在銘
高サ 七寸六分
胴廻 五寸七分
口径 二寸九分
高サ 七寸六分
胴廻 五寸七分
口径 二寸九分
この壺の銘には「太平十年五月十六日造」とある。「太平」は遼の年号で、その十年は宋の仁宗の天聖八年(西暦一〇三〇)にあたり、天下が宋の太祖によって半ば統一されてまだ間もないころで、しかも、宋の文物が漸く盛大を告げようとした矢先だった。
ところで一説には朱銘の宋赤絵のものには偽作が多いともいう以上、これもあるいは相当問題にしていいことであると一応は疑っても見たが、なにぶんにも眼前にこの作品を置いては、決して左様な懸念をさしはさむ余地が見出せないのである。
由来作品の真贋は、その内外両容を直覚して、一種のうぶさと一脈の創成力といったようなもののあるかないかを見て、大体これを判断し、しかる後、それぞれの条件をならべて、初めてその決着がつけられるようであるが、この場合一番大切なのは、言うまでもなくその直覚力がどこまで霊的に働くかということである。固より危い吾人の直感力である。敢えて大方の信を博するに足りぬかも知れぬが、もし許されて判定をつけるということになれば、これは宋の赤絵としては、一種の上手なる製作であるとせざるを得ないのである。
仮りにこれが第二次的の作品であったとすれば、そこにはもっと巧智の露頭がなんらかの形で現わされてよいと思う。
ところが、この作品に於て見られる軽率でない華やかさは、大時代的な一種の文化意識の結晶として、あくまでもその時代を感覚し切ってこそおれ、いやな怪しげなところは更にないと看取されるのである。
中国の陶磁も宋に至っては、洗練を欠いた泥臭さといったようなものが全体的に取除かれ、一躍水際立った調子を獲得するに至っている。
言うまでもなく、これは純然たる陶器であって、焼かれた火度もおのずから低く、質もまたそれだけに軟らかい。そして永らく土中にあった関係からか、壺の地肌に施した釉薬など、表面は大部分粉吹いた風化現象を呈し、そこへ処々土の喰い入りも認められる。
模様は所謂上絵付けである。赤、黄、青、紺と、その四色の色相が渾和して、上代的内容を持っているのも嬉しいが、模様の形式が、次第に模様の独立を前提として、所謂「割出し」への発足をなしているのも、陶磁の模様の発達を順序づける資料として、注意して見てよいであろう。
更にこの壺を蓋したまま、つまみを中心として鳥瞰した場合、一点の円が(実に左様言いたい)、段組みの形を取って、蓋の面肩の廻りに次々に大きくひろがって行っているのである。殊にその円の段組みをなしたひろがりの中に、処々渦巻文をはさんで、模様に一種の感情を強調しているあたり、宋時代のこだわりのない文化意識が実によく出ていると思われるのである。
それに壺そのものの全体の形も締まりすぎでなく、またボテ過ぎでなく、ちょうどその中を得ていて、しかも腰から下の自然な締まり具合など、所謂千番に一番のかねあいの、一見宋窯ならでは望んでも容易に得られない達人芸の冴えを見せているではないか。
いったいに器体そのものを完全に保持している宋赤絵のものの少ない中に、この器一点が殆どその例外であるのも珍しいこととしてよい。
元来中国の陶磁は、唐は唐、宋は宋、明は明、清は清というふうに、その時代の表現相がすこぶる明白である。殊に一般に宋窯と称せられる宋時代の陶器は、ちょうどわが日本の鎌倉時代の彫刻仏を見るように、その時代の精神とか、または特徴とかいうものを極めて端的に表現しているように思う。くどいようだが、この作品の如きも、そこにそれ自体が感ずべきものを、明確に感じていはしないだろうか。
またこの着画に於て特に注意していいと思われるのは、人物の描法がまたいかにも本画の要領そのままであることである。本画としては尋常の画人では、到底やれそうもないような枯れ切って、しかも味のある筆を見せているにはいるが、しかし、これを同じ宋窯のうちの赤絵の皿の類に見受けられる省略に成功したいかにも陶画らしい陶画「草花文」のものに比べる場合、これはそれらより、ずっと遥かに先駆的なものであろうということも想像出来るであろう。
(昭和八年)
中国河北省磁州窯の陶器は、最近までこれを一口に絵高麗と、日本では言っていました。絵高麗は元々朝鮮陶器でありまして、現に鶏竜山窯跡から様々なものが発掘されます。感じに於て磁州窯は硬く、絵高麗は軟らかいのでありますが、見慣れない者は判断に苦しむことが当然となっております。
この鶏形の水入れも、昔ならばきっと絵高麗と言ったでありましょう。
しかし、これは朝鮮ではなく中国でありまして、しかも、宋時代の磁州窯でありましょう。
磁州窯も時代を新しくしましては、一向に力のない、味のないものでありまして、賞玩品とはなりかねますが、宋代になりますと、土の仕事と言い、絵画の妙味と言い、感服させられる点が多いのであります。
この鶏形水入れも一体に調子が高く、絵画の力も十分に具わりまして、無造作ながらも、考案図考の成功とともに、まさに生きた一個の鶏となっております。けだし古墳などの発掘品でありましょう。
(昭和八年)
成化年は今より約四百五十年前であって、赤絵物でもっとも有名な万暦赤絵の生まれた時より約百年の前代である。日本の足利時代だ。争われないもので成化年の赤絵は足利時代の仏像仏画の味だ。万暦の荒っぽい赤絵は桃山の美術を連想さす。万暦には豪宕の気が漲っているが、成化年製のは気品がない、少し下手だ。成化年は染付のもっとも優れたものとして生まれたことによって有名である。産出すこぶる多かったと見え、今日、日本に現存するもののみを見ても、染付の優品は大部分が成化年製である。しかし、その中に、こんな精作な赤絵向付が生まれていることは、人のあまり知らざるところである。そして、これらは日本の九谷製陶にヒントを与えたご先祖さまである。(昭和八年)
明の嘉靖は日本の足利時代で、万暦の前代に当る。万暦赤絵はこれから生まれてきたところのものだ。しかし、嘉靖年製赤絵はすべてがこれだと思ってはいけない。こんなのは千百中稀に見る美品である。万暦赤絵と言うもの、落ち着くところに落ち着いた感じを不遠慮に鼻に掛けているところがあって、聊かなんだいと言いたくなる。
嘉靖はしおらしくも未だそれに至っていない。なにごとも、ものは決ってしまうと、ゆとりと言うものがなくなって面白味を限定する。
嘉靖年製小鉢はこの意味に於て(くどい絵付けにも係わらず)、存外肩の凝らない美しさを表現していると言い得られる。
(昭和九年)
上図(一三五頁)輪花盃の方は成化年製の赤絵というところであろう。忘れてしまったが、あるいは在銘であったかも知れない。下図の馬上盃は俗に南京赤絵と称しているものである。南京赤絵には清朝に写されたものが非常に多いが、元の起こりは勿論明代である。この盃は天啓時代の赤絵と思われる。中に呉須(菁華)がはいっていないから――即ち呉須を用いずに、先ず白い生地器体を拵えて、その上絵として花鳥を描いたものである――だから、天啓でないように言うものもあるかも知れない。そこで呉須でないため、南京赤絵という特別な名が出来たわけだが、呉須がなくとも時代的に区別せば天啓であることに変りはない。但し小生の見方から来る断案であることを予め了承されたい。
これらはいずれも日本人に昔から喜ばれて来たものであるが、殊に文化文政のころに勃興した煎茶趣味の人々に取っては堪らないほど嬉しく思われて来たものである。
だが抹茶趣味の人々には、それほど喜ばれなかった。それは見事ではあるが、なんとなく作意が硬いからだ。従って、むしろこれを喜ばぬ傾向の方が強かったであろう。
今一つはこの種のものには日本人特有の深い自由な、ゆるやかな味わいというような観点から不足があったからであろう。
しかし、同じ赤絵でも、下図の南京赤絵は、大分日本趣味的であることに注目せねばならぬ。
下図は元来明朝末期のものであるが、どういうわけか大いに日本趣味的に出来ている。写真で見て分るように、単に一つの図案が日本的であるとかなんとか言うばかりでなく、木の葉一枚描く画の線の一本を詮議してみても、その表現の感じに日本趣味が存在している。どういうわけで明末の赤絵から日本趣味が発見されるのか、その理由は明らかでない。むしろ不思議に思えるほどだ。
理由の詮議はともかくとして、これを成化万暦時代の赤絵にその表現を比べてみるならば、当時の所謂中国の誇りとしていた中国趣味の、かっちりした感じとは全く相違していることに驚異せざるを得ない。それが取りも直さず、天啓赤絵の特色であると今日から言えるであろう。
近来眼利きの一部愛陶家たちに、皿と言わず、鉢と言わず、天啓赤絵が俄然高値を呼ぶに至ったというのも、このように日本趣味から見て、ぴったりするものを含んでいたからに他なるまい。
この日本人趣味の表現について、当時日本人が注文して造らせたからであろう、という説もなくはないが、そう簡単に心まで日本化するものではない。日本人のデザインは移るとしても、表現の感じや気持まで、このように楽に行くとは考えられない。
そこがまだ我々に合点の行かぬところである。中国人が唐様で書く三代目になったのかも知れない。
以上古赤絵の日本趣味について一私見を述べてみたが、しかし、それはそれとして別に切り離して批評するならば、現今の煎茶家たちが今なお喜んで名器扱いしている程、我々はこれらの赤絵を芸術品扱いしているわけではない。日本の九谷赤絵のように深味とか、底力とか、雅味とかいうものを問題にしてこれを顧みるとき、到底及ばぬものであることは言を俟たぬ。
しかし、デザインも絵の筆致も、なるほど楽に出来ているところがある。一線一画の引き具合など、実にそういう楽な気持があって、好ましい特長をもっている。が、それだからと言って、九谷ほどに芸術的生命を持っているのではない。だからちょっと見ると、ベラボーに嬉しい気のするものであるにはあるが、これは初心の間のことで、誰しも一応経験する径庭であるまでだ。そして、それがやはり中国の特長をなしている所以でもあるのだ。だがしかし、いよいよ突込んで芸術的に検討してみると、日本人の作にみる底力とか、深味とか、雅味とかに比べては、及びもつかぬただ外観的なものとなっているまでだ。これは何も自分が日本人だから言うわけではない。アメリカに生まれても、フランスに生まれても、自分はそう感ずるだろう。
この程滝精一氏が朝日の紙上に、今時分と言いたい中国カブレの中国讃美論を得意そうに発表されていたが、ああいう所説は一応もっとものように考えられるもので、誰しも一度はあそこを通る経験を持つものだ。だが段々と真実に眼が進んで来ると、中国の持つよさの限度が見極められて来ずにはいないものだ。滝氏にも今後の向上があるならば、やがてかく言う我々の境地に至られる時代が来るであろうと思う。滝さんのお父さんも、あんな考えから絵を描いてこられたようだ。
実際、昔のものを見るとき、日本のものは瓦一つにも頭の下がるものがあるが、中国には心から頭の下がるものはない。いつも言うことだが、そこが主観と客観の分かれ目で、明瞭な主観に立っていないものに深い作は望めない。古赤絵のこれらの盃によさがないと言うのではない。そして、それが古来から日本人、殊に煎茶趣味の人々に喜ばれ、且つ現在もてはやされるだけの理由が具わっていないと言うのでもない。
だが、そこにもおのずから前述の如き限度があり、根本的には厳として区別が存在すると言うのである。
(昭和十年)
厳寒の日のことであった。楊貴妃は玄宗皇帝と共に庭に出て来た。折柄軒にツララの下りたるを指して、妃は「氷箸」と美しく叫び、形容の妙を賞されて一入玄宗の寵を贏ち得た。雪をもあざむくふくよかな楊貴妃の指先に、危げなハンドルを握られて、その繊細であでやかな唇に玉杯を運ぶ、世に謂う盛盞瓶なるものはまさにこれ……と言っても、誰もまさかとは言うまい。しかし、その玄宗の唐代にはかように美しき磁器は生まれていなかった。それが明のころ、成化年代になり磁器の技工はかくまで進んだ。しかし、中央に描かれた金色唐草あって、この器は一段と威厳を発し、光彩の調子を強くするものである。元々金は箔押しであり泥金焼付けでなかったため、今は剥落してその跡を断つものが多い。本器に見るが如く、金色を鮮やかに残すものは、最も稀に見るところとす。日本の九谷はこれら赤絵付けの特色を十分に捕え得て、弥々妙境に進んだと見るべきである。
(昭和九年)
赤絵と言えば直ちに万暦赤絵を連想する如く、万暦赤絵は赤絵を代表している。そしてこの万暦赤絵の生まれた時代、それは豊太閤が朝鮮侵略に力を入れている時(一五九二年)である。近時流行する天啓赤絵は、その万暦四十七年間の後を承けて出来たものであるが、万暦からみては粗製でもあり全てが軽々しい。彼が国威も段々に衰えていた反映とも観られる。従って貫禄に欠けるところがある。それだけに気軽に賞玩し得られる日本好みでもある。由来日本人は明代の粗製品に無理のない「美」を発見して、それに鑑賞上、重きを置いている風習がある。魁、菊竹など、当時王侯貴人の用に立ったとは信じ得られぬ下手物赤絵の方に、巨金を投じてそれを楽しんでいる。このごろ、天啓赤絵の流行を見るのも若干はこの意が含まれているようだ。万暦赤絵の性情と言うのは立派ではあっても、総じて中国の国民性たるクドクドしいものを持っていることは否めない。そのために軽々しいふうの見えないのが特徴である。鈍重であるのも価値の一つである。しかし、万暦も四十七年間続いているから、初期に近いものと終期に近づいたものとでは、変化の見えるものがあるに違いないが、唯万暦年製と記録するのみだから、前作か後作か容易には判明し難い。……が、初期作製は成化年の赤絵に見る上品さを多分に有つものと見ることは妥当であろう。然るとせば、この写真の大水甕の如きは、世間周知の万暦赤絵「竜の絵」に比して断然上品であり、悠揚迫らざる点に於て初期作製と見るべきであろう。
しかし、この大水甕は、実のところ完器大破の後、本体を余すのみで、向側半体は如何にして紛失したかを知る由もないが、この大破片は我々に取っては好古参考資料として実に貴い残片なのである。それと言うのも、これだけの絢爛たる大模様は、大方、人の未だ見ざるものであって、万暦赤絵中それこそ稀に有るものらしい。
かようにこの図を立派だと吹聴するものの、もしこれに高所から芸術的批判を加えるとなっては、憚りながら私は、日本の古九谷芸術を、より以上芸術的生命あるものとして、推賞を吝まない一人である。
(昭和九年)
古染付と言うものに二つの区別がある。一は染付と言うけれども、一は通り名を呉須と称している。この二つの物ちょっと見たところでは先ず同様の染付であるために容易に区別しかねるのが常だ。相当の玄人筋でも、どうかすると呉須だ染付だと、物を前にして論じ合ってることが間々ある。しからば、どうその区別をごくごく簡単に言ってのけられるか……、私はこう考えてよかろうと思うのである。染付は上手である。呉須はどちらかと言えば下手である、と。染付は丁寧に造られ、絵もまた精密に描けているが、呉須の方は土の仕事からが粗造であって、絵付けもまた荒っぽい、良く言えば無造作に描かれている。
染付は「高価的」作意に忠実だが、呉須は「安物的」に無邪気だ。
製作率から考えて見ても、染付百個作る時間で、呉須なら五百個作れるかもわからないところのものである。
また、染付が官窯の優品だとすれば、呉須は民芸の部類に属するかも知れない。
そこで、茶が興って三、四百年来、茶人という美術鑑賞に優れたグループは、趣味上、実用上、染付と呉須いずれを喜んだかを見ると、呉須の方を上座に置いて尚んでいたようである。最初から優品として生まれ出た精巧品を下位に置くところ、注目に価いする。
呉須は全く自由に作られ、自由に描けている。だから、のびのびしている。見る眼を楽に遊ばせてくれる。匠気の巧緻に当てられるところがない。
これを先刻チャンと知ってかかって、呉須の方を上座に置いた先輩の措置は誤りがない。
この呉須水鳥火入れにしても、もともと茶碗か食器かは知らないが、火入れに適すると言うので、古来火入れに用いて名器として有名である。ともあれ、器体と言い、絵付けと言い、いかにも楽々と出来ていて、肩の凝るところがない。しかも、上手物に見る上品な重みを持っている。その上、デザインが特に日本人向きに秀れている。また、その上図柄がありふれていない。その点がやかましくもてはやされる所以であると観たい。
(昭和九年)
扁壺というものがその昔何に用いられたか、というような詮索は止めよう。それを詮議して見たところが鑑賞上の著しい問題にはならないからである。この扁壺にかかわらず、我々が陶器を愛玩するのは美術製作として成功しているからである。だからどんな陶器でも愛するのではない。美術的価値のない陶器は、一片の瓦礫を見るよりも一層交渉は薄い。この扁壺を紹介する所以も、美術的価値が豊富であるが故にである。殊に朝鮮の陶器は、所謂唐物と違って、その製作技巧及びその感じが、日本人の性格と共通する点があって、中国のそれよりも一層親しみを感ずるのである。この扁壺の好みも、すこぶる無造作な製作であって、締まり有るが如くして締まりなく、自由な気持で、総てが成されている。これがこの器の取柄である。
中国にも様々の姿式を持つ扁壺を有するが、その多くは型によるもの多くして、規矩の整然すぎる恨みがある。それは実用上必要なことかも知れないが、我々が今日鑑賞用として愛玩するのには、迫力に乏しく、芸術的生命が足りない。
この扁壺の如きは、一絵画を見るの見方をもって見てもよい。一彫刻を見るの気持で眺めてもよい。陶器を見る気持よりも、すぐれた絵画彫刻を見るの気持に近い。陶器で言えば、高麗青磁である。通常、世に言うところの高麗青磁は所謂上手物であって、製作はすこぶる巧緻を極め、象嵌様式の技巧などに至っては、後人の追従を許さず、実に世界無比の善美を極めている。
その胎土の如きも水漉を重ね、分子を密にし、白磁のそれの如く、その土極めて細かく美しいものである。しかし、この扁壺は当時の下手物であったか、あるいは一種のものであったか、これを詳らかにしないが、通常の高麗青磁に比する時は、粗製品と称しても差支えないほどのものである。従って製作は至極気楽に出来、表面の文様の如きも、花か葉か知らないが、その彫刻の刀根(ヘラサキ)すこぶる鮮やかに、すこぶる暢達に、なんらの拘束をも受けていない。あたかも小児の嬉々として、素裸で跳躍するにも似たる感があり、全く天真らんまんの作である。
今日の人間には、もはや朝鮮人と雖もかくの如き自由は成し得ないであろう。しかも、時代のしからしむるところか、剛健である。卑しきものを少しも持っていない。しかして、日本人の好むところの幽雅なるものを豊富に具えている。
製作上の手工を見るに、模様の頂上、青磁釉の濃きこと一段の鮮やかさをなしているところより、上下二分して土を継ぎ合わして作られたものである。これが中国製ならば、同じ継ぎ合わせにしても、多くは中央に於てなされることを通例とするが、これは七分三分の点とも言うべき上方に於て継がれているのは、我々のように轆轤に親しんでいる者から言う時は、ここにもすこぶる興味がある。
紋様は胎土の上に白※[#「土へん+尼」、U+576D、147-14]を厚く塗り、しかして紋様の線を生の時(まだ土の乾燥せざる時)に彫り、模様以外の地面(白あえ)をけずり取り、模様のみを残したものである。故に紋様は白土の色を一段高く残して白く冴え渡っているのである。しかして通常あるところの高麗青磁釉を一面にかけられ、最後には上方の一段青き部分を作者は飾る心を持ってか、二度の釉を掛けたのである。だから同じ釉薬ではあるが、釉の二度掛けられただけは、釉は倍の厚みになって一段と青いのである。
これに似た高麗扁壺は、まま見るところであるが、かくの如く素直に焼き上がり、今日までこれが無傷で現存したことは、確かに珍しいことである。しかも、この花の如き模様は、壺の四方に殆ど同様をもって、装飾されている。故に表裏のないものである。ただ低部には釉薬が掛かっていない。これは焼成上の都合から施薬を避けたものであろう。
(昭和七年)
前々から言っていることであるが、古九谷と万暦赤絵といずれが良いかという問題になると、一般には漠然とではあるが、万暦赤絵の方が(本歌ものと言う意味のもとに)良いものと思われている。今一つは、むしろ万暦赤絵と古九谷とを本気になって比較し、はっきり考えてみようとする人がないということも言える。ところが両者を実際に比較検討してみるならば、万暦赤絵は風采容貌の点は非常に立派だが、内容はその立派な風采に伴わない。しかるに九谷の方は万暦ほどの風采を持たないが、その中味を見ると、非常にしっかりしたものをもっている。
要するに彼は形式の作品であり、是は内容の作品であると言い得るのである。
単に一本の線を見てもまるで違う。彼は巧者な熟練した手をもって上手な線を引いているが、是は巧者と言わんよりは、むしろ不器用な手を以て一々味の籠った、雅味のある線を引いているのである。意匠から言うと、むしろ鈍なものがある。例えば、この壺の七宝や無地唐草など、甚だ気が利かぬ模様であると言わねばなるまい。だがそれにも拘らず、いい感じであって、ただ気が利かぬと言い放って捨て去ることの出来ない特異な味を持っている。
ひるがえって赤の色栄えを見るならば、ここに於てもまた同じことが言える。万暦赤絵の赤色は甚だ綺麗である。それは誰の眼にも美しい。しかるに、この方は色も黒ずんでいるし、塗り方もきたない。中国のもののような手際がない。だから、女が見ても、子どもが見ても、綺麗であるとは言われない。だが、それにも拘らず、よい感じがする。むしろ、その色の悪いところによいところがある。手際の悪いところに、よいところがある。
これは結局作者の国柄と人の問題である。いい人の手になったものは、不手際でもいいものが出る。つまらぬ人間がいくら手際よくやっても、やはり、そのつまらなさを蔽うことは出来ない。手際がよければよいだけ薄っぺらな感じが現われて来る。ちょうど料理に於て、素人が誠心誠意を籠めて一生懸命作ったものの方が、玄人が鼻唄まじりに、ただ手際だけよく作ったものよりも遥かに優れた料理が出来るのと同じである。汁粉一杯考えてみても、婆さんが不手際ながら丁寧に作った汁粉はうまい。反対に汁粉屋の汁粉は手際はいいが、どこか水くさい。古九谷と万暦赤絵にはちょうどそれと同じ関係がある。そして、そこがつまるところは日本と中国との相違である。
中国は明代の絵などを見ても、本当に頭の下がるものは先ずない。殆どないと言っていい。宋、元に上っても同じである。しかし、絵の様子のいいこと、柄の優れていることには感心するものが多い。日本人は、元々それを学んだのであるが、日本人には中国人に見られない持ち前の中味が備わっているから、中国を学んだことが、恰も鬼が金棒を掴んだようなものとなったわけだ。中国人はそれが国民性というのか、柄や形式や風采に走って、常に内容の空疎を意としないところがある。中国が今日の如く、何につけても救い難い所まで堕落したのも、そのためであろう。
古九谷は何と言っても、しっかりしていて、しかも、雅致を持っているところがよい。そして楽にものを造っているところに、日本人としての見識がある。この壺は完全だが、中には作の生地が初めから曲ったり、いびつになったり、または少しぐらい窯切れのあるものをよく見受ける。
もしそれが中国ならば、そういうものは不上がりとして、初めからこれに上絵を描こうとはしない。絵などを描かずに捨ててしまうであろう。
ところが日本ではそんなことは一向平気で、曲ったものにでも、いびつのものにでも、窯切れのあるものにも、構わずに丹念な絵を入れている。そこに作者の見識がある。一概に曲ったものはいかんとか、窯切れのあるものはいかんとは言わない。それでも一向構わないとするだけの自信があって仕事をしている。それだけの見識があったのである。だから万暦赤絵などには曲ったものや窯損のあるものはないが、古九谷にはそれがある。そうした欠陥が少しも作品の内容を左右するものでないことを、我々の祖先は知っていたのである。
果せるかな、今日そんなことに頓着なく、古九谷が堂々としてその真価を認められ、高価に取引されている。その点は物の内容を見る明があってこその話である。
このごろの日本は、かような見地からすればすこぶる中国式に傾いている。何でも完全でなければいかんという考えが先になって、物の内容を忘れがちになっている。九谷時代に比べて不見識も甚だしいと言わねばなるまい。
例えば、西洋皿にけし粒ほどの傷が出来ると既にこれはいかんと言う。言い換えれば、けし粒ほどの傷がないためにその皿にはなんらかの価値があるが、けし粒ほどの傷があれば、既に無価値に堕してしまうということである。だから、かかる皿には初めから内容的価値は全くなく、作者にはけし粒を意としないだけの見識もないのである。
内容さえあれば、誰がけし粒ほどの瑕瑾をとがめよう。人間でもそうだ。いかに偉人でもちょっとした欠点は持っている。そんな瑕瑾があるために、偉人の価値が消えてなくなるだろうか。かかる風潮の現代人は宜しく古九谷の前に恥ずべきである。以上の考えから、私は結論して言う。
万暦赤絵のような綺麗なものは西洋人に持たせるがいい。九谷の方は日本人が所蔵すべきである、と。
(昭和十年)
陶器好きのみなさん、この絵皿をごらんください。これは紛れもない古九谷色絵皿です。しかし、普通見なれている古九谷とはちょっと違いますね。それと言うのは、色模様をあるものから模倣しているからです。なにを写しているかと申しますと、私は色絵祥瑞だと思います。それならこの通りの色絵祥瑞があるかと言うことになりますが、それは私は知りません。しかし、所謂色絵祥瑞なるものから推して察することが出来るのです。ところで、色絵祥瑞なるものには、こんなに含蓄がありません。底力あり雅味に富み下手のようで上手な、そして余韻をもっているところは日本製の特色ですね。日本のものはなにを見ても含蓄があります。その含蓄と言うのはなんだと問いかける人があるのですが……、それを私はこう考えるのです。日本品で言えば日本の国柄が知らず識らず内容となります。作人で言えば素質としての人格が内容になります。その他、学問、教養、審美力、信心、正直、素直、上品、才智こんなものが折重なって、作品の内容となります。この内容が即ち含蓄です。含蓄は信念を作ります。信念あるものは足が地に付いています。そこへゆくと古九谷は偉いですね。迷いがありません。底力が増すばかりです。だから上部ばかりのデザインの良さではありません。
日本の美術が中国、朝鮮、その他に比べて奥深いものが存するのはそのためだと思います。総じて上品であり、底力あり、雅致に富む所、実に国柄のいたすところと思います。
この古九谷も当時の作者としては、言わばイミテーションのつもりで写したものと思われますが、それがいずくんぞ図らん、本家本元の原品よりも一層美であり、含蓄あるものとなり、より以上のものとして生まれ出ていることは、真に国柄人柄のいたすところでしょう。まことに是非もないことです。しかしながら困ったことには、含蓄の有無を見破るのには、見破らんとする者の眼に含蓄が具わらなくてはならんことです。含蓄のある眼とは一言にして言えばなんだとまた問われますと、私はそれこそ昔から言うところの心眼だと言います。
(昭和十年)
宗達の存在を熟知し、宗達の絵の妙味や力をしかと認識している人であるならば、今私がこの皿の絵は宗達の筆ですよ、と言ってみてもなんら不思議とは考えられないのみならず、むしろ、なるほど……と見直されるであろう。それほどにこの皿の絵は見事であります。
古九谷の絵は守景の下絵だということで有名でありますが、あるいはそうであるのもあり、影響をうけているのもありましょうが、私の見るところでは概して古九谷の絵は守景のようにやわらかな筆致情操ではなく、もっともっと強いのであります。剛健なのであります。現にこの絵にしましても、守景ではありますまい。宗達でありましょう。宗達に近いのであります。
もしこれが当時、画人として名もなき職工の絵でありとするならば、この時代は多数の職工までが立派な芸術家であったと言うべきであります。
独り陶磁器に限らず、染織に、蒔絵に、人形に、家具に、工芸のなにくれとなく全部が芸術的生命を持っておりますことに徴しましても、実に羨望に堪えない芸術的工芸時代であります。
次に石皿に瀬戸呉須で描かれた菖蒲の絵はどうでしょう。世上有名な乾山の八ッ橋の絵とは径庭ありと言い切る者があるでしょうか。この菖蒲の絵も乾山筆と称してなんの不思議もありますまい。事実、乾山ほどの者の力でなくては描けないだけの名画であります。不思議なのは、よくもまあこんな職人画工がおったものだということであります。
さて、器体の仕事はと器体にのみ眼を移しますと、これは両者とも、その製作には嫌味はないと言うだけのもので、別段とりたてて賞するほどの皿ではありませんけれども、その着けられた絵の力に至りましては、吾人製陶に関係ある者の心胆を寒からしめるだけの価値を持っております。
(昭和八年)
こんな変り種が手元にありましたから、写真版にして載せては見ましたが、説明となりますと、一向識るところがないのです。何か古い時代を書いた書物があるでしょうが、元来が私は不精で面倒がりに出来ているものですから、文献を漁ることに怠け者でついそれを怠りますために、物識り話になりますと、から駄目なんです。
唯陶器も物好きのせいか見るには随分見ますが、さて唐津が千年前からあったか、八百年前から始まっているか、朝鮮人ばかりで焼いていたか、日本人も加わっていたか、いつのころが一番うまいものが出来たか、私はそういうことになりますと、一向に調べてもおりませんので、話になりません。
唯、面白い面白いで、自分さえ面白ければよいとしているのです。盲人のようですが、それでも段々「勘」の働きが出来てきて、一目見て、これは何だとか、かんだとか、大した間違いもなく見えるようにはなって来ました。
鑑賞も確かだ、文献にも詳しい、歴史にも精通している。この三つが揃ってこそ真の好者でしょうが、そこになると、私どもはようやくある種の鑑賞が出来るくらいのもので、大概はだらしがありません。しかし、好者にも色々の工夫がありますね。
私のように芸術的鑑賞一方の者もありますし、そうでなく、科学的態度で物を見る学者風の人もありますね。私の知っているSという博士は一々茶入れを截断して「土」の質を見られるようですが、私たちから見ては、陶器は芸術的作品であり、美術工芸品であり、要は器の持つ美を鑑賞しているのであるから、茶入れを截断して土質を鑑るというようなことは陶器賞玩と事理的に関係がなさそうに思われるのですが、その人の立場立場でサイエンスが付きまとうて、そこにまた楽しみがあると見えます。
またOという陶磁史の学者で、鑑賞家としても権威のように思われている人があります。この人が、ある立派な原色版陶磁集に、京の蘇山の作を古九谷だとして紹介され、その勘違いが後に判り、密かに取消されたような失態が今も話に伝えられていますが、実際審美的、学術的、賞玩的と、三拍子はなかなか一人には具わらないものと見えます。
この唐津も、実のところ私も一向わからないのですが、皆さんはどんなふうにごらんになります。一見古作には違いないと思います。が、口作りを角に細工した技巧などを見ますと、徳川期かな、などとも考えますが、発掘などの資料の中にこれに酷似したものが徳川期に当っているのでしょうか。私はごく古いものとも思いませんが、秀吉の朝鮮侵略後に連れてこられた朝鮮人の手作りでもないと思われるのです。
とにかく古唐津はいいですね。唐津の高台と来たら、皆が皆すてきじゃありませんか。唐津の高台に作の悪い、面白くもなんともないというようなのは一つだってないじゃありませんか。
この次には、いつか絵唐津の絵を紹介させていただきましょう。なんの造作もなさそうな粗野な禿筆になるバカバカしいような絵ではありますが、しかも古今を通ずる名画の味がありますね。蕪村などの力では遠く遠く及ばないほどの筆力の雄勁さがあります。
また斑唐津、朝鮮唐津という乳白色の釉の掛かった物にもすてきなのがあります。茶人の方では如才なく、それらの良いものや石はぜなどを採り入れてますね。とにかく唐津の味を覚えると堪えられません。楽しめて仕様がないものです。こうなると在銘屋さんや文献屋さんの領分も次第に更に登る一層の楼として、侵して見たくなります。けだし自然ですね。とは言うものの、趣味人にはなんと言っても鑑賞第一義、文献は第二義でよいでしょう。
この唐津が珍しいのは、写真の説明する通り内部に一面釉を施したこと、外部の模様に釉薬を筋線的に幾筋かを流したこと……です。こんな手法は今の人の試みざるところでありまして、いずれかと言えば嫌な工夫ですが、しかもこれが面白く見えるのは、数百年を遡る古人なればこそなのです。つまり邪気がないからですね。今人がこれを真似ると、とても嫌な感じになるに違いありません。
斑唐津、朝鮮唐津は朝鮮で焼けたもののように覚えている人が今でも少なくありませんが、現在唐津の岸岳古窯跡で発掘されるのを見ますと、日本で出来たことが証明されます。
古い唐津には、鯨口や黒釉の手がありますが、追々お目にかけてみましょう。
この唐津に見る釉薬、つまり朝鮮唐津、斑唐津も同様の乳白釉です。が、普通これを玄人筋では藁灰釉と一口に言ってのけますが、唐津のは藁灰で作る乳白色ではなく、他の材料をもって作ると聞いています。それは唐津の山に無尽蔵に生じる植物、歯朶または裏白とも言いますが、藁の代りにこれを用いるそうです。
この水指も、斑唐津の特色として口縁の所が青黒い色を呈していますが、これは胎土から揮発する鉄分の浸透色でしょうね。
(昭和七年)
古い丹波木綿の美を愛して、それを得んとする者、考えあぐんだ結果、人絹の絢爛たる織物を持って丹波の山中に入り、貧乏百姓の着ている鏡蒲団の裂(丹波木綿)を剥がして、用意の人絹と代えて来る。百姓はともかく大喜びでいるそうな。脇本君は古唐津は野蛮だから嫌いだと大胆に発表されている。唐津は野蛮だには恐れ入ってなにも言えないが、次に脇本君は自分は綺麗なものが好きだと言っておられる。つまり脇本君の眼には唐津が綺麗でないのだ。野蛮に見えるのだ。甚だ引例が失礼に当るかも知れないが、人絹を喜ぶ丹波の百姓に近い。そのくせ唐津の絵は好きであるらしい。唐津の高台の作行も好きであるらしい。唐津の高台の作行も好きらしい……と言うのは、先年、僕が旧蔵であった唐津を入手されて、たしかアサヒグラフかなにかの写真説明の中で激賞されたことがある。
話は変るが西洋人相手の美術店には古唐津や古伊賀の類は置いてない。三越に憧れる婦人にも唐津の美は認められない。今の美術家の多くも唐津を強いて求めない。学校の陶器の先生も五条坂の陶人の大部分も唐津の美には縁が遠いようだ。野蛮だと言う言わないは別として、脇本党は決して少なくない。それかあらぬか、これを愛する者、喜ぶ者はひとかどの骨董卒業生か、茶道から覚え入った愛陶家か、稀に天才的に審美眼を具えたものたちと言えよう。それはともかく、人事は別として、僕の如きは数ある陶器中もし唐津の美を除くとしたら、愛陶熱がぐんと下ってしまうかも知れない。
世間陶器を鑑る者、必ず陶器を裏にかえして高台の作行を打眺めて喜ぶに決っているが、僕等の識る限り唐津の高台ほど百が百、千が千、優れた高台を具えて人を喜ばすものを他に知らない。絵もまたその通りで、僕等は常に唐津を見ると俄かに機嫌が良くなるくらいだ。もしそれ美術記者たる脇本君にして唐津が野蛮だなんて本気に言い通すなら、僕は脇本君と正面衝突して争って見てもよい。何年かかっても脇本君が参ったと言うまで、唐津の美しさをつきつけて止まない程だ。
(昭和八年)
古唐津と一口に言っても、その釉薬には様々なのがあって、一様でないことは人も知る通りである。昔から萩と唐津は見分けがつきかねる、と言っているように、そんなものもある。藁灰釉で焼成した乳白なものがそれだ。また、世に有名な斑唐津というのがある。それは藁灰釉の一部に土、あるいは釉の保有するある成分が溶け合って、海鼠釉様の藍色、または紺色を器体のある部分に呈色しているものだ。また、朝鮮唐津と称しているものがある。これも斑唐津と別段とりたててかくかくの相違があると言うものではないが、概して、土の赤黒きものの方を朝鮮唐津としている習慣がある。それを朝鮮唐津とは言うものの、その実、大部分は日本の唐津の出来であるようだ。しかし、稀に本物の朝鮮製が混入していない訳ではない。
今一つ唐津として大いに特色のあるものが存する。それは瀬戸唐津と言うもので、茶の方で嬉しがられているものだ。これは普通の唐津の土で出来ているけれども、釉薬が全然他の様々な唐津と原料を別にしている。その釉薬と言うのは、近頃特にやかましく言う志野と同じく長石単身の釉をかけていることだ。しかして志野と相違する点は、作風の相違の他に釉薬が美濃の如く純白でないこと、土のどの部分にも志野の如き赤い朝日のような色調を呈していないこと、従って赤い模様もない。これが瀬戸唐津である。瀬戸産の志野に似ているところから瀬戸唐津と言ったのであろう。
写真版は瀬戸唐津とは称呼していないが、かけられている釉薬は長石であって、瀬戸唐津と称する特異の唐津と同釉同法である。茶碗でないために、瀬戸唐津と呼びならさずに、やはり、普通に古瀬戸と言っている。
これは釉薬が長石であるために、殆ど志野と変るところがない。唯志野の如く白色でないだけだ。土が美濃の土でないだけだ。その上、着けられた絵模様が志野の絵の如く赤いポーッとした滲みが出ていないだけだ。と言っても赤くこそないが、志野の特色と同じように、この絵は分厚な長石釉の下底から釉の表皮へ浸透して、還元焔の作用を示し、志野の満点品と発色に変るところがない。宜なるかな、世人は志野とこれと愛重の上に大した差級を設けてはいない。
(昭和八年)
「瀬戸唐津」と言うからには、その茶碗は瀬戸で出来たものであろうという考え方は……とは想像してみても、唐津の感じがするから唐津焼ではないかと言う感想があって、いつとはなしに漫然と瀬戸唐津と称するに至って、産地は極め難いとあっさり無意識にかたづけてあきらめているか、あるいは唐津で出来たものであると信ずるけれども瀬戸風な感じがすると言うので、おのずから瀬戸唐津の名称を許して来たか、その点が広い意味での好き者間に、必ずしもはっきり認識されているとは言えないようだ。また一面、瀬戸の人が唐津へ来て焼いたからそういうふうに言いならされて来たのかもわからない、と言う人もあって、容易にその消息を明白に伝える人は少ない。その点、この茶碗の称呼にかけられた宿題として甚だ興味のある所である。そこで、これをどこまでが瀬戸、どこまでが唐津と、依って起こる称呼の因を極めることは、この種の陶器鑑賞家にとって必須の要件であり、学問であらねばならぬ。で、僭越ながら、例により私は独断的卑見せんものと一役買って出た訳である。
瀬戸唐津と言う茶碗……これが産地はどこと問われるなら、ごてごて言うまでもなく唐津で出来たものだと断言する……土がものを言っているというのがなによりの証拠である。そして、作行も唐津の特色があるではないか。別して高台の如きは唐津特有とも言うべき唐津形を現わして余りある。それなのにこれに「瀬戸」の二字を冠して「瀬戸唐津」と称するに至ったについては、その所以がなくてはならない。それはこうだ。この茶碗に掛けられている釉薬が普通に見る唐津釉でなく、また斑唐津釉でもなく、全く別種の乳白不透明の釉薬が掛けられている。その釉が取りも直さず、瀬戸志野焼と称するものの釉薬と同種同様だから「瀬戸」の二字が生まれたのであると言って不当ではあるまい。
志野焼の釉薬は、所謂瀬戸の長石と言うものだ。「瀬戸唐津」の釉薬は、唐津に産する長石と見ていい。長石の持ち味は瀬戸と違っているようでもあり、違っていないようでもある。志野に用いられている長石釉の色は概して純白であるけれども、瀬戸唐津に用いられる長石は、少し黄鼠色がかっていて純白ではない。志野土には鉄分が稀薄であるが、唐津の土には鉄分がより多いからだ。そこで、志野焼の作風というものは、古瀬戸系としておのずから定っている一種の織部風作柄であるが、唐津は全然感じを異にしているのみならず、内容が力強いように感じられる。殊に瀬戸唐津の茶碗と称するものは、志野焼とは似ても似つかない作行だ。形式で言うと瀬戸唐津と志野とは全然似つかないけれども、釉薬だけが瀬戸唐津と志野焼が偶然? 同一である。そこで瀬戸唐津というもの志野と同じ釉であるために釉薬だけを眺めると、それが志野焼に見える。要するに瀬戸唐津なるもの、九州唐津で生まれた茶碗ではあるけれども、釉薬が全く瀬戸の志野と酷似しているところから、瀬戸唐津と言う名称が付せられたに違いないと想像出来る訳だ。もし許されるなら唐津瀬戸と言った方がわかり易く、適名であるかも知れない。
もともと唐津というものは、少しグロ味を有しているが、瀬戸唐津という茶碗はスマートだと言える。形も大同小異ながら様々の変化を示し垢抜けしたものが多い。しかし、この写真に表現されているように、茶碗の外側下方に釉がちぢれ、見方によっては気味悪くも見える。これを昔から梅華皮と称して世人は賞美する。のっぺり掛かっている釉が、高台付近に至り、突如釉のちぢれを見せる。変化の妙味とでも言おうか、これを茶碗の景色として古来茶人はやかましく喜んでいる。
美術鑑賞が商売であるかに見える茶人、否そうあらねばならなかった昔の茶人は、梅華皮に着目してそれを美しいものと看做し、いいと決めた。こういう眼力は昔の茶人の取柄であり、世俗に優れた点でもあった。しかもこのちぢれた梅華皮は作った陶工から見れば所謂不上がりであり、生焼けであって、予期した完全な上がりではないのである。陶工の希いはのっぺりと釉がとけて、つるつるした仕上がりだったのである。初めからこの梅華皮を求めて焼いたのではないことは言うまでもない。だから陶工は梅華皮を見て、こりゃあ甚だ不本意なものが出来てしまったと落胆したに違いない。しかも十銭に売れるものなら三銭か二銭に見切って捨て値で売ったかもしれないものである。ところが、後になって茶人の鑑賞眼から、これはむしろ完壁以上に面白い、いいものであると認められ、工人の予想せざる好結果を招いた訳だ。焼いた方の側から言えば、全く意外の褒賞が授けられたのだ。元来、昔の茶人は多く天才をもっていて、美術鑑賞にひとしお優れておった。美術工芸一般に亘って鑑賞する所が正しかった。茶人を措いて他にこれほど美術鑑賞の発達していたグループは見られない。今日の陶芸家から見て、美術学校の板谷波山氏あるいは大倉陶園のように、いたく瑕瑾を厭うこれら当事者たちは、生涯カイラギの妙味、または釉掛けの火間と称するうま味、焼き曲りの妙などは到底わかろうはずがないのである。唐津でも瀬戸唐津でもすべてそれらのうま味はわからない。殊にカイラギの美、釉のちぢれ、焼き損じなどを認めることなどは、つるつるした無傷ばかりが物の良さとばかり心得ている肉眼の人たち、即ち今の多くの作家たちには解し難いものだ。従って、欧米人輩には勿論ちんぷんかんぷんだ。と言って茶人なら今の茶人にもわかるかと言えばさに非ず、今の茶人たちは昔からの言い習わしだけで「この唐津は結構だ」と口の先で言うに過ぎない。この結構と言う所がすこぶるあやしい連中ばかりだ。実のところ明々にわかっていないのが事実だが、古来の習慣に依って結構結構を繰り返しカムフラージュするまでだ。話がそれて失礼だが、もし今の瀬戸物作家が作った茶碗に、カイラギが出来たり、あるいは釉はげが出来たとしたら、それはどうにも捨てるよりしようのない焼き損じであり、疵物であって、廃物だと答えるまでだ。今の焼物と言うのは畢竟するに、その茶碗の原作というのが元々美的生命を持って生まれていないためにしようがない。昔は原作がいい、だから今言った損傷、不上がりまでが良い景色に変って美を増す。つまり原作の茶碗がしっかりした物であるために、変化が生じれば生じるだけ美術価値が増大する。それが使用を重ねれば、更にその茶碗にいよいよ味が付き風情が増す。それと言うのも今言う元がいいからだ。だから、この「瀬戸唐津」必ずしも茶碗の裏にカイラギがあってもなくなってもいい物には変りはない。カイラギがあろうがなかろうが、釉の火間があろうがなかろうが、原作がものを言っているから、確かなものなのだ。原作が良いという一事は昔に生まれた美術の共通性だ。今日の作家はこれに指導されなくちゃならんはずなのに、そうはいっていない。原作がいい場合は東というものを作るはずが、西に変っても北に変っても結果の良さに於ては変らない。どうなっても良いものが生まれ出るばかりなのが、古美術品の共通価値である。そういう点で、この唐津も曲っていようが、破れていようがどうしてもいいんだ。生焼けでもいい、焼き過ぎでもいい、高台が深くても浅くてもいい。この事ひとり瀬戸唐津に限らない。どんな茶碗でも、およそ絶賞せらるるほどの物は、以上の意味に於て説明することが出来る。
ついでに作陶上、カイラギの生まれる話をしよう。
カイラギというものは今言ったように釉がのっぺりとのびなくて、よれよれになってちぢれているものだ。なぜちぢれるかということは、極めて簡単に説明することが出来る。初めての轆轤仕事として所謂水挽きした際、手に触れた跡の土肌はつるつるなめらかだ。ところで、その水挽きの茶碗を乾かして高台を削りにかかるとき、高台の際から写真でわかるカイラギの一番上の線まで鉋で削って来る(茶碗の底部辺の肉を薄くするために)。削った後は水挽きの跡とは違って土がザラザラしている(最初手の触れた所の跡はツルツルしている)。後から箆や鉋で削った跡は土がザラザラしているから、釉掛けに当ってぴったりと釉がくっつかない。くっついてはいるが釉の下は浮いているから、窯の中で釉が熔けかける場合に至りチリチリになって、のっぺり熔けてくれない。だからカイラギから高台までの鉋の跡は何処までもちぢれてゆくのが当然だ。言う通り箆で削った後の地肌というものは、非常に荒っぽく、ザラザラの所謂縮緬皺となっている。釉がぴったりと付着しない。これをわかりよく言えば、河原の石ころの上に蒲団を敷くようなものだ。石ころの上に蒲団は浮いてぴったりくっつかない。
要するに鉋で削れた縮緬皺の土肌に(古えの作風、素焼きしないで生のままのとき)火度に強い釉薬を直に厚く掛けて焼くとき、必ずちぢれるのがカイラギとなって現われる。そのカイラギに光沢のないのは、生焼けであると解するがいい。
(昭和十年)
この鼠志野はごらんの通り絵のあるもので、この絵がある以上少し説明を要する。と言うのは、絵付けの手法が鼠志野にとっては主要な特長の一つだからだ。鼠志野の絵は普通の陶器のように絵具で描くのではない。白い地の上にベタに酸化鉄絵具を掛けて、その後から適当な絵なり模様なりを彫るのである。その彫りは彫刻という程に深くはないから、彫られたところが恰も白い絵具で絵を描いたように見える。そこが一つの特長である。
このように絵具をベタに塗って模様を彫る手法は、中国や朝鮮にもその例がなくはない。しかし、それらは多く黒っぽい土、即ち色のついた土の上にうどん粉のように見える白い泥をベタに塗って、それに模様を彫ったものであって、いきおい絵は白以外の色を以て表われる。黒い表面を彫って模様を白く出すというのは滅多にない。全然ないことはないかも知れないが、多くはない。先ずないと言ってよい。
そこで、この点だけでも日本陶器として鼠志野は画期的な作品であると言い得ると思う。即ち工夫が斬新で意表に出た効果をもたらしているからである。しかも、その上に、釉が厚く不透明でボヤッとした感じが、恰も楽焼の感じに似て温かく具合のいいものである。もっとも焼き過ぎたものには、釉が融け過ぎて硝子のようにキラキラ光ったものもあるが、そういうものは別として、うまく焼けたものは、芸術的に見てその効果というものが素晴らしい。
然るに、この画期的な優れた芸術品も、従来は殆ど世人に認められなかった。と言っても、一部少数の人によって大切に保存されて来た事実もあるから、全く認められなかったという訳ではないが、しかし、少なくも特に有名でなかった点に於て、焼物の世界に認められずにいたのである。これが最近俄かに世間の話題となり、その優れた芸術的価値を云々されるに至ったのは、我々が美濃古窯の発掘を行なって、その戸籍を突き止めたために、これが世評に上ってからのことである。思えば鼠志野も随分長いこと不遇な位置に忘れられていたものである。
鼠志野という名前は、色合いが鼠の毛のように見えるところから、誰言うとなしに出来た名前である。然るにこのごろ、絵の色が普通なら黒で出るところを逆に白で出るというので、逆志野などと名付けているものもあるが、余計なことである。第一逆志野などという名が意味としても当を得ていないし、名前自体が余りにも美意識を欠いている。何んぞ鼠志野の古雅にして妥当なるに如かんやである。
名前はさて措き、鼠志野のよさは作行が素直で、しかも力強くみやびやかな所にある。表面がやわらかで、美的でありながら底力のある点、しかもこだわったところのないのが、全く唯もう理屈なしに良いと言うより他はない。これを今やって見ても具合のよいものは出来ない。単に焼くだけでも昔のように出来ない。それは経済的にも出来ないが、ましてこうした芸術的な模様を再現することは今人には不可能である。
焼きはこれを専門にやれば、あるいは工夫次第によってはなんとか出来ないこともなかろうが、その形にしても、絵にしてもてんで出来ない。線一つが出来ないのである。唯一本の線が違うのである。やはり桃山というような豊かな芸術時代の力であって、当時の職人芸になった不用意な一本の線の中には、今から見ると恐ろしいばかりに色々な美しい人の心の内容が籠っていて、こればかりはどうしても今人の力では出来ない。どうしても芸術的に豊かな時代の産物であって、敢えて志野に限ったことではない。この時代のものは、それが何であろうと、いずれを見ても優れているから驚く。我々が不思議に思うのは常にここである。
昔出来たものが、どうして今日の我々に出来ないか。……となると……それはやはり芸術というものが智恵で出来るものではなく、その時代に限る人格で造り出されるかららしい。智恵でやれるなら時代の進んだ今日出来ないことはないが、それが出来ないところに昔の時代の力がある。そう考えざるを得ない。ミレーの後にミレーなく、桃山の後に桃山なしとでも言うか、言わばそこが自然の約束であろう。良き時代の産物はどれを取っても安心していいものだと言える。形がまるくても、ゆがんでいても、すべて優れているのである。
因みに十年前『陶磁器百選』の著者が鼠志野を指して、瀬戸の窯変であろうと説明しているが、今日では勿論そんな訳のものでなく、初めからこういうものに造ろうと計画的に造ったものである。それは事実鼠志野が数多く今に存在していることと、殊に美濃古窯発掘後、その戸籍まで突き止められた事実に鑑みて明らかである。
もし窯変の説を通そうとするならば、窯変しなかったらどういうものを造ろうとしたのであろう、ということを考えなければならない。ただ窯変を説いているだけでは、甚だ意味のない素人話になる。敢えて一言補足しておく。
(昭和十一年)
この茶碗は見るからに雄大で、抱擁力があり、温かでしょう。それもそのはずです。桃山時代の空気で醸されて生まれて来たからです。茶会などで名茶碗を手にすると、大概な人は昔は名工がおって、それが心血を注いで作ったと決めたがりますが、決してそうではありません。殊に桃山時代ぐらい古くなりますと、誰彼なしになにをしてもうまいようです。
現にこの茶碗が発掘された付近数々の窯跡から現われる陶器の類、例えば志野、黄瀬戸、古瀬戸、天目、織部などいうものは一つとして醜いものはありません。焼き塩梅に出来不出来こそありますが、原作に度外れの駄作や俗作は全然ありません。しかも、当時仕事していた工人たちは数百人あったと想像し得る資料があります。してみると、この多くの人たち、多少の巧拙はあったにしても、誰彼なしにみながうまい仕事をしたに違いありません。
光悦ものんこうも、先に生まれて茶道からやんや言われたこれら志野の名作から学ぶところの多かったことは、否み難いと思います。
鼠志野の作陶法
美濃山中の鉄分の稀薄な白土をもって作る。それが乾くと、その上に酸化鉄を塗る。それから長石を粉末にして、即ちそれが釉薬だから、それを釉掛けする。窯の中で酸化鉄が熔けて、うまくゆくと、上皮の釉薬を滲透して表面に出る。ために白色であった長石は、鉄の滲透に侵されて、焦茶色に変る。これが即ち後世「鼠志野」と称するもの。
と言うと、今でも極めて簡単に出来そうだが、窯の構造や焼く時間、燃料等の複雑な関係から色々むずかしいことが出て来て、容易に昔のような色合には出来ない。それと同時に、もう一つむずかしいことは、残念ながら第一に原作が今人の力量では出来ない。
(昭和十年)
志野という陶器は、日本の施釉ある近世陶器中稀に見る色の白い陶器です。白無地もありますが、多くは絵模様があります。その模様は絵唐津の古きものと略同様であって、その調子も相似た高さなのです。志野の逸品は素地の白い所へ模様及び器地の一部の色が、快い紅がかった代赭を発色して、観る者の眼を喜ばせています。写真の志野は器体の大半が赤くなっておりますが、こんなに赤い発色を見たのは珍しいことです。しかし、こんなに全部が赤くては見事と言うだけに留まって、風情に乏しく余韻に欠けるところがあって、却って重きをなしません。世上尚ぶところの志野は器体の一部、あるいは模様の一部がパッと赤味を呈したものとなっております。赤味を呈さないものも重きをなしておりますが、最高の扱いを受けるには至っておりません。
志野の製作年代は概略織田氏時代前後と見るべきでありまして、唐津にも瀬戸に於てもその他に見ましても、最も内容と外観を具えた陶器が焼かれた時代でありますから、志野もまたその作行がすこぶる愛重すべく出来ております。その上、他に全然比類を見ない快い乳白色であることが人を魅きつけ、しかも、所々に朝日のような呈色を見るのでありますから、おのずと愛陶家の精神を奮わせずにはおりません。
窯元は偶然ではありましたが、昭和五年美濃国久々利村に私が発見いたしまして、今日では他の人々も加わり、美濃山中至る所古窯発掘で大変な騒ぎとなり、賑わっております。
(昭和八年)
この茶碗は古来花三島と言い伝えられている。茶人の好みで出来たことだけは一見して疑う余地がない。それは鶏竜山の刷毛目茶碗のように野生的な自然さを有さない点で我々に推測を許している。つまり「匠気が手伝っている」ことを作行の満点が不図説明している。
しかして、これが朝鮮で出来たとしても普通文句はないが、それを一概に信ずる訳にはいかない点がある。
普く鑑者は何と判ぜらるるか、その高見を聞きたい。しかし、何が何とあっても良い茶碗であることだけは否みがたい。
(昭和九年)
黄瀬戸の茶入れ――これは滅多にあるものではない。茶入れが盛んに作られた時代の好みが、黄瀬戸釉を茶入れに掛けることをふさわしからずとしたか否か不明だが、とにかく黄瀬戸の茶入れはざらにある存在ではない。だがこの茶入れはともかく作行もくだけて、そのいたくこなれたところが人を惹きつけている。黄瀬戸というものは、言うまでもなく黄色が好尚上の重大な役割をつとめていることは勿論だ。しかし、好尚は黄色ばかりを能事としているのではない。中国の黄南京の色、これは西洋人の好みであって日本でもしこればかりを好く者があったとしたら、それは初学問に入るはじめの者に属するはずである。さればと言って瀬戸系の黄釉であれば何でもよいと言うのではない。もし黄色だけが良いなら、今でも瀬戸で盛んに作られている。京窯でも作っている。しかし、惜しむらくは作行がものを言わない。黄色さが微妙に違う。しかして黄色さがどう違うと言っても口先だけでは尽し難い。
○○村の大根は美味いが○○村の大根はまずいと言うようなもので、「柄」だけではわからない、「味」のわかる人のみがわかる区別である。黄瀬戸の色の可否も眼のある者にのみわかる甲乙であり良否であって、口先の尽すところではない。それも単に色だけならば今では科学的に説明出来ないことはないが、色の塗られる母体、即ち土をもってする作行が出来ない。母体は芸術だからである。芸術は誰でもが出来る訳にはいかない。芸術はいつの時代でも生まれる訳にはいかない。この事は何より過去の事実が物語っている。
一言にして言えば芸術は年々歳々下落して来ている。これは千年の事実が明々白々に証明している事実だ。だから黄瀬戸の黄色の良さと言うもの、よしその原料釉が科学的に生まれ出たとしても、我等の好尚する黄瀬戸が再現する訳にはゆかないのである。三、四百年前の時代とその時代の作人が今は得られないからである。松花堂の残墨をもって鉄斎翁が描いた絵も墨色は鉄斎の色だ。松花堂の色は出ていない。この意味で大雅の用いた墨を仮りに横山大観が用いたとしても、大雅の色の出ようはずはない。大観の色が出るばかりである。表われるものは墨の色ではなくて人の色なのだ。この消息に顕現するものが即ち芸術である。さればこの茶入れに見る黄色も、万円の伯菴茶碗の黄色も、それは三百年前の色であり、作人の色なのである。後日またと得られない特色なのだ。即ち珍重に価いする所以であるとしたい。
(昭和十年)
人間が野心を持たないで、無心で物を造るとき、その作品は嫌味がない。これと反対に、つまらない人間に限って、あさはかな了見で計画的に造る作品は、ピントがはずれているのみならず、卑しく嫌味で見られない。本物の良さは、天真に近い。
天真な作なればこそ、ごてごてしているようでも、伊賀、信楽の良いものはよく見られるのだ。さればこそ、稚作、拙作とも見られるけれど、それにもかかわらず伊賀の花生けや水指には、何千、何万の価いのするものが数少なくない。それはやはり、下手に造れば嫌味のようだが、実はそれがまっすぐに、天真に造られておるがために美しい。
その美しいと言うのは、突き詰めると、時代人の心が美しい心というに外ならないであろう。さればこそ、何万に価いする伊賀の陶器が造られた時代は、絵でも、彫刻でも、何万の価いのするものが造られた時代である。
ここに掲出する陶器、信楽水指はたいして古いものではないが、徳川初期の作品と見て間違いなかろう。古伊賀のような貫禄も、味もないけれども、しかも、聊かの嫌味もない。さればこそ、今日の鑑賞家から見て重きをなす。とにかく、時代が古いと言うことが、芸術鑑賞のモットーとなる。
昔の良いものを見て、よいと感ずることが、現代人の生きる道ではあるけれども、さて感じたからとて造れるとはかぎらない。だから、現代に於ては、古い陶器を愛重する者の眼に満足に価いする陶器は生まれない。そう言う意味から、ここに掲載した「信楽水指」も捨てたものではない。
(昭和十年)
野々村仁清は丹波国桑田郡野々村の生まれで慶長から寛永(一五九六〜一六四三)へかけての人、通称清兵衛、入道して仁清と言った(仁和寺の門前に居たので仁清といったとの説もある)。洛西御室(主として)に窯を築いて焼いた。陶祖藤四郎はいずれにしても立派な製作をした人に違いあるまいと思われるが、惜しいことに、その作品として残されているものの多くは、確定的ではなくて、すべて時代その他から凡そそれと推定せらるる物の多いことは否み難い事実である。
そこで第二期の名工として個人作家の誰を挙げるかと言うことになれば、是非とも先ず仁清を第一番に挙げなければならない。実際、仁清はわが陶磁発達史上第二期の工人中、全く嶄然として頭角をあらわしている。
彼こそは陶磁芸術というもののすべてに日本意識と言ったようなものを消化し尽してくれたそもそもの人である。仁清の出世によって日本の陶磁も、国土的芸術としておのずからその本領を発揮することが出来たのである。ここで私は語を強めて言う、仁清の作品のどこに朝鮮があるか、中国があるか、他のどこの国があるか、そして土の仁清、絵の仁清、見識の仁清、人格の仁清は、八面玲瓏たる日本の仁清である。
仮りに彼を日本陶磁界の王者として仰ごうとも、何人が条理をただしての異議がさしはさめよう。仁清のどの部分を取って見ても、申し分というものがない。あらゆる主義だとか、傾向だとか言ったものを、仁清の作品にあてがい戦わして見たところで、仁清は水際立って、あらゆる要素を吸収して、どこまでも動揺しない完成された境涯を領得しているので、全く戦いにならぬのである。この人ぐらい陶磁そのものの要領を、日本人の工芸的総意にうまく結びつけた人はない。
乾山も名人だ、嬉しい人である。が、その着想は宗達、光琳から得ているのである。彼の代表作の一つである立田川の鉢にしても、山吹にしても、その周辺や透しの手法に、なるほど面白い工夫はあるが、それはそれで、まだ過不足のない窮極的な立派さの顕現とまではいっていない。しかも、乾山には乾山の手に成る土の仕事が多くの作に於て見出し難いという遺憾が伴うのである。
木米となると時代は降るが、その製作の性質が陶磁の一般的性質に反発し過ぎている憾みがないではない。それに唐物なる古作に倣ったものがすこぶる多いのは、木米自身、一面に於て余りにも擬古的一種の創作家であった。固よりそれが木米の光彩であるにはあるが。このように見て来ると、真に仁清は一人ますますその輝きを加えることになるが、これも結局仁清その人の人間性とでも言ったようなものに還元されるのではあるまいか。即ち天の成すところと見るべきである。
この作品は、仁清の仁清たる作風の基調をなす美の端厳な燃焼そのものからは少しかけはなれた性質のものではあるが、そこにまた仁清特有の人の意表に出る実意の一分相が看て取れるではないか。仁清はこうした高の知れた器物の製作に当っても、茶入れや茶碗などのいわゆる茶事の表道具を造ると同じように、つつましい真実な製作態度をもって臨んでいるのである。このようなことは当然芸術家としての態度の上に先約さるべきものではあるが、事実は決して純理と所行と一致しないことを常とする。品種や相手のいかんによって、製作態度を二三にするというようなことは、さほど珍しくはない。
この作品を先ず意匠の上から眺めるなら、用途的には本来一枚の油皿で足りるところを、蓮葉を以て受皿となし、それに蜻蛉の火皿を添えて、灯火に寄る夏虫の縁に因ませた優美な思い付きである。
次に技巧上の作行であるが、蜻蛉の翼の元を細く、先を広くし、尾端を一方に彎曲させて灯心の定位を具合よく避けているところなどは、勿論用途を前提として考案されたものに違いなかろうが、それにしてもここまでよくその部分を損しないばかりか、むしろ生かすということは至難の業であると思う。
更に驚嘆すべきは、羽端の快適な均斉と灯心の台なる笏形の笄の冴え切った切れ味とである。さすがに妙芸の士のお手の内だと首肯せらるるのである。それに蜻蛉の尾に軽く動意を与えているところなども、この蜻蛉、恰も飛行の途上にあるかと思わせるほどである。
油皿は蓮葉の一端を翻波式に反らし、それにつけた茎の、またなんとしっかり力をもっていることであろう。これに連れて葉面に彫られた葉脈の線もまたその生気を必然にして、池底の水に今まだ盛んに思いを走らせているかのようだ。仁清という人、どうしてこんなにまで作品に真実を籠らすことが出来たか。否、これこそ人間が出来てからの線、技が神に入ってからの線、物の真髄が掴めてからの線だ。それでなくてはかなわぬ。
以上単に器の表面を見ただけでのことであるが、裏面はころりと変って、全く取りつくろわぬままの無造作の相の展開である。所謂器の貴賤、用の上下というものに、けじめをつけた訳なのであろう。
私はここに仁清の造った物それ自体を見た。そして更に物それ自体が私の眼に与える作用を見た。即ち私は仁清の作品を見ると共に、仁清の作品の持つ力というものをしかと見た。そして真実そのものに打たれた。
そこで今度はこれを掌から放して、眼前三尺の処に置き換えて見ると、葉面に濃淡おのずから一様でない丹礬釉(青釉)が蓮の若葉の色に自然に変化して、さながら光線を吸収したり反発したりしつつ、晩涼の清風を扇がんとするが如くであるのも見逃せない。
仁清の作品を廻って、他に感銘の深いものに、釉際の美への狙いがある。窯印の正しさへの願いがある。しかし、これは他日所見を述べたいと思う。
仁清のように、仕事の条理を整備し、理論の具象を納得しつつ、日本の陶磁そのものの全面に亘って、しっかりとその発展を策してくれた人はないと思う。こう言ってみても仁清の説明はなかなか尽きない。いかな表現で仁清を伝えようかと独り苦しむのみである。
(昭和八年)
仁清が作るところの陶磁のよさ、その価値とは、一言にしてこれを言うとどんなものになるか、……ということになると、今までの文献はこれを明瞭に表示したことがない。唯、仁清の作は精巧の妙を極めて結構であるとか、いかにもうまいとか、なんと言いようもないほど上品であるとか、めいめいまちまちに漠然とそのうまさを説いているに過ぎない。各々の説は、必ずしも当らないという訳ではないが、いずれも仁清の一面、一部分を説いていると言うに過ぎない。しかし、自分はこれを一言で言い表わすことが出来ると思っている。それは仁清の製作陶器は、およそ慶長美術なるもののすべてのよさ、すべての価値そのものである、ということだ。
そもそも慶長美術とはいかなるものであるかを全く知らぬもの、あるいは解し得ぬものに向っては、こんな説明ではなんのことだか理解のしようもなかろうが、いやしくも慶長美術のなんたるかを認識している人ならば、ウン! なるほど! と案を拍って首肯されるであろう。
慶長時代の屏風などの絵を見ても、またそのころの織物、友禅様のものを見ても、更にまた人形類などを見ても、直ちにそれと肯くことが出来るであろう。
慶長期の精緻にして絢爛の美を極めた織物、衣裳類などを思い浮べながら見るとき、仁清がそれらの美の全体であり、総合であることが、なんらの説明なしに理解されるはずである。これ私が仁清陶器の美しさは慶長美術そのものとなす所以である。近頃重要美術に指定されている彼の壺類なども、その模様なり、壺の形なりを見て見給え。見るからに慶長美術の美感を叫ばざるを得ないであろう。つまり、慶長美術の中、名の知れた個人作家に仁清が存在して慶長時代の美術工芸を物語っている。換言すれば陶器作家の中、慶長を代表する作家が仁清一人しかなかったとも言える。そのために仁清は代表者として一層名を高くし、言わばそれだけ得をしているのである。これが織物とか友禅とかその他の工芸美術の世界であれば、たとえ、その中の一人に仁清があったとしても、仁清もまた名の知れぬ一職人で終ったかも知れぬであろう。
仁清は陶器作家として、優れた手腕の持主であることは勿論であるが、この人元々職人肌の作家であって、芸術的な一本気の人であると言い切れない。言わば職工肌の名工なのである。
同じ絵を描いても、乾山になると遥かに芸術的であると言われるものがある。また木米のなどを見ても同様であることが言い得られる。それに比べて仁清は、どう見ても職工的存在だと言わねばならぬ。しかし、それだからと言って、乾山や木米が仁清より優れた作家であるかと言うと、そうではない。
職工とは言え、元々優れた名工であり、且つ年代が古いせいもあって、全体、芸術の価値から言えば、やはり、理屈なしに前二者の上に位することは争われない。
乾山にしても木米にしても、あれだけの手腕を持ちながら、どこか貫禄の足らぬことを感ぜしめる。年代の足らぬということは、なんとしても致し方のないことだと言う他はない。
仁清を知らぬ人々の中には、仁清とさえ言えば超時代な天才でもあるかの如く、神秘的に、夢でも見るように、見ている人もあるが、別に正体のわからぬほどの天才でも超人でもない。その点、光悦にしても同じであって、いずれも並以上に優れた人々という程度であって、そう驚嘆措く能わざる天才と言うのではないのである。
唯、陶器界には由来愚にもつかぬ職工が多い。今日でもそうだが、往時と雖も、その多くはそうであった。そういう中で、一段と際立っているのが彼仁清である。同じ芸術の分野でも、絵描きとなると、陶器の分野に比べれば、遥かに人物も多いが、陶工にそれがない。たまたま素質の優れた彼仁清が、拾い物をするように、層一層光りを増したのである。陶工となると、初めから泥まみれの嫌う仕事だと言うので、人材が輩出していない。そういう中に彼一人が嶄然と頭角をあらわしたので、ともすると、これを神秘扱いにしている人に向っては、特に語を強めてこれを言わねばならない。
「仁清の作は慶長の優れた美術であって、なにも同時代に於ける他の美術と異なるところはないんだ」と、そう思っていれば間違いはない。
殊にこの茶入れの如きは、もっともよく慶長色を表現していると思われるところから、敢えてその点について、一言を費した訳である。
(昭和十一年)
追銘 山の尾
箱書付 直斎
目方 百二十六匁
箱書付 直斎
目方 百二十六匁
本阿弥光悦は永禄元年(一五五八)京都に生まれ、寛永十四年(一六三七)八十歳で歿した。
その家は代々刀剣の鑑定を業としたが、彼は書に一流を開き、また絵画に工芸に各独自の天地を創開した。
これはもと金沢の人で真野宗古という今日庵の流風を汲んだ宗匠の秘蔵していた光悦作赤楽の茶碗である。
真野宗古宗匠の門下多士済々たる中に、当時金沢切っての茶人で、人柄もその生活も、茶人として申し分のない山の尾主人太田多吉という茶老があった。
ある年、真野宗古翁は、居を東京に移さねばならないことになって、郷里を出発せられた際、一面に於ては、茶弟であり、また一面に於ては契心の友でもあった山の尾主人の手に、己が留魂の印として多年愛蔵せられたこの茶碗を遺して行かれた。
その後、山の尾主人は、事情あって蔵品の売立を二回もされたのであったが、この品だけは深く蔵して遂に出されなかった。
かほどにも山の尾主人の秘蔵された品であったが、その後、宿縁とでもいうものか、図らずも私に譲られて、分上いささか過ぎたるの嫌いがないでもないと思うのであったが、ともかく、今の処これが保持の任にあたるべく、甚だしく心の躍るものがあるという次第である。
伝来まさしく以上の如くであって見れば、この品は、その永い日月を、全く北国の天地に隠され通して来たと言うべきであった。もしもこれが早くから世に出されていたならば、この品の立身は必ずしも一茶人の秘器たるに留まらなかったに違いないと思う。
この茶碗の高台際に読まれる朱漆書付「光悦作」の三字は、即ち直斎の筆である。一見してこの品は、気宇に於て大きく、調子は高く、技巧は自然であり、それを価値づけて窮極の処まで行けば、実にこうした品類中の王者と言っても過褒ではないと思う。
もっともこれは必ずしも私等だけの感ずるところではない。おそらく光悦以後の誰しもがかく感じたことであったろう。世には光悦の作ったという茶碗も随分多い。しかし、その多くのいかさま物の総てが、一見、所謂光悦風と称せらるるところの大まかな風態を装うていることでもわかることは、その一面に於ては、やはり、光悦その人の持っていたに違いない大きな気宇、重厚な心持、ふっくらした体容、その他、推察を次から次へと伝え来っているという次第でもあったろう。
ここに至ると、真似だとかなんだとか、色々とそれを大事な要素に数えさせる芸術も、要するに生まれつきの具わりというものが、何よりもその第一の条件とならざるを得ないのである。身に生まれながらの具わりを持ち、そして行くべき処へ行く。従って一個の茶碗が作られたにしても、その人の真価というものが、直ぐにその作品の上に表われ、堂々と出でざるを得ないと考える。
それにしても光悦は、製作的には多少どこからかなんらかのヒントを得て、そしてその性格なり、性情なり、または考えなりを、かようにうまうまと出すことに成功したのではあるまいか。
人は言う、光悦は桃山時代をその気持として生まれた人だ。殊に彼は楽ののんこうによって陶法を学んだのであるから、尚更そこにうま味も付いたに違いなかったと。しかし、光悦が果してのんこうについて陶法を学んだかどうか、また果してのんこうに光悦の作品の性格化を、あくまで強めさせるだけの刺激的な要素があったかどうか、疑えばこれは際限のないことであろうと思う。
しかし、幸いここにそれらの疑念を一掃させてくれるものがある。それは他でもない。遠く光悦以前、足利時代に於て生まれている志野焼の茶碗、同じく瀬戸黒の茶碗などが図らずも発見され(美濃の久々利村の牟田洞の山頂、大萱の古窯から)、それが恰も言い合わせたように、その広大な気宇に於て、決して光悦の作品の前に跪坐すべき性質のものでないということが明瞭になったということである。と言うのは、これらの作品は大萱窯に於て光悦を遡る百何年か前に於て、それこそ名もないような陶工が、あの山頂の窯場で、四方山また山の景観を脚下にしながら、上天下地ただ一人といった気持を、胸一杯に膨らませて作ったとしか思われないのである。そこで光悦に於てものんこうに於ても、あるいはこれらの茶碗で茶を喫して、ハタと膝を打って、ここだ……とばかりに、自分の性格なり、または心境なりを、共々こうしたその共通的な方角へ向けたのではなかったろうか。
それでなくとも、黒楽は瀬戸黒の変化であるとの古来の言い伝えもある。なるほどそう言えば黒楽茶碗はその創成の意図を、本窯たる瀬戸黒の軽便焼ということに置いていたのかも知れない。そしてその当初に於ては、使用的には瀬戸黒に対し十二分に謙遜していたものであろうが、喫茶上それが瀬戸黒以上に妙味深しということに批評価値を確め得るに及んで、即ち茶人間に重要視されるようになって、今度は遂に瀬戸黒がみずから無用という宣言を受けざるを得ぬ事情に立ち至ったものではなかったろうか。蓋し徳川時代になってからの瀬戸黒の茶碗というものが、擬古的に、個人的に、時たま作られる以外には、殆どその片影をだに没した事実に見ても、思い半ばに過ぐるものがありはせぬだろうか。
いずれにしても、その前に求むれば、右の古志野や瀬戸黒の茶碗に向って、その先験的な感覚を運ばねばならなくなる。くれぐれも光悦たりし人、その辺から知るべきところのものを知ったことではなかったか。
この作の面白いのは、その主体の大きなつくりに反して、申し訳ばかりにちょっとした高台をつけて知らぬ顔していることであるが、それでいておさまりの立派なこと、実に不調和の調和というのがこれである。即ちここに名匠の持つ特異の力、名匠に非ずんば企て得ざる体の大技巧というようなものを発見する。
殊に注意を払わなければならないのは、茶碗の主体に丹礬釉が嵌入されて、三個の雲形を見せていることであるが、これはこの種の茶碗としては、あるいは類例のないことではないかと思う。そして雲形の働きは、その主体の箆ごしらえが下部より上部へ行くに従って、削りの度を荒くしている気脈と、何やら相通ずるものがあって、その景観に一層の必然性を持たせているかの如く見ゆる。
因みに、この箱書付は、官休庵中興の祖である直斎の筆に成っており、追銘は金沢の旧名尾山と太田多吉翁の屋号山の尾に考え合せて、不肖これを改めて「山の尾」とした。
(昭和八年)
緒方乾山は字は惟充、通称は権平。紫翠、深省、霊海、習静堂、逃禅等と号した。寛文三年(一六六三)京都に生まれ、寛保三年(一七四三)に江戸下谷で八十一歳を以て死んだ。光琳はその兄であった。彼は初め洛西鳴滝に居て陶器の製作をしていたが、享保年間に輪王寺宮公寛法親王に従って東上し、入谷に住み、次いで下谷に移って作陶生活を続けた。仁清、乾山、木米の三人の作品のうちで、仁清はその作品の総てを大体に於て自分でやっている。木米はその器体をつくるにあたり、稀には助手を煩わしていることが看取される。乾山は実に大部分こしらえを他人にやらせていることは見逃し難い。事実、乾山は自分で直接どの程度まで土をいじったか、全く以て疑わしいように考えられる。
乾山の作品を器体だけを通じて見るとき、彼の天稟的な、言い知れぬ匂いといったようなものは、殆ど嗅ぐことが出来ないのである。従って、ただ器体の意匠上の工夫だとか、絵付けの妙筆だとかが、陶器の仕事の殆ど総てであると言わねばならぬことを、その作品は物語っている。
いずれにしても、描くことが余りにも得意であり天才であった乾山は、陶人として土をいじるには、その手をあまりにも綺麗にさせ過ぎていたきらいがある。彼が土からいじってかかったならば、あるいはあの勝れた画力と能書の力を、もっともっと本格的にその器体にそぐわし得たであろう。
帝室博物館に所蔵されている光琳乾山合作の四方鉢の如きも、乾山自作の器体ではないように思われる。しかし、かく言えばとて、乾山の作品が悉くそうであると言うのではない、概してである。
乾山の作品の欠点とも言うべきものを挙げれば、凡そ以上の如きものであるが、しかし、ここに紹介する木工風の絵皿は、むしろ異例に属すべきものであって、明らかに乾山自身が土いじりをしていると見られるものである。先ず裏面の土の削り方が無心の熟練、ただ人の手先だけではやり得ない非凡な個性を示している。
彼の箆づかいが、いかにうまかったか、まことに運心即運工の快き一致を見る思いがする。殊に風情としては、楽焼の窯の中で出来た窯樋というのも実は不思議で、その上に疵口が光悦あるいはのんこう作に於てしばしば見られるように、喰い違って段をなしているなどは、ますます以て面白いのである。いかに火裡偶成のことであるとしても、なぜかこう驚くことの出来るものがあるのである。
そして白の掛け釉の全部が、時代と共に雨漏手のように斜めに浸潤して、片身替りの如き面影、雪景の如き色調を呈したこともまた奇である。周辺の釉が剥落し、化粧掛けが露出して染付に見る虫喰い風になっているのも、またこの際、妙である。画讃の書も、他の陶人に見ることの出来ない乾山独特の権威ある書として、流暢な上に磅の一気を添え、能書乾山の実を贏ち得ていると思われる。
前に乾山は土いじりに対し、その手を惜しんだと私は言った。これは工人としての心構え、もしくはその態度の定め方にもよることであって、決して一気に論じ去るわけには行かないが、密かに思うのに、陶磁の美の発現は、所謂かわらけのままに於ても、なお且つ奪うことが出来ないほどでなければならない。ただ模様を入れ、絵を描く、これだけが陶磁本来の仕事ではない。即ち陶磁は模様を以て装われない前に、あくまでも作者の個性が練り込まれなければならない。ここに於て陶人、真にその栄光を全幅にすべきである。
乾山の作として、最も多く見られる桝形、角皿等の大部分から、その絵を取り除いて、単に無地の鉢、無地の皿としてこれを見る時、世に名高い乾山その人を、その中からどれだけの分量を、購い得べき勇気を持つことが出来るであろう。
ここで再び帝室博物館の光琳乾山合作の鉢を見るに、表面の光琳は実に洒然として、少しもその本然を偽ろうとしていない。人物の風相もそうである。寂明光琳という四字の書も全くいつも通りの光琳である。それに引きかえ、裏の大日本乾山の署名のなんと汗ダクものであることよ。それも決して心掛けばかりでないらしいのは、器体が自作でない不満を償おうとするために、大きく、しかも堂々と、右の大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所居尚古斎とやっているのである。と言うのは、字そのものに争い難い心理的陰影を宿しているからである。そしてこれがために、いつもの乾山のうまい書が、力のある字が、どれほど良心の咎めを受けて、弱く作為的なつまらぬものになっているか、わからぬほどである。
挿入写真の皿の絵や字について見るとき、僅か数筆を費しただけで、しっかりとその本領を掴み得た竹の図、乾山の面目そのままを飾り気なしに、さらりと出して見せた書。ここには乾山が、たまたま自作の器体に、安堵し得たその心持の嬉しさというものの精神反射を見るのである。かくてこそ、陶人乾山と膝つき合わして相語り得られるではないか。
(昭和八年)
ふとした話から乾山という名が出た時、世の人は乾山を一議に及ばず、それは画人だ……と頭に響くか、陶人……と感ずるか、はたまた絵の達人、陶の名人と認識するか。陶人としての巨匠には、仁清と木米の存在が著しい存在である。乾山をそれら両者に比すべき陶人とするか。
私に言わせれば、世人はそうはっきりと答えられるほど乾山を見極めているのではなく、乾山の絵に接すれば乾山の絵に感激し、乾山の陶器を観れば乾山の陶器に感心する。別段ハッキリと乾山を画人と決めず、陶人だとも確認もせず、唯、昔から多くの人々が、乾山、乾山と言うから、雷同的に夢見る如く、乾山をそらんじているまでであるくらいではないか。
乾山は光琳の如く専門画人でなく陶人として立った人だが、陶人としては絵が殊に秀れて一家をなすところから、絵の遺作も少なくはないのだろう。事実、絵も容易なものではないが、陶作が専門だから本当のところ、陶作がうまいのだろう。陶器を作る余力が絵画の存在になったのだろう……くらいの程度な認識者の多いことは否めない。
されば乾山の作品について真贋を決めんとする場合、相当な鑑賞家までが正否の判断に苦しんでいる。
乾山が絵ばかり描く人であったとすると、鑑識家の方でもその肚で様子の探りようもあるが、別個に陶人としてあまりにも著名なために、絵のみならば……と独り決めしている人たちも、うかうか乾山には手が出せないと感じるものらしい。本当に乾山は絵がうまいのか、陶器が本職的にうまいのか……がどうも判明しないところから、いずれを本職的に見て標準を定めてよいか、困ったこととしている向きも少なくない。こんな事情のもとに、鑑定上断言を憚る様子が見えるのである。
乾山の贋作に巨金を投じて漸く手に入れた多くの人のあることを私は知っている。これは乾山の絵が素人くさい描法であり、その陶磁も素人的と言えないこともないからである。変に欲を出すとそこに引っ掛かる。乾山という物、先ずこんなものだろうと早合点させる点があるからである。全く乾山は生涯本職根性に成れなかった人だ。だから時時の気持で、気儘な作品を見せている。そこが乾山の特色と見て差支えなかろう。されば乾山に意を遣るものは、先ず乾山を見透すだけの心眼を養わねばならぬ。それには乾山の柄のみが嗜好であっただけでは埒があかないのである。絵と陶器を別個な美術であるとするような不可解な美術眼であってはいけない。
(昭和九年)
青木木米は名を佐平、字は玄佐、幼名八十八、みずからその八十八を米の字に換え、青木の木を取って木米と号した。また、百六散人、九々鱗の号もある。明和四年(一七六七)尾張の士家に生まれて、天保四年(一八三三)六十七歳で京都に死んだ。
陶法を奥田穎川に学んで粟田に於て焼いた。文政五年(一八二二)青蓮院の宮の御用窯を命ぜられた。山陽、竹田等と親交があった。
世間ではよく言う、木米の作品の轆轤は総てその助手久太がやったものであると、恰もそれを見てでもいたかのように言うが、私はこれを否定したい。もっとも、これは木米が一通り以上に学問を有して、所謂学者肌でいたということ、その仕事にまたそれだけ特別の高い見識と器量を持っていたということ、その他、いろいろの意味に於て、その人をより立派にすべく、この場合、泥だらけの轆轤仕事から救い出したつもりで言うのかも知れぬ。
が、木米も察するところ、そこまで尊び且つ憐んで貰いたくはないであろう。そんなことよりも、木米は木米として、その目指していたおのずからなる世界がある。即ち、その世界をもっと深く見て欲しいのではなかろうか。勿論、助手久太なる者があったというからには、久太も所詮何かとお手伝いはしたに違いなかろうが、要するに久太は久太、木米は木米、人の違うが如くに、その仕事もおのずから異ならざるを得ないではないか。そこで実際問題はどの辺までが木米その人のものであろうか、ということになるのである。
また世間では言う。木米の作った急須は、その把手を逆に立ててみて、器体が決してころばないと。かくて人々は木米の急須とさえ見れば、この軽業のような芸当を敢えてやり、しきりと通がって感心し、童興にふける。ところが更に甚だしい者になると、器体をさかさまにしても、木米の作である限り蓋が口べりに引っ掛かって、容易に落ちて来ないなどと、我も我もと危なっかしい手つきで、その実験を試みる。
従って木米の急須であるとされるものは、哀れにもこのような法外の鑑定法によって、いつまでその身を危険にさらさねばならないか知れぬのである。
しかし、仮りにそれが実証に一番都合のいい方法であるにしても、それは木米が注いだ用途上の細密な心掛けとして首肯すべき筋のものであって、決して木米芸術の第一義を決する何物でもないことは言うまでもない。
木米をこの「金襴手」について見るに、先ず地肌に施した赤釉の塗り方にその最も著しい特徴の現われがある。如何にも無造作に、濃淡お構いなしで、ただわけもなくムタムタと筆をあてがっているだけかと思うばかりの姿である。もしこれが普通の手法においてされるならば、濃淡なしに濃度の平均を保たせつつ、これを克明に塗り潰すのが上手物に対する定法である。
木米のこの大胆にムタムタとやった下手物赤絵に見るような無心の超技巧的な塗り方は、彼が得意の手法というよりも、むしろ彼の個性そのものの美しい流露であると見なければならぬ。その人の個性に限り許された一種の技法、無法の法と名付けてしかるべきものであろう。そして、この木米独特のムタムタな筆づかいが放発する美観というものは、それ自体が何となく自然の風韻にもかなって、見る者の楽しみを一層永くさせ、しかも、肩を凝らせないかのようである。
木米の自性、已に天真にして清浄、従ってその筆には臭みがない。下手な加減がない、無理な取捨がない。唯そこにあるのは、いつも投げ出されただけの個性的な如実相のみである。しかし、これは木米が独特の南画に見せた以上の、その個性の大成就と考え併せることによって、なんら矛盾もなく、すらりと首肯されるものではないかと思う。
次に木米が用いた赤絵の原料としての良質さは、実際格別のものである。さもなくば、他にいかほどの手段を尽そうとも、先ずあれだけの呈色を期待することはむずかしいと言いたい。彼はあの赤絵の原料をどこからどうして手に入れることが出来たか、今となっては知る由もないが、一般には紅殻をよく磨ることによって、しかるべき色沢の誘導を考えるようであるが、それもいざとなった場合、合わせ料の硝子質の多少の相違によって、その色沢の期待は忽ち裏切られ、却って飴の光沢を感ずるような軟弱で軽薄な色沢を求めてしまわねばならない。
密かに考えるに、木米はその赤絵の材料を師奥田穎川によって得たことだろう。そして別に手裏の操作のよろしきを加えたのであろう。良工は良材を選ぶ。真に良工ででもなければ、良材があったにしても見付け出すことは出来ない。その点からして、例えば仁清にしても、保全にしても、確かに軌を一にしたはずである。こうしてこそ、その仕事は初めてほんとうに美しく輝き出すのである。
この作品に於て特に留意されなければならないのは、金彩に加えられた針金の線の妙味である。その遅渋的暢達な趣きの半面に見られる古拙であって、しかも、穏健な筆調は前例無比として、これをどう褒めていいかわからぬくらいである。
木米という人、その腹に覚えのどこまで確かであったことだろう。その線の一条一条ことごとく生きて、一般凡者のやる割出しの線や、その他、乾燥無味な作風とは全く形を異にしている。一条の線そのものが即ち美的価値の上下そのものである。いやしくも木米の作品に於て、描かれたり、また塗られたりした何物かがあったならば、その筆触や筆情を通じて木米の心機に触れる事実が、その作品の真価を決定すべき唯一の頼みとなるべきであろう。まことに木米の作品のような個性的に匂いの高いものは、その人の本然を見ない限り、到底その真実の味を味わえないものだと考えるのである。
この器もなるほど木米その人のやりそうなことだと思わせる個所がままある。急須の把手の内部へそっと釉薬を流して、しかも、それをおよそ半分の処で打止め、その上に赤絵の具を要約的に塗ってきまりをつけ、尚且つそれが客付から見て、邪魔しないようにした用意あるかに見えることなどがそれである。その臨機応変、効果第一のやり方――これなども、この人以外には余り見られぬ個性の発露ではなかろうか。
更に底辺を見ると、一部の胎土が小さく二重層を成して溜って残っているが、これは木米の了見であったればこそ、箆を用いてつくろうような常識に甘んじ得なかったのであろうと考えるのである。ちょっと見た処は、やりっぱなしに似ているが、その実、偶然の成行を直ぐに取って活用し、器体の景観的条件にするという当意即妙の関心、そこに天才木米の面目というようなものが、直ちに思いやられて、微笑を禁じ得ないことになるのである。
唐草模様の金泥塗抹に於ても濃淡自在なものである。普通ならば金箔を切り張りしたかの如く、丹念な金泥の塗り方をするのであるが、彼は無造作にそれを避けたと言うよりは、むしろ最初からかような点には留意しないのであるらしい。そしてここにも天真の個性を投げ出してかかっているのであった。実に無造作だ、当意的だ、天来的だ、否、ただ陶法単伝の一旨を、極意的にさっさとやって退けたまでだった。彼がいかに特異性のある「工人」であったか、その消息はここにもまた十二分に読み得られようと思う。
(昭和八年)
今泉さんの著書に「奥田穎川、名は庸徳、通称を茂一郎、又茂右衛門と称した。穎川は、其の号である。尚、其の他に、陸方山の号もある。享保年間、五条大黒町に住して、製陶に従って居った」とある。また「清水の海老屋清兵衛に学んで一家を成し、善く支那の古陶瓷の模しものに妙を得、其精妙の作に臻っては、殆ど彼我の弁別も為し難い程である」とあるが、この説は今泉さんの粗忽でしょう。なぜならば、穎川と中国は、彼我の弁別がすこぶる明瞭であるからであります。今泉さんは「就中其の呉須赤絵に臻っては銘が無かったら、何うしても支那としか見えぬ位に、上手に出来て居る」と言っておられますが、この説もいけませんね。そこへゆくと、奥田誠一さんの穎川赤呉須説明の条に「其筆力勁健描法奔放支那の呉須赤絵の遠く及ばぬ所があります」の方が賛成率が多いのです。穎川の特質は調子の高い点にあります。六兵衛とか道八とかいうものは、うまいの、まずいのと言ったところで高が知れたところがあります。それは大体に於て調子が低いからであります。穎川となりますと、彼の木米以下の物であるか、木米以上の物であるかと問題が出ますと、おそらく明瞭に答える人はありますまい。穎川の作品はそういうものであります。木米の調子の高いことは誰しも知るところでありましょう。その先生であり、師匠であった穎川もかくの如く調子が高いといたしますと、木米は最初から穎川の感化に恵まれて大変な利益を受け、その天才を育てあげる上に、どんなに得したかわからないでしょう。ちょうど鉄斎が幼少から蓮月尼に薫陶を受けたようなものであります。
事実、我々が見まして、穎川は調子の高い、しっかりした創作の出来る立派な芸術家であって、職人肌ではありません。穎川の染付の立派なものを見ておりませんし、数もいくらも見ませんから、私としては早計に断定は出来かねますが、まあ穎川としては十分の成果を収めなかったのではないかと思っております。しかし、呉須赤絵となりますと、非常なものでありまして、創作力を多分に持っております。
永楽保全も赤呉須写しは大分得意であったと見えまして、見栄えのあるその作品をたくさん遺しておりますが、大体がコピー的名作であって、創作的能力は少ないのであります。
穎川となりますと、先ず万暦赤絵の釉薬の特徴であります薄氷色の白き半透明な分厚な釉薬を、苦心して作り上げた跡を見せ、それにまた所謂赤呉須という赤い顔料を仁清にも負けない、乾山にも負けない、中国の魁鉢のような代表的な赤の色にも引けを取らないまでに、赤の顔料製作に成功を収めた跡が見えます。
穎川は中国明代に出来た赤呉須中、有名な魁鉢、あるいはそれに類似の当時の下手物である赤絵物をモットーとして、自己に移したようでありますが、見本品をそのままコピーするようなことは好まなかったと見え、器体の形体や様式は随分自分勝手なことをしております。この小鉢にしましても、自分勝手な好みでありまして、こんな様子のものは、中国にはないのであります。
穎川は中国明代の赤呉須の「心」を、しかと掴まえた人でありまして、こればかりはどうしても放さぬ人でありますが、手法上の工夫になりますと、断然自由であります。ですからその作品は精妙でありましても、彼我の弁別がなしがたいなど言う曖昧なものではありません。ところで、中国明代の赤呉須鉢とはどんなものかと申しますと、それは穎川の手本であり、先生ではありますが、当時は大量生産として無意識的に作られた中華そばくらいの容れ物である劣等器であります。これを写した穎川の作品は、認識上の見識を有する芸術的個人作であります。個人作の権威、その製作意識と技術上に於て余人の追随を許さぬだけの天分を要します。今、穎川の仕事を見てみますと、第一が土の仕事、第二が釉薬の研究、第三が赤の顔料製作、絵画の力、能書である点、そのいずれでも穎川ならではという容易に後人の追随を許さぬ立派さが具わっております。その立派さというのも色々ありますが、木米といずれが立派かという立派さであります。木米は多種多様を写す才能があって認められ、穎川はたった一つを採って動かぬ鈍重さを持って立ち、それによって、彼の人格の豊かさを示し、人を端的に動かしています。
(昭和八年)