、元町、居留地などの、何と今は見すぼらしい荒廢とその後の安ツぽい急設國際色だらう。野毛山、太田、西戸部あたりの靜かなむかしの住宅地や、子供に樂しめた都會の丘は、マグロのどてを切つたみたいに平べつたくなつてしまひ、うたゝ今昔の感などにとらはれてゐるとジープに呶鳴られ、パンパン孃にわらはれる。
 小學校時代の遊び友だち、あの子、あの人、あの小母さんなど、およそ行方も消息も泡沫のごとく過去の人影を殘してゐないのも横濱の特性だ。ぼくら父母たちの上には開港場らしい榮枯盛衰が烈しかつたらうし、關東大震災では離散し、戰爭では潰滅し、思へば無理もないハマの姿である。
 それでもなほ、ぼくの少年頃の瞳にあるなつかしい人々がまだ三名も横濱にゐる。學校で机を竝べてゐた友達の美しい姉さんだつた蓮光寺の奧さん。むかしから苺みたいな赤い鼻をしてゐた山内茂三郎先生、それからぼくの義兄とたいへん仲よしだつた日本娘で金髮だつたおテイちやん。そのおテイちやんが先頃、四十何年ぶりかで手紙をくれた。とてもうれしかつた。暇ができたらいちどその人たちを故郷に訪ねようと思ふ。餘り眼と鼻の先でをかしいやうなものだが、故郷とは、距離ではない、時間のことである。たゞし、柳樽の作者は、こんな句をよんで嘲つてゐる。――ふるさとに廻る六部の氣の弱り、と。
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 この頃は、かんたんに、飛出して來たり、舞ひ戻つたり、風の中の紙屑みたいに、離郷出京が日常化してゐるので、今の地方の青春男女には、もう、私たちが青年期にもつたやうな“きふを負うて”なんていふ感傷は、滑稽化してゐるにちがひない。

 ぼくは、横濱生れだつた。十九の暮まで、横濱にゐた。それでも、東京が遙けくおもはれ、勉強するなら、東京でなければならないやうに思惟し、その頃の青年の胸には、なほ、思ふだにすぐ夢をかきたてる“苦學”といふ生きた言葉があつた。明けても暮れても、苦學しに東京へ、といふ夢にとりつかれてゐたものだつた。

 幸なことに、といふのも變だが、十九の冬、ぼくは横濱船渠に入渠中の外國船の足場から、ドツクの底へ墜落した。
 冬で、ロツプが凍つてゐたせゐもあらう。足場のロツプを操作する人が、過まつて、ロツプを手離してしまつたのである。高さ十數メートルの船腹から、足場板もろとも落ちて行つたぼくは、塗料のレツド・ペンキを頭から浴びてしまつたらしい。
 一號ドツクの石段を、ぼくは、誰かに負はれてゆく。職工長や仲間の者や、守衞たちが、わいわい云ひながら、ぼくを、重大な寶器を捧げるやうに擔ぎあげてゆく。うすうす、それを意識してゐた。
 ところが、自分の體のレツド・ペンキを、血だと意識したとたんに、あとの事は、何も分らなくなつてしまつた。氣がついたのは、翌朝で、十全病院の白いベツドの中にある自分を見、かすかな鐵瓶の湯鳴りと、きれいな看護婦さんをそばに見た。
 退院したのは、一ヶ月後である。家に長年寢てゐる病父が、ぼくが奇禍にあつたのを聞いた日、「ああ、男の子ひとり亡くした」と云つたといふのを、聞いてゐたので、家に歸つた翌日「もう、居ない者と思つて、東京へやつてください」と、頼んだ。この奇禍が、轉機を作つてくれたわけである。そこで、あこがれの苦學へ出かけた。

 社會的幼稚といへば幼稚、滑稽といへば滑稽なはなしだらうが、ぼくにとつては、やはり生涯の貴重な一齣になつてゐる。といふのは、横濱の鐵の橋のすぐそば、吉田町の家から、東京へ出るといふのに、その朝、母は、小豆のはいつた赤の御飯をたき、目ざしか何か、頭のついた小魚をつけて、涙ながら、門出を祝つてくれたものである。
 そして忘れもしない、十二月の押しつまつた日、小さい弟や妹たちの手をひいて、櫻木町の驛(その頃の横濱驛)まで、送つてくれた。改札口で、母も泣き、小さい弟妹たちもベソを掻いてゐるのが、あたりの旅客に氣まりがわるくて、汽車の中へ、馳けこんだのを、憶えてゐる。
 汽車がうごき出してから、母にもらつたガマ口を開けてみたら一圓六十何錢か這入つてゐた。

 ぼくが横濱船渠に働いてゐたのは、十八から十九までの一年半ぐらゐな期間である。
 船渠の職工生活の一年半は、忘れられない經驗ばかりだつた。十八、九歳の肉體には、毎日がたへ難いほどな重勞働であつた。それに、危險な仕事が多く、一週間に一度や二度は、かならず怪我人や死人を仲間のうちに見るのだつた。朝、家を出るたびに、夕方、また母や弟妹たちのそばへ歸れるかしら、どうかしらと、家を振り向いては、毎朝、家を出る癖がついてゐた。
 そんな重勞働を、十八、九の頃に、どうしてやつたかといふに、家は貧乏のどん底にあり、どうしても、ぼくが一人前の日稼ぎをしなければ、母の手内職ぐらゐでは、食べてゆけなかつたからで、ちやうど、父の舊知の人で、内藤さんといふ、内藤子爵のつながりで、横濱船渠の重役をしてゐたひとがある。その人の口で入れてもらつたわけだつた。
 日給、四十二錢といふのが、魅力であつた。日に、四十二錢はいると、たいへん生計が樂になる。――が、社の規則では、採用は二十一歳以後といふ事だつた。それを重役さんの口きゝといふので、十八歳のぼくは、僞つて二十一歳と稱して、入れてもらつたわけである。それが、船具部であつた。船具部といふと、聞えがよいが、ペンキ塗、サビ落し、ダンブル掃除、入渠船の船底洗ひ、つまり雜用工である。

 船渠生活の一年半は、つらかつたし、面白かつたし、悲しかつたし、珍しかつた。この中の人々の、ふしぎに樂天的な、また、國際勞働者的な生き方のかず/\を、今もなかなか忘れえない。
 ずつと後に、週刊朝日に、“かん/\蟲は唄ふ”といふ連載を書き、その中に、かん/\虫のトム公のことを書いた。
 その頃、文藝春秋社で、文藝講義録を出したことがある。(すぐやめたが)そしてその新聞廣告には「長谷川伸は、何々より今日の作家となり、吉川英治も、かつては、かん/\虫であつた」と、出した。社内の何奴が書いたものか、ずゐぶん、ひとを食つた廣告文だし、また世の薄命な文學志望者たちを、いやなヒロイズムで煽てたものだといふ記憶が今でも殘つてゐる。が、とにかく、それと週刊朝日に書いたのが、先入主になつて、實話雜誌や何かでも、ぼくが、トム公であるとされ、かん/\虫であつたと書かれてしまつた。
 ぼくは、自分の自敍傳的なことを、書いたこともなく、ひとにも語つたことはない。菊池寛氏のやうに、人に分らない生涯を作つてやらうなんていふ意識は毛頭もないが、ぼくの家庭、ぼくの環境など、餘りに、封建的で、封建的といふことばが流行語にならない以前から、世間に通用しない話といふことを、萬々、わきまへてゐたからである。
 たゞ、こゝでいひたいのは、かん/\といふ自由勞働者の大群は、あの頃の横濱にとつては、一色彩を成してゐた史的生態で、それと、ドツクの常傭ひ工とは、まつたく、性質のちがふものだといふ事である。かん/\虫には、年齡制限はなかつた。少女も白髮の老婆も、交じつてゐた。まつ暗な、おしつこ臭い船底の中で、炭塵か何かゞ、チリチリ燃える蝋燭の光りに、まだ十四、五でしかないかん/\虫の美少女が、マリヤのやうに、きれいに見え、そんな中で、ふしぎな少年的の性慾を感じたことなども、ぼくの記憶にあることだつた。

 よこ道にそれたが、そんな中の、一年半餘の生活をあとに、東京行きの汽車の中では、ずゐぶん長い、多量な感慨が、十九のぼくには、思ひ耽るほど、あつたと思ふ。
 新橋で降りるのを、品川驛で降りてしまつた。そして、何のあてもなく、電車に乘つた。「本所行き」であつた。
 夕方、ぽかんと降りたのが、相生町の停留場である。木賃宿へ泊るつもりだつた。ところが、相生町の裏通りに、ガラス障子をたてた、ふつうのしもたやなのに、職業紹介所といふ木札の下つてゐるうちがあつた。
 職業紹介所といふ、熟語を見たのは、初めてゞある。人の話にも、活字にも、この熟語は、まだ世間誰も、知らなかつたし、理解されてゐなかつた時代だつたと、云ひきつても、間違ひはないと思ふ。
 おそらく、日本で一番最初の職業紹介所ではなかつたかしら。おづ/\這入つてきいてみると、若い奧さん風な人、ひとりしか居ない。でも、今に、主人が歸りますから、上つていらつしやいといふ。
 ヘコ帶に、手拭をはさみ、うすよごれた紺がすり一枚のぼくは辨當をたべて、日暮まで、そこの上つてすぐの六疊か八疊に、夕方まで待つてゐた。
 やがて歸つて來た人は、鼻下に、美しい薄ヒゲを持つた痩せぎすのスマートな青年で(この紳士の顏が、後に、文藝春秋社にゐた菅忠雄氏そつくりで、菅氏に會ふと、ぼくはその人をいつも思ひ出したものだつた)――ぼくの希望を、親切にきゝとり、そして、仕事をさがして上げるから、二階に泊つてゐるといゝと云つてくれた。
 この人は、日本基督教青年會の何かをしてゐた。新婚である。そして新家庭をそのまゝ、日本にない、職業紹介事業といふものをこれからやるところで、君は、ぼくがお世話をし出した就職希望者の第何號かだといつてゐた。

 二日目に、日比谷近くの、パン屋へ、連れて行つてくれたが、ぼくに苦學希望の固執があるので、だめだつた。
 ほかを探して上げると、紹介所の御主人は、毎日、どこかへ出てゆく。ぼくは、電車通りの飯屋へめしを食ひにゆく。めし一ぱい二錢、みそ汁一錢五厘、しんこ五厘。
 自分でも、新聞廣告を見て歩いたり、桂庵を廻つたりしてゐるうちに、ガマ口の一圓六十錢はなくなりかけて來た。たいへんだと考へて、母にも父にも、とめられてゐたが、思ひきつて、青山の伯父の家をたづねる決心をした。母の姉なる人は、もう死んでゐたが、その良人の齋藤恒太郎氏が、學習院の英文科の教授をしてゐた。學僕にでも使つてもらふか、どこかの書生になりたいと、自分だけの勝手の夢を抱いてゐた。
 電車賃は、たしか五錢だつたと思ふ。けれど五錢は一食分に近いし、もうなくなりかけてゐるガマ口なので、青山南町二丁目まで歩くときめた。相生町を、夕方に出て、日比谷までゆくと、もうだいぶ更けかけてきた。道を、巡査に訊くと、どの巡査も、「あれが、青山行きだ」と、電車を教へてくれる。
 それでも、夜の十一時頃、やつと、青山墓地近くの齋藤家を、訪ねた。叔父は、英文學者であつたが、謹嚴そのものゝ人で「なぜ、お母あさんを扶けて、家で働かないか」と、上京青年の夢などには、耳もかしてくれない。

 考へてみると、もうその頃すでに、地方から東京を目ざしての苦學夢遊病者には、どの先輩も、もて餘してゐたものとみえる。
 學生納豆屋、といふのがあつた。角帽や紺がすりで、納豆を賣り歩くのである。その連中も、柳橋だの、よし町ばかり歩きたがる、といふので、苦學生にたいする洛内の人氣がひどく落ちてゐた。當時の芝居や、鏡花の小説などに、狹斜の美妓が、苦學生に同情し、戀になつて――といふやうなテーマがよくあつて、その手も甘いと見られて居たからだつた。牛乳屋、新聞配達、苦學生のアルバイトは、今日のやうに、廣くもない。
 ぼくは、叔父に叱られて、深夜の十二時から、また本所まで、歩いて歸つた。それから間もなく、紹介所の御主人に連れられて、菊川町の螺旋釘工場へはいつた。その小工場の、つんぼの主人も、クリスチヤンであつた。
 宿泊しての日給が、たしか十四錢にならなかつた。辨當屋の辨當に、一食七錢づつ取られ、煙草が、すへなかつた。ぼくは、少年頃から、父の眼をぬすんで、煙草をすふ惡癖をおぼえてゐた。
 煙草がすひたくて、しかたがない。ひとの吸ひ殼でも拾ひたくなる。そんな時、母から小包みが來た。開けてみると、ぼくの愛讀書二、三册に、刻みたばこの“あやめ”の二十匁がはいつてゐた。きせるが無いので、ぼくはそれを、たゞの紙で卷いて、筆の筒にさして吸つた。次の日、ふんぱつして、四錢のなた豆のきせるを買つた。
 小包みの紐には、母が腰紐に締めてゐたメリンスの古紐が使はれてゐた。それを、下ヅボンの腰に卷いて、螺旋削りの機械に一日立ち通してゐた。すると、ある日、つんぼの工場主が、ぼくのそばへ顏をよせて「みんなが笑ふから、その腰紐は捨て給へ」といつて、自分の古いバンドをくれた。それでも、捨てきれないで、こんどは、寢卷の紐につかつてゐた。メリンスはだん/\切れて來たけれども、それでも、すこし紅のまじつてゐる花模樣がまだいくらか殘つてゐた。紅とも分らないほど褪せてゐる紅でも、二十歳のぼくには何かあたゝかな睡眠へのいたはりになるのだつた。二十匁の“あやめ”が、粉もなくなる頃には、あの貧乏な中を、どう工面して送つてくれるのか、次の“あやめ”が屆いた。その後、俳句や川柳の會へ出初めて、自分の號を、自分で雉子郎とつけたのは、燒野の雉子きゞす、夜の鶴といふ古くさいむかしのことばどほりな母にたいして、自分も、古い子どもで居ようといふ氣もちからであつた。
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 居は氣を移す――といふが、ぼくのばあひは、氣がかはり過ぎて、まだほんとに引つ越し先におちつきえない。
 前に居た吉野村だと、朝は机から山が望まれ、機嫌のいゝ小鳥たちの聲にくるまれたものだが、新居は品川區の一端である。工場地帶のサイレンと煤煙の朝ぐもりに「ああ、東京へ越したんだな」と、あらためて思つたりする。
 この家を家内と弟が契約してしまつた後で、佐佐木茂索氏がぼくに「あの邊は感心しないな、手金なんか損してもほかを探し給へよ」と反對した。以前、益田太郎冠者もゐたが、煤煙に怖れをなして他へ越したといふのである。友の善言をおろそかにしてはと思ひ、その後、ぼくもさつそく見に行つてみた。不精者のぼくはこれ迄どこへ移るときも、引つ越し先の家を自分で見て決めたことは一度もない。
 どうも、まだ人が住んでゐる家へ、あとから這入る人間が立ち入るのは、現住者もいやだらうし、こつちも何だか憚られるからだつた。こんどの家も接收家屋で、佛蘭西通信支社長のP氏がなほ住んで居たのである。だから見には行つたが、ざつと應接と家の外廻りを見て歸つたきりだつた。そして佐佐木君の案じてくれたことも、まあこの程度ならとして、この冬、越して來たわけだつた。
 ところが、二階の書齋に坐つてみると、すぐ近所の屋根越しに、製菓會社の煙突が間近にニヨツキと聳えてゐるし、南の工場地帶からは、朝晝夕と、一せいにサイレンの猛吼が聞え、羽田空港の離着やら山手線の音響はやゝ遠いが四六時中の賑やかさである。
「どうです、吉野村から移られて」と、客もよくそれを訊く。佐佐木君の忠言にそむいた意地で「いや、何だかまだ、滯在中みたいな氣もちですがね、しかし、わりに近所は靜かですよ」とは答へてゐる。しかしまる九年間も、山家住居の閑寂に馴れてきた田舍出には、正直、今もつて、こゝの机が借物の机のやうで仕方がない。たしかに、居は氣を移すが、氣が移り過ぎる感である。


 詩人の清水橘村氏が老後「人」といふ運命學研究の小形なガリ版誌を毎月出してゐる。これに折々、時人の顏がピツクアツプされ、その人の生年月日を基數とする四柱推命學とかいふむづかしい運命判斷が載つてゐる。森田たま氏、平林たい子氏、三岸節子氏なども出た。知人のことだと、中る中らないは知らず、興をもつて讀むのであるが、いつかぼくのも見料無しの御判斷にあづかつた。そして、ぼくの運命のサイクルは九年目毎に變る、とあつた。
 さういふことには無關心な自分なども、事自分の命數となると、關心にやぶさかでない。いゝ事は信じたい、惡い事は信じたくない。運命の九年目巡環説などは、そのどつちでもよかつたが、考へてみると、芝公園から赤坂へ越したのも八、九年目、赤坂から吉野村へ疎開したのも九年目、こんど東京へ引つ越すやうになつたのも、どうやら九年目ぐらゐ。偶然か何なのか、へんなものである。
 毎朝、八時といふと、机の眞向うに見える製菓會社の煙突は、もくもく黒煙を吐き始める。そしてそのへんな人生サイクルがぼくの頭の中で過去へ逆廻りしてゆくのである。おそらく、品川の空の中でも高い方のこの煙突や濃度物凄い煤煙を、かう愛しみ懷しむごとく見る者は、ぼく一人にちがひないが、とにかく、朝な朝なのうちに、いつか煙突と机とは、ぼくの人生サイクルに妙な連鎖をもつかのやうな氣がして、工場休日で煙を見ない日などは、何かさびしい氣もちさへする習性になりかけてゐる。
 吉野村の机では、疲れた眼を外へ放つと、御嶽につゞく裏山の尾根の線だの、四季萬樣な木々があつたが、こゝではそれの代りを煙突がしてくれるのだつた。そして自然に圍まれた机でも新平家物語を書いてゐたし、煤煙と工場サイレンのこゝでも平家を書いてゐる。あの平家世代の幻想と眼のまへの環境とは、およそ無縁で遠すぎるものだが、べつだんその爲に書けないなどゝいふことは少しもない。
 たゞ時々、無意識に、煙突にたいして、ぽかんと、空白な頭で回顧の遊びに耽ることが引つ越し以來まゝあるのである。いまに馴れるとそんなつまらない獨想はやむにちがひないが、住居が變つたばかりのせゐか、とかく煙突と無言の對談をやつてゐるわけである。それは自分が少年期から青年へ育つてゆく過程に、大きな煙突の下で重勞働してゐたことがあるせゐだらう。夜が明けるといやでもおうでも、霜の朝を、ほかのまつ黒な工場服の人々と一しよに、横濱ドツクの門をくぐつて通つた頃のことが想起されてくるのである。決していゝ思ひ出などではないが、忘れ難い人生の一齣ではあつた。
 自著の宮本武藏などについても、とかくその鬪爭性と封建的なる點を批評家にあげつらはれるが、ぼくは[#「ぼくは」は底本では「ばくは」]由來臆病者で少年頃から體は小さいし弱いし喧嘩は嫌ひでしたこともない。劍道などといつても竹刀に手をふれたことさへないのである。たゞ武藏の中にある野性なら、それはまだ封建色のそつくりしてゐたぼくの少年時代の社會環境と家庭事情とが、否みやうもなくぼくも培つてゐたものだし、ぼく自體の持つてゐたものには違ひない。横濱ドツクの一年半の重勞働などいま思へばそれであつた。武藏ではないが生きるためにはどうしても非人間的な齒がみをしなければならなかつたのである。もしさういふ運命のサイクルに會つてゐなかつたら、武藏は書いてゐなかつたらうし、書いてもあゝした武藏にはなつてゐなかつたらうと思ふ。


 ぼくは十八になつたばかりだつた。
 十二歳からその年までに、ぼくは幾つもの職業をかへてゐる。府立第一中學へはいる前に、家の沒落から、泣きベソを掻きながら[#「掻きながら」は底本では「掻きなから」]横濱關内の商家へ丁稚にやられ、それを皮切りに、仲通りの南仲舍の少年活版工、小間物行商人、税關の倉掃除夫、港灣の埋立人夫の手傳ひ、海軍御用商人の小僧、そして十七、八歳の頃は、西戸部から保土ヶ谷の化學工場の建築場へ、煉瓦かつぎだの、水汲み仕事などに、わらぢで通つてゐた。
 家から一里半はある。まだゴム足袋などはなかつたと思ふ。自由勞働者はみな草鞋だつた。そのわらぢが二錢か三錢してゐた。日雇賃銀は三十五錢で、夕方もらつて歸るが、朝になると家には一錢ものこらない。どうかすると、晝の辨當さへ持つてゆけなかつた。
 冬の朝は、痛切にわらぢが欲しい。コンクリート作業場の水汲みは、足袋はすぐ破れて、踵の肉を蝕ばまれ、踵の穴から血ウミが出てくる。わらぢ無しでは到底やりきれないが、そのわらぢが買へないのだ。然しわらぢは片方切れると穿き捨てるものなので、一里半の霜の道をあるきながら片方のわらぢを拾つて片足にはき、また片方見つけては穿いて歩いた。
 ぼくはチビだつたので、一人前の勞働者が舁ぐ荷擔(になひ)に天びん棒では、桶が地につかへて腰が切れない。で、荷擔の繩をつめて舁ぐのだが、さうすると、二つの桶の重心がとれないから、やゝもするとふらふらする。あるとき、ふらついて、荷擔の水を仕事場にぶん撒いてしまひ、土工さんの親方に、コン棒といふ物でなぐり飛ばされたことがある。それも、滿足なわらぢを穿いてゐたためしがないので、足の痛みをひきずつてゐる爲だつた。
 それでも、三十五錢では、病父、母、幼い弟妹など八、九人の家族はどうやつても食べてゆけないので、母は大福やあんころ餅を仕入れてぼくと一しよに作業場へ賣りにゆき、夕方母と一しよに歸り歸りした。けれどこの貧しい商ひは忽ち土工さんたちの借り食ひで仆されてしまひ、母は古浴衣一つになつてしまつたので、ぼくは自分も生きまはりの者も生かしたい一心に驅られたものとみえ、保土ヶ谷から歸つて冷飯をたべると、たれにも行く先をいはずに毎晩家を出て行つた。それも出來るだけ家から遠い、そして横濱の中心地を避けた住宅地をあるいた。自分が人知れずやつたのは、按摩であつた。病父の體を揉みつけてゐたので、あんまは上手になつてゐた。そして、笛だが、笛はその頃の駄菓子屋で、三角袋に入れた麥コガシに、小さい玩具の竹笛がついてゐたものである。それを二本あはせて木綿絲でしばつたのを懷中に持つてゐた。
 これが初めはどうしても吹けなかつた。人家もまばらな眞つ暗な通りに立つても吹けないのである。ぼくらの少、青年期には、いやぼくだけかもしれないが、非常な見得と羞恥があつた。世間がみなキチンと暮してゐたせゐもあらう。何しろ恥かしかつたのだ。
 でもつひに、一軒で呼ばれたのを手始めに、十錢稼いだ。どうかすると十五錢くれる家があつた。ひと晩二軒やれば、あくる日は、家ぢゆうが俄にゆたかに見え、小さい弟妹たちも、燒芋などを手にもつことが出來た。ぼくも朝のわらぢが買へた。その愉しさが忘れられないで、十七の年の暮から正月、三月頃までやつた。


 母はやめてくれと云ひ出した。病臥の父は知らないのだ。ぼくはやめなかつた。そのうちに、ある晩、大きなシヨツクをうけて、それからは出かける勇氣を失つた。
 いまの横濱驛近くの平沼邊だつたとおもふ。住宅地帶のかなり良い家庭らしかつた。ぼくが揉んだのは若い奧さんであつたが、揉ませながらぼくをしげしげ見てゐたと思ふと「あなた、ひでちやんぢやないの」といつた。それから急にぼくに揉むのを斷つて「いまにたくの主人が歸つて來るから遊んでいらつしやい」と、菓子などくれた。
 それから、父が以前にやつてゐた會社の事だの、父の知人の名を問はず語りにいふので、これは父が前に親しくしてゐた人にちがひないと思ひ、急に恥しさと云ひしれない負け目にくるまれ、その人が座敷を外づしてゐたすきに夢中で外へ逃げ出してしまつた。いつどこでどんな人に呼ばれるかわからない。さう考へ出してからは、あの麥コガシの玩具の笛がどうしても又と吹けなくなつた。
 するとたしか三、四月頃だつた。ぼくらの住んでゐた棟割長屋のうしろの丘に、内藤さんの邸宅があつた。内藤子爵の親戚で横濱ドツクの重役をしてゐた。ぼくの父とは、父が横濱棧橋會社にゐた頃、多少の知縁があつたらしい。その人の口きゝで、ぼくはドツク會社へ入れてもらつたのである。それも「内藤さんのお世話で」と母がいかにも有難がつていふので、はじめのうちは、もうこれで、わらぢをはかないでもいゝのかと嬉しかつた。ところが、じつさいに入つてみると、事務員や本社の勤務ではなかつた。工場の方である。その工場も何十萬坪の構内に幾十棟もあり、ぼくが入つた職場溜りは「船具工第六部」といふ小屋だつた。
 はいる時に内藤さんの注意で「二十一歳といはなければいけない」といはれたので、年を僞つたが、十八歳でも體の小さいぼくは、本社の書類をもつて、職工長に面接し、六部の組長に引渡されると、そこにゐた仲間から一せいに「小ツせえなあ、勤まるかい」と危ぶまれたり怪しまれた。まもなく仲間には、ほんとの年がすぐ分つてしまつたが、たれもそんな違反を云ひたてる者はなかつた。むしろ餘りな重勞働はさせず、みんなで庇つてくれるふうだつた。
 船具部は、第一部から六部まであり、一組十數名にわかれ、組長と副組長がをり、朝、職工長の事務所から、各組へ仕事場へのさしづをうけると、指令にしたがつて、入渠中の船舶へ、それぞれ、作業に出かけるのである。
 いまはどうなつてゐるか、その頃、高島町海岸のそこは、第一ドツクが最大で一萬噸級の歐洲航路船舶が入渠し、第二ドツクがそれに次ぎ、第三ドツクが竣工しかけてゐた。ぼくらの船具工の仕事は、船がはいつて、ドツクの排水が終るまでのワイヤ・ロツプによる船の重心位置の操作、船底の龍骨キールとの定着、左舷右舷からドツクの石壁にわたしてかける巨大なつツかい棒である横木の配備、また作業足場の架設など、血まなこな突貫作業ばかりであつた。
 たとへば渠中の水位が減つて船の沈下するにしたがつて同時に行はれる筏の上の船腹水洗ひだとか、牡蠣や海草の掻き落しだとか、すべてが電力排水のすむ四、五時間のうちに急ピツチでやる仕事なので、船底がキールに坐るまでは、まるで戰場みたいだつた。
 これが、夜明けに入渠することもあるし、夜中にドツクを[#「ドツクを」は底本では「ドックを」]出る船もある。だから夜業、徹夜、早出といつたやうな時間外勤めは、一ヶ月中の半分もしめてゐた。時間外賃銀は、二割増である。ぼくの日給は、初給四十二錢だつたから、六十錢にも七十錢にもなることはあつた。内藤さんには、義理にも不平はいへず、感謝しなければならなかつたし、じつさい、母などは、どんなに有難く思つてゐたことかしれない。


 組の割當て人員と、うけもつ仕事の量や時間は當然、職工長室で計量されてゐる。ぼく一人を庇ふためには、第六部の仲間は、それだけよけいに勞働割當てを多く背負つてゐるわけだ。いつまでそんな人情がじつさい上に長持ちするわけはない。
 やがてぼくも大人並の重勞働を餘儀なくされた。ぼくは生れつき肩幅がなく丸くコケてゐるので、船腹に架けわたす何十貫といふ巨木を鎖にかけて、四人して四天で舁ぐなんていふばあひには、ほかの人が腰をあげても、ぼくにはどうしても上がらない。上げたと思ふと腰がくだけてしまふ。それだけの物を急にみんなの足元へ外づして落すのは危險だつた。そのために、どなられたり、惡口されたり、あらゆる辱しめをうけるのもこの世界では仕方がない。涙を出せば、いよいよ嘲笑されるだけの事である。
 ロツプ運びでも[#「ロツプ運びでも」は底本では「ロップ運びでも」]、ペンキ塗でも、彼らの逞ましい、そして熟練した動作と體力には、追ツつけることは何一つない。それでも、六部の組長の猪子(ゐのこ)氏は、どんなにぼくを可愛がつてくれたかしれない。たとへば、船腹に架けならべられた足場板に乘つて競技的にやる船腹の黒ペンから赤ペン塗にしても、ぼくのゐる足場一つがおくれて取り殘されると、あの危險な横木を飛鳥のごとく渡つて來て、一しよになつてやつてくれる。そして塗り上がるとまたドツクの岸へ渡つてゆき、足場ロツプを下げて見まもつてゐてくれた。
 ぼくは組長や仲間の者のあたゝかい温情だけで、どうやら勤めさせてもらつたやうなものだつた。だから辛いにはちがひないがさうベソも掻かなかつたが、然しドツクの船具部の仕事は、ただ重勞働といふだけでなく、たいがいな仕事が、生命の危險をともなつてゐた。過まつて、一歩落ちれば、生命はないものだつた。陸から覗いてさへも、ドツクの底の人影は目が廻るほど小さく見えるものだ。しかも全面に石だゝみである。
 殊に、冬中は危險率が多い。足場の上にも、石段にも、いたる所、薄氷が張るからだ。日蔭では一日中、氷のとけない所もある。石段の上り下りに辷つても、生やさしい怪我ではすまない。船具工ばかりでなく、製鑵部などの職工のあひだにも、のべつ怪我人があつた。一週間に一度や二度、死者や怪我人を目に見ないことはない。何でも會社の弔慰金はじつに雀の涙ほどなもので、見舞金あつめの奉加帳といふのがいつも仲間に廻つてゐた。ぼくが一年半ほどゐた間に、勞務者が會社の無慈悲を怒つて、本社のガラス窓まで群をなして迫つて行つたことは、たつた一ぺんしか見てゐない。
 ぼくは毎朝家を出るたび、かならず無意識にわが家を振返つた。今朝出て晩には歸れるかしらと疑ふのであつた。どんな苦痛な重勞働よりそれがいちばん毎朝の足を重たくした。
 それといふのもぼくがドツク會社に[#「ドツク會社に」は底本では「ドック會社に」]入つてまもない頃、ロツプ倉の倉庫番をしてゐたHといふ老職工が、ぼくを見るなり「おや、アスアによく似てゐやがるなあ、アスアかと思つた」と叫んだ。そのときは氣にもしなかつたが、あとで聞くと製鑵工場の少年工で、入渠中の歐洲航路の船のトモ足場から墜死したのだと聞いた。アスアといふのは、アダ名か實名か、へんな名だけに妙にそれも頭にこびりついた。似てゐるといはれるたびに、いやな氣がしたし、それから小意地の惡い、顏色の青いH老が、いちばん嫌ひな人になつた。
 薄暗いロツプ倉庫には、もうひとり上役の奧田さんといふ老人がゐた。烈しい勞働を必要としないかういふ職場にゐる者は、みな工場何十年勤續の人ばかりだつた。奧田さんはHにひきかへてやさしい親切な人だと思つてゐたが、あるとき居殘りをして、九時頃家に歸る途中、岩龜横丁の暗がりまで來ると、いきなり往來中でぼくの首を抱いて、ぼくの唇へ接吻しかけた。ぼくはびつくりして駈け出しながら、家の前まで唾をしたり手の甲で唇をこすつたりした。
 船具部でもいゝ人ばかりはゐなかつた。しかしおほむね、マドロス肌の樂天家や、あの頃の人のいゝ庶民だつた。話題は酒、女、ばくちに盡きてゐた。月末と十四日が勘定日と稱する日給受取日である。それから二三日の間は見えない顏がたくさんあつた。日給制だから休むには何のもんくもない。しかし金がなくなると出揃つてくる。
 社の前に辨當仕出し屋があり、遠州屋といつて、晝辨が七錢だつた。煮つけ魚の切身に、チクワ、燒豆腐などがはいつてゐて、炊きたての飯のにほひも魅力だつた。それを食べたい念願と辛抱のあひだに、ぼくも何度か自分へ奢つた。
 食慾の誘惑では、もう一つぼくらの歸り途に屋臺をならべてゐる豚のレバを串ざしにした天ぷらと、燒鳥があつた。燒鳥は犬の肉だと聞いてから、ぼくはレバしか立ち喰ひしたことがない。揚げたてを生姜醤油で食ふのである。たしか、一本一錢だつた。
 夕方のレバの屋臺は、中世紀の油繪にでもありさうな横濱特有な光景だつた。怪しげなカンテラの燈火に油の煮えが煙りたち、じつに怪異な顏と雜多な服裝がそれを厚ぼつたく取圍んで串を横に咥へ合つてゐるのだ。そしてその客の大半以上は、會社の工員よりも、臨時に集められてくるカンカン蟲とよばれる男女の群だつた。
 いまではカンカン蟲とはよぶまいが、カンカン蟲の仕事は依然あるのだらう。造船場附近や港場には、あの錆落しをやつてゐる眠たげな小さいハンマーの音響をよく耳にする。その頃、ぼくがドツクにゐた頃の横濱は、そのカンカン蟲全盛時代ではなかつたかとおもふ。輸出の製茶場へ通ふ“お茶場女”や輸出羽二重のふち縫ひをする“ハンケチ女”などの異色ある女工さんたちの影は薄れかけてゐたが、毎朝、横濱ドツクや棧橋附近に蝟集するカンカン蟲の大群は、壯觀だつたのを覺えてゐる。そしてそれが夕方、町へくづれてゆくさまも、何か、横濱の景氣不景氣を物語るものみたいだつた。事實、カンカン蟲を見なくなつてからの横濱は衰退をたどつてゐた。
 ときどき、レバ屋の灯で見るそれらの顏の中に、ぼくは、ぼくより小さいカンカン蟲の一少女を見いだした。構内でも姿は見てゐたが、そこで偸み見するのがいちばん美しかつた。十五か、十六ぐらゐかと思つた。年とつたほかの女たちの中にいつも圍まれてゐて、レバの串ざしを咥へるにしても、ほかの女のやうに犬みたいな咥へ方はしなかつた。その少女と時々ぶつかるのが愉しさに、ぼくはあらゆる小遣ひをつめてレバ屋の屋臺に頃をはかつて立ち寄つた。
 ある時、船の内部の仕事で、機關部に隣接してゐる最船底の水槽塗りにはいつたことがあつた。もちろん塗料はペンキではない。セメントをワラ刷毛で塗るのである。水槽船底は、一部に破傷があつたばあひも、一部でとゞめ得られるやうに、縱横にせまいブロツクとなつてゐる。通路は、やつと身を横に潜れるぐらゐな穴しかなく、まつ暗であり、片手に蝋燭は離せない。
 その中で、いつもレバ屋の灯で見る少女に會つた。彼女らも同じ作業ではいつてゐたのだ。少女も蝋燭とワラ刷毛をもちぼくの隣りまで來たのだつた。何か落し物でも見つけに來たやうなふうであつた。そのときの少女の顏は、ひどく印象的で、いつまでもぼくの眸にのこつた。といつて、それ以上に何を思ふことも行動に出ることもなかつた。極度な重勞働を擔つてゆく肉體には、青春期の戀愛さへも育たなかつた。


 その當時のドツク勞務者の唯一の愉しみは徹夜作業などの間に、ドツクの底や船艙の石炭庫などで行はれるばくちであつた。小さいペン鑵をツボ皿として、二つのサイコロを伏せてやる丁半博奕である。銅貨や白銅の音を忍ばせてローソクの光りを圍み、彼らが心猿を燃やす光景はおそろしく眞劍なものだつた。ぼくはいつも立ち番をいひつけられた。守衞や事務長が不意をついてくる靴音に耳をすまして遠くに立つてゐるのである。その代りあとでは白銅一枚か二錢玉をくれた。いちどそれを大事にしておいて、仲間のうしろから手を出してボンゴザへ賭けたら、組長の猪子さんに睨みつけられた。猪子さんはいつかぼくの母親にも會つてゐて、ぼくを惡い風に染ませまいとしてくれてゐるふうだつた。
 いろんな事があつた。書ききれない。この先はいつかオール讀物に「雉子郎物語」として書いたやうに、ペンキ塗の作業中、足場板もろともドツクの底に墜落して、一年半目で、病院入りになつてしまつたわけである。たゞその時、陸に居て、ぼくの乘つてゐた足場ロツプの操作を過まつておツ放してしまつた人は、ぼくがドツク會社へ入つた當初「おや、アスアに似てるよ」と叫んだあのロツプ倉のH老だつた。何だか、蟲が好かないとつねに思つてゐた人に落されたのである。それがドツクをやめて東京へ出てくるぼくの轉機でもあつた。もし落ちなかつたら、まだ何年もドツクに居て、ぼくも一ぱしのマドロス渡世を横濱でやつてゐたかもわからない。


 何を書かうとしたのだらう。品川新居雜感なら、こゝの二階からもちよつぴり海の切れ端は見えるし、清長の名畫品海宴遊圖を想到したり、若い頃よく惡友と通つた夜明かし飮み屋の三徳屋だとか、亡友の詩人佐藤惣之助と土藏相模の思ひ出など、いくらも、きれい事ですむ隨想も無いではない。それを、これまで妻にも弟らにも話したことがない過去などを、いや誰にだつて、おもしろくもないみじめな人生の一齣などを、何だつて書いたのだらうか。
 煙突のせゐである。煙突がぼくにも煤を吐かせたのだ。もう一つは池島信平氏などが、もうだいぶ前からぼくにぼくの少年期からのことを書きなさいなどゝ頻りにすゝめてゐたからである。自傳なんて書く氣はもたないし、約束もしてゐないが、人間はそんな課題を暗示されると、いつか頭のうちでは、無意識にもやもや何か釀し出す弱點はたしかにもつてゐるやうである。その心理を煙突と工場サイレンが衝いたものか。あるひは、それもぼくのまだ不正直な僞辯で、もつと底には、毎朝、こゝの二階で感じる眼と耳からのものに、何かすまないものをうけて自責してゐるのではないか。ゴルフをやつてゐていゝか。競爭馬など駈けさせてゐていゝのか。麥コガシ袋に附いてゐた笛を吹いた男がと、自分で自嘲はしながらも、すべて偶然みたいなサイクルにまかせて、この生活も虚名も今のところどう訂正もつかないのである。かへりみて、何とか、こんな自責はもたないですむほどな作品でも書けたらばとおもふが、それもおそらく望外なことであらう。居は氣を移す、といふことばはおもしろいが、ほんとの事をいへばそんなはずはない。人間はやはり心のなかに住むものだ。心の推移がないのに、氣だけがかはるわけもなく、變つた氣がするならば、自分へのごまかしか錯覺かである。

底本:「折々の記」六興出版社
   1953(昭和28)年12月25日初版発行
初出:折々の記「讀賣新聞」
   1953(昭和28)年4月25日〜8月18日
   僕の歴史小説觀「讀賣新聞」
   1951(昭和26)年7月9日
   歴史上の人物あれこれ「オール讀物」
   1953(昭和28)年2月号
   常冬の記「世間」
   1948(昭和23)年2月号
   菊池寛的人生觀「文藝春秋」
   1950(昭和25)年4月号
   菊池寛氏と私「キング」
   1948(昭和23)年5月号
   蓮如・洗馬・菊池寛「富士」
   1948(昭和23)年7月号
   鴨と鹿の頭「改造」
   1937(昭和12)年1月号
   雉子郎物語「オール讀物」
   1952(昭和27)年4月号
   煙突と机とぼくの青春など「文藝春秋」
   1954(昭和29)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「付近」と「附近」、「明智光秀」と「明知光秀」、「新・平家物語」「新平家物語」、「編輯」と「編集」、「慘憺」と「慘澹」、「過剰」と「過剩」、「遊覧」と「遊覽」、「效果」と「効果」、「專」と「専」、「豊」と「豐」、「鬧」と「閙」、「脊」と「背」、「来」と「來」、「祕」と「秘」、「蟲」と「虫」の混在は、底本通りです。
※「折々の記」全国書房、1942(昭和17)年5月発行のものは「窓辺雑草」「草思堂随筆」からテーマ別に抜粋収録したもので、本編とは全く異なるものです。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2013年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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